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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

最後のフロスト警部-「フロスト始末」を読む

2017年07月31日 23時25分17秒 | 〃 (ミステリー)
 イギリスの大人気警察小説シリーズ、デントン署のフロスト警部もいよいよ最後である。いや、とっくに終わっているんだけど、長大な作品は翻訳が出るまでに時間がかかる。今回、創元推理文庫から「フロスト始末」上下2冊が刊行された。全部、芹沢恵訳の読みやすくこなれた(こなれ過ぎた?)名訳で、スラスラ読める。でも長い。全部面白い。もっともこの作品が一番じゃないだろうけど。
 
 ここでミステリーを紹介しても、ほとんど反応がないんだけど、それは何故なんだろう?映画ファンはミステリーファンと共通点が多く、歴史ファンもミステリー好きが多いはずなんだけど。なんて書いても仕方ないけど、まあフロスト警部のことは書いておかないと。そのぐらい登場した時はぶっ飛んでいたし、その個性は際立っていた。でも、どうもそのまま歳を取ってしまい、なんだかむさ苦しさと下品さが前面に出てきてしまったかの感じもしてしまうのだが…。

 ちょっと今までのシリーズを振り返ると、
クリスマスのフロスト(1984、翻訳1994 このミス1位)
フロスト日和(1987 翻訳1997 このミス1位)
夜のフロスト(1992 翻訳2001 このミス2位)
フロスト気質(1995 翻訳2008 このミス2位)
冬のフロスト(1999 翻訳2013 このミス3位)
フロスト始末(2009 翻訳2017 )
 
 作者はR・D・ウィングフィールド(1928~2007)で、もうとっくに亡くなっているから新作はない。他の人が遡って若い時代のフロストを書いているらしいけど、それはそれで興味深いけど違うものだろう。没年を見れば判るように、今回の「フロスト始末」は没後の刊行だった。それまでに比べて間が空いているけど、この間闘病生活を送っていたようだ。もともとテレビの脚本などを書きながら、ようやくフロスト警部もので認められた人で、ミステリー作家としては遅咲き、異色の作家だった。

 フロスト警部は、全然「名探偵」ではない。失敗の方が多い。それに何故か事件がいくつも重なる。そこで悪戦苦闘しながら、ほとんど寝る間もなく駆けずり回り、そしてうまく行かない。けど、なんかツキに恵まれ、最後には何とか全部それなりの解決をみることになる。と言った展開が共通している。上司はとんでもない無理難題ばかり言うし、フロストの口汚さ、下品さはちょっとミステリー史上類がない。こんな小説を書いてしまっていいのか。それをまた女性の翻訳家が訳しちゃったんだから面白い。

 子ども相手の卑劣な犯罪が出てくることも大体共通している。そこでフロストは慨嘆する。今は面倒で行けない。「古き良き昔」なら、証拠を置いてきちゃったのに…。実にトンデモナイ奴でしょう。そして、法的に見ればどうもいけない行動を今回も何度かしている。だけど、それが捜査を現実に進めていくんだから…。つまり、シロのものを冤罪にするわけではもちろんなく、どう見てもクロのものから真相を突き止めたいということなんだけど…。

 僕はこのフロスト警部ものを一種の「学校小説」とも思って読んできた。いろんな事件が立て続けに起こり、不可思議極まりない経過をたどる。上司は報告と連絡としつこく言うけど、いちいち面倒くさいことだらけ。書類仕事ばかり増えてきて…「昔は良かった」、一発ぶん殴ってやれば収まったのに…なんていう先生はいっぱい知っている気がする。それじゃあダメでしょうと思いつつ、共感する部分もある。そういう部分がフロスト警部にも共通しているんじゃないか。

 ということで、メチャクチャ面白いシリーズなんだけど、今回の「フロスト始末」はどうも頂けない部分もある。どうも矛盾があるような気がする。あまり触れることができないけど、「ビデオ送り付け」と「被害者の名前」の問題がこの「犯人」ではおかしいのではないかと思うんだけど…。まあ、それは置いといて、今度は強制的に異動させられそうになっていく件(くだり)など、やっぱり教員の身に迫る設定なんだなあ。
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スマホにしてみたけど…ぼくのケータイ遍歴

2017年07月30日 21時40分05秒 | 自分の話&日記
 先週月曜日朝に、連れ合いのケータイ電話が突然ご臨終を迎えた。前夜に充電して、その時までは何の問題もなかったという話で、朝になったら完全にいかれていた。バッテリーかなんかの問題ではなく、全然立ち上がらないという話。ケータイショップでは、8年も使ったので修理もできないと言われた由。だから電話帳なんかがまったく失われたのである。

 それをきっかけに、僕のケータイ電話も変えてしまうこととし、会社も変えた。今回はようやく「スマホ」にしたんだけど、やはりまだ使いにくい。いつかスラスラ使えるようになるかは予測がつかない。会社を変えたので、番号は変わらないけど、メールアドレスは変わった。でも、なかなか面倒でほとんどの人に変更通知を出してない。1年間にメールが来る人も限られているのが実際だから、昔の卒業生なんかどうしようと思うと、だんだん面倒になる。

 要するに、@以前は同じなので、ezweb を docomo に変えてくれればいい。まあ、知り合いはあまりブログを見てないらしいけど。そのうち順々にお知らせメールも出したいと思ってる。

 面倒と言えば、僕の場合、「スマホにはしない主義」かと思ってた人もいるらしい。そんなことはなくって、ただ面倒だっただけである。そもそも携帯電話を持つことそのものが面倒だ。ケータイショップに行くのは、歯医者に行くのと同じぐらい緊張を強いられる。訳が分からないことをいくつも決めないといけないから。会社も変えるとなると、ほとんど一日仕事である。先週は完全に予定が狂った。

 じゃあ、なんで会社を変えたかというと、「固定電話」の会社が変わったからである。僕の場合、母親と一種の2世帯住宅みたいな感じで電話2回線を使ってる。その電話を昔付けた時は、多分その頃の最新機種で、インタフォンと連動しているのである。外でピンポンとなると、電話に映像が映る。これが今では稀少機種で、光電話に変えられないのである。そして、KDDIで長くやってたけど、そういう電話回線サービスをKDDIが止めてしまったので、やむなくNTTに戻すしかなくなった。それまではKDDIの固定電話と、auの携帯電話をまとめるプランだったのだが、それはできなくなった。そこで次に壊れた時は、DoCoMoに変えてしまいたいと強く思っていたわけである。

 今までの「ガラケー」では、使えるコンテンツがどんどん減っている。例えば、昔はFacebookのメッセージ機能をケータイでできたのに、しばらく前から記事も見られなくなった。(ところで、Facebookのメッセンジャー機能は、パソコンでもどうやるんだか判りにくいんだけど。)このブログも、例えば震災のボランティアに行ったときは、ケータイから投稿できた。その頃の記事は現地から送ったものである。でも、数年前からそういうこともできなくなった。それじゃあ、スマホに変えるしかないではないか。

 ということで、次はスマホにするしかないかとは思っていた。だけど、現実の人間関係がどんどん希薄になっている段階で、スマホは必要なんだろうか。けっこう重たいし。それに何より、僕の指に反応しないとか、違うところを押してしまうという悩みがある。それらは高齢スマホユーザーに共通の悩みだろう。だけど、それ以上の大問題がある。それはケータイ電話やパソコンに共通する大問題。

 セキュリティの問題。世の中が便利になれば、その便利さを悪用する輩もいろいろ出てくる。そういう犯罪記事は毎日のように出ている。そうなると、何でもかんでも「パスワード」を要求するようになった。自分で決めたパスワードも忘れるけど、会社が最初に掛けたパスワードもたくさんあって、それをこっちは知らない。今回は今までの「電話帳」のパスワードが判らないから、スマホに移せなかった。自分で探し回った挙句、もともと会社が設定したパスワードだった。知るわけない。結局はまた別の日に行って、auのケータイからDoCoMoのケータイに赤外線通信で送り、それをスマホに再転送するというやり方で何とか移したのだった。

 パソコンでも、すぐにパスワードを要求してくるから、面倒になったら止めてしまう。そういうことが多くなった。個人情報保護というのは、学校でもいい迷惑だったけど、自分の持ってる通信機器でさえ自分で自由にならない。だから、スマホで使えるといういろんな機能も、まだほとんど使ってない。それじゃあ意味ないと言えば、そうなんだけど。僕の場合、パソコンとかスマホ(ケータイ)にかける時間はできるだけ少なくして、読書時間をキープしたいという欲求がある。すぐにもういいやとなっちゃう。

 僕が携帯電話を初めて持ったのは、1997年のことだった。何でちゃんと言えるかというと、FIWC関東委員会の「らい予防法廃止一周年記念集会」の連絡先になった時に持ったからである。その時は「Jフォン」というのだった。(ちゃと「フォン」だったんだな。)それはやがて、ボーダフォンとなり、ソフトバンクになった。そして、auに変え、今度はドコモに変えたから、三社遍歴したことになる。実は三社とも、歩いて5分ほどのところにお店があるので、どこにしても同じである。

 最初はメール機能もなかった。本当に携帯できる電話に過ぎなかった。それが電子メール機能が加わったのはいつごろか。自分が変えたのは21世紀初めごろではなかったか。その頃から、夜間定時制やチャレンジスクールに勤務したので、欠席がち、病気がち、引きこもり、アルバイト、ただの怠けなどで学校には現れてくれない生徒との連絡手段は、ケータイ電話しかなかった。生徒とメールするのは怪しからんなどという人は、不登校の生徒を担任して見てくれよと言いたい。だから、仕事にために持っていたようなもんなので、今後いつまで持つべきなのか、自分でも考えてしまうんだけど、ケータイ止めるとなると、またそれはそれで結構決断力を要する。
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麻耶雄嵩「さよなら神様」

2017年07月27日 21時01分15秒 | 〃 (ミステリー)
 麻耶雄嵩(まや・ゆたか 1969~)というミステリー作家がいる。最近ドラマ化された「貴族探偵」シリーズを書いた人。メルカトル鮎シリーズとか、単発の「隻眼の少女」なんかで知られるが、こういうジャンル小説分野には関心がない向きは全然読んでないと思う。京大推理小説研究会出身の、いわゆる「新本格」系の人だけど、その中でもマニアック性が高い。僕は「新本格」派はそれほど読んでない。麻耶雄嵩もほとんど読んでないけど、文春文庫に入った「さよなら神様」を読んだので報告。

 「さよなら神様」は2014年に出た小説で、その年の「このミステリーがすごい」の2位に選ばれた。その前に2005年に出た「神様ゲーム」という小説がある。講談社ミステリーランドという児童書ミステリーシリーズの一冊だったけど、そのあまりの「ぶっ飛び度」から大人向けのミステリーランキングにも入選した。今は講談社文庫にあるけど、そっちをまず読んだ方がいいかと思う。

 どっちも、転校生の鈴木君が「神様」だという設定。神様だから何でも判る。身近に起きた謎の殺人事件の犯人をつい聞いてしまうと、意外な真犯人を鈴木君が名指しする。そういう趣向は両作とも共通で、これは「究極の反則ミステリー」だろう。謎の事件が起きて、それを神ならぬ人間が数少ない証拠をもとに捜査を積み重ね、何人かいる怪しげな人物の名から犯人を見つける。それが「推理小説」というもんであって、探偵が神様だったら捜査するまでもなく犯人が判る。

 それじゃあ、推理するまでの過程を楽しめないじゃないか。などと思うかもしれないけど、それは大丈夫。神ならぬ人間は神の「御託宣」を疑うわけで、そこで「神の託宣を確かめる」という捜査がある。捜査というか、両作とも小学生の話だから、捜査みたいな聞き込みや推理の真似事である。それに大体、「なんで鈴木君が神様なんだ? 信じられるかよ。」と思うけど、小説は何でも書けるから、「転校生が自分が神だと宣言して真犯人を名指しする」という設定で書くこともできるわけである。

 それは「神」ではなく、霊感とか超能力というものではないのか。そうかもしれないけど、鈴木君は「自分が世界を創造した」と言っている。何で日本の小学校で勉強しているのかというと、まあ永遠の生には退屈するから、時々いろんなものになっているんだという。ホントに神様なら、そもそも犯罪事件が起きないようにして欲しいもんだけど、いったん創造した後は人間に任せてあるんだという。だけど、神だから事件の真相は判るので、聞かれたから答えたというわけである。

 なんでこの本を事を書いているかというと、こんな本が出てることも知らない人が多いと思うから。このロジックの転倒のような設定を楽しむととともに、頭の体操もたまにはいいのではないか。ロジックの転倒と書いたけど、どういう意味か。「神様が名指しする」というけど、それは作者が設定した仕掛けなんだから、読んで楽しめる逆転を味わえるような筋を考えたのは実は作者である。凶器を持って犯人が自首したといった事件じゃない。何も判らない不可思議な事件で、意外な真相を言い当てるけど、それは神様が作ったことではなく、作者が仕掛けた事件である。

 今回の「さよなら神様」は、大人向けの雑誌に書いた連作短編集。小学生が登場人物だけど、とても小学生とは思えない論理が語られる。とんでもない発想の究極ミステリーが収められた作品である。神が言い当てたんだから真犯人なんだろうけど、警察は他の人を犯人にしちゃうとか。起こってない事件を引き起こしてしまうとか。「久遠小探偵団」なんていうから、油断していると途中から「叙述ミステリー」になってしまう。そしてラストはほとんど「バカミス」である。

 いやいや、ビックリだけど、ところで「神様は本当にいるのか?」。世界の多数派は一神教信者だけど、日本では子ども時代はともかく、大人になるまでにそういう問いを忘れてしまう。だからこそ、神は面白がって、日本の小学生「鈴木君」になりたいのかもしれない。今度の「さよなら神様」はちょっと上級編だと思うが、「神様ゲーム」なんか子どもと一緒に読んでもいい。夏の暑い時期でもミステリーなら読めるだろう。まあ日本の殺人事件発生率からすると「殺人」が起きすぎるわけだが。そもそも殺人が出てくる本は嫌だという人もいるかもしれない。でもミステリーは大人の趣味として認められている。論理の力を味わうためには時々読んだ方がいい。
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「それから」-漱石を読む⑤B

2017年07月26日 21時03分44秒 | 本 (日本文学)
 「三四郎」に続いて、文庫版夏目漱石全集第5巻の後半にある「それから」を読んだ。これは初めて。昔映画化されたとき(1985年)に、原作も読もうと文庫を買った記憶があるけど、結局読まないままだった。「三四郎」に続いて、1909年(明治42年)6月27日から10月14日まで大阪朝日、東京朝日に連載された。作中で当時問題だった日糖事件や幸徳秋水の名前なども登場する。

 この小説は「高等遊民」の生活を送る長井代助の生活を描いている。彼の家は裕福なので、親の援助で大学卒業後も定職につかず暮らしている。もう30歳で、親からは結婚を急かされている。そこへ学校時代からの友人で大阪の銀行で働いていた平岡が、借金付きで東京に戻ってくる。部下が使い込みをしたため上司に責任が及ばないように辞職したのである。

 かつて二人の学生時代に、菅沼という有人がいた。彼には妹の三千代がいたが、妹を残して母と本人は病死してしまった。ひそかに三千代を見初めていた代助だったが、稼ぎのない自分ではない方がいいと思い、三千代と平沼の結婚を周旋したことがあった。だが、三千代は生まれた子を亡くし、以後病弱となり東京へ戻ってきた。代助の三千代に対する愛と同情は再燃していく。

 代助の父と兄は実業界で重きをなしているらしいけど、何やら難しい問題もあるらしい。そろそろ代助には結婚して欲しく、家の事情からも佐川令嬢との結婚を父は望む。平岡は借金を抱えて求職に奔走してるが、代助には手助けすることができない。一家内でただ一人代助に同情的な兄嫁、梅子は内緒で2百円を貸してくれる。それを三千代に渡した代助は、何かと三千代に近づき、ついに愛の告白をする。父には結婚をはっきり拒絶し、平岡に面会を申し込む…。

 そこらへんのラスト近くは緊迫した名シーンが多い。でも、そこまでがはっきり言って「かったるい」。大体「高等遊民」って何だろう。単に就職しないだけで、特に何もやってないんならたいして面白い人生とは言えない。早くちゃんとした仕事に付けと言われつつ、音楽や演劇などに熱中している若者は、今でも無数にいるだろう。それがいいかどうかは個別の事情によるだろうが、音楽や演劇にあたるものが代助にはない。小説を書くとか学問をするとかすればいいのに。最高学府を出てるんだから知的好奇心でいっぱいだと思うが。

 文体は完成しているので、つい読んでしまうのだが、どうも今になるとつまらない小説だなあと僕は読みながら嫌になった。今あらすじを書いたが、それをまとめると「結婚とお金」に関する物語である。これは近代人の二大問題だ。近代社会では、身分制が崩れ社会の変化が激しいから、人は「何か」になって貨幣を得ないといけない。そして、結婚して一家を構え、家を継いでいかないといけない。今になると後者はほとんど意識しなくていいけど、明治時代には大きな問題である。

 その大問題をめぐって、結構身もふたもない議論を積み重ねたのが「それから」という小説である。僕はこの「何者でもない」代助が、書生と「婆や」を置いているのに心底驚いた。父からもらう金で独立した家を営んでいるのである。それじゃあ、何もできない。父はなんで自立させなかったのか。それは結局、「次男は政略結婚用に取っておかないといけない」ということになる。

 そこで代助が最後に三千代を選択すると、父はついに援助を停止するという最終手段を行使する。そこから代助の人生が出発することになる。これは近代日本で数多く書かれた「不倫小説」の一種と言える。もっとも精神的にはともかく、肉体的には何の関係も起こらない。もし起こったら、「姦通罪」という犯罪になるのだから、そういう展開は書けないし、描写もできない。だけど、この小説は要するに「不幸な人妻を救い出す」という話だ。

 「貨幣」の魔力で引き裂かれた近代人の社会。その中で病気と借金に苦しむ女性を、結婚制度という枠組みを超えて生きる道を探る。それが「それから」という小説だと思うけど、いまさらめいたテーマに思えるし、代助が親の金を使うだけで(芸者遊びなどはしている)、積極的に何かを始めないのでちょっとイライラする。この代助という人物にあまり現実感がないの「それから」の最大の問題だ。

 1985年に森田芳光監督によって映画化され、その年のベストワンになった。代助は松田優作で、三千代は藤谷美和子。主にアクションスターだった松田優作を、こういうアクションの少ない役に使うのは最初心配したけれど、これは非常な適役だった。藤谷美和子のセリフ回しには最初心配だったけど、だんだん良くなっていき、映画全体としてはとても満足できる出来だったと思う。父は笠智衆、兄は中村嘉葎雄、兄嫁が草笛光子、平岡が小林薫と実に豪華なキャスティングだった。

 いま思い出すと、小林薫はどんどん老け役を演じていくわけだが、松田優作は永遠に青年に留まっている。松田優作が「高等遊民」を演じたことがその印象を強めてしまった。でも原作を読むと、どうも「高等遊民」というのも親の金でぶらぶらしているだけという印象が強くなる。それが意外だった。小説も魅力という意味では、「三四郎」に遠く及ばないというのが正直なところだ。漱石全集も半分読んだけど、ずっと続けて読むのは難しい。何とか一月一冊でも頑張って読み切ってみたいと思う。
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映画「彼女の人生は間違っていない」

2017年07月25日 23時01分08秒 | 映画 (新作日本映画)
 「彼女の人生は間違っていない」という映画が公開されている。映画監督の廣木隆一が初めて書いた小説を自分で映画化したもので、東日本大震災の大津波福島第一原発事故を背景にした物語である。これはやっぱり紹介しておきたいと思う。廣木監督の「問題作」と言ってよい映画。

 ちょっとウィキペディアから筋を引用しておくと、「仮設住宅で父と2人で暮らすみゆきは市役所に勤務しながら、週末は高速バスで渋谷に向かい、デリヘルのアルバイトをしている。父には東京の英会話教室に通っていると嘘をついている彼女は、月曜になるとまたいつもの市役所勤めの日常へと戻っていく。福島と渋谷、ふたつの都市を行き来する日々の繰り返しから何かを求め続けるみゆき、彼女を取り巻く未来の見えない日々を送る者たちが、もがきながらも光を探し続ける姿が描かれる。」

 ということで、津波で祖母と母を失い、原発事故でいわき市に避難している女性が、週末ごとに東京へ高速バスで来て「デリヘル嬢」をしている。父親は毎日のようにパチンコ屋に行き、娘からは「補償金をパチンコで無くすつもり?」と問い詰められる。そんな日常をていねいに描いていく。表面的に見れば「彼女の人生には間違いがいっぱい」にも見えるんだけど…。

 原発事故直近地域のようすが出てくる。一方、バスで東京駅に着いた彼女は地下鉄で渋谷へ出て、今や世界的名物のスクランブル交差点を渡って「デリヘル」事務所へ行く。その対照的なありように、もちろん知識としては知っているわけだけど、一種衝撃を受ける。再びやり直したいと連絡してくる地震当時の彼。仮設住宅の隣人のおかしな言動、デリヘル嬢の連絡管理をしている男、様々の登場人物が出てくるが、結局は主人公の「みゆき」とその父の存在感が圧倒的だ。

 「みゆき」は瀧内公美という人で、あまり意識してなかったけど僕も何本か見ている。大変な力演で、それはセックスシーンも多いんだから大変だろうと思うけど、むしろ家族の日常なんかがけっこう難しそうだ。でも現実感がある。一方、東京のシーンにリアリティがあるかどうかは、僕にはよく判らないけど、瀧内公美の演技には「間違っていない」感を感じる。

 父親は光石研で、最近はなんか「たよりにならないお父さん」役を一手に引き受けている感じだが、デビューの「博多っ子純情」の時は中学生だったんだから、お互いに年を取ったなあという気がしてしまう。「酒とパチンコの日々」の裏に潜んでいた感情がラスト近くで沸騰してきて、見る者を圧倒する。他にも高良健吾、柄本時生、蓮佛美沙子などが印象的な役どころを熱演している。

 廣木隆一監督(1954~)はピンク映画出身だけど、一般青春映画「800 TWO LAP RUNNERS」(1994)でブレークした。その後、最高傑作「ヴァイブレータ」(2003)の他「さよなら歌舞伎町」(2015)などがある。最近では「ストロボ・エッジ」「オオカミ少女と黒王子」「PとJK」などアイドル映画のような作品を安定して量産している。でもホントに作りたいのは今回の映画のようなもんだろう。セックスを見つめた映画に傑作が多いのも特徴かもしれない。

 最後にまた書くけど、ホントに「彼女の人生は間違いじゃない」のかどうかは僕にはよく判らない。この映画を見ていても判断はできない。ただ、どうにもならないことを抱えている人は「ネガティブ・ケイパビリティ」という気持ちでずっと見ているしかないなと思う。福島と東京、重い現実と不可思議な人間を見つめる映画。僕はそういうテーマ的な側面よりも、廣木監督のリズムは割合と僕に合っているから好きである。手持ちカメラを中心にした映像で、登場人物に寄り添うように動く映像を見ていると、人生はこういうものなのかもと思ってしまうのだった。
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望月衣塑子「武器輸出と日本企業」

2017年07月25日 20時55分05秒 | 〃 (さまざまな本)
 望月衣塑子(もちづき・いそこ 1975~)という名前だけで判る人は、まだ少ないかもしれない。でももっか売り出し中の新聞記者として、知名度は急速に上がっているだろう。(「望月」と打ち込むと、検索の上位に出てくるぐらい。)菅官房長官に何度もくらいついて質問した、東京新聞の記者である。
 
 その望月氏が長年追いかけてきたのが、日本の武器輸出問題。ちょうど1年前の2016年7月に、角川新書から「武器輸出と日本企業」という本を出していた。そりゃあ知らなかったと早速買ってみたんだけど、案外読むのに時間がかかった。難しい本じゃないんだけど、そして僕も問題意識を共有しているんだけど、武器・兵器というものに関心がない。武器だからというのではなく、クルマだの家電だのと機械全部に渡って、モノとしてあまり惹かれないんだと思う。

 それにしても、安倍内閣の数年間の間に、日本社会がどんどん変えられちゃったことに愕然とする。そして、それはむしろ民主党政権が「地ならし」をしてしまっていたのである。日本は今まで長いこと、「武器輸出三原則」を方針としていた。佐藤内閣(1967年)、三木内閣(1976年)によって定められたのである。日本は長いこと武器の輸出に関して慎重な立場を取り続けてきた。

 それが第2次安倍政権によって、「防衛装備移転三原則」というものになった。
①国連安全保障理事会の決議などに違反する国や紛争当事国には輸出しない。
②輸出を認める場合を限定し、厳格審査する。
③輸出は目的外使用や第三国移転について適正管理が確保される場合に限る。

 これは厳格なようでいて、実は「問題の立て方」を逆転させたものである。つまり、それまでは「武器は基本的に輸出しないが、こういう場合には輸出もできる」というものだった。(アメリカと共同開発した武器技術などにかんして、政府として全面禁止にできないので、そういう場合に「弾力運用」することになってきた経緯がある。)それに対して、安倍内閣では「武器は基本的には輸出できるが、こういう条件を満たさないといけない」と原則が逆になってしまったわけである。

 そういう現実を説明したあとに、各企業や研究者などに多数取材してホンネを探っていったものが本書である。そうなるにはなっただけの経過もあるわけで、今では「武器技術」と「民生技術」をはっきり分けることがより難しくなっている。それはノーベルのダイナマイト発明時代から存在する問題ではあるけれど、最近のロボットやAIの発達を武器に転用すれば恐ろしいことも可能になるだろうと思う。でも日本の企業や大学がAI研究に取り組んじゃいけないとは言えないだろう。

 経済界も長く武器輸出を求めてきたらしい。だけど、この本を読んでわかるのは、じゃあ輸出をどんどん認めれば日本企業は大儲けできて言うことなしなのかと思うと、そうでもないらしいということだ。まず、日本の武器(戦車など)は作っても自衛隊しか買わないことを前提に開発されてきた。だからものすごく高いのである。そして、実戦に使われたことがない。だから当然、実戦で本当に役に立つかどうかの検証がない。防衛装備とは、買う国にとってはその国の税金を使うんだから、その国なりの「説明責任」が生じてくる。日本製武器を買う意味が果たして相手国にあるのか?

 それに上記原則によれば、イスラエルやサウジアラビアなど親米国には武器輸出ができることになっている。そうなると、実際に戦争に使用される可能性が出てこないとは言えない。そうなったとき、日本の世論、そして当の企業で働く労働者にどのような影響を与えるか。それはまずい、おかしいんじゃないかという気持ちがあるんじゃないだろうか。大企業に仕事を貰う中小企業では、大きな声では言えないけれど、実はあまりやりたくないという声をこの本はたくさん拾っている。

 それは単に「武器だから」というに止まらず、秘密保持が求められたり、外国人従業員を使えなかったりと言った面倒がたくさんある。それでは儲かるかと言えば、大企業はともかく下請けにはそれほど儲けが回ってくるわけではない。そういう問題が実はあるということだ。だけど、研究者はちょっと違うかもしれない。アメリカ軍の研究資金をどう考えるのか。日本でも防衛省の研究資金に応募するべきかどうか。昨年来時々報道される問題だけど、現実の苦労の中でどう考えるべきなのか。

 それにしても、研究費があまりにも削減されている現実。それに対して、軍事企業の高揚した様子が恐ろしい。防衛省は、次期戦闘機を国産にして100機開発するために4兆円規模の開発費を税金で投入した場合、24万人の雇用創出、8兆3千億円の経済効果が見込めると試算しているという。(46頁)しかし、それは税金なんだから、他のことに投入してもっと大きな雇用を作れることもあるだろうし、減税に回せば消費が増えるかもしれない。なんで武器開発だけを考えるのだろう。確かに戦争は世に絶えない。だから、それを日本経済の浮揚に利用して何が悪いと本気で考えているらしい人がけっこういるということがよく判った。日本の現実を知るために。
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「初恋・地獄篇」とその後-羽仁進の映画④

2017年07月23日 21時29分17秒 |  〃  (日本の映画監督)
 羽仁進の映画のまとめを終わらせてしまいたい。アフリカやアンデスで撮った後、次に作ったのは「初恋・地獄篇」である。1968年、ベストテン6位。羽仁プロとATGの提携作品。当時、ATG(日本アートシアターギルド)は作家が自由に作れる「1千万円映画」という企画を始めていた。68年は2位「肉弾」(岡本喜八)、3位の「絞死刑」(大島渚)と、ベストテンにATG映画が3本も入った。ATG映画特集なんかは今も時々あるから、この映画は他に比べると上映機会が多い。僕も4回目だと思う。
(「初恋・地獄篇」)
 「初恋・地獄篇」は羽仁進の最高傑作だろう。ATG映画でも最大のヒット作となった。脚本に寺山修司が名を連ねていて、寺山特集なんかでも上映される。だけど、今回の「文学界」やトークなどでの発言によると、ATGに企画を通すために寺山の名を出したものの、羽仁が書いた脚本の概要を見せたら、寺山はこれでいいんじゃないのと言ったという。寺山は共同脚本に名を出す代わりに、製作現場を見たいと言った由。この証言そのものの検証も必要だが、今まで「初恋・地獄篇」の詩的、幻想的なシーン、風俗的・見世物的感覚などを何となく寺山由来と思っていたのも再検討が必要だ。

 この映画は、養護施設育ちの少年シュンと、集団就職で上京したが今はヌードモデルをしているナナミという二人の幼くも切実な触れ合いをリリカルに描いている。シュンは彫金師夫婦にもらわれ彫金をしているが、養父に虐待され、近所では幼女と仲よく遊んでいる。危ういシュンのセクシャリティに比べて、ナナミは大胆にヌードを披露してる。工場で働くより、自分のカラダを金にする方が有利だとすでに知っている。この10代の二人も新人で、特にナナミの石井くに子は見事な存在感。

 ナナミの関わる性産業の描写、若い二人の性愛の様子なども率直に描かれているが、興味本位という感じがなく、全体に詩的なイメージがずっと続く感じがする。モノクロの画面は美しく(撮影は奥村祐治に変わった。一部でカラー場面があるが、ベースはモノクロ)、完成度が高い。ナナミの同級生「代数君」の高校文化祭に行って、稚拙な8ミリ映画を見るところは、若い時代の切なさと恥ずかしさが伝わってくる名シーン。ナナミをよく撮影に来た「あんこくじさん」(安国寺さん?)の造形も面白い。そして突然の悲劇がやってきて映画は終わるが、余韻は長く残り続ける。

 「初恋・地獄篇」をもっと詳しく書いてもいいが、長くなるから省略。次の69年の「愛奴」は大失敗作。ベストテン27位。墓地で出会った美しい夫人に連れられ謎めいた洋館を訪れると、召使の少女「愛奴」を自由にしていいと言われ、極限の快楽を経験する…って、何だそれって感じの話。原作があって、フランス文学者栗田勇の戯曲なのである。もちろん、そんなウソみたいな話が現実にあるわけがなく、夫人は実は東京大空襲で死んだ霊魂だった…と言われましても。「雨月物語」を見てれば予測通り。もともとは荒木一郎と司葉子で企画したが、荒木一郎が事件を起こして流れたという話。
(「愛奴」)
 続く70年の「恋の大冒険」は誰もベストテンに投票してない。今まで失敗作と言われてきたが、最近ではカルト的なミュージカル映画として再評価されつつある。人気絶頂の「ピンキーとキラーズ」のピンキー(今陽子)を主人公に、山田宏一渡辺武信が脚本、和田誠が美術、いずみたくが音楽を担当したミュージカルである。この顔触れで判るように、70年前後の新しい感性を今に伝える作品で、画面に出てくる70年風俗も興味深い。遊び感覚で時代を超える映画だろう。
(「恋の大冒険」)
 今陽子が集団就職で「迷いたけラーメン」に勤める。そこの社長、前田武彦は怪しげな電波で社員を洗脳しているが、カバが大嫌い。一方、怪電波で上野動物園の動物たちもおかしくなり、公害として騒がれる。前武はやはり電波洗脳で由紀さおりが自分を好きになるように仕向け、ついには結婚式を挙げる日となる。そこに動物園を抜け出したカバが現れ…。当時、テレビ司会者として大人気の前田武彦が怪演を繰り広げ、その他多数のゲスト出演者とドタバタを繰り広げる。完全に成功しているとは思えないが、いずみたくと和田誠を楽しめる。70年にはこんなおふざけは受けなかっただろうが、今になると貴重な映像になっている。羽仁進にはこういう資質もあるということだ。

 その後、71年にイタリアのサルデーニャ島を舞台に「妖精の詩」を作った。実の娘の羽仁未央がなぜか一人孤児院にいて…。「禁じられた遊び」の名子役ブリジット・フォッセーも出ている。フィルムの褪色が著しいけど、そういう問題ではなく…という映画。子どもが可愛いのは真理だろうけど、反面の真理として、我が子が可愛いのは親だけだというのもある。羽仁未央は1964年生まれだから7歳だった。「元祖不登校」みたいな人で、2014年に亡くなった。

 1972年の「午前中の時間割り」は、再びATGで作りベストテン16位に入っている。前に書いたことがあるが、これは公開時に見ている。主演者が高校生で、確か都内の高校の生徒会あてに割引券が送られてきた。その当時から何度か見ているけど、まあ失敗作だろう。ついこの間の荒木一郎特集で見たからパスするつもりだったが、あまりに暑い日で他へ行く元気がなく、避暑のつもりでまた見たら案外面白かった。仲良し女子高生2人が夏休みに旅行する。映画好きの男子から8ミリカメラを借りて持っていく。そして、女子高生の片方が死んでしまう。旅行中に出会った謎の男は何?

 素人が映画を撮ることが大変だった時代だから、当時の旅フィルムが面白い。残されたフィルムは何を語る? 謎の男「沖」は、当時天才ジャズトランぺッターと言われていた沖至が演じているのも貴重。旅先は伊豆だと思うが、夏休み感覚にあふれている。全体に「ガーリー」(girly)なムードが漂っていて、その危うい「女子高生映画」感覚が面白い。稚拙であることも、かえって当時のムードを感じさせる。成功作とは思えないけど、案外捨てがたい。自分の高校生時代を思い出しちゃうし。
(「午前中の時間割」)
 劇映画最後は、1980年の「アフリカ物語」。最初クレジットにジェームズ・スチュアートって出てくるから、同じ名前かよと思ったらご本人だった。つまり「スミス都へ行く」や「裏窓」の俳優が老人で出ていた。事情あってアフリカ奥地で動物たちと暮らす老人と孫娘。そこに飛行機が墜落して記憶喪失になった男が現れる。自然保護、動物との共生を訴え、アフリカの動物たちの素晴らしい描写も多い。それなりにドラマもあるけど、これはサンリオが作った子供向け映画。なぜかベストテン12位になってるけど、成功とか失敗とか評する映画でもなかろう。まあ、それでいいんだという映画。
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アフリカとアンデスー羽仁進の映画③

2017年07月22日 22時43分00秒 |  〃  (日本の映画監督)
 羽仁進の映画をたどる3回目。2回目に書いた「不良少年」「充たされた生活」「彼女と彼」を僕は高く評価しているんだけど、羽仁進の映画全体からすると、社会派的、芸術表現的に突出している感じがする。そういう面が羽仁進に在ったのは確かだろうが、本人の資質からするともっと自由な映画を作りたかったんじゃないかと思う。つまり、子どもや自然を見つめる映画のような。

 ということで、次に作ったのは「手をつなぐ子ら」(1964)という映画になる。ベストテン31位だから、高い評価は得られなかった。これは今回初めて見たけど、確かに失敗作だろう。この映画は伊丹万作脚本、稲垣浩監督の「手をつなぐ子等」(1948)のリメイクで、前作は当時高く評価されベストテン2位に選出された。障害児教育の先駆者、田村一二の原作を、病床の伊丹万作が脚色した遺作で、障害児学級を描いている。その脚本に羽仁進が手を入れ、64年当時の大阪の小学校の話にしている。

 確かに「弱い者いじめ」などは描かれるし、どうも知的に少しボーダーの感じの子どもを描いているけど、普通の小学校の話になっている。素人の子どもたちが自然な演技をしている点で、ドキュメンタリー時代のような感触がある。でも、脚本はキッチリしているし、劇的事件がいくつか起こる。劇映画としては弱く、ドキュメントにしてはドラマ的。モスクワ映画祭審査員賞。担任教師役の佐藤英夫は、「七人の刑事」など多くのテレビドラマで知られるが、これは映画の代表作だろう。

 そして、その後羽仁進は日本を飛び出して、世界を舞台にしたドキュメンタリー・ドラマを作る。当時はまだ日本人が自由に世界旅行へ行けない時代だった。(外貨の持ち出し制限が撤廃されたのは1966年からだが、外国の観光旅行は特別の富裕層しかできないことだった。)そんな時代、「異文化理解」なんて概念もない時代に、欧米ではない外国へ出かけて映画を作った。羽仁進の発想力は時代をはるかに飛びぬけていたことがよく判る。

 最初は渥美清がアフリカ大好きになった映画、「ブワナ・トシの歌」(1965)で、ベストテン8位。これは実に素晴らしい映画だけど、今見られる映像は画面が褪色してしまっている。是非修復して欲しい。渥美清と言えば「寅さん」しか思い浮かばないというのは悲しいと思う。実話を基にした原作があるけど、もう感触としてはドキュメンタリーを見ている気がする。実際渥美清以外の現地の人々は素人を使っている。それが実に素晴らしいのである。

 大学の研究者がタンガニーカの奥地に研究に行くことになり、渥美清が先遣隊として建設会社から派遣される。学者たちが住むプレハブ住宅を作るためである。だけど現地にいるはずの学者は病気で不在。言葉も知らない渥美清が、一人で住宅作りを始めるけど…。村人に手伝いを求めると、村の仕事を手伝いたいのかと誤解され牛飼いに駆り出され…。だんだん村人が手伝いに来るが、のんびりした村人とはペースが違う。ついにトラブルになり渥美清は手を上げてしまい、村を追放される。

 渥美清は奥地の山でマウンテンゴリラを調べている日本人学者のところへ避難する。そこで見た厳しい自然、マウンテンゴリラの死体、一年に一度もゴリラに会わないような学者の日々。村の学校の先生に相談に行けというアドバイスに従うと、村の裁判が開かれる。アフリカの奥地でこそ、白人に支配された歴史から「非暴力」が村の掟になっている。そんな中でだんだん「異文化」を理解していく渥美清(が演じる建設労働者)が素晴らしい。ついに完成し、最後に村人の送迎の宴が開かれ「ブワナ・トシの歌」が歌われる…。これがまた素晴らしい内容で、感動的だ。

 こういう映画が1965年に作られていたということが素晴らしい。この映画を見るのは3回目なんだけど、2回目は割と最近で一昨年だった。渥美清没後20年という特集で見たので、今回はパスしようかとも思ったけど、何度見ても素晴らしい映画だった。ところどころで出てくる動物の素晴らしい映像は、後の羽仁進につながっていく。舞台になるのは、1964年にタンガニーカとザンジバルが連合したタンザニア。タンガニーカの独立を村で喜ぶシーンがあるが、1961年のことだから再現映像だと思う。

 続いて、1966年に「アンデスの花嫁」を作る。ベストテン6位。(この2本の映画は東宝系の東京映画が製作に参加している。)これは厳しい南米アンデス山脈に暮らすインディオの村に、左幸子が出掛けてゆく。日本人の「農業指導員」の「写真花嫁」として子連れで向かうというのである。いくら自分の妻とはいえ、こんなつらいシーンばかりさせていいのか…というような壮絶なシーンが多い。現地の女性と取っ組み合いをするシーンもあり、体当たり演技が素晴らしい。

 夫の福田は、どうも農業指導というよりも「インカ遺跡の発掘」をしているらしい。新婚の妻を置いて出かけることも多い。村ではタネがなく、アマゾン流域に入植した日系人集落に取りに行く。その役割が左幸子で、ペルーのあちこちを見て回りながら入植地に付く。そこで高橋幸治が村人を演じている。左と高橋だけがプロの俳優で、他は素人を使っている。これも非常に独特のドキュメンタリー・ドラマだけど、日系人中心の話なので、ただ一人現地のルールと格闘する「ブワナ・トシの歌」の方が今見ると面白い。だけど、映像や「女性映画」的な観点からすると、「アンデスの花嫁」も捨てがたい。

 両者ともに、今はあまり触れられないけど、日本人がまだ自由に海外旅行もできない時代に作った、時代に先がけた傑作だと思う。羽仁進の発想が国境などに関係なく、世界に羽ばたいている。世界の各地でロケされた映画は当時もたくさんあるけど、ヨーロッパやハワイなどを「観光」する映画が圧倒的に多い。「異文化」と格闘する映画は数少ない。フランスの映画祭で「ブワナ・トシの歌」を見た批評家は「二人の素人俳優が素晴らしい」と新聞に書いたという。渥美清を知らない人は「素人俳優」と思ったのである。羽仁映画では、国境だけでなく、俳優と素人の差も飛び越えている。
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日本のヌーヴェルヴァーグ-羽仁進の映画②

2017年07月21日 22時55分55秒 |  〃  (日本の映画監督)
 羽仁進の最初の劇映画「不良少年」は1961年に作られて、その年のベストワンになってしまった。当時の投票を見ると、「不良少年」が293点、黒澤明「用心棒」が281点、木下恵介「永遠の人」が240点、小林正樹「人間の条件・完結編」が239点となっている。名だたる巨匠を押さえて、長編劇映画としては新人の羽仁が突然トップを取ってしまったのである。

 羽仁進の特集上映で「日本のヌーヴェルヴァーグ」と題しているのがあって、そう言えばそうだなと思った。ヌーヴェルヴァーグ(新しい波)というのは、50年代末にフランスで続々と若い映画監督が新感覚の映画を作ったことを指している。単に新人というだけでなく、映画評論家などをしていた若い映画ファンが、映画会社での徒弟修業みたいな期間なしに自由な発想で映画を作って衝撃を与えた。

 日本でもドキュメンタリー出身の若い監督が、大手映画会社ではない岩波映画製作所で劇映画製作に乗り出したことが大きなインパクトを与えた。映画の中身は「ドキュメンタリー・ドラマ」というべきものである。当時は世界的に不良青年ものが作られていて、日本でもほぼ同時代に「非行少年」「非行少女」という劇映画が作られた。このテーマだけはドキュメント映画は作れない。

 犯罪シーンを隠し撮りするわけにはいかないし、技術的に可能だとしても倫理的に公開不能である。だから「再現ドラマ」にするしかない。羽仁進は実際に「不良青年」だった素人だけを使って、かつてない臨場感の映画を作った。冒頭で銀座の宝石店強奪シーンがあるが、実際にそういう犯罪を犯した少年の再現映像だという。そして少年院に送られる。神奈川県にある久里浜特別少年院で撮影されているが、そういう場所を映画撮影に使えた時代があるのが不思議な感じ。

 中でのいじめ、火おこしのシーンなど有名なシーンだけど、今じゃ撮れないだろう。それに教員もずいぶんのんびりした感じである。音楽を武満徹が担当している。最初はもっと荘重なものだったが、羽仁進が拒絶したという。(「文学界」2017,8月号の羽仁進インタビュー。)そのあとに作られた音楽は、とても抒情的で一度聴いたら忘れられないようなもの。映画の少年たちに寄り添う素晴らしい音楽である。その後、「ブワナ・トシの歌」までの5作品の音楽を武満徹が担当している。撮影は金宇満司(かなう・みつじ)で、岩波映画所属だった。後に「栄光への5000キロ」「黒部の太陽」を撮影し、石原プロ常務となった。晩年の石原裕次郎を看取った人である。

 続いて1962年に松竹で「充たされた生活」を撮った。ベストテン14位。「にんじんくらぶ」(岸恵子、久我美子、有馬稲子らが作っていた映画プロ)の企画で、主演女優有馬稲子が自ら映画化権を取って羽仁進の監督を希望した。原作は石川達三で、新潮社の「純文学書き下ろし特別作品」の第一弾だった。(この企画は書き下ろし長編小説を作家に書かせるもので、「砂の女」「個人的な体験」「沈黙」など世界レベルの作品を続々と送り出した。)

 有馬稲子が離婚した新劇女優を演じ、60年安保闘争の中で揺れ動く若い女優の生きてゆく姿を熱演している。その圧倒的な存在感は見事で、最近になってこの映画は再評価されつつある。60年安保を描いた映画としても、大島渚「日本の夜と霧」と双璧だろう。ラジオやテレビの仕事で何とかやっている新劇事情が生き生きと描かれている。ドッグショーの受付シーンなども興味深い。撮影の長野重一は岩波写真文庫をたくさん手掛けた写真家で、街頭の隠し撮りなどで独特の感覚を見せた。見事な手腕で60年安保当時の東京の街を(手持ちカメラも使って)切り取っている。

 1963年には「彼女と彼」を作った。ベストテン7位。これは非常に完成度の高い前衛的作品である。岩波映画で製作され、ATGで公開された。当時妻だった左幸子(ひだり・さちこ)が主演し、今村昌平の「にっぽん昆虫記」と合わせてベルリン映画祭女優賞を獲得した。(後に「サンダカン八番娼館」で田中絹代が取り、最近でも寺島しのぶ、黒木華が受賞しているが、日本人初受賞は左幸子である。)左幸子は圧倒的な演技で、1963年は彼女の年だった。(まあ「にっぽん昆虫記」の方が凄いけど。)キネ旬、毎日映コン、ブルーリボン賞など当時あった演技賞を独占している。

 脚本は清水邦夫で、「充たされた生活」でも羽仁進と共同で脚本を書いていた。もともと学生時代から戯曲を書いていたが、「教室の子供たち」を見て岩波映画に入ったという。後に日本を代表する劇作家になるが、60年代初頭に書いた映画脚本は社会的でありつつ詩的な感覚をうまく生かしている。1960年に作られたばかりの小田急線百合ヶ丘駅。その近くの団地群に住む「新住民」と、追いつめられる「バタ屋」の人々の関わりを見事に描いた脚本である。

 「彼女と彼」は60年代以後世界的にたくさん作られる「団地映画」の最初の傑作だと思う。団地の主婦として閉塞感を感じる左幸子が、夫の大学同級生でありながら今は「バタ屋」に住む男と次第に関わりを持っていく。「バタ屋」という存在が今では判りにくいが、昔は勝手に空き地に住みついて廃品回収などで生きている人々が各地にいた。北海道では「サムライ」と呼ばれて、山中恒「サムライの子」で描かれ映画にもなっている。今では「空き地」というものがないので、「ホームレス」になるしかないが、60年代頃には確かに各地にそういう人々がいたものだ。

 その夫のかつての友人「伊古奈」を演じるのは、有名な画家だった山下菊二。反権力、反差別の画家として知られた人で、そういう経歴を知ると独特の存在感のよって来るところがよく判る。中央官庁の官僚らしい夫は名優の岡田英次がやっているが、山下菊二の存在感に霞んでしまった感じだ。まあ、そういう役どころなんだけど。映画内で岡田英次らが写る8ミリ映画が上映される。「初恋地獄篇」や「午前中の時間割り」で反復される手法である。

 長野重一の撮影、武満徹の音楽が実に見事で、冒頭の「バタ屋」の火事シーンから、不穏な感情に支配されながら見続けることになる。社会派的テーマのように見えて、実は運命を見つめた叙事詩のような作品だと思う。だからテーマを押し出すというよりも、何か新しい感覚に直面する新鮮さがある。前衛的なアート映画だけど、詩的なイメージの連鎖が素晴らしい。

 「不良少年」「充たされた生活」「彼女と彼」の3作に関しては、清水邦夫や武満徹など同世代の若き才能も集結した60年代初期の傑作群だと思う。ヌーヴェルヴァーグを代表するジャン=リュック・ゴダール(1930~)などを挙げてもいいけど、僕はアメリカのインディーズ映画の旗手、ジョン・カサヴェテス(1929~1989)を思わせる感じがする。確かに羽仁進の初期映画の達成は、世界的に再評価されるべきものだろう。こういうアート映画が作られた時代が日本にもあったのである。
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羽仁進の映画①-ドキュメント映画時代

2017年07月20日 21時21分56秒 |  〃  (日本の映画監督)
 シネマヴェーラ渋谷で上映されていた羽仁進監督の特集上映をずっと見ていたので、まとめを書いておきたい。羽仁進(はに・すすむ 1928.10.10~)は昔はものすごく有名だったけど、劇場公開映画は1980年が最後だから、知らない人が多いかもしれない。検索すると「まだ生きてる?」とか「死んだのか」といった検索ワードが出てくる。今回トークを聞いたと言ったら、家人に「生きてたの!」と言われてしまったぐらいである。だけど、88歳で杖を突いてたけど、ずいぶん元気だった。
 (羽仁進)
 70年代ごろには、羽仁進も有名だったけど、羽仁一族みんなが有名だった。映画監督(に限らず)だったら、作品のみを論じればいいようなものだけど、60年代に活躍した二人の監督、勅使河原宏(てしがわら・ひろし 草月流家元勅使河原蒼凬の子ども)と羽仁進に関してはそうもいかない。親の方が前から有名で、誰でも知っていたからである。

 羽仁進は、父羽仁五郎と母羽仁説子の子どもである。母説子はさらに「自由学園」を創立した羽仁吉一羽仁もと子の子ども。羽仁進ももちろん自由学園に通ったのである。羽仁説子は「進歩的教育学者」として広く活動し、ずいぶん有名だった。でも父の羽仁五郎はもっと有名だった。戦後に革新系の参議院議員(1947~1956)も務めた左派の歴史学者である。戦前の岩波新書「ミケルアンヂェロ」は今も残っている。1968年に出た「都市の論理」は大ベストセラーになり、新左翼系学生運動に大きな影響力があった。羽仁進より有名だったと思う。
 (羽仁五郎)
 羽仁進は1947年に自由学園を卒業後、共同通信に一年間いた後、父五郎の紹介で1949年に岩波映画製作所に入った。岩波書店と直接の資本関係はないけど、岩波写真文庫の編集などを担当した会社である。土本典昭、黒木和男、東陽一、田原総一郎、清水邦夫など多くの映画・演劇・テレビ関係者を輩出したことで有名。そこでドキュメンタリー映画を作るようになり、羽仁進も監督になった。

 今回上映されたものは以下の作品。
生活と水(1952) 監督デビュー作
教室の子供たち(1955) キネ旬文化映画3位
絵を描く子供たち(1956) キネ旬文化映画1位
双生児学級(1956) キネ旬文化映画4位
動物園日記(1957)
海は生きている(1958)
法隆寺(1958) キネ旬文化映画3位

 映画雑誌キネマ旬報では、長編劇映画以外の主に短編の記録映画を「文化映画」と呼んでいる。(長編記録映画は劇映画と同じ土俵でベストテンの対象になっている。)以上で判る通り、50年代を代表するドキュメンタリー作家として評価されていた。特に「教室の子供たち」「絵を描く子供たち」「双生児学級」は、教室にカメラを持ち込んで自由にふるまう子どもたちの様子を生き生きと描写するという、今まで誰もやってないことをやった映画だった。
 (「教室の子供たち」)
 誰もやってないというか、そういうことは無理、子どもがカメラを意識してしまうから自然な姿は得られないという通念があったわけだけど、やってみたら子どもたちは少しするとカメラを意識しなくなったという。初めは隣の教室から壁に穴をあけて撮ったというけど、すぐ気づかれてしまった。子どもたちは羽仁進が落第して小学校からやり直していると解釈して、すぐに仲良くなってしまった。

 いま見ると、教室環境などが貧しいことにも驚く。体育の授業では体操着に着替えていない。町の様子も高度成長以前という感じだ。「絵を描く子供たち」は当時としては珍しく劇場公開されたが、今見ると心理解釈などが少し古いかもしれない。それよりも、今も続いている東大教育学部付属小を描く「双生児学級」が面白い。ここでは双子以上の子どもを特別枠で募集し、遺伝、環境、個人の資質などの関わりを調べるているが、今でも大事な観点が提示されていると思う。

 デビュー作の「生活と水」や上野動物園の裏側を描く「動物園日記」、あるいは「法隆寺」を見ると、羽仁進の資質は詩人だと判る。歴史や社会を見つめるという以上に、誌的、美的な直観で描いている。羽仁進は一貫して「自然なもの」「真実の感情」を求め続けていくが、そうなるとスポンサーあって初めて作られる文化映画に飽き足らなくなるのも当然だろう。だから自主的に劇映画に進出するが、そこでも「素人俳優」を多用するドキュメンタリー・ドラマのような作品が多くなる。

 でも素人俳優よりもっと「自然な演技」をするのは「子ども」である。彼は一貫して子どもを描くけれど、羽仁進自身が自分で言うように「大きな子ども」だった。父も母も左翼系言論人だったけど、党派的なタイプではなかった。むしろ子どもを自由に伸ばしていこうというようなタイプの人物だった。だから、羽仁進は左派的な社会派映画作家にはならず、「大きな子ども」のまま詩のような映画を作った。

 ところで「子ども」よりさらに「自然な演技」をできるのは「動物」だろう。まあ、それは「演技」ではないけれど。だから、羽仁進の映画には動物がよく出てくるし、最後は劇映画を離れてテレビ向けに動物のドキュメントを作るようになった。その意味で、50年代の上野動物園を描いた「動物園日記」も重要だ。初代園長の古賀忠道の時代で、戦争の影響を残しながらライオンやカバなどの繁殖にも取り組む様子がくわしく描かれている。池の中の島に放し飼いの動物がいるなど、今と違った様子も興味深い。これはもっと再評価されるべき傑作だと思う。

 こうしてみると、羽仁進という存在そのものが、自由学園を作った羽仁家の最大の作品だったのではないかと思う。何よりも自由な詩人として生きてきた羽仁進の位置を、もう少し考えていきたい。
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グルーズの絵、漱石映画の話-「三四郎」もう少し

2017年07月19日 21時40分52秒 | 本 (日本文学)
 今日(7.19)に梅雨明けした。でも、もう7月初めから、つまり都議選開票の頃から、ずっと東京では30度を超えている。「もう、梅雨明けしてるよ」と会う人ごとに大体みんなそう言ってた。暑い日がずーっと続くと、政治の話題などを書く気力も失われていく。

 各マスコミの世論調査では、安倍内閣の支持率がどんどん下がっている。あれほど「岩盤」のように5割を維持し続けたんだけど、今や調査によっては3割を割っている。稲田防衛相のこと、「残業代ゼロ制度」をめぐる問題など、ちゃんと書きたいと思いつつ、どうも面倒だなと思う。

 2週間前に、九州北部で大水害が起こり、多くの犠牲者が出た。その頃、関東も通り過ぎて行った台風があり、都議選で自民が大敗したといった話題も、テレビでは後景に退いた。国際問題でも多くの問題があるし、加計学園、森友学園問題もあるが、日本ではすぐに「気象ニュース」が中心になる。良くも悪くも、それが日本という風土で生きるということなんだなあとあらためて思う。だからと言って、何でも「水に流す」という風にしてはいけないと思う。

 ということで、今日はちゃんと書く気がしないんだけど、「三四郎」をめぐって書き残しがあるからそれを書いておきたい。昨日は昨日で急いで書いたから忘れてしまったのである。本を読んでるだけでは判らないことが、今はネット上ですぐに判る。三四郎の憧れの君、やがて「里見美禰子」(さとみ・みねこ)と名前も判明するが、この人はどういう容貌の人なんだろうか。

 三四郎は広田先生の引っ越しを手伝いを頼まれてやってくる。その日は「天長節」とある。明治時代の天皇誕生日だから、11月3日である。そこへ「池の女」も手伝いにやってくる。その場面を「青空文庫」から引用すると以下のようにある。(太字は引用者)

 二、三日まえ三四郎は美学の教師からグルーズの絵を見せてもらった。その時美学の教師が、この人のかいた女の肖像はことごとくヴォラプチュアスな表情に富んでいると説明した。ヴォラプチュアス! 池の女のこの時の目つきを形容するにはこれよりほかに言葉がない。何か訴えている。艶えんなるあるものを訴えている。そうしてまさしく官能に訴えている。けれども官能の骨をとおして髄に徹する訴え方である。甘いものに堪たえうる程度をこえて、激しい刺激と変ずる訴え方である。甘いといわんよりは苦痛である。卑しくこびるのとはむろん違う。見られるもののほうがぜひこびたくなるほどに残酷な目つきである。しかもこの女にグルーズの絵と似たところは一つもない。目はグルーズのより半分も小さい。

 この「ヴォラプチュアス」(voluptuous)を検索してみると、「豊満な体をした, グラマーな;官能的[肉感的]な;好色な;みだらな」と出てくるのである。じゃあ、グルーズっていう画家は何だろう。ジャン=バティスト・グルーズ(Jean-Baptiste Greuze)という18世紀フランスの画家である。(1725~1805) 当時の市民生活に材を取った「風俗画」で人気を誇ったが、大革命後には忘れられた画家になったという。どんな絵を描いたのかと、画像検索してみると、以下のような感じ。
 
 まだまだ出てくるが、一応2枚だけ。「美禰子に似たところはない」とあるけど、そして「目は半分」だともあるけど、「肉感的」「官能的」という時のグルーズの絵を言うのは、こういうものだった。ちょっと意外な感じがするけど、なんとなく「高嶺の花」的な感じは共通しているのかもしれない。

 「三四郎」は1955年に東宝で映画化されている。今や「東海道四谷怪談」など新東宝で撮った怪談映画で一番評価されている中川信夫監督。中川信夫は戦前以来、なんでもござれの娯楽映画をたくさん作っているが、文芸映画も多い。「虞美人草」(1941)も撮っている。「若き日の啄木 雲は天才である」などホラー以外の名作も多い。「夏目漱石の三四郎」(1955)も昔見たけど、悪くない。

 キャストを紹介すると、三四郎は山田真二という今は忘れられた俳優で、当時は美空ひばり、江利チエミ、雪村いづみの「三人娘」の映画にたくさん出ている。紅白歌合戦にも一度出たという。美禰子は八千草薫。広田先生は笠智衆。なかなかうまいキャスティングだけど、八千草薫では清楚イメージが強くなるのかもしれない。でも映画としては、八千草薫の美禰子、笠智衆の広田先生というのは、今でも見てみたいと思わせるんじゃないか。

 漱石の映画化としては、森田芳光「それから」が圧倒的にベストだろう。市川崑が「こころ」と「吾輩は猫である」を映画化。新藤兼人も「心」と漢字名で映画化している。でも、まあそれなり。それなら5回映画化されてる「坊っちゃん」の方が面白いか。鴎外、藤村、潤一郎に比べて、映画化には恵まれていない。そこが漱石作品の特徴をも示していると思う。ストーリイで売る話ではなく、歴史小説もほぼない。恋愛というほど発展することも少ないし。それが漱石文学だということでもある。
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「三四郎」-漱石を読む⑤A

2017年07月18日 21時39分38秒 | 本 (日本文学)
 夏目漱石を読んでるシリーズ。ちくま文庫版全集も全10巻のうち、半分の5巻になった。「三四郎」と「それから」を収録している。まずは「三四郎」について。1908年(明治41年)9月1日から12月29日に朝日新聞に連載され、翌年刊行された。昔から青春小説の古典と言われ、僕も前に読んでる。

 以上の連載日時などは、今ネットで調べたが、いまや「三四郎」というのは、お笑いグループの名前として認知されている。でも、まあそれだって元は漱石なんだろう。三四郎というのは主人公小川三四郎のことだけど、どうしてこういう不思議な名前になったのかは出ていない。三郎や四郎はいても、三四郎という名は普通付けないだろう。それはともかく、高校を卒業した三四郎が上京して大学へ入る。クラスメイト、女友だち、先生などと出会い様々な体験を積んでゆく青春彷徨編である。

 多少古い点もないではないけど、今も十分に面白い青春小説の傑作だと思う。文章も読みやすく、東大がある本郷周辺の「都市小説」としてもよく出来ている。有名な場面名セリフが随所にあって、それらは僕も大体覚えていた。「草枕」を絵のような小説をめざしたというけれど、その目論見はむしろ「三四郎」の方が達成度が高いのではないか。東大の三四郎池でヒロインを見かける場面を初め、一編の美しい絵を見た思いがずっと残る。以下に名セリフを少し引用。

・「貴方はよっぽど度胸のない方ですね」(名古屋で相部屋になった女性に翌朝言われる。)
・「亡びるね」(東京へ向かう汽車に乗り合わせた先生が言う。)
・「可哀想だた惚れたって事よ」(友人の佐々木与次郎が「Pity's akin to love」を英訳。)
・「stray sheep」(団子坂の菊人形を見た帰り、疲れて迷った美禰子が三四郎につぶやく。)

 これらは一度読んだら忘れないだろう。僕もずっと覚えていた。だけど、忘れたことも多い。一番大きいのは、肝心の「広田先生」が、「食客」(「いそうろう」とルビがある)として佐々木与次郎を置いていたこと。広田先生というのは、汽車で会って「亡びるね」といった人だけど、なんで汽車に乗ってたのかは謎。その時点では謎の人物だが、大学で出会った友人、佐々木与次郎の先生でもあった。そして、先生の引っ越しを手伝いに行き、かつて見初めた里見美禰子と出会うわけである。

 「三四郎」の中で実際に出てくる主要人物として(手紙の中で出てくる三四郎の母などは除き)、文明批評を担当するのが広田先生である。名前も明示されていて、広田萇という。(「ちょう」である。草冠に長い。そんな字があるかと思うとパソコンに出てきた。)「こころ」の先生と混同していたが、こっちの広田先生はちゃんと高校で教えている。そして、与次郎君は広田先生の東京帝大招致運動をしている。そろそろ日本の大学にも外国人教授ではなく日本人教授を招くべきである。例えば、広田先生はどうかというもので、先生に諮らずに勝手に動き回る与次郎に、先生も三四郎も迷惑を蒙る。

 三四郎が美禰子に憧れる青春恋愛小説としか覚えていなかったのだが、小説内ではそういう世俗的問題がけっこう語られている。それはまた三四郎と美禰子が「貨幣」で結びつけられている事情にも表れている。先生が引っ越す費用20円を野々宮(三四郎の先輩で、寺田寅彦がモデルという)から借りる。それを返すため、先生は与次郎に金を預けるが、与次郎はそれを競馬ですってしまう。そこで与次郎は三四郎の仕送りから借りる。しかし、与次郎は返せないので、いろいろとあたって結局美禰子から貸してもらう。ただ美禰子は与次郎には貸さず、直接三四郎に貸すのならという。

 こうして、金を貸す、返すをめぐって、三四郎と美禰子の関係が語られる。ロベール・ブレッソンに「ラルジャン」という、お金が人々の手を周っていく様子を描いた映画があるが、そんな感じ。「貨幣」を媒介にして展開していく人間関係、というテーマは、以後の漱石文学の定型になっていく。その原型という意味がある。「貨幣小説」としての「三四郎」はもっと強調されるべき視点だろう。

 三四郎と美禰子は、同い年である。なんだか美禰子が年上みたいに思えてしまうが。20世紀初頭において、また旧制教育制度において、結婚においては男性が数歳以上年上だというのが通念だった。旧制中学、旧制高校、旧制大学を出たら、もう25歳程度になってしまう。現に三四郎が熊本の五高を卒業して上京したのは、23歳である。一方、女性が行ける大学はなかったし(1901年に作られた日本初の女子大「日本女子大学」は、1947年に至るまで大学ではなく専門学校である)、高等女学校を出たら、もう適齢期である。それなりの仕事を得て家族を養える男は30歳前後になる。

 ということで、最後に美禰子は結婚してしまい、三四郎は「失恋」することになるけど、案外淡々としているようにも思えるのは、当然そうなるだろうと思っていたからだろう。自分は結婚相手に選ばれるべき資格を欠いていることは自分でも判っていただろう。まあ、そうなるまでに菊人形を見に行ったり、美禰子が絵のモデルになったり…。音楽や美術の知識・関心と共有し、英語で本も読める知識階級のサロンのようなものが、ここでは普通に描かれている。会話も面白く、だいぶ文学を受容できる階層が誕生したことが判る。

 恋愛も大事だけど、そういう知的なサロンに東京で初めて触れたことが大きいと思う。ステキな女性がいることは、そういう知的会話を無理してでもできるようになりたい要因だけど、こうして人は大人になっていく。そんな青春上京小説というものを「三四郎」が作ったとも言えるだろう。小説に出てくる地名は、ちょっと大久保(新宿の隣)が出てくる他は、ほぼ今の東京都文京区に限られている。三四郎マップなんかは、探せば出てくるので書かないけど、文学散歩に格好の小説だなあと思った。「追分」「真砂町」など、今の地図には出てない地名も多いけど、本郷周辺である。東大内の心字池は、今では「三四郎池」と通称されるようになってしまった。数年前に散歩した時の写真。
(数年前に散歩した時の三四郎池)
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病む心知る人ぞのみ-鈴木重雄さんが東京新聞社説に

2017年07月16日 20時43分46秒 |  〃 (ハンセン病)
 鈴木重雄さんが東京新聞の社説(7.16付)で紹介されていました。
 政治も人も信じられない-。若い世代の嘆きの声が聞こえてきます。でもそんな今だからこそ紹介したい。東北の小さな町に、こんな、すごい人がいた。

 鈴木重雄(1911-1979)といっても、多くの人は誰だかすぐには判らないでしょう。鈴木さんは、宮城県北部の唐桑(現・気仙沼市)に生まれ、東京商大(一橋大)に進学しましたが、在学中に強制隔離の対象とされたハンセン病(らい病)を患い、瀬戸内海にある療養所・長島愛生園に収容されました。

 戦後になって「不治」と言われた病にも特効薬が生まれ、鈴木さんは回復者となりました。自治会長などを務めながらも、故郷のことを忘れず様々に尽力していました。そして「ハンセン病回復者の完全社会復帰第一号」となり、多くの人の支持があって、地元の町長選選挙に立候補しました。結果は183票差の落選ながら、ハンセン病の歴史に残る勇気ある行動でした。

 この選挙を応援に行ったのがFIWC(フレンズ国際労働キャンプ)関西委員会のメンバーで、社説内で紹介されている矢部顕さんもその一人でした。FIWCと唐桑とのつながりはその後も続き、東日本大震災で唐桑が大きな被害を受けた時にも多くのメンバーがボランティアに参加しました。その時には、鈴木さんは選挙後に唐桑作った福祉施設が避難所として使われていました。

 僕がFIWCの韓国ハンセン病定着村キャンプに参加したのは、1980年のこと。もうずいぶん昔のことになります。しかし、その縁が続いて、僕も大震災のボランティアに参加したわけです。そのキャンプの中心メンバーだった加藤拓馬君は、その後も唐桑の地に住みついて「地域おこし」活動を続けています。(「まるオフィス」のHP参照。)

 ここで載せた写真は、唐桑半島の先端にある国民宿舎にある銅像です。(2011.4.19撮影)僕が撮ったものです。東京新聞の社説を教材等に使う際は、ご自由に使ってください。
 東京新聞社説の全文は、東京新聞の社説サイトからお読みください。
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イランの傑作映画「セールスマン」

2017年07月15日 22時39分50秒 |  〃  (新作外国映画)
 今年のアカデミー賞外国語映画賞を受賞したイランの映画、アスガー・ファルハディ監督「セールスマン」は、有無を言わせぬ心理サスペンスの大傑作。今年を代表する何本かに入る映画だ。(東京でのロードショー公開は、渋谷のBunkamuraル・シネマで21日まで。)

 木曜日に見たので、忘れないうちに書いておきたい。アスガ-・ファルハディ(1972~)は、前に「別離」でもアカデミー賞を受けているので、2回目になる。この監督の不思議な映画世界に関しては、未公開作品がフィルムセンターで上映されたときに「アスガー・ファルハディの映画-現代アジアの監督③」で書いたことがある。イランの他の有名な映画監督のように、詩的、神話的、あるいは社会批判的な要素は少ない。ないわけじゃないけど、それよりテヘランの日常生活に材を取って、緻密な脚本で人間関係の矛盾を見つめているような映画が多い。

 今度の「セールスマン」は、説明がないから判らないところも多いけど、実に完成度が高い。現実の人間ドラマをその場にいてドキュメントしたような感じもするけど、実は練り上げられた脚本計算されたカット割りで作られている。映画を見ているうちに、イラン独自の事情から、だんだん人間世界に共通の深みに達していく。その力量は素晴らしく、ファルハディの最高傑作になるだろう。
 (2016年カンヌ映画祭で、脚本&男優賞を受賞した時)
 「セールスマン」というと、僕なんかつい「の死」と言いたくなっちゃうんだけど、ホントに「セールスマンの死」に関わる映画だったのには驚いた。20世紀アメリカを代表する劇作家アーサー・ミラーの代表作である。日本でも何度も上演され僕も見ているが、イランと言えばアメリカと長いこと断交中である。ミラーの劇なんか上演できるのかと思ったけど、ちゃんとしているからビックリ。そういえば、中国で上演されたときのノンフィクション「北京のセールスマン」という本もあった(未読)。発展中の国々でこそ、時代に取り残された男の悲しみが伝わるのだろうか。

 高校の国語教師エマッド(シャハブ・ホセイニ)と妻のラナ(タラネ・アリドゥスティ)は地域の劇団で主演する俳優である。もうすぐ「セールスマンの死」を上演するので稽古中。そんなある日、住んでるマンションで「危ない、避難しろ」という声が飛び交う。なんだと思うと、隣の土地が工事中で、壁にヒビが入っている。その事情が最初よく判らないんだけど、日本でも耐震偽装問題なんかもあったし、世界ではビル倒壊のニュースなんかもけっこう聞く。まあ、そうして突然引っ越すわけ。

 引っ越し後のある日、ラナが夫だと思ってマンションのカギを開けて、自分はシャワーを浴びていたら…。突然何者かがやってきて、ラナは襲われる。隣人たちが騒いでいる中を夫が帰ってきて、病院に連れて行く。一体何があったのだろう? その後の隣人たちの話では、以前の住人は「ふしだらな女」だったらしい。荷物もたくさん残っていて、前から迷惑していたが、そんな人だったとは。「ふじだら」とは、どうも見知らぬ男を何人も部屋に入れること。つまりは「売春婦」だったのだろうか?

 ラナは軽症で済んだが、警察には行きたくないという。エマッドは部屋にお金と車のカギがあるのに気づく。カギは駐車場に残されたトラックに当てはまった。これが犯人の車と思って、犯人探しを始める夫。一方、ラナは犯罪被害者としてPTSDになったようで、舞台にたってもセリフが出てこない状態になる。こうして、映画の後半では夫の犯人探しと「セールスマンの死」の舞台が交互に描かれる。

 次第に「セールスマンの死」のテーマ、つまり競争社会の中で取り残されていく主人公崩壊する家族金銭によって測られる人生への苦悩などが、テヘランに住む人々の苦悩と共振していく。そこが見事な作劇で、特にエマッドは「セールスマンの死」の主人公ウィリー役なんだけど、現実の彼はどんどん変貌して復讐に取りつかれてしまう。一方、時代に取り残された「セールスマン」にあたる人物が最終盤に出てくるのが圧巻。そこで人間の不可思議、判りえないものが残されて終わる。

 犯罪被害者、特に女性が「性」に絡んだ被害にあったとき、被害者側にも落ち度があったのではないかと周辺から見られることは、日本でも判ることだ。特に家父長制が強く残るイスラム社会では厳しいものもあるだろう。だから、警察に届けないというラナの判断も理解できる。都会のインテリ階級なんだけど、それでも夫の中には「妻が負わされた被害を夫が回復しなくては」という意識にとらわれてしまう。表向き欧米と同じようなリベラルでも、一皮むけば「過去」にとらわれている。

 そのような問題は日本でもよく判るし、非常に痛切な思いが伝わる。だけど、ファルハディ監督の作風としては、テーマを声高に語るのではなく、あくまでも夫婦間の事件に絡んだ人間模様を細密に描くだけである。セキュリティのしっかりとしたマンション、車を乗り回す人々、パスタを作ってもてなす妻、アメリカの戯曲を上演する劇団…とこれがイランの生活かという感じなんだけど、イランと言えば中東の政治問題でしか語られないイメージがどれだけ偏ったものかということでもある。主演のタラネ・アリドゥスティは今回来日しているが、ファルハディ作品は4回目の主演。前にも思ったけど、薬師丸ひろ子似で魅力的。(下は来日時の写真。)
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劉暁波氏の逝去を悼む

2017年07月14日 21時30分49秒 | 追悼
 中国の人権活動家、詩人・文芸評論家の劉暁波(りゅう・ぎょうは リウ・シャオポー)氏が亡くなった。7月13日、満61歳。僕と同年の生まれである。

 5月末に末期の肝臓がんと判ったとされ、家族が仮出所を求め、6月末になって仮出所となって病院に入院した。我々が劉氏の病気を知ったのはそれ以後で、そこへ至る中国刑務所当局の医療体制は非難されなくてはならない。もちろん、拘束そのもの、あるいは有罪判決そのものがおかしいのだが、それにしても刑務所内で受けるべき医療を受けられなかったことは明らかだ。

 もっと早い段階で釈放、国外での医療が認められなければならなかった。だけど、まあ僕もこのブログでその問題は書かなかった。アムネスティのネット署名はしたけれど。恐らく中国の非人道的対応からして、「国外移送」ができない段階まで拘束を続けたんだろうし、最後が「獄中死」にならない段階で「仮出所」にしたんだろう。だから欧米諸国が出国を要請しても、その調整ができる前に劉氏の訃報を聞くことになるんだろう…と悲しいけれど予想していたからだ。

 劉暁波氏は1989年の天安門事件の時には、国外にいた。コロンビア大学の客員研究員だった。だから、そのまま国外で研究生活を続けることもできたのである。そうだったら、今はそれなりに知られた進歩的学者になっていたはずだ。だけど、彼は祖国に戻って大きな広場に集まった学生たちのハンストに身を投じたのである。そして、全力を投じて、天安門の運動が非暴力で進められるように努めた。そして年長者グループの一員として、弾圧時に軍と交渉する役となった。

 そういう生き方を我々はできるだろうか。天安門の悲劇が起こった後も、一貫して天安門事件の死者たちの家族に寄り添ってきた。1989年以後、海外のエリート研究者から、一貫した反体制知識人として生き抜く道を選んだ。劉暁波『天安門事件から「08憲章へ」』(藤原書店)という本をかつて読んだが、彼の本質は詩人だということが判る。同書には「墳墓からの叫び」の4つの詩を収めている。

 2008年にネット上に「08憲章」を発表し、2010年2月に「国家政権転覆扇動罪」で懲役11年の判決が下った。2010年のノーベル平和賞に選ばれたが、出国して受賞式に参列することはできなかった。劉暁波氏は非暴力で言論の自由を行使しただけである。このような人を「良心の囚人」と呼ぶ。現代の代表的な「良心の囚人」が劉暁波だったけれど、日本でどれほど意識されていただろうか。

 中国は彼を「犯罪者」と公然と呼ぶ。しかし、中国は国連加盟国であり、それだけでなく安保理の非常任理事国である。「国際人権規約」を率先して守るべき国のはずだ。しかし、中国は自由権規約に署名はしたものの批准していない。(2012年段階、ウィキペディア。)そういうことがあっていいのだろうか。中国でも「政治改革」は避けられないものとある時期までは考えられていたと思う。だが、2012年に成立した習近平政権下でずいぶん保守化が進んでしまった感じがする。

 劉暁波氏は亡くなった。しかし、それほど彼の言論が怖いのか、中国当局は墓をすら作らせないようにしているらしい。劉氏を悼む自由さえ本国にない時は、歴史の中で多くの人がそうだったように、国外にいる人が語り継いでいくことになるだろう。そして、それがやがては本国をも変えていくに違いない。(一体、「我が国の法律での犯罪者」は認めないというならば、「中国共産党」は歴史の中でどのように存在しえたのだろうか。)
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