尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

映画『エンドロールのつづき』、インド版『ニュー・シネマ・パラダイス』

2023年01月30日 22時38分18秒 |  〃  (新作外国映画)
 インド映画『エンドロールのつづき』は映画に魅せられた少年を描く快作。映画と少年といえば、イタリア映画『ニュー・シネマ・パラダイス』(1988)を思い起こす。映画館に潜り込んで、映写技師の「親切」から映画を見せて貰う。パン・ナリン監督の実話だというが、まさに『ニュー・シネマ・パラダイス』である。同じように映写技師の自転車に乗るシーンもあって、影響は明らか。だけど、この映画はノスタルジックに青春を回想する映画ではない。むしろ「インドの現実」をあぶり出してしまうのである。

 サマイ少年は小さな駅でチャイを売っている。インド北西部のグジャラート州のチャララという小さな町である。父は牧場を兄弟にだまし取られて、バラモン階級の生まれなのに駅でチャイ売りをせざるを得ない。サマイが手伝っているから、学校はどうなっているんだと思うが、それはもちろん行っている。ただし、列車に乗って近隣の町まで行かないといけない。ある日、父が一家を映画に連れて行ってくれる。それは「カーリー女神」の映画だから。そして少年はその日、光のマジックに魅せられてしまった。だけど、父は映画が嫌いである。バラモン階級がやるべき仕事ではないというのである。
(サマイ一家)
 でもサマイはどうしても映画がまた見たくて、ある日学校をサボって映画館に潜り込む。見つかって放り出された時に助けてくれたのが、映写技師のファザルだった。サマイの母が作ってくれる美味しいお弁当と引き換えに映写室に入れてくれることになったのだ。インド映画定番の「歌と踊り」だが、この映画では映画館でやっている映画の中だけに出て来る。『ニュー・シネマ・パラダイス』では映画を見るだけだが、サマイは友人たちと映写ごっこをする。映画館に送られてくるフィルムが缶に入っているのを見つけて盗み出しちゃうぐらいである。(見つかって一時警察に捕まる。)
(ファザルとサマイ)
 サマイは将来映画の仕事をしたくなったが、バラモンだから父が許してくれないと学校の先生に訴える。そうすると先生は「インドには2つの階級しかない」と述べる。それは「英語を話せる階級」と「英語を話せない階級」だというのである。その頃駅で工事をしていて、父がチャイを売りに行くと「線路の拡張工事をしていて、それが終わるとチャイ売りの免許は終わり」と言われてしまう。通知しただろうと言うが、父は「英語が読めないから知らなかった」という。

 この映画の原題は”Last Film Show"である。この題名を見ると、もう一本の映画を思い出す。1972年のキネマ旬報ベストワンになったピーター・ボグダノヴィッチ監督の『ラスト・ショー』(“The Last Picture Show”)である。テキサスの小さな町に一軒の映画館。多くの思い出が詰まったその映画館がついに閉館となり、最後の映画が始まる。この時の「映画」は当然「フィルム」だった。今回「ラスト・フィルム・ショー」と題した意味はラスト近くに判明する。ある日、映画館の映写機は撤去され、デジタル上映に変わるのである。そして英語が読めないファザルは新機材を扱えずクビになってしまう。
(毎日母はスパイシーなお弁当を作る)
 サマイたちが捨てられる映写機やフィルムの行方を追っていくと、機材やフィルムがリサイクルされていく様子をまざまざと見ることになる。これは2010年の話である。インドの小さな町では昔からの生活と意識が強い。しかし、「階級上昇」のためには「英語」が必須で、そういう現実を突きつけてくる映画なのだ。(インドの場合は事実上旧宗主国の言語を共通の公用語としているから、日本の事情とは相当違うが。)インドの田舎の美しい風景、母親が作ってくれるスパイシーで美味しそうな料理。(『土を喰らう12ヵ月』の精進料理よりずっと美味しそう。)しかし、映画の中には21世紀の世界の厳しい現実が映し込まれていた。

 監督はラストに影響を受けた映画監督、俳優などを列挙している。その中には勅使河原宏小津安二郎黒澤明の名もある。そこまでちゃんと見て欲しい映画。
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『宮沢賢治ー存在の祭りの中へ』ー見田宗介著作集を読む⑦

2023年01月29日 23時12分58秒 | 〃 (さまざまな本)
 2023年最初の『見田宗介著作集』は、第Ⅸ巻の『宮沢賢治 存在の祭りの中へ』を読み直した。今回は最初に刊行された原著を読み、「補章 風景が離陸するとき」だけ著作集で読んだ。この補章は非常に興味深い論考なので、もとの本を読んでいる人でも探して読む価値がある。原著は1984年2月29日という不思議な日付で「20世紀思想家文庫」の一冊として刊行された。1991年に「同時代ライブラリー」に、2001年に「岩波現代文庫」に収録され、これは今も入手可能になっている。
(「宮沢賢治」)
 もっと後に出た本と思い込んでいたが、84年2月だったのかとまず思った。就職(83年4月)、結婚(83年10月)のちょっと後である。読んで非常に大きな感銘を受けた記憶はあるが、細部をすっかり忘れていたのも当然だ。この本は書かれてから40年近く経っているが、今も重要な意味を持っている。むしろ更に重大性を増しているかもしれない。

 宮沢賢治(1896~1933)の名を知らない日本人はほぼいないだろう。しかし「中央では認められず不遇のうちに死んだローカルな童話作家」ぐらいに思い込んでいる人も多いんじゃないか。この本は「20世紀思想家文庫」の一冊である。もっともこのシリーズはトーマス・マン(辻邦生著)、エイゼンシュテイン(篠田正浩著)、デュシャン(宇佐美圭司著)など、普通は「思想家」とみなされない人も扱っている。だが日本人としては西田幾多郎(中村雄二郎著)に続いて宮沢賢治だけが選ばれている。
(宮沢賢治)
 宮沢賢治は「思想家」だったのか。まさにその問題こそがこの本の特徴であり、魅力だと思う。先に検討した『気流の鳴る音』から真っ直ぐにつながる「解放のためのテクスト」として書かれたのがこの本である。そのことは副題の「存在の祭りの中へ」がよく示している。宮沢賢治の童話を読むと、どうして心の中を風が通り過ぎていくような感じがするのか。どうして心の中まで透き通ったような気持ちになるのか。どうして宇宙全体に魅入られてしまったような不思議な懐かしさに包まれるのか。そういう賢治文学の魅惑の秘密に迫る鍵がこの本にはいっぱい詰まっているのである。

 宮沢賢治の「童話」(少年文学)は、日本の他の作家のそれと比べても独自性が高い。それでも「銀河鉄道の夜」や「風の又三郎」などは、読んで表面的なストーリーは理解可能だろう。それに対し、宮沢賢治理解に欠かせない「」は難しい。通常の発想とは違った用語、特に仏教用語や科学用語が頻出するからである。生前に刊行された唯一の詩集『春と修羅』は、亡き妹トシ(とし子)の臨終をうたった絶唱「永訣の朝」のように理解しやすい作品もあるが、冒頭の「」など何これっていう感じだろう。

 わたくしといふ現象は/仮定された有機交流電燈の/ひとつの青い照明です/(あらゆる透明な幽霊の複合体)/風景やみんなといつしよに/せはしくせはしく明滅しながら/いかにもたしかにともりつづける/因果交流電燈の/ひとつの青い照明です/(ひかりはたもち その電燈は失はれ) (/は段落分けを示す)

 大体「わたくし」は普通の近代文学史の発想では「確固たる主体」であるべきはずだ。それが「わたくしという現象」とまず来る。自我は現象なのか。しかし、昔読んだときはよく判らなかった発想も、今読めば単なる「人類史」を越えた「地球史」「宇宙史」から見れば、人間など一時的な現象である。そもそも書名の『春と修羅』も判らないけど、同名の詩「春と修羅」の中では「おれはひとりの修羅なのだ」と調べも高く宣言する。その直前には「いちめんのいちめんの諂曲(てんごく)模様」とある。この「修羅」とは仏教にある「阿修羅」と同じなのだという。興福寺にある阿修羅像である。
(興福寺の阿修羅像)
 興福寺の阿修羅像は優しげだが、実は戦闘神である。サンスクリットの神がいかにして仏教の中に取り込まれたかには複雑な経緯がある。それは省略するが、阿修羅には「諂曲(てんごく)」という特色があり、それは「自分の気持ちをまげて人にこびへつらうこと」なのである。よく知られているように、賢治は父と確執がありながら終生「親掛かり」の暮らしを送った。宮沢賢治の生涯を父の立場から描いた門井慶喜の直木賞受賞作『銀河鉄道の父』が映画化され5月に公開される。今年は改めて賢治と父の生涯に焦点が当たる年になるだろう。(キャストは賢治=菅田将暉、父=役所広司、妹トシ=森七菜である。)

 宮沢家は花巻でも裕福な家柄で、それは家業の質屋と古着商の利益から来たものだった。困窮した農民から質に取った農地を増やして大地主にもなった。父はまた浄土真宗の熱心な信者で、毎年近くの大沢温泉に宗派内の有力者を招いて勉強会を行っていた。賢治はこの家業を恥じて、自分が店番をさせられたときは、農民の言い値で金を貸して父に叱られた。人の苦しみで利益を上げ、その金で自分は上級学校へ行く。若き賢治は耐えがたい恥辱を覚えたわけである。童話『よだかの星』などに見られる強い自罰志向、『グスコーブドリの伝記』に見られる自己犠牲的な主人公の造形は間違いなく賢治の実人生を反映している。
(小岩井農場と岩手山)
 だが賢治にとって、父は決して敵ではない。病弱な賢治を必死に看病して、その結果父親自身も病に感染してしまった。恩愛の情と家業へのいたたまれなさ。このような「アンビバレンス」(二律背反)は、我々にとっても決して無関係なものではない。例えば日本で生まれたときには、すでに過去の戦争の傷を背負うし、経済的先進国として「炭素排出量」の大きな社会に生きてきた。将来の地球環境を守るために、自らの生活水準を落とすべきなのだろうか。いつの時代でも、「恵まれた側」に生まれながら鋭敏な感性を持った人間は激しく苦悩してきたのである。

 この本は序章「銀河と鉄道」が「銀河鉄道の夜」を読み込んでいないと理解しにくい点がある。しかし、第1章「自我という罪」、第2章「焼身幻想」、第3章「存在の祭りの中へ」、第4章「舞い降りる翼」という構成は、章名を見ればある程度想像出来るような内容になっている。(著者は高校生に読んで欲しいと言っているが、それには難しいかと思うけど。)要するに著者の理解では、宮沢賢治は決して「自罰」や「自己犠牲」を倫理的に説いただけの作家ではないのだ。

 「まづもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう」(農民芸術概論綱要)はけっして「自己犠牲」を勧めるマニフェストではない。むしろアメリカ・インディアンの世界観、詩に見られるような「存在の祭り」への志向なのではないか。宮沢賢治はかくして、現在を生きるというか、むしろ「未来」を先取りしたような「思想家」として立ち現れる。「地球環境」が多くの人の意識に上るようになった、そういう21世紀にこそ相応しい「新しい思想家」なのである。そして、それは仏教(法華経)とともに、アインシュタインの相対性理論など同時代の科学の進展に支えられていた。

 補章を読んで特に興味深かった点を最後に書いておきたい。紙の上にいる虫にとっては、世界は二次元であり、紙には裏があるということを知らずに生きている。そこに油滴が垂れて紙が透明になったときに、虫も紙に裏があることに気が付くかもしれない。同じように、三次元空間を生きる我々には、四次元空間は感知できない。それでも「世界が透きとおった」瞬間には、賢治のような感覚の持ち主には四次元空間が時空を越えて感知できるのかもしれない。そのような瞬間を感じ取れた賢治の詩や童話に、「透きとおった」「風が吹き抜ける」ような魅力があふれるのは当然なのだ。(賢治ファンでなくても、また一度読んでる人でも、再び三度この本を読むことをお薦めしたいと思う。現在に必要な本だ。)
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「ガーシー」議員問題、どう考えるべきかー政党助成金削減も必要

2023年01月27日 22時48分34秒 | 政治
 2022年7月の参議院選挙で、NHK党からガーシー東谷義和)という人が出馬して当選した。個人得票で約29万票を獲得し、NHK党全体で約125万票となって1議席を獲得したわけである。もともと出馬時点で、UAE(アラブ首長国連邦)のドバイに滞在していて、選挙運動にために一度も帰国しなかった。そして、その後も2回の臨時国会に登院せず、ずっと海外にいる。1月25日に通常国会が始まっても、まだ登院していない。そこで他党からは「懲罰」という声が上がってきた。この問題をどう考えるべきだろうか。
(倒されたままの「氏名標」)
 この「ガーシー」という人を僕は全然知らない。職業は「ユーチューバー」となっていて、「暴露系ユーチューバー」なんだそうだ。芸能人や実業家のスキャンダルを「暴露」しているというんだけど、関心がないから見たこともない。政治家ならともかく芸能人の暴露なんて、週刊誌ならともかく国会議員の仕事じゃないだろう。もちろん何をしている人でも立候補出来るし、当選したら国会議員になれる。そして、この人が国会に来ても来なくても、日本の政治にはほとんど影響はしない。この人が昨年の臨時国会に出席していたら何かが変わったのか。いや、何の変わりもないわけである。

 だけど、国会法には以下の規定がある。「第百二十四条 議員が正当な理由がなくて召集日から七日以内に召集に応じないため、又は正当な理由がなくて会議又は委員会に欠席したため、若しくは請暇の期限を過ぎたため、議長が、特に招状を発し、その招状を受け取つた日から七日以内に、なお、故なく出席しない者は、議長が、これを懲罰委員会に付する。」

 国会議員が国会に出席するのは当然のことで、今回のような事態は想定されていなかっただろう。もともと国会内での「院内の秩序を乱した」場合に懲罰が想定されている。出て来ない議員にはまず一度「招状」というものが必要なのである。これに対して立花党首は「3月には来る、それまで来ない」と言ってる人に「招状」を出すなんてナンセンスといった批判をしているが、法律に規定されているんだから当然の措置だろう。国会はガーシー議員の外国滞在を「正当な理由」がないと認定している。本人は「不当逮捕の恐れ」などと弁明しているようだけど、これがまともな理由にならないのは明らかだ。
(ガーシー議員の主張)
 ところで、ニュース番組で元衆議院議員の杉村太蔵氏がこんなことを言っていた。懲罰は当然だけど、懲罰にはランクがあって重い順に「除名」「登院停止」「公開議場における陳謝」「公開議場における戒告」である。除名は最終手段だから、それに次ぐ懲罰といえば「登院停止」だけど、出て来ない人を「登院停止」にして何になるのか。なるほど、それはそうだ。

 一番最近の懲罰事例を調べてみると、2013年のアントニオ猪木参議院議員だった。許可を受けることなく外国(北朝鮮)を訪問したということで、「30日の登院停止」になっている。現行憲法になってから、除名は2回しかなく、どちらも占領期である。懲罰は圧倒的に戦後混乱期の議場内の発言、行動に対するものが多く、共産党議員に対するものが多い。その意味でも、一般論としては「多数党による少数党圧迫」になる場合もあるので注意が必要だ。与党が「問題法案」を強行採決しようとして、野党が体をはって抵抗して反対する。そういう行動が懲罰に値するとされることが多いのである。

 しかし、今回のガーシー議員のケースは全く違っている。そこで杉村氏が指摘したことは、多くの人が納得出来ないでいるのは、ガーシー議員に多額の税金が出ていることではないかというのである。なるほど、国会議員なんだから「歳費」そのものは出るだろう。しかし、国会活動をしてなくて、ドバイにいるだけなんだから、文書通信交通滞在費(月100万円)や立法事務費(月65万円)がいるだろうか。そういう費用の支払いを止めるという「懲罰」を新設するべきではないのかというのだ。言われてみれば全くその通り。本人が外国にいて国会に来ないんだったら、公設秘書だって不要なんじゃないか。

 そして、NHK党そのものも「政党助成金」を受け取っている。今回、話題になりそうな候補としてガーシー候補を立てて、目論見がうまく当たって2%以上の得票を達成した。しかし、議員活動は一人しかしてないんだから、ならば政党助成金もガーシー議員欠席中の分を返却するべきではないか。国会に出る、出ないというよりも、そっちこそ大問題。選挙の時に有名人を立て政党助成金資格を得るなんて、それこそが最大の問題なのではないか。

 ところで、仮にガーシー氏が「除名」されるか、本人が失職(または)辞任した場合はどうなるか。2位の「山本太郎」候補が繰り上がるのである。明らかに「れいわ新選組」の山本太郎党首と混同させて得票を狙おうというやり方である。それもおかしな話だ。
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「一票の格差」最高裁判決の問題点、「比例代表」に変更を

2023年01月26日 22時44分15秒 |  〃  (選挙)
 2021年の衆議院選挙における「一票の格差」訴訟で、1月25日に最高裁大法廷判決が出た。ある意味で予想されたとおりなのだが、判決は「合憲」という結論だった。最高裁裁判官15人中、14人が合憲で違憲としたのはたった一人(宇賀克也裁判官)だった。この裁判は2つの弁護士グループによって、全国16の高裁、高裁支部に申立てられた。(公職選挙法の規定により、選挙の効力を争う訴訟は高裁に提起する。)高裁判決では「合憲」が9件「違憲状態」が7件だったという。それが最高裁になると、圧倒的に政府寄りが多くなる。任命した歴代内閣は、安倍内閣が8人、菅内閣が5人、岸田内閣が2人である。

 この判断には大きな問題があると考える。それは「格差が2倍を超える」にも関わらず、「合憲」としたからだ。2009,2012,2014年の衆院選に関しては、最高裁は「違憲状態」としていた。2017年衆院選は、かろうじて最大格差が2倍以内だった。今回は最大と最小の格差が2倍を超えていたのだが、最高裁は「合憲」と判断した。明らかに基準を下げている。それは2022年の国会で「10増10減」が実現したなどと、選挙当時ではなく、選挙以後に生じた出来事を判断材料にしているのである。

 選挙の効力を争う裁判が進行中は、その選挙で選ばれた議員に欠員が出ても補欠選挙が行われない。補選は10月と4月に行われるので、本来なら7月に亡くなった安倍晋三議員の補欠選挙は昨年10月に行われたはずだが、それが延期になっている。今回4月に補選が現在のところ3件、それに加えて岸信夫前防衛相が辞任して補選になると言われているので、4つの補選が行われる予定。補選が行われるのは、山口県が2つ和歌山県が1つ(岸本周平議員が知事選に出るため辞任)、千葉県が1つである。でも山口県と和歌山県は「10減」の対象県である。つまり4月に補選をやっても、次の衆院選ではなくなってしまう選挙区なのである。
(最高裁の判断の流れ)
 まあ、最高裁判決をいくら考えても仕方ないので、今後の問題を。結局、日本は人口減少段階に入っていて、地方の高齢者が減っていき若年層はますます都市部に集中するようになる。それが良いわけではないが、そうなると予測出来る。従って、何回増減を繰り返しても「一票の格差」はまた大きくなる。選挙のたびごとに「違憲訴訟」が起きるのである。その裁判に費やす時間的、資源的なロスがもったいないではないか。小選挙制度比例代表制度には一長一短があり、完全な選挙制度はない。しかしながら、比例代表なら「一票の格差」は生じないから、結局のところ選挙制度を比例代表に変えるしか手はないのではないか。

 今まで100年以上、選挙民は「候補者の名前を書く」という選挙をやってきた。だから、今さら候補者を全部政党が決める選挙にすれば、何だか自由がなくなる感じがするだろう。だから、参議院の比例区でやっている「非拘束名簿式比例代表制」、つまり候補者名を書いても、政党名を書いてもよく、政党ごとに合計して比例で政党の当選者数を決める。具体的な当選者は、個人別得票の多い順に決める。これを衆院選でも実施する。衆参の比例区を同じ制度で行う。これしかないのではないか。それを都道府県レベルで行うか、いくつかの都道府県をまとめて「ブロック」レベルで行うかという問題は残る。(衆院議員が数が多いので、全国一律でやるのは難しい。)結局、そうするのが良いと思っている。(まあ、前にも書いてるんだけど。)
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「見事な走り」ー動詞の名詞的使用法について

2023年01月25日 22時31分12秒 | 気になる言葉
 新年になると「駅伝」のシーズンになる。ニューイヤー実業団駅伝箱根駅伝全国都道府県駅伝(女子、男子)と続く。今年は特に箱根駅伝になんと立教大学が出るという快挙があった。箱根駅伝出場を目指すプロジェクトが進んでいることは聞いていたが、来年の「100回大会」を目標にしているとの話だった。監督を務める上野裕一郎は佐久長聖高校から中央大学に進み、学生時代には箱根駅伝で区間賞を3回取っている。今年の都道府県駅伝でも長野県チームのアンカーで出場して、トップでゴールした。
(長野県チームで走る上野裕一郎)
 一方、男子の前週に開催された女子の都道府県駅伝でも、一躍注目を浴びた中学生選手が現れた。岡山県の津山市の中学生、ドルーリー朱瑛里で、中学生区間に起用されて17人抜きの快走を見せて区間新記録を達成した。父親がカナダ人ということで、近年よく見られる外国にルーツがあるスポーツ選手の一人だ。中学生で注目されたことが今後に悪影響にならないと良いけれど…。それにしても最近「岡山県」に注目が集まっている。高校サッカーでは「岡山学芸館」、男子高校駅伝では「倉敷高校」が優勝である。
(ドルーリー朱瑛里選手)
 さて、陸上競技の話をしたいのではない。駅伝やマラソンなどの中継を聞いていると、「見事な走りを見せています」なんて解説者が言っている。いつどこで誰が言ったかをメモしているわけじゃない。だけど皆が聞いたことがあると思う。「走る」という動詞の名詞形は「走り」である。だから聞いていて特に違和感を持つ表現じゃない。でも昔は言ったんだろうか? 

 僕が疑問を持つのは、陸上競技は中長距離走ばかりではないからだ。走り高跳びとかやり投げなんかもある。じゃあ、「見事な跳びでした」とか「見事な投げでした」とか言うだろうか。普通言わないだろう。野球なら「見事な打ち」、サッカーなら「見事な蹴り」とか言わないだろう。それは何故なのだろうというのが疑問なのである。

 幾つか考えられるが、野球だったら「ただ打つのではない」ということがある。投手が球を投げるが、それは直球とかカーブとかの球種がある。また、初球を打つとか一球見逃すとか様々である。打った結果はヒット、ゴロ、フライなどがあり、ヒットでもセンターヒットとか二塁打、三塁打、ホームランなどがある。だから解説の用語が複雑で、打者が見事に打ったとすると、「難しい変化球を見事にホームランにしました」なんて話になって、単に「見事な打ち」では伝えきれないのである。

 また野球やサッカーは外国発祥のスポーツだから、「見事」なときは「見事なバッティング」「見事なシュート」と使うことが多い。これは他の競技、バスケットボール、バレーボール、テニス、ゴルフなど皆同じで、主に英語で見事さを表現することが多くなる。そういうことがすぐ思いついたが、一番の理由は他にあるだろう。それは「走り」は3音で、「打ち」「投げ」「蹴り」などは2音だということだ。「見事な走り」だと「4+3」で7音になる。俳句、短歌じゃないけれど、やはり日本語表現は5音、7音が聞く方に安定感を与えるのだと思う。

 一般的にも動詞の名詞形で「2音」というものは少ないと思う。「狩り」「荒れ」「空き」などはあるが、これらはもう単なる名詞として認識していると思う。やはり「痛む」の名詞形「痛み」とか、「祈る」の名詞形「祈り」のように3音の方が耳になじんでいる気がする。全部の動詞を調べたわけではないので、これが一般的なルールとまで言えるのかは判らないけど。

 なんでこのことを書いたかというと、今までは名詞化しなかった動詞を名詞で使用する表現が多くなっている気がするのである。例えば、「ヨガの教えに通っているんだけど、やってるうちに体に気付きがあったんだよね」とかである。「教え」とか「気付き」なんて、昔は使っただろうか。こういう表現をするタイプは大体似た感じがする。言葉の使い方が雑だとかいう問題ではなく、なんかよくいるでしょう、自分が「意識高い」みたいに見せるときの新しい表現みたいな使い方。ぼくはそもそも動詞は動詞として使えば、その方がずっと耳に快いと思っている。「気付きがあった」なんて言わずに、単に「気付いた」と言えば良いのではないか。
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映画『あのこと』、「中絶」をめぐる壮絶な傑作

2023年01月24日 22時45分56秒 |  〃  (新作外国映画)
 2021年ヴェネツィア映画祭金獅子賞受賞の映画『あのこと』を見た。当初のロードショー公開はいつの間にか終わっていたが、千葉県柏市のキネマ旬報シアターでやってたので見ることが出来た。2022年のノーベル文学賞を受賞したアニー・エルノーの原作を映画化したもので、「人工妊娠中絶」が禁止されていた60年代のフランスを舞台にしている。どうしても「テーマ性」が先に立ってくる映画だが、完成度はずば抜けている。壮絶な傑作であり、多くの人に深刻な問いを投げかける映画だ。

 監督は女性のオードレイ・ディヴァン(1980~)で、2作目の監督作品。主演のアンヌはアナマリア・ヴァルトロメイ(1999~)というルーマニア、フランスの二重国籍の女優。11歳の時に『ヴィオレッタ』という映画に出て知られたというが見てない。どちらも知名度的にはゼロに近い。でも驚くべき演出力で、これは原作の持つ衝撃力に全力で立ち向かった迫力だろう。アナマリア・ヴァルトロメイはなかなか覚えられない名前だが、一度見れば目の鋭さ、「世界」に一人立ち向かう勇気と孤独に心をつかまれてしまう。驚くべき演技力で、忘れられない痛みを全身で表現している。
(大学の授業)
 アニー・エルノーに関しては、『アニー・エルノーを読んでみた』を書いたが、極力感情を切り詰めた文章が印象的だった。文教都市として知られる北部のルーアン大学で学んで、その時期のことを描いている。映画では特に言及されないが、やはりルーアン大学の話なんだと思う。小さな飲食店の両親のもとに生まれ、頑張って一族で初めて大学に進んだ。同時代の日本を考えてみても、女性が大学まで進学するのは大変だっただろう。母親をサンドリーヌ・ボネールがやっているが、本気で娘を引っぱたくシーンが印象的だった。知的、階層的な分断が親子の間に生まれつつある。
(フランス映画祭に出席した監督と主演女優)
 都市で「自由」を与えられた学生たちは夜遊びもすれば、時には性関係を持ったりもする。60年代初期で、まだまだ道徳的に厳しい時代だったが、誰かを好きになったり性的な好奇心を持つことは止められない。そしてアンヌは気付いたときには妊娠していた。当初は信じられず、頑張ってきたキャリアを捨てて母親になることは考えられない。しかし、相談した医者たちは「刑務所に行くのは困る」と相手にしてくれない。生理が来る薬だと言われて処方された薬は、後で判るけど流産を防ぐ薬だった。いろんな人に聞きまわり、自分で「流産」を起こそうとするも未遂に終わる。
(大学の友人たちと)
 原作では抽象的な存在という感じだった、大学の友人たちや(妊娠したときの)相手の男も、映画では実体を持った役者が演じるから現実感がある。男は頼りにならず、結局友人たちも頼れない。「違法」である「中絶手術」を行ってくれる医師など、普通の学生が知るはずもないし、関わりたくもない。アンヌは結局世界に一人で立ち向かうしかない。映画はずっとアンヌに寄り添い、カメラは頻繁に動き回るが、全く気にならない。むしろ一緒になって一喜一憂することになる。監督はアンヌを「自由を勝ち取るために闘う戦士」として撮ったと語っている。

 映画ならではの女子学生寮の様子、男友だちと行く海水浴、日々の夜遊びと言い寄る男たち(消防士)、大学での一斉授業など、こういうものだったのかと驚いた。寮ではシャワーを交代で浴びるしかなく、その後はタオルを巻いたまま部屋まで帰る。日本だと「風呂」がないことはあり得ないが、フランスでは共同シャワーしかなかったのである。

 「妊娠中絶」はアメリカで大きな政治問題になっている。望む妊娠も、望まざる妊娠も、あるいは望んでも得られない妊娠も、人生の一大事である。安易に語れるテーマではないが、この映画は原作を完璧に映像化していると思う。つまり、「自由」のない社会への告発なのだが、ある立場の人から見れば「安易にセックスした本人が悪い」としか考えない人もあるだろう。それにあまりにも壮絶な痛み(身体的、精神的)が描かれ続け、見たくない人もあると思う。でもこの映画が傑作であるという事実は変わらない。
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「板書」か「パワポ」か、授業のやり方の今昔

2023年01月23日 22時24分00秒 |  〃 (教育問題一般)
 「包丁一本 さらしに巻いて」と始まる歌がある。「月の法善寺横町」である。歌い出しは知っているけど、誰が歌ったのかは、もう僕の世代では知らない人がほとんどだろう。大阪の「法善寺横丁」には昔行ったことがあって、名物夫婦善哉を食べようと思ったら満員だったので、レトルトを買って帰った記憶がある。でも歌の方は「横町」と書くと今回知った。歌ったのは藤島恒夫(ふじしま・たけお)で、1960年の大ヒット曲。同年の紅白歌合戦でも歌った。

 歌は「旅へ出るのも 板場の修行」と続く。若い二人が愛し合うが、男は修行に出なければならない。「腕をみがいて 浪花に戻りゃ 晴れて添われる 仲ではないか」。日本ではドイツの石工のような遍歴職人はあまり知られていない。でも「職人」の世界には「腕一本」でどこでも生きていけるという気風があった。実際に料理を学んでから、全国各地で修行した話はよく聞く。

 料理人の世界の話を書きたいわけではなく、メインは教育の話である。朝日歌壇(1.22)に次のような短歌が掲載されていた。「板書よりパワポ画面を望まれて令和の授業は十人十色」(ふじみ野市、片野里名子)というのである。何で「月の法善寺横町」を思い出したのかと言えば、僕の時代だと教師は「チョーク一本」で授業が出来なければと教えられたからである。もっとも本当に「チョーク一本」で教室に行くことはない。出席簿教科書は最低限持たないといけない。
(「プロの板書」という本)
 黒板にチョークで字などを書くことを「板書」(ばんしょ)と呼ぶ。これは業界用語だろう。最初に聞いたときは判らなかった。まあ何となく聞いているうちに、「黒板に書くこと」なんだなと推測したのである。そして授業は板書が基本で、板書の書き方や工夫を求められた。研究授業で他の教師の板書を見ると、勉強になることも多いけど、あれ書き順が違うぞという時もある。字の上手下手もあるが、下手でもいいから丁寧に読みやすい字を書くことが優先する。だから最初は「板書計画」をノートに書いて準備することが多かった。それは確かに後でも役立つものだったと思う。

 1980年代の終わり頃から、ワープロ(文書処理機)が登場して自分も使うようになった。特に試験問題は基本的にワープロで作成するようになった。今までの設問を残しておけるメリットが大きかったのと、生徒にも字が読みやすいという点も大きい。高齢の教員は長く手書きだったので、試験問題が達筆すぎて読めないという苦情を受けたときは困った。21世紀になるとパソコンが普及して、やがて全教員にパソコンが配布されるようになった。それ以前は各教員が私物のワープロ、パソコンを学校に持ち込んで教材作りに利用していたのである。今なら問題視されるのかもしれない。

 その頃から「電子黒板」とか「電子教科書」という話題は出ていたが、現実には使いにくい。数が少ないから、何も自分が使わなくてもと思うわけだ。パワーポイントで授業をするなんて考えられなかった。自分では「地図」だけは「電子黒板」を使用してみたかった。掛地図では後ろの生徒が見にくい。それに掛地図は結構値段が高く(大きいものでは5万円ぐらいして、それを各大陸分そろえる必要がある)、学校予算上なかなか更新してくれない。21世紀になっても、ソ連が出てる地図を使ってる学校が結構あった。
(パワーポイントで黒板風に)
 それがコロナ禍で、生徒にも全員タブレット端末を配布し、授業もオンラインで行うといった時期があったのだろう。そういうのに慣れてしまうと、生徒からすると一斉授業に戻った後で「板書をノートに取る」ということが苦労に感じられるのだろうか。もう自分にはよく判らない問題なのだが、どんどん世界は変わりつつあるなあと思う。だけど、それで良いのかとも思う。「自分の鉛筆でノートをまとめる」というテクニックも、人間には必須な能力のような気もするのである。

 上位1割ぐらいの生徒は、要するにどっちでも対応出来るんだろうと思う。問題は平均付近から平均以下の生徒である。ノートを取るというのは、教師の話を聞き、板書を理解してきちんと字を書くという作業である。当たり前のようで、これはなかなか大変である。世の中で生きていく時には、パソコンやスマホよりも役立つ能力ではないか。例えば「織田信長」を読めても、ちゃんと書けない生徒がいる。アクティブ・ラーニング以前に、ちゃんと基礎用語を書ける力が要る。

 「小田和正」でも「尾田栄一郎」でもなく、「織田信成」の「オダ」。そんなことは常識だろうと思うかもしれないが、中には「小田信長」とか「識田信長」なんて書く生徒がいるのである。やっぱり「板書をノートする」というのも大事な気がする…。
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映画『ケイコ 目を澄ませて』、聴覚障害の女性ボクサー

2023年01月21日 22時43分54秒 | 映画 (新作日本映画)
 三宅唱監督の『ケイコ 目を澄ませて』の評判が高い。2ヶ月近く映画に行ってなかったけど、上映も終わりつつあるので解禁することにした。間違いなく2022年の日本映画でも出色の傑作で、特に主演岸井ゆきのの圧倒的熱演は必見。映像の持つ熱量を信じて作られた作品である。毎日映画コンクール作品監督主演女優の他に撮影月永雄太)、録音川井崇満)の技術部門2つでも受賞した。見れば判るけど、確かにこの両部門は非常に素晴らしい技量を示している。

 この映画は聴覚障害者である小河恵子岸井ゆきの)という女性ボクサーを描いている。実際に小笠原恵子という聴覚障害の女性プロボクサーがいたそうで、その自伝『負けないで!』という本を原案にしている。フィリピンのブリランテ・メンドーサ監督の『GENSAN PUNCH 義足のボクサー』という映画が去年公開されたが、そこでは義足でプロを目指す日本人ボクサーを描いていた。日本ではプロのライセンスを得られずフィリピンで練習をしているのである。その映画も実在人物をモデルにしているようだが、こちらは実際に聴覚障害のプロ女性ボクサーの話である。世の中には凄い人がいるもんだ。
(ケイコと会長)
 ケイコは東京都荒川区に育ったと最初に字幕で説明される。東京23区の北東部である。生まれつき聴覚に障害があるという。冒頭でもう試合をしていて、どのような事情でボクシングを始めたのか、それ以前の人生はどのようなものだったかなどは直接は描かれない。弟と一緒にマンションに住んでいて、昼間はホテルの客室清掃の仕事をしている。

 そんな暮らしの様子が淡々と描かれるが、そこに至った事情は判らない。2つの試合に勝って、記者が取材に来る。ジムの会長三浦友和)が答えているが、突然入りたいと言ってきて熱心に毎日通ってくる。プロになりたいのかと聞くと、テストを受けると言って合格した。学校時代はいじめられていたらしいなどと会長が答える。素質はないけど、素直なんですよという。
(ケイコと会長)
 説明的要素はほぼ会長による取材対応だけで、映画はひたすらケイコの練習、試合を映し出す。岸井ゆきのは相当にトレーニングを積んで撮影に臨んでいる。だが映画の特徴は「ボクシング映画」としての完成を目指さない。ボクサーを描く映画は多いけど、試合を重ねてチャンピオンになるか、挫折するかという経過をドラマティックに追うのが普通だ。それに対して、女子ボクサーを描く場合、「スポーツ映画」とはちょっと違うことが多い。何故ボクサーになるのか、そこへ至る孤独や絶望を扱うのである。

 まして、この映画の主人公は聴覚障害者である。主に手話で意思疏通を図っている。言いたいことが伝えられず、また周囲の会話を理解出来ない。だからコンビニでも困るし、警官に職務質問されても説明出来ない。その困惑と孤独を岸井ゆきのの鋭い目つきと鍛えられた肉体で見せるのである。圧倒的な存在感に見るものが押されてしまうぐらいだ。この「肉体」を映像として提示するわけだが、映像の原初的な迫力を思い出させてくれる映画だった。そして主人公の姿を撮影や録音が的確に捉えて映像化する。
(三宅唱監督)
 この映画は東京東部でロケされている。「荒川区出身」と出るが、むしろトレーニングをしているのは足立区の荒川土手だろう。(荒川区は荒川に接していない。荒川区が誕生した当時は今の隅田川が荒川で、新たに開かれた荒川放水路が荒川と呼ばれるようになったのは1965年のことである。)また手話で話す友人と会うのは浅草。北千住駅前と思われる映像も出て来る。会長のジムは奇跡的に空襲を免れた古い地区にあるとされる。このような東京東部の映像が映画を落ち着かせる役割を果たしている。

 監督の三宅唱(1988~)は世界で注目される若手有望監督の一人である。商業映画としては『きみの鳥はうたえる』があった。脚本は三宅唱と酒井雅秋。ケイコの弟をやってる佐藤緋美は浅野忠信とCHARAの子だそうである。ケイコの母が中島ひろ子、会長の妻が仙道敦子と懐かしい顔ぶれが演じている。なお、アカデミー賞を取った『コーダ』は聴覚障害者が当事者を演じていたのに対し、この映画では健常者が演じている。近年は民族性、性的指向、障害などで「当事者性」を重視する傾向が強い。それも必要だと思うけれど、「俳優」には自分と違う役柄を演じる演技力が求められる。当事者性を強調し過ぎると、人を殺したことがある人しかギャングを演じられないなんてバカげたことになりかねない。
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当然の無罪判決、東電旧経営陣「強制起訴訴訟」

2023年01月20日 22時57分23秒 | 社会(世の中の出来事)
 あまり書きたくないなあと思うんだけど、こういう記事を書くのも自分の役割(の一つ)かと思う。1月19日に東電旧経営陣に対する強制起訴裁判の控訴審で、東京高裁の判決が出た。一審に続き無罪判決だったが、僕に言わせればまことに当然の判決である。その「当然」である理由を書いておきたいのである。この判決に対し、朝日新聞社会面では「市民感覚とずれている」という被害者(双葉病院入院患者の遺族)の声を大きく掲載している。もしこの判決が「市民感覚とずれている」んだったら、そういう「市民」が「裁判員」を務めて大丈夫なんだろうか。(なお、この裁判は「業務上過失傷害事件」だから裁判員裁判の対象ではない。)
(「不当判決」との訴え)
 一応前提として書いて置くが、2011年3月11日の東日本大震災による大津波で、福島第一原子力発電所の全電源が喪失してメルトダウンの大事故が起きた。この地震の前に、それまでの地震予測よりもっと大きな津波が予測されるという新しい知見が出ていた。それを東電も、また日本政府も重大視しなかったわけである。この点については沢山の情報をウェブ上でも得られるので、ここでは省略する。そのような経過に関しては争いがない。ここまで読むと、確かに「市民感覚」では「あの時、津波対策をしていれば良かった」と思う。だが、ここでの真の争点はその対策見送りが、刑法上の「業務上過失」に相当するかどうかである。
(テレビニュースから)
 上記テレビニュースの画像にあるように、「長期評価の信頼性」を「刑事裁判は認めず」「株主代表訴訟は認める」「避難者訴訟は判断せず」と違いがある。これを「民事裁判と刑事裁判で違って良いのか」という人がいる。もちろん、違って良いのである。何故なら、というのもバカバカしいけど、刑事裁判と民事裁判では違うのである。私人間の争いである民事訴訟では、相手側より少しでも有利な証拠を提出すれば勝てる。それは簡単に言ってしまえば「51対49」でも良い。刑事と民事で違った判断になったケースはいっぱいある。日本じゃないけど、アメリカのO・J・シンプソン裁判が有名である。

 しかし、刑事裁判は国家権力と個人の争いだから、絶対的な証拠が求められる。「51対49」ではほとんど差がないから「疑わしきは罰せず」である。「100対ゼロ」の証拠がなくてはいけない。今回の場合であれば、当該役員の任期中に「ほぼ確実に大津波が来る可能性」の立証が求められる。それは極めて難しいだろう。というか、不可能だ。毎年のように起こる集中豪雨の被害と違って、10メートルを超えるような大津波は千年レベルの出来事である。そうすると、確かに事前に対策を講じていなかった経営判断、それを見過ごした政治責任は非常に重いけれど、刑法上の責任があると判断するのは僕の常識では非常に難しいのである。

 判決の前にあるテレビ番組で「市民感覚に沿った判断を望みたい」というコメンテーターの発言があった。これは困ったなと僕は思ったのである。裁判官は「市民感覚」などではなく、「憲法と法律」のみに沿った判断をして貰わないと困る。法律は国会が制定するわけで、国会は全国民の選挙で選ばれた国会議員によって構成される。従って、法律の制定(改正)は国民のコントロールのもとにある。これが議会制民主主義であって、裁判官が法を越えて「市民感覚」で裁いてはいけない。
 
 なお、それ以前に今回は控訴審であって、一審を覆す証拠取り調べが行われずに早期に結審していた。従って、当然「無罪」判断の継続が予測されたのであって、マスコミは事前にそういう解説をする必要がある。それは判決の評価とは別である。だけど、「判決がどうなるかは判らない」というのは、明らかにミスリードである。司法記者は無罪の記事しか準備していなかっただろう。

 ところで、今回の裁判は「検察審査会」が2回にわたって「起訴相当」を議決した場合は、強制的に起訴されるという仕組みによって起訴された。しかし、この制度が2009年に出来て以来、「明石花火大会事故」「JR西日本福知山線事故」「小沢一郎政治資金規正法違反事件」など重大な裁判が行われたが、以上の裁判は皆無罪か免訴だった。小さな事件で有罪もあるが、ほとんど無意味な制度になっているのではないか。ただし、裁判になって新たに判明した事実もあるとされる。

 僕はこの制度は基本的にもう止めた方がよいと思っている。何でかというと、検察審査会は検察官が不起訴にした事件の記録を調べる権限しかないからだ。強制起訴出来る強大な権限があるというのに、被告発人及びその弁護士が反論する場がない。検察官が取り調べた記録を見るだけである。これは「被告人の弁護権」の観点から、非常に大きな欠陥だと思う。そこでどうしたらよいのかは、昔書いたけど10年以上前だから覚えている人はいないだろう。改めて簡単に書いておくと、「付審判請求制度の拡大」である。

 「付審判請求」は最近あまり聞かないから知らない人が多いだろう。警察官の拷問など(特別公務員暴行陵虐罪)は検察に告発しても、検察官が警官を呼んで形式的な取り調べをして終わる可能性が高い。そこで直接裁判所に審判を求めることが出来るのである。「付審判請求」を裁判員制度対象裁判にして、あらゆる不起訴事件の申し立てをできるようにする。申立てられた人はもちろん弁護士を立てて対抗出来る。そこで正式裁判を行うかどうか、裁判官に裁判員が加わって判断するわけである。こういう制度に変更する方がずっと良いのではないか。
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小説家加賀乙彦の逝去を悼む-「長編小説」と「死刑問題」

2023年01月19日 22時52分10秒 | 追悼
 小説家、精神科医の加賀乙彦(本名小木貞孝=こぎ・さだたか)が1月12日に亡くなった。93歳。僕はこの訃報を18日の朝刊を見て初めて知った。最近似たようなことを何回も書いているが、朝刊を見る前にテレビのニュース番組やパソコン、スマホのニュースを見ていた。全部見たわけではないから確実ではないけれど、少なくともすぐ気付くようなポータルサイトには訃報が載ってなかったと思う。これは非常にまずいだろう。加賀乙彦のような重要人物の訃報を落とすなんて、ニュースサイトや番組を編集している人の「教養」に問題があるのである。それは日本の文化力の低下を示している。

 小説家としての業績は後に回して、まず「死刑制度」の話から書きたい。死刑制度の存廃は世界的に重大な問題で、アムネスティやEU(欧州連合)は日本政府に対し早期の死刑廃止を要望してきた。主要先進国で死刑制度を維持しているのは、日本とアメリカ合衆国だけである。死刑制度にどういう意見を持つかはともかく、そういう世界的な状況を知っていれば、死刑問題の世界的重大性を理解するはずである。そして死刑制度に少しでも関心を持てば、加賀乙彦の本を読むことになる。

 加賀乙彦が小説家に専念する前は、精神科医小木貞孝だった。そして東大助手を経て、若い頃に東京拘置所医務官を務めた。1957年にフランスに留学するまで勤務し、その間東拘に収容されている多くの死刑囚と交流を持ったのである。特に「メッカ殺人事件」と呼ばれる事件(1953年に東京新橋のバー「メッカ」で強盗殺人事件の死体が発見された事件)の死刑囚・正田昭(しょうだ・あきら)と深いつながりを持った。正田は獄中でカトリックに入信し、小説を書くようになった人物である。

 医務官としての体験から、小木名義の学術書『死刑囚と無期囚の心理』(1974)が書かれた他、一般向けに加賀名義で中公新書から『死刑囚の記録』(1980)が刊行されている。これは名著であり、死刑制度について実証的に考えるための必読書だ。そこで得られた結論は死刑制度がいかに残虐なものかということである。加賀乙彦は人生の最晩年に至るまで、死刑囚の表現展(平野啓一郎『ある男』、及び石川慶監督による映画化作品に出てくる展覧会の実際のもの)の文芸部門選者を務めていた。死刑廃止集会で何度も選評を聞いているし、講演も聞いた。この加賀乙彦と死刑問題との関わりはもっと知られるべきだ。

 次に小説家としてだが、加賀乙彦は芸術院会員であり、2011年に文化功労者に選出された。しかし、日本学術会議と日本学士院の違いを知らないジャーナリストがいたぐらいだから、日本芸術院も知らない人が多いんだろう。文化勲章文化功労者の相違も知らない人がいる。加賀乙彦は生涯で谷崎潤一郎賞日本文学大賞(現在は廃止)などの日本最高レベルの文学賞を受けている。しかし、それらは知らず、純文学作家の賞と言えば芥川賞しか知らないという人が結構いるのではないか。加賀乙彦は芥川賞は受けていない。一回「くさびら譚」という短編で候補になったが、ほとんど無視された。1968年前期は丸谷才一年の残り」と大庭みな子三匹の蟹」という強敵がいたのである。

 それ以後、芥川賞の候補にもならなかったのは何故か。それは加賀乙彦は基本的に長編作家、それも大長編を書く小説家だったからである。芥川賞は基本的に文芸雑誌に掲載された短編(一部は中編)小説を対象にする。加賀乙彦はそんな日本の文壇慣習には囚われず、自分の書きたい小説を書き続けた。西欧近代小説に範を取った大ロマンこそ加賀文学である。だけど、文庫でも分厚くて何冊にもなる、しかもテーマは戦争とか死刑とかの重い小説を実際に読んだ人は少ないだろう。そういう小説家は日本では少ないが、いないわけではない。同じく同人雑誌「文芸首都」に拠った辻邦生である。ただ辻邦生は歴史に材を取った大ロマンが多いのに対し、加賀乙彦は自伝的作品が多いという違いがある。

 僕も持ってるけど読んでない本が多いので、以下は簡単に。留学体験をもとにした『フランドルの冬』(1968、芸術選奨新人賞)で知られ、1973年の『帰らざる夏』(谷崎潤一郎賞)で陸軍幼年学校時代の体験を描いて認められた。そして前期の代表作『宣告』(1979)で日本文学大賞を受賞した。これは先に述べた死刑囚正田昭をモデルにした作品で、死刑囚の世界に本格的に取り組んだ日本文学史上稀有な作品である。この本は初版本を持っているけど、読み始めて挫折した珍しい本だ。まだ学生だった自分にとって、実際の殺人者がいっぱい出て来て、モデルの人物は最後に死刑を執行されると知っている本は重すぎたのである。それ以来40年以上経ってしまったが、今なら読み切れるだろう。
(『宣告』上巻)
 『錨のない船』(1982)は日米戦争下に生きた外交官(来栖三郎)を描く大作。『湿原』(1985、大佛次郎賞)は朝日新聞に連載された冤罪と新左翼テロ事件を題材にした作品で、珍しく連載をちゃんと読んでいた。非常に面白く出来映えが良いと思うが、最近は入手しにくいようだ。さらに『ヴィーナスのえくぼ』(1989)、『海霧』(1990)、『生きている心臓』(1991)などを著した。1987年にカトリックの洗礼を受け、その後に『高山右近』(1999)、『ザビエルとその弟子』(2004)など日本のキリスト教史に取り組んだ。しかし、この間に書かれた真に重要な作品は他にある。

 それは『永遠の都』『雲の都』という自己の家族を題材にした大長編である。『永遠の都』は当初は『岐路』(1988)、『小暗い森』(1991)、『炎都』(1996)として刊行されたが、1997年に文庫化されたときは全7巻に改めて分けられた。題名で判るように戦前・戦中期を描き、空襲で終わる。加賀乙彦の祖父は医者の家で、医者一家の大河小説という点で北杜夫『楡家の人々』を思い出させるが、こちらは遙かに長大である。僕はこれを文庫になったときに買って、ある年の夏休みにまとめて読んだ。もう寝食を忘れて読みふけるという言葉が相応しい面白さ。多くの人物が生き生きと描かれ、家族の後ろに「東京」の歴史が浮かぶ。
(『永遠の都』文庫版第1巻)
 長すぎて読んでない人が多いと思うけど、これは間違いなく戦後日本文学の重要なな達成である。しかし、その僕でも続編である『雲の都』(全5部、2002~2012)はまだ読んでない。ついに文庫化されなかったのである。加賀乙彦は本来、この畢生の大長編を読んで評価するべき小説家である。だから、なかなか大変。でもいつかチャレンジしたいと思ってはいる。それだけの充実した時間は確実に得られるからである。本気になって取り組むべき本は多いものだ。
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ぼくの好きなパスタソースの話

2023年01月17日 23時03分15秒 | 自分の話&日記
 ぼくの大好きなパスタソース。どうでもいい話なんだけど、自分にとっては大問題。なぜなら自分の好きなパスタソ-スを最近スーパーで見かけないからだ。じゃあ食べられないかと言えば、通販で買うから大丈夫なんだけど、それではいずれなくなってしまいそうだ。少し宣伝しておかないと。それに「パスタソースから見える世界」というものもある。

 その前に「パスタ」とは何か。テレビ朝日で時々やってる「ニンチドショー」を面白く見てるんだけど、あるとき「これをなんと言うか」という年代別調査があった。明らかに「スパゲッティ」の画像を見せて、それを高齢層は「スパゲッティ」と呼び、若い層は「パスタ」と呼ぶというのである。しかし、それは本来はおかしい。

 「パスタ」には間違いけれど、画像は明らかにマカロニペンネリングイネフェットゥチーネなどではなかった。パスタは総称だから、スパゲッティと答える方が正しい。うどんか蕎麦か問われたときに、「麺類」と答えるのがおかしいのと同じ。さらに言えば、広義では小麦粉の生地を使ったピザやフォカッチャなどもパスタと呼ぶことがある。なお、イタリア語の「pasta」は、英語のペーストやフランス語のパテなどと共通の語源(ラテン語)から来ているそうだ。

 僕は基本的に土日は朝昼兼用でパスタを食べる。(スパゲッティがほとんどだが、ペンネのこともある。)夜は家で和麺(蕎麦かうどん)を食べる。もともと麺類が好きで、朝昼晩全部麺でも良いという「三麺主義」をモットーにしていた。(これは孫文の「三民主義」のもじりだが、一応自分で説明。)最近は中麺(ラーメン)はほとんど食べなくなったが、和洋は今も大好き。(今書いていて思ったけど、外食でラーメンを食べなくなったのは、年齢もあるけど他に丸亀製麺があちこちに出来たことが大きいな。)

 自分で作って食べることにしてもう20年ぐらい経つ。自分で作れば、自分仕様で大辛に出来る。昔はソースから作った時もあるが、最近は面倒なので市販のパスタソースを使う。食べ方を読むと、ソースを温める必要もなく、ただ茹でた麺にからめて食べれば良いと出ている。でもぼくは必ず「一手間」加える。最近はタマネギマッシュルームが多い。これも昔はもっと加えていた。ツナなどを加えると、グッと美味しくなるんだけど、最近はカロリーを考えてしまうのである。

 ぼくは「タマネギを炒める」のが好きで、パスタよりもタマネギがむしろメインかも。タマネギを炒めていって、やがてちょっと茶色くなってくる。つまり「メイラード反応」。味噌に付けたズボンの褐色変化をめぐって、袴田事件の再審の争点になっている反応である。鈴木清順監督の『殺しの烙印』で宍戸錠が炊飯器で炊けたご飯の香りが大好きという変な役をやっていたが、ぼくの場合はタマネギを炒めてメイラード反応に至る匂いが、なんとも言えず幸福感をもたらすのである。

 さて、そろそろ本筋の話。そういうことでぼくが買うパスタソースは、スーパーのパスタコーナーに並んでる「一人用×2」または「一人用」のものが多い。だけど、コロナ禍が始まると「おうち時間」とやらで、家族多数が一度に食べられる大きなビンなどに入ったものが棚に並ぶようになった。そのため一人用があっという間に少なくなった。消えないのもあるが、それは主に「キューピー」か「青の洞窟」(日清製粉)で、僕がよく買っていた「オーマイ」(ニップン=旧社名日本製粉)が最近少ない。

 特に「芳醇チーズクリーム」をどこの店でも見ないんだけど。ぼくはこれが一番好きで、わざわざ通販で買うぐらい。その名の通り、チーズが好きな人向けで、店では食べたことがない味。でもチーズ好きなら絶対ハマると思う。次に「コク旨ガーリックトマト」のコクとガーリックもこたえられない。これは近くのイトーヨーカドーに生き残っているんだけど、なんと店の方が近く閉店になってしまう。トマトとバジルを合せて楽しめる「マルガリータ」というのも最近できて、これもなかなか。オーマイでは「和パスタ好き」とうたったソースは比較的今も残っていて、「ゆず醤油」なんかはぼくも時々食べている。
  
 次に「キューピー」の「あえる」シリーズ。確かに和えるだけでも美味しいけど、そこに一手間加える方が間違いなくずっと美味しい。それより、キューピーのシリーズはかなり完成されていて、パスタの「味変」だけではもったいない。他の料理の素材に使えるから、いろんなメニューを自分で試して紹介出来るんじゃないか。特に「ミートソース フォン・ド・ヴォー仕立て」は確かに美味しい。パスタソースで一番ではないか。でも「完熟トマト仕立て」というミートソ-スもあって、これを置いている店は少ないけど、スパゲッティを食べるという目的なら、こっちも捨てがたい。どっちが上か悩むぐらい質が高い。また、これもあまり店にないんだけど「ペペロンチーノ」も出ていて、最近ぺぺロンチーノではこれが一番かもと思うようになった。
  
 エスビーとかハコネーゼとか、実に様々置いてあって、品揃えの移り変わりも激しい。そんな中で、「青の洞窟」だけ簡単に。「ジェノベーゼ」はなかなか良いけど、ホントは美味しいバジルソーズは他にある(けど高い)。「ペペロンチーノ」も美味しくて、キューピーとどっちが好きかは、その時の気分(今はキューピーでいいかなという気分)。箱入りの「ボンゴレ・ビアンコ」も美味しい。が、箱入りは一人前だから、値段的な問題がある。
  
 以上ザッと見て、「カルボナーラ」がないけど、僕は好きじゃないから自分では作らない。「ナポリタン」も別にトマト味はいっぱいあるんだから、自分でナポリタン、つまりケチャップ味にする必要がない。「アラビアータ」は大好きだけど、自分で何でも激辛にするんだから、あまり意味がない。それに市販のアラビアータはどうしても、今ひとつだなあと感じることが多い。ということで、単なる個人の感想です。食べない人には意味ないけど、美味しいソースは汎用性が高いと思う。
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ブラジリアと首都移転した国々をめぐって

2023年01月15日 22時50分38秒 |  〃 (歴史・地理)
 2023年1月8日にブラジルで、約4000人のボルソナロ前大統領支持者が大統領府や国会議事堂を襲撃する事件が起きた。2年前の2021年1月6日に起きた、アメリカの国会議事堂襲撃事件を思い出してしまう。かつてカール・マルクスが「歴史はくりかえす。ただし、一度目は悲劇、二度目は喜劇として」(『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』)と述べたのも思い出した。
(ブラジルの国会襲撃事件)
 もっとも「選挙結果を認めない前大統領」が「二度目」なのと同時に、今回当選した左派のルーラ大統領も2度目である。2003年から2010年に大統領を務め、その後就任中の汚職事件で実刑判決を受けて収監されていたが、2019年11月に釈放された。その後、2021年になって、最高裁がこれまでのすべての判決を無効化したことによって、2022年の大統領選に出馬が可能になったのである。ボルソナロとルーラと一体どちらが悲劇であり、どちらが喜劇なのか、まだ歴史の判定に待つしかないだろう。

 ところで今回書こうと思うのは、首都ブラジリアの話である。そこは計画的に整備された人工都市で、移転された首都だったことは有名だ。それ以前の首都はリオデジャネイロだったが、50年代に移転計画が進行して1960年に移転が実現したのである。それは非常に有名な話だが、60年以上も経って「当たり前」になってしまい意識することも少なくなった。移転当時は「何もない」と言われていたが、現在はサンパウロリオデジャネイロに続く、人口300万を超えるブラジル第3の大都市になっている。
(ブラジリアの国会議事堂)
 ブラジリアは標高1100メートルの高原のほとんど何もない荒野を切り開いて作られた都市で、建築家ルシオ・コスタによって設計された。今回は首都中心の「三権広場」に人々が集結し、その周囲に建設された国会議事堂、大統領府、最高裁判所が襲われた。これらの公共建築は、ニューヨークの国連ビルを設計したことで知られるブラジル人建築家オスカー・ニーマイヤーが設計した。このブラジリアは何と1987年に世界遺産に登録されている。世界には歴史地区が世界遺産に登録されている首都はたくさんあるけど、ブラジリアのように建設から30年ほどしかない都市が世界遺産になったのは他にはない。

 ブラジルのように首都を移転した国は世界にはかなりある。というか、日本でも「首都機能移転」が議論されてきた。長い不況が続き、もう議論は終わったかのような感じだが、一応まだ正式に終わったわけではない。もっとも国会である程度ちゃんと議論されたのは20世紀の間で、小泉内閣以後は次第に尻つぼみになって、今は国交省内の担当部局も廃止され専任の担当者はいないのだという。かつては移転先候補として「栃木・福島」「岐阜・愛知」、候補可能性のある地域として「三重・畿央」まで絞られたなんて、もう覚えていない人がほとんどだろう。

 今回は世界で首都が移転した国を見ておきたい。歴史では「昔の教科書と今の教科書はこんなに違う」なんて時々テレビでもやるぐらいだが、案外「地図の知識」は昔のままという人がいる。日本では都市が合併して名前が変わった所が多い。世界でも国がなくなったり、名前が変わったところがある。今でも「チェコスロバキア」があると思ってたり、うっかり「ウクライナを攻めるなんて、ソ連はひどい」なんて口走る人も世の中にはいるのではないか。

 ブラジルと同じく、1960年に首都を移転したのがパキスタン。パキスタンそのものがインドから分離独立した人工国家だが、初めは最大の港湾都市カラチが首都だった。ブラジルが首都を移転したのは内陸部の開発を考えてのことだが、パキスタンも同じように北部に新しく首都を建設した。かつてはサイドプルという小都市だったらしいが、そこに「イスラマバード」(イスラムの町)という宗教的色彩のある都市名を付けた。現在は近隣のラワルピンディと結びついた大都市圏を構成している。イスラマバード自体では人口100万ほどで、パキスタンでは11位の都市になるという。
(イスラマバード)
 もっともブラジルとパキスタンは首都移転から60年以上経つので、僕の時代に学校で使った地図もすでに変更済みだった。だから、むしろ「以前の首都」を知らない人の方が多いかもしれない。それに対して、以下の国々は知らない人もいるかもしれない。知らなくても生きていけるけれども、社会科教員なら知っておきたい。身近にいたらクイズに出して見ると面白いかも。

 まずスリランカである。そもそも国名も1978年に変更したもので、以前はセイロン(島の名前)。首都は最大都市コロンボだったが、1985年にスリジャヤワルダナプラコッテに移転された。これは長くて覚えられない首都名として有名。僕は何とか覚えたけど。英語で表記すると「Sri Jayawardenepura Kotte」で、「スリ・ジャヤワルダナプラ・コッテ」となる。意味は「聖なる・勝利をもたらす都市・コッテ」で、もともとのコッテに美称を加えた。しかし、当時の大統領ジャヤワルダナの名前がすっぽり入っていて物議を醸した。コロンボ南東部にあって、都市機能としては同一地域とみなして良い。
(スリジャヤワルダナプラコッテ)
 次にアフリカのナイジェリア。アフリカ最大の人口を持つ国で、かつて1967~70年に悲惨なビアフラ内戦が起きた。その後も軍政とクーデタが頻発し、近年は北部でイスラム過激派の攻撃が問題化している。最大都市のラゴスがかつての首都で、今もそう思っている人が多いのではないか。1991年に中央部のアブジャに首都を移転し、中心部の設計を丹下健三が担当した。人口は100万ほどで、ラゴスは800万ぐらいある。ナイジェリアは巨大国家で、ブラジルと同様に首都を中央部に移すのが移転の目的だろう。
(アブジャ)
 次は中央アジアのカザフスタン。ソ連崩壊後に独立し、地名もカザフ読みに変えた。それまでの首都アルマアタはロシア語で、それをアルトマイに変えた。今も最大都市である。アルトマイは南部にあるので、1997年に北部のアスタナに移転した。アルトマイは地震が起きやすいという理由もあったという。人口118万ほどで第2位。首都機能の設計は黒川紀章が担当した。一時はナザルバエフ前大統領の名前から取った「ヌルスルタン」に変更されたが、ナザルバエフの失脚後に元に戻された。
(アスタナ)
 案外知らないのが、ミャンマーの首都移転。昔は「ビルマ」で、首都は「ラングーン」(現在はヤンゴン)だったが、そのまま覚えている人が多いのではないか。今までの各国と同じように、国土の中心部に近いところに首都を置くということで、2006年にネピドーに移転された。ここも人工首都で、やっと人口が100万を越えたようだが、まだ整備は途中らしい。というか、軍政で行政中心部は一般人立ち入り不可という話もあって、普通の意味の首都とは言えない。下の写真はヤンゴンにあるパゴダを模した建築。
(ネピドー)
 さて、今まではすでに移転した国々だが、次に首都を移転する国がインドネシアである。2024年に移転予定だが、今後どう進むだろうか。これは人口最大のジャワ島から、カリマンタン島東部のヌサンタラに移転予定だが、ここでも国土の中心部に移すという意味がある。インドネシアの政情は必ずしも安定しているとは言えず、今後どうなるかは非常に注目される。
 (ヌサンタラ)
 そもそも「首都」とは何か。首都が最大の経済都市じゃない国はかなり多く、アメリカ合衆国やカナダ、オーストラリアなども、政治的事情で決定された「政治都市」を首都としている。しかし、この3国とも移民国家。ヨーロッパの主要国では歴史的に形成された経済、文化的な中心都市が同時の首都となっていることが多い。日本もその中に入るだろう。

 歴史的に形成された「ロンドン」「パリ」などの首都は移転しにくい。今までの例を見ても、発展途上国が首都を移転することが多い。民主政治が定着していると、あちこちの反対が飛び出してくるので難しい面もあるだろう。日本もかつては「平城京」から「平安京」、そして「東京」へと遷都したが、今後は難しいのかもしれない。
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フェルディナント・フォン・シーラッハ『刑罰』を読む

2023年01月13日 22時34分30秒 | 〃 (ミステリー)
 映画などへは行かず時事問題も書いてないから、書くことが尽きてきたけど本の感想なら書ける。(ちなみに時事問題を書いてないのは、ウクライナ戦争や日本の防衛政策大転換など、とても一回では終わらない大問題で、今集中して取り組める精神的余裕がない。)ドイツのフェルディナント・フォン・シーラッハが書いた『罪悪』(創元推理文庫)を読んだ。この人に関して、今までここで書いたかなあと思って探してみたら、『映画「コリーニ事件」、法廷ミステリーでドイツの過去を直視する』(2020.6.22)を書いていた。シーラッハ原作の『コリーニ事件』の映画化をコロナ禍に見ていたとは、自分でも忘れていた。

 フェルディナント・フォン・シーラッハ(1964~)という人はドイツの弁護士である。非常に有名なドイツを代表する弁護士の一人らしい。その人が2009年に『犯罪』という本を出した。掌編と呼ぶべき短編が11編入った作品集である。ドイツでクライスト賞を受賞したが、それはヘルタ・ミュラー(ノーベル賞受賞者)や多和田葉子も受けている賞である。一方、日本では東京創元社から翻訳(酒寄進一訳)が出され、年末の各種ミステリーベストテンで2位に選ばれるなど、「ミステリー」として受容された。そして、その後『罪悪』『コリーニ事件』『禁忌』などを続々と発表して作家として地歩を固めた。
(フェルディナント・フォン・シーラッハ)
 今回読んだ『刑罰』(2018)も「創元推理文庫」から刊行されている。翻訳は2019年に出て、2022年10月に文庫になった。この本は『犯罪』『罪悪』に続く作品集で、一応ミステリーと言えるけど普通の意味のミステリーとは全然感触が違う。先に挙げた映画の原作『コリーニ事件』(2011)はある程度「法廷ミステリー」的な作品になっているが、『犯罪』『罪悪』『刑罰』の三部作は「ミニマリズム・ミステリー」とでもいうか、感情描写には踏み込まず犯人当てもなく、ただ事実を淡々と綴るのみである。ただ、それがものすごく面白い。謎解きではなく、犯罪を通して見えてくる人生が心に沁みるのである。

 難しいところはどこにもなく、誰でもすぐに読める。でも、こういう本は今まで読んだことがないと思うだろう。ここに書かれている「事件」は著者が弁護士として体験したことだろうか。もちろん違うだろう。直接自分が担当した事件を小説にするのは、弁護士としての倫理に反する。しかし、法廷で見聞きしてきたことのエッセンスは間違いなく小説の中に生かされている。確かにこういう人生は存在するだろうという、自分や隣人のことが書かれている気持ちがする。今回は特に「孤独感」、人生中で孤独がいかにその人を蝕んでしまうかを描く作品が多い。

 最初に置かれた「参審員」、2番目の「逆さ」、さらにトルコ系ドイツ人女性が弁護士になる「奉仕活動」など、法律の意義を問い直すような作品が多い。裁判はもちろん「法律」に基づいて行われるもので、人間の真実をあぶり出す場ではない。人間として「有罪」であっても、法廷では「無罪」になることもあり得る。やむを得ないと言えば、その通りである。しかし、その裁判の結果、大きな過ちがもたらされた場合はどうなのか。「法の限界」があることをこの本は静かに告発している。つまり、この本は題名の通り「刑罰」を考えさせるのである。

 法廷が下す「刑罰」よりも重いものは、自分が自分に与える「自罰」だろう。ここには自分で自分の人生を罰するような、閉じられた生を生きる人々が数多く登場する。彼らは我々の隣人であり、また自分の中にも住んでいる。多くの人がそのように思うのではないか。そして彼らが静かに人生を送っている限り、「犯罪」に関わるはずがない。だが、静かな生活が周囲の人々によってかき乱される時、思わぬ形で彼らが犯罪の「被害者」だけでなく「加害者」にもなってしまう。人生の恐るべき秘密をこの本は淡々と語るが、事実のみを提示するだけの作品が読むものの心に染み通っていく。

 『犯罪』『罪悪』は図書館で借りて読んだこともあって、ここでは書いてなかった。短い作品が集まって、読みやすいから、出来れば順番に読む方が良いと思う。何故なら『刑罰』の一番最後にある「友人」という作品はやはり最後に読むべきものだと思うから。その作品は感触としては事実がベースになる気がする。プライバシーに配慮して変えてあるところが多いだろうが、実際の知り合いを描いているのではないか。そこで思うのは「人生いろいろ」だという当たり前のことなんだけど、自分の人生を振り返ってしまう本である。なお、著者の祖父にあたるバルドゥール・ベネディクト・フォン・シーラッハ(1907~1974)という人は、ナチス時代の高官でヒトラーユーゲント(ヒトラー青少年団)の責任者だった。「フォン」がつく家柄では珍しい。戦後のニュルンベルク裁判で禁錮20年を宣告されたという。ウィキペディアでは孫よりも遙かに長く記されている。
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石原慎太郎『わが人生の時の時』ーホモソーシャルな世界

2023年01月11日 22時39分57秒 | 本 (日本文学)
 石原慎太郎わが人生の時の時』(新潮文庫)を読んでみた。最近はいつ中断しても大丈夫なように、新書や短編集を読んでいる。この本は40編の短編というか、むしろ掌編というべき文章を集めている。1990年に刊行され、その後文庫版が品切れになっていたが、2022年7月に「追悼新装版」として復刊された。題名は普通には意味不明だが、まあ「わが人生の決定的瞬間」とでもいう意味だろうと思って読むと、なるほど確かに決定的な時の中でも特に重大な瞬間を切り取った文章が集められている。

 成り立ちが面白い。80年代半ばにヨーロッパで反核運動が盛り上がった時時に、日本から取材で西ベルリンに派遣された。そこで同様に反核運動を取材に来ていた旧知の大江健三郎に出会った。かつて50年代には同志だった関係も、その時は核問題には正反対のスタンスである。しかし、「スクーバダイビング」の話になって、オキノエラブウナギという猛毒の海蛇のことを話したら、大江氏が面白がって暇な折に書き残して「新潮」の坂本編集長のような親しい編集者にあずけておいたらと言ったという。それが作中の「まだらの紐」に描かれていていて、確かにシャーロック・ホームズシリーズの「まだらの紐」を思わせる姿だ。
(エラブウナギ)
 この本はかつて福田和也(文芸評論家)が『作家の値うち』で最高点の96点を付けたという。また豊崎由美、栗原裕一郎『石原慎太郎を読んでみた』(中公文庫)の中で、小川榮太郎(安倍晋三本で論壇デビューした文芸評論家)が絶賛していると書かれている。このような保守論客に絶賛される作品とはどのようなものなのか。確かにこの中の半分ぐらいの作品はなかなか良いと思う。特に「落雷」の中で海上に雷が落ちる様子はすさまじい迫力。半分ほどの作品はヨットダイビングの世界で、そこには「大自然の神秘」や「生命の危機」があって粛然として読むことになる。

 特に小笠原諸島南島がいかに素晴らしいかは印象的。自分で調べてみたが、ここは個人では行けない。父島から出発する団体ツァーに参加するしかない。だけど、その気になれば行けるところである。そのように自然、特に海の神秘については、なかなか読ませる。文章もキビキビしているのだが、しかし、やがてどことない違和感も感じてしまった。「ヨット」というスポーツは誰でもやったことがあるというものではない。そこでヨットのレースに参加して、こんな凄い体験をしたんだという「俺様」意識が何となく匂って来るのである。それは「石原慎太郎」という名前に先入観があるためだろうか。
(南島)
 そして気付くんだけど、ここには「ヨットでともに苦労する男たち」しか出て来ない。まあ多少は他の人も出て来るし、弟や子どもも出て来る。しかし、本質的な意味で重要な意味を持って出て来る女性は一人もいない。ここで出て来るのは「女のいない男たち」ではない。石原慎太郎は『太陽の季節』で芥川賞を受賞する直前に結婚している。だけど妻子を置いて、ヨットレースに出掛けているわけである。そして男だけの「ホモソーシャル」(「男の絆」の同質的世界)に生きている。そこで凄い体験をするわけだが、どうしてもそれを語る時の「ナラティブ」(語り)には「俺様」感がにじみ出てくるのである。

 そう思って読み進めていくと、やっぱりなと思う文が出て来る。「人生の時を味わいすぎた男」という作品で、何しろ「私はホモといわれる男たちにはアレルギー的反応を示すたち」と始まるのだから凄い。「興味がないだけでなく、どうにも好きになれない」んだそうだ。江戸川乱歩にゲイバーに連れて行かれて往生した話が延々と続く。どこかで聞きかじった「同性愛が2割、完全な異性愛が2割」などという説を信じて、自分はその完全な2割だというのである。残りの6割がバイセクシャルということになり、ゲイバーなどに出入りしていると「ホモ」に近づくとでも思っているのか。同性愛でも異性愛でもいいけど、「アレルギー的反応」を起こすのは差別意識があるからだと今なら誰でも思うだろう。

 その直前にある「骨折」も凄い。ヨットで骨折した話が主眼なのだが、その前に高校時代の思い出を語る。あるとき、「気の合った仲間で作っていたサッカーチーム」で試合をやった。その後に「私がいい出して」、ラグビーボールも持ってきていたので「いい加減なルールでラグビーの試合をやった」。寒い日で、いくら走っても体が暖まらない。「いい出しべえの癖に私はひそかに自戒して」、「スクラムとかモールとか、何かと危険な仕組みの多いラグビーはこの際ほどほどにやっておくことにした。」しかし、ちゃんとやってた友人が骨折してしまい、完治するまで3年もかかり、一生走れなくなってしまったというのである。

 嫌な話だなと思ったし、読んでいて石原慎太郎も嫌なヤツだなと思った。自分で言い出して始めた遊びのラグビーで、自分は手を抜いて他の友人が大けがをする。そういう話があったら、テーマは「罪悪感」になるはずだと思うが、それが全く描かれない。「そういうこともあるさ」的な感慨で終わって、すぐに自分の骨折話に移るのである。これがどうやらこの人なんだと思う。怪談的な話も多く、そういう超自然的なことを信じているのかも。それは作品的には面白いのだが、どう考えるべきか判らない。そもそもフィクションなのかもしれないが、一応「私」の語りは「自分の体験」をもとにして書かれている体裁になっている。
(石原裕次郎と北原三枝の結婚式)
 特に不思議なのが「ライター」。弟の結婚の直前に裕次郎と北原三枝を中心に水ノ江滝子の家でパーティをしたそうだ。その時に「海に落としたライター」を謎の女性が届けに来る。当時スチル・カメラマンだった斉藤耕一(後に映画監督になって「約束」「旅の重さ」などを作った)も出て来て、確かにあれは海に沈んだと証言する。何だかよく判らないけど、当時の映画界の証言にもなっていて興味深い。一番最後の「」は長いけれど、弟の死期を見つめた作品でさすがに重いものがある。面白いのも、そうじゃないのも混じっているが、まあ取りあえず石原慎太郎の「時の時」を理解するためには役に立つ。
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佐藤蛾次郎、絵沢萌子、あき竹城他ー2022年12月の訃報②

2023年01月09日 22時18分50秒 | 追悼
 2022年12月の訃報。日本の「芸能人」を中心に、その他の人々をまとめて。佐藤蛾次郎が12月9日に死去、78歳。一人暮らしの自宅を訪問した長男が浴室で風呂に入ったまま動かなくなっているのを見つけて救急車を呼んだという。それが10日午前のことで、結局死亡時刻は9日と判断された。佐藤蛾次郎と言えば、『男はつらいよ』シリーズの「源公」(帝釈天の寺男)だというのが一般的だろう。確かにその役は印象的だが、それより1970年の日活映画『反逆のメロディー』も忘れがたい。多くの映画、テレビドラマに出たが、端役でありながら忘れがたい俳優だった。料理が得意で、自分でスナックを開店して芸能人が多く集まっていたというが、コロナ禍で2020年で閉店していた。『男はつらいよ』のロケではよくカレーを作って振る舞っていたという。
(佐藤蛾次郎)(源公)
 絵沢萌子が12月26日に死去、87歳。1972年に神代辰巳監督のロマンポルノ作品『濡れた唇』で圧倒的な存在感を発揮して名前を覚えることになった。これがポルノ会社になった日活が案外頑張っているじゃないかと評判を呼ぶ最初だっただろう。その時すでに37歳。それまでは舞台を中心に、映画も新藤兼人監督『強虫女と弱虫男』に出ていたと今回ウィキペディアで知った。ロマンポルノ映画に数多く出演しているが、何と言っても『赫い髪の女』が最高だと思う。その後も数多くの映画、テレビに出ていて、特に70年代から90年代頃の名作には大体脇役で出ていた印象がある。『祭りの準備』『竹山ひとり旅』『復讐するは我にあり』『マルサの女』などだが、中でも印象的なのは『月はどっちに出ている』。主人公姜忠男の母親役で、「北」に住む息子のために見つからないようにお金を箱に入れるシーンがあった。
(絵沢萌子)
 あき竹城(たけじょう)が15日死去、75歳。日劇ミュージックホールのダンサーで山形弁のトークが評判を呼んで、テレビに出るようになり、さらに映画にも出た。今村昌平監督『楢山節考』に緒形拳の後妻役で出演して地位を確立した。その後も大河ドラマなどで活躍したが、やがて山形弁でトークする面白おばさんといったキャラでヴァラエティ番組で大活躍した。2年前からガンで闘病していたというが、秘密にしていた。
(あき竹城)
 水木一郎が6日死去、74歳。数多くのアニメでテーマソングを歌い「アニソンの帝王」と呼ばれた。『マジンガーZ』を初め「仮面ライダー」シリーズ、『宇宙海賊キャプテンハーロック』などだが、僕には知らないアニメが多い。2002年からは中日ドラゴンズ応援歌「燃えよドラゴンズ!」も歌っていた。知ってる人にはものすごい思い入れのある人らしいんだけど、僕は知らない人の方。僕の頃は高校生、大学生になったらほとんどアニメを見なかったもので、世代が一つズレているのである。
(水木一郎)
 高見知佳が12月21日に死去、60歳。この訃報には驚いた。2022年7月の参院選で愛媛選挙区から立憲民主党推薦で立候補していたからである。その時は自覚症状はなく、11月に痛みを訴えて診療を受けたところ子宮ガンだったという。もともと愛媛県新居浜市出身で、2018年に離婚してから帰郷し、母の介護をしながらタレント活動もしていたという。84年に「くちびるヌード」が資生堂のCMソングに選ばれ人気になった。映画『蒲田行進曲』では銀ちゃんが小夏を捨てて付き合う女を演じていた。その後はテレビの司会をするなどの仕事が多かった。2001年にメキシコ系アメリカ人と結婚し、一時は沖縄でメキシコ料理店を経営していた。
(高見知佳)
 江原真二郎が9月27日に死去していた。85歳。50年代後半に東映映画で活躍し、その後テレビ、舞台でも活動した。もともと京都で育ち、東映撮影所に出入りするうちスカウトされた。今井正監督に見出され、『』『純愛物語』に主演した。これは1957年のベストテンで1位、2位である。また中原ひとみと共演して親しくなり、60年に結婚した。子どもが二人いて、72年から82年に、一家でライオン歯磨のCMに出演したことで知られた。家城己代治監督の『裸の太陽』(1958)が一番良いと思う。また内田吐夢監督の宮本武蔵シリーズでは、吉岡清十郎を演じた。テレビへの出演も大体は20世紀のことだったので、若い人は名前を知らないだろう。
(江原真二郎)
 志垣太郎も3月5日に死去していた。70歳。70年代に甘いマスクで人気を得た俳優である。70年のNHKドラマ「男は度胸」で天一坊役で出演。71年の「おれは男だ!」で森田健作のライバル役で人気となった。大河ドラマや「水戸黄門」など多くのテレビドラマに出演する他、ヴァラエティ番組でも活躍した。
(志垣太郎)
 60年代の東宝映画で活躍した藤山陽子が11日に死去。80歳。オール東宝ニュータレント1期生に選ばれ、1961年の『大学の若大将』でデビューした。上品な顔立ちで令嬢役などで活躍、若大将シリーズ、社長シリーズなどに出演した。映画よりも、テレビ「青春とはなんだ」「これが青春だ」などの青春学園ドラマの教師役で人気を得た。67年に結婚を機に引退した。
(藤山陽子)
花井幸子、10月1日没、84歳。ファッションデザイナー。64年に独立して、68年に銀座に「マダム花井」をオープンした。全日空を初め多くのデパート、学校などの制服を手がけた他、『宇宙戦艦ヤマト』の衣装デザインにも関わった。
岸本健、4日没、84歳。スポーツ写真家。東京五輪からソチ五輪まで夏冬のすべての五輪を取材した。66年にスポーツ写真集団「フォート・キシモト」を設立した。
島袋宗康(しまぶくろ・そうこう)、9日没、96歳。元参議院議員。沖縄社会大衆党委員長から、92年に参院選に出て当選。96年に再選された。
笠浩二(りゅう・こうじ)、14日死去、60歳。元ロックバンド「C-C-B」のドラマー、ヴォーカル。89年の解散後は熊本県南阿蘇村に移住して農業をしながら音楽活動を続けていた。2016年の熊本地震で被災し、復興支援プロジェクトを呼びかけた。
常磐津英寿(ときわづ・えいじゅ)、15日死去、95歳。三味線演奏家。常磐津節の奏者として人間国宝に指定。
福田喜重(ふくだ・きじゅう)、16日没、90歳。染色工芸作家。97年に刺繍でただ一人の人間国宝に指定された。
田中裕二、17日死去、65歳。バンド「安全地帯」ドラマー。
湯浅勇治、17日没、66歳。指揮者。元ウィーン国立音大准教授。30年にわたってウィーンで教え多くの後進を育てた。ウィーンで死去。
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