goo blog サービス終了のお知らせ 

尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

テザ 慟哭の大地

2011年07月28日 21時55分21秒 |  〃  (新作外国映画)
 「テザ 慟哭の大地」というエチオピア映画。どうせならもっと早く見て書けばいいんだけど、いつも終わりそうになってやっと見る。東京の公開は明日まで。(渋谷シアター・イメージフォーラム)大阪、京都で秋に公開とあります。まあ、映画は残るのでどこかで見る機会があれば是非見てください。僕は感動しました。2008年のヴェネツィア映画祭審査員特別賞、脚本賞受賞作。

 小国の映画はよく見るし、ブログでもタイやマレーシアの映画を紹介してきました。あまり接することがない国の映画は意識して見るようにしてきました。社会科教員として地理や政治経済の教材と言う面もあったけど、それより知らない国の文化に接すること自体が喜び。それに監督や俳優の名前も知られてないのに公開されるとしたら、それだけでも何か見どころがありそうだという勘が働きます。この「小国の映画を見る」ことについては、また別の機会に考えてみたいと思います。

 エチオピアは人口8千万で「小国」とは言えないけど、世界に知られた文化と言う面ではほとんど知られていないと言っていいでしょう。僕も今までに見たエチオピア映画は1本だけ。それは「テザ」と同じハイレ・ゲリマ監督の「三千年の収穫」という映画で、プログラムで映画評論家(日本映画大学学長)の佐藤忠男さんが書いてるように、1984年に国際交流基金が行った「アフリカ映画祭」で上映され佐藤さんが激賞していたので見に行ったわけ。それ以後この監督の名前も忘れていたけど、アメリカで大学教授をしながらアフリカ人の立場で映画を作り続けていたのでした。

 この映画で忘れられないのはエチオピア現代史のあまりに苛酷な現実で、少しは知っていたけど驚くべき出来事の連続で、恐ろしい。西北部のタナ湖というところ(監督の生地の近く)の美しい映像も印象的だけど、全体的には激動の現代史の壮大な叙事詩。そういう映画は好きなので、見入ってしまいました。中国や台湾、パレスティナや南アフリカ、ポーランドやハンガリーなどの厳しい現代史を映像を通して知って衝撃を受けるということが今までに何回もありました。未だ世界に知られていない母国の悲劇を世界に伝えるときに、映像の力というものはいかに大きな力を持つか。改めて強く感じました。エチオピアは世界最古の帝国と言われ、アフリカで植民地にならなかった国。ファシズム・イタリアの侵略を受け毒ガス攻撃を受けます。独立回復後は世界最古の皇帝、ハイレ・セラシエの独裁の下、大土地所有制度が続きます。74年に軍部クーデタで皇帝は退位させられ、社会主義独裁の軍部政権になります。(70年代になってからマルクス、エンゲルス、レーニンの顔写真が大きく町に張り出される国ができていたとは知りませんでした。)その後、各民族の反乱がおこり内戦が続き、ソ連崩壊後、何度かの変化を経て今は連邦制。北部のエリトリアは独立しました。そういう事情は詳しく知らなくても見れると思いますが。

 と言っても、これは政治映画ではありません。自分の世代を主人公にして20年くらい前の革命の時代を振り返っているけれど、その作り方はまさに巨匠の技、骨太の演出と編集でじっくり見せます。自分の生まれた村(まだ呪術的な迷信がはびこっている)、留学先のドイツ(自由はあるがドイツ人からは人種差別を受ける)、革命下の首都アディスアベバ(留学から戻るが恐怖政治の真っただ中)を描き分けつつ、どこにも居場所がない主人公の彷徨が描かれます。革命も恐ろしいけど、村も遅れてるし、西欧には受け入れらない。主人公は心身に傷を負い村に帰るが、そこに心の拠り所を見つけることはできるだろうか…?
 というあたりで、つまりエチオピアの知識人の問題だと思って見てたけど、これは世界の知識青年すべてに関わるテーマだと分る。

 「テザ」とはエチオピアの主要言語アムハラ語で「朝露」「幼児期」の二つの意味合いを持つ単語だそうです。これ、いいですね。プログラムから。「太陽と水と炎 流浪するひとりの男 忘れられない過去 そして記憶 激動の70年代を背景に、20年にわたるエチオピアの光と影がうずまく」。エチオピアの音楽が良かったですね。前にチェコと言えばチャスラフスカと書いたけど、僕にとってエチオピアと言えば、もちろんアベベ・ビキラ。ローマ、東京でマラソンで連続金メダルを取った「哲人ランナー」。明日は東京五輪の話を。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

追悼・原田芳雄

2011年07月19日 21時30分18秒 | 追悼
 原田芳雄の訃報が伝えられた。71歳。今月11日に主演映画「大鹿村騒動記」(阪本順治監督)の試写会に車イス姿で参加したという話が伝えられて病気だということは知っていたけれど…。
 原田芳雄は僕らの時代のヒーローだった。70年代の僕のお気に入りの映画にはみんな原田芳雄が出ているんじゃないか、という感じだった。(いや、萩原健一もあるかな。)思えば、三船敏郎や石原裕次郎だって、時代に反逆する若者のヒーローとして出てきたわけだが、60年代末にはもう偉くなって大企業の幹部なんかを演じる役者になりつつあった。

 あの疾風怒濤の時代には、あらゆる分野で文化革命があったが、特に演劇や映画など生身の身体を抜きに存在できない芸術では、まったく新しいタッチの身体性を持った俳優が求められた。その一人が原田芳雄で、黒木和雄監督「竜馬暗殺」という今見ても前衛ムード満々の素晴らしい映画で竜馬を演じた。今までいろいろな人が竜馬を演じているが、ここまで生き生きしたというか、男がむんむんするというか、時代の中で悩みをかかえた男のムードが出ているのはないのではないか。

 元々は俳優座養成所出身で、清水邦夫の伝説的な第1作「狂人なおもて往生をとぐー昔、僕たちは愛した」を俳優座がやった時には、ばってきされて主演で出演している。しかし、新劇でやっていける人ではなかったのだろう、71年に中村敦夫、市原悦子らと俳優座を脱退する。その頃から、アウトローや反逆者を映画で演じて、圧倒的な存在感を示した。藤田敏八、黒木和雄、鈴木清順、若松孝二、森崎東ら独自の世界を描く、くせのある監督と組むことが多く、僕にとってもっとも身近な男優だった。

 僕にとって身近な感じがするのは、TBSラジオの深夜放送「パック・イン・ミュージック」で故・林美雄の担当時によく出演して歌をうたっていたから。石川セリ(原田も出ていた藤田敏八「八月の濡れた砂」の主題歌を歌っていた。この番組で井上陽水と同時に出演したのがきっかけで結婚)、山崎ハコ、荒井由美(現・松任谷由美)らが続々と出演するというすごい番組で、聞いていた人に与えた影響はとても大きかったと思う。

 最近の人は歳取った原田芳雄しか知らないわけだが、やはり若い時の方が思い出にある。映画を振り返れば、「赤い鳥、逃げた?」「祭りの準備」「ツィゴイネルワイゼン」「スリ」などが素晴らしいと思う。井上ひさしの名作を黒木和雄が映画化した「父と暮らせば」などもうまいには違いないし、心に響くんだけど、こういう役が原田芳雄に向いてるわけではない。それより望月六郎監督「鬼火」(1997)という映画が僕は忘れがたい。これは出所して堅気になり恋人(片岡礼子)もできたのに、ヤクザとしてしか生きていけない男の悲しさ、さびしさ、やるせなさを全身で表現している。こういう世界こそ原田芳雄しか演じられない境地で、最後までアウトロー魂を持ち続けた役者だったと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヤスミン・アフマド監督の映画②

2011年07月15日 21時10分01秒 |  〃 (世界の映画監督)
 マレーシアの女性映画監督、故ヤスミン・アフマドは6本の長編映画を残した。
 ラブン(2003)
 細い目(2004) 東京国際映画祭最優秀アジア映画賞
 グブラ(2005) マレーシア・アカデミー賞グランプリ
 ムクシン(2006)
 ムアラフ 改心(2007) 東京国際映画祭アジア映画賞
 タレンタイム(2008) 

 最初の4本が「オーキッド4部作」で、オーキッドという少女の年代記。オーキッドは妹の名前だそうだ。次の「ムアラフ 改心」は宗教をめぐる討論の映画で、実に興味深い。遺作になってしまった「タレンタイム」は、高校生の音楽コンクールを描く青春映画でエンターテインメント色が一番強く、本人も意気込んで作ったらしい。母方の祖母が日本人だったそうで、次回作は能登出身の祖母の人生を描く「ワスレナグサ」という題でシナリオも作られていたという。

 各映画を簡単に寸評すると、
 一番最初の「ラブン」はプライベート色が強く、実験映画的なエチュード。
 続く「細い目」が最初の傑作で、涙なしに見られない切ない青春映画の大傑作
 「グブラ」はオーキッドの結婚生活を描くが、「細い目」を受けた続編的作品。
 「ムクシン」はオーキッドの10歳の初恋を描く、瑞々しい映画で痛快。
 「ムアラフ 改心」は、宗教と民族をめぐるメッセージがこめられた問題作。
 「タレンタイム」は、考えさせると共に、切々と心に響く青春映画の傑作で、是非一般公開されて欲しい素晴らしい作品。

 「細い目」は、マレーシア映画で初めてマレー系少女と華人系少年の恋を題材にした映画だという。ムスリムの少女が場末の中華料理屋でデートする場面もある「超問題作」である。(「豚を食べる場所」にムスリム少女が出入りする場面があるのは、厳格なムスリムにとっては許せない場面だろう。)この二人がどうして出会うかと言うと、主人公オーキッドは大の香港映画ファン、「金城武大好き」少女で洋服箪笥を開けると金城武の写真で一杯。町で出あったビデオ売りの華人青年ジェイソンと映画の話題で盛り上がるという設定である。好きな映画はジョン・ウーの「男たちの挽歌」で、ジョン・ウーはハリウッドに行ってダメになった、とか…。このあたり、ヤスミン自身の映画への愛情があふれた名場面であると思うし、自伝的な背景があるのかもしれない。
 二人は携帯電話で連絡を取り合う。もし、携帯電話がなければ、これほど生活環境の違う二人が連絡を取り合うことは不可能だったろう。そういう意味で、全世界の恋愛事情を変えてしまったケータイの登場を考察した映画ということもできる。
 もちろん、二人の恋は障害にぶつかる。民族を超えた恋愛は、切ない思いとともに、果たしてどういう結末を迎えるのだろうか・・?マレーシアの教育事情が分からないので理解しにくい場面もあるが、ヤスミンは、二人を初め家族それぞれを寄り添うように描き、決して大げさではなく、静かに見守る。主人公オーキッドを演じたジャリファ・アマニは、この映画で新人賞を受け、以後ヤスミン映画の主人公を演じ続ける。フランソワ・トリュフォー監督映画のジャン・ピエール・レオのような存在。すごい美人という感じではないが、はつらつとして、忘れがたい素晴らしい女優である。

 ヤスミンの映画には、マレー系、華人系、インド系などを問わず、伝統にとらわれたまま、心を閉ざして生きる不幸な人々、不幸な家庭がたくさん出てくる。特に、家父長制の「伝統」の下で、抑圧される女性、虐待される子供たちの姿が描かれている。
 一方、オーキッドは「ムクシン」では、10歳の少女にして、女子のグループが嫌いで男子と遊んだり、男の子と木登りするような痛快なお転婆少女に描かれている。両親が仲良くピアノを弾く場面が「グプラ」のラストに実写で出てくるが、実際にヤスミンの両親は開かれた心の持ち主で、仲の良い家庭だったらしい。それがヤスミン映画の原点なのだと思う。

 「ムアラフ 改心」では、父親の虐待を逃れてきた姉妹が、カトリックの華人青年教師と知り合いになる物語である。姉は宗教に詳しく、シンガポールの大学で宗教社会学を学びたいと思っている。そういう設定で、コーラン、聖書、アウグスティヌスなどの言葉がとびかう、あまり今までにみたことがない宗教討論映画になっている。こんな映画が世界にはあるのか、というような映画である。また、この映画を見ると、宗教の違いより、親の虐待の方がはるかに大きな問題であるとよくわかる。

 遺作となってしまった「タレンタイム」は、忘れがたい「学園祭映画」である。学園の講堂に電気が灯って映画は始まり、電気が消えていって映画は終わる。世界中のすべての人の心の中にある「学校と言う特別な場所」の懐かしさを呼び起こす、素晴らしい映画の始まりと終わり。マレーシアの教育事情が良く判らず理解しにくい設定も多いが、高校が終わって大学に行くまでの間の学校があるらしい。そこで、音楽、舞踊などのコンクールがある。「今年で7回目」という設定。それが「タレンタイム」で、これがマレーシアで一般的な言葉かどうかはわからない。
 その大会をめざす何人かの若者群像を描く。一人はマレー系の少女メルーで、メルーを送り迎えする役を学校から命じられたのが、インド系の少年マヘシュ。どうして送り迎えを他の生徒がするのか不明だが、それはともかくこの二人が恋に落ちる。今度はマレー系とインド系の恋、なのだ。さらにこのマヘシュは聴覚障害という設定で、せっかくのメルーの歌も彼の心に届かない。

 一方、マレー系の少年ハフィズは、母親が病気で毎日通っているが、自作の歌を歌ってタレンタイム優勝を目指す。この歌が素晴らしい。さらに華人少年の二胡演奏、インド系少女の舞踊などがあり、それぞれの家族関係が描かれる。ハフィズや華人少年もメルーが好きらしい。このように青春音楽娯楽映画という枠組みの中で、マレーシアの様々な現実が描かれる。ここでは書かないが、青春の忘れられない1頁を映像化した忘れがたい名場面がいくつもある。

 ヤスミンの映画には、会話や現実の音を消して、主人公を(大体は恋人同士や家族の戯れ)クラシックの演奏の中で叙情的に見つめる短い至福のシーンがよくある。人生の素晴らしさ、世界の美しさを圧倒的な映像美と音楽で描き出す。「タレンタイム」では、ドビュッシーの「月の光」が使われているが、そういう場面も忘れがたい。

 何と、美しく切ない、青春の映画だっただろう。電気が消され、学校は閉まり、映画は終わる。が、人生は続いていく。世界も続いていく。ヤスミン・アフマドがいない世界が・・・。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヤスミン・アフマド監督の映画①

2011年07月14日 21時03分54秒 |  〃 (世界の映画監督)
 マレーシアの女性映画監督故ヤスミン・アフマドの特集上映が東京渋谷のユーロスペースで16日から一週間にわたって行われるので、その紹介をする。

 ヤスミン・アフマド 1958~2009.7.25 
 6歳で見た「座頭市」に衝撃を受け、イギリス留学を経て、CMで活躍。自分の家族を題材に長編劇映画を撮り始め、6本の作品を残した。ヤスミン・アフマドというマレーシアの女性監督が映画祭で評判になっているということは、数年前から聞いていた。しかし、一本も一般公開されないまま、2年前に急逝してしまった。僕は昨年東京のアテネフランセ文化センターで長編6本を見る機会があった。とても鮮烈な印象を受けたので、多くの人に知って欲しいと思っている。

 世界文化の辺境とも言えるマレーシアの地で、民族や宗教や性別にとらわれない人間の豊かな生き方を示したヤスミン・アフマドの映画。敬虔なムスリム(イスラム教徒)だった女性が東南アジアでそういう映画を撮り続けていたのである。僕たちは、9・11以後のもっとも大切な映画作家を失ってしまったのではないかと思うのである。

 具体的な映画の紹介は次に回し、今日はまずマレーシアという国の紹介から。世界地理は今の生徒の苦手とするところだけど、中でも東南アジア諸国は皆が苦労するところ。日本との関係も深いし、是非知っておくべきだと思うが、マレーシアと言われても場所もよく判らない人も多いだろう。特にマレー半島南部とカリマンタン島北部の両方にまたがる国家と言うことが理解を難しくさせている。その上、社会的、歴史的に複雑な東南アジア社会の中でも、もっとも複雑な民族構成の社会と言ってもよいのが、マレーシアである。

 「マレーシア」という国家自体が、1963年にマラヤ連邦とシンガポール、カリマンタン島北部のサバ、サラワクというイギリスが支配していた領域が合邦して成立した「人工国家」である。オランダ領だったところは「インドネシア」としてすでに独立していたわけだが、当時のスカルノ大統領はマレーシア独立をイギリスの新植民地主義として非難し対決政策を取り、一時インドネシアは国連を脱退したぐらいである。その後、1965年にシンガポールがマレーシアから離脱して独立。1969年5月には、マレーシア史上最大の事件と言えるマレー系と華人の民族衝突が起こり、大きな衝撃を与えた。その後、プミプトラ政策(マレー人優先政策)が取られている。

 人口2750万ほどのうち、マレー系が65%、華人系が25%、インド系が7%と言われる。マレー系はマレー語だが、かつての支配言語の英語を話せる人が多い。華人系は広東語と福建語が多いが、北京語(官話)を話せる人も多い。もちろん、英語を話せる人も多いし、華人の英語国家シンガポールとは仕事や結婚でつながりが多い。インド系はゴムのプランテーション労働者だったタミル系が多いので、タミル語が中心。宗教的には、マレー系がイスラム教、華人系が仏教、インド系がヒンドゥー教だが、各民族ともキリスト教徒がいるし、インド系のイスラム教徒もいる。こういう民族、言語、宗教の「ごった煮」状態なのがマレーシアという国なのである。

 複雑な社会を反映して、映画の中では「マレー語社会」が描かれてきたと言う。華人系は香港映画をみるし、インド系はタミル語のインド映画を見る。従って、多数派のマレー系のためのマレー語映画が「マレーシア映画」という市場を形成し、当然マレーシアの複雑な民族問題は描かれない。そういうようなマレーシア社会に関する知識がある程度はないと、ヤスミン・アフマドの映画はよく理解できない部分があるだろう。

 そんな中で作られたヤスミン・アフマドの出世作「細い目」こそは、マレーシア映画で初めてマレー系少女と華人系少年の恋を題材にした映画なのである。映画の中で広東語がいっぱい出てきて、字幕もつく。映画自体が切ない青春映画の傑作だけど、設定自体がマレーシアではそれまでありえないような映画だったのである。では、具体的な映画作品の紹介は次に。 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

水戸巌さんを思い出す

2011年07月07日 23時31分28秒 | 追悼
 今日はレイトショーで「土佐の一本釣り」を見ていて遅くなった。銀座シネパトスという東銀座の地下にある、地下鉄の音のする映画館。1980年作品で青柳裕介の漫画の映画化。というか、田中好子(スーちゃん)追悼特集。有名な漫画だけど当時は見てないので、今見るとあまりのマッチョな展開にびっくり。主人公純平役のデビュー新人加藤純平という男の子が、誰か昔の生徒に似てるんだなあ、誰だっけということで悩んでしまった。一生懸命思い出そうとして、途中でふっと思い出した。

 こういうことが時々あるんだよね。生きて来てずいぶんいろんな人にあったけど、その大部分は生徒として教室で接した相手だ。若い時にベテランの先生が、昔の生徒の名前はよく覚えてるんだけど、最近の生徒の名前はすぐ忘れるんだよねなどと言ってるのを聞いた。そんなものなのかと思っていたけど、自分も歳取ってみるとやはりそれは正しかった。

 今まですいぶんいろいろな人に会った中で、「すごい人」と言えば誰だろうか?自分の直接の先生とか同僚だった人は除く。それより「ちょっと会った人」、国木田独歩の「忘れえぬ人々」のような人を歳とるとよく思い出すし、そういう思い出が自分の財産のような気がする。

 何と言っても僕が会った一番すごい人は、野口体操を始めた野口三千三(のぐち・みちぞう)さん。朝日カルチャーセンターの野口体操に通ったことがあって、すごい人だったと思う。

 もう一人が水戸巌(みと・いわお)さん。昔教員になる前、アムネスティの死刑廃止グループなど死刑廃止関係の集まりに顔を出していた時がある。その時、いつも中心になって活躍しているおじさんがいた。その人が「みとさん」という人で、新左翼系の学生運動の救援を行っていた救援連絡センターを作った人だという。そういうすごい人で、「過激」な人かと思うと、実に穏やかにして実務的、若い人に交じって偉ぶらず一緒になんでもやるというような人だった。そのうち、この水戸さんという人の本職は芝浦工業大学教授で、東大の理学部を出た放射線物理学の大家にして反原発運動家だという話を聞かされた。思った以上にすごい人だった。

 水戸さんの名前を最近よく聞くようになった。反原発の「不屈の研究者」小出裕章さんが「恩師と呼べる数少ない一人」と言っている人だからだ。なぜか扶桑社から出てる「原発のウソ」にそう書いてある。(118頁)水戸さんが長く取り組んだ反原発運動がこのように再び盛り上がるときに、水戸さんの名前が思い出されるのは当然だろう。

 しかし、水戸さんが一生懸命取り組んだのは死刑廃止運動もあった。こちらの活躍も振り返って思い出しておきたいのである。アムネスティで取り組んだ国会議員署名活動などでも、一緒に国会議員会館を回った思い出がある。いつもエネルギッシュで、笑顔でみんなを引っ張っていた。さらにすごいなと思ったのは、私立の高校生が文化祭の研究発表で死刑問題を取り上げた時に、実に熱心に若い人の疑問に楽しげに応じていたこと。それに応えた高校生も立派な報告書を作った。当時はまだガリ版刷りの時代である。今も探せばその報告書は僕の家のどこかにあると思うけど、そういう地の塩のような活動が大事なんだなあと今になると思い出すのである。

 僕は水戸さんの私生活は何も知らなかったので、もうずいぶん前になるが1987年正月の新聞に載った雪山遭難の記事で水戸さんの写真を見たときは、本当にびっくりした。双子の大学生の子どもと毎年冬山へ行っていたのだそうだ。北アルプスの剱岳である。ちょっと前の映画で「剱岳ー点の記」というのがあった。日本地図で最後に残った場所である。日本百名山最難関の山と言われる大変なところである。冬山の救援なんて僕にはできないから、心配して見ていただけだったが、水戸さん親子はついに戻らなかった。1986年12月30日のことという。

 四半世紀たってみると、それが水戸巌と言う人の生き方だったんだと思うしかない。
 その最期の鮮烈さこそが一番の思い出となって多くの人に忘れがたいイメージを残した人。ほんのちょっとした触れ合いだったけど、反原発運動家にして死刑廃止運動を含む救援運動家だったある大学教授の名前を知って欲しいと思って書きました。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

刑事裁判の転換点?―捜査の「可視化」の実現を

2011年07月04日 20時34分26秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 陸山会事件の公判で、東京地裁は石川知裕衆議院議員や大久保元秘書らの捜査段階の供述調書38通のうち11通を「任意性がない」として検察側の証拠請求を却下した。6月30日付決定。

 これは大変重大な決定だと思うが、ある程度刑事司法の流れを知ってないと、理解が難しいかもしれない。私たちが何か事件に関係すると(加害者、被害者、目撃者などなど)、検察または警察(司法警察員)による取り調べを受け、「調書」が作られる。調書というが、不思議なことに「担当の事務官がまとめた一人称の文書」になっている。(取り調べた書なんだから、問答体でなければおかしい。)

 ところで、それで「自白」すれば即有罪というわけではもちろんなく、裁判の法廷で証人尋問、本人尋問などがある。本来そちらが優先するはずが、公判で「私は無実」と主張すると、検察側が「取り調べ段階では自白していた」といって、供述調書を出してくる。そして、その調書を証拠請求する。それを裁判所が証拠に採用して、初めて有罪、または無罪の根拠とできるわけである
 その取り調べ調書を証拠採用するためには、その調書が「任意に」、つまり本人の納得する形で、拷問や長時間の取り調べや脅迫や誘導(認めればカツ丼食わせる、タバコ吸わせるなど)がなくて作られたものでなくてはならない。大体、冤罪事件では長時間の取り調べや脅迫みたいな言動があるわけで、被告・弁護側はそう主張するが、証人として検察官や警察官を呼ぶと「いや、素直に供述に応じました」「自白してさっぱりした顔をしていました」とか平気で言う。偽証をしている場合も多いと思うけど、本気で犯人と思い込んでるとなんでも反省に見えてしまう場合もあるのだろう。悔し涙を流せば「反省の涙」、ウソの自白をして落ち込んでいれば「犯行を後悔している」と見えたりする場合もあるのだろう。

 刑事訴訟法319条になんとあるかと言えば、「強制、拷問又は脅迫による自白、不当に長く抑留又は拘禁された後の自白その他任意にされたものでない疑のある自白は、これを証拠とすることができない。」と書いてある。任意でなされていない自白だけでなく、「疑のある自白」も本来は証拠にできない。だから裁判官が法律をきちんと実行すれば、それで冤罪の大部分はなくなる。警察、検察も悪いが、本来フェアに両者を裁くべき裁判官がきちんとしていないのが一番問題だ、という指摘もされるわけである。

 今までは裁判官がどんどん任意性を認めて(検察とは人事交流もあるし仲間意識があるのか?)、供述調書により有罪が言い渡されてきた。しかし、被告・弁護側が一生懸命脅迫があったと言っても立証するのは難しく、裁判所は検察側に軍配を上げてきた。これはおかしい。証拠により有罪を立証するのは検察の仕事で、検察が「任意性がある」ことを立証する、それができなければ「疑のある自白」として証拠から抜けばいいだけの話である。

 今回は昨年の郵便不正事件の村木厚子さん以後の大阪地検証拠改ざん問題がバックにある。逮捕され実刑判決が確定した前田元検事が取り調べた調書もあったからである。(さすがにそれは証拠請求せず。)特捜部捜査に厳しい目が注がれている時期だからこその決定とも言える。
 しかし、それだけにとどめてはいけない。
 つまり、「全面可視化」である。これだけ問題化しているのに、そして社会にはビデオ画像があふれインターネットに簡単にアップされ全世界に広まる時代に、なぜ取り調べだけ密室でやるのか?すべての過程を録画、録音しておけばいい。証拠がきちんとしてれば、有罪立証には何の問題もない。ということで、この陸山会裁判の決定を刑事裁判の転換点にしなくてはいけないと強く思う。
(ちなみに、小沢氏の政治的な問題に何かを言う気はない。それは裁判と別。刑事裁判のあり方、冤罪防止に関心があるだけのことである。)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

カズオ・イシグロを読む

2011年07月03日 22時49分53秒 | 〃 (外国文学)
 カズオ・イシグロの小説をまとめ読み。長編6作、短編集1冊がすべて翻訳され、ハヤカワ文庫epiに入っている。「わたしを離さないで」の映画化に合わせて大型書店では平積みしてる。「日の名残り」が映画化されたのは1993年のことだが(日本公開1994年)、その頃買った文庫本をずっと読んでなかった。今回まとめて読んでみて、とても読みやすくて面白いことに驚いた。こんな読みやすい作家とは思わなかった。現代文学の作品は読みにくいものが多いけれど。

 作品評価を★マークで示す。満点は★5つで、イシグロ作品にそれはない。4つで読むべき傑作。3つで読んで損はない。2つで普通は読まなくても。☆はおまけ。自分の感覚で勝手につけただけ。

遠い山なみの光(女たちの遠い夏) ★★★
浮世の画家            ★★
日の名残り            ★★★★
充たされざる者          ★★
私たちが孤児だったころ    ★★★☆
わたしを離さないで       ★★★★
夜想曲               ★★★☆

 今までのところ、やはり世評通り「日の名残り」「わたしを離さないで」がとても傑作で、短編集「夜想曲」も面白さでは抜群である。(初めての人にとっつきやすいのはこれ。コメディの才能がこんなにあるとは思わなかった。これから読むといいかもしれない。)一方「浮世の画家」は僕には案外つまらなかった。悪夢のような世界の「充たされざる者」は決して読みにくい小説ではないのだが、何しろ950ページもあるし筋があるような無いような夢語りだから、小説が好きな人以外は敬遠した方がいいと思う。最後まで読み通すのに苦労してしまった。

 第1作の「遠い山なみの光」は、「女たちの遠い夏」の名前で出ていた「ちくま文庫」で読んだ。原爆投下を受けた戦後直後の長崎が舞台になっているが、イシグロは長崎に4歳まで住んでいて英国に移住した。幼いころの日本のイメージを自分なりに小説に昇華したのだろうけど、どうも日本らしくない感じがする。林京子の小説や佐多稲子「樹影」などを思い浮かべると、ずいぶん違う。小野寺健氏の翻訳が素晴らしく、そこが読みどころ。小説としては、「戦後の女たち」の物語として、物語性は少ないが一定の評価はできると思う。少なくとも次作の「浮世の画家」より面白い。

 「わたしたちが孤児だったころ」は戦前の英国で探偵として成功した主人公が、昔上海で失踪したまま行方不明の両親を探しに戻るという話。ミステリーの枠組みが使われているが、日中戦争の描写などがよくわからない「不思議空間」になっている。一応筋に決着はつくが、純文学であり探偵小説ではない。中国の上海租界という場所の描き方が僕にはよくわからないので、評価が難しい。

 イシグロの小説は(ほぼ)一人称の語りで進むので、外国文学としては大変読みやすい。ただし気をつけなくてはいけないが、普通一人称小説だと作家=主人公のことが多く、主人公に感情移入して読むことが前提となっている。それに対し、イシグロ作品では主人公に感情移入しにくいのである。あえてそういう人物を選んで、語りの主体としている。それでは面白くなさそうな感じだが、これが面白いのである。尋常ならざる語りの才能だと思う。が、それでどうしたという読後感も残る。

 「日の名残り」は、戦前に英国のお屋敷に執事として仕えた男の一代記。そんな話の何が面白いのかと思うけれど、これがうそみたいに面白くてどんどん読み進む。が、結局「執事道」の話は今やどうでもいいので、なんかダマされたみたいな気もする。確かに随所で、人生の深淵、人生の岐路に直面する。歴史の一場面に立ち会うといってもいい。その語りは実にうまく計算されていて、政治性を隠ぺいするという「執事の政治性」をあぶりだす。すごくうまくて、これでブッカー賞を取ったのも納得。映画では、アンソニー・ホプキンスが執事を演じ、「羊たちの沈黙」のハンニバル・レクターに並ぶ名演だった。作品、監督など様々な部門でも米国アカデミー賞にノミネートされた。

 「わたしを離さないで」は、独特の設定(パラレルワールドものSFによくあるような)がすべてなので、未読、未見の方のためにネタばらしは書かない。しかし、映画は青春期以後が中心にならざるを得ないが、小説は児童期が長く、ドイツのギムナジウムで展開する少年小説のような趣があった。原題は歌の題から取っているが、それは映画を見ると聞くことができる。映画も悪くないけど、この原作は素晴らしく、心を揺さぶられる。非常に特異な設定で、それをどう思うか、乗れるかにもかかっているが、今までのところイシグロの最高傑作だろうと思う。

 名前の通り元々は日本人だが、4歳で離日している以上、小説体験は英語で始まったと思う。芥川賞作家の楊逸、あるいはコンラッド、ナボコフなどのような「亡命作家」の系譜ではなく、親の移住で幼児期に居を外国に移しそこで表現活動を始めた「移民作家」である。小説家としての母語は英語(イングランド語)だろう。だけどアイデンティティ不明の設定、状況は彼の小説にはよく登場してきて、それはやはりイシグロの実体験を反映しているものだと思う。(カズオ・イシグロは2017年のノーベル文学賞を受けた。この記事を書いた後、2015年に「忘れられた巨人」を発表しているが、未読。)
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

クロード・シャブロル監督の映画を見る

2011年07月02日 23時05分56秒 |  〃 (世界の映画監督)
 クロード・シャブロル監督映画の日本初の大特集がフランス映画祭の企画として行われている。去年、シャブロルとエリック・ロメールが亡くなり、ヌーヴェル・ヴァーグも歴史となった。それで追悼特集かと思ったら、そうではなく初めはシャブロルを日本に呼ぶ計画もあったのだそうだ。
 
 1950年代末のフランス「ヌーヴェル・ヴァーグ」(新しい波)という若き映画人の映像革命があった。それが世界に波及し、映画を変える。それまで映画と言うのは、プロにしか作れないものだった。映画芸術と言おうが、美男美女スターの娯楽映画であろうが、普通の若者がすぐに作れるものではなかった。50年代半ば、批評家アンドレ・バザンの主催する「カイエ・デュ・シネマ」に集う若き映画ファンの中から、「カメラ=万年筆」論が出てきて、誰もが自分の言いたいことを映像化してよいのだという主張がなされた。誰でも動画を投稿できる現代と違う。金持ちなら8ミリ映画などでホーム・ムーヴィーを撮ることはあったが、公開される映画作品はプロが長年の修業を経て作るものだった時代の話である。

 それを初めて打ち破ったのが、若き映画ファンの批評家シャブロル。よく「ヌーヴェルヴァーグは遺産で始まった」と言われるが、それは事実で当時の妻のおばの遺産が入り、それで映画会社を作ったのだ。「美しきセルジュ」「いとこ同士」などの長編が評判を呼び、ヌーヴェル・ヴァーグの開祖となる。その後、トリュフォーが「大人は判ってくれない」を撮り、ゴダールが「勝手にしやがれ」を撮る。やがてヌーヴェル・ヴァーグと言えば、この二人と言うことになり、今年の夏に日本で公開予定の記録映画も「ふたりのヌーヴェルヴァーグ  ゴダールとトリュフォー」というのである。
 ゴダールは60年代の伝説となり、過激な映画を撮り続け、ついには商業映画と縁を切り、マオイスト(毛沢東主義者)として政治プロパガンダの映画を撮るに至る。やがて商業映画に回帰するも、一般的な物語をつくることはその後もない。トリュフォーはやがて自伝的な青春映画の世界を抜け出し、フランスの恋愛映画の巨匠となっていき世界的に評価され52歳で亡くなる。

 「ゴダールか、トリュフォーか」という命題は世界のシネフィルの心を捕える。「革命か、恋か」、生の目的はなんなのか?そんな時代に、シャブロルは何をしていたか?いつの間にか娯楽映画に徹し、ミステリーばかり撮り続けるシャブロルは「ヌーヴェルヴァーグの裏切り者」と思われる。60年代半ば以後は、日本でもほとんど公開されず、忘れられた映画作家となっていった。しかし、今見るとシャブロルはブランクなく60本以上の映画を残した。それが実に面白いのである
 カイエに集う若者たちはヒッチコックを崇め、またアメリカでは単なる職人監督としてしか思われていなかったニコラス・レイやサミュエル・フラーを「作家」として「発見」した。今見ると、ヒッチコックのサスペンスや、レイやフラーの犯罪映画の呼吸を一番フランスで生かしたのはシャブロルではなかったか。

 思えば革命や恋を信じられた60年代後半に、すでにシャブロルは何者も信じられない、自分さえ信じられない心理サスペンスを作りまくっている。キャリアの中にはパトリシア・ハイスミスやルース・レンデルの映画化があるが、ミステリー好きならよくわかると思うが、つまりシャブロルが作ったミステリーとはそういう映画だったのだ。「オリエント急行殺人事件」などが作られていた時代に、ハイスミスの「ふくろうの叫び」を映画化していることを思えば、驚くべき先見性。今こそシャブロルの再発見の時だ

 今見ると、ゴダールやトリュフォーには面白くない映画もある。この二人もミステリーやSFを随分撮っているが、面白さはシャブロルが随一。映画はサスペンスなのだというような映画のオンパレード。これは驚きだ。恐れ入った。僕は特に面白かったのが「肉屋」「女鹿」。別の機会に見た「引き裂かれた女」や「悪の華」も大変良かった。また同時代的に見た唯一の日本公開作品、「主婦マリーがしたこと」はサスペンスというよりマジメな社会派でもあるが、ナチス支配下で「堕胎」で罰せられる主婦を描いて傑作。イザベル・ユペールがヴェネチアで女優賞を取り、以後のシャブロル作品のヒロインとなった。
 特集は今後も続くが、東京の日仏学院で字幕なし、または英語字幕が多く、それはちょっとつらいかなと思う。(日本語字幕、または同時通訳作品もある。)ということで、どこかでシャブロル特集があったらおススメです。

 と同時に、時代がたって見直すべきことと言うのは多いなあと感じる。単なる娯楽作家になってしまったと思っていたシャブロルが今見ると、むしろ新しいとは。僕は晩年によく公開されていたエリック・ロメールが案外つまらないものが多かったと思ってるんだけど、芸術とか政治とか歴史を見るときには「悪意」が大切で、善人では深みが出ないということを示しているかと思う。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする