尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

東京都の教科書採択結果

2011年07月30日 21時05分30秒 |  〃 (東京・大阪の教育)
 昨日は臨時の記事になったので、今日は2つ書こうと思っています。まずは簡単に。ここ2日ほど、このブログに順位が出てるんだけど、昨日は「順位: 7,819位 / 1,613,729ブログ中」ですね。アクセスが多いのは、都教委の採択関連です。だから、一応結果を書いておきます。(書くまでもなく、当然「育鵬社」になるに決まってるので、書く気はなかったんですが。朝早いので、申し訳ないけど傍聴にも行きませんでした。)
 
 都教委の中学教科書採択は、中高一貫校10校すべて歴史と公民は「育鵬社」です。ただ、特別支援学校は聴覚障害、肢体不自由・病弱特別支援学校では公民だけ「自由社」になりました。(歴史は育鵬社)。視覚障害特別支援学校は「教育出版」ですが、これは拡大教科書のもとになるという別の事情になります。この、「特別支援」だけ、「公民」が「育鵬社より、自由社が良い」となった理由が不明。

 教育委員というのは、基本は5人ですが6人までおけるので都は6人います。木村孟委員長、内館牧子、竹花豊、瀬古利彦、川淵三郎、教育長大原正行の各氏です。川淵氏はなったばかり。2年前の採択時には残りの5人はすでに教育委員を務めています。その前の採択は、6年前ですが、その時にすでにいたのは、木村、内舘の2委員のみ。結構有名人がやっていて、内舘、瀬古、川淵の3氏は知ってる人が多いでしょう。木村委員長も実力者で、東工大学長を務めた工学者ですが、教育関係の様々な役職に関わってきました。竹花委員も警察官僚から東京都副知事になった有名人です。大原氏は財務、総務関係が長かった都庁官僚で、それまでに教育関係の役職は経験していないのですが、総務局長から教育長になりました。(教育委員会の実務担当部局が「教育庁」、教育庁の最高責任者が「教育長」。教育行政は、一般行政から独立して「教育委員会」が担当するタテマエになっていますが、特に東京都では、現場の学校長どころか教育庁の仕事も経験していない人が突然教育の最高責任者になっちゃうのですね。)

 2005年は全委員一致して、「扶桑社」。2009年は1人が他社を推したけれど、他の5人が「扶桑社」。前回から5人が共通しています。扶桑社の子会社が「育鵬社」ですから、前回からいた人は「育鵬社」を推すと普通考えられるので、今回はいくら反対しても「育鵬社」と分っています。
 投票の結果は、歴史は育鵬社4票、自由社1票、教育出版か東京書籍が1票(細かくなり過ぎるので書きませんが、10校が半数ずつ教出か東書)、公民は育鵬社5票、自由社1票、となっています。
 秘密投票なので誰がどの社かはわかりません。また過半数の投票結果なので、討議することもなく淡々ときまってしまうわけです。でも、一人だけ、全部自由社に入れた人がいる。また歴史では育鵬、自由以外を書いた人がいる。

 しかし、特別支援の公民だけ「自由社」というのがわかりません。特に特別支援教育にふさわしい教科書内容になっているとか?まさかね。そういう内容の問題もあるけど、事前になんらかの打ち合わせをすることなく、その日自由に各委員が投票してみたところ、(全部育鵬社だというなら、まだしも)特別支援学校の公民分野だけ自由社が多かった、なんていうことがあるんですかねえ。というか、ないよね。事前に、まあ、少し自由社にも分けておきましょうか、みたいなことがない限り、こういう結果になるのかな。と「邪推」するわけです。まあ、都教委らしいと言えばそれまでですが。
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テザ 慟哭の大地

2011年07月28日 21時55分21秒 |  〃  (新作外国映画)
 「テザ 慟哭の大地」というエチオピア映画。どうせならもっと早く見て書けばいいんだけど、いつも終わりそうになってやっと見る。東京の公開は明日まで。(渋谷シアター・イメージフォーラム)大阪、京都で秋に公開とあります。まあ、映画は残るのでどこかで見る機会があれば是非見てください。僕は感動しました。2008年のヴェネツィア映画祭審査員特別賞、脚本賞受賞作。

 小国の映画はよく見るし、ブログでもタイやマレーシアの映画を紹介してきました。あまり接することがない国の映画は意識して見るようにしてきました。社会科教員として地理や政治経済の教材と言う面もあったけど、それより知らない国の文化に接すること自体が喜び。それに監督や俳優の名前も知られてないのに公開されるとしたら、それだけでも何か見どころがありそうだという勘が働きます。この「小国の映画を見る」ことについては、また別の機会に考えてみたいと思います。

 エチオピアは人口8千万で「小国」とは言えないけど、世界に知られた文化と言う面ではほとんど知られていないと言っていいでしょう。僕も今までに見たエチオピア映画は1本だけ。それは「テザ」と同じハイレ・ゲリマ監督の「三千年の収穫」という映画で、プログラムで映画評論家(日本映画大学学長)の佐藤忠男さんが書いてるように、1984年に国際交流基金が行った「アフリカ映画祭」で上映され佐藤さんが激賞していたので見に行ったわけ。それ以後この監督の名前も忘れていたけど、アメリカで大学教授をしながらアフリカ人の立場で映画を作り続けていたのでした。

 この映画で忘れられないのはエチオピア現代史のあまりに苛酷な現実で、少しは知っていたけど驚くべき出来事の連続で、恐ろしい。西北部のタナ湖というところ(監督の生地の近く)の美しい映像も印象的だけど、全体的には激動の現代史の壮大な叙事詩。そういう映画は好きなので、見入ってしまいました。中国や台湾、パレスティナや南アフリカ、ポーランドやハンガリーなどの厳しい現代史を映像を通して知って衝撃を受けるということが今までに何回もありました。未だ世界に知られていない母国の悲劇を世界に伝えるときに、映像の力というものはいかに大きな力を持つか。改めて強く感じました。エチオピアは世界最古の帝国と言われ、アフリカで植民地にならなかった国。ファシズム・イタリアの侵略を受け毒ガス攻撃を受けます。独立回復後は世界最古の皇帝、ハイレ・セラシエの独裁の下、大土地所有制度が続きます。74年に軍部クーデタで皇帝は退位させられ、社会主義独裁の軍部政権になります。(70年代になってからマルクス、エンゲルス、レーニンの顔写真が大きく町に張り出される国ができていたとは知りませんでした。)その後、各民族の反乱がおこり内戦が続き、ソ連崩壊後、何度かの変化を経て今は連邦制。北部のエリトリアは独立しました。そういう事情は詳しく知らなくても見れると思いますが。

 と言っても、これは政治映画ではありません。自分の世代を主人公にして20年くらい前の革命の時代を振り返っているけれど、その作り方はまさに巨匠の技、骨太の演出と編集でじっくり見せます。自分の生まれた村(まだ呪術的な迷信がはびこっている)、留学先のドイツ(自由はあるがドイツ人からは人種差別を受ける)、革命下の首都アディスアベバ(留学から戻るが恐怖政治の真っただ中)を描き分けつつ、どこにも居場所がない主人公の彷徨が描かれます。革命も恐ろしいけど、村も遅れてるし、西欧には受け入れらない。主人公は心身に傷を負い村に帰るが、そこに心の拠り所を見つけることはできるだろうか…?
 というあたりで、つまりエチオピアの知識人の問題だと思って見てたけど、これは世界の知識青年すべてに関わるテーマだと分る。

 「テザ」とはエチオピアの主要言語アムハラ語で「朝露」「幼児期」の二つの意味合いを持つ単語だそうです。これ、いいですね。プログラムから。「太陽と水と炎 流浪するひとりの男 忘れられない過去 そして記憶 激動の70年代を背景に、20年にわたるエチオピアの光と影がうずまく」。エチオピアの音楽が良かったですね。前にチェコと言えばチャスラフスカと書いたけど、僕にとってエチオピアと言えば、もちろんアベベ・ビキラ。ローマ、東京でマラソンで連続金メダルを取った「哲人ランナー」。明日は東京五輪の話を。
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丹野こんにゃく-My favorite④

2011年07月28日 20時33分47秒 | 自分の話&日記
 昨日の続き。新宿高島屋地下1階で、『がんばろう!日本 東北の味特集』をやっていて、山形県上山の丹野こんにゃく番所が出ています。ということを調べて、落語の後はちょっとそこで買い物。
 ここは旅行のついでに2回寄っています。玉こんにゃくなんか、いろんなサービスエリアなんかで売ってるけど、ここほど美味しいなと思ったところはない。新宿でも試食で食べられるから、まず試食してみて気に入ったら是非買うといいですよ。

 ところで今回わざわざ調べたのは、東京も蒸し暑くて「冷菓」が欲しいなという気候が続いてます。ゼリーやアイスクリーム、水ようかんなんかもいいけれど、去年丹野で買ったこんにゃくゼリーみたいな商品がなかなかいけてて、というか相当の発見でもう一度買いたいな、と思ったわけ。今回行ってみたら冷菓は「こんにゃくみぞれ ラ・フランス」しか置いてなかった。オンラインショップでは、桃やリンゴも売ってます。また「りんごと出会ったこんにゃく」「桃と出会ったこんにゃく」という不思議な名前の、でも食べて見ると美味しいゼリーみたいなのもあります。こんにゃくゼリーなんて言うと、グミみたいな固くてのどにつかえるようなイメージがあるけど、これは全く違います。誰でも絶対安全。「みぞれ」なんて名前も古い感じだけど、食べて見るとすごく上品でとてもいい感じ。これはね、人にも自信を持って贈れる、かなりの優れものですよ。

 最初に丹野こんにゃく番所に行ったのは数年前。ここ数年東北へはよく行ってたけど、上山には旧尾形家住宅というところがあります。自分の家も山形にさかのぼるんだけど、ここの尾形家とは違います。でも一応なんか縁を感じて行こうとして、うっかり道を間違えて、案内板に「丹野こんにゃく番所 この先」とかいっぱい出てるからそこまで行ってしまった。こんにゃく料理でも有名なところとは後で知ったこと。ちゃんとこんにゃく懐石を食べるとけっこう高いから料理は食べなかったけど、玉こんはとてもおいしく、買うことにした。そのときはこんにゃくデザートなんて美味しくないだろう、と偏見を持って冷菓は買わなかった。去年、宮城県の南部・鎌先温泉にとまって山越えして山形に出たんだけど、その時は途中に丹野があるなと思い、寄るつもりで行った。で、冷菓も買って感心したわけです。こんにゃくは健康にもいい感じだし、ご紹介。今日はもう一つ。
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さよなら、ぴあ

2011年07月23日 21時21分35秒 | 自分の話&日記
 「ぴあ」の最終号が発売されています。創刊号復刻版、表紙オリジナルポストカード(ジョニー・デップ、PUFFY、三谷幸喜)がついて、永久保存版。680円。

 僕はこの数年間、「ぴあ」を買っていませんでした。より速く、より豊富な情報をインターネットで得られる時代に「ぴあ」がなくてもよかった。ただ、久しぶりに買ってみると、紙ベースの雑誌メディアの意味がないわけじゃやないなとも思いました。すべての分野にくわしいわけではないので、ポップスとかアートなどの情報に接することができるメリットがあるなと。「ぴあ」を買わなくなったのは、情報が多くなり過ぎ、毎週刊行になったりして、逆に「情報誌」としての意味が薄れてしまったからです。予定を立てるという意味合いからは、ひと月分位の情報がなくては買う意味が薄くなります。インターネットで直接映画館や劇場、美術館などを検索すればより速くわかるし、時には割引券まで付いています。

 「ぴあ」を最初に買ったのがいつか、正確には憶えていませんが、間違いなくシングナンバーの時代から、つまり創刊すぐの72年頃から買っています。映画雑誌「キネマ旬報」で、映画評論家山田宏一さんが書いた記事を読みました。パリでは映画館情報を載せる情報誌があってそれを買ってあちこちまわった、日本でもそういう雑誌があればと思っていたけれど、東京でも発行されたという話でした。それでどこか神保町の大型書店で見つけて買ったのではなかったかと思います。高校生の時代。それ以後、大学時代はほぼ毎月買っていたのではないか。取っておいた時期もあるのですが、大分前に雑誌を大整理して捨ててしまったのでもうよくわからないのですが。

 「ぴあ」が最初に新鮮だったのは、映画や演劇の自主公演などの企画がいっぱい載ってたことで、というか「情報の等価性」が貫かれていたことで、中身が保証されているわけではない情報だけが載っている、従ってある程度の事前情報をこちらが持っていることが前提というか、自分で情報を取捨選択して行動するわけです。そういう行動様式を成立させたわけで、そのような「東京という町の歩き方」のガイドブックだったわけです。ところがそのうちに情報があまりに多くなって行き、こちらが対応できないくらいになっていきます。そのころ「シティロード」という競合情報誌があって、そちらに移行しました。批評性が強い分、情報のみの「ぴあ」より面白かったということです。ある程度批評がないと、情報が多すぎて判断できないわけです。1993年にシティロードが廃刊になると、また「ぴあ」に回帰しましたが、隔週刊、毎週刊になっていくのに対応できないできました。映画の初日に観客の採点を100点満点で聞いて平均点順に並べるなどと言うのも正直言って意味がよくわからない企画で、選挙の出口調査とぴあの初日調査には応じないことにしていました。

 僕は韓国映画の上映会などで何回か、「ぴあ」に情報を載せてもらっています。それを見てきたという人がいるので、やはり見てる人は見てたんですね。その上映会の日時が自分でわからなくなってしまい、振り返ってまとめる必要があったときに国会図書館で「ぴあ」を請求して確認したという珍しい(と思う)経験をしています。演劇や音楽などの歴史研究では、のちに有名になった大物の若い時代の基礎資料の確認には「ぴあ」を利用するということになるんだろうと思います。
  
 創刊号を見ると、東京になんといっぱい名画座があったことか。渋谷の全線座や東急名画座、銀座の並木座、飯田橋の佳作座、高田馬場のパール座、大塚の大塚名画座などなど。(みんな、行ったことがある。「ぴあ」で番組がわかったから初めての名画座へ行ったんだと思います。)後楽園にあった後楽園シネマの番組は「忍ぶ川」と「約束」(斉藤耕一監督、岸恵子、萩原健一主演の名作)、「ベニスに死す」と「思い出の夏」。銀座並木座は「けんかえれじい」と「八月の濡れた砂」、「用心棒」と「酔いどれ天使」。当時名画座だったテアトル新宿なんか3本立てで、「ダーティハリー」「マンハッタン無宿」のクリント・イーストウッド主演作にシドニー・ポワチエの「失われた男」、「小さな恋のメロディ」「思いでの夏」「さよならを言わないで」。もう外国映画は上映権が切れているだろうけど、日本映画はどこかで「ぴあ創刊号再現特集」を企画して欲しいですね。

 テレビのアナログ放送終了より、「ぴあ」がなくなるほうが一時代の終わりを感じます。別にほとんど困らないから追悼に気持ちはないけど。ということで、さよなら、ぴあ。ずいぶん利用しました。ありがとう、矢内さん。
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東電OL事件の新展開

2011年07月21日 21時17分51秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 夕刊やテレビニュースで東電OL事件の再審請求で新しい展開があったことを報じています。報道によれば、「東京高検が最新の技術によるDNA型鑑定を実施したところ、女性の体内から採取された精液のDNA型と、殺害現場から採取された受刑者とは別の男性の体毛のDNA型が一致したことがわかった。鑑定結果は、被害女性がマイナリ受刑者以外の男性と一緒に殺害現場のアパート空き室にいた可能性を否定した確定判決と矛盾する可能性がある。」とのことです。足利事件のあと、新しくDNA鑑定を求められると裁判所や検察も無下に否定できず、様々な事件で新鑑定が行われているようです。

 この事件に関しては、佐野真一「東電OL殺人事件」(新潮文庫)があり、裁判のおかしさがよく判ります。直接証拠はなく、状況証拠をどのように評価するかが焦点ですが、疑問点が多く残る裁判だったと思っています。何しろ一審は無罪で、それですんでもいいはずが、(不法滞在状態だったために、無罪判決を受けたのに)釈放されずに控訴審でひっくり返ったという経緯がありました。

 ところで、その再審請求人を何と呼ぶか。裁判時までは「ゴビンダ被告」とマスコミは言っていたけど、今日のニュースでは「マイナリ受刑者」と言っています。救援会は「無実のゴビンダさんを支える会」と言うので、ゴビンダという表記でいいのではないかと思います。 ゴビンダ・プラサド・マイナリというネパール人の人名なわけですが。ゴビンダさんは一貫して無実を主張、日弁連も支援しています。確かにこの新鑑定自体は足利事件のような一発必勝の新証拠ではないのですが、「疑わしきは被告人の利益に」は再審にもあてはまるとという精神で見れば、結論は明らか。

 冤罪事件と言うのは昔の警察の問題だと思うと大間違いで、鹿児島の志布志事件、富山の氷見事件のように現在も起こり続けています。「再審えん罪事件連絡会」という集まりがありますが、名張毒ぶどう酒事件、袴田事件など著名な死刑事件のほか、「筋弛緩剤えん罪事件」「東住吉冤罪事件」、そして東電OL殺人事件など多くの事件が加盟しています。

 東電OL殺人事件は、発生当時大きく騒がれ、小説等に描かれました。現東電の勝俣会長は当時企画部長で、被害者の上司でした。西沢新社長も企画部出身で、この事件処理を通し、勝俣・西沢ラインが結成されたとも言われています。因縁というべきでしょうか。
 早期の再審開始を望みます。
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追悼・原田芳雄

2011年07月19日 21時30分18秒 | 追悼
 原田芳雄の訃報が伝えられた。71歳。今月11日に主演映画「大鹿村騒動記」(阪本順治監督)の試写会に車イス姿で参加したという話が伝えられて病気だということは知っていたけれど…。
 原田芳雄は僕らの時代のヒーローだった。70年代の僕のお気に入りの映画にはみんな原田芳雄が出ているんじゃないか、という感じだった。(いや、萩原健一もあるかな。)思えば、三船敏郎や石原裕次郎だって、時代に反逆する若者のヒーローとして出てきたわけだが、60年代末にはもう偉くなって大企業の幹部なんかを演じる役者になりつつあった。

 あの疾風怒濤の時代には、あらゆる分野で文化革命があったが、特に演劇や映画など生身の身体を抜きに存在できない芸術では、まったく新しいタッチの身体性を持った俳優が求められた。その一人が原田芳雄で、黒木和雄監督「竜馬暗殺」という今見ても前衛ムード満々の素晴らしい映画で竜馬を演じた。今までいろいろな人が竜馬を演じているが、ここまで生き生きしたというか、男がむんむんするというか、時代の中で悩みをかかえた男のムードが出ているのはないのではないか。

 元々は俳優座養成所出身で、清水邦夫の伝説的な第1作「狂人なおもて往生をとぐー昔、僕たちは愛した」を俳優座がやった時には、ばってきされて主演で出演している。しかし、新劇でやっていける人ではなかったのだろう、71年に中村敦夫、市原悦子らと俳優座を脱退する。その頃から、アウトローや反逆者を映画で演じて、圧倒的な存在感を示した。藤田敏八、黒木和雄、鈴木清順、若松孝二、森崎東ら独自の世界を描く、くせのある監督と組むことが多く、僕にとってもっとも身近な男優だった。

 僕にとって身近な感じがするのは、TBSラジオの深夜放送「パック・イン・ミュージック」で故・林美雄の担当時によく出演して歌をうたっていたから。石川セリ(原田も出ていた藤田敏八「八月の濡れた砂」の主題歌を歌っていた。この番組で井上陽水と同時に出演したのがきっかけで結婚)、山崎ハコ、荒井由美(現・松任谷由美)らが続々と出演するというすごい番組で、聞いていた人に与えた影響はとても大きかったと思う。

 最近の人は歳取った原田芳雄しか知らないわけだが、やはり若い時の方が思い出にある。映画を振り返れば、「赤い鳥、逃げた?」「祭りの準備」「ツィゴイネルワイゼン」「スリ」などが素晴らしいと思う。井上ひさしの名作を黒木和雄が映画化した「父と暮らせば」などもうまいには違いないし、心に響くんだけど、こういう役が原田芳雄に向いてるわけではない。それより望月六郎監督「鬼火」(1997)という映画が僕は忘れがたい。これは出所して堅気になり恋人(片岡礼子)もできたのに、ヤクザとしてしか生きていけない男の悲しさ、さびしさ、やるせなさを全身で表現している。こういう世界こそ原田芳雄しか演じられない境地で、最後までアウトロー魂を持ち続けた役者だったと思う。
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ヤスミン・アフマド監督の映画②

2011年07月15日 21時10分01秒 |  〃 (世界の映画監督)
 マレーシアの女性映画監督、故ヤスミン・アフマドは6本の長編映画を残した。
 ラブン(2003)
 細い目(2004) 東京国際映画祭最優秀アジア映画賞
 グブラ(2005) マレーシア・アカデミー賞グランプリ
 ムクシン(2006)
 ムアラフ 改心(2007) 東京国際映画祭アジア映画賞
 タレンタイム(2008) 

 最初の4本が「オーキッド4部作」で、オーキッドという少女の年代記。オーキッドは妹の名前だそうだ。次の「ムアラフ 改心」は宗教をめぐる討論の映画で、実に興味深い。遺作になってしまった「タレンタイム」は、高校生の音楽コンクールを描く青春映画でエンターテインメント色が一番強く、本人も意気込んで作ったらしい。母方の祖母が日本人だったそうで、次回作は能登出身の祖母の人生を描く「ワスレナグサ」という題でシナリオも作られていたという。

 各映画を簡単に寸評すると、
 一番最初の「ラブン」はプライベート色が強く、実験映画的なエチュード。
 続く「細い目」が最初の傑作で、涙なしに見られない切ない青春映画の大傑作
 「グブラ」はオーキッドの結婚生活を描くが、「細い目」を受けた続編的作品。
 「ムクシン」はオーキッドの10歳の初恋を描く、瑞々しい映画で痛快。
 「ムアラフ 改心」は、宗教と民族をめぐるメッセージがこめられた問題作。
 「タレンタイム」は、考えさせると共に、切々と心に響く青春映画の傑作で、是非一般公開されて欲しい素晴らしい作品。

 「細い目」は、マレーシア映画で初めてマレー系少女と華人系少年の恋を題材にした映画だという。ムスリムの少女が場末の中華料理屋でデートする場面もある「超問題作」である。(「豚を食べる場所」にムスリム少女が出入りする場面があるのは、厳格なムスリムにとっては許せない場面だろう。)この二人がどうして出会うかと言うと、主人公オーキッドは大の香港映画ファン、「金城武大好き」少女で洋服箪笥を開けると金城武の写真で一杯。町で出あったビデオ売りの華人青年ジェイソンと映画の話題で盛り上がるという設定である。好きな映画はジョン・ウーの「男たちの挽歌」で、ジョン・ウーはハリウッドに行ってダメになった、とか…。このあたり、ヤスミン自身の映画への愛情があふれた名場面であると思うし、自伝的な背景があるのかもしれない。
 二人は携帯電話で連絡を取り合う。もし、携帯電話がなければ、これほど生活環境の違う二人が連絡を取り合うことは不可能だったろう。そういう意味で、全世界の恋愛事情を変えてしまったケータイの登場を考察した映画ということもできる。
 もちろん、二人の恋は障害にぶつかる。民族を超えた恋愛は、切ない思いとともに、果たしてどういう結末を迎えるのだろうか・・?マレーシアの教育事情が分からないので理解しにくい場面もあるが、ヤスミンは、二人を初め家族それぞれを寄り添うように描き、決して大げさではなく、静かに見守る。主人公オーキッドを演じたジャリファ・アマニは、この映画で新人賞を受け、以後ヤスミン映画の主人公を演じ続ける。フランソワ・トリュフォー監督映画のジャン・ピエール・レオのような存在。すごい美人という感じではないが、はつらつとして、忘れがたい素晴らしい女優である。

 ヤスミンの映画には、マレー系、華人系、インド系などを問わず、伝統にとらわれたまま、心を閉ざして生きる不幸な人々、不幸な家庭がたくさん出てくる。特に、家父長制の「伝統」の下で、抑圧される女性、虐待される子供たちの姿が描かれている。
 一方、オーキッドは「ムクシン」では、10歳の少女にして、女子のグループが嫌いで男子と遊んだり、男の子と木登りするような痛快なお転婆少女に描かれている。両親が仲良くピアノを弾く場面が「グプラ」のラストに実写で出てくるが、実際にヤスミンの両親は開かれた心の持ち主で、仲の良い家庭だったらしい。それがヤスミン映画の原点なのだと思う。

 「ムアラフ 改心」では、父親の虐待を逃れてきた姉妹が、カトリックの華人青年教師と知り合いになる物語である。姉は宗教に詳しく、シンガポールの大学で宗教社会学を学びたいと思っている。そういう設定で、コーラン、聖書、アウグスティヌスなどの言葉がとびかう、あまり今までにみたことがない宗教討論映画になっている。こんな映画が世界にはあるのか、というような映画である。また、この映画を見ると、宗教の違いより、親の虐待の方がはるかに大きな問題であるとよくわかる。

 遺作となってしまった「タレンタイム」は、忘れがたい「学園祭映画」である。学園の講堂に電気が灯って映画は始まり、電気が消えていって映画は終わる。世界中のすべての人の心の中にある「学校と言う特別な場所」の懐かしさを呼び起こす、素晴らしい映画の始まりと終わり。マレーシアの教育事情が良く判らず理解しにくい設定も多いが、高校が終わって大学に行くまでの間の学校があるらしい。そこで、音楽、舞踊などのコンクールがある。「今年で7回目」という設定。それが「タレンタイム」で、これがマレーシアで一般的な言葉かどうかはわからない。
 その大会をめざす何人かの若者群像を描く。一人はマレー系の少女メルーで、メルーを送り迎えする役を学校から命じられたのが、インド系の少年マヘシュ。どうして送り迎えを他の生徒がするのか不明だが、それはともかくこの二人が恋に落ちる。今度はマレー系とインド系の恋、なのだ。さらにこのマヘシュは聴覚障害という設定で、せっかくのメルーの歌も彼の心に届かない。

 一方、マレー系の少年ハフィズは、母親が病気で毎日通っているが、自作の歌を歌ってタレンタイム優勝を目指す。この歌が素晴らしい。さらに華人少年の二胡演奏、インド系少女の舞踊などがあり、それぞれの家族関係が描かれる。ハフィズや華人少年もメルーが好きらしい。このように青春音楽娯楽映画という枠組みの中で、マレーシアの様々な現実が描かれる。ここでは書かないが、青春の忘れられない1頁を映像化した忘れがたい名場面がいくつもある。

 ヤスミンの映画には、会話や現実の音を消して、主人公を(大体は恋人同士や家族の戯れ)クラシックの演奏の中で叙情的に見つめる短い至福のシーンがよくある。人生の素晴らしさ、世界の美しさを圧倒的な映像美と音楽で描き出す。「タレンタイム」では、ドビュッシーの「月の光」が使われているが、そういう場面も忘れがたい。

 何と、美しく切ない、青春の映画だっただろう。電気が消され、学校は閉まり、映画は終わる。が、人生は続いていく。世界も続いていく。ヤスミン・アフマドがいない世界が・・・。
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ヤスミン・アフマド監督の映画①

2011年07月14日 21時03分54秒 |  〃 (世界の映画監督)
 マレーシアの女性映画監督故ヤスミン・アフマドの特集上映が東京渋谷のユーロスペースで16日から一週間にわたって行われるので、その紹介をする。

 ヤスミン・アフマド 1958~2009.7.25 
 6歳で見た「座頭市」に衝撃を受け、イギリス留学を経て、CMで活躍。自分の家族を題材に長編劇映画を撮り始め、6本の作品を残した。ヤスミン・アフマドというマレーシアの女性監督が映画祭で評判になっているということは、数年前から聞いていた。しかし、一本も一般公開されないまま、2年前に急逝してしまった。僕は昨年東京のアテネフランセ文化センターで長編6本を見る機会があった。とても鮮烈な印象を受けたので、多くの人に知って欲しいと思っている。

 世界文化の辺境とも言えるマレーシアの地で、民族や宗教や性別にとらわれない人間の豊かな生き方を示したヤスミン・アフマドの映画。敬虔なムスリム(イスラム教徒)だった女性が東南アジアでそういう映画を撮り続けていたのである。僕たちは、9・11以後のもっとも大切な映画作家を失ってしまったのではないかと思うのである。

 具体的な映画の紹介は次に回し、今日はまずマレーシアという国の紹介から。世界地理は今の生徒の苦手とするところだけど、中でも東南アジア諸国は皆が苦労するところ。日本との関係も深いし、是非知っておくべきだと思うが、マレーシアと言われても場所もよく判らない人も多いだろう。特にマレー半島南部とカリマンタン島北部の両方にまたがる国家と言うことが理解を難しくさせている。その上、社会的、歴史的に複雑な東南アジア社会の中でも、もっとも複雑な民族構成の社会と言ってもよいのが、マレーシアである。

 「マレーシア」という国家自体が、1963年にマラヤ連邦とシンガポール、カリマンタン島北部のサバ、サラワクというイギリスが支配していた領域が合邦して成立した「人工国家」である。オランダ領だったところは「インドネシア」としてすでに独立していたわけだが、当時のスカルノ大統領はマレーシア独立をイギリスの新植民地主義として非難し対決政策を取り、一時インドネシアは国連を脱退したぐらいである。その後、1965年にシンガポールがマレーシアから離脱して独立。1969年5月には、マレーシア史上最大の事件と言えるマレー系と華人の民族衝突が起こり、大きな衝撃を与えた。その後、プミプトラ政策(マレー人優先政策)が取られている。

 人口2750万ほどのうち、マレー系が65%、華人系が25%、インド系が7%と言われる。マレー系はマレー語だが、かつての支配言語の英語を話せる人が多い。華人系は広東語と福建語が多いが、北京語(官話)を話せる人も多い。もちろん、英語を話せる人も多いし、華人の英語国家シンガポールとは仕事や結婚でつながりが多い。インド系はゴムのプランテーション労働者だったタミル系が多いので、タミル語が中心。宗教的には、マレー系がイスラム教、華人系が仏教、インド系がヒンドゥー教だが、各民族ともキリスト教徒がいるし、インド系のイスラム教徒もいる。こういう民族、言語、宗教の「ごった煮」状態なのがマレーシアという国なのである。

 複雑な社会を反映して、映画の中では「マレー語社会」が描かれてきたと言う。華人系は香港映画をみるし、インド系はタミル語のインド映画を見る。従って、多数派のマレー系のためのマレー語映画が「マレーシア映画」という市場を形成し、当然マレーシアの複雑な民族問題は描かれない。そういうようなマレーシア社会に関する知識がある程度はないと、ヤスミン・アフマドの映画はよく理解できない部分があるだろう。

 そんな中で作られたヤスミン・アフマドの出世作「細い目」こそは、マレーシア映画で初めてマレー系少女と華人系少年の恋を題材にした映画なのである。映画の中で広東語がいっぱい出てきて、字幕もつく。映画自体が切ない青春映画の傑作だけど、設定自体がマレーシアではそれまでありえないような映画だったのである。では、具体的な映画作品の紹介は次に。 
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原発はプルトニウムの工場

2011年07月12日 21時29分49秒 |  〃 (原発)
 原子力発電所とは何か? 
 ウラン238を核分裂反応を起こせるようにウラン235に濃縮し、そこに連続反応がおきるように中性子をぶつけ、巨大な核分裂エネルギーを発生させる。2800度にも達する熱エネルギーの3分の2は海に温排水として捨て、残りの3分の1で水を温め蒸気を発生させタービンを回して発電を行う。一方、核分裂が起きると、ウランは放射能を持つ様々な物質に変化して、プルトニウムなどの放射性廃棄物ができる。

 というような判ったような判らないような解説がいろんな本に出てる。電気を生み出す仕組み自体は火力発電と同じだが、そのことを今まで知らなかったという人がいたのには驚いた。原子力で得る熱は大きすぎて調整が難しく、せっかく得たエネルギーの大部分は海に捨てるので、原発を「海あたため装置」と呼んだのは水戸巌さんである。
 原発は放射性廃棄物の処理費用まで考えれば、事故が起きないとしてもコスト的に民間企業が行うにはリスクが大きすぎる。そこで、国は廃棄物処理の方を引き受けるとともに、事故がおきた時のための「原賠法」を作った。そして、最終処分場の建設は国が責任を持つと言ってきたが、まだどこも引き受けていないし、今後も引き受けるところが出るとは思えない。そのまま危険な廃棄物が各原発にたまっている状態である。

 では、国はそこまでしてなぜ原発を推進したいのだろうという疑問になる。
 一つは、アメリカから買う超巨大技術だということだろう。戦後日本では自衛隊や民間航空会社がアメリカの会社から買う飛行機をめぐって、何度も疑獄事件が起こっている。原発はさらに土地買収、漁業権の放棄などが必要で、そこは怪しい人々が暗躍する利権の巣になったはずで、地域の保守勢力の力の見せ所だろう。そういう「利権としての原発」が大きいのは間違いない。しかし、それだけでは原発はとらえられない。なぜなら核兵器の原料となるプルトニウムができるから、アメリカの世界戦略に関わる問題で、アメリカにとっても儲けになるからどこにも売りまくるという問題ではない。

 そこで原発の意義をこう逆転して考えてみる原発はプルトニウム製造工場で、その過程で熱エネルギーが発生しその3分の1を生かして発電するが、どうしても使い切れないので残りの熱は海に捨てる装置である、と。

 日本はむろん非核3原則で核兵器を持たないと表明している。だから原発でプルトニウムが大量にできると問題で、できるわけない「核燃料サイクル」とか無理やりウランと混ぜて燃やしてしまう「プルサーマル」などを無理やり推進してきた。しかし、日本以外の原発大国は核兵器保有国だから、プルトニウムができても問題にならない。
 日本には自国ではいらないことになってるプルトニウムが大量にある。だからそんな危険な原発を何故いつまで持ってるのかというのが反対派の言い分だった。もう全く正当なその疑問に答えるには、実はプルトニウムはゴミ(核廃棄物)ではないという見方をするしかないのではないか。つまり、核兵器原料を大量に保管すること、それが原発を維持し続けてきた真の目的なのではないか

 考えてみれば、大量の核廃棄物(特にプルトニウム)をどうするんだという問いへの一番簡単な答えは、「日本も核兵器を開発すればいい」というものではないか。となれば、核開発を(心の奥底で)めざす超国家主義者にとって原発は経済コストの問題などではないのだ。日本は、憲法上の解釈の問題はあるが、いざという気になれば核兵器を開発する経済力と技術力がある「潜在的核保有国」であることは国際的に認められている。従って、その気になれば数年で開発できるプルトニウム型原爆の原料が大量にあるということは、それ自体が「一定の抑止力」であるという考え方ができなくもない。中国や北朝鮮の動向を見ていれば、この「一定の抑止力」を放棄するなどという政策は考えられない、そう考える政治家がいた、ということが原発を保持してきた最大の理由なのではないだろうか。(なお、日本はIAEAの査察はちゃんと受けて管理されていることが確認されているので、実は秘密裏に核兵器を開発してたとか、裏でテロ支援国家に流れてたりすることはない。)

 もちろん、日本が核兵器開発をするということは現実的には考えられない。国民感情とアメリカの反発で、その政権は崩壊することだろう。だが、選択肢として核開発を残しておくというのが、日本が原発大国である選択をした意味なのではないか。今そう思い始めているところである。
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東京電力の責任問題②

2011年07月11日 22時00分25秒 |  〃 (原発)
 関東も梅雨明けし、脳ミソの融点を超えるような猛暑が続いている。もうあんまりマジメなことを考えたくない気分だけど、昨日の続きだから書いてしまおう。昨日も書いていて、自分であまり面白くない感じがした。それは何故かと考えてみて、こういうブログの意味は何かと思った。それは反対論を書いたり、こういう問題もあるという別視点を出すことにあるのだろうと思う。今までは大体そういうことを書いた方が多い。自分の意見を書けば自然にそうなるのである。しかし、この原発事故の補償問題で言えば、結局政府の考えている枠組みに基本的に賛成なのである。原案賛成では書く意味が乏しい。でも、両端の意見を考慮しておく必要はあるし、実はその先の議論をしたいのである。

 昨日書いたように、東電倒産処理はかえって事故被災者に不利な面が多い。一方、東電を免責するのはどうか。これは最終解決が法的処理に持ち込まれる可能性が高く、時間がかかって誰にも無理が多いということで、皆が避けようとしている。「東電を免責する」と言っても100%の免責にはならないが、有名になった「原子力損害の賠償に関する法律」(原賠法)では、第3条に「原子炉の運転等の際、当該原子炉の運転等により原子力損害を与えたときは、当該原子炉の運転等に係る原子力事業者がその損害を賠償する責めに任ずる。ただし、その損害が異常に巨大な天災地変又は社会的動乱によつて生じたものであるときは、この限りでない。」とある。(下線部、引用者)

 東日本大震災が「巨大な天災地変」に当たらないなら、どうなれば該当するのか?東電を倒産させるなら、この条項の適用を求める裁判が起こるだろう。株主の利益を考えれば、東電経営陣はこの条項の適用を政府に求めるべきではないのか。実はそういう質問は株主総会で何回も出されたが、結局は経営陣としてはそれは適当ではないという答えだった。認識としてはという問いでは、認識としては第3条の「巨大な天災地変」にあたると考えるという答弁だった。しかし、その適用をめぐって訴訟となった場合、被害者補償が遅くなり過ぎ、それは被害を与えた企業として望ましくない。政府が現在国会に提出している「原子力損害賠償支援機構法案」(経産省HP)の枠組みで補償に取り組むという答えだった。この問題に関しては、それ以外の考えは僕にも持てない。

 国民負担はおかしい(税金を補償に使うな)という議論もあるが、原発は国策として進めてきた経緯からしてそれは通らないだろう。(国は国策としてこんにゃくゼリーやユッケを食べろと言ったわけではない。国は薬害エイズや注射針の使い回しによる肝炎などの感染を防ぐ義務はあっただろう。そういう例を考えると、原発ほど国策として進められ、国が安全を保障していた事例はないのではないか。)佐藤栄佐久前福島県知事の本を読むと「国こそが真のムジナ」だと書いてある。原子力関係にはムジナやタヌキがたくさん住んでいて、その総本山は電力会社ではなく国そのものだという認識である。国といっても、民主国家なんだから結局は国民の責任ということになり、税金で処理するということになる。しかし、原発をどうするかは国政でも地方選挙でも、一番の争点ではない時が多いかもしれないけど、一応は争点になってきた。選挙に行かなかった人も含めて、国民の目に見える形で負担するのはやむを得ないと考えている。つまり所得税、法人税ではなく、消費税で賄うべき。それが国民の責任だと思う。福島県と沖縄県は据え置きでいい。(沖縄は原発がない一方、もう一つの「迷惑施設」の米軍基地があるので。)また、選挙権を認められていない在日外国人には、その分の税金還付をすべきである

 ところで、この原賠法と言う法律はなんなのだろうか?成立したのは1961年で国内で原発が営業開始するずっと前である。いつも法律というのは、問題が起こってからあたふたと後追い的に作られることが多いが、この用意のよさはなんなのだろう?そして、せっかくあるのに、この大震災で適用しないなら、もう二度と第3条が適用されることはないだろう。じゃあ、なんだったのだ?民間企業を危険な原発業務に引きずり込むための巧妙な手段。要するにそういうことだろう。
 では、何故そこまでして、原子力発電所を作るのか? ここで、日本の戦後史全体を考える必要が出てくるのではないかと思う。
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東京電力の責任問題①

2011年07月10日 23時14分20秒 |  〃 (原発)
 前にいずれ書くとしていた「東京電力」の責任問題をこの時点で簡単にまとめておきたい。なお、東電株主総会前後に、「東電経営陣」に経営責任があるということは書いておいた。経営者は利潤を出せない外部環境にあっても結果責任を負うが、それでも経営危機への対応、経営方針の見直しなどのスピード性や統率力などで評価を高める経営者もいっぱいいる。しかし、東電経営陣が原発事故への対応で見せたのは経営不在とも言える事態で、企業の信頼を大きく損なった。

 ところで法人としての「東京電力」そのものの責任に関しては、両方向からの議論がある。なお、「原子力損害の賠償に関する法律」(原賠法)でも、また一般的に公害等の企業責任を考えるときの「PPP」(汚染者負担原則=polluter-pays principle)から言っても、 事故被害賠償の責任がまず東京電力にあるのは間違いないので、それは考えるまでもない自明の前提として話を進める。

 議論の一つは、東電そのものに責任があり、もはや(何兆円にもなるという)賠償金を払えるメドはなく実質的には債務超過だからつぶしてしまえ、というものである。「東電が倒産して、誰が困るのか?」(佐高信、週刊金曜日7.8号)というのが代表的な言い方だが、その答えは原発事故被害者が困るのである。民主党政権は日航は法的整理したのに何故東電は救うのか?と言う人もいるが、本業で行き詰った日航と本業ではなく大事故で賠償責任を負うことで経営危機にある東電は全然事情が違う。会社が倒産すると、一般的には担保のある銀行等の融資や社員の給料などの労働債権が優先して保護される。一方債権者集会を開こうにも、被害は今も広がりつつあり損害賠償権を誰が持つのか今はっきりさせることはできない。これでは今法的整理に踏み込むと事故被害者が一方的に被害を受けかねない。

 100%減資して株主の責任をと言う人もいるが、これはおかしい。事故当日まで本業に大損失を予想する材料はなく、東電そのものの失態による事故ならともかく大地震による大損害を株主だけが引き受ける意味がわからない。東京都だけで現在の株価でも10億円以上の価値がある。所有している自治体も多いし一方的に減資されても困る。多くの人に関わってくる。そういうこともあるが、今後も電気はいるので、東電を倒産させるということは新東電を作って事業はそちらに移し、旧東電は賠償会社として実質国有化するという枠組みになる。この旧東電は普通の事業清算の場合と異なり、少なくとも50年程度は存続させなくてはならない。モチベーションの持てない管理会社を作ってもあまり意味はない。

 結局、水俣病を起こしたチッソのように、将来的には電力事業の再検討も含め分社化もありうるが、当面は東電と言う枠組みで賠償をしていくしかないというのが、常識的な結論だと思う。では「原賠法」をどう考えるか。問題はこちらなのだが、長くなったので一端切って明日に。
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尾瀬は大丈夫か?

2011年07月09日 23時10分53秒 |  〃 (原発)
 ずっと原発について書く中の、番外編。尾瀬は大丈夫か?

 何を言っているかわからない人もいるかもしれないが、尾瀬ヶ原は東京電力の水利権があったところで、群馬県側の土地は東京電力が今も所有している。(福島、新潟は国有地。)日本の自然保護運動は尾瀬の保護運動に始まり、尾瀬の保護運動は東電の開発計画との闘いだった。東京電力が発電所計画や分水計画を断念したのは1996年のことである。
 現在、尾瀬の木道を整備しているのは「尾瀬林業」という東電の100%子会社である。東電は尾瀬保護に年2億円を投じて、今は自然保護、観光の中心を担ってきた。

 こういう流れを見てくると、今後東電が今までのように尾瀬の保護に金を掛けられるか、大規模原発事故への対応で莫大な資金が必要な中で、心配になってくる。この問題は、ずっと前から心配で一度書いておきたいと思ったのだが、ほとんど他で取り上げられていない。(朝日新聞6.21夕刊「窓 論説委員室から」が僕が今まで見たただ一つの例外。)

 尾瀬は(個人の他に)林間学校で計3回行った。特に1989年夏に行ったときは、山小屋2泊、コース別分宿というすごいことをやった。僕は今まで担任をした学年ではすべて旅行行事を担当したので、いろいろな思い出があるのだが、このときの尾瀬林間学校は僕の宿泊行事の最大の思い出。まさに尾瀬林業が経営している「東電小屋」「元湯山荘」「尾瀬沼山荘」に分宿した。僕は東電小屋に泊まっている。とにかく山小屋まで行きつかなければ寝ることができない。具合が悪いからふもとのホテルで待つ、ということができない。疲れた生徒の荷物をみなで持ち合いながら、やっとついた山小屋の周りの尾瀬沼、尾瀬ヶ原の美しさ、素晴らしさ。この旅行の思い出と感激は忘れられない。

 その尾瀬を今後も永遠に残していくのは日本人の宿題だが、何か方法はないか?勝手に書くと、尾瀬を国民の手で買い取れないか、と思うのである。尾瀬保護財団の理事長である群馬県知事(先ほど再選された)は反対しているようだが、一部でよく言われる「無利子国債」(その代り相続税の対象外とする)などは「尾瀬債」でこそ意味を持つような気がする。いろいろなアイディアを出すことで、寄付金も集まるのではないか。個人で100万単位、企業で1千万、1億単位で出すところもあるのではないかと思う。(尾瀬買い取り財団指定の水芭蕉ロゴの使用権を多額寄付企業に提供する。尾瀬3県の宿泊施設割引や特産物割引を寄付個人の特典とするなどなど。)僕はどこかでマジメに考えてみるべきだと思う。
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福島原発は地震で損傷したのか

2011年07月08日 23時08分28秒 |  〃 (原発)
 今日発売の週刊金曜日7月8日号放射能はどこに落ちた」特集はとても役に立つので、直接購読してない人も書店で見たらぜひ見て欲しい。青山貞一「放射性物質はどこへ落ちた」は具体的な調査データにより南相馬市東部より福島市の方が空間線量率が高いところがあると示されている。(南相馬市は一部が20キロ圏に入るが、福島市はもっと遠い。)地表1mに比べると、地表面の放射線量がずっと高くなっている。それは「原発から各地に飛んだ放射性物質が降雨により地表面に沈降し、その後、地表に留まり放射線を出し続けているからと推察される。」ということである。
 さて次のページにある早川由紀夫氏の論考によると「汚染ルートとタイミングは福島原発で起こった爆破日時とは合わない」とのことである。「福島原発から大量の放射性物質が漏れたのは、爆発の瞬間ではなかった。爆発からしばらく時間を置いて、原発建屋から音もなく、静かに漏れ出したように見えるのだ。」

 僕は4月10日の段階で、このブログに以下のように書いた。
 「今回、炉心溶融が起こり大量の放射性物質が出ましたが、原子炉格納容器が残っているので、まだ大部分は抑えられている状況と考えています。今、格納容器に窒素を注入し爆発を防ぐ対応を取っていますが、絶対大丈夫という段階ではありません。」
 この段階でまだメルトダウンしていたという発表はなかったけれど、状況を見るとメルトダウン(炉心溶融)しているとしか思えなかった。後に地震当日の夜にすでにメルトダウンしていたという解析結果がずいぶんたってから出てきた。4月10日は震災ボランティアへ行く直前で、しばらく書けないので原発問題をまとめて書いたわけである。その後は具体的に書いてないけど、それは何が起きてるかの正確なデータも出てこないのに、専門家でもない僕が書けることはないと思ったからだ。地震当日夜のまだ勤務先の学校から帰れずテレビニュースも見られない時期に、もうメルトダウンしてしまっていたのだったら、その後の心配して見ていた時期はなんだったのか?

 さて、今一番知りたいことは、どこからどのように放射能が漏れだしたかということだ。今現在は大気中には新しい大きな排出はないと思われるが、地下水には漏れ出ているかもしれない。地震があり、津波が来て、爆発をした。よって原発内部がどうなっているかわかったものではない。
 その中で、今多くの人は「津波」「爆発」が大問題だったと考えていると思うが、問題はそもそもの地震の揺れでどのような損傷があったのかという問題である。なんでかと言うと、高経年化した福島第一原発(営業開始を見ると、1号機が71年、2号機が74年、3号機が76年、4号機が78年)では、揺れそのもので、どこにどのようなパイプのずれとか穴ができたか、わかったものでないと思うからだ。
 実際、5月25日付朝日新聞1面は3号機の「冷却配管 地震で破損か」とトップで報じている。また東京新聞6月1日付「こちら特報部」でも、「認めたくない?地震損傷」「『津波で暴走』怪しく」と大きく報じている。この問題がその後あまり追求されていないと思う。これは非常に大変な問題である。何しろ津波だったら想定外と言って言えないこともないが、地震の揺れそのものに関しては「想定外」とは言えないからだ。阪神大震災、新潟中越沖地震で耐震建築は見直され、揺れ自体には耐えられることになってるので、それが崩れたら、津波対策だけでは終わらずにすべての原発を止めなくてはならないことも考えられる。

 そして、高経年化(つまり古くなってぼろくなった)福島第一原発1号機を、今後も使い続けて大丈夫だよとお墨付きを与えたのは、国(原子力安全・保安院)だったからである。そのお墨付きの日付は、知ってる人も多いと思うけど、「平成23年2月7日」だった。大震災のひと月と4日前である。気になる人は原子力安全・保安院のホームページにある「東京電力株式会社福島第一原子力発電所1号炉の高経年化技術評価書の審査結果及び長期保守管理方針に係る保安規定の変更認可について」という長い名前のプレス発表資料を見てください。
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水戸巌さんを思い出す

2011年07月07日 23時31分28秒 | 追悼
 今日はレイトショーで「土佐の一本釣り」を見ていて遅くなった。銀座シネパトスという東銀座の地下にある、地下鉄の音のする映画館。1980年作品で青柳裕介の漫画の映画化。というか、田中好子(スーちゃん)追悼特集。有名な漫画だけど当時は見てないので、今見るとあまりのマッチョな展開にびっくり。主人公純平役のデビュー新人加藤純平という男の子が、誰か昔の生徒に似てるんだなあ、誰だっけということで悩んでしまった。一生懸命思い出そうとして、途中でふっと思い出した。

 こういうことが時々あるんだよね。生きて来てずいぶんいろんな人にあったけど、その大部分は生徒として教室で接した相手だ。若い時にベテランの先生が、昔の生徒の名前はよく覚えてるんだけど、最近の生徒の名前はすぐ忘れるんだよねなどと言ってるのを聞いた。そんなものなのかと思っていたけど、自分も歳取ってみるとやはりそれは正しかった。

 今まですいぶんいろいろな人に会った中で、「すごい人」と言えば誰だろうか?自分の直接の先生とか同僚だった人は除く。それより「ちょっと会った人」、国木田独歩の「忘れえぬ人々」のような人を歳とるとよく思い出すし、そういう思い出が自分の財産のような気がする。

 何と言っても僕が会った一番すごい人は、野口体操を始めた野口三千三(のぐち・みちぞう)さん。朝日カルチャーセンターの野口体操に通ったことがあって、すごい人だったと思う。

 もう一人が水戸巌(みと・いわお)さん。昔教員になる前、アムネスティの死刑廃止グループなど死刑廃止関係の集まりに顔を出していた時がある。その時、いつも中心になって活躍しているおじさんがいた。その人が「みとさん」という人で、新左翼系の学生運動の救援を行っていた救援連絡センターを作った人だという。そういうすごい人で、「過激」な人かと思うと、実に穏やかにして実務的、若い人に交じって偉ぶらず一緒になんでもやるというような人だった。そのうち、この水戸さんという人の本職は芝浦工業大学教授で、東大の理学部を出た放射線物理学の大家にして反原発運動家だという話を聞かされた。思った以上にすごい人だった。

 水戸さんの名前を最近よく聞くようになった。反原発の「不屈の研究者」小出裕章さんが「恩師と呼べる数少ない一人」と言っている人だからだ。なぜか扶桑社から出てる「原発のウソ」にそう書いてある。(118頁)水戸さんが長く取り組んだ反原発運動がこのように再び盛り上がるときに、水戸さんの名前が思い出されるのは当然だろう。

 しかし、水戸さんが一生懸命取り組んだのは死刑廃止運動もあった。こちらの活躍も振り返って思い出しておきたいのである。アムネスティで取り組んだ国会議員署名活動などでも、一緒に国会議員会館を回った思い出がある。いつもエネルギッシュで、笑顔でみんなを引っ張っていた。さらにすごいなと思ったのは、私立の高校生が文化祭の研究発表で死刑問題を取り上げた時に、実に熱心に若い人の疑問に楽しげに応じていたこと。それに応えた高校生も立派な報告書を作った。当時はまだガリ版刷りの時代である。今も探せばその報告書は僕の家のどこかにあると思うけど、そういう地の塩のような活動が大事なんだなあと今になると思い出すのである。

 僕は水戸さんの私生活は何も知らなかったので、もうずいぶん前になるが1987年正月の新聞に載った雪山遭難の記事で水戸さんの写真を見たときは、本当にびっくりした。双子の大学生の子どもと毎年冬山へ行っていたのだそうだ。北アルプスの剱岳である。ちょっと前の映画で「剱岳ー点の記」というのがあった。日本地図で最後に残った場所である。日本百名山最難関の山と言われる大変なところである。冬山の救援なんて僕にはできないから、心配して見ていただけだったが、水戸さん親子はついに戻らなかった。1986年12月30日のことという。

 四半世紀たってみると、それが水戸巌と言う人の生き方だったんだと思うしかない。
 その最期の鮮烈さこそが一番の思い出となって多くの人に忘れがたいイメージを残した人。ほんのちょっとした触れ合いだったけど、反原発運動家にして死刑廃止運動を含む救援運動家だったある大学教授の名前を知って欲しいと思って書きました。
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日独伊の相違点

2011年07月06日 23時43分00秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 書きたいことがなくなって困る日が早く来て欲しいのだけど、なかなかそういう日が来ません。これからまた原発話に戻りたいんだけど、その前に書いておきたいこと。
 「フクシマ」の事故を受けて、ドイツは原発から撤退し、イタリアは国民投票で脱原発を決めたけど、70年前は同盟国だったドイツやイタリアと、わが日本は何が違うのだろうか???

 そういうことを語る人もいるので、僕の答えを簡単に書いておきます。
ドイツとイタリアは、敗戦後に「国歌の歌詞」を変えた。もっと細かく書くと、ドイツは(西ドイツということだけど)ハイドン作曲のメロディは変えなかったけど「世界に冠たるドイツ」という1番を歌うことをやめて、3番の「統一と正義と自由を」をいう歌詞だけを歌うことにした。ナチス時代は1番しか歌わなかった。イタリアは王政を戦後の国民投票で廃止したので、それまでの王政をたたえる歌に替えて、ヴェルディ編曲の新しい曲になった。もっともそれも歌詞内容が国家主義的で反対論はあるということだけど。日本はどうですか?明治憲法の時代に決まった国歌の歌詞をそのまま使っていていいのかという本質論をせずに、「命令だから(式典で起立斉唱することに)従うのは当たり前だ」とか言ってるレヴェル。ちなみに、ハイドンやヴェルディクラスのメロディにして欲しいよねえ。歌詞内容以前に。

ドイツとイタリアは戦後になって死刑を廃止した。イタリアは諸資料によく1994年廃止とあるけど、これは軍法会議に残っていた規定の廃止で、一般の裁判の死刑は戦後すぐに廃止した。ドイツは西は1949年に廃止したが、東ドイツも統一以前に廃止している。

 これは原発と関係ないようで、深い深い関係があると思います。それは国家は間違う、国家権力は強大になり過ぎてはいけない、国家政策は引き返すことが可能であるという考え方で国家運営が行われているということを示すからです。

 日本では、国家が一端決めたことはなかなか途中で変えることができない。大臣はどんどん変わるけど、官僚はずっと継続していて、同じ政策を推進し続けます。
 死刑の問題は「国家権力をどう位置付けるか」という問題で、僕の理解によればダムや空港や原発などの大型公共施設から途中で撤退するということは、死刑制度がある限り難しい。

 ちなみに、アメリカ合衆国は州ごとに死刑廃止、存置が分れている(廃止が15州と首都、プエルト・リコやグアムなどの海外領土、他にも検討中や執行をしてないところもある)ので、G8参加国で死刑を完全に存置しているのは、日本だけ。

 ということで、反原発運動家にして死刑廃止運動家だった、故・水戸巌さんのことを最近よく思い出します。水戸さんのことを次に書こう。
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