尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

水木洋子邸から、荷風展へ-市川文学散歩

2017年11月25日 22時12分46秒 | 東京関東散歩
 久方ぶりに晴れていて気持ちのいい週末。市川市文学ミュージアムで永井荷風に関する展示をやっていて、荷風が生涯の最後に見た映画「パリの恋人」の上映もある。それに合わせて行きたかった水木洋子邸に行こうかなと思った。水木洋子(1910~2003)は50年代、60年代の素晴らしい日本映画の脚本家だった人である。長命をまっとうした後、邸宅や遺品は千葉県市川市に寄贈され、第2、第4の土曜と続く日曜に公開されている。公開日が少ないからなかなか行けなかった。
   
 水木洋子とは、いくつかの縁がある。僕は80年代に6年ほど市川の真間に住んでいた。水木邸のある京成八幡の隣駅である。また、水木洋子は東京府立第一高女の卒業で、僕はその後身の都立白鴎高校だから半世紀近い後輩ということにもなる。もっともそういうことは割と最近知ったことで、水木さんの生前は全然知らなかった。水木邸には、京成八幡駅が一番近い。駅を出て線路を渡って、北側の葛飾八幡宮を見ながら線路沿いの道を少し行くと、左へ進めという案内が出てくる。僕は今回と逆の行き方を数年前にたどって、道に迷って大変な目にあってしまった。
   
 初めの2枚の写真は、行くまでの道々。市川市は江戸川を隔てて東京の隣で、昔は真間、八幡あたりはけっこうな高級住宅地になっていた。今は代替わりでマンションやアパートが多くなっているが、今も道が細くて行き止まりが多い。ところどころにある案内に沿って徒歩10分ぐらい経つと、水木邸の看板が出てくる。昔よくあった一階建ての建物で、「水木邸」というより「水木宅」という感じ。50年代の暮らしがそのまま残されたような家である。入場無料。
   
 中へ入ると昔のまま保存されている。奥に執筆の場だった書斎がある。(上の一番最初の写真)和服をまとったマネキンは水木さんのものだから小さい。聞いてみると、身長150センチぐらいだったけど、威厳があったという。家には数多くの映画賞のトロフィーなども残されている。4枚目の写真は右側の一見タンスのようなものが、実は戦後すぐに特注されたレコードプレーヤーとラジオ。扉を開けると現れて、下がスピーカー。そういうものに囲まれ、ここでずっと母と住んでいた。

 面白いのが酒豪番付。ここで載せたのは映画人番付で、文壇番付もあった。横綱が内田吐夢と今井正。大関が三船敏郎と城戸四郎。この番付の東前頭9枚目に水木洋子がある。ちなみに、西の前頭9枚目が田中澄江になっている。女性のトップは小結に嵯峨美智子、久慈あさみがいて、他に女性としては高峰三枝子、越路吹雪、三宅邦子、水戸光子などが載っている。勝新太郎や石原裕次郎が低いのは、まだスターとして若かった時代の番付だからだろう。そうそうたる監督や俳優に交じって、脚本家が載っていることがすごい。そのぐらい知名度もあったということだ。

 水木洋子は文化学院を出たあと、左翼系の演劇活動をして舞台にもたっていた。しかし、24歳の時に父が亡くなり、それを機に舞台劇やラジオドラマの脚本を書くようになった。戦後に映画も手掛けるようになり、巨匠の脚本をたくさん書いた。特に今井正の「また逢う日まで」「ひめゆりの塔」「ここに泉あり」「純愛物語」「キクとイサム」など、成瀬巳喜男の「おかあさん」「兄いもうと」「山の音」「浮雲」など、この二人の監督の50年代の傑作はほとんど担当している。山下清を描く「裸の大将」(堀川弘通監督)も書いているが、山下清がいた八幡学園は水木邸からも近いところにあった(今は移転)。
  
 庭に出ると、外から見ていた時より広い感じ。芝生が広がり、そんな大きな家ではないけれど、気持ちがいい。そこから南の方にひたすら歩き、京成線、京葉道路、JRと越えていくと、日本毛織の工場跡に作られたショッピングモール「ニッケコルトンプラザ」が見えてくる。そのすぐそばに市川市文学ミュージアムがある生涯学習センターに着く。ここで「永井荷風展―荷風の見つめた女性たち―」をやっている。(2018年2月18日まで。)「パリの恋人」は案外空いていて、上映素材はよくないけど、まあヘップバーンを楽しめた。これはパリと付くけど、ハリウッドのミュージカル。
  
 荷風の愛した女たちと言われても、そのほとんどはいわゆる「くろうと」女性である。だから嫌いだという人もいると思うけど、荷風は家制度に収まる人ではなく、二度結婚したけど生涯はほぼ独身だった。自由に恋愛ができる時代ではなく、家制度に縛られたくない場合、男にはそういう場があったわけだ。ロマンティックな資質と、冷徹なまなざしを両方ともに満足させる道は荷風にとってそれしかなかったんだろう。二度目の妻、芸者の八重次は結局荷風の浮気に怒って離婚するが、後に藤陰静樹を名乗って日本舞踊の藤陰流の創始者となり、文化功労者に選ばれた。ところで今回ビックリしたのが、京成八幡駅前にあった「大黒屋」が廃業していたこと。晩年の荷風が毎日通い、同じものを食べた。そのカツどん、お新香、お銚子一本が「荷風セット」として有名だった。7月に廃業した由。
   
 文学ミュージアムから京成八幡駅まで結構あるが、のんびり歩いていくと、京葉道路沿いに「不知森神社」(しらずもりじんじゃ)がある。古来よりこの森が入ってはならない場所とされ、「八幡の藪知らず」という今も時々使われる慣用句(入ったら出られない藪や迷路)の語源となった。でも今はほんのちょっとしかない竹林で、迷いようもないぐらい。それでも近くの歩道橋の上から撮ると、こんもりとした様子がうかがえる。最後の写真は、その近くにある文房具屋「ウエダビジネス」。水木洋子や写真家の星野道夫の文房具を扱っていた店なんだと散歩マップに出ていた。
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