尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

障害者差別を増幅させないために-相模原の事件を考える

2016年07月31日 23時36分56秒 | 社会(世の中の出来事)
 26日、旅行へ行く日の朝、テレビではとんでもない事件の発生を伝えていた。神奈川県相模原市緑区の知的障害者施設で、元職員の男が襲撃する事件が発生し、19人の死者、26人の重軽傷者が出た。驚くべき事件だったけど、「これは一体何なんだろうか」と思うと同時に、「この事件を利用して、再び障害者どうしの差別を増幅させるような事態が起きてはいけない」と強く思う。

 事件の中身について書く前に。
①この事件を何と呼ぶべきか、まだ定着した名前がない。ウィキペディアを見ると、「相模原障害者施設殺傷事件」として項目が立っている。一般的に呼ぶときには長すぎるので、いずれ「相模原事件」と呼ぶことになるかもしれない。犯人の名前や施設名をつけることは、最近では避けるようになっているので。ここでは「相模原の事件」と書いておく。

②だけど、どうも自分で納得できない部分があるのだが、「あそこも相模原なのか」と思ってしまう。もともと相模原は神奈川県中部の北にあり、東京都町田市に隣接する。2006年、2007年に西北部の相模湖周辺を合併し、人口70万(政令指定都市の条件)を満たした。2010年に神奈川県で横浜、川崎に次ぐ3つ目の政令指定都市となった。だけど、相模湖周辺ともなれば、僕にはどうも「相模原」というイメージから外れてしまうのだが。

「障害」という言葉をどう書くか。「障碍」あるいは「障がい」と書くこともある。「害」という字のイメージが差別的だということである。だけど、今は法律に使われる言葉である「障害」を使うことにする。使い分けるのも面倒だし、法律に触れることにもなるので。

 さて、今回の事件はあまりにも理不尽で、凄惨で、想像を絶するものだった。死者数だけを見るなら、帝銀事件(12人)や地下鉄サリン事件(13人)を超えている。1938年に岡山県で起きた「津山30人殺し」というのが記録されているが、戦後に限ると最悪の事件というしかない。世界では毎日のように大量の死者が出るテロ事件が報道されている。日本でも刃物等で無差別に殺傷する事件はかなり起きている。だけど、銃や爆弾を使わない限り、19人もの人を殺すという事件が日本で起きるとは考えられていなかったと思う。

 こういう事件が起きると、世の中では「おかしなヤツが事件を犯した」とみなしやすい。今回も実行犯の元職員が、施設を退職後に「措置入院」していたと報道されると、「退院が早すぎたのではないか」という方向の議論が始まっている。あるいは、大麻、危険ドラッグ等の使用疑いも報道されている。だけど、常識的に考えて、薬物中毒で事件を起こすというのは妄想や高揚感からくるものである。無差別殺傷事件を起こしたなら薬物中毒もありえる。だけど、今回の事件の恐ろしいところは、「無差別殺傷事件」ではなかったということである。計画的な襲撃事件の原因が薬物だということは一般的には考えられない。

 「措置入院」も同様である。措置入院というのは、精神保健福祉法によるもので精神障害により「自傷他害の恐れ」がある場合に都道府県知事の権限で強制的に入院させる制度である。確かに、統合失調症や気分障害(うつ病や双極性障害)などでは「自傷他害」が起きる場合もありうる。だけど、統合失調症の場合でも、周りから攻撃されているといった「妄想」から他害に至ることが多いだろう。この実行犯の場合、「そう病」(双極性障害)と診断されたらしいけれど、報道されている「友人の証言」によると「医者をだまして退院してきた」と言ってるらしい。

 入院当時は「明らかに奇異な言動」が見られ、「危険な他害の恐れ」と周りが意識したのだろうが、事実はどうだったのか。今後、単なる刑事責任の有無にとどまらない、慎重で十分な検討をしていかないといけない。僕が思うに、「措置入院からの退院が早すぎた」のではなく、そもそも「措置入院」で対応するべき事案だったのだろうかという気もする。統合失調症や双極性障害ではなく、むしろパーソナリティ障害の可能性を感じないでもない。精神疾患による不安というよりも、偏った世界の見え方から異常な攻撃性を持つに至ったという感じも受けるのである。

 ただし、施設に勤務している間に、健康保険証を3回もなくしているという報道がある。普通は一回も無くさないだろう。加齢等による認知症的な事例を除けば、3回も無くすという無秩序ぶりは理解が難しい。このあたりにも、まだ犯人を考えるための情報が不足していると思う。何かにより変わったのか。あるいは生得的なものがあったのか。成育歴も慎重に調べていかないといけない。事件は精神疾患によるのか、性格によるのか、あるいは偏った「思想」によるのか。「ヒトラーが降りてきた」と語ったらしいが、それは病的な妄想を示すものか、それとも「思想的目覚め」なのか。

 こうしてみると、まだまだ分からないことだらけだが、これを簡単に分かったことにしてはならないと思う。「狂った人間の仕業」にしてしまえば、あとは「精神障害者対策の強化」につながってしまう。障害者差別事件が、障害者差別を増幅させてしまう。今までもそういうことはよく起こってきた。「おかしなヤツはずっと入院させておけば良かった」などということにしてはいけない。大体、旧ソ連じゃあるまいし、精神病院に「おかしな人間」を閉じ込めておけというような制度を作ってはいけない。

 行政的には「三障害の一元化」が浸透してきた。2016年4月から施行されている「障害者差別解消法」(障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律)でも、身体、知的、精神(発達障害を含む)の3つの障害を同等に対象にしている。だけど、現実はそれぞれの障害はお互いに必ずしも理解しあっているわけではない。それは難病などの場合も同様。そのあたりが難しい。

 今回は、報道されている実行者の「意図」をみると、むしろ計画的な「ヘイトクライム」(憎悪犯罪)だと理解するべきではないか。2011年にノルウェーで起きたテロや最近ドイツで起きたイラン人青年による殺人、あるいはアメリカの同性愛者があつまるナイトクラブが銃撃された事件などに近い感じを受ける。「弱いもの」への執拗な攻撃性がどこから来たのか。そう考えると、確かに殺人を自ら起こすというのは極端に過ぎるけど、弱肉強食的な世界観、あるいは「自己の信念」に基づく大量殺人のニュース、それらが日々我々の頭の中に大量に流れ込んでくるという事実である。

 「自分は今までは何物でもなかった。しかし、弱いものを抹殺するという「世界浄化」を実行することで、自分の使命が果たされるのだ」などと思い込む人が出てきても、驚くこともないのかもしれない。今までにも石原元都知事は「ああいう人に人格はあるのかね」と発言したし、麻生副首相は折々に「高齢者は金食い虫」的な人生観を語っている。日本においてこのような「ヘイトクライム」が起きても不思議ではないのではないか。

 なお、葉真中顕「ロストケア」(光文社文庫)というミステリーがある。これは高齢者介護施設で大量連続殺人が起きているという話で、事件の様相は全然違うけど、テーマの問題性に共通点がある。もっと言えば「役立たず」あるいは「害をなすもの」を殺害しても許されるのかという問題で、ドストエフスキー「罪と罰」の主題である。ウッディ・アレンの最新コメディ「教授のおかしな妄想殺人」も似たような問題が出てくる。このような主題の文学は昔から多い。あるいは親鸞の言葉を記録した唯円の「歎異抄」。そのようなものに若いときにじっくり接する機会を作ることが大切なのではないか。そして「あらゆる人の生命を人為的に奪ってもいのか」という問いを立てれば、「死刑廃止論」をきちんと議論しないといけない。そのような思索と議論の場が教育の中にあるべきなんだろうと思う。
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映画「裸足の季節」-トルコ女性の苦難と挑戦

2016年07月30日 23時16分14秒 |  〃  (新作外国映画)
 トルコの5人姉妹の苦難の青春を描いた映画「裸足の季節」を見た。トルコ人の女性監督がトルコで撮った映画だけど、監督はフランス在住でフランス映画に分類される。フランス代表として米アカデミー賞外国語映画賞にノミネートされた。非常に素晴らしい映画で、青春の躍動、抑圧への反抗をみずみずしく描いている。カメラが動き回るので、最初はちょっと気になったけれど、すぐに登場人物の運命に心が捕らわれてしまった。
 
 トルコの田舎町、「イスタンブールまで1000キロ」とセリフにある。海が出てくるが、これは黒海だという。そこに5人の姉妹が住んでいる。ある日の放課後、好天だから歩いて帰ろうということになり、海を見ているうちにはしゃいでしまい、男女混じって海で遊び始める。女子が男子に肩車してもらって騎馬戦が始まる。ところが家に帰ってくると、祖母からきつく叱られる。隣人が見ていて「密告」したのである。男子とふしだらな遊びをしたということで、叔父は以後学校へ行かせず、少女たちを家に閉じ込めて「花嫁修業」を強制するのだった。

 冒頭の海のシーンの躍動感、そして一転してその程度のことで「幽閉」されてしまうトルコの現実。そのことにもう驚くしかない。5人姉妹の実父母は10年前に死亡して、祖母の家で父の弟に育てられている。女の子ばっかり5人もいて、親はもう死んでいるという、実際にはありえないような設定である。だけど、その結果、「女の子たちの世界」を生き生きと描けるようになっている。と同時に、自分の子ではない女子を「ひと様から後ろ指さされないように育てなければならない」という「トルコ社会の家父長制の掟」を祖母や叔父に強く意識させる「効果」も持っている。

 だけど、映画ファンにしてみれば、「五人姉妹」というのはどうも不吉である。古くは台湾の「ファイブ・ガールズ・アンド・ア・ロープ」(1991)があって、東京国際映画祭ヤングシネマ賞でシルバー賞を受賞した。これは中国作家の原作があるが、中国でも「五人少女天国行」(1991)として映画化され日本でも公開された。そしてアメリカの作家ジェフリー・ユージェニデスの「ヘビトンボの季節に自殺した五人姉妹」(1993)がある。それをソフィア・コッポラが映画化したのが「ヴァージン・スーサイズ」(1999)という映画。20世紀末の10年間にこれだけ似たような映画があった。

 「裸足の季節」では、どうなるのだろうか。はじめはアクセサリーやパソコンのキーボードを取り上げられるけど、窓から外へ出られる。ある日、女性観客のみのサッカー試合が行われる。というか、男どもがグラウンドに乱入して乱闘する騒ぎがあって、男性観客禁止になってしまったのである。それもビックリだが、村の若い女性はバスを仕立てて見に行くことにする。そのことを教えてもらって、5人は何とか家を抜け出ることにする。いろいろ時間がかかって結局間に合わず、バスは行っちゃう。そこでトラックを停めて追いかける。そして何とかサッカー場に入れるけど…。

 そして一人ずつ家を去っていく運命にある。長女はもう秘密の交際相手がいて、彼から親を通して求婚してもらえた。しかし、次女は親の決めた気に沿わぬ相手と結婚しなければならない。花嫁はもちろん処女でなければならない。これは言葉だけではない。翌日に花婿側の親が確認にやってくる。疑いがあれば「処女検査」を受けなければならない。いやはや、とんでもない世界である。一言でいえば、「女は結婚して夫に仕える」という運命にあり、親はそのために女子を育てなければならない。家父長制が厳しく残り続けているのである。

 続いて、三女、四女と結婚話が進んでいき、悲劇が起きる。そして、もっとも小さい末っ子の五女、ラーレによって、違った運命が導かれる。「新しい世界に飛び立っていく」というラストを持つ映画は多い。でも、「裸足の季節」ほど、絶望からの旅立ちを描いている映画も少ないのではないか。これを作ったのは、デニズ・ガムゼ・エルギュヴェンという絶対覚えられそうもない長い名前の女性監督。1978年、アンカラ生まれだが、フランスやアメリカでも学んだ。フランスで初めて作った長編映画が「裸足の季節」。姉妹役の5人は全員オーディションで選ばれた新人である。見た感じは「社会派」というよりも、「ガールズトーク映画」と呼びたいほど5人のアンサンブルが素晴らしい。

 そして、彼女たちの運命とおしゃべりから、トルコの現代女性事情も見えてくる。一つは「スカーフ」の有無で、田舎といえどしてない女性も多い。だけど、「密告」するなど目を光らせているのは、きまって「スカーフ」の女性。そこに「イスラム教」をめぐる政治的、社会的分断状況が見えてくる。男たちは集まってテレビでサッカーを見ている。女たちは別の部屋で料理をつくる。この場にいて変化を求めることはできない。言われるまま結婚するしかない。それは日本でもそうだったけど、それでも「東京へ出てきてしまう」という選択をした女性も何人もいた。同じように、この映画の女子は「イスタンブールをめざす」のである。幸せが待っていて欲しいけど…。

 トルコ情勢の話を先ごろ書いたから、この映画もぜひ見たいと思っていた。でも、シネスイッチ銀座の上映は29日で終わってしまった。他でやってないか調べたら、一日一回だけ恵比寿ガーデンシネマでやっていた。5日まで。東京では、続いて渋谷アップリンク、キネカ大森などで上映が予定されている。この映画の躍動感と同時に、トルコに限らないけど「女性抑圧社会」の現実はぜひ多くの人に見てほしい。魅力的で、ワクワクするような映画だけど、背景にある深刻な状況も忘れられない。
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都知事選、「つくる会」が小池百合子を支持!

2016年07月29日 23時07分02秒 |  〃  (選挙)
 都知事選は終わってから書くと思っていたけど、この情報は「ぜひ事前に書いておくべきことだ」と思ったので。後で詳しくふれるが「新しい歴史教科書をつくる会」という右派系の団体がある。そこのホームページに、「小池百合子候補を支持する声明を発表」というお知らせが掲載されている(7.19日付)。どの団体が誰を支援しようが自由ではある。だけど、なぜ「教科書をつくる」という趣旨の団体が、都知事選で推薦候補を発表するのだろうか。そこに、この運動の「特徴的考え方」が表れている。

 この声明では、今までは「民間の任意の団体」として、特定の候補を推薦することは避けてきたと言っている。また、最後には「会員個々のお考えに基づく投票行動をいかなる意味においても制約するものではありません」とも断っている。それなのに、なぜ今回は推薦候補を決めたのだろうか。

 それは以下のような理由からである。「地方選挙でも教科書改善運動への影響があまりに大きい場合は、私達の目標を成し遂げるためにも、一定の立場を表明することが必要な場合があると考えられます。そして今回の都知事選挙は、まさにそうした場合にあたると考えます。」

 知事が教科書を決めるわけでもないのに、なぜ「影響があまりに大きい」のだろうか。仮にそうした影響があるとして、では過去の都知事選ではどうして推薦候補を決めてこなかったのだろうか。僕が思うに、それは次のような理由だろうと思う。「新しい歴史教科書をつくる会」が扶桑社から教科書を出して、教科書採択戦に乗り出したのは、2001年が最初である。その時に公立校で採択したのは、東京都と愛媛県の養護学校だけだった。選ぶのは教育委員だが、都道府県の教育委員を決めるときには知事の力が大きい。(議会の同意が必要。)「教科書改善運動」を進めるに際しては、首都である東京に石原知事が「君臨」していることが絶対的な条件だったのである。

 石原後の2012年の選挙、次の2014年の選挙では、猪瀬、舛添候補が有力であることが事前に予想できた。(舛添氏は「つくる会」系ではないけど、だからと言って、「つくる会」として田母神支援をするわけにもいかないだろう。)ところで今回は、自民党が分裂している。一方では野党4党の統一推薦候補が出馬している。つまり、かつてなくリベラル系知事当選の可能性が高まった。これはつまり、反「つくる会」運動を行ってきた勢力が「都政与党」になるということである。だから、彼らには都知事選が「危機」に見えるのだという風に理解できると思う。

 それにしても、ではなぜ自民党が正式に推薦している増田候補ではなく、政党の支援を受けない小池候補なのだろうか。その理由は三つ挙げられている。第一が「今回の都知事選挙の最大の争点である外国人参政権問題」である。いやあ、「外国人参政権問題」が都知事選の最大の争点だったのか!それは知らなかったよ。(ところで、書くならば「定住外国人地方参政権問題」とちゃんと書くべきだろう。国政参政権の問題じゃないんだから。)小池候補は「唯一、明確に反対」しているという。

 続いて、2点目は五輪を控えて、「首都東京のトップが女性であることは、参加国に清新なイメージを与え、日本の国際的地位を向上させ、国益につながります」だそうである。そして3点目。「歴史観についても、小池候補はしっかりとした見解を持っておられます。国会議員として教科書問題にも取り組んでこられ、3人の候補のなかで、「つくる会」の運動を支持してくださった唯一の候補でもあります」とある。そうか、小池百合子は「つくる会」支持派だったのか! そう言えば、東京新聞のアンケートで憲法改正について聞かれ、「自民党改憲草案」に基づいて進めるべきと答えていたな。(東京新聞のHP「<明日を託せるのは誰> (10)憲法」参照)小池候補の右派ぶりが見えてくる。

 さて、この「つくる会」の発想は、もう一から十まで、おかしいことだらけである。右派なんだから右派系候補を支持するのは勝手である。それぞれで自由にやればいい。だけど、「教科書改善」と何の関係がある? 「すぐれた教科書を作れば、教育委員がしっかり議論して選ばれるはずだ」という「タテマエ」を自分たちでも信じていないのだろう。2004年以後、東京都教委は都立学校(中高一貫校、特別支援学校)に扶桑社、育鵬社、(一部で自由社)を採択してきた。それに対して、「現場の声を聴かずに押し付けるな」と僕はずっと反対してきた。都知事選の結果が「あまりにも大きな影響を与える」教科書って、一体なんだ? まさに「押しつけ」そのものの発想ではないか。

 「新しい歴史教科書をつくる会」は、90年代半ばに「今の教科書は間違っている」と主張する人々が旗揚げした。だから当初は右派論壇人がズラッと結集していた。その後、分裂が相次ぎ、多くの人々は「日本教育再生機構」に移っている。従来の教科書は右寄り過ぎて採択されないと自分たちで総括して、教科書の発行も当初の扶桑社から育鵬社に変わった。(扶桑社は産経新聞の子会社で、育鵬社はさらに扶桑社の子会社。教科書発行に特化した会社で、産経新聞系には変わりない。)一方、「つくる会」は自由社から教科書発行を継続しているが、採択はごく一部の私立に限られている状況である。現在の会長は、弁護士の高池勝彦という人で、もともとの創設者で常に物議をかもしてきた藤岡信勝氏は副会長。理事には、高森明勅、富岡幸一郎、加瀬英明、田久保忠衛などの諸氏が名を連ねている。
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長野・中の湯温泉の「湯力」

2016年07月28日 23時07分30秒 |  〃 (温泉)
 26日から一泊で、長野県の上高地の近くにある「中の湯温泉旅館」に行ってきた。いやあ、良かったなあ。なにより「本物の温泉」の力。信州の温泉の中でも、「湯力」が高いのではないか。しばらく、なんとなく調子が出なかったのだが、温泉につかって、涼しい宿でぐっすり寝たら、すっかり快調になった。まさか、まだ梅雨明けもしてないとは、まったく想定していなかったけど、やっぱり温泉はいいな。

 なんで今の時期に行ったかというと、7月いっぱいまで有効の割引クーポンを持っていたから。ずっと忘れていて、7月になって突如「再発見」したのである。やっぱり時々整理はしないといけない。「中の湯」は昔から、山好きには知られた温泉で、特に焼岳の登山口として有名である。いつか行きたいと思いながら、安房トンネル工事で閉めてしまい、その後山の上の方に移転した。それからも20年近くたっていると思うが、ようやく行く機会ができたわけである。焼岳は登らないけど。

 車で行こうと思って、近くのレンタカー店で軽を借りた。たまに車を運転したいし、家から荷物を載せていけるから山へ行くときは便利。でも、この日は関東から長野にかけて大雨で、高速もスピードが出ていない。東北道、圏央道、関越道、上信越道、長野道と移り変わりながら、のんびりと休み休み行ってたら時間がかかってしまった。軽井沢あたりは、大雨でまったく何も見えず。サービスエリアでもトイレに駆けていく以外に体を動かせない。どうなるんだと思ったら、松本近くになって止んできた。

 「中の湯」はまず上高地へ向けてまっすぐ行く。2年前に行ってるから、大体覚えている。松本インターからまっすぐ一本道だから迷うことがない。途中で「道の駅 風穴の里」があるが、そこの話は帰りにまた。上高地はマイカー規制で入れないが、ギリギリの場所まで行って安房トンネルの方へ曲がり、トンネル直前で右に曲がって山を登る。この道しかないんだから、行けば着くだろうと思いつつ、ホントにこの道でいいんかなあと思うほど登ったら、突然大きな旅館が見えてきた。
 
 入るとロビーに案内されるが、山の中とは思えないほど広々としている。ロビーからは山は全然見えなかったが、翌日になると少し見えてきた。それでも雲がかかっている。温泉は夜10時に男女が変わる。家族風呂もあって空いてれば自由に入れる。ちょうど空いていたので、まず飛び込む。適度の湯音で、透明の湯があふれている。お湯に「重み」と多少の「匂い」がある。単純泉というが、成分はかなりある感じ。お湯自体に温浴効果があるわけだが、やはり山の秘湯というのは、成分の力で体に効くというのは、長いこと温泉を廻っていての実感だ。(温泉の写真は撮らず。)ちなみに、うちの奥さんが言うには、女風呂にスマホを持ち込んだ高校生ぐらいの姉妹がいたらしい。お風呂で「ポケモンGO」をしてたわけではないようだが。さすがにそれはアウトだろうとお冠。
   
 料理もおいしかった。鴨鍋に、サーモンのお造り、手打ちそばなどなど。またお風呂につかり、涼しくなってぐっすり眠る。翌日は何とか天気も持ちそうだったが、のんびりしたいから上高地へ行くのは止めた。行く人は旅館が観光バス乗り場まで送ってくれる。帰りは上高地入り口の「中の湯売店」で電話してくれれば迎えが来るとのこと。この売店のところに、有名な洞窟風呂「卜伝の湯」がある。塚原卜伝(ぼくでん)にちなむ湯だが、今回は時間がなくて入れなかった。また行って連泊したい温泉だ。

 ということで、翌日は安房トンネルを超えて、「平湯大滝公園」に行ってみる。岐阜県まで個人で足を延ばすのは2回目。滝と鍾乳洞が大好きで、ずいぶん行ったものだが、ここは初めて。駐車場は有料だし、そこから結構歩くが、まあ一度は見る価値はある滝だと思う。落差64mで、相当の迫力がある。シャトルバス100円が待ってて、つい乗ってしまう。降りた場所近くで撮ったのが以下の写真。
  
 そこから200mほど歩くともっと近づける。だけど、滝壺にはいけない。しぶきがものすごく危険だろうが。帰りは歩いて戻った。バスは待ってないし、下りだから案外早いではないか。戻るとトイレを利用するためにお土産売り場に入る。特に買う気もなかったのだが、マツコ・デラックス大絶賛という「飛騨清見ソース」(470円)というのに気が引かれて、妻が買ってみる。なかなか美味しいです。どこにも名物があって、つい買っちゃうのも、夫婦で温泉を訪ねるときの旅情ですよね。
  
 そのあとは戻ることにして、再び休み休み。最初が「道の駅 風穴の里」。前にも行ってるけど、名前の由来「風穴」(ふうけつ)を見てない。風穴というのは、山から冷気が噴き出すスポットのような場所で、地形の関係で岩と岩の間のような場所から、夏でも10度以下の風が出ている。昔から「天然の冷蔵庫」として利用され、今も酒造会社などで利用している。歴史的には、養蚕業で蚕の卵を保存する場所として利用された場所が多い。ここもそうだった。道の駅から歩いて15分近くもある。案外遠いんだけど、いやあ、ビックリの寒さで驚くほど。見てみる価値がある。
   
 近くに無料の「松本安曇資料館」という郷土資料館があった。こういうところもよく行く。昔の農機具などが並んでいるだけみたいなところが多いけど、それも大事な地域の遺産だし、誰もいないだろうから行ってみようかと思う。そうやって、ずいぶん各地の資料館を見ている。ここはここで生まれた版画家加藤大道の版画作品や、昔の山岳写真など見どころも多かった。道の駅に戻って、のんびり休む。フルーツがいっぱいあって、冷やして売っている。ブルーベリーとネクタリン、そしてわさびコロッケを買って、外にあるデッキで食べた。やっぱり急ぐだけでなく、こういうのも旅行の楽しみだな。地のフルーツとB級グルメ。まあ、その後も眠くなれば休んで、トイレ休憩もいっぱい取り、ついお土産も買ったりしながら、帰ってきた次第。(僕の場合、甘いものもお酒も好きではあるけれど、何も高速のサービスエリアで買わなくてもいい。それなのに、お煎餅でおいしそうなのがあると、つい買っちゃうのは、どうしてなんだろう。)
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女子円盤投世界記録の謎

2016年07月25日 23時09分45秒 | 社会(世の中の出来事)
 明日から一泊で山の秘湯へ。だけど、いまだ梅雨が明けていないなどとは想定外。山は雨の予報。

 だけど、出かけられるんだろうか。土日も疲れて具合が悪く家で休んでしまった。しばらく映画も見てない。演劇や美術展も。書くことがないなあ。都知事選があるだろうって?まあ、そうなんだけど、候補者をほとんど見てないし、思うこともあって選挙後に書きたい。大体、僕は「9月までは舛添にやらせればいいだろう」と書いてたわけで、今もそう思う。政策論争がないとかいう人がいるけど、当然だろう。

 ところで、実は都知事選に関して、書いておこうかと思ったことがある。
 「桜井誠は『櫻井パパ』ではありません」という記事である。
 当たり前だろ、さすがにそれを間違う人はいないだろ!と思うかもしれないが、僕はホントに聞かれたのである。ある日、家から駅に向かうとき、暑いから公園の木陰の中を歩いていた。そこに、「寝てるオッサン」がいた。まあ、なんというか、上はランニングシャツで下は短パンという感じの。そのオッサンが僕に声を掛けてきた。なんだなんだ、一瞬身構えてしまうではないか。

 「げいのうじんのおやじ、だれ?
 何のこっちゃ?意味不明であると思って、えっと聞き直すと、だんだん判ってきた。
 公園の向かいに都知事選のポスター掲示板があるけど、今回の都知事選には何でも「芸能人の父親」が出ているという話だが、それはこの掲示板の中の誰のことなのか、知っていたら教えて欲しい。
 という問いかけだったのである。信じられないかもしれないが、実話である。いやはや。

 さて、リオ五輪開催も近づいていた。ところで、64年の東京五輪の女子体操個人金メダルで、日本人の永遠の思い出に残るベラ・チャスラフスカ(チェコ)の悲しい記事があった。今はがんで闘病中で「余命宣告」を受けたというのである。チャスラフスカのことは前にも書いたけど、突然昨日から読まれている。時々昔の記事がリバイバルするときがあるんだけど、今回は悲しいきっかけ。「ベラ・チャスラフスカの勇気ある人生」という記事。ブログ開始まもないころで、まだ写真や本も載せてないね。

 さて、五輪ではロシア選手団の参加の可否をめぐってもめている。陸上競技に関しては、国家ぐるみのドーピングが明らかになり、参加が不可能になった。この問題の記事には、WADAという国際機関の名前がいつも出てくる。「世界アンチ・ドーピング機関」というらしい。WADはすぐ判るけど、では最後の「A」は何だ? 「International Labour Organization」が「国際労働機関」で、「ILO」。「機関」というときは「オーガニゼーション」(まあ「オーガナイゼイション」かもしれないが)だと教えるんだけど。さて、WADAは、World Anti-Doping Agency と書くのですね。「代理店」みたいな感じだけど、「独立行政法人」なんかのことも指すようだから、「機関」でもいいのかな。

 ドーピングの記事を読んでると、「女子円盤投」の世界記録なんか、80年代に東欧の選手が記録して以来破られていない。永遠に破られない記録とさえ言われているという話。ホントかなと思って調べると、ウィキペディアの「円盤投」の項目に出ている。(ちなみに、種目名としては「円盤投」と書いて「円盤投げ」とは書かないという。)

 そうすると、確かに世界記録は東ドイツのガブリエレ・ラインシュという人の、76m80になっている。1988年のもの。ほとんど名を残していない選手だということで、ソウル五輪は7位。2位はチェコのズデンカ・シルバハの74m56(1984)なので、2メートルも違う。それどころか、なんと男子の世界記録、ユルゲン・シュルトの74m48をも超えている。こっちも東ドイツで1986年に出たもの。ただし、一般男子の円盤は2キロ、一般女子は1キロで重さが違う。

 女子の記録を10位まで国名と年だけ見ると、東独(1988)、チェコ(1984)、東独(1989)、東独(1987)、ルーマニア(1988)、東独(1984)、ソ連(1984)、ブルガリア(1987)、東独(1984)、東独(1987)となっている。なんと10位中、6人が東ドイツ。他もすべて80年代は「ソ連圏」だった国ばかり。国家ぐるみのドーピングなども、ささやかれた国ばかりである。男子を見ると、そこまではひどくなく、2位や3位は2000年以後に出ている。リトアニアやエストニアの選手である。

 日本選手を見ておくと、こっちも男子の記録はずいぶん破られていない。川崎清貴という人が1979年に出した60m22という記録である。世界記録とは14mも違う。でも、10位以内に3人、2016年に出た記録が入っている。いずれ破られる日も来るのだろう。女子は室伏由佳が2007年に出した58m62である。ついでに、ロンドン五輪の女子円盤投金メダリストを調べてみる。クロアチアのサンドラ・ペルコビッチという人で、記録は69m11だった。世界10傑の10位でも70mに行ってるので、世界記録10位に入らない。このベルコビッチも2010年の欧州選手権で金メダルを取るもドーピングで2年間失格処分。処分明けのロンドン五輪だったという。

 どの競技もドーピングの可能性はあるだろうが、確かに「投てき種目」は瞬発的な筋力が大事だろうから、何というか「ドーピング効果」がありそうな種目ではある。大体、砲丸投以外はやったことない人が多いでしょ。ハンマー投とかやり投とか、学校の校庭では危なくて出来そうもない。見てみると、「砲丸投」の女子記録も全部20世紀のもので、ソ連や東独が二人ずついる。しかし、「ハンマー投げ」になると、2010年代の記録がズラッと並んでいる。これが普通だろう。「やり投」の女子記録も21世紀が多い。この中で日本選手が入っているのはただ一人。ハンマー投の室伏広治が2003年にチェコで出した84m86という記録である。世界歴代4位。

 ということで、明らかに女子円盤投の記録はおかしい。常識的に考えて、これはありえないでしょ。砲丸投もかなりおかしい。その後、そういう記録を出した選手はどうしているのだろうか。国家が一生面倒を見てくれるはずだったのかもしれないが、東ドイツという国はもうない。ソ連もない。まあ、ソ連の後継のロシアにはしっかり「技術」が受け継がれたのかもしれないけど。それなりに、幸せな日常が訪れているのだろうか。いろいろと大変な健康被害が起きたという話も聞くのだけれど…。
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トルコと日本、そして世界-トルコ今昔⑤

2016年07月23日 23時42分55秒 |  〃 (歴史・地理)
 僕は時々、「社会科入門編」みたいな「授業」を今でも書きたくなってしまう。まあ趣味みたいなもんで、現在時点での問題の奥にある、歴史的、地理的な問題の方が面白いのである。クーデタ騒動を受けて、トルコの問題を考えてきたが、だんだん飽きてくるので今日で最後にしたい。トルコの「政教分離」をめぐる構造的対立関係を書く前に、トルコの世界的重要性について触れておきたい。

 トルコをよく「文明の十字路」とか「東西の架け橋」と呼ぶ。オスマン帝国以前は今は触れないが、紀元前から興味深い文明が行きかう土地だった。世界地図を見れば一目瞭然、とにかく「シリア内戦」と「IS問題」がある限り、トルコは最前線国家である。アメリカをはじめ、世界のどこもトルコの政情不安を認められない。多少の強権的色彩には目をつぶるから安定的政権であってほしいというのが本音だろう。選挙による限り、政治の運営を握るのは「公正発展党」しか(今のところ)考えられない。

 イスラムの問題は後にして、もう一つ重大な問題は「中央アジア一帯に広がるテュルク語系諸民族」の問題である。日本では、国家名は「トルコ」と呼ぶが、「トルコ系諸民族」(Turkic peoples)を指すときは「テュルク」と訳すことが多い。もともとトルコ民族は中央アジアに起源があり、西へと次第に勢力を広げていった。セルジューク朝ティムール朝などテュルク系大帝国が何度か建設された。中国史に出てくる、「匈奴」(きょうど)とか「突厥」(とっけつ)もテュルク系とされる。ソ連崩壊後に独立国家となったカザフスタンのカザフ人、ウズベキスタンもウズベク人なども同様である。

 だから中央アジアを「トルキスタン」という場合もあり、カザフスタンやウズベキスタンは西トルキスタンにあたる。では東トルキスタンはどこかというと、中国領の新疆ウィグル自治区である。中央アジアのテュルク語系諸民族は、古くからイスラム教を受け入れてきた。さらにカスピ海の東西にあるトルクメニスタンアゼルバイジャンもテュルク語系民族で、トルコ語話者はかなり相互理解が可能だと言われる。ソ連時代はキリル文字で表記していたが、どちらの言語も独立以後にラテン文字(ローマ字)表記に変えた。トルコ語との距離がいっそう近くなったわけである。

 世界には様々な国際協力組織があるが、アジアの大陸諸国だけで作られている「上海協力機構」というものがある。中国とロシアが中心となり、カザフスタン、タジキスタン、キルギスが原加盟国。ウズベキスタンもすぐ参加し、2005年にインド、パキスタンも加盟した。トルコは「対話パートナー」となっていて、現在正式加盟を申請している。トルコはNATO加盟国だから、アメリカのオブザーバー申請を拒絶した上海協力機構に正式にトルコが加盟するのは難しいかもしれない。だけど、中央アジア一帯に広がるテュルク系民族への「潜在的影響力」をトルコが持っているという特殊事情もある。トルコはヨーロッパを志向するだけでなく、アジアをも志向しているのである。世界情勢を見るときに、トルコが非常に重大な意味を持っていることがわかるだろう。

 そのようにかなり特別な歴史背景を持つトルコだけど、国民の99%がムスリム(イスラム教徒)だと言われる。民族的には長い歴史の間に、ほとんどコーカソイド(白色人種)になってしまったというが、文化的には中東のアラブ諸国と近い。しかし、「イスラム教」を強調すると、トルコの民族主義と矛盾が出てくる。第一次世界大戦後はオスマン帝国の敗北により、トルコ民族も国家存続の危機に見舞われていた。だからこそ、ケマル・アタチュルクによって、宗教と切り離した「国民国家」という形で「トルコ共和国」が誕生したわけである。国民感情からすれば、その「政教分離」は厳しすぎた側面がある。国家の危機において、「先へ進み過ぎた憲法」を制定し、敗戦国オスマン帝国の負の遺産を引き継がない意思をはっきりさせたのである。

 こう見てくると、エルドアン大統領と日本の安倍首相に共通の政治的姿勢が見えてくる。日本も第二次世界大戦の敗北の後、国家存続の危機に見舞われた。当時の支配層は、最重要の天皇制護持を優先して、帝国陸海軍は捨て去った。敗戦の責任をすべて軍部に押し付けて、「日本国憲法」で戦争と軍備を放棄した(と当時の政府は憲法を解釈していた)。この憲法も「先へ進み過ぎた憲法」だったと言える。後に政府が解釈を変え(というか、朝鮮戦争を機に占領軍の政策が代わり)、自衛隊(当初は警察予備隊、のちに保安隊)が発足する。国民は自衛隊を拡充していく政党に過半数を与え続けた。

 エルドアンや安倍晋三にとって、憲法は「事実上無視していいもの」である。歴史的経緯から変えるのは大変だし、政教分離や平和主義といったタテマエ自体は否定しない。だけども、経済的発展を掲げて選挙に勝ち、その後は憲法を尊重しない。事実上無視している。そういう姿勢で共通性がある。第二次安倍政権発足後、安倍首相は2回トルコを訪問、エルドアン大統領も1回来日している。昨年のトルコ訪問時には映画「海難 1880」を共に鑑賞している。他にも国際会議時に顔を合わせている。よほど「馬が合う」関係なのではないかと思うが、両者の政治姿勢に共通性があるから、お互いに何となく「同じ匂い」を感じるのだろう。

 憲法裁判所や最高検察庁は、今まで「政教分離」を守るためにイスラム政党に以下に厳しく対処してきたか。それを先に「エルドアンへの道」で見たが、今までのトルコ政治史では「そこまでやるか」的な厳格さで「イスラム政党排除」を徹底してきた。今の段階はそれを事実上無視して進められてきたエルドアン体制が、選挙という国民の支持を背景にして、なし崩しにしつつある。今の世界情勢で、「選挙で成立した政権を軍が打倒する」ことを世界各国は公然とは認められない。左翼政権を倒すのもダメなんだから、右翼政権を倒してもダメである。選挙で勝った政権に正当性がある

 今回指摘されている「ギュレン教団」は、本来穏健なイスラム運動で、政教分離を求めている。エルドアン体制と対立するのは、その強権性を批判したからである。もともと「テロ組織」ではないし、軍に思想的影響を与えたとしても、クーデタを主導したとは考えられない。それよりは昨年来相次ぐテロ事件で求心力が落ちたエルドアン政権が、すでに反対派の大粛清を計画していただろうということである。そうでなければ、これほど素早い対応はできないと思われる。軍内の反エルドアン派も、一掃される前に行動に出る準備を進めていただろう。エルドアン大統領を拘束できていれば、事態は変わっていたかもしれない。しかし、とりあえずクーデタは失敗した。当面、トルコ政局はエルドアン主導で進むことになるだろう。

 日本政府も、人権上の問題が起きないように言っておかないといけない。もともとクルド系難民をほとんど受け入れないなど、トルコ政府との協調を配慮しすぎる面が日本にはある。エルドアン大統領が緊急事態宣言を行い、その緊急体制下に一気に憲法改正を行い、大統領制への変更(今は形式的には議院内閣制なのだが、最初の国民直接選挙で選ばれたエルドアン大統領が指導者になっている)を行うかどうか。伝えられるとことでは、テロ事件を契機に治安意識が高まり、強権への批判が難しくなっているらしい。今回もエルドアン体制勝利を受けて、トルコナショナリズムが高まっているという。今後の行方を今占うのは難しいが、緊急事態下にどこまでの弾圧を行い、自己に有利な政治改革を実行するかがカギだと思う。だが、トルコ国内には根強いエルドアン体制批判もあるので、一方的な肩入れを行うと後々反作用が起きる。まあ、安倍首相や日本の外務省に言っても仕方ないかもしれないが。ちょっと自分でも結論が出ない感じだけど、こんなところで。
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オスマン帝国からトルコ共和国へ-トルコ今昔④

2016年07月23日 00時07分59秒 |  〃 (歴史・地理)
 トルコの政治、歴史に関するあれこれ、4回目。現在の「トルコ共和国」の前身である「オスマン帝国」にさかのぼって考えたい。今では教科書にもずいぶん書いてあるけど、教える方もよく知らないし、教わる方も(世界史が好きな生徒でも)あまり関心がない地域である。だから、名前ぐらいしか知らない人も多いだろう。特にかなり年配の人は「オスマン・トルコ帝国」として記憶しているかもしれない。

 この呼び方は今はしない。もともと自分たちが名乗っていないし、近代的な意味での「国民国家」ではないから領土と国民は一致していない。皇帝はトルコ系だけども、配下の支配階層には民族に関係なく出世できた。大体、「王朝名」を「地名」と混同するのはおかしい。それは「李氏朝鮮」などという場合も同じ。王朝名は「朝鮮」であり、「朝鮮王朝」と呼ぶようになってきた。ついでに書いておけば、「日本」という国名も、もとは中国に対して名乗った王朝名である。

 昔の話は簡単にするけど、今のトルコ領土の大部分を占めるアナトリア半島の西北部で、13世紀末に「オスマン1世」が勢力を拡大した。イスラム教を基盤として「オスマン君侯国」と称して、次第に勢力をヨーロッパにも広げていく。様々な浮沈はあったが、1453年に東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルを征服して滅ぼした。コンスタンティノープルはイスタンブールと改名され首都となった。さらに16世紀にはエジプトのマムルーク朝を滅ぼし、イスラム教の聖地メッカをも支配した。

 このときエジプトにいたアッバース朝の末裔から「カリフ」(イスラム教の最高権威で、預言者ムハンマドの「代理人」という意味)を受け継いだ。この「受け継ぎ」はフィクションらしいが、こうして政治の権力者=皇帝(スルタン)が、宗教的な権威(カリフ)を兼ね備える「スルタン=カリフ制」が成立した。(1922年のオスマン帝国滅亡後は、カリフはいないことになっている。自分がカリフだと名乗る人物は時々いて、今もISの指導者バクダディが「カリフ」を自称している。)

 1520年から1566年まで、半世紀近くスルタンに在位し「大帝」と呼ばれたスレイマン1世の時代が、オスマン帝国の最盛期と言われる。中東一帯から北アフリカ、黒海周辺、バルカン半島を広く支配下におさめ、歴史上まれにみる大帝国を築いたのである。しかし、最盛期ということは、その後はだんだん衰え行くということである。特にヨーロッパ方面でハプスブルク家のオーストリアに押されはじめ、また黒海周辺で「ロシアの南下」が続く。18世紀末には黒海の北にあるクリミア半島がロシア領となった。(クリミア半島は、ソ連統治下にロシアからウクライナに移管されたが、2014年に再び「ロシア領」とされた。「歴史的に固有の領土」など世界史的にはないということだろう。)

 18、19世紀には領土が少しづつ周辺国に取られていき、「ヨーロッパの病人」と言われるほどに衰えた。だけど何の試みもなくただ衰退したのではない。19世紀半ばには、西欧的な中央集権国家を目指す「タンジマート」と言われる改革が皇帝主導で行われた。「上からの改革」は成功しなかったが、清帝国の「洋務運動」のようなことがオスマン帝国でもあったわけである。さらに1876年にはミドハド・パシャの指導のもと、西欧型立憲君主国家を目指す「オスマン帝国憲法」も作られた。通称「ミドハド憲法」と言われるが、2年後に起こったロシアとの戦争(露土戦争)で敗北し、非常事態下に発効しないままに終わった。「タンジマート」も「ミドハド憲法」も、今や世界史の教科書に大きく載っている語句だけど、きっと知らない人の方が多いだろう。(大日本帝国帝国憲法の制定は1889年だから、ミドハド憲法はそれより早いのである。)

 20世紀に入ると、危機感を持つ青年将校や下級官吏などによって「青年トルコ」が結成された。1908年には軍隊の一部が蜂起し、憲政を復活させた。(青年トルコ革命)その間にも東欧や北アフリカで領土を失い続け、オスマン帝国内部では「トルコ民族主義」が芽生えてくる。ロシアによるスラヴ系民族への支援(汎スラヴ主義)に対抗するため、ロシアと対立するドイツに近づき、1914年にはドイツ、オーストリア側に立って第一次世界大戦に参戦した。

 やっと第一次大戦までたどり着いた。ここでイギリスは、オスマン帝国崩壊を目指してえげつない「三枚舌外交」を繰り広げたことで有名である。オスマン帝国支配下のアラブ人に、独立を与えることを約束する「フサイン=マクマホン協定」(パレスチナのアラブ人居住も認めていた)。パレスチナにユダヤ人国家の建設を認める「バルフォア宣言」。そして、それらの密約の裏で、イギリス、フランスの間で、領土の切り分けを約束していた「サイクス=ピコ協定」。これら相互に矛盾する帝国主義外交が、現代に続く「中東問題」の原因になっていることは確かだろう。(なお、このときにアラブ人の反乱を支援したのが、映画で有名な「アラビアのロレンス」である。)

 この問題については、最近大変わかりやすい本が刊行された。池内恵サイクス=ピコ協定 百年の呪縛」(新潮選書)で、歴史的情報を得るためには価格千円は間違いなくお買い得である。歴史地図もたくさんあって役立つ。コピーして載せたいところだが、著作権に触れそうだから止めておきたい。関心がある人はぜひ同書を見てほしい。サイクス=ピコ協定は、のちに崩壊前のロシア帝国も加わり、オスマン帝国領を切り取っている。アラブの独立を結局認めず、イラクはイギリスの、シリアはフランスの委任統治にしたことが、今に続く問題となる。しかし、地図で見ると、今のトルコ領土も東部の大半はロシアやフランスの支配下に置かれることになっていた。

 オスマン帝国は1918年に降伏、連合国によって要所が占領された。1920年には講和条約として「セーヴル条約」が結ばれた。セーヴルはパリ郊外の町で、メートル原器のある所である。ドイツに対するヴェルサイユ条約は有名だけど、こっちはほとんど知らない人が多いだろう。この条約によるオスマン帝国分割は、ヴェルサイユ条約どころではない過酷きわまるもので、トルコ人にはアンカラを中心としたアナトリア半島中部しか残されていない。ギリシャはアナトリア半島にも領土を有し、イスタンブールなど海峡周辺は国際管理。半島東部には今よりずっと大きなアルメニア国家の建設を認めていた。これに対し、抵抗を示したのが、「トルコ大国民議会」をアンカラに組織したムスタファ・ケマル(1881~1938)である。大戦の英雄で、のちに「トルコの父」の称号を与えられ「ケマル・アタチュルク」と呼ばれることになる。「トルコ建国の父」である。

 ケマルはアンカラの「大国民議会」で独自のアンカラ政府を樹立して、抵抗運動を始めた。このときギリシャはさらなる領土拡大を目指して攻撃を開始したが、ケマルは自ら先頭に立って戦い、アナトリア半島をギリシャ軍から奪還した。実力でほぼ現状のトルコ領土を確保したアンカラ政府を連合国も認めざるを得ず、1922年に改めてローザンヌ条約を結んだ。これが現代トルコの出発点。この当時、オスマン帝国とアンカラ政府が形式上並立していたのだが、11月1日、大国民議会はスルタン廃止を決議した。翌1923年10月には、共和国を宣言し自ら初代大統領に就任した。

 ケマルを指導者とするトルコ共和国は、オスマン帝国につながる宗教的色彩を排し徹底した近代化、西欧化を志向した。内部的には共和人民党の一党独裁で進められたが、今につながる多くの政策はこのときに作られた。例えば、それまでトルコ語はアラブ文字で表記していたのが、ローマ字に改めた。急激な改革には反対もあったが、それはイスラム教復古的なものが多かった。共和国にとって危険な「宗教的なるもの」は「政教分離」の原則で禁止されることになった。男のターバンなども禁止された。宗教的なものは公的な場で表すことができなくなったのである。

 しかし、それだけでは国民的な求心力が保てない。そこでオスマン帝国時代と異なり、「トルコ民族主義」が重視される。「世俗主義」「共和主義」は「民族主義」と表裏一体のものである。国民に根差す「イスラム排除」をする以上、宗教ではなく、国民(主要民族のトルコ人)の民族主義に訴えるしかなくなる。アルメニア問題やクルド問題、キプロス問題などで譲歩できなくなるわけである。そして、国家の領土を守るだけではなく、「世俗主義」の原則を守るのも、ケマルの権威を受け継ぎ国民統合の中心となる「トルコ軍」である。軍内の多くにはそういう考えがあるのである。

 何度もクーデタが起こったのは、そのような理由による。他国の軍事クーデタが「革命に対して、支配階級を守る」というケースが多いのに対し、トルコの場合はむしろ「イスラム勢力から憲法を守る」という原則を掲げたクーデタが起きる。だから、クーデタと呼ばずに「革命」と呼んだりすることもある。クーデタが革命というのは変な感じだが、左翼共産主義と並んで「イスラム原理主義」も憲法の敵である。共和国を守るための「護憲クーデタ」という不思議なものがトルコには起きるわけである。さて、長くなったけど、このような特別なトルコの歴史、事情をどう理解するべきか、もう一回考えてみたい。
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キプロス、クルド、アルメニア-トルコ今昔③

2016年07月20日 22時58分55秒 |  〃 (歴史・地理)
 2回目のトルコ現代史が長すぎて、自分でも疲れた。オスマン帝国にさかのぼるのはまたにして、トルコを取り巻く周辺諸国との問題を取り上げておきたい。地理的に言えば、トルコ国土は大部分がアジアで、イスタンブールより西の地方が「ヨーロッパ」に属する。だけど、自分たちとしては、「ヨーロッパの一員」であることを目指してきた。サッカーなどスポーツでは欧州連盟に加盟し、今回のユーロカップにも出場している。日韓共催ワールドカップで、決勝トーナメント1回戦で日本を破り、最終的に3位になったことは多くの人が覚えているのではないか。あれはヨーロッパ代表だった。

 1987年にはEC(EUの前身)に加盟を申請している。長いことたなざらしにされたが、2005年から加盟交渉が始まった。それも事実上行き詰まり状態にある。トルコはイスラム教社会だから、トルコが加盟して大量のムスリムが流入することへの恐れが背景にはあるのは間違いない。だけど、タテマエ的には、トルコ国内の人権状況、あるいはトルコと周辺諸国との争いが続いていることがEU加盟の障害となっている。特に、EU加盟国のギリシャキプロスとの関係が好転しない限り進展しない。

 キプロス問題は、最近は事態がこう着状態にあるからほとんど報道されない。知らない人もいるかと思うから最初に。キプロスはトルコの南方、東地中海にある島国。世界で81番目の大きさの島で、四国の半分ぐらいである。イギリスの植民地だったけど、地中海の島のほとんどと同じく、住民はギリシャ人。しかし、オスマン帝国支配下でトルコ系住民が増え、おおよそギリシャ系8割トルコ系2割程度とされる。ギリシャ系はギリシャに、トルコ系はトルコに、それぞれ併合することを希望したが、結局1960年に島国として独立することになった。

 1974年に、当時のギリシャ軍事政権が関わって、ギリシャ系のクーデタが起こった。それに対抗して、トルコ軍が介入して、キプロス島北部だけでトルコ系住民による独立を宣言した。それが「北キプロス・トルコ共和国」で、40年以上たつが世界中でトルコ一国だけが承認している。つまり世界中が認めていない。結局ギリシャ系のクーデタは失敗に終わり、軍事政権も崩壊した。それ以来、ずっとキプロスの南北分断が続いている。この間、何度も連邦制導入による再統合交渉などが行われているが、いまだに決着の方向性が見えない。

 そもそも、トルコとギリシャは、歴史的に深い対立関係にある。オスマン帝国から19世紀初頭にギリシャが独立して以来、ギリシャ人は領土の拡大を求め続けた。ギリシャの首都は古代の都市国家アテネだというのは、今ではみんなそう思い込んでいるけど、ギリシャ人からすれば本当の首都はコンスタンティノープル(トルコ名イスタンブール)であるべきなのである。第一次大戦後、トルコ共和国建国時には200万とも言われるギリシャ人が「住民交換」でトルコから強制追放された。同じNATO加盟国なんだけど、歴史的な対立感情は根深い。

 次はクルド人問題を簡単に。クルド人は「国家を持たない世界最大の民族」と言われる。オスマン帝国支配下の時代には、中東一帯に国境はなく「クルド人問題」もなかった。帝国崩壊後に、クルド人が多く住む辺境山岳地帯は、トルコ、シリア、イラク、イランなどに分断され、それぞれの国の少数民族になってしまった。2500万~3000万の人口がいるとされ、ほとんどはイスラム教スンナ派。言語はインド・ヨーロッパ語系のクルド語。トルコには1500万近いクルド人がいる

 トルコでは共和人民党時代には、存在自体認められず「山岳トルコ人」などと言われていた。クルド人は独立運動を起こし、中でも左翼系のクルディスタン労働党(PKK)は世界でテロ攻撃を起こした。1999年に指導者オジャランがケニアで逮捕され、獄中でマルクス主義の放棄を明らかにした。2013年以来、PKKは停戦に合意し、一時的にクルド問題の好転があった。2015年6月の総選挙では、クルド系の国民民主主義党が80議席を獲得して驚かせた。単にクルド系だけではなく、都市の知識人などに訴える路線が功を奏したと言われる。(10月の再選挙では、59議席)

 ところが、2015年に起きたISとクルド系武装組織の「コバニ包囲戦」が大きな影響を与えた。トルコ国境に近いクルド人都市コバニ(シリア名アイン・アル・アラブ)は、ISにとってもクルド人にとっても重要な都市だった。この戦闘で、トルコはクルド系武装組織を十分に支援しなかったと言われる。もっとはっきり言えば「見殺し」的な対応を取った。アメリカはISを最重要の敵と考えるから、クルド系支援を打ち出した。一方、トルコはクルド系の独立につながりかねない、国境地帯の「クルド自由地帯」を認められない。そこから事実上トルコ領内に出入りできては、シリア領内にクルド人の独立基地ができるようなものである。結局、ISが敗北してコバニ戦は終わったが、それ以後トルコ国内ではクルド系組織によるテロも起きている。今後の推移が要注目。

 最後に「アルメニア人問題」。これはトルコ版「歴史認識問題」である。第一次世界大戦の最中に、オスマン帝国軍によってアルメニア人を100万人近く虐殺されたと言われる問題である。アルメニアはトルコ東方の小国で、長い歴史を持つ。世界で初めてキリスト教を国教化した国で、それは301年のことである。ただし、そのキリスト教はカトリックや東方正教とは違う、もっと古いアルメニア使徒教会である。人口は300万ほどで、国外にいるアルメニア人の方が多いとされる。ソ連時代は連邦内の共和国だったが、ソ連崩壊で独立国家となった。

 第一次大戦ではオスマン帝国はドイツ、オーストリア側にたって参戦し、歴史的に対立が深いロシアと戦った。オスマン帝国軍は、アルメニア人を帝国内にいる「敵国人」とみなして、強制追放(「死の後進」)された。多くの犠牲が出たことは明らかで、トルコも否定していない。近年になってエルドアン大統領が追悼の意を示してもいる。だが、フランスなど世界各地にいるアルメニア人は、「ジェノサイド」(民族大虐殺)だったとして強くトルコを非難した。アルメニア人組織によるトルコ外交官に対するテロも起こった。フランスでは「アルメニア人虐殺否定禁止法」が一時可決されるまでになった。(結局は廃案。)こうして、アルメニア人虐殺問題は、現代政治の問題となってしまい、トルコ国内では自由に議論できる環境ではない。だから、実態解明も進みにくい。

 2015年暮れに日本でも公開された、ファティ・アキン監督「消えた声が、その名を呼ぶ」という映画がある。これは第一次大戦下にアルメニア人が軍に動員され、からくも虐殺を逃れた様子が描かれている。その間に家族は故郷を追放され、妻は死んで双子の娘は行方不明となった。この娘を探して、父親がハイチやアメリカ各地をさまよう様子を描き、親と子の愛情の映画となっている。トルコの中にも様々な人がいることも描かれているが、同時に軍隊による虐殺、追放の非情なようすも直視している。監督はトルコ系のドイツ人なので、これは製作自体が非常に勇気ある映画だと思う。

 以上、キプロス、クルド、アルメニアとトルコは内外に問題を抱えている。どれも「第一次世界大戦後のオスマン帝国崩壊による問題」である。それを思えば、「第二次世界大戦後の大日本帝国崩壊による問題」が70年程度で完全に解決しないのも当然か。それにしても、トルコが抱える様々な問題は、日本にとっても大事な問題が多く、ヨーロッパや中東の政治と複雑に絡んでいる、一応、この程度はおさえておきたいということで。
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エルドアンへの道-トルコ今昔②

2016年07月20日 00時20分43秒 |  〃 (歴史・地理)
 トルコの歴史をもう少し長く見てみたい。まあ、第二次大戦後ぐらいから。大戦後のトルコの世界史的立場は「前線国家」だった。もっと大昔には、オスマン帝国が「世界の中心」だった時代も長かった。でも第一次大戦による「帝国崩壊」により、後継のトルコ共和国は「ヨーロッパの辺境」になってしまった。第二次世界大戦中はほぼ中立で、最後の最後にドイツに宣戦布告した。大戦後の世界は「米ソ冷戦」だから、黒海やコーカサス地方でソ連と向かい合うトルコは、対ソ最前線国家となった。

 第二次大戦で米英の秩序に対抗した日独伊の枢軸国も、戦後はそれぞれ米国秩序の下で「ソ連に対する前線国家」とならざるを得なかった。「前線国家」が崩壊して共産化すると、「パックス・アメリカーナ」(「アメリカによる平和」という戦後の基本体制)が大きく変わってしまう。それは許されないことだった。と言っても、西ドイツもイタリアも日本も、それぞれ国民の自由選挙による民主主義国家である。国民が選挙で「社共連合政府」(例えば)を選択してしまったら、アメリカはどうするのか。イランのモサデグ政権やチリのアジェンデ政権のように、米国が直接介入して政権を打倒するのか。

 日本の場合、まあそれは多分なかっただろう。議会政治の長い伝統があるから日本国民の反発も強いだろう。だけど、そもそも当時の「中選挙区」と言われる選挙制度の下では、社会党は共倒れを避けるために、全員が当選しても過半数にはならない数の候補しか立てていなかった。だから社会党政権が成立する可能性はなかったのである。冷戦終結後になると、社会党委員長が首相に選出された村山政権が成立したりした。しかし、首相を出した社会党は、日米安保条約や自衛隊、原子力発電所などそれまで正式には認めてなかったものを議論もなく認めてしまった。

 このように、「前線国家」には事実上「許容される政策の幅」があったわけである。そうすると、「政治」というものは、「ほぼ永久に政権を担う保守勢力の中で利権を調整する」という機能しか持たなくなってしまう。日本やイタリアで、保守政権内の「腐敗」が常に問題視される政治風土になったのはそのような事情がある。(西ドイツは、東ドイツがあったために「共産党」が事実上存在できず、そのため社会民主党が他国に先がけて路線変更した。だから保守と革新の政権交代が可能になった。)

 さて、やっとトルコの話。トルコでは「建国の父」であるケマル・アタチュルクの創設した「共和人民党」が長く一党体制を維持してきた。その問題は次回に書くけれど、トルコの厳格な「政教分離」は、ケマル・アタチュルク以来のもので、「国是」となっている。しかし、国民のほとんどは敬虔なムスリムなので、どうしても無理も出てくる。1950年に行われたトルコ初の自由選挙では、政教分離の緩和を主張した野党、民主党が勝利してメンデレス政権が成立した。

 メンデレスはNATO(北大西洋条約機構)に加盟し、アメリカの「マーシャル・プラン」(ヨーロッパ復興のために米国が進めた経済援助)を受け入れ、経済的自由主義を進めた。経済成長が進んで人気が出たが、やがて貧富の格差が進んで国内対立が激しくなった。ギリシャ人迫害が国際的に非難され、次第に独裁的な傾向を見せていった。メンデレス政権に対する国民的不満を解消することを目的として、1960年5月に軍部によるクーデタが発生した。政権内の主要人物は逮捕され裁判にかけられ、メンデレスらは死刑判決を受けて処刑された。そんなとんでもないことが、日本では60年安保闘争が起こっていた時にトルコで進行していたのである。今はメンデレスも名誉回復されたという話だけど。

 1961年には次の選挙が行われたが、60年代を通して安定した政治は実現しなかった。共和人民党が政権を担当したが、次第に民主党の後継である公正党が勢力を伸ばした。両者の対立に加えて、左翼の社会運動が高まり政局は混乱した。1971年には、公正党のデミレル首相に対して、軍部が書簡を送って総辞職を勧告した。これは「書簡によるクーデタ」と呼ばれている。

 その後、70年代を通じて、中道左翼路線をはっきりさせた共和人民党のエチェヴィット、保守右翼の公正党デミレルの政争が続いた。どちらも過半数を獲得できず、小党と組んだ連立内閣がひんぱんに交代した。双方とも70年代に3回首相となっている。さらに、キプロス問題による軍事費増大、クルド系反体制運動の過激化、左右両翼のテロなどが相次ぎ、国内の混乱が続いたのである。こうして、1980年9月、軍部はまたクーデタを敢行し、すべての政党が解散させられた。

 さて、こうしたトルコの政党政治は、ほとんどイタリアと同じような感じである。同じ人が交代で何度も政権を握るところなど。その状況が1980年代以後、だんだん変わってくる。それは「イスラム政党」が力を得てくるということである。もっとも、ドイツやイタリアの「キリスト教民主党」のような、「イスラム教民主党」はトルコでは認められない。そのような明らかに宗教を明示する政党は、結成が憲法で禁止されている。だけど、エジプトなどで勢力を持った「ムスリム同胞団」も、単にイスラム教を掲げるだけの団体ではない。むしろイスラムの教えである「喜捨」の精神により、貧しい人々への福祉、病気で苦しむ人々のための無料病院など、相互扶助の福祉団体とも言える。そこだけを取り出して、「福祉政党」として結成すれば、一応憲法秩序内にあるとも言えるわけである。これは日本でも、「政教分離」をうたう公明党が「福祉」を掲げるのと同じような発想だろう。

 1980年クーデタの後、1983年に民政移管されるが、解散された主要党派は「祖国党」を作って、オザル政権が誕生した。その後、次第にだんだん、クーデタ前の政党、共和人民党、公正党の後進である正道党が復活した。オザル政権は80年代を通じて続き、その間に政教分離が少しづつ緩んでいった。学校教育に宗教文化が認められたり、公立学校でのスカーフ着用禁止が緩和されたりした。

 そんな中で、イスラム系の「福祉党」が勢力を伸ばしていった。結成したのは、ネジメッティン・エルバカンで、それまでにイスラム系政党を作ってきた人物である。1970年に「国民秩序党」を作るも、1971年に憲法裁判所から活動禁止となった。1972年には「国民救済党」を結成し、70年代の連立政権で副首相を務めた。80年クーデタで失脚後、今度は「福祉党」を結成したわけである。次第に党勢を伸ばし、1995年には第一党になるが、「祖国党」と「正道党」が連立内閣を作った。しかし、それが短命に終わり。1996年にエルバカン政権が誕生したのである。

 ところが、1997年2月になって、軍部がイスラム勢力への警告を行い、最高検察庁が憲法裁判所に対して福祉党の非合法化を求めた。こうした軍部の圧力で、エルバカン政権は1997年6月に崩壊し、福祉党も1998年1月に非合法化された。福祉党の大部分の議員は、後継政党の「美徳党」を結成したが、美徳党も2001年に非合法化された。その後、党員たちは「至福党」と「公正発展党」に分かれた。この公正発展党を率いたのが、前イスタンブール市長のレジェップ・タイイップ・エルドアン(1954~)である。「お友達」である安倍晋三氏と同い年である。

 エルドアンは、1994年に福祉党からイスタンブール市長に当選した。しかし、1997年に集会でイスラム教を賛美する詩を朗読したことが、イスラム原理主義扇動とみなされて告発された。1999年に、懲役4年の実刑判決と公民権はく奪が決定した。トルコにおいては、「イスラム的」とみなされることが、これほどの重罪となったのである。イスラム政党の流れをくむエルドアンと、政教分離の守護者トルコ国軍は、これほどの厳しい対立関係を続けてきた。「美徳党」も解党させられた後、「公正発展党」が結成されたわけだが、エルドアンは公民権停止中ながら、党首に就任した。そして、2002年の総選挙で、公正発展党は地滑り的な大勝利を収めた。10%の得票がない政党は議席を得られない決まりがあり、そのためにイスラム系政党はなかなか伸びられいでいた。しかし、2002年にはそのルールが他党に不利に働き、公正発展党に有利になったのである。

 だけど、エルドアンは公民権停止中だから首相になれない。副党首のギュルが代わりに首相を務めた。立候補可能になって、2003年3月にあった補欠選挙で勝利、議席を得て首相職を代わった。2003年3月16日のことで、その後2007年、2011年の総選挙にも勝利して、長期政権となった。当初は改革を進め国民的にも国際的にも評価が高かったが、やがて強権化が進んでいった。2014年には、国民直接選挙に変更された最初の大統領選挙に出馬して、当選した。エルドアンも、エルドアンに代わって首相を務めた(その後外相、大統領)ギュルも、夫人はスカーフを常に着用する頑固な「伝統派」である。トルコでは公的な場で宗教的なシンボルを身に付けることを禁止されているので、エルドアンもギュルも公的な場には夫婦で出席しない。というか、行事に夫人は招待されない。

 長くなったけれど、エルドアン政権に至るまでに、いくつもの「イスラム系政党」が禁止された。同時代に承知していたが、さすがに他国のことで名前も順番も正確には覚えていなかった。このように、タテマエ上は公正発展党は経済と福祉を訴える政党だけど、事実上は「明言しないだけのイスラム政党」である。宗教を政治利用してはならないことでは国民的合意はあると思うが、「大学でのスカーフ禁止」などは国民の中でも賛否両論ある。軍部や知識人の中には、エルドアン政権を危険な存在だと考える人が相当多いと思う。しかし、エルドアン政権に「国民的基盤」があることも間違いない。国民の大部分は「まっとうなムスリム」で、自分たちの感覚が尊重されていないと感じてきたのも確かだと思う。現時点で起こっていることは、エルドアン政権とトルコ軍部との「最終決戦」ではないかと思う。この「政教分離」という問題は、靖国参拝問題など日本の状況を思い合わせても、関心を持っていくべきものだと思う。せっかくだから、エルドアン、および安倍首相との写真を載せておく。
 
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軍事クーデタ失敗とエルドアン政権ートルコ今昔①

2016年07月18日 21時42分00秒 |  〃 (歴史・地理)
 2016年7月15日夜、トルコで軍部の一部によるクーデタが起こったが、16日には鎮圧された。このニュースには驚かされた。トルコのエルドアン大統領と軍部は、長い間公然たる対抗関係にあるのは言うまでもない。世俗主義の守護者であるトルコ国軍と、イスラム主義政党ではないことになってはいるが、事実上親イスラム政党である与党「公正発展党」は天敵関係にある。

 だけど、2003年の政権掌握以来、トルコを経済発展に導き、国民の支持がなお高いエルドアン大統領は、長い時間をかけて、軍部がクーデタを起こせないように「牙をぬく」ことに努めてきた。2015年に2回あった総選挙に一回目は、予想外なことに公正発展党が過半数を割り込んだ。選挙で政権交代が可能であることを示したわけで、トルコではもう(過去2回起こった)軍部によるクーデタは過去のものになったのではないかと思われてきたわけである。

 今までの説明は、トルコの歴史に詳しい人には常識だろうが、どうして軍が世俗主義の守護者で、なぜエルドアンが軍と対立するのか、本当はもっと詳しく書かないといけない。だけど、それを書いていると長くなりすぎるので、次回に回したい。トルコの現在と過去をどう理解するか。それは非常に大切なので、一度きちんと考えたいと思っていた。この機会に短期、中期そして長期的にトルコの政治的位置について書いてみたい。

 さて、今回のクーデタだが、まだ謎が多い。軍事クーデタは、軍が国権の各機関と重要人物を押さえ、軍による新体制確立を発表しないと成功しない。テレビで声明を出すのも大事だが、肝心の新指導部が見えない。エルドアン大統領が市民に反クーデタを呼びかけ、支持者が一定の規模で呼応した。国内、国外ともに支持を得られず、あっという間に腰砕けになった印象がある。

 準備不足や情報もれによる早期決起だったのかもしれない。さらに深読みすれば、軍内の不穏な情報をつかんだ大統領が、それと知ってリゾート地に出かけて、「あえて決起の機会を提供した」ということかもしれない。その後の反撃が素早く、軍だけでなく、裁判官、検察官なども含めて大規模な弾圧が進められている。軍内部の反体制派ではなく、大統領側の方が準備ができていた感じさえある。1965年に起きたインドネシアの共産党によるクーデタを利用した陸軍のスハルトによる「カウンター・クーデタ」を思い起こさせると言っては言い過ぎだろうか。

 トルコはもしかしたら、2020年の五輪開催国だったかもしれない国である。たった数年前のことだが、イスタンブールで何度も大規模テロが起き、反乱軍の戦車がボスポラス海峡の橋上に展開するなど、想像もできなかった。特に2015年後半から、トルコの内憂外患が極まり、周辺国に友だちのいない状態になっていた。ギリシャ、イスラエル、イランなどはもともとだが、エジプトに加えて、ロシアと関係が悪化。シリア難民問題ではEUとの関係も悪化していた。ところが、7月になって、ロシア、イスラエル、エジプトなどと関係改善が急速に進んでいた。まるでクーデタを予測したかのように。

 エジプトのシーシ大統領は、民政移管したとはいうものの、もともとは選挙で選ばれたムルシ大統領を軍事クーデタで打倒した軍人である。さすがに「選挙で選ばれた政権に正当性がある」とは言えないようで、今回のクーデタには沈黙しているらしい。エルドアン大統領は露骨なスンナ派肩入れ策を取ってきたから、シーア派大国のイランとは対立しているが、今回はイランはすばやくエルドアン体制支持を打ち出した。これはトルコのゴタゴタがクルド民族の国家形成につながりかねないことを恐れているんだと思う。クルド国家阻止に関しては、地域の各国の利害は共通している

 ガザ支援船阻止をきっかけに冷え込んでいた対イスラエル関係、昨年のロシア機撃墜事件によって、最悪の対抗関係が続いていた対ロシア関係も、最近になって急にトルコ側から譲歩する形で関係改善が進んできた。トルコはイスラム教スンナ派が圧倒的に多いが、一応は世俗国家だから、もともとイスラエルとの関係は良かった。またロシアとは歴史的に何度も戦争をしてきた関係だが、昨年は「露土戦争の再来か」とまで言われるほど悪化した。シリア内戦をめぐっては、あくまでもアサド政権を支えるロシアと、アサド政権打倒を最優先するトルコとは、ほとんど正反対の立場だった。これもトルコ側が一時的にアサド政権に融和的になる兆しが表れている。

 IS(「イスラム国」)をここまで大きくしたのは誰か。元はアメリカのブッシュ政権のイラク戦争という愚策、フセイン政権打倒後に成立したイラクのシーア派政権の宗派的な政治などももちろん大きい。だけど、事実上はトルコの責任が大きい。石油輸出などで「協力」しているとの声もあるし、対立悪化の中でロシアからは様々な非難が浴びせられた。国境をはさんで「IS」と向かい合うトルコが、完全な国境封鎖を厳密に行えば、外国人戦闘員の入出国や物資の密輸などは難しかったと思う。その意味で「トルコが事実上ISを支えてきた」という非難も、まんざら荒唐無稽とも言えないのではないか。

 ところが、シリア内線激化で難民が急増しすぎて、トルコを経由してEU諸国に流入して問題化した。ISへの強い対応を見せないわけにもいかなくなったが、今度はトルコ国内でISによるテロが急増してしまった。ISと闘うクルド人部隊をトルコは支援しなかったことから、トルコ国内ではクルド系組織によるテロも起こっている。PKK(クルド労働者党)との和平も崩れたと言われる。

 昨年から今年にかけて何度か起きたテロは、重要部でも起こっていて、政権内に一定の支持者がいる可能性を否定できない。まさに「内憂外患」きわまる状況が続いている。今回のクーデタ失敗で、短期的にはエルドアン体制への支持が高まると思われる。しかし、強権化を進めるエルドアン体制は、同時にもろさも抱え持っている。僕は今回政権側が黒幕として指摘する「ギュレン教団」が事件に関わっていたのかどうかは判らない。だけど、クルド系や世俗派中道勢力、左派などの前からの「反エルドアン勢力」だけではなく、政権を支えてきた「穏健イスラム勢力」の中にも反発が広がっていく可能性が高い。今までトルコではほとんどいなかった「イスラム原理主義勢力」も登場する可能性もある。

 今回は昨年来のトルコ情勢を中心に見たけれど、もっと長いスパンで見てみる必要もある。またさらに時間軸を長期に取り、オスマン帝国から考えていく必要もある。「トルコ共和国」が現在のような領土を持ち、イスラム教の国にしては珍しい「世俗国家」である理由も、第一次世界大戦によるオスマン帝国崩壊という事態から考えないと判らない。それにしても、ちょっと前まで「アラブの春」のめざす「あこがれの国」が経済発展が続くトルコだった。「イスタンブール五輪」で、初のイスラム教地域で五輪を開く可能性もあった。だけど、どんなに問題が山積していても、トルコが世界最重要の国の一つであることは間違いない。トルコ情勢に注目することは大切である。
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2016年6月の訃報②-中村紀伊、鳩山邦夫など

2016年07月16日 23時50分47秒 | 追悼
 6月1日に、元主婦連会長中村紀伊さんが亡くなった。92歳。その時に追悼文を書こうかと思ったんだけど、写真さえネットで見つからない。ウィキペディアにもない。まあ、皆も知らないだろうから、書かなくてもいいかなと思ってしまった。大体「主婦連」(主婦連合会)というものが、まだあって消費者運動を継続していることも知らない人が多いだろう。ある時期まで、「シャモジとかっぽうぎで、物価値上げ反対運動をする団体」として誰でも知っている存在だったんだけど。

 中村紀伊さんの話を一度聞いたことがあるんだけど、それは女性運動家だった母親の奥むめおに関する講演会である。ホントはその後も個人的に詳しくインタビューしたいと思いつつ、時間だけが経ってしまった。奥むめお(1895~1997)は大正期からの女性運動家で、戦後は参議院議員となり、また主婦連を結成し初代会長となった。第一次大戦後、世界的に民衆運動が盛り上がるが、日本でも日本労働総同盟、日本農民組合、全国水平社などが結成された。そして1920年に新婦人協会が結成されたわけである。結成時に理事となったのが、平塚雷鳥、市川房枝、奥むめおの3人だった。これらの団体は必ず教科書に載っているわけだけど、多くは「平塚、市川ら」によって新婦人協会が結成されたと書いてある。この「ら」が、奥むめおなのである。

 日本の民衆運動は、戦前にはほとんど制度的改正を勝ち取れなかったが、その珍しい例外が新婦人協会の運動で一部修正された「治安警察法第5条」である。女性は政治演説会に参加できないという規定が、運動によって1922年に撤廃されたのである。その時点ではお互いに肌が合わない平塚と市川はともに運動から手を引いていて、治警法改正運動の中心は長男を背負いながら議会工作に奔走した奥むめおだった。その後も雑誌「婦人運動」に拠りながら、一貫して「後衛」の運動を継続した奥むめおの存在をもっと広く世に知らしめたいというのが、僕の昔からの思いなのである。

 中村紀伊さんの「紀伊」という名前は、まさに名のとおり、和歌山県生まれということである。関東大震災後、奥は夫の生地に疎開、そこで生まれたから紀伊と名付けられた。戦後は母とともに主婦連の活動に入り、1991年から95年にかけて会長を務めた。初代が奥、二代目が高田ユリ、三代目が中村紀伊で、主婦連会長が一定の知名度があったのも、この頃までだろう。姓が中村なのは、夫が元NHK解説委員の中村泰治郎だったから。この人もテレビに出ているときは皆が知っている人だったわけだが、今ではネットで検索しても全然出てこない。人はどんどん忘れられていくが、ネット時代以前に亡くなった人は検索不能なのである。なお、長女が現・主婦連事務局長の河村真紀子さん。

 中村紀伊さんの話で長くなってしまったから、あとは簡単に。自民党衆議院議員の鳩山邦夫(1948~2016.6.21、67歳)は、知名度抜群の政治家だった。それは鳩山家に生まれたというよりも、女優、モデルだった17歳の高見エミリーを見初めて婚約した経歴による。田中角栄の押しかけ秘書となり、1976年に無所属で旧東京8区(文京、台東区)から出馬した。父の元大蔵官僚、鳩山威一郎は参議院全国区から当選したので、鳩山家の地盤は邦夫が強引に引き継いだ形となった。今では由紀夫、邦夫兄弟政治家などと言われるが、当時は兄は学者で終わると思われていて、鳩山家4代目は邦夫の方だったのである。この、結婚や出馬の経緯からも判るように、また外見もそうだけど、どうにも強引さが鼻に付く感じがして、僕は70年代のころからどうも好きではない。

 だから、都知事選に出た時も入れなかった。石原があんなに取って勝つと思ってなかったのである。誰も25%を取れず再選挙になるだろうと思っていた。結果的に次点は鳩山邦夫で、石原都政があれほど苛烈なものと判っていたら、鳩山邦夫に票を集中するべきだったかもしれない。だけど、まあ、もしかしたら同じ? 大臣に何度もなったけど、宮沢内閣の文部大臣が初入閣。このとき「業者テスト廃止」を突然打ち出した。その時は高校に転じていたが、こういうことを考えなしに言い出すと必ず「私立有利」に働くと思った。公立中学は生徒の「偏差値」を握っていたから、私立中学、高校と対抗できたから。実際、この後「私立中高一貫校ブーム」が起きてくる。むしろ、それが狙いなのかもしれないが。僕は当時、必ずそうなると鳩山教育行政を批判する投書を朝日に送ったが採用されなかった。他の投書はそれまでに何通も採用されていたのだが。

 2007年の第一次安倍改造内閣で法務大臣に就任、福田内閣でも再任された。福代内閣の法相在任中には、13人の死刑執行を命じた。国会開会中の執行は当時ほとんどなかったけれど、12月、2月、4月、6月と相次いで執行した。執行を「ベルトコンベヤー式にできないか」という発言もあった。宮崎勤は最後の2008年6月に執行されている。僕は死刑廃止論者だから、当然執行そのものに反対だが、こういう風に期日を決めて定期的にどんどん執行するというのは、本来の制度の趣旨からしても乱暴すぎる。最後の麻生内閣の総務相の時も、日本郵政とのいざこざを起こし、事実上更迭された。自民党を出たり入ったりはどうでもいいが、全体として「お騒がせ」体質が目につく政治家だった。
 
 元民社党委員長の米沢隆(6.16没、76歳)は民社が新進党に合流するときの最後の委員長。新進党や民主党で副党首、副代表など務めているが、存在感はなかった。自民が89年に参院過半数を割った後で、PKO法案などは「自公民」体制で成立させている。その時の民社の書記長だったが、小沢一郎、市川雄一(公明党書記長)コンビに比べて誰も覚えてないだろう。

 オセロゲームの考案者、長谷川五郎(6.20没、83歳)という方が亡くなった。大体そういう人が存命だったことも初めて知ったが、1973年に商品化されたという。水戸の人で、水戸で世界大会を開いているという。知らないことは世の中に多い。訃報で初めて知る。

 彫刻家の朝倉響子(5.30没、90歳)は朝倉文夫の娘、朝倉摂の妹だった。元阪神監督、後藤次男(5.30没、92歳、)は、2回の監督も一年で退いているので記憶にない。松原正(6.8没、86歳)は英米文学者だが、福田恒存に師事した保守派論客として知られた。亀井秀雄(6.17没、79歳)は、近代日本文学の研究者だが、北大に勤め、小樽文学館長を務めるなど北海道の文学と関わりが深かった。元宮内庁長官、藤森昭一(6.25没、89歳)は、88年から96年の長官時代に、昭和天皇の死去、今上天皇の即位の礼、皇太子の結婚があった。それはそれはと思うが、なった時から覚悟はしてただろう。

 海外では、ビル・カニングハム(6.25没、87歳)は、ニューヨークタイムズでファッション写真を長く撮っていた写真家。ピーター・シェーファー(6.6没、90歳)は、「アマデウス」を書いた劇作家である。っていうか、まず「エクウス」だよね。それで日本でも有名になった。「アマデウス」は映画化に際し脚色を手掛けてアカデミー賞を受けている。愛すべき「フォロー・ミー」もこの人の戯曲だったとは今回調べて知った。2001年に亡くなっている双子の兄、アントニー・シェーファーは、「スルース探偵」という戯曲で有名。これは映画も面白かった。「ナイル殺人事件」などのクリスティ作品の映画化の脚色も担当している。二人の戯曲、映画を見るとミステリー系が多いけど、実際に二人で合作してミステリーも書いた。ピーター・アントニー「衣装戸棚の女」(創元推理文庫)は翻訳されて評判になった。読んでるけど、ちょっと趣味的すぎるとは思う。
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2016年6月の訃報①-映画人を中心に

2016年07月15日 23時29分01秒 | 追悼
 もう月半ばになってしまった。6月の訃報はモハメド・アリをその時に書いて、7月もすでにアッバス・キアロスタミ永六輔を書いた。他の追悼も書かないといけないけど、あまり調子が良くないので2回に分けて。最初は映画人芸能人を中心に。

 映画は60年代半ばから「斜陽」と言われるようになるが、70年代まではまだ会社システムが残っていた。監督などのスタッフは年長だから、もう訃報が伝えられた人が多いが、当時20代で活躍していたような俳優はまだまだ現役である。しかし、50年代、60年代から活躍していた俳優は訃報が伝えられることが多くなってきた。だから、映画関係者の訃報を書くことが多い。

 日活ロマンポルノ初期の女優、中川梨絵(1948~2016.6.14、67歳)は、そんな中では早い訃報だと言える。ウィキペディアを見ると、もともと子役で、NHKの「お笑い三人組」に出ていたとある。高校卒業後に東宝に入り、成瀬己喜男の「乱れ雲」がデビュー作だという。それは知らなかった。71年末に日活がロマンポルノ路線に転じ、その初期の女優として中川梨絵の名前は輝いていた。それは神代辰巳「恋人たちは濡れた」田中登「㊙女郎責め地獄」などに主演していたからである。ポルノ女優としてではなく、独自の監督美学を支えるミューズとして憧れの対象だったわけである。その後「竜馬暗殺」などに出ていたが、やはり日活作品が思い出。

 白川由美(1936~2016.6.14、79歳)は中川梨絵と同じ日に亡くなり、もっと大きく報道された。映画女優としてはともかく、テレビ出演や家族などに関して知名度が高い。50年代半ばから東宝で活躍したが、会社を超えて日活の俳優、二谷英明と結婚した。当時の会社システムの中では珍しいだろう。ラジオ番組で知り合ったという。娘が二谷友里恵になるが、今はトライグループの社長なのか。テレビドラマはほとんど見ていないから僕には何も言えない。最近昔の映画を見ると、よく出ていたことが判るが、女優としては「ものすごい美人」である。生まれ育ちもお嬢様で、東宝で売り出すときは「日本のグレース・ケリー」と言われたという。獅子文六「七時間半」という小説を最近読んだけれど、その映画化「特急にっぽん」では、旧華族出身の美人列車ガール(というものがあった)を演じている。美人過ぎて役柄が狭まった感じがする。僕が思うに、千葉泰樹監督「二人の息子」(1961)というシリアスでビターな傑作で、兄の宝田明の妻を演じたのが代表作ではないだろうか。小津の「小早川家の秋」や東宝のサラリーマン喜劇、特撮映画に山のように出ているけど。老若の写真を。
 
 東映のヤクザ映画にたくさん出ていた曽根晴美(1937~2016.6.16)の訃報は7月になって報道された。昔東映が球団を持っていて、曽根はその東映フライヤーズに入るはずが、ケガで野球を断念。東映のニューフェイス募集に応じたら合格したという。佐久間良子や山城新伍と同期。50年代末から映画に出ていて、東映の任侠映画、実録映画を少しでも見ていれば、名前は知らなくても顔を覚えているはず。親分でもチンピラでもなく、格のある悪役に欠かせない人だった。その後テレビの時代劇で活躍、プロデューサーもした。同じく老若の写真を。
 

 姉妹で活躍したザ・ピーナッツの妹の方、伊藤ユミが5月に亡くなっていた。(1941~2016.5.16、75歳)姉妹と言っても双子だから、誕生日は同じで4月1日である。日本中誰でも知っていたデュオで、僕も「恋のバカンス」や「銀色の道」などの名曲は知っている。世界でも活躍したというけれど、僕は時代的にあまり知らない。1975年に引退した後は、まったく公的な場に出てこなかったから、よく知らないのである。引退後、沢田研二と結婚したのは、姉の伊藤エミの方である。1987年に離婚し、2012年に亡くなっている。妹のユミの方は、結婚歴はない。姉妹の見分け方はほくろの有無だというが、よく判らない。写真を載せておくがどっちがどっちだか。個人写真は伊藤ユミで検索して出てきた写真。
 
 男性4人組の合唱グループ、ダークダックスのメンバー、佐々木行(とおる)の訃報もあった。愛称はマンガさん。パートはリードテナー。3月にゲタさんこと喜早哲(きそう・てつ)が亡くなったいるので、メンバーは遠山一だけになってしまった。


 劇団維新派主宰の松本雄吉(1916~2016.6.18)の訃報があったけれど、僕は全く見る機会がなかったので、書けることがない。
 映画監督の瀬川昌治(まさはる、1925~2016.6.20、90歳)も亡くなった。兄のジャズ評論家瀬川昌久はまだ存命である。東映や松竹で娯楽映画を量産したプロ監督で、最近再評価の声が高い。神保町シアターで春に特集があり、ここでも書いた。主に喜劇を得意とし、東映で作っていた列車シリーズを見て、松竹の城戸社長が移籍を望んだという。松竹でも旅行シリーズを量産した。確かに面白いんだけど、パターンは同じだから、監督特集で続けてみると飽きるというところはある。フィルムセンターで最近やったアクション映画、「密告(たれこみ)」も良かった。夏に神保町シアターでやる「鉄道映画」の特集で「喜劇 急行列車」と「喜劇 大安旅行」というのが上映される。鉄道映画としても面白いけれど、昔の日本各地の風景が興味深い。当時はただのプログラム・ピクチャーと思われていたのが、その確かな技量とともに、時代を経た魅力が出てきたということだろう。「乾杯、ごきげん野郎」(1961)という音楽映画も面白かった。エノケンが出ていた。今後の作品発掘が期待される映画監督。
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「ブリッジ・オブ・スパイ」と「ブラック・スキャンダル」

2016年07月14日 22時34分22秒 |  〃  (新作外国映画)
 池袋の新文芸座で、「ブリッジ・オブ・スパイ」と「ブラック・スキャンダル」の2本立て。どっちもロードショーで見ようと思っていたが、見逃してしまった作品。もうDVDが出ているようだが、やはり大画面で見たい。こういうときに「名画座」というものが残っていることがうれしい。16日まで。

 どっちもものすごく面白かった。アメリカ映画も、どうも空疎な大作が多すぎる気がするが、脚本も演技もこのぐらいよく出来ていると、見ていてまったく飽きない。すごいなと思う映画だった。しかし、どっちも実話の映画化で、元になっている現実そのものが凄いのである。「ブリッジ・オブ・スパイ」は、50年代のソ連スパイの裁判と、その後の米ソの「交換交渉」を描いている。実在の弁護士ジェームズ・ドノヴァン(1916~1970)を演じたトム・ハンクスが、弁護士としての使命感とともに「タフ・ネゴシエイター」とはこれだ!的なすごい存在感を演じている。

 監督はスティーヴン・スピルバーグ。スピルバーグなら何でも見なくちゃという時代はずっと前のことなので、この前は「戦火の馬」を見逃してしまった。「リンカーン」や「ミュンヘン」はあまり感心しなかったので、この映画は21世紀になって初めて納得できた作品である。ドノヴァンは保険が専門だが、スパイ事件の引き受け手がないために、やむを得ず弁護士を受ける。スパイのルドルフ・アベル(1903~1971)はソ連に忠誠を誓い、二重スパイの申し出にも心動かされない。ドノヴァンは、彼の一貫性に「ある種の敬意」を持ち始める一方、FBIの捜査に憲法違反があると裁判で主張する。刑事被告人の権利を奪うことは、「憲法」をもとに作られている「アメリカ合衆国」への裏切りと考えるのである。そして、スパイを弁護するとは何だ、死刑にしろという「世論」に立ち向かうのである。

 ここまででも「今の日本」を考えて、その勇気と誠実に敬服するしかない。「原則」としての人権を守り抜く姿勢に、さすが「これがアメリカ人」だという感慨を持つ。「スミス都へ行く」や「怒りの葡萄」、あるいは監督自身の「シンドラーのリスト」など、アメリカ映画が描き続けてきた正義を愛する人物像である。だけど、この映画はそれだけでなく、主人公がタフな交渉ができる人物だということが強調されている。保険専門だから、「常に保険を掛ける」のである。そこが興味深い。日本の「人権派」は、むしろそこをこそ学ぶべきだろう。そして、1960年になって、偵察機U―2がソ連に撃墜される事件が起きた。その時に捕虜となったパワーズとアベルを交換するという意向が、ソ連から伝えられる。米政府はあくまでも民間人という建前のもとに、ドノヴァン弁護士に東ベルリンまで交渉に赴くように依頼した。

 ちょうどベルリンの壁建設中の東ベルリンのひどい状況、そんな中でまさにタフな交渉を繰り広げるドノヴァンの姿勢には、全く驚くしかない。まあ、ここでは細かい話は書かないが、実話に基づいているので結末はもちろん現実のとおりとなっている。脚本はマット・チャーマンコーエン兄弟が参加して作られた。これが出来がいい。アメリカ映画はやはりシナリオの出来がものをいう。老スパイ・アベルを演じたマーク・ライランスという人は知らなかった。アカデミー賞の助演男優賞。イギリスの舞台俳優として活躍してきた人で、映画では「インティマシ―」「ブーリン家の姉妹」などに出ている。「レヴェナント」のトム・ハーディや「チャンプ」のスタローンらがノミネートされていたが、それらを押さえた受賞で見ごたえがあった。

 「ブラック・スキャンダル」は簡単に。ボストン南部の犯罪組織を率いるジェームズ・バルジャー(ジョニー・デップ)。弟は州の上院議員ビリー(ベネディクト・カンバ―バッチ)、幼なじみのFBI捜査官ジョン・コノリー(ジョエル・エドガートン)。コノリーはジェームズに、全米マフィアのボストン進出に対抗するために協力しようと持ち掛け、FBIと犯罪組織の「協力」が出来上がる。だが、ジェームズの私生活は、子どもと母親を失い荒れていく…。最近「日本で一番悪い奴ら」を見たわけだが、こっちは「アメリカで一番悪い奴ら」みたいな話である。だけど、日本と違って銃社会アメリカのギャングは、どんどん人殺しをしていくから怖さが半端じゃない。

 そこはさすが、犯罪組織のリーダーたるジョニー・デップは、怖くてついていけないぐらいの迫真演技をしている。今年のアカデミー作品賞の「スポットライト」もボストンだった。昔クリント・イーストウッドが映画化した「ミスティック・リバー」もボストン。あの映画は幼なじみ3人が立場を違えていく話だったが、今度の「ブラック・スキャンダル」の裏返しみたいな設定。原作のデニス・ルヘインが実話にインスパイアされたストーリイなのかもしれない。監督のスコット・クーパーは、どこかで聞いた名前だなあと思いつつ思い浮かばなかったが、「クレージー・ハート」(2009)の監督だった。ジェフ・ブリッジスが主演男優賞を獲得した映画で、落ちぶれたカントリー歌手が立ち直るんだけど…という名作だった。どっちの映画も見ごたえがあったが、アメリカ社会の強さともろさを考えさせる映画だった。
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野党共闘をどう考えるか-参院選の結果②

2016年07月13日 23時01分02秒 |  〃  (選挙)
 今回の参議院選挙で、野党4党、つまり「民進党」「共産党」「社会民主党」「生活の党と山本太郎と仲間たち」が、1人区で選挙協力を行った。その結果、一人区32の選挙結果は、自民党が21、野党系が11と3分の1で野党が勝利した。前回は岩手と沖縄以外はすべて自民党が勝った。(なお、岩手県の平野達男は民主を離党し、無所属で出馬し当選した。今日になって、自民党入党を申請し、自民党の参議院過半数が実現することになった。)

 そのことを考えると、「一定の成果があった」ということは間違いではない。だけど、それは「まとまれば勝てる」いくつかの選挙区で、「まとまったら自民を上回った」だけのことで、野党が弱いところでは全く歯が立たなかった。野党の結集に国民の期待がふくらんで、無党派や与党支持の有権者もワーッと寄り集まってきた、という状況はほとんど起きていないと思う。

 今回の選挙結果で印象的だったことは、各紙の事前調査報道はほとんどぴったり当たったことだった。1人区はもちろん、3人区、4人区や比例区もほぼ当たっている。生活の党は厳しいが、青木愛に勢いがあるとか、新党改革は議席が難しいが党首の荒井より山田太郎が1位になりそうだなどという予測まで、ぴったり当たっていのには、正直かなり驚いた。1人区に関しては、事前報道と選挙区の特性から、僕は事前記事で「12選挙区に野党勝利の可能性がある」と書いた。そのうち、愛媛を除いて野党系が勝った。もう少し落とす可能性があると思っていたので、協力した意味はある。

 この結果をもたらしたのは「投票率の上昇」である。僕は先に「甲信越がカギ」と書いた。全部野党が勝ったが、その中でも長野県は全国トップの62.86%。3年前より、5%上がっている。新潟も4%、山梨も2%上がった。敗れたとはいえ8千4百票差だった愛媛も、7%も上昇した。与野党一騎打ちで接戦を伝えられると、有権者の関心も深まり、無党派層が多く行くと野党票が増えるという「法則」があるのである。ただし、それは東日本の話。

 6年前の1人区では、岩手、山梨、三重、滋賀、奈良、岡山、高知、大分で民主党が勝った。(福島、新潟、長野は2人区だった。)つまり、民主党政権だった6年前は、結構西日本でも勝っていたのである。その中で、今回は三重と大分しか守れなかった。(6年前は自民が勝った青森、山形、沖縄で今回は非自民が勝った。)それどころか、長崎以外はどこも10万票以上の大差が付いていて、どうにも対策が思いつかない。現在の政権は、僕が時々書くように「長州藩閥」みたいな状態になっている。総裁、副総裁に加え、副総理、幹事長、前幹事長(地方創生相)など政権の要がほとんど西日本である。そういうこともあるだろうけど、他にも何か社会的、経済的な理由があるのだろうか。

 さて、比例区の票を確認しておきたい。自公は1回目に見た。
 民主党は、6年前の参院選では1845万を集めて第1党だった。その後、2012年の総選挙では963万、3年前の参院選は713万と最低を記録。2014年の衆院選では976万票。
 今回、民進党となって初の選挙で、1175万票
 以下、6年前の参院選から各党の比例区票を見ておきたい。

 共産党は、426万→369万→515万→606万。今回は601万票。前回衆院選より少ない。
 社民党は、224万→142万→126万→131万。今回は153万票。ここ数回では一番多いんだけど、6年前よりは70万票減らして、2議席あった現職が一人に減った。
 「生活の党」が、13年参院選で94万(議席ゼロ)、14年衆院選で103万票(議席ゼロ)だったのに対し、今回は106万票を獲得して、初めて比例で1議席を獲得した。民進党を3年前の民主党票と考え、得票を比べてみる。3年前の参院選に比べて、民進、共産、社民、生活、実は4党全部票を増やしているではないか。それは3年前の安倍政権が政権復帰直後で絶頂期にあったということだと思う。

 以上の4党を合計すると、2037万票
 自民、公明の与党合計は、約2770万票。ほぼ公明党分の差がついている。

 そして、野党ではあるが位置づけが難しい「おおさか維新の党」が515万票である。
 3年前の参院選では、「日本維新の会」が635万票「みんなの党」が475万票獲得している。その他、「みどりの風」が43万票、新党大地が52万票、緑の党が46万票。
 今回は他に、「日本のこころを大切にする党」が73万票、「支持なし」が65万票、新党改革が58万票、「国民怒りの声」が47万票という票の出方になっている。

 こうしてみても、前回の維新、みんな票がどこへ行ったかは、どうもよく判らない。
 与党は権力を持っているから、その権力を使って見たいと思う人が集まってくる性格がある。民主党が政権を握っていた時には、けっこう多くの自民党議員が民主党の方に参加したり、自民を見限ったりした。今回東京選挙区で出た浜田和幸という人は、6年前に鳥取から自民党で当選した人だが、当選後に自民を離れて国民新党に参加してしまった。かの舛添氏も「自民党の歴史的使命は終わった」と決めつけて、離党して「新党改革」の代表となった。(残っていれば有力な首相候補になっていたのかもしれない。)今は自民党政権がしばらくは続くのが確実な情勢である。だから、もともと保守的な人にとっては、自民党に吸い寄せられていくという行動を取りやすい。

 最初に触れた平野達男などもそうだろう。民主党政権で復興大臣を務めたが、元は岩手県だから小沢一郎系である。だけど、閣僚だったから民主党分裂時に小沢に付かず、その後無所属、自民となる。もう一人あげると、元杉並区長の山田宏。6年前の参院選では元横浜市長の中田宏らと「日本創新党」を立ち上げるも、東京選挙区で8位で落選。4年前の衆院選で「日本維新の会」から出馬して比例区で当選。しかし、2年前の衆院選では「維新」分裂後に属した「次世代の党」から出たが、比例区順位1位にも関わらず議席を獲得できなかった。今回は自民党比例区から出馬して、名前票が12位で当選した。要するに「寄らば大樹の陰」なのである。

 野党側は野党である限り、「理念」でまとまる。それがなければ与党に乗り換えた方が都合がいい。だけど、理念を掲げると、小さな違いに敏感になり、どんどん分裂していくことになりやすい。強いものに立ち向かうときは、一緒になれるところを探して協力を組む方がいい。一般論では僕はそう思うことが多い。今回、民進党と共産党が協力したことに対し、自民党政権は「野合」だと強く非難を繰り返した。この選挙協力に対しては、右からも左からも強い批判が浴びせられた。僕はそのことについて、ほとんど書いていない。まあ、「一定の効果」はあるだろうが、選挙の全体情勢をガラッと変えるほどにならないと踏んでいたからである。おおよそ、僕の予想した範囲の結果になったと思う。

 民進党、共産党が「野合」したとしても、西日本ではほとんど相手にならない。そういう現実があって、追い込まれて「選挙協力」したのである。「野合」かどうかなどというのは、与党側が勝手に設定したテーマであり、僕にはどうでもいいように思う。野党4党が協力しても、「一定の成果」しかあげられないという厳然たる事実。ここまで強大化した自民党とどう向き合うか。知恵と勇気がないと生き抜けないと強く思う。
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自民「大勝」、さっそく「改憲」話-参院選の結果①

2016年07月12日 23時20分05秒 |  〃  (選挙)
 昨日書くつもりが、永六輔さんの追悼を先に書いた。どっちが僕にとって大事かなと思ったら、まず永さんの追悼かなと…。先月の追悼特集も用意してあるのだが、なかなか書くヒマがない。参院選の結果も、多くの人がすでにいろいろ書いているが、まあ恒例なのでやはり書いておきたいと思う。

 今回の参院選に関しては、安倍首相は「改選議席(121)の過半数をめざす」と言っていた。1人区が多いということと政権支持率がなお高いということから、これはまあ簡単にクリアするだろうと思われていた。もちろん参議院全体の過半数は、非改選の議員がものすごく多い(65議席)ので、絶対に取れるに決まってる。だから、大方の見るところ、「改憲志向の4党で3分の2を獲得するか」(78議席)、「自民党単独で過半数を獲得するか」(57議席)が焦点となっていたわけである。

 そこで自民党の獲得議席を見てみると、神奈川県の追加公認を入れて、「56議席」だった。公明党は14議席、おおさか維新は7議席、日本のこころを大切にする党はゼロだから、「合わせて77議席」である。おお、なんと、改憲4党で3分の2も、自民単独過半数も、実現しなかったのである。

 えっ、そうだったの。それでは報道と違うではないか。例えば、11日の産経新聞は大喜びで「憲法改正 発議可能に」と大見出しを掲げている。さらに言うと、自民党の規定を変更して総裁3選を可能にして、安倍首相が2018年9月以後も首相でいられるようにせよと1面で主張している。(阿比留瑠比編集委員の「極言御免」)いや、さすがにそれはありえないでしょ。でも、もしかすると、あるのかも。

 それは「改憲勢力」という風に考えるのである。「改憲4党+改憲支持の無所属議員」のことである。「みんなの党」や「日本維新の党」というものがなくなった後で、所属議員は星雲のごとく散らばってあちこちに存在する。無所属のうち、井上義行は前に書いたように、もう自民党会派に所属している。(「みんなの党」で比例区に当選しているので、法律上、選挙時にあった他党には入党できない。「会派」というのは、議会内でまとまって活動するときの名前。)他に、アントニオ猪木、松沢成文、渡辺美知太郎が改憲賛成派だという。(渡辺美知太郎は、渡辺喜美の甥にあたる。)無所属を含めて「4党」でまとまると、憲法改正を発議できる数字に達すると考えるわけである。

 安倍首相はさっそく記者会見で「憲法改正の議論を進め、意見集約をめざす」と語っている。「わが党の案をベースにしながら、三分の二を構築していくの政治の技術」なんだそうである。安倍首相の下での憲法改正を掲げる民進党に対しては、「建設的な対応とはいえない」と批判した。しかしだなあ、「自民党草案」をベースにするというなら、そもそも「建設的な改憲」にならないのは判り切っている。国会で話し合うと言っても、議席の数が圧倒的に違うんだから、意味がない。

 それにそもそも、選挙中に訴えていないじゃないか。だけど、それを今さら言う気も起きない。これが安倍首相であり、経済を掲げて勝って、選挙が終われば改憲を言う。誰でも判るだろ。だまされたなどというわけにはいかない。そうそう何度もだまされては、だまされる方の責任の方が大きい。それに、「アベノミクス」と言ったって、財源もないのに公共投資をばらまくという昔の自民に戻っただけ。リニア新幹線の早期完成など、後世に膨大な借金を残すだけである。未来を先取りして今使って、かりそめの支持を獲得するというやり方で、亡国的である。

 とにかく、今回自民党が「大勝」したことは間違いない。比例区で、20,114,748票を獲得している。2千万票を超えたのである。2001年の小泉首相誕生直後の参院選で、2011万票。2003年の総選挙では、2066万。2005年の「郵政民営化解散」の時は、2588万票。自民党が今までに2千万票を超えたのは、この3回しかない。参院選は選ぶ議員が少ないし、選挙区が広いので、どうしても投票率が衆院選より下がる。だから、参院選で2千万票を獲得したのは、15年ぶりなのである。3年前の参院選は、1846万。2年前の衆院選は、1766万票だった。

 今回改選の議員は、2010年の参院選で当選した人々である。その時は民主党政権だった。だから、比例区の第一党は民主党だったのである。今回民進党が少し党勢を回復したとは言っても、6年前に比べて議席を減らすのは仕方ない。そして、2010年の参院選は非常に大きな特徴があった。今回もそうだが、この50年ぐらい、大体選挙結果の一番は自民党、2番は社会党か民主党(民進党)である。そして、3番目は公明党。それが定例である。「新進党」というのがあった短い時期を除いて、大体そうである。(新進党時代には、公明党議員も新進党から出馬していた。)ところが、2010年には「みんなの党」が公明党を上回ったのである。

 もうなくなっちゃったから忘れている人が多いだろうけど、「みんなの党」が794万票で7議席。公明党は764万票で6議席。公明党は一時は8議席獲得したこともあり、その時までは大体重点候補を7人立てて、細かい地域割りをして票が均等に出るように運動していた。このときに1人落としたことで、以後は重点候補を6人に絞っている。7人当選すると、すごく少ない得票の党職員が当選する。今回は宮崎勝という人が、18,571票で当選になった。しかし、票数はいつも大体同じ。2005年、2009年の衆院選のように投票率が高いときは、800万票に行くこともある。だけど、参院選の場合、ここ4回を見ると、777万、764万、757万、757万となる。あれ、前回と今回は同じか

 くわしくみてみると、2013年が「7,568,082.149」票(14.22%)。2016年が「7,572,960」票(13.52%)。細かくいうと、4878票違っている。だけど、全国で考えれば、驚くほど同じ数である。投票率が前回より2%多く、有権者も増えたので、割合で言えば減っている。選挙区であらたに愛知、兵庫、福岡で候補を立てて当選させたので、そっちに力を注いだことはあるだろう。だけど、要するに、勢力は固定されていて、選挙運動で獲得できる票数も決まっているということなのである。

 野党勢力の方は別に見たいと思う。今回、自民が増えたのは、6年前の「みんなの党」、3年前の「日本維新の会」や「みんなの党」がなくなったことによるものだろう。みんなの党が解体し、今回民進党から出ている人もある。だから、民進党にも流れただろうが、結局元は保守票であり、今回も自民から出た人もいる。与党支持でも公明にはいかないから、結局自民党に入れるしかない。

 もう一つ大きいのは、完全に「郵政票が自民に戻った」ことである。自民党比例区でトップは旧全特(全国郵便局長会=昔は特定郵便局長会の略で全特といったが今は「特定」がなくなった)の徳茂雅之という人である。自見庄三郎(国民新党に所属し、民主党政権で金融相を務めた)の娘、自見英子(はなこ)も自民党比例区から当選している。こうしてみると、郵政民営化とはなんだったのだろう。郵政票が自民を離れたことも、民主党政権成立の大きな原因だったのである。郵政票がすっかり自民に回収されたことも、今回自民票が2千万を超えた大きな理由だと思う。
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