尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

B&Bで個人主体の温泉旅館を-温泉の話⑤

2017年01月31日 18時37分09秒 |  〃 (温泉)
 少子高齢化が進む日本で、温泉旅館はどうあるべきか? 会社や学校の団体旅行を中心にしてきた旅館は、今後は苦闘が続くだろう。社員旅行も修学旅行も、今後の伸びが期待できない。これは日本社会全体の問題でもあるだろう。会社中心社会、学校中心社会そのものを変えていく必要がある。

 日本の温泉宿は一泊を基本としている。場合によっては2泊する人もいるけど、何か事情がない限りそれ以上同じ宿に泊まることは少ないだろう。大体、仕事をしている間はそんなに休暇を取れないし、定年になったら今度はお金の問題で高い旅館に長く泊まれない。お金もヒマのある人がいたとしても、せっかくの旅行はいろいろと見たいと思って、他の観光地に移動するのが普通だろう。

 お金やヒマの問題をクリアーできても、日本旅館ばかり泊まると飽きてしまうという根本的問題がある。刺身やてんぷら、陶板焼きなどが嬉しいのは、続けて2日目ぐらいまでだろう。そういうのがずっと続くとさすがに飽きる。同じ地域を回ると、同じ食材が続くことが多い。ある地域に行ったら毎日鯉こくが出て、また違う地域では馬刺しが出た。南紀の温泉を泊まり歩いたときは、毎日鱧(はも)が出たんだけど、関東では珍しいから最初は「これがハモ?」と嬉しかった。でも、それが続くと、もったいないと思いつつ飽きてくるのである。

 こういう宿は今後少なくなっていくと思う。高齢化が進むと、どうしても「高い値段、美味しい料理」というコンセプトの旅館に魅力を感じなくなる。仮にお金があったとしても、もう少しヴォリュームとカロリーの少ない料理が欲しい。どんな旅館でも追加料理はあるから、もっと食べたい人は自分で頼めばいいのである。そうなると、高い値段で美味しい料理を出す旅館は、難しくなっていく。

 日本人の人口が減るわけだから、当然その分温泉宿に泊まる人は減る。団塊世代が後期高齢者になって、それでも元気で温泉に入りたいという需要は当面あるだろう。だけど、やがて2030年代頃から温泉に行く人の絶対数がグッと減るはずだ。その分を外国人観光客で埋められるだろうか。僕は日本の温泉宿と日本食は、今後発展していくアジア諸国の中で人気を得られるだろうと思う。一度は泊まってみたいという人が多いのではないか。でも、高額で料理沢山の宿ほど外国人を受け入れにくい。予算面でもそうだけど、接客方式すべてが、日本人客を想定していて、他の要望に応えにくい。イスラム教徒には豚由来の食品を出さない、ベジタリアンにも対応できるというような基準を考えれば判るだろう。今の温泉旅館は予算や予約方法、外国語対応などすべてにおいて、外国人客が利用しにくい

 今でも九州や北海道などでは、台湾や韓国あるいは東南アジアからの観光客が多い。だけど、一般的には団体で利用する以外は難しいだろう。よほどの富裕層が極め付けの高級旅館に泊まることはあるかもしれないが。そういう状況を抜本的に変える必要があると思う。それは単に外国人客対応というにとどまらない。日本社会が「会社単位」(の団体旅行)、「家族単位」(の週末や夏休みの短期旅行)から、「個人単位」の長期滞在型旅行に向いた社会に変わらないといけないということなのである。

 そのためには、値段を下げるためにも、また長期に滞在するためにも、「B&B」(ベッドとブレクファスト、宿泊と朝食のみを提供する宿)を多くするしかない。そして実際、そういう宿が少しづつ増えている。ある程度の規模の温泉地なら、旅館の外にもいい食事処があるものである。そうじゃないと昼食を食べるところがなくなる。温泉地でも温泉以外に勤める人もいるわけだから、当然レストランも飲み屋もなくては困る。そういうところでは、外のおいしいレストランに食べに行くのも楽しい。

 僕の行ったところでは、愛媛県の道後温泉にあるホテル・パティオ・ドウゴというホテルがある。有名な道後温泉本館の真ん前にある。道後温泉に行って、道後温泉本館に入りにいかない人はいないだろう。それだったら、何も高い旅館に泊まるより便利だろうと思って連泊してみた。近くに道後麦酒館という地ビールレストランがある。ビールも美味しいし、宇和島のじゃこ天など地のものも大変おいしい。こういう旅行が他の温泉地でもできればいいと思うのである。
(ホテル・パティオ・ドウゴ)
 ところで、そういう共同浴場もいいけど、今後は小さなお風呂がたくさんある旅館も欲しい。外国人客はどうしても肌を見せるのを嫌がることが考えられる。それに日本人だって、高齢化していけば、男女別の大浴場ではなく、家族で介護できる風呂が欲しいはずだ。障がいや病気を抱えた人も大浴場には行きにくいだろう。「家族風呂」といえば、カップルで利用できるといった宣伝が多いけど、今でも介護などで利用している人は多いと思う。それに「家族」風呂というけど、一人で利用したっていいはずでである。(もちろん部屋の風呂が温泉になってればそれでいいわけだが。)

 「B&B」の宿ばかりではなくて、宿泊を止めて、立ち寄り入浴と食事に特化した宿もあってよい。食事も今までのように宿ごとに作っていては、やがて人手が確保できなくなる。だから、ある宿が食事を作ること専門になればいいのである。宿泊用のスペースを外部のレストランに開放することも可能になる。今まで食事を作ってきた部門を独立させて、美味しい懐石料理専門店にしたらいい。同時にその宿にマクドナルドや日高屋があってもいいではないか。安く食べたい人はそっちを利用すればいい。ある宿には回転寿司があり、他の宿にはステーキ屋がある。自由に選べればいいと思う。そんな中に「ハラル料理専門店」(ムスリム対応の店)があれば、その温泉にイスラム圏の客も行くだろう。

 こうして個人単位で長期滞在できる宿が増えていけば、高齢者だけでなく若者や外国人の長期利用が増えていくと思う。それが新たな需要を生む。何日も滞在するようになれば、文化施設やスポーツ施設がもっと必要になる。新しい動きも出てくる。しかし、僕が言いたいのは、ただ温泉の問題ではない。要するに日本社会を個人単位に行動できるように変えていく必要があるということである。そういう社会は、高齢者や障がい者にやさしい社会であり、外国人を受け入れやすい社会である。そういう風に変えていかないと日本は持たない。僕が言いたいのは、そういう風に日本社会をデザインしていく中で、温泉旅館も考える必要があるということである。日本は大胆に変わっていかざるを得ない。温泉旅館こそ、その最先端になれるだろう。
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中堅旅館の没落、二極化する温泉旅館-温泉の話④

2017年01月30日 20時23分07秒 |  〃 (温泉)
 日本社会の変化を表すときに、ここ何年も「少子高齢化」だとか「格差拡大」がキーワードになっている。それを温泉という視角から見ると、どうなるか。まさに「温泉旅館の危機」であり「温泉旅館の二極分化」が進行している。「中堅旅館の没落」は緊急の問題になっていると言っていい。

 大旅館がいっぱいある温泉地でも、歩いてみると廃業した旅館がとても多い。去年行った鬼怒川などはその典型で、いくつもつぶれていた。かつてはバスを連ねた団体旅行でいっぱいだったような旅館も、バブル時代に規模を大きくした借金を返せないで倒産したのである。そういう廃業旅館は、いまや「廃墟マニア」の垂涎の的となり、そういうサイトを見るといっぱい見つかる。群馬県安中市の磯部温泉もずいぶんつぶれていて、詩人大手拓次の生家として知られた蓬莱館もつぶれてしまった。

 最近は「耐震基準を満たせない廃業」という問題も起きている。下北半島北部にある薬研温泉にあった「ホテルニュー薬研」は、黒字だったけれど2016年11月に閉館した。耐震基準が厳しくなり、改築の費用が出せないということでやむなく閉館したのである。ここには古畑旅館という古い宿もあったけれど、そっちも廃業している。昔、下北半島へ行ったときは古畑旅館に泊まったんだけど、ホテルニュー薬研近くの露天風呂に入りに行った。下北半島となると、そう度々訪れるところではないだけに、こうして貴重な温泉宿がなくなってしまうのは残念である。

 他に思い出の宿でなくなってしまったのは、秋田県の秋の宮温泉郷にあった稲住温泉。武者小路実篤が疎開した宿として有名だったが、多額の負債を抱えて倒産してしまった。鹿児島の桜島にある古里温泉の古里観光ホテルも、2012年に倒産した。白い浴衣を着て入る海沿いの龍神露天風呂は大変爽快な体験だった。温泉で炊いた龍神釜飯も名物だった。ここは林芙美子生誕の地で、一番大きな旅館がつぶれてしまったのは残念でならない。こういう貴重な宿がもうない。

 秘湯の宿もどんどんなくなっている。家族経営のような宿が多いから、後継者難で閉めざるを得ない。あらたに経営者が現れ再開できた宿もあるが、宿泊者受け入れを諦め、立ちより専門になる宿もある。かつて訪れて、ここはいいなあと思った宿が調べてみるとつぶれてしまっていたりする。秘湯の宿でなくなったのは、北海道ニセコの新見温泉、秋田県最北の日景温泉、青森の温川温泉、群馬県の湯の平温泉松泉閣、湯の小屋温泉葉留日野山荘、秩父の鳩の湯温泉など枚挙にいとまない。

 日本社会の現状を見ると、今後の高齢化・人口減を見通すと、温泉旅館の厳しさは続くだろう。自分の代は何とか続けたいが、子どもには継がせられないと思う経営者も多いと思う。地方では買い物や子育ても不便だから、一軒宿のようなところほど経営が難しい。バブル期にどんどん作られた入浴施設も、建物の限界が迫れば、リニューアルされずに廃業するところが多いはずだ。手をかけたお風呂と料理をウリにした日本の温泉宿も、貴重な絶滅危惧種なのではないか。町の本屋やミニシアター、名画座などと同じように。僕はそれでもそれらは必要だと思うし、行き延びて欲しいのである。

 このように特に中堅旅館がつぶれつつあるわけだが、そんな中で温泉旅館も二極分化が進んでいる。値段が高い高級ホテルを続々と展開するリゾートホテルと、365日同一料金の安い値段と夕食バイキングを売り物にする安い旅館グループである。前者は「星野リゾート」で、後者が「伊東園ホテルズ」や「大江戸温泉物語」、「おおるりグループ」などである。前に泊まったホテルが、いつの間にかこれらのグループになっていることが関東圏では結構多い。

 「星野リゾート」は、軽井沢にあった星野温泉がもとになっている。(今は「星のや軽井沢」)ここは昔の勤務校の寮が近くにあって冬季の管理を委嘱していたから知っている。「とんぼの湯」という大きな入浴施設を作り、またホテルを近くに立てるなど、軽井沢でずいぶんやる気を出していた。ここが経営難のホテルなどをどんどん引き受けて、非常に大きくなっていった。最近話題になった東京大手町の「星のや 東京」とか、沖縄の竹富島、北海道のトマムリゾート、さらにバリ島にまで広がっている。

 温泉旅館は「」の名前で展開している。例えば、日光中禅寺湖畔にあった「日光離宮楓雅」が「界 日光」になった。青森の大鰐温泉にあった有名な「南津軽錦水」が「界 津軽」、熱海伊豆山の蓬莱旅館が「界 熱海」という具合である。(リゾナーレという系列もあって、「あたみ百万石」は「リゾナーレ熱海」となっている。)こうして箱根や伊東、さらに山中温泉、玉造温泉などに広がっている。その他、青森県の小牧温泉を「星野リゾート青森屋」として再生させた。高級旅館・ホテルをつぶさずにリニューアルさせた功績は大きいが、今後どうなっていくのか。値段的に利用するのは難しそうだけど。

 「伊東園ホテルズ」はじめ安い料金のチェーン温泉は、首都圏を席巻していると言ってもいい。新聞の広告にもよく出ているし、折り込みチラシも多い。首都圏各地からバスで直行便を出していて、ほとんど都内と旅館の往復で済んでしまう。夕食はバイキングだし、部屋にもあまり金をかけない。経営的に難しい旅館がどんどんグループに入っている。料金は大江戸温泉物語グループが一番高いけど、一万円はしない。伊東園やおおるりは6千円台ぐらいだから、それで料理も部屋もすごく良いとは期待してはいけないだろう。(ちなみに、伊東園は伊豆の伊東温泉から始まるけど、伊豆の資本ではない。カラオケの「歌広場」と同じ経営体である。)

 伊東園は伊豆に一番多いけど全国に広がりつつある。(伊豆に17館ある。他の関東一円に18館、中部・近畿、北海道・東北に合計10館ある。)一時は十和田グランドホテルと谷地温泉も買っていたが、これは売却した。谷地温泉というのは八甲田山麓の温泉で、秘湯を守る会に入っていた。さすがにそういう宿は伊東園方式では難しいのだろう。大江戸温泉物語は、かんぽの宿や郵貯のメルモンテなど公的施設を買収した例が多い。いずれにせよ、これらの宿は「居抜き」で買い取った旅館で、365日同一料金方式で広がっている。このような安い宿が求められていたとも言えるだろうけど、要するに日本社会の二極分化が温泉旅館でも起こっているわけである。

 これらのグループが、日本の温泉文化にとって、いいことなのか悪いことなのかは見極めが難しい。ただ、そのままではつぶれたかもしれない旅館が救済されたとは言えるんだろうけど…。でも、山の宿でも海の宿でも、似たようなメニューの夕食バイキングでは、つまらない。時には「カニ食べ放題」などとうたうが、地産地消には程遠く、収奪型食文化と言えるのではないだろうか。循環の温泉に入って、食べ放題で飽食していては、温泉旅行で健康になるはずが、かえって不健康になって帰るようなものである。ともかく、温泉旅館を通してみると、今後の日本はなかなか大変そうである。
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「文」「理」「体」「美」の温泉論-温泉の話③

2017年01月29日 20時20分23秒 |  〃 (温泉)
 文系理系という分け方がある。でも、これからの時代はそれぞれバラバラではダメで、「文理融合」の発想が必要なんだともよく言う。僕は温泉こそ、一番「文理融合」の考え方が役に立つんじゃないかと思う。まず、温泉というものはそれ自体が「地学的現象」であり、自然環境とともにある。(いまでこそ深層ボーリングで都心にも温泉を名乗る施設があるけど。)と同時に、温泉はただお湯が出ている場所ではない。日本に暮らした先人たちが、温泉を単なるお湯ではなく、健康、信仰、行楽の癒し空間として整備してきた。このように、「自然」と「歴史」があいまって温泉というものがある。

 と同時に、「文理」だけでは不十分だという気もする。僕はもともと教育には、文系、理系と分ける以前に「論理」の大切さ、論理的思考の重要性という役割があると思う。だけど、それだけでは不十分だろう。世の中は論理だけではない。「身体性」や「美的感覚」がとても大事で、それは学問、芸術だけでなく、ビジネスでも必須の感覚ではないかと思っている。だから、「文」「理」「体」「美」という発想法が大事で、それが温泉を考えるときにも役立つ。温泉こそ、「文」「理」「体」「美」を統合するものじゃないか。

 自分なりに「良い温泉」というものを考えてみる。そうすると、まず第一に「効能」や「かけ流しかどうか」といったことがあがる。宿や観光地の選択ではなく、「温泉選び」なんだったら。入ってみると明らかに「ここは凄い」という泉質もあるのである。そういうのは、結局は「火山の恵み」である。自然湧出のお湯でも、非火山性の場合も少しあるらしいけど、やっぱり温泉のほとんどは火山性である。

 温泉は大体山や海の絶景近くにある。たまに田んぼのど真ん中に湧き出したところもあるけど、大体は美しい景色の中にある。国立公園、国定公園に指定されているところも多い。温泉という現象は火山のもたらすものだから、当然である。伊豆のように海辺に温泉がズラッと並ぶところもあるが、伊豆半島そのものが北上して本州にくっついた。海辺といっても、伊豆という火山性地形の一部なのである。

 日本列島のほとんどの温泉は同様だろう。だから、温泉は「自然科学的理解」がないと判らない。温泉がある山や海も自然観察に向いている。自然を満喫したいと思って温泉に行く人も多いだろう。だから「理系」的な感覚が温泉選びにも必要だ。山へ行けば植生が変わる。動物に会えることも多い。冬の奥日光をスノーシューで歩き回れば、多くの動物たちの足跡を確認できる。それも温泉の楽しみだ。

 一方、温泉には「温泉神社」や「温泉寺」があるところも多い。歴史的に信仰の対象になってきた証である。湧き出るお湯を温泉として利用してきたのが、日本民衆の歴史である。戦国時代には「信玄の隠し湯」と言われるように、戦傷者の回復に利用されたらしい。(近代に作られた観光伝説も多いと思うが。)近代になると、観光に利用されるようになり、大きな旅館も作られた。それでも農閑期の湯治のような利用は、今も各地の小さな温泉地に残っている。日本の風土を思う時、夏の高温多湿、冬の多雪や乾燥に対して、温泉に癒しを求める民衆的心性が作られてきた。日本の歴史、民俗を考えるヒントが温泉にある

 さて、僕はその上にさらに、温泉を通して「体」と「美」を考えたいのである。「体」といっても、スポーツをするということではない。スポーツ合宿をしてもいいし、登山やスキーを温泉を拠点にするのもいい。特にスポーツ医療の点では、温泉はもっと貢献できるはずだと思う。ケガをしたスポーツ選手の回復を、温泉に作られた科学的な拠点施設でじっくり取り組めたら、非常にいいことではないかと思う。福島県いわき市の白鳥温泉には、ケガした競走馬のための馬の温泉がある。人間の温泉療法も、もっと組織的に行うべきだと思う。

 だけど、僕がここでいうのは、むしろ「体の声を聴く」というようなこと。運動能力を競うのではなく、「体を育む」という本来の意味での「体育」である。温泉にじっくり浸かって、自分の身体と向き合い、運動や食の改善を行うような体験である。高齢化が進行する中で、一泊して豪華な食事を頂くというのではなく、「健康増進としての湯治」が今後もっともっと求められていく。それはきっとアジア各国からも多くの観光客を集めることになると思う。

 ただ温泉に浸かるだけではなく、ウォーキングのコースがいっぱい整備されているような温泉地の方が面白いと思う。僕の好きな日光湯元温泉を初め、草津や八幡平、八甲田などの温泉地が思い浮かぶ。八甲田山麓の蔦温泉には、天然のブナ林と沼を巡るコースがある。秋田の乳頭温泉郷は、全部泊まるわけにもいかないけど、どこかに泊まって他の秘湯を歩いて回る人々でいつも一杯である。「温泉聖地巡礼」といってもいい。

 そうやって訪れる、蔦温泉のブナ林、あるいは奥日光の湖の景観などは、とても美しい。美的に癒されると思う。温泉はそれに入る楽しみだけでなく、歩いて健康になり、周辺の自然環境の美に触れて心もリフレッシュする。一方、歴史的景観の美というものもある。山形県の有名な銀山温泉のようにレトロな温泉街そのものが、美的な興奮を呼ぶところもある。また、僕の大好きな長野県別所温泉のように、温泉地の中に史跡が多く、安楽寺の八角三重塔のような国宝指定のものまである。裏山のてっぺんにあるから、下から歩いて段々と近づいてくるまでに、ああ、美しい建物だなあと思う。

 そういう温泉地が僕は素晴らしいと思うのである。僕の好きな温泉を思い浮かべてみると、泉質がいいうえに、周辺の景観が美しく、そこをウォーキングする楽しみがあるような場所が多い。それをまとめてみると、このような「文」「理」「体」「美」の発想になる。そしてその考えは、温泉だけでなく他のことを考えてみるときにも、きっと役立つんじゃないかと思っているわけである。
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本物の温泉とは-温泉の話②

2017年01月28日 20時47分19秒 |  〃 (温泉)
 温泉の話を始めると、あの温泉はいい、いやあっちもといった体験自慢のようになる。そういう中で、より客観的な基準で「良い温泉」を考えてみようというのが、石川理夫「本物の名湯ベスト100」という本である。(「本物の」には点が振ってあるけど。)とても面白い本で、役立つことが多かった。

 温泉は日本にものすごくたくさんある。(日本温泉総合研究所というところのサイトを見ると、2014年度に3088の温泉地があると出ている。一軒宿も一つ、大温泉地も一つで数ええた数である。近年は閉める宿が多く、漸減している。)たくさんある温泉も、当然ながら玉石混交である。温泉に入って気持ちよくなって帰りたいのに、かえって肌が荒れてしまったようなお湯に行ったこともある。

 温泉というものを考えてみるには、「温泉とは何か」という定義がいる。日本には「入湯税」という間接地方税もあるから、温泉の定義は大事である。温泉じゃない沸かしの大きな風呂なら税金はかからないけど、温泉旅館あるいは温泉施設を利用すると税金がかかるのである。(1人150円。なお、これは一般財源ではなく目的税。温泉の保護や観光振興などに限って使われる。)

 温泉法という法律で「温泉の定義」が決められている。それは温水、鉱水または水蒸気等のガスで、以下のようなものというのである。(水蒸気ガスが噴出する温泉もかなりある。)条件は「源泉の温度が25度以上」または「以下の成分のうち一つ以上を含む」というものである。以下の成分は19あるが、「1㎏中の溶存物質が、総量で1000mg以上含まれている」とか「遊離炭酸(CO2 )が250g以上」とか、その他さまざまな金属イオンが決められた以上含有されているというものである。
 
 成分表が風呂場に貼ってあっても、大体ちゃんと見ない。でも、こういう法律的な根拠を示しているわけである。この規定は温泉ファンにはよく知られているけど、ちょっとおかしい。後半はともかく、前半は成分じゃなくて温度の規定である。地下の方が温度が高い。地温勾配というらしいが、100m掘ると3度上昇するという。今の技術では1000mぐらいまで掘れるから、地下深くボーリングして地下水が湧出すれば、それは成分に関わらず、必ず「温泉」になる。でも、それっておかしいでしょ。

 温泉はやはり効能あってのものだろう。石川氏の本を読んでなるほどと思ったんだけど、単純温泉と呼ばれるようなものでも、ちゃんとした成分を含む温泉だと非常に濃厚である。家庭の風呂で言えば、入浴剤を5袋一度に入れたほどの濃い成分になるという。そんなことをする家庭は普通はないだろう。大きい風呂だから何となく入ってしまうけど、ちゃんとした温泉はすごく濃厚なのである。

 また石川氏の本で改めて思ったけど、「療養泉」というものを知っておかないといけない。温泉の名前が2014年に変わって、10種類に整理されている。列挙すると、単純温泉、塩化物泉、炭酸水素温泉、硫酸塩泉、二酸化炭素泉、含鉄泉、酸性泉、含よう素泉、硫黄泉、放射能泉というものである。単純温泉といっても、特に何かの成分が突出して多いわけではないというだけで、各種成分が濃厚に含まれているのは変わらない。肌にマイルドだから、特に特定の疾患がなくて疲労回復が目的なら、一番いいかもしれない。こういった療養泉の扱いを受けている温泉がいいんだと思う。

 温泉もそれなりの湧出量がないといけない。もっともそれは宿の数、あるいは宿のお風呂の大きさや数にも関係する。一軒宿なら少なくてもいいし、大旅館が林立しているような大温泉地では湧出量が多くないとダメである。というか、本来はお湯がたくさん出るから旅館が立ち並んだはずである。でもバブル期に巨大化したホテルでは、露天風呂を作り、大浴場も複数作り…ということで、お湯が足りなくなる。大体、客が多すぎると、お湯が汚れるから、循環させないとやっていけなくなる。循環して殺菌したお湯は、確かに温泉力が低くなると思う。

 もっともお湯が少ない温泉や、あまりに巨大な旅館などでは循環がやむを得ない場合もある。事前にわかって泊まるなら、やむを得ない時もある。ところが「あれ、ここって温泉だったっけ」というような観光地が、温泉を名乗っていることが最近は多い。これらは地下深くからの湧出だろうけど、循環、塩素殺菌が激しくて、何のための風呂なのか判らない旅館も多い。沸かしの方が良かったところもある。

 20年ぐらい前から、「源泉かけ流し」という言葉がよく聞かれる。(松田忠徳氏が特に主張した。)僕もそれが温泉の基本だと思う。その方が絶対に気持ちいい。でも、かけ流しならいいのかというと、必ずしもそうでもない。源泉からどう運んできたのか、加温加水の状況、それに掃除などメンテナンスがしっかりしてるかという問題もある。かけ流しでも掃除がきちんとされてなければ、台無しである。立ち寄り入浴者が多くて、せっかくこっちは宿泊しているというのに、もうかなりお湯も汚れていたような宿もあった。

 ホンモノの温泉を探すには、ホンモノじゃない温泉にも山ほど行く必要がある。それは映画や本なんかと同じで、身銭を切っていろいろ学ぶしかない。ガイドは参考になるけど、絶対ではない。ネット情報も同じ。そんな中で、自分なりにどんな温泉がいいのかを考えてみた。自分なりの温泉基準を考えてみると、それは人生観、教育観につながると思った。そういう話は次回以後に書いていきたい。
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温泉好きになるまで-温泉の話①

2017年01月27日 19時52分08秒 |  〃 (温泉)
 僕は映画を8000本以上見ている。日本百名山のうち、ちょうど半分の50座に登っている。数の評価はともかくとして、行ったことがある温泉は約400である。これは僕の気持ちとしては、非常に少ない。もっと増やせるはずだったけど、最近は同じ温泉、同じ宿に泊まることも多くなってきたので、なかなか増えない。特に北陸、山陰、北九州が抜け落ちが多くて、どうも日本全体の温泉を論じにくい。

 だけど、温泉の話を数回続けて書きたいと思う。きっかけとなったのは、年末に四万温泉に行ったこと、石川理夫「本物の名湯ベスト100」(講談社現代新書)を読んだことだけど、もう一つある。それは自民・維新による「IR法」(カジノ解禁法)の強行採決である。それ以来、日本における「リゾート」の歴史や今後を考えているのである。そうすると、日本では「統合的リゾート」の中心は「温泉」じゃないかという思いが強くなってきたわけである。

 そして、温泉というものを考え始めると、それは日本論、あるいは教育論につながっていくことになる。そこらへんはおいおい書いていくとして、まず最初に自分が温泉ファンになるまでのことを書いてみたい。僕が自覚的にたくさん温泉を訪ねるようになったのは、30を過ぎたころからだと思う。それまでも家族や職場などの旅行で温泉に泊まったことはある。一番最初の温泉がどこかは覚えてないけど、家族で行った日光・鬼怒川、あるいは伊豆のどこかだろう。

 でも、その時は「温泉に入った」という意識がなかった。旅館にある「大きな風呂」に入ったという気持ちしかないわけである。旅行の楽しみは、お風呂ではなくてゲームコーナーである。子どもはそんなものだろう。大体、人生に疲れているわけでもなし、湯に浸かって「癒し」を感じるという年頃ではない。連れてこられた大きな旅館で、大きなお風呂に入っていただけである。

 でも、あのころは世の中も大体そんなものだった。日本の経済復興とともに、「観光ブーム」が訪れる。東京に近い伊豆・箱根などは大ブームとなる。そういうことは当時の映画にかなり出ている。獅子文六原作の「箱根山」(川島雄三監督)を見ると、当時小田急(+東急)系と西武系で争われた「箱根山戦争」が描かれている。(ちなみに、伊豆下田でロープウェイに乗ったら、東急の総帥だった五島慶太について「五島慶太は永遠に伊豆で生きている」と大きく書いてあってビックリした。)小津監督の「東京物語」に出てくる熱海の旅館を思い出しても判るだろう。

 旅館、ホテルはどんどん大きくなり、お風呂も大きくなった。そうなると、限られた源泉をうまく利用するために、「循環」方式が発明される。温泉旅館は団体旅行で行くのが当たり前になり、大騒ぎしてくる。お風呂は泉質よりも、大きければ受けるということになってしまった。そして、バブル時代が来て、お金をかけてピカピカの大御殿のような、まるでトランプタワーのような大旅館がたくさん作られた。そして、バブル崩壊とともに、大体つぶれてしまったわけである。

 僕が最初に一人旅をしたのは高校生の時で、中国地方をぐるっと回った。その時点では山や温泉ではなく、倉敷や松江、津和野、萩などを訪れたのである。(まあ、広島の原爆資料館も見たかったんだけど。)大学時代は京都へ行ったし、その頃は「昔の街並み」にひかれていたんだと思う。(今も好きである。)大体、温泉旅館は当時一人旅をほとんど受け入れなかった。値段も高いし、温泉は年寄っぽいイメージだったのである。若いころはお金もないし、町のビジネスホテルに泊まって旅をするのが普通だった。温泉は眼中になかったのである。

 僕が温泉はいいなあと思ったのは、新婚旅行で南紀に行ったことが大きい。授業と部活の試合に縛られて、ほんの数日しか時間を確保できず国内しか行けなかった。そこで昔から行って見たかった南紀、そこで川湯温泉龍神温泉に泊まったのである。いやあ、とても良かったなあ。今ではその後行った湯の峰の方がいいと思うけど、川湯温泉も忘れてはいけない。そして、龍神。日本三美人の湯とされる名湯で、入ればこれは違うとすぐ判った。もちろん中里介山「大菩薩峠」に出てくるから行ったのである。

 その後、山登りによく行くようになった。日本の山は登り口がたいてい温泉だから、山の秘湯のような宿によく泊まる。これがまたいい。泉質がいいと、確かに翌日以後に足が痛くなったりしない。だいぶ軽減される。自分の体調や山のコースにもよるけど、多分温泉も良かったんじゃないかと思えるのである。北海道の大雪山を縦走した時は、層雲峡温泉から登って山中で5泊、トムラウシに登って天人峡温泉に下りて泊まった。この下りはすごく大変だったけど、温泉で回復したなあと思う。

 30過ぎて車を買ったら、北海道や東北の山へよく行くようになり、それで温泉をもっとたくさん知るようになった。山の秘湯も行くけど、少しは余裕もできて、もっと高い宿にも泊まることもあった。高いから必ずいいわけでもなく、泉質だけから見ると小さくてもいい宿はいっぱいある。まあ、部屋は値段に比例しやすいけど、温泉そのものはそうでもない。そんなことが判るようになった。そして、体も温泉が判るようになってきた。年齢に比例して、疲れやすくなると、良い温泉が体にもたらす癒し効果が実感できるわけである。こうして、温泉についてかなり語れる体験を積んできたのである。

 教員は夏に長期休暇を取りやすいから、夏によく北海道や東北へ行った。そればかりではなんだなあと思って、九州や四国へ行った年もある。九州では霧島や阿蘇、四国では石鎚、剣に登りながら、周辺の温泉に入ってきた。でも、正直あまりの暑さにゲンナリした。西日本の夏は半端なく毎日猛暑なのである。ということで、実はまだ別府も湯布院も知らない。これでは日本の温泉論を語れないけれど、温泉ベストを選びたいのではなく、温泉を切り口に日本を考えたいのである。
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世界で地震がよく起きる国は?

2017年01月24日 23時25分24秒 |  〃 (歴史・地理)
 トランプ政権論や映画の話が続いたけど、今度は「温泉」の話を書きたいなと思う。しかし、その前に温泉にも関連がある地震の話を書いてみたい。温泉と関係の深い火山現象も、地下深くで起きている地学的変動と関係している。そして、それは「地震」をもたらす仕組みと関連している。

 ただ、僕は地学的な説明はできないので、あくまでも自然地理的な概説だけ。歴史を好きになる前に、僕は地図が大好きな子どもだった。70年代くらいまでに独立していた国だったら、首都を全部言えたんだけど、その後太平洋やカリブ海の島国が増えてしまったからなあ…。

 最近大きな地震が起きたところといったら、どこだろうか。まずは日本の三陸地方沖ということになる。そして、もちろん熊本県、さらに鳥取などあちこちで起きている。さかのぼれば、阪神淡路大震災、新潟県の中越地震、中越沖地震など…。過去を探していけば、日本のすべての場所で大地震が起きたことがある。北海道や沖縄も起きている。

 世界ではと思い起こすと、2004年末のスマトラ島沖地震。あの大津波の映像は今もよく覚えているのではないだろうか。さらに南米のチリでよく起きている。最近もあったけど、1960年に起きた大地震では、日本の三陸地方にも大きな被害を出した。南米のエクアドルでも、2016年4月に大地震があった。イタリアでも2016年に大きな地震があり、アマトリーチェが大被害を受けて、その町発祥のアマトリチャーナのパスタを食べて支援しようという呼びかけがあった。東日本大震災の直前にはニュー・ジーランドの南島で大地震があったこともよく覚えているだろう。

 さらに、2015年にはネパールで大地震があり文化財が破壊された。2008年に中国の四川省で大地震があったし、1999年には台湾で大地震が起きた。どっちも覚えている人が多いと思う。1999年のトルコ、2001年のインド・パキスタン、2003年のイランと、いずれも1万人を超える犠牲者が出ている。インドネシア周辺では時々大地震が起きているし、ニューギニア付近も地震が多い。

 さらに米国西海岸のカリフォルニアも地震が多いことで知られる。最近は起きていないが、1994年1月17日、つまり阪神淡路大震災のちょうど1年前に起きたノースリッジ地震では、ロサンゼルスが大きな被害を受け高速道路が倒壊した。その前にもいっぱい起きているけど、かなり大きなものでは1906年のサンフランシスコ地震が有名。メキシコ中米のニカラグア、南米のペルーなども大地震が起きた。北を見るとアリューシャン列島カムチャツカ半島なども多い。太平洋沿いがズラッと地震地帯。

 これはもう常識レベルかと思うけど、太平洋の周りはズラッと山になっている。それを環太平洋造山帯(環太平洋山系)という。今もかなり動いている造山帯で、日本とハワイの距離は毎年8センチも近づきつつあるという。太平洋の海底は動いているのである。太平洋のへりが大陸とぶつかり、その圧力で高く盛り上がる。アメリカ大陸ではロッキー山脈、アンデス山脈と大陸の太平洋側に大山脈がある。一方、アジア側ではそこまで高くないけど、アリューシャン、千島、日本、台湾、フィリピン、ニューギニア、ニュー・ジーランドとズラッと島が並んでいる。海の水を抜いてしまえば、山脈の連続だ。

 今までの巨大地震は大体太平洋の周りで起きている。マグニチュード9.5と歴史上最大の地震は、1960年のチリ地震。ハワイに10m、三陸地方に6mの大津波がやってきたことで知られている。次が2004年のスマトラ沖地震(9.1~9.3)、1964年のアラスカ地震(9.2)、1833年もスマトラ地震(8.8~9.2)、1700年のカスケード地震(8.7~9.2、カナダから米国の太平洋岸)、東日本大震災(9.0)、以下カムチャツカ、チリ、エクアドル、アリューシャンと超巨大地震は、全部太平洋周辺で起きているのである。

 この環太平洋造山帯は、何となく覚えている人も多いと思うけど、世界にあるもう一つの造山帯、アルプス・ヒマラヤ造山帯は、案外忘れているかもしれない。ヒマラヤ山脈でアンモナイトなどの化石が見つかるという話を聞いたことがある人は多いだろう。インド亜大陸が移動してユーラシア大陸に衝突し、海底だったヒマラヤ付近が上昇したわけである。だから、ネパールで地震が起きたのも理解できるし、チベット付近も同様に造山帯の影響を受けるから、中国内陸の四川で大地震も起きる。
 (世界の2大造山帯の地図)
 アフリカ大陸とユーラシア大陸の衝突も起こり、アルプス山脈が生まれた。その中間にあるイランやトルコでも造山運動が連続し、イランのザクロス山脈やトルコのアナトリア高原、その北のカフカス山脈などができたが、その代わりに南側のペルシア湾沿岸地帯が沈下した。このことが湾岸地帯に原油が大量に埋蔵された理由である。アルプス造山運動は、バルカン半島のカルパチア山脈トランシルバニア山脈、さらにはイタリア半島ピレネー山脈に続いている。イタリアに地震が多いはずである。ただ、環太平洋地帯と違って、ヒマラヤやアルプスでは比較的火山が少ない。イタリア南部は有名なヴェスヴィオ山やロッセリーニ監督の映画にあるストロンボリ島などがあるが全体的には少ない。

 こういうわけで、世界で地震が多い地帯は、太平洋周辺、そしてヒマラヤからイラン、トルコ、イタリアあたりまでということになる。じゃあ、それ以外のところでは絶対に地震は起きないのか。確かにプレート・テクトニクス理論にあるプレート境界から外れた遠い場所は地震が少ないはずである。オーストラリアとかブラジル、ロシア(ヨーロッパの方)、あるいは米国やカナダの大西洋側は地震が少ない。でも、調べてみると、2016年にはオーストラリア内陸で地震が起きているし、ニューヨーク周辺で群発地震が起きたという。巨大地震や大津波は起きなくても、多少の地震はどこでも起きる。

 何でそうなるかというと、結局は「万物は流転する」ということである。人間は年を取るし、有機物(野菜や果物、肉や魚など)はどんどん腐っていく。人間も何も変わらないつもりでも、細胞はどんどん作り替えられている。無機物である鉱物だって変容を免れないということである。大地はゆるぎないと思っても、実は非常に長い目で見れば動いている。地球そのものも。地球の地殻の下にあるマントルは、より内部の熱を受けて対流をしているとされる。熱の伝わり方の三つ(伝導、対流、輻射・放射)の一つの対流である。だから、それに乗っているプレートも動いていく。物理的原則に沿って、地球そのものも動いてゆき、やがて星としての生命も終わるわけである。
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団地映画と団地論

2017年01月23日 22時42分43秒 | 映画 (新作日本映画)
 昨年の映画に関する書き残し、最後。去年は「団地」に関する映画が評判になった。今までも結構あって、「映画祭」が開かれたりしている。「団地」は思想史的にも注目されているから、合わせて書こうかと思っていた。だけど、肝心の映画の出来がどうも納得できない感じがしたので、面倒になってしまった。だけど、その後フランス映画「アスファルト」も見て、世界的な問題かなと思った次第。

 ここで言う「団地」というのは、もともと「集団住宅地」のことだそうだ。僕の住んでいるところも、一戸建て住宅を私鉄が開発して「団地」として売り出したところである。「工業団地」というのも、工場をまとめて誘致したという意味である。でも、もちろん普通「団地」という時は、5階建てぐらいの鉄筋コンクリート作りの建物がズラッと並んでいるものを指している。「日本住宅公団」(現・都市再生機構)が営々と作ったものである。50年代、60年代前半ぐらいには、近代生活のモデルみたいに思われた。

 その後、何十年も過ぎ、子育ても終わり、子どもは出ていって、高齢化が進み、いろいろと問題が山積しているということだ。そんな団地の歴史を一人の男が体現したような映画が、浜田岳主演の「みなさん、さようなら」(2013)だった。とある理由で団地を出られない人生を送る青年のようすが、リアルに描かれていた。そんな中、2016年には、その名も「団地」という映画が公開された。同時期の「海よりもまだ深く」も団地が描かれていて注目されたわけである。

 「団地」は阪本順治が脚本、監督して、藤山直美が主演している。このコンビで前に作られた「顔」はベストワンだったから、期待されたわけだけど…。そして、実際途中まではかなり快調である。団地の自治会長選挙など、あまり見たことがないシーンもある。子どもをなくした夫婦が、漢方薬店を閉めて団地住まいを始める。その後夫は引きこもり、あらぬ噂がまき散らされ…。というんだけど、ラストがビックリ、これは何だ。この超常設定は僕には理解できなかった。

 ところで、フランス映画「アスファルト」を見ると、フランスの団地で起こる「不器用な男女の出逢いと奇跡」が細やかに描かれている。主演のイザベル・ユペールは知ってるけど、監督のサミュエル・ベンシェトリ他、キャストの大部分も知らない。父はモロッコ系ユダヤ人だそうである。この映画を見ると、団地生活の感覚は日本とそんなに違わない気がした。もっとも僕は一度もこういう団地に住んだことがないから、よく判らないけど。この映画では、屋上にNASAの宇宙飛行士が降りてくるシーンがある。「団地」と合わせ考えると、団地は宇宙と親和性があるのかもしれない。

 「海よりもまだ深く」は、是枝裕和監督の安定した手腕が楽しめる映画になっている。でも、是枝監督としては最高傑作「誰も知らない」はもちろん、「歩いても歩いても」や「そして父になる」「海街Diary」と続いてきた中でも、どちらかと言えば成功度が低いような感じがした。樹木希林の母親役は名演だけど、阿部寛の父親が情けなさ過ぎて、見ている方も恥ずかしくなってくる。まあ、別れた妻役の真木よう子が素晴らしすぎるからとも言えるか。母が住む団地に台風が近づく一夜、親子で集うシーンは大変面白かった。団地内の公園になる滑り台で子どもと話し込むシーンは、団地映画の名シーン。

 この「海よりはまだ深く」は実際に是枝監督が28歳まで住んでいた東京都清瀬市の旭が丘団地で撮影されたという。そのようなよく判った感じが画面にあふれている。一方、「団地」の方は関西弁のセリフだからそっちの方かと思うと、実は栃木県足利市の錦町団地というところで撮影された。最近、足利で撮影された映画が多いが、「湯を沸かすほどの熱い愛」や「64」「ちはやふる」など続々と公開されている。だけど、こんな団地もあったのかとちょっと驚きである。

 さて、最近「団地」をめぐって「空間政治学」という視点から考察しているのが、原武史氏の著書である。もともと自身が西武池袋線沿線のひばりが丘団地滝山団地などに住んでいた。鉄道ファンとしても知られる原氏の関心が、鉄道沿線に開発された「団地」を取り上げるのは、まさに適役。非常に面白い議論が展開されている。「団地の空間政治学」(NHKブックス、2012)と「レッドアローとスターハウス―もうひとつの戦後思想史」(新潮社、2012)はほぼ同時に刊行された。
 
 「レッドアロー…」は刊行直後に読んで面白かったけれど、忘れたところが多い。両書には共通の視点だけでなく、共通の話題も多いと思うが、NHKブックスの方が多少「学問的」だった気がする。戦後史の中で大きな意味を持つ「60年安保」や「革新自治体」と「団地」は大きなつながりがある。団地で形成された地縁ではない新しい人間関係の中で、「革新政党」(社会党や共産党)が勢力を拡大していったからである。その時代の様々な運動、保育所建設や文化活動などを発掘していて、大変興味深い。共産党幹部の不破哲三も団地に住んでいて、夫婦で運動に関わった時代がある。原氏は不破哲三にインタビューしていて面白い。不破の兄、上田耕一郎やルポライターの竹中労なども団地で自治会運動に関わった経過なども書かれている。非常に貴重な戦後史の一断面だろう。
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足立紳監督「14の夜」

2017年01月21日 18時32分22秒 | 映画 (新作日本映画)
 足立紳監督「14の夜」はなかなか面白かったけど、恵まれない公開だったので、ちょっと紹介しておきたいと思う。足立紳(1972~)という人は、「百円の恋」の脚本を書いた人。「14の夜」は自作脚本を初監督した。テアトル新宿のお正月公開作品だったんだけど、「この世界の片隅に」の大ヒットの余波で、上映回数が少なくなってしまった。肝心の正月興行もお昼と夜だった。

 1987年の地方都市。(北関東の各地でロケされたようだ。)中学3年生の夏休み、「性」に餓え翻弄される少年たち。「クソみたいな日常」の中で、「呆れるほどに、バカだった」日々を描いている。そして、ある日「AV女優」の「よくしまる今日子」のサイン会が開かれるという情報が…、特に夜12時を過ぎたら、スペシャルなことがあるらしいというんだけど。この情報にかき乱される柔道部の少年4人組。

 ありそうな話だんだけど、そういえば最近ここまでストレートなおバカ少年映画もなかったかも。そして、少年たちの世界にも、もっと強いグループもあるし、年上の暴走族もいる。映画を撮ってるグループもある。その上、4人組の中にも、実はいろいろの思惑があると判ってくる。一方、主人公タカシの家ももめてばかり。父の高校教師(今は情けない父親役一番手の光石研)は、交通事故時の酒が検出されて停職中。何度応募しても一次審査にも通らない文学賞に応募し続けている。そこに姉が婚約者を連れて帰ってくるんだけど…。

 婚約者を迎えて大混乱の家庭を飛び出し、タカシは夜の中学に集まるんだけど…。とんでもないことが連続する「14の夜」をタカシはどう乗り切るか。「ちょっとやり過ぎ」や「事前に読める」シーンもけっこうあるけど、大いに楽しめる作品だった。快調な演出に、中学生男子たちも頑張っている。その場にいる感じがする。町中にレンタルビデオ屋がいっぱいあった時代の話。そういえば、そんな時代もちょっと前にあった。お店のビデオは、白井佳夫氏提供とクレジットされている。元キネ旬編集長の映画評論家。

 テアトル新宿公開作品は、「そこのみにて光り輝く」「恋人たち」「この世界の片隅に」と3年連続でキネ旬ベストワンを獲得している。その代り、「14の夜」のように上映が限られる作品もあるわけで、不運な映画になってしまった。今後、映画観を変えて、どこかでやって欲しいなあと思う。見るべきチャンスが少ないまま埋もれてしまうのは惜しい。そういう勢いのある佳作。
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「シン・ゴジラ」と「君の名は。」-ジャンル映画の評価

2017年01月20日 23時20分36秒 | 映画 (新作日本映画)
 「シン・ゴジラ」は面白く見たけど、ここでは書かなかった。今頃書くのは、キネ旬ベストテンで2位、しかも脚本賞という選出にどうかなと思ったからである。今回のベストテンには「君の名は。」が選出されなかったのも話題になった。そっちは「『君の名は。』をどう見るか」を書いたけど、合わせて考えてみたい。この2本は、2016年を代表するヒット作だけど、もともとは「ジャンル映画」である。

 「ジャンル映画」というのは、娯楽映画の中で発展した形式である。内容や形式でいくつもに分かれる。小説で言えば、ミステリー小説というジャンルの中に、本格、ハードボイルド、スパイもの、倒叙などのサブジャンルがある。同じように、日本の代表的な娯楽映画である「時代劇」の中に、一般的な勧善懲悪のチャンバラ映画の他に、捕物帳とか股旅物、歴史劇なんかのサブジャンルがあった。

 「ジャンル映画」(に限らずサブカルチャーの中のジャンルすべてがそうだろうが)は「お約束」によって成立している。ミュージカル映画では何でセリフを歌うのか、チャンバラ映画では何で悪役がみな都合よくヒーローに斬られていくのか。そんなことを疑問に思うのはヤボというもの。名探偵は最後にすべて解決するし、ゾンビは死んでるのに動き回る。そういうもんなのだ。

 だから、人はお約束を疑わず楽しむけど、その代わり「リアリズムを重視する芸術とは扱われない」というもう一つの約束もあった。時代劇では、黒澤明の「七人の侍」や「用心棒」などは「ジャンル映画を超越したリアリズム映画」とされていて、初めから映画評論家も高く評価する。だけど、東映や大映で営々と作られ続けた軽快でひたすら楽しい時代劇は、ベストテンには入らない。まあ、だいぶ前の話だけど、そういうもんだったわけである。

 「怪獣映画」は東宝の「ゴジラ」のヒット以来、日本を代表するジャンル映画となってきた。ジャンル映画だから、水爆実験の影響だか何だか、巨大なる怪獣が出現したということ自体を問題にしてはならない。そういうもんだと思って楽しむ(恐怖する)のが「お約束」である。だから、ベストテンに入るような扱いにはならず、今までには「ガメラ 大怪獣空中決戦」(1995、金子修介監督)が6位に入ったことがあるだけである。「ジャンル映画を超えた傑作」と見なされると、そういうこともある。

 「若者向けのアニメ映画」というのも、日本のサブカルチャーを代表する一大ジャンルになっている。「君の名は。」もそもそもは、そういうジャンル映画であり、若者向けに作られている。大ヒットして社会現象化したから、大人も見た。そして中には、過去を改変するのは危険な発想だとか、過去の大災厄をなかったことにしていいのかといった、「お約束」違反のような「批判」もあったりする。それは「パラレルワールド」ものなんだから、言うだけヤボでしょう。ベストテン選外なのは、「ジャンル映画を超えた」とまでは見なさなかった批評家が多かったということだろう。僕はそれは基本的には正しいと思う。

 では「シン・ゴジラ」はどうなんだろう。この映画は確かに大変によく出来ている。東京をゴジラが破壊していく様は、もちろんCGと判っているけど迫力がある。映画は登場当時から「破壊」に情熱を燃やしてきた。チャップリンの映画でも、キングコングでも、戦争映画でも。そういうのが特撮だと知れ渡ると、実際の自動車をメチャクチャに暴走させるカーアクションが大流行した。

 とにかく暴力と破壊、これは自分に向けられると困るけど、画面で見てる限りでは面白いのである。それはお約束だから問題視する気はないけど、初代ゴジラにはあった「破壊されるもの」の心情がこの映画には全くと言っていいほど出てこない。代わりに、政治の場でどのような対応がなされたかが延々と描かれる。そこが新しい。怪獣映画というより、政治映画である。

 それはそれでいいんだけど、ではその扱い方はどうなんだろうか。ゴジラは地上では自重を支えられないから、水中から出ないと思われると学者や政治家が呼びかけると、すぐにゴジラは地上に現れる。だから、学者や政治家は後手後手になるんだと強く印象される。だけど、ゴジラはどうやって自重を支えているの? それは説明されないのは、一種の情報操作ではないのか。

 さらに「自衛隊」や「原子力」、「日米関係」など、日本映画が正面から扱わないことが多いテーマが取り扱われる。だから、人によれば「自衛隊が協力した反原発映画」だといった声も聞かれた。しかし、ホントに反原発映画なら、自衛隊が協力するはずがないではないか。むしろ正直な印象としては、自衛隊の宣伝映画に近くないか。「革新官僚」みたいな中堅官僚が活躍するのも感心できない。
 
 ゴジラが核廃棄物を排出しているらしいという話も出てきて、さらに未知の物質だとかいう。でも地球内から誕生したゴジラに、どうして未知の物質がありうるか。あれほど大量の核廃棄物を体内にため込んだら、内部被ばくで細胞が破壊されると思うが、どうして動けるのだろう。原子力というのは、原子核分裂反応で出る巨大エネルギーをそのまま熱光線として使う(核兵器)か、核分裂で得られた熱を使って蒸気機関を動かすというものである。ゴジラは巨大といえど爬虫類なんだろうから、原子力で動く機械ではない。有機物を消化してエネルギーにしているはずだ。

 というような疑問を書くのは、ジャンル映画だから本来ヤボである。この映画を好きな人もいるんだろうから、あえて書くまでもないかと思って、見た直後には書かなかった。今も自衛隊の出動根拠や国連安保理の問題は、もう面倒だから書かないことにする。だけど、そっちもかなり問題があると思う。でも、「ジャンル映画を超える」脚本にしようとしたのは作り手側であり、そこに「原発事故を思い起こさせる」仕掛けをしたのも作り手の方である。そこの野心が評価されたんだろうが、僕はその部分には科学的、あるいは法制度的な問題も多いと思う。しかし、その前にジャンルとしての怪獣映画が僕は好きではない。僕はベストテンには選ばないんだけど、好きな人がいてももちろんいいわけである。ジャンル映画的な面白さはあるけど、問題を盛り込み過ぎたところが僕はダメということになる。
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「ハドソン川の奇跡」をどう見るか

2017年01月19日 18時41分17秒 |  〃  (新作外国映画)
 2016年に日本で公開された外国映画では、「ハドソン川の奇跡」がキネ旬でもSCREENでもベストワンに選ばれた。僕も見て、大変よく出来ていると思った。それならブログで紹介して大々的にほめたたえてもいいようなものだが、僕はここでは書かなかった。それは何故かという話である。映画に限らず、人の好き好きは様々だから、僕がどの映画をどう評価しようが自由である。映画批評を仕事にしているわけじゃないから、書かなくてもいいわけだけど、「書かない理由」にも意味はあるかと思う。

 クリント・イーストウッド監督の新作が公開されたら、それを見ない映画ファンはいないだろう。今じゃ、何でも作れる境地に達している感じである。最近の2作、「ジャージーボーイズ」と「アメリカン・スナイパー」は書いた。でも、どちらもその年のベストテンに入れるほど、好きな映画ではなかった。「ジャージー・ボーイズ」は楽しいから見てて充実感がある。「アメリカン・スナイパー」は緊迫感が半端じゃないけど、映画の世界に納得できないものがあった。

 「ハドソン川の奇跡」は、イマドキのハリウッド映画には珍しく、96分しかない。話がサクサク進んで、どこにも淀みがない。やはりうまいなあと、その演出能力に感心して堪能する。その意味では見ただけの価値がある。僕が思ったのは、「一年に一度ぐらい映画を見ようかという人に、何がいいかと聞かれたら、ぜひ薦めたいなと思う映画」という感じ。もっと映画をたくさん見る僕としては、もう少し濃厚な味が欲しい気がする。一年にいっぺんラーメンを食べるという人なら、やはり東京風醤油ラーメンがいいんじゃないか。その醤油ラーメンみたいな味わいかなと思う。

 いや、このたとえはちょっと変か。僕はみそやとんこつではなく、醤油ラーメンが好きなんだから。でも、映画としては、もっとコクや辛味が欲しいと思うのである。映画の中身の話を書いてないけど、これは2009年1月15日に起こった飛行機事故の映画である。鳥が入ってエンジンが停止し、機長の判断でハドソン川に不時着して全員救助された。知ってるよね、この話。覚えてますよね。だから、飛行機がどうなるかは事前に判っている。よって、事故そのものの再現シーンは、それでも緊迫感はあるけれど、知ってることの確認になる。メロドラマのラストのように、判っていても幸福なラブシーンとも言えるが。

 映画の宣伝でも、観客が事故を知ってることは前提にしていて、「155人の命を救い、容疑者になった男」をキャッチコピーにしている。だから、そこが見どころと思って見たわけだが…。これはちょっと「誇大広告」ではないか。容疑者というのは、普通は刑事責任を追及されたときに使う言葉である。特に現代日本では、「逮捕されてから起訴されるまでの肩書」として使われる。(逮捕前は匿名で、起訴後は被告となる。)でも、この機長は刑事責任なんか全然問題になってないのである。

 確かに機長は調査対象になる。それは「航空機事故調査会」(みたいなもの)である。実際に事故は起こったんだから、その時の機長の判断が問われるのは当然である。その時に問題になったのは、行政責任である。つまり、交通事故で言えば免許停止みたいなケースである。機長が免停になれば、仕事ができない。大事ではあるが、それは「容疑者」ではないだろう。その調査会の査問を大きく扱って映画化したわけである。それはなかなか迫力があるが、「容疑者」とは違う感じ。

 クリント・イーストウッドはキネ旬ベストワンが、なんと8回目である。許されざる者、スペース カウボーイ、ミスティック・リバー、ミリオンダラー・ベイビー、父親たちの星条旗、グラン・トリノ、ジャージー・ボーイズ、ハドソン川の奇跡。「許されざる者」と「ミリオンダラー・ベイビー」は、米国アカデミー賞でも作品賞、監督賞を受賞している。高く評価されるのは当然の名作。「ミスティック・リバー」や硫黄島二部作も立派な出来だった。(アメリカでは「硫黄島からの手紙」の方が評価が高く、アカデミー作品、監督賞にノミネートされた。)だけど、その他は過大評価なんではないだろうか。

 チャールズ・チャップリンの4回(巴里の女性、黄金狂時代、殺人狂時代、独裁者)やフェデリコ・フェリーニの3回(道、8 1/2、アマルコルド)より、イーストウッドははるかに偉大な監督なのだろうか。衰えを知らずに作り続けるイーストウッドだけど、その監督のあり方は今までの巨匠とかなり違っている。フェリーニや黒澤明は晩年に衰えた感じがしたが、もともと彼ら独自の世界があり、自分も加わったオリジナル・シナリオが多かった。そういう「作家性の強い監督」は、年齢とともに作家性の衰弱が見えやすい。(最近の山田洋次もそうかもしれない。)

 一方、クリント・イーストウッドは、製作と監督を兼ねることが多く、脚本は優秀なライターに任せている。題材は多様で、特に実話の映画化や話題になった原作が多い。一貫した作風というよりは、題材に合わせた自在な演出こそ魅力である。特に硫黄島二部作以後は、自分なりに興味をひかれた題材を選んでいる感じがする。「映画作家」というよりは、「映画演出家」という感じがする。その語り口のうまさは絶品である。だけど、映像美やテーマ性を基準にすると若干弱い。

 話を知ってると面白くないと僕は思うんだけど、それを言ったら忠臣蔵は見られない。落語だってクラシック音楽だって、知ってる上で演者の工夫を楽しんでいる。日本の文学でも「再話」(リライト)がかなりある。日本文化のそういう特徴から、日本の批評家は語り口のうまさにひかれるかもしれない。でも、僕はもっと辛味のあるテーマ性、コクのある人間ドラマを上にしたいという映画観の違いがある。なお、ロードショーで見逃した人は、今後名画座でやるので必見。まあ、東京の人じゃないと見れないが。(新文芸座、早稲田松竹、ギンレイホールなどで上映予定。詳しくはそれぞれのHPで。)これは大きなスクリーンで見ないと意味がないので、ぜひ見ておくべきだろう。
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キネマ旬報ベストテン2016・外国映画編

2017年01月17日 22時59分28秒 |  〃  (新作外国映画)
 昨日はインターネット不調につき、今日は午前に投稿したけど、続いてキネ旬ベストテンの外国映画を紹介しておきたい。これもただ順番に書くと、 ①ハドソン川の奇跡 ②キャロル ③ブリッジ・オブ・スパイ ④トランボ ハリウッドに最も嫌われた男 ⑤山河ノスタルジア ⑥サウルの息子 ⑦スポットライト 世紀のスクープ ⑧イレブン・ミニッツ ⑨ブルックリン ⑩ルーム

 「SCREEN」誌の選出したベストテンも発表されている。順番に並べると、①ハドソン川の奇跡 ②スポットライト ③リリーのすべて ④ブリッジ・オブ・スパイ ⑤トランボ ⑥キャロル ⑦レヴェナント 蘇えりしもの ⑧オデッセイ ⑨ルーム ⑩グランド・フィナーレ 

 少し違っているが、キネ旬にアート系やアジア映画が入ってくるのは例年のこと。「SCREEN」にはアカデミー賞ノミネート作品が多く並ぶのも、例年の傾向だと言っていい。その中でベストワンがクリント・イーストウッド監督になっていることは共通してる。しかし、僕はその「ハドソン川の奇跡」について書いてない。キネ旬6位の「サウルの息子」についても書いていない。「ハドソン川の奇跡」は「シン・ゴジラ」と同様に、ちゃんと書く必要があるから後に回したい。

 その前に、こういう「ベストテン選び」についてちょっと書いておきたい。昨年の業績表彰がない部門はないだろう。どんなジャンルでも、批評家が選出してすぐれたものを表彰している。だけど、こういう風に「10本選ぶ」という行事をやってるジャンルはそんなにない。数字で確定できるスポーツ(野球バッターの打率とか、サッカー選手のゴール数とか)と違って、芸術ジャンルでは本来内容の評価に順番は付けられない。映画なら(CDや本でもそうだけど)、観客動員数という数字はある。

 「君の名は。」がなぜランクインしてないのかという人もいるようだけど、観客数じゃなくて、映画の中身の評価で言えば、まあベストテンに入るか入らないかというあたりだろうというのは、何本も映画を見てれば容易に判ると思う。僕は9位か10位なら入れてもいいかなと思うけど、外れても全然不思議ではない。だけど、「シン・ゴジラ」や「ハドソン川の奇跡」はどうなんだろうと思う。それはつまり、映画の出来の評価ではなくて、好き嫌いやメッセージ性の問題である。

 映画は面白ければそれでいいじゃないかというかもしれないが、そうでもないだろう。スポーツだって、単に勝てばいいというのではない。サッカーなんかだったら、監督の戦術を理解し、選手のそれまでの経歴などを知れば知るほど面白みが深くなる。だけど、普通の人にはなかなか判らないから、評論家という人が解説する意味が出てくる。そして、人よりたくさんの映画を長く見てきた人ほど、ある程度評価が安定してくるはずである。そこに「ベストテン選出」の意味があるけど、今はあまりに選者の感覚が様々に分かれていて、つまり「多品種少量生産」みたいな映画作りになっている。

 映画も劇場公開だけだとペイするのが難しく、DVDなどで回収するわけである。そうなると、誰もが評価する名作なんかより、むしろ深い趣味を共有する数少ないコアなファン向けに作る方が売れることもある。昔はエンタメ映画はベストテン選出から無視されていたけど、30年ぐらい前からは同じように選出されている。社会派映画と同様に評価するのは難しい。選者の三分の一が高く評価すれば、過半数の選者が無視しても、上位に入ってくる。だから、今のベストテンにこだわる必要はないのかも。
 
 それでも、多くの批評家が点を入れたなら、そこにはそれなりに見るべきものがあるはずだ。だから、一応映画選びの参考にはしないといけない。そうやって、ベストテンの上位20本ぐらいをみて、それを何年か続ければベストテンの傾向も判ってくる。一般的に言えば、一度巨匠と認識された監督の作品は、その後も上位で選出され続ける傾向がある。若い新人監督の作品なんかだと、最初は9位、10位ぐらいに入る場合がある。でも、実際に見てみると、新人作品には新しい勢いが感じられてすごく魅せられるのに対し、巨匠作品は手慣れた技術に頼った通常の出来といった印象を受けることもある。

 その後はその人の映画観次第だけど、僕だったらもう巨匠は落として、新人を上にしたいと思う。どんなジャンルでも今言ったようなことは起きているのではないか。そして、また何年かすると、かつての新人監督がベストワンに選ばれる作品を作る時代になる。しかし、それはもう万人向けに作られた作品で、かつて若いときにみなぎっていた新しいものを作るんだというエネルギーが忘れられていたりする。そうやって、新旧交代が進んでいくわけである。

 さて、最後に今回の外国映画ベストテンで僕が書いてない「サウルの息子」について。ハンガリーの新人、ネメシュ・ラースロー監督の作品で、カンヌ映画祭グランプリアカデミー賞外国語映画賞を取った。まさに新しい才能の登場である。舞台はナチスの「絶滅収容所」。そこで死体処理係をさせられているユダヤ人サウルが、子どもの死体の中に自分の子(と思い込む)死体を発見する。解剖されるのを阻止して、ユダヤ教に則った埋葬をしようとラビを探し回る。その状況を克明に描くことにより、収容所内の様々なあつれき(ユダヤ人の中にも様々な立場がある)が見えてくる。

 ナチスによる強制収容所を描く映画はたくさんある。「シンドラーのリスト」や「ライフ・イズ・ビューティフル」のような「名作」が作られてきた。この「名作」という書き方は、いくぶん揶揄的な表現である。つまり、今の時点ではナチスは絶対悪なので、誰をも感動させる作品を作ることが可能になる。しかし、実際の被収容者にも様々な立場や個性があった。この映画のように、まさにその場にいるかのように収容所の世界を描き出すのは、確かに新しい試みであある。「名作」ではなく自分の作家性に基づく映画を作りたいという監督の意欲を感じる。

 だから、テーマ的にも技法的にも、また世界各地の評価という意味でも、この映画は見ないわけにはいかない。そして、さっそく見たんだけど、この映画には付いていけなかった。絶え間なく動き回るカメラ、臨場感ありすぎ。それぞれの登場人物も複雑で、理解が大変。とにかく、これほどカメラが動くと、僕にはちょっと疲れてしまうのである。だから、この映画も途中で置いていかれてしまった。そういう映画もあるということである。
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キネ旬ベストテン2016と黒沢清の2作

2017年01月17日 10時59分22秒 | 映画 (新作日本映画)
 年初になると、各種の映画賞が発表になる。キネマ旬報のベストテンは、1924年(大正13年)からと一番歴史が長いので、それなりの権威を持っている。選者も多くて、ある程度映画批評家の考えが反映されていると思う。まあ、昔の選考の中には、「なんでこうなったの?」と歴史の検証に疑問を付けられるのもあるだろうが。(傑作ぞろいの1950年代には、小津安二郎「東京物語」が2位(1953年)、「七人の侍」が3位(1954年)という、今見るとどうなんだろうという結果も残されているが。)

 ところで、今回発表されたベストテンを見ると、僕は劇映画に関しては、全部見ていた。映画はたくさん見ているんだから、当たり前だろうと思われるかもしれないが、僕の長い映画鑑賞人生の中でも実は初めてのことである。何でかなと思うと、一つは12月公開作品がなかったこと。公開直近だと、見るつもりでも単純に時間の関係でまだ見てないことがある。

 もう一つが、これが入ったのか、それは予想しなかったというような作品が少なかったということである。内外ともに、評価が著しくズレる作品、つまりある人は大評価するものの、他の人は大批判するというような作品が少なかった。作品内容はともかく、作品の完成度は高かったということではないか。特に、日本映画は近年にない当たり年だったように思う。

 では、まず日本映画に関して。順番に書いてしまうと、①この世界の片隅に ②シン・ゴジラ ③淵に立つ ④ディストラクション・ベイビーズ ⑤永い言い訳 ⑥リップ・ヴァン・ウィンクルの花嫁 ⑦湯を沸かすほどの熱い愛 ⑧クリーピー 偽りの隣人 ⑨オーバー・フェンス ⑩怒り

 次点は、「64」と「海よりもまだ深く」が同点らしい。他を調べてみると、毎日映画コンクールの作品賞ノミネート5本は、「怒り」「この世界の片隅に」「シン・ゴジラ」「淵(ふち)に立つ」「64 ロクヨン」になっている。日本アカデミー賞の作品賞ノミネート5本は、「怒り」「家族はつらいよ」「シン・ゴジラ」「湯を沸かすほどの熱い愛」「64ロクヨン 前編」である。(どっちも50音順)

 まあ、大体共通性がある。では、僕のべストテンはどうなるかは、採点表が発売されてからにしたい。でも、先の10本を見ると、僕が書いてない作品がある。見てるけど、書いてない映画。それは「シン・ゴジラ」と「クリーピー」である。書いてないのは、書いてない理由がある。普通はそれは書かないんだけど、今回は書いておいてもいいかなと思って数回書いてみる。

 「シン・ゴジラ」は後にして、まず黒沢清監督「クリーピー 偽りの隣人」。これはロードショーで見逃して、秋になって早稲田松竹で見た。その頃、次回作のフランスで撮った「ダゲレオタイプの女」も見たので、合わせて書いてみようかなと思ったんだけど、気を逸してしまった。一言で言えば、黒沢清監督は苦手なんである。理由は、怖いからにつきる。
 
 大体どんなジャンルも分け隔てなく見るけれど、比較的苦手なのは、ホラー映画。内外ともにファンがかなりいるようだけど、超名作は別にして、あまり見なくてもいいかなと思ってしまうジャンルである。黒沢清でも、ホラー度が低い「トウキョウソナタ」や「岸辺の旅」はかなり好き。でも、「CURE」や「回路」「LOFT」なんかは、相当怖い。

 今回の「クリーピー」は、異界ものではなくて、現実の犯罪者を描くので、怖さも半端でない。非常に怖いと思う。よく出来ているのは間違いない。一気見できる。どこにも破綻がない。西島秀俊と香川照之の闘いは見ごたえがある。でも、香川照之はやり過ぎ的な怖さ。要するに、僕の感覚では、好きな人が一人で見ればいいのであって、おススメする気にならないということである。

 黒沢清監督は、大学は同じで年齢も近く、大学内で自主上映していた映画も見たことがある。もちろん面識はないけれど、長く見ているわけである。だけど、上記理由で見逃しも多く、作家論を書くほどの知見はない。世界的な評価は高く、記録映画「ヒッチコック/トリュフォー」でもインタビューされていた。初めて外国で撮ったのが、「ダゲレオタイプの女」。これもけっこう怖いけど、典雅な映像美の世界に浸ることができる。ヒロインもステキで、僕はこっちはかなり好きと言っていい。でも、ホラー映画は書きにくいし、まあ書かなくてもいいかと思ってしまったわけである。まずは、黒沢清監督の話から。
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辻原登「籠の鸚鵡」(かごのおうむ)を読む

2017年01月15日 21時41分07秒 | 本 (日本文学)
 年末年始には雑多な本を読んでいた。「ムシェ」という本は、まず知らない人が多いだろうから感想を書いた。他にも、岩瀬成子「オール・マイ・ラヴィング」(小学館文庫)、村松友視「極上の流転」(中公文庫、破格の日本画家堀文子の生涯を描く)、梨木香歩「エストニア紀行」(新潮文庫)、スタッズ・ターケル「ジャズの巨人たち」(青土社)といった雑多ぶり。年末に「そういえばこんな本を買ってたんだ」と再発見した本である。どれも面白いんだけど、まあ名前だけということで。

 その後、小説読みに戻って、辻原登「籠の鸚鵡」(新潮社、1600円)を読んだ。日本の現代小説は、やはり読みやすい。歴史や国際問題の本も読むけれど、最近は圧倒的に小説が多い。(映画も記録映画じゃなくて劇映画が多い。)辻原登は2年ほど前にいっぱい読んで、ここでも何回も書いておいた。本名が村上博なので、「第三のムラカミ」という記事を書いておいた。どうして辻原というペンネームなのかは、そっちを参照。第三というのは、言うまでもなく、村上龍、村上春樹を指している。でも、21世紀に書かれたものを見る限り、最近一番面白いのは辻原登なんじゃないかと思っている。

 今回の「籠の鸚鵡」も大変面白いクライム・ノベルだった。「鸚鵡」なんて漢字は初めて知ったけど、鳥のオウムはこういう字だったのか。でも、ここでは高峰三枝子の歌謡曲「南の花嫁さん」という歌の歌詞から取られている。主人公たちの置かれた状況の比喩でもあるだろうけど、小説内の時間が流れる80年代半ばという時代相も表しているかもしれない。

 辻原登は最近犯罪者を描く小説が多いけど、「クライムノベル三部作」だと自分でも言っている。「冬の旅」「寂しい丘で狩りをする」に続くもので、今回は80年代に現実に起こった二つの事件、和歌山県下津町(現海南市)の公金横領事件、山口組分裂に伴う山口組、一和会による「山一抗争」が巧みに織り交ぜられていて、そこに開発にともなう不動産業界のあれこれなどが絡んでいる。奥が深くて面白いことこの上ない。ベースは小さな町の出納室長が、暴力団員がバックにいるバーのホステスに絡めとられていく話である。そこらへんは、まあそうなるんだろうなで進んでいく。

 とんでもないことになっていくのは、後半の展開。何人かの人物がそれぞれの思惑で、いくつかの犯罪を計画していくのだが、どれがどう交錯していき、どう現実になっていくのか。いわば「最後に誰が笑うのか」をめぐって、とてもスリリングな展開でどうなるかが最後まで判らない。(最後まで読んでも、結局その後どうなるかは判らない部分が残るが。)

 最初は「愛欲小説」かと思う淫らな手紙が連続し、どうなることやらと思うんだけど、途中からドライブ感が半端じゃなくなっていき、一気読み。これほど面白い犯罪小説もめったにないと思う。「クライムノベル」というのは、ミステリーのジャンルの一つなんだろうけど、純文学にも「ジャンル小説」の枠組みで書かれるものは多い。(大きく言えば、「ドン・キホーテ」や「罪と罰」「白鯨」なんかも、「ジャンル小説」の枠組みを利用して書かれたものだろう。)

 だけど、純文学とミステリーは、お約束的に分かれていて、年末恒例のミステリーベストテンなんかにも、この小説は入らない。でも「面白本」を求める人こそ逃すべきではない。とは言いつつ、読後感はやはり「純文学」で、面白いだけでは終わらない、人間の不可思議についてじっくり考え込むことになる。そこが本を読む充実感である。この本は、今までの2冊と比べても、不動産業界や暴力団の内幕などがじっくり描かれていて、日本社会とはどんなものか、つくづく思い知らされる。

 若い人にはぜひ読んで見て欲しい本だと思う。犯罪というだけでなく、男と女のありようも考えさせられる。女主人公がバーを開かなければ、あるいは出納室長が下戸だったら、全ては変わっていた。だけど、その方がよかったのかどうかは、人それぞれ考えが違うだろう。それに、この話が動き始める前に、不動産業の男と介護業界の男が知り合っている。ホントはそこから始まっているので、付き合いは人をよく見なきゃということでもあるけど、世の中は複雑怪奇に結びついているのだ。ある人とある人は知り合いだけど、ある人は知らない。そういう網の目のような中をいかに生き抜くか。

 著者は和歌山県出身だけど、ここまで和歌山を描いたのは初めてかもしれない。(森宮と名を変えて新宮を描いた「許されざる者」はあるけど。)那智の滝、和歌山城、高野山、湯の峰温泉、勝浦温泉などが出てくる。場所もほとんど和歌山県内で起こる。僕は新婚旅行で南紀に行き、その後も行ったことがある。だから、熊野本宮や湯の峰温泉、那智の滝が出てくると思い出がよみがえる。

 この本については、ウェブ上に著者のインタビューがある。「辻原登さんインタビュー」は必読の面白さ。是非読むべき。この中に出てくる下津町の公金横領事件は、なんとなく記憶にあったけど、インタビューを読むと、本物の事件は20億円も横領して、使い道が判らなかったという。著者は「シンプル・プラン」を思い起こして小説化したという。辻原登の本は、実はクライムノベルではない「許されざる者」や「韃靼の馬」「ジャスミン」などの方がはるかに奥深い傑作だと思う。「籠の鸚鵡」を読んだ人は、ぜひそっちも読んでください。
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「トランプ反革命」にどう対応するか

2017年01月12日 23時16分35秒 |  〃  (国際問題)
 「トランプ反革命」と表題に書いたけど、それは何のことだろうか。某雑誌に「トランプ革命」とあったんだけど、それを見て僕が思ったのは、むしろ「反革命」じゃないだろうかという思いである。もっとも、「革命」という熟語は元々は中国の「天命が革(あらた)まる」こと、つまり王朝が変わることである。その意味からすると、大統領選挙の結果は「一種の革命」と言ってもいいのかもしれない。(福田赳夫元首相の名(迷)言にある「天の声にも変な声がある」というのに近いかもしれないが。)

 だけど、近代の革命史では「社会主義革命」というのがあり、マルクス主義では「階級闘争により革命が起きるのが歴史的必然」と考えた。まあ、今じゃそんなことを信じている人はほとんどいないと思うけど、「革命が起きるのが必然」なら、歴史の流れに掉さすことが革命的だということになった。(ちなみに「流れに掉さす」を「流れに反対する」意味に思っている人が時々いるが、正しい意味は「流れに乗る」である。)そして、必然的に起きるはずの革命にあえて抵抗するのが「反革命」になった。

 そういう意味で「反革命」を使うなら、そもそもまず先に「革命」がなければならない。日本の安倍政権は「日本を取り戻す」など、トランプのようなスローガンを掲げているが、でも「伝統的保守」ではあっても、「反革命」の狂熱や高揚はないだろう。日本の民主党政権は、「革命的変化」を日本にもたらさなかった。ほとんど内部分裂で自滅したから、自民党としては従来の利益誘導型の伝統的保守票をまとめれば政権復帰できた。だから、「反革命」として登場したのではなく、まさに「復帰」した。

 一方、アメリカの民主党オバマ政権は、ブッシュ政権時のイラク戦争とリーマンショックからの「チェンジ」への期待を背負って誕生した。しかし、当初期待したリベラル層も、案外「チェンジ」できなかったことにガッカリした人が多いだろう。アメリカ国民は(オバマ政権途中で)、共和党に下院の多数を与えたのだから、チェンジが不十分だったのもやむを得ない。だけど、アメリカ内ではオバマ政権誕生すぐから、「ティーパーティ」(茶会)など過激な政治運動が盛んになっていった。

 このことは、一方から見ると不十分でしかないオバマ政権の「チェンジ」であっても、反対派からすると「許しがたい米国の伝統からの逸脱」に見えることを示すのではないか。「オバマケア」(かなり不十分だと思うが)、「同性婚」「銃規制強化」などは、伝統的キリスト教的世界観への冒涜や、個人の領域に対する国家の侵犯(「大きな国家」への強い反対)として、強固な反対を呼び起こす。それらを進める「オバマ・チェンジ」への強い反対という意味で、「反革命」と言えるような側面があると思う。

 そのような「焦りにも似た怒り」がトランプ陣営にあったのかと思う。大統領就任後に、オバマ時代のレガシーをどんどんひっくり返すと言っているのも、まさにそのような「反革命」的な情熱から来るのではないか。しかし、そうやってひっくり返したものは、その後どうなってしまうのだろう。「歴史の流れ」というものがあるとするなら、トランプ政権が何をしようが、それは一時の停滞にすぎず、いずれはまた元の流れに戻るはずである。そのことを考えてみたい。

 歴史というものは、そもそも「ジグザグ」に進む(イランの映画監督アッバス・キアロスタミの作る映画に出てくる道のような)ものだろう。それに歴史には「正しい流れ」があって、どんな社会、どんな文明も同じように進展するという考えは、僕は取らない。だけど、いくつかの分野では、「歴史は不可逆的に進む」のではないだろうか。一つは人権意識のレベルである。もう一つが産業上の新しい段階である。

 人権問題に関していえば、例えば選挙権を見れば判る。ある時期までは専制政治であり、その後選挙が始まるが、最初は有力男性のみが選挙に参加できた。次第にすべての男性に、そしてすべての女性に、すべての人種にと広がっていった。それを求める長くて厳しい運動があり、全人民による選挙が勝ち取られた。これは不可逆だろう。いったん与えられた選挙権が、その後取り上げられることは絶対にないだろう。だから、いまはまだ選挙に制限のある国でも、いずれは自由選挙が実施される日が来るんだと思う。それはもちろん、他の人権問題にも言えることだろう。

 もう一つ、例えば産業革命も不可逆的な歴史だろう。電車や自動車があるのに、人力車の時代には戻らない。無声映画、白黒発声映画、カラー発声映画、デジタル映画という流れも不可逆である。もちろん、あえて擬古的効果を狙って、今でも無声映画を作ることはできる。(数年前に「アーティスト」という映画が評判になった。)電話が発明され、ほとんどの人に電話が行き渡る。やがてポケットベルができ、携帯電話が普及し、スマートフォンが出てくる。使ってない人もいるだろうが、流れ自体は不可逆だ。

 さて、そういう風に考えてみると、重厚長大産業の生産地が先進国から新興工業国に移っていくのも、ある意味では不可逆なんじゃないだろうか。もちろん、大企業は労働者や地域社会に責任がある。安易に工場を閉鎖して外国に移ることは許されない。だが、大きな流れで見れば、工業の中心地は歴史的に移り変わっていくものだ。それなのに、経営者が政権の顔をうかがうことに時間を取られていては、企業の競争力を削ぐのではないか。企業の経営体力をかえって奪うし、アメリカの消費者の利益にもならない。トランプ政権がアメリカ衰退を決定的にしたと将来の歴史家は書くのではないか。

 フォードのメキシコ工場がなくなって、ではそこで働くはずのメキシコ人はどうすればいいのか。アメリカに移民せよというのか。でも、それは「壁」を作るんだという。要するに、アメリカ人は豊かになるけど、メキシコ人は貧しいままでガマンせよというのか。それこそが移民を生む考えだろう。移民をなくしたいというなら、メキシコで生きていける雇用が必要である。トランプがやっていることは、むしろ移民増加策である。むしろ重厚長大産業が外国に移っても、新しい産業を起こしていく(手助けをする)のが、政治の役割ではないだろうか。

 僕たちは確かにフォードやゼネラルモーターズという会社があることを知っている。20世紀の歴史を作った大工業時代を代表する会社である。だけど、日本で周囲にアメリカ車に乗ってる人はほとんどいないだろう。では、アメリカとは無縁の生活をしているのか。そうではない。今パソコンに書き込んでいるわけだが、マイクロソフトのOSを使用している。グーグルフェイスブックも今日利用している。さらに、アップルやアマゾンやツイッター…などが、今のアメリカを代表する企業ではないのだろうか。

 そして、もう一つがエネルギー問題である。地球温暖化問題に関して、パリ協定から脱退するのではないかと言われている。アメリカはブッシュ政権が京都議定書を脱退した「前科」もある。しかし、そんなことを行ったら、まさに「反革命」そのものである。化石燃料中心の時代から、自然エネルギーへという流れも「不可逆」なのではないだろうか。そうすると、トランプ政権が旧来型重工業を重視して、ITや新エネルギーを軽視することは、長期的にアメリカの経済成長を大きく損なうことになるはずだ。

 人権問題はそもそも、法が整備されただけではすべてが解決されることはない。どんな時も「不断の努力」で勝ち取っていくべきものだ。もしトランプ政権で逆風が起きたとしても、だからこそ人権運動の重要性を人々が再認識するはずだ。日本でもそう思って、共にエールを送るということである。

 一方、エネルギー問題などに関しては、本来今こそ原発からフェードアウトしていき、新技術の開発に全力を注入するべき時だ。アメリカがモタモタしているうちに、むしろ日本が世界の先頭に立つチャンスのはずだ。このトランプ政権成立におたおたせず、むしろアメリカ企業の体力低下を見越し(トランプに配慮して雇用を優先すれば、新技術開発に回す金が減らされるはずだ)、日本企業が新しい技術を開発する契機にするべきだと思う。
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トランプ政権の「日米安保論議」をどう考えるか

2017年01月11日 23時19分49秒 |  〃  (国際問題)
 トランプ政権の問題続き。トランプ氏が選挙戦中に、日本の防衛問題にも問題ツイートを連発した。アメリカにただ乗りしているとか、日米安保を見直すとか、日本も核武装すればいい(と受け取れる)ような話が相次いだ。「アメリカ・ファースト」を掲げるトランプ政権では、日米安保条約はどうなるのだろうか。日本国内では、なんだか左右両勢力ともに、日本はこの際「自立」する好機ではないかなどと内心で喜んでいるような人がかなりいるようである。

 もちろん、左は「アメリカ従属を離れて、より中立的になるチャンス」と受け取り、右は「日本の防衛力を格段に増強し、あわよくば核武装まで行くチャンス」と受け取っているのかなと思う。僕はそういう政策的選択以前に、そもそも現状理解が正しいのかどうかに疑問がある。はっきり言えば、日本人の戦略的思考力が試されているし、あまりにもナイーブな世界認識では困ってしまうと思う。
 
 確かに「アメリカ一強」という時代は終わりつつあるだろう。その意味では、今後何十年か「弱いアメリカとどう向き合うか」という問題に日本は直面する。なぜ弱くなったのか。トランプ支持者は、オバマ政権の弱腰がアメリカを弱体化したと非難するだろう。一方、オバマ支持者は、ブッシュ政権のイラク戦争やリーマンショックがアメリカを弱体化したと非難するだろう。そういう問題もあるかもしれないが、もちろん70年代、80年代頃から長期的に下落しているんだし、個々の政権の政策だけでなく、もっと長いスパンで考えるべき文明史的問題を指摘するべきだ。

 まあ、ちょっと大きな問題はさておき、当面のトランプ政権は何を考えているのだろうか。実録ヤクザ映画風にたとえ話を考えてみると、こんな感じになるのではないか。「大組織アメリカ組の新親分」が、「俺たちの組も大変なんだ」と言い出しているのは確か。「今後の抗争(でいり)の時も、それほど助けに行けないかもな」とも確かに言ったんだと思う。それを聞いた「アメリカ組傘下の日本組」には、「これを潮時にカタギになろうか」とか、「アメリカ親分の跡目争いに日本も乗り出そう」とかいう人がいる。

 でも、アメリカ新親分の真意はどこにあるか。日本組は俺の子分のくせして、こそこそ汚い稼ぎをしてるだろ。(メキシコに工場を作るとか。)だから、今後は「もっと上納金を持って来いや」。これが新親分の真意であって、親分は自立を求めているなどと勘違いして、独自の動きでもしようものなら、おいお前ら勘違いするなと他の子分に声を掛けて、さっそくつぶされるだろう。

 実際に抗争(でいり)が起こったら、確かに今後「アメリカ組」は日本組を十分に助けにこないかもしれない。でも日本組が勝手に突っ走っても後ろから弾を打たれる。他の組と独自に手打ちしても、露骨に嫌がらせされる。要するに、新組長の求めるものは、もっともっと熱心に下働きして文句も言わずに金だけ上納することなのだ。やがてはっきりすると思うけど、僕はそういうことだと思っている。

 ということで、トランプの求めるものは、日本の自立ではなくて「より一層の従属」であるだろう。そう思わないといけない。では、核兵器発言は何なのか。もちろん、条約上も国民感情からも、日本の核武装は空想の域であり、拙劣な思いつきにしか過ぎない。多分、トランプもそんなに深く考えず、思いつきで発したんだと思う。イギリスは国連常任理事国であり、核兵器も持つが、米軍とともにイラク侵攻に参加した。日本が核兵器を少しぐらい持ったとしても、アメリカに従属する立場は変わらない。今後アメリカが助けに行かないこともある、それが心配で仕方ないんだったら、核兵器の一発や二発持たせてやればいいじゃないか。その程度の思いつきなんだろうと思っている。

 アメリカ・ファーストといっても、言うまでもなくアメリカの権益は世界中に存在する。都合のいい時だけ、アメリカ・ファーストと「引きこもり」を決め込むだけで、今後も基本的には世界に関わらざるを得ない。アジア方面では、日本の米軍基地ほど使い勝手がいい場所はないんだから、軍人出身者が権力を握るトランプ政権で、日米安保が変わるなどと「希望」あるいは「心配」するわけにはいかない。

 もうすでに「思いやり予算」をたくさん支出しているではないか。と言っても、それを露骨に持ち出せば、いかに世界をビジネスでとらえているらしいトランプと言えど、逆手に取ってくるだろう。日本はお金でアメリカの若者の血を買うのかなどと。日米安保の表面上の意味は、日本に対する侵略を米軍が守るということなんだから、保守政治家が言い返すことは難しい。「オバマはだませたかもしれないが、私はだませない。日本人はやはり卑怯者だ」などとツイートされるのがオチである。

 2017年は中国共産党大会がある年だ。そして、弾劾問題がどうなろうと、韓国大統領選も行われる。そういう年には、歴史問題や領土問題が敏感になりやすい。そこに、トランプ新政権の出方が不明なこともあり、今年の東アジア情勢は不透明な点が多い。トランプの真意を確かめるために、中国は尖閣諸島や南シナ海での軍事的存在を高めるだろうという予測もある。でも、「一つの中国」問題や「為替不正国」問題をめぐり、党大会を控えた中国指導部がアメリカと「火遊び」する余裕はないという考えもありうる。そこらへんは僕にはなんとも予測はできない。

 しかし、いま言えることは、安易な希望は慎んだ方がいいということである。トランプ政権は日米安保に懐疑的だから、沖縄の基地問題を解決するチャンスだ…などというのは妄想に過ぎないだろう。もう一つは、為政者が賢くふるまう重要性が今以上に高まるということである。安倍政権の対応は、そこが一番心配なところで、トランプ政権発足を前に日韓の関係を悪化させているとしか思えない。

 そして、最後に。政治は取引、世界はビジネスと思っているらしいトランプ大統領にたいして、いますぐ目に見える成果に結びつかないとしても、「平和主義」の市民運動が絶対に必要だということである。日本でも、沖縄の反基地運動はお金をもらってやっているなどといった「フェイクニュース」をばらまく手合いがいるらしい。身銭を切って、平和や人権に取り組む人がいるということが信じられないのかもしれない。だからこそ取引ではない「正義の世界」があるということを示す意味がある。そこにこそ違った世界観の人が存在するというデモンストレーションになる。
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