尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「見事な走り」ー動詞の名詞的使用法について

2023年01月25日 22時31分12秒 | 気になる言葉
 新年になると「駅伝」のシーズンになる。ニューイヤー実業団駅伝箱根駅伝全国都道府県駅伝(女子、男子)と続く。今年は特に箱根駅伝になんと立教大学が出るという快挙があった。箱根駅伝出場を目指すプロジェクトが進んでいることは聞いていたが、来年の「100回大会」を目標にしているとの話だった。監督を務める上野裕一郎は佐久長聖高校から中央大学に進み、学生時代には箱根駅伝で区間賞を3回取っている。今年の都道府県駅伝でも長野県チームのアンカーで出場して、トップでゴールした。
(長野県チームで走る上野裕一郎)
 一方、男子の前週に開催された女子の都道府県駅伝でも、一躍注目を浴びた中学生選手が現れた。岡山県の津山市の中学生、ドルーリー朱瑛里で、中学生区間に起用されて17人抜きの快走を見せて区間新記録を達成した。父親がカナダ人ということで、近年よく見られる外国にルーツがあるスポーツ選手の一人だ。中学生で注目されたことが今後に悪影響にならないと良いけれど…。それにしても最近「岡山県」に注目が集まっている。高校サッカーでは「岡山学芸館」、男子高校駅伝では「倉敷高校」が優勝である。
(ドルーリー朱瑛里選手)
 さて、陸上競技の話をしたいのではない。駅伝やマラソンなどの中継を聞いていると、「見事な走りを見せています」なんて解説者が言っている。いつどこで誰が言ったかをメモしているわけじゃない。だけど皆が聞いたことがあると思う。「走る」という動詞の名詞形は「走り」である。だから聞いていて特に違和感を持つ表現じゃない。でも昔は言ったんだろうか? 

 僕が疑問を持つのは、陸上競技は中長距離走ばかりではないからだ。走り高跳びとかやり投げなんかもある。じゃあ、「見事な跳びでした」とか「見事な投げでした」とか言うだろうか。普通言わないだろう。野球なら「見事な打ち」、サッカーなら「見事な蹴り」とか言わないだろう。それは何故なのだろうというのが疑問なのである。

 幾つか考えられるが、野球だったら「ただ打つのではない」ということがある。投手が球を投げるが、それは直球とかカーブとかの球種がある。また、初球を打つとか一球見逃すとか様々である。打った結果はヒット、ゴロ、フライなどがあり、ヒットでもセンターヒットとか二塁打、三塁打、ホームランなどがある。だから解説の用語が複雑で、打者が見事に打ったとすると、「難しい変化球を見事にホームランにしました」なんて話になって、単に「見事な打ち」では伝えきれないのである。

 また野球やサッカーは外国発祥のスポーツだから、「見事」なときは「見事なバッティング」「見事なシュート」と使うことが多い。これは他の競技、バスケットボール、バレーボール、テニス、ゴルフなど皆同じで、主に英語で見事さを表現することが多くなる。そういうことがすぐ思いついたが、一番の理由は他にあるだろう。それは「走り」は3音で、「打ち」「投げ」「蹴り」などは2音だということだ。「見事な走り」だと「4+3」で7音になる。俳句、短歌じゃないけれど、やはり日本語表現は5音、7音が聞く方に安定感を与えるのだと思う。

 一般的にも動詞の名詞形で「2音」というものは少ないと思う。「狩り」「荒れ」「空き」などはあるが、これらはもう単なる名詞として認識していると思う。やはり「痛む」の名詞形「痛み」とか、「祈る」の名詞形「祈り」のように3音の方が耳になじんでいる気がする。全部の動詞を調べたわけではないので、これが一般的なルールとまで言えるのかは判らないけど。

 なんでこのことを書いたかというと、今までは名詞化しなかった動詞を名詞で使用する表現が多くなっている気がするのである。例えば、「ヨガの教えに通っているんだけど、やってるうちに体に気付きがあったんだよね」とかである。「教え」とか「気付き」なんて、昔は使っただろうか。こういう表現をするタイプは大体似た感じがする。言葉の使い方が雑だとかいう問題ではなく、なんかよくいるでしょう、自分が「意識高い」みたいに見せるときの新しい表現みたいな使い方。ぼくはそもそも動詞は動詞として使えば、その方がずっと耳に快いと思っている。「気付きがあった」なんて言わずに、単に「気付いた」と言えば良いのではないか。
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「これ」と「そういう」ー森喜朗氏に見る「代名詞」の使用法

2021年02月10日 23時15分28秒 | 気になる言葉
 東京五輪組織委員会の森喜朗会長による「性差別」発言の波紋が止まらない。今回は本人の「逆ギレ謝罪会見」にも驚いたが、波紋を静めるはずの周囲の発言がまたひどい。二階幹事長もボランティアをバカにしているとしか思えなかったが、萩生田文科相の国会答弁も凄かった。「『反省していないのではないか』という識者の意見もあるが、森氏の性格というか、今までの振る舞いで、最も反省しているときに逆にあのような態度を取るのではないか」というのである。それを言ったらオシマイよ的な発言で、これじゃ学校で問題を起こした生徒を指導できない。
(大会スポンサー企業も容認できず)
 「女性蔑視」発言と言われているが、僕は「性差別発言」の方がいいのではないかと思っている。「男は皆イエスマン」というのが裏の意味だから、男こそバカにするなと怒らないとおかしい。ところで、ここではこの問題をちょっと別の角度から考えてみたい。「気になる言葉」というカテゴリーを作ってあるので、久しぶりに書いてみようかと思う。森喜朗氏における「代名詞」の使用法について考えてみたいのである。加齢とともに「あれをあれして」とか、意味不明の代名詞を多用するようになる。僕もつい固有名詞が出て来なくなることが多くなってきた。
(二階幹事長発言)
 今回の森発言には、ちょっとそういうのとは違う使用法が見られる。「これはテレビがあるからやりにくいんだが、女性理事を4割というのは文科省がうるさくいうんですね」の冒頭の「これ」や「結局女性っていうのはそういう、あまりいうと新聞に悪口かかれる、俺がまた悪口言ったとなるけど」の「そういう」である。普通は直前に名指したものがあって、それを受けた形で「これ」「そういう」が使われる。しかし、どうも森氏の使い方はそれとは違っている。
(萩生田文科相発言)
 最初の「これ」だけど、一番最初に出てきて主語になるのに何を指すのかはっきり言語化できない。しかし、日本社会で生きていれば理解は可能だろう。何か突然に「問題発言」をしようと思ったときに、最初に「逃げを打つ」ために使う。「これはちょっと今さら何かと思うんですが、先ほどの実現目標は本当に可能なんでしょうか」などと言うとき。もう会議では決着したことになっているが、無理な目標だと皆が内心思っている。そんな時は「これ」「何」という「婉曲表現」を使って蒸し返す。そういう風に使うことがある。

 もう一つは酒場談義などで、「これは今じゃダメかもしれないけど、○○さんって何で結婚しないの」とか、さらにはっきりとセクハラ的な発言をする場合に使う。「これ」というのは、普通は前に出た言葉を受けるが、この場合は「後で自分がするつもりの問題発言」を先取りして「これ」と言うのである。直接的には「文科省がうるさくいうんですね」なんだろうが、この使用法は森氏が自分の発言を事前に「問題発言」と認識していたことを示している。

 「そういう」は直接には直前の「(女性は)競争意識が強い。誰か1人が手を挙げると、自分も言わなきゃいけないと思うんでしょうね、それでみんな発言されるんです」を受けていると考えられる。だから割合普通の使い方なんだけど、その後に「あまりいうと新聞に悪口かかれる、俺がまた悪口言ったとなるけど」と続けている。自分の発言が批判されることだと認識していて、それを「笑いにごまかす」ために使っている。「そういう(問題があるんだが)」のカッコ内を省略することによって、問題があることを聞き手の想像に任せるわけである。

 どちらにせよ、「代名詞の使い方」で「森氏が発言内容に問題があることを認識していた」ことが判るのである。飲み会でうっかり「失言」したのではなく、公の場で問題だと判っていることを発言した。それを「組織人」としてどう判断するか。だからこそ、大会スポンサーなど「組織」としても対応を迫られているのである。五輪だからではなく、もう「組織人」としては持たないだろう。鎮火させるはずが「火に油を注ぐ」発言ばかりする人も「組織人」として不適任だ。年齢が問題なのではない。だから高齢だから引退せよとは言わない。自分の発言に責任が持てるかどうかだ。
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「感謝しかありません」の不思議

2018年09月22日 23時03分53秒 | 気になる言葉
 「気になる言葉」というカテゴリーを作ってあるので、たまにはそれを書きたい。今年の夏に高校野球やアジア大会などを見ていて気になったことがある。インタビューで「応援してくれた方へ」と問われると、ほとんどの選手が「感謝しかありません」と言うのである。これは言葉の遣い方がおかしいと思うんだけど、どこがおかしいんだろうかと考えてみた。 

 「しかない」って言うのは、普通「足りない場合」に使う。
 自販機で缶コーヒーを買おうと思った。大体100円玉の1枚か2枚は財布にあるもんだけど、見たら50円玉1枚、10円玉2枚、後は5円玉1枚と1円玉3枚だった。つまり「78円しかなかった」。これが「しかない」の使用法だろう。つまり「足りない」のである。(まあ千円札でも買えるが。)

 その前に。そもそも「感謝」って、あったりなかったりするものなのかという問題がある。しかし、同じように「絶望しかない」「不安しかない」といった言い方もあって、理解可能である。これは「絶望の思いしかない」「不安の念しかない」の「思い」や「念」が省略されたものだろう。「感謝しかない」も、だから「感謝の気持ちしかない」っていうことなんだろう。それでも「しかない」のは「絶望」や「不安」のように、ネガティヴなケースの方がしっくりくるという問題がある。

 ところでこの言葉を検索してみると、ピョンチャン五輪で金メダルを獲得した羽生結弦選手の言葉が出てくる。インタビューで、「右足が頑張ってくれた。感謝しかない。」と語っている。僕が思うに、これにはあまり違和感がない。どうしてだろうか。羽生選手は前年秋のNHK杯の練習で転倒して大けがを負った。オリンピックは絶望かとまで言われた中、復帰戦になる五輪では痛み止めを打って競技に臨んだとか。だから「不足」が前提にあって、「(不安の念しかなかったけれど、)右足が頑張ってくれた(から、)感謝(の念)しかない」と判るから違和感がないんだと思う。

 ネガティヴじゃない言葉、「感動」とか「喜び」、「希望」なんかも「しかない」と言われることがある。でも「希望しかなかった」というと、その後に「実際は違った」となる場合に使うことが多い。ニューヨークに行くことになった。自由の女神も見たい。ブロードウェイでミュージカルも見たい。野球やバスケも見てみたい。などなど、そんな「希望しかなかった。」しかし実際に行ってみたら、言葉は通じないし、時差ボケは治らないし、体調も崩れてしまった…。そう続く時にふさわしい。

 一方、言葉も不安、飛行機も嫌い、食べ物にも困るかもと「不安しかなかった」場合は、実際に行ってみたら「案外何とかなるもんで、楽しく過ごせた」と続く。「しかない」のそんな使用法からすると、「感謝しかない」と言われると、なんだか「悪いケースを想像させる」。大きな試合で勝ったのではなく負けた場合、それも期待に大きく反して惨敗したような場合、「期待を裏切って負けてしまったけど、それでも私をずっと応援してくれて感謝しかない」となる。これなら判る。

 そのような「不足」を前提にした「しかない」が、今は「完全」の状態にも使われる。多分使っている方では、自分の心の中では「感謝の気持ち」がフルになっていて、余分な要素がない。そういう「感謝以外の気持ちがない」ということで、逆転した「不足」が存在する。だから、つい「しかない」を使う。そんな風に使われているうちに、言葉が変わっていくことはよくある。「感謝しかない」もその一例なんだろうが、もう一つ違った観点もあると思う。

 それは本来「感謝は言葉だけではおかしい」ということだ。誰かにお世話になって、感謝の意味でお礼に行く。その時は「つまらないもの」を持参するのが普通である。相手に笑って納めてもらえる(笑納)程度のものである。あまりに高額過ぎて、ワイロみたいになってはまずい。「つまらないもの」ならあげない方がいいはずだけど、もちろんそれは「謙遜」で、それなりに考えた「名店のお菓子」なんかが多い。引っ越し挨拶のように、タオル一枚じゃまずいだろう。菓子折り一つ持参して感謝の念を表わす。それが「常識」である。

 そのような「贈与」「互酬」の文化圏にあっては、本来「感謝」は「別のモノ」で表す必要がある。応援してくれた人には、お金やお土産ではなくても、「何か」を付ける方がいい。でもそれは不可能だから、「(本来はもっとお礼を渡すべきだけど)、感謝(しているという気持ち)の表明しか(いま渡せるものがない)」という意味も含まれているように思う。何にせよ、僕は「感謝の気持ちでいっぱいです」とでも言う方がいいなあと思う。
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「俺の・・・」という店名

2015年11月22日 21時01分51秒 | 気になる言葉
 言葉の問題続き。「マイ」(my)と関連もあるが、最近「俺の○○」という名前のお店が多すぎないか。「俺のフレンチ」「俺のイタリアン」「俺の焼肉」「俺流塩ラーメン」…。多分もっとあるんだろうけど、この手の名前の店に入る気がしない。まあ、入ろうが入らなかろうがどうでもいいけど、この手の命名法には「言葉の問題」として違和感を感じてしまう。

 大体、「俺」はお客に対して使う言葉なんだろうかという違和感がまずある。普通は「」でしょう。店長出てこいとクレームをつけるようなこともないけど、もしそういう事態が起こった場合に「店長は私です」と出てくるなら判る。でも、「俺の○○」と言うお店なら、「店長は俺だが、なんか文句あるのか」とでも言われそうだ。クレーム防止策としてのコワモテ命名法なのかもしれないが。

 しかし、そういう問題以上に、飲食店というのは(よほど特別な店を除いて)、「普通に美味しい」のが大事であって、あまり特別な個性を発揮しなくてよい分野である。店ごとに味を競うが、シェフの名前で客を呼ぶのは邪道だと思う。いろいろ工夫を重ねた結果、大評判を呼んで行列が絶えない店になり、その結果として店主の名前がマスコミでも売れるということはある。それならいいけど、初めから「有名ラーメン店で何年修行」とかを看板にして、これはうまいんだぞというスタンスでやるもんじゃない。

 本来はごく普通の店名が「あそこは美味い」と有名になるのがいいのであって、店主やシェフの名前は料理の向こう側に隠れていればいい。自分の個性などは料理をして語らせればいいのである。それが「俺の○○」と来たら、初めから店の名前を一番に打ち出している。店名で覚えてくれという姿勢である。それほど個性がある味なのかと思うと、実は「俺の○○」にはチェーン店が多い。おかしいだろう。店ごと、料理人ごとに味が違わなければ、「俺の○○」にはならないだろ。

 ところで、こういう店に予約を入れたいときはどう言えばいいのだろうか。まあラーメン屋はともかく、フレンチやイタリアンは予約できる店のはずである。いや、「俺の○○」という「固有名詞」のお店だぐらいは判っている。その上で書くのだが、自分で「俺の」と名乗っている店では、本来客の側では「俺の」とは言えないはずだ。俺と対になる言葉は、普通に考えると「お前」となる。だから、「俺のフレンチ」では「お前のフレンチを予約したいんだが」、「俺流塩ラーメン」では「お前流塩ラーメンをくれ」と言わないとおかしいのではないだろうか。

 いや、そんなことを感じながら看板を見て通り過ぎるのは自分ぐらいなのだろうか。もっとすごいのは「俺の魚を食ってみろ」という店もあり、なんとここもチェーンなのである。ここまで強く出られると、こっちも「お前の魚を食ってやってもいいが、もし気に入らないもんだったら、金は払わないでいいんだろうな」と言いたくなるが、そういうシステムはないようである。愛知県東部の湯谷温泉の宿、「はづ別館」では泊った後で翌日に客が宿泊料を付けるというシステムを取っているが、そのぐらいのことをやって欲しい名前ではないか。
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「マイナンバー」と「マイカー」

2015年11月21日 23時21分42秒 | 気になる言葉
 政治や国際問題を書く元気がだんだん戻ってきたが、そこへ行く前に「違和感のある言葉」を取り上げるシリーズを数回。前に「グローバル・フェスタ」とか「空気感」「目線」「○○学的」などを取り上げていて、カテゴリーの「言葉」にまとめている。さて。久しぶりに書くのは「マイ」である。

 ピーター・フランクル氏(数学者、大道芸人)だったと思うが、前にこんなことを書いていたとことがある。日本のあちこちを旅していて、ずいぶん遠くの山奥なんかも訪ねている。鉄道とバスで訪れたある宿で、翌日行きたいところへの行き方を支配人(?)に聞いたところ…。
 「そこはバスが廃止されてしまったので、マイカーで行くしかありません。」
 そこで次の日、ずっとロビーで待っていたのだが、何の連絡もないまま時間だけが経っていく。またフロントで聞いたところ、昨日聞いた支配人は非番で今はいないから判らないと言われてしまった…。

 説明は不要だと思うが、念のために解説しておくと。ピーターさんは支配人が「マイカー」で行くと言ったから、支配人が彼自身の車(マイ・カー)で案内してくれるとは、何と親切な宿だろうと感動して、翌日はずっと待っていたのだ。一方、支配人の方は「バスがないから、車で行くしかありません」と言っただけで、もちろん自分で案内するつもりなどなかった。それは日本人客なら自明のことだけど、考えてみれば確かに「マイカー」はおかしく、「ユアカ―」(your car)でないと。というか、車で来ていない客なんだから、タクシーやレンタカーの案内をすべきだったわけである。

 英語の勉強の最初の時期に、「I my me mine 」というのを覚えさせられる。順番に、主格、所有格、目的格、所有代名詞というらしいけど、これは忘れていて今調べた。これを二人称や三人称についても覚えるわけだけど、案外それは忘れずに残っているのではないか。だけど、先の場合を見ても、こんな簡単な単語だけど、実際の使い方で間違う時がある。所有格の所有者のとらえ方が反対になってしまったわけである。否定疑問文の答え方なんかと同じく、英語と日本語の感覚の違いである。

 そんなことを思い出したのは、例の「マイナンバー制度」とやらがきっかけである。政府の広報を見ると、「あなたのマイナンバーが通知されます」とか書いてある。あなたの番号なら、「ユア・ナンバー」と言うべきではないの?それはともかく、今はこの制度そのものの問題は扱わないが、一体この制度を正式には何と言うのかがよく判らない。政府の広報は「マイナンバー」で統一されているけど、このナンバーは自分で勝手に提供してはいけないとあるし、基本的には一生変わらないとある。つまり、勝手につけられたままなのだから、言葉の正確な意味では「マイナンバー」ではない。

 パソコンやケータイ電話のメールアドレスなんかは、自分で変えられるではないか。インターネットで登録している様々なサイトのパスワードなども変えられる。むしろ時々変えなさいと向こうから言ってくる。今度の「マイナンバー」とは全然違うではないか。だから、この番号の正式な名前を知りたいと思ったのだが、なかなか見つからない。いろいろ見ていると、要するに根拠法は「行政手続における特定の個人を識別するための番号の利用等に関する法律」と言うことが判った。このぼう大な法律をざっと読んでも、どこにも「マイナンバー」と言う言葉はないようだ。「個人番号」で通している。

 「個人番号」というなら、意味は理解できる。英語で言うなら、“personal number"になるのだろうか。英語で言いたいなら「パーソナル・ナンバー」、あるいは法律どおりに「個人番号」と言ってればいいと思うんだけど。そこを「マイナンバー」などと言うのは、国民自身が望んでいる「いいもの」であるかのごとく印象付けたいということではないだろうか。とにかく「あなたのマイナンバー」なんて言うのは、慣れてはいけない表現だろう。
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「○○学的」という表現

2013年08月07日 21時59分31秒 | 気になる言葉
 「言葉」というカテゴリーで前に4回書いた。違和感がある言葉を取り上げて書く。最近、小熊英二編「平成史」を読んで、前から気になってる言葉があったので書いておきたい。

 「昭和から平成への元号の変化は、第二次世界大戦の指導者の最後の生き残りが、生物学的な生命を終えたことによって起こった。」(4ページ)

 まあ昭和天皇が死んだと言えばいいことを、なんでこういう言い方をするのかよく判らないけど。この「生物学的」という表現が間違いだと僕は思うのである。

 例えば、以下のような場合。
  あの頃、君は僕のすぐそばにいつもいてくれた
  でも、いつからか僕たちの心は何万光年も離れてしまった
  何と言う天文学的距離だろう

 例示のために今作った詩(のようなもの)である。この「天文学的」という表現は正しい。なぜなら、人類は大昔から星を見上げてきたけれど、その時点では「光年」という概念はなかった。天文学が発達し、また物理学が発達し、光の速度、星の距離なんかが判るようになってきて、学術用語として「光年」という概念が発明されたわけである。「光年」という言葉は、まさに「天文学的」である。そういう学術用語を、「遠いもののたとえ」として使ったわけである。

 一方、次の場合はどうか。
 スピッツは「空も飛べるはず」と歌うけれど、人間はどうやっても自分の力だけで空を飛ぶことはできないものなのだ。ハンググライダーに乗って空を滑空することはできるけれど、鳥のように翼をつけて自力で飛ぶことは、物理学的にできないようになっているのである。

 こっちはかなり迷う人もいるだろうけど、この「物理学的」は間違いである。物理学などというものがない大昔も、人間は空を飛べなかった。人間が空を飛べないのは、物理的に決められているのである。その理由を探求するのが、物理学。現象と学問の順番が逆なのである。人間は単に物理的に空を飛べないし、時間を逆戻りできない。その他もろもろ。

 最初の事例の「生物学的」の間違いは、もう明らかだろう。昭和天皇は戦時中に「現人神」(あらひとがみ)と呼ばれた。でも天皇も人間であって神ではないから、いつかは死ぬ。天皇でなくても、人間は誰でもいつか死ぬ。それは生物学で決められていることではない。学問ができるはるか以前から、人間は生まれて死んで来た。昭和天皇は生物学的に生かされてきたのではなく、単に「生物」として生きていた。だから、そういう表現をしたければ、「生物としての生命」と言えばいい。人間は動物の一種で、動物は植物とともに生物である。だから、こういう言い方なら間違いではない。まあ、「人間として」と言えば、それでいいのではないかと思うけど。

 それはともかく、人間は生きて死ぬなどと言うことは、昔から誰でも知ってることである。でも、DNAなどというものは、生物学の発展により判ってきたことで、多くの人は見たことはないし、現代人しか知らない言葉である。世の中には、「男と女の違い」などはすべてDNAで決められているなどと言う人がいる。そういう言説は怪しいけれど、その場合、「DNAによって生物学的に決まっている」などと表現するなら、表現としての「生物学的」の使い方としては正しいわけである。

 こういう風に、「○○学的」という言葉の使用法が間違っている場合はかなり多い。つい自分の主張を正当化したいがために、「学」をつけて権威化したくなるのだろう。理系の問題を説得力をもって表現することは、シロウトにはなかなか難しい。だからうっかり、生物学的とか物理学的とか、「学」をつけてしまいたくなる。注意したいなあと思う。

 なお、「言葉」と題して、今まで「感動は貰えるものか」「グローバル・フェスタという使い方」「名誉教授」「空気感と目線」について書いた。カテゴリーの「言葉」をクリックするとすぐみられる。今読んでも割と面白いので、よかったらヒマな時にでも。
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「空気感」と「目線」

2012年10月11日 23時59分29秒 | 気になる言葉
 言葉の問題。東京新聞10月10日、毎日放送が被災地を長期取材した映画「生き抜く 南三陸町 人々の一年」を作ったという記事。映画は13日からポレポレ東中野で上映。
 その中で見出しで「ナレーションなく、空気感はテレビ以上」とある。本文中には「ナレーションがストーリーを導くテレビの手法をやめ、集中して見ていただくことで被災地の空気感をテレビ以上に出せる」。

 この「空気感」という言葉を最近は多く聞くようになった。これに違和感がある。この言葉は最近使われるようになったと見えて、変換しようと思っても一度ではできない。「新明解国語辞典」にも出ていない。「空気」が付く言葉では「空気銃」「空気伝染」「空気ポンプ」「空気枕」が載っているのみ。「空気」の意味を見ると、①地球上の大部分の生物がそれを吸って生きている気体 ②その場の人たちを支配する志向のあり方(雰囲気) の2つ。
 ②の用例としては、「歩み寄りのーが生まれる」「分離独立の-が高まる」「保守的なーが強い」「譲歩するーがかもしだされる」「気まずいーが漂う」「-の読めない人」が挙げられている。やっぱりちょっと変。

 では「空気感」をインターネットで検索してみると、ウィキペディアにあって「空気感(くうきかん)とは芸術表現に用いられる形容の一つ。そのものが直接的に表現されていなくても、間接的な情報のみで存在することが示唆されている様子を表す。写真表現で用いられる場合は、二次元である写真がまるで立体のように見えることを指す。(後略)」
 
 もともとは写真なんかで使われた「芸術用語」=「業界用語」だったということがわかる。現実を映像で切り取って二次的表現として作り上げるときには、「どのように見えるか」という観点が欠かせない。そこで写真やテレビ、映画なんかでは、「現場の状況をいかにリアルに伝えるか」の言葉として「空気感」が使われるのだと思う。でも、被災地の映像を見る我々は、「どのようにすればリアルに見えるかの技術」などは別に見る必要はない知りたいのは被災地の「現実の状況」である。それはすべてを描くことはできない。だから製作責任者(監督)が、自分の目で見て自分で編集した表現を見ることになる。それは「被災地の空気感」ではなく、「被災地の空気」を伝えるものでなくてはいけない。

 それは「新明解」の②の意味の「空気」である。でも、最近「空気感」という言葉がよく使われる。何故かというと、僕が思うに二つある。昔も簡単に写真は撮っていたが、今の方が動画を一般の人が撮る機会が増えた。それもパソコンで編集することが容易になった。「現実」がどう映像に写し撮られるかに関心が高くなっているのだろう。だから、「この場の空気」と言えば済むところを「空気感」という。誰かが携帯かデジカメで写真か動画を撮っているのであろう。皆が集まる場で。

 もう一つが、「空気」は見えないものだったけど、「今は見える」ということだ。現実の空気は見えないから、見えないもののたとえに使われたわけだ。でも、見えなかった雰囲気というものが、今は「見えなければいけないもの」とされてしまった。その場その場で変わっていくから、「空気」「風」と言われたものが、「一度決まってしまったらもう動かない」。その場の雰囲気で決まるのではなく、誰かを排除するという場合は、もうすでに決まっていてそれに従うしかない。「空気」が流動物ではなく固体化してきたのである。町のあちこちに監視カメラがあるような、そういう状況に合わせて、「空気」が読むべきテキストとして眼前にあるようになった。だから、「空気」だけで「感じるもの」に決まっていたものが、今ではさらに「空気感」と言って、あえて「空気というものを感じるという意味を表す言葉」を作らなければいけないようになったのではないか。

 一方、「目線」という不思議な言葉が最近は一般的に使われている。これも本来は「業界用語」である。これは「新明解」にも載っていて、
(舞台、映画撮影などで)演技者やモデルなどの目の向いている方向・位置・目の角度など。[俗に「視線」の意でも用いられるが、「目線」は目の動きに応じて顔も動かす点が異なる。]
ものの見方やとらえ方。「上から[=相手を立場が下だと見くだしたような]-」「子どものーで見る」

 このように、元は映画や演劇の用語だが、それがテレビを通して一般化して行ったのだと思う。だから、その元々の使い方から、「目の動きで演技する」=「受け取られ方を気にして、本心ではないけど、そう見せる」と言うようなニュアンスが出てくる。悪役は本当に悪人なのではなく、演技で目を剥いたりする表現をして、大げさに悪党ぶりを印象づける。その時の観客やカメラを意識した目の動きが「目線」だから、「目線」という言葉を使うと、この「見られていることを意識した動き」という感じが残るわけである。政治家が国民受けするような言葉を発するときも、見聞きする側が「本心ではなく受け狙いだろう」などと思っているから、「国民目線の政治」などと言う表現が普通になってしまったのではないか。

 検察審査会が小沢一郎氏を「強制起訴」=「二度目の起訴相当決議」を行った時も、その理由の中に「市民目線」という言葉が出てきて、僕はビックリしてしまった。この「強制起訴制度」そのものも、「裁判で決着をつける方がいい」という考え方で作られているらしい。でも政治家でも有力財界人でも、国民を起訴するときの基準は同じようなもの(証拠により有罪が完全に証明されると考えられる場合)でなければおかしい。初めから制度が「受け狙い」的なものだった。だからだろうか、「市民目線」で納得できないという言葉が出てくるのだろうと思う。

 ではなんと言えばいいのか。「きっちりとして動かぬ基準で物事を見る」という意味で使うなら、「視点」ということになるだろう。昔は「視座」などと言う言葉をよく使った人もいる。変換したら一度で出たから、今も生き残っているのだろう。「民衆的視座」とか「底辺からの視座」とか言ったけど、別に「視点」と同じではないかと僕は思っていた。物事を自分なりの見方で焦点を合わせようとするときの基準は「視点」ではないか。これも近代ヨーロッパの絵画表現の「遠近法」的な用語だと思うが。「一つの視点」からはもう世界は見えて来ない、自分の「目線」で気になる範囲を切り取るしかないんだと言われるかもしれない。まあ、そういう意味で「近代」が崩れて、「自分がどう見られるか」しか意味がない時代が来たのかもしれない。でも、僕は「目線」ではなく、「視点」を使いたい
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「名誉教授」は務めない

2012年10月09日 23時04分02秒 | 気になる言葉
 今日は休もうかと思ったんだけど、ニュースを聞いてて「言葉の問題」。「感動」は貰えるものなのか、とか、「グローバル・フェスタ」っておかしくない?という話を書いたけど、言葉についておかしいんじゃないと思ってることはもっといっぱいある。少し、まとめて書いてしまおうか。

 首都圏のニュースというコーナーで、来年の千葉県知事選挙に共産党推薦の候補が決まったというニュースを報じていた。いやあ、森田健作が当選してからもう3年経ったのか。どうなるのかと思ったけど、石原慎太郎や橋下徹ほど目立ってない。やはり東京や大阪という場所が「中央政府」を過剰に意識させてしまうのか。それはともかく、NHKのWEBニュースを見ると、

 来年4月に任期満了となる千葉県知事選挙に、千葉大学名誉教授の三輪定宣氏が共産党の推薦を受けて無所属で立候補することを表明しました。(中略)三輪氏は75歳。高知大学や千葉大学の教授を経て、現在、千葉大学の名誉教授などを務めています。千葉県知事選挙にこれまでに立候補を表明したのは三輪氏だけです。

 別に千葉県知事選の問題ではない。「名誉教授を務めています」の問題。ああ、この記者は「名誉教授」を知らないんじゃないか、と思った。僕も若いときは、助手、講師、助教授(今は准教授という)、教授、名誉教授、なんていう順番があると思っていた。年取ってきて一番偉くなった教授が「名誉教授」で、当然その大学で仕事をしていて、受けたければその先生の講義を聞けたりするもんだと

 でも、本当は違う。「名誉教授」は「称号」に過ぎない。「人間国宝(重要無形文化財保持者)を務めています」なんて言わない。同じように「名誉教授」も、仕事ではないから務めるという表現はおかしい。名誉教授は、その大学(高専も)の教授を辞めた後でしか、もらえない。企業では会長や社長を務めた者に対して、辞めた後も「名誉会長」「相談役」「顧問」などの肩書を付けて、部屋も用意して、まあ代表権はないけど、時々ご高説をうかがうというようなことがよくある。こういうのは、実際にそういう「役職」(特に意味のある仕事はないけど)に任命されているので、「務めている」と言っていい。でも、「名誉教授」はそういう「名誉職」ではなくて、本当に単なる称号なのである

 そして、「名誉教授」は実は学校教育法で決まっている。各大学が勝手にあげた称号ではなく、法に規定されたものなのだ。
 第百六条  大学は、当該大学に学長、副学長、学部長、教授、准教授又は講師として勤務した者であつて、教育上又は学術上特に功績のあつた者に対し、当該大学の定めるところにより、名誉教授の称号を授与することができる。

 「勤務した者で」とあるように、現職中になることはない。退職した人に追贈するものなのである。それでも退職後も講義を持つような人もいる。そういう場合も「特任教授」「客員教授」などの役職に別に任命される必要がある。東大や京大などの「有名大学」の教授だった人は、退職して私立大学に務めることもよくあるが、マスコミなんかに出るときは今の仕事ではなく、称号に過ぎない「東大名誉教授」を使ったりすることがある。そういうのもどうかと思うけど。

 今回の三輪氏という人は、他のニュースサイトを見ると、「千葉大学教育学部などで教鞭を取り、現在は帝京短期大学こども教育学科の教授を務めています。」とあった。つまりこの人の正しい仕事の肩書きは「帝京短期大学教授」である。それを現職ではなく、過去にもらった「称号」で表すのは、どうなのかなあ、といつも思っているので、ちょっと。
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グローバル・フェスタ?-「ブルー・シャトー」問題

2012年10月07日 21時53分47秒 | 気になる言葉
 もう終わったんだけど、例年10月の連休に「グローバル・フェスタ」という催しが東京の真ん中、日比谷公園で行われます。主催は実行委員会だけど、共催に外務省やJICAが入って、後援に政府各省が加わるという公的な催しです。まあ日比谷公園でやる催しは大体そうなんだけど、ブースのテントがいっぱいあって回るのが途中で面倒くさくなる。今日ちょっと行ったんですが、たぶんちゃんと回ると知り合いがいるのではないかと思うんですが、晴れて来て暑くなって早々に退散してしまいました。

 で、そのことではなく。いつも思うんだけど、「グローバル・フェスタ」って何だよ、と名前に違和感を持つのです。何で、フェスタなの?
 ネットの辞書で引いてみれば、フェスタ【(イタリア)festa】祭り。祝祭。祭祀(さいし)。祝日。
 「グローバル」は、global[形] 1 全世界の,地球上の,世界的な(以下省略)

 言うまでもなく、グローバルは「英語」。フェスタは「イタリア語」。
 この「違う言語をくっつけて使う」というところに僕の違和感があります。
 「グローバル・フェスティバル」じゃ、なぜダメなのか。というか「地球祭り」じゃダメなの?
 混ぜるから「グローバル」なのかな。外国語を使わないと、趣旨に反するのか?

 僕は外国語を消化して、カタカナで表記していく現代日本語のあり方に反対ではないです。あまりにも訳の判らないのは困りますが。漢字しかない中国よりも、カタカナで表音表記できる日本語表現の方が、欧米の影響を避けられない現代では便利ではないかと思います。しかし、コンピュータを「電脳」とするような漢字表記も捨てがたいのですが。ただ、僕の感覚では、「英語なら全部英語にして欲しい」と思ってしまうのです。

 まあ、漢字の読みにも「重箱読み」「湯桶読み」があるわけで、混ぜこぜが日本語の特徴なのかも

 この問題を意識したのはずいぶん昔で、僕は「ブルー・シャトー問題」と自分で勝手に呼んでいます。そう、ジャッキー吉川とブルーコメッツが1967年に歌ってレコード大賞を受賞した曲ですね。
 子どもだった僕は、皆と一緒に、「森と(ンカツ) 泉に(ンニク) 囲ーまれて(ンプラ)」と歌っていましたね。大学生になって第二外国語でフランス語をやって気づいたけど、「Blue Chateau」って英語とフランス語の混ぜこぜではないですか。「ブルー・キャッスル」ではダメなのか。いや、ダメですね、それは。森と泉に囲まれている古城は、当時の(今も)日本の言語感覚ではフランス語の「シャトー」の方がロマンティックに聞こえるのは確かです。まあ、青はフランス語でも「bleu」ですが、語順が逆になるはずだと思います。この曲の表記は、「Blue Chateau」らしいから、英語で「ブルーな」と言って、そういう「シャトー」だと表現してる感じがしました。

 まあ、一つの考え方としては「ブルー」は日本に定着し日本語化している外来語。「シャトー」も聞かないではないけれど、意味を分からない人は(特に当時は)多かったでしょう。「ブルーなChateau」という題名と考えるわけです。

 このような言葉の例で有名なものに、「フリーター」があります。ドイツ語の「勤労者」を意味する「アルバイター」(Arbeiter)に、日本で英語の「フリー」を付け、さらに略語となったという複雑な「和製造語」です。これは外国語では正式には何と言うのだろうという問い自体が成り立ちません。「正社員」と「アルバイト」という枠組みがない国では、そういう言葉が必要ないので。

 これも僕は「フリー・ワーカー」ではダメなのか。略語「フリーカー」でいいではないか、と思ったりします。これも一つの解釈は「アルバイト」がすでに日本語化しているとみなすことです。「アルバイター」はなじみがないですが、何となくアルバイトする人の意味だろうとわかるわけです。で、その日本語化した「アルバイト」を「アルバイター」にして、「フリー」を付けて、さらに省略したと。

 こういう言葉に違和感を持つ必要があるのかないのか、自分でも判りませんが、注意してみていると結構あるものです。特にドライブ中に「ラブホテル」の看板を見てると、時々ある。「ホテル・セゾン」とか「クリスタル・シャトー」とかありそうでしょ。

 僕には違和感があるし、何も外務省が言わなくてもいいのでは、と思うわけ。「英語」という表記の問題もあるけれど、今はそれは置き、外国語の国籍混ぜこぜ問題だけ。別にそれほど文化的ナショナリストではないんだけど、できれば「やまとことば」で表現していったほうがいいのではないかという気持ちはあります。僕は「フェスタ」は「まつり」でいいのではないかと思うけど。
コメント (2)
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感動って、「貰えるもの」なの?

2012年08月21日 21時37分03秒 | 気になる言葉
 早くいじめや選挙制度の問題に行きたいんだけど、映画を見て書いてしまうことが多い。それ以外に前から「違和感を感じる言葉の使い方」について書きたいなと思ってきた。いくつか用意があるんだけど、それらは置いといて、五輪関係で違和感があった言葉について忘れないうちに書いてみたい。

①「感動」は「貰えるもの」なんだろうか?
 オリンピックフィーバーも50万人銀座大パレードで一段落なんだろうか?松本薫の「工事現場のおじちゃん」発言は笑えた。確かにみんな工事しないでパレード見てる映像が流されていた。ところで、この間「大きな感動を日本中がもらえました」とか「たくさんの元気をありがとう」とか、そんな言葉が日本中にあふれていた。それを聞いて思った。「感動」とか「元気」って、あげたり貰ったりできるもんなんかなあ

 「感動」って言う「実体のある物質」があって、放り投げたり受け止めたりできるような感じである。もちろん、選手の頑張り、素晴らしい技術、一生懸命さ、チームワーク、今までの努力なんかを、見ている側が大きな感動を持って受け止めるということはある。でも、それは見ている我々が「感動する」ものであって、なんかもう出来上がっている「感動というもの」を選手から貰うという表現には僕は違和感を感じてしまう。「感動をもらいました」なんて言わずに、「とても感動しました」と言えばいいではないか。なんなら「チョー感動した」でもいい。「チョー感動」には、自分が能動的に感情を動かしている様子が現れている。思えば数年前までは、みんな自分で感動していたのである。いつのまにか、自分の心で感動できずに「出来上がった感動」を貰うようになってしまったのではないか

 これは「いじめ」でも、「原発」でも、すべてに通じていく問題ではないか。メダリストに「感動をありがとう」と言ってるうちはまだいいけど、やがて自分が主権者であることを忘れて「感動をくれる政治家に一票を」ということになって行かなければいいんだけど

②「はい、そうですね」問題
 選手も大変である。全力で闘って勝ったり負けたりした直後に、すぐにも「報道インタビュー」に答えなければいけない。いや、大変だ。でも多くの人が応援してたんだし、税金も投入されてるんだから、五輪選手もある意味「公人」なんだし、仕方ないだろう。その競技では日本最高レベル、世界でも何十人に一人というレベルの人間なんだから、少しは気の利いたことが言えてもいいだろう。

 ということで、メダルとか予選突破とか、まず「おめでとうございます」と言われるインタビューが始まる。すると、もうほとんど全員の選手が、まず「はい、そうですね」と応じるのである。みんながそう言うんだから、これは多分、「まずそのように受けて、その間に答えることを頭の中でまとめる」というトレーニングを受けてるに違いない。それはそれで、他の人でも応用可能な言葉ではないかとは思うけど、みんな同じ言葉では何だかなあ。

 もっと自然な第一声、「ありがとう」でもいいし、「とってもうれしい」でもいいし、「ホントは悔しい気持ちでいっぱいです」でもいいじゃないかと思う。どうもなんだか、失言のようなことを思わず言ってしまわないような配慮、ちょっと一拍おいて、少し考えて語る配慮なのかなと思う。そのため「応援して頂いた皆さんのおかげです」とか優等生的発言が多くなる。でも、インタビューが終わると、家族のところに飛んで行って一緒に喜び合うというシーンが多かった。だから、本当のところを言うと、日本、特に被災地の人に喜んでほしいという気持ちももちろんあるとは思うけれども、それはタテマエで、まずは家族に「メダル、取れたよ」と言いたいんだろうと思う。まだ20代前半くらいの選手が多い。今まで選手を続けてこれたのは、親の影響や理解や経済力であり、また親が指導していた選手も多い。「お父さん、お母さん、メダル取ったよ。今まで、ありがとう」が第一声でいいんじゃないか。

③「走り」と「泳ぎ」問題
 いつの頃からか、「明日はベストの走りをしたいと思います」というような表現が普通になってきた。「最高の泳ぎができました」とも言う。一応今のところ「走り」と「泳ぎ」に限られていると思う。それは「3語」の語感によるものだろう。

 「室伏さん、明日は最高の投げを期待しています」とは言わないだろう。「跳び」も使わない。そもそも「構成力」を必要とする体操やシンクロナイズトスイミングでは、身体の動きは様々だから「演技」という言葉になる。サッカーでは外国由来の競技だから、「見事なゴールでした」「素晴らしいミドルシュートでした」と外来語を使う。「見事な蹴り(頭突き)でしたね」という表現はしない。トラック競技や競泳は、身体の動きがシンプルで「走る」「泳ぐ」という3文字の動詞が存在する。だからそれを名詞化して使いやすい。

 この問題はスポーツ以外にも使われていて、学校の教員だったら「授業」と言えばすむところ、カルチャーセンターでヨガや生け花や絵手紙なんかの講座を持ってたりする人は、「教え」と言ったりすることが最近はあるようだ。「徳川家康の教え」(人生はガマンだ)などと「教え」という名詞を使うことはあったけど、今までは「今日はこれから教えがある日なので」なんて用法は聞いたことがなかった。

 これは何なのかということはまだ僕はよくわからない。漢字熟語に「する」をつけて動詞化することが日本では多い。「読書する」「旅行する」などなど。これは本来は「読書をする」「旅行をする」なんだろう。一方、動詞を名詞化した場合、すぐに「する」を付けることは今はまだできない。「走りする」「泳ぎする」とはいかになんでも言えない。だから「を」を入れないといけない。「走りをする」「泳ぎをする」と言わなけらばならない。これが僕には違和感があって、「走りをする」というくらいなら、「走る」と言えばいいと思うしシンプルで省エネではないか。

 多分これは「全力で走る」だけではダメで、「ベストの走りをお見せしたい」「最高の泳ぎを期待してください」という気持ちが入っているんだろうと思う。つまり「ひたすら一人で頑張る」という段階から、「パフォーマーとして、他人に見せる目的でスポーツをする」という段階に変わってきた。陸上も水泳も、事実上プロ化して、「走り」や「泳ぎ」というものを売ってるという自覚があるのではないかと言う気がする。でも、僕は「全力で頑張ります」と言えばいいと思っていて、「ベストの走りをしたい」なんて表現はおかしいなあと思っているわけである。
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