尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

クリント・イーストウッド88歳の新作「運び屋」

2019年03月31日 22時12分13秒 |  〃  (新作外国映画)
 クリント・イーストウッドが監督、製作、主演した映画「運び屋」(The Mule)が公開中。1930年生まれのクリント・イーストウッドは公開時に88歳なのに、監督だけならまだしも自ら主演しているんだからすごい。そんな高齢者に相応しい役柄があるかと思えば、90歳で麻薬の運び屋をした男の実話だというから、現実はもっとすごい。原題の「Mule」の意味を調べると、「頑固者」「強情っ張り」という意味が出てくるが、もう一つ「麻薬を密輸するために, 外国からの運び屋として雇われるしろうと旅行者」という意味が書いてあった。そっちなんだろうが、前者の意味もかかっているだろう。

 園芸農家のアール・ストーンは妻子を顧みず、デイリリー栽培に夢中になる。品評会でも表彰される。(「一日しか咲かないユリ」と紹介される「デイリリー」だが、調べてみるとわすれな草、カンゾウ、ニッコウキスゲなんかを指すらしい。)2002年当時はけっこう繁盛している感じだが、IT化の波に乗り遅れ次第に追い詰められる。15年後の2017年になると、農園は破産して差し押さえ。別れた妻の元を訪ねると、孫娘の婚約式最中。娘は口も聞いてくれず、追い返される。その参列者の中に、麻薬カルテルと関係があるヒスパニックがいた。そして今まで一度も交通違反をしていない、安全運転だという自慢を聞いて、一度「ものを運ぶ仕事」をしてみないかと声を掛けた。

 朝鮮戦争の退役軍人であるアールは、おおよそ仕事の中身に気づきながらも金に惹かれて何度も仕事をするようになる。一方、麻薬取締局(DEA)のコリン・ベイツ(ブラッドリー・クーパー)は大物運び屋が現れたことを内部情報でつかんで追い詰める。しかし、まさかこんな高齢者とは思わず、なかなか見つけられない。「ニアミス」シーンは実に味わい深い。アールは最初のうちこそ緊張もあるが、次第に「怖いもの知らず」になっていき、見張りがあるのにタイヤ交換の手伝いをしたりする。(しかも黒人ドライバーに「ニグロ」なんて発言してひんしゅくを買う。)映画のかなりのシーンは、エルパソからシカゴまでの運送シーン。しかし「ロード・ムーヴィー」にはならない。単純に行き帰りの仕事に過ぎない。でも車の中でラジオに合わせてクリント・イーストウッドが何度も歌うのが楽しい。
 (イーストウッドとダイアン・ウィースト)
 失われた家族との関係が心に残る。金が出来て、家族を援助することも出来るし、火事で閉まってしまった退役軍人会のクラブも再建できる。怪しまれずに大量の「ブツ」を運んで、メキシコの麻薬王に招待されるまでになる。その後、急に対応が厳しくなり時間厳守が求められるが、その後の運送中に「妻が倒れた」という電話を孫娘から受ける。この妻役はダイアン・ウィーストで見事な存在感。ウッディ・アレン監督の「ハンナとその姉妹」「ブロードウェイと銃弾」で2回アカデミー賞助演女優賞を受賞している名優である。さあ、アールはどうするか。まあ最後まで捕まらない運び屋は、実話として報道されないわけだから、なんかのきっかけで露見するんだろうとは最初から判っている。

 クリント・イーストウッドが「監督、主演」した映画は、2008年の「グラン・トリノ」以来。その後、今回の「運び屋」まで7作も作っている。もう思い浮かばないので調べてみると、「インビクタス」「ヒア・アフター」「J・エドガー」「ジャージー・ボーイズ」「アメリカン・スナイパー」「ハドソン川の奇跡」「15時17分、パリ行き」で、異常なほどのイーストウッドびいきの日本では、以上の作品が全部ベストテンに入っている。「グラン・トリノ」「ジャージー・ボーイズ」「ハドソン川の奇跡」に至ってはベストワンである。(他に「許されざる者」「スペース・カウボーイ」「ミスティック・リバー」「ミリオンダラー・ベイビー」「父親たちの星条旗」もベストワン。つまり、クリント・イーストウッドは8作品もベストワンになっている。

 驚きのイーストウッド好みだが、この中で圧倒的な感じを与えるのは「許されざる者」や「ミリオンダラー・ベイビー」ぐらいではないか。特に最近の作品は「巧みに物語を進行する」タイプの映画が日本人批評家好みなのではないかと思う。テーマ的に物語を深掘りするとか、美学的に凝りに凝るという感じの映画ではない。この映画もよく出来ているけど、主人公の内面に深入りせず、淡彩で描いている。そこに「哀愁」がある。アールの人生とは何だったのかと感じさせる。映像的にも画面に二人以上の人物を配し、上手にカットをつないでいる。特に作家のこだわりがある作りではなく、どんな物語でもスムーズに語り下ろしていく。見ていて安心できるが、アールの人生を振り返って悔いが多いだろうなあと思う。80歳で運び屋になったレオ・シャープという人物の実話だという話。
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トランプ大統領のゴラン高原「併合」容認、許されない暴挙!

2019年03月29日 23時10分15秒 |  〃  (国際問題)
 世界のニュースを見ると今後の行く末が暗くなるような気がしてくる。中でも最近一番の「トンデモニュース」は、アメリカのトランプ大統領がイスラエルのゴラン高原「併合」を認めたというニュースだった。トランプ大統領は今までも国際秩序を無視するような決定を行っている。イスラエルにある米国大使館をエルサレムに移すという決定はその代表。今度の決定はそれをもしのぐ暴挙、愚挙であり、評する言葉がない。この決定は3月21日に表明されて、25日に正式に文書に署名した。その式場にはイスラエルのネタニヤフ首相も駆けつけて感謝の意をを表した。
 (署名後のトランプとネタニヤフ)
 イスラエルは選挙戦中で、4月9日に投開票される。ところでイスラエル検察当局はネタニヤフ首相を汚職で起訴する手続きを開始したところだった。ネタニヤフ首相は1996年から99年までの第一次政権時代にも汚職容疑が持ち上がっていた。それは逃れたものの、2009年以後の第2次、第3次政権でも汚職容疑がかけられている。容疑は何件かあり、その一つは通信大手に便宜を図る代わりに、自分に有利な報道をさせ賄賂も受け取ったというものだ。なるほど、こういう政治家はトランプ好みなのかもしれない。しかし、イスラエルでは有力新党も出来てネタニヤフ苦戦も伝えられる。トランプの方針転換はネタニヤフ支援策であり、露骨な「内政干渉」そのものだ。

 ゴラン高原(英語表記=Golan Heights)は上の地図で判るように、イスラエル東北のシリアとの国境にある。1967年の第3次中東戦争(6日戦争)でイスラエルが占領した。同時にヨルダン川西岸地区(ヨルダン領)、シナイ半島ガザ地区(エジプト領)も占領した。シナイ半島は1979年のキャンプ・デーヴィッド合意で返還された。しかしゴラン高原は戦略上の要衝で、イスラエルを望む高原地帯になっているため、イスラエルが占領を続けた。それだけでなく、1981年にはイスラエル国会でゴラン高原を「併合」してしまった。それに対し国連安保理は併合を不法とする決議を採択した。むろん常任理事国であるアメリカも賛成したのである。
 (ゴラン高原)
 この政策転換がおかしいのは、国連安保理決議を自ら踏みにじっていること「力による領土変更」は認められないという原則を破ったことである。これならロシアがウクライナ領のクリミア半島を「併合」したケースを批判できなくなる。それどころか、1990年にイラクがクウェート領に侵攻したケースも同様で、1991年の湾岸戦争の根拠がなくなる。「北朝鮮」に対する制裁決議をどこかの国(中国やロシア等)が無視したとしても、アメリカが批判できなくなる。イランに対するアメリカの「制裁」も同様。EU各国も、あるいはトランプべったりの安倍政権でも、ゴラン高原併合を認めない政策を継続するのも、このように他の問題への波及が深刻すぎるからだ。

 歴史的には第一次大戦までは、中東一帯がほぼオスマン帝国領だった。オスマン帝国崩壊後、独立を求めるアラブ民族主義に対し、英仏で分割統治されることになった。具体的には国際連盟のもとで委任統治領となり、フランス委任統治領シリアフランス委任統治領レバノンイギリス委任統治領パレスチナイギリス委任統治領メソポタミアである。それぞれ独自の歴史をたどるが、ゴラン高原はこのときからフランス委任統治領であり、歴史的に「パレスチナ」ではない。住民も歴史的にレバノンやシリアに多いドゥルーズ派イスラム教徒が多い。イスラエルの侵攻はシリアへの侵略にあたる。
 
 ゴラン高原を失ったシリアでは、内部対立が激しくなり国防相だったハーフィズ・アル=アサドが1971年に政権を握った。1974年にはエジプトと組んで第4次中東戦争を起こすが、ゴラン高原奪還は成功しなかった。しかしアサド政権はソ連との結びつきを強め、独裁化していった。その後、エジプト、ヨルダンはイスラエルと国交を結んだが、シリアは一貫してイスラエルを認めていない。しかしシリア一国でイスラエルと軍事的に対決しても勝ち目はない。だからアサド政権は父子2代にわたって、口先とは別にゴラン高原に対して事実上の放置を続けてきた。そこに「一定の安定」があったわけだ。

 トランプは「アメリカ・ファースト」と言うけど、その実は「自分ファースト」だ。アラブ諸国内の親米国、サウジアラビアやエジプトなどは、国内的に突き上げられるだろう。トランプ、あるいはアメリカは「イスラエルの利益しか関心がない」と見られれば、親米国の立場がなくなる。中東波乱を呼び込む愚策としか言い様がないが、要するにトランプは「そういうヤツ」だということ。今後安倍首相は何度もトランプに会うけど、「忠告」できるか。「友人」なら苦言を呈するべきだが、「部下」なら黙っているしかない。まあ判りきっているだろう。
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四苦八苦、パソコン入れ替え記ー便利になると不便になる

2019年03月28日 21時07分16秒 | 自分の話&日記
 春分の日があって土日になった。 いつもだったら、体調不良じゃない限り映画一本見るぐらいの外出はするんだけど、ここしばらく映画も見てない。演劇や落語なんかの「生もの」はもっと行く気がしない。何してるかというと、パソコンの引っ越しである。他の人には関係ないけど、数年たつと自分でもパソコン何年目か判らなくなるから、備忘のために書き残しておく。この間、月山やイチロー、明日館のことなど書いてるけど、これらはすぐ書ける記事ばかりだ。パソコンがうまくいかない時に、気分転換の意味もあって書いた。ちょっと世界情勢の話なんかを書く気が起きないので。

 何で変えるのかは後の方で書く。今回はパソコン機種プロバイダーを両方とも変えることになった。今までケーブルテレビ回線で見ていたが、今度は光回線でつなぐ。新しく工事が必要。そのためにはパソコン周辺の片付けが必要だ。今のままじゃ、そこから線を引く壁付近に近寄れない。ということで、長らくやってないパソコン部屋の大掃除。そして買ってきた新パソコンを回線をつなぐ前に、昔の文書を少しでも移しておこうか。USBメモリーにデータを移管して、新パソコンに差してみる。あれ、何の反応もないじゃないか。今までは自動でDドライブに「USBドライブ」が起ち上がったんだが…。そもそもデスクトップ上に「PC」(その前は「コンピュータ」)というアイコンがないじゃないか。

 いろんな点がずいぶん違っているのだった。デスクトップ上のアイコンがすごく少ない。「Microsoft Edge」と「Outlook」、それに「パソコン乗り換えガイド」というのがある。それじゃあんまりだから、初期設定を頼むときに、ワードエクセルぐらいすぐ使えるようにしてもらった。「ドキュメント」や「PC」はスタートボタンを右クリックしてエクスプローラーから探してこないといけない。(まあショートカットを作ったけど。)インターネットは、マイクロソフト社は「Edge」で見ろという方針なんだろうが、やはり「Internet Explorer」の方が使いやすい(お気に入りの扱いなど)。これはスタートボタンから「Windows アクセサリ」を見るとまだ入っているので、こっちを使うことにした。

 しかし、問題はネット接続だった。まずMicrosoftの認証画面が出てきて、最初に設定したパスワードをちゃんと入れてるのにつながらない。最初からつまづいてしまった。そこで今回買ったビックカメラで入ったサポート(入らないと初期設定をやってくれない)に、せっかく有料なんだからと電話した。「遠隔サポート」を使って、ようやく接続完了。そうしたらモデムを使ってる限り、一回ごとにネット接続が切れるので手動でつながないといけないという。ルーターを使えば、常時接続になるけど、という。Wi-Fiじゃなくて、単に置いてるパソコンに回線接続するだけだと、どんどん面倒になってくるのである。

 そこで思ったのは、「便利になると不便になる」ということだ。書店で見つけにくい本がネットで買えるようになる。便利なんだけど、その結果町にあった小さな書店が減っていく。(だから最近はほとんどAmazonを使わないようにしている。読んでない本は山のように積まれてるんだから、そっちが先だ。)そういう社会的な問題もあるが、ネット環境もどんどん面倒になっている。簡単なシステムだと、それを悪用する人が出てくる。よって、どんどん面倒な仕組みが出来てくる。パソコン設定が面倒なのもそういう流れだと思う。全員が不便感を持ってるわけではなく、若い人だと「そういうもんだ」と思うだろう。でもこっちは、目も耳も悪くなっていくわけで、前は簡単だったのにと思うわけだ。

 一番困ったのは、「メール設定」。Windowsパソコンでは、以前は「Outlook Express」が標準だった。それがなくなって、「Windows Live メール」に移行したが、今やそれもなくなってパソコンを買い換えると「Outlook」を使うしかない。まあそれしかないなら仕方ない。他のメールソフトを探してもいいし、GメールYahoo!メールなどのフリーメールの方がいいという人もいた。でも、せっかくブロバイダーから設定されたアドレスがあるんだから、標準装備のOutlookでも読めるようにしておきたい。今では連絡手段はスマホやSNSがあるから、パソコンのメールはほとんどが「登録先への連絡手段」である。銀行、カード会社、証券会社だけでなく、映画館やら何やらいろいろある。

 ところで、今回はプロバイダーの説明にある「アドレスの追加」ができなくて困った。ドコモ光で入ったときは無料で5つまでと言われていた。これはプロバイダーに電話したら、「自分でファミリープランに申し込むと、無料になる」ということなのだった。その手続きはウェブ上で可能だったから、まあなんとか出来た。今度はOutlookにアカウントが追加できない。これも自分ではどうしようもなく、二度目の遠隔サポート。今度はサポートの人も大困りで、どうやってもうまくいかない。検索すると、Outlookでは不具合も多いらしいが、それなのか。僕の発想を超える大技でなんとかOutlookで読めるようになった。

 自分の備忘のために細かく書いたけれど、どうもパソコン設定はもう一人では無理な段階に来てるようだ。もっとも僕などは学校では何も教わらず、80年代半ばから「ワープロ」を使い始めた世代である。若い人だと見たこともないだろうが、「ワードプロセッサー」(文書処理機)の略で、文書作成が中心だった。富士通の「OASYS」の親指シフトが早打ち可能で、わざわざ親指シフトで打てるパソコンを買いに行ったこともある。それで富士通の「筆ぐるめ)の住所録管理ソフトを使ってるので、今回も富士通。

 もう書くのが面倒になってきたが、昔はケーブルテレビを見るつもりで、ネットもケーブルテレビにした。実際に21世紀初めは見た。あの日、2001年9月11日、定時制勤務で朝が遅くても良かった僕は、深夜までCNNでツインタワーに突っ込む飛行機を映像を見続けた。でも映画はテレビで見ないし、スポーツも地上波だけでいいと思って、やめてしまった。そうなると、スマホと同じ会社にする方がお得なので、そのうちパソコン買い換えるときはプロバイダーも変えると思っていた。いろんな理由でかなり重くなっていたので、パソコン変えてブログも早く投稿できる。自分の面倒な話ばかり書いてしまった。
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自由学園明日館とフランク・ロイド・ライトのこと

2019年03月26日 22時45分56秒 | 東京関東散歩
 西池袋にある重要文化財、自由学園明日館を訪れた。以前に「池袋西口散歩②ー明日館と東京芸術劇場」(2013.5.26)を書いてるが、それ以来である。今回は非常勤で行ってる福祉施設のメンバーと一緒。行事の時は池袋で集まるので、一度明日館に行ったらどうかなと前から思っていた。近くに住んでるからといって、行ったことがある人はほとんどいないので。時期的にはもう少し後の方が桜が満開だったけど、スタッフの都合もあるから仕方ない。それでも半分ぐらい咲いていた。28日、29日は夜もライトアップして夜桜を楽しめる。外から見るだけでも行く価値がある。

 前回の記事では自由学園のことは書いてるけど、「池袋西口散歩」だから設計者のフランク・ロイド・ライト(1867~1959)のことは名前を書いたぐらい。自分でもあまり関心がなかった。今回調べてみて興味深かったので書いておきたい。ライトは旧帝国ホテルの設計で名高いが、20世紀を代表する建築家と言われている。ル・コルビュジエミース・ファン・デル・ローエと並んで、近代建築の三大巨匠とされる。でも、何でそんなすごい人が日本に来たの? 1913年、大正2年のことなのである。そこには壮絶なドラマがあった。あんまりすごいので、ここには書かない。ウィキペディアを自分で調べてみて。
 (明日館にあるライトのパネル)
 ライトは日本に4つの建築を残した。明日館は空襲で焼けずに奇跡的に残り、修復工事を経て、今も公開講座などに使われている。空いている部屋は、申し込めば使うこともできる。なんで空襲で焼けなかったかは、館内にあるライトミュージアムに説明パネルがある。旧帝国ホテル本館は、正面玄関部が博物館明治村に移転されて残っている。それは有名だけど、後の二つ。一つは芦屋にある灘の造酒屋櫻正宗の当主、旧山邑邸である。重要文化財指定で、今はヨドコウ迎賓館として公開されている。最後の一つが世田谷区にある旧林愛作邸で、今は非公開の電通八星苑。検索していると、電通の「過労死自殺」問題の女性社員はこの寮に住んでたという記事が出てきた。真偽は知らないけど、ライト設計の建築も本人と同じく数奇な運命にあるんだなと思った。

 ところで、今日一緒に行った施設の所長(長年の友人)がポール・サイモンに「フランク・ロイド・ライト…」って歌う歌があった、知ってる?と言う。えっ、そんなのあったっけ。明日館にもサイモン&ガーファンクルのLPレコードが飾ってあった。そう言えばサイモン&ガーファンクルはCD全集を持っていたではないか。(CD全集を持ってるのは他にはパブロ・カザルスだけ。)探してみると、「明日に架ける橋」のCDである。何度も聞いてるはずだ。だけど大曲「ボクサー」(僕が一番好きな曲)の前で、それじゃ印象が薄い。「フランク・ロイド・ライトに捧げる歌」(So Long, Frank Lloyd Wright)という曲だ。

 「サイモン&ガーファンクル詩集」っていうのも持っていて、それに訳詞が載ってる。「さよなら、フランク・ロイド・ライト あなたの歌がこんなに早く消えてしまうなんで 僕にはとても信じられません 曲さえまだ覚えていなかったのに… こんなに早く 終わってしまうなんて…」 これじゃ、有名な建築家の歌になってない。最後のフレーズは「さよなら フランク・ロイド・ライト 意気投合した僕たちは 毎晩のように 夜が明けるまで 一緒に過ごしましたね あんなに長いこと 笑ったのは初めてでした あんなに長いこと…… まるでフランクっていう友人を歌っている感じだ。

 アート・ガーファンクルは大学時代に建築学専攻で、ポール・サイモンにライトの歌を作ってと頼んだという。でもサイモンはライトを知らず、こんな歌を作ったのだという話。「so long」が繰り返されて、それはポール・サイモンからガーファンクルへの別離のメッセージが込められていると解釈されている(とウィキペディアに出ている。)「ニューヨークの少年」(The Only Living Boy in New York)という映画「さよなら、僕のマンハッタン」のタイトルソングも同じだという話。ちょっと明日館と離れた話になったけど、素晴らしい建築を訪ねると気持ちが落ち着くなと思う。あちこち散歩に行きたくなってきた。
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イチロー惜別

2019年03月25日 22時48分03秒 | 社会(世の中の出来事)
 シアトル・マリナーズのイチロー選手が、21日の東京ドームでのアスレチックス戦の終了後に現役引退を発表した。深夜に記者会見をして、朝から様々なメディアで大々的に報道された。イチローは2018年5月3日にマリナーズと「スペシャルアシスタントアドバイザー(会長付特別補佐)」契約を結び、以後の試合は出場しなかった。事実上昨年で引退状態だなと思ったけど、日本でのメジャーリーグ開幕戦が決まっていたから、それが「引退興行」なんだろうと思った。でも試合後にすぐ引退を正式発表するとは予想外といえば予想外。アメリカでマイナー契約で続けるのかもと思っていた。
 (東京ドームのイチロー)
 スポーツ選手はある時点で引退が避けられない。最近も福原愛吉田沙保里松本薫、あるいは横綱稀勢の里とどんどん名前が思い浮かぶ。それなりに何か思うこともあるんだけど、イチローに関して記事を書くのは「イチローはナマで見ている」から。それはもちろんオリックス時代。95年か96年か、もうよく覚えてないけど、東京ドームの日本ハム戦。イチローはヒットを打たなかった。イチローのところに大フライも飛ばなかった。双眼鏡は持って行ったけど、全然よく見えない。でもまあ、見に行った記憶は鮮明にある。サービスの券かなんかあって、珍しく妻が見に行こうよと言った。イチローは首位打者を続けていて、すごい人が出てきたという感じだったのである。
 (オリックス時代のイチロー)
 1994年に「イチロー」という若い打者がヒットを量産し、注目を集めた。首位打者になって、趣味を聞かれて「盆栽」なんて答えるセンスに驚いた、1995年に阪神淡路大震災が起こり「がんばろう KOBE」を合い言葉にして、オリックスが優勝した。翌1996年も連覇し、日本シリーズでも優勝した。イチローは首位打者の他、打点、盗塁、最多安打、最高出塁率でタイトルを獲得した。オリックスはそれ以後優勝していないから、パリーグで21世紀に優勝してないただ一つのチームになっている。僕にとってイチローが一番印象的だったのは、この頃かもしれない。

 そもそも最初にビックリしたのは、鈴木一朗を「イチロー」という登録にしたことだ。その後、他にもプロ野球選手に名前登録が出てきたし(「鉄平」とか「サブロー」とか)、芸能人にも「小雪」とか「瑛太」とかの芸名が出て来た。今はあまり驚かないけど、最初に「イチロー」って聞いたときには、その語感はすごく新鮮だったのである。そして、2001年から大リーグに行った。僕もここまで大活躍するのは思ってなかった。僕はその前年から夜間定時制高校に転勤していた。勤務時間が昼から夜になって、家を出るのもお昼過ぎになった。そうすると時差の関係で、ちょうど西海岸のマリナーズ戦中になることが多い。(時差は16時間。)「本日のイチロー)をニュースで見て出勤するのが、僕の21世紀だった。

 もうここ数年、思うような実績が上がってない。このようにスッパリと辞めるのかどうかだけが判らなかった。記者会見は深夜だからナマでは見てないけど、ずいぶん深い言葉が多い。こういうタイプ、「職人」というか「変人」というか、そういう人が活躍したということが素晴らしい。「元選手イチロー」の今後も目が離せない。
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月山で素晴らしい雲海を見たー日本の山③

2019年03月23日 23時20分56秒 |  〃 (日本の山・日本の温泉)
 北海道の山はずいぶん行ってるけど、利尻山の次は東北にしたい。東北もずいぶん行ってるから選択に苦労するけど、最初に山形県の月山(がっさん、1984m))を選ぶことにした。月山羽黒山湯殿山と並んで「出羽三山」と呼ばれた。修験道の山として有名だから、若いころから気になっていた。その後、芥川賞を受賞した森敦「月山」が書かれ、村野鐵太郎監督「月山」として映画化された。どちらも素晴らしく、名前も詩的な月山は憧れの山だった。
 (月山遠景)
 月山に行ったのはもう30年以上前だと思う。夏のメインの旅行は終わって、8月20日前後に数日時間が取れた。調べてみると、夜行寝台列車で鶴岡まで行ける。(現在はなくなっている。)鶴岡からは月山8合目までバスがある。車を持ってなかった時期なので、バスを使うことになるが、車だと駐車場所に戻らないといけない。月山に限っては湯殿山までの縦走をした方がいい。それがないと「出羽三山」の魅力半減だと思う。

 朝早く鶴岡で降りて、まず羽黒山で途中下車。羽黒山というけど、登山というより羽黒山神社参拝である。国宝の五重塔があり、宿坊もいっぱいあるのに驚いた。どこかで朝昼を食べているはずだが、記憶はない。再びバスに乗って月山八合目1400m)まで行く。お花畑と残雪の中を修験者の装束の人々とともに木道を登っていく。残り二合目のはずだが、高低差600メートル近くあるし、夜行で朝からだから結構疲れた。
 (月山神社と頂上小屋)
 しかし、頂上に疲れを吹き飛ばす素晴らしいものがあった。もともと頂上小屋に泊ることにしていた。荷物を置いて周りを散歩する。夕方の頂上は一面お花畑が咲き乱れている。そして周りに雲海が広がっていた。月山は山形県中央にあり、周囲はすべて有名な山である。それが全部雲海の上に頂上が見える。あれが鳥海山、あれが朝日連峰、あれは蔵王山…、全部見えるじゃないか。こんなすごい雲海はその後も見たことがない。日帰りじゃなくて泊るべきだ。
(月山テレカ)
 次の日は湯殿山方面へひたすら下りてゆく。かなり急坂もあるが、途中から素晴らしい尾根歩きになった。天気に恵まれないとつらいだろうが、晴れていればこんな気持ちいい道もない。そして2時間ほどかかって湯殿山に着いた。「これが湯殿山だったのか」と驚く。写真撮るなと書いてあって、検索しても湯殿山本体の写真が見当たらないと思う。僕も撮らなかった。岩に触れれば満足。これじゃ何だかわからないと思うが、それでいいのだ。要するに「湯殿山」というけど、通常のピークじゃないのである。いつか行った時のためにここには書かないから、是非直接見て欲しい。
 (湯殿山までの道)
 それで帰っても良かったんだけど、ガイド本を見てたら酒田に寄りたくなった。本間美術館山居倉庫土門拳記念館などを訪れた。土門拳の写真が素晴らしく、後にもう一回行っている。その当時はまだ藤沢周平を読んでなかったので鶴岡は観光しなかった。庄内地方はこの旅行ですごく印象に残り、21世紀になって湯田川温泉の藤沢周平ゆかりの宿を訪ねたりした。月山も頑張ればまた登れないこともないと思う。車がなかったので、月山山麓のミイラなどを見ていない。肘折温泉も行ってない。是非また庄内を旅してみたいと思ってる。
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「増補 南京事件論争史」を読む

2019年03月22日 22時38分59秒 |  〃 (歴史・地理)
 笠原十九司増補 南京事件論争史』(平凡社ライブラリー、2018.12)を読んだ。増補版じゃない元の「南京事件論争史」(2007)も読んでるから、まあいいかと思ったが、一種の義務感で報告のため買った。知ってる人には「常識」だが、「南京大虐殺の存否」はもう何十年も前に歴史学上の決着が付いている。「南京大虐殺の規模」に関しても、ほぼ決着済みだと思う。しかし、世の中には史料を明示せず、論争にも反論せず、ひたすら「南京事件はまぼろし」と唱える人がいる。そういう人の存在を持ち出して、「諸説ある」などと利用する勢力もある。 

 笠原十九司氏(1944~、都留文科大学名誉教授)はもともと現代中国史専攻だが、南京事件「論争」が起こってから地道な史料発掘に努めて来た。多くの学者が「まぼろし派」をまともに相手にしない中で、笠原氏は一つ一つきちんと論破してきた。その長年の成果がこの本で、単に南京事件だけでなく、「極右勢力による歴史修正主義の手口」を学ぶことができる。南京事件に関してはぼう大な史料集が刊行されているが、歴史修正主義者は史料を無視するのが最大の特徴である。だから歴史学界で評価されたいと思ってない。学問論争じゃないのである。

 笠原氏による「論争」の推移は、ある種のミステリーのような面白さ。もっともすぐに「謎」が解明されてしまうけど、近現代史に詳しくない人には知らなかったことが多いはずだ。ぜひ多くの人が読んでみて欲しい。例を一つ挙げると、「否定派」は1937年12月に起きた南京大虐殺は戦前には全然知られていなかった、東京裁判で初めて取り上げられたなどと今も大マジメに言ってる人がいる。それがいかに大ウソか、いくつもの明確な証拠が提出されている。

 世界の新聞には大きく報じられ、各国の外交官は本国に深刻な事態を報告していた。その中には、1936年に日本と防共協定と結んだナチス・ドイツの外交文書もあった。(ドイツ外交文書の史料集も刊行されている。)それらの報告は日本にも伝えられ、外務省から陸軍省に連絡されていた。軍内部でも問題視する声が強くなり、中支那方面軍司令官の松井石根を本国に召還した。しかし、事の真相は秘密にされ、国内では「凱旋将軍の帰還」として歓迎されたのである。言論の自由がなく、敗戦時には軍などの文書を大量に焼却してしまった。

 70年代に始まり、80年代、90年代の「まぼろし派」の動向は直接本書で読んで欲しい。「諸君!」「正論」などの右派論壇誌に、イザヤ・ベンダサン(偽ユダヤ人で実は山本七平)や渡部昇一らが書いていた。それらの言動に刺激を受けて、旧軍人の戦史として南京戦史編纂が企画された。ところが否定したいと始めたのに、残虐行為の証言が続出してしまった。1989年に陸軍系の偕行社から『南京戦史』及び『南京戦史資料集』が刊行された。『南京戦史』で謝罪したから、本来なら30年前に「存否論争」は終わりである。

 その後、90年代になると教科書問題も絡んで右派勢力の活動が活発になる。南京事件でどんな本が出ていたか、本文と年表に詳しい。もういちいち触れないが、年表を見ると2007年頃を境に、露骨な否定本が出版されなくなる。南京大虐殺の被害者の証言を「偽物」と書いた本に対し、損害賠償を求めた裁判が起こされ、最高裁で原告勝訴の判決が確定したのが大きいだろう。それで終わりのはずが、最近の10年間は政治的な問題が続いている。

 靖国参拝で日中関係が悪化した小泉政権の後を受けて、第一次安倍政権は関係改善を図った。そこで日中の歴史共同研究事業が立ちあげられ、日本側では北岡伸一氏が座長となった。その報告で日本の侵略や大規模な虐殺などを日中共通で認めた。北岡氏は「集団的自衛権」を一部認める安保法制を推進した学者だが、学問的な立場に立つ以上は近代史の認識は学界共通のものとなる。自分で作った共同研究の成果を、首相に復帰した安倍晋三首相が事実上棚上げした。安倍首相の器がもう少し大きければ、歴史問題は決着していたはずだ。
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映画「グリーンブック」を見る

2019年03月21日 21時05分56秒 |  〃  (新作外国映画)
 第91回アカデミー賞(2018年)作品賞受賞の「グリーンブック」は、確かによく出来ていて面白い作品だった。最近のアカデミー賞は、「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」(2014)や「ムーンライト」(2016)のような作家性の高いアート映画の評価が高い。今年も「ROMA/ローマ」の前評判が高かったが、さすがにネットフリックス配信のモノクロスペイン語映画では難しかったか。近年では「英国王のスピーチ」以来の「エンタメ社会派」的な映画である。

 イタリア系のトニー・バレロンガ(通称トニー・リップヴィゴ・モーテンセン)はニューヨークのクラブ「コパカバーナ」で用心棒をしていた。改装のため休店になった間の職を探すと、「ドクターのドライバー」を紹介される。面接に行くと、カーネギーホールの上階に住む黒人ピアニスト、ドン"ドクター"シャーリーマハーシャラ・アリ)の住居だった。中西部から南部を周る8週間のツァーの運転手を探しているという。採用されたトニーには、レコード会社から「グリーンブック」が渡される。南部を旅する黒人向けガイドで、利用可能な施設が書かれている本だった。
 (これがグリーンブック)
 映画の作りは典型的なロード・ムーヴィー。旅回りの間に登場人物の関係が変容していく様子が見どころだが、背景に出てくるアメリカ各地の風景が美しい。トニー自身も「なんてこの国は美しいんだ」なんて手紙を送っている。当時の「常識」と違って、黒人のシャーリーの方がエリート教育を受けた教養人で、トニーはがさつで無教養なタイプ。車内でラジオを付けると、シャーリーは当時のヒット曲が判らない。それどころか、フライドチキンを食べたこともない。(ケンタッキー州に入ると、トニーが大喜びでケンタッキー・フライド・チキンに寄るのがおかしい。)もともとは偏見があったトニーだが、シャーリーのピアノの才能に驚き彼が不当に扱われることに不条理を感じてゆく。

 ほとんどトニーとシャーリーの掛け合いで、演技を見る楽しみが大きい。シャーリーのマハーシャラ・アリ(1974~)は「ムーンライト」に続く2回目のアカデミー賞助演男優賞。「ムーンライト」は三部中の第一部だけ、わずか24分の出演シーンで「もうけ役」だったが、今回はほぼ出ずっぱり。この映画はアリの素晴らしい演技が支えている。トニーのヴィゴ・モーテンセン(1958~)はもう60歳という歳を感じさせない。主演男優賞にノミネートされたが受賞はならなかった。映画は南部に入り、さまざまな圧迫が続く中で思いがけない深みを見せてゆく。ここでは書かないけれど、1962年という時代を考えさせられる。(アカデミー脚本賞受賞

 「グリーンブック」には批判もある。スパイク・リーなどは、この映画の微温性、偽善性を批判している。トニーが次第にシャーリーの保護者のようになっていき、「善き白人」になってしまう。エリートのシャーリーは、差別されたものの代表とは言えないだろう。この話は基本的に実話で、ラストには実在の二人の写真が出る。脚本にトニーの子であるニック・バレロンガが加わっていて、それもトニー側の視点で映画が作られた理由だろう。(なお、現実のトニーはその後コパカバーナの支配人となり、コッポラ監督と知り合い「ゴッドファーザー」に出演する。その後も俳優活動をして「グッドフェローズ」や「フェイク」などで実在のイタリア系ギャング役で出ている。)

 確かにこの映画は差別と真正面から闘った映画ではなく、むしろ孤独なエリート黒人が陽気なイタリア系大家族に癒される「ウェルメイド」な映画になっている。だけど、それに止まらない「差別と寛容の重層性」をも語っている。監督はピーター・ファレリーで「メリーに首ったけ」などのコメディで知られる。ここまで社会的なテーマを持ち、高い評価を受けた映画もない。そんなエンタメ畑の監督が脚本も手掛けて、笑いと感動の中に込めたメッセージ。きちんと受け止めるだけの価値がある。
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加納美紀代、花柳幻舟、堺屋太一等ー2019年2月の訃報③

2019年03月20日 23時10分55秒 | 追悼
 2月の訃報の続き。どうしても書いて記憶しておかないといけないのは、女性史研究家加納美紀代氏の訃報である。22日、すい臓がんで死去、78歳。加納さんは昔よく集会で話を聞いているから、若いころの顔が思い浮かぶ。70年代に女性と戦争の関わりを追求して「銃後史ノート」全10巻を刊行していた。ウィキペディア等に情報がないので、詳しいことが判らないけれど、70年代、80年代に市民運動に関心があった人には忘れられない人だろう。「被害者」として語られがちな「女性の戦争体験」を問い直し、天皇制や植民地を問い続けた。「女性と天皇制」「戦後史とジェンダー」「まだフェミニズムがなかったころ」「ヒロシマとフクシマのあいだ」など多くの著書がある。
 (加納美紀代) 
 3月1日になって、舞踊家の花柳幻舟(はなやぎ・げんしゅう)の訃報が報じられた。77歳。群馬県の「めがね橋」から転落したと見られ、28日の午後5時ごろに発見され1時間後に死亡が確認されたという。花柳幻舟と言われて、そういう人がいたなあと思い出すのはもう相当年齢が高い人だろう。花柳流名取となったが、家元制度打倒を唱えて活動し、70年代には反体制のアイドルになった。映画、テレビ、舞台等でも活躍し、特に日活ロマンポルノにはずいぶん出ている。田中登監督の傑作「㊙色情めす市場」の芹明香の母親役が忘れられない。革新自由連合にも関わり、歴史家羽仁五郎の「ガールフレンド」としても話題になった。
 (若い頃の花柳幻舟)
 そんな花柳幻舟は1980年に、言論活動を踏み越えて花柳流家元襲撃事件を起こし下獄した。傷害の程度が軽かったので、翌年には出所しているが、実際のテロにまで突き進んだのは衝撃だった。1990年には天皇の即位祝賀パレードに爆竹を投げて、罰金4万円を払わず20日間の労役に服した。その後、放送大学を卒業して「小学校中退、大学卒業」という本を書いた。著書は多くあり、「子宮からの出発」とか「無学盲目体当り」「修羅 家元制度打倒」などすごい題名が並ぶ。まさに「代替わり」の直前に訃報が伝えられたが、事故死とされている。

 作家、元経済企画庁長官(小渕内閣)、元通産官僚の堺屋太一(本名池口小太郎)が死去。2月10日、83歳。テレビや新聞で大きく扱われたが、高年齢層に知名度が高く、70年大阪万博や閣僚経験など「絵になる」素材が多い。今回「巨人大鵬卵焼き」がこの人の言葉だと知った。現職官僚として「油断!」(1975)「団塊の世代」(1976)などの小説を書いた。話題になったので、前者を読んでみたが記憶がある。「団塊の世代」は要するに「ベビーブーマー」のことだが、最近では「読めない」「意味を知らない」若い人が多い。近年は安倍内閣官房参与でカジノ法案を推進した。橋下徹氏に府知事選出馬を勧誘した人で、いろいろ迷惑なことを残したものだと思う。
 (堺屋太一)
 書いてない訃報を国内から。
長野重一(しげいち)、4日死去、93歳。写真家。岩波写真文庫で多くの巻を担当、その後フリーとなってドキュメンタリー写真で知られた。映画でも活躍し、羽仁進監督の「充たされた生活」「彼女と彼」「手をつなぐ子ら」「アンデスの花嫁」を撮影している。市川崑の「東京オリンピック」の撮影にも参加し、大林宣彦監督の「北京的西瓜」「ふたり」などの撮影も担当した。
安井侑子、8日死去、80歳。ロシア文学者。安井郁の娘で、父が国際レーニン勲章を受けたときに訪ソし、そのままお茶の水女子大を中退してモスクワ大学に留学した。スターリン後の「雪どけ」時代で、エフトゥシェンコらと親交を深めた。ブルガーコフ「悪魔とマルガリータ」を初訳したほか、現代ロシア文学を多数翻訳した。
大濱徹也、9日死去、81歳。日本近代史。軍隊史やキリスト教史の多くの著書がある。
高橋英夫、13日死去、88歳。文芸評論家。1947年の一高最後の卒業生で、そういう経歴からかちょっと古風で正統的な印象がある。小林秀雄、河上徹太郎、志賀直哉、ブルーノ・タウトらの著書がある。文庫の解説などでは読んでるけど、著書は読んでないと思う。
内田正人、15日死去、82歳。「ザ・キングトーンズ」を結成し、68年に「グッド・ナイト・ベイビー」がヒットした。
富永健一、23日死去、87歳。文化功労者。戦後を代表する社会学者の一人で、社会変動を組み込んだ社会システム理論を展開した、と出ているけど僕にはよく判らないけれど。
見崎進、25日死去、92歳。第五福竜丸の操舵手として、ビキニ環礁の水爆実験で被ばくした。
松尾文夫、25日死去、85歳。元共同通信ワシントン支局長、日米首脳の広島、真珠湾相互訪問を提唱した。「銃を持つ民主主義」でエッセイスト・クラブ賞。
佐藤安太、26日死去、94歳。玩具メーカー、タカラの創業者。ダッコちゃんリカちゃん人形人生ゲームチョロQなどヒット商品を続々と送り出した。2002年に経営の一線を退き、人材育成のNPO法人理事長になった。2007年には山形大学大学院に入学し、2010年に博士を授与された。すごい人だけど、名前を知らなかった。
 (佐藤安太)
 外国のスポーツ選手の訃報。フィンランドのスキー・ジャンプ選手、マッチ・ニッカネンが4日死去、55歳。84年サラエボ五輪で90m級金、88年カルガリー五輪で70m級、90m級、団体で金メダル。鳥人と呼ばれた。ワールドカップ通算46勝。
 (ニッカネン)
 メジャーリーグ初の黒人監督、フランク・ロビンソンが7日死去、83歳。歴代10位の586ホームラン、史上初の両リーグでのMVPを獲得した。インディアンスで選手兼任監督となり、オリオールズ、エクスポズなどで監督をした。
 (フランク・ロビンソン)
 メジャーリーグの投手として初代サイ・ヤング賞受賞者のドン・ニューカムが19日死去、92歳。この人も黒人選手で、昔あった「ニグロリーグ」出身である。代打でも起用され、通算15ホームランを記録している。1962年に中日に打者として所属した。
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佐藤純彌、プレヴィン、ブルーノ・ガンツ等-2019年2月の訃報②

2019年03月18日 22時25分28秒 | 追悼
 2019年2月の訃報、2回目は映画関係者を中心にアート系にしぼって。まず映画監督の佐藤純彌。1932~2019.2.9、86歳。大作映画の監督として知られ角川映画で超大ヒットした「人間の証明」「野生の証明」を作った。しかし、最高傑作と言えるのは「新幹線大爆破」(1975)だろう。高倉健の新しい魅力を引き出し、脚本の面白さも光った。ただ今見るとアイディアは生きてるけど、人物像がちょっと古く犯人側のミスが多い。当初は評価されず、海外版がフランスで評価されたのは有名。次の「君よ、憤怒の河を渉れ」(1976)が文革後の中国で初の外国映画として大ヒットした。冤罪を自ら晴らそうと奔走する高倉健に中国人が共感したことが大きい。その後に日中合作で「未完の対局」(1982)を作ったが、これは日中戦争を正面から描いた良心的な佳作で感動した。 
 (佐藤純彌)
 同時代にそういう大作映画の監督として知っていたわけだが、むしろ思い出は別にある。東大文学部時代の演劇活動を、学生時代に一緒にやっていた故・前田愛先生(都市論などを取り入れた文学評論で名高かった)から時々聞くことがあったのである。あまり真剣に見てなかった監督だが、いろいろ大変なんだなと思った記憶がある。その頃、池袋の文芸地下でデビュー作の「陸軍残虐物語」(1963)を見たら、これがなかなか良かった。その後の大作はあまり見てないんだけど、「おろしや国酔夢譚」や「男たちの大和/YAMATO」を見てまあ悪くはなかった。

 最後はクラシックの大指揮者という印象が強くなったアンドレ・プレヴィン。2.28日死去、89歳。昔はジャズ・ピアニストや映画音楽で知られていた。それより、僕はこの人の名前を知ったのは、ミア・ファローの夫としてだった。ミア・ファロー(1945~)は、「ローズマリーの赤ちゃん」でブレイクし、その後「ジョンとメリー」「フォロー・ミー」「華麗なるギャツビー」などで、その線の細そうな感じがけっこう好みだった。実生活では、1966年~68年にフランク・シナトラ(29歳差)、1970年~79年にアンドレ・プレヴィン(子ども3人)、80年代から90年代にかけてウッディ・アレン(子ども一人、正式結婚はせず)と、ミア・ファローを通してアメリカ戦後文化史を書けるぐらいなのである。
 (プレヴィン)
 アンドレ・プレヴィンはまるでフランス人みたいな名前だが、実はドイツ生まれのユダヤ系。本名はアンドレアスである。1938年に家族とともにアメリカに移住した。早くからジャズ・ピアニストで知られ、その後ミュージカル映画の編集者として活躍した。その頃はアカデミー賞の作曲賞が劇映画部門とミュージカル部門に分かれていて、プレヴィンは「恋の手ほどき」「ボギーとべス」「あなただけ今晩は」「マイ・フェア・レディ」と4回も受賞している。60年代後半からクラシック音楽の指揮者としての活動が多くなり、世界各地のオケで指揮し、非常に多くの録音を残している。僕はそこらへんは聴いてないので評価できないが、N響首席客演指揮者もして日本との縁も深かった。

 ミュージカル映画を中心に多数の映画を監督したスタンリー・ドーネンが死去。2月21日死去、94歳。まだ存命だったのかと思ったが、もともとはMGMの振付師でジーン・ケリーの助手だった。ケリーとともに「踊る大紐育」「雨に唄えば」の監督にクレジットされた。これがドーネンの生涯の財産となった。その後単独で監督するようになり、「パリの恋人」「シャレード」「いつも二人で」などオードリー・ヘプバーン主演のオシャレな映画を残した。
 (スタンリー・ドーネン)
 ドイツじゃなくってスイスの俳優だったブルーノ・ガンツが死去、2月15か16に死去、77歳。死亡日は諸説あり、メディアにより違う。てっきりドイツ人だと思ってたら、スイス人だったのに驚いた。「ベルリン・天使の詩」で世界的に知られた。そして「ヒトラー 最期の12日間」でヒトラー役を演じて驚かせた。他にもいっぱい出ているけれど、誰でもまず思い出すのはこの2作品になる。意外なことに受賞歴がないんだけど、名優だった。
 (ブルーノ・ガンツ)
 イギリスの俳優、アルバート・フィニーが8日、死去、82歳。もともとイギリスの舞台俳優でローレンス・オリヴィエとも共演していた。60年代から英米の映画に出演、アカデミー賞に5回ノミネートされたが受賞はしなかった。「トム・ジョーンズの華麗なる冒険」「ドレッサー」「火山の下で」などで、今ではなかなか見る機会がない。その中で僕が一番思い出すのは、やはりアカデミー賞主演男優賞にノミネートされた「オリエント急行殺人事件」(1974)のポワロ役。イングリッド・バーグマンが助演女優賞を受賞した映画。その他21世紀になっても多くの映画に出ている。今回初めて知ったんだっただけど、フランス人の女優、「男と女」のアヌーク・エーメと2度結婚している。
 (アルバート・フィニー)
・女優の佐々木すみ江が死去、90歳。死亡日時未公表。
・放送作家の大濱徹也が4日死去、86歳。「8時だよ!全員集合」「夢であいましょう」「小沢昭一の小沢昭一的こころ」などの構成を手掛けた人。
・落語家の笑福亭松之助が22日死去、93歳。上方落語の最長老で、明石家さんまの師匠。
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ドナルド・キーン、堀文子、直木孝次郎等ー2019年2月の訃報①

2019年03月17日 22時57分24秒 | 追悼
 パソコン不調期間があって、2月の追悼特集を書いてなかった。重要な訃報が多かったので、来月回しにしないで書いておくことにする。100歳の訃報が多かったのだが、100歳に近いということで一番扱いの大きかった日本文学者のドナルド・キーンから。1922~2019.2.24、96歳。晩年に日本国籍を取得して、ずいぶん多くの報道があったから、多くの人が名前を知ってた。僕は2011年に講演を聞いたが、日本各地に残る浄瑠璃の素晴らしさという演題から、今ひとつよく判らなかった。 

 古典文学の研究が多く、あまり読んでないんだけど、最近「日本人の戦争」(文春文庫)を読んだ。永井荷風、高見順、伊藤整、山田風太郎などの戦時中の日記を取り上げて分析した本。作家の日記に限られているが、すごく面白くて日本人必読本。よく知られているように、キーンは戦時中にアメリカ海軍に所属して、日本人捕虜の通訳や兵士が残した日記の翻訳をした。(それ以前に「源氏物語」に感動して、日本語を学んでいた。)日本が「敵性語」などといって英語を禁止していた時に、アメリカは日本語専門家を養成していた。「戦争」はキーンの生涯の関心事で、戦時中に知り合った捕虜との交流も長く続いている。国籍取得後は憲法9条擁護を訴えていた。

 谷崎潤一郎川端康成三島由紀夫安部公房などと知り合って、三島や安部の翻訳もある。日本文学の巨人たちと同格の知己だった。2004年に出た「同時代を生きて」という鼎談集があるが、その時に語り合った鶴見俊輔も亡くなり、瀬戸内寂聴だけが生き残っている。多くの報道の中で、僕が一番印象的だったのが、「国籍は変わっても、味覚は変わらない」と言って「和菓子が苦手」だったという話。あれほど日本の古典を愛していても、和菓子がダメだなんて。

 画家の堀文子が死去。1918~2019.2.5、100歳。この人のことをそんなに良く知っているわけではない。村松友視極上の流転 堀文子への旅」(中公文庫)が面白いと聞いて、文庫になった時に読んでみたぐらい。そして確かに「極上の流転」の話だった。60年代初頭、夫の死後に世界を放浪。やがて90年代にはインカ、マヤ遺跡などへ旅行。2000年になって幻の植物ブルー・ポピーを求めてヒマラヤを踏破。東京新聞の訃報に2014年1月9日に掲載された特定秘密保護法反対の投書があった。「戦争は防げる」とぶれなかった画家だという。
 
 古代史家の直木孝次郎が死去。1919~2019.2.2、100歳。古代史の実証的研究を進めた戦後の代表的な歴史学者の一人。遺跡の保護運動にも関わった。歌人でもあり、時々朝日歌壇に短歌が載っていた。この人もまた戦争に最後までこだわりを持ち続けた人である。古代史の専門家じゃないから、専門書は読んでないけど、有名な中央公論社「日本の歴史」の第2巻「古代国家の成立」を中学時代に読んで大きな影響を受けた。このシリーズは有名な学者の名著が多く、今も読まれ続けている。井上光貞、石井進、黒田俊雄、佐藤進一、永原慶二、林家辰三郎、児玉幸多、奈良本辰也など、そうそうたる顔ぶれ。存命なのは色川大吉、今井清一の両氏だけか。
 (直木孝次郎)
 着物デザイナーで、上野の鈴乃屋の名誉会長小泉清子が、2月7日に死去、100歳。府立第一高女卒で大先輩にあたる。上野の大きな店がある。戦後の女性初の国会議員の最後の一人、佐藤きよ子が死去、99歳だった。2018年10月26日のこと。
 (小泉清子)
 中国共産党の改革派として知られる李鋭が死去。 2月16日、101歳だった。1937年に入党した最古参の党員で、50年代には毛沢東の秘書も務めた。しかし、1959年に彭徳懐グループとして党籍はく奪、文革期には投獄された。1079年に名誉回復、80年代には中央組織部副部長、中央委員担った。天安門事件後も「改革派」として存在感を示していた。岩波現代文庫に「中国民主改革派の主張 中国共産党私史」がある。
 (李鋭)
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経団連会長の原発発言を考える

2019年03月16日 22時43分50秒 |  〃 (原発)
 経団連中西宏明会長が2019年になって原発に関する発言を何回も行っている。2月14日には「原発の再稼働はどんどんやるべき」と発言し、その中で「原発と原子力爆弾が頭の中で結びついている人に『違う』ということは難しい」と述べた。この部分に関しては批判が集中し、後に撤回している。年初から「真剣に一般公開の討論をすべきだと思う」と言っていたが、「原発ゼロ・自然エネルギー推進連盟」(原自連=顧問を小泉純一郎、細川護熙が務め、事務局長を河合弘之弁護士が務める民間団体)が公開討論を申し込んでも拒否している。
 (中西経団連会長)
 原発事故から8年になる3月11日の会見では、「エモーショナルな反対をする人たちと議論しても意味がない。絶対嫌だという方を説得する力はない」とまで語った。さらに「再生エネルギーだけで日本の産業競争力を高めることができればいいが、失敗したらどうするのか。いろんな手を打つのがリーダーの役目だ」とも述べた。「エモーショナル」(emotional)とは「感情的」「情緒的」といった意味だが、僕はこの発言に対してとても不快な気持ちを覚えた。その不快さは何に由来するのだろうかと思って、少し考えてみることにした。その前に「経団連」の説明。

 一般社団法人日本経済団体連合会(経団連)は、日本商工会議所(日商)、経済同友会と並んで、経済三団体と呼ばれる。かつては「日経連」(日本経営者団体連盟)を含めて「経済四団体」と言われたが、2002年に経団連が日経連を統合した。そういう経緯もあり、経団連は日本の「財界の総本山」と呼ばれる。世の中には法律で定められた団体もあり日弁連、日本医師会などと並び日商もその一つ。でも単なる民間団体である経団連の方が影響力が大きい。2018年5月から日立製作所会長中西宏明氏が経団連会長を務めている。

 話を戻すと、そもそも「原発反対論はエモーショナルなものなのか」、「エモーショナルな反対論ではいけないのか」という問題もあるが、今はその問題を棚上げする。原発反対論はエモーショナルで、だから間違いだと考えるとして、「そのエモーショナルな反対論」は今の安倍政権の下では現実的な影響力を持ってない。政策的に原発ゼロは今のところ実現可能性がない。もし「エモーショナルな反対論」が国会の多数を占めていて、今にも原発ゼロ政策が決まりそうだというのなら、経団連会長が反対論をぶつのも判らないではない。でも全然そんな気配はないじゃないか。

 今の日本で一番「エモーショナルな議論」をしているのは、原発反対運動ではない。それは誰が見たって、安倍首相の憲法改正論である。エモーショナルな議論がいけないというんだったら、憲法の方が原発よりもっと問題が大きい。そして反原発と違って、改憲は首相自身が自ら訴えている。どうして安倍首相の改憲議論の方は批判しないのだろう。僕が感じた違和感はそれが一番大きい。それに各企業は毎日毎日、テレビ等でアイドルなどのCMで商品を「エモーショナル」に宣伝している。それは問題にしなくていいのか。

 そもそも人間は感情を持つ動物なんだから、エモーショナルな議論を全否定するのはおかしい。何も8年目の「3・11」に、「原発反対はエモーショナル」なんて言うべきなのか。人間の情として理解できない。まだ多くの人が避難を余儀なくされている。それと同時に、中西会長の出身母体の日立製作所こそ、原発メーカーであるという問題がある。利害関係者なんだから、経団連を代表して、つまり「財界の総意」と受け取られる立場で、原発の議論をしてもいいのだろうか。中西会長発言こそ、「秘められたエモーショナルな動機」がないと言えるのか。

 原発はどんどん再稼働しても、また稼働年数をできるだけ延長しても、やがて期限がくる。だから、本当に今後もずっと原発にエネルギーを依存していくのなら、もう次の原発を作る計画を進めないといけない。でも「エモーショナルな反対」がある日本において、どこに新原発を作ることが可能だろうか。それに原発のエネルギー源であるウランが日本に豊富に出るわけでもない。原油と同じく、輸入していることに変わりない。自動車の排ガス規制の歴史を考えても、厳しい規制を科すことにより新技術が発展した。それをクリアーして日本の自動車産業も世界に発展できた。

 このままでは日本に自然エネルギー技術が育たない。外国で発展したものを追いかけることになってしまう。コンピュータで起こった歴史が繰り返される。経団連会長が心配するなら、そっちのほうではないか。大分前に書いたことだが、電気は発電するだけではない。送電して各家庭や各工場に届いて初めて意味がある。その「送電ロス」が大きい。また食品のように「冷凍」しておけない。でもバッテリーの機能が充実して、電気自動車もできるようになった。「省エネ」「電池」「送電」の大技術革新こそ必要で、そういう大きな視野での発言こそ、経済界のリーダーに必要だろう。
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映画「天国でまた会おう」、大ロマンを味わう

2019年03月14日 21時15分25秒 |  〃  (新作外国映画)
 続けて外国映画の話。東京ではシャンテ・シネで単館上映しているフランス映画「天国でまた会おう」。「ビール・ストリートの恋人たち」を見たとき、あまりヒットしないだろうと書いたけど、この映画こそ3月1日公開で21日に上映終了となる。もう最終週は一日2回上映である。まあ知名度の問題もあるし、内容的にも受けないだろうなあとは思った。でも絢爛豪華な大ロマンにして、第一次世界大戦から始まる反戦、反権威の大作だ。原作はゴンクール賞を取り、フランスでは映画も大ヒット。そういう前提知識がないと、どんな映画かも判らないだろうが、息を継がせぬ面白さだ。

 原作に関しては、ピエール・ルメートルの作品をまとめて読んで、つい最近記事を書いた。『「天国でまた会おう」「炎の色」-ピエール・ルメートルを読む』を参照。あまり原作に触れてないけど、ストーリイを紹介しない方が面白い。でも一応、映画館の紹介をコピーしておく。

 1918年、休戦を目前にした西部戦線で、二人の兵士の運命が交わる。上官の悪事に気付き戦場に生き埋めにされたアルベールを、年下の青年エドゥアールが救ったのだが、その時に顔に重傷を負ってしまう。どんな事情なのか「家に帰りたくない」と訴えるエドゥアールのために、アルベールは彼の戦死を偽装する。パリに戻った二人を待っていたのは、戦没者は称えるのに帰還兵には冷たい世間だった。仕事も恋人も失ったアルベールと、過去と縁を切ったエドゥアール。そこに、声を失ったエドゥアールの想いを“通訳”する少女が加わった。一度は負けた人生を巻き返すために、彼らは国を相手にひと儲けする大胆な詐欺を企てる。

 映画は原作と少し違っている。それは原作を読んだ人にしか関心がないだろうから、ここでは書かない。変えてもいいし、面白く変わった点もあると思う。長い小説は映画化に際して、「筋立てを追う」ことに注力せざるを得ない。ある程度原作の設定を変えないと、話が混乱してしまう。その意味では、この映画も原作を読む方がもっと面白い。ただ語り手の兵士、アルベールが古参兵になっている点だけは書いておく。原作はエドゥアールと同年代である。それはアルベール役のアルベール・デュポンデル(1964~)が監督もしているからだろう。自作自演するために主人公の年齢を上げてしまったわけだが、やはりそれは原作通りの方がいいかなと思う。

 戦争で顔を損傷したエドゥアール(ナウエル・ペレーズ・ビスカヤート)は仮面をつけるが、それは映画でこそよく判る。なるほどすごい迫力だ。演じた俳優はアルゼンチン生まれで、エイズ初期の患者運動を描いた「BPM」で印象的な役をやっていた。この映画はフランスのセザール賞で監督賞を得たが、作品賞を得たのが「BPM」だった。エドゥアールの姉、マドレーヌエミリー・ドゥケンヌという人だが、ダルデンヌ兄弟のカンヌ、パルムドール作品「ロゼッタ」のタイトルロールの少女だという。その他、上手な脇役がそろっているが、名前で客を呼べるような人がいない。
 (仮面のエドゥアール)
 原作自体が「大ロマン」を目指す三部作の始まりである。戦場シーンから始まり、壮大なエドゥアールの一族の館、戦死者の墓、壮大な慰霊碑詐欺作戦。趣向は面白すぎるぐらいそろっている。また「国家」とは何か、戦争とは何かを考えさせる作品でもある。全体的には流れるような映像の迫力に酔うような時間を過ごした。是非紹介しておく次第。面白さだけなら、ここ数日に書いた中では「女王陛下のお気に入り」と並ぶ作品だ。
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映画「ROMA/ローマ」(アルフォンソ・キュアロン監督)を見る

2019年03月13日 23時07分01秒 |  〃  (新作外国映画)
 2019年のアカデミー賞で監督賞、撮影賞、外国語映画賞を受賞したアルフォンソ・キュアロン監督の「ROMA/ローマ」。Netflix(ネットフリックス)が配給する作品として、初めてヴェネツィア映画祭金獅子賞を受賞して評判になった。知名度の高い俳優は誰も出ていない、135分のモノクロ映画。今時そんなものを作れるのか。アメリカでは限定的に劇場公開されたようだが、日本では東京国際映画祭でちょっと上映されただけで、ネット配信されていた。大スクリーンで見ることは叶わないのかと思っていたら、全国のイオンシネマ(一部を除く)で上映されるという。
 (ラスト近くの海のシーン)
 これは逃すまじと思って調べてみる。そもそもイオンシネマってどこにあるんだ? イオンモールにあるらしく都心部にはない。どこも遠いうえに、上映時間が朝や夜に限られている。中でイオンシネマ春日部とうところが近いらしい。午後の上映もあるし、家から電車で一本なので、そこまで行くことにした。けっこう広いスクリーンになんと観客9人とは、この企画は失敗なのか。でもチラシもないんだから、やむを得ないか。まあ宣伝広告費も掛けてないんだから、良いのだろうか。東京でアート系のミニシアター(ユーロスペースなど)で企画した方が良かったのかもしれない。

 それはともかく映画の内容。「ローマ」というけど、イタリアの首都じゃなくてメキシコシティの中産階級地区の名前だというのは、この映画を見る人には判っている。けっこう広い家で家政婦が2人いる。日本基準だと上流という感じだが、父親は医者だというから確かに中流なんだろう。そこの家政婦であるクレオヤリッツァ・アパリシオ)の目を通して映画は進行する。監督の体験に基づくシナリオで、4人いる子どもの一人が監督だという話。アルフォンソ・キュアロンは、なんと監督、脚本、撮影を兼ねていて、その3部門でアカデミー賞にノミネートされた。(他に製作と編集もやっている。)キュアロンはパンを多用し、落ち着いたモノクロ映像で撮影している。

 映画は最初のうち、淡々とクレオの仕事を見つめている。現代の話ではなく、1971年と時代が限定されることがそのうち判ってくる。クレオは貧しい村から出て来た身で、たまの休みにはいとことダブルデートしたりする。フェルミンとは映画を見ず、部屋を借りて結ばれる。フェルミンはちょっと変わっていて、クレオを前にして真っ裸で武道を披露する。終わった後で「ありがとうございました」と日本語で言うから驚いた。そういう武道に熱中しているのである。

 クレオは妊娠してしまったが、フェルミンは消える。地主の家に集まったり、さまざまなエピソードを描き出してゆくが、勤めている家もおかしくなってくる。カナダに研究で行くという父が、そのまま帰ってこない。どうも愛人のもとへ行ってしまったらしい。一方、クレオはフェルミンのいる場所探して訪ねるが、そこは大々的な武道鍛錬をするところだった。フェルミンは責任を認めず、もう来るなと言って去る。クレオを見下す言葉を残して。クレオも、雇用主のソフィアも男にひどい目にあるが、二人と子どもたちは心を通わせて生きて行く(だろう)というところで映画は終わる。

 妊娠中のクレオを連れて、ソフィアの母が子どものベッドを買いにいく。その日は街頭でデモが行われて混乱している。そこへ突然銃声が聞こえる。追われた学生が家具店に逃げ込み、そこへ武器を持った男たちが押し寄せ残虐に殺してしまう。その男たちの中にフェルミンがいて、クレオと見つめあう。クレオは破水して、急いで病院に向かうが街は渋滞で車が進まない。クレオの悲劇を演じるアパリシオの演技がすごいヤリッツァ・アパリシオ(1993~)は演技体験ゼロでアカデミー賞ノミネート。演技だけを純粋に評価するなら、アパリシオに主演女優賞を贈りたい。

 このシーンは1971年6月10日の「血の木曜日事件」を描いている。フェルミンが所属するのは「ロス・アルコネス」という政権支持の暴力集団だという。1968年のメキシコ五輪直前の「トラテロルコ事件」(学生ら約300人が殺害された)と並ぶ強権的弾圧事件である。監督はこれを描きたかったのか。ラストで大きな車を売ってしまう記念に、家族は海へ出かける。奇しくもカンヌ最高賞の「万引き家族」でも、皆で海へ行く忘れがたいシーンがあった。どちらも素晴らしいシーンだと思う。
 (アルフォンソ・キュアロン)
 モノクロが美しいという声が高いが、僕の見るところでは宮川一夫スヴェン・ニクヴィストの方が素晴らしい。自伝的要素が多いからか、ドラマ的には抑制されていて、案外淡々と進む。キュアロン(1961~)は、「ゼロ・グラビティ」以来5年ぶりの新作。ハリウッドでいろいろ撮ってきたが、メキシコを舞台にした「天国の口、終りの楽園。」が一番素晴らしいと思う。やはりメキシコに語りたいことがあるということなんだろう。賞レースでは過大評価の気味もあると思うが、忘れがたい佳作には違いない。ネット配信作品をどう考えるかなど論点は多いが、長くなったので止めたい。
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映画「金子文子と朴烈」を見る

2019年03月12日 23時12分38秒 |  〃  (新作外国映画)
 韓国映画「金子文子と朴烈」が公開されて評判を呼んでいる。この映画を見る前は実はちょっと心配があった。イ・ジェンイク監督(ジェニクと表記すべきだと思うがパンフに従う)の前作「空と風と星の詩人」という詩人尹東柱の伝記映画では、特高刑事が「アウシュビッツを知っているか」と尋問するし、独立運動家は「日本海軍はミッドウェーで空母4隻を失った」となぜか帝国海軍の最高機密を知っている。当時としてはありえない事実が多いのである。

 東京で上映している渋谷のシアター・イメージフォーラムは、ロブ=グリエやキドラック・タヒミックの特集上映があったので、僕はこの映画の予告編をずいぶん見た。そこでは関東大震災当日に、大臣が「震度7.9の大地震が発生しました」と報告している。震度とマグニチュードの違いぐらい、日本だったら中学生なら知ってる。さすがに地震の無い韓国らしいセリフだけど、これじゃ見る前に心配になる。実際、映画の地震シーンでは、1階が倒壊せず2階が崩壊するなど不自然な描写がある。(なおマグニチュードという概念は関東大震災当時にはなかった。)

 しかし、映画を見たらそのような心配はほとんど杞憂だった。もっとも「歴史そのまま」ではない。ドラマを判りやすく進めるために、事実を簡略化し改変した設定もある。歴史ドラマでは事実通りに描こうとすると、画面に注を付けないといけない。だから、ある程度の工夫は許されると思う。この映画では戒厳令を布くために、震災当日の内務大臣、水野錬太郎が朴烈らの集団に罪を着せる陰謀をたくらんだと描いている。そういう視点もあり得ると思うが、すべてを水野一人に負わせるのは歴史事実に反する。でもドラマ上は「大日本帝国」の悪を象徴する役柄も必要だ。

 映画はすべて東京で進行する。大きなセットが作られているが、どうも現実感がない。そこに朝鮮語と日本語が飛びかう「社会主義おでん屋」(実在の店で、今も日比谷に「いわさき」という店として続いている)という店があり、無政府主義集団「不逞社」の面々が集う。そこで「私は犬ころである」という詩を読んだ金子文子チェ・ヒソ)がこの詩の作者は誰と聞く。「パギョルだよ」と言われて、文子は「パク・ヨル?」と答える。チェ・ヒソがあえて、日本人風に発音しているのが見どころ。
 (朴烈と文子)
 この映画を成立させているのは、明らかにチェ・ヒソの存在感だ。金子文子については、去年自伝を読み直して『「金子文子「何が私をこうさせたか」再読』を書いたので、そちらを参照して欲しい。過酷な少女時代を生き抜き、朝鮮で三一独立運動も見た。その躍動する精神と肉体をチェ・ヒソが生き生きと演じる。父の仕事で日本やアメリカに住んだことがあり、日本では大阪の建国小学校に在学した。そのため日本語セリフに違和感が全くない。それだけでなく、監督とともに日本語文献も調査したそうで、映画への貢献は大きい。韓国最高の映画賞、大鐘賞で主演女優賞と新人女優賞をダブル受賞したのも当然だろう。
 (チェ・ヒソ)
 映画の原題は「朴烈」(박열)で、英語題は「Anarchist from The Colony」、大阪アジアン映画祭では「朴烈 植民地からのアナキスト」と題されていたという。公開に当たって「金子文子と朴烈」と金子文子が加わった。それは日本での知名度や映画内容を考えてのことだろうが、「アナキスト」が抜けたのは残念だと思う。ウィキペディアでは「民族主義者朴烈」と書いているが、これは大間違い。アナーキストなんだから、大日本帝国だけじゃなく、大韓帝国だって否定の対象だ。そもそもあらゆる国家と権力に反対する。そのような朴烈を「民族主義的に解釈する」ことが心配だったのだが、映画はきちんと描いていると思う。何より画面を自由な風が吹いている。

 震災が起き、朴烈らは警察に拘束される。当初は「保護」の意味合いもあったが、やがて取り調べが進むと、「大逆罪」がでっち上げられてゆく。その過程はよく描かれていて、日本側の陰謀だけではなく、朴烈の文子への気遣い、文子の熱い思いが納得できる。爆弾を入手しようとしていたのは事実だが、現実の計画とは言えない段階だった。しかし、朴烈らは大逆罪を受け入れ、朝鮮人が皇太子を目標にするのは当然じゃないかと法廷で叫ぶことになる。後半はほとんど獄中と法廷シーンだが、緊迫感が持続し目を離せない。

 監督のイ・ジュンイクは、「王の男」(2006)で大鐘賞作品賞と監督賞を受けている。今回、2度目の監督賞を受賞したが、作品賞は「タクシー運転手」だった。朴烈はイ・ジェフン が熱演している。水野錬太郎は「お嬢さん」などのキム・インウ。裁判長を金守珍、立松検事をキム・ジュンハンなど在日経験がある人が演じていて日本語セリフに違和感がない。布施辰治弁護士の山之内扶(やまのうち・たすく)は韓国で活躍する日本人俳優だという。
 (実際の朴烈と金子文子)
 ただ金子文子の死後、獄中で朴烈が「転向」した事実は触れていない。日本の敗戦後、「反共」の立場から「在日本朝鮮居留民団」の会長となるも、反発も受けて会長を再選されず韓国に帰った。朝鮮戦争で北朝鮮軍の捕虜となり、北に連行された。その後、一時は公職に就くものの、1974年に死亡したという。批判を受け、スパイとして処刑されたとも言われるが、映画は「朴烈のその後」に全く触れていない。なお、予告編に流れる歌曲は何だろうと思っていたが、パンフの加藤直樹氏の文で、戦前に活躍した有名なダンサー、崔承喜の「イタリアの庭」という曲と知った。1936年の曲で時代はずれている。懐かしい感じがとても効果を挙げている。崔承喜も北へ行って死んでいる。
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