尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

村上春樹「騎士団長殺し」を読む①

2017年05月31日 22時51分06秒 | 本 (日本文学)
 3カ月ぐらい放っておいた村上春樹の新作長編小説「騎士団長殺し」をようやく読んだので、そのまとめ。放っておいたのは、一言で言えば長そうだからということになる。読んでみたら、やっぱり長かった。もちろん、2巻合わせて千ページを超える本だと判っているから、長いのは当たり前だがそれだけでもない。今までの小説と少し感触が違い、叙述は悠々と大河のように進んでいくのである。90年代頃までのように、「この小説は自分のために書かれた本だ」といった感じはもうしない。世界的な大作家になって、悠々たる大作をものするようになっている。

 この「騎士団長殺し」は、とても面白く魅力的な小説ではあるけれど、僕には結構判らないことも多いし疑問もある。疑問の方は次に回して、まずは小説の成り立ちを簡単に。いつも不思議なことがたくさん起きるハルキワールドだけど、もちろん今回も同じである。だけど、その様子は今までとちょっと違う。村上春樹の長編小説は、特に21世紀に発表された「海辺のカフカ」「1Q84」はともに、二つの違う視点の物語が交互に語られる構成になっていた。しかし、今回の「騎士団長殺し」は時間が現実世界で直線的に進む物語で、不思議なことも起こるけど、現実世界の枠組みは否定されない。

 違うと言えば、初めて「私」という一人称を使っていることで、まあ外国語に翻訳すれば同じかもしれないが、日本語表現ではかなりニュアンスが違う。清水義範の傑作「国語入試問題必勝法」を思いだしていえば、この「騎士団長殺し」とは、要するに『私』に「いろいろあった」という話である。いろいろの中身を書くと、これから読む人の興を削ぐからここでは書かない。ただし、「騎士団長」とはモーツァルトのオペラ「ドン・ジョヴァンニ」の登場人物で、「騎士団長殺し」とは、主人公の「私」が見つけることになる日本画家雨田具彦の知られざる傑作の題名。その絵を見つけてから不思議なことが続く。

 書評で言われているように、この物語の中では今までのハルキワールドのアイテムが総動員される感じで、その意味では「またかよ」的な既視感もないではない。だから「ハルキ入門編」(斎藤美奈子)とも言われるわけで、まあ「総決算」(あるいは「二番煎じ」)とも見えかねない。特にいつも出てくる「」の存在、これは「ねじまき鳥クロニクル」など多くの小説に共通する。妻に離婚を切り出され、再び妻のところに戻るまでという意味では、やはり「ねじまき鳥クロニクル」。謎を突き詰めていくと、過去の戦争の傷に向き合わざるを得なくなるのも、「ねじまき鳥」や「海辺のカフカ」と似ている。

 「不思議な妊娠」の物語と言えば「1Q84」を思わせるし、「生霊」をめぐる物語という意味では「海辺のカフカ」。(さらに「源氏物語」と「雨月物語」。)「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」では、「色彩を持たない」とは「友人どうしの5人組の中でただ一人、赤や青など色名が姓に付いてない」という意味だったけど、「騎士団長殺し」ではもっと進んで主要登場人物に「免色」(めんしき)という不思議な姓の人物が出てくる。白髪で真っ白なジャガーに乗って登場する、本物の「色彩を持たない」人物である。この免色は「私」が住む山の屋敷から見える向かいお屋敷に住んでいる。海と山とは違うけど、その構図は(村上春樹が翻訳している)フィッツジェラルドの「グレート・ギャツビー」と同じ。

 「海辺のカフカ」もそうだったけど、「騎士団長殺し」でも上田秋成の影響が見える。ここでは名前も明示されていて、登場人物が「春雨物語」を読んで似ていると語り合う。それは地面の底から不思議な鈴の音が聞こえてくるということで、秋成の本では大昔に即身成仏を求めて地底で断食してミイラになった僧が、魂だけ残っているというような設定である。これは最近見た鈴木清順監督のテレビ作品、「恐怖劇場」のために作られた「木乃伊の恋」の原作だ。(「木乃伊」はミイラと読む。)清順作品ではホラーというより、途中からコメディタッチになってしまうけど、この小説ではもっと不思議な展開になる。

 それではこの小説は、過去の村上春樹作品と似ているのか。必ずしもそうではない。まず第一に、小説内の時間や地名がある程度はっきり書かれているということである。主要なドラマは、画家の「私」が借りて住むことになる小田原の雨田邸である。妻に離婚を切り出された「私」は、ショックを受けて自動車であてもない旅に出る。北海道から東北各地を回り、何も起こらないような日々が続くが三陸の港町(名前は出てこない)でちょっとした出来事がある。車が壊れて東京へ戻るが、住む場所がない「私」は学生時代からの友人雨田政彦から小田原の家を紹介される。彼は有名な日本画家雨田具彦の子どもで、具彦はもう90を超えて認知症が進み、伊豆高原の施設に入っているのである。 

 途中の叙述でこれが21世紀の話だと判るが、最後の最後で「東日本大震災の数年前」と時間もはっきりする。「私」は36歳なので、2006年の話だとすると、「私」や雨田政彦は1970年生まれとなる。雨田具彦の弟は、20歳の音大生の時に、なぜか日中戦争に召集され南京戦に従軍したとされる。となると、弟は1917年生まれとなり、雨田具彦はその数年前の生まれ。1915年生まれだとすると、1970年には55歳となる。留学中のウィーンでヒトラーのオーストリア併合にあい、事件に巻き込まれた。戦後になって日本画に転向し高く評価され、遅い結婚をしたとあるから、まあ時系列の整合性はある。

 こうして最後に至って「ポスト3・11小説」の相貌も見せてくる「騎士団長殺し」なのである。この小説では最後に不思議なことがいろいろ起こるが、現実界での時空間に回収されるのである。そして「私」は現実世界で子どもとともに暮らしている。「1Q84」もそうなるのかもしれないけど、明確には書かれていない。「海辺のカフカ」も最後に現実世界に戻ってくるけれど、その後に関しては書かれていない。では、どうして「後日譚」まで書かれたのか。それは村上春樹も年齢を重ねたということでもあるだろうし、「3・11」の衝撃が日本の作家に残した傷跡でもあると思う。

 村上春樹は珍しく各紙のインタビューに答えて、ナチスのオーストリア併合や南京大虐殺は「歴史は集合的な記憶だから、忘れたりつくり替えたりするのは間違っている」(4.2東京新聞)と語っている。歴史修正主義的な動きには「物語という形で闘わなければならない」と明言している。朝日新聞のインタビュー(4.2)でも「この物語の中の人は、いろいろな意味で傷を負っている。日本という国全体が受けた被害は、それとある意味で似ている。小説家はそれについて何もできないけれど、僕なりに何かをしたかった」と語っている。それがうまく成功しているかどうかの判定は別にして、登場人物、あるいは作家は日本という「世界」の傷を負って闘っている。それがこの小説なんだと思う。

 それにしても、絵について、音楽について、小説について、さらに自動車や酒や食事について、この小説では実の多くのことが語られる。それは単にペダンチック(知識をひけらかす)なものではなく、主人公の生き方や世代的な情報を示すものでもあり、また物語の伏線になっているものもある。だから、ゆるゆると楽しみながら読めばいいんだと思うし、関心のない分野はスルーしてもいいのではないかと思う。だけど、ある意味では主人公は「時代離れ」している。雨田邸では雨田具彦が残したクラシックのレコードばかり聞いている。テレビもインターネットもない。ケータイ電話も持たない。友人の雨田政彦も車ではカセットを聞きたいという理由で、古い車を買い替えない。

 「似た者同士」ということで説得力がある。僕もさすがにCDは聞けるようにしているけれど、CDプレーヤーを買う前に何十枚のCDを買っていた。(今もDVDが見られないのに、何十枚もDVDを持っている。)車ではカセットやラジオを聞く方が好きだった。(今は車はないけど。)だけど、これがつまり「伏線」で、登場人物が行方不明になっても、あるいは様々なトラブルを抱えても、ケータイ、スマホ、パソコンなどで連絡可能だというのが現代社会である。この物語の最大の謎は、主人公と、彼の知り合いの少女のゆくえが判らなくなるという設定だが、「ケータイがない」という説得的な理由をそれまでに作っておかなくてはいけない。それには成功しているだろう。(ところで、僕も車は全然判らないので、参考資料として写真かイラストがあるとうれしいと思った。)
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館林うどんツァー参加記

2017年05月28日 20時46分07秒 |  〃 (温泉以外の旅行)
 群馬県館林市は、家の墓があるところで小さいころから何度も行っている。最近は「猛暑」の町として関東地方のニュースにはよく出てきて、最近も全国で今年初の猛暑日(35度以上)を記録した。昔から「うどん」の町で知られていて、その館林に麦をめぐる日帰り旅行プランに参加してみた。

 館林のうどん名店としては「館林うどん」があるのだが、最近は「花山うどん」の五代目が頑張って東京に店を出して大繁盛だという。ホームページを見ると、歌舞伎座の真裏あたりで名物の「鬼ひもかわ」を中心に頑張っている。(検索しようと、「はなや」と打ち込んだだけで、「華屋与兵衛」(外食チェーン)や「花やしき」(浅草の遊園地)を超えて、検索予測の1位に出てきたんで驚いた。)

 製粉ミュージアムや正田醤油記念館を先に見たんだけど、その話は後に回して、最初にお昼に食べた3種のうどん。下の写真で上に載ってる、超幅広のうどんが「鬼ひもかわ」である。一度途絶えていた製法を五代目が復活させて、今や麺グランプリなんかで大評判らしい。凄い存在感なんだけど、このあまりの太さは箸で持ちにくい。その下のピンク色の麺は、館林うどんの「さくらうどん」、もう一つ「まるなかうどん」の手打ち。これがとてもうまい。つゆは普通のもりつゆと温かい肉汁。天ぷら付き。

 そのあとで、同じ会場で「うどん打ち」体験と「利き醤油」。うどん打ちと言っても、粉から練っていては間に合わないから、その過程は終わっている。練って寝かせたうどん玉があって、それを打ち粉をまぶしながら薄くなるまで伸ばして、三段に折りたたんで切る。麺が好きなくせに自分で打とうと思わないんだけど、案外面白かった。「利き醤油」というのは、一度にうどんができないから、半分の人は豆腐に各種正田醤油をかけて食べ比べ。カレーとかハーブ、タイ風などの「正油」(と書いてある)もあって、これがおいしい。やってる間は撮ることも忘れているので、写真はなし。

 この日は東武線の特急「りょうもう」に北千住から乗り、館林へ。駅長と館林のゆるキャラ「ぽんちゃん」が出迎え。そのあと、西口真ん前の「製粉ミュージアム」へ。誰でも名前を知ってる日清製粉は、もともと明治にできた「館林製粉」だった。その日清製粉が作った博物館だけど、世界的にも珍しいという。小麦粉から作られたものは毎日のように食べているけど、「」については案外知らない。そういうことを教えてくれるミュージアムである。まあ機械についての細かい説明は今省くけど。
    
 本館にある機械展示も面白いけど、やっぱり見どころは1910年に建てられ事務所として作られてきた「本館」のレトロ感だ。製粉所を開いた正田貞一郎(1870~1961)の肖像もあれば、会社を継いだ三男の正田英三郎夫妻の肖像もある。(今の皇后の父母にあたる。)英三郎の使っていた机といすもあり、椅子に座ることもできる。小さいけど興味深い場所だった。
   
 外へ出ると日本庭園もあって、なかなか奇麗で雰囲気がいい。レトロ感あふれる建物は写真映りがいいので、とてもいい場所だと思う。外の写真を何枚か。
  
そこから歩いて数分、正田醤油の本社と正田記念館がある。記念館は予約すれば平日に見られるというけど、本社はなかなか見られない。記念館はよくある会社の資料館なんだけど、日清製粉の正田家との関係系図が最初に出ている。要するに貞一郎の本家筋にあたるということである。貞一郎は明治初期に正田醤油に勤務して、それまでの大福帳を複式簿記に変更した。その大福帳と最初の簿記が展示されている。両者が置いてあるのは案外珍しいんじゃないか。
 (正田記念館)
 それより面白かったのは本社で、昔の蔵があるからそれを利用しようという一階建ての本社というアイディア。中の開放感あふれるムードにビックリする。醤油を醸造する樽は大胆に切って、商談もできるスペースに。写真の2枚目が本社内部で、3、4枚目が樽スペース。ところで別棟に行くとホールもあり、ギャラリーまであった。そこにはアンディ・ウォーホルを中心にジャスパー・ジョーンズ、サム・フランシス、リキテンシュタイン、ジャクソン・ポロックなんかの絵がかかっていた。ところで、本社に商品がズラッとおいていあるんだけど、その中にタバスコがある。正田醤油と何の関係があるのかと思って聞いてみると、日本での輸入元なんだそうだ。丸亀製麺は正田醤油を使っているという話。
   
 そこからバスに乗って、多々良沼近くの農園へ。いちご狩りをしているところだけど、麦も作っている。今まさに麦秋(ばくしゅう)を迎えている。もう小津の映画の題名でしか接しないような言葉だけど、北関東一帯には麦作地帯が多い。そこへ行って、麦穂摘み体験という趣向である。下の一枚目の写真を拡大して見ると、近くはまだ青いけど、遠くの方が黄色になっている。それは種類が違うからで、向うの黄色いのは大麦で、ビール用。近くのまだ青いのが小麦で、うどん用という話だった。穂を見ても全く違うし、うまく言えないけど、小麦は外へはじけるようで、大麦は平べったく並んでいる。2.3枚目は小麦で、最後が大麦。まあ、よく判らないと思うけど。
   
 これで見学が終わり、最初に戻る。最後の最後に「ぽんぽこ」という物産館で買い物。ここに正田の「カレー正油」があったので買ってみた。これはとてもいいと思う。サラダなんかに掛ければ、それだけで味付けになるし、チャーハンなんかにも合いそう。ネット通販では買えるらしいけど、全国に受けると思うけどなあ。タバスコと一緒に売ればいいのに。ところで、東京は27度というから猛暑を覚悟して行ったら、なんだ涼しいではないか。よくニュースでに出てくる駅前の気温表示板は、夕方には21度だった。昨日作ったうどんは先ほど食べたけど、大変おいしかった。でも一人で打った分を二人でも食べきれない、明日は焼うどんで。銀座の花山うどんにも、今度は行ってみよう。
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加計学園問題、前川発言をめぐって

2017年05月26日 21時34分45秒 | 政治
 岡山にある加計(かけ)学園が愛媛県今治市に獣医科大学を新設するという問題。けっこう問題が複雑なので、今まで書かないできた。それに問題の中身も大事だけど、本来なら「森友学園」問題だけでも安倍内閣の支持率が激減してもおかしくない。それなのに今もまだ高い支持率が続いている。それは何故かという大問題が判らない限り、加計学園問題を書いても同じことだと思った。

 ところが文部科学省内部に「総理のご意向」と書かれた文書があったという報道があった。「国家戦略特区」を担当する内閣府とのやり取りを記録したものだという。しかし、文部科学省が「調査」したところ、文書は「確認できなかった」という話。ところが、25日に前川喜平前文部科学事務次官が記者会見して、その文書は自分が在任中に見たもので、文部科学行政がゆがめられたと批判した。

 ここまでは前置き。一応問題の経過を簡単におさらい。この問題に関して、いくつものことをいろいろ感じ、考えた。そのことを雑多に書いておきたい。まず「文書は実際に存在する」ということである。これは全く疑う余地がない。「怪文書のたぐい」と菅官房長官は言っているが、ならば「公文書偽造」である。前川氏を証人喚問し、偽証で告発すればいい。だけど、証人喚問の必要はないなどと政府、自民党は言い張っているんだから、ホンモノと「自白」しているに等しい。

 ところで、ある人がこういう発言をしている。「重大性への認識が欠けていると言わざるを得ない。隠蔽(いんぺい)と指摘されても当然だろう。」発言したのは、義家弘介文部科学副大臣である。えっ、そんなこと言ってるのと思うかもしれないが、実は話には前段がある。「5月に入り、文科省の指導で市教委がいじめと認識した」と言っていて、これは仙台市のいじめ自殺問題に関する発言なのである。でも、「まず文科省自身の隠ぺい体質をただすべきだ」と思う。文科省そのものが、「強いものには従って、真実に目を閉ざす」のだったら、教育に携わる資格がない。(もっとも前からだが。)

 ところで、前川前次官に対して、菅官房長官は口を極めて個人攻撃をした。天下り問題で辞任したことで、「地位に恋々としていた」とか。しかし、文書の存在の有無と、前次官本人の問題は無関係である。そして、今週の週刊文春に記事が掲載される前に、読売新聞が「前次官が出会い系バーに出入りしていた」という記事が出たという。それは事実だと本人も認め、「女性の貧困問題の研究」としている。しかし、動機が正しいかどうかは僕にはあまり関心がない。なぜなら、勤務時間終了後の私的時間だからである。それより何でそのことを知っている人がいるのかと思う。

 そのことに関して、杉田和博内閣官房副長官から注意を受けたという。この杉田という人は、とても興味深い経歴の人物である。元警察官僚だというのは僕も知っていたが、1941年生まれで、現在76歳なのである。警察庁の公安第一課長や人事課長、警備局長を務め、最後は内閣危機管理監で2004年に退官している。そういう人物が第二次安倍内閣になってから、71歳で重職に付いた。この、公安、情報関係に専門的に関わってきた人物が、なぜだか文部官僚トップの私生活を知っていた

 前川氏がそこで何をしていたかという問題より、僕には杉田氏がそれを知ったという事実の方がより問題じゃないかと思う。そして、週刊誌の取材を受け、時の政府に不利な発言をするという時期には、政府よりの新聞で報じられる。日本はすでにそんな恐ろしい国になっていたのか! この安倍内閣が特定秘密保護法を制定し、いままた「テロ防止」の名目のもと「共謀罪」を通そうとしている。 
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映画「マンチェスター・バイ・ザ・シー」は傑作だけど…

2017年05月24日 23時03分31秒 |  〃  (新作外国映画)
 誕生日直近ということで、久しぶりに夫婦で映画を見て食べてこようと「マンチェスター・バイ・ザ・シー」を見た。昨日のことなんだけど、国は違うけれど同じマンチェスターでテロ事件が起こり(日本では「共謀罪」が衆院を「通過」し)、なんだかこれほど暗い映画の話を書く気になれなかった。(なんでその映画にしたのかと言われるかもしれないが、株主優待なんだから仕方ない。)でも、間違いなく傑作だし、「映画って何だろう」ということを考えさせられたので、そういうことを書きたい。

 マンチェスター・バイ・ザ・シーは、アメリカ東北部マサチューセッツ州の海辺にある小都市である。マンチェスターと言えば、イングランド北部の町がすぐ思い浮かぶ(つい「マンチェスター&リヴァプール」って口ずさんでしまう)。でも、アメリカにも同名の町がニュー・ハンプシャーとコネチカットにあって、マサチューセッツの町は海に面しているから、「バイ・ザ・シー」と呼ぶということだろう。

 映画はそこで育った二人の兄弟の人生を描いている。弟のリー・チャンドラーは過去につらい思い出があり、マンチェスターを去って、ボストンで便利屋をしている。兄のジョーは心臓が悪く、ある日リーに心臓発作で兄が緊急入院と電話がある。急いで帰るが兄は死んでいて、遺言は一人息子パトリックの後見人にリーを指定していた。リーはボストンで暮らそうというが、パトリックは友だちがいるマンチェスターを動きたくない。じゃあ、リーが帰ってくるしかないのか。

 海辺の町の冬から夏の季節の移り変わり、ちょっと寒そうだけど美しい海辺の町。兄の元妻、リーの元妻、パトリックのガールフレンド(二股中)、パトリックの属するアイスホッケー部やロックバンド。そんな人々をじっくり描きながら、焦点は「リーは過去を乗り越えられるのか」にしぼられてくる。多くの物語では、「様々な人々に支えられながら、何とか新しい道を歩みだす(かもしれないな)」的な終わり方をすると思うけど…。でも、この映画ではあまりにも大きな悲劇、辛すぎる体験と自責の念、本人の持っている人交わりの難しそうな性格。それらがない交ぜになり、どうもうまく行かない。

 どうにもうまく行かない「壊れてしまった男」を演じたのはケイシー・アフレックで、今年のアカデミー賞主演男優賞を獲得した。これほどうつろになってしまった人間を見るのは珍しい。大変な力演で、アンドリュー・ガーランド(ハクソー・リッジ)やライアン・ゴズリング(ラ・ラ・ランド)を押さえてオスカーを受賞したのも全く納得できる。迫真の人間ドラマを書いたのは、監督も務めたケネス・ロナーガンで、アカデミー賞脚本賞を授賞している。作品賞、監督賞にもノミネートされた傑作である。

 映画っていうのは、やはり「物語」の役割が大きい。原作に有名な小説やマンガ、あるいは実話を選んで大宣伝している広告がいっぱいある。原作そのままだと長くなりすぎることが多く、人物を少なくするなどして巧みに脚本にまとめるシナリオ・ライターがまず必要だ。そして、主演の俳優をキャスティングし、監督が俳優や技術部門をコントロールしながら製作が進められる。だから映画賞では、作品賞以外に、監督や主演男女優、脚本などの賞が主要部門と言われるわけである。

 今年のアカデミー賞を見ると、作品と脚色が「ムーンライト」、監督と主演女優が「ラ・ラ・ランド」、主演男優と脚本が「マンチェスター・バイ・ザ・シー」と二つずつで相拮抗している。(アカデミー賞では、脚本賞はオリジナルもの、脚色賞は原作があるものと二つに分かれている。)まさにその結果にふさわしい作品だと僕も思うんだけど、映画自体としてはどうなんだろう。

 僕は話だけなら「マンチェスター・バイ・ザ・シー」が一番だと思う。もともとケネス・ロナーガン(「ギャング・オブ・ニューヨーク」などの脚本を書いた人)の脚本が素晴らしく、俳優のマット・デイモンが初監督する予定だったという。だが日程が合わずにデイモンはプロデューサーに回り、ロナーガン自身が監督することになった。どうもこの映画の魅力は脚本と主演男優によるところが非常に大きいように思う。

 この映画は助演男女優賞にそれぞれノミネートされた他、技術部門には一つもノミネートされなかった撮影、美術、作曲賞受賞は「ラ・ラ・ランド」。編集、録音賞受賞は「ハクソー・リッジ」。「ムーンライト」は撮影、編集、作曲賞にノミネートされていた。僕も見ていて、途中から編集や音楽がちょっと弱いなと思い始めた。撮影は悪くないと思うけど、「ラ・ラ・ランド」「ムーンライト」「沈黙」なんかに比べると、確かに超えているとは言えないだろう。「過去」の描写が重要な映画だけに、(それは現在を描く場面にインサートされるわけだが)、編集リズムに違和感があったのには困った。

 映画は映像だから、物語を描くときの映像、およびそのつなぎ方がやっぱり一番大事だなと思う。実はそういうことを感じたのだが、名作であることは間違いない。そしてもう一つ、商業映画としては異例なほど、未来への希望がない。そういうことが実際には結構あり、本人や周りが頑張れば必ずうまく行くなどとは僕も思わない。そうなんだけど、ここまで立ち直れない姿は正視しがたいほど。画面を見つめるだけしかできない。(またパトリックがけっこうテキトーにやっていて、父は病気、母はアル中で離婚、叔父は訳ありだって言うのに、部活にバンドに男女交際にと意欲的。だから「同情」の必要性が薄い。その分、リーの傷の深さが伝わる。)
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ウディ・アレンの「カフェ・ソサエティ」

2017年05月23日 22時58分00秒 |  〃  (新作外国映画)
 時間的にも気分的にも、あまり重いものを書きたくないので、ウディ・アレンの新作映画「カフェ・ソサエティ」のことを書きたい。これは先週見たんだけど、さすがにウディ、軽い中にもちょっとスパイスを効かせて、とてもいい。最近のウディ・アレンでは「ミッドナイト・イン・パリ」や「ブルー・ジャスミン」がベストテン入りしているけど、むしろベストテンに無縁な軽い映画の方にアレン映画を見る楽しみがある。

 ウディ・アレンはテレビ映画やオムニバス映画などを入れれば、もう50本ぐらい監督作品がある。フィルモグラフィを眺めてみれば、数本を除けば大体見ている。70年代から80年代の、作品名で言えば「アニー・ホール」から「ハンナとその姉妹」までの、本当に素晴らしい作品群はもう遠い思い出。そこを基準にすれば、軽い作品を80超えて毎年のように連発しなくても…という人もいるだろう。もっと練り上げた脚本で数年に一度、生涯ベスト級の挑戦をして欲しいというようなに…。

 でも、ウディ・アレンはそういう映画監督ではない。山のようにちょっと軽めのコメディを量産し続けてきた。そのすべてが、見ていて面白い。まあ、幾分「外したかな」というのもないではないが、すごいレベルを維持している。それがアレンの真骨頂で、僕はこういう作品をいつまでも楽しめればいいなと願っている。いつまでも旬の女優を使うのもさすがだと思う。

 「カフェ・ソサエティ」の描く時代は1930年代。ニューヨークのユダヤ人一家の末弟ボビーは、ハリウッドで成功した叔父のフィルを訪ねて映画業界で働きたいと望む。忙しい叔父は、秘書のヴォニーにハリウッド案内を頼む。スターの豪邸などを見て回るうちに、ボビーはヴォニーに一目ぼれ。でも、ヴォニーには付き合っている人がいるらしい。

 ヴォニーが別れたと聞き、誠実に口説くボビーに次第に心が動いていき…若い二人は付き合い始めるけど、ヴォニーの元カレは実は…。そしてすったもんだがあり、ボビーはハリウッドをあきらめニューヨークに戻る。兄はギャングでカフェを支配していて、姉は左翼の大学教授の妻。ボビーは兄の伝手で店で働き始めると、店を富裕層向けに改装し大評判となる。一躍成功者となったボビーは、店に来たヴェロニカと恋に落ち結婚。兄弟の様子を点描しながら、成功したボビーの前に再びヴォニー…。

 こういう筋書きを描いても、あまり意味はない。ハリウッドやニューヨークの様子をうまく描きながら、ノスタルジックなムードをかきたてていく。そして、「別れても好きな人」をめぐって、ちょっとビターな気分を交えて、オシャレな恋愛コメディが繰り広げられる。やっぱりアレンのホームタウンであるニューヨークを描くときは、街の美しさが違う。ユダヤ人家族を描く意味でも、昔のアレン映画っぽい。もちろん、かつてのように「すべての人が見るべき映画」じゃないだろうけど、ずっと見てきた人には懐かしくてウディ・アレンはいいなあと思う。

 ボビーはジェシー・アイゼンバーグで、誰だっけと思うと「ソーシャル・ネットワーク」でFacebookの創始者ザッカーバーグを演じてオスカーにノミネートされた人。顔に記憶があるはずだ。フィルのスティーヴ・カレルは「フォックス・キャッチャー」でオスカーにノミネートされた人。ヴォニーのクリステン・スチュワートは、「トワイライト」シリーズや「アクトレス」の人。ヴェロニカのブレイク・ライヴリーだけは見てる映画がない。今はネットで調べて書いたけど、昔は外国映画のスターの名をすぐ覚えたんだけど、最近は全く覚えられない。でも昔のスターはもっと簡単な名前が多かった気がする。
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村上春樹訳「卵を産めない郭公」&アラン・J・パクラ監督のこと

2017年05月22日 21時28分43秒 | 〃 (外国文学)
 ジョン・ニコルズ卵を産めない郭公」(村上春樹訳)が刊行されたので、さっそく読んでみた。村上春樹・柴田元幸両氏が英米文学の旧作を新訳、または再刊する新潮文庫「村上柴田翻訳堂」の企画である。その話は前に書いたけど、まさか村上春樹の新作「騎士団長殺し」が先に出るとは思わなかった。昨年末にはチャンドラーの「プレイバック」も出てるし、すごい仕事ぶりだ。

 つい「騎士団長殺し」より先に読んじゃったんだけど、僕は後で書くように映画化作品「くちづけ」を若いころに見ていて、なんだか懐かしくなったのである。でも、作者のジョン・ニコルズ(1940~)って誰だ? まったく知らない。解説セッション(村上・柴田の対談のこと)を読むと、ロバート・レッドフォードが監督した「ミラグロ/奇跡の地」という映画の原作、「ミラグロ豆畑戦争」というのが、代表作だという。ノンフィクションも多く、今はニューメキシコ州に住んで環境活動家のような存在らしい。

 映画はもうあまりよく覚えてないけど、大学生のカップルのピュアで傷つきやすい関係を切なく描いた佳作だったと思う。この本を読んでみると、やはりそういう話なんだけど、ヒロインのプーキーが魅力的というか、ぶっ飛んでいる。そのハチャメチャな生き様が、心に突き刺さるような青春小説である。1965年に出た小説で、60年代前半の大学が舞台になっている。この時代性が絶妙だという話が対談を読むと実によく判る。50年代の抑圧でも、60年代後半の反体制でもない時期。

 大学自体がすごくいい(学力的にも、学費的にも)という話が解説にある。ニューイングランドのアイビーなんだけど、かなり小さな大学らしい。それとアメリカの大学は「全寮制」で、全然日本の感覚と違う。主人公は大学へ入る前の夏休み(もちろん、9月が新学期である)、長距離バスの休憩時に高校生のプーキーに話しかけられる。もう突然、雷に打たれたように知り合うのである。そして手紙の連発。翌年気づいてみれば、近くの女子大にプーキーが入っていた。

 その後、怒涛の「恋愛関係」が始まってしまう。それはアメリカの学生寮の独特の風習と相まって、嵐のような乱痴気騒ぎの日々というしかない。それで学業は大丈夫なのかと思うと、やっぱり危なくなって休みも取らずにレポート漬けになる。それじゃプーキーと会えなくなるというわけで、すったもんだの末、プーキーが寮に押しかけてくる。もう誰もいない寮で、二人だけの日々が始まる。突然、プーキーがカラスに気を取られて、カラスを撃ち殺そうとなって、ライフルを持ち出す。一体アメリカはどうなってるんだと思うけど、学生寮を二人で占拠できて、そこには銃も置いてある。(銃弾は自分で買う。)

 そんな日々が続いていくうちに、次第に二人の心が離れていき…。青春のどんちゃん騒ぎの日々は永遠に続かない。二人はニューヨークに行ったりするけど、あの素晴らしい日々は戻ってこない。誰にでも(多かれ少なかれ)あるような、若いころのメチャクチャな日々。そんな時代をともに駆け抜けた一風変わった女の子。そのイメージが忘れられない残像を残す。こういう、傷つけあう青春の物語は世界中で書かれたと思うけど、アメリカはまた独特だ。

 ところで、ここでは政治やドラッグが出てこない。その話は最後の対談でなるほどと思った。でも、その代わりに嫌というほどアルコールは出てくる。時代からして、もちろん手紙や電話でやり取りしている。その時のドキドキ感を知らない世代には、この物語はどう感じられるだろうか。もう少し時代が下ると、ベトナム戦争が大きい。「いちご白書」みたいな学生生活になる。もっとも60年代前半にも「公民権運動」はあったわけで、この物語の主人公の位置が「優秀な白人学生」だったのか。

 というか、この小説の眼目は、主人公を置いてしゃべりまくる「プーキー」という女性にあるのだろう。久しぶりにあった彼女が思わず抱き着いてきたため、主人公が倒れて頭を打ち病院で何針か縫う羽目におちいる。それぐらい、スペシャルな存在感を発揮している。彼女は美人じゃなくて、体も貧弱。主人公もスポーツ苦手タイプの勉強タイプで、そういうアメリカ学生の「低位置層」カップルだったということが、実はこの小説の最大の魅力なんじゃないだろうか。

 初めっから危なげに見えたプーキーは、やっぱり大学を途中で辞めるという。そして家に帰った彼女から、やがて「最後の手紙」が送られてくる。二人の関係も大丈夫かなと思うけど、それだけなら二人が別れるだけで大学は続けるだろう。問題は実社会に不適応なぐらい、独特な感性を持ち続けたプーキーという女性の「こころ」の方にある。そういう不安定な心を描いたという意味で、この小説は今の日本でもよく通じると思う。細部の状況は違っても、「危ない人を愛してしまう」時の心の揺れは、むしろ今の問題かもしれない。この小説は今こそ読まれるべきだと思う。

 この小説は1969年にアラン・J・パクラ監督によって映画化された。日本では1970年に「くちづけ」という題名で公開されている。主人公二人は、もう当然のようにセックスしてる時代だけど、それでも「キス」に大きな意味があった。なかなかいい題名だったかもしれない。ヒロインのプーキーは、ライザ・ミネリ(1946~)。言うまでもなくヴィンセント・ミネリ監督とジュディ・ガーランドの娘で、それ以前にブロードウェイで活躍していた。映画に本格的に主演した最初の作品だったと思う。そして、1972年の「キャバレー」でアカデミー賞主演女優賞を得たわけである。

 監督のアラン・J・パクラ(1928~1998)は、もう亡くなってかなり立つので覚えている人も少ないだろう。サスペンス映画や社会派的映画に手腕を発揮した監督だった。もっともアメリカのことだから、独自の「映画作家」というより、演出の専門家というべきだろう。デビュー作が「くちづけ」だったけど、それ以前にもプロデューサーとして「アラバマ物語」を作った。アカデミー監督賞には「大統領の陰謀」一作しかノミネートされてないが、「コールガール」でジェーン・フォンダ、「ソフィーの選択」でメリル・ストリープにアカデミー主演女優賞をもたらしている。

 どこか奇特な会社が現れて、この機会に「くちづけ」をリバイバル上映してくれないだろうか。DVDもないようだし、村上春樹訳ということなら見に行く人もいるんじゃないか。そして、できることなら、ジャーナリズムのあり方、大統領弾劾の前例という意味で「大統領の陰謀」、今も数多く作られているホロコーストをテーマにした映画「ソフィーの選択」(1983年キネ旬ベストワン)と合わせて、パクラ特集をやって欲しいと思うんだけど、まあ無理でしょうね。この監督は、その他に「推定無罪」や「ペリカン文書」など話題のミステリー映画化なども残している。大監督というんじゃないけど、しっかりした演出力で安定していた人だろう。
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渡瀬恒彦の映画、石井輝雄の映画

2017年05月21日 21時12分59秒 |  〃  (旧作日本映画)
 土日は列島各地で猛暑となったが、僕は二日間とも古い日本映画を見に行った。ところで、2015年は「戦後70年」だったわけだけど、70年を二分すると35年になる。その分かれ目は、なんと1980年である。1970年代までは「戦後前半」であり、1980年代以後は「戦後後半」になる。となると、占領期から高度成長まで、前半期に重大な変化が起こり、80年代後はずっと「バブル」とその崩壊しかなかったような気になる。今回見た映画は、「戦後前半」の終わりごろということになるけど、この自由さは何だろう。

 20日から、池袋の新文芸座は「渡瀬恒彦追悼特集」、渋谷のシネマヴェーラ渋谷は「石井輝雄監督特集」である。けっこう見たい映画の日程が被っているいるが、だからと言って朝から夜まで4本見る元気はすでにない。まあ時々見に行きたいなという感じ。まず、20日は新文芸座で「暴走パニック 大激突」(1976)と「狂った野獣」(1976)を見る。その前に中島貞夫監督、俳優片桐竜次のトークショー。当日来ていた「狂った野獣」に出ていた橘麻紀が飛び入り参加。「狂った野獣」製作時を初め、当時の東映映画人のエピソードが面白い。中島監督はちょっと前に松方弘樹追悼特集で来たばかり。

 今回の2作は、渡瀬恒彦が自分で運転するものすごいカーチェイス映画として有名で、公開当時にも見て、すごく面白かった。最近も時々上映されているけど、見直す機会がなかった。やっぱりすごいなと思うカーチェイスで、どうしてここまでやれたのかと思う。「暴走パニック 大激突」ではドアがぶっ飛んでも運転してるし、「狂った野獣」では大型バスを横転させる。スターの渡瀬が自分で運転している。エアバッグどころか、シートベルトもない時代に、よくそんなことをしたもんだ。
(暴走パニック代激突)(狂った野獣)
 細かい筋を書いても仕方ないけど、「大激突」の方は銀行強盗を重ねる二人組がいて、最後にするつもりの神戸でドジを踏む。相棒は逃げる途中でトラックにひかれ、渡瀬一人が逃げていく。そこへ腐れ縁的愛人の杉本美樹が道連れになり、死んだ相棒の兄室田日出男やなぜかドジな警官役の川谷拓三が渡瀬を追い続ける。それだけでも面白すぎるけど、そこに一般のドライバーの野次馬、暴走族、ラジオ中継車まで出てきて、派手に壊しまくる。ここまで破壊的かつ反警察的な撮影が許されたか。

 「野獣」は銀行強盗に失敗した川谷拓三、片桐竜次が、路線バスを乗っ取る。そこに渡瀬恒彦はじめ、何人もの乗客がいる。運転手は心筋梗塞の持病があり、いつ倒れるかもしれない。渡瀬は一度うまく降りようとするが、荷物のギターケースを持ち出せない。そこに何が入っているのか。渡瀬はケースを取り戻すべく、バスを走って追い、自転車で追い、愛人のバイクで追い、ついには窓から乗り込んでしまう。と思ったら、運転手が死んでしまい、渡瀬が代わりを務めるが…。彼はテストドライバーだったが、目が悪くなってクビになったばかりだった…。バスの大暴走とは世界的にも珍しい。

 「カーチェイス映画」というのは、ピーター・イエーツ監督「ブリット」(1968)から大ブームが起こった。ちょうどその映画も新文芸座で最近見直したばかり。スティーヴ・マックイーンの運転は今も迫力があったが、さすがにちょっと今では物足りない気もした。だけど、サンフランシスコを舞台にしているので、坂道を上り下りするスリルがある。それ以後世界的に大ブームになり、70年代には何本も見た気がする。今もあるけど、最近はGPSもあるし、技術的に進んでしまったので、単純なカーチェイスが少ない。あまりパトカーをぶっ壊すのも、いろいろ問題なんだろう。大体は特撮か、そうでなくてもスタントマンがやる中で、主演スターが自分で全部運転したこの2作の魅力は、日本映画史上に特筆されるべきだ。

 一方、石井輝雄監督特集は、2005年に亡くなった監督の13回忌とうたっている。今回はあまり「代表作」的な作品が少ない。初期の新東宝では「黄線地帯」や「黄色い風土」、東映では高倉健の「網走番外地」第1作や、第3作の「望郷篇」、あるいは千葉真一の「直撃地獄拳」、さらに晩年につげ義春漫画を自主製作した「ゲンセンカン主人」や「ねじ式」…。これらはすべて上映されない。

 それでも見てない映画が山のようにあるわけである。特に僕は69年ごろに大量製作された「徳川異常性愛シリーズ」をほとんど見てない。70年代にも「悪名高い」映画で、さすがにやり過ぎと思われていたと記憶する。当時の名画座でもほとんどやってないと思う。それらの「異常性愛」映画が、それなりに評価されるようになるには時間が必要だったのだろう。

 一本目の「残酷異常虐待物語 元禄女系図」は、1969年に7本も公開された石井作品の最初。オムニバスで元禄の異常な残虐を描くけど…。最初の方はそうでもないんだけど、最後に出てくる小池朝雄の異常なお殿様が凄すぎる。実際に金粉を側室に塗りたくるシーンは異常さぶりが際立つ。次に見た「江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間」は1969年の7本目の映画。どっちも、暗黒舞踏の土方巽が出てくる。特に後者では、重要な役どころを演じている意味でも貴重だ。
(恐怖奇形人間)
 「恐怖奇形人間」は、日本映画史上に名高いカルト作品で、さすがにこれは前に見ている。乱歩の「パノラマ等奇譚」や「孤島の鬼」などを中心に、「人間椅子」「屋根裏の散歩者」などをアレンジして作られている。全編、異常な描写の連続と言ってよく、悪夢的なストーリイぶりはものすごい。だけど、前にも思ったけど、説明的な描写が多い。あまりにも雑多にたくさんのアイディアを詰め込んだ筋がちょっと弱い気がする。それにしても乱歩はすごいと改めて思う。

 映画とは関係ないが、この映画では「裏日本」という言葉がしょっちゅう出てくる。今ではほとんど死語だろうが、そういう言葉がムード醸成に一役買うわけだ。なお、どっちも吉田輝雄が主演している。新東宝で菅原文太らとハンサムタワーズで売り出し、その後松竹に移った。「秋刀魚の味」で岩下志麻に思われ、「古都」では岩下志麻と結婚する。木下恵介監督の「今年の恋」では岡田茉莉子の相手役という二枚目だったんだけど、次の東映では石井監督の異常性愛シリーズの常連になった。僕は吉田輝雄の再評価もして欲しいなと思う。
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草枕、二百十日、野分-漱石を読む③

2017年05月19日 22時53分32秒 | 本 (日本文学)
 漱石連続読書の第3回。夏目漱石全集の第3巻。「草枕」「二百十日」「野分」の3作品が入っている。1906年から1907年にかけて書かれた作品で、「坊っちゃん」(1906)と「虞美人草」(1907)の間の作品。「草枕」が一番有名で、前にも読んだことがある。他の2作は漱石全体の中でも、そんな小説あったっけという感じだろう。でも、「草枕」はけっこう難物で、若いころに読んだ時には全然判らなかった。
 
 冒頭が有名だけど、「智に働けば角(かど)が立つ。情に棹(さお)させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」というのが、今ではもうちょっと考え込まないと意味が取りにくい。その後も、人生論や芸術論が多くて、なんか取っつきにくい。それに漱石の(明治人の)漢文素養に付いていけない。だから「草枕」の文章リズムが素晴らしいと言われて、判ることは判るけど、こっちはいちいち注を見ないといけないのでリズムになかなか乗れない。

 とまあ、そういう問題もあるし、一般的な小説における「個人」が描かれないから、ちょっと詰まらない。でも、漱石はこれを「俳画」のような作品、一種のイメージの連鎖のようなものとして書いたのだから、小説としての結構を批判しても仕方ない。ヒロイン格の那美の人物が描かれてないなどという批判も無意味だろう。確かに読後に、いくつものシーンでの那美の映像がくっきりと思い浮かぶ。

 と同時に、読み直してみたら、これは(「猫」などと同じく)日露戦争の「銃後小説」だったことに驚いた。戦争で婚家が破たんして実家に戻った「出戻り」、再度召集され「満州」へ向かうその甥、同じく「満州」へと流れていくかつての夫。その3人を風景の中に点描する画家の主人公。美しい風景の奥に、厳しい歴史の風が流れている。今読むと、むしろそっちが心に残る。

 この小説の舞台が熊本県玉名市の小天(おあま)温泉だというのはよく知られている。2011年に熊本を訪れた時に、そこへも行った。旅館としては「那古井館」があって立ち寄りできる。それよりも「草枕温泉てんすい」という大きな立ち寄り湯もあった。(草枕山荘という宿泊施設もあるようだ。)どっちもなかなか気持ちがいいお湯だった。一度ちゃんと泊まってみたいものだ。

 那美のモデルは、民権運動家前田案山子(かがし)の娘(つな、1867~1938)だとされている。その妹、槌は宮崎滔天の妻である。そこらへんの関わり具合が面白いけど、省略。前田家の別邸が残っていて、草枕の浴場というのもある。それは確かに小説の中の有名なお風呂の場面にそっくりだった。「草枕交流館」というのも近くにある。「草枕」もずいぶん観光資源になっている。
 
 孤高のピアニスト、グレン・グールドが「草枕」が好きだったというけど、世界にもファンが多いらしい。もちろん英訳で読んだわけだろう。僕は一度「草枕」の英訳の再翻訳を読んでみたい気がする。もちろん漢詩なんかは、普通の現代詩として訳すのである。もっと「草枕」が現代人に受けるんじゃないか。

 「二百十日」は、読みやすいけど明らかに失敗作。ほとんどすべてが登場人物二人の会話だけという変な小説で、それも中身は阿蘇登山の失敗期である。この二人の話が全然面白くないのである。二人が地図もなく、案内人もないまま、火山灰がふる阿蘇山を登っていくという無謀ぶりに驚いた。いくら何でも20世紀になってるんだから、もう少し噴火にも、登山そのものにも慎重さが必要だろう。案の定、迷ってしまって大変なことになる。いや、いろんな小説があるもんだ。

 「野分」(のわき、のわけ)は「台風」のことだから、「二百十日」(立春から数えて210日目のことで、台風の多い日とされる)とほとんど同じ意味である。でも、中身に台風は出てこない。「二百十日」よりは面白いけど、まだ小説家途上の作品という感じ。中学教師として地方へ行きながら3回にわたって土地の有力者と衝突して東京へ戻ってきた白井道也という男がいる。世に入れられず、教師をあきらめ筆一本で立とうとしている。つまり漱石の自己戯画化のような設定である。

 中学時代に白井を追い詰めた生徒の一人、高柳は今は自分も大学卒業後に窮迫し、かつては悪いことをしたと思う。高校からの友人、中野は親が裕福で暮らしに困らない。自分も作家として少しは知られる存在で、今は雑誌の記者をする白井が中野の談話を取りに来る。そんな因縁の3人、そして白井の妻と中野の新婚の妻を配置し、一応小説としての登場人物がそろう。でも、どうもドラマとしての発展が弱く、ラストのオチも見え見え。だけど、白井夫人が夫を責めるところなど心に刺さる。

 3作、あるいは今までの作品すべてに言えるけど、漱石という人は「論を立てる人」だなと思う。言いたいことがいっぱいある。社会に対する不平不満もため込んでいる。それを一応、実生活では俳句を作ったり、ユーモア小説を書いて「余裕派」を演じている。そのぐらいの配慮はできるんだけど、相当に不敵な論客だと思う。よくぞ小説家としてあれほど大成したものだ。評論家や学者の方が向いてたんじゃないかと思う。実際にそういう方面の業績も素晴らしいし。
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9条はペンディング、「駐留なき安保」から-「9条改憲」論⑤

2017年05月18日 21時14分33秒 | 政治
 「憲法9条改憲論」の話も長くなったので、最後に「自分はこう考える」というものを書いておきたい。もっとも、自分の理想と考える提案というわけではない。実現不可能なことをあれこれ書くよりも、当面このあたりでどうですかというものである。そういう生半可なことは良くない、仮に負けたとしても徹底して議論して結論を出すべきだなどと、僕も若いころには思わないではなかった。でも、歳とってくると、生きている間に実現不可能なことを一生懸命考える意欲が薄れてくる。

 江田憲司民進党代表代行が次のように発言しているけれど、僕も大体賛成である。
 憲法も「不磨の大典」ではない以上、時代の要請に応じて変えていけば良いと私は思います。しかし、その国政における優先順位は低いと言わざるをえません。今の日本の最大の政策課題とは何でしょうか?それは「世界一の少子高齢社会」への対応です。「2025年問題」と言われるように、団塊の世代(1947~49年生まれ/約800万人)が75歳(後期高齢者)を迎えるのが2025年なのです。これへの対応は喫緊の課題であり、時間は待ってはくれないのです。憲法改正には莫大な政治的エネルギーが必要です。そのことを考えると、そのエネルギーは、まず、この「社会保障制度改革」に優先的に投入していくべきでしょう

 まったくその通りだと思う。2020年に東京五輪が開催されることなど、日本国内の憲法論議と何の関係もない。安倍首相自らの任期が、2018年に自民党総裁に3選されたとしても、2021年に切れることになる。そのことを見込んで、要するに自分が総理大臣である間に、何でもいいから憲法改正したい。できれば憲法9条に手を付けたい。そういう思いしか伝わってこないのである。

 憲法9条に関して、条文と現実の間に「ねじれ」がある。というか「ねじれ」が意図的に作られてきた。そのことは間違いない。だが、「憲法9条」が「押しつけ」だというなら、自衛隊の前身の前身である「警察予備隊」の方がもっと明白「押しつけ」ではないか。憲法草案は国会で審議され承認されたのに対し、警察予備隊は1950年にマッカーサーの指令を受けて、政令で創設された。

 だから、保守派が占領終了後に「自主憲法制定」を唱えた時に、同時に自衛隊(前身の保安隊」をいったん解散して議論に臨むべきだった。その時点で、自衛隊の存在を自明の前提として、憲法の方を合わせろと言い続けたから、議論がずっとこじれているのである。もっとも、そうなるにはそうなるだけの事情もあったわけである。それは「警察予備隊」創設のきっかけとなった朝鮮戦争の認識が与野党で正反対だったからである。

 その意味では、憲法9条の「ねじれ」とは、単に国内問題で生じたのではなく、冷戦下の東西対立の国内版だたという方が正しいだろう。そして、その「冷戦」は世界的には1991年末のソ連崩壊で完全に終わったとされた。だけど、東アジアでは冷戦が終わっていない。南北朝鮮の対立、中国と台湾の関係など、第二次大戦直後に起きた対立関係が続いている。この「東アジア冷戦」は永遠に続くのだろうか。もし永遠に続くと決まっているのなら、それに応じた体制を作るのも必要だろう。

 だけど、まさか永遠に北朝鮮の現行体制が続くというものではないだろう。中国の政治、経済のあり方も、今後どのように変わっていくか、今の段階で簡単に予測できるものではない。僕は冷戦下で生じた「ねじれ」を今すぐ完全に解消しようとするなら、かえってさらに大きな「ねじれ」を呼ぶのではないのかということである。だから、9条のあり方を検討するのは、先送りすればいいじゃないかと思う。

 「9条ペンディング論」である。いつまでかというと、例えば当面のところ、2045年まで、つまり「戦後100年」までこのままとする。その頃には、日本の人口は1億人を切っている。戦争体験者はもういないし、「団塊の世代」も数少なくなる。その段階で日本の今後をどう考えるか。その頃の世代、21世紀に成長をした新しい世代(どれだけ期待を懸けられるかよく判らないけど)、とりあえずその世代に任せようではないかと思うのである。戦後20年ぐらいの間に生まれた世代は、それまでの間、日本が平和を実際に守り続けられるかに全力を注ぐ。そして、憲法9条の条文は、その間そのままとする。

 一方、「日米安保」も東アジアの冷戦が完全に終わらない間は、変えることがなかなか難しいと思われる。日米安保廃棄論が左翼(あるいは右翼)から提起されても、現在国会で多数を占めることは考えられない。(日米安保条約は、日本側が廃棄を通告すれば1年後になくなるわけだが。)朝鮮戦争に対して、当時の左翼勢力は「南側からの侵攻」だと主張していた。(70年代頃までは、そう書いてある歴史書もけっこうあった。)ソ連崩壊後に様々な資料が明らかとなり、現在朝鮮戦争は北側から侵攻したことは明白となっている。(中国の毛沢東とソ連のスターリンは、金日成の決断を了承していた。)
 
 そういう経緯を見ると、日米安保が戦後史の中で定着したこと、東アジア冷戦体制下で日本が米国側に組み込まれていったことを、すぐに変えられると考えるのは難しい。だけど、今や在日米軍は全世界に展開されるものとなっている。そのためにこそ、沖縄県に対する過重な負担が続けられている。もちろん、本土においても基地負担が大きなものがある。それに第一、「首都の空港(横田基地)に外国軍が常駐している」ということそのものがおかしい。(日本人は意識さえしなくなっている。)

 そうなると、かつて一部で唱えられた「駐留なき安保」を、とりあえず真剣に検討するべきではないかと思う。この間の「北朝鮮危機」に当たっては、米空母が日本近海に向かう、それは何日だという報道が続いた。つまりは、米軍の態勢が整わないうちは何も始まらないのである。かつての朝鮮戦争、あるいは91年の湾岸戦争、03年のイラク戦争名も、すべて同じである。日本は島国だから、外国陸軍に国境から直接侵攻されることはない。中国や北朝鮮と仮に何かあっても、米軍がすぐに展開されるわけではないはずだ。基地負担を少なくすることは緊急に必要なことだから、出来得る限り「駐留」を少なくすることで、大きな国論の分裂を避けながら進めていくしかないのではないだろうか。
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日米安保をどうするのか-「9条改憲」論④

2017年05月17日 21時23分33秒 | 政治
 憲法9条は「押しつけ」で、自衛隊が書いてないのは怪しからんとよく保守系の人は言うわけだけど、一回目の不要論で書いた通り、他の行政機関もみな書いてない。もし「9条は最小限度の戦力保持を認めている」と解釈した場合、その解釈に基づき「自衛隊」を設置することに憲法的の問題はないように思う。だけど、日本の防衛問題に関しては、もっと重大な「書き落とし」があるではないか。つまり「日米安全保障条約」である。こっちは憲法に書かなくていいのだろうか?

 個別的自衛権に関して、政府は憲法制定時には字義通りに「個別的自衛権も認めない」と解釈していた。では当時は、「日本の防衛」はどう考えられていたのだろうか。それは「国際連合」の枠組みに完全に依拠するということだったと思う。日本に対する侵略行為があった場合、国連安保理で「国連軍」を組織して対処するということである。でも、冷戦開始により、この構想は戦後史に置いてあまり意味を持たなくなってしまった。現在のシリア内戦を見れば判るように、安保理常任理事国中に対立がある場合、安保理は有効に機能しないことが多くなる。

 ところで、日本が「戦力を有しない」と憲法上規定されていることが、アメリカに日本防衛を依頼する根拠ではないか。憲法に自衛隊を明記すれば、日本の防衛は一義的には日本が自ら行うことになるわけで、当然のこととして「日米安保」はいらなくなるはずである。そのことの是非は別にして、安倍首相はその問題に波及することを意識して提案しているのだろうか?

 さて、自衛隊さえ想定されていなかったんだから、憲法制定当時に「日米安保」など全く誰も想定していなかっただろう。外国と条約を結ぶことは当然ある。憲法では、内閣が締結、国会が承認、天皇が認証と規定されている。日米安保条約も、制定当時、あるいは60年の改定当時、大きな反対があったけれど、最終的には以上のような経過をたどって結ばれた。内閣と国会にその権限はある。

 だけど、日本国はどのような条約でも結べるのだろうか。憲法98条には、「日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする」と条約遵守義務を定めているが、どんな条約にも適用されるのだろうか。極端なことを言えば、日本に租借地をもうける、つまり、国土の一部を外国に貸し出すといったことをも条約で決められるのだろうか。もちろん、それが国会で承認されなければ効力がないわけで、国民の代表に決定をゆだねればいいとも言える。

 そのような「どんな内閣や国会でも、こんな条約は結べない」という規定は憲法に必要ないのだろうか。僕がこのように言うのは、もちろん「日米安保」の現状に関する問題意識がある。戦後72年を迎えて、日米安保は「当然の前提」になってしまい、政治の世界では問い直す動きはない。その間に米軍はほとんど日本の主権を超越したような「超権力」になってしまった。

 米兵や米軍属による犯罪行為があっても、基地に逃げ込めば日本の捜査を逃げられる。米軍機などに事故が起こっても、日本の警察や消防が捜査できない。騒音被害や飛行差し止めを訴えても、米軍に対する司法判断の権限がないとされる。(米軍基地の騒音に対して、日本政府の賠償責任は容認されている。飛行差し止めは自衛隊や民間機でも認められていない。ただ、米軍機の場合、飛行差し止めができない法的検討以前に、そもそも米軍に司法判断が及ばないとされる。)

 そのようなことが今も時々報じられる。これでは主権侵害ではないだろうか。いつも「国を愛する心」などを強調する人は、このような状況を憂うることはないのだろうか。いま、書いていることは日米安保の是非論ではない。そういう選択肢もあるだろうとは思う。だけど、アメリカであれ、他のどの国であれ、このように日本国の主権を侵害されているような条約はおかしいのではないか。そのことを憲法に書いておく必要はないのか。「自衛隊」は憲法に書くというんだから、「戦後の国体」とまで言われる「日米安保」の方こそ、憲法で許されること、許されないことを明確化しておく必要を感じる。

 安倍首相が「自衛隊明記」を言い出した。当然、では日米安保は廃棄ですか? と誰かが質問するべきだろう。違うと言われたら、日米安保は憲法に書くべきじゃないのですかと続いて質問するべきだ。いま、「北朝鮮危機」や「中国の強大化」の中で、日米安保に波及させるべきではないというかもしれない。それならば、「自衛隊明記」もするべきではない。そこから発しているのだから。
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有害で危険-「9条改憲」論③

2017年05月16日 22時53分26秒 | 政治
 安倍首相の言うところの「9条改憲」は、「不要」にして「無意味」だと書いてきた。でも、「不要、無意味」ならそれほど危険でもないんだろうという人がいるかもしれない。「メンドイ」から反対運動などしたくないというイマドキの日本国民の気分なら、やりたいんならやらせとけばになりかねいない。3回目は、今回の安倍首相の主張は、危険で有害、一種のトリックを含んだものだという議論をする。

 2回目に、「違憲論は変わらない」と書いた。理論上の問題としてはその通りだと思う。だけど、安倍首相の頭の中では、あくまでも「現時点での任務をこなす自衛隊」を書き込むということだろう。2014年の閣議決定で、自衛隊に関する内閣の憲法解釈は大きな変更を見た。それを前提にして、2015年に集団的自衛権を部分的に解禁した安保法制を成立させ、すでにその新法制に則った業務が始まっている。先には「米艦防護」も現実に実施された。

 一昨年の法案審議時には「ていねいな説明を行っていく」と言っていたのに今回の命令に関しては何の説明もない。もっとも、米艦が襲撃される可能性が皆無の状況で、単に日本の太平洋側を航行する米艦に海上自衛隊の護衛艦が「並走」しただけとも言える。それでも「米韓防護」を行ったという「実績」を作ったことにするのだろう。こういう「自衛隊」をそのまま憲法に書き込む。「自衛隊」ではなく、すでに「他衛隊」でもあるという現実を隠ぺいするトリックというしかないではないか。

 先の集団的自衛権をめぐる議論を見ていると、現政権では「憲法に書いてあること」(の合理的な解釈)ではなく、「政権が強引に解釈すること」が優先するということが明白だ。そういう安倍首相が「憲法に明記しよう」などと言うとき、それが何を意味するかはよく考えないといけない。「憲法に明記された自衛隊」は、現時点で許容される範囲を超えた活動ができると言い出しても決しておかしくないだろう。

 建前上は「専守防衛」であるはずの自衛隊は、すでに相当に高度の装備を備えている。憲法に書いて「合憲性」を誇ることとなれば、「自衛のためならば、何でも可能である」という議論が出てくるだろう。すでに「自衛のためには、先制攻撃が認められる」という人までいる。それは「自衛」じゃないだろう。また「自衛のためには、核兵器も保持できる」という人までいる。「大量破壊兵器」の核兵器を(9条1項、2項があるならば)持てるはずがないではないか。

 そうなると、「憲法が禁じているのは侵略戦争」であり、「それ以外のすべて武力行使は自衛のために許される」という解釈が出てくる。ところで、安倍首相は日本の「侵略戦争」を認めていない。後世の歴史家にゆだねるとか言うけれど、要するに「侵略」と言いたくないのである。ということは、「自衛隊」の名のもとに、今や何でもできる武力組織が内閣の解釈変更次第で誕生する。もちろん、そのような危険性は、憲法に明記しなくても起こり得る。だが、憲法9条は「戦力の制約」に一定の限度となってきた。「憲法明記」に成功した首相は「より一層の戦力拡大」に向けて高揚するだろう。

 そもそも「憲法9条」は単なる国内規定ではない。極東委員会での議論を見ても、日本が国際社会に受け入れられるための、「戦争責任認識」という性格を持っていたのは明らかだ。日本が米軍と一体化する中で、9条に自衛隊を明記する。「現状を追認しただけ」というのは、国内向けには通用するかもしれないが、周辺諸国は納得できるだろうか。

 「違憲かもしれないが、何かあれば、命を張って守ってくれ」などと言う表現を見れば、いよいよ「自衛隊が戦争に参加する日が近いのだ」と受け取る人がいても不思議ではない。遠からぬ将来に「自衛隊の戦死者」が想定されるということが、憲法改正提案の裏にあると言っては「邪推」だろうか。安倍首相の人柄を信用できるなどという人もいまだ多い日本では、そんなことは言い過ぎだと言われるかもしれない。だけど、「安倍首相の人柄」を思えばこそ、この提案が危険で有害なものに思える。

 それを傍証するのは、今回の提案のやり方である。国会で国民の代表に向け説明する、あるいは自民党総裁として自民党大会で表明する、あるいは「一国会議員」という立場で「文藝春秋」「中央公論」等の(数週間程度は買いたい人が求められる)雑誌に寄稿するなどの方法をいずれも取らなかった。「改憲派の集会」に向けたビデオメッセージ、及び政権支持がはっきりしていて、改憲要綱も発表している読売新聞の取材に応じる。これでは「天下に信念を問う」というフェアな感じがない。

 「仲間うち」に向けて言ってるわけである。もともと「仲間」なんだから、ホントはもっと踏み込みたいという「ホンネ」は共有しているだろう。2年前の「解釈改憲」も支持した人たちである。当然のこととして、「とりあえず書いちゃえば、後はまた解釈変更でなんとでもなる」と仲間同士の阿吽の呼吸で判りあう関係である。これが今回の改憲提案のホンネにあるものだと僕は思う。だから今回の「改憲提案」は本質的に危険性をはらむと思うけど、同時にまだ考えなくてはいけない問題も多い。その最大のものが「日米安保条約」である。そのことを次回に。
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それでも残る違憲論-「9条改正」論②

2017年05月15日 21時21分13秒 | 政治
 「9条改憲論」の2回目は、言ってみれば「無意味論」である。以下に書くように、今回の改憲を実施しても、「違憲論」は残るのである。エッ、憲法に自衛隊を明記するんだったら、自衛隊は合憲になるんじゃないですか? そう思う人も多いと思う。安倍首相本人もそう思うから、こういう提案をしているのではないかと思う。だから、自衛隊違憲論者は「戦後民主主義の理想は風前の灯火なのか」と嘆き、自衛隊合憲論者は「これで不毛の神学論に終止符を打てる」と喜ぶ。

 しかし、それは思い込みによる誤解というものである。確かに、「自衛隊」という名前の組織を日本国が持つことは憲法に規定される。それはそういう風に書くんだから当然である。でも、1項と2項を残すんだから、当然のことながら「自衛隊」なる組織には憲法的制約が存在し続けるのである。安倍首相の思い込みにつられて、幻惑されている人は一度頭を整理してみた方がいい。

 その議論をする前に、一応憲法9条の条文を示しておきたい。
第二章 戦争の放棄
第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
○2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 さて、問題はこの条文の解釈である。今仮に、「個別的自衛権は認められる。しかし、集団的自衛権は認められない」という考え方を取るものとする。これはちょっと前までの政府見解である。安保法制論議の中で憲法学者の中にも多かった。もちろん、個別的自衛権も認められないという立場もあるだろうが、2年前にあれほど反対運動が高まったのは、「どう解釈の幅を広げても、集団的自衛権を認めることは憲法9条が現状のままである限り認められない」という人もいたからだろう。

 さて、そのような人にとって、今回の憲法改正が実現したら何かが変わるのだろうか。何も変わらないのは明らかだろう。憲法9条に自衛隊が書き込まれても、1項と2項が残っているならば、当然のこととして、その自衛隊は集団的自衛権は行使できない。憲法に書き込まれる「自衛隊」とは、個別的自衛権しか行使できないものとしか解釈できないはずである。2年前に反対を主張した学者の見解は、今後も「安保法制は違憲」ということで微動だにもしないだろうと思う。

 いや、それは個別的自衛権を認めている人の場合であって、そもそも自衛隊の存在を認めていない立場の人はどうなんだろうと考えてみる。この場合、憲法に自衛隊が明記されてしまえば、もうオシマイではないかと思う人が多いだろう。しかし、決してそうではない。1項、2項はそのままなんだから、3項に自衛隊を明記しても、その自衛隊は「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使」はできない。そのための「陸海空軍その他の戦力」は持てない。要するに、「戦争ができるような戦力が持てない自衛隊」が憲法に明記されるだけ(という解釈になるはず)なのである。

 じゃあ、何なんだということになると、それは「海上保安庁」のようなものだろうか。要するに、9条によって個別的自衛権も認められていないという立場の人にとっては、3項に自衛隊が明記されても、それは「海上保安庁」が憲法に書かれたことと同様なものなのである。反対に、今の憲法で「集団的自衛権が部分的に認められる」という立場の人はどうか。それはそのまま、憲法に書かれた自衛隊が現行の安保法制を実施できるということになる。

 要するに、憲法9条の1項、2項を残して3項を作っても、今と全く同じであって「無意味」なのである。そりゃあ、そうだろう。憲法9条は、1項と2項、特に2項に重要性がある。「戦力は保持しない」と明記されている。だから、憲法9条解釈史は、「どこまでの戦力なら保持が許されるのか」をめぐって行われてきた。その2項が残っているんだったら、当然のこととして、3項に新設される「自衛隊」にも戦力の制限が残っていくわけである。その制限をめぐる解釈の食い違いは、3項がない今と同じなのである。

 では安倍首相は何を考えているのだろうか。恐らく、今なら「そこそこ穏当そうな改憲案」なら、実現可能性がある。少なくとも、この問題で発言しても内閣支持率は下がらないと見込んでいるだと思う。だから、自衛隊を明記する改憲が成功すれば、それは「自分が進めてきた安保政策への信認」と受け取るだろう。2015年の安保法制は、学者のみならず国民の中に多くの違憲論が存在した。当時は内閣支持率が下がり不支持率が上回った。しかし、やがて支持率は持ち直し、2016年の参議院選挙で与党は「勝利」した。かくして9条改憲を言い出しても大丈夫な環境になったわけである。

 本来、違憲論は裁判所で決着をつける。それが日本国憲法の構造である。しかし、2015年の安保法制に関して、何人もの人が違憲確認訴訟のようなことをしたけれど、今まで門前払いのような判決が続いている。それもある意味当然で、単なる「憲法上の確認訴訟」は日本の司法は受け付けないのである。具体的な事件が起こり、その裁判の場になって初めて違憲の主張が取り上げられる。だから、集団的自衛権を部分的に認めた安保法制が合憲なのか違憲なのか、なかなか判断が示されない。

 そのことを考えると、日本でも憲法判断を専門に行う「憲法裁判所」を新設することが必要なんじゃないか。それこそがまずやるべき「憲法改正」なんじゃないかと思う。世界には、国民が法律だけでなく、政府の対応の不作為などを直接憲法裁判所に訴えられる国も存在する。そういう場があれば、自衛隊そのものの違憲かどうかの議論、あるいは安保法制の違憲論なども、裁判で早期に決着できる。(もっとも裁判官を内閣が選ぶなら、内閣に有利な判決しか出ないだろうけど。)
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「9条改憲」論①-不要論

2017年05月14日 21時27分50秒 | 政治
 安倍首相が表明した「9条改憲」に関する問題を考えてみたい。9条の問題はいろいろな考えがあり、整理するのも大変だ。当面実現すると思えない提案を検討するのも面倒だから、今まで書いたことはない。今回は安倍首相の表明した提案にしぼって考えたいと思う。

 その安倍案というのは、「自衛隊が違憲という議論の余地をなくす」ために、「1項、2項を残しつつ自衛隊を明文で書き込む」というものである。これをどう考えるべきか。次回以後に書くように、およそマトモとは思えない「トンデモ提案」としか僕には思えない。だけど、これは「一種の曲球」で、現実的にはかなり成立可能性があると思っている人もいるようだ。

 僕は自衛隊を憲法に明文で書く必要など全くないと思う。それは自衛隊違憲論、合憲論に関係ない。あるいは「集団的自衛権」の一部を容認した安保法制への賛否とも関係ない。自衛隊を必要だと考えたとしても、憲法に書かなくてもいい。どうしてか。それは「日本国憲法の独特のあり方」によっている。そのことは案外意識されていないと思うので、まず最初に書いておきたい。

 日本国憲法は、統治機構のあり方に関してほとんど明文で書いていない。多くは「法律でこれを定める」と書いている。ときどき、「憲法を改正して道州制を導入せよ」などという人がいるけど、そもそも憲法に「都道府県制度」などどこにも書いてない。やりたきゃ法律でやればいいだけなのである。

 じゃあ、憲法では何が書かれているのか。ちょっと驚くかもしれないけど、国会(衆議院、参議院)、内閣(内閣総理大臣、国務大臣)、最高裁判所会計検査院。これだけである。国家機関としての「象徴天皇」を入れても、それだけである。会計検査院が明記されているのは普段あまり意識していないかもしれない。入った理由に関しては、古関彰一氏の著書に出てくるが省略する。

 そういう構造だから、例えば裁判所に関しては、「すべて司法権は、最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する」となっている。下級裁判所の具体像は書かないのである。だから、行政権に関しても同様なのである。こっちもはもっとすごくて、何の言及もない。「内閣のもとに、法律で定める省庁をおく」などという条項もない。外務省も財務省も…何も書いてないのである。

 統治機構に関する改革は今まで何度か行われている。一番大規模なのは、2000年に実施された省庁再編だろう。例えば大蔵省を財務省と金融庁に再編し、建設省、運輸省、国土庁を統合して国土交通省…など大規模に再編した。それも改憲を要せず、法律で済んだわけである。公害問題の深刻化で、1970年に環境庁が発足し、2000年に環境省となった。消費者庁観光庁スポーツ庁など、最近も新たな行政庁が作られている。新しい課題が生じれば、法律で対応できる国家構造になっている。

 どうしてそれでいいのだろうか。それは憲法で「国民主権」を明記し、国会が「国権の最高機関」とされているからだろう。正当に選挙された国民の代表が、国会で討論し議決したことは、一応時代に対応した国家の統治機関を作ったとみなし得る。もし、国会が違憲の法律を成立させたら、裁判所が違憲立法審査権を持っているので、最終的な判断を行う。そういう根本ルールを定めているので、「あとは法律で」となっているのだろう。

 ところで、自衛隊とは何だろうか。様々な言い方があるだろうが、旧軍と違って内閣総理大臣の指揮のもとにある行政機関であるのは間違いない。旧帝国陸海軍は内閣に所属せず、天皇が親率する天皇大権に属する特別な国家機関だった。だから、そのことを帝国憲法に書いておかないといけない。しかし、現在は内閣の下にある行政機関なんだから、他の行政機関がどこも書かれてないのにどうして自衛隊だけ特に書かないといけないのかということになる。

 「『違憲かもしれないけど、何かあれば、命を張って守ってくれ』というのはあまりにも無責任」と安倍首相は言うけど、危険な業務に従事するのは何も自衛隊だけではない。警察だって、消防だって危険もあるだろうが、憲法には何の規定もないではないか。それに、1項、2項を変えないんだったら、今後も「違憲かもしれない業務」は残ってしまうではないか。(その問題は次回に詳説。)

 このように、日本国憲法は統治機構のあり方について、くわしい規定を行っていない。それは何故かというと、憲法は「国のかたち」を定めるという以上に、「人権宣言」だったからだろうと思う。権利規定を中心にして書いている。先ほど、警察も書かれてないといったけど、確かに警察機構のありようは書いてない。だが、「司法官憲」という言葉で禁止規定はいっぱい書いてある。「公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる」などの条項も、直接には警察官に対する禁止規定である。

 だから、もし自衛隊に関して憲法に書き込むんだとしたら…。日本国憲法の他の条文と整合的な発想で考えてみると、次のようになるはずだと思う。「前項の目的を達するための組織は、法律でこれを定める」。そして、その項目には、かつて旧軍時代に行われた憲兵による政治や言論への介入などを厳しく禁止する規定が盛り込まれるべきだろう。また自衛隊も軍事的実力組織である以上、戦争犯罪に関与する可能性は存在する。そのようなことを禁じる規定こそが憲法には不可欠である。

 ということで、今回は憲法改正「不要論」である。自衛隊を仮に必要なものだとしても、他の行政機関がそうであるように、法律でそのあり方を定めればいい。自衛隊だけ憲法に書くというのは、軍事偏重だろう。法律で作ったものだから、必要ないと考える勢力が国会の多数を占めれば、法律を改正して廃止すればいい。一方、環境の変化に伴い「組織の拡充」や「新しい任務」が必要だという勢力が国会の多数を占めれば、2015年のようになるわけである。

 1項、2項を全面的に削除、改定して、旧軍のような軍隊を作るんだというなら、確かに全面的な9条改憲が必要である。そうではなくて、1項、2項を残しておくというんだったら、「自衛隊」などという組織名明示もいらない。それが日本国憲法の構造だからである。
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やっぱりすごい陽明門-日光旅行②

2017年05月12日 21時29分51秒 | 旅行(日光)
 3日目はノンビリと出て、すぐにバスに乗る。そのまま市内まで降りて、東照宮だけという計画である。何度も行ってる日光、家からそんなに遠くない日光で、もう頑張ってあれこれ見て回る気はない。だから、輪王寺や二荒山神社は見ない。もう「平成の大修理」を終えた陽明門周辺を見ればいい。

 日光東照宮を見るのは、多分4回目か5回目。小さいころに家族で行ってるかもしれないけど、思い出にあるのは小学校の移動教室である。東京の東部の小学校では日光に行くことが多い。その後、結婚してから一度行き、だいぶ行ってないなと思って数年前にも行ってみた。そうしたら、なんだか色も落ちて見栄えが今ひとつ。こんなだったかなとちょっとガッカリした。

 もともと陽明門みたいな「豪華絢爛」を誇るようなものは好きじゃない。高校の修学旅行で京都の銀閣詩仙堂を見て、こういうのが好きだなと思った。「派手」よりも「渋好み」が好きだというのは、本や映画も通じて同様である。だけど…とだんだん思ってきた。「狸親父」イメージで、若い時はどうも好きじゃなかった徳川家康だけど、その後250年以上も本格的な対外戦争も内乱もない平和を築いたのは間違いない。同時代の世界では奇跡に近い。ある意味、「世界史的偉人」なんじゃないか。

 そうして大修理が終わった陽明門は、壮麗極まりない。大迫力である。やっぱりすごい。こんなに美しくなるのか。確かに「豪華絢爛」系ではある。でも、これは日本において、その方向で頂点を極めたといってもいいのではないか。有名なものも多いし、有料入場料1300円は決して高くないだろう。
   
 一番の目玉はやはり陽明門だろうけど、ちょっと順番に書いていくと、荘厳な杉並木が東照宮の周りに立ち並び、ムードが高まってくる。今は外国人観光客がいっぱいで、大体写真を撮っている。今は小中高の子どもたちも多く、とにかく人がいっぱい。人が写らない写真をじっくり撮りたかったら、朝一番に行くべきだろう。五重塔もあるけど、大体これは逆光でうまく撮れない。どんどん進んで行く。有料区間に入っても、なかなか陽明門は遠い。そうだったっけ。
 
 それよりまずは、「三猿」がある。入ってすぐの神厩舎の上である。猿をモチーフにした8枚のレリーフがある。全部撮ったけど、まあ有名な「見ざる、言わざる、聞かざる」を。どうせだから、動物をまとめておくと、奥宮へ向かう祈祷殿入口に「眠り猫」。あれ、こんなに小さかったっけ。猿も猫も、素晴らしく色が再生されている。昔のガイドブックがある人は見比べてみると、こんなに違うかと思うだろう。眠り猫の裏は「」である。もう一つ、三猿の近くに「」もある。想像で書かれた象である。他にもいろいろな動物像があり、それぞれ宗教上の意味があるようだけど、どうもそこまで熱心に見たことはない。
    
 本殿も国宝だけど、中は写真を撮れない。また「鳴龍」も写真が撮れない。そこで「奥宮」へ。ここも前に見てるんだろうか。延々と石段を登っていく。そりゃあ、山寺や金刀比羅宮ほどじゃないけど、やっぱりかなりきつい。どんどん登ると、一番上に家康の墓所がある。頑張っていく価値はあるとは思うけど、真夏はきついだろう。上の方に休憩所があり、なぜだか自販機は全部「おーいお茶」ばかり。ここまでどう運ぶのかと思ったら、帰るときにお茶缶の箱をたくさん背負った人とすれ違った。
   
 他にも、周辺で芭蕉の句碑や石鳥居(重要文化財)が旧宝物館の近くにあった。また三つ葉葵の徳川家の紋が逆になったオランダ渡来の灯篭など、いろいろ撮ってるけどここではもう省略。一つだけ、東照宮のホームページにも出てない情報を。それは「障害者割引」である。多くの文化施設では、障害者福祉手帳(身体障害者手帳、療育手帳、精神障害者保健福祉手帳)を提示することで、付き添い者を含めて割引を受けられることが多い。ホームページに紹介がないんだけど、東照宮の場合、手帳掲示で「700円に割引」と書いてあった。

だけど、なぜだか、「鳴龍」が見られない。確かに「鳴龍」はバリアフリー構造ではないし、静かに聞かないといけない。もちろん、1300円の正規のチケットを買えば見られるんだろうけど、手帳で割引にならないのはどうしてだろう。付き添い割引がないのも解せない。
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植物園と大使館別荘-日光旅行①

2017年05月11日 21時32分35秒 | 旅行(日光)
 ゴールデンウィークが終わったので、旅行にでかける。毎年行ってる日光だけど、しばらくぶり。最近は東照宮の陽明門が40年ぶりの修理が終わり、テレビ番組でもよく紹介されている。東武鉄道では「リバティ」という新型特急が運行を開始し、それで行こうかなという計画である。今日帰ってきて全部書くのは大変なので、陽明門の話は次回に回して、まずは1日目と2日目のことを。

 まあ、リバティという特急は、まあこんなものかなという感じ。車内販売もないし、「スペーシア」より下なんだろう。湯西川温泉や会津高原に行くときは便利だと思うけど。自分の家からは、いつも都心方面に向かうときと逆に、下り電車に乗って春日部で乗り換える。家から2時間ちょっとで日光。フリーパスでバスに乗れば、いろは坂を自分で運転するよりも楽だなあと思える。

 時間があるからどこか寄っていこうかと思って、最近よく行ってる日光植物園に行った。正式には「東京大学大学院理学系研究科附属植物園」で、小石川植物園の分園である。けっこう広いし、珍しい植物がいっぱいあって、何か咲いている。去年だったか、春に行ったときに桜と水芭蕉が同時に咲いててビックリした。今は桜やアカヤシオは終わり、どっちかというと地味な花が多い。
 
 上の最初の写真は「マムシグサ」で、名前の由来は見れば一目瞭然だろう。蛇の頭のようなのが花である。サトイモ科。次が「クマガイソウ」、ラン科アツモリソウ属で、アツモリは平敦盛、クマガイは熊谷直実である。花を昔の武将がまとった「ほろ」に見立てたという命名だというけど、今じゃきついかも。絶滅危惧種だということで、ここでも群生地が囲われていた。という風に書くと、僕が植物に詳しいかと思われるかもしれないけど、この花は何だと指摘するのは同行の妻である。

 ところで、植物園近辺に何やら集団的人物が集合している。見れば「警察」の腕章が。何かあるのかと思って、よく思い出してみれば、そう言えば来週天皇夫妻が日光に行くという話があった。調べると日光植物園にも寄ると出ている。植物を見るというより、ここにある建物で戦時中に授業を受けていたらしい。植物園中にいっぱいいて、今から警備しているというより、なんか予行練習みたいなことらしい。
    
 そんな日光植物園で今咲いてたツツジは、これがアカヤシオかなあと思うと、受付で聞くと違うという。「クロフネツツジ」という花なんだという。上の最初の写真だけど、うっすらとピンクの大きな花が咲きそろいキレイである。今調べてビックリしたんだけど、これは「カラツツジ」とも言い、朝鮮半島から江戸初期に伝来したという。半島では南北問わず愛好されているらしく、キム・ジョンウンの母という高英姫を指す花とされてる由。へえ、ですね。池へ行くと、まだミズバショウの花が残っていた。でも、池の大部分では、もう大きく育ったミズバショウとなっていた。

 ということで、日光は新緑かなと思ってきたんだけど、行ってみるととんでもない。いろは坂あたりまでが新緑で、中禅寺湖は桜の咲くぐらい。それより標高が高い戦場ヶ原や湯元温泉はまだ全く緑がない。道端には残雪が残っているではないか。これは奥日光としても遅く、3月末に雪が降った影響で2週間ぐらい季節が遅れているという。いやあ、あまりに寒いのを軽視して、風呂に入った後で冷えて具合が悪くなってしまった。(宿はいつも行ってる休暇村日光湯元。)

 今回は連泊の予定だけど、あんまり頑張る気はなくて2日目は宿が主催する「大使館別荘めぐり」に申し込んであった。英国大使館別荘記念公園が昨年夏に完成したが、まだ行ってなかった。バス便が季節運行で、車がないと行きにくい。天気予報は雨で、曇天の霧混じりで山や湖もよく見えないが、何とか雨は降らなかった。今まであったイタリア大使館別荘記念公園は駐車場から1キロ近くあって、ちょっと歩いて遠いかなという感じがあった。でもちょうど中間に英国大使館別荘があって、断然行きやすくなった。その代りに有料になったけど。
   
 中を見ると、ほぼ新築っぽい雰囲気で、ここにもともと別荘を作ったアーネスト・サトウなどの展示パネルが並んでる。作った時は建築史に有名なジョサイア・コンドルが助言したという。サトウやグラバーなど幕末明治の英国人は、中禅寺湖を「発見」し、ここを夏の高級避暑地とした。ルアー・フィッシングを広めたのも、というか日光にマスを導入したのも英国人である。そんな日光の昔を思い起こさせるムードに包まれた記念館である。スコーンを食べられるラウンジがある。
  
 外にあった説明版を見ると、コンドルが三段に石積みを考えたという。ちょっと離れたところから撮ったのが3枚目の写真。そこから少し行くと、イタリア大使館別荘記念公園である。そこはまあ、何度も行ったから簡単に。夏に行くと、このあたりは実に天国的な空間で、美しいったらない。ただし、ブヨがいる。なかなか世の中は難しい。ただキレイで涼しいだけの場所はない。
  
 さっさと帰って、のんびり湯元ビジターセンターなどをめぐる。部屋から見ていても鳥が多く、露天風呂でもウグイスがよく聞こえる。見えるのはもっと小さな鳥なんだけど、よく判らない。頭が赤いのはヤマガラのようで、もっと小さいのはコガラ、シジュウカラなんかかな。ビジターセンターで図鑑を見てるとそんな感じ。いつも双眼鏡を持ってくるんだったと後で思う。
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