goo blog サービス終了のお知らせ 

尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

陰謀論の仕組みー呉座勇一「陰謀の日本中世史」

2018年03月31日 10時29分01秒 | 〃 (歴史の本)
 「応仁の乱」がベストセラーになった中世史家・呉座勇一氏の新著「陰謀の日本中世史」(角川新書)が抜群に面白い。まさに「俗説一蹴!」と帯にある通り。「陰謀」はもちろん洋の東西、時代を問わず存在する。だから古代史にもあるし、近世史、近現代史にもいっぱいあるわけだけど、著者は中世の専門家だから中世を書いている。だけど、それだけではない。

 近現代の「陰謀史観」、例えば「日米戦争はコミンテルンの陰謀だった」といった「トンデモ史観」にも触れている。ここで今細かいことは書かないけれど、現代世界には多くの「フェイク・ニュース」が流通している。だけど、それらはイデオロギーの争いとなっているので、歴史学的に反証しても聞き入れない人が多い。それなら、むしろ今となっては大昔の出来事を取り上げて、「陰謀史観への耐性」を付ける方がいいんじゃないかというのである。

 なるほど。そして非常に面白くて読みやすいから、スラスラ読んでいくうちに、そうか「陰謀史観」とはこうして成り立っているのかと納得する。中世の政治史に関しては、近年新しい研究がどんどん出ている。一般向けの本も多く、僕もここで取り上げられた本の半分近くは読んでいると思う。歴史の授業では、やっぱりまず政治史を教えることになる。だから有名な武将や戦乱に関する最新情報はチェックしてきた。その意味でも、この本の中身はとても興味深かった。

 この本は、中世の「武士の時代」の幕開けとなる保元の乱(1156年)、平治の乱(1159)から始まる。続いて源平の戦乱、鎌倉幕府の北条氏をめぐる争い後醍醐天皇の鎌倉幕府倒幕の陰謀応仁の乱本能寺の変関ケ原の戦いが主に取り上げられている。平清盛、源頼朝、足利尊氏、徳川家康など、結果的に「大出世」したような人物は、大体成功からさかのぼって、すべては陰謀が成功してのし上がったなどと言われることがある。

 例えば、純朴なる源義経は、冷酷な兄頼朝と、乱世をしぶとく生き抜く後白河法皇、双方の壮絶な謀略合戦に引っかかって、悲劇の英雄になったといったイメージを、何となく多くの人が持っているんじゃないか。中世は史料が少なく、代わりに「平家物語」「太平記」といった有名な軍記ものが多いので、歴史学でも最近まで軍記のエピソードに影響されていた。この本を読むと、源頼朝もすべてを見通した天才的政治家とまでは言えず、義経との関わりも誤算があったらしい。

 全部書いてるわけにもいかないので、ここでは「ケネディ大統領暗殺事件型」に触れておきたい。1963年の米国ケネディ大統領暗殺は、犯人とされたリー・ハーヴェイ・オズワルドが直後に逮捕されたが、オズワルドもすぐにジャック・ルビーという人物に殺されてしまった。ダラス警察の地下駐車場で、刑務所への移送車に乗る際に銃撃された。まあ銃が身近な米国ではあり得ることだけど、いかにも「オズワルドには黒幕がいて、暗殺が成功したら口封じに消された」とでも思いたくなる展開ではないか。こういう展開をした事件は日本史にも存在する。

 一番典型的なのが、1219年に起こった鎌倉幕府3代将軍の源実朝暗殺事件。兄の2代将軍頼家の子・公暁(くぎょう)に鶴岡八幡宮で暗殺された。しかし、直後に公暁も殺されたから、まったくケネディ型事件である。公暁は「父の仇」と語ったとされる。頼家は確かに1204年に殺されたが、その時点で実朝は12歳、公暁は4歳で、事情を知るはずがない。だから誰かガセネタを吹き込んだ黒幕がいたはずで、北条氏だ、三浦氏だと諸説あるが、決定打はないと思う。

 織田信長が1582年に明智光秀に殺された本能寺の変も一種のケネディ型。光秀が10日ほどで滅亡したので、光秀関係の史料が少ない。証拠隠滅されたわけである。ミステリーでは「事件から最大の利益をあげたものが怪しい」というのが定番の推理だから、結果的に天下を取った豊臣秀吉徳川家康が黒幕じゃないか的なことを言う人が昔からいる。朝廷黒幕説足利義昭説、果てはイエズス会黒幕説まである。

 足利義昭説を取る藤田達生氏の「謎とき本能寺の変」(講談社現代新書、2003)が出た時、僕もなるほどそういう見方も不可能でもないと思ったけど、完全には説得されなかった。歴史の大学教授が、大手の新書に書いてNHKの番組に取り上げられて驚いた。また在野ながら注目すべき新説を実証的に書いていた立花京子氏の「信長と十字架」(集英社新書、2004)にはビックリした。まったく実証されてない妄想レベルの本が大手の新書で出たからである。

 本能寺の変は、完全に「謀略」である。味方は多い方がいいに決まってるけど、皆を誘いまくったらすぐにばれる。光秀と関係が深かった細川氏でさえ、信長死後に光秀軍に味方しなかったぐらいで、事前に誰かと共謀したら、信長に通報されたに決まってる。その時点で柴田勝家は北陸で上杉氏と、羽柴秀吉は中国地方で毛利氏と、滝川一益は関東で北条氏と戦争中ですぐには動けない(はず)。しかし、信雄、信孝ら信長の子は残っていた。(信長長男の信忠は一緒に殺されたが。)常識的に考えれば、誰か信長の子をトップに立て光秀と決戦になる可能性が高い。
 
 だから、光秀と近かった武将でも様子見になるのは仕方ない。光秀が畿内を抑えたら従う人も出ただろう。明智光秀も戦国大名だから、一世一代の好機を見逃さなかった。同時に動いた大名が史料的に誰も確認できないんだから、光秀の「単独犯」と考えるのが素直な見方だろう。山口の大内氏を重臣の陶晴賢(すえ・はるかた)が滅ぼし、陶氏を毛利元就が破った。光秀の運命はこれと同じ。相手が信長だから、今も光秀の知名度が高いだけだろう。

 光秀がとんでもないことをしたというより、毛利氏と講和して直ちに引き返して光秀を討った秀吉の「中国大返し」、こっちがとんでもなかったのである。このような歴史上誰もできないようなことを秀吉がやるとは、誰も想定できなかった。だから天下を秀吉に持っていかれたということだ。要するに「史料に基づき、素直に解釈する」という基本が大事だという当たり前のことがよく判る。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「おもいでの夏」と「避暑地の出来事」

2018年03月28日 21時15分09秒 |  〃  (旧作外国映画)
 お正月に「もう一度見たい映画・外国編」というのを書いたんだけど、その時に二番目に見たい映画に挙げたのが「おもいでの夏」という映画だった。そうしたら、キネカ大森でやってるワーナーブラザースの映画特集に入っているではないか。今回やる映画の中には最近見直した映画が多いけど、「おもいでの夏」と「避暑地の出来事」は見てないから、この機会に見に行った。

 1971年に作られた「おもいでの夏」(Summer of '42)は、アカデミー作曲賞を得たミシェル・ルグランの甘美で哀切なメロディが忘れられない。だから思い出の中で、ずいぶんロマンティックな映画になってたんだけど、見直してみたら「10代少年のセックス妄想おバカ映画」でもあった。ほとんど足立紳監督の「14の夜」じゃないか。まあ15歳という年齢は確かに「性のめざめ」だろうが、今の時点で見ると多少セクハラ的に問題なんじゃないか。世の中甘美なだけの世界はない。

 この映画は脚本家の思い出がもとになってるが、原題にある「42年の夏」、つまり真珠湾攻撃後半年ほどという時点を描いている。映画製作当時はベトナム戦争真っ最中で、第二次世界大戦を経験した人も数多くいた。そのような「戦争の影」が映画を成立させていて、だからこそ「海辺の家に住む出征兵士の若き妻」という存在が神話的な輝きになる。この「若き人妻」役のジェニファー・オニールは結局あまり大成しなかったけど、この映画一本で永遠に記憶されるだろう。
 (ジェニファー・オニール)
 僕にとって「おもいでの夏」は、ジェニファー・オニールとミシェル・ルグランの映画だったんだけど、今回見たら撮影監督のロバート・サーティーズの映画でもあると思った。「ベン・ハー」などで3回もアカデミー賞を得ているが、活動期間が長く「卒業」も「ラスト・ショー」も「スティング」もこの人。いかにも思い出の中を映像化するかのように、海辺の砂浜や太陽を背景にして、はかない幻のような世界を現出させている。「アラバマ物語」で知られるロバート・マリガン監督の佳作。

 デルマー・デイヴィス監督「避暑地の出来事」(1959)は初めて見た。マックス・スタイナー(「風と共に去りぬ」)作曲のテーマ曲「夏の日の恋」がパーシー・フェイス・オーケストラで大ヒットして、僕も曲だけは昔からよく知っている。美しいテーマ曲だけ有名で、大した映画じゃないというのは映画史的知識として知ってたけど、確かに今では古すぎる青春映画だった。

 もちろん「避暑地の出来事」で「夏の日の恋」の映画ではあるが、内容的には全然ロマンティックではない。ボーイ・ミーツ・ガール映画だけど、ボーイもガールも親の夫婦関係がメチャクチャ。メイン州の島の避暑地パイン・アイランドのホテルに、島で昔ライフガードだった若者が大富豪になってやってくる。ホテルの方が今では閑古鳥が鳴いて、オーナーは酒浸り。ホテルの息子と富豪の娘が出会ってすぐに恋に落ちるが、ある日ヨットが転覆して帰りが翌朝になると…。

 この映画のテーマは、「愛し合う若者はどこまでなら許されるか」である。キスまでならいいのか。愛し合っていれば結ばれてもいいのか。しかしセックスすれば妊娠の可能性もあるわけだから、生計のない若者がセックスするのはどうなんだ。世間体もあれば、財産問題、進学先の問題など様々な問題も起きてくる。こういうテーマは昔はけっこうたくさんあって、「純潔」を守らないとこんなに不幸になるというような映画もある。同じころに書かれたフィリップ・ロスの「さようならコロンバス」でも、若者の意識は変わりつつあるが、親の世代の意識が固いことが描かれた。

 今もこの問題そのものはあるだろうが、いちいち悩んでいく様子を映画にするというのは、アメリカや日本ではもうないだろう。そういう意味で「50年代」の最後の映画という感じがする。主演の若者たちはトロイ・ドナヒューサンドラ・ディー。トロイ・ドナヒューは本人のセリフにあるように勉強に向かないタイプで、まあカッコよいだけみたいな感じ。だから青春スターで売れなくなると、B級映画で殺人鬼みたいな役をやった。サンドラ・ディーは翌1960年に18歳で歌手のボビー・ダーリンと結婚してしまい、子どもを産むがやがて結婚は破たんした。実人生と映画は関係ないけど、なんかなるほどというようなカップルではある。
  (トロイ・ドナヒューとサンドラ・ディー)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

淡谷のり子と「Sing a Song」

2018年03月26日 21時35分42秒 | 演劇
 戦前から戦後にかけての大人気歌手だった淡谷のり子の戦時中を描く「Sing a Song」という劇を25日に見た。トム・プロジェクトのプロデュースで、もともと2月に本多劇場で公演された。その後全国を周った後で、葛飾区のかめありリリオホールで最終公演があった。そっちの方が家に近いから、そこで見ることにした。劇では「三上あい子」となってるけど、「ブルースの女王」と呼ばれ「別れのブルース」が大ヒットしたというんだから、淡谷のり子そのものである。

 もっとも淡谷のり子と言っても、僕の世代でも名前ぐらいしか知らない。1907年に生まれて、1999年に亡くなるが、晩年になってもテレビで毒舌が有名だった。そういう「元気なおばあちゃん」キャラでは知ってるけど、戦時中のことなどほとんど知らない。反戦平和の意識を強く持っていたことは有名だったけど、戦時中にしぼってドラマ化したのがこの劇である。
 (淡谷のり子)
 日中戦争が激しくなり、「ぜいたくは敵だ」の時代になってくる。ジャズやシャンソンなど外国の歌も歌うなと言われる。そんな時代に三谷あい子は、化粧をしてドレスを着て舞台に立ち続ける。ドレスが私の戦闘服であり、モンペで歌っても客が喜ばないと言い放つ。禁止された「別れのブルース」も歌ってしまい、憲兵隊に呼びつけられる。そこでお国のために活動せよと言われ、戦地慰問を命じられるが、三谷あい子は無償で(軍からお金を受け取らずに)行うと主張した。

 そんなあい子が戦地をめぐりながら何を見て、何を感じたか。はるばるとセレベス島のマカッサルまで行くと、豪快な長内司令官は兵隊のために何でも歌ってくれという。付き添う憲兵は反対するが…。そして昭和20年、もう戦局が悪化した中で、どうしてもまた行って欲しいと頼まれる。長内のたっての望みで訪れたのは、鹿児島の特攻基地だった。ここはどうしても、泣けてしまう。あんな愚劣な作戦を命じられた若者たちを前に三谷は何を歌うのか。

 三谷あい子のあり方はほぼ淡谷のり子の実話らしい。ウィキペディアを見ると、英米の捕虜がいるところに行ったときは日本兵に背を向けて、英語で歌ったと書いてあるから、並の人にはできないことだろう。始末書で済めばそれでいい。そう割り切って、自分の歌を歌い続けた。人を死に追いやる歌は歌じゃない。私は軍歌は歌わない。堂々とそう言い切って、恋愛の歌を歌った。こういう「骨のある人物」がいまこそ必要なんじゃないか。

 三上あい子役は戸田恵子。声量豊かでいいんだけど、再演の機会があればもっと淡谷のり子っぽくなるかもしれない。マネージャー役が大和田獏、長内司令官役の鳥山昌克が熱演だった。作は劇団チョコレートケーキの古川健、演出は日澤雄介。さらに練り上げた再演を期待。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本史のツボって何だろう-日本史本の世界②

2018年03月25日 22時41分35秒 | 〃 (歴史の本)
 本郷和人「日本史のツボ」(文春新書)は、読みやすさから言えば抜群である。本郷氏は東大史料編纂所教授で、日本中世史が専門。一般向けの本もいっぱい書いてるが、マスコミにもよく出てくる。クイズ番組の解説や大河ドラマの考証などで活躍している。顔も名前も知られている珍しい日本史学者だ。ところで、この本は題名と内容に少し違いがある。二つの意味で、ちょっと残念な感じがした。一つは「議論が荒い」感じ、もう一つは「ツボって何だろう」である。

 この本は「テーマ別日本通史」というべき本。通史、つまり古代から現代までずっと述べるのは、研究が細分化した今ではとても難しい。この本も中世や近世が中心になっている。それはいいんだけど、やっぱり通史は難しいなと思う。読者の要望としては、簡単に流れが判る本は大歓迎だろう。でも、歴史は深い森で、奥深くどこに通じているか判らない細道がたくさんある。バッサリと切り捨てていくと、今度は教科書で読んだなあという感じの本になる。

 たとえば「武士の登場」、これは日本史上でもっとも重大な問題の一つだろう。「ツボ」80頁には「中央があてにならないとなると、地方の在地領主たちはどうするか。とりあえず土地を奪いに来た相手を、実力で撃退するほかない。自ら武装して土地を守る。これが武士の誕生です。」とある。一方、「やりなおし」121頁には「地方豪族や有力農民は、勢力を維持・拡大するために武装するようになりました。これが武士の始まり…ではありません。武士とはあくまで公権力から武装を認められた者です。」と書かれている。(後半のゴチックは原文。)

 これは今の理解では「やりなおし」の叙述が正しいだろう。武士をどう理解するかは非常に大きな問題になってきた。本郷氏ももちろん知っていて、判りやすく書いてるんだと思うけど、そういうところが「荒い」感じがするわけである。多くの政治家・知識人が高校日本史レベルの知識さえ持っていない日本では、ある程度緻密な叙述をしていかないとまずいと思う。日本史の授業で一番難しいかもしれない「荘園」の説明も「やりなおし」の方が判りやすいんじゃないか。

 そういう風にいちいち比較していても仕方ないから、次に「ツボ」の問題。ツボって何だろうというと、普通の語感では「中心的なもの」じゃなくて、「中心につながる端っこ」なんじゃないか。中国医学で(それが正しいかどうかとは別に)肌のどこかを押すと、内蔵につながってて病気が良くなるとか。その「どこか」が「ツボ」(経穴)。だけど、この本では「7つのツボ」として、天皇、宗教、土地、軍事、地域、女性、経済が挙がっている。これは日本史の中心テーマそのものじゃないか。

 「天皇を知れば日本史がわかる」「経済を知れば日本史がわかる」って、当たり前すぎるんじゃないだろうか。人体で言えば、「脳を知れば人体がわかる」「心臓を知れば人体がわかる」という感じで、人体の中心的臓器ばかりが論じられている。それはそれでいいとも言えるけど、「日本史のツボ」っていう題名で僕が事前に想像した中身とは違ったということである。まあ、それでも「川中島の戦い、勝ったのはどっち?」「貴族と武士の収入は一桁違う」などネタはいっぱいだから、読む価値はある。(「天下分け目の関ヶ原」の話など、すでにもう一つの新書になってる。)

 ついでに、じゃあ僕の語感による「日本史のツボ」を挙げておくことにする。最初は「猶子・養子」という問題。前近代は身分制度だから、親子で「家」を継いでいく。でも後継ぎの男児がいないことはあるわけだから、権力者の「養子制度」がないと困るケースも起きる。江戸時代初期には大名が後継ぎなく死去すると、取りつぶしになっていた。それでは浪人が増え社会が乱れるということで、「末期養子」、つまり死ぬ直前に養子をとることを認めるようになった。今と違って、昔は医学が発展していないから若くして死ぬ人が多かったから、これは大問題だった。

 「血のつながり」を重視する国もあるが、日本の商家ではむしろ優秀な番頭を娘の婿にして後継ぎにする慣習のようなものさえあった。それに対し、「猶子」(ゆうし)は「なお子の如し」で養子という関係というより、一時的な「仮親」みたいなケースに使われる。身分の低い娘が見初められて身分が高い家に嫁入りするようなとき、親戚などの「猶子」になったりする。豊臣秀吉も低い身分から出世したわけだが、最初に関白になるときは元関白・近衛前久の「猶子」となって、藤原氏として任命された。これじゃ何でもありみたいな感じだが、天皇家には認められないのは何故だろう。日本史の大問題だと思う。

 次は「沖縄とアイヌ」である。「やりなおし」も「ツボ」も、沖縄やアイヌの歴史がまったく触れられない。「中央史観」というか、「日本王朝」内部の問題に終始している。僕は単に「周縁部」や「マイノリティ」も見ておくべきだという意味で、沖縄やアイヌというのではない。ハワイ王国に500年も先がけて王権を確立した「琉球王朝」、一方最後まで王権確立を見なかった「蝦夷地」。両方を「日本」(天皇を中心とする王朝)と比較する視点が大切じゃないかと思うのである。

 日本を考えるときに重要なものとして「和食」(明治以後に成立する「日本式洋食」や「日本式中華料理」も含めて)がある。だが、それを支えたものは「蝦夷地」から北前船で関西に運ばれた昆布である。あるいは薩摩藩が琉球を支配して独占販売した「砂糖」なくして、和菓子はなく茶道もない。日本文化の洗練には、沖縄やアイヌとの関わりを考えることが欠かせない。もちろん近代になってからの苦難も考えないといけない。沖縄戦の中に「大日本帝国の本質」が現れている。前近代の沖縄やアイヌに関する知識は、一般にとても少ないだろう。是非そのような視点が必要だ。

 もう長くなるので後はテーマだけ示しておきたい。「差別とけがれ」「地震や台風」「温泉と観光」「選挙と入れ札」などが思う浮かぶ。他にもあるだろうけど、どれも僕が「日本史のツボ」と思うような観点である。差別はもちろん、災害や観光を社会史から考えるのは大切だろう。日本は欧米以外の国で人が死なない自由選挙をやってる珍しい国である。アジアで初の議会が成立した社会はどこに理由があるのか。もっと古い時期からの「選挙的な仕組み」を振り返る必要があると思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

内幕とやりなおしー日本史本の世界①

2018年03月23日 23時54分32秒 | 〃 (歴史の本)
 磯田道史「日本史の内幕」(中公新書)は人気の著者らしく新書部門のベストセラーになっているらしい。同じく本郷和人「日本史のツボ」(文春新書)も人気を呼んでいる。正直言って、そういう本はあまり読まないんだけど、野澤道生「やりなおし高校日本史」(ちくま新書)という本もあるから、まとめて読んでみた。個別テーマの歴史本と違って、一般向け概説みたいな本は敬遠することが多いけれど。

 磯田道史さんの「日本史の内幕」は、この中では一番読みやすくて面白い。磯田氏は映画になった「武士の家計簿」「殿、利息でござる」(原作「無私の日本人」)の原作者である。歴史ノンフィクションが映画化されるだけで珍しい。ほとんどが読売新聞に連載されたエッセイで、読みやすいのはそういう事情もある。この本を読むと、磯田氏がほんとに古文書が好きなんだなあとよく判る。

 歴史、特に日本史に関しては何かしら人に語りたいと思う人は多いだろう。今も司馬遼太郎で済ませている社長も多いだろうが、実はもうだいぶ古くなっている。でも新書レベルでも、今はずいぶん難しい。やさしくて面白くて、「訓話」とか「授業」にすぐ使えるエピソードがいっぱい。そういう需要に答えたような本だが、題名は期待外れ。「日本史の内幕」というほどの秘密情報はあまりなくて「秀吉は秀頼の実父か」の章ぐらい。それより「磯田道史の内幕」の方が多いし、ずっと面白い。

 この本は「古文書の楽しみ」あたりが正しい書名だろう。本当に古文書オタクみたいな話が満載だ。必然的に「近世」が多く、ちょっと広く取って戦国から明治初期ぐらいの話が多い。だから古代史や近代史の重要な話がない。それはもうやむを得ないので、エッセイ集なんだから「話のタネ」と思って読むのが正しい。もう少し日本の歴史を系統的に考えたいという人には、「やりなおし高校日本史」がお勧め。著者の野澤氏は愛媛県の日本史教師で、教科書やセンター入試なども使いながらいくつかのポイントを語っている。僕はこの本が一番面白かった。

 「やりなおし高校日本史」というけど、「日本史B」が対象だろう。Bというのは、週4時間を基本とする科目で、大学入試は大体こっち。職業高校や定時制高校は大体「日本史A」だと思う。ペリー来航以後の近現代を中心に扱うが、「やりなおし高校日本史」では最後の方の2章、明治14年の政変と昭和初期の2大政党の話である。それだけ。昔から「歴史の授業が戦争の前で終わってしまったから、戦争を知らない」なんて言われる。やってないから「やりなおし」の対象にならないのかと言いたくなる。高校日本史をやりなおそうというんだったら、今じゃ入試にもよく出る戦後史まで扱わないといけない。

 それはともかく、この本では桓武天皇じゃなくて嵯峨天皇、源頼朝じゃなくて後白河法皇など、人物の選び方に工夫している。さらに執権北条氏は将軍になれなかったの?ならなかったの?とか、生類憐みの令の評価など、この本に書かれている「日本史の内幕」が面白い。最初の方は判っている話ばかりだなあなんて思ったけど、だんだん語り口のうまさを楽しめるようになった。話自体は日本史に関心がある人には、珍しくはない。でも教材やエピソードなどの取り上げ方に工夫があって、読みごたえがある。ちょっと難しいかなという感じもするけど、イマドキちくま新書を読んでみようという人なら、このレベルでいいのかなと思う。

 ところで著者の野澤氏は愛媛県の中高一貫校で教えているとある。ということは育鵬社を使ってる(使わせられている)ということだ。愛媛と言えば、加計学園問題で出てきた加戸知事がいたとこで、石原都知事がいた東京と並んで、一番最初に扶桑社の中学歴史教科書を採択したところ。「歴史修正主義先進県」である。著者はさりげなく「アジア太平洋戦争」なんて書いているけど、「大東亜戦争」と書かれている教科書を使うことをどう考えているのか。書けない、書かないのかもしれないけど、僕は「今の日本人にとって歴史を学ぶとはどういうことか」こそ語って欲しいと思ったりもした。まあ、とにかく日本史をちゃんと考えるためには読んでみる価値がある。(「日本史のツボ」は次回に。)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「素敵なダイナマイトスキャンダル」が面白い

2018年03月23日 21時21分28秒 | 映画 (新作日本映画)
 富永昌敬(まさのり、1975~)監督の「素敵なダイナマイトスキャンダル」はとても面白かった。これは伝説的編集者の末井昭の自伝の映画化で、60年代末から80年代にかけての「昭和」が持っていた熱とやるせなさが存分に表されている。この題名は「母親が隣家の若い男とダイナマイト心中! という、まるで噓のような実体験をもつ稀代の雑誌編集者」という末井昭の書いた書名。

 1947年生まれの末井の時代は、まだ貧困や結核という前時代の影を背負って生きていた。都会の工場に憧れるが、大阪の工場は軍隊並み。川崎の父のもとに逃げ込むが、うっとうしい父を逃れて下宿し、そこで「出会い」があった。それからキャバレーなど底辺労働を続けながら、やがて小出版社でエロ雑誌を手掛け、写真家の荒木経惟とコラボしながら、「NEW self」「ウイークエンド・スーパー」「写真時代」と警察の摘発とイタチごっこながら、新感覚の雑誌を作ってゆく。

 これらの雑誌では、エロ写真さえあればいいだろうという感じで、南伸坊、赤瀬川原平、嵐山光三郎、田中小実昌、秋山祐徳太子、平岡正明らが執筆していた。そういうところが「伝説」でもあるんだろうが、でも僕はこれらの雑誌を読んでたわけじゃない。ほとんど知らないと言った方がいい。70年代にはいろんな面白い雑誌があったけど、「エロ写真雑誌」は買う範囲に入ってなかった。だから、面白いのである。知らない世界を知るというか、へえ、そうなんだという面白さである。

 編集長・末井の私生活もバクロされるが、「糟糠の妻」(前田敦子が好演)はほったらかしで、不倫相手と泥沼になってゆく。奥さん大事にしなよと思っちゃうけど、それでも奈落に落ち込むのが人間の性(さが)ではある。母親(尾野真千子)が不倫相手と爆発しちゃったという過去が、当然そこにも影響しているだろう。誰にも信用されないほどの出来事だが、母の事件は新聞にも載ったらしい。事実だと知ると、今度は周りの人間は「死んだ母親を利用している」と非難する。
  
 末井の人生を一言で表すと、「芸術は爆発だったりすることもあるのだが、僕の場合、お母さんが爆発だった」という卓抜過ぎるキャッチコピーとなる。とにかく度はずれた人物たちが繰り広げたムチャクチャの日々。30数年ほど前の話だが、ちょっと前の時代がこんなだったか。ケータイもスマホもなく、人は雑誌を買っていた。「コンプライアンス」なんて言葉はまだ知らず、ずいぶんいい加減が許されていた。それはセクハラ、パワハラが今よりももっと多かった時代でもあるだろうが、好き勝手に生きられる隙間が今より広かった感じもする。

 末井を演じるのは、柄本祐で素晴らしい存在感だった。もちろん安藤サクラの夫、というか柄本明と角筈和枝の子ども。脚本、監督の富永昌敬はけっこう見ている。2017年末の「南瓜とマヨネーズ」、太宰治原作の「パンドラの匣」(川上未映子が良かった)、ベストテン10位に入ったダメ教師もの「ローリング」など、それぞれ面白かったんだけど、いずれも今一つパンチに欠けた感がした。今度の作品が一番いいと思う。若手監督作品を多数手がけている月永雄太の撮影も良かった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画「しあわせの絵の具」、カナダのナイーブ派画家モード・ルイス

2018年03月22日 21時37分07秒 |  〃  (新作外国映画)
 カナダにナイーブ派(素朴派)の画家モード・ルイス(1903~1970)という人がいた。映画「しあわせの絵の具」で描かれていて初めて知った。ウィキペディアを見ると「フォーク・アート」と書かれていて、日本で初めて紹介されたのは「なんでも鑑定団」じゃないかと書いてある。故・大橋巨泉が彼女のコレクターで、2007年の番組に持ってきたんだとある。色彩豊かなホント素朴な自然が描かれていて、心ひかれる絵だなと思う。どんな絵かというと、こんな感じ。
 
 「しあわせな絵の具」はとても面白い映画だった。カナダの一番東、ノバスコシアの港町で生まれたモード・ルイスは豊かな自然の中で育った。映画ではスタジオじゃ感じが出ないので、ニューファンドランド島にオープンセットを作ったという。ホントは彼女が住んで絵で飾り立てた小さな住まいがあるんだけど、それは今は博物館に移築されている。

 モードは小さい時から家族からも疎んじられてきたようだが、それはリウマチで歩くことも大変だったかららしい。途中で判るけど、一度は(結婚せずに)子どもも生まれた過去もあるらしい。(家族から死産だったと言われた。)そんな彼女を借金まみれの兄は面倒見きれず、おばに預ける。何とか自活したいモードは、店に貼ってあった住み込み家政婦を求めるエベレットを訪ねる。孤児院育ちの彼は、魚の行商などをしながら、精一杯生きていた。そんな二人はうまくやっていけるのか。

 モードは何より絵を描くことが好きだった。やがて住み込みの小さな家の壁などに絵を描き始める。孤独な二人は少しづつ理解しあってゆくんだけど…。いさかいを重ねつつも、次第に売れて評判になる彼女をエベレットも認めていくようになる。ちゃんと結婚した二人だったけど…という話。無骨な男と無垢な女という取り合わせは、フェリーニの「道」を思い出すが、この映画は二人の住む家を動かない。この家を取り巻く自然が素晴らしく、画面を見ていても飽きることがない。

 なんだか人生に何が必要なのか、改めてしみじみ感じさせてくれる映画。主人公モードは、「シェイプ・オブ・ウォーター」で大評判のサリー・ホーキンス。なりきり演技が素晴らしい。エベレットはイーサン・ホーク。ほとんどこの二人が出ずっぱりで、印象的な演技。監督はアイルランド出身のアシェリング・ウォルシュという人。
(モード・ルイス本人の写真)
 画家の映画は割と多い。有名画家を扱う映画も多いが、ナイーブ派の映画も多い。グルジア(ジョージア)の「ピロスマニ」、ポーランドの「ニキフォル」、フランスの「セラフィーヌの庭」など忘れられない。日本の「裸の大将」(山下清)などもある。男は放浪出来るが、女性画家は家で描くことが多い。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ドリーム」と「20センチュリー・ウーマン」

2018年03月21日 21時20分25秒 |  〃  (新作外国映画)
 新作というか、去年の公開だけど、見逃していた「ドリーム」と「20センチュリー・ウーマン」をキネカ大盛りで見た。東京だと、まだ名画座的な二番館があるから、映画館で後追いできる。「ドリーム」はアカデミー作品賞にノミネートされ、日本でも大ヒットした。評判になったから当然見るつもりでいて、ずっとやっているから後回しにしていたら突然終わっていた。最近は新作が金曜公開で、木曜に終わってしまう映画が多い。金曜に見るつもりだったら、もうやってなかった。

 この映画はもう知ってる人が多いと思うけど、宇宙ロケット計画を進めていた60年代初期のNASA(米航空宇宙局)で「計算係」として働いていた黒人女性3人の「活躍」を描いている。原題は「Hidden Figures」、ヒドゥン・フィギュアズというのは「隠された人々」、まあ「知られざる人たち」といった感じだと思う。フィギュアというのは、フィギュアスケートやアニメなんかも模型のフィギュアと同じ。とてもよく出来た「快作」で、この映画の欠点を挙げれば破綻がないことだろう。

 「有色人種」と「女性」という「二重のマイノリティ」である人々が、困難を乗り越えて「国のために尽くす」。実にアメリカ人好みの構図で、政治的な配慮が行き届いている。NASAがこんなに差別的だったのかと思うと、映画は脚色されていて本当はここまでひどくなかった。その情報はウィキペディアで見たが、なるほどこの映画の「ウェルメイド感」(出来過ぎ的な既視感)は作られたものだったのか。それでもこの映画が面白いのは、先に「二重のマイノリティ」と書いたけど、実はもう一つ大きな問題を描いているからだと思う。それは「勉強できる女子」問題である。

 数学バリバリ、数式をチョーク一本でどんどん書いていける「天才」。それが男であったとしても、周りからは「がり勉」などと言われかねない。それが女性の場合、普通は「数学者」という進路は考えられない。勉強ができすぎる「メガネの女」は、人種を問わず同性にも異性にも敬遠される。だけど、数学の才能は人種や性別を問わないから、同じような苦しい思いを共有してきた黒人女性が一定程度存在したわけだろう。そのような人々が「国難」にあたって呼び集められたが、それは「知られざる歴史」だった。という「秘話」の持つ迫力である。

 一番出てくるキャサリンはタラジ・P・ヘンソン。ドロシーがオクタヴィア・スペンサー。「シェイプ・オブ・ウォーター」で清掃員をやってた彼女である。もう一人のメアリーはジャネール・モネイ。責任者がケヴィン・コスナー。女性管理職はキルスティン・ダンスト。キャサリンの再婚相手にマハーシャラ・アリ。「ムーンライト」でアカデミー賞助演男優賞を得た人である。脚本・監督はセオドア・メルフィ。去年ここでも書いた「ジーサンズ はじめての強盗」の脚本を書いた人。

 作品として同じぐらい面白かったのが、ジョン・ミルズ監督の「20センチュリー・ウーマン」。1924年生まれのシングルマザー、ドロシーに育てられている少年ジェイミーの15歳の日々を描く。1979年の話である。「ドリーム」の女性たちは1926年に生まれていて、ドロシーとほぼ同世代の「大恐慌世代」である。「ドリーム」で描かれた宇宙計画の時代、1964年にドロシーは当時としては非常に遅い40歳で子どもを産んだ。かなり監督の実体験を反映した物語になってるらしい。

 カリフォルニア州サンタ・バーバラで、母は働きながら子育てをしてきたが、思春期を迎えたジェレミーは今一つ判らない。幼なじみで2歳年上の女性ジュリーや、自宅の部屋を借りているアビーに助けを求めるけど、二人ともちょっとはずれている。同じくドロシーの家で部屋を借りてる大工のウィリアムを含めて、男2人と女3人の関わりが当時の風俗や性的な会話を含めて巧みに描かれていく。まあ思春期青春映画なんだけど、アメリカ映画によくある「セックスと暴力」映画ではない。

 母親がアカデミー主演女優賞に2回ノミネートのアネット・ベニング。実にうまい。そしてアビーがグレタ・ガーウィグ。「フランシス・ハ」や「マギーズ・プラン」のあの人で、監督に進出した「レディ・バード」も大評判になった。普通の意味での美人じゃなくて、どこか外れた個性派というムードを全身で出している。そして幼なじみのジュリーは、大活躍中のエル・ファニング。ここでも素晴らしく魅力的なんだけど、性的に進んでいるのにジェレミーには「幼なじみすぎて、その気にならない」なんて酷なことを言って何もさせない。夜に家を抜けてきて、同じベッドに寝てても何もない。そりゃ、ムチャだよと思うが、さすがにジュリーは架空の設定だという。

 そんな一風変わった女たちの中で大人になるということ。ジェレミーのそんな悩みがこの映画のテーマだろう。アビーはフェミニズムの本をジェレミーに与え、彼は頭でっかちに女性理解をしてしまうのがおかしい。カーター大統領時代の映像も交えて、70年代末の時代相を再現している。いつの時代も親と子、男と女は難しいものだが、こういう描き方もあったかと感じる。とても興味深い映画で、やはりアメリカというのは面白い国だなあと思った。出来は佳作だが、俳優を見る楽しみもあり、見逃せない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

トランスジェンダーの苦難、「ナチュラル・ウーマン」

2018年03月18日 20時54分12秒 |  〃  (新作外国映画)
 今年のアカデミー賞外国語映画賞を受賞したチリ映画、「ナチュラル・ウーマン」。トランスジェンダーの人生を、自らがトランスジェンダーの女優が演じて評判を呼んでいる。アカデミー賞外国語映画賞はけっこう要注意で、案外な作品が選ばれたりする。この映画もちょっと期待外れの出来かもしれないが、テーマ的に重要だしチリ映画は珍しいので取り上げておくことにする。

 冒頭にイグアスの滝が出てきて、「彼」は「彼女」にイグアスの滝への旅行をプレゼントする。(それも南米らしい。)その前にサウナのシーンと、「彼」が紙袋をなく捨て探すシーンがある。それも一種の伏線なんだろうが、その時点ではよく判らない。「彼」は会社社長オルランド、「彼女」はナイトクラブの歌手マリーナ。歌手なのかと思えば、後で判るがウェートレスが本職で、歌手はアルバイト。今日はマリーナの誕生日で、二人は仲よくお食事である。

 事前情報でトランスジェンダーの映画だと知らずに見れば、この二人はただの中年男女である。仲良く家に帰るが、深夜に運命が暗転する。彼が突然体調不良を訴え、なんとか病院へ運ぶけど、もうマリーナの存在は迷惑そのもの。それどころか、警察に疑われて付きまとわれる。彼の兄弟、離婚した妻などが現れ、葬儀にも来るなと言われる。やはりセクシャル・マイノリティの権利は認められず、苦しい思いをしながら「彼」を思い出していく。遺品のカギがサウナのものと知り、サウナに「潜入」したりもする。そんな様子を通して、強く生きて行こうとするマリーナの姿を描く。

 このマリーナを演じるのは、トランスジェンダーの歌手であるダニエラ・ヴェガ。歌手としては、映画の中で「オンブラ・マイ・フ」(ヘンデル)が流れる。他のものはいらないから、二人で飼ってた犬のディアブラだけは手元に置きたいと奮闘するのも何だかよく判る。ダニエラ・ヴぇガは自らの体験も映画に注ぎ込んだようで、非常に難しい立場をよく演じている。監督はセバスチャン・レリオで、ベルリン映画祭銀熊賞(女優賞)受賞の「グロリアの青春」が日本でも公開されている。どっちもチリという感じはしなくて、普遍的なテーマを扱っている。

 トランスジェンダー(Transgender)は、LGBTという時のTに当たるが、いわゆる「性同一性障害」のことである。「性自認」と「性別」が一致せず、性別を「超える、向う側へ行く」(ラテン語でトランス)状態の人々である。同性愛者のような「性的指向」とは違う。一見すると、同性愛者のように見えてしまうが、そうじゃなくて「心は違う性」なのである。(トランスジェンダーとしての「異性愛」だけじゃなく、トランスジェンダーの「同性愛」もあり得る。)チリでもやはり多くの誤解や反発に囲まれていることが判る。最近は性的少数者の映画が多いけど、その中でも注目の秀作だった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヨルゴス・ランティモス「聖なる鹿殺し」、再びの不条理劇

2018年03月17日 20時53分45秒 |  〃  (新作外国映画)
 ギリシャ出身のヨルゴス・ランティモスと言えば、あまりにもぶっ飛んだ「ロブスター」の監督である。独身が罪となり、限られた時間内に結婚しないと動物に変えられる。一体何なんだと思う筋書きだけど、映画そのものは確かに傑作だった。今回の「聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア」は、2017年のカンヌ映画祭で脚本賞を受賞。相も変わらず現実界を超えた不条理が身に迫る映画で、ヨルゴス・ランティモスの頭の中は一体どうなっているんだ?

 スティーブンとアナの医師夫婦をコリン・ファレルニコール・キッドマンが演じる英語映画。広角ぎみの処理された映像で、冒頭から何やら不穏なムードが漂う。音楽も不穏そのもの。広い家に二人の子どもたちと暮らす心臓外科医スティーブンに、なんだかよく判らないマーティンという16歳の少年が付きまとう。どういう関係か、なかなかつかめないが、どうやらマーティンの父はかつてスティーブンによる手術中に死亡したらしい。

 それが何らかの医療事故、あるいは事件だったとしても、責任は医師にしかない。ところが、下の男の子が突然足が不自由になり歩けなくなる。つまり「家族に呪いがかかる」わけだが、マーティンには不可思議な力があるのか、それとも予知できるのか。全然判らないが、とにかく不条理そのものの条件を突き付けられて、彼らの家族は翻弄されてゆく。そして究極の選択を迫れるラストが…。これはエウリピデスのギリシャ悲劇にインスパイアされているというけど、どうしてこんな嫌な話を思いつけるのかという感じの映画である。

 映画そのものはホントによく出来ていて、これは傑作じゃないか。でも多くの人が見て楽しめるという映画じゃない。意味を求めても仕方ないけど、そう言えば世界は不条理に満ちている。何の罪科がなくても、戦火やテロで生命を奪われるというニュースが毎日のように報じられる。戦争だからと言って、全員が死ぬわけではない。戦火のシリアであっても、「ある人の頭上に爆弾が落ち、ある人は助かる」のである。それがどうしてそうなったかの理由は見つけられない。

 だから人生は、あるいは世界は、存在した当初から不条理の中にある。この映画はそれを可視化したのだと言われれば、そういうことになるかもしれない。主人公が医師であることからも、アンドレ・カイヤット「眼には眼を」(1957)を思い出した。しかし、あれは医師が翻弄されるのであって、医師の家族の話ではない。その意味で「聖なる鹿殺し」の不条理性はもっと大きい。一体どうなるんだろうと画面から目が離せない。コリン・ファレル、ニコール・キッドマンともに、「ビガイルド」で見たばかり。ニコール・キッドマンは1967年生まれで、もう50歳。でも年齢を感じさせない、素晴らしい存在感。選ばれた出演映画はみな素晴らしく、大女優になったなあと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

原尞14年ぶりの新作、「それまでの明日」

2018年03月15日 21時15分02秒 | 〃 (ミステリー)
 「私が殺した少女」で直木賞を受賞したハードボイルド作家の原尞。超寡作で有名で、作家デビュー以後に長編4冊と短編集1冊、それにエッセイ集1冊(文庫は2分冊)しか刊行されていない。2004年に発表された「愚か者死すべし」からもう10年以上経った。1946年12月18日生まれだから、もう事実上引退なのかと思わないでもなかった。それが2018年1月1日、元旦恒例、早川書房の新刊広告を見たら、新作が出ると予告しているではないか。

 うっかり「御乱心」を先に読んでしまったけど、3月1日に出た「それまでの明日」も早速読まなくては。まあ、ミステリーの記事は反応が悪いので、簡単にしたいは思うけど、原尞の新作を待ち望まない読書ファンはいないだろう。西新宿・渡辺探偵事務所探偵沢崎。なんで沢崎が渡辺探偵事務所なのか、渡辺とは何者かということは、今まで読んでいた人には解決済みなので、ここでは省略する。日本にも私立探偵小説は数多いが、沢崎シリーズは間違いなく頂点にある。

 全部書いたら面白くないから、最小限のことを。西新宿のぼろいビル(いつもの懐かしいぼろビルがどうなるかも、一応読みどころなので注意)にある探偵事務所に、似合わぬ風体の紳士が訪れる。いつもの依頼者っぽくないけど、ミレニアム・ファイナンス新宿支店長の望月と名乗り、赤坂の料亭の女将の調査を依頼する。ちょっと調べ始めると、アレレ?っていう事情が出てきて、沢崎は直接ミレニアム・ファイナンス(まあサラ金らしい)に出かけることにする。

 ということで話しが始まるが、ミレニアム・ファイナンスで何と!という出来事が起きる。そして訪ねた目的の望月支店長はどこに行ったの?もう筋書きは書かないことにするが、あれよあれよの展開で沢崎も事件に巻き込まれるが、それは仕組まれたものだったのか。因縁の刑事やヤクザも登場し、いくつもの謎が交錯する。そして、そもそものきっかけの赤坂の料亭は、どう関係するのか? 一応ラストに大体解決するんだけど、何が本筋なのかにもよるが、小説内で一番大きな事件はスッキリしない。だが、それは沢崎の事件じゃないからいいんだろう。

 この小説はどうも犯罪をめぐる謎解きよりも、関係する人物たちの人生をていねいに描くことがテーマなんじゃないかと思う。特に就職氷河期に自分たちの求人ネット会社を立ち上げた海津一樹という若者。今まで読んだことのないような新鮮な人物で、沢崎さんはもしかして僕の父親じゃないですかなんて衝撃的セリフまで口にする。また赤坂の料亭にある肖像画にまつわるエピソードも哀切で心に残る。女優に似てると思ったら、案の定、山田五十鈴、田中絹代、原節子、高峰秀子の4人の想像肖像画しか描かなかった画家。評判を呼んで、4人の女優は実際に料亭に見に来たという。その時の高峰秀子の感想というのが、実にうまく出来てる。

 謎をめぐって一気読みだが、最後まで油断ができない。この小説は中に出てくるニュースから、民主党政権下の2010年秋と時期が特定できる。そうすると、次の年に何が起こった? それを思うと、これは次の物語が書かれなくてはならないと思う。正直言って、原寮は「私が殺した少女」と「さらば長き眠り」が最高じゃないかと思う。「さらば長き眠り」なんて題名、チャンドラーの名作3冊の「いいとこどり」(「さらば愛しき女よ」「長いお別れ」「大いなる眠り」)みたいで、読む前は何だそれと思ったんだけど、読めば全くその題名しかないと得心した。

 ハードボイルドは都市の時代性を反映する。バブル崩壊後20年、就職氷河期時代の東京が活写されている。その後「3・11」と「東京五輪」で東京は大きく変わってゆく。その前の東京を描いたという意味でも興味深い。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鄭義信「赤道の下のマクベス」を見る

2018年03月14日 23時17分04秒 | 演劇
 新国立劇場でやっている鄭義信(チョン・ウィシン)作・演出の「赤道の下のマクベス」を見た。25日まで。最近冬の間は前売券を買わないので(数年前にチケットがあるからと具合悪いのに無理して見に行って長引かせてしまった)、お芝居を見るのも久しぶり。一番の感想は、シネコンの座席に比べて、新国立の座席はお尻が痛くなるなあということだ。

 この作品は、朝鮮人戦犯問題を扱っている。はっきり言って、僕はテーマへの関心で見た。シンガポールのチャンギー刑務所に、6人の戦犯が収容されている。3人が日本人3人が朝鮮人で皆死刑判決を受けている。他に看守の英国人が3人いて、合計9人の男だけが舞台に出ている。奥に死刑台があり、左右に3つづつの独房がある舞台美術は見事だ。演技も素晴らしいんだけど、長くなるから以下ではテーマに関する問題にしぼって書くことにしたい。

 この問題は非常に重たい。舞台ではバカ騒ぎ的なシーンもあるが、そこにも当然死の影が射している。テーマ的にやむを得ないが、死刑執行のシーンまであって、さすがにどうかと思った。僕は暗くて重いストーリイは嫌いじゃないんだけど、前半を見終わった時は、この劇を紹介するのはやめようかなとも思ってしまった。多くの人に問題を知ってもらいたいけれど、それにしてもと思ったぐらいだ。でも終了後に若い観客の感想をたまたま聞いてしまった。春休みに入ったからか、大学生ぐらいの観客も多かった。それはいいんだけど、「6人いるんだから、3人の看守を襲っちゃうのかと思ってた」と大声でしゃべっている。いくら何でも、そりゃあないだろ。

 BC級戦犯とよく言われるが、日本の場合C級(人道犯罪)の訴追はなかったから、この劇でも全員B級戦犯(通常の戦争犯罪)である。ちょうど同じ時期に(2.24~3.10)に劇団民藝が木下順二「夏、南方のローマンス」を上演していた。この劇は2013年4月に上演されたときに見ているので今回は見なかった。その時に『「夏、南方のローマンス」とBC級戦犯問題』を書いた。BC級戦犯問題に関してはそこでも書いているが、植民地出身者の戦犯問題はそこでは取り上げていない。

 植民地(台湾、朝鮮)の出身者は、戦争末期になるまで「徴兵」がなかった。(志願兵制度は日中戦争初期に設けられた。当然のことだが、中国との戦争に朝鮮、台湾の青年を動員して兵器の訓練を施すことは、「逆効果の危険性」があった。)しかし、日本で人出不足が深刻化すると、「軍属」として捕虜収容所の下級職員などにたくさんの植民地出身者を使った。連合国は捕虜の虐待を重視したので、多くの朝鮮人、台湾人が戦犯として裁かれた。ウィキペディアの記述を見ると、朝鮮人148人、台湾人173人だった。その中には死刑となった者も多かった。

 BC級戦犯裁判では、通訳の不備、日本軍上官の偽証、連合国軍人や現地民衆の復讐心による不確実な証言など問題が多かった。捕虜虐待や民衆の虐殺などは現実にあったわけで、日本兵なら「日本の責任」としてやむを得ないと考えて自分で納得したものが多い。でも、なんで朝鮮人が日本の戦争犯罪を背負わなければならないのか。その不条理に耐えがたい思いをしただろうが、さらに戦後の朝鮮では「対日協力者」として家族も白眼視されることもあった。

 この劇では、「若くて泣いている李文平」「一度は釈放されたものの再び死刑判決を受けた金春吉」、そして「獄中で「マクベス」を読んでいる朴南星」と3人の朝鮮人が描かれる。題名にあるように、朴南星が劇の中心で、演劇が好きで獄中でも余興の芝居をしている。軍属の朝鮮人が文庫のシェイクスピアを読んでいるというのは、ちょっと無理がある。だが、マクベスを「補助線」に使って考えるというのが、この演劇の眼目だ。

 マクベスは夫人にそそのかされて、王を暗殺して自分が王になる。だけど、マクベス本人には責任がないのか。マクベスも自分なりに権力を握りたかったわけだろう。マクベスにも責任がある。自分らも、日本軍に使われて裁かれたが、自分でも死刑台への道を歩んでしまった。独立軍に入る道だってあったじゃないかというのは、当時の戦犯には無理がある。現時点での思考が当時のセリフとして語られるのには疑問があるが、非常に大事な問いだと思う。

 だけど「日本軍の責任をなぜ朝鮮人が負うのか」という大問題の前に、僕は目の前で展開される彼らを見ているともっと違う問題もあると思う。それは「冤罪」と「死刑」という問題である。戦争で多くの人が殺された。被害者側が敵国軍人の死刑を望むだろうことは理解できる。だから、死刑の前に戦争をなくさないといけない。でも戦争の後に、同じように国家が生命を奪う死刑を再考しないといけなかったじゃないか。演劇を離れて内容に関する話ばかり書いたけど、どうしてもテーマ的に楽しんでみるということができない。だけど、日本人として考えなければいけない問題だ。

 なお、この朝鮮人戦犯問題は今も続いている。有期刑で釈放された人に対しても、日本国家は軍人恩給などを一切払っていない。戦犯裁判では日本人として裁かれ、その後は外国人として排除された。そのような対応はヨーロッパ諸国ではなかった。とても恥ずかしいことだと思う。この問題を研究した本には、林博史「BC級戦犯」(岩波新書、2005)や内海愛子「朝鮮人BC級戦犯の記録」(1982、岩波現代文庫2015)などがある。どっちも読んだはずだが見つからなかった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伝説の書、三遊亭円丈「御乱心」復刊!

2018年03月12日 22時43分39秒 | 〃 (さまざまな本)
 新作落語の大家として有名な三遊亭円丈の「御乱心」(1986)という本がある。1978年に起こった落語協会分裂騒動の内情を徹底的に書きつくした本で、問題の書として伝説化している。古本ではいっぱい売ってるけど、今まで読まずに来た。(刊行当時は多忙で落語界の内情に関心がなかった。)それが今月の小学館文庫で復刊されたではないか。「師匠、御乱心!」と改題され、長いあとがきに加えて、円丈・円楽・小遊三の鼎談、そして夢枕獏の解説も加わった。
  (三遊亭円丈)
 これは買わずにいられないし、読まずにいられない。読み始めると、途中でやめられない面白さ。昭和の大名人の名前を全然知らないという人がいたとしても、これほどの「暴露本」の切実さに感じるものがあるんじゃないか。三遊亭円丈の師、三遊亭円生は戦後を代表する大名人で、桂文楽、古今亭志ん生亡き後、落語界最大の名人とされていた。1965年から72年まで落語協会会長も務めた。しかし、次の会長柳家小さんの代になって、真打を10人昇進させる方針となり、円生は「粗製乱造」を批判して対立が深くなっていった。
 (円生)  (小さん)
 ここでその後の経緯を全部書いても仕方ないけど、円生と一番弟子の円楽を中心に落語協会を脱退(1978年5月)。さらに、古今亭志ん朝立川談志と語らって、新たな協会設立をもくろんだが、席亭会(東京に4つある寄席の席亭の集まり)が新協会には非協力の方針を打ち出し、志ん朝も談志も落語協会に戻って行ったのである。円生一門は「落語三遊協会」を設立するも、翌1979年9月に円生が急逝。円丈らは協会に戻ることになった。この間の一年あまりの「悲劇の一門」の内情を赤裸々につづったものが「御乱心」という本である。
 (5代目三遊亭円楽)
 この本で一番印象的なのは、「悪役円楽」の存在感である。円丈師は今でこそ落語通には有名な存在だけど、分裂時にはなんと真打昇進披露の直後だったという。50日に及ぶ披露公演が終了した途端に寄席に出られなくなってしまった。円生は弟子にも詳しいことは何も説明せず、何がどうなっているか判らない。疑心暗鬼の日々が続くが、その間三遊亭円楽は一番弟子というより、ほとんど師匠を動かす黒幕的に事を進めている感じ。弟子たちはみな円楽を煙たがり、もっと言うと嫌っている。だが、大声で場を取り仕切る円楽の存在感のすごさ。

 円丈は新米真打だから、脱退組は「円生、円楽、円窓ら」などと新聞記事にも書かれ、「ら」の悲哀を味わう。弟子の中でも、さん生好生のように、協会に残った者もいる。残りたいと言って「破門」されたのである。(さん生は小さん門下で川柳川柳(かわやなぎ・せんりゅう)を名乗って、今も活躍している。好生は林家正蔵門下で春風亭一柳を名乗るが、円生死後の1981年に自殺した。)円丈も残りたい、寄席に出たいと熱望するも、「壮絶な説得」、実は「これがパワハラだ!」を受け、師とともに脱退する。しかしもう円生、円楽に対する気持ちは終わってしまったのである。

 円丈は協会に戻った後に、ものすごく多数の新作落語の傑作を作った。円丈なくして、上方落語の桂三枝(現・文枝)の新作もないし、春風亭昇太の存在もなかった。現在の落語界は大きく変わっていたはずだ。新作落語というのは、演劇で言えば一人で原作、演出、演技をこなすようなもの。音楽で言えばシンガーソングライターである。だから、円丈は自らの心の傷を癒すためにも、この壮絶な「暴露」を書かずにはいられない。その心理は非常によく判った。

 と同時に、師円生は脱退後に芸が研ぎ澄まされてゆく。自ら地方行脚を繰り返し、ホール落語にもよく出る。落語家として初めて歌舞伎座で独演会をやったのもその頃である。新協会を支えるために、仕事を毎日入れて、そして体は疲弊してゆく。その様を弟子円丈が冷静に見ている。ただ、寄席に出られないと、幹部クラスはホール落語やテレビに出られるからいいけど、前座・二つ目の修行の場がなくなる。ついてきた弟子のことを考えると、円生も円楽もリーダーとしてどうなんだと思う。そういう「組織論」としても考えるところが多い。

 この騒動は当時大きく騒がれたから、僕もよく覚えている。だけど、その当時は寄席にもホール落語にも縁遠かった。この本に出てくる有名落語家もほとんど見ていない。映画や演劇にはよく行ったけど、今のような落語ブームじゃなく寄席の敷居は学生には高かった。テレビ番組の「笑点」は当時の方がもっと人気番組で、かなり見ていたと思う。円楽(5代目)は司会者になる前で、「星の王子様」を名乗って大人気だった。実は円楽は僕と同じ小学校を出て、同じ町に住んでいた。町中で見かけることもあったが、何となくこの本で書かれたことも判るような気がする。

 20世紀末から落語を時々聞くようになり、円丈さんも何度も聞いた。うまく行くときは超絶的に面白いんだけど、だんだん老いた感じもある。新作だけでなく、古典もとても面白い。あえて円生に弟子入りし、壮絶な体験をする。それがその後の円丈を作ったんだろう。「御乱心」は70年代末の世相を知る意味でも面白い。円楽は何かというと「敗北主義はいけない」と説教する。「敗北主義」なんて政治用語、特に新左翼学生用語みたいな言葉を誰もが使っていた。一方、真打披露公演のご祝儀を節約して、円丈は前座を連れてソープランドに連れて行くなんて、今は書けないだろう話も生々しい。前座思いの「ちょっといい話」だったのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

森友文書書き換え問題②

2018年03月11日 22時40分37秒 | 政治
 森友文書書き換え問題の続き。12日にも財務省は文書書き換えを認める報告をすると報じられている。それを前提に、事態は「責任がどこまで広がるか」に移っている。この書き換えは法に触れるのだろうか。一回目の記事で、「書き換え、または変造、偽造」と表現した。僕は本質の問題としては「偽造」に近いと思うのだが、それが違法行為かどうかははっきりと言えないと思う。(司法当局は立件しない方針と伝えられる。)

 公文書「偽造」は、公文書を作成する権限がない者が公文書をまねた文書を作る行為だから、今回の事態には該当しない。「正式に決裁権限のある者が、書き換えた文書を改めて決裁した」わけで、決済する権限自体はある。ある意味で「二つの文書はともに正式な文書である」と言い抜けられる側面もある。(もっともそんな形式的議論をすれば、「決裁文書の書き換え」を別に起案決済していないとまずいのではないかと思うが。)

 だが、このような議論をしていても「書き換えに関わった公務員の責任」という枠を出られない。同じ起案番号を取るのは一般職員の権限では難しいだろうから、何らかの幹部職員の関わりが考えられる。一部では辞任した佐川国税庁長官、当時の理財局長の国会答弁に合わせるため、佐川氏の指示があった可能性が言われている。それはありうると思うが、では佐川氏だけに責任があるのか。佐川氏をかばい続けてきた麻生財務相にも重大な政治責任がある。

 佐川氏にも麻生大臣にも、「何のために財務省の文書が書き換えられたのか」を問わなければいけない。それは佐川氏や麻生氏の自己保身のためではない。今回はっきりしたのは、財務省が「本件の特殊性」を自覚していて、それは国会に知られてはまずいことだったことである。何故だろうか。普通に考えれば、森友学園への破格の国有地払い下げには首相夫人の影響力が働いていたということだろう。だからこそ、書き換え文書を国会に出してきたわけである。

 いや、この「特殊性」とはそういうことではないと言い張ると思うが、書き換えたという事実が事態の重大性を示している。最初に書き換えの法的議論のところで「本質の問題としては偽造に近い」と書いた。それはそういう意味で、「首相夫人の関与が考えられる表現」が削除されて発表されたのだから、「歴史を偽ろうとする悪意」で行われた。そして佐川氏や麻生大臣の国会答弁は、自己の所属する組織を守るためでもあるだろうが、それ以上に安倍首相を守る目的だった。

 佐川氏は国税庁長官を辞任し、記者会見した麻生大臣によれば今後さらなる処分もありうるとのことだ。そういうことを平気で言ってるけど、本来なら麻生大臣も辞めるか、少なくとも自分がトップを務める組織で起こったことを謝罪するべきだ。だが、佐川氏や麻生氏はそれでも国会で答弁せざるを得ないが、この決裁文書の時点では「名誉校長」だった安倍首相夫人は何らの説明をしていない。「小学校の名誉校長」には(その後辞めたと言っても)社会的責任があるはずだ。「あの夫にしてこの妻あり」(またはその逆)かもしれないが、これで済ませてはおかしい。

 以上の議論は森友学園問題の話だが、もう一つ重大な論点がある。国会に提出する文書を書き換えたという点である。国会は国権の最高機関である。行政の側でここまで国会をないがしろにしたことがあるだろうか。現実にはいっぱいあるとも言えるが、これほどヒドイ問題は記憶にない。このままでは国会の権威が(いま以上に)地に堕ちてしまう。国会の側で厳しく対応しないといけない。少なくとも「財務相のクビを持ってこい」ぐらいにならないと野党の意味もない。

 官僚の目もこの問題の行く末を注視しているだろう。こんな書き換え、当事者以外は誰も判らないから内部からの情報があったと推測できる。あまりにもひどいので、保険の意味でコピーを取っておいたのだろう。だが前川氏は個人の行動を新聞に書かれたし、プサン総領事は個人的会食時の会話が官邸に知られてクビになった。非常に用心深く行動せざるを得ない。だが今年になっても、「働き方改革」でのデータ問題なども、政治家ではなく官僚の責任にされかねない。官僚の処分だけで終われば、もはや安倍政権のために汗をかく官僚はどこにもいなくなるだろう。

 最後にもう一点。朝日新聞はなぜ3月2日に報道したのだろうか。その日まで確認作業が必要だったと言うだろうが、それでもここまでの特ダネなら「いつ書くか」を考えないはずがないと思う。ピョンチャン五輪が終わり、パラリンピックと「3・11」までの間。そして、衆院での予算案通過直後。もしこの報道が26日(月)だったら、予算案の衆院審議は止まったのではないだろうか。2月28日に衆院を通過したことにより、憲法の規定で予算案の年度内成立が確定した。僕はそれを待って報道したような気がする。

 予算成立には影響させないことで、安倍政権の反発は多少は和らぐはずだ。一方、25日に予定されている自民党大会までに決めるとされている改憲案の取りまとめは、もし麻生辞任などの「政局」になればかなり難しいのではないだろうか。今回の書き換え問題は、安倍総裁の3選、憲法改正発議にも大きな影響を与える事態になるだろう。それほど重大な特ダネは、やはり報道時期を考えてなされたように思うのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

森友文書書き換え問題①

2018年03月10日 23時18分03秒 | 政治
 時事問題を書いてない間に事態がいろいろと大きく動いた。外では「米朝首脳会談」が実現しそうだし、トランプ政権は鉄鋼・アルミに高率の関税を掛け輸入制限に踏み切るとしている。これらの問題はすごく重大だけど、その前に国内の「森友文書書き換え問題」を書いておきたい。

 3月2日(金)の朝日新聞朝刊は、大きく「森友文書 書き換えの疑い」と報道した。一読「にわかには信じがたい」という気もしたが、ここまで大きく報道したんだからよほど自信があるはずだ。直ちに国会で問題化したが、財務省は「捜査中」を理由に、明確な答えをしない。(捜査というのは、背任等で近畿財務局が告発されていて、文書は大阪地検に押収されている。)この間、明確に否定しないことで、なんだか怪しい感じを与え続けてきた。その時点では週末に調査し、翌週火曜までに報告をすると収めたが、その日はそれまでと同じものを出してきた。
 (3.2付朝日朝刊)
 ところで、この問題は今週末にも急転しつつあり、週明けには財務省が書き換えを求める方針だと一部で報道されている。「事実の問題」としては決着したのではないかと思うが、問題の本質や責任問題が大問題になるだろう。しかし、朝日の報道後はしばらくこう着状態が続いた。他紙も「一部報道によれば」「国会で野党が追及」という報道しかしなかった。だから、朝日新聞を読んでないと何が起こったのか、判ってない人も多いんじゃないか。

 東京新聞は9日朝刊になって、この問題の解説記事を掲載した。それを紹介すると、「書き換えが疑われるのは、森友学園との土地取引の際に財務省近畿財務局が作成した2015年の貸付契約と、16年の売却契約に関する決裁文書。いずれも、朝日が確認したとする契約当時の文書と、問題発覚後に国会議員らに開示した文書とは、内容に違いがあるとした。」「文書はいずれも一枚目に決済完了日や局幹部の決済印があり、二枚目以降に経過や内容が記され、起案日、決済完了日、番号が同じだった。」「だが、契約当時の文書には『特例的な内容となる』『本件の特殊性』『価格提示を行う』など、開示文書に記載のない文言があった。」

 ところで、同時に東京新聞の同じ紹介記事で、「同社が『確認した』とする決済文書の内容をもとにした続報で、開示文書との相違点を指摘する一方、朝日が『確認した』とする文書の写真は掲載していない。」と意味深な解説を載せている。これを常識的に判断すれば、朝日は文書を「確認した」のであって、他社マスコミに提供できる文書を入手していない可能性が高い。だから、他社は安倍政権に批判的な毎日、東京などもすぐに後追い報道ができない。一方で読売や産経も朝日を誤報と批判できない状況が続いたのだと考えられる。

 さて8日になって毎日新聞が、朝日が削除されたとする「本件の特殊性」などの表現が他の文書にもあることを確認したと報道した。これでやはり、もともとは「本件特殊性」と書かれた文書があったのではないかと思われるようになった。朝日はいくつかの文書を混同したのではなどと言う人もいたが、朝日報道では「起案番号が同じ」と明記されている。起案番号が同じ文書が二つあるわけがない。どっちかが書き換え、もっと言えば変造、偽造である。

 朝日新聞は「吉田証言」や「吉田調書」の記事を取り消した過去があると言う人もいる。しかし、慰安婦問題の「吉田証言」、福島第一原発所長の「吉田調書」、いずれもその記事に問題ありと取り消しになったが、吉田証言、吉田調書自体は厳然として存在する。一方、同じ起案番号の文書が二つあるわけがないから、これが誤報だとするなら、「誰かが朝日に誤報をさせた」ことになる。現実にはない文書を朝日に持ち込んだ謀略事件になる。まあ、菅官房長官あたりなら、朝日と麻生ともに権威失墜させる高等謀略を仕組めるかもしれないが、いくら何でも考え過ぎだろう。

 常識的に考えれば、朝日が文書自体を公開しないのは、公開すれば誰のものか判ってしまうからだろう。あるいは、「確認」しただけで、コピーを入手できてないのかもしれない。もう大昔のことだが、1971年の沖縄密約事件では文書を示したことで、文書の漏えい先が判ってしまった。決裁印の部分を隠したとしても、文書チェックのクセ(下線を引く、チェック印をするなど)で誰が持っていた文書か特定が可能なものなのではないか。だから、やはり書き換えがあったのだろうと僕は当初から判断している。(今日はここまでで、もう少し続けることにする。)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする