尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「アリスのままで」と「人生スイッチ」

2015年07月30日 21時04分48秒 |  〃  (新作外国映画)
 昨日は「マッカーサー記念室」を見る前に、映画「アリスのままで」を見た。記念室は二人入れるので夫婦で行ったのだが、銀座周辺でそれなりの年の夫婦が見る映画はこれかなということで。確かに若い人はほとんどいなくて、夫婦とおぼしき連れも多かった。こういう映画も必要である。その前日に「人生スイッチ」という映画を見た。これはまた、ちょっと類例を見ないほど忘れがたいトンデモ映画で、映画の作り方もまだまだアイディアが残されている。
 
 「アリスのままで」は、ジュリアン・ムーアアカデミー賞主演女優賞を獲得した映画で、若年性アルツハイマー病に侵された言語学者を演じている。若年性と言っても50歳なんだけど、これはアルツハイマーとしては若いということだ。家族性で、遺伝すると描かれている。ウィキペディアによると、映画の説明は正しいようだが、家族性はアルツハイマー型認知症の1%ほどで、遺伝子も特定されているということである。もう完全にアルツハイマーになり切っていて、確かに名演である。最近では「愛、アムール」のエマニュエル・リヴァのような、高齢女優が認知症患者を演じるのはいくつか思い出せる。だけど、50歳というのは体力もあり、キャリアの中途で記憶が減退していくという恐怖は非常に大きいだろう。そこがこの映画の見所で、感動的なスピーチ場面など、忘れがたい名場面がいくつもある。

 だけど、映画としては案外淡彩で、スラスラ見られてしまって、淀みがどこにもない。それはそれでいいんだけど、こういうアメリカ映画というのは結構多いなと思う。家族を描いて、丁寧な演出で見事に見せる。だけど、本人が大変な分、活躍する言語学者、医学者である良き夫と3人のこども。設定が恵まれすぎている。家も大きいし。だから病気になってもいいということはないわけだが、まあ、それまで恵まれていたんだからと思ってしまう。もっとも、18歳の時に母と姉が事故死して辛かった過去を持つが、傷心のギリシャ旅行で夫と知り合ったらしい。リチャード・グラッツァーウォッシュ・ウェストモアランドという二人が脚色、監督している。グアッツァーは4年間の闘病の末、今年3月に亡くなったという。そういう体験もこの映画に入っているのか、患者の恐怖や自尊心がきめ細かく描かれている。まさに「夫婦50割引き」向き映画ではないかと思う。

 一方、「人生スイッチ」というのは、アルゼンチンで大ヒットしたという映画で、アカデミー賞の外国語映画賞にノミネートされた。しかし、アート系映画ではなく、ひたすらブラックなコメディで、というかこれは笑えるコメディと言えるかどうか不明なほど、ぶっ飛んでいる映画である。大体6つの挿話に分かれたオムニバス映画なんだけど、ストーリイ上のつながりはない。だけど、設定の共通性があり、入れてはならない「人生スイッチ」を入れてしまった男女の物語である。人生には不条理が無数にあるが、まあやむを得ないからみんな我慢して暮らしている。たまに駐車違反やスピード違反を取られても、他に違反車はいっぱいいるではないか、もっと悪質なのがいっぱい…と思うけれども、まあ違反は違反だしと不運を嘆きつつ罰金を払うしかない。だけど、不運に不運が重なり、駐車禁止でもない場所でレッカー移動されたのを始め、毎日毎日レッカー移動されてしまったら。そしてその人が爆破の専門家だったら…。展開は言わずとも判るだろうが、スピーディな演出で、見事に興味を引きずっていく。

 今の話は4話目なんだけど、最初に出てくる超絶の機内恐怖は驚きのひとこと。で、どうなったということで話が変わって、次の挿話に関係するかと思うと、全然つながらない。3話目の車のドライバーどうしのケンカ、6話目の結婚式が夫の浮気発覚でぶっ飛ぶというようなストーリイは、どっかで見たような話なんだけど、ここまでアナーキーなのも初めてか。「ハングオーバー」なんかもハチャメチャだけど、その混乱ぶりを笑って見ていられる。「人生スイッチ」は各挿話がみな悪意を秘めていて、そのぶっ飛び具合がすごい。いや、映画のタネはつきない。脚本、監督は1975年生まれのアルゼンチン人、ダミアン・ジフロンという人で、日本初紹介。だけど、スペインのペドロ・アルモドバル監督と弟のアグスティン・アルモドバルが製作を務めている。自ら名乗りを挙げたというだけの、面白い脚本。暑すぎる夏に、ふさわしいような映画かな。
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マッカーサー記念室を見にいく

2015年07月29日 21時05分08秒 |  〃 (歴史・地理)
 東京のお堀端に立つ第一生命館。日本が占領されていた時に、そこはGHQに接収され連合国軍最高司令官マッカーサーが執務する部屋が置かれた。返還後も部屋は当時のままに残され「マッカーサー記念室」となっている。ある時期までは常時公開されていたが、いつからか原則的には非公開とされた。今年は戦後70年ということで、完全事前予約制だが特別公開を行っている。これに当選して、29日の午後に見に行ってきた。「第一生命館」は1938年に建てられ、東京都選定歴史的建造物に指定されている。1995年に中央農林金庫と一体化した高層ビルとなった。写真にある奥の高いビルがそれ。
  
 受付を済ませて(本人確認がある)、エレベーターに案内され6階に上る。多少待ったが、ものすごく混雑しているわけではない。廊下を少し行くと、マッカーサー記念室。隣が第一生命の歴史資料室。そこは私室に使われていたらしい。また廊下の向かいにある貴賓室が、応接室として使われていた。この3つの部屋を見ることができる。記念室に入ると、真ん中に机があり、向こうに椅子が一つ、入り口側に椅子が二つ。左奥に銅像があり、彫刻家川村吾蔵が作り、1996年から飾られているとある。写真は撮れるが、見学者が多いし窓から午後の光が差し込んで撮りにくい。ここでは、千代田区観光協会掲載の写真を使うことにする。記念にくれたクリアファイルの表裏も載せておきたい。
   
 部屋は案外小さい。考えてみれば当たり前で、マッカーサーが来ると想定して作った部屋ではない。日本人の社長が入る社長室だったわけである。こういうところを見る時にいつも感じるが、歴史的な想像力を刺激されるヒマもなく、淡々と見てしまう。部屋の中には、絵が二つ架かっている。どちらもイギリスの海洋画家オルドリッジの絵で、「アドリヤ海の漁船」と「干潮」。元々この部屋に架かっていたもので、マッカーサーはそのまま飾っていた。他にも家族のレリーフ、写真や肖像画、サミュエル・ウルマンの「青春の詩」などが置かれている。皇居を見下ろしているわけではなく、お堀もほとんど見えない。社長室がそんな道路側に置かれるはずがない。(写真は資料室から見たもの。)
  
 クリアファイルに入っていた資料は判りやすくて面白いので、最後に載せておきたい。マッカーサーと当時の日本人、あるいは占領期のさまざまな政策に関しては多数の本が出ている。中公文庫の袖井林二郎「マッカーサーの二千日」は、なかでも一番興味深い。ともかく、この部屋がある一時期には日本の(実質的)最高権力者の執務室だった。ここで執務していたのかと思うが、第一生命に返還され(1952年9月17日)、この部屋だけ隔離されたように案内される。何だかあっけなく見終わって、そそくさと厚い東京の夏に戻ってしまう。そんな見学だった。見学出来て良かったけれど。なお、第一生命のホームページの「マッカーサー記念室」から、部屋の様子を見ることができる。
 
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都教委、ふたたび育鵬社を採択

2015年07月28日 22時40分09秒 |  〃 (東京・大阪の教育)
 7月23日(木)に行われた定例に東京都教育委員会で、中高一貫校の中学校特別支援学校で、来年度から4年間使用する教科書が選ばれた。予想された通り、今回もまた(前回に続き)、社会科の歴史と公民両分野ですべての学校で育鵬社が採択された。くわしい採択結果は、都教委HPの「平成28年度使用都立中学校及び都立中等教育学校(前期課程)用教科書並びに都立特別支援学校(小学部・中学部)用教科書の採択結果について」に掲載されている。

 毎回のことだが、今のところ何の理由説明もない。実に不思議なのだが、例えば中高一貫校の国語地理を見てみたい。国語は全10校のうち、光村図書が7校(白鴎、小石川、両国、桜修館、立川国際、大泉、南多摩)、学校図書が2校(武蔵、三鷹)、東京書籍が1校(富士)と3社の教科書に分かれている。社会科でも地理分野は、東京書籍(7校)、日本文教出版(2校)、帝国書院(1校)と3社に分かれている。中高一貫といえども、各校で重視する所は少しずつ違うので、教科書が違ってもいいだろう。だけど、歴史と公民に限って、すべての学校で育鵬社なのである。右派系だったら自由社もあるというのに、「なんで自由社ではないのか」さえ判らない。今は細かく分析しないが、「平成28~31年度使用教科書調査研究資料(中学校)について」という資料を見ても、何にも判らないのも例年と同じ。

 もっともこの結果は、大方の人が事前に予測していたことである。決めたのは、教育委員の6人である。新たに今年の4月から、教育長になった中井敬三氏(それまでは東京都の財務局長)の他、木村孟(きむらつとむ、元東工大学長、前独立行政法人大学評価・学位授与機構機構長)、竹花豊(元東京都副知事、元警察庁生活安全局長)、乙武洋匡山口香(筑波大准教授、女子柔道指導者)、遠藤勝裕 (日本学生支援機構理事長、元日銀神戸支店長)の計6人が現在の委員である。木村、竹花両氏が石原知事時代、乙武、山口両氏が猪瀬知事時代、中井、遠藤両氏が舛添知事時代の任命である。だから、もう「石原元知事の意向」などではありえないだろうが、この間に作り上げられてきた強権的教育行政には目だった変化が起こっていない。やはり石原時代以来の路線を支持する多数派が形成されていると考えられるのである。

 今回は投票が割れた。前回も一人他社だったが、今回は二人である。歴史では、全校で4人が育鵬社、2人が東京書籍。公民では、全校で4人が育鵬社、6校で教育出版、4校で東京書籍。以上の投票結果を見ると、4人が多数派(育鵬社支持)で、2人の反対派が存在する。無記名投票なので、誰がどの社を推したかは不明である。ただ、7月24日の乙武氏のツイッターには「全会一致だったわけではなく、育鵬社に票を入れなかった教育委員が6名中2名いたことも、きちんと報道してほしい。 /都教委 育鵬社の教科書を採択 - NHK 首都圏 NEWS WEB 」というNHKニュースの報道にかんする「つぶやき」が投稿されている。ニュースが採択結果だけを報じるのは当然ではないかと思うけど、自分が育鵬社だったら、こういうことは言わないだろう。常識的に考えると、乙武氏は他社を推したのだろう。

 今回注目されるのは、採択理由を公表すると教育長が発言していることである。23日付の東京新聞では、以下のように報じている。「委員会後に取材に応じた中井敬三教育長は「採択理由は各委員から聞き取りをして、一カ月後に都教委のホームページに載せる」と話した。」これは期待できるのだろうか。いつものように、法令に基づいて適切に採択したなどというだけではないかとも思う。普通、採択理由といえば、なぜその社の教科書がふさわしいかの中身がなければ無意味である。ぜひ、理由ある説明を聞きたいと思う。また、竹花委員は今年9月、木村委員は来年10月で任期を迎える。それぞれ、2期、3期と長期間委員だったので、時期が来れば勇退すると思われる。その後の新委員が誰になるか、非常に重大ではないだろうか。場合によっては、多数派が交代する可能性もありうるのだから。なお、今回の都教委を傍聴していた小松久子都議(生活者ネットワーク、杉並区)のブログもぜひ参照を。また根津公子さんの都議会傍聴記も参考になるので、ぜひ。
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中学教科書で「憲法制定過程」を比べてみる

2015年07月28日 00時30分34秒 |  〃 (教育問題一般)
 前回書いたように、中学社会科の歴史分野の教科書を比較してみたい。取り上げるのは、日本国憲法の制定過程がどのように書かれているかという問題である。ただし、自由社は取り上げないことにする。また清水書院も取り上げないが、これはうっかりミス。(南京事件などを書き移しているうちに、憲法制定の方を忘れてしまったので、他意はない。)公民教科書でも、もちろん憲法制定は記述されているが、当然だろうが、その社の歴史教科書とほぼ似たような記述になっている。公民には「学び舎」版がないので、歴史で比較することにしたい。

 全部を引用すると長くなり過ぎるので、途中で省いたものもある。教科書により、GHQとあったり、連合国軍総司令部とあったりするが、そのまま記述する。日本の降伏で、それまでの章が終わり、戦後民主化の最初の部分に記述がある。焦点は、「もともとの政府原案をどう記述するか」「民間草案を取り上げているか」「議会審議をどう記述しているか」などである。東京書籍から見てみたい。

東京書籍 民主化の中心は、憲法の改正でした。日本政府は初めはGHQの指示を受けて改正案を作成しましたが、大日本帝国憲法を手直ししたものにすぎませんでした。そこで、徹底した民主化を目指したGHQは、日本の民間団体の案も参考にしながら、自ら草案をまとめました。日本政府は、GHQの草案を受け入れ、それをもとに改正案を作成しました。

 帝国書院教育出版日本文教出版も同じような書き方になっている。
帝国書院 GHQの指示で、日本政府は新しい憲法の制定に着手しました。政府原案ができましたが、その案では民主化が徹底されないと判断したGHQは、日本の民間団体などの憲法草案も参考にしながら、みずから草案を作って日本政府に示し、修正をうながしました。
教育出版 連合国軍総司令部は、日本政府に対し、憲法の改正を指示しましたが、政府の改正案は大日本帝国憲法の一部を修正しただけでした。そこで連合国軍総司令部は、民間の憲法研究会案なども参考にした草案をつくって政府に示し、政府はこれをもとに新たな草案を作成しました。この案は議会での修正を経て…
日本文教出版 総司令部は日本の民主化の基本として、日本政府に大日本帝国憲法の改正を命じ、政府は総司令部が作成した草案をもとに改正案をまとめあげました。

 これらは大体、次のような理解に立っている。政府の改正案は「大日本帝国憲法の手直し」程度で、GHQは日本の民主化を求めて、民間団体の案も参考に自ら草案を作成し、それが日本国憲法となった…といったようなものである。つまり、政府案がダメだった(国民主権ではなかった)、単なるアメリカの押し付けではなく、日本の民間団体の案が参考にされた。(民間団体とは主に「憲法研究会」を指している。)これが現時点でのほぼ共通した理解だと言えるだろう。だけど、ここには、GHQ案作成のそもそもの理由、あるいは議会審議の過程がほとんど出ていないといった問題点もあると思う。そこで「育鵬社」と「学び舎」という、両極方向で「特色ある記述」を検討してみたい。

育鵬社 GHQは、日本に対し憲法の改正を要求しました。日本政府は大日本帝国憲法は近代立憲主義に基づいたものであり、部分的な修正で十分と考えました。しかし、GHQは日本側の改正案を拒否し、自ら全面的な改正案を作成して、これを受け入れるよう日本側に強く迫りました。
 天皇の地位に影響がおよぶことをおそれた政府は、これを受け入れ、日本語に翻訳された改正案を、政府提案として帝国議会で審議しました。議会審議では、細かな点までGHQとの協議が必要であり、議員はGHQの意向に反対の声をあげることができず、ほとんど無修正のまま採択されました。

 育鵬社をみると、政府案は「(大日本帝国憲法は)近代立憲主義に基づいた」という政府側の説明があり、うっかりそうなんだと「誤読」しかねない。しかし、帝国憲法では内閣総理大臣は選挙結果と無関係に選ばれるのだから、「近代立憲主義」としては不十分だろう。また「ほとんど無修正」と議会審議を軽視しているのだが、それは現在の研究水準からすると正しいとは言えない。しかし、「天皇の地位」を守るために日本政府は受け入れたという記述がある。これは大きな意味で正しいと言えるだろう。敗戦後の天皇の地位をめぐる問題は、重大な問題だったわけだがほとんどの教科書は触れない。育鵬社は、天皇制重視の観点から、こうした記述があるのだと思う。

学び舎 (前略)政府は、GHQの草案をもとにして、新たな憲法改正案を作成します。戦後初の選挙で選ばれた衆議院議員がこれを審議しました。このなかで、国民主権が明記され、生存権が定められるなど重要な修正が加えられました。
 提案された憲法改正案では、義務教育は小学校までとされていました、教師たちは、貧しさのため通学できない子供たちがたくさんいることを取り上げ、中学までを義務教育とするように求めました。各地で集会を開き、署名を集めて運動し、帝国議会はこれを受け入れました。

 学び舎の記述は、GHQ草案以後を引用したが、戦後初の衆議院選挙で選ばれた議員が審議したことを重視している。その選挙では、女性の参政権が初めて認められ、女性議員が多数当選していた。(ただし、沖縄選出議員はいなくなり、「内地」に住む旧植民地出身者の選挙権は認められなくなった。)そして、その議会審議では、重要な修正が加えられたと記述されている。特に、生存権(25条)が定められたことは重大である。これは案外知らない人が多い。社会党の修正案が通ったのである。

 また、当初案では義務教育が小学校に限られていた。戦前に男子の青年学校が義務化されていた。(これは小学校卒業後に、中学に進学しない大多数の子どもたちは、徴兵検査時の学力が低下していて困るという軍の意向もあった。)だから、当初政府案では、戦後にかえって退歩してしまう可能性があったのである。当初の政府案の第2項を見てみる。
 「すべて国民はその保護する児童に初等教育を受けさせる義務を負ふ。初等教育はこれを無償とする。」児童の初等教育とは、小学校のことである。ちょっと見逃してしまいがちな条項だが。
 現在の憲法では以下のようになっている。「すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。」
 
 こうして、中学校までが義務教育となったのである。これも知らない人がまだ多いのではないかと思う。だが、中学教科書なんだから、この重大な事実を載せて、ぜひ多くの中学生にも知ってもらいたいと思う。そういう意味で「学び舎」の記述は重大な意味を持っているのではないか。(条文等は、古関彰一「日本国憲法の誕生」による。)こうした点をみると、育鵬社の「ほとんど無修正のまま採択されました」という記述には問題があると思うが、どうだろうか。
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育鵬社教科書の「工夫された偏り」

2015年07月26日 22時48分18秒 |  〃 (教育問題一般)
 先に書いた育鵬社の公民教科書問題を投稿し直して、ここから数回書くことにしたい。4年前は「南京事件」(歴史)と「原子力発電所」(公民)の記述を各社で比較したのだが、今回はそれは行わない。何だか記述が似てきて、比較する意味が少なくなっているからである。

 ただし、育鵬社の公民には、「人類のエネルギー問題を根本的に解決するには、人工の太陽をつくり出す核融合発電の実用化を待たねばなりません」(201頁)という「トンデモ記述」がある。しかし、それと別にエネルギー問題のところでは、「2011年の東日本大震災でおきた福島第一原子力発電所の事故のように、一度事故がおきれば取り返しのつかない大きな被害が生じる。また、使用後の核燃料を無害に処理できる技術が開発されていないため、長期にわたって危険な放射性廃棄物が蓄積されるという問題もあり、対応が求められている。」とある。まあ、どの社もこういう風に書くことが多いわけだ。

 自由社の歴史教科書では、1937年12月の南京事件(南京大虐殺)について注でも触れていない。一方、教員経験者などが教科書会社を立ちあがて執筆した「学び舎」版は、他社に比べて戦争の被害、加害ともに詳しい。そういう違いはあるが、帝国書院は簡略化が目立つ。今回は「南京では、兵士だけでなく、多くの民間人が殺害されました。(南京事件)」という記述である。前回は、「南京では、兵士だけでなく、女性や子どもをふくむ多くの中国人を殺害し、諸外国から「日本軍の蛮行」と非難されました。(南京虐殺事件)しかし、このことは戦争が終わるまで、日本国民には知らされませんでした。」と比較的詳しかった。このような「変化」が今回の各社を通した特徴とも言える。

 全体的には、外形的な面での「大型化」が一番目につく。昔の教科書というと、B6版の分厚い本で、白黒の文字がズラッと書いてあった印象が強い。しかし、最近ではA4版サイズでカラー写真や図版がふんだんに使われて、実にカラフルになってきていた。今回は、特に社会科で目立つように思うが、さらに大きな判型を使う社が多い。育鵬社もそうだし、東京書籍もそう。学び舎はもっと大きい。中学生は高校と違って、原則的には学校にロッカーがないはずである。学校に置いていけず、持ち帰るように指導していると思う。こんなに大きな教科書でいいんだろうかと疑問に思う。小学校を出たばかりの生徒には重すぎないか。現行の教科書は、社会科の場合、758円に統一されている。だから、低価格にして競争するという経営戦略は成立しない。逆に、紙を大型化して図版等を増やしても、それは価格に反映できない。僕が想像するに、近い将来のデジタル教科書化を見越したものではないかと思う。

 比較する意味が薄れたと言いつつも、各社の記述は少しずつ異なっている。そこで、今回は「日本国憲法制定過程」を比べてみたいと思う。詳しくは次回に回すことにして、今は現時点における「教科書問題」というものを少し考えてみたい。今回の中学教科書採択は、安保法制論議とぶつかったこともあり、前回以前に比べてマスコミ各紙の取り上げ方も少ない。その一番大きい理由は、育鵬社が教科書を市販していないということではないか。今まで、2001年に扶桑社が教科書を出して以来、毎回のように扶桑社、それを受け継いだ育鵬社は、「偏向していない教科書が出来ました」と市販して大宣伝していたものである。これは「教科書採択」よりも「国民運動」を目指していたということだろう。

 では、今回はなぜ市販しないのだろうか。育鵬社支持団体の「日本教育再生機構」に申し込むと入手できるようだけど、そこまでする人は少ないだろう。たぶん、安倍内閣発足以来、教科書検定基準の改定など右派勢力の望む教育政策が進められてきたからではないかと思う。安倍政権を支持する人々が多く参加している育鵬社版は、いまや「政権中枢」なんだから、水面下で静かに採択を目指せばよい、市販して問題点を広く指摘されたりすれば、かえって逆効果になりかねない…。まあ、それがあたっているかどうかは判らないが、とにかく「右派系教科書の大々的な市販作戦」がないことが、中学教科書問題が目立たない大きな原因になっているのは間違いない。

 戦後教育史を振り返ると、今までに何回も、中学や高校の教科書は「偏向している」と政権党やその支持勢力から攻撃されてきた。これは基本的には、戦後政治史では政権党(保守勢力)が「改憲」を志向し、野党(長く社会主義勢力が主流)が「護憲」という「ねじれ」があったからだろう。教科書は、戦前までの「国定」ではなくなったが、文部省(現・文部科学省)の「検定」が行われている。自民党政権がずっと続いてきたのだから、本来(政権党から見て)「教科書が偏っている」はずがない。だが、教科書は「タテマエ」が書かれるわけで、公務員には憲法順守義務があるから、教科書では日本国憲法の人権規定や平和主義が大きく取り上げられてきた。これが政権党には「偏向」に見えるのだろう。

 現実には「検定」がある以上、どの社の記述も大きな違いは少ない。今回、自由社と学び舎は検定申請で一度不合格にされた。その後、指摘された点を直して再申請して合格するという経過があり、この2社はある程度「違い」が確かにある。しかし、育鵬社は昔の扶桑社版に比べれば、それなりに穏当な構成と記述になっていることは確かである。でも、検定という枠がありつつ、その中で「できる工夫」をしていることが判る。例えば、歴史教科書の日米開戦を伝える章では、ほとんどの社が「太平洋戦争」と書き、自由社は「大東亜戦争」と書き、学び舎は「アジア太平洋戦争」と書いている。これに対し、育鵬社では「太平洋戦争(大東亜戦争)」となっている。育鵬社は自由社に比べて「一般化」しているわけだが、それでも章名で「大東亜戦争」をカッコに入れても書きたいのである。

 または、公民教科書では「憲法改正」を2頁を使って記述している。いつもそうだけど。他社でそれほど大きく扱っている社はない。憲法改正の仕組みの説明だけなら、1頁の半分もいらないだろう。だから、各国の憲法改正の回数とかいろいろな「工夫」をしている。それを読むと、戦後一度も憲法を改正していない日本の方が、なんだかおかしな国なんだなあという感じがしてくる。どこにも「間違った記述」はないけれど、全体的な構成から「改憲志向」がうかがわれる。また前に紹介した「安倍首相や石原元都知事の写真の多さ」なども検定基準に引っかからない「工夫された偏向」ではないか。そう言う意味で、やはり育鵬社版は問題が多いというべきだろう。(憲法制定過程の記述は次回以後。)
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育鵬社の公民教科書、驚きの偏向ぶり

2015年07月26日 18時20分08秒 |  〃 (教育問題一般)
 安保法制に関して、まだまだ書きたいことが多いのだが、いいかげん中学教科書問題を書かないと採択時期が来てしまう。とにかく、数回、教科書問題。すでに7月15日に、栃木県大田原市育鵬社の歴史、公民教科書を採択することを決めた。中学教科書の採択は4年に一度だが、ここ数回、大田原では全国のトップを切って、扶桑社、育鵬社の教科書を採択してきた。だけど、今まではそのことは各紙のニュースになってきたが、今回は朝日も東京も報じていない。安保法案の委員会強行採決と重なったのである。しかし、産経新聞はやはり報じている。産経の子会社が扶桑社で、扶桑社の100%出資の子会社が育鵬社である。つまり、産経の孫会社である。ここら辺の関係は次回にもう少し書くが、前回までは反対運動も報じられてきたが、今回はほとんど知られていないのではないか。

 その理由は後で考えるとして、とにかく現物を見てもらいたい。公民分野89頁。「政党と政治」。

 
 いつもは写真、画像は小さく載せ、クリックすると大きくなるようにしてある。しかし、今回は出来るだけホンモノに近く見てもらうために、あえて大きく載せることにした。人によっては「見たくない顔ばかり」かもしれないが、公立の学校で採択されれば「税金でその学校の生徒すべての配布される」ものなのだから、我慢して見てもらうしかない。

 まず、目につくのは安倍首相の顔が2つも大きく出ているということである。下は選挙公約集だというのだが、 何しろ「2013年参議院選挙」を取り上げているので、「日本維新の会」なんていう「今はなき政党」まで載っている。よりによって、石原・橋下の2枚看板という時代。民主党の海江田代表(当時)の顔はたまたま小さなものになっていた。共産党はこの時伸びたが、上から4つという意味では出てないんだろうなあ…と思うでしょ。ところが、ところが、当時の参議院の議席数は以下の通り。
 改選前数 民主86 自民84 公明19 みんな13 生活8 共産6 社民4  
 当選者数 自民65 民主17 公明11 みんな・共産・維新8
 新勢力数 自民115 民主59 公明20 みんな18 共産11 維新9 社民3
 「みんなの党」の方がずっと大きい。「みんなの党」は今や無いではないかというなら、「日本維新の会」なんてのも無い。それに参議院の議席数は共産党の方が多い。衆議院の議席はまた違うけど、参議院選挙のポスターを載せるんだったら、参議院の勢力順に載せるべきではないか。

 ということもあるけど、要するに一見してみれば、安倍、山口、石原、橋下の顔が見える。民主党海江田の顔は小さくて見えにくい。公平を装うこともしてないのか。この教科書は非常に安倍首相の顔が多い。安倍氏は日本の内閣総理大臣であるから、日本国の政治の仕組みを記述する時には、何枚かの写真が使われるのが自然である。だが、同時に安倍氏は自由民主党総裁という私的結社のトップでもあるから、一党一派に偏向しないように努めるのも普通だろう。でも、育鵬社の公民教科書では、何かにつけ安倍首相の写真が使われる。例えば、平等権の問題を取りあげる時には、「憲政史上初の女性首相秘書官」なんていう写真を載せる。この神経はすごい。安倍首相が大好きなんだろうが。

 ところで、左下の選挙公約より、とにかく目立つのは左上の「党首討論」の写真だろう。こっちを先に書くべきだと言われるかもしれないが、こっちから書くと、それでもう満腹状態になってしまうのである。だから、あえて最後に残しておいた。生徒にとって判りにくいのが、「議院内閣制」の仕組みと、「与党」と「野党」という概念である。長いこと、自民党が与党だったから、与党=自民党のことだと思い込む生徒が出てくるわけ。だから、政権交代した時に、今度は民主党が与党だよというと、判らない生徒が出てくる。その意味で「党首討論」というものも、うまく使えば生徒の理解を深める材料だろう。だけど、安倍首相と対峙しているもうひとりの方は誰?

 これは「日本維新の会」の石原慎太郎共同代表ではないか。いやあ、これはすごい。すごすぎると思う。だって、「日本維新の会」はもうないし、それ以上に当時であっても「野党第2党」だったではないか。石原元都知事のもとで、東京都教育委員会は養護学校(現・特別支援学校)や中高一貫校でずっと扶桑社、育鵬社を採択し続けてきた。その恩返しというわけでもないんだろうが、とにかくこの教科書を作った人は、安倍首相と同様に石原元都知事が大好きなんだろう。そう思わないとこの写真の選択は理解できない。だって、いくら民主党が嫌いでも、民主党が野党第一党である以上(当時はその差はわずか2議席であったわけだが)、与党党首(内閣総理大臣)と野党第一党の党首討論の写真を使うのが当然だからである。政党への評価の問題ではない。いくら何でも、一党一派に偏していると言われても仕方ないと思う。野党第2党の写真を載せる神経が、正直言って判らない。なお、現行教科書(4年前のもの)を見てみると、育鵬社だって「鳩山由紀夫首相と谷垣自民党総裁」の写真を使っている。また、今回の他社を見てみると、党首討論の写真を載せている社も当然あるが、その場合は安倍首相対海江田民主党代表の写真を使っている。当然だが。白黒だが、その証拠に某社の教科書を下に載せておく。(今度は小さいので大きくしないと判らないだろう。元々の写真も小さいし、その下に「秘密保護法「反対」50%」という新聞記事を載せてある。世論調査の代表例という意味である。)
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鶴見俊輔さんの逝去を悼む

2015年07月24日 23時51分30秒 | 追悼
 鶴見俊輔(1922~2015)さんが亡くなった。7月20日、肺炎。葬儀は行わないという遺言に基づき家族で火葬したという。93歳。年齢を考えれば、やむを得ないというしかないんだろうけど、それでもとても残念な気がするのは、2004年に出た「同時代を生きて」(岩波書店)という本があるからである。この本は、同じ1922年生まれの瀬戸内寂聴ドナルド・キーン両氏との鼎談をまとめたものだが、瀬戸内、キーン両氏が未だ社会的発言を行っていることを思えば、まさにいま「日本が鶴見俊輔を失う損失の大きさ」を痛感するのである。

 鶴見俊輔という人は、若い頃にたくさん読んでいて、最も大きな影響を受けた人だと言ってもいい。ウィキペディアをみると、「哲学者、評論家、政治運動家、大衆文化研究者」と書いてある。まあ、別に間違いとは言えないけれど、「政治運動家」なんて肩書きを誰が書いたのか。鶴見俊輔さんが「運動家」だった時期なんて多分ないだろう。いや、「べ平連」があるだろう、最近も「九条の会」呼びかけ人だろうという人がいるかもしれないが、こういうのは「運動家」としてやっているわけではない。最近亡くなったべ平連事務局長の吉川勇一氏などは、紛れもない「運動家」であって、社会運動のプロとしての優れた事務能力を発揮した。しかし、鶴見俊輔という人は、「一人の人間として」やるべき行動をしているだけであって、政治運動家ではない。良し悪しの問題ではなく。

 「哲学者」という肩書は、僕の学生時代に読んだ本には大体そう書いてあったように思う。「アメリカ哲学」などでプラグマティズムを日本に紹介した「哲学者」。「思想の科学」を舞台にした学際的研究や「シロウト」ライターの発掘などは、その日本における実践というわけである。しかし、同時代の実感としては「近代日本思想史研究」のような仕事が多かったように思う。しかし、研究が主眼なのではなく、自分が生まれた日本をモデルにして、「自分の頭で思想のありようを考える人」という感じがした。だから、自分を語った本、自分の経験をもとに書いた本も山のようにある。1971年の岩波新書「北米体験再考」やメキシコの大学に招かれた時の思考「グアダルーペの聖母」(1976)などがとても面白く、「自分」からモノゴトを考えている人という感じがした。これは当たり前のようでいて、フランスの最新思想は…とか、マルクスいわく…とか、そういう人がいっぱいいた時代なんだから、新鮮なのである。こういう人のことを、「思想家」と呼ぶんだと僕は思ってきた。

 業績に残る一番の仕事分野は、紛れもなく近現代日本の思想、文化研究である。しかも、一人で論文や専門書を書いた「業績」ではなく、集団研究や対談などが多い。その代表が思想の科学研究会で行った「共同研究 転向」(1959~1962)で、昔は分厚い3巻本がいつも古本屋にあったものである。いまは「転向」と言っても何のことかわからないかもしれない。戦前にマルクス主義者だったものが、特高警察の弾圧にあって、獄中でほぼ一斉に「日本思想」に移った。これが「狭義の転向」で、50年代から70年代頃までは、非常に切実なテーマだった。今思えば、聞きかじりでマルクスのご託宣を語るのと、天皇賛美の呪文を唱えるのとは、頭の働きとしては全く同じだということは、誰にでも判る。だけど、権力の圧力に屈したという「自我の屈折」がどれほど大きなものだったか、今ではあまり通じないかもしれない。それを受けて、久野収との共著「現代日本の思想」(岩波新書、1956)、久野収、藤田省三との鼎談「戦後日本の思想」(1959)が生まれた。これこそ一番面白い近現代日本思想史で、その後読み直していないので判らないけど、多分今でも刺激的だと思う。そして、さらに後に「戦時期日本の精神史」(1982)と「戦後日本の大衆文化史」(1984)がまとめられた。短い本だけど、集大成的な本だと思う。

 その後は大きな絵図を描くよりも個別の人物を取り上げたケース・スタディとして、「高野長英」(1975)、「柳宗悦」(1976)が出た。これも今では書かないと通じないかもしれない。高野長英は江戸末期の蘭学者で、弾圧で捕えられたのちに脱獄し全国で支援者に匿われて蘭学研究を続けた人物である。これはつまり、べ平連の活動に呼応して、米軍を脱走する兵隊が現れ、その人々を全国で匿い外国に逃したという自分の体験なのである。権力に屈しない人々を江戸時代の同国人に発見したのである。柳宗悦は民芸運動の主導者だが、同時に朝鮮、沖縄などの文化を「発見」した人でもあった。そして朝鮮の光化門を総督府が取り壊そうとしたときに、柳が抗議の声をあげ保存されるようになった。また三一独立運動に際しても植民地政策を批判する「朝鮮人を想う」を発表した。70年代というのは韓国軍事政権に対する民主化運動が燃えあがった時代で、日本でも政治犯救援などの連帯運動が盛んだった。鶴見さんもその中にいたわけで、そういう中から日本人の中の朝鮮支援運動を振り返って柳宗悦を再発見したのである。今は時代の制約を指摘されることもあるが、とにかく「柳宗悦という人がいたんだ」ということが、70年代の日本人には勇気を与えたのである。後に「夢野久作」(1989)、「竹内好」(1995)も書くが、鶴見さんの好みが判る人選だと思う。

 その他、とにかく編著なども多く、例えば今の柳宗悦も「近代日本思想体系 柳宗悦集」を編んでいる。今は岩波文庫にいっぱい入っているが、当時はこの本しかなくて、これで勉強したのである。一方、筑摩書房の「現代漫画」全27巻(1970~71)を佐藤忠男、北杜夫と共編している。マンガを文化の対象として取り上げた最初の頃の話で、僕はこの中の「つげ義春集」を買って、初めて「ねじ式」などを読んだのである。多分高校生の時で、その解説が初めて読んだ鶴見さんの文章かもしれない。そう思うと、ウィキペディアを見ていると、オーウェルの「右であれ、左であれ、わが祖国」(1971、平凡社)も鶴見さんの編だとある。そうだったか、この本も持っている。とすれば、こっちの方が早いかもしれない。こうしてみると、70年代にいろいろな本を読み始めた時に、さまざまな分野で鶴見俊輔という人にめぐり合っていたことが思い出されてくる。

 鶴見俊輔という人を語る時には、父と母、母方の祖父、姉(鶴見和子)、いとこ(鶴見良行)などのことがよく出てくる。それは非常に大事なことだが、多くのことが語ると思うし、本人も語っている。特に、絶対おススメが、上野千鶴子、小熊英二との「戦争が遺したもの」(2004)というすごい本がある。これは上野千鶴子という人のプロデュ―サーとしての偉大さもよく判る非常に重要な本で、インタビューをもとにした本だから、鶴見俊輔を最初に読むには、まずこの本だと思う。あんまりたくさんの本があるので、僕も半分も読んでないから、これからの楽しみがあるというものである。僕が勉強し始めた1970年代の本を中心に書いたけれど、鶴見俊輔さんには他にもいろいろ思い出がある。直接話を聞いたことはあっただろうか。京都中心の活動だったから、韓国政治犯救援運動なんかでも、あまり集会では聞いていないと思う。1996年にあったFIWC関西委員会の「らい予防法廃止記念集会」には鶴見さんは話をしただろうか。筑紫哲也さんと森元美代治さんの話があったことは確かだが。

 筑紫哲也はFIWC(フレンズ国際ワークキャンプ)の関東委員会のキャンパーだったけれど、朝日新聞の記者になってから「交流(むすび)の家」建設運動を取材した。同志社大学教授だったときに、ハンセン病元患者がホテルで宿泊を断られた話を講義で語って、聞いていた学生が「泊まれる宿舎を作ろう」と動き始めた。それが奈良の「大倭紫陽花邑」(おおやまとあじさいむら)につくられた「交流(むすび)の家」である。僕は1980年の関西委員会主催の韓国キャンプ(韓国の山奥にあるハンセン病元患者の定着村でワークキャンプをする)の準備キャンプで初めて訪れた。各園から入所者を迎えて囲碁将棋大会などを80年代頃まで行っていたと思う。僕はここに新婚旅行で泊るというバカ者だったので、そこが鶴見俊輔から始まるという話は非常に大切なものになっている。木村聖哉・鶴見俊輔「『むすびの家』物語」(1997)という本が出ているから、今は品切れらしいが図書館などでぜひ読んでみて欲しい。
    
 今、ちょっとすぐ目についた鶴見さんの本を並べて見たが、70年代頃の本は引っ越し何回かの間にどこにあるか、すぐに出てこない。「戦後を生きる意味」(1981)という本もあったけれど、中身は忘れてしまった。「柳宗悦」はもう一回読み直したいと思って、目につくところに出したあったので、これはすぐ出てきた。鶴見俊輔さんと言えば、「思想の科学」なんだけど、もう長くなったので詳しくは書かないことにする。大学の同窓生が思想の科学社に勤めていた時期もあって、80年代初期には東京読者会によく出ていた記憶がある。多分何回か、読者会の記録を書いたかもしれない。「思想の科学」の戦後思想史における重要性は今は書く余裕がない。最後にちょっと書いておくと、鶴見俊輔は「60年安保」の時に東京工業大学を辞めた。もちろん、その前に中国文学者の竹内好が都立大学を辞めた。民主主義を破壊する岸内閣の下で公務員を務めるわけにはいかないからである。今、安倍内閣の安保法制をめぐって、憲法違反の法律だという学者がたくさんいる。それはいいけど、自分が違憲だと信じる法律が成立してしまったら、国公立の教員をしていていいのかという覚悟を持っているのかどうか。学者側も試されているのではないか。別に辞めなくてもいいんだと思うが、僕はあえてそう言いたいのである。それは竹内好や鶴見俊輔という人の大きな影響を受けた僕の偽らざる思いである。
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さかなと森の観察園-日光旅行③

2015年07月23日 21時34分15秒 | 旅行(日光)
 奥日光の3日目。朝から見事に晴れている。もう一日、二日いたくなるけど、帰らないといけない。どうしようかなと思って、もうあんまり歩くのもなあと思う。久しぶりに「さかなと森の観察園」に行こうかなということになった。ゆっくりチェックアウトして、少し湖畔を散歩する。宿の真ん前が湖で、木道が整備されている。湖面に映る男体山などの山々が美しい。夏の湖を見るたびに、西脇順三郎の「くつがえされた宝石」という表現を思い出す。
  
 湖畔からバスに乗って、竜頭(りゅうず)の滝で降りるが、案外近くに行けない。こうだったかな。そこから少し下れば、「さかなと森の観察園」である。「国立研究開発法人 水産総合研究センター」とかいう面倒くさい名前が付いている。昔は「養魚場」とかそんな名前だったと思うけど、10年ぐらい前から今の名前。小さい頃に親に連れられて行ったことがある。また今の名前になる前にも、個人旅行で寄った。面白いところなんだけど、中禅寺湖畔には「イタリア大使館別荘記念公園」という素晴らしいところがあるので、車があるとついそっちに行くことが多かった。バス停でいうと「菖蒲ヶ浜」の真ん前。300円払って中へ入ると、まず「マスのエサ」をくれる。なんかペットフードみたいなちいさん粒がいっぱい。ここはニジマスなどを養殖して放流しているところなのである。
   
 歩いて少し行くと、展示水槽とか資料館があるが、その奥に飼育池がいっぱいある。そこにいるいる、マスの姿。エサを投げると、ワッと寄ってくる。近くの魚が集まるが、エサをめぐって争奪戦が始まる。遠くに投げても気づいてさっと泳いでくる。面白がっていると、その写真は撮れないんだけど。中禅寺湖の名物だったニジマスは、もともとはいなかった。明治になって、かのトーマス・グラバーが放流したのである。そう、グラバー邸の人。奥日光が外国人の避暑地帯だったのである。今もなお、原発事故後は食べてはいけないということになっていると思うが、釣りの名所になっている。上の三枚目の写真は、ニジマスのアルビノ。遺伝的に優勢で、隔離した池で飼育されている。
   
 ちょっと驚いたのが、チョウザメ。マスと一緒に飼っていても、エサには無関心で、われ関せずと底の方を泳いでいる。上の1・2枚目の写真で、なんだか大きくて黒い影はチョウザメ。チョウザメだけの池もあって、それが4枚目の写真。まあ、まだ日光でキャビアが名物になっていると話は聞かない。森の中に池がいっぱい、涼しいところをぐるっと回って、資料館に入る、ここは昔の建物が残っていて、古い感じの洋館に資料が展示されている。ここがなかなかいい。
   
 まあ、こんなところで涼しい夏を味わうのもいいのではないか。特に親子連れなんかだと面白いだろう。ちゃんと見なかったんだけど、「おさかな情報館」という施設も出来ている。レストラン等はないけど、飲食できるスペースはある。前も思ったけど、入る前に予想していたよりずっと面白いところだと思う。涼しいし、エサやりも素朴に楽しい。時間を見てバスに乗って、いろは坂を下って日光駅に戻った。
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夏色、奥日光-日光旅行②

2015年07月22日 23時30分44秒 | 旅行(日光)
 日光旅行2日目は、久しぶりのハイキング。車を手放したので、バスのフリーパスを買ってある。今回は無理をすると疲れてしまいそうなので、無理ない感じで。宿のある湯元温泉から、湯の湖を半周して湯滝に降りる。そこから小田代ヶ原(おだしろがはら)まで歩いて、低公害バスで赤沼に戻ってくる。まあ知らない人には判らないだろうが、もう地図を見なくても行けるようなコースである。(実際はもちろん要所要所で地図を確認した。)ここでは、夏を感じられるような写真を並べておく。まずは湯の湖から歩きはじめる。一周できるけど今回は簡単な道路側の道を。湖に向こうの山影が映える。4枚目は温泉街に近いけど、このあたりは温泉が湧きだしている。湯も温かいと思うが、鯉が集まっている。
   
 少し歩くと、葛西善蔵(かさい・ぜんぞう、1867~1928)の碑がある。悲惨な生活を描いた大正ごろの私小説作家だという知識はあるが、読んだことはない。というか、現代では読んでる人の方が珍しいと思うが。温泉に泊って、その時の作品もあるという。そこからまた少し歩くと、木橋があって、湯の湖の終わるところ。ここから湖水は一気に滝となって落ち、川となって戦場ヶ原を中禅寺湖に向かう。
   
 ひたすら階段状の道をくだっていくと、湯滝のレストハウス。割と近くで見られるから、日光の名だたる滝の中でも、夏は涼気を感じられる場所である。駐車場が500円かかるので、車だとつい通り過ぎてしまう。湯元から歩いても近い。いくら撮っても同じだが。
   
 そこから、小田代へ向けて、気持ちのいい道を歩いて行く。途中までは川に沿って歩く。最後の写真は廃木道を乗せた車が引かれていくところ。
   
 小田代ヶ原に近づいてい来ると、湿原というか、もう草原化している感じも強いが。向こうに男体山はじめ日光連山がキレイに見える。夏らしい雲が山の向こうにある。草原はお花畑になっているが、特にアザミがいっぱいだった。下の4枚目の写真は、アザミの向こうに男体山。
    
 さらに数枚。貴婦人とも称される白樺も美しい。低公害バスで戻って、光徳によって湯元に戻る。夜はやはり涼しくて、疲れたしよく眠れる。
   
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金谷ホテル歴史館-日光の旅①

2015年07月22日 21時16分01秒 | 旅行(日光)
 梅雨明けして夏本番、関東地方も猛暑。ちょうど奥日光・湯元温泉へ旅行を予定していた。直前に暑さに負けてバテてしまったので、涼しいところでゆっくり寝たいなあというところ。宿はいつも行ってる、湯元温泉の休暇村日光湯元。宿についてはあまり書くこともないので、行く途中で寄った「金谷ホテル歴史館」について。2015年3月29日にオープンだから、初めて。
  
 金谷ホテルは明治初期に外国人専用で出来た、日本初のリゾートホテルである。今は神橋の手前の高台に広壮な偉観を誇っているが、それ以前には「侍屋敷」と言われた別の場所で、金谷カテッジインと呼ばれる宿だった。かのイザベラ・バードの「日本奥地紀行」に書かれているのは、そっちの宿の時代である。そこが国の登録有形文化財に指定され、整備されて公開の運びになった。これは近代日本の観光の歴史上、非常に重要な場所なのである。

 どこにあるかというと、東照宮なんかの少し先。バス停で言うと、西参道と田母沢御用邸記念公園の間あたりである。駅の方から行くと、バス停の向かい側になるけど、金谷ホテルのカテッジインレストランの大きな駐車場があるから、迷うことはないだろう。でも入り口が判らない。上の三枚目の写真のように、門があるけど通行止めである。あれっと思って、表示をよく読むとレストランに入ってお金を払えと書いてある。
 
 そこでレストランに入ると、確かに歴史館入館の案内がある。そこで一人400円を払うと、メダルをくれる。そのメダルを入館口にいれると、バーを動かして中へ入れる。外国の地下鉄かなんかみたいなやり方。入って靴を脱ぐと、スリッパはないので靴下だけで回る。最初に歴史的なものを置いてある。そこから進むと、中の建物を案内してくれるんだけど、写真は不可。途中に建て増しされていて、元の侍屋敷は屋根が低い。外国人向けになって、建て増し部分は高くなっている。中二階があったり、小さいながらなかなか複雑である。
 
 庭に出られて、水琴窟などもあり結構いい。裏には滝もある。また見せてないけど土蔵もある。もともとの玄関は次の一枚目の写真。
  
 見終わってから、レストランで食事。カレーは百年カレーとは銘打ってないけど、似た感じ。「ハンバーグシチュー・パングラタン」はハンバーググラタンをくり抜いた丸いパンに入れたもの。3時からは、ベーカリーのパンを買って持ち込むこともできる。金谷ホテルは日光と中禅寺にあって、どっちも一度は泊りたい名ホテルだ。夏は中禅寺金谷ホテルが、いかにも避暑地のリゾート風で、ものすごく気持ちがいい。まあその分高いけど。ホテルのレストランで戸惑っている若いカップルを見たこともあるので、オトナっぽい振る舞いの出来ない人はまずい。(中禅寺金谷ホテル前のカフェ「ユーコン」も気持ちがいいところ。)金谷ホテルのお土産品(パン、レトルトカレー、クッキー、ジャム等)は高いから躊躇してしまうんだけど、確かに美味しい。あんぱん程度でも美味しいなあと思うし、それぐらいなら買える。箱根や浅間山の状態から、今年の3連休は日光へ来た人も多いらしい。

 食べてる時に雨が降ってきたので、早めに宿に向い、さっさと宿に入った。夕方にちょっと散歩。
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映画「海街diary」の素晴らしさ

2015年07月15日 23時29分58秒 | 映画 (新作日本映画)
 新作映画がたまってしまったので、ここしばらく一生懸命見ている。今日は国会で強行採決、そっちの話に戻りたいんだけど、是枝裕和監督の「海街diary」があまりに素晴らしかったので、書いておきたい。猛暑の中、国会よりもまず教科書図書館(江東区千石)に行かないといけない。そこからバスで10分ほどで錦糸町に出られるから、夕方に見たわけである。教科書の方は少し後に書く予定。
 
 吉田秋生の人気漫画を、是枝裕和が脚色、監督。綾瀬はるか長澤まさみが出ていて、今年のカンヌ映画祭コンペティションに選ばれた…。ということは映画ファンには周知のことだから、放っておいてもみんな見ると思うし、現にヒットしている。是枝監督作品は今までほとんど見ているが、観客を居心地悪くさせるような作品の方が出来がいい傾向がある。今回は人気女優が4姉妹を演じて、鎌倉で美しく撮影した映画だということだから、書かなくてもいいんじゃないかと予想して見始めた。しかし、予想以上の素晴らしい出来映えにビックリした。何よりも監督の手腕である。脚本と編集も監督が手掛けていて、全体のリズムが心地よい。アップして欲しいところでカメラは俳優を大写しする。ロングで全体を見たいと思う時に、画面はさっとロングショットに変わる。この絶妙なさじ加減には感嘆するしかない。

 話は何となく知っている人が多いのではないかと思う。鎌倉に住む三姉妹が、かつて母を捨てた父が死んで残された異母妹を引き取る。この4人姉妹の物語。と言えば、「若草物語」であり「細雪」を思い出すが、この映画及び原作の眼目は「異母妹」という「他者」を抱え込んだことにより見えてくる、そして変容していく、「居場所を求める物語」である。異母妹すず(広瀬すず)は「とてもいい子」で、葬儀に来た異母姉を迎える冒頭の場面(山形県の温泉という設定)から非常に礼儀正しい。実母(三姉妹から「父を奪った不倫相手」)はすでに亡くなり、父の三人目の妻と連れ子と暮らしてきた。父の看病もすずがやってきたらしい。だから、「血のつながらない」義母や義弟と暮らすより、鎌倉に来て一緒に住まないと姉たちが誘うのも違和感がない。転校してもいじめられず、サッカーで活躍してなじんでいく。ありえないような展開に見えてしまうが…。

 世の中には「悪い人」もいるけれど、多くは「良い人だけど、いろいろ抱えている人」だろう。だから、上の三姉妹が異母妹を受け入れ、異母妹が頑張るのも、まあありえないと言うほどでもない。大体、遺伝子が半分共通しているんだから、上の三姉妹と容貌も性格もかけ離れている方がおかしい。そうなんだけど、多少出来過ぎ感のある物語を支えているのは、鎌倉の家の素晴らしさである。江ノ電や七里ヶ浜は事前に判るけど、実際に建てられている2階建ての古びた大きな家がなかったら、この映画は成立しなかった。いまどき部屋の鍵もない家、かつて父母が住み、父が他の女性のもとに去り、その後母も再婚して去った家。長女幸(綾瀬はるか)、次女佳乃(長澤まさみ)、三女千佳(夏帆)が住んでいる家。そこに妹すずが加わるわけである。広瀬すずは、役名と名前が同じ。運命的と言うべき名演で、いつもの是枝作品の子役のように台本を事前に見ずに当日に口伝てで伝えられたという。

 思えば、是枝作品は「見捨てられた子どもたち」を多く描いてきた。今回も豪華女優共演に隠れているが、異母妹すずだけでなく、上の三姉妹も実は「見捨てられた子どもたち」だった。だから、父親にも、母親にも言いたいことがいっぱいある。すずは自分の母が「姉たちの家庭」を崩してしまった元凶であって、その間に生まれた自分は「罪の子」であるかのような意識を、姉たちに表立っては言わないが、実はずっと持っていることがだんだん判ってくる。だけど、「不倫した母は悪い」と言ってしまうと、実は長女も妻のある男と恋愛している。それを思うと、男と酒にだらしない感じの次女の方がすっきりしているのか。そこら辺をうまく「末っ子」として自在につないできた三女が自然な様子で共同生活を支えている。そんな「思いやり」の底にあるものが判ってくると、四季の移り変わりの中に大きなドラマを描いた物語が見えてくる。その意味で、小津や成瀬の映画に連なる日本映画の達成と言える。

 桜のトンネルを自転車で通るすずとクラスメイトの男子。庭の梅を取って皆で梅酒を作るシーン。夏の花火大会をそれぞれが見るシーン。最後の庭で浴衣姿で花火をするシーン。季節感あふれる名シーンの数々に酔いしれながら、4人姉妹は成長し、居場所を見つけていく。華やかな外見の裏に、生まれてきた生への讃歌を描く名作である。では「きみはいい子」とどっちがいいのか。これは難しい。もっと大変な重い現実を見つめる「きみはいい子」の世界から逃げてはいけない。「海街diary」を見た人には、ぜひ「きみはいい子」も見て欲しいと思う。だけど、うまい役者と名場面で作り上げた「海街…」の魅力こそ、映画を見る醍醐味なんだと思う。若い映画ファンには、俳優で見るだけでなく、編集のリズムの素晴らしさをよく見て欲しいと思う。助演も素晴らしく、大叔母の樹木希林(最近出過ぎではないですか、大丈夫かなあ」、母親の大竹しのぶ、長女の相手の堤真一、次女の上司加瀬亮、近所の食堂の風吹ジュン、カフェの主人リリー・フランキーなど超豪華助演陣を楽しめる。皆うまい。

 鎌倉の名場面のあちこちはいうまでもない。検索すればすぐ判るし、行きたくなってしまう。鎌倉が出てくる映画は非常に多く、2回作られた「千羽鶴」、成瀬の「山の音」、小津の「晩春」や「麦秋」、立原正秋原作の「情炎」(吉田喜重)や「辻が花」(中村登)などなど思いつくが、今までは何と言っても鈴木清順の「ツィゴイネルワイゼン」が最高だったと思う。だけど、今後はまずこの映画になるのかもしれない。冒頭の山形県河鹿沢温泉と言う温泉は実在せず、鉄道はわたらせ渓谷鉄道、駅は足尾駅だという。温泉旅館は岩手県の鉛温泉藤三旅館だとある。ここは名湯で、泉質がとてもいい。田宮虎彦の「銀温泉」の舞台で、新藤兼人監督の映画に往時の様子が留められている。
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李香蘭の2本の映画(「萬世流芳」と「私の鶯」)

2015年07月15日 01時01分39秒 |  〃  (旧作日本映画)
 あまりに暑くて出かけたくない。国会情勢も緊迫し日比谷野音の大集会もあるんだけど、今日はフィルムセンター李香蘭(山口淑子)の2本の映画を見た。「逝ける映画人を偲んで」という特集である。山口淑子としては、黒澤明「醜聞」が選ばれている。今回は戦時中の李香蘭時代の映画。こちらの上映は珍しい。

 3時から「萬世流芳」という1942年の映画を見た。製作したのは「中華聯合製片公司=中華電影=満映」で、形の上では「中国映画」として作られた「反英映画」である。アヘン戦争南京条約(香港割譲、上海等の開市などを決めた「国辱」条約)の100年記念である。日本でも、1943年にマキノ雅弘(当時は正博)監督による「阿片戦争」という作品が作られている。林則徐が市川猿之助(2代目)で、原節子、高峰秀子などが出ている。全部日本人である。その後、香港返還記念で1997年に謝晋監督による映画「阿片戦争」も作られた。これがまあ決定版だろう。
(萬世流芳)
 151分の「萬世流芳」は「いつの世までも芳しい香りが流れる」という原題からわかる通り、アヘン戦争というよりも林則徐の人生行路をフィクションを交えて語っている。はっきり言って、林則徐の描き方は、紋切型で面白くない。初めから立派な人物で、アヘンで清国が滅び行くのを憂えている。勉強熱心で順調に出世し、アヘン撲滅にまい進する。何の葛藤もない上に、演技も型にはまったものである。そこに2人の女性が絡むが、面倒だから省略する。李香蘭追悼なのに、いつ出てくるんだと思う頃になって、歌姫として登場する。アヘン窟に飴売りとして入り込み、好評を呼ぶ。英国人の経営者から人気を認められるが、実はアヘン撲滅の歌を歌っているのである。その「売糖歌」は大ヒットしたという。実際、李香蘭が出てくる場面になると、画面ががぜん生き生きとしてくる。実に魅力的である。

 その後の細かいストーリイは略する。英国人役はステレオタイプすぎて、今見ると可笑しいぐらい。だからベースは国策映画としての「反英映画」なんだけど、いずれ中国は立ち上がる、いつまでもアヘンに苦しんではいないと言ったセリフもある。見ていた側は容易に「反日映画」に読み替えて見ることができる。そういう意味で大ヒットしたと言われることが多い。だけど、現代の観点からは、何にしてもあまりにも通俗的で平板な人物描写が退屈な大作であるのは否定できない。李香蘭のシーンだけが魅力的なのである。それは歌手としての魅力で、歌う女優だったということがよく判る。

 夜に見た「私の鶯」は1944年に、東宝・満映の共同で製作されたものの、日本では公開されなかった幻の映画である。30年ぐらい前にフィルムが発見されたというが、画面が実にキレイでデジタル修復されたのかと思うほど。クレジットは新しく付けられているが、ほぼロシア語のセリフの翻訳字幕は旧仮名遣いなのでいつ付けられたのか。製作過程からして、謎の多い幻の映画である。大佛次郎原作、島津保次郎監督、服部良一音楽という豪華な布陣。島津保次郎は戦前の松竹、東宝の名監督で、1934年に作られた小市民映画の代表作「隣の八重ちゃん」は僕の大好きな映画だ。(3回見た。)
(私の鶯)
 明らかにハルビンにロケした映画で、それだけでも貴重。日本人の娘がロシア人の声楽家に育てられる話である。日本人一家とロシア歌劇団が軍閥の争いを逃れる時に銃撃され、夫は妻・娘とはぐれ、ずっと探し求めるが見つからない。上海、天津、北京と探し回るが、3年経っても消息がつかめず、その日本人は今後のことを友人に頼んで自分は南洋に行く。そして15年。ロシア人声楽家が美しい養女と暮らしている。満州事変が映画の中で起きているが、その辺の時間経過はよく判らない。革命を逃れた白系ロシア人の物語だとばかり思って見ていたら、革命前からハルビンにいたわけである。その声楽家が育てていた娘こそ、日本人の父とはぐれた娘であり、李香蘭が演じることは言うまでもない。李香蘭が歌える少女に育つ時間が、ロシア革命と満州事変の間では近すぎるのだろう。

 映画の中ではセリフの9割以上がロシア語で、李香蘭もロシア語で歌う。満映であれ、日本で出た東宝の「支那の夜」などの映画であれ、戦後の日本映画でもアメリカ映画でも、常に複雑で時代を背負った役柄を李香蘭山口淑子シャーリー・ヤマグチは演じ続けてきた。その数奇な女優人生の中でも、この映画のようなロシア語を話し歌う映画は、極めつけの珍品だと思う。だが、中国語で歌うよりも、純粋に歌を楽しめるかもしれない。歌唱力も美貌も絶頂期にあったことは明白である。

 戦時中に作られながら、歌それもオペラ(「スペードの女王」や「ファウスト」のシーンがある)が出てくるという、ちょっと時代離れした映画である。世の中にはいろんな映画がある。当時の観客は誰も見られなかった映画を、こうして時代を経て見ることができる。この映画の中に、山口淑子の最高の瞬間の一つがあると思う。まあ、映画としては大したことはないが。(なお、満州事変下のハルピンのようすが再現されている。日本軍が入城するまでは、在留邦人によって自警団が組織された描写がある。)

 ところで、徳光壽夫という全く知らない監督の追悼として、1940年の「五作ぢいさん」という短編が併映されている。農村のおじいさんが貧しいながら税金を納めようとするという、宣伝映画。何じゃこれという映画である。
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「きみはいい子」、原作と映画

2015年07月14日 00時06分47秒 | 映画 (新作日本映画)
 中脇初枝原作「きみはいい子」(坪田譲治文学賞受賞)が映画化されて公開中。呉美保(オ・ミポ)監督の新作で、非常に面白く感動的な映画になっている。原作と映画のどっちがいいかは決めがたいが、ほぼ設定は同じながら細部で多少変えている。というか、原作は5つの短編で構成されているが、映画はそのうちの3つをうまく組み合わせて同時進行する物語になっている。これがとてもうまく出来ていて、感心した。しかし、原作も素晴らしくて、映画を見た人も、まだ見ていない人も是非読んで欲しい。とても心揺さぶられる作品で、ポプラ文庫(660円)。読めば誰かに薦めたくなる小説である。
 
 映画のプログラムに原作者の中脇初枝が文章を寄せている。その最後の部分を引用したい。
 「今日もきっと、どこかで泣いているこどもがいます。
  でも、わたしたちは無力ではありません。
  世界を救うことはできなくても、まわりのだれかを救うことは、きっと、だれにでもできると思うのです。
  観終わった後、そう信じられる映画です。
  映画にしていただいたことで、たくさんの方にそう思ってもらって、今度は、観てくださったあなたが、あなたの暮らす町の主人公になってくださることを、心から願っています。」

 もうこれで書きたいことは尽きているようなものなんだけど、原作者にこう言ってもらえるだけの出来になっている。映画「きみはいい子」は、まず小学校の先生、若い岡野(高良健吾)が老女の家に謝りに行く場面から始まる。小学生がピンポンとチャイムを押してまわったのである。これは原作では「小学校1年生のいたずら」だから、きっとそういうことかと思ったら、岡野先生は4年生の担任になっていた。これは原作では2年目の話で、新採1年目は1年の担任で、学級崩壊させてしまった。1年生の話では映画化が難しいだろうと思っていたら、4年の話に絞ってエピソードも混合している。岡野先生は善人そうだけど、指導力はあまりなく、いかにも最近の若い者が先生になってしまったという感じ。原作でも同じだけど、その雰囲気を高良健吾がうまく出している。

 そうやって学校の話が進むかと思うと、マンションに住む母親雅美(尾野真知子)がわが子に強く当たっているエピソードに変わる。たたいているから、これはもう虐待である。夫はタイに単身赴任中。一人でマンションで育児をしているが、他のママたちとの関係もうまくいってない。子どもがしくじると、許せない思いが強くなってしまう。ここは実際にたたくわけにも行かないから、どうするんだろうと思うと、後姿をじっくり映している。プログラムの尾野真知子の話だと自分の腕をたたいていた由。内面描写をできる原作のほうが判りやすいと思うが、公園での親子のようすなど映画で伝わることも多い。

 そこにもう一つ、老女と発達障害を持つ少年のエピソードが出てくる。この老女は冒頭部分で岡野先生が謝罪に来た時の人である。少し認知症ぎみかなという感じで、夫も亡くなり子どもはなく一人暮らし。戦時中に戦地向けのキャラメル作りに動員させられていたが、持ち出すこともできたのに自分はルールを守って持ち出さなかった。でも弟は疎開から戻ってすぐに死んだ。キャラメルを食べさせてあげればよかったと思っている。毎日登下校中に挨拶する少年と親しくなる。ある日鍵をなくしたと言って、ウロウロしている少年の面倒を見て、その母親と知り合う。その母は、近所のスーパーで老女を万引きかと見ていた店員だった。

 岡野先生のクラスには問題も多い。先生もだんだん疲れてくる。実家に戻ってきた姉の子どもが抱きしめてくれて、元気をもらう。そこから「誰かに抱きしめてもらうこと」という「難しい宿題」を出す。それは原作と同じだが、宿題を出すきっかけは映画の方がよく出来ていると思う。子どもたちの反応はぜひ映画で。一方、ママたちの出来事でも、同じマンションの陽子(池脇千鶴)の部屋で遊んでいた時に、雅美が切れかかり陽子に抱きとめられる。そして、老女は少年の母親を抱擁する。こうして、「近くにいる誰かを抱きしめる」ということの深い深い意味を感動的に伝えるんだけど…。そこで岡野先生は気付く。自分のクラスに今日欠席していた子どもがいる。その児童は母子家庭のはずが、母の愛人が家にて5時までは家から出ていろと言って、子どもは土日も雨の日も校庭でじっと時間が経つのを待っている。この子は誰にも抱きしめられることがなかったのかもしれない。先生は走る。走って走って、その子の家について…というところで映画は終わり。

 つい話を書いてしまったんだけど、これは本や映画で直接見てもらった方がずっといい。桜ヶ丘小学校という場所は、原作では横浜が舞台になっている。映画では北海道の小樽市がロケ地になっていて、検索すると天神小学校という学校がロケ地だという。丘の上の学校という原作の情景が、小樽に移って非常にうまく映像化されていると思う。学年主任の女性教師も出てきて、かなり考えられている脚本である。ストーリイばかり語ってしまったけれど、そういう筋書きを呉美保は、遠ざかったり近づいたりしながら巧みに演出し、自然な感じを出している。どの話も子どもが出てくるから、いかに自然な感じで演出できるかが勝負だが、ほとんどドキュメントみたいに見ることができる。そして大切ないくつかのシーンでは、後姿をじっくり捉えている。この映画ほど後姿が記憶に残る映画も珍しい。

 呉美保(1977~)は2014年の「そこのみにて光輝く」が映画賞独占の好評を得た。僕はそこまでいいのかなあと思わないでもなかったのだが。だけど、今回原作を先に読んでから見たら、これだけ子どもの演出ができる才能に感嘆した。監督は5月29日に男児を出産したばかり。お涙頂戴的な感動押し付け映画ではなく、じっくり人間を見つめて感動を作り出す。撮影(月永雄太)や編集(木村悦子)、音楽(田中拓人)も素晴らしいが、特に脚本の高田亮は特筆。「そこのみにて光輝く」でキネマ旬報脚本賞。「さよなら渓谷」などを書いている。

 ところで、原作の中脇初枝(1974~)は、1992年、高知県中村高校在学中に「魚のように」という作品で坊ちゃん小説賞を得たという作家である。今回までほとんど知らなかった。「きみはいい子」は名前だけは知っていた。今回、その後で書かれて、同じく桜ヶ丘を舞台にしている「わたしをみつけて」も読んでみた。こっちは桜ヶ丘病院に務める准看護師の女性の物語。僕にはこっちの方が感動的で、これも早くもポプラ文庫に入っているから、必読。両作とも「児童虐待」がテーマというか、大きなエピソードになっているが、どうも普通の意味での虐待を扱っている小説という感じではない。一人ひとりの登場人物たちが、「自分」をどうやって見つけていくかの物語で、読めば必ず誰かに薦めたくなる本である。間違いない。
 
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トルコ映画「雪の轍」と「昔々、アナトリアで」

2015年07月12日 21時50分22秒 |  〃  (新作外国映画)
 2014年のカンヌ映画祭パルムドール(最高賞)のヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督(1959)の「雪の轍(わだち)」を見た。同じ監督の前作「昔々、アナトリアで」(カンヌ映画祭グランプリ)も新宿シネマカリテでレイトショーされていて、これも見た。「雪の轍」は3時間16分、「昔々、アナトリアで」は2時間31分。両方一日で見ると、5時間47分となるが見てる間は長い感じはしない。
  
 カンヌ映画祭もグローバル化していて、タイアピチャッポン・ウィーラセータクン、あるいはチュニジア系フランス人アブデラティフ・ケシシュなど近年のパルムドール作品で難しい名前を覚えた。今度もヌリ・ビルゲ・ジェイランという名前をやっと覚えた。映画祭公開はあるが、正式公開は初。カンヌではすでにグランプリ2回、監督賞や主演男優賞を取っていた巨匠である。
(ヌリ・ビルゲ・ジェイラン)
 まず「雪の轍」。予告編を見ると、カッパドキアの壮大な風景が印象的だ。大自然を背景に人間の争いを神話的、叙事詩的に描く物語かなと思う。例えば今村昌平の「神々の深き欲望」やテオ・アンゲロプロスの「旅芸人の記録」のような。しかし、案外「普通の映画」だった。練り込まれたシナリオ、多数のカット割りを積み重ねた編集の「文芸大作」である。

 チェーホフドストエフスキーにインスパイアされた物語だというが、ある男と歳の離れた妻、そして妹との相克という人間設定の方が先にあって、物語を支えるためのロケ先を探してカッパドキアを選んだという。確かに風景は壮大で、ロングショットで風景の中の人間を映すシーンもある。しかし、登場人物のクローズアップもあるし、争う二人を相互に映し出すカットも多い。特徴的な映像技法で見せるのではなく、ベルイマンの映画を見ている感じ。

 カッパドキアで「ホテル・オセロ」を経営する男アイドゥン(ロンドンでも活躍したというハルク・ビルゲネルの名演)は親から受け継いだ資産家。ある日、車に石がぶつけられ、その犯人は家賃が払えず家具やテレビを差し押さえられた家の子どもだった。だんだん判ってくるが、アイドゥンはイスタンブールで長年舞台俳優をしていたが、大成功を収めることはなく、父親の死後故郷に帰った。ホテルの他に多くの家作があり、経済的に恵まれ、今も地方紙にエッセイの連載を持つ「地方名士」である。
(「ホテル・オセロ」)
 アイドゥンは歳の離れた妻とうまくいかず、妻のニハル(メリサ・ソゼン)は改修費もない小学校を支援するボランティア活動に打ち込んでいる。妹のネジラ(デメット・アクバァ)は離婚して実家に戻ってきたところで、二人はアイドゥンを辛辣なまなざしで見ている。この設定はプログラムの沼野允義氏の文章を読んで、チェーホフの短編「」と「善人たち」が元になっていると判る。原作はロシアの地主で、それを現代トルコの資産家に移した。ロシア文学によく出てくる「余計者」的な造形だというのは、見ているとすぐに感じる。ほぼチェーホフの原作通りらしい。

 そのようなアイドゥンの世界が少年の投げる石によって揺さぶられた。少年の父は数年前に鉱山で事件を起こして服役し、その後は失業している。弟がモスクの導師で、弟が甥の少年を連れて謝りに来たりする。こちらのエピソードはドストエフスキー的だということが、先の沼野氏の解説で判る。「ホテル・オセロ」はカッパドキアの洞窟をホテルにしたもので、インターネットで見た外国人客が来ているが、冬になると客も減ってくる。その荒涼たる季節に、妹や妻と深刻な議論が始まり、アイドゥンの自我が揺さぶられていく。彼は家を出ることにし、ライフワークの「トルコ演劇史」を書きにイスタンブールへ行くと宣言して、大雪の降る日に出かけていくのだが…。

 この言い合いの場面の容赦なさが魅力で、その後の妻ニハルが少年のおじの導師に会いに行く場面のアッと驚く展開につながっている。そこらへんを誰しもが面白いと思うかどうか。ベルイマンの「野いちご」は、若い人も出てきて対照的に描かれるから、若い時に見て感動した。この映画の場合、「何事もなしえず、馬齢を重ねる」という感覚が僕には非常によく判って、時間の長さを感じなかった。しかし、ここまで妹や妻に言われたりするのもなあ。アイドゥンの方もずいぶん無神経で、支配的なところがある。そういう登場人物の人生が見えてくると面白い。時々挿入されるカッパドキアの風景や馬(カッパドキアとは「美しい馬」の意で、野生馬がいるという)も生きてくる。

 「雪の轍」で長くなってしまったが、「昔々、アナトリアで」(2011)もカンヌ映画祭グランプリ作品である。本来はもっと長く書くべき傑作だ。ただし、西欧文学的色彩が強く、登場人物も西欧近代人のような行動をする「雪の轍」と違い、トルコの警察の死体捜索作業を描く「昔々、アナトリアで」は「どうもわからん感」がつきまとうのも確かである。3台の車が夜のアナトリア高原をゆく。容疑者を乗せた警察の車で、検察、医師などを乗せている。どうも供述がいい加減で、あそこかと思えばもっと先。よく判らないまま車がどんどん行く。
(「昔々、アナトリアで」)
 もうここからよく判らないが、なんで夜に行くんだろう。「自白」したらすぐに行くのか? すぐ終わるかと思うと、時間がかかってしまって、ある村に電話して食事を用意させる。これも判らない。どう見ても職権乱用としか思えないけど。突然停電し、そこで接客に出てくる村長の娘がひなびた村に似合わないほどの美人で皆あ然とする。ようやく埋められた死体が見つかり、警察官が犯人を人間じゃないと乱暴し始める。検事が止めて「だからトルコはいつまでもEUに入れないんだ」とか言う。臨時の検案が始まり、検事が死体を「クラーク・ゲーブル似」とか表現して思わず皆が笑う。検事も実は似ている。そんな様子が延々と続くので、これは一体何なんだろうと思う。

 面白くないわけではないが、風景も人間関係も知らない世界だし、警察ミステリーみたいでどうなるんだろうと思う。最後の頃になって、検事と医師が車の中で雑談していた「人間は突然決まった日に死ぬことができるのか」という疑問が大きな意味もを持ってくる。緻密に作られた人間ドラマを、みっちり演出した本格的人間ドラマだったのだ。それは「雪の轍」と同じ。トルコの風景を背景にして、人間どうしの細々とした感情のやり取りを描いて行って、最後に人生が反転する世界を見せる。ヌリ・ビルゲ・ジェイランは、そんな本格的な映画作家のようである。イスラム世界の一角にありつつ、世俗国家であるトルコという社会を考えるためにも必須。だけど、個人的には「雪の轍」を見たらロシア文学を読みたくなった。(2021.5.8一部改稿)
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映画「ターナー 光に愛を求めて」

2015年07月08日 20時48分46秒 |  〃  (新作外国映画)
 マイク・リー監督「ターナー 光に愛を求めて」が公開中。19世紀イギリスの有名な画家、ターナーの伝記映画である。主役のティモシー・スポールが2014年のカンヌ映画祭で主演男優賞を取っている。また芸術貢献賞というのも。他にも米国アカデミー賞に4部門でノミネートされるなど、評価が高い。ターナーと言えば、漱石の「坊ちゃん」でも出てくるように、日本でも昔から知られた画家。というか英国人画家なんて、他にはラファエル前派の何人かぐらいしか思いつかない。ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー(1775~1851)の晩年近い時代を描くので、この前に書いた日本の「駆け込み女と駆け出し男」と同時代である。英国では、すでに蒸気船、蒸気機関車の時代で、選挙も行われていた。
 
 マイク・リー(1943~)という監督は、「秘密と嘘」(1996)でカンヌ映画祭パルムドール(日本でもベストワン)、「ヴェラ・ドレイク」(2004)でヴェネツィア映画祭金獅子賞などを受賞している世界的な巨匠である。その他、「ネイキッド」「人生は、時々晴れ」「家族の庭」などたくさん公開されているが、どれもイングランドの家族映画。しかも、脚本なしで、撮影現場で俳優とディスカッションしながら作り上げていくという他の映画監督と全く違った手法で作られてきた。それでは架空の家族は描けても、歴史上の有名人物は描けないだろうと思われる。だから、ターナーの映画化は意外なんだけど、なんと今度の映画も今までと同じような手法で作り上げたという。それが見事な成果を上げている。

 画面が非常に美しく、まるでターナーの絵画を見ているようだ。撮影のディック・ポープは米アカデミー賞ノミネートなど高く評価されている。もっともデジタルで撮影して、あとでターナー調に修正しているということだ。なるほどこういう風に画家の色調を再現できるようになったわけか。有名な「解体されるために最後の停泊地に曳かれてゆく戦艦テメレール号」をターナーが実見したとする場面の美しさはどうだろう。これが描き出したかったのだろうか。テメレール(テメレーア)号と言うのは、トラファルガーの海戦に参加した英国戦艦で、1836年まで使用され、1838年に売却されたという。戦艦としてというより、ターナーの画題になったことで知られ、イギリス人が選んだもっとも偉大な英国絵画に選ばれた。

 だけど、ターナーという人自身はどうもよく判らない御仁である。風采もあがらない、太った中年男で、ここまでカッコよくない主演男優賞もカンヌと言えど珍しいのではないか。その割に女好きなのである。結婚せずに子どもがいる女性がいて、家政婦を性の対象にして、その後は絵の取材でたびたび訪れた海辺の旅館の未亡人と結ばれる。(そのリゾート地、東南部のケント州マーゲイトの風景は美しく撮影されている。)芸術家だからと言っても、時はヴィクトリア朝時代。性的に厳格だった時代で、有名画家がこんなことで許されるのか。だけど、ターナーは私生活は秘密にしていたらしい。母親が精神病で、若くして母と別れざるを得ず、女性関係、親子関係が怖かったということもあるらしい。父親は出てきて、画家に影響を及ぼしたという。それらの女性たちとの関係も不可思議で、どうにもターナーという人が判らない。だけど、ターナーの生涯を絵解きするような映画じゃないんだろう。ターナー絵画とその時代を体感するという映画だと思う。

 画家の映画というのは結構あるが、「認められずに若くして死んだ悲劇」とか「絵画の勉強をせずに、画壇と無関係に描き続けたナイーブ派」などの映画が多い。前者は最近ようやく公開されたモーリス・ピアラの「ヴァン・ゴッホ」とか「エゴン・シーレ」、あるいはロートレックを描いた「赤い風車」や「モンパルナスの灯」など。後者は「ピロスマニ」「ニキフォル」、あるいは最近岩波ホールでやったフランスの「セラフィーヌの庭」など。ここに日本の山下清を描く堀川弘通「裸の大将」を付け加えるべきだろう。ターナーのように、生前から有名人だった画家の映画はあまりないと思うが、それでも芸術家というのは謎が多い人生だと思った。ヴィクトリア時代(女王も出てくる)の風俗も興味深いし、見れば感じることも多いが、ターナーの光に満ちた絵画の秘密もよく判らない。判らないんだけど、そこが魅力でもある。
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