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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

アスガー・ファルハディの映画-現代アジアの監督③

2015年02月28日 00時24分45秒 |  〃 (世界の映画監督)
 フィルムセンターの現代アジア映画の監督シリーズ、3人目はイランアスガ-・ファルハディ監督(1972~)である。今回上映される7人の監督の中で、以前に見てるのは3人。香港のアン・ホイ、インドのマニラトラムと今回書くファルハディ。名前が覚えにくいかもしれないが、アカデミー賞外国語映画賞、ベルリン映画祭金熊賞を取り、2012年のキネマ旬報ベストテン2位に選ばれた「別離」(2011)の監督だと言えば、思い出す人もあるだろう。その前の「彼女が消えた浜辺」(2009)もベルリン映画祭銀熊賞を取り、最新の「ある過去の行方」(2013)はカンヌ映画祭で女優賞(「アーティスト」のベレニス・ベジョが演じた)と、近年世界でもっとも活躍が目立つ監督のひとりである。「ある過去の行方」はパリで撮影されているが、他の作品はイランの首都テヘランが舞台。

 イラン映画と言えば、90年代以後ずいぶん日本でも公開された。巨匠アッバス・キアロスタミモフセン・マフバルドフを中心に、クルド系のバフマン・ゴバディや映画撮影禁止処分を受けながらも今年のベルリン映画祭金熊賞作品を作ったジャファル・パナヒなど何人もの監督が思い浮かぶ。初めは「子ども映画」が多く、イスラム体制の厳しい検閲を逃れるため児童映画の枠組みで作っていると言われていた。キアロスタミ「友だちのうちはどこ?」やマジッド・マジディ「運動靴と赤い金魚」などキネ旬ベストテンに入選している。その後、女性の不自由な境遇や辺境の人々を描く映画も公開された。でも、ファルハディの映画を見ると、今までのイラン映画受容って、ジブリと大島渚だけ見て日本を論じていたような感じがしてくる。

 では彼の映画が好きかと言われると、それはちょっと…。「ある過去の行方」はイラン人も関係はしてるけど、外国で撮ってるから、人間関係の大変さを普遍的に描いている。でも「別離」は脚本や演技の卓抜さは認めないわけにはいかないけど、物語を観賞する前にイランの法体系の不条理さにいらだってしまって、どうも心穏やかに見ることができないのである。今回はデビュー作の「砂塵にさまよう」(2003)、第2作「美しい都市(まち)」(2004)、第3作の「火祭り」(2006)が上映されたが、いずれも「別離」と同様に、テヘランで生きる庶民の不条理な生活が描かれている。

 「砂塵にさまよう」は、親が結婚に反対したために一目ぼれした結婚相手と別れなければならない男の話。カネもないのに慰謝料を払うと裁判で約束し、砂漠で毒蛇を取る危険な仕事につく。蛇取りの男の車に乗り込んで、教えてもらおうとするが、男は彼を拒否し…と話はどんどんおかしくなり、ついに彼は毒蛇にかまれてしまう。大体なんで別れなければならないかが全く納得できない。(理解はできる。)主人公ナザルは直情径行すぎるし、声が馬鹿でかい。映画内でも妻にバスでは静かに話してと言われてる。とにかく一方的にまくしたて続けるナザルを見てるだけで、こっちもウンザリ。

 第2作を後にして、3作目「火祭り」。夫婦のいさかいを描く心理ドラマで、非常に完成度が高い。ポランスキーが映画化した「おとなのけんか」という映画があるが、その原作の舞台劇と同じぐらい迫力がある。若いルーヒは職業案内所で紹介された家政婦の仕事でマンションに行くと、夫婦げんかでめちゃくちゃな家庭の片付け依頼。妻は夫の浮気を疑い、その相手と疑う向かいの部屋の美容サロン(もぐり)に「偵察」に行かされたり、子どもの出迎えに小学校に行かされたり…。もうすぐ結婚を控えた彼女は、夫婦に振り回された一日をどう思っただろう。

 演出の冴えが印象的で、その才気は並々ならぬものがある。主演のタラネ・アリデュスティという女優(薬師丸ひろ子っぽい)が魅力的で目を奪われる。題名はイランの新年にならされる爆竹の祭りからで、ロケだと思うが中国の春節を超えるのではないかと思うすごさ。男の方は映像関係の仕事で、正月には家族でドバイに行く予定にしている。しかし大みそかにも仕事で呼び出され、映像に「毛が映ってる」と処理のお仕事。もちろん、「スカーフの下に頭髪が見えてる」という問題である。

 さて、中味的に「トンデモ」なのが「美しい都市(まち)」で、脚本、演出、演技はずいぶん洗練されて来ているが、とにかくイスラム法の不可思議な世界に頭クラクラである。まず「美しい都市」というのは少年院の名前で、盗みで入っていたアーラはもうすぐ収容期間が終わる。担当官が期間が延びてるのは懲罰によるものだから、もう出してもいいだろうと判断して釈放される。ここでもう不思議。現場裁量でできるのか。アーラはシャバでやりたいことがあった。それは中で知り合った友人のアフマドが18歳になったので、死刑にされるかもしれない、そのために被害者の許しをもらいたいのである。

 アフマドは16歳の時に恋人が出来たが、相手の親が認めず、悩んで心中しようと思い相手の娘を殺して自分は生き残る。相手の親が許してくれずに死刑判決になったらしい。内容的に死刑になる事件ではないが、被害者が求めると死刑なのである。さらに、国連人権規約は18歳未満の死刑を禁止し、日本の刑法も18歳未満の場合は死刑に当たる罪を無期懲役とすると定めている。当たり前のことだが、これは「犯行当時、18歳未満」の事例である。イランでは、犯行当時18歳未満でも、捕まえといて18歳になれば死刑にできるのか。ありえないでしょ、それは。

 さらにすごいのは、その後。アーラがアフマドの姉フィルゼー(「火祭り」の家政婦役のタラネ・アリデュスティ)とともに被害者を訪れても、父親は絶対に許さないと言う。ではすぐに死刑執行となるかというと、被害者側が賠償金を払わないと死刑執行ができない被害者が加害者に払うのである。なぜなら、女の価値は男の半分だから、女が1人死に、男を死刑にすると、1人分男側の家族が損をすることになる。賠償金を女側が男側に払わないといけないのである。通常の日本人は理解できないだろう。というか、絶対にそんなことはあってはいけないと思うだろう。それを父親側が許すと言えば、アフマド少年は釈放されるのだが、今度は加害者側が被害者側に賠償金を払う必要があるのである。両家とも貧乏で、執行も釈放も出来ない状況となり…。父親の妻は死んでいるのだが、後添えを貰っていてもうひとり女の子がいる。その子は足が悪い障害者で、器量も悪いので、このままでは結婚の相手も見つからないと思った後妻は、許しを求めに来るアーラが真面目そうなので、娘と結婚してくれたら父親に許しを出させるという策略をめぐらす。(ちなみに義母が許すだけでは、娘と血のつながりがないので、死刑判決を取り消す効力がない。)

 この筋の進み具合のトンデモぶりは実に凄まじい。アーラはアフマドの姉フィルゼーに子どもがいるので結婚していると思っていたが、離婚して独身と知り、思慕の念を募らせる。フィルゼーとしては、子のいる自分が年下の男と結ばれるより、弟の命を救うためにも障害者の娘と結婚して欲しいし。一体どうなっていくんじゃ、というところで映画は終わってしまう。結婚はともかく、死刑というか、刑罰というものは国家の刑罰権の問題である。被害者が許すとか許さないとか、ましてや賠償金を払うとか払えないとか、そういう問題は情状酌量の点では意味があるが、それですべてが決まるという構造自体がおかしい(近代的な法概念では)。でも、イスラム法では刑事と民事に本質的な区別がない。裁くのは神にしかできないことだから、被害者が許せばそれで終わりでいい。モスクでは、許せば神の国に行きやすくなるから、許せと指導される。父親は「神の方がおかしい」と冒涜的な言葉さえ発するが、でも元はと言えばこの父が男女交際を許していれば、すべてはなかったではないか。

 特に、男女の差から被害者側が賠償金を求められるという超トンデモがホントにあるのかと疑う人もあるだろうが、それはある。2003年にノーベル平和賞を授与されたイランの女性弁護士、人権活動家、シリン・エバディ「私は逃げない」という著書にくわしく出ている。この本は2007年に出た本だが、今でも入手可能だし、図書館等でも比較的見つかると思う。イランを知るためには必須の本で、とにかく凄まじい状況に驚くが、エバディの不屈の闘士ぶりにも敬意を抱かざるを得ない。

 中でも一番すごいのは、以下の事件である。農村地帯で、ある11歳の少女が3人の男に強姦され崖の上から落とされ殺された。3人の男は逮捕されたが主犯は自殺、2人の男に死刑判決が下った。イスラーム法においては(というかイランのイスラーム体制における解釈では)「殺人の被害者は、法的処罰か金銭的補償かを選べる」。そして「女は男の権利の半分の価値がある。」そこで、少女の命を1ポイントとすると、男2人が死刑となるので男側のポイントは2×2の4ポイントとなる。被害者家族は、「レイプ被害者の家族という汚名」を晴らすため、死刑を求めるしかない。(イランの農村部の家父長的価値観の中では。)そのため、死刑となる男の家族の側に、少女の家族に対して「3ポイント分の補償」を求める権利が生じる。裁判所は少女の父親に処刑費用を含む多額の金額を払うように命じる判決を出した。家族は財産を投げ出したが足りないので、腎臓を売ろうとするが、父は薬物乱用の過去があり、兄は小児麻痺のため腎臓摘出ができなかった。なぜ家族で臓器を売るのか不思議に思った医者が事実を知り、司法省のトップに手紙を書き、問題を訴えたというのである。これはイランでも問題化したらしいし、そこからエバディが担当し、犯人が脱走したり、再審になったり複雑な経過をたどったらしい。とにかくこれが「イスラム法」体制であり、そういうのが理想だと思ってる人々が権力を握るとどうなるかの実例である。
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リリ・リザの映画②

2015年02月27日 00時28分05秒 |  〃 (世界の映画監督)
 インドネシアリリ・リザ監督の話が途中で終わってしまったので、続き。(ちなみに、リリ・リザは男か女かと聞いてる人がいたけど、男性監督。)2008年の「虹の兵士たち」とその続編である2009年の「夢追いかけて」である。どちらも非常に感動的な映画で、映画的な感興と「異文化理解」的な興味をともに満足させてくれるが、同時に「世界どこでも、子どもたちの世界は共通」という当たり前の事実を実感させてくれる映画でもある。この映画もなぜ公開されないのかが不思議で、これからでも是非正式に公開して欲しいと強く思う映画。

 「虹の兵士たち」は、インドネシアのブリトゥン島のイスラム学校に通う10人の子どもたちの物語で、新任の女性教師ムスリマと「二十の瞳」とでも呼びたくなる映画。1974年に始まり、1979年頃を中心に小学校卒業までを描く。インドネシアも経済的に成長していく頃で、今見て懐かしくなるんだと思うけど、その年最大のヒット作となったリリ・リザの代表作。イスラム学校の話は後で取り上げるが、まず「ブリトゥン島」とはどこか。字幕ではブりトン島とあるが、ウィキペディアでは「ブリトゥン」とある。知っている人はほとんどいないと思うが、ちょうどスマトラ島とカリマンタン島の中間あたりにある島である。2000年まで南スマトラ州に属していたが、現在は隣のバンカ島とともに、バンカ=ブリトゥン州になっている。人口は16万ほどで、西にあるバンカ島が60万を超えているので、それに比べるとずっと小さい。映画でも重要な背景となっているが、錫が産出する。

 まず、冒頭で学校が成立する条件の10人の生徒が集まるかどうかで、ドキドキさせられる。成立した後で、5年後に飛び、子どもたちは小学校高学年になっているが、その後新入生はなく、生徒数は同じ。高齢の校長とムスリマ、それと若い男性教師がいるが、若い二人には他の学校から転勤の勧誘がある。ムスリマは子どもたちに責任があると残るが、男性教師は去る。高齢の校長もだんだん病気となり、亡くなってしまう。給料も遅配という環境で、ムスリマも裁縫で収入を得ながら教師をしている。そんな環境でも、子どもたちは頑張り、独立記念日のパレードに初参加し、錫公社の学校に負けないように創意工夫でダンスを仕上げる。主人公で語り手であるイカルは、その頃先生に頼まれて近くの村のお店に、学校のチョークを買いに行く。そこでチョークを出してくれた女の子の爪の美しさに一目ぼれ。思春期のときめきを経験する。タイトルの「虹の兵士たち」は校外学習で訪れた海辺で見た虹の素晴らしさに、ムスリマが子どもたち皆を「虹の兵士たち」と呼んだことから。そんな美しい自然の中の学校で、設備は恵まれないながら、そこには「心の教育」があった…。

 というのも、それが校長の方針で、子どもたちには「道徳」を重視した「宗教教育」を行わないといけないという考えなのである。そこでちょっと心配がある。イスラム学校とはどんなものなのか。いわゆる「学力の保障」は出来ているのだろうか。最後に、島の学校対抗のクイズ大会があり、それにも出場しようと頑張ることになり、社会科や算数の問題も出るのである。そこで算数が得意な子がいて、その生徒ランタンが間に合うかどうか、ハラハラさせる。というのも彼の住所は海辺の漁村で、そこから自転車で来るときに道に大きなワニが出ると「通行止め」なのである。いつもはすぐ動くワニなのに、この日に限って道にずっと立ち止まってしまう…。でも間にあって、彼の活躍で同点になるが、でも最後の「時速」と「時間」の問題で彼が答えた問題が誤答とされ…。しかし、とまあ定番的な展開ではあるものの、この学校の生徒たちは二つのカップを獲得したのである。

 この島最初の学校である「イスラム学校」とは何か。その国の人には自明の制度は説明されないから、どうも判らない。以下は僕の推測で間違っているかもしれないが、こんな感じではないか。近代的な学校制度ができるまでは、日本で言えば「寺子屋」のような存在で、イスラム教に基づく学校があっただろうと思う。やがて近代的な学校制度が整備され多くの生徒がそっちに通うようになっても、イスラム学校は昔からの伝統ということで、つぶされないで残る。ホントは義務教育制度があれば、すべての子どもはどこかに通う必要があるが、この島の場合貧しい家の女の子などは通ってないから、まだ義務教育ではないのである。ブリトゥン島では錫公社が従業員の子弟のための付属小学校を作っている。島の多くの家庭はそこに通わせるが、制服等があり貧しい家庭は通わせられない。そういう家庭が「イスラム学校」に通わせるが、10人という基準があるということは、一応その程度が集まれば、不十分ながら公費の補助があるということだろう。そういう公設民営のようなシステムであるまいか。貧しい家庭の子が集まる場で、「イスラム教をガチで教える学校」という存在ではない。だから、日本で言えばフリースクールとか、夜間中学などに近い感じで、山田洋次の「学校」のように教師と生徒の濃密なドラマが展開されるような場なんだと思う。校長先生は、生徒が校庭で遊んでいてなかなか教室に来ないと、「大きな舟を造ったヌーの話をするよ」という。皆目を輝かせて話を聞くが、これはノアの方舟の話なのである。イスラム教は旧約聖書を受けて成立しているから、ノア(ヌー)は共通の教材なのである。

 「虹の兵士たち」のラストで、イカルは大人になっていて久しぶりに島を訪ねる感動的な場面がある。そこでイカルはソルボンヌに留学すると話すが、そこまでの経緯を語るのが「夢追いかけて」である。ブリトゥン島に高校はないので、島を出ないといけない。小学校卒業後に親が死んで引き取られたいとこのアライともうひとりジンブロンの三人はいつもつるむ友だちとなる。高校時代のバカ騒ぎ(成人映画を見に行くとか)は、青春映画定番の「三バカ大将」もので、どこの青春も同じだなあと思う。誰かを好きになり、進路を考えて悩み…。そんなドタバタも終わり、ジャワに出て受験勉強。めでたく合格し、卒業したものの、就職先はなく、イカルは郵便局で働く。そしてアライは行方不明。夢を追いかけて、島を出て大学まで来た彼らの行く末は…。というどこの国でも多分感情移入できる青春の彷徨を、ヒット曲などを散りばめながら快調に描いて行く。前作と合わせて、カット割りやカメラの移動が実にうまく、映画のリズムの快適さが伝わる。特に「虹の兵士たち」は風景が広いので、パン(カメラの横移動)が多かったように思うが、それも気持ち良いのである。

 インドネシア映画「ビューティフル・デイズ」という作品があるが、それに出てくる高校では、なんと創作詩のコンクールがあってビックリした。日本の学校では考えられない。「夢追いかけて」では、先生が「好きな言葉を言え」という時間がある。「『目には目を』では、世界は盲目となる マハトマ・ガンディー」とか。これはいいなと思ったけど、日本では言えるだろうか。大人でも。この映画では、生徒が皆、スカルノ、ハッタなどの独立運動家の言葉や世界の政治家の言葉を憶えている。こういう映画を見て、発見することは、青春の世界共通性とともに、どんな国の学校にも学ぶことが多いということだと思う。

 特にインドネシアは重要な国である。位置的にも、資源的にもそうだけど、ASEANNの盟主的存在として「G20」にも参加している。世界最大のムスリム人口の国でもある。中東で興ったイスラム教だが、南アジア、東南アジアに広がり、もともと人口が多いところだから、インド亜大陸からマレー半島、インドネシア一帯が世界で一番イスラム教徒が多いわけである。インドネシアでは、2002年と2005年にバリ島で爆弾テロを起こした過激派勢力もあることはあるが、その大部分は穏健なイスラム教であるのはもちろん。戒律も中東に比べれば緩やかではないか。スカルノらの作ったパンチャシラ(建国五原則)の第一は「唯一神への信仰」となっているが、イスラム教は国教ではなく、世俗国家である。唯一神信仰はキリスト教も同じである。公式に無神論を言うのはできないのではないかと思うが、そういうインドネシアの社会を理解することは、非常に大切ではないかと思う。「ごく普通のイスラム教徒」がどんな暮らしをしているか、それを知るという意味でも大事な映画である。それとともに、こういう映画を見ると(あるいは音楽などでもいいが)、その国に親しみを感じるということである。頭で考えるだけでなく、自然に親しみを感じる文化交流がベースにないと、世界との友好は成り立たない。そういう意味でも、是非公開されて欲しい映画だなと思う。
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リリ・リザの映画①-現代アジアの監督②

2015年02月26日 00時14分04秒 |  〃 (世界の映画監督)
 フィルムセンターの現代アジア映画特集の第2弾。インドネシアリリ・リザ監督である。リリ・リザ(1970~)は、東京国際映画祭で特集上映があったから名前は知ってたけど、見るのは初めてである。映画として非常に面白かったけど、インドネシアを知るという意味でもとてもためになった。と同時に、そこに出てくるインドネシアの風土、映像に流れる風のようなものが、とても心地よいのである。タイやマレーシアなどに長期滞在する日本人も多いというけど、僕も昔行った時から大好きで、モンスーン・アジアの共通性を感じて心休まる気がする。イタリアや東欧(チェコやハンガリー等)の映画も、言葉の響きや風景が気持ち良いのだが、僕にとって東南アジアの映画もそんな感じ。

 今回は4作が上映されたが、第4作という「GIE」(2005)は非常な問題作だった。ヴェトナムのダン・ニャット・ミンが抒情詩人とすれば、リリ・リザは大叙事詩を描く。ある華人系(カトリック)の青年が真実を求めて生きて挫折していく様子を年代記として描く大作である。その青年は、スー・ホッ・ギーと言い、題名はその「ギー」から取る。実在の青年運動家で、チラシには「共産主義活動を行い」と書いてあるが、これは間違い。主人公は幼友達が共産党に加わると、早く抜けないと大変なことになると忠告する。大学では、イスラム系でも共産党系でもなく、文化運動を中心にしたグループを立ちあげる。活動の内容は腐敗したスカルノ政権に対する批判である。スカルノの支持を受けて勢力を伸ばしていたのがインドネシア共産党(PKI)で、つまり共産党は体制側だったのである。主人公たちは建国の英雄スカルノに迫って共産党解党を求めるという立場である。1965年9月30日の「9・30事件」の実情はまだ不明のところがあるが、この事件をきっかけにスカルノは権力基盤を陸軍のスハルトに奪われていく。後に長期独裁政権となるスハルトだが、この時点の学生運動から見るとスカルノ政権に対する批判の受け皿として一定の支持があったように描かれている。

 この「9・30事件」の後、インドネシア各地で100万人を超えるとも言われる共産党員の大虐殺事件が起きた。その様子は2014年に公開された記録映画「アクト・オブ・キリング」で描かれ衝撃を与えた。この映画の主人公ギーは、学生新聞に自分のコーナーを持っていて、そこで社会批判記事を書いていた。そこでこの虐殺に触れる記事を書いたのである。それは1969年という時期を考えると非常に勇気ある行為だった。だけど、記事は黙殺され、友人や恋人は去っていく。失望したギーは趣味の登山に出かけ、ジャワ島最高峰スメル山(3,676m)に登り有毒ガスで死亡した。「政治犯」だったのかと思ったら、そういう人物ではなかった。幼い時から批判意識、正義感が強く、それを貫いて生きた清廉な学生運動家で、死後に日記が発見され、それが映画化された。ちょうど同時代の、高野悦子「二十歳の原点」みたいなものである。同時代の歌が流れ(女友達が「ドナ・ドナ」を歌うシーンがあり、インドネシアでも歌われていたんだなと感慨深かった)、全体のムードはイタリアのマルコ・トゥリオ・ジョルダーナ監督「ペッピーノの百歩」を思い出した。誠実に生きることで反マフィア運動家になっていった実在人物を描いた映画だが、当時の音楽などで時代の空気を映しだすことが似ている。

 今もなおタブー視される共産党員の虐殺事件に触れた勇気ある企画で、非常に興味深く見た。インドネシア現代史を考える時、つい「9・30事件」で一挙にスカルノからスハルトへ権力移譲が進んだように思ってしまうのだが、映画を見てそれが数年にわたる権力のドラマだったことが理解できた。主人公は共産党に入った幼友達を心配し、事件後に母親を訪ねたりしている。母も逮捕されていて、しばらく後に釈放されたという。友人の方は戻ってこなかった。殺されたか、流刑にされたかである。しかし、主人公は一貫して、主義主張以前に「共産党対陸軍」の対立が衝突寸前になっているので、それを考えて冷静に行動しないといけないと考えていると思われる。しかし、友人の方はすっかり「革命だ」と舞い上がっている感じに描かれている。この映画は、非共産党系の学生運動家から見たインドネシア現代史として興味深い。映画としては、友人や恋人関係などがどうなるか、政治の激動が絡んで、ドキドキしながら見る現代史サスペンスであり、画面から目が離せない優れた出来だと思う。

 次が「永遠探しの三日間」(2006)で、素晴らしいロード・ムービー。ロード・ムービーには、美しい景色やしっとりした人間関係などを中心に描く映画が多いが、この映画は徹底した青春映画で、男女二人(いとこどうし)の会話などで現代インドネシアを描き出す。ユスフはインドネシア大学建築科の大学生。いとこの姉妹の姉の方が結婚することになり、由緒ある食器をジョクジャカルタまで車で運ぶように頼まれる。いとこの妹の方、アンバル(高校を出てイギリスに留学するかどうか迷っている)は飛行機で行くはずだったが、前夜にユスフと飲みに行って寝過ごしてしまい、結局一緒に車で向かうことになる。ユスフは慎重でマジメなタイプ、一方アンバルは奔放な「発展家」で、その対照的な生き方がぶつかったり共感したり、いろいろある。迷ったり寄り道したり、たかがジャカルタからジョクジャに行くだけで3日もかかるのかと思うが、地図も持たずに出ているので仕方ない。

 バンドンに寄りたいというアンバルの都合で一日がつぶれる。そこではロック音楽のグループと雑魚寝。途中で起きて出発するも、次の日は暑かったり、海辺の祭り(?)に気を取られたりして、民泊する。この家がトンデモで、アンバルは怒ってしまい、ユスフはもういいだろうという。二人はケンカになるが、交通事故を目撃したり、カトリックの遺跡を見にいき、そこで人生について考え語り合う。ユスフは、まだまだ自分たちは若いという。「27歳が人生の分起点だ」。ジミ・ヘン、ジャニス、ジム・モリソン、カート・コバーンは皆27で死んだ。スカルノは27歳で最初の政党を作った。いや、スカルノはともかく、インドネシアの若者もこう考えるのである。アンバルは「いまどき、婚前交渉は当然でしょ」と吹聴するほど「進んで」いる。インドネシアだから、もちろんムスリム(イスラム教信者)であるが、スカーフは被らない。(正式な場では被ることもあるらしい。)そういう現代若者の「世俗派ムスリム」のようすがうかがえて、この映画も興味深い。やはり若者の関心は、愛と性と進路なのである。大きな事件が起きるわけではなく、美しい風景もあまり出てこない。ただドライブしているだけのような映画なんだけど、とても面白い。なかなか着かないゆったりしたリズムが快く、忘れがたい青春映画の一つだと思う。ジョクジャカルタは2006年に地震の被害を受け、その様子も少し出てくる。アンバル役のアディニア・ウィラスティという女優は、特に美人というわけではないんだけど、見てるうちになんだか気になってくる。昔の日本映画だと桃井かおりとか秋吉久美子みたいな感じ。ところで、マリファナをやってるのにビックリ、運転しながらやってる(という設定)は日本では許されないだろう。ユスフもタバコ吸い過ぎ。長くなったので、ここで切る。
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ダン・ニャット・ミンの映画-現代アジアの監督①

2015年02月23日 23時37分51秒 |  〃 (世界の映画監督)
 国立近代美術館フィルムセンターで、「現代アジア映画の作家たち」という特集を行っている。福岡市総合図書館のアジア映画コレクションから選ばれた映画の特集。2004年にもフィルムセンターで特集を行っているが、フィルムセンターのサイトで過去企画を確認すると、2カ月にわたって54本もの映画を上映している。今回は7人の監督に絞り、東京ではなかなか見られない映画を集めている。

 まずはヴェトナムダン・ニャット・ミン監督の5本の映画を見たので、そのまとめ。見たのは初めてで、名前も知らなかった。しかし、その抒情的な世界は非常に感銘深かった。デビュー作の「射程内の街」(1982)は、1979年の中越戦争を描いている。中越戦争というのは、カンボジアに侵攻したヴェトナムに対し、中国が「懲罰」と称して仕掛けた限定戦争。量で圧倒する中国軍がヴェトナム北辺部を一時占領し、勝利したとして一か月で撤退した。しかし実際は現代戦経験を積んだヴェトナム軍に中国軍は大被害を受け、衝撃を受けたとされる。戦争で廃墟になった国境の町ランソンが出てくるが、どこまでがロケか判らなかった。中国への配慮から長く外国での上映が禁止されていた作品。

 主人公は新聞カメラマンで、軍に掛け合って激戦の続くランソンを取材する。地雷を警戒しながら、戦闘で破壊された街をめぐっていく。その合間に、男の過去がインサートされる。彼は昔、ランソンに来たことがあった。学生時代に愛を誓った女子学生がランソン出身だったのだ。二人は世界の出来事を語り合う。(中国の文化大革命の写真集を見て、女はどうして文化財を破壊するの?と問う。男は世界の国はそれぞれのやり方があるんだと答える。)しかし、死んだとされていた彼女の父は生きていた。母を捨て、他の女と南ヴェトナムへ逃亡したのである。この事実を党が確認し女性は「問題あり」となり、男は去った。男がランソン入りを強く希望したのは、この「私が棄てた女」を探したかったのである。

 そこに、同じくランソン取材を希望する日本人が現れる。「赤旗」の特派員で、「同じ共産主義者として」世界に知らせたいと言う。軍とともに一緒に街を回り歩くが、中国軍の残置スナイパーにより、赤旗特派員は銃撃されて死亡する。これは実話である。この日本人を監督自身が演じている。予定していた日本人留学生が無理になって、一番日本人らしいのは監督だと言われたらしい。

 残留していた漢方薬局の華人が見つかる。中国軍に志願した息子に置いて行かれたという。この老人はかつてランソンを訪れた時に、彼女の家に薬を届けた人だった。薬屋は文革礼賛の本を無料で渡した。つまり、華人の中には中国のプロパガンダを広める「中国の手先」がいた。(恐らく事実だろう。)老人を捕まえた若いヴェトナム兵は、殺してしまえと激高する。しかし、上官が叱り飛ばして、捕虜として後方に連行する。このように「指導者の冷静な判断」が戦争犯罪を防いだという宣伝だろうが、重要な描写だと思う。昔の女友達の境遇は最後に明かされるが、主人公にはほろ苦く、観客にはほっとする結末。全体に「反中国の愛国映画」の限界の中で、戦時においても人間性を失わない人々を描いてヒューマニスティックな感銘を呼ぶ。監督はなかなか自分の撮りたい映画を撮れず、これがダメなら監督を辞める決意で撮ったという。素朴な平和主義と愛国心がベースになっていて、昔のソ連で作られた「雪どけ」時代の「新感覚」映画を思わせる佳作。80年代の映画だけどモノクロだし。

 2作目の「十月になれば」(1984)は、戦時中の「銃後」の農村を描いた作品で、心に沁みる名作。戦争に行った夫を待つズエンは、息子の帰還を心待ちにする義父の体調が悪いのを案じて、夫の戦死の報を隠す。小学校の教師は知ってしまうが、頼まれて夫の手紙を代筆することを承知する。こうした「美談」がベースになるが、教師の書いた手紙が流出し「スキャンダル」視され、教師は他の任地に飛ばされる。そんな中、老父の容体が悪化し、幼い孫は父に電報を打つんだと飛び出してしまう。「美しい心」から発した心遣いが思わぬ波紋を呼んで行く…。人々は共同体の秩序の中でゆったりと暮らしていて、その稲作農村のようす男尊女卑的な農村共同体などは日本を見ている感じがする。稲作と儒教で共通する世界である。子どもと義父を抱えて苦労する若い妻を演じる女優が実に素晴らしい。

 次の「河の女」(1987)は、ヴェトナム戦争さなか、古都フエで「河の女」(水上の売春婦)をしている主人公を描く。彼女は戦争中に追われていたゲリラ指導者を匿って、船で川をさかのぼって逃がした経験がある。彼女はその思い出を大切にしてひそかに憧れてきた。戦争終結後は「再教育キャンプ」に送られ、帰還後は「土方」として暮らしてきた。ある日、「彼」と思われる人物を見かけて追っていくと、ある役所に入る。面会を求めるが、官僚的対応をされて会ってもらえない。帰りに交通事故にあって入院し、病院で女性新聞記者に取材を受けた。だが彼女の書いた記事は発表禁止になある。誰も読んでいない段階なのになぜ? それは党幹部の夫が家で読んでいたのだ。実は彼が「その男」だったのだが、「今大切なことは人民が党に寄せる信頼を疑わせないようにすることだ」と言い放つ。党内の官僚主義と言論統制を正面から扱った勇気ある映画。川の風景も美しく、薄幸な女性の運命に心を奪われる。思い出すのは、小栗康平「泥の河」だろう。ともに船上で生きる娼婦を描くが、ムードも似ている。(下の左)
 
 4作目が「グァバの季節」(2000)。(上の右)これも実にしみじみとした名作だった。主人公は、子どもの時に庭のグァバの樹から落ちた事故で発達が止まってしまった。今は美術学校でモデルをしているが、時々グァバの樹を見に行く。当時の家は今は党幹部の家になっていて、それが判らない彼はついに庭に入ってしまう。警察に捕まり、姉が呼ばれて釈放されるが、その家には行かないように言われる。幹部はホーチミン市に派遣された間、家には大学生の娘が残っていて彼を理解して家に来ていいと言う。こうして世代を超えた交流が生まれるが、ここでもうひとり、市場で働く若い女性モデルも絡み、邪心のない主人公と、彼を危険視して「心の結びつき」をなくした人々のドラマが進行する。経済発展の中で「心」を失っていく人々というテーマも、かつての日本映画でたくさん見た。監督自身の原作を映画化したというが、その繊細な描写、ハノイの町の雑踏の魅力、女優の美しさ、日本でも公開されて欲しい映画。

 そして最後に「きのう、平和の夢を見た」(2009)。非常に心打たれる傑作で、今からでも是非正式に公開されて欲しい。日本でも翻訳されている「トゥーイの日記」の映画化で実話。女医として南ヴェトナムの激戦地区に派遣されているダン・トゥイ・チャムは、野戦病院の激務の中で日記をつけていた。戦死した後に、病院にあった日記をアメリカ兵が持ち帰る。翻訳して中の記述を知った米兵は、その中にある「炎」と冷静で知的な世界に圧倒され、生涯忘れられなくなる。21世紀になって遺族を探し求め、日記は母に伝わった。戦場の厳しさと主人公の知的な魅力が印象的。

 これほど人間性を失わない相手を敵として米軍は闘っていたのである。そのことを知り、受け入れる米側のようすもフェアに描写され、戦争の悲劇を訴える。今は経済的にも発展したヴェトナムだが、戦争時の辛い体験を静かに訴えている。ナショナリズムに訴えるというより、戦争はどちら側にも心の傷を残すというヒューマニズムの色合いが濃い。この監督の持ち味だろうが、静かな世界に心打つ物語が進行するというスタイルは共通している。野戦病院もの」は、「ひめゆりの塔」や増村保造「赤い天使」、アルトマン「M★A★S★H」などけっこう思い浮かぶが、この映画が一番リアルで感動的ではないか。ヴェトナム戦争を同時代に知っている世代には、非常に心打たれる映画ばかりだった。主題も勇気ある世界を描き、小津安二郎、木下恵介、黒澤明、今井正などを思わせる作風に共感を覚えた。
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1979年、中東現代史の起点

2015年02月20日 23時09分17秒 |  〃  (国際問題)

 現在の中東情勢を考えるためには、どの程度さかのぼって歴史を振り返る必要があるだろうか。よく「イスラム国」はアメリカが開始したイラク戦争のもたらしたものだと説く人がいる。それは正しいのだが、もう少し長い期間の検討も必要だと思う。しかし、イスラム教成立やイスラム帝国までさかのぼるのも大変だし、第一次世界大戦後の終戦処理も問題ではあるが100年近い昔の話である。もう少し最近の時点を挙げるとなると、「1979年」という年こそ、「中東現代史の起点」だということになる。36年前で、今年と同じひつじ年。年頭に書いたように、「ひつじ年は中東大乱の年」なのである。

 それより前の話から始めるが、第二次世界大戦以後の世界は、基本的には「米ソ冷戦」である。アメリカ合衆国とソヴィエト連邦を「盟主」とするイデオロギー対立の時代。「ベルリンの壁」が知られるヨーロッパの東西分断、あるいは「熱戦」になってしまった朝鮮半島やヴェトナムなどの東アジア。冷戦時代の焦点はその地帯だけど、中東一帯も第三の焦点と言える地帯だったのである。この地域に一番権益を持つ列強はイギリスで、その象徴はスエズ運河だった。アラブ諸国の高まる民族主義の波の中、エジプトのナセル大統領は1956年にスエズ運河国有化を宣言。それをきっかけにして英仏イスラエルは軍事行動を起こし第二次中東戦争が起こった。

 この時にアメリカは参戦しなかったが、その前にエジプトがソ連に近づいたため、米英がアスワンダム建設援助をほごにしたことが国有化宣言につながった。こうしてアラブの民族主義的政権はソ連よりが明確になっていったわけである。それはアラブ諸国の「明白な敵」であるイスラエルをアメリカが支援する以上、当然のこととも言える。ソ連崩壊で独立したグルジア(ジョージア)やアルメニア、アゼルバイジャンなどはソ連の構成国だったし、ブルガリアまでの「東欧」がソ連圏だったわけだから、トルコやイランは対ソ連最前線だったし、ペルシャ湾岸の原油が開発されると、経済的にも重要性を増した。そのため、イギリス、トルコ、パキスタン、イラン、イラク王国が、1955年にイラクの首都バグダードでバグダード条約に調印し、中央条約機構(CENTO)が成立したのである。(アメリカはオブザーバー参加。)NATO(北大西洋条約機構)は今もあって知られているだろうが、この「セントー」というのは今や知る人もない。大体、イラク王国と何か。イラクはヨルダンと同じハシム家による王政が敷かれていたのだが、1958年に青年将校がクーデタを起こして王政は廃止されたのである。イラクはCENTOを脱退し、ソ連寄りに変わり、バース党政権が成立する。細かい転変は省略し、焦点の1979年にサダム・フセインが大統領に就任することになる。

 イラク王国崩壊後、CENTOはトルコの首都アンカラに本部を移して存続したが、ほとんど機能しなかった。完全に解体されたのは、1979年である。何故この年かというと、中東最大の親米国だったイラン帝国が、1979年1月に崩壊したからである。いわゆる「イラン・イスラム革命」である。それ以前はイランが親米、中東の盟主エジプトが親ソという構図だったのが、ここで完全にひっくり返る。エジプトはナセル死後に後継となったアンワル・サダトが徐々に米国よりに姿勢を転換させていたが、1978年にアメリカの仲介で「キャンプ・デイヴィッド合意」を結んでイスラエルと和平した。1979年3月にはエジプト・イスラエル平和条約が締結され、正式な外交関係を結んだ。イスラエルとの和平は「イスラム教への裏切り」だと考えるイスラム勢力によって、サダト大統領は1981年に暗殺された。イスラム過激派によるテロがアラブ諸国内の指導者を暗殺する段階に至ったのである。

 イランのイスラム革命は1979年1月に帝政が崩壊し、パリに亡命していたイスラム法学者の最高権威ホメイニが帰国し、いろいろあったが結局、「イスラム共和国」が樹立された。1979年11月には、アメリカ大使館人質事件が発生し、1981年1月まで大使館は占拠された。それ以来、アメリカとイランは国交断絶状態になっている。イランはイスラム教の少数派シーア派を国教としている。アラブ民族はほとんどスンナ派だが、イラク南部から湾岸一帯にかけてはシーア派が大勢力となっている。この地帯に対し、イランは「革命の輸出」政策を進め、それに反発する湾岸の王政国はアメリカの軍事支援を受けるようになっていく。「イスラム法に基づく統治」が現実に成立したことは、スンナ派の過激勢力にも激しい衝撃を与えたと思われる。イラン・イスラム体制の成立という大事件が、1979年以後の中東情勢を規定している。
(ホメイニ師)
 そして最後に、1979年12月24日、ソ連がアフガニスタンに侵攻するという大事件が起こったのである。全く1979年という年は、1月から12月まで中東を揺るがす超大事件が起こり続けた年だった。アフガニスタン情勢は複雑な経緯があり簡単には書けないが、とにかく社会主義的政権が成立していて、その内紛にソ連が軍事介入したのである。そのことに冷戦末期のアメリカは激しく反発した。(例えば、1980年のモスクワ五輪ボイコットを呼びかけた。ソ連軍に対して国内外のイスラム勢力は抵抗を続け、アメリカやパキスタンの支援を受け、1989年にソ連軍が撤退するまで激しい内戦が戦われた。この過程でタリバンやアル・カイダなどの勢力がアフガニスタンに勢力を伸ばすことになる。

 一方、イランと隣国のイラクはもともと国境紛争があったが、イスラム革命がイラク南部のシーア派に及ぶことを危惧したフセイン政権は反イランの姿勢を強めていった。その結果、1980年9月にイラクはイランに侵攻し、イラン・イラク戦争が始まった。この戦争は1988年まで続いた。こうして、1980年代の中東では、(それまでのイスラエルとの戦争ではなく)、アフガニスタンやイラン・イラクで長い戦闘が続けられたのである。この時期には、アメリカとサダム・フセインとオサマ・ビン=ラディン(アフガニスタンのイスラム勢力支援の義勇軍に参加した)は、「同じ陣営」にいたのである。それが崩れて、また中東の構図が一変するのは、1990年のイラクによるクウェート侵攻と1991年のいわゆる湾岸戦争だった。ここでフセインとアル・カイダとアメリカは、それ以後の違う道への分岐路を歩み始めることになる。今回は中東現代史概説なので、次回に「イスラム過激派思想」というのはどういうものなのかということを考えたいと思う。
(サダム・フセイン)

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ゴダールの「さらば愛の言葉よ」

2015年02月18日 20時54分49秒 |  〃  (新作外国映画)
 もはや「老」とか「翁」とか呼びたいジャン=リュック・ゴダール が、なんと3Dの新作を作って昨年のカンヌ映画祭で審査員特別賞を受賞してしまった。その「さらば愛の言葉よ」(Adieu au Langage)が公開されている。(東京ではシネスイッチ銀座のみ。)こういうのは名画座では(少なくとも3Dでは)見られないと思い、見に行ってきた。1930生まれのゴダールだが、クリント・イーストウッドも同年で、元気なことでは負けていない。ゴダールは判らない映画ばかりになってしまったけれど、実は21世紀に作られた「愛の世紀」「アワー・ミュージック」「ゴダール・ソシアリズム」も見ている。やはり気になる。
 
 さて、では判ったかというと、今回も全然判らん感を抱いて映画館を出ることになる。3D用メガネを持参しないと400円追加されるにもかかわらず、上映時間は69分しかない。一分あたりのコスト・パフォーマンスがはなはだよろしくない。だけど、映像は凝縮されていて、けっこう長く感じる。なんだ映画はこのくらいの時間でいいではないかと思ったりもする。

 物語性が乏しい(多少ないこともない)のは最近のゴダール作品と同じ。だから判りにくいんだけど、3Dの映像は極めて鮮烈で、なんだか世界を再発見する感じもある。わざわざ3Dにするというと、宇宙空間を駆け抜けるとか特撮に偏しているけれど、ゴダールは日常世界の人間と自然しか撮らない。わざわざ3Dにしなくてもと普通思うような素材なんだけど、新鮮で発見に満ちている。大体、3Dというのは立体感をだすためのはずなのに、なんだか判らない目くるめく映像体験のために使っている。わざわざ左右をずらせているのである。そういう使い方があるわけだと3Dアートの世界を切り拓いた。

 男と女がいて、その関係をたどる中に、犬が出てきて「犬の目」で世界を示す。この犬はゴダールの愛犬だそうで、カンヌ映画祭の「パルムドッグ賞」受賞。(これは「アーティスト」で危機を知らせた犬などに授賞するシャレ。)人間は「言葉」に囚われているが、犬は「自由」に世界を生きる。ついに、人間界をも相対化する映画に行きついたのか。ゴダールは、やはり只者ならず。でも、全然判らないな。

 今では判る「勝手にしやがれ」だって、公開当時は判りにくいと思われた。「気狂いピエロ」だって判りやすくはないだろう。だけど、初期作品は「物語」が詰まっていたのは確かだった。「東風」などの政治映画を作った時が、ある意味では一番判りやすい映画だったのかもしれない。詰まらないだけで。当時の映画は、言語によるプロパガンダに映像が従属していた。今回はついに「Adieu au Langage」だから、「愛の言葉」は邦題であって、言葉そのものにサラバと告げているのか。しかし、実は書物からの引用が相変わらず多く、それは日本語字幕で追わなければならないので、3D映像に耽溺するジャマになる。やっぱり、けっこう「言葉の映画」なのである。今でもゴダールに、あるいは映像表現の可能性に関心を持つ少数の人は見ておいた方がいいかもしれない。大方の人には勧めないけど、まあ、こういう映画もあるという話。どんなもんかと見てみたい人はどうぞ。
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北欧ミステリーの魅惑-映画と小説

2015年02月13日 23時22分16秒 |  〃  (旧作外国映画)
 渋谷のユーロスペースで開かれていた「ノーザンライツ・フェスティバル2015」(北欧映画祭)で、北欧ミステリーの映画を2本見た。それを中心に北欧ミステリーの魅惑について書いておきたい。ミステリーと言えば、英米のものが圧倒的に読まれてきたし、その映像化もなされてきた。イギリスのシャーロック・ホームズやアガサ・クリスティのポアロもの、アメリカのハードボイルドや法廷ミステリー。そういう映像で、英米社会の様々な側面を知ってきたところも大きい。フランス、スペインなど大陸ヨーロッパの作品も最近は紹介されるようになったけど、特に近年北欧諸国のミステリーが世界的にブレイクしている。映画にもなっている。その歴史の流れは少しおいて、まず「湿地」から。

 近年ビックリさせられたのが、アイスランドのミステリー作家、アーナルデュル・イングリダソンである。「このミステリーがすごい」で、2012年の4位に「湿地」が選出され、翌年には「緑衣の女」が10位にランクインした。後者は英国推理作家協会のゴールドダガー賞を受賞している。大体、アイスランドといったら、北欧には入るけどずっと北の方の小さな島国で、人口30万強という小さな国である。音楽(ビョークなど)や映画(「春にして君を想う」とか「コールド・フィーバー」などが日本公開)で活躍していることも不思議なんだけど、ミステリーはアーナルデュル以前は誰も書いてなかったらしい。イギリスやスウェーデンが近いということもあるけど、そもそも犯罪が少ないので猟奇的連続殺人とか銀行強盗のカーチェイスとかを書けないんだと著者は言う。そこで著者が取り上げるのは、「家族の秘密にまつわる悲劇」なのである。だから謎解きやアクションの醍醐味はない。でも、犯罪と言えば世界中で家族内で起きることが一番多いわけで、「家族の秘密」ならどこにもあるのである。そこで寒風吹きすさぶ風土の中で、ことさら寒々しいような重たい犯罪悲劇がじっくり展開する。最近両作を地元の図書館で借りて読んだのだが、圧倒される物語だった。確かに警察捜査小説なんだけど、ミステリーというより一般小説。

 その「湿地」が2006年に映画化されていて、今回が初上映。バルタザール・コルマウクル監督という人で、この人は「ザ・ディープ」とか「2ガンズ」といった作品が公開されている。僕は見てないので、この「湿地」が初めて。アイスランドの風土を生かして、原作をうまく映像化している。原作とは少し違うが、一番大きいのは、「犯人」と「犯罪そのもの」がけっこう早く映像で出てくること。だから、謎解き的興味は原作以上に薄いが、映像で見せられるという特徴を生かしている。原作でイメージできなかった「アイスランドの家庭料理」のヒツジの頭の煮つけとかもわかる。マグロのカマみたいな感じもするけど、見て美味しそうな感じはあんまりしないなあ。原作の持つ悲劇性がうまく映像化されていて、これは是非正式に公開されて欲しい作品。

 今回の映画祭では、他にスウェーデンの2作が上映された。昨秋に訪日した人気女性作家、カミラ・レックバリ原作の「エリカ&パトリックの事件簿 説教師」は上映が一回で見ていない。このシリーズは集英社文庫で7冊まで刊行されている。本国だけでなく世界的な人気シリーズだというが、まだ読んだことはない。スウェーデンのミステリーと言えば、まずは60年代にベストセラーになった刑事マルティン・ベックのシリーズから始まると言ってもいい。ペール・ヴァールーとマイ・シューヴァル夫妻の共作により10作がかかれ、特に「笑う警官」が有名になった。すべて角川文庫に入っていたが、最近新訳が出ている。その「唾棄すべき男」という作品の映画化、「刑事マルティン・ベック」が今回のラインナップにあった。1976年の作品で、本国から英語字幕の入ったフィルムを取り寄せて日本語訳を付けた上映で、また見ることはできないかもしれない。1978年に日本公開されているらしいが、知らなかった。監督はボー・ウィーデルベリで、「みじかくも美しく燃え」「愛とさすらいの青春 ジョー・ヒル」などが有名。「刑事マルティン・ベック」は病院で殺された刑事の過去を追いながら、過酷な人生を歩む男が突然ビルの屋上から銃の乱射に至る。ここがヘリまで出てきてすごい。マルティン・ベックは太った中年刑事だけど、屋上に登ろうとするなど頑張っている。「笑う警官」がアメリカで「マシンガン・パニック」という題で映画化された時は、ウォルター・マッソーがマーティンをやっていた。

 一方、「未体験ゾーンの映画たち」という特集上映の中に、デンマークの特捜部Qシリーズの「特捜部Q 檻の中の女」が入っていた。もう上映は終わっている。ごく小規模な公開だったので、ほとんど見た人はいないのではないかと思う。ユッシ・エーズラ・オールスンの原作をミケル・ノガール監督が映画化。映画は原作よりだいぶ短い。だから、どんどん進むので筋は判りやすいが、真相にたどり着くまでの紆余曲折が簡単すぎる感じはする。まあ、原作を読んでなければ、これで十分かもしれない。美人政治家が惹かれた男性はというと、女も男も僕は少し期待外れなんだけど、まあ面白く出来ていた。捜査で同僚を失いケガした主人公は、未解決事件捜査の特捜部に回される。そこにシリア難民(原作は2007年刊行だから、今の内戦とは関係ない)の「アサド」なる不思議な人物が登場するが、その辺りの掛け合いも原作を知ってれば楽しめると思う。
 
 この北欧ミステリーの隆盛は、スティーグ・ラーソンの「ミレニアム」の世界的大ヒットがきっかけになったと言える。とにかくあの原作シリーズは超絶的に面白く、スウェーデンのみならずアメリカでも映画になって日本でも公開された。どれも見てるけど、はっきり言って、映画は原作のダイジェストに過ぎない。面白さは10分の1ぐらいだろう。スウェーデンのミステリーは、先に挙げたマルティン・ベックシリーズや、僕の大好きなヘニング・マンケルのクルト・ヴァランダーシリーズなどの長い伝統がある。調べてみると、ずいぶん翻訳されているので驚くぐらいである。しかし、最近はデンマーク、アイスランドに続き、ノルウェーやフィンランドの作品も翻訳されている。北欧5カ国のミステリーが好まれているのは、「北欧」そのものの魅力も大きいだろう。

 北欧諸国と言えば、福祉が発達し、教育政策も進んでいるし、女性の社会進出では世界の最先進国というイメージがある。人口が全然違うので単純に比較しても仕方ないが、日本のモデル的な国々と思っている人も多いだろう。でも、ミステリーを読むと、女性への暴力、福祉の貧困ばかりが印象に残る。一体、なぜ? でも、それは当然だろう。世界のどこの社会にも「暗部」がある。だからこそ、北欧で福祉が発達するわけで、もともと問題がなければ福祉を発達させる必要もない。北欧の多くの国では、国政政党が女性議員のクオータ制(割り当て制)を取り入れ、その結果、国会議員の3割から4割が女性議員である。しかし、こういう制度も「作る前は男性議員がほとんど」だったから作ったはずで、北欧社会も理想的な社会だったわけではないということだろう。北欧諸国では「現実を変えていく政策」が取られ、変って行ったけれど、だからこそ今も根絶できない性差別、性犯罪、あるいは汚職、経済犯罪、銃や麻薬、移民差別などが重い問題と意識される。重く暗い現実を突きつけるような社会派ミステリーが書かれるほど、実は社会は開かれているという面もあると思う。

 もう一つ、僕は「ミステリーは冬が似合う」と思っているように、北欧の厳しい気候風土がミステリー向きだということもあると思う。風景が美しければ美しいほど、そこで苦しむ人間の苦悩も深い。アメリカに多いコメディタッチのミステリーは北欧に向かない。カリフォルニアの乾いた風土に似あう私立探偵のハードボイルドも北欧には向かない。人口も少ないし、そんな職業は難しい。だから「警察捜査小説」ばかりである。警官の目を通して、社会の矛盾を追う。日本と違い、警官も自由にふるまっているので、警察内部の暗闘ばかり出てくるような日本の警察小説とも違う。ともあれ、北欧ミステリーは今熱い。
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「野性の証明」「南極物語」のころー高倉健の映画①

2015年02月13日 00時11分44秒 |  〃  (旧作日本映画)
 新文芸坐高倉健の追悼特集を行っている。第一部ははすでに終わり、第二部が18日から30日までとなっている。第二部では東映時代初期のレアな映画も上映される。第一部をほとんど見たので、第二部の紹介もかねてまとめたおきたい。第二部のチラシは新文芸坐のホームページで簡単にみられるが、時間と作品紹介を最後にアップしておく。
 
 「万年太郎と姐御社員」「東京丸の内」はサラリーマンもので、そんなのもやってたんだという映画。「悪魔の手鞠唄」「恋と太陽とギャング」も珍しい。前者は高倉健が金田一耕助を演じている。「ならず者」「いれずみ特攻隊」も数年前に新文芸坐で見たが、石井輝男の確かな技量を楽しめる佳作だった。若き高倉健の魅力を確認することができる。今回は東映時代ということで「任侠映画」が多い。ちょっと前まで、新宿昭和館や浅草などで毎日のようにやっていたものだが、今では映画館で見る機会が少なくなった。全部見ているわけではないが、「昭和残侠伝 死んで貰います」や「網走場番外地 望郷扁」は傑作。任侠路線の先駆け「人生劇場 飛車角」なんかも好きである。でも、深作欣二「狼と豚と人間」「ジャコ萬と鉄」などの非任侠映画、組織ではなく「自己」を賭けた戦いの方が好きだという人も多いだろう。現在では、テレビやシネコンなどでは上映不可だと思われる「山口組三代目」もある。

 第1部作品中、「八甲田山」は前に見てるから、冬に見直しても寒そうなので敬遠した。それを言えば「南極物語」も寒かったけど、これは初めてだから見ることにした。他の映画は「野生の証明」(初めて)、「ブラックレイン」、「遙かなる山の呼び声」、「君よ憤怒の河を渉れ」が2回目、「幸福の黄色いハンカチ」は3回目。まとめて言えば、「思ったより面白く見られた」。公開当時に見た時は、ほとんどが好きな映画ではなかったからである。

 高倉健の役どころは、「サブリーダー」が多い。「中間管理職」と言ってもいい。東映任侠映画時代も、年齢的にも当然だけど、親分(組長)ではなく「代貸」(だいがし)や「若頭」を演じていた。だから上と下の狭間で苦しむことが多い。東映から離れても似たような役で、「ブラック・レイン」も「八甲田山」も上と下の間で苦しむ。「南極物語」も全く同じで、面倒見の対象が犬に代わっただけ。構造的には「任侠映画」なのである。何度か上訴して犬のために死地に赴こうとして止められ、ようやく第二次隊員として南極に「殴り込み」をかける。ずっと、そういう「こらえにこらえたあげく」「思いを果たすために最後に無謀に乗り込む」役柄を演じ続けた。これは日本民衆の心を映し出している。最後に殴りこみたいけど、現実の観衆はこらえているわけだが。年齢とともに、役柄もえらくなる俳優も多いが、高倉健は最後まで「出世」しなかった。総理大臣の役などは似合わない。

 「野生の証明」(78)、「君よ憤怒の河を渉れ」(78)は、どちらも佐藤純彌監督のアクション大作で、今見ても十分面白かった。「野生の証明」は薬師丸ひろ子のデビュー作だけど、当時は角川の大宣伝にウンザリして見なかった。三國連太郎、夏木(夏八木)勲など近年亡くなった俳優も多く、追悼のムードで見た。自衛隊の陰謀的なストーリイだから、自衛隊の協力は得られず外国で撮影したが、なかなか迫力がある。しかし後に中国で大ヒットした「君よ憤怒の河を渉れ」の方が面白かった。当時は原田芳雄を高倉健よりカッコよく思ったが、今見ると違和感がある。陰謀により追われることになる高倉健の検事が、逃げに逃げて反撃に向かう。北海道から飛行機で戻ったり、新宿で馬が大暴走したり、確かに迫力。まあ、日本映画としてはごく普通の娯楽大作だけど、楽しめる。
(「野性の証明」)
 「ブラック・レイン」(89)はリドリー・スコット監督がやたらに面白かった時期の映画。(「テルマ&ルイーズ」までがその時期。)「エイリアン」「ブレードランナー」の監督が日本を舞台にアクション映画を作ったと期待して見て、実は期待外れだった。今回見ても、どうも外してる感は強い。まあ、あんまりうるさいこと言わなければ面白かった。ただし、高倉健ではなく、やはり松田優作の怪演ばかりが印象に残る。だから高倉健のことは忘れてしまっていて、アンディ・ガルシアと一緒にレイ・チャールズを歌っていたのに驚いた。英語を話せる刑事という役である。大阪が戦前の上海かと思う「魔都」として描かれるリアリティ皆無のオリエンタリズム映画で、高倉健映画としては中程度か。

 「南極物語」(83)は犬の「演技」と「南極」(撮影場所の多くはカナダ北極圏)の自然ドキュメントとしては面白いが、劇映画としては非常につまらない。結末を知っているということもあるけど、うーん困ったなという映画。犬好きだから犬の姿を見てると泣けるんだけど、それだけでは映画としては弱い。83年度のキネ旬ベストテン号を探したら21位にランクされていた。「南極物語」を1位にしている人がいて、誰かと思えば小森のおばちゃま(小森和子)。
(「南極物語」)
 選評に「(前略)奇異に思われるでしょうが、人間ならぬ犬の、あれほど自然な演技を画面にとらえた点です。しかも、洋画に出演する犬とちがって、これらエスキモー犬は演技訓練などまったくされていない。だから実際にその状態に彼らを追いこんで、その反応をとらえたもの。その人間の役者と使ってする以上に苦労、苦心した点と、それに応えた犬たちの健気さに感動。」とある。確かに、そういう言い方をすれば、ベストワンになるかもしれないけど…。

 山田洋次監督作品に出て、高倉健は「国民的俳優」への道を歩き始めた。しかし僕は「幸福の黄色いハンカチ」(77)があまり好きではなかった。武田鉄矢のセリフが好きになれないのと、結果が判っている(ピート・ハミルのコラムというか、当時ドーンが歌ってアメリカでヒットした「幸せの黄色いリボン」の映画化だから)のも大きいが、高倉健の設定に感情移入できない。倍賞千恵子の妻が、前夫との間に妊娠(流産)歴があることを夫に言ってなく、それを知って隠し事をする女は好かんと切れてしまい、飲んで外出してケンカを吹っかけて相手を殺してしまったというのである。どこに同情できるのか。

 これは「殺された側」から見たドラマも成立すると思う。バカップルと暴力男のロード・ムーヴィーで、見た当時は楽しめなかった。10数年前に見直したが、その時も「犯罪被害者」を無視した映画のように思えて納得できなかった。しかし、今回見ると、シナリオのうまさと演出の巧みさは認めざるを得ないと脱帽した。ある意味、時間が経って、映画の成り立ちだけで評価できるようになってきたことが大きい。20年ぐらい前に毎年夏に北海道をドライブしていた時期があり、この映画の道をほとんど運転しているので、懐かしい思い出である。ただし、佐藤勝の音楽が僕にはうるさい時があった。(また、阿寒湖温泉は透明のはずではないかと思うが。)

 山田洋次監督のもう一本、「遙かなる山の呼び声」(80)は昔から割と好きな映画で、無理は多いと思うが、ラストで感涙を呼ぶ。健さん映画で一番泣けるかも。明らかに「シェーン」なんだけど、北海道の牧場で小さな吉岡秀隆を馬に乗せるシーン、高倉健が乗馬するシーンは名場面。高倉健はこっちでも「犯罪者」だけど、この映画では同情できる。(だから逃げる必要が判らない。)どっちの映画にも渥美清が特別出演しているが、昔は渥美清が出てきただけで、観客は笑ったものだ。今は無論そんなことはないんだけど、それが寂しい気もした。特に、この映画では「牛の人工授精師」という役柄だから笑わせる。ハナ肇も出ていて、高倉健と張り合った結果、子分になってしまう。この映画は、大傑作ではないと思うけど、好きな映画で、少なくとも「幸福の黄色いハンカチ」よりは納得できる。
 
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海老原喜之助展を見にいく

2015年02月11日 21時37分45秒 | アート
 横須賀美術館で4月5日まで開かれている海老原喜之助(えびはら・きのすけ 1904~1970)の展覧会を見に行ってきた。遠いので、車で行ったんだけど、話は逆で車で行きたい場所に行ってきたのである。(その話は最後に。)横須賀美術館というのは初めて行ったけど、横須賀も先端の方、観音崎に近い当たりで観音崎京急ホテルの真ん前あたりにあった。ここは昔泊まったことがある。その時は、翌日に浦賀のペリー碑などを見て回った。幕末の土地勘を得るために、一度は行きたい場所。
 
 海老原喜之助といっても、知らない人が多いと思う。僕もよく知らない。だけど、いろいろな美術館でひとつ二つと見ることがあって、特に出身地の鹿児島を旅行した時にたくさん見て、どれも気に入った思い出がある。そういう風に、何となく「妙に気になる画家」がいるものである。美術館の目玉としてたくさん展示してある画家ではなく、「所蔵品展」の中に一つぐらい架かっている。それが結構いい。名前を憶えていると、次にまた別の美術館で出会う。外国の画家だと、キスリングという人が同じく気になる画家なんだけど、日本の画家では海老原喜之助という名前を憶えていた。

 その海老原喜之助の生誕110年を記念した展覧会で、ここで初めて画業の全貌を目にすることができた。1904年に鹿児島市に生まれた海老原は、19歳で単身で渡仏、藤田嗣治に薫陶を受け、「エビハラ・ブルー」と呼ばれた雪景色の絵などが有名になった。この時期が第一の時期で、ブリューゲルの影響を受けた雪景色の絵や、デュフィを思わせる地中海の絵などを描いていた。ベルギー女性と結婚し、フランス画壇で活躍した若き日々である。下の画像の「雪景」(1930)がその時期の作品。しかし、妻とは別れ、1933年に帰国。詩情あふれる作品を次々に発表し、若い画家の絶賛を得たという。代表作のひとつで、チラシの表紙に使われている「曲馬」(1935)がその時期の作品で、馬も人も詳しくは描いていないのに、一度見たら忘れられない懐かしい世界が描かれている。背景の空の青も素晴らしい。

 戦争末期に熊本県内に疎開し、その後人吉、熊本で活動した。デッサンをたくさん残し、後進の教育にも力をつくした時期という。その時期は力強い構成の圧倒的な作品が多い。下に画像を載せておく「船を造る人」(1954)に戦後のエネルギーの一端がうかがわれる。1960年代になると、神奈川県逗子市に移住し、さらにパリにわたって絵を描き続けた。藤田嗣治が死んだときには、教会で最後のあいさつを(藤田の妻に代わって)行ったという。しかし、パリに移住した海老原に残された歳月は少なく、1970年に肺がんで死去した。一般的な知名度はそれほどでもないだろうが、(鹿児島や熊本ではもっと知られているだろうが)、非常に心に残る画家だと思う。1934年に描かれた「ボアソニエール」(魚売りの女性)など、忘れがたい詩情が漂う。最後の頃は、フォーヴィズム風の力強い絵が多く、生涯にわたって歩み続けた画家だと思った。
  
 さて、昔はよく山へ行ったりして、そのために大きな(昔は流行ったけれど、いまどきは全然見かけなくなった)、後ろに替えのタイヤを付けた「RV」というタイプにずっと乗ってきた。一度買い換えたんだけど、使い勝手がいいので10年を超えても乗っていた。だけど、税金は高いし、燃費は悪いし、山はもう行かないから、いいかなと思っている。最後に旅行でもしたかったんだけど、個人的な事情で難しかった。車検も近いので、最後にどこかドライブしてこようと思って、横須賀美術館に行ってきた。

 小さいころは車酔いするタイプで、大人になって車に乗るようになるとは思わなかった。運転していると、無念無想で車と一体化できるので、(電車なら本が読めるという利点もあるけど)、思ったより自分が運転好きだと知って驚いた。自分の車で、北海道の利尻、礼文島から、九州の阿蘇、霧島などまで行った。今のクルマでは、四国に行って石鎚山、剣山に登ったり、祖谷温泉に泊ったりした。熊野古道に行ったときは、台風の直撃を受け、吉野川があふれて通行止めになった。そして一番の思い出は、震災のボランティアにこの車で行ったこと。上の画像のクルマ。
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映画「さよなら歌舞伎町」

2015年02月10日 23時46分48秒 | 映画 (新作日本映画)
 廣木隆一監督「さよなら歌舞伎町」は、荒井晴彦、中野大のオリジナル脚本で、現代日本の世相を巧みに切り取った佳作だった。いろいろな設定で多くの俳優が様々なドラマを演じていて、少し偶然が過ぎる感じはあるけれど、まずは興味深く見られる作品。新宿の歌舞伎町周辺がロケされていて、時間が経つと貴重な記録性が出てくるかもしれない。新大久保周辺の在日韓国・朝鮮人に対するヘイトスピーチの様子も映されている。(現実のもの。)また、セリフの中に震災に関した設定があり、2013年冬に撮影されたと思われるが、時代を刻印した映画になっている。
 
 主演というか、一番最初にクレジットされているのは、染谷将太前田敦子。二人はカップルで同棲しているが、今までの経緯は出てこないし名前も出てこない。ホームページを見ると、染谷は高橋徹というらしい。前田敦子(だいぶ存在感のある女優になった感じ)は、ミュージシャンとしてメジャーデヴューを目指しているようだが、途中でメールの発信人として飯島沙耶という名前と判る。染谷はお台場のホテル勤務と家族にも恋人にも言っているらしいが、実際は新宿歌舞伎町の「ラブホテル」の店長である。「オレはこんなところにいるべき人間ではない」と思いながら、やる気のなさそうな同僚と仕事している。

 この映画は、そこで働く人々、また訪れる人々を描き分けていく、いわゆる「グランドホテル形式」の映画である。「ラブホテル」の映画だから、「訳あり」ばかりである。どんな訳かは、詳しく書き過ぎると見る楽しみを損なうだろうが、大体の設定はホームページにも出ている。内緒で「デリヘル」している韓国人女性ヘナとその恋人のカップル、従業員鈴木里美と一日中家にこもっている「逃亡中」の相棒、家出娘と風俗スカウトマン…。ヘナを指名する「客」も3組出てくるし、ホテルでAV撮影もある。不倫刑事も出てくる。店長の妹や恋人まで、ホテルで出会ってしまうのは、歌舞伎町の奥にはホテル街が広がっている中で「偶然過ぎる」感じが強いが、まあこのくらいしないとシナリオが映画化されないかもしれないので、まあ許容範囲か。その結果、ずいぶん様々なドラマが展開されるわけである。

 監督の廣木隆一は、脚本の荒井晴彦とは「ヴァイブレータ」「やわらかい生活」に続く3作目。94年の青春映画「800 TWO LAP RUNNERS」の印象も強いが、やはり圧倒的に「ヴァイブレータ」が突出した傑作だろう。今度の「さよなら歌舞伎町」は、登場人物が多いため、あれほどの凝縮性は求めようがない。しかし、逆に様々な断片の面白さは際立っていて、その生き生きとした描き分けはさすがのベテランぶりを発揮している。冒頭近くに、染谷・前田が自転車で新大久保のあたりを2人乗りしていて、ラストはその自転車を借り受けた従業員鈴木里美(南果歩)と同棲相手の松重豊の二人乗り。街を自転車の速度で駆け抜ける、歩くよりは速く、車よりは遅いスピードが、この映画の基本ペースという感じ。

 韓国人デリヘル嬢役のイ・ウンウ(イ・ウヌ)は、韓国映画「メビウス」に出ていた人だというが見てないので初めて。実際の韓国女優が「風俗嬢」役を見事に演じている。その恋人役はロイという韓国のアイドルグループの人だというが、この二人のカップルは非常に印象深い。南果歩の従業員役も印象的で、まあこういうのは難しいようでいて実はやりやすい役ではないかとも思うが、さすがにうまい。この映画には、様々なタイプの、様々な役柄が描かれているが、ほんのちょっとした出番で人の本質を描こうというんだから、シナリオも俳優も大変である。でも、どんな「現場」にも、「人間性」が表れ、「一隅を照らす」ということがあるらしいと信じさせる。そこが見所だと思う。

 歌舞伎町という場所は、JR新宿駅からは少し遠いが、映画館や飲食街が立ち並ぶ一大歓楽街として有名なところ。しかし、巨大映画館として知られた新宿ミラノが2014年末で閉館し、今は一つも映画館が無くなってしまった。(TOHOシネマズ新宿がもう少しすると開館する予定だが。)空襲で焼け野原になったところに、地元では歌舞伎の劇場を作ろうと構想して歌舞伎町という地名が生まれた。しかし、歌舞伎はやって来ず、風俗街的な印象が強くなってしまった。昔は映画を見に時々行ったことがあるが、最近はずいぶん行ったことがない。コリアンタウンとして有名になり(その結果、「韓流」とか「ヘイトスピーチ」などでも有名になってしまった)大久保(JR山手線の駅名は新大久保)はすぐ隣の町。ラブホテル街は大久保に近い。そんな歌舞伎町界隈の現在をとらえた映画でもある。ラブホテルの裏側(というか、内部。ホテルのフロントの奥)のようすが判る。外観は実際に新宿にある「ホテルアトラス」で撮影しているという。室内のシーンは、千葉県柏にある高級ラブホテル「ホテルブルージュ」というところで撮影されたとホームページに出ている。
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宮尾登美子、ワイツゼッカー、フランチェスコ・ロージ他ー2015年1月の訃報

2015年02月08日 21時55分31秒 | 追悼
 前回、昨年の12月の訃報をまとめた時には、まだ宮尾登美子(12.30没、88歳)の逝去は公表されていなかった。最近は家族だけで密葬を行い、一週間から10日ぐらい経ってから(時には何カ月も経ってから)世に知らせるというケースが結構ある。僕は直木賞受賞作家は、受賞作程度は読むようにしてるんだけど、数が多いから例外もある。その一人が宮尾登美子で、何しろ長そう、重そうな本で、つい敬遠してしまったままなのである。大体映画化されているけど、映画でも2本しか見てない。
(宮尾登美子)
 月末に亡くなった芥川賞作家の河野多恵子(1.29没、88歳)も読んでない。芥川賞受賞作を収めた「蟹・幼児狩り」という文庫を読み始めたこともあるんだけど、珍しく途中で挫折したままになっている。文化勲章まで取ってしまったけど、作風からするとへェと思った。作家では直木賞作家(をはるかに越えた学識の人だが)陳舜臣氏も亡くなり、追悼を書いた。また、直木賞作家では赤瀬川隼(1.26没、83歳)も亡くなった。赤瀬川原平の実兄で、「白球残映」という野球小説で受賞している。これは読んでる。
(河野多恵子)
 1月は寒いからか、例月にも増して訃報が多かった感じだ。吉行あぐり(1.5没、107歳)が亡くなった。晩年には朝ドラにもなった伝説の美容師だが、何と15歳で人気作家、吉行エイスケと結婚。エイスケは1940年に死んで、作家としては忘れられた。子どもが3人、吉行淳之介、和子、理恵だが、女優の吉行和子だけが生きている。淳之介と理恵は芥川賞を受けた。長生きするのはめでたいが、子どもが先に逝くことにもなる。吉行和子さんは僕の好きな女優なんだけど、母親のあぐりさんに負けないほど元気に活躍して頂きたいものだ。
(吉行あぐり)
 長命女性では、園田天光光(11.29没、96歳)も亡くなった。戦後初の(最初に女性参政権が認められた時の)総選挙で当選した39人の一人である。その時は社会党所属で松谷姓だったが、1949年になって党派を超えて園田直(民主党)と「白亜の恋」を実らせた。とまあよく言われるが、園田には妻子があり、未婚のまま妊娠して結婚に至ったという経緯は当時は非難されることが多く、それまで3回当選していたが、以後は何度か立候補するものの当選できなかった。その時の前妻の子が園田博之で、園田直の死後にはともに自民党の公認を求めて争った。
(園田天光光)
 まだ若い年齢では、ロス、ソウルで金メダルを取った柔道の斉藤仁(1.20没、54歳)、台湾出身で中日で活躍した野球の大豊泰昭(1.18没、51歳)とスポーツ関係者が多い。

 脚本家の白坂依志夫(1.2没、82歳)は、昨年フィルムセンターで行われた増村保造特集で見た映画のかなりの脚本を書いた人である。同時代的には「大地の子守唄」などに感銘を受けたが、50年代末の熱気を反映した開高健原作の脚色「巨人と玩具」が一番好きかもしれない。追悼文を書こうかとも思ったんだけど、書いても増村映画論みたいになってしまうし、それは昨年書いたので書かなかった。

 SF作家の平井和正(1.17没、76歳)は「幻魔大戦」を書いた人だが、「8(エイト)マン」の原作者だと訃報で知った。これは「鉄腕アトム」より好きだったTVアニメだが、その頃は幼すぎて細かいことを覚えていない。その後も調べたことがなかった。でもテーマ曲は歌える。憲法学者の奥平康弘(1.26没、85歳)は、今まさに問題化する「表現の自由」「知る権利」の専門家であり、九条の会の呼びかけ人だった人。新聞等ではいろいろ読んでいると思うんだけど、専門が違うので、本格的な研究書などは読んでいないので、業績を論じるほど詳しくない。

 社会党を離党して社民連で長く活動した阿部昭吾(1.4没、86歳)が亡くなった。かつての「中選挙区」だから当選を続けられたわけだが、山形3区で10回連続当選である。「社会党」を知ってる人がどんどんいなくなる。ここらまでが知ってた人。知らなかった人では邦楽作曲の第一人者、唯是震一(ゆいぜ・しんいち 1.5没、91歳)、バレエダンサーで振付家、小川亜矢子(1.7没、81歳)、音楽写真の第一人者、木之下晃(1.12没、78歳)、能楽観世流の人間国宝、片山幽雪(1.13没、84歳)などの諸氏は訃報で知った方々。

 外国では、リヒャルト・フォン・ワイツゼッカー(1.31没、94歳)が亡くなった。西ドイツの大統領として、戦後40年にあたる1985年に「過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目となる」と歴史を直視する勇気を求めた国会演説で、日本でも非常に有名になった。統一ドイツの初代大統領でもある。(ただし、ドイツでは大統領には、直接の政治的権限はない。日本と同じく議院内閣制である。)元々はキリスト教民主同盟の議員で、保守系の人だということもあって、日本では大きく取り上げられることが多い。僕も使ったこともあるが、演説から30年も経ったのかという感慨がある。
(ワイツゼッカー)
 ドイツでは、社会学者のウルリヒ・ベック(1.1没、70歳)も亡くなった。「危険社会」と訳された本で、「リスク社会論」を唱えて世界的に有名となった。脱原発論にも影響を与えているが、非常に重要な考え方で会って、現代社会を考える時に落とせない。もっとも僕もその代表作は読んでない。だけど、いろんな人が触れているのを読んできた。

 イタリアの映画監督、フランチェスコ・ロージ(1.10没、92歳)も本当は追悼を個別に書こうかと思ったんだけど、今では知る人も少なかろうと止めてしまった。戦後イタリアの「社会派」を代表する映画監督で、「シシリーの黒い霧」(62年)でベルリン監督賞、「黒い砂漠」(72年)でカンヌのパルム・ドールなどを得ている。だけど、僕が一番好きだったのは「エボリ」という映画で、これは「キリストはエボリで止まりぬ」という有名な小説の映画化。ムッソリーニ時代に南部の寒村に流刑になった男の話で、いわば文革の「下放」みたいなもんなんだけど、「キリストの恩寵もやって来なかった」(近くのエボリという町で止まってしまった)という意味の原題だから、本来は日本語題名はおかしい。まあ、それはともかく、ファシズムとマフィアというイタリアの暗部を見つめ続けた映画作家で、その社会派ぶりは好きだった。
(フランチェスコ・ロージ)
 イタリア映画では、フェリーニの「甘い生活」に出たアニタ・エグバーグ(1.11没、83歳)の訃報もあった。正直、まあ生きていたのかという感もあったが、スウェーデンの女優で、「甘い生活」のトレビの泉シーンが圧倒的で、記事でも他の映画には触れていない。調べると、ミスユニバースになって渡米、ハリウッド版の「戦争と平和」何化にも出ている。フェリーニの「道化師」や「インテルビスタ」にも出ているというけど、忘れている。他に、サウジアラビアのアブドラ国王(1.23没。90歳)やノーベル賞学者の訃報もあるけど、まあこの程度で。
(「甘い生活」のアニタ・エグバーグ)
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ハンセン病と教育

2015年02月07日 23時28分33秒 |  〃 (社会問題)
 ハンセン病回復者の国際ネットワークである「IDEAジャパン」主催で「ともに生きる 尊厳の確立を求めて」という集まりが行われた。「世界ハンセン病の日」サイドイベントで、国立ハンセン病記念館映像ホールで開かれた。今日はそれに行ってきたので、簡単に報告と紹介。なお、「IDEA」とは、「The International Association for Integration, Dignity, and Economic Advancement」の略で、「共生・尊厳・経済的自立のための国際ネットワーク」のこと。森元美代治さんが理事長を務めている。今回は、特に昨秋に刊行された佐久間健「ハンセン病と教育」(人間と歴史社)の著者で、IDEA理事でもある佐久間氏の講演があり、僕は是非聞いてみたいと思ったのである。
 
 会場のハンセン病記念館のある多磨全生園は、家から遠いので最近はあまり行ってないのが現状。僕は1980年に、FIWC関西委員会主催の韓国キャンプに参加して、韓国のハンセン病回復者定着村を訪れた。その時までは、あまりハンセン病を意識していなかったが、その頃から目につく本を買い求めるようになった。翌1981年の2月に、初めて韓国からも学生を招こうということになり、来日した韓国側のキャンパーとともに、長島愛生園邑久光明園、そして多磨全生園を旅してまわった。自分が教師になってからも、生徒を連れて全生園、あるいは後に開館したハンセン病記念館(ハンセン病国賠訴訟後にリニューアルされる前の記念館時代から)に何度も来ている。1996年の「らい予防法」廃止、2001年のハンセン病国賠訴訟勝訴の前から、「ハンセン病と教育」に関わってきたとは言えるわけだが、佐久間氏ほどのまとまった考察は今までに接したことはなく、今回非常に大きな感銘を受けた。

 集会では、まず村上絢子さんが「書くこと、伝えること」で世界の回復者の歩みを伝え、続いて佐久間さんの報告、最後に森元美代治さんによる「IDEAジャパン10年の歩み」が報告された。非常に熱心に活動を続けてきた森元さんも喜寿の年を迎え、今回が「特定非営利活動法人IDEAジャパン」としての最後の活動になるという。残念ながらやむを得ないことなのだろうが、今後も任意団体としては継続していくということである。森元さんの話は、FIWC関西委員会主催の「らい予防法廃止記念集会」以来、何度も聞いている。東京でも同様の集会を開いたし、最後の勤務校の「人権」の授業でも毎年生徒向けに講演してもらった。今後もお元気で全国の学校などで、できる限り講演して頂きたいと思う。

 少し内容を紹介したいのが、佐久間さんの講演。佐久間さんは1993年から東村山市で小学校教員を務めて、ハンセン病問題の学習を進めてきた。現在は都立の病弱児向けの院内分教室に勤務している。まず最初に昨年、福岡市で起こった「問題授業」の事件を紹介した。「ハンセン病は体が溶ける病気」などと教え、それをもとに児童が「怖い」「友達がかかったら離れておきます」などと感想の作文に書き、あろうことかそれを菊池恵楓園自治会に送っていたというのである。これは福岡できちんとしたハンセン病の知識が伝えられていないという問題があるということだが、教師であってもそうなのだから、一般社会ではまだまだ偏見が残っているのである。

 佐久間さんは「被差別体験」だけを教えると、「かわいそう」という感想で終わってしまいがちだと指摘する。そのため、ハンセン病回復者をステレオタイプ(紋切型)の弱者としてのみとらえてしまうことになり、新たな偏見も生じさせかねないというのである。そこで、「療養所において人間の尊厳を保つ」姿を示して「共感」することが必要だとする。「被差別体験」だけではダメで「抵抗体験」を取り上げないといけないのである。病気を教えるのが目的ではなく、その中で生き抜いてきた「人間」を伝えるのが、人権教育のめざすところなのだから。これはただハンセン病の学習だけの問題ではなく、人権教育の他の問題でももちろん同じだし、いじめ問題など身近な指導場面でも同様の考え方が必要である。

 歴史的に見ていくと、戦前には「健康診断」時に「らい」の疑いのある生徒を見つけることが、学校に求められる役割だったという。映画「小島の春」でも、小川正子による健診のシーンがある。その時に病気が見つかったら、どうなるかというと「療養所行き」の宣告となり、二度と社会復帰はかなわない(当時では。)それを学校教育が推進していたわけである。そのことを証明するのが、戦前の修身教科書の教師用書(今の指導書)に書かれていた「隔離の有効性」を伝える文言である。教師の役割として、ハンセン病者の隔離を進めることが当時の国家から求められていたわけである。それでも東村山の総学校には「慰問」を行った学校もあったという。戦後になって北海道北見の地で、民衆史運動を進めた小池喜孝氏は実はその体験が「民衆史運動の原点」と語っているという。僕は若い時に小池氏の本をずいぶん読んで影響を受けたが、この事実は知らなかった。この本の刊行は知っていたが、ようやく今日会場で求めたので、まだ読んでいない。でも、読んでからだといつになるか判らないので、まずは紹介しておく次第。
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「ビッグ・アイズ」と「紙の月」-盗みをめぐる映画

2015年02月05日 23時10分51秒 | 映画 (新作日本映画)
 ティム・バートンの新作「ビッグ・アイズ」は非常に面白い実話の映画化で、ティム・バートンにしてはなんか普通の映画という感じである。60年代のアメリカで非常に売れていたウォルター・キーンという「大きな目の女の子」で知られた画家がいて、実はその絵はすべて妻であるマーガレットが描いていたものだった。マーガレットをエイミー・アダムズが演じて、ゴールデングローヴ賞のコメディ・ミュージカル部門の主演女優賞を得た。(僕は彼女のファンなんだけど、残念なことにアカデミー賞にはノミネートされなかった。)夫のウォルターはクリストフ・ヴァルツで、「イングロリアス・バスターズ」でアカデミー助演男優賞を受けて、今ではすっかりドイツからハリウッドに移った感があるが、偽善者的人物を演じると抜群の、あの独特な存在感がとても生きている。

 もう一本、角田光代原作を吉田大八監督が映画化した「紙の月」を最近ようやく見たので、合わせて書いておきたい。宮沢りえが主演して東京国際映画祭で女優賞を受けた映画で、2014年のキネ旬ベストテン3位の選出されている。「最も美しい横領犯」というのがキャッチコピーで、初めから宮沢りえが銀行員として横領事件を起こす話だというのは知って見ている。この二つの映画は関係ないようでいて、「盗みとは何か」を描いている共通点がある。「自分が自分であるためには、何が必要か」という映画である。両者を比較して考えてみたいと思う。
 
 「ビッグ・アイズ」では、最初の夫の横暴から逃れてマーガレットがサンフランシスコに来るところから始まる。当時は妻の銀行口座も作れなかったという話で、だけど独自の絵を描き続けていたマーガレットは自分を捨てることが出来なかったのである。マーガレットは自分の絵をフリーマーケットに出して、ウォルターと知り合う。初めは画家のふりをして、次は「日曜画家」の不動産画家として、ウォルターはマーガレットに近づき、やがて二人は結婚する。当時は女性の名前では絵が売れないといいくるめ、僕たちはどっちも「キーン」(夫の姓)だと言って、「キーン」と署名した絵を彼は売り歩く。評判を呼んで、絵は大評判になり、ウォルターは名士となるが、その陰で絵を大量生産するマーガレットの存在は、絶対の秘密とされた。豪邸に住めるようになって、その秘密もやむを得ないとマーガレットも納得してはいたのだが…。だんだん横暴になってきて、前妻との間に子どもがいることも判り、様々なウソが彼の人生を覆っていることを知り、ついに逃げ出すことにする。

 マーガレットは、いわば「名前を盗まれた存在」である。名前を取り戻す戦いを最後に開始するが、そのてん末は映画で見てもらうとして、半世紀前頃は確かに女性の業績は「盗まれる」ことが多かっただろう。特に自然科学や人文科学などの研究者の世界では、女性研究者が見つけた新発見、新資料などを上司の有名男性が自分のものにしてしまうことは多かったと思う。この映画は絵画ビジネスの世界だけど、いかにもありそうな話である。この映画にリアリティを与えているのは、夫役のクリストフ・ヴァルツだと思う。ニセもので得た現世の幸福をいかにも自分の手柄と思い込める。「天性の詐欺師」に近い。「家族の秘密」としてDVが隠されてしまうことがあるのと同じく、夫のウォルターは現状を維持し続けるためにウソを続けることに何の苦痛も感じていない。そういう生き方である。

 一方、「紙の月」(この題名は、どうしてもピーター・ボグダノヴィッチの「ペーパー・ムーン」を思い出してしまうのだが)は、マジメな銀行員としか思えない梨花(宮沢りえ)が、いかにして横領犯になていったかの克明な記録である。1995年、阪神大震災の年、銀行はバブルがはじけて数年、不良債権問題が大変だったころの話である。夫の生活は、良い人である感じではあるが、索漠とした思いも感じている。そんな中で、「年下の愛人」ができ、頼られる存在として求められたら…。それがどんなにうれしいことか、人生に生きがいを呼び起こしてくれるか。そう言ってしまえば、それは判りやすい話である。でも、僕はこの映画、というか主人公にはどうしても判らない部分があった。最初に、大金持ちの石橋蓮司の家で、孫の光太(池松荘亮)に出会う。(池松は「愛の渦」「僕たちの家族」「海を感じる時」などにも出演して印象的な演技をしていて、2014年の助演男優賞にふさわしい活躍をした、今もっとも旬の若い男優である。)祖父は孫が頼んでも、大学の学費を出してくれないらしく、孫は学生にして多額の借金をしているという。その時に、たまたま祖父から預かった新規の定期預金分、200万の現金があった。

 この最初の動機は理解可能で、これは「犯罪」ではあるが「盗み」ではなく、「お金の正しい遣い方」とさえ言えるかもしれない。もし、その一件だけだったら、個人で返済も可能な範囲にとどまっただろう。だけど、やがて認知症の老女など、狙いはエスカレートしていき、その「盗んだ金」で高級ホテルに泊まったり、マンションを買ったりしてしまう。池松に対しては、自分はお金持ちなんだと説明しているのだが…。確かめてみると、池松は1990年生まれ、大して宮沢りえは1973年生まれで、まあ本人たちがいいんだったら傍がとやかく言うことではないかもしれないが、女性が17歳年上というのはあまりないカップルではあるだろう。まあ、不倫でも年の差でも、それだけなら別にいいんだけど、というか理解できるんだけど、でもその幸せは「盗み」の上に成り立っている。カネは本質においてすべて盗まれたモノなのかもしれないが。貨幣は人を自由にするか。僕はこれを判らないのは、自分が小心者なのだろうか。それとも正義感の問題か。あるいは、梨花にとって、光太は人生すべてを捨てるほどの魅力があるのだろうか。フィルム・ノワールに出てくる「ファム・ファタール」(運命の女)にならうと、破滅してもいいほどの「運命の男」だったのだろうか。そこが僕にはよく理解できなかったところで、でもそれが「犯罪」というもので、一種の「嗜癖」、依存症のようなものなのかもしれない。
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映画「KANO」-台湾代表の甲子園

2015年02月04日 23時54分41秒 |  〃  (新作外国映画)
 知っていましたか?かつて、甲子園に、台湾代表が出場していたことを-。
 これが映画「KANO 1931海の向こうの甲子園」のキャッチコピー。はい、知ってました。高校野球(当時は中等学校野球だけど)の歴史では、戦前は台湾、朝鮮、関東州などの代表校も出場していたし、この映画の題材となった1931年に準優勝した台湾代表嘉義農林のことも僕は聞いたことがあった。歴代の決勝戦の記録を見れば、すぐに気付くことである。僕も若い頃は高校野球の優勝校なんか全部知っていたのである。(今は昨夏の優勝校も思い出せない。調べたら大阪桐蔭かと思いだした。)
 
 細かいことはもちろん知らなかったわけだが、そのチームの快進撃を「完全映画化」したのがこの映画で、題名の「KANO」は嘉義農林の略称「嘉農」のことを指し、ユニフォームにアルファベットで書かれている。この快挙を成し遂げたのは、監督に就任した近藤兵太郎の力である。映画では永瀬正敏が熱演していて、台湾の映画賞である金馬奨(中華圏の映画を対象にしている)の主演男優賞に中華系以外で初めてノミネートされた。作品賞にもノミネートされたが、どちらも受賞は逃している。台湾では大ヒットしたが、「親日映画」だという角度からの批判もあったという。

 さて、この映画をどう見るか。製作総指揮・脚本はウェイ・ダーション(魏徳聖)で、「セデック・バレ」を監督した人。監督はマー・ジ-シアン(馬志翔)で、「セデック・バレ」にも準主役で出ていた俳優。劇場用映画の初監督作品である。日本統治時代の最大の抗日蜂起である「霧社事件」を扱った「セデック・バレ」については、2年前の公開当時に「映画『セデック・バレ』」を書いた。基本的に言えば、「セデック・バレ」が「反日映画」ではないように、「KANO」も「親日映画」というものではない。映画という娯楽作品に向いた題材を探して、日本統治時代に大々的な鉱脈を探し当てたという感じである。とにかく感動的な実話で、それを素晴らしく鍛えられた若者たちが演じている。スポーツ映画の醍醐味。

 大規模なオープンセットを作って当時の様子を再現しているが、セリフなどにも当時の表現をあえて使っている。例えば、台湾の先住民を「蛮人」と呼んでいる。だが、近藤監督は「蛮人」扱いするのではなく、「蛮人は足が速い」、「漢人は打撃が優れている」、「日本人は守備にたけている」、「理想的なチームができる」と言うのである。当時は嘉義の日本人にも、甲子園で取材する記者にも、民族差別的な考えがあった。だけど、近藤監督は野球がすべてであり、民族差別的な考えは全くなかったという。実際、甲子園に出場したチームのレギュラー陣は、日本人3人、漢人2人、高山族(先住民)4人という構成だった。先住民系の生徒は、日本語名を名乗りながら日本語がうまく発音できていないメンバーがそれで、そこもリアリティがある。

 ただスポーツ映画としては、多少の「デジャ・ヴ」(既視感)もある。それはさまざまの映画を見てきて、大体の構成が判っているからで、この映画も大方の感動スポーツ映画の枠に入っている。問題を起こしてスポーツ界から離れている訳ありの名監督、弱いチームに拾われ、鍛えに鍛えて、ついには最後の栄光を手に入れそうになるが…。という師弟の感動もので、特にボクシングに多いが、この映画はまさにそう。でも、高校野球という点で、青春映画というジャンルにも入るだろう。もちろん、歴史映画的な部分もあるけど、基本は青春スポーツものの傑作

 この映画の巧みなところは、甲子園2回戦で対戦した札幌商業の投手を好敵手として描き、彼が戦時中に軍の動員で嘉義に立ち寄るところ(実話ではない)を最初に描き、そこから昔の場面が始まるという構成にある。その結果、単に日本統治時代のエピソードを描くというだけでなく、民族を超えて野球に向き合う青春映画という側面が前面に出てくる。最後に「登場人物のその後」が出てくるが、台湾人は大体戦後も活躍しているのに対し、日本人は兵役に取られて戦死している。そこが残酷な真実である。多少、確かに日本統治の問題を問わな過ぎる部分も感じるが、それ以上に民族共生をうたいあげるという印象である。特に高校野球ファンには是非見て欲しい映画。
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「ミルカ」とインド映画の話

2015年02月04日 00時14分09秒 |  〃  (新作外国映画)
 昔の映画をよく見てるんだけど、今週は古い映画の特集が少ないのでまとめて新作映画を見て、まとめて書きたいと思う。公開直後に見ることはほとんどないんだけど、今回は映画のサービスデイに合わせてインド映画「ミルカ」を見たので、その話。インドのアカデミー賞で昨年14部門で受賞したという。ローマ五輪(1960)の400m走で金メダルを期待されながら4位に終わったミルカ・シンという実在の人物を描いた映画。「走れ、ミルカ。魂のままに。」映画大国の頂点に君臨した感動の一大叙事詩、というのがキャッチコピーである。実は僕はこの映画に不満があるのだが、それを含めて紹介しておきたい。なお、原題を直訳すると「走れ、ミルカ、走れ」だから、題名は「走れミルカ」にしてれば「走れメロス」っぽくて判りやすかったのに。ただの「ミルカ」では、「ミルカ」を見るか?とダジャレになっちゃう。
 
 インド映画の公開が多くなってきた。少し前までインド映画と言えば、突然歌とダンスが乱舞するミュージカルというか、いかにも異文化的な感じが多かったけど、最近はだいぶ変わってきた。この映画でも歌は流れるが、超絶ダンスシーンは出てこない。普通にリアリズムで描かれた「一大叙事詩」になっている。ミルカ・シンという人は1935年に今はパキスタン領になっている英領インド西北部のパンジャブ州に生まれた。1951年に陸軍に入隊して陸上競技を教えられ、コーチに認められて強化チームに加わった。400mのインド記録を更新し、1956年のメルボルン五輪に出場、そこでは予選で敗退するが、そこから不屈の努力を積み重ねた。1958年に東京で開かれたアジア大会で200mと400mで金メダルを獲得した。1960年にはフランスの大会で世界新記録を出し、まさにローマ五輪の金メダル最有力だったわけだけど、そこでは最後の最後に後ろを振り返り4位になってしまった一体なぜ彼はレース終了間際に後ろを見てしまったのか?

 というところで、話が変わる。五輪後にインドとパキスタンの間で友好スポーツ大会開催に合意し、インドのネール首相はミルカに団長としてパキスタンを訪れて欲しいと依頼するが、ミルカは固辞してしまう。首相に頼まれ、古くからのコーチなどがミルカを訪ねようと列車に乗って出かける。そこでミルカの過去を探っていく、というのがこの映画の構造である。(このシナリオは黒澤明の「生きる」の影響を受けているのではないかと思う。)そこで明らかとなるものは…。それは1947年の印パ分離独立時の大規模な難民発生と虐殺という悲劇だった。ミルカは常に頭の上に布で覆ったタンコブのようなものを乗せている。これは髪を切らないという戒律がある「シク教」の特徴で、要するに髪をまとめて乗せてるんだという。シク教というのは、15世紀後半にヒンドゥー教とイスラム教の特徴を取り入れて成立した宗教で、葯2300万の信者が主にパンジャブ地方に住むという。そのパンジャブ州は独立時に印パで真っ二つにされ、パキスタン側に住むシク教徒はイスラム教からの迫害を受け、インドに逃れるか改宗するしかなかった。そうでないものは殺された(と、この映画にはでてくる。)ミルカの父母も殺され、からくも姉とミルカが生き延びたのである。その逃亡時に、まず彼は走りに走って逃げたのだった。

 この映画は全体としては、驚くような出来映えになっていると思う。その成功を支えているのは、第一に主演したファルハーン・アクタルの演技である。この人は映画監督でもあり、また俳優や歌手としても活躍する人だという。日本でも公開された「DON 過去を消された男」「闇の帝王DON ベルリン強奪指令」などを作っている。もともと映画一家の出身だというが、この映画の出演をオファーされて驚異の肉体改造に挑戦し、18か月間トレーニングして体脂肪率5%という肉体を作り上げた。まさにミルカ本人(というか陸上選手)が走っているとしか思えない迫力は一見の価値がある。この映画を作り上げたのは、ラケーシュ・オームプラカーシュ・メーラ監督。名前は絶対に覚えられそうもない。

 世界中の映画を見るのが僕は好きである。アメリカや日本だけでなく、特にアジアやアフリカ、ラテンアメリカの映画が公開されると、できるだけ見たいと思う。基本的には国際問題の理解という感じで、社会科のお勉強が好きなのである。インド映画もずいぶん見ている。岩波ホールで公開された巨匠サタジット・レイ監督作品は全部見ている。また1983年のアジア映画祭や1988年の大インド映画祭などでもかなり見た。アラヴィンダン監督「魔法使いのおじいさん」やグル・ダット監督「乾き」はそれで見た。シャーム・ベネガル監督の「ミュージカル女優」という作品も素晴らしく、そこで初めて歌と踊りの乱舞を見た。その後、日本でも「ムトゥ 踊るマハラジャ」が公開されてヒット、「マサラ・ムーヴィー」などと呼ばれるようになった。その中で最高だと思ったのは、マニラトラム監督「ボンベイ」という映画で、歌とダンスの洗練も最高だった。

 インド映画の楽しみはいくつかあるが、何と言っても「超美形の女優」である。アメリカでも日本でも、最近はもっと身近な、ちょっとファニー系の女優が多く、それはそれでいいけれど、インド映画のスターの美女ぶりは凄まじいの一語につきる。「ミルカ」にも出てくる。「ボンベイ」で出ていたコイララ(元ネパール首相コイララの姪にあたる)も凄い美女、最近では「ロボット」とか「マッキー」なんかも美形女優が出ていて、正直見てて楽しい。それがまあ、ひとつの見所とすると、もう一つが何と言ってもインド社会そのものの矛盾、良い方も悪い方もとにかく極端。それは中国にも言えるけど、中国映画ではさすがに抗日戦争や文化大革命にさかのぼらない限り、殺し合いはないだろう。でも、インドでは選挙のたびに人が死に、宗教対立で人が死ぬ。一方、「ロボット」という映画は世界最高のロボット映画でもあり、IT大国として世界に知られるインドの高度成長を世界に示している。その驚くべき世界を知ることは、われわれにとっても非常に大事だろう。

 でも「ミルカ」はどうなんだろう。完全にインド・ナショナリズムをうたいあげる「国策映画」ではないだろうか。いや、そこまで言うと言い過ぎかもしれないが、世界に羽ばたくインド経済を象徴するような自信に満ちた映画だと思う。パキスタンだけがシク教徒を迫害した感じに思えてしまうけど、その後ヒンドゥー過激派とシク教徒は対立し、ネールの娘インディラ・ガンディーはシク教徒に暗殺されるではないか。そういった側面は描かれず、ひたすらインド陸軍を持ち上げることに、どうも違和感が強い。現実のミルカ・シンは映画には出てこない五輪バレー選手と幸福な結婚をして、その間の子どもが日本でも活躍するプロゴルファー、ジーヴ・ミルカ・シンという人であるという。本人は今も現存で、自伝を書いてそれが映画のもととなっている。その現実の後日譚の幸福度が、この映画から批判性を削いでいる部分はあるだろうと思う。

 昨年来公開された作品では、僕は「バルフィ!人生を唄えば」が最高に心打たれる映画だった。まだ見てない映画も多いけれど。さて、僕の見たインド映画の傑作、「ボンベイ」はフィルムセンターの「現代アジア映画の作家たち」特集で上映される。3月3日(火)6時半、3月6日(金)3時の2回上映である。この映画はヒンドゥー教の男とイスラム教の女が恋に落ちて親に許されぬまま結婚してしまうが、宗教対立で大規模な暴動がボンベイで起き…という大波乱の社会派超メロドラマである。これほど危険なテーマを扱い、しかもうっとりするようなダンスシーンも見所。マニラトラム監督の他の社会派娯楽作品も上映される。一方、パキスタンのショエーブ・マンスール監督作品も上映される。見たことがないが、パキスタン社会やイスラム社会のタブーに挑む作品だという。宗教対立というと中東ばかり思い浮かぶ昨今だが、20世紀を顧みるとインド、パキスタンこそもっとも宗教対立で人命が奪われた地帯ではなかろうか。しかし、そのタブーというべきテーマに果敢にチャレンジする映画、しかも大娯楽作品として観客を動員する映画が作られているのである。この地域を考えることは、日本にとっても重要だし、「イスラム国」などのイスラム過激派問題を考える時にもヒントを与えてくれるに違いない。
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