尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

安倍首相の「ヤジ」問題

2015年08月30日 00時25分20秒 |  〃  (安倍政権論)
 鴻池委員長の発言を取り上げたので、前から一度書こうかと思っていた安倍首相の「ヤジ」問題もここで書いておきたい。「安倍首相に対するヤジ」というのもあるけど、今はそれは取り上げない。また、この「ヤジ」をNHKは「自席発言」と表現したというちょっと面白い話題もあるけど、これは今は触れない。安倍首相は今年になってから、3回自席で「不規則発言」をしている。

 そのことに対して、いろいろ言われているのは、おおよそ次のような観点からの批判である。
①一国の総理大臣が質疑のさなかにヤジを飛ばすとは、「総理の品格」に欠ける
②一度ヤジを謝罪しているのに、再度、再々度にわたって繰り返すとは、「学ぶ能力」に欠ける
③審議中の法案は内閣提出法案だから、内閣が国会に審議をお願いするタテマエなのに、自分でヤジを飛ばすなどは、「国会軽視」「国会のルール無視」も甚だしい
 
 どれももっともだと思うけど、①②の論点は、僕はもうあまり考える気も起きない。日本の首相はちょっと前まで猫の目のように替わっていた。それでも、首相が自席でヤジを飛ばしたなどと言うケースは思いつかない。確かにそう考えれば、普通ではない。よっぽど「軽い」総理大臣である。だけど、まあ、今はそういう人が自民党の領袖に選ばれる時代なのである。3年前の自民党総裁選では、有力候補は石破茂、石原伸晃と安倍晋三だった。他に二人立候補していたが、当選可能性があったのはこの3人である。仮に石破、石原氏が当選していていても、重厚な総理大臣だったとは言えないだろう。

 ③の論点ももっともだけど、そういうタテマエはもう誰も信じていないだろう。閣法(内閣提出法案)なんだから、内閣が審議を「お願いしている」と言うのはその通りである。国会は「国民の代表」を集めた「国権の最高機関」なんだから、その審議は一瞬も気を抜けないはずである。だけど、もちろん安倍首相はそうは思ってない。衆参ともに与党が絶対多数を握っているんだから、一応ガマンして野党の追及につきあって、そのうちに採決して賛成多数で押し切るまでの儀式としか思ってないだろう。むしろ、自分の方がアメリカの要望を受けて大変な目にあっている「被害者」だと思ってるんじゃないか。自分がお願いしていると自己認識しているのは、公明党に対してだけだろう。これも連立離脱なんかできっこないと内心では判断しているだろうが、まあそれでも相当な無理を飲み込んでもらったぐらいには思っているだろう。「維新」のゴタゴタなど見るにつけ、公明党しか相手にはできないということだ。

 僕が書きたいのは、ちょっと違った観点。どういう時に、どういうことを、誰に対してヤジを飛ばすのか。そこから見えてくるものは何かである。「不規則発言」「失言」「言い過ぎ」のようなものは、誰にもあることだと思う。だから、そのこと自体はあんまり追求しない方がいいと思う。追求し過ぎると、往々にして追及者の方が言い過ぎになっていく。反対に失言してしまうことがある。(今も「安倍首相は病院に行くべきだ」など差別発言をしている人がいる。)しかし、「失言」はそれを取り消したとしても、「その人の感性」を見せてくれる貴重な機会を提供する。(その意味で、安倍政権批判論者の中にも、障害者・病者・社会的弱者に対する差別感覚がかなりあるのである。「安倍首相は子どもがいないから、平気で戦争ができる国に出来るのだ」などと言ってる人もいるらしいが、これも「差別発言」である。)

 安倍首相の最新の「ヤジ」は8月21日、参議院で民主党の蓮舫議員の質問中に「そんなこと、どうでもいいじゃん」と言ったという。それまで蓮舫議員は中谷防衛相の答弁の食い違いを質問していた。その前に、5月28日に衆議院で民主党の辻本清美議員の質問中、「早く質問しろよ」と「ヤジ」を飛ばした。これは謝罪していることになっているが、「謝罪になっていない」という批判も強かったが、それは今は取り上げない。さらにその前、2月19日の予算委員会で、民主党の玉木雄一郎議員が西川農水相(当時)の献金問題を質問しているときに「日教組どうするの」などと訳のわからない「ヤジ」を大声で発言した。その釈明において「なぜ日教組と言ったかといえば、日教組は補助金をもらっていて、教育会館から献金をもらっている議員が民主党にいる」などと虚偽の説明をしている。この時は内容の間違いについて撤回と謝罪をしている。(それにしても、労働組合である日教組に対して補助金が出ているなどと、どうして思い込めるのか摩訶不思議である。)

 「日教組」発言問題はまた別の時に取り上げる機会もあるだろう。とにかく、「日教組」だけ取り上げるというのは、およそ「不勉強系思い込みウヨク」の特徴とも言えるので、安倍首相の「お里が知れる」発言だと思う。ここでは辻本清美、蓮舫両氏に対するヤジを見たいと思うが、その時に思い浮かべるのは、ヤジではないけど何だか異様な感じを受けた答弁が他にもあったことである。それは4月1日の参議院予算委員会で、社会民主党の福島みずほ議員に対して、「今も、我々が今進めている安保法制について、戦争法案というのは我々もこれは甘受できないですよ。そういう名前を付けて、レッテルを貼って、議論を矮小化していくということは断じて我々も甘受できないと、こんなように考えているわけでありまして、真面目に福島さんも議論をしていただきたいなと、これは本当にそう思うわけでございます。」という「レッテル貼り」発言である。もっとも、この言葉そのものは前から安倍首相の「おはこ」らしいが、それにしても「断じて甘受できない」「真面目に議論していただきたい」など、言葉が異様に強い。自分たちが「平和安全法案」とか言ってるのも「レッテル貼り」としか思えないが、もちろん自己認識はない。(ところで「レッテル」と言う言葉自体が、現代では死語に近いと思う。オランダ語だという。)

 ここで僕が思ったのは、福島みずほ、辻本清美、蓮舫などという系列が首相の頭の中、と言うか生理の中にあるんだろうなあということである。安倍首相は「女性の活躍」を掲げて、今の内閣では高市早苗総務相、上川陽子法相、山谷えり子国家公安委員長、有村治子女性活躍、行政改革担当相の4人が登用されている。このうち、高市、山谷、有村の3人が今年の夏に靖国神社を参拝している。自民党政調会長の稲田朋美(前行政改革担当相)も靖国参拝を行った。高市総務相は稲田氏の前任の政調会長である。高市、稲田の両氏などは安倍政権において、異様に「活躍」している。この夏、安倍首相は靖国神社に「真榊」なるものを奉納したけれど、自分では参拝しなかった。ホントはきっと参拝したかっただろう首相の代参が、高市、山谷、有村氏なんだろう。首相の目からは、さぞや「愛いやつじゃ」とでも見えていることだろう。つまり、高市、稲田、山谷、有村などという系列が、安倍首相の頭の中にはあるんだろうと思う。別に命令したわけでもないんだろうけど、ちゃんと靖国参拝する。そういう女性を登用することが「女性の活躍」である。とするならば、福島、辻本、蓮舫などの諸氏に鋭く追及されたりすると、自然と身構えたり、語気が強くなったり、つい不規則発言をしてみたくなる。

 才能や容姿の感覚は人によって違うからあまり書きたくないが、どうも「できる女」が苦手なんじゃないか。その問題は本格的に考えていくと長くなるから、もうやめる。たぶん「母親との関係」や「妻との関係」など成育歴を丁寧に検証して行かないと判らない部分があるんだろうと思う。でも、今の段階で言えることもある。安倍首相の「お好み」系列の女性は、どうも信用できないし「小粒」なんではないかということである。自民党だったら、野田聖子、小池百合子など「ライバルになりかねない」女性議員もいるけど、全然使わないではないか。そこらあたりに安倍首相の器も見えてくる気がする。
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「日本のいちばん長い日」、新旧を見る

2015年08月26日 23時43分53秒 | 映画 (新作日本映画)
 映画「日本のいちばん長い日」がリメイクされて、公開中。戦後70年でもあるが、松竹の120年周記念でもあるという。原田眞人監督。前回は岡本喜八監督の1967年作品で、この時は東宝の35周年記念だった。旧作をキネカ大森で見直して、記憶していた以上に面白かったので、新作も見て比べてみようかと思った次第。原作は前回は大宅荘一とされていたが、その後半藤一利が実質的な著者だったことから、半藤著として刊行されている。僕は読んでいない。

 両者を比べると、まず旧作は白黒新作はカラーという違いがある。内容的には、旧作はまさに「日本のいちばん長い日」として、1945年8月14日の正午から一日間を描いている。そのことから生じる凝縮された緊迫感は素晴らしい。一方、新作は4月の鈴木貫太郎内閣の組閣から描いている。その意味では、題名とは違っている。現在では、説明的なシーンも必要だし、時間の幅を広く取って語るのもアイディアではある。ただ、上映時間が限られている以上、それまでの描写に時間を割けば、当然のことながら肝心の一日が短くなる。初めて描かれる前半は、何が描かれるのかと言う興味があるが、最後の頃が薄くなっては本末転倒ではないか。その意味で、映画は旧作の方がずっと面白いと思う。(旧作は157分、新作は136分と上映時間もだいぶ違う。)

 また旧作では昭和天皇を正面から描かない。天皇がいないと御前会議にならないから、出席して「聖断」を下すが、誰かの影のような位置から描いている。俳優は松本幸四郎(8代目)で、当代の9代目幸四郎、中村吉右衛門の父にあたる。一方、新作は本木雅弘が正面から演じている。旧作当時はまだ昭和天皇が生きていたわけだが、天皇じゃなくても存命の人物は描きにくい。それが天皇というんだから、ますます「遠慮」が出てくるということだろう。だけど、日本の天皇という存在は、もともとそういう存在、つまり何だか霧に包まれていて尊い、といった部分がある。おぼめかして演出するから、かえって「聖断の重大性」が際立つ感じもする。もはや昭和天皇も歴史上の人物ということで、史料もいろいろと出てきているし、正面から描かれるわけだろうが、その分「神聖さ」も薄れてくる。

 旧作は女優がほぼ出てこない。鈴木首相邸の女中役として新珠三千代が出ているだけである。新作は女官を始め、皇后も一応出ているし、鈴木首相や阿南陸相の家族やNHKの職員にも女性がいる。いるのは当たり前だから、旧作はあえて男だけのドラマにしぼっていた。御前会議や閣議、あるいは陸軍の反乱が主要な舞台なんだから、女性は主筋には関係してこない。今さら首相や陸相の人間性など大して重要でもないのだから、いっそ男だけで描いて行くという旧作は、そのキャスト自体が批評性を持っている。しかし、大臣にも家族がいるわけで、それを示すのも一つの考えではある。

 今回旧作を見直して特に印象的だったのは、キャストの素晴らしさだった。何しろ、鈴木貫太郎首相は笠智衆、阿南惟幾(あなみ・これちか)陸相は三船敏郎なのである。いつ見たのかは覚えていないが、学生時代に名画座で見たんだろうと思う。その当時は、三船は偉そうな感じの役者になっていて、笠智衆は帝釈天の御前様として毎年のように見ていた。同時代の役者だったから、あまり貴重な共演だという感じは持たなかったのである。他にも、東郷外相が宮口精二、米内海相が山村聰、下村情報局総裁が志村喬、迫水内閣秘書官長が加藤武、木戸内大臣が中村伸郎…というキャストだから、もう閣議や最高戦争指導会議も見応えたっぷりなのである。他にも近衛師団の森師団長が島田省吾、徳川侍従が小林桂樹、NHKの局長に加東大介である。「七人の侍」の中で、志村、宮口、加東、三船と4人もいる。北竜二も侍従武官長で出ているから、笠、山村、中村、北と小津映画を見ているようでもある。そういう過去の映画的記憶が大切になってくるほど、この旧作が貴重になるように思う。今挙げた、これらの名優はみな鬼籍に入っている。存命なのは、畑中少佐の黒沢年男とNHKの放送員の加山雄三ぐらいではなかろうか。後は、ナレーションをしている仲代達矢もいるが。

 他にも名優がたくさん出ているので、名前だけ挙げておくと、伊藤雄之助、石山健二郎、藤田進、小杉義男、北村和夫、戸浦六宏、神山繁、高橋悦史、中丸忠雄、佐藤允、井川比佐志、田崎潤、二本柳寛、小泉博、三井弘次…といった具合である。それほど登場人物が多いのである。当時の映画俳優のほとんどは、まだ会社に所属していたわけだから、社を挙げた企画には東宝の男優が勢ぞろいするし、他社や新劇などからもいっぱい呼んでいる。さて、そんな中で、やはり出ているのが、岡本映画で怪演する常連の天本英世。演じるのは、東京防衛軍の指揮官として鶴見にいた佐々木武雄という人物である。僕もよく知らないんだけど、畑中少佐とつながりがある右翼的軍人で、もともと警戒されて閑職に飛ばされていた。専門学校生などを募って、官邸や鈴木首相邸を襲撃した。軍人というより民間右翼によるテロに近い。戦後も逃亡を続け、生き延びた。大山量士なる偽名で「亜細亜友之会」という組織を作って、1986年まで活躍したそうである。新作にも少し出てきて、松山ケンイチが演じているが、ほとんど重要な役ではない。旧作では、天本の怪演もあって、非常に印象的なエピソードになっている。

 こういう「史実再現ドラマ」は、結末が決められているから、どうも面白みが足りなくなりやすい。話題もそっくりさんぶりに集中したり、史実そのものの評価を論じることが先行しやすい。僕も今までは「戦争終結に至る過程」という制約から、ドラマの面白さを考えなかった。今回、旧作を見て、そのキャストの豪華さに目を見張って、今では「演技合戦」として見られるなと思い返したわけである。新作はその意味でキャストの面白みが少ない。役所広治の阿南陸相は悪くはないけど、三船の殺気がないのはどうしようもないだろう。こんないい人が陸軍トップにいるわけない。少壮軍人の決起も、旧作の方がみな現実性が感じられる。同時代を生きて知っているんだから、当然「一億玉砕」などの雰囲気を知っているだろう。今では、若い役者がいくら一生懸命演じても、どうやってもあの「狂気」には遠い。

 事実評価の面として、そもそもこの少壮軍人のクーデタ計画が判らない。「玉音盤」を一生懸命探し回るけど、録音盤なんか破棄しても仕方ない。「聖断」を下した本人の天皇が直接ナマで放送すればいいだけである。それより放送局を破壊してしまえば放送そのものができない。しかし、ポツダム宣言受諾を決めた天皇がいる以上、どうしようもないではないか。張学良が蒋介石を幽閉した西安事件のように、昭和天皇を幽閉して退位を迫るぐらいをしなければどうしようもないだろう。一体、天皇が決断してしまい、交戦相手にも通告した出来事をどうひっくりかえせると思うのだろうか。

 だから、このドラマは所詮「コップの中の嵐」でしかない。それに、もしクーデタが成功でもすれば、本土決戦になり、多くの日本兵、民間人が亡くなり、米兵のぼう大な犠牲も出た。よって、米国世論は天皇制にさらに厳しくなり、天皇制護持という軍部の目的はより難しくなるのは明白。エネルギーも食料も不足しているのに、精神だけで2千万人が特攻すれば勝てるという。「カルト宗教」としか思えない。そんな輩が軍を率いていたのも驚きだが、その軍部を抑えるのに「天皇の聖断」しかなかったという、この屈辱。僕がこの時代を顧みて思うのは、天皇が決断するしか戦争を止めさせられなかったという日本人の歴史に対する言いようのない民族的屈辱感のようなものである。何という情けない国だったことか。憲法もあり、国会もあったというのに。
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「この国の空」、原作と映画

2015年08月26日 00時30分04秒 | 映画 (新作日本映画)
 荒井晴彦脚本、監督の映画「この国の空」が公開されている。非常に重要な「戦争映画」であり、今年屈指の力作だと思う。見逃さないで欲しい映画。原作は高井有一の同名小説で、基本的には小説の設定や構想を生かしている。1981年に発表され谷崎潤一郎賞を得たが、今年初めて文庫化された。新潮文庫に入った原作を読んでから映画を見たが、どちらも面白く感銘深い。
 
 主演はいま最注目の二階堂ふみで、それだけでも見たくなるんだけど、今回は昭和20年春に東京に住む19歳の民子という女性である。セリフの発声は今までの映画に比べてずいぶん抑えられている。最初はあれっと思うが、これが戦前育ちのリアルである。「挺身隊逃れ」で、町会の事務をしている。このあたりがリアルな設定なのである。町会は疎開のための証明書発行とか、食料の配給とか、けっこう仕事もあるが、まあ軍需工場勤務より閑職なのである。原作は杉並区の「碌安寺」(ろくあんじ)という地名になっているが、碌安寺池があるという。そんな地名は聞いたことがないなあと思って、「善福寺」かなと思ったのだが、映画のプログラムに善福寺と明記されている。23区の西端で、新宿から中央線で荻窪で降りる。震災後に都市化した地帯である。

 この民子はもうすぐ死ぬ。別に決まっているわけではないが、毎日のように空襲があるし、「本土決戦」「一億玉砕」と言われている。敵は九十九里浜に上陸するという話だから、来年まで生きられないのではないか。父は早く結核で亡くなり、母・蔦枝工藤夕貴)と暮らしている。祖父が遺した世田谷の家作が三軒あり、生活は何とかなる。師範学校に進んで教師になりたいと思った時もあるが、母が反対した。父がいなくても、何とかいい家にお嫁に行かせると言う。娘を「職業婦人」にしたと言われたくないのである。気が付けば、まわりでは若い男はみな兵隊にとられ、子どもたちさえ集団疎開でいなくなって町は寂しい。自分の一生は何もなくて終わってしまうのか

 雨で防空壕が使えなくなったとき、隣家の市毛長谷川博己)が自分の家の防空壕を使って欲しいと申し出る。大森にある銀行支店長で、宿直の日も多い。妻子はすでに疎開させ、一人暮らしなので、配給その他隣家に世話になることが多い。ガラスには紙を貼って割れにくくせよというお達しもまだやってない。民子は今度お手伝いすると言う。こうして、38歳の妻子ありではあるが、戦時下の東京ではまだ若い方の男である市毛と民子の距離がだんだん近くなっていくのである。

 いとこの結婚式の招待状が来る。軍需景気で潤う相手と結婚し、豪華な食事をふるまわれる。男は国民服、女はモンペのはずが、きれいに着飾ったいとこがまぶしい。親せきの誰かからは「お宅もそろそろですね」と言われたらしい。19歳、当時は婚期も近いが、自分はこのまま結婚できずに死ぬのか。「そろそろ」とつぶやきながら、畳を転げまわる民子。(ここは名シーンだと思う。)そんな中、6月には横浜の伯母・瑞枝富田靖子)が焼け出されて転がり込んでくる。東京への転入は認められていないから、配給はもらえない。どうすると言って、姉妹けんかになる。民子がとりなしつつ、一緒に住むことになるが、その後も折り合いが悪い。この伯母に関しては原作と違う。原作では巣鴨辺りとなっていて、一度は秋田の象潟に疎開する。民子は付き添って行くが、後で伯母は勝手に戻ってきてしまう。非常に印象深いエピソードなのだが、現在では映像化が難しいということなんだと思う。

 だんだん家に帰れる日が少なくなった市毛は、鍵を民子に渡して、時々家に風を入れて欲しいと頼む。こうして「男の部屋」を初めて見る。ある日は、町内の人に連れられて着物を背負って買い出しに行く。埼玉県の農村では、裏に川が流れて親子で昼食は川辺に行く。ピクニック気分になって、母は服を脱いで川水で洗う。民子にも勧めるが、民子は恥ずかしいから早く着物を着ろとせかす。そこに、成熟しつつある女を感じ、母は民子に市毛さんに気を許してはダメという。女は溺れやすいから、女が損をするという。母は溺れたことがあるのかと聞くと、あると答える。母は若い男が少ない現在、民子が市毛に男を感じるのはやむを得ないと思っているのだろう。だけど、戦時中じゃなかったら男だけの家への出入りなど許していない。とともに、何のロマンスもなく一生を終えるなら娘が不憫だとも思う。このシーンは原作にもあるが、非常に印象深い。そして、ラスト。コメが銀行に臨時で入ったからと市毛が紹介し、民子は大森まで買いに行く。そして一緒に昼食を取ろうと神社に行き、蝉しぐれの中で見つめ合い、ついに…。そしてその夜、眠れないまま民子はに庭のトマトを持って市毛の家を訪れるのだが…。

 この映画全体を通して、「静かな映画」だとか、「戦争映画ではなくホームドラマ」だというとらえ方もあるようだ。また監督の荒井晴彦は今までに「赫い髪の女」や「ヴァイブレータ」などエロティックな映画の脚本を手掛けてきたのに対し、この映画は描き方がおとなしいという見方もあるらしい。だけど、それらの見方は間違っていると思う。荒井晴彦が手がけた「さよなら歌舞伎町」という今年公開された新宿のラブホテルを舞台にした映画は、まさにセックスシーンがいっぱいだが、妙にエロティックではない。主人公カップルはセックスシーンがないぐらい。それに対し、常に抑制された描き方をしている「この国の空」の方が、戦争と死を背景にして、そういう時代にぶつかってしまった若い女性の肉体と精神のありようを見つめて、非常にエロティックなのである。それは生命そのものが本来的にもつ「エロス」の輝きと言えるかもしれない。その肉体の持つ緊張感が映画を覆っている。

 映画は雨で始まり雨で終わる。戦争を思い出すとき、「8・15」が全国的に晴れたという、「後から刷り込まれた記憶」が語られることが多い。でも、この映画(原作)で見ると、前日は雨。また「土用の日」も、土用と思えぬ寒い日だった。確認は取っていないが、そういう細部のリアルが思い込みを崩していくのである。そしてラストは民子の顔のストップモーション。民子の戦争はここから始まると字幕が出る。どういう意味だろうか。様々に解釈できるが、狭義で言えば、疎開先から市毛の妻子が帰り、民子の日常は揺さぶられる。町会の仕事もなくなるだろう。戦後の厳しい、初めて本当に生きる日々が始まるのだろうと思う。そこで二階堂ふみの声で、茨木のり子の「わたしが一番きれいだったとき」が朗読される。これが効いている。と僕は判断する。

 そして、原作と同じく、銃後の生活をこれほど詳しく描写した映画も少ない。原作もそれを一つの目的にして書かれている。日本人の多くは、戦争で空襲を受けたり食糧難に見舞われた。戦争で苦労したが、誰もが死んだわけではない。そこで銃後の人々が知らない、戦場の苦難、原爆や沖縄戦などが映画化されることが多く、それらを見て国民の戦争認識が作られた部分もある。その時代は「銃後の苦労」など、皆知っていたし、もっと苦労した人が多くいる中で語るべきほどのこととも思われなかった。だけど、時間が経って若い世代が多くなり、銃後のディテールは忘れられていった。集団疎開の後、町が妙に静かだという実感など、そのいい例である。そういうリアルを伝えようとして作られた物語なんだから、これは紛れもない「戦争映画」なのである。戦争は大きな被害を与えるが、それは(原爆投下や地上戦などを除けば)、「全員ではなく、一部の不運な人の上に悲劇が襲う」のである。ある人は空襲で焼け出され家族も失うが、ちょっと違った地区の家は空襲を受けない。そういう運不運が戦争で、その中で人々は刹那的に生きていくしかなくなるのである。

 高井有一(1932~)は、1965年に「北の河」で芥川賞を受けて作家として認められた。作家の出生の謎に迫る「立原正秋」や映画界を描く「高らかな挽歌」などを読んだことがあるが、「この国の空」は知らなかった。発表当時は賞を受けたんだし、名前ぐらい聞いたと思うんだけど、記憶にない。世間的にも、あまり有名な作家とは言えないだろう。落ち着いた描写で物語を着実に描いて行くタイプの地味な作家である。よくぞ、荒井晴彦(1947~)は映画化したと思う。発表当時すぐに映画化権の許諾を得ていたと言うが、撮ろうという監督や会社はなかなか現れなかった。その意味で「戦後70年」は良い機会だった。以前に1997年に「身も心も」と言う映画を監督しているが、それ以来の監督2作目。キネマ旬報脚本賞を5回受賞した有名な脚本家で、「遠雷」「Wの悲劇」などの名作を書いた。最近では「大鹿村騒動記」や「共喰い」がある。脚本がしっかりしていて、安定感がある。

 東映京都の太秦で撮影されたという。当時の家が残る町はないからセットで撮るしかない。トマトを作る庭が必須だが、土があるセットを作れるところが東京にはないという。その結果、ロケシーンもほぼ近畿地方で撮られているという。民子と母は昼食を食べる川は滋賀県の野州川。民子と市毛がお昼を食べる神社は、大阪府池田市の伊居太(いけだ)神社。市毛の勤務先の銀行は、京都工芸繊維大学。里子の町会は滋賀県の日野鎌掛小学校。戦時中を再現しようという試みは、今は非常に大変だ。
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「死闘の伝説」と「夜の女たち」

2015年08月23日 23時13分24秒 |  〃  (旧作日本映画)
 今日見た古い日本映画2本のことを書いておきたい。一本目はフィルムセンターで見た木下恵介監督の「死闘の伝説」(1963)。名匠・木下恵介は作品数が多いので、ほとんど忘れられている作品がかなりある。それらの多くは軽いコメディやうまくいかなかった社会派映画なんだけど、この「死闘の伝説」はぶっちぎりの怪作だと思う。あまり上映の機会がなく、初めて見た。菅原文太が重要な役どころで出ていて、松竹時代にあまり恵まれなかった中で貴重な作品。菅原文太の追悼上映である。

 昭和20年、終戦間近の北海道の奥地。どこだか判らないけど、相当の山奥という設定である。そこに病気で軍を除隊になった園部秀行(加藤剛)が帰ってくる。家族がここに疎開していたのである。そこには田中絹代の母や岩下志麻の妹の他、祖母、弟、妹が暮らしている。岩下志麻には地域の有力者、鷹森家の息子(菅原文太)から縁談が持ち込まれている。あまり気が乗らないが、有力一族だけに苦慮している。ところが、迎えに出た鷹森を見て、秀行は思い出すのであった。彼は天津戦線で上官だった人物で、率先して中国女性を襲っていたということを。

 この話を聞いて、岩下志麻は縁談を断る決心がつき、世話になっている清水(加藤嘉)を通じて鷹森家に伝える。その後、馬に乗った鷹森が園部家の畑を荒らしまわり、そこから村がおかしくなっていく。8月13日、岩下志麻が山道を歩いているときに、馬に乗った菅原文太と行き交い、文太は馬で追いまわす。馬から引きずり落とすと、激高して襲ってくる。そこに清水の娘、百合(加賀まりこ=加藤剛に好意を抱いている)が助けに掛けつけ、加賀まりこが文太を石で打つと、動かなくなってしまう。
(「死闘の伝説」)
 この事情を見ると、鷹森による強姦未遂事件に対する正当防衛または過剰防衛というケースなんだけど、有力一族の息子を疎開ものが殺したということで、村人は扇動されて銃を持って山狩りを始める。その時には、再疎開先を求めて、加藤剛は仙台に行っていて不在。知らずに町へ出た弟は襲われて死亡。逃げるのは岩下志麻、田中絹代など園部家の女4人に清水家の2人。銃はあるが男は加藤嘉だけ。こうして村を二つに割る壮絶な死闘が始まった。という展開で、たくさん死者が出る。

 北海道を舞台にして、日本離れした設定のアクション、あるいは大ロマンを繰り広げる映画はたくさんあるが、「死闘の伝説」は中でもぶっ飛んでいる。どう考えても「中国での日本軍の残虐行為の批判」である。文太の行動は、中国戦線の行動を繰り返しているし、園部家には火を付けて燃やしてしまう。まるで「三光作戦」である。祖母(毛利菊枝)が「こんなことをして恥ずかしくないのか。こんなことでは日本は負ける」と批判すると、村人は銃撃して殺してしまう。祖母はまるで「日本帝国主義打倒」と叫んで殺された中国農民ではないか。あまりにも凄絶な犠牲を出した「死闘」は、戦後になるとタブーになり、今では大昔の「伝説」とされる。事件当時はモノクロで、冒頭とラストだけカラーで現在。映画の出来は悪くないのだが、木下映画としては異色すぎて評価にとまどう「怪作」。63年は岩下志麻と加賀まりこがもっともチャーミングだった時代だった。

 フィルムセンターの2回目は「仁義なき戦い」で、もう何度も見ているから神保町シアターへ行って溝口健二「夜の女たち」。本当はここで今井正「人生とんぼ返り」という作品も見たかったのだが、「死闘の伝説」とかぶる。今、神保町シアターは「1945、46年の映画」を特集している。なかなか貴重な映画が多いが、フィルムセンターから借りた映画は3回しか上映がなく、なかなか時間が合わない。それに敗戦直後だからと言って、面白いわけでもない。映画史的に貴重な「初接吻映画」である「はたちの青春」を今回初めて見たけど、まあ映画としてはつまらない。日本国憲法の結婚規定、「両性の合意のみ」が本来はどのような意義があったかを考える意味があるけど。
(「夜の女たち」)
 「夜の女たち」(1948)は前に見ているが、ほとんど忘れていた。東京の戦災ロケ映画は多いけど、これは大阪の映画。復興に向かいつつ戦災を残す大阪の街をロケする場面も多い。戦後の溝口復調の始まりと評価される映画だが、溝口特集で見ると今では少しきつい。戦争の犠牲と生活苦から、売春婦に「堕ちて」ゆく女たち。だけど、その真情をみると「男への復讐」があるのである。その戦争の犠牲のすさまじさに、改めて絶句する設定である。戦後直後には黒澤明や木下恵介がすぐに活躍し始めて、年長世代の溝口や小津が作った映画は失敗だったと言われる。概ねその通りだと思うが、時勢の急変の中で不得意な分野の映画を撮ると不本意な出来となる。それこそ巨匠であって、何でも小器用に撮れるようでは真の巨匠ではない。

 やはり溝口は虐げられた女たちを描くときに本領を発揮する。それを確認したような映画だが、主演の田中絹代は溝口の前作「女優須磨子の恋」では松井須磨子役だった。それより庶民の女が街娼になるという役の方がうまい。ところで、田中絹代や山田五十鈴のように高齢時代をリアルタイムで知っている人と違い、戦前に活躍した女優は名前を知っていても、細かい情報を知らないことが多い。田中絹代の妹役で、姉と男を張り合う高杉早苗(1918~1995)は、戦前の松竹で「隣の八重ちゃん」以来島津保次郎のメロドラマなどにたくさん出ていた。僕も何本か見ているが、その後のことを知らなかった。人気絶頂の1938年、歌舞伎俳優の市川段四郎(三代目)に見初められ結婚。長男がなんと、2代目市川猿之助(現・猿翁)で、次男が4代目段四郎。次男の子が今の4代目猿之助である。高杉早苗は、当代の猿之助と香川照之の祖母だった。
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新しい表現&家族・友人の歌-現代秀歌②

2015年08月23日 00時09分42秒 | 本 (日本文学)
 少しづつ書きたいことがたまってしまうんだけど、なんだかあまり書く気にならない日もある。安倍政権の話や戦争映画のことばかり書いてると、自分でも嫌になってしまうこともあるわけ。本は大岡昇平の本をこの際だからと読みなおしているので、これも戦争関係。そのうちまとめて書きたいと思うが、その前にそういう時には「現代秀歌」から歌を紹介するんだったと思い出した。7月3日に、「現代秀歌」から①-「恋・愛」と「青春」を書いたきり、次を書いてなかったではないか。

 まずは第三章の「新しい表現を求めて」から。名前は有名な塚本邦雄や岡井隆はここで選ばれている。一体どんな歌かと思うと…。

 革命歌作詞家に凭れかかられて少しづつ液化してゆくピアノ  
                                       塚本邦雄
 うーん、判らないけど、「何か」は感じるかも。他に紹介されている歌を見ると、
 五月祭の汗の青年 病むわれは火のごとき孤獨もちてへだたる
 いたみもて世界の外に佇つわれと紅き逆睫毛(まつげ)の曼珠沙華
 まあ、こっちも判ったような判らないような歌だけど。続いて岡井隆。

 父よ父よ世界が見えぬさ庭なる花くきやかに見ゆといふ午(ひる)を 
                                       岡井隆

 永田氏によれば「塚本邦雄が世界の暗部を反世界的に見ていたのと対照的に、もう一人の前衛の雄、岡井隆は「世界が見えぬ」と詠う」とある。なるほど。もう一首。60年安保の歌なんだというけど。
 海こえて悲しき婚をあせりたる権力のやわらかき部分見ゆ

 円形の和紙の貼りつく赤きひれ掬われしのち金魚は濡れる 
                                       吉川宏志 
 1969年生まれの吉川宏志という歌人は初めて知ったが、他に紹介された歌が面白い。今の歌は金魚すくいの歌だが、ちょっと他の人が考えないようなところに着目するのが面白い。
 カレンダーの隅24/31 分母の日に逢う約束がある
 茂吉像は眼鏡も青銅(ブロンズ)こめかみに溶接されて日溜まりのなか
 今月のカレンダーも隅っこが「23/30」「24/31」になっている。そこでデートする約束をしている人もいるかもしれないけど、分母とか分子とか思った人は多分いないだろう。後者は山形県上山にある斉藤茂吉記念館の銅像を歌ったという。僕もそこは訪れたことはあるけど、茂吉像の眼鏡なんか考えてもみなかった。最後になるほど新しいというか、こういう歌もあるのかという歌をいくつか。

 WWW(ウェッブ)のかなたぐんぐん朝は来て無量大数の脳が脳呼ぶ 
                                       坂井修一
 ぼくたちは勝手に育ったさ 制服にセメントの粉すりつけながら 
                                       加藤治郎
 そんなにいい子でなくていいからそのままでいいからおまへのままがいいから 
                                       小島ゆかり

 次に第4章「家族・友人」から。親や夫婦を歌う歌が多く集められているが、どうも僕にはピンとこない歌が多い。まあ、とりあえず、こんな歌を。

 鷗外の口ひげにみる不機嫌な明治の家長はわれらにとおき 
                                       小高賢
 夫より呼び捨てらるるは嫌ひなりまして〈おい〉とか〈おまへ〉とかなぞ 
                                       松平盟子
 説明の必要はないだろう。親を歌うものでは、小池光〈1947~〉という人の歌が心に残った。
 ふるさとに母を叱りてゐたりけり極彩あはれ故郷の庭 
                                       小池光
 もう一つ挙げる。
 父十三回忌の膳に箸もちてわれはくふ蓮根及び蓮根の穴を
 この「蓮根の穴」という表現は、確かに法事の後に食べている感じを起こさせるではないか。

 最後に辺見じゅん(1939~2011)の歌を。辺見じゅんは大宅賞受賞のノンフィクション作家であるが、角川源義の娘で歌人でもあった。だから、次の歌にある「おとうと」は獄中の角川春樹である。

 一枝の櫻見せむと鉄格子へだてて逢ひしはおとうとなりき 
                                       辺見じゅん
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塚本晋也監督の「野火」を見る

2015年08月21日 23時29分24秒 | 映画 (新作日本映画)
 大岡昇平原作を塚本晋也監督(1960~)が二度目の映画化をした「野火」。僕には、いつもの塚本映画と同じように、なかなか評価が難しい映画だった。原作は戦後文学有数の傑作で、最初の映画化は1959年の市川崑監督作品。同年のベストテンで2位となった。見たのはだいぶ昔で、詳しいことは忘れているが、非常に感銘深い映画だった。原作を読んだのは高校生の頃で、映画を見る前のことである。これは読み直してから見たのだが、大筋では原作の通りである。
 
 最後の方でセリフの中に「レイテ島」と出てくるが、この映画ではセリフやナレーションが極度に制限されているので、どこでの話かもよく判らない。もっとも、大岡昇平原作と書いてあるんだから、フィリピンのレイテ島に決まっているわけだが、知ってて見る人ばかりではないだろう。だから、フィリピン戦線というよりも、「過酷な戦場に投げ込まれた兵士の物語」ということで作られているのかと思う。

 大岡昇平はミンドロ島に配属中に捕虜となるが、収容所がレイテ島に置かれたため、そこで聞いた話にインスパイアされて「野火」を書いた。(自身の体験は「俘虜記」に書かれている。)フィリピンは開戦当時はアメリカの植民地(独立はすでに予定されていた)で、直前に現役復帰したマッカーサーが極東陸軍司令官をしていた。日本軍の攻勢でマッカーサーがオーストラリアに撤退する時に、有名な「I shall return」の言葉を残した。だから、米軍の反攻が始まるとフィリピンを素通りすることはありえなかった。フィリピン戦線は中国本土やニューギニア、旧満州やビルマ(ミャンマー)などを超えて、日本軍が一番犠牲となった場所なのである。(51万8千人が亡くなったとされる。)

 映画の冒頭で、監督自身が演じる田村一等兵は肺病(結核)を発病して野戦病院に送られたが、食料を持たず歩ける兵は原隊に戻される。しかし、原隊では「戻ってくるんじゃない」と言われ、行ったり来たり。原作では、田村のモノローグ(独白)として語られるので、単に右往左往しているのではなく、一種皮肉な観察家としてすでに軍隊を相対化し始めていることが判る。この映画も、完全にナレーションによるモノローグを排除しているわけではないので、もう少し説明を加えた方が判りやすいのかなと思う。もっとも、そういう「判りやすさ」を排除して、戦場という「地獄めぐり」を見せているのだということかもしれない。その結果として、映画の迫力は増したかもしれない。だが、原作や市川崑作品に見られる「精神性」は薄れてしまった。

 米軍の砲撃で日本軍は崩壊し、住民はゲリラとして敵対する。どこにも安住の場が亡くなった田村は、ジャングルを彷徨しながら、飢えと渇きの日々を送る。その歳月は、原作ではほぼ一カ月に及ぶ。その間の苦労(あらゆる草を食べ、自分の血を吸ったヒルをも食料とする)は原作の方が詳しい。映画では、その彷徨と神への関心を描かず、二つの殺人(計三人)を非情に映し出す。一つは、避難して誰もいない街区に塩を取りに戻った女性の住民を無惨に銃撃する。この場面もモノローグによる説明がないので、非情さが際立つ。そのうち、前に会っていた日本兵二人と再会する。この二人がなぜ生き延びられていたのか。そこで、この映画の大きな眼目である「人肉食」が出てくる。「猿の肉」と言われているものの真実は何か。その二人の兵も、結局田村が殺害するに至る。

 これらのシーンはショッキングな描写が続くが、基本的には原作にそって作られているので、原作を読んでいれば予想の範囲内である。劇映画なんだから、血が流れても実際の殺人ではなく、人肉を食べているわけがない。そういう即物的な描写が連続することにより、内面性が薄れてしまうのが僕には少し残念な気がした。その辺り、実は塚本監督作品によく感じることである。塚本監督の出世作「鉄男」(1989)からして、カルト的人気を誇る映画だが、僕には見るものを置き去りにして暴走する作り方に付いていけないものを感じた。「東京フィスト」や「六月の蛇」はまだいいと思ったけど、前作のCOCCO主演の「KOTOKO」も狂気に至る暴走ぶりがどうも僕には頂けなかった。「野火」は実は狂人の日記として書かれたという体裁になっているから、その意味では塚本監督にふさわしい原作だったとも言える。でも、僕には「戦争の悲惨を訴える」とか「絶対的な絶望に追い込まれた人間はどうなるのか」などを描くというよりも、塚本監督風に「どんどん暴走する」映画に思えた。

 僕にはこの映画の塚本晋也やリリー・フランキーなどが、追いつめられた兵士に見えなかったのだが、それはもう仕方ないことなのかもしれない。若い観客には白黒で作られた昔の映画より、まずはこの塚本版「野火」にショックを受ける経験が必要かもしれない。その次に是非原作にもチャレンジして欲しい。新潮文庫にあるほか、岩波文庫に「ハムレット日記」という作品とともに収められている。何でハムレットかと思ったら、実は「狂人日記」という構想があったのである。「野火」は実は発狂した田村の日記なのだが、フィリピンのジャングルをさまよう田村と、中世デンマークの宮廷陰謀の中をさまようハムレットは同じタイプの人間なのである。そういう発想が面白くて、なかなか読みでがある作品だった。そういう見方だけが絶対とは思わないが、田村一等兵という存在に対する一つの解釈だろう。
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エリック・サティ展

2015年08月20日 23時00分35秒 | アート
 昨日のことになるが、渋谷のBunnkamuraでエリック・サティ展を見て、ユーロスペースで「野火」を見た。映画の話は時間がかかりそうだから明日にして、まずは「エリック・サティとその時代展」。
 
 エリック・サティ(1866~1925)という人は、20世紀初頭のフランスで「音楽界の異端児」と言われた作曲家だが、後の時代の芸術に大きな影響を与えた。日本では70年代半ばころから注目を集めるようになったが(雑誌ユリイカが特集を組んだのが74年5月号)、最初の頃は聞いていても違和感の方が大きかった。いつの間にかCMにも使われるようになったりして、僕も違和感どころか「癒し」を覚えるようになり、今も一番聞いている音楽と言っていい。

 今回は「キャバレーから前衛へ」とうたい、19世紀末のキャバレー音楽時代から始まる。当時のポスター(ロートレックなど)も展示されている。その後、次第に前衛的な芸術家との交流を深めていき、ディアギレフのバレエ・リュスのため「パラード」を作曲した。これはコクトー台本、ピカソ美術というすごい顔ぶれの作品である。その舞台の様子も展示されている。また、マン・レイが「目を持った唯一の音楽家」と呼んだということだが、マン・レイ作がサティをイメージした作品も展示されている。

 このような20世紀前半の前衛的な芸術運動に関わりを持った面が中心的な展示になっている。もちろん譜面などの展示もあるが、それらは僕は見てもよく判らないので、どうしても絵などを見て回ることになる。そうするとフランスを中心とする前衛芸術の流れを見ることになる。その意味で、誰にも興味があるという展覧会ではないと思うけど、エリック・サティという名前に惹かれる人には避けて通れない。

 僕のいとこが音大に通っていて、サティという名前をよく聞かされた。70年代半ばには、秋山邦晴・高橋アキ夫妻を中心にして、エリック・サティの連続演奏会が開かれていた。音楽評論家の秋山邦晴(1929~1996)は当時「キネマ旬報」に「日本の映画音楽史」を連載していて、名前を知っていたし影響も受けた。御茶ノ水の日仏会館があった時代、そこでルネ・クレールの「幕間」を上映した時に見に行った記憶がある。その短編映画の音楽がサティである。それ以上に思い出深いのが、渋谷のジァンジァンで行われた「ヴェクサシオン」の演奏会。これは同じフレーズを840回弾くと指定されたピアノ曲だが、それを一晩ががかりで何十人かが演奏したのである。有名な作曲家やピアニストが続々と登場して、豪華な顔ぶれだった。朝の渋谷をすぐ帰るのがもったいなくて原宿まで歩いて帰ったような記憶がある。もう何年のことだか覚えていなし、検索してもよく判らない。70年代後半のことである。

 昔、新宿の伊勢丹に美術館があったころ、エリック・サティ展が開かれたことがあり、その時に買った高橋アキさんの弾くCDをいつも聴いている。そんな思いでがあるからでもないけれど、何人も持っているサティのCDだが、高橋アキの弾くサティが僕には一番しっくりするように思うのである。Bunnkamuraザ・ミュージアムで30日まで。
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「戦争責任」と「戦後責任」

2015年08月19日 23時49分44秒 | 政治
 前回書いた記事に書き残しがあるような気がして、もう一回書くことにする。「戦後世代に戦争責任はあるのか」という問題意識はいつからあるのだろうかという問題である。自分は戦後10年経ってから生まれているのだが、自分の若い頃にはそういう問題意識はなかったように思う。生まれてないんだから、当然責任があるわけがない。一方、1960年頃に生まれた世代までは、一番身近なオトナである親や教師は、戦争世代だったのである。だから、「どうして、その当時に戦争に反対しなかったのか」と親を問い詰めたわけである。そういう親や教師がしたり顔して若い世代に説経するのがガマンできなかったわけである。自分たちは戦争を防げなかったくせに、髪を長く伸ばすのはみっともないとか、ビートルズはうるさいから聞くなとか言ってくるのはおかしいじゃないか…。

 朝日歌壇に最近選ばれた歌がある。
 戦争になぜ反対しなかったそう賢(さか)しげに我ら言ったはず  春原正彦
 この作者もそういう世代の人だろう。そして、今まさに安保法案に反対運動をしなければ、自分たちの世代も次世代から批判されるだろうという含意が当然ある。

 こういう意識は単に日本だけでなく、世界の各地で見られたものである。ドイツの若者も、親に向って「ナチスの時代にどうして抵抗しなかったのか」と問い詰めた。アメリカでは第二次世界大戦については正戦意識が高いが、60年代末期にベトナム反戦運動と公民権運動が高まった時には、親の世代に対して「人種差別をなくすために闘って来たのか」と問いを発したのである。こういう言い方は、自分もオトナになって見れば、やはり幾分か一方的なものだったなあと振り返るのだが、今思うと「上の世代を批判できる自由」があったのはいいことだったのだと思う。中国で「文化大革命の時にはどうしていたのか」とか「天安門事件のときは何を考えていたか」と公然と問うことはできないだろう。

 その当時は、国民の多くは、戦争の時に誰が威張っていたか、一方誰がひどい目にあったのかを記憶していた。「天皇に責任はあるのか」など、触れられない問題はいろいろあったけれど、国民を戦争に巻き込んだ軍部は許せないという感覚はみなが共有していた。軍部と軍に迎合した人々が、戦時中に権勢を誇り物資も独占していたことは誰でも知っていた。「戦争責任」は主にそういう勢力にあり、戦後になっても反省せずに政界に勢力を持っている人々(例えば、岸信介)に責任があると大体の人が思っていたわけである。

 しかし、そういう考え方は、80年代頃には有効性を失ってきた。僕が教員になったのも80年代初めだが、当然のことながら、生徒からすれば僕に戦争責任があるだろうと追及することはできない。親だって、もう戦争を知らない世代なのである。と同時に、この頃から日本人が外国旅行に出かけることが普通になってきた。70年代前半頃までは、中国には自由に行けないし、アメリカやヨーロッパ、あるいは韓国や東南アジアにも、一生に一度行けたらいいねという「夢の海外旅行」だった。(60年代末には海外旅行が自由になり、世界放浪を始める若者も出始めていたが、一般客の旅行には高根の花だった。)それが海外に自由に出かける時代になると、特に身近な近隣アジア諸国を訪れる場合、「歴史認識」も必要になってきたのである。

 80年代半ばになると、日本経済は「バブル」になりますます海外に気軽に出かけるようになる。中国も経済開放が始まり、韓国やフィリピンでは民衆革命が起こって政治的な自由がもたらされた。そのため、アジア諸国の戦争被害者が日本の裁判所に直接訴えを起こすことも可能になった。こうして、政府間では「決着済み」とされたようなたくさんの問題が一斉に吹き出てきた。ちょうど戦争40年の1985年に、ドイツではワイツゼッカー大統領の「過去に目を閉ざす者は、現在に対してもやはり盲目となる」という演説が行われた。一方、同年に日本では中曽根首相による首相として戦後初の「靖国神社公式参拝」が行われた。この日独の戦争に向き合う差は何なのだろうという問題意識も生まれたのである。そこに「戦後責任」という言葉が生まれた理由がある。日本が果たすべき戦争処理を果たしていないことに対する責任である。

 このように「アジアの民衆といかに向き合うか」というテーマが大きな問題となった時に、日本国内の考え方が分裂してきたのだと思う。「軍部がいかに威張っていたか」といった直接的な恨みつらみを知らない世代が多くなって、「日本だけが悪いのか」「日本はいつまで謝らなければいけないのか」などと言いだす人が出てきた。「日本の戦争は正しい戦争だった」と言う人はそれまでもいた。60年代半ばの林房雄「大東亜戦争肯定論」の頃から、日本の高度経済成長とともに「自信を取り戻した」右派勢力の声が高くなってきた。だけど、それまでは国内論壇だけの争いだったようなものだが、80年代、90年代になると、一方でアジアの民衆との「国際的市民連帯」が可能になり、その反面として「反中」「反韓」意識も生まれてきたように思うのである。

 「日本はいつまで謝らないといけないのか」という問題設定そのものが、90年代以降の日本やアジアの民衆運動、その国際的連帯に対する敵対心から生まれている。だから、当然のこととして、そういう発想をする人々は他の諸課題でも「民衆運動の突きつける問題」を冷笑する。原発問題にせよ、沖縄の基地問題にせよ、その他さまざま同じ。また、そういう人々がつくる社会科教科書には、国家意識を高めることはいっぱい書くが、国民の人権や平和に関してはおざなりにしか書かない。「いつまで謝らないといけないのか」は、逆に言えば、「いつまで安倍政権のような考え方をする政権が日本で生まれるのか」ということである。戦争責任否定発言を閣僚が行うような国でなくなれば、国家間の問題として「歴史認識」問題が出てくることも自然となくなるはずだ。安倍談話に出てくるような問題を、それだけでいいとか悪いとか論じる前に、どういう歴史的な背景から発していて、どういう意味での問題設定なのかと理解する必要があると思って、追加で書いた。
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「戦後世代」に「戦争責任」はあるか

2015年08月17日 23時34分58秒 | 政治
 安倍談話の中にある以下のような部分をどう考えるべきだろうか。
 「日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の八割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。しかし、それでもなお、私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません。謙虚な気持ちで、過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任があります。」

 このような問題、「戦争当時に生まれていなかった世代の日本国民には、先の戦争に関する責任があるのだろうか」「謝罪する必要があるのだろうか」ということに関しては、考えてみたことがある人が多いのではないだろうか。この問題は、本当は「責任」とか「謝罪」という意味をはっきりさせないと論じられない。つまり、前提の置き方によって、あるともないとも結論を変えることができる。どういう立場にたって物事を論じているのかを常に考えていないと、感情論に引きずられやすい

 僕はこういう論点を首相談話に盛り込むことには明確に反対である。安倍首相は「これで打ち切り」のつもりで入れたのかもしれないが、安倍談話に入ったことで「かえって次の世代に難問を残した」のではないかと思う。より若い世代は、「安倍談話に書いてあるから、私は謝罪しません」という言い方はできない。逆に「安倍談話の考え方をどう思うか」と突きつけられてしまうだろう。「賢い為政者」だったら、こういう論点は、記者会見なんかで語ることはあっても、談話そのものの中に入れないだろう。だから、やっぱり、どうもあまり賢い感じがしないということになる。

 それはともかく、「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたち」というけど、歴史は一度起こってしまったことは変えられない。日本にとって戦争(とその後の敗戦)は非常に重大な出来事であり、「何ら関わりのない」世代などあるのだろうか。これは例えば、中国の文化大革命、ロシアのアフガン戦争や「ソ連崩壊」、アメリカのベトナム戦争公民権運動などにも言えることで、社会に大きな変動をもたらし何世代もの人々の暮らしを大きく変えた。後の世代に関わりがないなどと言えないのではないだろうか。

 ただし、その時点で生きていない以上、何らかの行為(例えば、開戦の決定や戦場での虐殺行為)の主体にはなりようがない。だから、「法的責任」がないことだけははっきりしている。しかし、そんなことは当たり前のことであって、誰も後々の世代にまで法的責任を問う人はいないだろう。だから、問題は「政治的責任」や「倫理的責任」などになってくる。この問題になると、「無いとも、有るとも、言える」ということになる。その人の立場次第である。

 「生まれてなかった以上、何の責任もない、謝罪する必要もない」と考えるならば、逆に考えれば、「生まれている時点における問題には、責任がある」ということになる。これは非常に厳しい考え方であり、それなりの覚悟なしに言ってはいけないことだと思う。今、目の前にある問題、原発をどうするか、沖縄の基地問題をどうするか…そういう問題を「自分には関係ない」と言ってはいけなくなる。そういう大問題は大変だとしても、クラスのいじめ問題、職場のパワハラや長時間労働など、まさに目の前に問題がある時に必ず声を挙げられるだろうか。そう言い切れる人だけが、「生まれていなかった時点の問題は、自分には責任はない」と言いきっていいのだと思う。

 安倍首相がそこまで言う時には、本当だったら「自分が総理大臣としてすべての問題を解決するから、後の世代には残さない」という強い決意がなくてはいけない。もっと具体的な解決方法を提示して、強い気持ちで行動して行かなくてはいけない。しかし、安倍首相の言いたいことは、戦争に関する諸問題を解決したいということではないだろう。日本と諸外国との戦争に関する問題は、国家間ですべて解決済みである。だから、今さらガタガタ裁判など起こすな、もう問題は済んだ、「ボス交」で決めたことに文句を言うなということだろう。文句があるなら、それぞれの国のボスに言ってくれ…。

 たとえ話で言うなら、祖父(あるいは曾祖父)が「殺人事件」を起こした。孫(ひ孫)に責任はあるのか。謝罪する必要があるのか。そういうたとえで考えてみれば、もちろん孫に殺人の責任はないに決まっている。だが祖父が刑に服して罪を償っていれば事件は終わっているわけだが、その後も一家が祖父を匿い続けていたとすればどうだろうか。その場合は、殺人罪ではないが、「犯人隠匿罪」が後の世代にもあるではないか。日本の場合はまさにそれではないか。戦時中の「犯罪行為」をかばい続けてきたから、いつまでも解決せず、後の世代に持ち越されて来ているのである。

 僕の感じ方からして、「戦争が起こった」「虐殺事件があった」…その他戦時中のさまざまな問題に対して、自分に責任があると思ったことはない。だが、戦後になっていつまでも戦争を賛美する勢力が力を持っていることには責任を感じている。もちろん「戦後責任」はあるのである。だが、安倍首相をはじめとする右派勢力も、自分たちに与えられた「戦後責任」を果たさなくてはならないと考えているはずである。「彼ら」からすれば、軍を復活させ、国民の基本的人権を抑え、天皇の地位を上げ、戦前の日本により近い国に戻すことこそが、日本の真の復興である。それを果たそうと思っているのだろう。だから、世代の問題ではない。どのような日本と世界を作っていくか、その考え方の相違こそ本質的な問題であり、「世代論」を持ち出す人はいつもそのことで何かを隠ぺいしようとしているのだと思う。
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石川達三「生きている兵隊」を読む

2015年08月15日 00時24分45秒 | 本 (日本文学)
 河原理子「戦争と検閲 石川達三を読み直す」(岩波新書)が出たのをきっかけに、石川達三の「生きている兵隊」を読んでみた。「伏字復元版」が中公文庫から1999年に出ている。その時に買ったまま読んでなかった。この本は、今も文庫に生き残っているようである。
 
 石川達三の「生きている兵隊」という小説は、1938年の発表直後に中央公論が発禁になり、「生きている兵隊事件」として有名になった。著者の石川達三と編集者が新聞紙法で起訴され有罪になった。実刑にはならなかったが、これほど厳しい言論弾圧事件は戦時中になかった。というか、これで雑誌や新聞社はビビッてしまって、戦争の実態を伝えようとする骨のある編集者がいなくなったということだろう。発禁になる前に、中公側も厳しい対応を予想して大分伏字にしていた。そう、警察側が伏字にするのではなく、発禁を怖れる側が伏字にするのである。そして、その伏字も別バージョンで何度も伏字が増えているらしい。発禁になると警察が回収するが、回収前に売れてしまうものもあるという。そういう経過をたどった小説だが、戦後になって著者が持っていた版をもとに、復元版が出た。

 で、読んでみてものすごく驚いた。「日本軍の蛮行」が出てくるからではない。石川達三が法廷で述べたこと、戦争の実態を国民に知らせたい、戦争は甘いものではなく銃後も覚悟を持たなくてはいけない…と言ったようなことが、完全にホンネだということにである。石川達三は戦後、非常に売れっ子の作家となり、社会派的な作品を次々と発表した。ベストセラーも多く、映画化された作品も多い。そういう人だから、何となく「実は反戦思想の持ち主」で「戦争の悲惨を伝えようとした」のが「生きている兵隊」という小説だと思い込んでいたのである。実際は違った。戦時だから書けないのではなく、戦争目的や戦争という手段を問うつもりはないのである。

 1937年7月7日に、北京郊外で起こった盧溝橋事件は結局局地紛争で終わらず、日中の本格的な戦争になった。上海に飛び火し、激戦の末上海を制圧すると、当時の中華民国の首都、南京を攻略する作戦が始まった。1937年12月12日に南京は制圧され、日本では「提灯行列」が行われた。その直後、石川達三は戦地を直接見たいと思い、中央公論社の特派という形で中国訪問を許可された。1938年1月に上海に入り、鉄道で5日に南京入りした。そして南京で8日、上海で4日の取材を行い、帰国後一気に書き上げた。締め切り直前まで書き上がらず、中公側も対応が場当たり的になった面もあったようである。このように、戦闘に同行取材したわけではないが、南京戦直後に現地を見て兵士に取材した結果が書かれていることは間違いない。

 ここに出ていることは、間違いなく「国際法違反」のオンパレードである。虐殺、強姦、略奪、放火などが全部出てくる。大体、「北支」では金を払って調達していたとあるが、南京戦では輸送が間に合わず、現地で略奪するしかない。そういう作戦そのものがおかしいのだが、兵士は命令通り攻めるしかないから、生きるためには村から食料をぶんどってくるしかない。そんな中で、女性に長く触れていない男たちは、女性の物を求める。村へ行って、若い女性の服などがあれば持ってきてしまう。それを「生肉の調達」と呼ぶとあるが、それは実は「強姦」ということだと思われる。

 母親が殺された娘が泣いている。その泣き声がうるさくて眠れなくなった兵士は、出て行って泣く娘を殺害する。「これが戦場というものであり、やむを得ない」というスタンスで書かれている。だが、明らかに「虐殺」というしかない。こういうケースが続々と書かれていて、最後に「娼婦殺害事件」を起こしてしまう章は、2章にわたって完全に削除されている。もちろん、事実の記録ではない。著者の創作とされている。連隊、小隊など所属に関わる情報は、全部「部隊」と直されている。そういう「創作」ではあるが、明らかに「現実を反映している」のである。そして、著者は「これが戦場の厳しさ」であり、銃後の国民に知らしめるべきと考えている。軍と警察はそれは隠さなくてはならないと考えている。だが、その違いは本質的な違いではなかった。

 だから、石川達三は裁判終了後に、再び許可を得て、中央公論の特派員として中国を訪れ、武漢攻略戦を取材して中公に発表しているのである。ええっ、そんなことがあったのか。そして、英米との戦争が始まると海軍の報道班員として東南アジアを訪れている。そんな石川達三の書いた小説。面白いかと言えば、まあ、今では「史料」として読む本だろう。小説としての面白さはないが、どこが削除されたかなど、そういうところが面白い。

 河原理子さんは朝日新聞記者で、石川達三の家族などに縁があって、書かれた本。われわれは検閲、発禁と言っても、具体的なことをほとんど知らずに議論していた。雑誌は発禁になったままでは経営的に困るので、警察に行って発禁部分を切り取って、特別に販売許可を求めるのだという。その切り取りのための器具もあった。この本で初めて知ることは多い。石川達三という作家は、第一回芥川賞を「蒼氓」(そうぼう)という南米移民船を取り上げた作品で受賞した。僕らの世代には「青春の蹉跌」の原作者という感じだが、70年代には各文庫に何十冊も入っていた人気作家だった。今は忘れられつつあるかと思う。この「生きている兵隊」という小説は、日中戦争を考える一助として、一度読んでみて欲しい本。かなりびっくりすると思う。
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日本の戦争映画を選ぶ②

2015年08月13日 00時51分23秒 |  〃  (旧作日本映画)
 前回に挙げた6本の映画は、非常に力強い映画である。見ればさまざまなことを考えると思う。簡単に触れておくと、まず「野火」は、大岡昇平の原作が傑作である。フィリピンのレイテ戦を舞台にしているが、もはや敗戦というか、日本軍も「解体」している段階。1959年だから、もちろん現地ロケはできないが、人間性の極限を見つめる原作の迫力は十分伝わると思う。場所は違うが、テレンス・マリックの「シン・レッド・ライン」は米軍側から見た太平洋の戦いとして必見。

 「軍旗はためく下に」は、結城昌司の直木賞受賞作の映画化だが、この原作は普通の意味での娯楽作品を超えている。スパイ小説や私立探偵小説を書いた結城昌司は僕の好きな作家だが、検事局の事務官だった。ニューギニア戦線で処刑された夫の真実を突き止めようとする妻・左幸子の演技がすごい。戦争責任を突き詰めようとした日本では稀な戦争映画であり、大変な問題作。
(「軍旗はためく下に」)
 「一枚のハガキ」を作った新藤兼人は、広島出身で「原爆の子」「さくら隊散る」などの作品もある。100歳まで生きたが、最後に作った「一枚のハガキ」の迫力がすごい。あらゆる希望を戦争で失った大竹しのぶのすさまじい演技。その再生を描き、戦争の悲劇性を圧倒的な迫力で伝える。感服。

 「海軍特別年少兵」は、東宝の戦争映画シリーズの一本だが、非常に重要な作品。今井正は「ひめゆりの塔」の他、「また逢う日まで」「純愛物語」「キクとイサム」など広義の戦争映画をたくさん作った。最後の作品も、東京大空襲を扱った「戦争と青春」だった。戦後を代表する左翼リアリズム作家の、戦争ものの代表作は「海軍特別年少兵」だと思う。14歳で海軍兵学校に入った「特別年少兵」というほとんど知られていない少年兵の物語。

 「肉弾」は、岡本喜八の洒脱な資質が生きている。「特攻」に選ばれた兵士の物語ではあるが、いわゆる「特攻映画」ではない。特攻隊映画は、映画会社の商業映画でも独立プロの社会派映画でもいっぱい作られている。主演は興行用の必要もあり、人気スターが演じる。だから、人気スターが軍に反抗したりする映画はなく、結局悲劇の運命を受け入れて殉じていく主人公に涙する映画になっている。そういう難しさがある。「月光の夏」などはかなり健闘していると思うが。

 「TOMORROW/明日」をはじめ、広島、長崎の原爆を扱った映画は数多い。しかし、不満の方が多い。描けないのである。「男たちの大和」は戦艦大和を実物大で再現した。「アメリカン・スナイパー」も、イラクで撮った記録映画みたいだが、常識で考えてありえないから、どこかにオープンセットを作ったわけだ。お金をかければそのぐらいはできるだろうが、町ひとつ全部壊滅した広島、長崎を全部再現する映画は作れない。どんなにCGが発達したとしても。では、じっくりと人々に密着しても「黒い雨」は(悪い映画ではないのだが)今村昌平の映画を見る時の楽しみであるダイナミクスが少ない。
(「TOMORROW/明日」)
 他の作品を選んでしまおう。いろいろ考えて、次の4本を加えて10本。
★「人間の条件」(1959~1961、小林正樹監督)
 1・2部(ベストテン5位)、3・4部(10位)、5・6部(「完結編」として公開、4位)と3回に分けて公開された。全部で9時間31分。とにかく長くて、僕も一回しか見ていない。五味川純平の大ベストセラーの映画化。仲代達矢の主人公・梶があまりにも超人的だが、「満州国」の実態がよく伝わるのは間違いない。超大作シリーズの代表という意味で。マキノ雅弘の「次郎長三国志」シリーズ、深作欣二の「仁義なき戦い」シリーズのように、戦争映画の大シリーズとして有名なのだから。五味川の「戦争と人間」も山本薩夫監督で全3部の映画になっている。これも面白いが、鳥瞰図の面白さ。

★「春婦傳」(1965、鈴木清順監督)
★「赤い天使」(1966、増村保造監督)
 この2作は「慰安婦」と「従軍看護婦」を描くという貴重さから。ただし、戦争の中の女性問題を告発する社会派映画ではない。それぞれ野川由美子、若尾文子という女優を生かすプログラム・ピクチャーである。だから、この映画だけで慰安婦や従軍看護婦を論じることはできない。描写自体は史料批判をしないと、戦争理解には使えないと思う。だけど、恐るべき迫力で描かれた中国戦線の映画であり、それがなんらかの「現実」を反映していることも間違いない。また、日本映画が男たちだけでなく、戦場の中の女性、特に慰安婦を主人公にした映画も作られて普通に公開されていた事実も大切だと思う。「春婦傳」は田村泰次郎原作では朝鮮人の主人公を日本人に変えている。朝鮮人慰安婦も描かれている。「赤い天使」は有馬頼義原作。映画が持つ熱という意味では、この2本の映画はすさまじい。

ゆきゆきて、神軍(1987、原一男監督、ベストテン2位)
 ドキュメンタリーでも一本と思って考えてみると、これが「戦争映画」と言えるかどうかという問題もあるけど、やはりこの映画になるか。これもとにかく、すさまじい。原一男という人の映画はみなすさまじいけど、この映画の主人公ほど、ぶっ飛んでいる人も滅多にないだろう。

 「ビルマの竪琴」は、物語の偽善性に付いていけない。竹山道雄の原作のはらむ問題だが、これが今も「平和の物語」として知られているのが解せないから、パス。「私は貝になりたい」はB級戦犯に問われて死刑になる庶民の物語で、今でも日本人に「戦争の不条理」として知られている。だけど、上官に命令されて残虐行為に加わった時に、本来なら上官に反抗すべきなのである。だから、次に生まれる時には、貝になってはいけない。そういう問題もあるけど、そもそも上官の命令で戦犯に問われた下級軍人が死刑になった例はないことが、今は確認されている。物語の前提が崩れている。大島渚の「戦場のメリークリスマス」は僕にはよく判らない。大江健三郎原作の「飼育」の方がいいと思うんだけど。「火垂るの墓」も、もちろん悪くないですよ。でも、直木賞取った原作を読んでないの?

 「ひめゆりの塔」を始め、沖縄戦の映画がない。僕には不満というか、どうも悲劇を描くことへの通俗的な昂揚感が先に立つ映画が多いように思うのである。米軍統治下ではロケ出来なかったし。目取真俊原作、脚本、東陽一監督の「風音」(2004)などのように、現在につながっている映画もある。また「芥川賞を取ったもうひとりの又吉さん」である又吉栄喜の「豚の報い」の映画化(1999、崔洋一監督)もある。沖縄戦も映像化するのが難しいということだと思う。

 次点以下に挙げるとしたら、
◎「兵隊やくざ」(増村保造監督、1965) 日本映画では珍しく痛快娯楽の戦争映画。ただし、それは非人間的な軍上層部に反逆するという痛快性である。
◎「真空地帯」(山本薩夫、1952) 野間宏の有名な原作の映画化。軍の非人間的な構造を暴く反軍映画の代表作。軍内の私刑や腐敗が描かれるが、今では話が伝わりにくい。
◎「執炎」(蔵原惟繕監督、1964) 銃後の映画で、反戦映画の名作だと思うが、戦争映画として挙げるのには、ちょっと…。大好きな映画で、愛の崇高さにうたれる。
◎「少年時代」(篠田正浩監督、1990) これも名作で「学童疎開」の映画だが、集団疎開ではない。だから戦争映画というには弱い面がある。篠田監督には、直接戦争映画ではないが「あかね雲」のような脱走兵が出てくる名作がある。
◎「海と毒薬」(熊井啓監督、1986) 遠藤周作の傑作の映画化で、ベストワンになった。九大の生体解剖事件の話で、うーん、どうしようかと思った。傑作ではあるけれど、正直言って、これは辛い。一度は見ないといけないと思う。だけど、どうなんだろうと思うような映画である。これを入れるべきだったかな。最後まで迷う。
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日本の戦争映画を選ぶ①

2015年08月12日 00時13分35秒 |  〃  (旧作日本映画)
 日本の戦争映画を選んでみたいと思う。それは「戦争映画のベスト」ではない。大体、そういうものがありうるのかどうかも判らない。普通なら、楽しい映画、好きな映画を見ればいいだけだが、「戦争映画」には「見ておくべき映画」とか「評価はできないが、見るべき映画」というものが存在する。特に、戦時中に作られた数多くの映画は、今の基準で見ると、内容的にも技法的にも批判の対象となることが多い。だけど、その中にこそ、日本の戦争映画、さらには日本人の特徴や戦争の不条理が見て取れるのである。番外で、まず戦時中の日本映画から。

 まず、日中戦争初期の段階では、田坂具隆監督、火野葦平原作の「土と兵隊」(1939、ベストテン2位)。田坂監督は1938年に「五人の斥候兵」でベストワンになった。そっちはまだしもドラマ性があるが、原作の有名性ゆえにこちらを。火野葦平は従軍中に「糞尿譚」で芥川賞を受賞し、従軍記の「土と兵隊」「麦と兵隊」が大ベストセラーとなった。戦後に書いた「花と龍」が何度も映画化されたことで記憶される。ペシャワール会の中村哲の伯父にあたる。「土と兵隊」は二度見ているが、はっきり言って苦痛の映画体験だ。日中戦争の本質に迫れとは要求しないが、せめてもう少し物語性が欲しい。ひたすら泥にまみれて従軍するだけの映画で、ある意味では確かにそれが日中戦争だった。テキスト批判の必要性はあるが、この苦痛映画は今も「問題作」ではないか。「敵」を撃破するのでなく、苦難を共有する重苦しさが日本の戦争映画なのである。
(「土と兵隊」)
 もう一本は山本嘉次郎監督「ハワイ・マレー沖海戦」(1942)を挙げたい。非常に有名な映画である。円谷英二による特撮は、今も鑑賞に耐える。だけど、その特撮ではなく、主に描かれる予科練生徒の訓練のようすに一見の価値があると思う。それがどこまで現実の描写かはともかく、戦時中の公認された戦争映画とはどういうものか。その最も「成功」した姿がここにある。成功し過ぎて、これを見て海軍を志願したとか言われ、戦後は「戦犯映画」的な扱いを受けた。そこも映画史的に重要である。

 他に劇映画だと、「上海陸戦隊」(熊谷久虎、1939)、「燃ゆる大空」(阿部豊、1940)、「加藤隼戦闘隊」(山本嘉次郎、1944)などが重要だと思うが、ここでは吉村公三郎監督「西住戦車長伝」に触れたい。今ではあまり取り上げられず、4年前のフィルムセンターの吉村監督特集でも上映されなかった。1940年のベストテン2位。1939年に「暖流」でデビューした吉村監督の第2作。戦死して「軍神」とされた戦車長の伝記だが、中国軍側から日本軍を描く場面があったと思う。40年近く前に一度見ただけなので、はっきりしないけど。劇映画だから、もちろん中国兵だって日本人俳優が演じているはずだが、貴重な映像だと思う。また記録映画としては、映画人としてただ一人、治安維持法で投獄された亀井文夫による「上海」「北京」及び上映禁止になった「戦ふ兵隊」がある。

 以下は敗戦後の映画を取り上げる。占領中はもちろん検閲があり、初期には「民主主義映画」がたくさん作られた。一方、原爆に関しては占領中は表立っては描けなかった。先に紹介した戦争映画ランキングを見ても、「有名な原作」の映画化が多い。戦後作られた優れた映画には、原作ものも多いが、小津や黒澤などはオリジナル脚本が多い。だが、銃後の生活なら創作ができるが、戦場が主舞台の映画だと、従軍経験のある作家が書いた原作ものを映画化することが多い。「ビルマの竪琴」「野火」「人間の条件」「黒い雨」「火垂るの墓」など、みな原作がまず有名だった。その意味で、映画だけを論じてもダメで、戦後の日本で書かれた戦争文学の検討と合わせて論じるべき問題だと思う。

 今回気付いたのだが、戦争映画の傑作がたくさん作られたのは、1980年代だった。同時代に生きていて、そう思っていた人は一人もいないだろう。それは量的には少なかったからである。50年代、60年代のように、続々と公開されるプログラム・ピクチャーの中に戦争ものがたくさんあった時代ではない。日本の映画界は角川やテレビ会社製作の大作ばかりが話題になっていた。だが、「戦場のメリークリスマス」、「東京裁判」、「瀬戸内少年野球団」、「ビルマの竪琴」(リメイク)、「海と毒薬」、「ゆきゆきて、神軍」、「TOMORROW/明日」、「火垂るの墓」、「さくら隊散る」、「黒い雨」など名作が続々とベストテン入りしている。これらは、監督たちがどうしても作っておきたかった「作家の映画」が多い。戦争を知るものも少なくなった時代である。「戦争40年」は中曽根内閣で、今の右傾化、軍国化、新自由主義のルーツである。時代への危機感が背景にあって、名作が続々と作られたのだろう。

 長くなっているので、今回は以下に個人的な「ベスト6」を書いて、次回に続けたい。順位は付けない。だけど、まあ何となく書く順番に評価しているようなもの。
★「野火」(1959、市川崑監督、大岡昇平原作、ベストテン2位)
 毎年のように新文芸坐で上映されていたが、今年はない。大映を引き継いだ角川が、若尾文子映画祭に続いて、年末に「市川崑映画祭」を企画中である。だから、多分そこまで見られない。現在、塚本晋也監督によるリメイクが上映中。ちなみに、市川崑は長く活躍したので、訃報でも「犬神家の一族」を代表作みたいに書いたものもあったが、あれは余技でしかないだろう。60年前後の、作る作品すべてが傑作だった時代の中でも、「炎上」(1958、三島由紀夫「金閣寺」)、「おとうと」(1960、幸田文)などと並ぶ傑作が「野火」で、市川崑の最高傑作と言っても過言ではない。
(「野火」)
★「軍旗はためく下に」(1972、深作欣二監督、結城昌司原作、ベストテン2位)
 深作欣二と言えば、1973年の「仁義なき戦い」だが、その前年に作られ、初のベストテン入り。深作監督はそれまでは売れないし評価もされなかった。真の問題作。
一枚のハガキ(2011、新藤兼人監督、ベストワン)
 新藤兼人最後の大傑作。
海軍特別年少兵(1972、今井正監督、ベストテン7位)
 綿密な取材をもとに、少年兵を描く。少年兵教育において、「体罰」が有効かどうかという、そのテーマ性が今もなお有効であるという悲しき事実を考えて、あえてここに挙げる。
肉弾(1968、岡本喜八監督、ベストテン2位)
 岡本喜八は「独立愚連隊」という日中戦争を西部劇に見立てたようなアクションシリーズで有名になり、のちに「日本のいちばん長い日」などを作ることになった。だけど、一番作りたかったのは、ATGで作った「肉弾」だろう。この切々とした抒情的な映画こそ、多くの人に記憶されて欲しい。岡本映画はよく上映企画があるので、そのうちどこかで上映されるだろう。
TOMORROW/明日(1988、黒木和雄監督、井上光春原作、ベストテン2位)
 岩波ホールで黒木監督の戦争レクイエム4部作上映中。「美しい夏キリシマ」「父と暮らせば」「紙屋悦子の青春」のどれも高い評価を受けたが、僕はこれが一番好き。「原爆映画」で選ぶなら、これだと思う。もう少し詳しく、他の映画とともに次回に触れたい。
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日本の戦争映画を考える②ー「ジャンル」としての戦争映画

2015年08月10日 22時34分27秒 |  〃  (旧作日本映画)
 そもそも「戦争映画」とは何だろう。日本では、軍や政府の上層部がズラッと出てくる一種の「歴史劇」、または戦争の悲劇を後世に伝えるマジメ映画という感じが強い。だけど、それは特殊日本的なことで、映画史的にみれば「アクション映画の一ジャンル」ということになる。アメリカで最初に大々的な映画産業が発展した時から、西部劇や恋愛ロマンス、またはチャップリンなどのコメディと並んで、戦争映画も盛んに作られた。当時は無声時代で、字幕は付けられるが英語の読めない移民には理解できない。映像と動きだけで十分楽しめるのは、アクションや体技によるコメディである。

 「戦争を楽しむ」というと今では不謹慎な気がするが、アメリカ史は「よい戦争」に大勝利した歴史である。いや、先住民やメキシコとの戦いで、カスター将軍やアラモ砦などの例外もあるが、そういう場合でも最終的には「良きアメリカ人」が勝つのである。戦争だから、人が死ぬことは避けられない。しかし、戦友は悲劇にあうが、ヒーローの主人公は常に生き残って敵を討つ。特に第二次世界大戦究極の「よい戦争」と認識され、ナチスを悪役にして、見ていて痛快な戦争映画が量産された。(対日戦映画もあるんだろうが、圧倒的にナチスが多い。まあ日本軍が類型的な悪役になってる通俗娯楽映画はあまり日本公開されてないんだろう。)僕がテレビを見始めたころに、「コンバット」という傑作ドラマがあった。また「史上最大の作戦」とか「大脱走」もテレビで見て興奮したものである。

 「よい戦争」にアメリカ人が疑いを持ち始めるのは、ベトナム戦争が激化し反戦運動が国内でも高まるころからだ。僕にとっての戦争映画は、実は「地獄の黙示録」や「プラトーン」、あるいは朝鮮戦争を舞台にした「M★A★S★H」、第一次世界大戦を舞台にした「ジョニーは戦場に行った」などをまず思い出す。当時は夏になると、東宝や東映では戦記映画のようなものを公開していた。ほとんど僕は見ていない。川本三郎も戦争映画は見ないと言っていたが、日本の場合、負けていくのである。判っているのである。軍部は本土決戦などと呼号していたが、早く講和すべきだった。バカな上層部がウロウロし、空襲、沖縄戦、原爆に至る。見ていて可哀想でならないし、軍に対しては怒りが沸騰する。ウッディ・アレンの「カイロの紫のバラ」のように、画面の中に入れるんだったら、入っていって歴史を改編したくなる。(山田洋次「母べえ」で、檀れいが故郷の広島に帰るシーンなんかでも、ダメだ!広島に帰っちゃダメだと画面に叫びたくなる。)
(「地獄の黙示録」)
 もちろん、もっと早く講和していればよかったという問題ではない。そもそも中国ともアメリカとも戦争すべきではなかった。それなのに、戦争が始まった。自然現象ではない。日本が始めたのである。それなのに、なんだか知らないうちに始まって、知らないうちに終わって、何人も死んで、悲しいねというような映画が多い。おかしいだろ、どうして怒らない。どうして、起ち上がって戦争はいやだと叫ばないのか。そういう歴史的事実はなかったのだから、言ってもムダではある。戦争を起こすファシズム勢力を国民の抵抗運動が打倒した、例えばイタリアのような歴史がない。ドイツにも、白バラの若者たちがいて、ヒトラー暗殺計画も何度もあった。だけど、日本にはなかった。だから、日本の戦争映画には、抵抗運動の民族的英雄を描く映画がない

 僕は大手の映画会社がたくさん作った、連合艦隊とか特攻とかの映画が好きではない。見なくても結末が判る、忠臣蔵や寅さん映画と同じだ。日本の古い映画も観るようになると、独立プロが作った反戦、反軍、あるいは反差別や冤罪救援などの優れた映画をいっぱいあることを知った。それはぜひ伝えていきたいと思うけど、マジメ社会派映画の暗さがあることは否定できない。では、日本で戦争映画で楽しく反戦の思いを伝えることはできるか? どんな悲惨な状況であっても、そこには日常があり、小さな喜びがあるものだが、日本の「玉砕」した戦場、文字通り「必死」の特攻攻撃、あるいは沖縄戦や原爆投下などを思い起こすと、どう描こうが最後は悲惨になることを避けられない。だけど、優れた映画(に限らないが)は、悲惨な出来事、悲しみに満ちたストーリイを描きながらも、ユーモアに満ちた語り口で見るものを飽きさせないものだ。

 日本の大手会社で作られた戦争映画は、「任侠映画」と構造が似ている。政界や軍閥とヤクザ組織が構造的に似ているというのは、考えてみれば当然だ。上層部が出てくる映画、政府内の対立を描く場合は、ヤクザ組織どうしの争いを描く映画と似ている。特攻ものは、こう言ってしまうと身もふたもないかもしれないが、「鉄砲玉」映画に似ている。志願していることになっているが、「事実上の強制」に近いことも似ている。そもそも、日本が戦争に乗り出した理由も、世界の「反日包囲網」(当時、ABCD対日包囲陣と呼ばれた)にも関わらず、「隠忍自重」を重ねていたものが、ついに堪忍袋の緒が切れて、敵に殴り込みをかけるという任侠映画にそっくりとなっている。今でもそういうことを言う人がいるのは、「任侠映画的世界観」といったものが、日本の民衆感情にいかに深く根ざしているかを示しているのだろう。そういう戦争映画は、僕は見ていても面白く思えないのである。
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日本の戦争映画を考える①

2015年08月09日 23時00分19秒 |  〃  (旧作日本映画)
 戦後70年。映画はどのように戦争を描いて来ただろうか。上映企画もある今夏、ガイドも兼ねて映画で戦争を考えてみたい。きっかけは、朝日新聞土曜版(be青)7月25日付に掲載された「beランキング」である。読者のネット投票で「もう一度見たい 日本の戦争映画」という記事が載っている。
火垂るの墓(1988、高畑勲)
ビルマの竪琴(1956、市川崑)
私は貝になりたい(1959、橋下忍)
戦場のメリークリスマス(1983、大島渚)
ひめゆりの塔(1953、今井正)
人間の条件全6部(1959~1961、小林正樹)
永遠のゼロ(2013、山崎貴)
日本のいちばん長い日(1967、岡本喜八)
黒い雨(1989、今村昌平)
二百三高地(1980、舛田利雄)

 10位まで書くと以上のようになるが、これを見て、けっこうショックというか、僕が選ぶなら大分違うと思ったのである。(大体、「永遠のゼロ」と「二百三高地」は見ていない。)
 11位以下を名前だけ挙げておくと、
男たちの大和/YAMATO戦争と人間全3部原爆の子連合艦隊司令長官山本五十六東京裁判兵隊やくざ連合艦隊日本戦没学生の手記 きけ、わだつみの声戦艦大和真空地帯…さらに、南の島に雪が降る、陸軍中野学校、海と毒薬…と続くとある。
(「火垂るの墓」)
 さて、自分ならどう選ぶだろうか。と考えてみて、その前に「戦争映画とは何だろうか」という問題があることに思い至った。例えば、上記のリストに「黒い雨」や「原爆の子」が選ばれているが、それは「戦争映画」なんだろうか。もちろん、この2つの映画は広島の原爆に関する映画である。だけど、戦時中の話ではなく、戦後の日々を描いている。「原爆病」と昔は言われた放射線障害の影響は、時間が経って発現することが多いから、その意味では「戦後の日々も戦争中」だとも言える。そうリクツを考えるまでもなく、多くの日本人はこの映画を見れば、二度と戦争はしてはならない、原水爆は世界からなくさなくてはいけないと考えるだろう。だから、これは戦争映画であると多くの人が認めると思う。

 一方、長崎に原爆が落とされる前日を描いた黒木和雄監督の「Tomorrow / 明日」はどうだろうか。翌日に何が起こるかをわれわれは判っていて見るのだから、この映画の哀切は極まりない。本来、9日の第一目標は長崎ではなく、小倉だった。曇っていたために、第二目標の長崎に向ったのである。だが、そのような偶然が翌日に起こるかどうかに関わらず、現代戦は総力戦なんだから、戦艦武蔵を作った長崎造船所のある8月8日の長崎は戦争中である。当時の言葉で言えば、「銃後」を描くことは「戦争映画」に他ならないだろう。井上陽水のヒット曲で有名な「少年時代」(篠田正浩監督)も、戦争中の子どもたちの疎開を扱っているから「戦争映画」だと僕は考える。

 このランキングに「二十四の瞳」(木下恵介)が入っていない。事前に編集部が60本のリストを作ったとあるから、多分そのリスト段階でなかったのではないか。投票傾向を見れば、リストにあれば入っていたように思うのである。「二十四の瞳」の映画、原作は、多くの人に戦後を代表する反戦映画、反戦小説と思われている。だけど、その物語は戦争のずっと前から始まり、戦争の日々は最後に出てくるのみである。もっとも物語の構造は、「戦争という悲劇」の詠嘆に向って計算されていて、やはり僕には「戦争映画の一種」と言っていいのではないかと思う。

 では、小津安二郎「東京物語」や成瀬巳喜男「浮雲」はどうだろうか。この二つの名作は、戦争が日本人にどれほど深い傷を与え、大きな社会変動をもたらしたのかを印象的に語っている。戦争という出来事がなければ、これらの映画は成り立たない。だが、そうは言っても「東京物語」や「浮雲」を戦争映画というのは言い過ぎだろう。常識的に考えて、「戦後」を描くことが物語の眼目であって、戦争は背景装置であると理解するべきだ。戦後20年ぐらいまでは、ほぼすべての映画に何らかの形で「戦争の影」が濃厚に落ちている。だけど、それらは「戦後映画」でこそあれ、「戦争映画」というのは無理がある。黒澤明のいくつもの映画も同様である。
(「ビルマの竪琴」)
 前記のランキングには、「二百三高地」が挙げられているが、日露戦争の映画もかなり多い。世界では、第一次世界大戦の映画もとても多い。日本では戦争の規模から言って、日清戦争や第一次世界大戦の映画はほとんどない。第二次世界大戦後にも、世界は朝鮮戦争、ベトナム戦争、ボスニア戦争、イラク戦争など、多くの映画に描かれた戦争があった。しかし、日本映画では第二次世界大戦以後をテーマとする映画はない。そういう戦争がないのだから当たり前である。

 言うまでもないかもしれないが、「エイリアン」や「アベンジャーズ」は「戦争映画」と言わないだろう。「ゴジラ」も同じ。相手が宇宙人や怪獣の場合、やってる中身は戦争と同じような感じだけど、戦争映画と言わない。「のぼうの城」も同じである。織田信長や徳川家康の映画はものすごくたくさん作られている。それも「戦争」を描いている。あるいは、ナポレオン最後の戦いを描く「ワーテルロー」という映画もある。もっと言えば、ローマ帝国時代の「スパルタカス」や「グラディエーター」なども、戦争映画と思っては見ない。たぶん、こういうことではないかと思うのだが、「戦争映画」も映画のジャンルの一つであるから、「時代劇」「SF映画」「怪獣映画」「歴史映画」などと他のジャンルに分類可能な映画は、そっちの方で認識するのである。
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バフマン・ゴバディ監督「サイの季節」

2015年08月08日 23時56分55秒 |  〃  (新作外国映画)
 イランのクルド系映画監督、バフマン・ゴバディ(1969~)の新作、「サイの季節」が公開中。東京ではシネマート新宿だけ、全国では今後の上映となる。バフマン・ゴバディ監督は、「酔っぱらった馬の時間」「わが故郷の歌」「亀も空を飛ぶ」といった、イランでも辺境地帯にあるクルド系住民を描く作品が日本でも絶賛された。2009年の「ペルシャ猫を誰も知らない」は一転して趣を変え、認められていないロック音楽の活動を続けるテヘランの若者たちをドキュメンタリー風に描いた。政府の許可を受けず「ゲリラ撮影」を敢行、以後イラン国内で映画を作れなくなった。事実上の亡命を余儀なくされ、この映画もトルコのイスタンブールで撮影した。実話をもとにしたイラン革命の悲劇である。
 
 冒頭で、老いた詩人サヘルが牢獄から釈放される。彼は妻のミナの消息を求めて、国外に出たと知り、イスタンブールまでやってくる。イランのイスラム革命(1979)の前、若き詩人のサヘルは美しい妻ミナと幸せに暮らしていた。一方、ミナ一家の運転手のアクバルも彼女に恋していた。革命で運命は反転、アクバルは革命防衛隊で出世するが、サヘルは政治的な詩を書いたとして逮捕され、懲役30年を宣告される。ミナも逮捕されるが、夫を信じ続ける。アクバルは執拗に言い寄り、夫に会わせてと頼むミナをサヘルに会わせる。この二人だけのシーンにアクバルが絡んでくるところ、ここはショッキングなシーンである。獄中で双子を出産したミナは釈放されたが、夫は獄死したとニセの情報を渡される。

 この映画は前半は獄中の暗い場面が多いが、舞台がイスタンブールに移っても驚くほど画面が暗い。暗いというか、美的な陰翳に満ちている。異様に人工的な触感が画面全体に漂うほど、一種の内面的な暗さに満ちている。当然、デジタルで撮影して、後で画像処理で作られたんだろうけど、監督は亡命者の心理を表わす映像と言っているようだ。イスタンブールでミナの家を見つけても、今度はサヘルの方が訪ねていけない。車から見つめるだけ。そこに二人の娘が車で送ってくれと頼んでくる。彼女たちはいったい誰なのか。空からは亀が振り、サヘルの車はサイのいる荒野を走る。幻想的なシーンが随所にあり、今までのようなリアリズムではない。監督の心象風景を映し出すシーンが印象的である。詩人を主人公にしているように、映画そのものも一種の詩と言える。そのため映画のストーリイが多少判りづらい気もするが、筋そのものはシンプルな悲劇と理解すればいいんだろう。

 クルド系の詩人、サデック・キャマンガールという人の実体験が元になっているというが、恐ろしい話。イランの政治犯に捧げられている。一時期は世界中で注目されたイラン映画だが、国内状況の厳しさが増すとともに、ほとんどの監督が国内で撮れなくなってきた。しかし、国外であれ、バフマン・ゴバディの新作が見られるのはうれしい。イランと政治的に対立するトルコだから、ゴバディも映画を作れるのだろうか。それにしても、ここまで陰鬱なイスタンブールを見たことがない。どんな町にも、雨の日はあるんだろうが。政治的、宗教的に問題が起こり続ける地域だけど、それだからこそイランの映画は見逃せない。イランだけでなく、アラブ諸国やトルコも含めて、見逃さないようにしたい。

 今日はフィルムセンターで、「恋する女たち」を見てから新宿へ。1986年の大森一樹監督、斉藤由貴主演の青春映画は、長年の見逃し映画。大森監督作品では、「ヒポクラテスたち」とともにベストテン入りしたたった2本の映画である。金沢が舞台で、ものすごく楽しく出来ているのに驚いた。80年代半ばは、一番私生活が忙しく、見逃しが多い時代である。友人役の高井麻巳子を知らないと検索したら、秋元康夫人になっていた。相楽ハル子(晴子)も良かった。小林聡美が高校生役で、なんだか感慨があるが、いつもすごい。斉藤由貴に恋する菅原薫というのが、親に先立って早逝した菅原文太の息子、とキャスト的に貴重である。だけど、柳葉敏郎が野球部の高校生というのは、調べると25歳だったかと思うが、さすがに無理があった。

 シネマート新宿の2階下の角川シネマ新宿では、若尾文子映画祭をやっている。見てる映画も多いし、時間がなかなか合わず、5回券を買ってあるのに、まだ一枚残している。本当は「閉店時間」という映画を見に行ったのである。有吉佐和子原作、井上梅次監督で、「デパートガール」を描くという。きっと社会的、風俗的に興味深い映像がいっぱいではないかと思ったんだけど、満席だった。この映画祭、後半作品は小スクリーン上映の予定が、好評に付き大スクリーン上映に変わっている。しかし、今日だけは小スクリーンというので心配だった。その場合は、上に回って「サイの季節」にしようと初めから決めていた。若尾文子映画祭では、今週に「舞妓物語」を見て面白かった。東京で音大生をしている若尾文子が、母の病気で京都に帰る。電車で腹痛を起こすが、隣席の医学生、根上淳に介抱される。その母の入院している病院は、もちろん根上淳の父のところで、二人は再会する。母は重病で、若尾文子は退学して、母を継いで舞妓になる。まあ、後はお決まりの展開なんだけど、学生の制服と舞妓の衣装の対照が楽しい。舞妓さんになってしまった後で、根上とデートする時に制服に戻ると見てる方もドキドキする。若い時には、本当にチャーミング。京都の風景も楽しい、1954年、安田公義監督作品。
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