尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

日本の都道府県、人口の多い県少ない県ランキング

2024年05月23日 21時46分10秒 |  〃 (歴史・地理)
 2023年10月1日現在の人口推計が、4月12日に総務省から発表された。ちょっと前のニュースになるが、そこから見られる日本の姿を考えておきたい。まず、日本の総人口は(外国人も含めて)、1億2435万2千人ほどとなっている。日本人だけなら、1億2119万3千人である。これは前年より83万7千人減少で、過去最大。(外国人が24万3千人増なので、総人口の減少幅は2021年に次ぐ過去2番目となる。)まあ日本人の総人口が今後どんどん減っていくのは、大分前から常識だろう。2008年がピークで、2050年頃に1億人を割る見込みになっている。今さらどう変更しようもない既定事実である。
(日本の人口推移)
 今回はそういう大状況を置いといて、各都道府県の人口ランキングを調べてみる。それを見て、何かを考えたいということはない。まあクイズ番組対策みたいなもので、箸休め。人は大体「トップ」は知ってるものだが、「2番目は何だか答えよ」と言われると困ることがある。「日本で2番目に高い山」「日本で二番目に長い川」「日本で二番目に大きな湖」などなど。答えは書かないから、判らない人は自分で調べてください。人口の場合はどうだろうか。

★まず、人口の多い都道府県上位5つ
東京都 1408万 ②神奈川県 923万 ③大阪府 876万 ④愛知県 747万 ⑤埼玉県 733万
 これは比較的当てやすいランキングだろう。常識で推測すれば、おおよそこの5つが上がってくる。ただ「神奈川県」と「大阪府」の順番で迷う人がいるかも知れない。それぞれの県庁(府庁)所在地である横浜市(377万)と大阪市の人口(277万人)は、ずいぶん前の1978年に逆転した。(だから「市」としては横浜が最大である。)一方、神奈川県が大阪府の人口を抜いたのは、2005年ということだ。21世紀になるまで、府県レベルの人口では大阪府の方が多かった。大阪府は面積が小さいこともあって(香川県についで下から二番目)、都市圏としてはどうしても弱い面がある。

★続いて、人口が6~10位の都道府県
千葉県 625万 ⑦兵庫県 537万 ⑧福岡県 510万 ⑨北海道 509万 ⑩静岡県 355万
 これはなかなか難しい。京都府(253万)を入れる人が多いのではないか。京都府は13位で、11位は茨城県(282万)、12位は広島県(273万)である。14位が宮城県(226万)、15位が新潟県(212万)、16位が長野県(200万)。ここまでが人口200万以上となる。順番はかなり難しく、クイズでも出ないだろう。面積がある程度ないと人口も少ないが、同時に一つの県に複数の政令指定都市があるかどうかが鍵になる。福岡県は福岡と北九州、静岡県は静岡と浜松があり、産業の中心となっている。
(都道府県人口ランキング=2009年)
人口の少ない県5つ
鳥取県 54万 ㊻島根県 65万 ㊺高知県 66万 ㊹徳島県 69万 ㊸福井県 74万
 こっちの方が難しいかもしれない。一番少なそうなのが鳥取県というのは知ってる人も多いかも知れない。しかし、その後の順位は難しい。実際に差はそれほどない。ただ、鳥取・島根高知・徳島が参議院選挙で「合区」されているのを知っていれば推測は可能だ。面積的にも小さな県が多いが、高知は面積18位、島根は19位で半分より上の方。山間地が多いのと、そもそも四国地方山陰地方北陸地方は人口が少ない地帯なのである。

人口が下から6~10位の県
佐賀県 79.5万 ㊶山梨県 79.6万 ㊵和歌山県 89万 ㊴秋田県 91万 ㊳香川県 92万
 人口が100万人以下の県は以上の10である。その次が富山県(100.7万)、山形県(102万)、宮崎県(104万)、大分県(109万)、石川県(111万)という順番。人口200万以上の16都道府県、人口100万未満の10県ということは、残りの21県が100万人台ということになる。21世紀になって、人口が200万を割ったのが、栃木、群馬、岐阜、三重など。今回の調査結果では、東京都以外のすべての県で人口が減少した。また75歳以上の人口が2000万人を越えた。このような「過疎化」や「高齢化」「少子化」は散々言われていることで、今回は特にあれこれ考えないことにする。
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『北条五代』(火坂雅史、伊東潤)を読むー北条氏の関東戦国史

2024年04月14日 22時35分29秒 |  〃 (歴史・地理)
 相変わらず新書を読んでるけど、その合間に歴史小説を読んだ。火坂雅志伊東潤氏の『北条五代』上下(朝日文庫)で、2020年に出た本が2023年10月に文庫化された。これは戦国時代の関東に覇を唱えた北条氏(後北条氏)の五代に及ぶ全歴史を書いた大河歴史小説である。何で共作になってるかというと、火坂雅志氏(1956~2015)が書き進めていたが、途中で惜しくも亡くなってしまった。そこで遺族の同意を得て伊東潤氏が書き継いだのである。火坂氏の担当分は、2代目の北条氏綱の嫡男、北条氏康の若い時期で終わっている。その後の関東制覇から豊臣秀吉に滅ぼされるまでを伊東氏が担当した。

 両者の共作は全く違和感がない。ただ火坂氏には伝奇的な描写もある一方、伊東氏部分は戦国大名同士の厳しいパワー・ポリティックスの印象が強い。火坂雅志氏は2009年の大河ドラマの原作となった『天地人』で知られる。上杉景勝の参謀格だった直江兼続を描く小説である。北条氏は上杉氏と何度も戦って、また時に同盟した。景勝は北条氏から謙信の養子となった景虎を破って家督を継いだ。今度は逆に北条氏を描いたわけである。(その時代の執筆は伊東氏だが。)上巻はほぼ勃興期に当たり、親会社(今川氏)から独立した子会社がどんどん発展していく時代を描いて、あっという間に読めてしまう。
(火坂雅志氏)
 関東戦国史に関しては、前に何度か書いたが、北条氏初期時代は『伊勢宗瑞を知ってるか』(2018.4.18)に書いた。伊勢宗瑞は初代の「北条早雲」である。北条を名乗ったのは2代目氏綱からだから、北条早雲という表現はおかしいが普通「北条早雲」で通している。大昔は独力で大名に成り上がったと思われていたが、今は室町幕府の被官だった伊勢氏出身と判明した。姉が今川家当主に嫁いでいて、御家騒動を収めるために伊勢盛時(早雲庵宗瑞)が駿河国に下向した。そのまま今川に仕えながら、半独立的立場で伊豆の堀越公方を滅ぼして戦国大名に名乗りを上げた。続いて隣国相模の小田原を乗っ取り本拠地とした。
(伊勢宗瑞=北条早雲)
 戦国時代を描いた歴史小説は無数にあるが、中央の「天下」をめぐる争いを描くことが多い。または信玄、謙信である。他の大名を描く小説は数は少ない。だから皆関東の戦国時代をよく知らない。関東の歴史ファンは本能寺の変の黒幕はいたかなどは熱く語れても、河越合戦とか国府台合戦のような関東の重大な戦いを知らないことが多い。下巻になると、氏康を中心に関東を席巻していく様子が描かれる。離合集散が複雑なので、どうしても判りにくくなる。それを伊東氏は人間関係を整理して判りやすく書いている。ただ北条氏の本だから、どうしても「北条中心史観」になるのはやむを得ない。

 北条氏から見れば、室町幕府の旧体制、鎌倉公方(分裂して古河公方と堀越公方)と関東管領上杉氏の対立は、旧時代の支配者間の争いである。その旧勢力間の無益な争いで関東の領民は苦労させられている。そこを北条氏が関東を支配し「善政」を布くことにより平和と繁栄がもたらされる。そう思って関東統一に励んでいると書かれているが、昔からの在地領主からすれば北条氏も侵略者でしかないだろう。上野(群馬県)の領主は山内上杉氏が没落した後に北条、武田、上杉が入り乱れ、迷惑でしかなかっただろう。この本だけ読んでると北条中心に見てしまうが、真田氏や結城氏などから見ればまた違って見えてくるはずだ。
(伊東潤氏)
 さて東国が武田、上杉、北条などが複雑に合従連衡を繰り返す間に、中央では織田信長の勢力が強くなり、ついには武田氏が滅亡するに至る。北条は織田信長、続く豊臣秀吉にどのように対応すれば良かったのか。もう結果を知っている我々からすれば、読む意味もない感じがするかもしれない。だが当事者は時代の行く末を知らない。それは現代を生きる我々が米中関係がどうなるかなど判らないままあれこれ考えるのと同じだ。その時代に巡り合ってしまった四代氏政五代氏直の悩みは深い。彼らの苦悩は小説を越えて、「リーダーはいかにあるべきか」を現代人にも問う。上に立つ立場の人は是非読んで欲しい小説だ。
(北条氏康)
 九州には島津、大友、龍造寺などの戦国争乱があったが、僕はあまり知らない。四国や東北も興味深いけどあまり知らない。そういう地域の戦国を研究する人もいて、その大名を描く小説もあるだろう。だが自分は関東地方に住んでいて、江戸時代には日本全体の中心地になるというのに、ちょっと前の時代のことを知らないのはおかしい。そう思って関東の戦国に関する本を読んでるわけ。今後、後北条氏を簡単に知るには最適の本になるだろう。ただ最近注目されている北条氏の在地支配の仕組みなどは出て来ない。その意味ではやはり研究書も読む必要があるんだろう。
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笠原十九司『憲法九条論争』を読むー九条の幣原提唱説を「証明」

2024年04月12日 22時56分53秒 |  〃 (歴史・地理)
 積んであった新書本を片付けている。「新書」は専門外の最新知識を学べて重宝するけど、つい読み忘れて長年放ってしまった「古新書」がいっぱいある。その幾つかの感想を書きたい。最初に書く笠原十九司憲法九条論争』(平凡社新書、2023)は、去年の4月に出た本だからまだ「新」の範囲かなと思う。笠原氏は大著『日中戦争全史』(2017年12月に2回にわたって感想を書いた)など、ずいぶん読んできたから買ってみた。1年読まなかったのは、450頁という新書と思えない厚さに理由がある。読み出したら案外スラスラ読める本だったが、史料がいっぱいあって現代史に詳しくない人には取っつきにくいかもしれない。

 「憲法九条論争」と言えば、普通は「護憲か改憲か」の論争である。あるいは「安保法制」のような「集団的自衛権の一部解禁」が解釈上認められるかどうかという論争もある。しかし、この本で「証明」しようとするのは、そういう「九条をどう考えるか」じゃない。そもそも条文を発案したのは誰かという問題である。そこに特化した大著なのである。簡単に言えば、「幣原喜重郎(首相)説」と「マッカーサー(連合国軍最高司令官)説」のどっちが正しいのかである。影響を与えたとか、容認したというレベルでは他にもあり得るが、重大問題だから発案はトップに限られるだろう。
(笠原十九司氏)
 副題が「幣原喜重郎発案の証明」とあるように、本書は最近ちょっと影が薄かった「幣原説」を全面展開している。一応解説しておくと、幣原喜重郎(しではら・きじゅうろう、1872~1951)は1945年10月に東久邇宮王内閣が崩壊した後、1946年5月まで半年ちょっと総理大臣を務めた。大日本帝国憲法下で最後から二人目の首相である。外交官出身で、1924年~27年、29年~31年に外務大臣を務めたことで知られる。その時は英米と協調的な外交を展開し、軍部・右翼からは「軟弱外交」と攻撃され、戦時中は事実上の引退に追い込まれていた。幣原は高齢(73歳)のため固辞したが、昭和天皇から直接説得され引き受けることとなった。
(幣原喜重郎)
 当時の情勢を細かく説明していると終わらないので省略する。今までは「永遠の謎」などとも言われていた。これまでの論争史は、この本の後半で数多くの研究書を批判しているので大体理解できる。もう80年近い昔の話になって、今になるとどっちでもいいじゃないかと思う人もいるだろう。だが戦後史では「マッカーサーの押しつけだから改正するべきだ」という右派の主張をめぐって、「平和憲法」は「押しつけ」だったのかが大きな政治問題になってきた経過がある。
(マッカーサー)
 マッカーサー(1880~1964)の回想記では、幣原首相が言い出したことになっている。それを信じれば論争は即終了だが、そうもいかない事情が多い。そもそも回想記は死の直前の1964年にアメリカで刊行されたもので、80歳を越えた老人の「回想」である。回想記は長年経ってからの記憶で書かれるため、直接史料が示されない場合は厳密な史料批判が欠かせない。マッカーサーは大言壮語で知られた人物だし、日本占領は成功したと評価されたい動機がある。自分が日本に押しつけたと本人が言うわけもないから、史料価値は低くなる。当時の直接史料がないので信憑性に疑問が付くわけだ。

 幣原喜重郎は首相退任後、1949年2月から51年3月10日に死亡するまで、衆議院議長を務めていた。52年4月まで占領が続いていたので、役目上からも憲法制定の「秘話」は封印したまま亡くなった。直接史料はだから日本側にもないのである。しかし、笠原氏は「傍証」を積み重ねることで真相に迫れるとして、今まで史料価値が低いとされてきた(らしい)「平野文書」の価値を高く評価している。一方で史料価値が高く評価されてきた「芦田均日記」には問題があるとしている。

 細かな論点になるけれど、芦田日記には幣原本人も九条に疑問を持っていたような記述がある。しかし、「日記」は同時代の記録という優れた史料価値があるものの、要するに記録者の主観を書くものだから史料批判が必要だとする。幣原がマッカーサーの言葉を紹介した言辞を、芦田本人が九条条文に疑問を持っていたために、幣原本人が反対意見を述べたように聞いてしまったというのである。これは一般論としてはあり得る話で、今まで芦田は衆議院で「芦田修正」(今は説明を省略)をした人物だから日記の記述も信じた人が多いが、再検討する必要があると思った。

 ところで本書で高い評価を与えられた「平野文書」とは何か。それは衆議院議員で幣原の側近だった平野三郎(1912~1994)が、衆議院落選中の1963年に国会の憲法調査会に提出した報告書「幣原先生から聴取した戦争放棄条項等の生まれた事情について」のことである。平野は1949年から1960年まで衆議院議員に5回当選した。一期生の時に幣原議長の「秘書」になったと言うが、議員が正式の秘書になるわけもなく、要するに幣原に私淑して秘書のように仕事をしていたということらしい。直接は事情を公に語らなかった幣原も、自宅が近く折々に話を聞きに行った平野には心許して真相を語ったというのである。
(平野文書)
 平野三郎という人物は、片山内閣の農相を務めた(罷免された)平野力三の甥だという。平野力三は戦前の農民運動家として知られるが、無産運動の中の最右派というべき人だった。戦前戦後で衆院議員を8期務め、近代史ではある程度知名度がある人物である。甥の平野三郎は1966年に岐阜県知事選に立候補して現職を破って当選、3期務めた。ただ笠原著では部下の汚職の責任を取って辞任したとあるが、実は本人が1976年に収賄罪で逮捕、起訴され、裁判でも有罪が確定している。1976年には福島県の木村守江知事も収賄で起訴され、当時は両事件が大問題になった。(平野は議会で不信任決議が可決され、これは公選知事初だった。)
(平野知事当選の新聞記事)
 「平野文書」の史料価値には直接関わらないけど、平野三郎という人物の人生最大の汚点に触れないのは疑問だ。この本で読む限り、「平野文書」には一定の史料価値を認めても良い感じだが、自分には最終的な判断は付かない。それより、「昭和天皇実録」の公刊によって、問題の時期に昭和天皇と幣原首相が長時間会っていることが確認された。帝国憲法下だから当然のことだが、時間的には不自然なぐらい長い。幣原がマッカーサーと昭和天皇の間を行き来しながら、「天皇制を存続させるためには如何なる方策を取るべきか」を模索していたことが推測される。その「解」が「憲法九条」であると理解すべきではないかと思う。

 問題が問題だけに、端折りつつも長くなってしまった。この本の核心は「幣原首相は本心を閣僚たちにも隠しながら芝居をしていた」という理解にある。芝居に気付かなかった吉田茂や芦田均の史料を探っても真相に達することは出来ないという。そう言われてしまっては身もふたもない気がする。要するに「憲法九条」を占領軍に「押しつけて貰う」ことなしに、象徴天皇制という形で天皇を存置することは難しいと幣原は考えた。幣原には戦前の「不戦条約」的な理想主義的平和主義があったのも間違いないだろうが、結局は「象徴天皇制」を「押しつけて貰う」のが幣原の目論みではないか。

 ただ「傍証」を積み重ねて事実認定するのは最高裁も認めた手法だと論じるのは疑問がある。直接証拠がないのに有罪認定され、冤罪を主張して再審請求を行う事件も数多い。それは別にしても、「傍証」しかなければ「謎」でも良いのではないか。
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『辻政信の真実』(前田啓介著)、「神か悪魔か」伝説の参謀の生涯

2024年03月18日 22時02分18秒 |  〃 (歴史・地理)
 前回書いた『おかしゅうて、やがてかなしき』では、著者の前田啓介氏について触れる余裕がなかった。名前を知らなかったが、よく調べて書いてる。高齢の人かなと思ったら、1981年生まれの読売新聞記者だった。滋賀県出身、上智大大学院卒業後、2008年に入社して、長野支局、松本支局、社会部、文化部、金沢支局を経て、文化部で歴史、論壇を担当と出ている。岡本喜八の本を書く前に、2冊の本を書いていて、最初の本が『辻政信の真実』(小学館新書)だった。(次が講談社現代新書の『昭和の参謀』。)そう言えば、そんな本が出てたなと思い出した。持ってなかったが、辻政信の本を読もうと買ってみた。

 400頁を越える新書にしては厚い本だが、非常に読みやすい。それも当然、これは金沢支局勤務中に地元出身の有名人を調べて、地方版に連載したものなのである。「辻政信」と言われても、今では誰か判らない人が多いだろう。近現代史に詳しい人なら、この人の名を悪魔のように(または神のように)、良くも悪くも強烈な存在感を発揮した人物として知っていると思う。副題が「失踪60年ー伝説の作戦参謀の謎を追う」とある。この本が出たのは2021年で、それは参議院議員だった辻政信が東南アジア視察に出掛けたまま「謎の失踪」をしてから、ちょうど60年目の年だった。
(前田啓介氏)
 辻の前半生はドラマチックだが、この最期もすごい。参議員議員が海外で失踪したまま未だに真相が不明なんだから、好き嫌いはともかく強烈にドラマチックである。僕も陸軍参謀時代のことはおおよそ知っていたが、生い立ちなどは知らなかったので驚くことが多かった。辻政信は1902年(明治35年)に、石川県の東谷奥村(現・加賀市山中温泉)という山奥の小村で、4人兄弟の3男に生まれた。家は貧しく、他の兄弟は皆小学校のみだが、勉強の出来た政信だけが高等小学校に進んだ。そこで終わるのが貧しい「田舎の秀才」の人生だが、彼はその後、陸軍の名古屋幼年学校に合格した。
(辻政信)
 僕は知らなかったのだが、高小卒にも幼年学校の受験資格があったという。もちろんほとんどは中学に進んでから受けるのである。補欠合格と言われることもあるが、それは間違いだと前田氏は証明した。官報に合格者が成績順に掲載されていて、合格50名中の24位だったという。そこから頑張って首席で卒業した。幼年学校は無料ではない。家族は政信に賭けて、支援を惜しまなかったのである。そして、続いて進んだ陸軍士官学校でも首席卒業である。高小卒として異例中の異例だろう。支えた家族もすごいが、政信も勉学にすべてを注ぎ「堅物」と言われてもひるまなかった。その様子はちょっと「異常」かもしれない。

 陸軍で「活躍」した時のことは詳しくは書かない。本書では知らない人にも判るように書かれている。昭和史を彩る様々な戦争の裏に、かならず辻がいた。第一次上海事変、陸軍士官学校事件、盧溝橋事件、ノモンハン事件、マレー作戦、フィリピン戦線、ガダルカナル、ビルマ戦線…。戦場にあっては、勇猛かつ果断、自ら先頭に立ち最前線に赴く。「不死身」と言われたのも無理はない。

 だがノモンハン事件(満州・モンゴルの国境紛争で、日本軍とソ連軍が激突した)を拡大させ、多くの犠牲者を出したのは辻の無謀な作戦だと言われる。英領マレー半島を一気に南下しシンガポールを占領したマレー作戦は稀に見る大勝利と言われるが、占領後のシンガポールで華僑の大虐殺を辻が命じたと言われる。誉める人は神のごとく、貶す人は悪魔のごとく辻政信を語る。辻ほど毀誉褒貶の激しい人物は歴史上にも珍しい。この本を読んで初めて辻政信を知る人は、彼の人生をどう感じるだろう。
(『潜行三千里』)
 敗戦にともない、戦犯に問われると思った辻は「潜行」することにした。初めは僧に扮して脱出しようとしたが、その後中国の蒋介石政権を頼り、さらに帰国して各地を転々と隠れ住んだ。戦犯解除後に当時の様子を『潜行三千里』という本にまとめて大ベストセラーになった。最近復刊されて、新聞にも大きな広告が載っている。他に何冊も本を書き、全国を講演して回った。この本には兼六園での講演会に3万人が集まった写真が載っている。ホントに立錐の余地もなく多数の男性が集まっている。
(故郷に立つ銅像)
 そういう人気を背景にして、1952年衆院選に立候補してトップ当選した。当初は無所属だったが、その後(鳩山一郎系の)「日本民主党」に入党し、保守合同で自由民主党に所属して4回連続当選した。ところが当時の岸信介首相を厳しく批判し、そのため何と自民党を除名されてしまう。そこで衆議院議員を辞任して、1959年の参議院選挙の全国区に出馬して第3位で当選したのである。つまり同時代の日本人には人気があったのだ。そして1961年4月4日(家族は4が続く日は不吉だと止めたと言うが)、戦乱のラオス和平を探るとして東南アジアへ出掛けた。本書ではその後公開された外務省文書を初めて使ってラオス入国まで確認している。

 戦後の政界人生ではほとんど一匹狼だったようで、仲間もなく出世もしなかった。陸軍時代も問題を数多く起こしながら、危機になると使い勝手が良いので呼び戻される。上に立つものが「無責任」なのが日本の組織の特徴で、声が大きい者を排除出来ないのである。それに部下には慕われたようである。全力で取り組み、上官でありながら第一線に立つ。それが「組織人」としてどうなのかと言われても気にしなかった。その意味では真の大物とは言えず、上司のために「過激」なことを言う役目を果たしていた。

 この本の冒頭で半藤一利氏が辻を「絶対悪」と評したと出ている。自分も今までどこかそんな風に思っていた。ノモンハンで、シンガポールで「問題」を起こした辻を、その後もガダルカナルやビルマで重用するなど、日本軍の根本的欠陥を象徴するようなケースだと思う。この本を読んで、辻その人は魅力もあると思ったが、こういう人は困るなあと思った。「本気の人は怖い」のである。軍隊はタテマエ社会なので、全く遊ぶことなき「堅物」が堂々とタテマエを主張すると誰も議論で勝てない。

 こういう人は時々いると思う。以前「指導力不足教員」より、「指導力過剰教員」の方が困ると書いたことがある。辻はまさにそういうタイプの軍人で、マジメで体力抜群、頭脳明晰だから、普通の人はかなわない。神のごとくに崇めて信奉する。教員でもそのような「指導力過剰」な人が時々いて、付いていく生徒がたくさんいて「熱心な良い先生」と言う。だけど、その裏に少数の「付いていけない」生徒を生み出してしまう。辻政信という人もそういうタイプの人間だったんじゃないかなと思った。
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長篠合戦、決定版ー中公新書『長篠合戦』を読む

2024年02月04日 22時27分57秒 |  〃 (歴史・地理)
 しばらく小説を読んでいたので歴史系の本が読みたくなって、中公新書12月新刊の『長篠合戦』を読んだ。著者の金子拓氏は東大史料編纂所教授で、『大日本史料』の信長時代担当として「長篠合戦」の巻を2021年に公刊したばかりだという。『大日本史料』は明治時代から延々と続く史料公刊事業で、平安時代初期で途絶えたままの日本の史料をまとめるという壮大な企画である。ずいぶんたくさん出ているがまだまだ未刊が多い。一応幕末まで作られることになっているが、いつ完結するかは誰にも判らない。その担当だった金子氏は長篠合戦について、もっとも多くの史料、論文を読んできた人に違いない。

 「長篠合戦」(長篠の戦い)は必ず教科書に出て来るので、細かいことは忘れていても名前ぐらいは覚えてる人が多いだろう。1575年に三河国東部の長篠城をめぐって、織田・徳川軍武田勝頼軍が激突した戦いである。武田軍は敗北し、そこから織田信長の天下統一が加速することになったと言われることが多い。織田軍は鉄砲を大胆に使用し、鉄砲隊を三段に配置し連射することで武田氏の騎馬軍団を打ち破ったとされる。そういう話を自分も授業でしたことがある。教科書にもそのように出て来るし、日本史の概説書や歴史小説にもそう書いてあった。しかし、20世紀末以来、この通説に疑問が投げかけられてきた。

 僕もそっちが正しいような感じがして、21世紀になってからの授業では「最近は疑われている」と教えたと思う。ある時代までは「天才信長の軍事革命」とまで高評価されていた。しかし、そもそも当時の火縄銃は手込め式で、練達した兵でも同じ時間で弾を込めるのは難しいという。また耳元で銃を発射すると、次の「撃て」という命令が聞き取れないほどの騒音がするらしい。現実的に「三段撃ち」など不可能だというのである。そして信頼出来る(時間的に近い参加者などの)直接史料にあたると、銃の話は出て来るが「三段撃ち」などとは書かれていないらしい。「鉄砲隊を三組に分けた」程度のことらしいのである。
(長篠の場所)
 またそもそも武田氏に騎馬軍団などなかったという説も現れた。滅亡した武田氏の研究は遅れていて、勝ち残った徳川氏や部下の「伝説的勝利」が伝えられてきた。江戸時代に伝説化した戦いを、近代になって日本軍の公刊戦史がさらに誇張して定着させた。そして、それを吉川英治、山岡荘八、司馬遼太郎などの時代小説が見て来たような描写で人々に印象付けたのである。著者はその間の経過を映画やマンガにまで目配りして、細かく分析している。それは面白いんだけど、話が詳しくなりすぎるので省略する。(著者は「ラピュタ阿佐ヶ谷」まで昔の映画を見に行っている。)

 結局どうだったのかを細かく分析するのが本書で、最近の歴史系新書と同じく相当に面倒くさい。皆がそこまで詳しく知らなくても良いだろうが、世に数多い歴史ファンは頑張って欲しい。著者が言うには、要するに長篠合戦だけを見ていてもダメで、その前提としての両軍の戦略を押える必要があるという。信長にとって最大の課題は、その年の秋に予定していた「石山本願寺攻略」だった。そのために一兵も損耗したくなかったのである。勝頼軍が侵攻してきたのも、本願寺などと組んだ織田包囲網の一環として大坂攻撃の「後詰め」をするためだった。その時に徳川の旧本拠地岡崎で大岡弥四郎の内通事件が発覚した。

 近年注目されている事件で、家康嫡男信康の側近も絡んでいたとか、正室築山殿も加担していたなどと言われる。つまり徳川内部では御家存続のため織田と手切れして武田に鞍替えするしかないというムードまであった。家康もなかなか援軍に来ない信長に対して、このままでは武田に遠江を譲り和睦するしかないなどと訴えていたという。(それが信頼出来る史料かどうか疑問もあるが。)徳川が武田に内通した場合、祖地尾張が直接危機にさらされ、本願寺や毛利攻めどころではなくなる。そこで信長も大軍を派遣することにし自ら出馬したが、同時に兵の損耗を防ぐために「馬防柵」を築く「事実上の籠城戦」を行った。
(合戦の両軍配置図)
 その上で家康配下の酒井忠次率いる別動隊に武田軍の一部がいた鳶巣山(とびのすやま)を攻撃させた。両軍とも城に籠らない野戦のはずが、山がちで大軍同士のぶつかり合いにならず、織田軍は柵に籠って近づく武田軍を銃撃した。この柵は今まで「騎馬隊を防ぐ」などと言われてきたが、要するに事実上の城として機能したのである。武田軍にも鉄砲はあったし、時には柵を越えて進撃し織田・徳川軍に迫ることもあった。しかし、徳川内部の内通をあてにして侵攻してきた武田軍は、本来の戦略目標じゃない長篠城に固執してしまった。籠城戦は数でまさる方が有利で、その鉄則通り武田方が敗北したのである。
(長篠合戦図屏風)
 別動隊を率いた酒井家は、転封を繰り返した末に出羽鶴岡藩、つまり藤沢周平が描く海坂藩のモデル庄内藩として幕末まで続いた。長篠城に篭城して耐え抜いた奥平家はこれも豊前中津藩として幕末まで続き、福沢諭吉を輩出した。これらの藩では祖先の英雄物語として長篠合戦を顕彰し、やがて合戦図屏風が作られるようになった。これらも幾つか系譜があるそうで、細かく分析されている。このように、「事実」はやがて関係者によって「伝説」となり、それがさらに小説などで一般のイメージとなる。その過程までていねいに解き明かした本で、歴史ファンならじっくり読むに値する。結局、三段撃ちの鉄砲革命などなかったのである。
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「旧国名」(令制国)を知れば日本がわかるー「能登」と「加賀」は別の国

2024年01月25日 23時10分30秒 |  〃 (歴史・地理)
 最近「旧国名」が大事だなと思っている。ミャンマーは「ビルマ」だったとか、ソ連ユーゴスラビアが解体して幾つの国になったのかということではない。それらも関心はあるけれど、ここで扱うのは日本の「旧国名」である。日本には明治になるまで長く続いた「昔の国名」がある。それをちゃんと知っているのは、歴史ファン(特に戦国時代)と鉄道ファンだろう。

 なんで鉄道かというと、駅の名前に昔の国名が付くことが多いのである。同じ駅名を避けるため、後から出来た駅の方が「武蔵小杉」とか「下総中山」など昔の国名を頭に付けるルールなのである。(ちなみに、ただの小杉駅は富山県、中山駅は横浜市にある。自分も今まで知らなかった。)そのルールがいつ決まったのか知らないけど、鉄道マニアは知らず知らずに昔の国名を知っていることが多いと思う。

 日本には「47都道府県」がある。1都1道2府43県である。その位置と名前、県庁所在地は多分学校で習うはずだが、案外知らない人が多い。だからテレビのクイズ番組なんかでは、県の形のシルエットを見て何県か当てるみたいな問題がよく出る。学校の先生でも、鳥取県と島根県がどっちだか判ってない人がいる。それどころか東京の教員なのに、栃木県と群馬県の区別が付かない人もいて驚いたことがある。(もちろん社会科以外の教師である。)

 そういう現状から考えて、日常的にはあまり使わない「旧国名」を全部学校で教えてテストするなんてのはやり過ぎだろう。それは記憶力テストにしかならない。だから、ここで僕が書こうと思うのは、今も旧国名は大事なものであり、「自分で調べてみる」ことに意味があるということだ。それを最近痛感したのは、能登半島地震に伴って、「被災地には(今のところ)行かないで」というメッセージと「石川県に観光に来て」というメッセージがどっちも発信されて、それを「混乱」と思った人がいるらしいからだ。
(加賀と能登)
 現在は行政的には都道府県で把握するから、死亡者数とか倒壊家屋数が発表されると、圧倒的に石川県が被害を受けたということになる。それはもちろん間違いないことだけど、これを旧国名で見てみると今回の地震は「能登国で大きな被害を出した」ということが判る。加賀国(石川県南部)あるいは、越中国(富山県)、越後国(新潟県)でも被害はあるけれど、人的な被害は能登に集中している。一方で、石川県南部(加賀)の金沢市加賀市の宿泊施設はほぼ利用可能である。

 能登地域の和倉温泉(七尾市)は有名な加賀屋があるところだが(能登だけど、加賀屋である)、今は全旅館が休業しているとのことだ。一方、加賀温泉郷と言われる山中温泉山代温泉片山津温泉などはやっていて、被災者の二次避難所になっているところも多い。一般客も受け付けているがキャンセルも多いらしく、このままでは石川県の税収が大幅に落ち込んで復興に使う財源が少なくなる。(特に冬場は日本海の蟹を食べる高級プランが多く、キャンセルの影響は他の季節より大きいだろう。)

 そこで「加賀国」には来てくださいというメッセージになるわけである。この旧国名は大昔に決められたもので、今のような新幹線や高速道路がある時代からすると、細かく分かれすぎている。しかし、人間が足(または船)で移動するしかなかった古代に決められた「国」は、日本の自然地理の特徴を反映している。例えば、「能登」だけではなく、半島地域だけ別の国になっている地域は他にもある。「伊豆」(静岡県)がそうだし、「志摩」(三重県)もそう。千葉県なんか、上総(かずさ)、下総(しもうさ)、安房(あわ)の三つに分かれているぐらいだ。(だから「房総半島」である。)
(日本の旧国名一覧)
 この旧国名は律令制で定められたと言われている。「」は刑法で、「」(りょう)は行政法、及び民法である。従って「令」で決められたわけで、最近の歴史用語では昔の国を「令制国」(りょうせいこく)と言うことが多いらしい。僕も今回調べて知った言葉である。それはともかく、そこではまず「国」の前に全国を「畿内」(首都圏)の5国と「七道」(地方)に分けた。東海道東山道北陸道山陰道山陽道南海道西海道である。

 これを見ると、東海道とか北陸、山陰、山陽など、現在でも使われている用語がある。令制国は遅くとも701年の大宝律令では決まっていたと思われる。全部で68に分かれている。北海道と沖縄(琉球)はまだ支配下になく、入ってない。よく「六十六か国」と呼ばれるが、その場合は壱岐(いき)、対馬(つしま)を国境の島として外すらしい。島が一国になっていることも多く、淡路、佐渡、隠岐はそれだけで一国である。また「前中後」「上中下」が付く国名も多いが、これは畿内から見て近い方が前、上になる。福井県が越前、富山県が越中、新潟県が越後なのは、そういうことである。
(関東地方の旧国名)
 しかし、上記関東地方の旧国名を見ると、千葉県の北部が下総(しもうさ)、中部が上総(かずさ)である。奈良・京都から行く時は(東京からでも同じだが)鉄道も高速道路も房総半島を北から訪れる。都に近い方が「上」だという原則からするとおかしい気がするが、これは古代には相模(さがみ、神奈川県中南部)から船で房総半島に渡っていた名ごりなのである。今の東京地域は低湿地で交通事情が悪く、源頼朝が当初敗れたときに房総半島に船で渡って再起したように海路でつながっていたのである。

 全国を見ていると終わらないがもう少し。関東地方を見ると、「上野」(こうずけ)「下野」(しもつけ)がある。これは知らない限り読めない難読地名の代表格である。一方、群馬県と栃木県を結ぶ鉄道に「両毛線」がある。その地域に住む人、あるいは歴史ファンには周知のことながら、要するにこの地域は「毛野」(けの)という名前だったのである。それを二つに分けて、「上毛野」(かみつけの)「下毛野」(しもつけの)と名付けたわけである。そして「かみつけの」が「こうずけ」と読まれるようになった。ちなみに上野は親王が国司に任じられる慣例があり、臣下としては「介」(すけ=次官)が最高位となる。そこで吉良上野介という人物名になる。

 最後にもう一つ。それは「近江」(おうみ、滋賀県)と「遠江」(とおとうみ、静岡県西部)である。これも難読の極みだろう。滋賀県と言えば「琵琶湖」、つまり日本最大の湖である。湖は淡水の海ということで「淡海」(あわうみ)と呼ばれた。東海道を下れば、もう一つ浜名湖もある。昔は日本2位だった秋田の八郎潟(今は干拓で消滅)や茨城の霞ヶ浦も大きいけど、当時の道筋から外れている。そこで二つの大きな湖を「近い淡海」「遠い淡海」と呼ぶようになり、やがて「海」の字が「」に変わった。「あわうみ」が「おうみ」となり、「とおいあわうみ」が「とおとうみ」と読まれるようになったわけである。

 その他、旧国名には話題がいっぱいあるけれど、そこまで書いていては終わらない。調べてみると、今もよく使う言葉(讃岐うどんなど)があるし、戦国時代、江戸時代の大名を考える時は必須の知識である。観光でもよく使われるし、日本を深く知ろうと思うなら知っていた方が良い知識だ。単なる知識としてじゃなく、地方の特性を理解する方法として有効だろう。
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『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』を読む

2024年01月03日 22時20分13秒 |  〃 (歴史・地理)
 岩波ブックレットの『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』(小野寺拓也、田野大輔著、岩波書店、820円+税)を読んだ。2023年7月に出たもので、評判になっていることは知っていたが、なかなか本屋で見なかった。ネットで買えばいいわけだが、できるだけ本屋で買うようにしている。高い本じゃないからわざわざネットで取り寄せるまでもない。授業で使うわけでもないから緊急に読む必要もない。偶然にある書店で新書コーナーの近くに置いてあったので、早速買ってきて読んだ紹介。

 この手の歴史評論みたいなのを読んでない人には、多少取っつきにくいところもあるかもしれない。でも同じような新書などに比べても、抜群に読みやすくて判りやすいと思う。もっとも上下2段組、115ページもあるので、結構分厚い。その代わり構成が工夫されていて、まず「ナチズムとは?」「ヒトラーはいかにして権力を握ったか?」「ドイツ人は熱狂的にナチ体制を支持していたのか?」と最初の三章で前提を押える。続いて「経済回復はナチスのおかげ?」「ナチスは労働者に味方だったのか?」「手厚い家族支援?」「先進的な環境保護政策?」「健康帝国ナチス?」と5つの具体的テーマを深掘りしていく。

 とても理解しやすく、「歴史を調べるとはこういうこと」のお手本みたいである。中で著者も言及しているが、高校の授業に教科「探求」が設置されるようになった。そこでネットを「駆使」して、一方的な主張ばかりを見つけてきて「探求学習の成果」と称する生徒がいっぱい出て来ると思われる。それに対して「歴史的文脈」をしっかりとふまえて議論することの大切さを、この本(ブックレット)ほど教えてくれるものも少ない。ナチスやヒトラーにあまり関心がない人でも、政治や経済について考える意味「学問」とはどういうものかを教えてくれるので、是非読んでみる価値がある。

 ところで、個別論に入る前に「ナチス」ではなく「ナチ」、「国家社会主義」ではなく「国民社会主義」と表記するべきだと書いている。前者はナチスは複数形なので、集団じゃなく思想や運動を呼ぶときは「ナチ」がふさわしいという。また、後者は昔の教科書には「ナチ党」の訳として「国家社会主義ドイツ労働者党」とあったが、近年は「国民社会主義ドイツ労働者党」と書くことが多いという。これは自分の経験でも確かだけど、変更の理由までは考えたことがなかった。詳しくは著者の一人小野寺拓也氏の「なぜナチズムは「国家社会主義」ではなく「国民社会主義」と訳すべきなのか」(現代ビジネス)がネット上にある。

 簡単に書けば、ナチはそれまでにあった「国家社会主義」じゃなく、あくまでも「民族共同体」ファーストであり、「国家」よりも「民族」なのである。だからこそ、「優れたアーリア人」の共同体たるドイツでは「劣ったユダヤ人」を排除しなければならない。国家経済的観点からは損になる場合であっても、民族共同体の純化の方が優先するわけである。そういう思想は「国民社会主義」と呼ぶべきで、そうじゃないと「ソ連とナチは同じ国家社会主義」などと粗雑な議論になりやすいというのである。
(アウトバーン)
 個別的議論を全部書いてると終わらないし、この本を読む楽しみを奪うことにもなる。いくつかだけ触れると、イタリアのムッソリーニ政権も同様だが、ヒトラー政権が経済を立て直したという議論はよくある。特に高速道路網(アウトバーン)を建設することで景気回復につながったという話を聞いたことがある人も多いと思う。そのナチ経済のからくりをこれほど簡潔に説明してくれるものはない。そもそもが借金頼りの経済運営で、さらにユダヤ人や女性労働力を奪う(女性は家庭にいるべきだとした)ことにより、失業率が改善したように見えた。例の「フォルクスワーゲン」に至っては、何十万の労働者が積立金を払ったにもかかわらず、開戦後にすべて軍用車生産に変更され一台も納車されなかったというから驚き。
(「健康大国ナチス」という本)
 近年注目されているのが、ナチの環境政策健康政策だという。僕も詳しく知らなかったので、非常に勉強になったところが多かった。そもそもナチ党の政策にはオリジナルなものがほとんどないらしい。それでも「動物保護」や「禁煙」をこれほどうたっていたとは知らなかった。ただし、である。「動物保護」を言い出しても、それは結局「反ユダヤ」なのである。目的は「ユダヤ人排撃」と「戦時体制確立」なのであって、個別的には今見てもオッと思う政策があったとしても、全体的文脈で見れば「不健全」であり、かつ戦争激化で結果を残さずに終わったことばかり。

 最後にそもそも「ナチスは良いこともした」と言う主張をする背景も検討される。それはネット内にある「反PC」(政治的公正さ)的なムードである。学者が反論しても「マウント」と批判されてしまう。だが、このブックレットを読むと、「きちんと学ぶこと」の大切さを痛感するのではないか。何もシロウトは口を出すなということではない。ネット上にはいろんな情報があるが、マジメに調べれば極端な主張をぶち上げるなんて出来ないはず。何でもマジメがベースにないとまずいという話である。
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『紫式部と藤原道長』(倉本一宏著)を読む

2023年12月01日 21時55分01秒 |  〃 (歴史・地理)
 コーマック・マッカーシー『平原の町』が残っているけど、飽きてきたので歴史系新書を先に読んだ。2023年の大河ドラマは徳川家康だったので、新書本を何冊かここでも紹介した。2024年は紫式部なので、本屋に行くともう関連本が並んでいる。歴史学者には特需景気となるが、中でも一番置いてあるのが倉本一宏氏(国際日本文化研究センター教授)の本である。9月に講談社現代新書から出た『紫式部と藤原道長』をまず読んでみた。大河ドラマでは吉高由里子が紫式部、柄本佑が藤原道長である。

 日本で教育を受けた人なら、藤原道長紫式部の名前は皆が知っているだろう。だけど歴史ファンには戦国時代や幕末が人気で、平安時代の貴族社会は今ひとつイメージ出来ない人が多いと思う。僕は一応通史レベルではある程度読んでいるから、史料的な問題にも付いてはいける。だが案外知らないこと、うっかり気付かなかったことがずいぶんあった。この本ではのっけから「紫式部は実在した」と出て来て驚く。紫式部は藤原実資(さねすけ)の日記『小右記』(しょうゆうき)という確実な史料に出て来るのである。一方、清少納言は確実な史料には出て来なくて、その意味では実在が証明出来ないのだという。
(倉本一宏氏)
 平安時代には女性の文学者が活躍したが、当時の女性の正式な名前は伝わっていない。古代日本には『日本書紀』に始まる六国史と総称される国家の正式な歴史書があった。でも平安時代中頃になると、もう作られなくなってしまった。じゃあ、その時代のことはどうして研究するのかと言えば、当時の貴族の日記が残っているのである。例えば藤原道長の日記『御堂関白記』(みどうかんぱくき)はなんと自筆本が遺されていて、世界記憶遺産に登録されている。しかし、そういう男性貴族の日記では官位を持つ有力者の消息は伝わるが、女性は誰それの母とか娘としか出て来ないのである。

 「紫式部」は『小右記』に「藤原為時の女(むすめ)」として出て来る。そこで実在は判明するが、生没年ともに不明である。当時の宮中では「藤式部」と呼ばれていたらしい。藤原道長になると、966年出生、1028年没と判っている。ただもともとは出世するとは思われていなかった。父藤原兼家の五男だったからである。しかし兄の道隆、道兼が早く亡くなるなど「幸運」が続いて出世した。しかし、より若いために娘も幼い。当時は藤原氏が天皇に娘を嫁がせて、その間に生まれた男児が皇位を継ぐ、つまり藤原氏当主が天皇の祖父であることで、幼少の天皇に代わって摂政となり権限を振るった。
(御堂関白記)
 紫式部や清少納言が活躍したのは、一条天皇(980~1011、在位986~1011)の時代である。ちなみに一条天皇は円融天皇と藤原兼家の娘詮子の間の子で、つまり道長の甥になる。皇后は藤原道隆の娘定子(977~1000)で、二人の間には3人の子があった。一方、道長の娘彰子(988~1074)は定子より11歳年少で、入内したのも999年である。数え年12歳で、まだまだ子どもを産める年じゃない。天皇は定子を寵愛していたが、1000年に次女を産んだときに亡くなってしまった。悲しみにくれる天皇は彰子のもとを訪れる気にならない。(なお、定子=ていし、彰子=しょうしと音読みするのが普通である。)

 今までなんとなく清少納言のいた「定子サロン」と紫式部のいた「彰子サロン」が併存して、競い合っていたと思い込んでいた。そうじゃなく、時間差があったのだ。新書の帯に「『源氏物語』がなければ、道長の栄華もなかった!」とあるのは、どういうことか。彰子のもとへ天皇が訪れるための「お土産」が紫式部の物語だったのである。一条天皇も『源氏物語』を楽しみにしていたらしい。今書かれている最中の、つまり連続ドラマ放送中なので、次の展開を知りたいのである。そうやって彰子サロンに通ううちに次第になじんでいったわけである。それでもなかなか子どもは出来ず、最初の皇子誕生は1008年、彰子19歳のことだった。
(2024年大河ドラマ『光る君へ』)
 一方、紫式部の方でも、道長なくして『源氏物語』が完成しない事情があった。それは当時は紙が超貴重品だったからである。それを道長が国家に集まった紙を紫式部に回していたらしい。紫式部は国家プロジェクトとして、物語完成を目指したのである。しかし、道長自筆の『御堂関白記』は伝来したが、紫式部自筆の『源氏物語』は存在しない。多くの人に書写されて伝わるが、やはり「物語」は軽視されていた。応仁の乱の時、九条家は貴重品を疎開させた。そこに『御堂関白記』はあったが、『源氏物語』は入っていなかった。そして、九条家の屋敷は乱で焼けてしまった。この本は史料的に確実なことしか書かれていない。まさに「歴史学」の本。それだけに案外手強くて、史料も豊富。世界文学史に輝く『源氏物語』の歴史的背景がよく理解できる。
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『源頼朝と木曽義仲』、「対決の東国史」を読む③

2023年10月17日 22時35分25秒 |  〃 (歴史・地理)
 吉川弘文館から出ている「対決の東国史」というシリーズは、去年『足利氏と新田氏』『山内上杉氏と扇谷上杉氏』を紹介した。全7巻はまだ完結していないが、どんどん刊行されている。8月に出たばかりの『源頼朝と木曽義仲』を読んでみた。著者は富山大学講師の長村祥知氏である。1982年生まれの若手研究者で、もちろん僕は名前を知らなかった。

 このシリーズは5巻が「○○氏対○○氏」と題されている。先の2冊も同様で、もう一冊は『鎌倉公方と関東管領』という役職名。つまり個人名が本の題になっているのは、この巻だけである。だけど、源頼朝と木曽義仲は「対決」したのか。もちろん本人どうしは全く面識がない。そもそも「木曽義仲」じゃなくて、「源義仲」である。歴史に詳しい人なら周知のように、この二人はいとこ同士だった。義仲の父・源義賢が、源頼朝の父・源義朝の異母弟にあたる。しかし、義賢を滅ぼしたのは、義朝の長男・義平だった。それが1155年に起こった大蔵合戦である。大蔵というのは、現在の埼玉県嵐山町になる。
(木曽義仲像=富山県小矢部市)
 嵐山町には鎌倉時代の武士畠山重忠の本拠地とされる「菅谷館」があり、その近くの木曽義仲生誕地には顕彰碑も立っている。前に行ったことがあり、『菅谷館と嵐山渓谷ー武蔵嵐山散歩』で書いた。木曽義仲というけど、生まれたのは東国・武蔵だったのである。幼くして(2歳)で父を亡くした駒王丸は命を救われ、木曽の豪族・中原兼遠に預けられた。これが後の木曽義仲となる。ただ義仲は庶子で、京都にいた嫡男・仲家源頼政の養子となって、八条院の蔵人を務めていたが、1180年の以仁王(もちひとおう)の乱に養父源三位(げんざんみ)頼政とともに参加し敗死した。

 いま「八条院」という言葉が出て来たが、これが実は反平家運動のキーワードとも言える。鳥羽上皇美福門院(鳥羽がもっとも寵愛したと言われる)の間に生まれた暲子(しょうしorあきこ)内親王のことで、生涯未婚で皇后に就いていないのに「女院」の称号を受けた。両親から全国200数十箇所にもなる莫大な荘園を受け継ぎ、「八条院領」と呼ばれた。八条院は多くの子女を養育し、後白河法皇の子である以仁王もその一人だった。そのため、源頼政など反平家に蜂起した人が周囲に多かった。以仁王の令旨を頼朝に伝えた源行家(義朝の弟、頼朝の叔父)も八条院の蔵人だったのである。

 ちょっと細かなことを書いたが、様々なつながりを探る中で研究は深化してきている。八条院本人が何も反平家だったわけじゃないだろう。金持ちには芸術家など多くの人が寄ってくる。また警備のために多くのガードマンを雇うことになり、その中に反政府分子が紛れ込んでいたわけである。源平の争いから「武士の時代」などと教えるけど、実際は荘園制のトップに君臨する天皇家や摂関家に仕えたのが武士たちだった。その中には源氏や平氏がいるが、どちらも元は天皇家にさかのぼるけれど、皇族の末裔は無数にいる。貴族の最上位にある藤原氏も同様で、「北家」の中でもさらに道長流の「摂関家」でなければ出世は見込めない。
(伝・源頼朝像)
 そんな中で、いかに武士が上り詰めていったかをたどるのがこの本である。それは絶えざる源氏内部の争闘史である。頼朝は後に異母弟の源義経や源範頼と対立していくが、それは何も頼朝だけじゃない。父親の義朝、祖父の為義の時代も同様というか、もっと陰惨である。そもそも為義は子の義朝と対立し、保元の乱では対立陣営に属した。その結果、義朝は父や兄弟を処刑することになった。残酷な処置だが、同時に当時の慣習法では一族内の問題は一族で処理し、その代わり一族の領地は保証されるというものだったともされる。母親が違えば育ちも違い、むしろ同じ領地を誰が継ぐかという問題が起こりやすく、内部争いが絶えない。
(長村祥知氏)
 そういう厳しい中を、なぜ頼朝が生き延びられたか。ひとつは父義朝が保元の乱で勝者となり、高い官位を得たことにより、子どもの頼朝もわずか12歳(数え年)で皇后宮少進に、翌年には右近衛将監などの官位を得ていた。当時は親の地位で、子どもの官位が決まる「蔭位」(おんい)という制度があった。頼朝は母の死に伴い喪に服すため辞任して、そのまま平治の乱で父が敗死して伊豆に流された。しかし、京都に上った段階で「無位無冠」だった木曽義仲に対して、「元の官位」を持っていた頼朝は貴族世界に認知されやすかったのである。そのような意外な理由が案外歴史を決めて行くのかもしれない。

 この本で見ると、義仲は単なる乱暴者ではなかったと思うが、やはり歴史は敗者に厳しい。そして勝ちきるまで京都に上らず、鎌倉に居続けた頼朝が勝利した。そこが大事なところだった。頼朝が「征夷大将軍」の官位を得た理由も興味深い。「制東大将軍」など別の可能性もあった。なかなか細かい話が多く、『平家物語』などとは実際は相当違うのである。
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岩波新書『桓武天皇』(瀧浪貞子著)を読むー画期的な桓武論に驚き

2023年10月04日 23時22分39秒 |  〃 (歴史・地理)
 家に読んでない本がいっぱいあるから、最近はネットで買わないことにしている。リアル書店を支える気持ちが強いのだが、なかなか大きな本屋に行く時間もない。買いたい本がいろいろあって、少し前にやっと行ったけど、つい歴史系の新書も買ってしまった。すぐに読みふけると、やはり面白いのである。いまや新書といえども千円超えるものが多いし、授業に役立てる意味もない。でも「趣味」なんだなあと思って、時々は買いたいと改めて思った。

 買ったのは呉座勇一動乱の日本戦国史 ― 桶狭間の戦いから関ヶ原の戦いまで ―』(朝日新書)と瀧浪貞子桓武天皇 ー決断する主君』(岩波新書)である。呉座氏の本は今まで紹介したこともあるが、とにかく面白い。桶狭間の戦い、長篠の戦い、関ヶ原の戦いなど、有名な戦国時代の「戦い」に関して通念と近年の新研究を検討している。信長の奇襲(桶狭間)、武田騎馬軍団対織田鉄砲隊の三段打ち(長篠)など、昔聞いたような話はどんどん更新されている。昔読んだり聞いたままになってる人は読んで欲しいと思うが、まあ僕は大体知ってたな。ということで、ここでは簡単な紹介だけ。

 問題は瀧波貞子氏の『桓武天皇』である。「桓武」は言うまでもなく「かんむ」と読む。日本史上に名高い「天武天皇」「聖武天皇」などと並ぶ「諡」(おくりな)に「」(む)が付く天皇である。桓武天皇は日本史上の超重要人物で、絶対に覚えたはずである。何しろ「平安遷都」を行った人で、その年も大体覚えてるだろう。「鳴くよウグイス平安京」で、794年。日本史上最長の都であり、世界的大観光都市でもある「京都」を作った人物ということになる。
(桓武天皇)
 瀧浪貞子(1947~)氏は日本古代史が専門で、京都女子大名誉教授。近年女性天皇の評伝などの一般書を多く出している。集英社の「日本の歴史」シリーズで『平安建都』(1991)を執筆し、その本は僕も読んだ。ところが今回の本を読むと、「今まで誰も気付かなかったが」というフレーズが多用されている。以前書いた自分の本の記述も大胆に変更しているのである。ちょっと細かい話になるかもしれないが、以前は桓武天皇の父、光仁天皇の即位をもって「天武系から天智系へ」と理解されていた。教科書には天皇系図が載っていて、それを見れば一目瞭然。天武天皇から直系で続くのは称徳天皇で途絶え、天智天皇の息子施基親王(志貴皇子)の子である光仁天皇が62歳で即位したのである。「天武系から天智系へ」ではないか。
(瀧浪貞子氏)
 ところが当時の人々の意識では、光仁、桓武天皇は「天武系」だったというのである。それは施基親王が「吉野の盟約」に参列していたからである。679年、天武天皇と皇后(後の持統天皇)は6人の皇子とともに吉野に行幸し、草壁皇子(天武・持統の子ども)を事実上の次期天皇とし、兄弟が協力するように盟約を結んだ。(しかし、即位前に草壁は死亡し、母の持統が即位する。)その時の6人の皇子は、天武の子の草壁、大津、高市、忍壁と天智天皇の子の川島、施基(志貴皇子と書くことが多いが、この本では施基とする)だった。僕もその盟約は知っていたが、天智の皇子が二人入っていたことは重要視しなかった。

 というか、こういう盟約を結んでも、その後よく知られているように大津皇子は反逆の罪に問われ死を選ぶ。その密告をしたとされるのが川島皇子である。そういう意味で、「盟約」は崩れたと思いこんでいた。だが奈良時代を通じて、「盟約」は「伝説」「伝統」とみなされるようになり、施基皇子もいわば「名誉天武系」と扱われていたというのである。施基皇子は陰謀渦巻く奈良政界に背を向けて、歌人として万葉集に載るなど文化人として生き延びた。その第6皇子が白壁皇子(光仁天皇)で、聖武天皇の皇女井上内親王を妻としたのも、そのような「天武系」扱いだったからだ。

 聖武天皇の男子が亡くなった後で、未婚の女性だった皇女阿倍(あへ)内親王が即位し、孝謙天皇となった。一時は淳仁天皇に譲位したが、かつての寵臣藤原仲麻呂との関係が悪化し「藤原仲麻呂の乱」が起きる。仲麻呂は敗死し、淳仁天皇は廃された。その後、前天皇が重祚(ちょうそ=二度即位すること)して、称徳天皇となった。称徳天皇は僧の道鏡を重く用い、道鏡は自ら後継の皇位を望んだという。しかし、天皇は後継を決めずに亡くなり、白壁皇子が62歳(日本史上最高齢の即位)で光仁天皇となった。皇后は聖武天皇の娘、井上内親王で、皇太子は二人の間の子、他戸(おさべ)親王だった。

 一方、桓武天皇(山部皇子)は生母の身分が低く(百済渡来系の和=やまと氏)、当初は光仁の後継者とは想定されていなかった。それが(恐らく藤原百川らの暗躍もあって)井上内親王、他戸天皇が廃され、山部が皇太子となった。781年に譲位され山部が即位すると、同母弟の早良(さわら)親王を皇太子とする。しかし、この早良も785年に廃され、実子の安殿(あて)親王(平城天皇)を皇太子とした。つまり、桓武は皇位を継ぐとは誰も思わないところから出発し、自身の子孫が皇位を継ぐように歴史の流れが変わったのである。しかし、その影で自分の弟二人を死においやった。そのため早良親王の「怨霊」に長く苦しめられる。

 何だか長くなってしまった。このことは歴史に詳しい人ならよく知られていることだ。だが、この本は細かく史料を検討し直し、桓武の心情を新たな目でとらえている。かつて原武史昭和天皇』(2008)を読んだとき、実母(大正天皇の皇后)の干渉や宗教狂いに苦しむ姿が印象的だった。天皇も人間なんだから、家族問題の悩みを抱えている。この本で読む桓武も、身分の低い母から生まれたという周囲の目をいかに意識していたか悩みが伝わる。そこで抜てきした藤原種継とともに、奈良の都を捨て784年に長岡京への遷都を決断した。ところが翌年に長岡京で種継が暗殺されるという大事件が起こる。
(長岡京跡地)
 これも「何か起こる」と察知した桓武はその時わざと都を空けていたという。まさか暗殺までとは思わなかったのだろう。そのぐらい長岡京遷都(平城京廃都)への反対が多かったのである。実行犯も特定され、昔から有力な大伴一族などが数多く罰せられた。歌人として知られる大伴家持は直前に死亡していたが、死後に処罰された。そんな中で、桓武は長岡京を捨て、さらに平安京への遷都を決める。その上申を行ったのが、何と和気清麻呂(わけのきよまろ、733~799)だった。和気清麻呂は戦前の教育を受けた人なら、日本史上の大忠臣として誰もが知っていた。道鏡が皇位を望んだとき、宇佐神宮まで神託の確認に行った人である。その時に皇族以外に継がせてはならないという神意を持ち帰った。そのため「別部穢麻呂」(わけべのきたなまろ)と改名させられ、大隅(鹿児島県東部)に流された。光仁時代になって復権し、民政専門家として活躍したという。
 (和気清麻呂)
 和気清麻呂は「皇統を守った」として、戦前は10円札の肖像にもなった。各地に銅像も建てられ、上記画像は皇居外苑に今もあるもの。その和気清麻呂の後半生を知らなかったが、実務官僚として桓武朝で重く用いられ、平安京建設の中心となったのである。この人物の再評価も必要だと思う。さて、他にも「蝦夷」との戦争、仏教との関わり(特に最澄)など後の時代に大きな影響を与えた政策がある。また渡来系一族との関係など、今まで知らなかったことがいっぱい。まあ、一般的にはここまで知らなくても良いと思うが、こういうトリビアルな検討から人間や時代の全体像を構想するのが、歴史の醍醐味なのである。その意味で「桓武天皇」という重要人物を身近に見た感じがした。もっとも善し悪しは別であるが。
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『証言集 関東大震災の直後 朝鮮人と日本人』(ちくま文庫)を読む

2023年09月17日 22時32分36秒 |  〃 (歴史・地理)
 関東大震災関連の本を読んできて、これが最後。西崎雅夫編『証言集 関東大震災の直後 朝鮮人と日本人』(2018、ちくま文庫)を読んだ。先に書いた江馬修羊の怒る時』の解説(西崎雅夫)の最後に、この本が紹介されていた。そう言えば、持ってたはずだと思って探したけど見つからない。あっちこっち探し回って、何のことはないすごく近いところに積まれていた。この本は基本的には証言集なので、全員が読むというのは無理があるだろう。しかし、様々な「証言」を積み重ねることで「量が質に転化する」凄みがある。この問題に関心がある人ばかりでなく、学校現場の「自ら考える授業」などで是非使って欲しい本だ。

 この本は6つのパートに分かれている。「子どもの作文」「文化人らの証言 当時の記録」「文化人らの証言 その後の回想」「朝鮮人の証言」「市井の人々の証言」「公的史料に残された記録」である。人間ひとりひとりの見聞は狭いわけだが、関東大震災レベルの出来事になれば、非常に多くの人々が様々に書き留めていた。それを集合することで、ある程度全体像を再現出来るわけである。例えば、子どもの証言は一つ一つを検証すれば、思い込みや理解不足もあるはずだ。だが、学校で書いて公的に残された作文集などを通して、いかに「朝鮮人さわぎ」が恐怖だったかがよく判るのである。

 文化人の中では、志賀直哉、芥川龍之介、寺田寅彦、和辻哲郎などの他、今はあまり知られていない人物もいる。また、その後の回想には戦後に書かれた自伝なども集められている。それらの証言は文章を書く人がまとめたものだから、最初に出てきた子どもの作文を大人の目で理解しやすくしている。ところで、芥川龍之介大震雑記」は、今では内容的にちゃんと読めない人がいるらしい。

 「僕は善良なる市民である。」と始まり「しかし僕の所見によれば、菊池寛はその資格に乏しい。」「そのうちに僕は大火の原因は○○○○○○○○そうだと云った。すると菊池は眉を挙げながら、「嘘だよ、君」と一喝した。僕は勿論そう云われて見れば「じゃ、嘘だろう」と云う外なかった。」この調子でまだまだ続くが、これを芥川が「朝鮮人犯行説」を信じていた証拠と読む人がいるらしい。リテラシー(読解能力)の大切さをよく示す例だろう。短文だから是非読んでみて欲しい。

 圧倒的なのは、「市井の人々」の証言だろう。被害者側の「朝鮮人」の証言もあるが、数としては少ない。一方「市井の人々」は120ページもあって、54人もの証言が収められている。この場合、注意するべき点は「生き残った人しか証言できない」ということだ。多くの人が「朝鮮人に間違えられた」という恐怖体験を語っている。しかし、何とか逃れることが出来たために、後になって証言出来たのである。中には証明出来なかった人もいるはずだ。例えば聴覚障害者が犠牲になったケースもあるが、そういう人は証言出来ないのである。

 地域的には東京東部(東京市外)が火災も虐殺も多かった。当時の東京市は15区で、現在の新宿、渋谷、池袋なども市外(新宿、渋谷=豊多摩郡、池袋=北豊島郡)だった。江馬修は西側の東京市外に住んでいて、そのため火災にはあわずにすんだ。一方、隅田川の東では本所区(現墨田区南部)、深川区(現江東区西部)までが市内だった。JRの駅で言えば、錦糸町までが市内で、亀戸から市外の南葛飾郡である。そこが東京最大の工業地帯であり、労働運動も盛んだった。また1913年から荒川放水路の掘削工事が始まり、震災翌年の1924年に岩淵水門が完成して放水路への注水が開始された。

 このような工場や工事があり、零細な朝鮮人労働者は東部地域に多かった。一帯が焼失し、逃げていくためには川を渡らなければならない。四ツ木橋や小松川橋を目指すことになり、亀戸署や寺島署管轄地域に朝鮮人が集結して悲劇が起きる。また「亀戸事件」(労働運動家の虐殺事件)が起きたのも、たまたまではなくそれ以前から労働運動と警察の対立が続いていたのである。しかし、本書では東京東部の証言が思ったよりも少ない気がする。それは虐殺事件が一番多かった地域では被害者は証言出来ないのである。そういうことに注意して読む必要がある。
(西崎雅夫氏。追悼碑の前で。)
 多くの証言でよく判るのは、「社会主義者」と「朝鮮人」の虐殺は別々のものではなく、密接に結びついていたことである。当時の言葉で言えば、「主義者」と「不逞鮮人」である。(権力者側も「国家主義」や「天皇制絶対主義」などの「主義者」だったはずだが、当時それは「主義」とはされず、国家に反逆する「社会主義」や「無政府主義」だけが「主義」だったのである。また「朝鮮人」の「朝」は「朝廷」に通じるとして、下を取って「鮮人」と略称された。朝鮮を「鮮」と略すのは差別表現である。)

 外国と結んで「日本」を滅ぼそうとする「主義者」、その手足となって放火や暴動を起こす「不逞鮮人」というセットで「陰謀」が成り立つ。双方が「敵」であり、日本人であっても長髪だった画家や作家などは「主義者」と疑われて、自警団の検問でひどい目にあったことが多い。このような「陰謀論の構造」はどこかしら現代のそれと相通じるものがある気がする。「主義者」と「不逞鮮人」の「暴動」は、直接見た人が誰もいないのに、多くの人が信じてしまったこともこの本で判る。缶詰を持っていると「爆弾」、小麦粉を持っていると「毒薬」など、一度疑い出すと何でも疑惑の対象となる。

 と同時に、誰もが虐殺に関与したわけではない。多くの人はそこまでは出来ない。怪しいとしても確証はない、怪しければ警察に突き出せば良いなどと思っていた人が多いようだ。(「わが町を守るため自分が殺した」という証言は一人もない。)それに対して、突然暴力を振るう人が現れた。そもそも「武器」を持って自警団に集結して、「天下晴れての殺人」だと思っているのである。そういう人はどんな人々だったのだろうか。仮に「敵」とみなしたとしても、人間に向かって「鳶口」を頭に振りかざすことなど、慣れている人じゃないと不可能だ。

 軍隊経験があり(地域では「在郷軍人会」に組織され)、職業としては職人や小商店主など「労働者」や「旧中間層」に属する。都市の下層で、自分の生まれ住む「地元」意識が強く、労働力として競合する朝鮮・中国人を嫌っていた。そういう日常的に鳶口などを使い慣れた人々を想定出来るかと思う。これは恐らく20年後に「日本ファシズム」の支え手となった層(丸山真男の分析)と重なる部分が多いのではないか。そこら辺はもっと細かな分析が必要だが、証言を読んでいくと「どこでも似たような構図で虐殺が起きている」「同じようなタイプの人が虐殺を始めている」という印象を持つのである。
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大杉栄虐殺事件と甘粕正彦ー佐野眞一『甘粕正彦 乱心の曠野』を読む

2023年09月10日 22時58分58秒 |  〃 (歴史・地理)
 関東大震災関連で持ってた本に、佐野眞一甘粕正彦 乱心の曠野』(新潮社、2008)があった。470ページを越える重くて厚い単行本で、持ち歩くのも大変。15年間放って置いたが、この機会に読まないと永遠に読まずに終わりそうだ。著者の佐野眞一氏も2022年9月に亡くなっている。「甘粕正彦」という名前も知らない人が増えてきたかもしれない。映画『ラスト・エンペラー』で坂本龍一が演じたが、「満州国」で暗躍したことで様々の伝説に包まれた人である。

 この本は当時はまだ存命だった関係者の家族を探して新資料を発掘している。その結果、「甘粕正彦」という近代日本史上でも非常に興味深い人物に限りなく迫ったと言える。近代日本史に関心がある人には絶対面白い本だと思う。一時入っていた新潮文庫版は品切れらしいが、図書館などで見つけられるだろう。甘粕と言えば、後半生の「満州時代」がなんと言っても興味深い。「満州国皇帝」になる溥儀を北京から連れ出した陰謀の実行者であり、その後大スター李香蘭(山口淑子)を擁する「満映」の理事長となった。「満州国」は昼は関東軍が支配し、夜は甘粕正彦が支配すると言われたという。

 興味深い後半生は省略して、ここでは「大杉栄虐殺事件」に絞りたい。前に関東大震災時の虐殺事件を何回か書いたとき、この問題は書かなかった。近代史に関心がある人なら誰でも知っているし、新しく考えるべき論点もあまりないと思ったのである。今回佐野眞一氏の本を読んでも、基本的な事情は変わらない。「甘粕真犯人説」を疑う人は昔から多く、むしろ「甘粕犠牲者説」の方が多いんじゃないかと思う。だが、それを実証することは不可能だろう。そもそも大杉栄虐殺指令文書が存在したとは思えない。
(大杉栄と伊藤野枝)
 無政府主義者(アナーキスト)の「巨頭」として知られていた大杉栄は、9月16日夕刻に豊多摩郡淀橋町柏木(現新宿区西新宿)の自宅付近で憲兵に連行され行方不明となった。この日、大杉と妻の伊藤野枝は、鶴見に住んでいた伊藤の前夫辻潤を訪ねたが留守だったため、近くに住む大杉の実弟大杉勇宅を訪れた。そこに大杉の実妹あやめと子どもの橘宗一(6歳)が偶然来ていて、子どもが東京の焼け跡を見たいと言ったため大杉たちが連れて帰った。この橘宗一はアメリカ生まれで、アメリカは国籍が出生地主義なので、アメリカ国籍も持っていた。(上記画像の子どもは橘宗一少年ではなく、大杉夫妻の子ども。)

 そのまま3人の行方は知れず、心配した宗一の家人はアメリカ大使館に連絡した。その後、警察に捜索願を出したが、この件がもみ消されずに公表されたのは、少年殺害が外交問題になりかねなかったためだろう。亀戸事件や中国人王希天の場合は、誰も責任を取らずに真相は隠ぺいされた。大杉栄殺しも同じように隠ぺいするはずが、少年殺害があったために隠しきれなかったとも考えられる。もっとも大杉の知名度は非常に高かったので、裁判なしに済ませるわけにはいかなかったかもしれない。その後マスコミも動き出す中、20日になって事件内容も不明のまま、福田雅太郎戒厳司令官の更迭、小泉六一憲兵司令官小山介蔵東京憲兵隊長の停職が公表され、甘粕正彦憲兵大尉と森慶次郎憲兵曹長を軍法会議に付すという発表がなされた。
(甘粕正彦憲兵大尉)
 その後開かれた軍法会議では、甘粕が「単独犯行」を「自白」した。もっとも宗一少年殺害は違うのではないかと弁護士から指摘され、それを認めた。その後、3人の憲兵が「自首」して軍法会議に付せられた。その間の詳細は佐野著に詳しいが、いちいち書くまでもないだろう。結局、甘粕が懲役10年森が懲役3年3憲兵は無罪となった。

 この判決(事実認定)にはおかしなところが多く、佐野氏も明らかに上層部関与説に立っていると思われる。ただ事柄が事柄だけに実証したとまでは言えない。最後の最後に本人の言葉が紹介されているが、それは「伝聞」に過ぎない。この本の中に死因鑑定書が公表されている。これ自体不思議な運命の下に残された貴重なものである。それを見ると、「自白」は明らかに不十分で信頼出来ない。大杉の身長は163.9㎝で、それより身長が低い甘粕が後ろから絞殺するのは難しい。実際には大杉と伊藤は踏んだり蹴られて胸部骨折していて、誰がやったかはともかく複数人によって極度の暴行を加えられていた。

 甘粕は当時「東京憲兵隊渋谷分隊長兼麹町分隊長」であり、森憲兵曹長は当時「東京憲兵隊本部付(特高課)」だった。つまり、森は甘粕の直属の部下ではなく、軍隊的に考えて(というか、常識で考えて)「個人的犯行」に協力させることは不可思議である。渋谷分隊長が麹町分隊長(事件現場となった)を兼ねるという人事も不可解。軍法会議では9月1日付で兼任の命令が出たと甘粕が述べたが、後付けとしか思えない。甘粕と森の双方に命令を下せる上層部が関わっていると考えるのは、「陰謀論」というより「常識論」だろう。真相がどういうものだったか諸説あるが、僕には当否を判断出来ない。ただ「甘粕単独犯行説」は成り立たないと考える。(軍人が「個人的考え」で、部下と軍施設を使って「殺人」を実行するという判決は荒唐無稽である。)
(佐野眞一氏)
 ところで、震災当時の大杉は何故「自由」だったのか。大杉はドイツで開催予定の国際アナーキスト大会参加を目指し、1923年1月に上海からフランスに出航した。パリ郊外でメーデーに参加して逮捕され、大杉だとバレて日本に強制帰国させられた。(中国人を偽装していた。この旅の経過は「日本脱出記」に書かれている。)7月11日に神戸に着いたばかりで、まだ日本で本格的な運動を開始する時間がなかった。1922年に「第一次共産党」が結成され、その関係者は逮捕され獄中にあった。そのため、権力側からは「野放しになっている大物」は大杉だけと見えていたのだろう。

 当局側の発表が「大杉他二名」の殺害とあったため、社会主義弁護士の山崎今朝弥は「他二名及び大杉君のこと」を書いた。伊藤野枝の女性史的な再評価が進んで、今では大杉栄と伊藤野枝が狙われたと考えやすい。だが当時の状況では、やはり伊藤野枝は一緒にいて連行されたと考えるべきだろう。この時、「女子ども」を一緒に連行した責任者は誰なんだろうか。当時は「アナ・ボル論争」というアナーキズムとボリシヴィズム(ロシア革命を実行したレーニンらの共産主義者)の対立があった。陸軍の仮想敵国は一貫してロシア・ソ連だったから、ソ連式社会主義を厳しく批判していた大杉を抹殺したのは、軍にとって逆効果だった。大杉不在でアナ陣営は不振となって、以後共産主義が左翼の主流となった。

 甘粕は全く無実で、罪を被るだけの役目だったという考えもあるが、僕はそれはかなり無理な想定だと思う。やはり、何らかの意味で「大杉殺し」には関与していて、それは全く後悔しなかったと思われる。ただ、宗一少年殺害には確かに関与していなかったかもしれない。甘粕は上層部に責任を負わせず、一切を自分で被る役割として選ばれたのは間違いない。その意味で、その後の軍内で「触れてはいけない凄み」を持つ存在となった。しかし、若い時期の東条英機に世話になり、満州でもずっと従っている。結局「有能な部下」というべき人物だったのだと思った。
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亀戸事件殉難者、平沢計七『一人と千三百人|二人の大尉』を読む

2023年09月04日 21時45分57秒 |  〃 (歴史・地理)
 そう言えば、関東大震災関連の本を何冊か持っていたと思い出した。直接の震災本ではないが、亀戸事件で犠牲になった平沢計七(1889~1923)の作品集を読んでみた。講談社文芸文庫に平沢計七先駆作品集と銘打ち、『一人と千三百人|二人の大尉』という本が入っているのである。2020年4月に出た本で、本体価格1800円もしたが貴重な機会だと思って買っておいたのである。

 「講談社文芸文庫」というのは、日本の昔の小説などを収録している。そこに労働運動家の平沢の本が入るのは不思議な感じがするかもしれない。しかし、平沢の特徴は労働運動には「文化運動」が伴わなければならないと主張した人なのである。小説もあるが、特に戯曲が多いのが特徴。労働者演劇の可能性を追求した人として忘れてはいけない人なのである。この本には小説13編、戯曲7編、評論・エッセイ7編が入っている。300ページ強の本にこれだけ入っているんだから、一編の作品は短いものが多い。

 まだ文壇で「プロレタリア文学」が流行する以前である。それが「先駆」とある理由で、確かに素朴な正義感に基づき、労働者の覚醒を促すような作品が多い。「純文学」とはちょっと違うが、単なるプロパガンダでもない。作品としては自立しているものが多く、読めばなかなか面白い。では多くの人が是非読むべきかと言えば、そこまで傑作揃いというには躊躇する。労働運動と連動した社会史的な読み方をしなければ面白くない段階と言えるだろう。
(平沢計七)
 内容的には、「国家」や「会社」の示す価値観に囚われている人々が、労働者の真の価値に目覚めるまでを描く啓蒙的作品が多い。作品の発表母体も労働組合「友愛会」の機関誌である「労働及産業」が圧倒的に多い。初期プロレタリア文学の雑誌「新興文学」に発表された作品も2つあるが、そのひとつ『二人の大尉』は軍隊に召集されていた時代を描き鮮烈だった。シベリア出兵を控えた時期に、タイプの違う二人の上官を描き分ける。軍内のリアルな感覚が興味深い。

 平沢は小学校卒業後、ずっと現場労働者として働いてきた。鉄道院の職工となり、軍から帰った後は浜松で働いていた。その時に「友愛会」の存在を知り上京、東京府南葛飾郡(現在の江東区大島)で労働運動家として知られた。そこでの活動が評価され、本部の書記に抜てきされたが、やがて友愛会が急進化して行くにつれ孤立するようになった。1919年には友愛会を脱して「純労働者組合」を結成して、労働会館や「共働社」(消費組合)を作るなどした。また労働金庫、労働者のための夜塾、労働劇団を立ち上げるなど時代を先取りした活動を行っていた。

 このように平沢は急進的なマルクス主義的な労働運動家ではなかった。しかし、震災とともに亀戸署に拘束され、虐殺された。その時点で34歳で、妻子もあった。日本共産青年同盟(民青の前身)の初代委員長を務めていた川合義虎は、1902年生まれでまだ21歳だった。平沢とは一世代違うのである。そのような平沢が何故殺されたのか。日本で一番労働運動が盛んだった「南葛」地区で、地域密着型の活動を長く続けてきた平沢は、日々の活動を通じて警察と常に衝突してきて「目を付けられていた」のだろう。

 やはり戯曲が一番興味深いと思う。もっとも終わり方がどうも都合が良いのが多い。それでも題名通りの『工場法』や造船所の大ストを扱う『一人対千三百人』は貴重だ。実際に労働者によって上演出来るかは難しいとおもうけれど。特に大正11年に時間が設定された『非逃避者』(大正12年1月)は問題作である。それは「支那人労働者」に職を奪われるとして、「階級的自覚のない労働者」たちが、「河岸揚人夫頭」を訪れる。賃銀値下げに怒っているのである。その元凶は安く働く「支那人労働者」であるとし、その排撃を訴えるのである。ところが人夫頭は同調すると見えて、思いがけないことを言う。

 昔アメリカで人種差別にあったことがあり、「排日」はおかしいと思っていたのである。同じように、日本が外国人労働者を攻撃するのもどうかと思うと述べる。このような「排外主義反対」は職人の胸にストンと納得されるだろうか。それは現実によって証明されてしまった。震災時の中国人労働者の虐殺事件はまさに、平沢が活動してきた大島で起こったのである。そして、それは中国人の河岸労働者への襲撃に他ならなかった。中国人リーダーだった王希天と平沢は連帯出来たはずだが、そのような動きはあったのだろうか。逆に考えれば、排外主義を批判している平沢は警察からすれば警戒対象に他ならなかっただろう。そういう意味で、震災時の悲劇を予知した作品集でもある。
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関東大震災100年、「虐殺事件」と日本国家

2023年09月01日 22時19分58秒 |  〃 (歴史・地理)
 関東大震災関連で、8月31日から9月2日頃にいくつかの集会が予定されている。参加する気でいたのだが、猛暑続きのうえ諸事雑事に追われていて、何だか行く気が失せてしまった。昨日も関連記事を書くつもりが、どうも疲れて頭がはっきりしないなと思って止めた。それに自分が昔書いた記事を読み直すと、それ以上のことは今では書けないなと思った。

 それは、2017年8月から9月に書いた「関東大震災時の虐殺事件」に関する4回の記事である。
①『福田村事件
②『王希天と中国人虐殺
③『亀戸事件
④『朝鮮人虐殺

 これは当時として、知名度の少ないだろうと思った順番に書いたものである。「福田村事件」は劇映画になったので、知名度は高くなったと思う。これは明らかに「朝鮮人と間違われた」ことで起こったと考えられる。そのような事件は数多く、日本人でも沖縄出身者や障害者などで殺された人は相当数いたとされる。しかし、②の中国人虐殺は朝鮮人と間違えられたものではなかった。明らかに中国人労働者を狙って虐殺したのである。中国人労働者のリーダーだった王希天も狙って殺されたのである。

 もちろん亀戸事件(現在の江東区、当時は南葛飾郡)で殺された労働運動家、社会主義者たち、あるいは9月16日に起きた大杉栄伊藤野枝らの虐殺も狙って殺された。大杉らの事件に関しては、震災当日から2週間以上経っていて、「大震災の混乱の中で虐殺された」という認識では理解出来ない。他にも刑務所にいた社会主義者を引き渡すよう軍が要請したとか、個人的に警察に付け回されたなどの証言もある。日本政府が全体として、大地震をきっかけにして社会主義者、あるいは朝鮮独立運動家などを「始末」する計画を立てていたというと言い過ぎになるだろう。だが間違いなくそう考えていた人が存在したのである。

 それは1917年のロシア革命、1922年のソ連成立、同じく1922年の「第一次共産党」結成、あるいは1920年に始まった「メーデー」集会などが背景にある。支配層からすれば、日本にも「赤化」の恐怖が「ひたひたと迫っている」と見えたのである。これはもちろん日本の社会主義運動を過大視している。でも、何事も始まりの時はちょっとした出来事でも大げさにとらえるものだ。(全然問題が違うが、新型コロナウイルス流行の初期を思えば判るだろう。)

 いま関東大震災を総括するとき、単に揺れや火事だけを語るのは一番重大な問題を外すことになる。当時の多くの体験者が共通に語っているのは、むしろ「自警団の恐怖」の方だ。これもコロナの時に起こった「自粛警察」を思えば、理解出来るだろう。政治家はこの機会に当たって、この問題こそ語らなければならない。その点、東京都の小池都知事は在任期間を通じて、全く逆の言動を行ってきた。その結果、虐殺事件の碑の前で「ヘイトスピーチ団体」が集会を開くような事態にまでなってしまった。
(小池都知事の震災対応)
 「すべての犠牲者を追悼する」という言い方は、もちろん判っていて発言しているのだろうが、「虐殺事件」の重みを相対的に低下させる役割を果たしている。2022年秋には、よりによって東京都人権部が関東大震災時の朝鮮人虐殺に触れた映像作品の上映を禁止した事件が起こった。何しろ都の人権啓発センターの責任者が「都ではこの歴史認識について言及していない」「朝鮮人虐殺を『事実』と発言する動画を使用することに懸念がある」と伝えたという。東京都の職員のレベルはこんなものだとは知っていたが、これでは都知事発言の表面的意味を逸脱している。(ということは「真の意味を暴露している」ということか。)
(東京都の「検閲」を批判する人々」
 日本政府自体の問題ももちろんある。残された史料は無数にあることを知っていて、「政府として調査した限り、事実関係を把握することのできる記録が見当たらない」などと松野官房長官が述べている。これを見れば「調査」したというのだが、いつどんな調査をしたのか。ちょっとマジメに調査すれば、あちこちに記録は残っている。何しろ、中国政府は日本政府に公式に抗議したし、検察官はいくつかの自警団や大杉ら殺害の甘粕憲兵大尉らを起訴している。おざなり的な裁判だったけれど、日本国が公式に裁判をしたのだから、いくつかの記録はあるはずだ。(空襲で失われたり、隠ぺいされたものも多いとは思うけれど。)

 もちろん当時の日本政府は、きちんとした調査をしなかった。それは虐殺事件が「民衆が勝手に暴走した」というものではなかったことを逆に証明していると思う。そして、そのような政府が継続している。「殺した側」が権力を持ち続けているのだ。
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関東大震災100年、自分の歴史の中で

2023年08月30日 23時15分14秒 |  〃 (歴史・地理)
 2023年9月1日は、「関東大震災100年」の日である。この日は「防災の日」になっていて、大規模な防災訓練が行われる日である。この由来を知らない人が半分近いという調査結果が載っていた。なるほど、そんなこともあるだろうと思う。
(NHKの特集ページ画像)
 東京の多くの学校は、9月1日が2学期の始業式である。自分が学校に通っていた頃は、始業式、大掃除に続いて、ホームルームで通知表を返したり宿題を提出した頃になると、サイレンが鳴り響いた。「地震が発生しました」と放送があって避難訓練になるのが決まりだった。鞄を持ったまま集合して、そのまま下校となったと思う。今じゃ夏休みを短縮したり、始業式後にすぐ授業を始めたりする学校もあるようで、それでは防災の日の由来も知らない子どもが出て来る。

 僕の生徒時代から、「東京ではもうすぐ大地震が起きる」とずっと言われてきた。東京で起きたそれ以前の大地震としては、1855年の「安政江戸地震」が知られている。水戸藩の学者、藤田東湖が圧死した地震である。そこから関東大震災まで約70年。同じ時間差で起きると仮定すれば、20世紀末にも大震災が起きる可能性がある。少し早めに起きる場合もあると考えると、70年代後半頃から危険性が増大するというわけである。

 それからすでに半世紀近く経ち、まだ東京を再び襲う大地震が起きていない。結局は「相模トラフ」が原因である関東大震災と直下型地震の安政江戸地震では、起きる原因が違っていたということなんだろう。いつでも大地震が起きる可能性は日本中どこでも否定出来ない。しかし、「何年ごと」と決めつけられる問題じゃないんだろう。
(関東大震災震源地)
 自分は教員生活のほとんどを東京東部の中学、高校で勤務してきた。そこは関東大震災で多くの犠牲を出した地域である。火事で何万もの人が亡くなり、同時に朝鮮人、中国人の大規模な虐殺事件が起きた地域でもある。授業では関東大震災ばかり教えるわけにはいかない。だが、やはりきちんとした理解をしておかなくてはと考え、今まで「周年」ごとに行われた集会には出来る限り参加してきた。特に70周年80周年の時は高校に勤務していたから「日本史」や「現代社会」の授業と直結する課題でもあった。

 東日本大震災以前だから、若い世代にはもう東京に大地震が起きたという実感がない。その22年後の「東京大空襲」で再度東京が大規模に破壊されたからだ。そっちの記憶もずいぶん薄れているけれど、まだ「戦争」の方が語り継がれている。マスコミでも取り上げられていたし、教師側からしても「戦争」の方が重大なテーマである。

 だから、つい関東大震災は「そんなこともあった」程度で済ませてしまいがちだ。当時の子どもたちの作文など直接的な史料をどう生かすかが大事だと思う。僕が忘れられないのは、「魔法の絨毯」というのはこれかと思ったという感想である。地震直後の縦揺れに驚いたのである。ちょうど昼時だったので大火災となったことも教訓。これは今も全国で生きていると思う。大火災で巻き上げられた紙類が焼けて千葉県側に降り注いだ。「黒い雨」は関東大震災でも降ったのである。

 その後の「虐殺事件」をどう認識するか。これはなかなか難しい。男は皆兵役の義務があった時代である。日本は日清、日露、第一次世界大戦と10年おきに戦争をしていた。戦場で「活躍」した「勇士」が町のあちこちにいた。かれらは「在郷軍人会」として組織化されていた。「町を守る気概」にあふれた男たちが「殺人を公認された」と思い込んだのである。

 当局も「公認」したわけではないだろう。だから、後に刑事裁判にもなっている。だけど、それらは非常に緩やかな刑罰に終わっている。政府もまとまった調査を行わなかった。今に至るも、何度も野党側や弁護士会などから要求されているにもかかわらず、ちゃんとした調査を行わない。調査を行わないから、「記録がない」などと平気で言っている。(当時植民地だった朝鮮は別にしても、独立国だった中華民国民の虐殺事件に関しては記録が残っている。)

 インドネシアで1965年に起きた「9・30事件」では、軍・警察ともに民衆が共産党員を多数虐殺したと言われている。記録映画『アクト・オブ・キリング』を見ると、これも殺人を「公認」されたと思った人々が、国を守るための「愛国」行為として実行したのである。悪いことをしたとは全く思っていない。日本で1923年に起きたことも、それと同様のケースと思われる。

 結局、外国人も「同じ人間である」という認識は、それまで生きてきた様々の体験の中で人権感覚が養われているかという問題だろう。単に震災時にデマに惑わされないということではなく、日常の生活の中で「いじめ」「差別」などにいかに対処していくかという問題だと思う。
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