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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

早稲田大学博物館めぐりー充実した大学博物館なんだけど…

2025年07月02日 20時26分08秒 | 東京関東散歩

 早稲田大学博物館めぐりをしてきた。近年各大学に様々な博物館、特に学園の歴史を振り返るような施設が作られることが多くなった。たまたま今年になって慶應義塾大学立教大学の施設を見る機会があったので、次は早稲田大学へ。というか、久しぶりに演劇博物館早稲田大学坪内博士記念演劇博物館)に行ってみたかった。「演劇は戦争体験を語り得るのか 戦後80年の日本の演劇から」という企画展を8月3日までやっているからである。ここは前にも散歩して記事を書いたことがあるが、クラシックな建物が魅力的な日本唯一の演劇博物館なのである。入場無料。新収蔵品展もやっていて、森光子の衣装、緒形拳の行李など興味深い。

 

 博物館施設は中で写真が撮れないことが多い。『小説神髄』などで知られる坪内逍遙は英文科の基礎を築いた人で、日本で最初にシェークスピア全集を翻訳した。全集刊行を記念して1928年に設立されたというから、もうすぐ100年を迎えるという貴重な博物館である。伝統芸能や民俗芸能に加えて、最近は映画関係展示も多くなってきた。1階には「京マチ子記念特別展示室」が出来て、映画を上映していた。今は戦争映画特集で、部屋を締め切ってないので鑑賞環境は良くないけど、まあ貴重ではある。

 (坪内逍遙と写真が撮れる)

 さて、演劇博物館という特徴から、展示企画の「戦争演劇」もポスターが多くなる。ところどころでビデオを流しているが、大昔のものはポスターや写真しかない。戦前戦中は「戦意高揚」のための演劇があり、戦後になると戦争を振り返る「新劇」、三好十郎、田中千禾夫など戦争世代の演劇が登場する。60年代になると別役実などの不条理劇、寺山修司や唐十郎など「焼け跡世代」も現れてくる。その後は井上ひさし、野田秀樹、つかこうへいなどを紹介し、近年の藤田貴大などに至る。まあ新しい歴史観を提示するというよりは、通常の戦後演劇史に沿っていると思ったが、演劇ファンならこれらのポスターを見るだけでも嬉しいだろう。

   (演劇版『海辺のカフカ』の小道具)

 今回是非行きたかったのは「国際文学館」でまたの名は「村上春樹ライブラリー」である。どこにあるんだろうかと思ったら、演劇博物館のすぐ下にあった。4号館を隈研吾設計によりリニューアルし、2021年に開館した。しかし、コロナ禍と重なり一般入場者を制限していた時期もあり、行きたかったけど機会がなかった。今は大橋歩村上ラヂオの版画展』をやっている。(9月21日まで。)ここも入場無料で、多くの学生が自分の勉強のため使っていた。村上春樹の本がずらっと揃っていて、手に取って読むことも可能だが、まあそういう人は少ないだろう。多くの人には、まあ建物自体の方が面白いかも。カフェが付いている。

   (舞台衣装展チラシ)

 そこから正門付近に歩いて行くと、途中の2号館に「早稲田大学會津八一記念博物館」がある。ここは前にも来ているからちゃんと調べていかなかったら、今は2階が閉鎖されていた。それは7月4日から「舞台衣装展」をやるためだという。そこでは越路吹雪や7代目松本幸四郎らの舞台衣装が展示されるという。演劇博物館所蔵のもので、ちゃんと調べていけば良かった。ここはもともと歌人、美術史家として知られる會津八一の所蔵した東洋美術の逸品をズラッと展示する施設で、見ごたえがある。

 (歴史館内部)

 最後が「早稲田大学歴史館」。正門すぐの1号館をリニューアルして、2018年に開館した。(カフェもある。)まだ行ったことがなかったのだが、この施設はどうだろうか。施設的には慶応や立教より大きく、大層立派なものである。ほぼ「福澤記念館」的な慶応や、アメリカ宣教師が設立したキリスト教系の立教に比べると、大隈重信偏重ではなく当時の若者たちを大きく取り上げているのが面白かった。もちろん大隈を除くわけにはいかないから、大隈重信展示室で大隈の声(レコード)を聞くことも出来る。

 そういう「明治の初心」のようなものは良いのだが、他は大学の発展、活躍した同窓生というスタンスの展示になる。まあ森喜朗が卒業生なのは間違いないけれど、何も東京五輪に関連して写真を載せなくてもいい。「大学歴史館」に求められるのは何だろうか。それは「平和」と「自由」の大切さを現役学生に発信することが一番の役割だと思う。前者は特に「学徒動員」で何人が出征し、学園に戻ることが出来なかったかという史実である。立教と慶応はそれがあるが、早稲田は戦争時代の苦難を展示してない。

 もっともここでも4日から「学問の独立を問いなおす 戦争や権力とどのように向き合うべきか」という展示が行われる。そっちで展示するために外してあるのかもしれない。また「自由」に関しては、最初に学んだ女子大生は誰かという問題がある。映画『今日の空が一番好き、とまだ言えない僕は』の中で、関西大学の歴史館で河合優実が感激するシーンがあった。今の女子学生にとっても、大切な情報だと思う。「大学紛争」や「内ゲバ」、特に「川口君事件」などの説明もない。僕は卒業生じゃないから、これ以上言うつもりはないが、是非考えて欲しいところだ。

 ところで、早稲田と立教、あるいは学習院、大正大学など距離的に近い大学には、美味しいレストランがあったり、歴史的建築が多い。大学博物館や建築見学は無料だし、行きやすい。修学旅行に来る高校生、キャンパスが久しぶり(あるいは初めて)の高齢者、外国人や女性向けの「キャンパス観光」を是非行政や旅行会社に取り組んで欲しいと思う。東京の名所だと思うけど、行ったことない人も多いだろう。慶応、早稲田、立教、明治などは特に許可も要らず観覧できる。

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慶應義塾図書館旧館とパレスサイドビルー東京建築祭2025

2025年05月23日 21時55分35秒 | 東京関東散歩

 「東京建築祭2025」という催しをやっている。24、25の土日のみ公開の場所もあり、例えば「旧近衛師団司令部庁舎」(重要文化財)を見られる貴重な機会になっている。もっとも数年前まで国立近代美術館工芸館だった時に何度も見ているから、まあ今回はいいだろう。泰明小学校も土日に校庭、体育館、講堂を公開するが、写真をブログ、SNSに載せるのは不可とある。今日は疲れ気味なので映画を見ても寝そうだから、まだ行ってない「慶應義塾図書館旧館」(重要文化財)を見に行くことにした。

   

 1912年に完成した建物で、1969年に重要文化財に指定された。近代建築としては非常に早い指定だろう。慶應義塾にはもう一つ「三田演説館」という重要文化財がある。一つのキャンパスに二つ国の重文があるのは、東京には他にない。(北大や同志社には複数ある。)三田演説館は2017年に見に行ったけれど、その時「図書館旧館」は耐震工事中で見られなかった。工事は2019年に終了し、現在2階が「福澤諭吉記念慶應義塾史展示館」になっている。もともと旧図書館建築は1907年の慶應義塾創立50周年記念事業だった。赤レンガの壮麗な建造物で、当初は木造案もあったというが、煉瓦造りだったので関東大震災や空襲にも残ったのである。

   

 中へ入って階段を上ると大学歴史館になる。東京建築祭と関係なく常に誰でも無料で見られるところで、今回は特別なところが見られるのかと思ったらそういうことではなかった。特別展示は幾つかあって、「大講堂のレンガ片」(2枚目の写真)がそれ。山手大空襲で焼けた大講堂のレンガだという。また階段の踊り場に和田英作原画の「ステンドグラス」がある。実に見事なもので「ペンは剣より強し」とラテン語で書かれている。戦争中は軍部から難癖を付けられたとウィキペディアに載ってる。ところで2階は福沢諭吉資料館という感じ。それは良いけれど、幕末から明治初めが中心で「脱亜論」などの説明はなかった。

   

 反対側から見てもヨーロッパの町並みみたいで素晴らしい。この建物は明治末から昭和前期にかけて多くの名建築を手掛けた「曾根中條建築事務所」の設計である。幾つも提案した中で中條精一郎が作ったゴシック様式が採用された。中條設計の重文指定には他に旧三井銀行小樽支店がある。(なお、中條は作家中條百合子=宮本百合子の父としても知られる。)外に彫刻があったので見てみると、朝倉文夫の「平和来」という作品だった。上の2枚目、よく見えないけど彫刻越しに旧図書館を撮ったもの。

   

 三田から竹橋(地下鉄東西線)に回って、パレスサイド・ビルディングを見ることにした。ここも入れるのは普通に公開されている部分だけなので、どうしようかなと思っていたのだが、福沢諭吉資料館を見ていたら「文部省は竹橋にあり、文部卿は三田にあり」と明治時代に言われたと出ていた。後で調べてみると、確かに1877年から1933年まで麹町区竹平町(今の一橋)に文部省が置かれていた。パレスサイドビルというのは毎日新聞社が入っているビルで、東京国立近代美術館に行くときには必ず通る。だから10代の頃から何度も通り過ぎているわけだが、ビルそのものには何の関心もなかったのである。

   

 地下1階に当時の図面や写真が展示されている。東京建築祭のホームページには「多くの建築賞を受賞し、日本のモダニズム建築を代表する作品として評価されてきました。全長150メートルの直方体ビル2棟と、高さ50メートルの白い円筒コア2棟が一体となり、機能性と美しさを兼ね備えたデザインを実現。都市の景観に調和しながら存在感を放っています。」と紹介されている。1966年に竣工したビルで、設計は日建設計の林昌二。この設計で建築業協会賞など受賞多数。中野サンプラザを設計した人だという。

 ここは大島渚監督の『日本春歌考』で小山明子の勤務先としてロケされている。それは知っていたが、他にも『日本一の男の中の男』『女ざかり』『化石の森』などにも使われ、最近でもロケに使用されているとDVDが展示されていた。(1枚目)

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つつじが岡公園(館林)に満開のツツジを見に行く

2025年04月25日 21時53分18秒 | 東京関東散歩

 館林(群馬県)のある国名勝「つつじが岡公園」(名勝としての指定は「躑躅ヶ岡」)に行ってきた。館林は父母の墓がある町で、「つつじが岡」も今まで行ったことはある。中学時代に学校の遠足で行ったはず。(父が東武鉄道に勤めていたので、臨時列車を出すのに尽力したらしく、10年ぐらい前の同窓会で元担任の先生から感謝された。自分は全く記憶なし。)また結婚当初に夫婦で見に行ったらしいんだけど、これも全く覚えてなくて、ここの有名なツツジをちゃんと見たいと数年前から思っていた。

   

 今日はたまたま曇天で、少し涼しいぐらい。昔ゴールデンウィークに東北道を走ってたら、館林インターで降りる車が埼玉県まで連なっていて驚いたことがある。これからの連休はさぞ混むと思われるが、人生で一度は見て良い場所だろう。まさに今が真っ盛りで、今日は天気もあって人が多すぎず、目に深紅とピンク、そして点々と白が一挙に見えてきて見事。ツツジは各地に名所があって、東京でも根津神社など知られた場所が多いが、やはりここを見ると「日本一」だと思う。まず見事に撮れた4枚を掲載。

   

 入口から両側に店が広がっていて、そこを通り過ぎると一挙にツツジが目に飛び込んでくる。なかなか凄いと思ったんだけど、最初に載せた写真はちょっと上がって全景を見るような感じで撮ったもの。とにかく周囲全部がツツジなんだから見事だが、広角で撮影すると空が大きくなりすぎる。また「日本遺産」の「里沼」に指定された「城沼」(じょうぬま)が近くにあり、つつじ祭り期間は船も出てるが、この沼の方が大きく見えすぎてしまう。城沼の向こう岸にうちの寺があるが写真だと見えにくい。

   

 赤いツツジもいいけど、白いツツジも目に映える。場内はほぼ赤の氾濫だが、ところどころに白いツツジがあるのが良いのである。花は早咲きも遅咲きもあるから、もう盛りを過ぎたものもある。だから赤は様々なヴァリエーションがあるが、白はまさに今が見頃だった。ところで、ここは昔からツツジの名所で、江戸時代も榊原家から秋元家までの大名に保護されてきたという。特に園内の最古木は樹齢800年とされる「匂当内侍(こうとうのないし)遺愛のツツジ」である(上記3,4枚目)。で「匂当内侍」って誰だ?南北朝時代に後醍醐天皇から新田義貞に「恩賞として与えられた女性」だと出ているが、どうも伝説上の人物らしい。

   (旧秋元別邸)

 館林城はほぼ残ってないのだが、江戸時代にはけっこう重大な城だった。何しろ5代将軍になる前の徳川綱吉が25万石で封ぜられたことがあるぐらい。最後の大名だった秋元氏が明治末期に建てた別邸が「旧秋元別邸」である。ここは「つつじが岡第二公園」になっている。まあ、ツツジ的にはそれほどでもなく花菖蒲の方が見事らしい。つつじが岡公園から歩いても10分ぐらい。車だと尾曳神社前駐車場に停めると信号真ん前。ここまで来る人は少ないみたいだが、是非こっちも来てみるべきだろう。

   

 旧秋元別邸の隣が「田山花袋記念文学館」で、その隣に「向井千秋記念子ども科学館」がある。どっちも寄らなかったが、館林は田山花袋(明治時代の「自然主義」で名高い作家)と向井千秋(日本人初の女性宇宙飛行士)の故郷なのである。上の画像の最後が田山花袋像で、3枚目は田山花袋生家。その前が「旧上毛モスリン事務所」である。田山花袋記念文学館から道を隔てて真ん前にある。なかなか趣のある洋館だった。館林には他に分福茶釜で名高い「茂林寺」や群馬県立美術館がある。茂林寺(もりんじ)は行ったことがないので行こうかと思ったが、早く帰りたくなってきて寄らずに帰ることにした。

 ツツジ満開期間は630円。東武線館林駅からシャトルバスあり。車だと館林インターから10分ほどだが、休みの日は駐車場がいっぱいで遠くの市営無料駐車場に案内されるかもしれない。まあ縁ある町だから、少し宣伝。ちなみに夕方のニュースで、「ツツジ」を漢字で書くとどれ?とクイズがあった。「髑髏」「躊躇」「蝋燭」「躑躅」から正解はどれか? 読めない人は自分で調べてください。

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水戸・偕楽園「梅まつり」を見に行く

2025年03月14日 21時53分40秒 | 東京関東散歩

 世に言う「日本三名園」。岡山・後楽園金沢・兼六園は行ってるのに、一番近い水戸・偕楽園に入ったことがなかった。「入ったことがない」というのは変だけど、真ん前を車で通ったことはあるのだ。雨だったので、入るのを止めたのである。「車窓見学」だけじゃ何なので、一度「梅まつり」に行かなくちゃと思っていた。水戸藩の藩校だった弘道館は2回行ってるので、今回はパス。今年は3月に入っても寒く、梅が咲いてなければ意味がない。ようやく暖かく(ちょっと暑いぐらいに)なった。関東は快晴の予報の日に行って来ようかな。まだ満開というより7分咲き、8分咲きぐらいだったけど、門を入ると梅の香でいっぱい。

   

 水戸駅で下りて北口へ。真ん前でバスの「一日フリーきっぷ」を売ってる。40円お得になるだけだが、交通系ICカードが使えないので、買わないと不便。そして真ん前のバス停で待つようにと言われて、来たバスに乗った。(車は混んでるから公共交通機関を使えとパンフに出ている。レンタサイクルもあるらしいが、偕楽園に行くだけならバスの方が便利だろう。)そして20分ぐらいで「偕楽園・常磐神社前」バス停に着いた。門はいろいろあるが、バスが満員なので皆が下りる場所でしか下りられない。

   

 神社はパスして、縁日みたいなお祭り空間を抜けて、入口へ。混んでると思って、事前にデジタルチケットを買っていった。それで正解だったが、結構面倒だった。写真はいくら載せても同じで、要するに偕楽園の北半分は梅林なのである。他に広場や竹林もあるが、普通「名園」というと「日本庭園」で、池の周りに築山という「池泉回遊式」である。兼六園もそうだし、岡山の後楽園もそう。だけど、偕楽園は違う。趣という点では同じく水戸藩ゆかりの「小石川後楽園」の方が良いかも。

(①烈公梅)(②白難波)(③虎の尾)

 園内の梅の品種を研究し、1934年に「水戸の六名木」というのが選ばれた。白梅が多いが、紅梅「江南所無」もある。園内各所にあって、垣に囲われて説明が出ている。まあ、一応それは見ていこうかと思って、6つ写真に撮ったのがこの6品種。

(月影)(⑤江南所無)(⑥柳川枝垂)

 偕楽園は読んで字のごとし、「民と偕(とも)に楽しむ」という意味で「孟子」の言葉だという。幕末の有名な水戸藩主、徳川斉昭 (烈公)により構想されて、1842年に開設された。元は藩士の休養の場として作られたが、3と8が付く日には領民にも開放されていたという。幕末の水戸藩は不毛のイデオロギー対立で有為の士をほとんど失ってしまった。「尊皇」思想の発祥地みたいなとこなのに、明治政府で活躍した有名人がいない。(その対立のすさまじさは、水戸出身の山川菊栄覚書 幕末の水戸藩』に詳しい。)それでも偕楽園が今に残っているのは不思議だし、まあ良かったんじゃないかと思う。

 (吐玉泉)

 東門から梅を見ながら表門まで行き、竹林を通り過ぎて下りていくと「吐玉泉」(とぎょくせん)がある。斉昭が作らせた湧水所で、大きな大理石から湧いている。今の石は4代目だそうで、1980年代に作られたものだという。そこから「好文亭」をめざす。斉昭が作った休息所で、各種の催しに利用されたという。空襲で焼けたが、1958年に再建された。さらに1969年に落雷で奥御殿が焼けたという。市街地とは離れているが、空襲でここまで焼けたのは驚き。全景が撮りにくいのが難だけど。

   

 部屋を見て回った後で、最後に3階まで登れる。すごい急階段で危ない感じだけど、自分もそうだけどこういう場所で落ちてる人はいないもんだ。上は風が強かったが、南方面が見渡せる。まあ梅林には向いてないけど、常磐線を越えて千波湖、そして市中心部が見えている。日本最古の食器用昇降機が珍しかった。

  

 他にもいろんな碑があるようだし、もっと見て回るべきなんだろうが、かなり暑い日だった。線路の南側にも梅林があるのは知ってたが、まあいいだろうと思った。むしろ弘道館や水戸城の遺構を見たい気があったけど、一度に両方見るのは大変だからパス。要するにさっさと帰ってきたわけ。これで「偕楽園」に「済」マークを押したというわけ。

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「埼玉の日光」、国宝妻沼聖天山を見に行く

2025年01月12日 20時16分36秒 | 東京関東散歩

 妻沼(めぬま)と言われても難読地名だろう。埼玉県北部、川向こうは群馬県太田市という辺りである。2005年に熊谷市と合併して、今は自治体名としては残っていない。昔、東武鉄道熊谷線という熊谷と妻沼を結ぶ短い路線があったので、名前だけは小さい頃から知っていた。(本来は太田市にあった中島飛行機への資材搬送のため計画された路線だったようである。敗戦で必要が薄れて、短いまま運行されていたが、1983年に廃止された。)その妻沼にある歓喜院聖天山(かんぎいん・しょうてんざん)の本堂国宝に指定されたというニュースがあったのが2012年。エッ、聞いたことないんですけど。

 いつか行きたいと思っていて、ようやく今年の正月に出かけてみた。なかなか場所的には行きにくいのである。熊谷と大田方面を結ぶバスはあるようだが、なかなか遠そうだ。車で行っても関越道と東北道の中間になり、どっちからも距離がある。しかし、まあ隣県なんだから日帰り出来る範囲である。関東の国宝建造物は日光(東照宮、輪王寺)、鎌倉(円覚寺舎利殿)の他は富岡製糸場、足利の鑁阿寺、赤坂の迎賓館、東村山の正福寺地蔵堂しかないので、非常に貴重で気になる場所である。

   

 上記写真にあるのが本堂の奥殿で、ここが国宝エリア。ここまで行くのもなかなか遠いのだが、本堂まで行っても一番大事なところは見られない。まあちょっとは見えるんだけど、奥の方に日光の東照宮陽明門みたいな見事な彫刻に覆われた黄金の建物が見えている。そこは有料エリア(700円)だけど、入らないと意味がない。ただエリアが板で囲われているので、全体を写真で撮るのが難しい。陽が差していると金箔が輝いてキレイだけど、写真が難しい。自分で撮るのがなかなか難しい場所である。色彩がかなり褪せていたらしいが、2003年から11年まで修復工事が行われ、その完成を待って国宝に指定されたのである。

   

 創建は平安末期だが、この本堂は江戸時代中期に再建された。具体的には1735年から60年で、東照宮みたいな権現造というらしい。奥殿は本堂に接続し、残り3面に彫刻が施されている。それは仏教をベースに儒教や道教などの教えを平明に説くものらしい。ボランティアの説明があるので聞けばよく判る。面白いんだけど、全部書いてても仕方ないから省略。写真ももっと撮ってるけど、あまり多く載せても仕方ないから省略。この彫刻が素晴らしいので、「埼玉の日光」と呼ばれる。一見の価値がある。 

   

 上の写真が本堂で、その奥に奥殿があるわけだ。合わせて国宝に指定されている。寺伝によると、1179年に斎藤実盛(さいとう・さねもり)によって建立されたと言われる。斎藤実盛はこの地域を本拠とした武将で、源氏の内紛で源義賢が討たれた時、まだ幼児だった義仲を木曽に送り届けた人である。その後は平氏に従っていて、源平合戦になると義仲追討軍に加わることになった。1183年、加賀国の篠原の戦いで討ち死にしたが、事前に覚悟を固めて白髪を黒く染めて出陣した。このエピソードは『平家物語』で後世に伝えられている。江戸時代初期の1670年に大火で焼失し、それを江戸中期に20数年かけて再建された。

(斎藤実盛像)

 ここにはもう一つ見どころがある。国指定重要文化財貴惣門という境内正面にある門である。横から見ると三つの破風を持つ特異な様式と調べて知ったのが今なので、うっかり正面しか撮らなかった。1855年頃完成という。持国天、多聞天を左右に配している。他にも国の登録有形文化財指定の建物は多いけど、国宝の本堂にかなり圧倒されたので、他は写真を撮らなかった。また本尊になっている錫杖(しゃくじょう)が重文に指定されている。下が貴惣門。

   

 この地域はやたらに長い稲荷寿司が名物で、「聖天寿司」というらしい。まあ買わないけど。境内に占い師がいて、寒い中ストーブに当たって客待ちしていたが、誰も相談してない感じだった。境内に鰻屋もあったし、なかなか広いお寺だった。車で5分ほどのところに「道の駅めぬま」があって地場農産物も多い。「妻沼ねぎ」という名前で束にしたネギを売っていた。まあ隣が深谷なので、深谷ネギと同じような品種だと思う。帰りは車で羽生方面に向かう途中に荻野吟子記念館があった。

   

 荻野吟子(1851~1913、おぎの・ぎんこ)というのは、日本最初の「女医」である。日本全体ではそんなに知られてはいないと思うが、埼玉県では「埼玉三偉人」の一人となっている。(後の二人は塙保己一(はなわ・ほきいち)と渋沢栄一。)日本で最初の女性医師はシーボルトの娘じゃないのという人もいるかもしれない。しかし、「正式な国家資格第Ⅰ号」は荻野吟子で、1884年のことだった。1868年に結婚するも夫から淋病をうつされて離婚し、その時の体験から女性医師の必要性を痛感して勉強を始めた。東京女子師範(現お茶の水女子大)を首席で卒業し、その後医学を学ぶも国家試験を受けることすら認められなかった。そこを何とか苦労の末に突破するのだが、それは映画にもなっている。時間がなくて記念館は見なかったが、生誕の地の碑が立っている。

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荻外(てきがい)荘と大田黒公園ー近衛文麿旧居と杉並の名園

2024年12月13日 21時32分02秒 | 東京関東散歩

 昭和戦中期の首相近衛文麿(このえ・ふみまろ、1891~1945)の旧居「荻外荘」(てきがいそう)の修復が終わり、今週から一般公開された。ここは国の史跡に指定されているが、近現代の指定は非常に珍しい。特に政治家関連の史跡は非常に貴重だ。荻窪駅(JR中央線、地下鉄丸ノ内線)から徒歩15分ほどで、途中に大田黒公園角川庭園があるので、格好の散歩道。荻外荘は隣接する荻外荘公園から眺めるのは無料だが、中を見るなら300円。水曜休。喫茶室もある。

   

 荻窪駅南口から歩き出す。方向の案内板は充実しているが、道が複雑なのでスマホのナビを使う方がいいかもしれない。駅から一番近い太田黒公園に行き着けば、そこにパンフが置いてある。荻外荘そのものはどこから入るのか迷ったけれど、まずは隣の公園に行って家を見てみる。平屋建ての和風建築で、もとは1927年に建てられた。築地本願寺で有名な建築家伊東忠太の設計である。大正天皇の侍医頭だった入澤達吉の別荘として建てられたもので、1937年に近衛が入手したという。

   

 荻外荘入口には今も「近衛」という表札が掛かっている。近くから見ると、上のような感じ。荻外荘の名前は元老西園寺公望の命名である。玄関には西園寺が書いた額が掛かっていた。近衛は目白に本邸があったが、富士山も望める荻窪が気に入って、入手後はほとんどここにいたという。1932年の東京市拡大(35区)によって荻窪はすでに東京市内だったけれど、実感としては郊外の別荘だろう。しかし甲州街道に近く、車で行動出来る近衛には案外便利な場所だったんだろうと思う。

 (玄関)(中国風応接間)

 中に入ると、玄関の方から見ることになる。中国風とされる椅子の応接間もあるが、もう一つ和風の応接間が「荻窪会談」が行われた部屋である。1940年7月19日、次期首相に決定していた近衛が自邸に陸海外の大臣候補を呼んで行った会談である。下の写真左から近衛松岡洋右吉田善吾東条英機。第2次政権発足(7月22日)直前で、吉田は現職の海軍大臣。松岡、東条は時期外相、陸相に予定されていた。ドイツ「電撃戦」を受け、会談では日独伊枢軸強化、日ソ不可侵協定などの方針を決めた。

(応接間)(荻窪会談)

 どうも「杉並に偉人が住んでいて、日本政治の重要な会談が行われた」的な紹介をしている気がするが、今書いたように「日本の歴史を誤らせた」場なのである。「負の歴史遺産」であることを忘れてはいけない。日中戦争拡大の直接的責任者であり、政治的責任は大きい。また敗戦後に戦犯指定を受けて、1945年12月16日に服毒自殺したのも荻外荘。しかし、そのことはほとんど触れられていない。戦後は一時吉田茂が住んでいたこともあるが、その後応接室などは巣鴨の天理教東京教務支庁に移転されていた。今回天理教当局と交渉して、改めて戻した上で「荻窪会談」当時の再現を目標に修復を進めたという。

   

 廊下から外の公園の方を見ると、なかなか良い感じ。南側(公園)が低くなっていて、建物は高台にあるから見晴らしが良いのである。荻外荘から「角川庭園」へ案内に沿って5分ぐらい歩く。角川書店創業者で、歌人・国文学者でもあった角川源義(かどかわ・げんよし、1917~1975)の家だった場所である。庭園的にはあまり大きくなく、時間が少なければ省いてもいいかな。角川関係の資料が展示されているわけでもないが、集会所としてよく利用されているらしい。

   

 そこからまた5分ちょっと歩くと大田黒公園。首都圏では紅葉のライトアップがテレビでよく紹介される所だが、初めて。音楽評論家大田黒元雄(1893~1979)の旧居をもとに作られた回遊式庭園である。大田黒と言われても誰それという感じだが、日本の音楽評論の草分けで文化功労者に選ばれた人。それにしてもこんな立派な庭がよく持てたなと思うと、実は死後に周囲の土地を併せて杉並区が整備した庭園だった。大田黒の父は芝浦製作所を再建した後、全国の水力発電所を経営した大田黒重五郎という戦前の経済人だった。元雄は父の財力で好きな音楽の道に進み、特にドビュッシーを日本に紹介したという。

   

 門を入ると、イチョウ並木が今まさに黄葉していて素晴らしい。グループで来た人は皆「オオッ」と声を発して、スマホを取り出す。人も多くてなかなか撮りにくいのと、もうすでにかなり落葉していて落葉がいっぱい。そっちを撮ると。

  

 紅葉も見頃で素晴らしい。池をめぐる散歩道が紅葉の中心で、ここが無料で見られるのは素晴らしい。

   

 大田黒元雄が住んでいた洋館も公開されている。中にはスタインウェイのピアノが置いてあった。

   

 その後荻窪駅に戻って、丸ノ内線で新宿で下車してSONPO美術館で『カナレットとヴェネツィアの輝き』を見た。一度は見なくて良いかなと思ったんだけど、やはり見に行くことにしたけど、それは別の話。

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八王子城を見に行くー日本百名城の廃城

2024年12月04日 22時40分07秒 | 東京関東散歩

 関東地方は比較的暖かな小春日和が続いている。そういう日にまだ行ってない日本百名城に行こうと思って、八王子城に行ってみた。国指定の史跡としては「八王子城跡」となる。戦国時代末期、北条氏にとって小田原を守るための重要な軍事拠点だった山城で、1590年に豊臣秀吉軍に攻め落とされて廃城となった。現在は発掘、整備が続き、2012年には「ガイダンス施設」が出来た。

 結構大変な山城で、安土城ほどじゃないけど山歩きは久しぶりなので大丈夫かな。主に「御主殿」(ごしゅでん)エリアと山登りが必要な本丸エリアに分かれている。何かすぐに山に登る人もいるようだが、城としては「御主殿」の方を見ないといけない。八王子城は北条氏政(4代目)の弟北条氏照の本拠地だった城で、氏照の館があったとされるのが御主殿である。管理棟から左へ下って、山道を歩いていく。なかなか着かないなと思った頃、城山川にかかる曳橋を渡れば虎口の石垣が見えてくる。

   

 その前に出発地点に戻すと、管理棟前に「史跡八王子城跡」とあり、そこから「御主殿方面」と書かれた道がある。そこを進むと気持ち良い山道が続いている。山登りの後では御主殿に行くエネルギーがないと思って先に行ったが、結果的にはこっちだけでもよいかも。城というのは戦闘のために作られるわけだが、実際に戦争になった城は少ない。江戸時代に作られた城は、権力を誇示するかのような巨大な建造物になった。大坂城のように「冬の陣」「夏の陣」で実際に戦闘に巻き込まれ焼け落ちた城もあるが、後に再建された。その点、八王子城のように実際に戦闘が起こって、そのまま廃城になった城は全国でも少ない。

   

 進んで行って虎口(こぐち)に着くと石垣があるが、これは残っていたものではなく史跡指定後の整備事業で再建されたものである。虎口とは曲輪(くるわ)の出入り口だが、敵と最初にぶつかる地点だから曲がったりして突撃しにくいようにしている。なるべく当時の石垣・石畳を使って「できるだけ史実に忠実に復元」とパンフに書いてある。虎口を登り切ると御主殿跡で、ここは調査・整備の途中なので今はただの空き地。もっとも建物の礎石が判るような整備をしている。

   

 その先に「御主殿の滝」があって、そこで北条方の婦女子が自刃して身を投じたという。見に行かなかったんだけど、正直言えば、存在に気付かなかった。そこから戻って、今度は本丸への山登り。山自体は標高445mだが、ほとんどが直登で標準タイム40分。とてももはや標準では登れず、休み休み登る。40分というのは、ちょっとした低山ハイクで、しかも登りにくい石だらけ。本格的な登山靴までは要らないだろうが、ただの城めぐりじゃなく山登りの覚悟は必要。

   

 まあ休み休み行くうちに次第に高度を稼ぎ、7合目、8合目、9合目の標石が出て来る。途中で八王子から都心方面を一望出来る展望がよい場所があった。登り切ると八王子神社がある。さらにその上に本丸があるというので、行こうと思ったが道が大変なので途中で止めてしまった。多分霜が解けたんだと思うが、山道がかなり滑りやすく、細い道だと危ないなと思った。特に何もないところで、もともと天守閣などはなかった城である。豊臣軍の攻撃に備えて、急ごしらえで整備された城で、最後まで完成していなかったとされる。展望的には低山ながら眺望を楽しめるが、史跡というよりは低山だった。

   

 北条氏照は兄である北条氏政を助けて、軍事・外交を担って活躍した武将である。もともとはもう少し北にあった滝山城が本拠地だった。八王子城は1571年に建造が始まった(他の説もあるらしい)が、氏照の本拠となったのは1587年である。滝山城も「続日本百名城」に指定されていて、武田信玄や上杉謙信に攻められたこともある。しかし、山城としては低いため、統一権力の豊臣軍との本格的交戦を予想して本拠地を移したと考えられている。そして、実際に3年後に大軍が押し寄せてきた。

 1590年7月24日、上杉景勝、前田利家、真田昌幸らの1万5千人ほどの大軍に攻められ、一日も持たず落城した。城主の氏照は小田原に行っていたため、城代など3千名ほどが籠城していたと言われる。城攻めの基本は「衆寡敵せず」である。これほどの兵力差があれば勝ち目はなかった。しかし、八王子城である程度時間が稼げると踏んでいた北条氏としては痛恨の敗戦となり、そのまま小田原は開城に追い込まれることになった。氏照と前当主(4代目)氏政は秀吉から切腹を命じられた。

 そういう場所だからか、ネットで「八王子城」と検索すると、「危険です」とか「心霊スポット」などと表示されるほどである。まさかそんなことがあるわけもない。そんなことを言い出したら、広島、長崎、沖縄本島はもちろん、東京や大阪だって行けなくなってしまう。ここの場所は東京西部の中心地八王子市の中でも西の方、大まかに言えば高尾山の北の方である。圏央道八王子西インターから10分ぐらい。土日はバスがあるとのことだが、平日はタクシーかマイカーになる。

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赤山城跡と安行ー江戸時代の関東と「植木の里」

2024年11月13日 22時10分03秒 | 東京関東散歩

 埼玉県南東部に安行(あんぎょう)という地区がある。昔は安行村だったけど、1956年に川口市と合併した。近くの人以外はあまり知らない地名だと思う。昔は僕の最寄り駅からバスが出ていて、時々母親が庭に植える植木を買いに行っていた。(持ち帰れないから、後から届けて貰ったんだろう。)安行は「植木の里」で、園芸農業の盛んな地として知られていたのである。

 また、僕の最寄り駅近くを通っている道路を「赤山街道」と呼んでいる。この赤山って何だろうと昔から思いながら、全然知らなかった。やがて自動車で東北方面(日光など)に行くようになったら、安行近くに「赤山」という地名があった。ふーんと思ったけど、じゃあ何で「赤山街道」なのかは知らなかった。最近やっとそのことが判明したので、この前行ってみた。

 江戸時代に「赤山城」(赤山陣屋)というのがあったのである。東北道につながる首都高に川口ハイウェイオアシス(一般道からも利用出来るサービスエリア)がある。首都高に入って2つめのインターで下りちゃうので、今まで利用したことがなかった。(トイレは自宅まで我慢出来るので。)この前どんなところだろうと下りてみたら、そこは「イイナパーク川口」という公園だった。物産館などの他、「歴史自然資料館」もある。赤山城跡というのは、この公園の近くにあるらしいと地図もあった。

   (赤山陣屋跡地と碑)

 そんな城は知らないという人が多いだろう。「大名」じゃないので、史跡としては「赤山陣屋」とも呼ばれる。しかし、堀なども備えたなかなかのもので、1629年伊奈忠治が築いた。ここは「関東郡代」と呼ばれた伊奈氏の拠点だったのである。今は堀跡と思われるものなどの他、当時の建物は何も残ってない。それも当然、伊奈氏は幕末まで続かなかったのである。イイナパーク北口から5分程度歩いたところに、碑が立っているだけである。案内板は2024年に建てられていた。

   (伊奈忠次像)

 公園にある「歴史自然資料館」は本当に小さな施設だったが、そこに赤山陣屋のジオラマがあった。上の1枚目だが、遠くから撮ったしガラス越しで何も判らない。2枚目は伊奈氏の説明パネル。3枚目は堀跡。資料館前には初代の伊奈忠次の像が作られていた。忠次は徳川家康に仕えた武将で、関東支配に大きく貢献した。新田開発や利根川の付け替えなどにも関わったらしい。伊奈氏の祖地である埼玉県伊奈氏小室に1万石を与えられた。それは長男、孫と受け継がれたが、後継なく改易となった。

 忠次長男の忠政が1618年に亡くなったため、関東代官としての仕事は弟の伊奈忠治が引き継いだ。この忠治は以前から勘定奉行を務めて7千石を与えられ、赤山に屋敷を築いていた。この忠治こそが関東地方の河川改修、利根川東遷事業や荒川、江戸川などの開削工事を行った人物である。これらの功績により、関東代官領の支配は代々伊奈氏が世襲することになり、12代、約200年近く、赤山陣屋を拠点にした伊奈氏の関東支配が続いたのである。

 伊奈忠次という名前はなんとなく記憶にあった。家康時代の歴史に出て来たと思う。しかし、それ以後18世紀末まで伊奈氏が関東の代官を世襲していたことは知らなかった。当然それだけ長く続けば強大な力を持つようになる。一時は飛騨代官も兼ねたり、勘定奉行配下から老中直属に変わったりした。このように強大化した伊奈氏で18世紀末に御家騒動が起こる。その結果、1792年に12代忠尊(ただたか)は改易され、伊奈氏の関東支配は支配は終わり赤山城も破壊されたのである。

 お取り潰しの後、伊奈氏の持っていた強大な権限は分割され、関東代官の地位は勘定奉行の下に戻った。ということで、もう僕もそんな伊奈氏の業績は全然知らなかったのである。強大だった時代、赤山に至る道が整備され、日光街道の千住、越谷、中山道の大宮に至る赤山街道が整備されたのである。僕の家近くに残る赤山街道の名は千住へ向かう道のなごりだった。近くの源長寺に伊奈氏歴代の墓所があるということで訪ねてみた。下2枚目、3枚目の写真。寺には寝釈迦像があった。

   (寝釈迦像)

 安行地区は「埼玉県立安行武南自然公園」に指定されている。県立公園は国立公園、国定公園に次ぐ自然公園だが、埼玉県には長瀞玉淀、奥武蔵、両神、武甲など首都圏から多くの観光客が訪れる地区がある。「武南」は武蔵の南ということで、さいたま市浦和、及び川口市安行の二地区が合わさって1960年に指定された。でも「自然」というより、人工の景観が広がる地域で、しかも今はほとんど宅地化している。現地でも自然公園という案内は全くなかった。下のような感じ。

   

 ただの田舎の農村風景だろうという感じだ。これが自然公園なら全国のほとんどは指定可能じゃないか。と思うけど、70年前は園芸農家の他は雑木林が広がるような地域だったんだろう。園芸と言っても、安行地区は植木や盆栽などが中心で、そういうのが植えられた農家が今も多い。まあ、わざわざ散歩に来るほどでもないと思ったけど。「埼玉県花と緑の振興センター」もあって、どんなところかと行ってみたが、確かにいろんな樹木はあったけど閑散としてた。

 

 この地区には「道の駅」もあって、「川口緑化センター 樹里安」(上1枚目)が指定されている。ここには多くの植木や花、盆栽が販売されているので、関心がある人には楽しいかも。農産物直売所もある。そこに「安行観光マップ」もあるから、まあ一応観光の対象にはなっているらしい。長年の疑問が解決したけど、全国ではほとんど知られてないだろう地域だろう。

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築地本願寺をめぐるー築地散歩②

2024年11月04日 21時46分31秒 | 東京関東散歩

 築地という地名は読んで字の如く「土地を築く」という意味で、まあ埋め立て地のことである。時代は江戸初期、明暦の大火で焼失した浅草の本願寺の再建場所として、幕府から与えられた代替地だった。佃島の門徒が造成を担当したという。その後寺町として発展し、また大名屋敷も多かった。ということで、築地と言えば成り立ちからしても本願寺なのである。なお、今も浅草(地下鉄田原町近く)に本願寺があって、浅草浄苑という霊園のCMで知られる。あっちは東本願寺で、築地は西本願寺。 

   (歩道橋の上から)

 地下鉄築地駅を出れば、もう目の前に築地本願寺の偉容が広がる。なかなか写真では魅力が伝えられない。そのぐらい独特で、忘れがたい姿をしている。何枚写真を撮ってもよく撮れたという満足感がない。今は外国人客が多く、人が入らないように撮るのが難しいということもある。階段を登って中を見ることが可能。無料のお寺では珍しいが、写真を撮ることは憚られる雰囲気。いつも法会を行っていて、その日に申し込むことも出来る。お坊さんに様々なことを相談出来る「僧談」申し込みコーナーもある。ネットで写真を探すと、以下のような感じ。椅子席である。ニコライ堂の内部見学は有料だから、ここは貴重。

  

 東京の建造物は大体関東大震災で焼失したところが多い。築地本願寺もその一つで、現在の本堂は1931年に竣工して、1934年に完成した。まだ100年は経っていないが、2014年に重要文化財に指定されている。日本の寺院と言えば、どうしても中国風を思い浮かべて、それが通念になっている。でも築地本願寺だけが違うのである。これは「古代インド風」なのである。設計したのは伊東忠太で、当時は東京帝大名誉教授だった。本願寺派法主で探検家としても有名な大谷光瑞と知り合いで依頼された。

   (重要文化財指定)

 伊東忠太(1867~1954)は建築界で初めて文化勲章を受けた人で、現時点で重要文化財に5つが指定されている。他は橿原神宮平安神宮本願寺伝道院(建築当時は真宗信徒生命保険本館)、伊賀上野にある芭蕉記念の「俳聖殿」。明治神宮の共同設計者でもあり、武田神社、弥彦神社、上杉神社、靖国神社遊就館などの設計もしていて、近代神社建築の第一人者だった。現存しない台湾神宮、朝鮮神宮、樺太神社なども設計していて、まさに「帝国の建築家」というべき存在である。

 築地本願寺は当時としては珍しい鉄筋コンクリート建築で、インドの仏塔(ストゥーパ)風の塔屋を持っている。仏教は本来インド発祥だから、外観は古代インド風を取り入れたわけである。当初は異様だったと思うが、今となってはなじんでいる。歴史的な観光寺院を別にすれば、見ていて一番見ごたえがある寺じゃないか。しかも、この寺は今も多くの人を受け入れている。2017年にはインフォメーションセンターと合同墓が作られた。前者にはカフェが併設され、いつも賑わっている。あんまり並んでるので、まだ入ってないけど、実は本堂右手奥にある「伝道会館」でも食事が出来る。オシャレ度では劣るが、こっちで十分。

(カフェ)(第一伝道会館)

 境内にはいろんな碑があるが、あまり知られてない。下の写真で順番に、都旧跡の「土生玄碩」(はぶ・げんせき)の墓で、19世紀前半の眼科医。国禁を侵して開瞳術を施した西洋眼科の始祖だという。次が「酒井抱一」(1761~1829)の墓。姫路藩酒井家の次男に生まれ、画家・俳人として知られた人である。江戸琳派の祖とされる。次は九条武子の碑。大谷家に生まれ、九条侯爵家に嫁いだ。歌人として知られ、また「大正三美人」とうたわれた。慈善活動でも知られ、仏教婦人会を組織した。震災孤児の支援や築地本願寺再建に尽力したが、完成を見ずに1928年に亡くなった。最後が親鸞聖人の像。

   

 碑はもっと多いんだけど、余り載せても大変だから省略する。つまり史蹟指定などはない碑である。築地本願寺はプロがじっくり写真を撮れば、とても面白いところだと思う。今回何度か行ったけど(見つからない碑があって、探し回ったため)、一番最初に行った晴れた日の夕方の本堂を最後に数枚載せておく。

   

 荘厳な感じがうかがえる。ものすごくたくさん来ている外国人観光客は何を感じるんだろうか。ここは「日本美」じゃないんだけど、理解出来ているんかな。築地場外市場の方も行ったけど、時間もなくてちゃんと見なかった。人が多すぎるのもあるし、マーケットなら「アメ横」の方が近くていいなと思った。それにしても、聖路加周辺の碑を探し歩き、本願寺でお茶して場外市場へ回るというのは、東京の半日散歩としては充実したコースなんじゃないかと思った。

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築地小劇場跡や聖路加病院周辺、碑がいっぱいの町ー築地散歩①

2024年11月03日 20時41分11秒 | 東京関東散歩

 暑さが和らぎ、まだ寒くもない。そんな季節は今や日本にごく少ない。じゃ町を散歩しよう。まず「築地」(つきじ)である。銀座の隣で、自分の家からは地下鉄で一本。でも今まで一度もちゃんと行ったことがない。この前「出川・一茂・ホラン フシギの会」というテレビ番組で築地場外市場を取り上げていた。東京の有名地らしいから、東京人はよく行ってると思われるかも知れないが、一度も行ったことがない。地下鉄は築地、東銀座、銀座、日比谷と続く。そっちは若い頃から何千回と下りてるはずだ。

 築地に行った理由は、実は「築地小劇場」である。1924年に開設された「新劇」用の劇場である。今年がちょうど100周年になり、その意義を振り返る企画が幾つもある。1945年に空襲で焼けて、その跡地には記念の碑が作られている。ところがその碑が危ないと2月に東京新聞が報じた。碑がある土地が再開発され築地駅に直結する商業ビルが建設予定だという。その後碑がどうなるかは未定だという話だった。(その後、保存されることが決まったが、いったん無くなる。)

    

 ちょうど100年だし、今のうちに見ておきたいと思ったわけである。場所は築地本願寺があるのと反対側で、信号を曲がったところに見えている。信号は幾つかあるが、住居表示地図にも出てるし、割とわかりやすいと思う。小山内薫土方与志らが創立メンバーで、広島原爆で亡くなった丸山定夫や戦後に『夕鶴』で知られる山本安英らが活躍した。単に演劇史というだけでなく、近代の社会運動史、文化史全般に大きな影響を与えた。左翼演劇のメッカとも言える劇場で、築地署で虐殺された小林多喜二の労農葬はここで行われた。ところで、「旧劇」の中心地、歌舞伎座や新橋演舞場に徒歩5分ほどと非常に近かったのに驚いた。

 築地ほど碑が多い町は珍しい。築地小劇場ばかりではなく、ものすごくたくさんの碑が立っている。その多くは「聖路加病院」の周囲に集まっている。有名な病院で、つい「せーろか」と読んでる人が多いと思うが、読み方は正式には「せいルカ」である。築地駅から病院方向へ行く道は「聖ルカ通り」になっている。以前大病院に直接行っても医療費が変わらなかった時代に、母親がよく聖路加病院まで行ってた。1993年に新館が出来、94年に出来たレストランなども入った聖路加ガーデンがお気に入りだった。

  (1933年再建の旧館)

 幕末以来、居留地だった築地にはキリスト教系の医療施設が作られた。「聖路加」は聖公会系で、立教大学創設者として知られるウィリアムズらが来日し、教育や医療を実践したのである。きちんと聖路加病院が開設されたのは、1901年のことで、ウィリアムズの後任マキム主教の要請によって、来日したルドルフ・トイスラーが開設したのである。トイスラーが1934年に亡くなるまで暮らした家は「トイスラー記念館」(中央区の区民有形文化財指定)として現存・公開されている。最初の建物は関東大震災で壊滅し、1933年に再建され建物が旧館として今も使われている。チャペルとともに東京都選定歴史的建造物に指定されている。

   (トイスラー記念館)

 築地駅から聖路加病院方面に行き、築地川公園を過ぎると、聖路加国際大学が見えてくる。その向こうが旧館病院、トイスラー記念館がある。大学周辺にいろんな大学の創設碑が並んでいる。1869年(明治2年)から1899年まで、築地は外国人居留地になっていた。つまり外国人は築地以外には住めなかった。そのため外国人が日本人に教育するには、築地に学校を作るしかなかった。そのためキリスト教系の立教学院立教女学院を初め、青山学院明治学院女子学院雙葉学園などの創設の地となっている。

(立教学院)(青山学院)(立教女学院)(女子学院)

 それらの学校の前に福沢諭吉の慶應義塾がこの近くに創設された。1858年の安政年間のことで、まだ慶応義塾とは言わないが。中津藩中屋敷が聖路加のあたりだったらしい。またその中津藩屋敷で1771年に前野良沢がオランダの解剖書を初めて読んだという。そこで聖路加国際大学の敷地の前に「慶応義塾大学発祥地」と「蘭学事始」を合わせた「日本近代文化事始の地」が立っているのである。僕は立教大卒だが、築地の創設碑は初めて見た。慶応や青学の卒業生も見ている人は少ないと思う。

   (日本近代文化事始の地)

 碑は他にもいっぱいあって、聖路加国際大学前に「浅野内匠頭屋敷跡」の碑がある。何とまあ、ここにあったのか。そこから左に進んで「居留地通り」には「芥川龍之介生誕の地」の碑が車道側に立っている。そこから少し行って明石小前に「居留地跡」という碑がある。もちろん築地全域が居留地だったんだろうから、単に碑があったところだけが居留地じゃない。これらの碑は小さな地域に集中しているけど、あちこち点在している。ただブラブラ歩いているだけでは見つからない。ネットで調べる他、中央区観光協会の作っている地図が非常に役立つ。Webでダウンロードも可能。案内所もあちこちにあって配布している。

(浅野内匠頭屋敷跡)(芥川龍之介生誕の地)(居留地跡の碑)

 明石小からすぐのところに「カトリック築地教会」がある。地名的には「明石」になるが、1874年に建てられた日本初のカトリック教会だった。煉瓦作りの本格建築だったというが、関東大震災で倒壊。すぐに復興に取り組み、1927年に完成したのが今の建物。「東京都選定歴史的建造物」になっている。築地の宗教施設と言えば、もちろんキリスト教会ではなく、築地本願寺だが次回に。

 (カトリック築地教会)

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謎の石切山脈と笠間栗モンブランー秋の笠間散歩

2024年10月22日 21時59分49秒 | 東京関東散歩
 昨日(20日)、茨城県笠間市を訪れた。事情あって月曜日に行ったが、月曜だと笠間日動美術館など諸施設が閉まっている。まあ結局時間がなくなって、開いてても行けなかったのだが。今回一番行きたかったのは「石切山脈」である。笠間は以前2回行ってるが、そこは当時はまだ知られていなかった(公開してなかったのかも)。笠間は笠間稲荷神社笠間焼で知られている。参拝や陶磁器を求める客で一年中賑わっている。そんな町が最近では「日本一の栗」で知られてきた。そして市の北方に「稲田石」という優れた石材が発掘されるということも知られてきた。
   
 上掲のような風景をテレビなどで見た人もいるんじゃないだろうか。石を切り出した跡に水が溜まって「地図にない湖」が出来ている。これが「石切山脈」と呼ばれる地帯で、東西約10km、南北約 5km、地下1.5kmに及ぶ岩石帯とホームページに出ている。明治32年に始まる日本最大級の採掘現場、ここの「稲田石」が国会議事堂、東京駅、最高裁判所などに使われた。「稲田石」は、約6,000万年前に海底深くで長い時間をかけ冷えて固まった花崗岩だという。車で行くと北関東自動車道笠間西インターを下りて、東の方に少し行ったところで曲がる。案外判りにくくて迷ってしまった。
  
 「石切山脈」は通称で、大きく入口に出ているわけではない。だから、うっかり通り過ぎてしまった。入場料300円で見られるが、本当は1000円払って「プレミアムツァー」に参加すると、奥の方の入場禁止区域を案内してもらえる。インターネットで予約出来るけれど、大体埋まっている。平日の朝9時半とかじゃないと、なかなか予約が難しい。まずはただ見て来ようと思ったんだけど、やはり奥まで行きたいなと思った。入口付近はストーンアート展示場になっていて、いろんな彫刻がある。その向こうに湖が間近に見えている。これだけで終わりかなと思ったら、左手奥の方に第2展示場があった。
  
 さらにずっと奥の方まで進んで行くと、また違った方向から湖を見られる。少し湖面に近くなった感じで迫力がある。ここは「前山採掘場」で、すべて石を掘った跡地だというのがスゴイ。宇都宮の大谷石採掘場も地下神殿風で素晴らしいが、こっちは謎めいた秘湖で面白い。まあ写真を何枚撮っても同じような風景なんだが、一応。
  
 階段を下って、さらに奥に行けた。まあ写真的には同じようなものになってしまうけど。周囲は石の跡地で、何だか飛鳥の石舞台みたいだ。よくよく湖面を見ると鳥がいる。遠くて全然見えないけど。
  
 立ち入り禁止やの工場もあった。排水を溜める貯水場もあった。なお、ここにもモンブランを出すカフェがある。2000円以上と高いんだけど、行った時はもう売り切れだった。石切山脈とは出てないけど、モンブランという旗が目印になる。
 
 昔の学校をカフェにしている「カサマロン・カフェ」がガイドに載っていたので、行ってみたが休み。事前に調べるべきだなあ。けっこう遠かったので時間をムダしたが、面白そうなところなので、いずれ行きたい。ということで時間も遅くなってきたので、もう「道の駅かさま」だけ行けば良いと判断したが、ここがまた大混雑。2021年に出来た「道の駅」なので、まだ行ってない人が多いと思うが、関東地方の秋のテレビではよく紹介される。笠間栗を使った「モンブラン」を出す店が集まっていて、大人気なのである。しかし、秋の時期は車を停めるだけで30分は待つと思う。
   
 ここで有名になったモンブランは、「錦糸栗クリーム」というか、栗あんを細切りにして掛けるのが特徴。機械から雨のように細い栗糸が降り注ぐ様子はパフォーマンス的にも面白い。中で食べる店はもう売り切れだったが、キッチンカーで出している店があった。それがまた長蛇の列だけど、裏の方も見たらもう一軒(一車)あったので、そこで頼んでみた。1200円なり。美味しそうでしょ。でもねえ、この錦糸栗は案外食べにくいんだな。食べるときにボソボソこぼれてしまうし。まあ、話題ということで一度はいいか。ここは帰りに寄る「道の駅」という意識ではなく、家族連れやカップルならここだけ目標に行くべきところなんだろう。
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鑁阿(ばんな)寺と足利学校ー「100名城」足利氏宅跡を見に行く

2024年10月02日 22時24分12秒 | 東京関東散歩
 少し涼しくなってきたので、どこかへ出掛けたい。栃木県足利市鑁阿(ばんな)寺足利学校に行ってみようと思った。どっちも30年ぐらい前に行ってるのだが、その後に鑁阿寺が国宝に指定された。また、「日本100名城」にも選定された。えっ、単にお寺としか思わなかったけど、鑁阿寺はお城だったの? そう思うと、ここは「足利氏宅跡」として国史跡になっていた。

 ここは京都で将軍になる前、鎌倉時代に作られた中世武士の館だったのだ。だから寺の周囲は濠で囲まれ土塁が築かれている。そこに足利氏によって寺が建てられ、1234年には足利氏の氏寺になった。鑁阿(ばんな)は足利氏2代目義兼の出家後の法名。(足利尊氏は8代目。)「鑁阿」はサンスクリット語を漢字にあてただけで、「大日如来」のことを指す。
    (鑁阿寺本堂=国宝)
 国宝指定の本堂は1199年に持仏堂が作られた。その後火災で焼失していたものを、足利義兼によって1299年に建立された。15世紀初頭に全面的に改築されている。「密教寺院における禅宗様仏堂の初期の例として、また関東地方における禅宗様の古例として貴重」と寺のホームページに出ている。100名城スタンプは本堂を登ったところにある。関東地方の国宝建造物は数少なく、昔は日光と鎌倉(円覚寺舎利殿)と東村山の正福寺地蔵堂しかなかった。その後、埼玉県の歓喜院聖天堂、迎賓館、富岡製糸場も指定されている。京都・奈良などと比べると、歴史が浅いなあと思う。鑁阿寺は2013年に指定された。

 本堂以外に、重要文化財指定建造物が二つあって、それが一切経堂鐘楼一切経堂は美しさでは一番かなと思う。現存のものは、1407年に関東管領足利満兼により再建されたものとある。普段は外部のみ見学だが、内部を公開する日もあるらしい。鐘楼はホームページに出てないのでよく判らない。県や市指定文化財の建造物は他にもあるが、長くなるから省略。
(本堂) (一切経堂)(鐘楼)
 今回は「100名城」として行ったので、やはり周囲を見ないと。その濠や土塁は確かに言われてみれば、これはただのお寺ではない。奈良や京都の寺に行って、こういう風に囲まれている所はないだろう。しかし、中世武士の館と言われても何の痕跡もなく、今では普通のお寺として見る人が多いはず。お城という感じは受けないが、そこにこそ「100名城」選定の意義がある。中世の山城、武士の館からアイヌのチャシ遺跡群や吉野ヶ里遺跡も選ばれていて、「城」への意識を大きく拡大していた。
   (濠と土塁に囲まれて)
 本堂前には大銀杏があって、それもみどころ。境内は緑に覆われ、紅葉すると見事だろう。門も正面の楼門だけでなく、西門、東門が残っている。多くの寺は四方から自由に入れると思うが(見学無料の場合)、そこは武士の館で濠があって入れない。入る時には門を通る必要がある。濠には鴨が多数泳いでいて、大きな鯉もいた。
 (境内)(大銀杏)(西門)
 鑁阿寺の前に足利学校に行った。建物は国宝じゃないが、収蔵物には国宝がある。中に入るには有料だが、いろいろ見られて歴史好きには面白い。「日本最古の学校」をうたい、近世の藩校などと一緒に「日本遺産」になっている。「めざせ!世界遺産」だそうである。正確な創建年代は不明だが、室町時代の上杉憲実(関東管領)が再興につとめて「庠主(しょうしゅ)」(学長)制度を設けた。関東を中心に全国から学徒が集まり、ザビエルが「最も有名な坂東の大学」と紹介したことで知られる。戦国時代に「軍師」と呼ばれた人も、多くはここで学んだことが明らかになっている。
   
 上杉氏が滅びると後北条氏が保護し、その滅亡で危機に陥ると徳川家康に接近して存続できた。もともと寺だったところで仏像もあるが、孔子堂も作られ江戸時代には儒教の古書が保管された場所として尊重されたという。つまり学校というより、図書館として続いたわけである。その後紆余曲折あったが、1921年に国史跡に指定され保存されるようになった。1990年には建物と庭園が復元され、歴史ムードを感じられる場所になっている。
   
 方丈(ほうじょう)は学生が講義を受けたり行事などに使われた場所だが、復元施設。中に入れるので、上がってみるとここで勉強するのかと面白い。漢字テストが置いてあったが、やらなかった。その奥に「庫裏」(くり)、つまり台所がある。そこら辺が足利学校の中心で、有料チケットを買わないと入れない。
(庭)(歩道橋から) (訪れた人々)
 図書館の入口に「今までに訪れた人々」が書かれていて、古くは林羅山から渡辺崋山、吉田松陰、高杉晋作、近代になると渋沢栄一、大隈重信、乃木希典、東郷平八郎など多彩な顔ぶれが来ていたことが判る。学びに来たと言うよりは、まあ観光みたいな人が多いと思うが。車で行って太平記館の駐車場(無料)に停めた。そこは太平記の解説施設じゃなくて、単にお土産所だった。足利名物の「古印最中」などを買って帰ってきた。他に行きたいところもあったが、行きに渋滞にハマったのでさっさと帰宅。
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猛暑の迎賓館を見に行くー50周年記念で「羽衣の間」の写真を撮る

2024年07月30日 22時44分16秒 | 東京関東散歩
 関東以西は毎日ものすごい猛暑が続いている。とても散歩どころではないんだけど、昨日(7月29日)「迎賓館赤坂離宮」に行ってきた。JR、東京メトロ四ツ谷駅から徒歩7分(とホームページに出てる)と、それほど遠くもない。でも余りにも暑くて(東京でも38度になった)、何で来ちゃったんだと思ってしまった。まあ今日無事に書いてるぐらいだから、大丈夫だったわけだが。

 迎賓館は国宝に指定されている。国宝指定建築物は是非見るようにしているが、迎賓館に今まで来なかったのは「内部で写真が撮れない」からだ。外観だけに1500円の参観料は高いかもと思っていた。(事前予約して和風別館も見ると、2千円。)しかし、今年は「迎賓館」(として整備されてから)50周年として、7月は特別に「羽衣の間」の写真撮影可だった(8月は「東の間」、9月は「花鳥の間」の撮影可)。ということで、「羽衣の間」は7月中に行かないと写真を撮れないから行ってみたわけ。

 迎賓館はよく正面からの写真が使われるので、僕も「主庭」から見た外観を知らなかった。内部を見た後、庭を見ることになるが、写真的にはこっち側の方が見ごたえがある。噴水があったり、松の木がアクセントになっている。迎賓館はもともとは1909年に「東宮御所」、つまり皇太子(大正天皇)の居所として建てられた。しかし、大正天皇はほとんど使わずに「離宮」となった。あまりにも壮大なネオ・バロック様式で使い勝手が悪かったともいう。だけど、やはり近代日本洋館建築の最高峰ではある。
   
 受付を済ませて中へ入ると、いろいろとグルグル回って行く。広いのでどこがどうやら判らないし、写真を撮れない。羽衣の間ってどこだと思う頃、出て来た。全景はホームページからコピーする方が理解しやすい。
(羽衣の間)
 ここは広さ約330平方メートルで、典型的なロココ様式なんだという。名前は天井に謡曲「羽衣」の壁画(フレスコ画)があるから。もともと舞踏会場として設計され、迎賓館で一番大きなシャンデリアがある。
   
 実際に撮ったのがこんな写真だが、やはり観客がいるから難しい。つい大きなシャンデリアに目が行くわけ。ここは今は晩餐会の招待客に食前酒、食後酒を提供する場になっているという。こうしてみると、誰が見てもヴェルサイユ宮殿の影響というか模倣。昨日書いたハイチ(サン=ドマング)で大もうけをしたブルボン王朝が建てた宮殿を、アジアの後発帝国主義国が精一杯マネした。複雑な感慨もあるが、ここまでやれば立派とも思う。内部には日本風の装飾も施されている。見終わると、外へ出て主庭へ回る。ものすごく暑くて、行きたくないけど、せっかく来たんだから。
   
 横から見るのもなかなか面白い。4枚目の樹木はゴルバチョフ「お手植え」の記念植樹である。そしてもとへ戻ると、前庭に行ける。こちらがよく写真で見る正面側になる。そこではパラソルと椅子があって、お茶が飲めるところがある。暑くて休みたいを通り越えて、早く駅に戻りたいという気持ちで寄らなかった。
   
 ここはもともと片山東熊が設計した。近代建築史に名高いジョサイア・コンドルの弟子で、宮内省に勤務して多くの建築に携わった。京都国立博物館奈良国立博物館東京国立博物館表慶館新宿御苑御休所などが残っている。戦後になって国に移管され、国会図書館や東京オリンピック組織委員会などが置かれたこともある。当時の迎賓館は旧朝香宮邸(現・東京都庭園美術館)だったが、狭すぎるとして赤坂離宮を迎賓館に改修した。その「昭和の大改修」は村野藤吾が担当し、1974年に完成。その時谷口吉郎設計による「和風別館・洗心亭」も作られた。

 現在も迎賓館として使用されているので、外国からの賓客があるときは非公開となる。2016年からそれ以外の日は公開されている。観光立国をめざすとした菅官房長官が残した恐らく唯一の「善政」だろう。外国人観光客は確かに多かった。また行くかどうかは微妙だが、国宝なんだし一度は見ても良いのかなと思う。「権力者の館」ではあるが、それはお城だって同じだし。
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林芙美子記念館から萬昌院功運寺、新井薬師まで

2024年03月03日 21時59分16秒 | 東京関東散歩
 林芙美子を最近ずっと読んでいたから、林芙美子記念館に行こうかなと思った。林芙美子が建てて、1941年から1951年に死ぬまで住んでいた家である。新宿区中井にあるが、林芙美子はその前から近くの落合周辺に住んで気に入っていたのである。ここは前に一度行ってるんだけど、それは20世紀のことだ。その時は都営地下鉄大江戸線中井駅はまだ完成していなかったと思うから。(開業は1997年。)前は西武新宿線中井駅から行ったが、今日は大江戸線の方が早そうなのでそれで行った。地上に出ると、どっちがどっちだかよく判らないけど、案内がきちんとあるから迷うことは無い。
(記念館のパンフ)
 妙正寺川を渡り、西武新宿線踏切を越えて、三の坂交差点を左折し四の坂をちょっと登る。そこに林芙美子記念館がある。新宿区立で、林芙美子の夫、手塚緑敏の没後新宿区が買い取って、1992年3月に開館した。山口文象の設計によるもので、この人の設計した建物は現存しないものが多いので貴重だ。周辺は坂ばかりで、そのことは随筆によく出てくる。家も道路から高くなっていて、坂の途中に作られている。記念館のすぐ上は階段になっているぐらいだ。
(妙正寺川)(三の坂)(記念館)(四の坂)
 記念館は庭から見るのが一番風情がある。緑敏がよく手入れしていたというが、今も整備されて昔の様子を留めている。大きく分けて二つに分かれていて、一番はずれのアトリエが今は展示室になっている。芙美子が使っていた和室や台所などはもう片方にある。東京に住んでいた有名人の家は、ほとんどは震災、空襲で焼けるか、高度成長期に取り壊された。それを生き延びても、相続した遺族が維持出来ずに消えていった。林芙美子の家はその意味でも東京に残された貴重な文化財だと思う。
   
 家は月に2回ぐらい中へ入れる見学会があるが(ホームページで参加者を募集)、普段は庭側から見るだけである。(旧アトリエの展示室は入れる。)主な部屋を紹介すると、大きな部屋として寝室茶の間客間書斎などが並ぶ。さらに小間風呂場台所などがある。まあ、各部屋を全部紹介しても面白くないだろう。結構大きい家だと思い込んでいたが、今見ると人気作家の割りにそんなに広い部屋ではない。まあ林芙美子自身もそれほど大きくなかったんだろう。
(寝室)(茶の間)(客間)(書斎)
 庭からグルッと回ると、格子門があり(今は使われていない)、そこから玄関に通じる。昔はここに原稿取りの編集者が詰めかけていたという。さらに台所には冷蔵庫があった。戦前に自宅に冷蔵庫があった家は珍しい。芝浦電気製で、本来はホテルなど向けだったというが、芙美子は結構料理好きで客が来るとツマミなどをササッと自分で作っていたという。
(格子門)(玄関)(台所)(冷蔵庫)
 面白いのは家を上から望めることで、敷地内に坂がある。屋敷を帰りに見たら竹林になっていた。パンフには「数寄家造りのこまやかさが感じられる京風の特色と、芙美子らしい民家風のおおらかさをあわせもち、落ち着きのある住まいになっている」とある。僕にはよく判らないけど、林芙美子を読んでない人でも建築的に見る価値があるんじゃないかと思う。
(上から望む)(全体図)(解説)
 記念館から道なりに西へ進み、再び川を渡って南の方へ行く。大通りに行き当たって右折すると寺が多い地区になる。そんな中に萬昌院功運寺(ばんしょういんこううんじ)がある。僕は普通の感覚に従って、萬昌院は山号みたいなもので功運寺という名前のお寺だと思ったら、今Wikipediaを見たら二つの別々の寺院が1948年に合併したと出ていた。何でここへ来たかというと、この寺に林芙美子の墓があるのである。案内板が墓地の入口にあって見つけるのは難しくなく、すぐ見つかった。
   
 ところで寺の位置は確認していったが、どんなところかは知らずに出掛けたのである。そうしたら驚くことに、ここに吉良上野介の墓があるじゃないか。萬昌院を開山したのが今川義元の三男で、今川氏と吉良氏は姻戚になっていて、もともと菩提寺だったという。功運寺の方は秀忠時代に老中を務めた永井尚政が開いた寺で、ずいぶん多くの墓がある。糟屋武則という賤ヶ岳七本槍の一人の墓があるというが見なかった。名前も覚えてないし。どっちの寺も移転を繰り返して今の場所に落ち着いたらしい。
  (吉良一族の墓)
 寺を出て北へ進み、うまく言えないんだけどグルグル曲がっていくと、童謡「たきび」の碑がある。作詞した巽聖歌(1905~1973)が近くに住んでいて、散歩するうちに詩想を得たという。「垣根の垣根の曲がり角 焚き火だ焚き火だ落葉焚き」である。戦時中に発表されたときは火が空襲の目標になるとか軍に批判され、戦後は教科書に載ったが道で焚き火するのは危険と消防庁に言われたらしい。今じゃ垣根の家などほぼなくなったし、落葉を焚くのもなくなった。僕の子どもの頃は庭にレンガを積んで焚き火をして石焼き芋を作ったもんだが。
  
 そこから少し歩いて、梅照院新井薬師へ。ここは今まで行ったことがない。広津和郎の小説で読んだけど、戦前はこの辺りに花街もあったとか。今も寺や近辺は栄えていて、今日は骨董市をやっていた。『じい散歩』で主人公の爺さんがここへ来るシーンがあった。すごく大きな寺かと思っていたら、西新井大師なんかより小さい感じ。ただ隣に新井薬師公園というのがある。
   
 そこから新井薬師前駅に行って帰るつもりだったけど、そう言えば中野駅も1㎞ぐらいだったはずと思い出した。中野まで歩くことにしたが、案外近かったので驚いた。こっちの方は土地勘がないので判らないのである。冬は寒いから散歩したくない。それに林芙美子記念館は2月半ばまで臨時休館していた。明日の方が温かいという予報だけど、記念館は月曜が休館。雨の日も最近多かったし、散歩も難しい。家までの往復を入れて1万3500歩ぐらい。
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トキワ荘マンガミュージアム

2023年12月19日 22時38分58秒 | 東京関東散歩
 『じい散歩』を散歩するだけじゃ楽すぎるので、その日は南池袋で梵寿綱の建築を見た後にトキワ荘マンガミュージアムに行ってみた。まあたくさん歩くことが目的で、この日は(家から駅への往復を含め)総計1万6千歩になった。夕方に文楽を見る日だから、落ち着いてしっかり見る気持ちの余裕がない。もっとも今までに幾つもの文学館、郷土歴史館などに行ってるけど、あまりちゃんと見てないと思う。最近は特にそうで、修学旅行の生徒並みになってきた。いちいち字を追うのが面倒なのである。

 駅で言えば、西武池袋線椎名町東長崎、都営地下鉄大江戸線落合南長崎と三つの駅が近い。今回は椎名町から池袋まで歩こうと思ったので、東長崎まで行った。ミュージアム単体なら、それが一番近いのではないか。だけど、豊島区が作ったいろんな施設が並んでる「トキワ荘通り」をゆっくり見て歩く方が興趣があるかもしれない。東長崎から行くと、突然トキワ荘が出て来る。
   
 トキワ荘があった場所に再現したのではなく、そこからちょっと離れた南長崎花咲公園(トキワ荘公園)に建てた。真ん前から写真が撮れると良いんだけど、ちょうど逆光の時間帯で上の2番目の写真みたいな角度じゃないと撮れなかった。(これでもシャープじゃないけど。)3番目の写真は真裏のもので、光的にはここからが良い時間。裏を撮ってる人がいなかったが、何の建物でも裏が面白いことが多い。もっとも2019年から作り始めて、2020年開館だから、まだまだ古い感じが足りない。それは仕方ないことだが、昔のトキワ荘自体も1952年に建てられたものなので、若き漫画家たちが集っていた時代は新築アパートだったのである。
 
 そう言えばトキワ荘そのものの説明をしていない。様々なメディアを通して、「漫画の聖地」みたいな伝説は多くの人が知っていると思う。手塚治虫藤子不二雄石ノ森章太郎赤塚不二夫ら超有名な漫画家が若き日にこのアパートに住んでいたのである。部屋の割り振りは上記パンフの中面に載っている。ミュージアムは予約優先になっているが、平日は余裕があって予約なしでも入れると思う。(自分もそうだった。)1階は写真を撮れないが。特別企画展「ふたりの絆 石ノ森章太郎と赤塚不二夫」を今やってる(3月24日まで)。2階は当時の部屋が再現されていて、そこは写真が撮れる。
           
 写真を見ると、窓の向こうが見える感じだが実はそれは絵である。今とは風景が違うので昔風の絵を描いている。再現された部屋には生活の様子まで作られたものもあれば、皆で写真が撮れるような部屋もある。僕もついうっかりしていたが、漫画家たちは偶然に集まったわけではない。手塚治虫が売れてきて前のアパートに編集者の出入りが激しくなって、苦情が出た。そこで『漫画少年』を出していた学童社の社長の次男が住んでいたアパートを紹介したのである。手塚治虫が入居したのが、1953年初頭。そうなると学童社に連載を持つ漫画家をそろって入居させれば会社側も便利である。漫画家側からしても、多忙時に手助けして貰えるから仲間がいると都合が良い。まあそういうことで、ここに漫画家が集結したわけである。
  
 面白いのは電話ボックス。当時の様子を再現してあるが、もちろん使えるわけじゃない。公園にはキレイなトイレや売店もある。好きな人には一杯見どころがあるんだろうけど、そろそろ先を急ぎたい自分はさっと通り過ぎてしまった。そこから歩いてトキワ荘通りを椎名町方面(山手通り方面)へ歩く。少し行くと、有名な中華料理店「松葉」がある。ここは若き漫画たちがいつも食べていたところで、藤子不二雄の漫画によく出てくる。ところで、ホンモノのトキワ荘はこの「松葉」の道を隔てたちょっと奥にあり記念碑がある。こんなに近いんだから、良く行くはずである。
  
 通り沿いにはトキワ荘マンガステーショントキワ荘通りお休み処昭和レトロ館など、いろんな昭和レトロっぽい施設が出来ている。マンガステーションではトキワ荘関係の漫画家の作品をただで読めると書いてあった。しかし、平日午後にそうそうヒマな人はいないだろうから、どこも閑散としていて入りにくい。僕も外から写真を撮って、今日はオシマイとした。
  
 最近池袋東口に「アニメ東京」という施設が出来た。その他アニメ関係のお店が集中している。好きな人はそっちも回ると良いんだろうけど、池袋駅まで歩いて終わり。まあ、一度は行ってもいい施設だろう。正式には「豊島区立」が付く。
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