尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

林芙美子記念館から萬昌院功運寺、新井薬師まで

2024年03月03日 21時59分16秒 | 東京関東散歩
 林芙美子を最近ずっと読んでいたから、林芙美子記念館に行こうかなと思った。林芙美子が建てて、1941年から1951年に死ぬまで住んでいた家である。新宿区中井にあるが、林芙美子はその前から近くの落合周辺に住んで気に入っていたのである。ここは前に一度行ってるんだけど、それは20世紀のことだ。その時は都営地下鉄大江戸線中井駅はまだ完成していなかったと思うから。(開業は1997年。)前は西武新宿線中井駅から行ったが、今日は大江戸線の方が早そうなのでそれで行った。地上に出ると、どっちがどっちだかよく判らないけど、案内がきちんとあるから迷うことは無い。
(記念館のパンフ)
 妙正寺川を渡り、西武新宿線踏切を越えて、三の坂交差点を左折し四の坂をちょっと登る。そこに林芙美子記念館がある。新宿区立で、林芙美子の夫、手塚緑敏の没後新宿区が買い取って、1992年3月に開館した。山口文象の設計によるもので、この人の設計した建物は現存しないものが多いので貴重だ。周辺は坂ばかりで、そのことは随筆によく出てくる。家も道路から高くなっていて、坂の途中に作られている。記念館のすぐ上は階段になっているぐらいだ。
(妙正寺川)(三の坂)(記念館)(四の坂)
 記念館は庭から見るのが一番風情がある。緑敏がよく手入れしていたというが、今も整備されて昔の様子を留めている。大きく分けて二つに分かれていて、一番はずれのアトリエが今は展示室になっている。芙美子が使っていた和室や台所などはもう片方にある。東京に住んでいた有名人の家は、ほとんどは震災、空襲で焼けるか、高度成長期に取り壊された。それを生き延びても、相続した遺族が維持出来ずに消えていった。林芙美子の家はその意味でも東京に残された貴重な文化財だと思う。
   
 家は月に2回ぐらい中へ入れる見学会があるが(ホームページで参加者を募集)、普段は庭側から見るだけである。(旧アトリエの展示室は入れる。)主な部屋を紹介すると、大きな部屋として寝室茶の間客間書斎などが並ぶ。さらに小間風呂場台所などがある。まあ、各部屋を全部紹介しても面白くないだろう。結構大きい家だと思い込んでいたが、今見ると人気作家の割りにそんなに広い部屋ではない。まあ林芙美子自身もそれほど大きくなかったんだろう。
(寝室)(茶の間)(客間)(書斎)
 庭からグルッと回ると、格子門があり(今は使われていない)、そこから玄関に通じる。昔はここに原稿取りの編集者が詰めかけていたという。さらに台所には冷蔵庫があった。戦前に自宅に冷蔵庫があった家は珍しい。芝浦電気製で、本来はホテルなど向けだったというが、芙美子は結構料理好きで客が来るとツマミなどをササッと自分で作っていたという。
(格子門)(玄関)(台所)(冷蔵庫)
 面白いのは家を上から望めることで、敷地内に坂がある。屋敷を帰りに見たら竹林になっていた。パンフには「数寄家造りのこまやかさが感じられる京風の特色と、芙美子らしい民家風のおおらかさをあわせもち、落ち着きのある住まいになっている」とある。僕にはよく判らないけど、林芙美子を読んでない人でも建築的に見る価値があるんじゃないかと思う。
(上から望む)(全体図)(解説)
 記念館から道なりに西へ進み、再び川を渡って南の方へ行く。大通りに行き当たって右折すると寺が多い地区になる。そんな中に萬昌院功運寺(ばんしょういんこううんじ)がある。僕は普通の感覚に従って、萬昌院は山号みたいなもので功運寺という名前のお寺だと思ったら、今Wikipediaを見たら二つの別々の寺院が1948年に合併したと出ていた。何でここへ来たかというと、この寺に林芙美子の墓があるのである。案内板が墓地の入口にあって見つけるのは難しくなく、すぐ見つかった。
   
 ところで寺の位置は確認していったが、どんなところかは知らずに出掛けたのである。そうしたら驚くことに、ここに吉良上野介の墓があるじゃないか。萬昌院を開山したのが今川義元の三男で、今川氏と吉良氏は姻戚になっていて、もともと菩提寺だったという。功運寺の方は秀忠時代に老中を務めた永井尚政が開いた寺で、ずいぶん多くの墓がある。糟屋武則という賤ヶ岳七本槍の一人の墓があるというが見なかった。名前も覚えてないし。どっちの寺も移転を繰り返して今の場所に落ち着いたらしい。
  (吉良一族の墓)
 寺を出て北へ進み、うまく言えないんだけどグルグル曲がっていくと、童謡「たきび」の碑がある。作詞した巽聖歌(1905~1973)が近くに住んでいて、散歩するうちに詩想を得たという。「垣根の垣根の曲がり角 焚き火だ焚き火だ落葉焚き」である。戦時中に発表されたときは火が空襲の目標になるとか軍に批判され、戦後は教科書に載ったが道で焚き火するのは危険と消防庁に言われたらしい。今じゃ垣根の家などほぼなくなったし、落葉を焚くのもなくなった。僕の子どもの頃は庭にレンガを積んで焚き火をして石焼き芋を作ったもんだが。
  
 そこから少し歩いて、梅照院新井薬師へ。ここは今まで行ったことがない。広津和郎の小説で読んだけど、戦前はこの辺りに花街もあったとか。今も寺や近辺は栄えていて、今日は骨董市をやっていた。『じい散歩』で主人公の爺さんがここへ来るシーンがあった。すごく大きな寺かと思っていたら、西新井大師なんかより小さい感じ。ただ隣に新井薬師公園というのがある。
   
 そこから新井薬師前駅に行って帰るつもりだったけど、そう言えば中野駅も1㎞ぐらいだったはずと思い出した。中野まで歩くことにしたが、案外近かったので驚いた。こっちの方は土地勘がないので判らないのである。冬は寒いから散歩したくない。それに林芙美子記念館は2月半ばまで臨時休館していた。明日の方が温かいという予報だけど、記念館は月曜が休館。雨の日も最近多かったし、散歩も難しい。家までの往復を入れて1万3500歩ぐらい。
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トキワ荘マンガミュージアム

2023年12月19日 22時38分58秒 | 東京関東散歩
 『じい散歩』を散歩するだけじゃ楽すぎるので、その日は南池袋で梵寿綱の建築を見た後にトキワ荘マンガミュージアムに行ってみた。まあたくさん歩くことが目的で、この日は(家から駅への往復を含め)総計1万6千歩になった。夕方に文楽を見る日だから、落ち着いてしっかり見る気持ちの余裕がない。もっとも今までに幾つもの文学館、郷土歴史館などに行ってるけど、あまりちゃんと見てないと思う。最近は特にそうで、修学旅行の生徒並みになってきた。いちいち字を追うのが面倒なのである。

 駅で言えば、西武池袋線椎名町東長崎、都営地下鉄大江戸線落合南長崎と三つの駅が近い。今回は椎名町から池袋まで歩こうと思ったので、東長崎まで行った。ミュージアム単体なら、それが一番近いのではないか。だけど、豊島区が作ったいろんな施設が並んでる「トキワ荘通り」をゆっくり見て歩く方が興趣があるかもしれない。東長崎から行くと、突然トキワ荘が出て来る。
   
 トキワ荘があった場所に再現したのではなく、そこからちょっと離れた南長崎花咲公園(トキワ荘公園)に建てた。真ん前から写真が撮れると良いんだけど、ちょうど逆光の時間帯で上の2番目の写真みたいな角度じゃないと撮れなかった。(これでもシャープじゃないけど。)3番目の写真は真裏のもので、光的にはここからが良い時間。裏を撮ってる人がいなかったが、何の建物でも裏が面白いことが多い。もっとも2019年から作り始めて、2020年開館だから、まだまだ古い感じが足りない。それは仕方ないことだが、昔のトキワ荘自体も1952年に建てられたものなので、若き漫画家たちが集っていた時代は新築アパートだったのである。
 
 そう言えばトキワ荘そのものの説明をしていない。様々なメディアを通して、「漫画の聖地」みたいな伝説は多くの人が知っていると思う。手塚治虫藤子不二雄石ノ森章太郎赤塚不二夫ら超有名な漫画家が若き日にこのアパートに住んでいたのである。部屋の割り振りは上記パンフの中面に載っている。ミュージアムは予約優先になっているが、平日は余裕があって予約なしでも入れると思う。(自分もそうだった。)1階は写真を撮れないが。特別企画展「ふたりの絆 石ノ森章太郎と赤塚不二夫」を今やってる(3月24日まで)。2階は当時の部屋が再現されていて、そこは写真が撮れる。
           
 写真を見ると、窓の向こうが見える感じだが実はそれは絵である。今とは風景が違うので昔風の絵を描いている。再現された部屋には生活の様子まで作られたものもあれば、皆で写真が撮れるような部屋もある。僕もついうっかりしていたが、漫画家たちは偶然に集まったわけではない。手塚治虫が売れてきて前のアパートに編集者の出入りが激しくなって、苦情が出た。そこで『漫画少年』を出していた学童社の社長の次男が住んでいたアパートを紹介したのである。手塚治虫が入居したのが、1953年初頭。そうなると学童社に連載を持つ漫画家をそろって入居させれば会社側も便利である。漫画家側からしても、多忙時に手助けして貰えるから仲間がいると都合が良い。まあそういうことで、ここに漫画家が集結したわけである。
  
 面白いのは電話ボックス。当時の様子を再現してあるが、もちろん使えるわけじゃない。公園にはキレイなトイレや売店もある。好きな人には一杯見どころがあるんだろうけど、そろそろ先を急ぎたい自分はさっと通り過ぎてしまった。そこから歩いてトキワ荘通りを椎名町方面(山手通り方面)へ歩く。少し行くと、有名な中華料理店「松葉」がある。ここは若き漫画たちがいつも食べていたところで、藤子不二雄の漫画によく出てくる。ところで、ホンモノのトキワ荘はこの「松葉」の道を隔てたちょっと奥にあり記念碑がある。こんなに近いんだから、良く行くはずである。
  
 通り沿いにはトキワ荘マンガステーショントキワ荘通りお休み処昭和レトロ館など、いろんな昭和レトロっぽい施設が出来ている。マンガステーションではトキワ荘関係の漫画家の作品をただで読めると書いてあった。しかし、平日午後にそうそうヒマな人はいないだろうから、どこも閑散としていて入りにくい。僕も外から写真を撮って、今日はオシマイとした。
  
 最近池袋東口に「アニメ東京」という施設が出来た。その他アニメ関係のお店が集中している。好きな人はそっちも回ると良いんだろうけど、池袋駅まで歩いて終わり。まあ、一度は行ってもいい施設だろう。正式には「豊島区立」が付く。
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藤野千夜『じい散歩』を散歩するー池袋周辺散歩

2023年12月17日 22時09分56秒 | 東京関東散歩
 いつも本を読んでて、今の本が終わったら次はこれ、その次はと大体順番を心積もりしている。でも時々は突然ズレてしまうこともあり、最近は藤野千夜じい散歩』(双葉文庫)にハマって崩れてしまった。そういう本が評判になっていることは知っていた。2020年に出た本で、2023年8月に文庫化された。僕が買ったのは10月に出たもので、もう第8刷になっている。

 藤野千夜は2000年に『夏の約束』で芥川賞を取った作家だが、この本はむしろエンタメ的な家族小説。「老人ユーモア小説」だけど、定番を裏切る設定が大いに笑えるのである。大体この世の中では、仕事してきた男が定年後に先に弱ってしまう。妻は地域に友人がいていつまでも元気なはずが、この本は全く逆で、90歳近い夫の方が今も毎日散歩する「健康オタク」なのである。

 その家族小説としての紹介は別に書くが、この本はもう一つ「散歩小説」という新しいスタイルを創造した。主人公は椎名町(西武池袋線で池袋の次の駅)に住んでいて、池袋近くに自分が所有するアパートを持っている。その一室を「秘密基地」にして、エロ本、エロビデオなどを収集しているというトンデモ爺さんなのである。そこで毎日のように散歩して「アパート管理」に出掛けるわけである。その時寄り道するお店などが全部実在のもので、ガイドブック的な役割も果たすわけである。

 これを読むと池袋周辺を歩きたくなるが、近年話題のアニメの街みたいな話はもちろん出て来ない。それどころかデパートも家電量販店もウロチョロせず、昔からの店ばかり行っている。そこら辺が面白く、知ってる人には「あるある感」満載で楽しいのである。また建設会社をやっていたので、面白い建築があれば見に行くという趣味があって、池袋にあるライト設計の「自由学園」(重要文化財)を見に行っている。地元なのに、80半ばになるまで見てないのは不思議だが、そういうことを気にしてはいけない。

 この本で初めて知ったのは、梵寿綱(ぼん・じゅこう)という建築家で、もちろん本名じゃない。調べてみると本名が田中俊郎(1934~)という、早大建築科卒の建築家である。「日本のガウディ」と言われているらしい。「賢者の石」という不思議な建物が南池袋にあるという。ネットで調べると、南池袋公園そばの本立寺隣とあるから探しにいった。
   
 確かに装飾過多の不思議な建物が見つかった。会社が入っているから、そばで撮影するわけに行かない。でも小説にはマンションの中を見られたという記述がある。探すと確かにキラキラした不思議空間が見つかった。何じゃ、これ。
 
 そこから池袋駅に戻って、西武線で東長崎駅へ。実は散歩したのは夕方に文楽を見た日で、この際だから「トキワ荘マンガミュージアム」を見たいと思ったのである。(それは別記事で。)そこから椎名町駅まで歩く。ここは昔いとこが下宿していて何度か行ったことがある。蕎麦屋の名店「」が初めて開店したのもこの近くで、学生時代に食べに行った。まあ、一般的には「帝銀事件」が起きたことで知られている町だが、今じゃそれを言っても知らないかもしれない。
 (長崎神社)
 この地域で一番大きな長崎神社が駅のすぐそばにある。主人公(明石新平)一家もここに初詣に行くらしいが、名前は出てない。そこから歩いて15分ぐらいのところに「秘密基地」のアパートがあるというから、西池袋周辺なんだろう。新平は山手通りを歩いて、立教通りに出ている。今は無電柱化工事ということで一方通行になっていた。五号館手前を曲がって、旧江戸川乱歩邸を見に行ってる。そう言えばクリスマスツリーを今年は見てないなとかつぶやいている。
(旧乱歩邸)(昼間のツリー)
 立教通りを歩いていて、新平は文庫BOXという本屋で「官能小説」を買った。「大地屋(おおちや)」書店が本当の名前だが、ほぼ文庫だけ置いてある書店である。外国作家は別だけど、日本人の文庫は出版社ごとじゃなく作家ごとに並んでるのが特徴。つまり、普通の本屋は新潮、角川、講談社などが別になってるけど、ここはただアイウエオ順で置いてある。だから買いたい本の著者名が判っている場合探しやすいのである。ちょっと前の文庫を見たいときは役に立つ。14日はやってなかったので、15日にもう一回行ったら、ここに続編の『じい散歩 妻の反乱』があったので買ってしまった。(文庫じゃない本も少しある。)
 (ロサ会館)
 そこから西口をブラブラして、ロサ会館のゲームセンターでクレーンゲームをしたりするから、実に不良老人である。まあ昔は遊んでいたらしい。酒は昔から苦手な口で、大の甘党である。特に西口の「三原堂」がお気に入りで、何でもご褒美が和菓子なので子どもから「あんこが貨幣」なんて言われている。特に乱歩先生お気に入りの「薯蕷饅頭」(じょうよまんじゅう)を主人公も愛好している。山芋を生地に使うのが特徴。「池ぶくろう最中」とか「池袋 乱歩の蔵」なんてのもある。
   
 これは読めば買ってみたくなるお菓子である。そういう店があるとは聞いてたけど、場所も知らなかった。大学が池袋と言っても、学生は和菓子屋など用はない。でも今や減塩に気を遣う日々で、アルコールもダメ。バターやクリームたっぷりの洋菓子も控えた方がよい状況に陥っている。そうなると和菓子は実に貴重で、塩分使用量が少ない上、脂肪分も少ない。まあ、こんにゃくゼリーならいいだろうけど。さて、食べてみた「薯蕷饅頭」は上品な甘さで口に甘さが残らず確かになかなか美味しかった。

 主人公の新平は年に似合わず、和食より洋食党である。散歩するとあちこちの洋食屋や喫茶店でしっかり食べるという驚異の老人なのである。特にお気に入りは池袋東口の「タカセ」。大正9年創業という「池袋では知らない人がいない」というパン・洋菓子店である。西武デパートからロータリーをはさんで真向かい辺りにある。2階が喫茶、3階がレストランになっていて、主人公はここの喫茶の常連で係の女店員と仲良くしている。この店は不思議なパンをいろいろ売っているが、特に主人公お気に入りは「あんみつドーナツ」。揚げパンにあんこと求肥が挟んであるという甘そうなパンで、続編ではこれを買って雑司が谷霊園を散歩している。
 
 ここも上の方は入ったことがなかったので、この機会にと思い入ってしまった。ケーキセットなんか食べてる場合じゃないんだけど。ケーキは古風な感じで、駅真ん前にありながら「昭和」が生き残っているようなところである。それが新平お気に入りのところなんだろうけど、店内部は客が多くて写真を撮れない。窓際席が取れれば駅前が見られていい感じ。ケーキは無くなっちゃった浅草の有名喫茶店「アンヂェラス」を思わせる。昔風の味が懐かしく、また行ってみたいなと思った。
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根津神社から上野公園まで散歩

2023年12月04日 20時19分18秒 | 東京関東散歩
 入院していた日本医科大病院に書類を書いてもらう用事があったので、そこから直近の根津神社谷中霊園を通って上野公園まで歩いてみた。(上野駅で切符を買う用事もあった。)大した散歩じゃないけれど、それでも1万3千歩歩いたし、ちょうどイチョウが黄葉して見事だった。晴れ渡って青空がキレイな日だったが、月曜日だから諸施設が閉館だったのが残念。もちろん判っていて今日行ったのだが。地下鉄千代田線千駄木駅から団子坂を上って、「団子坂上」信号を左折5分程度で日本医科大病院に着く。案外近いところにいたのか。そこから道路を渡れば、そこがもう根津神社である。
   
 根津神社はツツジの名所として知られていて、その時期にはいっぱいの見物客で賑わう。今は静かな時期だが、案外外国人客が多かった。現在の社殿は1706年に後の6代将軍徳川家宣(当時は甲府藩主)が献納した土地に建てられた。それ以前に太田道灌も社殿を建てていたという。国の重要文化財に指定され、権現造(本殿、幣殿、拝殿を構造的に一体に造る)の傑作とされているという。重文なんか各地にいっぱいあるけど、震災、空襲を経た東京では貴重な文化財である。
   
 昔は根津権現と呼ばれていて、昔の小説にはその名で出て来ることが多い。また、この地域は江戸郊外でかつては遊郭があった。元々は非公認のものだったが、幕末には幕府の許可を得て営業していたようだ。明治になって、1888年6月で廃止され州崎(現在の江東区)に移転した。禁止の理由は東大(当時はただの帝国大学)がすぐそばに出来たからだと言う。近年の直木賞受賞作木内昇『漂砂のうたう』や西條奈加『心寂し川』がこの地域を舞台にしていて、何となく昔の風情を残している気がする。
  (谷中霊園)
 根津神社からひたすら東方向に歩くと谷中の寺町に出る。こんなにお寺が集中しているところは他にないと思う。さらに進むと谷中霊園に出る。都立の霊園だが、有名人の墓が多いことで知られる。もっともちゃんと調べてこなかったから、どこにあるのか判らない。というか、お墓めぐり(「掃苔=そうたい)という趣味がなく、墓にそれほど興味がないのである。ただ都会に真ん中にありながら静かな空間が広がっていて、それが散歩に向いている。ここからは遠くにスカイツリーが見える。徳川慶喜、渋沢栄一、横山大観、牧野富太郎、鳩山一郎などの他、最近では森繁久彌、平尾昌晃などの墓もあるらしい。
   
 あまり長居しないで、さっさと上野公園に向かう。上の最初の写真は旧吉田屋酒店で、下町風俗資料館付設展示場になっている。次が東京芸術大学で、ここもイチョウが凄いので撮ってみた。続いて国際子ども図書館(旧上野図書館)。最後が東京国立博物館本館だが、いつもは人が並んでいる。青空の下、こんなに人がいない写真。
   
 後は上野公園内のイチョウを撮って歩く。ホントに今日がまさに黄葉日和だった。美術館、博物館が多いところを歩いたが、全部閉まってた。日本医科大病院書いてもらう書類は12月にならないとダメなもので、12月1日はつい行きそびれた。他の日でもいいんだけど、早く処理したいと今日にした。しかし、施設的なところが全部閉まってるのも詰まらないもんだ。併設のカフェやミュージアムショップも全部やってないわけで。最後は国立西洋美術館。何度も行ってるけど、今や世界遺産。ここも月曜じゃなければロダンの彫刻を近くから見られる。上野公園散歩は前にしていて、銅像などはその時にいっぱい写真を撮ったから、今日はこれだけで終わり。何だか載せる意味があるか疑問だが、イチョウと青空がキレイなので記録しておこう。
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桜田門、皇居外苑から乾通りー江戸城散歩②

2023年11月29日 22時40分25秒 | 東京関東散歩
 一週間前に江戸城本丸跡、つまり「皇居東御苑」を散歩したけど、江戸城散歩はそれで完結しない。いまお城めぐりをする歴史ファンには「日本100名城スタンプラリー」をしてる人が多い。ところが江戸城に関しては、一番お城っぽい皇居東御苑にスタンプが置かれてない。皇居外苑の和田倉濠噴水公園楠公レストハウスにあるのだ。(もう一つ北の丸公園にもあるらしい。)そんな周辺部でスタンプを押しても江戸城に行ったことにはならないと思うが。

 実は自分もスタンプ帳を持っているのだが江戸城を押してない。二重橋とか楠正成像なんかも行ってない。「皇居」と言われるとあまり関心もなかったし、地元の人はいつでも行ける場所には行かないものだ。(東京タワーも子どもの頃に行っただけ。)ということで「江戸城散歩②」をしてきた。せっかくだから12月3日までやってる「乾通り一般公開」も行ってみた。

 まずは霞ヶ関駅まで行って桜田門まで歩く。(有楽町線に桜田門という直近の駅があるが、自分の家からは一本で行けない。)ここは「桜田門外の変」が起きた場所である。関東大震災で被災して復元されたというが、基本は1663年に建造された門がもとになっている。国の重要文化財にも指定されていて、そこを自由に出入りできる。知らない人が結構いるけど、ここは一度は行っておくべきだろう。桜田門には二つあって、ここは「外桜田門」。通ると「櫓門」がある。
(外桜田門)(櫓門) 
 ところで門に行くまでにお濠を渡ることになる。そこで見られる石垣や内濠が素晴らしいのである。この水景の魅力は日本の城の中でもベスト級だろう。皇居一周マラソンをする人がいるが、「江戸城」としてきちんと評価する人が少ない。今は外濠は埋め立てられているが、元は数寄屋橋やお茶の水駅前の神田川なん外濠である。そのような広大な城だったのである。東京都心部を歩けば、それはすべて江戸城散歩だった。そして北に寛永寺、南に増上寺という将軍家の寺が配置されていた。
   (桜田門交差点)
 桜田門を抜けると、広場になる。ここが「皇居外苑」で、僕はちゃんと行ったことがない。取りあえずスタンプがあるところを目指すが、東京人なのによく知らずにウロウロしてしまった。まあ、それで良いのである。何故なら少し歩こうというのが主目的なので。広場に生える松が素晴らしい。
  
 楠正成像が先にあるはずが判らずにずっと歩いていたら、乾通りを目指す大量の人々が歩いている。それを避けながらずっと歩くと、東御苑の案内が出て来てしまった。アレレと思ったら、実は和田倉濠噴水公園は内濠通りの向かい側にあるのだった。
  (和田倉濠の説明)
 続いて二重橋を探す。昭和天皇のイメージが離れないが、ちゃんと見たことがない。見ても良く判らないけど。
 
 それで楠正成像楠公レストハウスはどこにあるんだ? 和田倉濠の無料休憩所にあったマップを見ると、これも内濠通りの外側、日比谷公園から日比谷濠を隔てて隣にあるじゃないか。この銅像は上野公園の西郷隆盛像靖国神社の大村益次郎像と並び、東京三大銅像なんだそうだ。住友グループのホームページにそう出ている。何で住友かというと、これは別子銅山開坑200周年を記念して、住友が宮内省に献納したのだという。(ホームページには宮内庁とあるけど、明治の話なんだから間違い。)東京美術学校の高村光雲を中心にして総力を挙げて作ったという。1896年に銅像が完成し、1900年の台座完成を待って竣工した。ところで、日本史上最大の「大忠臣」、楠正成を知る人も今ではどれだけいるだろうか?
   
 最後に「乾通り」。荷物検査とボディチェックがある。面倒くさいけど、一度は見る価値はあるだろう。何しろ江戸城の真ん中を突っ切れるのである。ゆっくり歩いて30分程度。混んでいるようで、中に入れば案外空いている。紅葉はそれほどなく、江戸城史跡を見る意味が大きい。入るのは坂下門。ここは坂下門外の変の起こったところで、一日で桜田門、坂下門を見られた。少し歩くと宮内庁の建物が古そうだ。そして先週見た富士見櫓を反対側から見ることが出来る。
(坂下門)(宮内庁)(富士見櫓)
 石垣や紅葉を見ながらゆっくり歩くと乾門に着く。案外あっという間。道行く人々は木々を背景にスマホで写真を撮るのに夢中で、石垣などに関心はないようだった。今回もレストハウスなどには皇室関係の土産ばかりで、江戸城関係の本がない。
  (乾門)
 自宅への行き帰りを含めて、1万6760歩。これはなかなか歩いた。お濠に関してはまだ半分以上見ていない。
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江戸城散歩①ー皇居東御苑を歩く

2023年11月22日 22時22分36秒 | 東京関東散歩
 めっきり朝晩冷えるようになったが、今日の昼間は暖かいぐらいの一日。入院中に足が弱くなって、少し歩いただけで筋肉痛という困った状態である。そんな中もう少し歩いてみたいと江戸城を散歩してきた。(特別史跡)の「江戸城」は徳川将軍の居所だったところだが、薩長に乗っ取られて天皇家の居所になった。故に今は「皇居」と呼ばれているが、その東半分は「皇居東御苑」として公開されている。案外そのことを知らない人もいて、東京人に行ってない人が結構多い。僕は学校などの行事で三度ほど行ったが、個人で行ったことがない。そこで、今日の日に合わせて(?)夫婦で散歩してきた。
 
 最寄り駅は地下鉄大手町駅で、ここは5つの路線が集中している。その中で千代田線が一番近い。別に調べていったのではないが、たまたま家から一番近い路線を使ったら便利だった。「大手門」方面を目指しエスカレーターに乗ると、向こうの方にもう見える。お濠に掛かる橋を渡ると荷物検査があり、外国人観光客がいっぱい並んでいる。その向こうの大手門は空襲で焼けて再建されたもので、写真は省略。入ると三の丸尚蔵館がある。天皇家所蔵だった宝物を展示するところで、昔は無料だった。改築後の今月仮開館して、千円取るようになった。ネット予約が必要だし、内容に特に関心ないのでパス。
(同心番所)(百人番所)(大番所)
 大手門近くに三つの番所が残されている。もちろん再建だが、要するに警備員詰め所である。最初が同心番所、続いて百人番所、石垣を入ると大番所がある。当然ながら、本来はもっと多くの番所があったという。写真が撮りにくい(逆光のため)が、百人番所の向こうに大手町のビル群が臨めるのが面白い。この辺りから石垣が続いて来る。昔は石垣しか残ってない江戸城に何か物足りなさを感じたものだが、最近お城ファンが増えて本やテレビ番組が多くなった。そうすると、天守閣より石垣に目を向けてこそファンみたいな感じがしてきた。そういう目で見ると、さすが将軍の城である江戸城は日本ベスト級なのである。
   
 ちょっと大きさが判らないかもしれないが、とにかく一つの石が大きい。畳より大きい石がキレイに切り取られ整然と積み重ねられている。一体どうやったのだろうか? これらの石は「伊豆石」と呼ばれるもので、伊豆半島から切り出されて海上を運ばれてきた。火山性の岩石で、種類としては安山岩だろう。江戸時代初期に有名な大名たちが動員され建造されたもので、Wikipediaを見ると加藤清正、池田輝政、福島正則、細川忠興、黒田長政、藤堂高虎ら自らも名城を築いた大名たちが名を連ねている。
   (ツワブキの花)
 少し坂を登っていくと、広場に出る。本来は広場ではなく幕府中枢部の建物が集中していたところである。「松の大廊下跡」とか「大奥跡」の表示があるが、要するに説明板があるだけなので省略する。こんなところにあったのかと思うけど、今は何もなく芝生が広がっている。そして奥に天守台が見えている。一応そこが目的地ということになる。ここが良いのは、あちこちにベンチが置いてあって晴れていれば休憩しやすいことだ。今日は遠足で来ている小学生がいっぱいいた。
   
 天守台とは要するにかつて天守閣があった場所である。ここも石垣が素晴らしいが、それよりも坂を登ると江戸城の最高地点に立てるのである。天守閣は江戸初期に三度築かれ、1657年の明暦の大火で焼失した。そして、そのまま江戸市街復興を優先して再建されなかった。なくても治政上問題なしと判断したのである。最近江戸城天守再建論があるが、僕はなくて良いのではないかと思う。空襲で焼けた、あるいは少なくとも維新期に無くなった城は再建したいという議論が起きても不思議はない。でも江戸城の場合、360年以上無かったのだからそれで良いのではないか。なお、英文の説明を読んでいて、天守閣は英語で「Keep」だと知った。
  (大きなクスノキ)
 その後、どこに抜けるか(出入りできる門は3つある)と思ったが、西南角にある富士見櫓をいつも見逃すのでそっちへ向かってブラブラ歩いた。林間を歩くと竹林があり、中にシホウチクもある。四角い竹である。また石室も出てきた。これは冷やすのではなく、火事の際に大奥の備品を避難させるところだったという。非常に大きなクスノキも2本あった。
                 
 西南角にある富士見櫓は空襲で焼けなかったが、関東大震災時に損壊したため解体して復元したという。ここはお濠越しに外から見る方が美しいのではないかと思う。中には入れない。ビルが建ち並んで、今は富士山が見えないという。しかし、江戸時代には富士山方向に江戸市街を眺望出来たのだろう。
 
 グルッと回って広場に戻って、「展望台」があるので一応寄ってみる。展望台と言っても、今ではビル街の展望である。下には白鳥濠という孤立したお濠があって、上から見られる。展望台下にトイレと休憩所がある。土産も売ってるが、皇室関係ばかりで江戸城の歴史本がほとんどない。まあ、そういう場所だと思うしかないのかと思うが何とかならないか。
  
 1万歩近く歩いて、少し疲れてきた。北の丸公園まで歩こうかと思っていたが、大手門に戻って「将門の首塚」を見て帰ることにした。再開発中ですっかり明るくなっていてビックリ。案外家から近く、12時少し前に出て、3時半頃には帰って来た。駅までの往復を入れて、1万600歩ほど。②はいずれ周辺を歩いて書きたい。
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ハチ公生誕百年展ー渋谷区郷土博物館と國學院大學博物館

2023年10月01日 21時54分45秒 | 東京関東散歩
 散歩というほどじゃないんだけど、「渋谷区立郷土博物館」でやってる「ハチ公 生誕100年記念展」を見てきた。(10月9日まで。)教育映画として作られた「ハチ公物語」(1958年、50分)の上映が午後にあるのは今日が最後だから行っておこうかなと思ったのである。場所がよく判らないが、地図を見ると國學院大學の近くである。そう言ってもよく知らないが、簡単に言えば青山学院大学の裏の辺りの地域になる。渋谷駅から歩いて15~20分ぐらいだが、土地勘がないのでバスで行った。行きは渋谷区のハチ公バス、帰りは國學院大學前から渋谷行きの都バスに乗った。

 ハチ公バス「郷土館・文学館前」で下りると、真ん前に「白根記念渋谷区郷土博物館・文学館」がある。白根って誰だと思うと、白根全忠という元渋谷区議会議員。「そんな人しらねえ」と皆言うだろうけど、この博物館の土地を提供した人だという。1階に入ってすぐにハチ公像があり、その奥でハチ公展をやっている。2階が郷土博物館、地下2階が文学館になっている。郷土博物館はどこも似ているが、ここは前近代が少なく、現代(戦後)の渋谷の発展が詳しい。
(ハチ公像)
 ハチ公展は写真を撮れず、カタログもないけど、ハチ公及び飼い主の上野英三郎(1872~1925)博士、上野夫人に関しては非常に充実した展示になっている。特に夫人に関しては僕もほとんど知らなかったので、いろんな事情があったのことを知った。ハチ公は周知のように秋田県大館市で生まれた「秋田犬」で、1923年11月10日に生まれた。(日付には異説あり。)そこで今年が生誕百年ということになるわけだが、上野博士は1925年に亡くなっている。具体的には5月21日である。そうすると上野博士のもとで飼われたのは、1年半もなかったのである。その後ハチ公は1935年3月8日に死ぬまで、10年近く生きた。

 ところで今になって思うのだが、上野博士は毎日渋谷駅からどこへ行っていたのか。それは東大教授なんだから東大に決まってるわけだが、当時は東大農学部は駒場にあった。一高と土地を交換して本郷に移ったのは1935年のことである。駒場だったら京王井の頭線かと思うと、その開通は1933年。それとも上野博士担当の「農業工学」は当時から本郷だったのか。それにしても渋谷からではルートが判らない。秋葉原・神田間がつながって山手線が環状運転を開始するのは、1925年11月で上野博士の没後である。いや、こんな疑問はきっと解決済みなんだろう。僕は今初めて疑問に思ったので、事前に気付いてたら博物館で聞いたのに。
(郷土博物館) 
 それはさておき、午後2時からの映画上映の整理券を1時から配布するという。博物館を見てたら結構並んでて33番になった。上映まで1時間あるので、國學院大學博物館に行ってみた。歩いて1分ぐらいである。非常に広くて、今までに見た大学博物館でトップ級なのに驚いた。神社の歴史や考古資料の展示が充実していて、郷土博物館とはレベルが違う感じ。まあ神社、神道、国学には関心が薄いので通り過ぎる程度だったが、関心と時間がある人には非常に充実した場所だろう。関東大震災時の折口信夫に関する展示があり、朝鮮人虐殺に激しく怒っているのが印象的だった。
(國學院大學博物館)
 郷土館に戻って、映画の上映。「ハチ公物語」は1958年に作られた教育用の映画と思われ、近年になって再発見された。監督は中川順夫(なかがわ・のりお、1909~2004)という人で、劇映画も手がけたが主に脚本家や記録映画で活躍した人らしい。僕は初めて聞いた名前で、「中川信夫」かと思ったぐらいである。ハチ公像の前で教師がハチ公の伝記を語り始めるという劇映画。戦後のシーンはロケが興味深いが、戦前の駅などはセットだろう。まあ大した映画じゃないが、「ハチ公伝説形成史」的な意味で興味深い。それに幼犬期、成犬期、老犬期と秋田犬を3頭用意していて、特に子犬の時期がカワイイのである。子犬は何でもカワイイとは思うが、秋田犬の中でもとりわけ美犬を選んでいるだろう。

 そこから渋谷駅に戻って、やはり最後にハチ公の銅像を見ていこうか。自分の家の場所から遠く、僕はハチ公前で待ち合わせをしたことがない。通りすがりに見てはいるけど、ちゃんと見たことがないのである。まあ東京人は大体そんなものだろう。今はもう写真を撮るために外国人観光客が列を作っていて、ここで写真を撮ろうとしている日本人などいない感じだった。そういう話は聞いていたけど、今は「世界のハチ公」なのである。
 (写真を撮る人々)
 ところで國學院大學の近くに実践女子大もある。そこにも香雪記念資料館があるが、日曜休みなので見られない。そこは下田歌子が創立した学校がもとになり、香雪は下田歌子の号だという。また向田邦子文庫もある。渋谷からほんのちょっと離れたところに大学が集中しているとは知らなかった。ハチ公の映画上映は、8、9、10の午前10時にも予定されている。
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永青文庫と肥後細川庭園を見る

2023年04月22日 19時53分41秒 | 東京関東散歩
 「永青文庫」でやってる「揃い踏み 細川の名刀たち ―永青文庫の国宝登場―」(5.7まで)を見てきた。熊本藩細川家下屋敷だったところにある美術館である。細川家に伝わる美術品や書物などを収蔵し、国宝が8点もあるところ。行くのは初めて。直線距離ではそんなに遠くないけど、東京は東西方向の交通網が少ないので、案外行きにくいのである。近くにある椿山荘鳩山会館東京カテドラル大聖堂なども一度も行ったことがない。地下鉄有楽町線江戸川橋駅徒歩15分と駅からちょっとある。

 この駅は「江戸川橋」の名前から江戸川区にあるように思っている人が案外いるけど、実は文京区である。ここで言う「江戸川」とは神田川のことである。神田川沿いの江戸川公園をしばらく歩いて行く。4月なのに夏の陽射しのような一日で、もう疲れたなあと思う頃に、その名も恐ろしげな「胸突坂」という急坂があり、登り切った所に永青文庫がひょっと出て来る。
 
 今は「事前予約制」だというので時間指定で予約して行ったが、何だ当日券も売ってるじゃないか。だだ最近は「刀剣女子」が増えているから、休日は予約しないとマズいかも。その日は空いてたけれど、それでも若い女性が結構多かった。「永青文庫」の「」は細川家の菩提寺である永源庵から、「」は細川藤孝(幽斎)の居城・青龍寺城から採られた。1950年に16代当主細川護立(1883~1970)によって設立され、命名も護立による。趣のある洋館建築で、4階から見る。中は写真不可。
(生駒光忠)(古今伝授の太刀)(展示室)
 そこで検索して画像を探してみた。国宝指定4刀の内、短刀が2つなので大きいのは上掲の2つ。僕は細川家伝来の刀だと思い込んでいたが、実は細川護立の収集品だった。若い頃に病気をして、療養中に日本刀に目覚めたらしい。「生駒光忠」は鎌倉時代の名工、備前長船光忠作で江戸時代初期の大名生駒家に伝来した。「古今伝授の太刀」は鎌倉時代初期に豊後の行平(ゆきひら)によって作られたもの。1600年の関ヶ原合戦時に、細川幽斎が籠る田辺城を西軍が攻撃したが、幽斎が唯一の「古今伝授」(こきんでんじゅ=古今和歌集の奥義を伝えること)継承者だったため、断絶を恐れた朝廷が介入して講和が成立した。その御礼に幽斎が勅使烏丸光広に贈ったもので、明治以後烏丸家から中山家へ移って競売になり、その後護立が買い取ったという。

 他にも重要文化財、重要美術品の逸品が多数展示されている。しかし、短刀になると僕はよく判らない。ましてや「」(つば)とか「」(こうがい)になると、モノが小さくなって判別も難しい。それを言えば、長い刀は判るのかというと、確かに国宝級になると何となく判る気がする。昔、熱田神宮宝物館で見た信長の刀は素晴らしかった。(熱田神宮所蔵じゃないから何か特別展をやってたんだろう。)特に刀に関心はないけれど、国立博物館などで何回も見ている。もともと「人殺しの道具」として作られたわけだが、金属工芸品としての機能美は紛れもない。優れた刀は何となく感じるものがある。

 永青文庫から直接「肥後細川庭園」に下りていけるようになっていた。この辺りは「目白台」の一角になり、昔田中角栄宅があった近くでもある。2017年まで「新江戸川公園」と呼ばれていたが、改修工事に伴い名称を公募して「肥後細川庭園」となった。細川家の下屋敷になったのは幕末時代で、明治以後に本邸が置かれた。従って江戸時代にさかのぼる大名庭園ではなく、近代に整備された庭園である。しかし、非常に立派な池泉回遊式庭園なので驚いた。
    
 永青文庫が高台にあり、庭園は神田川沿いにある。だからどんどん坂道を下りることになるが、最初は樹木の中で次第に全景が見えてくる。池が大きくて、なかなかの絶景だ。結婚写真を撮影している人がいたぐらい。
   
 江戸川橋公園から永青文庫に胸突坂を上る途中に、「関口芭蕉庵」がある。松尾芭蕉は江戸に来た時に、まず神田川分水工事の現場監督のような仕事に就いた。伊賀を支配する藤堂家に工事が命じられたのである。このことは嵐山光三郎の芭蕉本によく取り上げられている。その時芭蕉が住んでいたのが「関口芭蕉庵」だというが、もちろん当時のものではない。中は碑がいくつも立っているが、説明板やチラシが何もないのに驚いた。そんな施設は見たことがない。隣に水神神社があった。
(関口芭蕉庵) (胸突坂登り口)(胸突坂)
 永青文庫に行く前の江戸川公園神田川の写真を少し。僕はこの辺は初めてで、なかなかムードが良い緑が広がっていた。でも案外神田川が悪臭なので驚いた。都心のど真ん中で、こんな感じなんだ。行ったのは夏を思わせる暑い日で新緑がまぶしかった。
   
 神田川は井の頭公園に発して、両国橋脇で隅田川に合流する。江戸時代には上流が神田上水と呼ばれ、中流が江戸川と呼ばれていた。江戸時代に何度も改修が行われ、江戸城の外濠にもなっていた。御茶ノ水駅真ん前では急峻な渓谷風になっているが、新宿区から文京区辺りは大きなドブ川という感じ。かぐや姫の「神田川」の映画化(出目昌伸監督)よりも、黒沢清監督の『神田川淫乱戦争』を思い出してしまうのだった。
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古河歴史散歩ー「雪の殿様」と永井路子

2023年02月19日 22時23分55秒 | 東京関東散歩
 19日は4月並みに気温が上昇するという予報で、散歩日和だなと思った。そこで、茨城県古河(こが)市の歴史散歩に行ってきた。この前読んだ新書『大塩平八郎の乱』に、鎮圧の最高責任者は当時大坂城代だった古河藩主土井利位(どい・としつら)だと出ていた。この人は「雪の殿様」として知られ、26日まで古河歴史博物館で「雪の殿様 土井利位」という展示が行われている。また最近、作家の永井路子氏の訃報が報道された。古河市の出身で、旧宅が保存されている。今が行くべき機会かなと思った。

 自分の家からは東武線に乗って、埼玉県の久喜まで行ってJRに乗り換え。案外早い。古河駅構内に観光案内所があって案内地図が置いてある。実は数年前の地域紙に載ってた古河散歩の地図を持っていたのだが、それが間違いだらけ。迷ううちにパラパラ降ってきた。城下町の風情なら去年秋に行った岩槻(埼玉県)の方が残っていたかも。

 いつも書くけど、関東人は関東の歴史を知らない。多くの地方ではお城が残って、町のシンボルになっているところが多い。関東には現存天守閣は一つもなく、本格的な復元も小田原城ぐらい。そもそも関東は徳川幕府の天領が多い上、天守のない御殿が多かった。維新期に取り壊された城が多く、なかなか知られた城が少ない。古河も城下町のはずなのに、どんな城だか全然知らない。今回調べたら、渡良瀬川の改修で城跡はほとんどなくなってしまったのだという。それじゃ知らないはずだ。

 さて、駅を降りて西口へ。まっすぐ行くと県道261号に出る。これが旧日光街道で、古河は9番目の宿場町だった。道には「古河宿」の標しがあった。北上して迷走したが、普通は「古河歴史博物館」直行がいいのではないか。
 (古河宿)
 町並みを歩けば、歴史的なムードが確かに感じられる。途中で曲がったり行き止まりの道にお寺が多い。また、うなぎ屋が多いのは、川沿いの町だからだろう。大回りして古河歴史博物館に行った。ここは立派な展示があって、この種の歴史博物館の中でも優れている。1992年建築で、建築学会賞を得たという。古河城の諏訪曲輪(すわくるわ=出城)の跡地に建てられている。
  (歴史的な町並み)(古河歴史博物館)
 原始から近代まで展示するが、やはり土井利位と家老鷹見泉石のものが充実している。土井利位(1789~1948)は、分家筋の愛知県刈谷藩の土井家の4男に生まれて、本家の養子に迎えられた。老中になり、水野忠邦の政敵だった人である。フィクションだが、映画『十三人の刺客』で暗殺指令を出す殿様。日本で初めて雪の結晶を顕微鏡で観察し、『雪華図説』『続雪華図説』にまとめた。そもそも雪の結晶を「雪華」と名付けたのも、この殿様。なんかお殿様趣味みたいなものかと思っていたら、その本の影響で当時「雪華」デザインの着物が大流行し、その様子が当時の浮世絵に残されているのである。
(土井利位)(「雪華図説」)(雪華模様の着物)
 今でも古河市の小学校の校章は雪華文様になっているという。また近隣の古河第一小の付近には雪華の石畳がある。その小学校の体育館裏あたりが、家老鷹見泉石の生誕地。碑があるとのことだったが、日曜日で閉まっていたので見れなかった。
(雪華の石畳)(古河第一小学校)
 歴史博物館の真ん前に「鷹見泉石記念館」がある。鷹見泉石(1785~1858)が死去したのはこの屋敷だという。もとは藩士用の武家屋敷で、本来はもっと大きな屋敷だった。一時は天狗党投降の水戸藩士の仮収容所になったこともある。明治後になって鷹見家の所有となって、鷹見泉石関係資料はここで保管されていた。資料一切が近年歴史博物館に寄贈され、2004年に重要文化財に指定された。今まで「渡辺崋山の肖像画に描かれた蘭学者」ぐらいしか知らなかったが、博物館に展示された史料を見ると、なかなか奥が深い人だ。殿様の雪の研究を支えた人でもあり、膨大な地図のコレクターでもある。古河藩関係の絵地図だけでもいっぱいあった。オランダ由来の品々もたくさん残されている。「記念館」自体は、無料で中にも上がれない。建物を外から見るだけの場所。
   (鷹見泉石記念館)
 鷹見泉石記念館の庭から奥に続いて、奥原晴湖画室がある。奥原晴湖(1837~191)って誰よという感じだが、明治時代を代表する女性南画家だそうである。「南画」もよく知らないけど、中国南宋時代の様式に影響された文人画。古河出身で、鷹見泉石の姪にあたる。木戸孝允や山内容堂に庇護されて多くの文人と交流したとウィキペディアにある。明治3年に東京に画塾を開き大繁盛したが、明治24年に熊谷に転居した。この屋敷は昭和4年に熊谷から移築し、さらに歴史博物館前に移した。博物館に説明があって、初めて名前を知った画家。ウィキペディアを見ると、代表作が掲載されている。
 (奥原晴湖画室)
 そこから5分ほど歩くと、古河文学館がある。永井路子の追悼コーナーもあった。永井路子の他は、佐江衆一小林久三粒来哲蔵(詩人)とか。小林久三は『暗黒告知』で乱歩賞を取ったミステリー作家(それ以前は松竹のシナリオライター)だが、同作の主人公は鉱毒事件で有名な田中正造だった。佐江衆一も田中正造を描いているが、渡良瀬川に接し谷中村にも近い古河の風土によるものだった。文学館からさらに5分ほどに永井路子旧居がある。中に入れるけど、何となく通り過ぎてしまった。
(古河文学館)(永井路子旧宅)
 永井路子旧宅に行く前に、文学館から大きな道に出たところに「篆刻美術館」がある。別にそんなに関心はないんだけど、歴史博物館、文学館と3館共通券を買ったので行かないと。篆刻(てんこく)とは、「印章を作ること」で、主に篆書を印文に彫るから篆刻だそうである。「篆書」は字体の一つで、見れば何となく判ると思う。1991年に開館したもので、国登録の有形文化財の蔵を利用している。この蔵に風情があるので、篆刻には特に興味ないけど見た価値はあった。
  (篆刻美術館)
 永井路子旧宅から少し行くと、正定寺(しょうじょうじ)がある。藩主土井家の菩提寺だという割りに小さいなと思ったら、もう一つ東の方に大きな正定寺があるんだそうだ。下の画像真ん中は土井利勝像で、土井家藩祖になる。この寺を「利勝山」と呼ぶぐらいである。いろいろと文化財もあるらしいが、この頃雨が降ってきたから退散することにした。
  (正定寺)
 渡良瀬川を渡って、東武線新古河駅から帰ろうかと思っていたんだけど、雨のためJR古河駅へ戻る。駅ビルで鮒の甘露煮がいっぱい売っていた。小さいとき、よく家にあって結構好きだったけど、まあ買わずに帰ることにした。
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カレル・チャペックの家を見るー平塚花菜ガーデン

2022年11月04日 22時28分52秒 | 東京関東散歩
 カレル・チャペックの家を見に行こうと思った。ちょっとプラハまでひとっ飛び、というわけじゃない。日本に作られているのである。チャペックの本を数年前にまとめて読んだとき、いろいろ検索していたら見つけた。場所は神奈川県平塚市。平塚駅からバスで約20分の「神奈川県立花と緑のふれあいセンター 花菜(かな)ガーデン」というところである。平塚ってどこだ? いや、湘南の町だということは知っている。この前行った開高健記念館がある茅ヶ崎の次で、家から乗り換え一回で行ける。行きは上野始発の熱海行き、帰りは平塚始発の宇都宮行きとどっちも始発電車が待っていたのに驚いた。
   
 何でチャペックの家があるかというと、『園芸家12ヶ月』の著者だからである。園芸家としてのチャペックを評価して、その家と庭を再現しようということである。ガーデンはかなり広くて、入ると子どもたちが大きな芝生で遊び回っていた。チャペックの家は地図で見ると、ずいぶん奥の方にある。近場のバラガーデンなどから順に歩いて行くと、突如という感じで出て来た。庭がチャペックの家と同じように設計されているのかは判らない。気候が違うから、多分庭も違っているだろう。中も再現されているのかなと思ったら、そうではなかった。休憩室に利用されていて、机と椅子が並んでる。壁にはチャペックの説明。一応並べてみる。
   
 庭を中心に、こんな感じ。なお、下の最後にホンモノのチャペックの家を載せておく。
   (チャペックの家) 
 平塚は相模湾に面した町だが、駅は海から少し離れている。バスは内陸の秦野駅行きだから、市街地を抜けると次第に畑地が増えてくる。遠くには丹沢山地が見えているが、案外平坦な地域にある。広いように思ったが、案外小さいとも言える。ここしばらく毎週金曜日に出掛けているが、珍しいぐらい気持ちよい小春日和。今日は暑いぐらいだった。
    
 駅から離れていてバスを利用するしかないから、案外歩かない。すぐに駅に戻ってしまったので、もう少し歩こうと思う。駅から少しで平塚八幡宮八幡山公園の洋館がある。八幡宮は大きくて立派な神社で、七五三で賑わっていた。
(歩道橋から)  (神馬)
 神社の裏の方に八幡山の洋館がある。旧横浜ゴム平塚製造所記念館で、国の登録有形文化財になっている。もともとは1905年に海軍がイギリスの会社と合弁で火薬工場を建設し、その時に食堂、ホールとして建てられたという。それは火事で焼失したが、1912年に再建された。そして海軍火薬廠に引き渡され、関東大震災でも倒壊しなかった。1950年に横浜ゴムに払い下げられ、2004年に平塚市が譲り受け、2009年から一般公開されている。庭にバラが整備され、美しい。中も見ることが出来る。
   
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人形とお城の町ー岩槻(さいたま市)散歩

2022年10月30日 23時03分31秒 | 東京関東散歩
 岩槻(いわつき)を散歩した。2005年に合併して、埼玉県さいたま市岩槻区になっている。しかし、江戸時代を通して岩槻藩があり、今も城下町の面影が色濃い町だった。また昔から「人形作り」で知られ、全国的に「人形のまち」として知られている。町のあちこちに、今も多数の人形製作会社があって看板を上げている。2020年2月には「岩槻人形博物館」が開館したのだが、すぐにコロナで休館になってしまった。その時以来、2年半ぶりにようやく散歩に出掛けられた。

 鉄道利用の場合、東武鉄道野田線(アーバンパークライン)しかない。大宮と春日部の間である。春日部から快速で5分ほどで着いたので驚いた。史跡があるのは東口の方である。改札を出た真ん前に観光案内所があって、ガイドマップが置いてある。まずこれを確保するべき。最初にどこへ行こうかなと思って、駅から東方向の城跡公園は遠いので、そっちに行った後では南の郷土資料館へ行く気が失せそうに感じた。そこで郷土資料館の方へ行く時に、ちょっと裏道を歩いていたら大きなお寺が見えた。芳林寺というが、何と戦国時代の太田氏ゆかりの寺で太田道灌の銅像があるじゃないか。案内やガイドに全然出てないんですけど。
  (太田道灌像)(芳林寺)
 何でも戦国時代創建の寺で、太田道灌の孫に当たる太田資高が母の供養のため、名前を芳林寺と改め現在地に移転したという。そのゆかりで太田家の墓所がある。また岩槻藩初代の高力(こうりき)家2代目高力正長の墓所もある。関ヶ原以前に死去した人である。なお最初の埼玉県庁が一時ここに置かれたという碑もあった。ウェブ情報では確認出来ないのだが、とにかく碑はあった。太田道灌の銅像はあちこちにあるようだが、駅に近いし、ここも知られて良いところだ。
(太田家墓所)(高力墓所)(最初の県庁碑)(芳林寺由来)
 芳林寺から少し歩いて大きな通り(市宿通り、日光御成道)に出て、少し南へ歩くと「岩槻郷土資料館」がある。ここは1930年建造の岩槻警察署で、国の登録文化財。無料施設だから入ってもいいし、まあ外観だけ写真を撮れば良いとも言えるかな。この通りには、所々古そうなお店がある。道は現代的で車が引っ切りなしなので、宿場町というほどの風情はないけれど。(岩槻は中山道と日光街道を結ぶ日光御成道の宿場で、将軍一行が宿泊する宿場だった。)
(郷土資料館)  
 市宿通りを北へ向かい、駅前から直進してきた大通りを渡る。少し裏へ入って裏小路へ入ると、大分昔の城下町っぽくなる。道の名も広小路、江戸小路、天神小路など「小路」という名前になっている。そんな中に「岩槻藩遷喬(せんきょう)館」がある。岩槻藩に使えていた儒者・児玉南柯(こだま・なんか)が1799年に開いた私塾だが、後に藩校となった。藩校になったのは文化2年から8年の間(1805~11年)頃だという。明治以後住宅になって、一部改築されたらしいが、建物の基本は残っていた。1956年に岩槻市に寄贈され、修復が行われて公開された。中へ上がれて、修復の様子が写真展示されている。無料。
   
 儒者児玉南柯とともに「岩槻に過ぎたるもの」と言われたという「時の鐘」が次の目標。人形博物館は帰りに寄ることにして、遷喬館から裏小路を歩いて行く。1671年に最初に置かれて、その後1720年に改鋳された。鐘はそれがずっと使われているようで、今も朝と正午に鳴らしているという。鐘楼は江戸時代後期(天保年間)に焼失し、その後再建された。中は見られない。
  
 そこから歩いて行くと実はもう昔の城の中で、今は案内板しか残っていない。下の1枚目は大手門跡とある。網の向こうは何だろうと思うと、大回りしたあげく霊友会の敷地だった。近くの信号を右折すると「岩槻城跡公園」、左折すると「久伊豆神社」。「クイズ神社」と読んで人気があるが今回はパス。城にはもともと石垣や天守閣はなく、関東には多い土塁の城。
(大手門跡)(堀跡)
 今も残っているのは、黒門(下1枚目)と裏門(下2枚目)。その間に「人形塚」が立っている。岩槻城は江戸近くだから、比較的小さい譜代大名の居城だった。転封が多く、歴代で9家もある。中では3代阿部家が11万5千石だった時が最高。1756年に大岡忠光が城主となってからは、幕末まで大岡家が治めた。大岡忠光は9代将軍家重に仕えて、言語不明瞭だった家重の言葉をただ一人聞き取れたという人物である。その「功績」で旗本から大名に出世したわけである。しかし、幕末まで安定して支配出来たんだから、まあ悪くはなかったんだろう。公園はかなり広いが、今は市民の憩いの場となっている。
   
 一番奥に池があり、途中で何回も曲がっている赤い橋が架かっていた。そこから少し行くと、東武鉄道の昔の特急(ロマンスカーと呼んでいた)「きぬ」が保存されていた。休日は中を見られると書いてあった。
   
 そこから戻って、人形博物館へ。人形に特に関心があるわけではないから、作り方の展示などを通り過ぎるように見てオシマイ。疲れてきたから、修学旅行の生徒みたいである。岩槻はひな人形、五月人形などを今も作っている会社がいっぱいあった。いちいち写真は撮らなかったけど、その風情が面白いなと思う。でも個人で買うという感じの店ではない。
 (人形博物館)
 それから駅へ戻る途中で、駅近くの大工町通りに入り、愛宕神社を見る。神社が目的ではなく、そこがお城の土塁の上にあるんだという。その様子が残されているのが珍しいんだそうだ。
   
 その他、町のあちこちに登録文化財があるんだけど、まあ全部載せてもという感じ。藩校の近くに「鈴木酒造」というのがあって、資料館があると出ていた。帰りに寄ろうかと思ったが、行きそびれた。他にも人形を見せるところもあるし、本当は春に来た方がいいのではないかと思う。案外コンパクトにまとまっていて、半日ほどの歴史散歩には向いた町だった。
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山本有三と太宰治ー三鷹散歩

2022年10月21日 22時56分41秒 | 東京関東散歩
 関東はようやく「秋晴れ」っぽくなった。10月の初めの頃はまだ暑かった。その後急激に気温が下がって雨が続いた。結局、日本の一年はほとんどが暑いか寒いかになった。暑くもなく、寒くもなく、自分の用事も入ってない日は、一年に数少ない。今日はそういう一日だったから、散歩に行こうと決めていた。行きたいところは幾つもあるが、まずは東京都三鷹市に行こう。JR中央線で23区から多摩地区に向かって、2つ目が三鷹駅である。下りたのは約45年ぶり、2度目。昔「三鷹オスカー」という映画館があって、『若者たち三部作』一挙上映を学生時代に見に行った時以来。

 行った順番とは違うのだが、まず山本有三記念館から。1996年開館だから、もう26年も前のことになる。出来た年から行きたいと思っていて、もう四半世紀以上経っていたとは驚き。すごく見映えがする洋館として、こんなところがあったんだと思った記憶がある。三鷹駅南口から左の方に斜め(南東方向)の道があり、玉川用水に沿って「風の散歩道」と呼ばれている。この道は井の頭公園に続き、ジブリ美術館をめぐるバスが通っている。その通りの真ん中あたりに瀟洒な洋館が建っている。
    
 もっとも上に載せた画像は庭側から見たもので、道からは見えない。というか、家も道からかなり奥にある。真ん前に案外広い駐車場がある。そこから庭があり、建物の反対側にも大きな庭園がある。休日はまた違うのかもしれないが、今日は人が少なくて実にノンビリ出来る。表から見ると、何だかとても不思議な形をしている。
   (記念館前の駐車場)
 そもそも今では山本有三(1887~1974)と言われても、誰だという人も多いだろう。戦前から戦後にかけて、とても有名な作家だった。今でも新潮文庫に『路傍の石』や『真実一路』なんかが生き残っているようだ。代表作は幾つも映画化され、僕も『路傍の石』の田坂具隆監督版(1938)と久松静児監督版(1960)を見ている。賢いが貧しい少年が苦労しながらも真面目に生きて行くみたいな作風で、ある時代までは文学全集に必ず入っていた。吉野源三郎『君たちはどう生きるか』も、山本有三編「日本少国民文庫」の一冊として刊行され、最初は山本・吉野の共著となっていた。記念館は中を映せたので。
   (『路傍の石』を執筆した和室) 
 山本有三はここに1936年から1946年まで住んでいた。自分で建てた家ではない。清田龍之助という実業家が建て、1926年に登記された。設計者は未だに判明していない。山本有三は隣の吉祥寺に住んでいたが、家族が多く手狭になったので、ここを買い取って、妻、4人の子、母親と自分の7人家族で引っ越してきた。この家は敗戦後に占領軍に接収されてしまい、一家は大田区に引っ越すことになる。戦後は貴族院議員、参議院議員として言語政策、文化財保護などに奔走したが、返還後もここに住むことはなかった。そんなに広くはないけれど、素晴らしい庭も見応えがある。3月5日まで、明治大学文芸科長の時期を扱った企画展を開催中。
  (入口の扉)(愛用のスーツ)
 三鷹と文学と言えば、山本有三より太宰治を思い出す人の方が多いだろう。山本有三記念館は洋館の魅力で行くところで、今でも読まれているのは圧倒的に太宰である。しかし、大きな記念館などはない。太宰はもちろん津軽の出身であって、三鷹は「自殺した場所」(最後の住所)である。自殺未遂、薬物中毒、不倫、愛人と自殺とくれば、誇るべき大作家として顕彰しにくい。でも、読めば圧倒的に面白く、単なる「破滅型私小説」の枠を飛び越した才能に舌を巻くしかない。大きなお屋敷に住んでいたわけじゃないから、当時の建物はほとんど消えている。ようやく近年になって、2008年に「太宰治文学サロン」、2020年に「太宰治展示室 三鷹の此の小さい家」が開設された。
   
 前2枚は「小さい家」で、三鷹駅南口の「三鷹市美術ギャラリー」に当時の家が再現されている。特別展は撮影出来ないが、入口と書斎だけ撮影可。後2枚の「サロン」は駅からちょっと離れた場所にある。太宰が通った酒屋「伊勢元」の跡地にあって、太宰の本を手に取って読んだり出来る。しかし、まあ大ファン向けかなと思う。
   
 むしろ太宰ファンならずとも、まあ一度行ってみたいと思うのは禅林寺のお墓の方だろう。何しろ森鴎外もあるのだ。どんなお寺かと思ったら、駅からまっすぐ南に10分ほど行ったあたりの大きな寺である。珍しく黄檗宗(おうばくしゅう)。しかし、二人の墓は全く普通の感じ。2枚目が森鴎外。3枚目が太宰治というか、津島家の墓。一般のお墓の中に混じっているので探しにくいかも。一応案内板があるけれど、そこには出ていない三鷹事件遭難犠牲者追悼碑(4枚目)も忘れずに。
   
 太宰の時代から残る数少ないものが、陸橋・三鷹跨線人道橋である。線路沿いにずっと西へ歩けば出て来る。車庫を一望できる跨線橋は太宰も愛したという。近々撤去されるとされ、早く見に行く必要がある。多分晴れた日の夕暮れが一番素晴らしいだろう。当然橋上は鉄網で囲まれていて、高いところから写真を撮るという点では不満な場所。ただ人が歩いていると、絵になるのである。まあ他人だから撮らなかったけど、何人かで行くと良い構図になるかなと思った。1929年に出来たもので、撤去時期は不明。三鷹市とJRの間で「一部保存」が合意されたという。
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懐徳館庭園(旧加賀藩主前田氏本郷本邸庭園)に行く

2022年10月15日 22時41分40秒 | 東京関東散歩
 10月第3土曜日は毎年東京大学のホームカミングデーである。まあ、僕は東大が「ホーム」じゃないけれど、2年間コロナで開催されなかったこの日を実は待っていたのである。それは東大本郷キャンパス内にある「懐徳館庭園」が公開されるからである。東京には幾つも素晴らしい庭園があって、国の名勝に指定されている。その中で普段は非公開なのが、浅草寺の伝法院庭園とここ懐徳館庭園である。伝法院は時々公開されるので、前に見ている。しかし、懐徳館は1年に1日だけの公開なのである。
    
 「懐徳館庭園」は「旧加賀藩主前田氏本郷本邸庭園」である。よく知られているように、東大本郷キャンパスは江戸時代に加賀藩上屋敷だった。有名な「赤門」(現在、構造調査のため閉門中)は1827年に将軍家斉の娘が前田家に輿入れするときに建てられた門である。明治になって、前田家は本郷邸を本邸とした。その後改築を行い、1905年に日本館、1907年に西洋館が竣工し、明治天皇も訪れた。へえ、本郷の地に壮麗な洋館があったんだ。その後1926年に前田邸敷地と農学部、代々木演習林を交換することになり、前田家は駒場に今に残る大規模な洋館を建てたわけである。(本郷の洋館は空襲で焼失。)
(本郷にあったかつての洋館懐徳館) 
 懐徳館庭園は本郷キャンパスの一番東側にある。今日は自宅から行きやすい地下鉄千代田線湯島駅から歩いて、龍岡門の方から入った。結構坂道だったのを忘れていて、本富士警察署まで結構疲れたが、東大構内に入れば案外近い。突然出て来る感じである。日本館が見えるが、それが先の写真。玄関近くに机があってちょっとした資料が置いてあった。玄関は空いてるけど、中は公開してない。館に入れなければ、さっさと庭の方に向かうしかない。そうすると案外狭くて、池に水がないから「枯山水」そのもの。どこか兼六園を思わせるけど、あそこをぐっと小さくした感じか。
   
 庭の方から邸宅を見ると、こんな感じ。この邸宅は戦後になって、1951年に総長宿舎(大学迎賓館)として再建されたものだという。その時庭園はなるべく在来のもので修復したと書かれている。庭側はガラス窓で廊下が見える。昔風の日本の家である。
   
 「懐徳」とは論語から取られているという。「君子懐徳、小人懐土、君子懐刑、小人懐恵」だそうである。「君子は徳を重んじるが、小人は土地を重んじる。君子は法を重んじるが、小人は自らの利益を重んじる」という意。前田家はさすがに百万石で、今の東京にも幾つもの足跡を残している。ただし、この本郷邸やその後の駒場邸も江戸時代のものではない。震災、戦災があったからではなく、大名家は華族として明治に続き、皇族の訪問に備えて洋館を建設したのである。島津邸(現・清泉女子大)も同様。近代遺産なのである。帰りがけに振り返って屋敷を写した。
  
 後はブラブラ歩きながら本郷三丁目駅に急ぐ。東大構内は内田ゴシックと呼ばれるような壮麗な建築がたくさん残っている。こういう建物を見ると、どんな青春のドラマがかつて繰り広げられたのかと想像の翼がふくらんでいく。東京の大学には近代の美が残されている。また無料の博物館なども多い。以前も書いたが、「大学を観光に生かす」ということをきちんと考えて欲しいと思う。東京と京都では大きな財産になると思う。
 (安田講堂)(赤門)
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旧三河島汚水処分場喞筒(ポンプ)場施設を見る

2022年05月03日 22時50分16秒 | 東京関東散歩
 東京にも歴史的に貴重な近代遺産が数多く残されている。一度は行きたいなと思いつつも、なかなか行ってない施設がいっぱいあるが、その一つが「旧三河島汚水処分場喞筒(ポンプ)場施設」だ。「喞筒」なんて漢字があるのか。後ろの方は「筒」(つつ)だが、前の方は見当も付かない。ここは日本の下水道の始まりの施設で、何と重要文化財に指定されている。東京駅のような赤レンガ建築だが、建築美というよりは社会史的な意義の大きな施設というべきだろう。

 場所は東京都荒川区にあって、今は「三河島水再生センター」の一部となっている。都電荒川線の荒川二丁目停留所で下りると真ん前に見えている。入口はちょっと歩いて道を曲がったところになる。もともと火曜、金曜を除き見学者を受け入れているが、予約が必要になる。(インターネットで予約可能。)ただし、春のつつじの季節には予約不要の「通り抜け」をやっていて、一度花の季節に行こうと思っていた。3年前にちょうど都合の良い土曜日につつじ鑑賞会があったので行く気満々だったのだが、当日に突然原因不明の体調不良になってしまった。その後2年間コロナ禍だったので、今年ようやく行くことが出来た。
  
 全景写真を最初に載せたが、入口から入ったところは高くなっている。そこから見ると、大きな建物としては奥の方に大きな施設がある。それが「喞筒室」で、ホームページを見ると「下水を地下のポンプ井から吸い上げるポンプが10台設置されています」と書かれている。施設の中には入れなくて、パンフレットもない。案内版はあるけど、まあ忘れてしまうから、書く時に確認がいるわけである。そこに行く前に幾つかの施設がある。最初にあるのが「入口阻水扉室上屋」(下の最初の写真)で、「メンテナンス等のために下水の流れを一時的に止める扉」が地下にあって、その上屋になる。
   
 上の写真の2枚目が「土運車引揚(どうんしゃひきあげ)装置(インクライン)用電動機室」で、「下水から取り除いた土砂やゴミを積んだ土運車(トロッコ)を坂の上まで引き上げる機械」があった。中は見られない。どうも建物の名前が古風で難解なので、なじみにくい。そもそも下水道の歴史など全く知らないのだが、あちこちに案内板があって説明している。3枚目は重文指定の案内板。ところで今回はつつじが見どころということだった。ここは桜も名所なんだというが、つつじも立派なものだった。
 
 そもそも何年に出来たのかというと1922年(大正11年)のことで、1999年まで使われたという。ちょうど100年前である。出来るまでは長い時間があった。都市化ととも伝染病なども多く発生し、家庭下水をそのまま川に流して良いのか大きな問題になっていた。御雇外国人のバートンという人が三河島に処理場を作る計画を立てたが、財政上の問題で頓挫。その後1907年に中島鋭治によって計画が練り直され、1914年に着工された。中島は世田谷区にある駒沢給水塔を設計した人である。現在の台東区や千代田区を対象にしたが、「下水道」というものがあったわけではなく、糞尿を自動車で搬入し、処理した汚泥は品川沖に投棄したという。
  
 坂道を下に下りていくと、「沈砂池」と「濾(ろ)格室上屋」がある。場所としてはここが一番大きく、中庭に当たる部分の大部分を占める。「東・西に各1池あり、下水を池の中でゆっくり流して、下水中の土砂類を沈殿させて、取り除きます」ということになる。下水処理の中心だったところだろう。二つあるうち、片方は当時の施設のまま見えるようにされている。それが2枚目の写真である。そういう場所なので、ここには「日本の下水道発祥の地」という碑が立っている。(字は鈴木俊一元都知事)
  
 そして一番奥に「ポンプ室」があるわけである。ここが一番大きな施設で、花とともに写された写真ではなかなか美しい感じだが、近くに寄ってみると、やはり実用的な建築だなという感じがした。下水処理施設が「美しさ」を目指して建設されたはずもなく、歴史的価値によって重文に指定されたものだ。こういう施設が遺され公開されていることは、日本近代の都市発展史を振り返る意味でも大きな意義がある。一度は見ておくべきところかなあと思った。もっとも今回は電車事故のため時間が少なくなってしまい、駆け足的に見た感じだったんだけど。
 
 都電を降りた道も、今はバラが咲いていて気持ちよい。そこから見える壁の向こうが、もう下水処理場である。その隣には「荒川自然公園」というのがあるが、今回は行かなかった。家から近い割には行ったことがないところが多い地域である。
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首都圏外郭放水路の「地下神殿」を見に行く

2022年01月24日 20時57分39秒 | 東京関東散歩
 近年「地下神殿」と言われて有名になっている「首都圏外郭放水路」に行ってきた。前々から一度行きたいと思っていたが、1月末まで東武線の春日部(かすかべ)駅から無料バスが出ている。もっとも突然行っても入れない。事前にホームページから予約が必要である。いろんなコースがあって、時間を掛けて奥の方まで見せてくれるコースもあるが、長靴、ヘルメット着用で4千円。まあ、そこまではいいでしょうと千円で1時間の地下神殿コース
 
 上記画像のような写真を見たことがある人も多いだろう。最近は特撮ドラマなどによく利用されているというし。だけど、これを見ると真ん丸の円柱が立ち並んでいると思ってしまう。僕もそう思ってきたのだが、行ってみると実は細長い長円形なのである。かまぼこ板の四隅を丸く切ったような形の柱になっていてビックリ。地下80メートルの空間にいるので、高さ80メートルである。2枚目のタテの画像の柱に上下二つの印がある。上まで水が来るとポンプで排水して江戸川に流す。下の印を下回るとポンプが空回りする。残った水は元の川にポンプで戻すということだった。
   
 先に地下の写真を載せてしまったが、ここは庄和排水機場(上1枚目の画像)である。そこに「地底探検ミュージアム 龍Q館」という博物館が作られている。(月曜定休のため未見。)2枚目はそこに掛かっていた説明パネル。3枚目は建物を横から見た写真。この建物の中で受付をするが、実は地下に降りるのはここではない。4枚目のように建物の隣がサッカー場2面分の広大な空き地になっている。そこの下が「地下神殿」なのである。そして4枚目写真の左奥に見える小さな地下鉄駅(への降り口)みたいなところが、神殿入口なのである。200メートルぐらい歩いて行って、そこから110段ほど降りていく。階段は写真禁止になっている。
  
 上の画像は「第1立坑」で、地下神殿になってるところの反対側である。僕も勘違いしていたのだが、ここは利根川や荒川などの洪水用ではない。そういう大きくて有名な川の間にある中小河川が対象なのである。大きな川に囲まれて、この地域は「お皿」状になっていて水が集まりやすい。具体的には大落古利根川、幸松川、倉松川、中川といった川である。これら中小河川の水が増水すると、第1から第5までの立坑から取り込まれる。その水を溜めておくのが「調圧水槽」で、それが地下神殿の正式な名前なのである。第1立坑は「地下神殿」に水を流し込む一番近い立坑になる。ところで、そこから何かゴウゴウという音がする。何だろうと思ったら、立坑の上にスケートボード場があるという。出たら確かにスケボーやってた。まさかその音があんなに響くとは。
   
 ということで、大体説明が終わって後は自由時間で写真を撮る。いくら撮っても同じようなものだが、人間が小さく映り込んでいる方が柱の高さが感じられて面白い。(見学は階段に近い一角だけ。)この「神殿」に集まった水を排水機場のポンプで江戸川に流すという。関東地方は冬に晴れが多く、今は見学日和である。施設は年平均7回程度は使われていて、この地域の洪水を減らしている。この水槽区域には池袋のサンシャインビルほどの水を溜められるという。何でこんなに大きな柱が幾つも必要なのかというと、この地域は地下水が多くて浮力で浮き上がってしまうのを防ぐための重しなんだという。
 
 下りたものは上らなければならない。この階段上りがキツいわけで、足が弱い人は参加できない。しかし、まあ大体の人は何とかなるだろう。階段を上って出たところで受付の建物(龍Q館)を見ると、上の画像のような感じ。最近盛んになりつつある産業ツーリズム。ここは「産業」ではないが、インフラ観光という意味で似ている。実際に機能している構造物を見られるというのも貴重な体験だった。帰りのバスは近くの道の駅庄和に寄るので、そこを少し見て帰ってきた。
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