尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

ジャン・ユスターシュ映画祭を見る

2023年09月03日 22時10分45秒 |  〃 (世界の映画監督)
 フランスの映画監督ジャン・ユスターシュ(Jean Eustache、1938~1981)の映画をヒューマントラストシネマ渋谷で特集上映している。ヌーヴェルヴァーグが生み出した異端の映画作家で、2本の長編映画と数編の中短編映画を残して42歳で自ら命を絶った「伝説」の映画作家である。代表作『ママと娼婦』(1973)が1996年に公開された時に見た記憶がある。それでもこの人の名前を知っている人はよほどの映画マニアに限られるだろう。今回は長編2作と中編2作が上映されているが、他にも数本の映画があってアンスティチュ・フランセ東京で上映されるという。

 ジャン・ユスターシュは経済的に恵まれない家庭に育ち、高校へも行けなかった。母の故郷ナルボンヌ(フランス南西部、地中海に面した町)で育ち、電気技師の資格を取って国鉄職員となり、1958年にパリに移った。そこでシネマテークに通って、ゴダールやロメールと知り合った。秘かに『わるい仲間』(1963)をゲリラ的に撮影していて、それを仲間に見せたら絶賛された。若者二人組が町で出会った女性を口説こうとして、ダンス場まで一緒に行くがどうにもうまく行かない。そこで「悪さ」をしてしまう様子を描いている。なかなか生き生きと描かれた作品なんだけど、主人公に共感出来ないのが問題か。
(ジャン・ユスターシュ監督)
 その映画を見たゴダールが『男性・女性』の未使用フィルムを提供し、ゴダールの会社が製作したのが『サンタクロースの眼は青い』(1966)。トリュフォー、ゴダール作品で知られるジャン=ピエール・レオが貧しい若者を演じている。故郷ナルボンヌで撮影された映画。冬に向かってダッフルコートを買いたい青年がサンタクロースに扮して客と写真を撮るアルバイトをする。やがてサンタの着ぐるみを着ている方が大胆になれてモテると気付いて…。無職の冴えない青春を描く映画は日本で当時かなり作られたが、この映画ほどリアルな映画も珍しい。
(『サンタクロースの眼は青い』)
 上記2作はフランスで同時公開されたというが、今回も一緒に上映されている。その後、中編や長編ドキュメンタリー映画をいくつか作った後、1973年に畢生の大作『ママと娼婦』(La Maman et la Putain)を発表し、カンヌ映画祭で審査員特別グランプリを獲得した。215分もある長い白黒映画で、前見たときも長いなと思ったけど、どうも長すぎる気がする。題名と違って「ママ」と「娼婦」の映画ではない。「年上の女性」と「多情な女性」とでも言うべき中身である。ジャン=ピエール・レオ演じる主人公アレクサンドルが、僕にはよく理解出来ない。冒頭で別れた女性にまとわりつくシーンが、何だかストーカー的でやり切れない。
(『ママと娼婦』)
 アレクサンドルはその時、マリーベルナデッド・ラフォン)の家に転がり込んでいて、二人は性関係もある。だけど、心は別れたばかりの前の女性にある。そういうことはあるかもしれない。だけど、ここでアレクサンドルは町で見かけたもう一人の女性、ヴェロニカフランソワーズ・ルブラン)に声を掛けて付き合い始める。いわゆる「漁色家」というのでもなさそうなアレクサンドルが、その後二人の間で揺れ動く様を映画は見つめていく。これはユスターシュの自伝的な作品だという。実際フランソワーズ・ルブランは彼と付き合っていて別れたばかりだったという。性的なセリフが当時としてはスキャンダル視されたというが、今ではそこまで感じない。だけど、その分主人公にいい加減にしろよと言いたい気分になってくる。痛ましい映画だと思う。
(『ぼくの小さな恋人たち』)
 『ぼくの小さな恋人たち』( Mes petites amoureuses、1974)も自伝的な映画だが、もっと若い頃を描く。カラーで田舎の青春を描くので、他の作品のような痛ましさは少ない。ある意味、良く出来た「思春期映画」なんだけど、エピソードの羅列で「何も起こらない」映画である。いや、細かく見ると主人公の家庭的悩みが出ている。だけど、それはサラッと描かれるので、観客は重みを感じにくい。むしろ性の目覚めをずっと追っている。これは恐らく多くの人の実感だろう。自分ではどうしようもない家庭事情より、誰が好きとかの方が大きいのが普通だろう。いろいろあるけど、結局何も大きなドラマにならない。それが映画の魅力でもあり、多くの青春は実際に「何も起こらない」方が多い。青春の実感を伝える映画だ。

 結局、ジャン・ユスターシュ監督は「自伝」的な作品を作った人だと言える。「ヌーヴェル・ヴァーグ」を経て、誰でも映画を作って良くなった。映画どころか高等教育も受けていないユスターシュのような人でも映画を作れる。それは自分の人生を描くということだった。81年5月にギリシャで事故にあって、足が不自由になったという。それもあったかどうか、自ら死を選んだ。しかし、作品の中にも痛ましい人生を想像させる作品があると思う。トリュフォーやロメールの映画を見るときのような幸福感は得られないが、これも映画であり人生だ。
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メーサーロシュ・マールタ監督の映画ーハンガリーの女性監督

2023年06月06日 23時26分32秒 |  〃 (世界の映画監督)
 メーサーロシュ・マールタ(Mészáros Márta 1931~)監督の特集上映が新宿シネマカリテで行われている。今回の上映があるまで、名前を知っていた人はほとんどいないだろう。ハンガリー女性監督で、世界三大映画祭で最高賞を獲得した最初の女性監督なのだという。1975年のベルリン映画祭で、『アダプション/ある母と娘の記録』が金熊賞を受賞したのである。しかし、今まで日本では一本も公開されず(映画祭上映のみ)、知る人も少なかった。今回5本上映されているが、そのうち4本を見たので紹介しておきたい。いずれも「女性の生き方」がテーマになっているが、映画以上に監督の実人生も非常に特別なものだった。

 メーサーロシュ・マールタは、1931年にブダペストで生まれた。父がコミュニストだったため、1936年にソ連のキルギスに移住したが、父はスターリンの粛清によって逮捕された(1945年に処刑)。(ハンガリーはナチスと同盟して第二次大戦に参戦した国家である。)母も1942年に死亡して孤児となり、ソ連在住のハンガリー人の養子となった。戦後ハンガリーに帰るが、結局モスクワに戻って全ロシア映画大学を1956年に卒業したのである。

 その後ハンガリーでドキュメンタリーを撮っていたが、1958年に後にハンガリー映画の巨匠となるヤンチョー・ミクローシュと結婚した。日本でも『密告の砦』(1965)が岩波ホールで公開され、その峻烈な映像美に驚いた記憶がある。ヤンチョーとの結婚によって、ハンガリー社会と映画界の知識を得たのだという。1968年に離婚したものの、その年に長編映画第1作を撮っている。彼の前妻の息子ヤンチョー・ニカは後にメーサーロシュの撮影監督をしていて、今回のプログラムにインタビューが掲載されている。
(メーサーロシュ・マールタ監督)
 以下、簡単に作品解説を。『ドント・クライ プリティ・ガールズ!』(1970)は未見。『アダプション/ある母と娘の記録』は、43歳というカタが医者に自分はまだ子どもが産めるかと聞くシーンから始まる。彼女は未亡人で、同じ工場に働くヨーシュカと長い不倫関係にある。カタは彼に子どもを産みたいというが、公に出来ない関係だからダメだと言われる。妻子がいる家庭に同僚として連れて行かれ、妻から自分も働きたいと言われる。しかし、ヨーシュカは女は育児をして欲しいという。
(『アダプション』)
 そんなカタのところに、寄宿学校に通うアンナが部屋を貸して欲しいと頼んでくる。アンナは親にネグレクトされ、寮のある学校に送られている。交際相手が出来たものの結婚を認めて貰えない。そんな彼女に次第に同情していき、カタは学校まで出掛けていく。そして、次第に自分の子どもでなくても、養子を迎えることも出来ると思うようになっていく。女性にとっての「子どもを持つこと」の重大さ、ハンガリーの家父長制社会への批判、そして名付けようのない女同士の連帯関係…。モノクロの静かな映画で、ハンガリーでは非常に不評だったという。時代に先駆けたテーマだったのだろう。

 次の『ナイン・マンス』(1976)は実に面白い。ユリモノリ・リリ)は、農学を学びながら窯業の工場で働くことにした。すぐに上司のヤーノシュヤン・ノヴィツキ)が言い寄ってくるが、ユリは応じるような、時々避けるような態度を取る。実は前に未婚で生まれた子どもがいたのである。そのことを隠しているが、ヤーノシュは後を追ってきて知ってしまう。それでも諦めきれず、二人はズルズルと付き合い続けて、子どもが出来てしまう。しかし、前の子どものことを彼の家族になかなか言えない。
(『ナイン・マンス』)
 この映画は『アダプション』と同様に、「女性、子ども、仕事」をテーマにしている。しかし、抒情的な音楽で判るように芸術映画というよりもメロドラマ的に作られている。それが「社会主義」時代のハンガリーで女性監督が生きていく道だったのかもしれない。1977年のカンヌ映画祭で国際映画批評家連盟賞を受賞している。この映画に出演したポーランドの俳優ヤン・ノヴィツキとはその後生涯のパートナーとなった。またユリ役のモノリ・リリは以下の2作にも出ていて、メーサーロシュ映画のミューズとなった。出演依頼を受けたときに実際に懐妊していて、ラストでは現実の出産シーンが出て来るという驚くべき映画。

 『マリとユリ』(1977)は、縫製工場の寮で責任者を務めるマリマリナ・ヴロディ)、工場に戻ってきたが寮に子どもを連れ込むユリモノリ・リリ)の二人の関係を描いている。子どもを連れてくるのは違反だが、ユリの夫はアルコール中毒で暴力を振るうため、マリは自分の部屋にユリと子どもを引き取る。マリの夫は、彼女が寮に住み込んで働くことを良く思ってない。自分の結婚もうまく行ってないので、ユリにも強い同情を持ってしまうのである。
(『マリとユリ』)
 フランスの大女優マリナ・ヴロディを起用して、再び「名付けようのない女同士の連帯」を扱っている。お互いにどういう関係なのか、自分たちでも判らないながら、相手を見捨てられない。ユリの夫はヤン・ノヴィツキが演じていて、前作の言い寄る上司と全く違うアル中男のメチャクチャぶりを好演している。「マリ」「ユリ」だの、まるで日本みたいな女性名だなあと思うが、ハンガリーは姓が先、名が後という名前を見ても東洋風の名残がある。

 『ふたりの女、ひとつの宿命』(1980)は珍しく、第二次大戦前夜を描く歴史映画。モノリ・リリは今度は豪邸に住む大富豪の娘スィルビアである。軍人の夫アーコシュヤン・ノヴィツキがやっている。二人は愛し合っていて何も問題ないように思うと、実は彼女は不妊症で子どもが出来ない。それを父親には言えず、父は莫大な遺産を彼女の子どもに残すと遺言して亡くなってしまった。そこでスィルビアはお菓子屋で知り合った若い友人イレーヌイザベル・ユペール)に、夫の子どもを産んで貰って自分の子としようと画策するのだが…。
(『ふたりの女、ひとつの宿命』)
 ここに、イレーヌがユダヤ人であり、ハンガリーがナチスの同盟国だったという歴史が絡んでくる。それを別として、やはりこの映画でも「女性と子ども」、そして「二人の女」というテーマを扱っている。ただし、時代も主人公の経済力も、今まで描いていたハンガリーの現実と離れている。そのためちょっとテーマ性が見えにくいが、若きイザベル・ユペールの魅力が素晴らしい。もうすでにカンヌ映画祭女優賞などを受賞し、世界的に活躍していた。

 この4作はハンガリーが未だ「社会主義」だった時代の映画で、主人公が工場労働者だったりするのもそれが理由だろう。あまり国内受けはしなかったというが、女性監督のテーマとして認められたということだと思う。ただ先に書いたように、ドキュメンタリー映画出身らしくリアリズムで描きながらも、展開や描写にメロドラマ的な作りが見られる。思ったように作れなかった時代なのかもしれない。ハンガリーの巨匠コーシャ・フェレンツは80年以前の彼女の作品は認めないと言ったらしい。彼女の真の代表作は自己の人生をモデルにした「日記4部作」というものらしい。それらが公開されることも望みたい。
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『シャンタル・アケルマン映画祭2023』ー「風景映画」とフェミニズム

2023年04月11日 22時48分24秒 |  〃 (世界の映画監督)
 シャンタル・アケルマンという女性映画監督を「発見」した経緯については、昨年「シャンタル・アケルマン映画祭ーフェミニズム作家の「発見」」(2022.5.14)で書いた。その時は5本の映画が上映されたが、中でも25歳の時に作られた『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番』(1975)にはまさに驚倒した。その映画はイギリスの映画雑誌が10年ごとに選出している世界映画ベストテンで、何とベストワンに選ばれてしまった。そのことも「世界映画ベストテン、2022年版はどうなったか」(2022.12.29)で書いた。もっとも僕は『市民ケーン』や『東京物語』よりも上だとは思わないけれど。

 さて、そのシャンタル・アケルマンの映画がまた上映されている。昨年上映の5本に加え、新しく長編4本、短編1本を上映しているのである。これは見てみたいと早速通ってみた報告。今回は珍しく同時代に日本公開された『ゴールデン・エイティーズ』というミュージカル映画を除き「作家性の強い映画」が多く、どうもあまり一般向けとは言えない。とはいえ、この映画史的に重要な映画作家を理解するためには、まさに必見の映画ばかりである。僕もよく理解出来ないところが多かったけど、決して眠くはならなかった。(周囲には寝ている人が多かったけど。)

 まず18歳の時の映画学校卒業作『街をぶっ飛ばせ』(1968)。わずか12分の短編映画ながら、確かにその後につながっている。例えば、この映画の拡大ヴァージョンが『私、あなた、彼、彼女』とも言える。監督自身が演じている女はキッチンで一人騒ぎ回る。60年代末の世界的反逆精神の表れとも見えるけど、何かフツーじゃない(ADHDみたいな)異様さも感じさせる。
(『街をぶっ飛ばせ』)
 『街をぶっ飛ばせ』は短編だから、『家からの手紙』(1976)と併映されている。これがまた変な映画で、ただニューヨークの路地や地下鉄の駅などを映し出すだけである。そこに本人のナレーションで、母親からの手紙が朗読される。娘が一人でアメリカに行ってしまい、寂しい母はもっと手紙を書いて欲しいと訴える。自分や家族の体調不安を訴え、知人の縁談を伝える。70年代半ばのニューヨークは荒涼たるムードが漂うが、街を通り過ぎる車はやはり大きい。当時はまだ「白人」が多く、しかも今と比べてスリムなのに驚く。最近のアメリカの映像を見ると、主義主張は異なっても太っている人が多いけれど。固定した映像、あるいは車などで移動しながらの撮影でロケした映像に母の言葉が被る。一体何なんだろう、この映画は。
(『家からの手紙))
 と思うと、『東から』(1993)という映画はもっと凄い。東欧革命、ソ連崩壊後の旧ソ連圏を旅して、人々と風景を見つめた映画である。ナレーションもなく、場所の説明もない。字幕もないから現地の人々の言葉も判らない。ただ異国で撮影した映像を見せられる。最初は東ドイツからポーランドへ進み、さらにウクライナからロシアへと進んだと思われる。キリル文字が町にあるから、多分そうだろう。街の荒涼感と人々の不安、映像の美しさは際立っている。しかし、ただ風景を見つめるしかない。
(『東から』)
 僕が思い出したのは、かつて足立正生、松田政男、佐々木守らが作った『略称連続射殺魔』(1969、公開は1975)のことだ。略称じゃない正式名称は、「去年の秋 四つの都市で同じ拳銃を使った四つの殺人事件があった 今年の春 十九歳の少年が逮捕された 彼は連続射殺魔とよばれた」というものである。言うまでもなく永山則夫のことだが、映像はひたすら永山が住んだ場所、事件を起こした場所などを映し出すだけである。作者は「風景映画」と呼んだが、アケルマンの2本の映画こそ世界映画史上最高の「風景映画」だったのではないか。ただ風景を見つめるだけだが、この2本によって「冷戦」を戦ったアメリカとロシアを見つめる。

 『一晩中』(1982)も不思議な映画。アケルマンが生まれたブリュッセルで、ある暑い夏の一晩だけを描く。多くの人々が街に出て出会ったり、ダンスを踊り、別れたり…。映像は美しいが、登場人物が点描されていくので理解しにくい。たった一晩を様々な人々を通して描く作品。
(『一晩中』)
 最後が『ゴールデン・エイティーズ』(1986)で、当時も作風がガラッと変わって戸惑いを与えたらしい。ある地下のショッピング街。美容院やカフェ、アパレルショップが立ち並ぶ。そこで働く人々や客の恋模様をミュージカルで歌い上げる。フランス映画らしく、人々は誰かに恋しているが、その相手は違う誰かに恋している。だが最後まで見ると、皮肉な終わり方に監督の醒めた目がある。美しいカラー映画だが、内実はシビア。そういう映画を何故作ったのかは、今ひとつ判らなかった。アラン・レネもミュージカルを作っているけど、ジャック・ドゥミ(『シェルブールの雨傘』『ロシュフォールの恋人たち』)越えるものはないだろう。
(『ゴールデン・エイティーズ』)
 アケルマンの多彩な側面を垣間見ることが出来る作品群だが、昨年ほどの驚きはない。普通の映画ファンには大変だろうが、この映画史上最高のフェミニズム作家の孤独で破天荒な内面に迫るためには落とせない。映画史的な意義は非常に大きいと思う。ヒューマントラストシネマ渋谷で4月27日まで上映予定。
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ジャン=リュック・ゴダールを送るー「映画の革命」と「革命の映画」

2022年09月14日 22時46分40秒 |  〃 (世界の映画監督)
 フランスの映画監督ジャン=リュック・ゴダール(Jean-Luc Godard、1930~2022)の訃報が届いた。91歳。パリで生まれたが、両親ともにスイスに縁があり、晩年はジュネーヴに住んでいた。スイスは「安楽死」(医師処方の薬物による自殺)が合法化されていて、生活に支障を来す複数の病気を抱えていたゴダールは、その制度を利用したという。これには非常に驚いた。
 (ゴダール監督、若い頃と壮年期)
 ゴダールは50年代末にフランスで起こった「映画の革命」、「ヌーヴェル・ヴァーグ」(新しい波)を代表する映画監督だから、日本でも大きく報道されている。その頃に同じく「新しい波」に乗っていた監督もどんどん亡くなっている。早く84年に亡くなったトリュフォーは別としても、2014年にアラン・レネ、16年にジャック・リヴェット、2019年にアニエス・ヴァルダが亡くなり、次はゴダールの順番だというのは判っていた。最後の映画は2018年の『イメージの本』で、晩年まで映画を作り続けていた。もはや映画祭やベストテンなどと関わらないシネマ・エッセイ的な境地の作品だと思った。

 70年代初期に映画に関心を持ち始めた僕にとっては、ゴダールという名前は神話的な重みを持っている。しかし、その時代を知らない若い世代には、ゴダールと言っても特に感慨はないようである。60年代の映画を今見直しても、なんでそんなに受けたのかよく判らない人が多いのではないか。ゴダールは結局、世界的な激動の時代、若者が革命を熱く語り合った時代の映画だった。日本で言えば大島渚がある程度近いかもしれない。「映画芸術」としてではなく、もちろん娯楽的関心でもないのである。 

 僕が映画を見始めた頃には、ゴダールの新作は見られなかった。「商業映画」は作っていなかったからである。そこで60年代の旧作を見ることになる。僕が最初に見たのは、1970年にATGで『アルファヴィル』(1965)がやっと公開された時で、その時に『気狂いピエロ』(1965)が同時上映された。僕はSF『アルファヴィル』より『気狂いピエロ』が圧倒的に面白かった。ほとんどノックアウトされたと言ってもいい。そのことは『ゴダールの「気狂いピエロ」について』(2019.12.22)で書いた。

 ゴダールは『勝手にしやがれ』(1960)で語られることが多い。「息せき切って」ぐらいの意味だという原題に、よくも素晴らしい邦題を付けたものだ。(それはトリュフォーの「400回の殴打」を『大人は判ってくれない』と付けたセンスにも言える。英語をそのままカタカナにした題名しかない今とは全く違うのである。)この映画は「映画の革命」と言われる。90分の映画だが、もともとはもっと長く、カットを求められた。その時ゴダールは、観客に判りやすいように編集するという常識に抗して、それぞれのシーンから少しずつカットしたのである。その結果、つながりはブツブツと途切れるけれど、見事なリズム感が生まれた。何度か見ているが、最初に見た時より何回か見た後の方がずっと面白い。不思議な映画である。

 60年代初期の映画としては、映像社会学的な『女と男のいる舗道』(1962)やモラヴィアの原作、ブリジット・バルドー主演の『軽蔑』(1963)も面白いと思うけど、日本での公開がなぜか遅れた『はなればなれに』(1964)が一番面白いのではないだろうか。ゴダール本人は「不思議の国のアリス・ミーツ・フランツ・カフカ」と言ってるらしい。日本公開が2001年だったのは驚きだ。アンナ・カリーナと2人の男がルーブル美術館を走り抜けるシーンは映画史上最高レベルの素晴らしさ。
(『はなればなれに』)(『軽蔑』)
 60年後半になると、政治的な方向性が強くなる。中では週末の大渋滞に巻き込まれた夫婦の地獄めぐりの一週間を描く『ウイークエンド』(1967)が衝撃的だったが、最近見てないので今見るとどうだろうか。この映画は日本では69年のベストテンで4位に入っている。これはゴダール史上の最高だった。ちょっと書いておくと、『勝手にしやがれ』(60年8位)、『女と男のいる舗道』(63年5位)、『軽蔑』(64年7位)、『気狂いピエロ』(67年5位)、『男性・女性』(68年7位)、そして『ウイークエンド』である。いかに60年代の映画作家だったかが判る。ゴダール映画に投票しない批評家もいっぱいいたから、ベストテン下位が多い。
(『ウイークエンド』)
 そして68年5月がやって来る。「五月革命」でフランス中が騒然とする中で、ゴダールやトリュフォーらはカンヌ映画祭で労働者・学生に連帯を表明して映画祭粉砕を宣言する。この年のカンヌ映画祭は中止された。その後、ゴダールは「ジガ・ヴェルトフ集団」を結成して、ハリウッド的映画に訣別する。商業映画に回帰したトリュフォーとはこの時に絶縁した。従ってこの時期のゴダール映画は商業的な映画ではないけれど、日本ではほとんどが公開されている。『東風』(1970)、『イタリアにおける闘争』(1970)などである。「映画の革命」を越えて、ゴダールは「革命の映画」に踏み込んだのである。

 『東風』という題名も今では解説がいるだろう。当時文化大革命中の中国はソ連を修正主義と非難して、革命の風は東から吹くと世界に呼びかけていた。この題名から想像出来るように、当時ジャン=ポール・サルトルがそうだったように、ゴダールもマオイスト(毛沢東主義者)に近づいていた。これは農民による革命という意味ではなく、労働者の直接行動による革命という程度の意味だと思う。そこで革命に向けたマニフェストのような「映画」を作ったのである。ご丁寧にもゴダールにも革命にも無関心ではいられない僕はちゃんと見に行った。その結果、こんなつまらない映画はないと思った。映像あっての映画だが、これらのゴダール作品は「言語」による革命の呼びかけに覆われていた。それなら本を読む方がもっと判るというもんだ。

 そしてゴダールも商業映画に復帰した。でも今度は全部は見なかった。確かシネヴィヴァン六本木の開幕映画だった『パッション』(1982)なんか、ちゃんと見に行ったもんだけど、全く訳が判らないというか、つまらないのにビックリした。いや、通常の映画に囚われている自分の方が間違っているのか。でも、その後何本か見たゴダールの新作も同じような感じだった。結局、アンナ・カリーナを愛していた時代がもっとも輝いていたのである。2019年にアンナ・カリーナが亡くなった時には『女優アンナ・カリーナを思い出して』を書いた。ゴダールの女性との関係は四方田犬彦ゴダールと女たち』(講談社現代新書)が詳しい。この本のことは『ゴダールー映画と革命と愛と』で紹介している。
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シャンタル・アケルマン映画祭ーフェミニズム作家の「発見」

2022年05月14日 22時41分18秒 |  〃 (世界の映画監督)
 ヒューマントラストシネマ渋谷で「フランス映画祭」として、ジャック・リヴェットシャンタル・アケルマンエリック・ロメールの三人の監督を特集上映している。リヴェット、ロメールの二人はフランスの「ヌーヴェル・ヴァーグ」を代表する監督だが、日本ではトリュフォー、ゴダールなどと違ってなかなか公開されなかった。80年代以後のミニシアター・ブームでようやく公開されたが、リヴェットにはまだずいぶん未公開作品が残っていたものだ。ところで、もう一人のシャンタル・アケルマンって誰だ? いや、名前を聞いたような気はするが、一度も見てないんじゃないか。この際アケルマンを集中的に見てみようと思った。
(シャンタル・アケルマン映画祭)
 シャンタル・アケルマン(Chantal Akerman、1950~2015)は、これまで日本では本格的な紹介がなされなかった。しかし、今回重要作5本を見たことで、映画史理解に大きな欠落があったのだと判った。近年になって「映画史における女性の役割」に関して、根本的な見直しが行われている。この重要な女性監督のフェミニズム映画が日本で見られなかったのは大きな問題だった。今回もっと早く見ようと思ったのだが、ゴールデンウィーク中の上映は、なんと前日に満員になった回まであった。予定を超えて3週目も上映が続いているので、やっと5本全部見られた。

 調べてみると、アケルマン作品は「ゴールデン・エイティーズ」(1986)、「カウチ・イン・ニューヨーク」(1996)など日本公開された作品もあった。しかし、20代で作った自主製作的な映画は上映されなかった。今回フランス映画祭で上映されているが、アケルマンは元々はベルギー生まれである。ユダヤ系で、母方の祖父母はホロコーストの犠牲者で、母はアウシュヴィッツを生き延びた。15歳でゴダール「気狂いピエロ」を見て、映画製作に進もうと思ったという。僕も同じように思ったものだが、アケルマンは映画学校を中退してアントワープ証券取引所でダイヤモンド株の取引で製作費を作ったというから、凄いなあと思う。
(シャンタル・アケルマン)
 代表作と言われる「ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番」(1975)は、わずか25歳で作った作品だが、フェミニズム映画の代表作と評価されている。何と200分にもなる長大な映画だが、それもほとんどが固定されたカメラでじっと主人公のジャンヌを見ているだけである。この映画は今までのすべての映画(だけでなく様々なジャンルの芸術)の欠落を静かに告発している。映画内では人々が恋愛したり、あるいは殺しあったりしているが、彼・彼女は何かを食べて生きているはずである。主人公がシェフである映画はたくさんあるが、普通その家庭の食事は描かれない。

 何しろ「ジャンヌ・ディエルマン」という映画は、ほとんどのシーンが家事のシーンなのである。ジャンヌはひたすらジャガイモの皮をむいている。そんな映画が面白いのかと思うかもしれないが、これが退屈せずに3時間20分を見てしまうから驚き。ジャンヌを演じるのは、デルフィーヌ・セイリグで、アラン・レネ「去年マリエンバードで」や「ミュリエル」、ブニュエル「ブルジョワジーの秘かな愉しみ」などに出ていた。僕のお気に入りの女優だが、彼女がひたすら家事をしている映画があったのか。カメラは極端な長回しで、クローズアップやカットバックは用いられない。説明的なセリフがないから、最初は全然判らないが、やがて彼女の暮らしが見えてくる。夫と死別し高校生の一人息子と暮らしている。
(「ジャンヌ・ディエルマン」)
 部屋を移るときはいちいち照明を消している。それも節電しているのか性格なのか、オイルショック直後の時代性なのか、全く判らない。ラジオはあるがテレビがないのも、同時代の日本では考えられない。時々買い物に行く。カナダに住む妹から手紙が来る。隣人の子どもを預かる。時々男性がやってくる。説明がないから、観客には謎で、それを自分で解明しなければならない。そして、衝撃のラスト。明確に「女性の視点」で作ることを意識して製作された傑作である。

 長くなったので、他の映画は簡単に。「私、あなた、彼、彼女」は「ジャンヌ」の前年に24歳で作ったモノクロ映画で、監督自身が演じる若い女性が小さな部屋に引きこもっている。裸で手紙を書いたり、砂糖をなめたりする様子を延々と映しながら、やがて彼女はついに部屋を出る。トラック運転手の男と出会い、知人の女性がいる町まで乗せてもらう。男の語りと性的な誘惑、女性との同性愛。レズビアン女性を真っ正面から描いた先駆的作品と言われるらしいが、それ以上に都市の孤独な女性像が鮮やか。しかし、自主映画的な感触の作品である。なお、同名の映画が2018年にウクライナで作られていて、翌年大統領に当選するゼレンスキーが主演しているという話である。
(私、あなた、彼、彼女)
 1978年の「アンナの出会い」はアケルマンのスタイルを理解するためには必見だ。監督自身を思わせる女性監督が、映画の宣伝のためヨーロッパ各地を訪れる。その歓迎風景は描かれず、ただ移動の鉄道や駅の風景、男や母親、母の知人との短い出会いが長回しで描かれる。故郷に婚約者がいたらしいが、あちこち飛び回っているうちに時間が経ってしまった。揺れるセクシャリティ、母との関係、孤独な日常などをひたすら見つめる。冒頭がドイツの駅のシーンで、普通は駅に入ってくる鉄道を前から描きそうなところ、カメラの後ろから列車が入ってくる。下りていく乗客も後ろ姿。不思議な感触の傑作だ。
(「アンナの出会い」)
 次の2作は「文芸映画」である。「囚われの女」(2000)はプルーストの原作を現代に置き換える。ブルジョワの青年が嫉妬の感情に囚われていく様を美しい映像で描いていく。なかなか面白いが、設定についていけないかも。別れることになったが、別れきれない。海辺のホテルに出掛けるが…。運転しながら女を追い続ける男、その目に映るパリの風景が魅力的。
(「囚われの女」)
 最後の「オルメイヤーの阿房宮」(2010)は、ジョセフ・コンラッドの最初の長編の映画化。カンボジアで撮影されたというが、どことも地名の出てこない東南アジアのジャングル。川の畔に住む白人のオルメイヤーは、現地の女性との間に娘ニーナをもうける。今は娘の将来にしか関心がなく、町の寄宿学校に入れて白人として教育したい。しかし、娘は学校でいじめられて、なじめない。授業料を払えず退学になったニーナは戻って来るが。「阿房宮」は秦始皇帝の宮廷の名で、原作の翻訳の名前。原題は「オルメイヤーの愚行」である。ニーナが町を彷徨うシーンやオルメイヤーが川をボートで過ぎゆくシーンなど、何という美しさだろう。白人の「愚行」を厳しく見つめる「脱植民地主義」がテーマなんだろうが、映画的なまとまりは今ひとつか。
(「オルメイヤーの阿房宮」)
 アケルマンは2015年にドキュメンタリー映画「No Home Movie」を作った後で亡くなった。うつ病による自殺と言われているらしい。記録映画を含めて、まだアケルマンには未紹介の映画が20~30本あるようだ。初期のアマチュア作品は別にしても、まだ未見の重要作が残っている可能性がある。新しい目で見れば、歴史の中に発見はいくらでもあるという好例だ。時間は大変だけど、「ジャンヌ・ディエルマン」は是非見るべき映画だろう。
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ルイス・ブニュエル監督晩年の映画再見

2022年02月10日 22時52分37秒 |  〃 (世界の映画監督)
 もう今日(2月10日)で終わってしまったのだが、ルイス・ブニュエル監督(1900~1983)の6作品の上映が角川シネマ有楽町で行われた。スペインに生まれ、メキシコやフランスで活躍したルイス・ブニュエルは僕のとても好きな映画監督だった。1970年(日本公開1971年)の「哀しみのトリスターナ」以後は同時代に見ているが、若い頃はよく判らなかった。同時代には未公開だった作品が多く、日本では80年代以後のミニシアター・ブームで初公開された作品も多い。数年前には「ビリディアナ」「皆殺しの天使」「砂漠のシモン」が上映され、僕は「冒涜の映画作家、ルイス・ブニュエル再見」(2018.1.5)を書いた。

 2021年には「アルチバルド・デラクルスの犯罪的人生」(1955)というメキシコ時代の奇怪な作品も初公開され、まだまだ発見を待っている映画作家なのではないか。今回は晩年の6作品を集めたBlu-ray BOXが発売されるのに合わせた上映企画で、撮影はスペインのものもあるが製作はフランス(あるいはイタリアとの合作)が多い。その中で「小間使いの日記」(1964)、「哀しみのトリスターナ」(1970)、「ブルジョワジーの秘かな愉しみ」(1972)、「自由の幻想」(1974)の4作品を見直した。「昼顔」(1967)と「欲望のあいまいな対象」(1984)は見逃したが、見た作品をまとめておきたい。

 製作の逆順で「自由の幻想」から。1977年に岩波ホールで公開され、あまりにも自由でぶっ飛んだ作風に驚いた。その年の僕のベストワン(キネ旬4位)。何の関係もないようなエピソードが羅列的に出て来るが、いずれも「常識」を外した展開になっている。人々が食事に集まると椅子がトイレになっている(下の画像)。あるいは公演で男が幼女に写真をあげる。両親が見て、なんて写真だと憤慨する。普通ならわいせつ写真かと思うところ、凱旋門やエッフェル塔の写真なのである。寝室でニワトリやダチョウが後ろを通り過ぎるなど、何をしてもいいんだという映画。「夢」のようで理解しがたいシーンの連続だが、常識の反対をやってるのが昔見て痛快だった。でも今見ると「悪ふざけ」に見えるシーンもあるかも。
(「自由の幻想」)
 「ブルジョワジーの秘かな愉しみ」はアカデミー賞で外国語映画賞を受賞した。日本では1974年にATG(アートシアター)で公開され、6位。でも僕は公開当時はよく判らなかった。10代では無理だよなという映画。「皆殺しの天使」ではパーティから誰も帰れない。この映画では、皆が食べるために集まると、何か障害が起こって決まって食べられない。その皮肉が面白く、こんなに面白かったのかと再発見した。ブルジョワジーといっても、南米某国の大使である。外交官特権を利用して麻薬の密輸をしている。カネはあるが、これはブルジョワじゃないだろう。そういうところに集まってくる男3人とその妻3人。不条理劇を映像化するとこういう映画になるというお手本。皮肉な眼差しがたまらない。
(「ブルジョワジーの秘かな愉しみ」)
 「哀しみのトリスターナ」はトリスターナ(カトリーヌ・ドヌーヴ)を養女にした老人フェルナンド・レイの物語。この人はブニュエルのお気に入りで、「ブルジョワジーの秘かな愉しみ」で主演し、「ビリディアナ」「欲望のあいまいな対象」にも出た。美しい養女を妻にしてしまうが、トリスターナは町で画家のフランコ・ネロと知り合って…。一時は彼と出ていくが、病気になって戻り片足を切ることになる。トリスターナは最後にどういう行動を取るか。人間性の深淵を見つめた運命と悪意の物語。夢に出てくる夫の首も凄まじい。スペインの世界遺産の町トレドで撮影された。ドヌーヴ主演だから通常公開され、7位に選ばれた。
(「哀しみのトリスターナ」)
 1964年の「小間使いの日記」はシュールレアリストのブニュエルの中でもっともリアリズムの映画だとされる。オクターヴ・ミルボーの1900年の同名小説の映画化。映画は1930年代に時代を移し、ジャンヌ・モローがパリから来た小間使いを絶妙に演じている。田舎の人々は精神的に腐敗して、勤め先のモンテイユ家も先がない。靴フェチの老人、仲が悪い隣家の元軍人、怪しげな下男、そんな中で幼女殺しが起きるが犯人が判らない。小間使いの目を通して、大領主の腐敗、台頭する右翼などをあぶり出す。66年にATGで公開され8位。僕はどこかで前に見ていて、その時から凄い映画だと思った。ジャンヌ・モローの演技は彼女の中でもベスト級だと思う。シュールレアリストとされるブニュエルだが、このリアリズム映画でも「悪意」を描くことは今まで書いた映画と同じ。
(「小間使いの日記」)
 見たくないようなものを突きつけてくるのがブニュエル映画。あまりにも悪意、悪ふざけに満ちていると、もういい加減にしてくれという感じもする。だけど、「感動」を安売り、押し売りするような映画ばかりが多い中で、こういう映画も必要。スペインのフランコ独裁に反対する中で、反カトリック、反ブルジョワ意識が強くなった。メキシコに逃れて国籍も取得、メキシコで多数の娯楽作を作っている。晩年にフランスを中心に活動するようになり、有名スターが出演して映画祭でも受賞した。そこで得た名声で晩年は自由に夢のような悪ふざけのような映画をたくさん作ったわけである。それが実に魅力的で、どこかでやってたら是非。
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ケリー・ライカート監督の映画ーアメリカの女性インディーズ監督

2021年08月04日 21時05分15秒 |  〃 (世界の映画監督)
 ケリー・ライカート(Kelly Reichardt、1964~)監督の特集上映がシアター・イメージフォーラムで行われている。「1994年に最初の長編『リバー・オブ・グラス』を発表以来、各国映画祭で激賞されながらも、大手スタジオとは一定の距離を保ち、真にインディンペンデントなスタイルと制作体制を静かに貫き続ける現代最高の女性監督ケリー・ライカート」と紹介されている。このコピーが僕の見たい気持ちをそそった。昨年初めて日本で紹介されたというが全然気付かなかった。ウィキペディアには「ケリー・ライヒャルト」と出ているが、本人に確認して「ライカート」と表記しているという。一体どんな映画だろうか。

 順番に見ることにして、まず最初に1994年の「リバー・オブ・グラス」(River of Grass)。チラシには、楽園リゾート都市マイアミのほど近く、なにもない郊外の湿地で鬱々と暮らす30歳の主婦コージーは、いつか、新しい人生を始めることを夢見ている……。20代最後の年、故郷に戻ったライカートが、逃避行に憧れ、アバンチュールに憧れ、アウトローに憧れた、かつての思春期の自身に捧げた「ロードの無いロード・ムービー、愛の無いラブ・ストーリー、犯罪の無い犯罪映画」とある。何だよそれという感じだが、見たら本当にロードの無いロード・ムービー、愛の無いラブ・ストーリーだったのに驚いた。
(「リバー・オブ・グラス」)
 マイアミの近くだというのに、全然リゾート感のない郊外地区。登場人物は皆熱量が低く、警官はいつの間にか拳銃をなくしてしまったぐらい。それを拾った若者もただの怠け者にすぎない。どこかへ行きたい主婦は家を出ると車に轢かれかけ、それをきっかけにバーでその車のドライバー(銃を拾った男)と知り合う。知り合いのプールに行こうと誘って、そこで家人に銃をぶっ放してしまう。大変な犯罪者になったと逃げ出すが、金がなくて遠くへも行けない。犯罪者とも言えない二人の「愛無き逃避行」を気だるく描くだけだが面白い。

 次が2006年の「オールド・ジョイ」(Old Joy)で、これもチラシを引用すると「もうすぐ父親になるマークは、ヒッピー的な生活を続ける旧友カートから久しぶりに電話を受ける。キャンプの誘い。 “戦時大統領”G・W・ブッシュは再選し、カーラジオからはリベラルの自己満足と無力を憂う声が聞こえる……。ゴーストタウンのような町を出て、二人は、ポートランドの外れ、どこかに温泉があるという山へ向かう。」僕はこの映画が一番面白かった。この映画でも何でもないような瞬間だけが続いてドラマがない。ドラマではなく、シチュエーション(状況)しかないのがライカート監督の特徴だ。
(「オールド・ジョイ」)
 身重の妻を家において、つい旧友の誘いに乗って山へ行ってしまう主人公。しばらくぶりに故郷の街へ帰ってきた友の誘いを断れるわけがない。温泉があるというから行ってみようぜ、場所は良く判らないけど。ライカート映画は全部「道に迷う主人公」を描いている。ただ男二人の他愛のない会話が続くが、車のラジオが時代を映す。最初のフロリダから遠く離れて、この頃は太平洋岸のオレゴン州で撮っている。山の温泉ってどんなのかと思うと、車を降りて相当歩いていくと結構立派な木造の施設があるから驚き。そこに掛け流されている湯に浸る快楽。犬を連れて行くのも面白い。そして帰って行く。それだけだけど面白い。
(ケリー・ライカート監督)
 この映画を見てアカデミー賞に4回ノミネートされている女優ミシェル・ウィリアムズがアプローチして作られたのが、2008年の「ウェンディ&ルーシー」(Wendy and Lucy)。ルーシーは「オールド・ジョイ」にも出ていた犬である。はるばるインディアナ州から犬連れでアラスカを目指すウェンディ。未来のない故郷を捨てアラスカで仕事を探そうと思ったんだけど。オレゴン州の小さな町で車が故障してしまい、なかなか修理できない。スーパーで買い物をしていると万引きを疑われ、警察に連れて行かれて戻ってくるとルーシーがいないではないか。車と犬を一度に失ったウェンディの苦闘をカメラはじっと見つめる。
(ウェンディ&ルーシー)
 最後に2010年の「ミークス・カットオフ」(Meek's Cutoff)で、これもオレゴン州ながら1845年という設定である。「広大な砂漠を西部へと向かう白人の三家族は、近道を知っているという案内人・ミークを雇うが、長い1日が何度繰り返されど、目的地に近づく様子はない。道に迷った彼らを襲うのは飢えと互いへの不信感だった……。」という映画で、これも西部劇の世界を借りて「道に迷う」人々を描いている。どこに連れ回されるているのか疑心暗鬼になるというのは、アンドレ・カイヤット監督の「眼には眼を」を思わせる。チラシにあるように、「アメリカのアイデンティティの根源たる西部開拓神話が、ライカートのオルタナティブな視点とスタイルによって見事に解体された歴史的一作」という言葉に尽きる。
(「ミークス・カットオフ」)
 長編映画ではこの他に1999年に「Ode」という映画がある。また「ナイト・スリーパーズ ダム爆破計画」(2013)、「ライフ・ゴーズ・オン 彼女たちの選択」(2016)の2本はスター俳優も出演した映画だが、日本では劇場未公開のままDVDで発売された。そして最新作の「First Cow」(2020)が初めて正式に公開されるらしい。未公開なんだから知るわけがないが、アメリカにもこういうインディーズの女性監督がいたのかという「発見」がある。アートの潮流としては「ミニマリズム」に近い感じがする。壮大なドラマ世界ではなく、日常のシチュエーションをただ「写生」するだけのような世界だけど、そこに世界が顕現する「啓示」のような瞬間がある。アメリカの非ハリウッド映画が上映されることは珍しいので紹介した。
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「ナイルの娘」から「黒衣の刺客」までーホウ・シャオシェンの映画③

2021年05月21日 23時02分52秒 |  〃 (世界の映画監督)
 ホウ・シャオシェンの映画3回目。残りをまとめて書いてホウ・シャオシェン映画を考えたい。1987年の「恋恋風塵」と「ナイルの娘」は同じ年だけどスタイルに大きな違いがある。それが何によるのか僕は知らなかったが、今回のパンフを読んで判った。半官半民的な中央電影で好きな映画を作れていた時代が、トップの交代によって終わってしまったのだ。ホウ・シャオシェンは「恋恋風塵」、エドワード・ヤンは「恐怖分子」(1986)を最後に会社と袂を分かった。

 それ以後は資金集めのために、話題作り的なキャスティングもするようになった。その最初がレコード会社が出資してアイドル歌手ヤン・リンが出演した「ナイルの娘」だったのである。我々はそんなことは知らずに見て、ジャンルが全く違うことに驚いた。この映画は台北に住む一家が暗黒社会と関わって破滅していくフィルム・ノワール的な作品である。「ナイルの娘」とは、主人公がいつも読んでる漫画の名前。実はそれは「王家の紋章」の台湾海賊版だという。主人公はケンタッキーフライドチキンでバイトしながら夜間高校に通っているが、兄の関わるケンカや博奕で運命が狂う。成功した映画とは言えないが、80年代の発展した台北の闇に向かい合う。
(「ナイルの娘」のヤン・リン)
 その後ホウ・シャオシェンは、「悲情城市」(1889)、「戯夢人生」(1993)、「好男好女」(1995)と台湾現代史を題材にした映画を作る。それらは成功しているが、現代台湾を舞台にした「憂鬱な楽園」(1996)や「ミレニアム・マンボ」(2001)などは失敗作だろう。その間に上海で作った「フラワーズ・オブ・シャンハイ」(1998)や日本で作った「珈琲時光」(2003)もまあそれなり。ここらで僕は見るのをやめてしまった。フィルモグラフィを見ると、「百年恋歌」(2003)とフランスで作った「ホウ・シャオシェンのレッド・バルーン」(2007)を見逃している。後者はアルベール・ラモリス「赤い風船」へのオマージュでジュリエット・ビノシュが主演している。
(「憂鬱な楽園」)
 「憂鬱な楽園」はガオ・ジェ(高捷)、リン・チャン(林強)、伊能静のコンビで、現代台湾を舞台にしたフィルム・ノワール。主演コンビは前作「好男好女」から続いている。阿里山へ向かう道路を行く2台のバイクを長回しにしたシーンで有名になった。パンフにはラストとあるが、実は途中のシーンだった。ラストは自動車の長いドライブである。ホウ・シャオシェンのスタイルは変幻極まりないが、いつも独自の世界を形成している。しかし、これも成功はしていないだろう。スタイルが独自すぎて、物語を壊すまで長回しにしてしまうところは、相米慎二テオ・アンゲロプロスに似ている。

 台湾ニューシネマを代表したのは、同じ1947年生まれのホウ・シャオシェンエドワード・ヤン(楊徳昌)だった。二人は当初は盟友関係にあり、「冬冬の夏休み」には娘婿役でエドワード・ヤンが出演した。またエドワード・ヤンの2作目の長編「台北ストーリー」ではホウ・シャオシェンが製作、脚本、出演している。エドワード・ヤンは台北を中心に現代人の孤独を鋭く描く。ホウ・シャオシェンが現代を舞台にするとき、あえて独自のスタイルを追求するのはエドワード・ヤンを意識していると思う。成功していなくても、スタイルへのこだわりがホウ・シャオシェン映画なのである。オリヴィエ・アサイヤスによれば、二人の関係は20世紀末には少し微妙になっていた。そして21世紀になると長く闘病生活を送ったエドワード・ヤンは、2007年に59歳で亡くなった。
(「フラワーズ・オブ・シャンハイ」)
 「フラワーズ・オブ・シャンハイ」(1998)は張愛玲原作の上海の妓楼を舞台にした映画で、今回デジタル版が上映された。夜を映しだすカラー映像は美しいが、男と娼妓たちの駆け引きのみでは苦しい。松竹が出資して、羽田美智子が出ている。主演はトニー・レオンで、彼は香港の映画人だから上海語は苦手である。そこで広東商人という設定にしてして、羽田美智子は吹き替え。暗い室内を長回しで撮る映像は興味深いが、だから何だという感じ。しかし、ホウ・シャオシェンが本格的に大陸で映画を作った意味は大きい。
(「黒衣の刺客」)
 今のところ最後の「黒衣の刺客」(2015)はカンヌ映画祭監督賞、台湾の金馬奨で初の作品賞など高く評価された。キャストもスー・チーチャン・チェン妻夫木聡忽那汐里と国際的。しかし、内容は唐代を舞台にした武侠映画なのには驚いた。確かに武侠映画として面白かったが、アン・リー監督の「グリーン・デスティニー」やキン・フー映画と何が違うのか、僕にはよく判らなかった。このようにスタイルをどんどん変えていくのがホウ・シャオシェンの映画である。

 自伝的映画を撮って評価され、続く「悲情城市」で台湾現代史でタブー視されていた「2・28事件」(1947年に起こった国民党による本省人の大弾圧事件)を戒厳令解除後2年で映画化した。日本を含め、世界中の多くの人はこの映画で初めて台湾民衆の声を聞いただろう。その大成功でホウ・シャオシェンは台湾映画を代表する存在になった。しかし、彼は単に台湾民衆の代弁者ではなかった。文化的には明らかに中華圏にアイデンティティがある。同時に「国際的映画人」として日本でもフランスでも映画を作る。有名になって、映画のスケールが大きくなり、マーケットを考えて大陸や日本でも映画を作る。それは成功よりも失敗が多かったと思うけれど。

 結局一番心を打つのは、自らの世代の青春を描くことだった。恐らく家庭では広東語、学校では北京語、友人との世界では台湾語といった使い分けの中で育っただろう。両親を早く亡くし、大陸に帰ろうとする祖母(「童年往事」に出て来る)を抱えて、困窮を生きていた。そんな自分の青春を描くときに一番精彩を放った。そういう監督は世界で珍しくはない。フランソワ・トリュフォーベルナルド・ベルトルッチなども同様だろう。巨匠となっていろいろ作ったが、最初の頃が一番輝いている。ホウ・シャオシェンの初期作品を通して、僕らは台湾現代史に触れ、人々の暮らしを知ることになった。中国や韓国の映画が世界に知られる前のことだった。
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「恋恋風塵」と初期傑作群ーホウ・シャオシェンの映画②

2021年05月20日 23時18分53秒 |  〃 (世界の映画監督)
 ホウ・シャオシェンの映画を振り返る2回目。1983年の「風櫃の少年」から続々と世界を驚かせる傑作を作り始めた。そして「悲情城市」(1989)がヴェネツィア映画祭で中華圏の映画として初の金獅子賞を受賞して、世界的な映画監督として確固たる位置を占めることになった。

 その間の作品を列挙すると、以下のようになる。
1983 風櫃(フンクイ)の少年 日本公開1990年7月4日 ナント三大陸映画祭グランプリ
1984 冬冬(トントン)の夏休み 日本公開1990年8月25日 ナント三大陸グランプリ キネ旬4位
1985 童年往事 時の流れ 日本公開1988年12月24日 ベルリン国際映画祭国際批評家連盟賞 キネ旬10位
1987 恋恋風塵 日本公開1989年11月11日 ナント三大陸映画祭撮影賞、音楽賞 キネ旬8位
1988 ナイルの娘 日本公開1990年8月18日 トリノ映画祭審査員特別賞
1989 悲情城市 日本公開1990年4月21日 ヴェネツィア映画祭金獅子賞 キネ旬1位

 日本公開日時を書いたが、「童年往事」「恋恋風塵」が先に公開され、ベストテンにも入っていた。しかし、「悲情城市」の公開、ヒットによって残っていた他の作品も続々と公開されたことが判る。その前にぴあフィルムフェスティバルで上映され、台湾映画がすごいことになっているという話が伝わっていた。ちなみに東京の上映は「童年往事」はシネヴィヴァン六本木、「悲情城市」「冬冬の夏休み」「恋恋風塵」はシャンテシネだった(と思う。)
(「恋恋風塵」の主人公)
 今回は内容的に違う「ナイルの娘」は除き、他の「自伝的4部作」と呼ばれる作品の中でも「恋恋風塵」を中心に書きたい。「風櫃の少年」「童年往事」は今回は見直さなかったし、「冬冬の夏休み」はかつて「ホウ・シャオシェン監督「冬冬の夏休み」」(2016.8.27)を書いた。「冬冬の夏休み」は本当に素晴らしい映画だと思う。温かさ懐かしさ爽やかさに満ちているが、同時に厳しさ暗さ深さをも秘めている。最高の少年映画、夏休み映画だ。

 「恋恋風塵」(れんれんふうじん)はその前に公開された「童年往事」とともに、最初に見た時にはよく判らなかった。2作ともベストテンに入って、それほど高い評価を受けるのかと驚いた。次に見た「悲情城市」は、誰にも有無を言わせぬ映画史的大傑作なので、それを見て初めてホウ・シャオシェンが判った気がした。僕はよく「80年代は見逃しが多い」と書くのだが、これらの映画は全部見ている。もともとアジアに関心があり、歴史的、社会的な関心を就職後も持ち続けていた。だから中国映画の新世代にも注目していたし、台湾映画の新動向も落とせない。

 この前見た「HHH」の中で、ホウ・シャオシェンは「風櫃の少年」について「脚本は出来ていたが撮り方が判らなかった」と語っている。従来のエンタメ映画の手法ではなく、アメリカで映画を勉強してきた新世代にも刺激を受け「新しい映画」を作りたかったのである。製作会社は中央電影で、国民党系の大手会社である。しかし、この時代には、そんなことが可能だったのだ。「台湾ニューシネマ」はフランスのヌーヴェルヴァーグではなく、日本の「松竹ヌーベルバーグ」のように会社映画として製作されたのである。だからこそ、スター俳優の出ず、私的な思い出を込めた映画が作れたという逆説的な「奇跡」が起きたのである。
(靴を買う二人)
 「風櫃の少年」は「鳥瞰的」なロングショットが多く、澎湖諸島を舞台に神話的とも言える映像が続く。ケンカに明け暮れするだけみたいな内容だし、俳優もなじみがない。だから一回見ただけでは、よく判らない。それは「童年往事」や「恋恋風塵」も同様だった。最初は映画内の設定を知らないから、主人公を通して物語を探すのが普通だろう。しかし、ホウ・シャオシェンの映画は安易な「物語」を拒否し、静かに声低く、人々の心をすくい取る。それは小津だって同じと言えばそうだし、実際ホウ・シャオシェンは後に小津へのオマージュ映画「珈琲時光」を撮ることになる。

 「恋恋風塵」は今回見直して、ほぼ完全な映画だと思った。物語の進行を判っているから、純粋に映像に浸れる。舞台になったのは九份である。かつて金鉱山があった北部の町で、後に「悲情城市」の舞台にもなった。「千と千尋の神隠し」のモデルとも言われる。しかし、その時点で駅が建て替えられていたので、実際にはさらに奥地の「十分」という駅でロケされたという。冒頭の鉄道通学シーンから、駅を出て家に帰る幼なじみの少年少女を見るだけで、もう心がいっぱいになってくる。僕は前に見ているから、二人の運命を既に知っているのだ。今回の映画祭向けに作られた川本三郎×宮崎祐治侯孝賢 台湾映画地図」の裏表紙の地図を載せておく。
(台湾映画地図 クリックして拡大を)
 貧しい人々は子どもをまだ高校に送れない。60年代初め頃、日本でも「キューポラのある町」などが作られていた時代だ。男はワン、女はホン、兄と妹のように育った幼なじみは台北で再会する。ワンは先に台北に出て、印刷会社、後に運送会社で働きながら夜間高校に通う。やがてホンも中学を卒業し台北でお針子になる。映画館の看板書きをしている友だちなど、彼らは職場や下宿を転々としながら貧しい青春を謳歌する。こういう映画は世界中で作られた。増村保造遊び」、恩地日出夫めぐりあい」、イエジー・スコリモフスキー早春」など、若くて貧しい労働青年の切ないめぐりあいが多くの映画で描かれた。
(ラスト、祖父と語る主人公)
 貧しさに翻弄されながらも幼い愛を引き裂いたのは、兵役だった。今は志願制になったと言うが、当時は徴兵制だった。現代の日本やアメリカで作られる恋愛青春映画の多くは「難病もの」である。しかし、昔の映画や小説では、戦争や貧困、身分格差など恋人たちを引き裂くものには事欠かなかった。兵役に取られたワンは毎日ホンに手紙を書く。皆にからかわれていたのが、いつの間にか手紙が来なくなって…。あまりにも皮肉な結末に言葉もない。これは監督ではなく、脚本の呉念眞(ウー・ニエンジェン)の体験らしい。
(台湾のポスター)
 今見ると、台北の街を若い二人が歩くロケなどが、たまらなく懐かしい。また故郷の家族の姿も懐かしい感じがする。懐かしさを狙っているのではなく、丁寧に作られた生活の映像が時間とともに古酒の味わいを出している。兵役のない日本だけど、受験勉強や就活、長時間労働などはある種の「徴兵」みたいなものだ。ほんのちょっとした運命で別れてしまったなんて、世界のどこでも日々起こっているに違いない。小さな声で運命を語るから、最初に見た時は「何、これで終わり?」と思ってしまったが、この終わり方が良いと今では思う。素晴らしい傑作だ。
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「風が踊る」と「坊やの人形」ーホウ・シャオシェンの映画①

2021年05月19日 22時46分17秒 |  〃 (世界の映画監督)
 先に「ホウ・シャオシェン監督、「乾杯」を熱唱すーオリヴィエ・アサイヤス「HHH」を見る」で書いたように、新宿のケイズシネマという84席しかないミニシアターで台湾映画祭が開かれている。ここでは最近よく台湾映画特集が行われているが、今年は「侯孝賢監督デビュー40周年記念」と銘打って、ホウ・シャオシェン監督関連映画を12本上映した。そのうち8本を見たので感想を書いておきたい。(朝10時上映から一本の上映が6月11日まで続く。最高傑作「悲情城市」を見直すつもりだったが、あっという間に満席になってしまい今回はパスすることにした。)
(ホウ・シャオシェン監督、「黒衣の刺客」のころ)
 ホウ・シャオシェン(侯孝賢、1947~)は広東省で生まれて1歳の時に台湾に来た。客家(ハッカ)系外省人になる。「外省人」とは大陸に本籍がある住民で、台湾に籍がある人は「本省人」と呼ばれる。1949年に革命に敗れた蒋介石の国民政府が台湾に逃れ、1987年まで戒厳令が敷かれていた。その間、外省人と本省人は長く政治的、文化的、言語的な対立関係にあった。

 ホウ・シャオシェンエドワード・ヤンら台湾ニューシネマの監督たちは、戒厳令下で教育を受け映画界に入ったのである。僕はその辺りの政治的事情は大体は知っていたが、ホウ・シャオシェンの映画を見始めた頃はどうも難解な感じも受けた。表現方法も革新的だったが、台湾事情に詳しくないとニュアンスが伝わりにくい部分もある。例えば僕は中国語か韓国語かは聞き分けられるが、中国語と言っても北京語台湾語かは判らない。オムニバス映画「坊やの人形」の一編「りんごの味」では米軍に勤める台湾人通訳が台湾語を理解出来ない様子が描かれている。

 ホウ・シャオシェンは特に芸術に縁がある青春ではなかったらしい。大学受験に失敗し高雄でグレていたが、徴兵されて兵役を務めた。軍隊で映画の面白さに目覚めて、除隊後に国立芸術専科学院に入った。その後、何とか映画界に参加出来るようになって、1980年には監督に昇進した。それが初期三部作の「ステキな彼女」(1980)、「風が踊る」(1981)、「川の流れに草は青々」(1982)で、「川の流れ…」以外の2本は日本では正式公開はされなかった。映画祭では上映されたと思うが、「風は踊る」は今回が劇場初公開である。
(「風は踊る」)
 この3作はいずれも香港の人気歌手ケニー・ビーが主演する「青春歌謡映画」である。最初の2作には、台湾のアイドル歌手フォン・フェイフェイも出ている。第1作「ステキな彼女」が大ヒットして、翌年に「風は踊る」が作られたという。話はご都合主義そのものだが、テーマは「自由恋愛」である。戒厳令下でありながらも経済成長が進んで生活が向上している様子が興味深い。

 CM製作チームが澎湖(ほうこ)諸島に行くと盲目のギター弾きがいる。(CMの女性ディレクターがフォン・フェイフェイ、盲人がケニー・ビー。)島民かと思うと、台北で再会して手を引いて助ける。実はその人は医者で、病気で一時的に目が見えなくなっている。しかし、それは手術で治る病気だった。彼女は弟に代わって故郷で代理教師をすることになったが、手術が成功した彼がやってきてプロポーズする。実は他に仲良くしている人がいたり、郷里の学校事情などを交えながら、軽快に映画は進行する。離島の障害者と思ったら、カッコいい都会の医者に変身するから都合のいい話である。郷里の鹿谷(台湾中部)の田園風景が興味深い。
(「坊やの人形」)
 「坊やの人形」(1983)は翌年に作られた「光陰的故事」と並び台湾ニューシネマの始まりとされる。どっちもオムニバス映画で、3作の短編で構成されている。ホウ・シャオシェン以外は皆新人で、5人の監督を送り出すためにオムニバスにしたという。国民党が関わる中央電影の製作だが、蒋介石の没(1975年)以後、1978年に蒋経国が総統になり少しずつ社会が変化していた。ホウ・シャオシェンはすでに監督だったが、新世代のリーダー的存在として登用されたのだろう。

 「坊やの人形」の3作は、黄春明(ホワン・チュンミン)の短編が原作になっている。黃春明は「さよなら・再見」が当時日本でも話題になっていた。この映画は日本でも1984年に公開された。その時見ているが、「坊やの人形」の時点でホウ・シャオシェンには注目しなかった。ホウ監督の「坊やの人形」、ゾン・ジュアンシャン「シャオチーの帽子」、ワン・レン「りんごの味」の三作からなるが、ホウ作品は何だか一番センチメンタルだ。他の2作の方が面白かったというのが実感だった。今回見ても同じような感想で、その後の乾いたタッチとの違いがむしろ興味深い。
(「坊やの人形」台湾版ポスター)
 今見ると、「鉄道ファン」としての原点のような作品かもしれない。主人公は映画館の宣伝マン、具体的に言えば日本の雑誌にある写真を見て、自分でサンドイッチマンを志願した男である。妻と幼い子がいるが、毎日化粧してピエロになって映画の看板を背負ってわずかな給金を得ている。主人公はほぼ駅前に立っているという役である。これが竹崎駅となっている。嘉義から出ている阿里山森林鉄路の駅なのである。当時の鉄道風景がいっぱい出ているのが貴重だ。やがて車で宣伝出来るようになるが、そうなると坊やが化粧してない主人公を父と認識できない。そんな貧乏暮らしを描いている。

 なお、「シャオチーの帽子」は日本製の圧力鍋をセールスするため南部に赴いた二人の男を描く。この圧力釜がラストで悲劇を呼ぶが、当時我が家で圧力鍋を使っていたので、この作品が一番思い出に残っている。別に圧力鍋が悪いわけじゃないと思うけど。「りんごの味」は台湾駐留の米軍人が貧しい屋台引きをはねてしまう。子だくさんの一家はどうしてくれると狂乱するが、米軍人が金を渡すと彼ら家族にはあまりの巨額なので驚き喜ぶ。米軍病院の豪華さに子どもたちは浮かれ騒ぎ、見舞いにもらったりんごを初めて味わう。非常に興味深い作品。
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ホウ・シャオシェン監督、「乾杯」を熱唱すーオリヴィエ・アサイヤス「HHH」を見る

2021年05月07日 23時10分33秒 |  〃 (世界の映画監督)
 台湾映画を代表する巨匠、ホウ・シャオシェン(侯孝賢、Hou Hsiao Hsien)監督の12作品を中心にした台湾映画祭が新宿(ケイズシネマ)で行われている。100席もない小さな映画館で、緊急事態宣言下でも上映を継続している。連休前に何本か見て、連休中も見るつもりだったが連休中は「瞬殺」で満席になってしまった。(緊急事態宣言を受けて、ウェブ予約は当日0時からとなっている。久方ぶりに「悲情城市」を見ようかと思って、0時2分にアクセスしたら満席だったのにはさすがに驚いた。)連休が終わって取りやすくなったので、今日は「HHH:侯孝賢」という映画を見た。
(「HHH」、右がホウ・シャオシェン、左がアサイヤス監督)
 ホウ・シャオシェン(1947~)については、あとでまとめて書くつもりだったが、この「HHH」が興味深かったので臨時に書くことにした。「HHH」って何だと思ったが、ホウ・シャオシェンのローマ字表記は上に示したようにHが3つ続くのだった。この映画はフランスの映画監督オリヴィエ・アサイヤス(1955~)が1997年にテレビ番組として作ったドキュメンタリーである。ホウ監督とともに台湾各地を旅し、いくつかの映画を引用しながら関連した土地を訪ねる。高雄で少年時代を探り、「恋恋風塵」「悲情城市」の舞台と成った九份でお茶を飲む。

 オリヴィエ・アサイヤスはフランスを代表する映画監督だ。「クリーン」でマギー・チャンがカンヌ映画祭女優賞、「パーソナル・ショッパー」でカンヌ映画祭監督賞を受賞している。「夏時間の庭」「冬時間のパリ」など日本公開も多く、前に「カルロス」「アクトレスー彼女たちの舞台」について書いた。そんなアサイヤスが何で台湾にと思うが、実は彼は監督になる前に「カイエ・デュ・シネマ」の批評家として台湾を訪れ、「台湾ニューシネマ」の発見者となっていた。「風櫃の少年」を見出して、ナント三大陸映画祭出品に道を開き、グランプリ獲得につながった。

 映画監督が映画監督をドキュメントするというテレビの企画で、アサイヤスは1997年にホウ・シャオシェンに密着した。それが「HHH:侯孝賢」で、2019年の東京フィルメックス映画祭でデジタル修復版が上映された。僕はその事に当時は全然気付かず、今回調べて初めて知った。上映後の監督とのQ&Aの記録が映画祭のサイトにアップされている。(『HHH:侯孝賢』オリヴィエ・アサイヤス監督Q&A)84年当時のまだ二人が世界に知られていなかった時代に育んだ「特別な友情」が語られる。エドワード・ヤンに関する証言も貴重だ。
(質問に答えるアサイヤス監督)
 「HHH」を見ると、技術的な点(録音など)も興味深いが、中でも脚本を書いている朱天文が魅力的。「冬冬の夏休み」の原作を書いた女性作家で、「風櫃の少年」以後の全作品の脚本作りに加わっている。また「恋恋風塵」に自身の体験を提供した脚本家、呉念真の証言も興味深い。しかし、何よりもホウ・シャオシェンその人が一番の謎だ。映画のラストでアサイヤスを含め関係者一同がカラオケに行く。最後にホウ・シャオシェン自身が大熱唱。それが何と「乾杯」だった。もちろん日本の長渕剛のあの曲である。
(朱天文)
 ホウ・シャオシェンの映画と言えば、この映画で語っているように「スタイリッシュ」で「鳥瞰的」だ。幼い頃の思い出を静かに描き出すような映画で世界に知られた。だけど、映画の中で語る言葉を聞けば、彼は「オス」として認められたい、闘争心のようなものがあるという。ずいぶん映画のイメージと違う。そう考えると、長渕剛を熱唱するのも判る。日本でも長渕を持ち歌にする人は多いから判るだろう。「乾杯」は大ヒットしたし、結婚式や卒業式などの定番だから、40~60代ぐらいの人だったら何かしら甘酸っぱい思い出がよみがえる人が多いだろう。

 なるほど、「かたい絆に思いを寄せて 語り尽くせぬ青春の日々」は「童年往事」や「恋恋風塵」の世界に通じている。「故郷の友は 今でも君の 心の中にいますか」。この映画で最初に訪ねるのは、青年時代を送った高雄で昔の知人を探すことだった。続けて「冬冬の夏休み」を見たけど、冒頭で「仰げば尊し」、ラストで「赤とんぼ」が流れる。台湾と日本以外の人にはほとんど伝わらないかもしれない。彼の映画はあからさまにセンチメンタルであることを拒否しているが、底の方には長渕的な熱い思いが込められていたのか。

 ホウ・シャオシェンが歌う「乾杯」はもちろん中国語だ。北京語か台湾語(閩南語)かは僕には聞き分けられないけど。だからアサイヤスには「乾杯」が日本の歌だとは判らないだろう。僕が今回ホウ・シャオシェンの映画を見てるのは、懐かしい映画を再見したいということが大きいが、それだけではない。「台湾新電影(ニューシネマ)」を通して、台湾の「地政学的環境」を考えたいということもある。彼自身は広東省に生まれて1歳で台湾に来た外省人である。ただし、革命を逃れて来たのではなく、父が友人の新竹市長の秘書として赴任したからだった。

 だが父も母も早く亡くなり、苦労した。中国史しか教えない国民党時代の教育を受けながら、台湾で生きる自身のルーツを見つめてきた。この歴史と文化の重層的結節点を生きてきたホウ・シャオシェン。彼の歴史的位置は「遙か長い道のりを歩き始めた」創始者だった。そう考えてみると、案外「乾杯」を熱唱する姿にホウ・シャオシェンの本質が見えるのかもしれない。
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韓国の映画監督キム・ギドクの死ー2020年12月の訃報③

2021年01月10日 22時49分11秒 |  〃 (世界の映画監督)
 韓国の映画監督キム・ギドク(金 基德、김기덕)が12月11日にラトビアの首都リガで亡くなった。59歳。1960年12月20日生まれだから、60歳目前だった。死因は新型コロナウイルス感染症とされる。何で遠いリガで死んだかと言えば、ここ数年来性暴力など様々な批判が起きて、韓国では映画が撮れる状態になく、ラトビアに定住する予定だったらしい。
(キム・ギドク監督)
 キム・ギドクの訃報は非常に難しい問題を提起した。映画製作に際して、女優に対する暴力があったことは韓国での報道によれば否定できない。しかし、問題はキム・ギドク個人に止まらないと思う。彼の作品は世界各地の映画祭で様々な賞を受けてきた。特に「嘆きのピエタ」は2012年のヴェネツィア映画祭金獅子賞を獲得した。これは「韓国映画史上初の世界三大映画祭最高賞」である。(その後、2019年に「パラサイト 半地下の家族」がカンヌ映画祭最高賞を得た。)

 「個人的な問題はあるが、素晴らしい映画を作った監督」として評価すべきなのか。そもそもアートにおいて、作品と作者の関係を別個に評価出来るのか。そういう問題もあるけれど、その「嘆きのピエタ」という映画そのものが、僕には納得できなかった。主人公は天涯孤独に生きてきて、消費者金融の無慈悲な取り立て屋をしている。そこに「母」を名乗る老女が現れ、過去に捨てたことを謝罪するが、主人公は母と認めない。面白くなりそうな設定だとは思うが、暴力的描写が多くて付いていけない部分が多い。最終的に何が言いたいのかが僕にはよく判らない。
(「嘆きのピエタ」)
 2014年11月にシネマヴェーラ渋谷で「韓国映画の怪物ーキム・ギヨンとキム・ギドク」という特集上映が行われた。個別の新作公開はあったけれど、多分それ以後はまとまった特集はないと思う。今後もしばらくは行われないだろう。キム・ギドク映画とは何だったのか。それを客観的に検証出来るようになるには、かなりの時間が必要だと思う。キム・ギドクの映画はかなり見てきた。韓国映画(あるいは世界の映画祭で受賞したような映画)には関心があるが、最大の理由は多くの作品を上映した新宿武蔵野館の株主優待券を持っていたからだ。

 だから日本での初公開「悪い男」(2001、日本公開2004)も優待で見た。これは出来としてはそれなりだと思ったけれど、いくら何でも映画の設定はトンデモである。ヤクザが女子大生に一目惚れして、街中で強引にキスをする。軽蔑されながらも追い続け、「もの」にした後は彼女を売春宿に売り飛ばす。「悪い男」と言うんだからヤクザは「悪」なんだろうが、映画内では感情が判らない。「観客が見たくないものを描く」という映画もあるだろうが、この映画はそれを目指していたのだろうか。どうもそうでもなさそうだ。居心地の悪さを感じてしまう映画だった。

 2004年には秋に「春夏秋冬、そして春」(大鐘賞作品賞)が公開され、キネマ旬報で第9位に入った。(この年は「殺人の追憶」(2位)、「オアシス」(4位)、「オールド・ボーイ」(6位)と韓国映画がベストテンに4作品入選した。)2005年には「サマリア」(ベルリン映画祭監督賞)、2006年には「うつせみ」(ヴェネツィア映画祭監督賞)が日本公開された。この時期がキム・ギドクの映画に一番注目が集まった時期だと思う。しかし、女子高生の援助交際を描く「サマリア」、空き巣と主婦を描く「うつせみ」のどっちも、納得できる出来映えではなかった。「面白い題材」を扱いながらも、何か最終的に人の心を打つことがない。
(「サマリア」)
 キム・ギドクは高等教育を受けず、17歳から工場で働いた後に20歳になって海兵隊に志願した。5年間を軍隊で過ごし、軍生活に適応したと言われている。その後フランスに渡って、「羊たちの沈黙」「ポンヌフの恋人」などに刺激されて映画作家を目指して、低予算で「」(1996)を撮影した。このように映画界どころか、韓国社会の中でも独自の出自を持った監督である。彼の映画、あるいは実生活における「暴力」志向性は、生い立ちからも来ているだろう。また、軍体験や韓国社会に内在する文化そのものとも関連がある。だから、今すぐ客観的な考察は難しい。今後作品だけでなく、伝記的な事実も究明されてゆくのを待つしかない。

 ただし、彼も内心の苦悩を抱えていたのだとは思う。最初は「春夏秋冬、そして春」という田舎の寺に籠もる僧を描いた作品に、その事はうかがえると思った。僕はこの映画を初めて見たときは、美しい韓国の自然描写、厳しい修行などにかなり感動したものだ。その年の「オアシス」「殺人の追憶」には及ばないと思ったが、それでも苦悩する男の描写が心に残ったのである。しかし、シネマヴェーラ渋谷の特集で再見して、どうもこの映画も変な感じがした。最初に見た時は「悟り」を感じ取ったのだが、再見すると「偽善」に近いものを感じた。その後の作品を知っていることもあって、どうも今ひとつ心に響いてこなかった。
(「春夏秋冬、そして春」)
 その後の「」「絶対の愛」「悲夢」などは見たが、どれも感心しなかった。「悲夢」で自殺未遂シーンで実際に事故が起きかけて、3年間の隠遁生活を送る。その様子を記録映画「アリラン」(2011)を作って、カンヌ映画祭「ある視点」部門作品賞を受けたが、僕は見なかった。翌年に「嘆きのピエタ」を見たが、それ以後は無理に見なくていいと思っていた。作品完成度に問題があるか、一定の完成度があっても「不快感」が残る作品が多い。このブログでも書いてないと思う。「キム・ギドクのどこに問題があったのか」は非常に重大な論点を持っていると思う。具体的な事実関係はよく知らないので、ここでは触れなかった。しかし、彼の映画を見るだけでも、何か問題を抱えていることは判った。
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チェコの映画監督イジー・メンツェルの逝去を悼む

2020年09月09日 22時47分09秒 |  〃 (世界の映画監督)
 イジー・メンツェル(Jiří Menzel)が9月5日に死去した。82歳。60年代半ばからのチェコ・ヌーヴェルヴァーグといわれた映画運動の代表的な存在だった。同じくチェコ出身のミロシュ・フォルマンはアメリカに移って、「カッコーの巣の上で」や「アマデウス」で世界的な名声を得た。一方、困難な時期も国内に止まったメンツェルは、それほど知られていないかもしれない。日本で上映された長編映画も4本しかない。しかし、そのどれもがとても面白くて素晴らしいものだった。だからイジー・メンツェルのことを記憶に留めておきたいと思う。
(イジー・メンツェル)
 まず書いておきたいと思うんだけど、僕は昔から東ヨーロッパ諸国の映画が好きだった。もちろん日本映画やアメリカ映画ほど数が多いわけではない。ヨーロッパ諸国でもフランス、イタリアなどの方がたくさん見ている。上映機会が少ないし、そもそも映画の製作本数が違うはずだから当然だ。それでも映画祭や特集上映などを見逃さないようにしてきた。世界的に知られたポーランド以外にも、チェコスロヴァキアハンガリールーマニアなどにも素晴らしい映画がある。もともとは1968年のチェコスロヴァキア侵攻事件から関心を持ったんだと思う。

 アカデミー賞の外国語映画賞の記録を見ると、1965年に「大通りの店」、1967年に「厳重に監視された列車」というチェコスロヴァキア映画が受賞していた。またその頃フォルマン監督の2作品もノミネートされている。日本では未公開で長いこと見られなかったが、チェコ映画に勢いがあった時代があったのだなと思った。それは恐らくは「プラハの春」(1968年に起こった自由化運動)をもたらした時代精神と通じているんだろうと思う。その後ずいぶん時間が経ってからこれらの映画も特集上映で見ることが出来た。アカデミー賞を得た「厳重に監視された列車」こそが、28歳で作ったメンツェルのデビュー作だった。
(「厳重に監視された列車」)
 その作品はチェコの作家、ボフミル・フラバル(1914~1997)の映画化である。メンツェルはフラバルを6作品も映画化しているという。ミラン・クンデラらと並ぶ存在らしいが、フランスに出国したクンデラと違って、フラバルは国内に止まって抵抗を続けた。この映画はナチス占領下の田舎の駅を舞台にして、ドイツ兵やパルチザンも出てくる。そういう抵抗映画の枠組で作られながら、実際は性体験のない青年駅員のコミカルな日常を描写している。そのおかしな日常が、やはり「戦争」という大状況の中に回収されてゆく手際は見事だった。

 僕が初めて見たメンツェル作品は「スイート・スイート・ビレッジ」(1985)だった。アカデミー外国語映画賞にノミネートされ、日本でも1988年に公開された。僕はシャンテ・シネで見た。農村地帯を舞台にして、知恵遅れの青年を狂言回しにして、集団農場と党官僚の横暴を皮肉っている。体制批判映画ではなく、コメディとして軽快に進行する。農村風景も美しく、とても楽しい映画だが、裏に鋭い抵抗精神を隠し持っていることは容易に判断出来る。一応党の支配は安定しているかに見えたが、僕が見た翌年には「ビロード革命」が起こって自由化された。
(「スイート・スイート・ビレッジ」)
 その次が「つながれたヒバリ」で、1969年に製作されながら20年間公開されなかった。ビロード革命後に解禁されて、ベルリン映画祭金熊賞を得た。日本でも1990年に公開され、渋谷Bunkamuraで上映された。1948年、「社会主義」化されつつあるチェコで、再教育のためスクラップ工場で働かされている男たちを描いている。社会から自由が失われていく中で、画面も暗いシーンが多い。しかし、この映画でも多分に人間のコミカルな面も見つめている。この映画もフラバルの原作。ミラン・クンデラ原作の「冗談」と並び、「冬の時代」を記憶に留める作品だろう。

 その後しばらく名前を聞かなかった。「10ミニッツ・オールダー」という10分間のオムニバス映画があったが、最後の作品として2008年に「英国王給仕人に乾杯!」(2006)が日本公開された。これもフラバル原作で、原作は「わたしは英国王に給仕した」の題名で翻訳されている。ナチス時代を生きた「小男」のホテル給仕人を通し、歴史に翻弄された人々をホラ話として物語化した。エチオピア皇帝がやって来る場面なんか抱腹である。しかし、社会主義下で運命は暗転、長く獄に入ることにもなる。ものすごく面白い作品だったが、日本での評価が今ひとつだったのは残念。
(「英国王給仕人に乾杯!」)
 他にもたくさんの作品があるようだが、チェコ研究者でもない限り日本で見ている人はいないだろう。今後も見られる可能性は少ないと思うけれど、以上の4本はDVDが発売されている。なお、国名は第一次大戦後にハプスブルク帝国(オーストリア=ハンガリー二重帝国)から独立したときは「チェコスロヴァキア共和国」。ナチス時代に解体されて、チェコは併合され、スロヴァキアはドイツの保護国となった。戦後に共和国が復活したが、60年代に「チェコスロヴァキア社会主義共和国」となり、ビロード革命後の1993年に平和裏に分離して「チェコ」と「スロヴァキア」の2国に分かれた。複雑だが、それが大国の狭間にある国の歴史である。

 イジー・メンツェルも、いくつもの国名を生き抜いたことになる。しかし、彼の映画はいつも悲壮ではなくて、人間のおかしみを見つめていた。そこに学ぶものがあったなあと思う。
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ガリン・ヌグロホ、「サタンジャワ」と映画

2019年07月03日 22時39分14秒 |  〃 (世界の映画監督)
 いま国際交流基金アジアセンター主催で「響きあうアジア2019」という催しが行われている。東京を中心に、演劇、映画などの興味深い企画をやっている。それらの中でも、僕が一番見たかったのが「サイレント映画+立体音響コンサート」の「サタンジャワ」。7月2日(火)の昼夜2回公演で、この日は仕事があったので夜のチケットを買ってあった。「ガリン・ヌグロホ×森永泰弘×コムアイ」とチラシにある。

 もっと細かく書くと、インドネシアの映画監督、ガリン・ヌグロホの無声映画、日本の森永泰弘の音楽・音響デザインによるコンサート、コムアイ(水曜日のカンパネラ)のダンスで構成されている。音楽はジャワのガムランなどの民族音楽、日本人奏者の弦楽アンサンブルなどが演奏し立体音響システムのエンジニアがいる。詩・マントラの朗読も行われている。というジャンル・ミックスの試みで、すでにベルリンやメルボルンで公演された。この作品は明らかにガリン・ヌグロホが中心の集団アートである。記事のカテゴリーに迷うけど、やはり映画監督も含めてガリン・ヌグロホのことを書いておきたい。
 (ガリン・ヌグロホ)
 アジアにはジャンルを横断して活躍する映画監督がいる。タイのアピチャッポン・ウィーラセータクン、台湾のツァイ・ミンリャンの名前がすぐ思い浮かぶ。インドネシアのガリン・ヌグロホ(1961~)もその一人だ。スハルト独裁時代から映画を作ってきた人で、日本では「枕の上の葉」(1998)が岩波ホールで1999年に上映された。ジャカルタで生きるストリート・チルドレンを描いていて、子どもたちが慕う女性を演じたクリスティン・ハキムが印象的だった。この映画の記憶が強いので、何となく社会派的なイメージを持っていた。しかし最初の頃から、多彩なインドネシア各地の文化がテーマになっていた。

 「サタンジャワ」は判りやすいとは言えない。正直言って僕にはよく判らなかった。上映される無声映画は美しい映像で心を揺さぶられる。20世紀初頭のオランダ植民地時代と字幕に出るが、その後は章の題名しか字幕がない。ジャワ島の民俗の古層に残る「神秘主義」がテーマらしい。入場時に配られたパンフに「あらすじ」が書いてある。植民地時代の貧しき村人は、サタン(悪魔)に頼るようになった。貧しい青年が貴族の娘と結婚するため、サタンと契約を交わすが…という「愛と悲劇の物語」だという。別にストーリー理解が必須というわけじゃないだろうが、途中でなんだか判らなくなったのも事実。

 会場が寒すぎて、冷房よけのシャツは持ってるけど、どうも気がそがれた。暑くても寝ちゃうけど、夏になると会場の冷房は大問題。それはともかく、音楽はいいけどマントラの朗唱が続くのでどうも眠くなる。昔ブータンやインド・ケララ州の伝統舞踊を見に行ったときの、なんだか判らないうちに眠くなった。まあ、そういうもんかと思う。映画は80分ほどで、案外短かった。真ん中で踊ると映画に差し支えるだろうから、ダンスはどうしても目の端になる。日本で初めてダンスを取り入れたというが、効果の判定は難しい。しかし、一番の問題は作者の「神秘主義」で、神秘主義の伝統が日本とつながると言ってたけど、今ひとつ理解できない。日本は神秘主義というより世俗的な社会だと思う。

 今回ガリン・ヌグロホの映画作品もかなり上映された。新作の「メモリーズ・オブ・マイ・ボディ」は4日、7日の夜に有楽町のスバル座で上映される。ジャワの女形ダンサーを描くという。「地域の芸能に根付くLGBTの伝統」とチラシに出ている。ベースとしてはイスラム教であるインドネシアで、なかなか取り上げにくいテーマだろう。今までも政治だけじゃなく、文化的、地域的にも危険なテーマをずいぶん取り上げて来たという。娘のカミラ・アンディニ(1986~)も映画監督で、東京フィルメックス最優秀作品賞の「見えるもの、見えざるもの」が上映される。

 僕はガリン・ヌグロホの初期作品をを2作見た。デビュー作の「一切れのパンの愛」(1991)は川崎市民ミュージアムまで見に行った。これは親子間のトラウマで妻とセックスできない青年が、モデルの妻、写真家の友人とインドネシア各地を撮影旅行してゆく。まだまだ手法的には初期という感じだが、テーマがインドネシアとしては大胆だったんだと思う。ロード・ムーヴィーとしても新鮮で、ジャワ島やバリ島の自然や民俗も面白い。写真家の友人も幼なじみで、同じ女性に思いを寄せていた。危うい夫婦関係を描いていて、東南アジア映画には珍しい。直接の性描写はもちろんないけど。

 その前に「サタンジャワ」のプレイベントで、第2作「天使からの手紙」(1993)を見た。ガリン・ヌグロホの映画はは東京国際映画祭に12本上映されているそうだ。この映画は第7回東京国際映画祭ヤングシネマ部門ゴールド賞を受賞した。かなりファンタジックな作品だが、中身は重い。古い習慣の残る村に住む少年ルワは、両親を失ってから天使に手紙を書くようになるが、ある日返事が来る…。イスラム教はコーラン以前の新旧聖書も認めるから、天使も信じている。でも古い伝統的な慣習も強い。この映画はこの前見た「マルリナの明日」に出てきたスンバ島で撮影された。少年の素朴な行動が村どうしの戦争に発展してしまう様を淡々と描いている。スンバ島の奇妙なとんがった家がフシギである。
(スンバ島の村)
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ベルイマン監督の映画-映画芸術の極北

2019年02月14日 22時55分44秒 |  〃 (世界の映画監督)
 スウェーデンの映画監督、イングマール・ベルイマン(Ingmar Bergman、1918.7.14~2007.7.30)は2018年に生誕百年を迎え、日本でも大規模な特集上映が行われた。東京では恵比寿ガーデンシネマだったので、真夏で駅から遠く2作見ただけ。数年前に「三大傑作選」と称して「第七の封印」「野いちご」「処女の泉」のデジタル版が上映された。最近、池袋の新文芸坐で特集があり数作品を見直した。もともと若いころにほとんど見ているんだけど、改めて見ると考え方も変わる。上映素材があるんだから、またどこかで上映もあるだろう。まとめて感想を書いておきたい。
 (ベルイマン監督) 
 ベルイマンにはいくつもの大傑作があり、映画史上のトップ10に入るような映画監督だ。特に初期の「野いちご」「処女の泉」は改めて「ほとんど完璧な映画」だと思った。僕が最初に見たベルイマン映画は多分「野いちご」(1957)。ATGで不入りの映画があって、過去の名作上映に切り替わった時に見たと思う。長年の功績に対し名誉学位を受ける老人が、ストックホルムから車でルンドまで向かう。その一日を息子の妻や途中で会った若者たちなどを通して描く。夢のシーンなどシュールレアリスム的な描写も印象的。思えばまだ30代で「老い」に関する映画をよく作れたものだ。たった91分なんだけど、もすごく豊饒な映画体験に浸れる。1962年キネ旬ベストワン
 (野いちご)
 日本公開が逆になったけど、「処女の泉」(1960)も驚くような強さを持つ映画。黒澤明「羅生門」の影響があるというが、中世を舞台にするモノクロ映画という共通点はあるが「処女の泉」はもっと雄渾で神話的な映画だと思う。近代以前の「自力救済」の世の中を生きる人々を圧倒的な力強さで描いている。1961年キネ旬ベストワン。その前の「第七の封印」(1957)は、これも中世を舞台に十字軍から帰る騎士が死神と命を懸けたチェスをする。およそ今までの映画でテーマとされたことのないような「哲学的映画」だった。今回は見る時間がなかったんだけど、文句のつけようのない完成度の「野いちご」「処女の泉」に比べて、多少判りにくい点も逆に面白くて魅力的だと思う。
 (処女の泉)
 そういう難しい映画を作ったベルイマン監督だけど、最初からそんな傑作は撮れない。初期にはスウェーデン映画に多い、リアリズムをもとにユーモアや社会性を加えた青春映画をたくさん作っていた。今回初公開の「夏の遊び」、昨年映画アーカイブで上映された「牢獄」「道化師の夜」、日本でも公開された(僕は未見)「不良少女モニカ」「愛のレッスン」など。「夏の遊び」(1951)はいかにもスウェーデンらしい風土性と編集の妙、青春のほろ苦さを描いている。98分の映画で、ベルイマンの初期映画はほとんど90分内外。いかに今の映画が「長すぎる」かがよく判る。

 110分ある「夏の夜は三たび微笑む」(1955)は初期には珍しく長い。これはまたユーモアたっぷりの艶笑コメディで、すごく面白い。よく出来ていて、カンヌ映画祭で受賞してベルイマンが世界に知られるきっかけになったという。そういうユーモアは中期には影をひそめるが、本当はベルイマンの本質にあるんだと思う。1982年に作られた畢生の大作「ファニーとアレクサンデル」は311分もあって、今回は体力的に見逃したんだけど、公開時に見たときの記憶は圧倒的だ。ある一族の悲しみと喜びを描きつくしたような至福の映画で、一種の大らかなユーモアがあった。その後、映画はやりつくしたと語り、舞台やオペラ演出に専念する。もともとベルイマン映画は舞台劇的なところがあって、日本でも公開されたモーツァルトの「魔笛」(1975)のテレビ映画も素晴らしかった。

 ベルイマン映画は「映画芸術の極北」だと思ってきた。この「極北」とは「物事が極限にまで達したところ」と言った意味で使っているが、イメージ的に寒い感じがベルイマン映画にはある。舞台がスウェーデンだし、風景は寒々しい。それもあるんだけど、人々が悩み傷つき傷つけあうさまを冷徹に描き出す。そんな映画は他にあるだろうか。僕はフェリーニヴィスコンティのような豊饒さ、時にはゴチャゴチャするぐらい盛りだくさんの映画の方が好きだ。厳しく削り続けるような映画、カール・ドライヤーロベール・ブレッソンなどはそれまでにもあった。でもベルイマンのように、「神の沈黙」をテーマにしたり、家族の憎しみあいを描いた映画監督はいない。

 初めて見た「鏡の中にあるごとく」(1961)は孤島にやってきた家族を見つめる。作家の父は狂気にいたる娘を冷徹の描写するが、なかなかドラマ的で興味深かった。しかし、続く「冬の光」(1962)、「沈黙」(1963)になると、もう付いていけない。昔見たときはもっと熱中できたように思うが、特に「冬の光」など多神教的風土に生きるものとしてはなんでこんなに悩んでいるのとつい思ってしまった。「神の沈黙」三部作と呼び、形而上的なテーマ設定といい、極限まで切り詰められた人物描写といい、今からみれば驚くほどつまらない。ウッディ・アレンなどに多くの影響を与えたが、今じゃもういいんじゃないか。「仮面/ペルソナ」(1968)も同様。

 僕が最初に見た同時代のベルイマン映画は「叫びとささやき」(1972)。これは初のカラー映画で、世界の主要監督では黒澤明「どですかでん」(1970)と並んで最も遅いカラー映画だろう。しかし全編にわたって「」をイメージカラーとして、異様なまでの様式的映像に興奮したものだ。今回久方ぶりに見て、映像以上に姉妹間の愛憎に驚かされた。後期のベルイマン映画は家族の争いを描くものが多い。「ある結婚の風景」(1973)や「秋のソナタ」(1978)などベストテンに入選したが、夫婦、親子間のいさかいをここまで突き詰めては、見ている側も見るのが辛い。人間存在の本質に孤独があるのは確かだが、ここまで傷つけあうかと正直思う。「秋のソナタ」はイングリッド・バーグマンが主演で、確かに見ごたえはある。(今回は上映権切れ。)
 (叫びとささやき)
 まだ見ている映画はあるが、もう大体書いたからいいだろう。イングマール・ベルイマン(そもそもベルイマンじゃなくべリーマンに近いとも言うが。イングリッド・バーグマンと同じ姓だが、バーグマンは英語読み)は確かにすごい芸術家だと思う。見てないと映画史の話ができない監督だ。このようなテーマや作り方があるんだと世界に示した意義は大きい。今見るとつまらないのも多いなと思ったが、60年代には意味があったのだろう。
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