不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「政府見解」の背理-中学歴史教科書問題③

2020年08月31日 22時57分18秒 |  〃 (教育問題一般)
 これから育鵬社の教科書はどうなるのだろうか。もう一回大々的に採択運動を起こすのか、それとも教科書出版から撤退するのか。僕は当事者じゃないから判らないけれど、多分「明成社」みたいになるのかなと思っている。明成社と言っても判らない人が多いと思うけど、かつて1980年代に大問題になった日本会議編高校歴史教科書である。(日本史B

 これは日本会議が書いただけあって、完全に天皇中心主義的記述になっていて、中曽根内閣時に大きな政治問題になった。いろいろあって、結局中曽根首相の要請で再審議の結果、検定に合格する異例の経過をたどった。原書房から出版されたものの、高校は学校ごとの採択だから公立高校での採択はなかった。しかし、明成社という小出版社に移って、その後も細々と生き残っている。公立高では採択されないが、一部の右派系私立高校で使われているのだと思う。今回も私立中学では育鵬社の採択はあっただろうから、今後もそういう需要に応えて「小さく生き残る」のではないか。(産経新聞は経営面の問題もあり、撤退するかもしれない。)

 このように「教科書問題」は今までに何回も起こってきた。一番最初は1950年代半ばの鳩山一郎内閣当時にさかのぼると言われる。何でそのように社会科教科書に対する攻撃が何度も起こるのだろうか。教科書は当然のこととして、「日本国憲法」と「(旧)教育基本法」を受けて作られる。だから「基本的人権」や「平和主義」を特に社会科教科書では書くことになる。だが実は支配層のホンネは「人権」や「平和」が嫌いで、子どもたちにあまり教えたくない。

 戦後のほとんどの時期は自由民主党(あるいはその前身の自由党、民主党)が政権を握っていた。だから検定では公然と、あるいは隠然と、教科書の記述に介入してきた。そこで家永三郎教授による「教科書裁判」などいくつかの裁判も行われてきた。それでも憲法改正が実現しない以上、特に公民分野では政府の都合のいい記述ばかりは求められない。

 90年代になって政治状況も変わり、また現代史の実証研究も進んで、教科書にも戦争の「加害」的な事実がかなり記述されるようになった。これに反発したのが「新しい歴史教科書をつくる会」であり、政界でそれに呼応したのが自民党若手議員が結成した「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」(古屋圭司会長、安倍晋三事務局長)だった。21世紀になって、若手議員だった安倍氏や故中川昭一氏が小泉首相に重用され、政権を望める地位につくようになった。「つくる会」のメンバーと安倍首相のブレーン集団はほぼ同じで、政治性が強かった。

 2012年末に安倍首相が復権すると、「つくる会」と親和性がある下村博文氏が文部科学相に就任した。内閣改造でも留任したので、2015年秋まで3年近く文科相を務め続けたのである。そして朝鮮学校への高校無償化外しを立法化したり、国立大学の文系学部廃止などを求める「国立大学改革プラン」した。そしてまた、下村教育行政において、教科書検定基準の改定が行われたのである。これによって教科書は「政府見解」を書かなければいけないとされた。

 文部科学省の「教科書検定の改善等について」(平成26年4月改正=2014年)を見ると、社会科においては、「近現代の歴史的事象のうち、通説的な見解がない数字などの事項について記述する場合には、通説的な見解がないことが明示され、児童生徒が誤解しないようにすることを定める。」「閣議決定その他の方法により示された政府の統一的な見解や最高裁判所の判例がある場合には、それらに基づいた記述がされていることを定める。」と明記されている。
(新基準による検定結果を伝えるテレビ)
 これによって、「領土問題」「南京大虐殺の犠牲者数」「自衛隊の憲法上の位置づけ」「積極的平和主義」などが政府見解に沿ってしか記述できなくなった。様々な見解を資料とともに併記して生徒に考えさせると言った「アクティブラーニング」を文科省は推進しているんではなかったのか。社会科では違うのである。ただし、こうして「つくる会」勢力の支持する政権が実現したことによって、育鵬社の独自性が薄れてしまったのである。
(検定の前後の比較)
 2005年の採択時など、扶桑社は各地で教科書採択を求める集会を開き、当時の都教委の教育長など休暇を取って九州の集会に参加していたのである。公然と政治介入があったわけだが、当時の扶桑社版は「右すぎる」から採択が進まないと自己評価して、新しく育鵬社の教科書を作ったわけである。(「つくる会」は分裂した。)だから育鵬社版は以前の扶桑社版ほどは偏っていなくて、多少は穏健化していた。だからこそ、他社との違いが少なくなった育鵬社を採択する意味が少なくなった。

 また「政府見解を書く」という縛りが掛かったことで、「南京虐殺事件はなかった」とか「東京裁判は不当だった」などのような「政府見解に反すること」は書けなくなったのである。もともと南京事件は育鵬社も「注」では書かざるを得なかった。本文で触れるかどうかに違いはあるとしても。公民で自衛隊や領土を政府見解通りになった代わり、歴史でも政府の公的見解を書かざるを得ない。社会科教科書は何段階もの「背理」を抱えている。どうやっても右派系が完全に望むような教科書(歴史的事実を政治的主張で変えてしまうような教科書)には出来ないのである。今後の改憲運動の中で「教科書を自分で作ろう」というような運動は起こりにくいだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

教科書のリアルな役割ー中学歴史教科書問題②

2020年08月30日 22時39分26秒 |  〃 (教育問題一般)
 教科書は何のためにあるのだろうか。授業に当たっては「教科用図書」を使用しなければいけないと学校教育法で決められている。もともとは学校ごとに決めていたものが、教科書無償制度(1963年から学年進行で実施)の実施とともに「採択地区ごとの採択」に変えられた。

 ちなみにユネスコの「教員の地位に関する勧告」(1965年)には「教員は、生徒に最も適した教具及び教授法を判断する資格を特に有しているので、教材の選択及び使用、教科書の選択並びに教育方法の適用にあたって、承認された計画のわく内で、かつ、教育当局の援助を得て、主要な役割が与えられるものとする」と書かれている。専門職である教員の意向を聞かずに教育行政が教科書を決めるシステムには問題があるわけである。

 それはそれとして、実際の教科書にはどんな意味があるのか。あるいは中学校の勉強は何のためにするのか。タテマエではいろいろ言えるけれど、現実の中学教員なら「高校受験」を無視できない。もちろん受験のために勉強があるんじゃないとは言うけれど、ほとんど全員に関係する高校受験を無視して中学教育を語れない。

 中学の社会科は1・2年で地理と歴史、3年で公民をやるので、受験勉強時には歴史の授業はない。私立希望なら3教科でいいが、公立高は大体5教科だ。公立希望者は歴史の基礎知識を復習しないといけない。学習塾に行けない生徒もいるわけだから、教科書や教科書準拠の問題集の役割は大きい。だから現場的には「高校受験に役立つ教科書」がいい。

 小中の教科書は基本的に基礎自治体(市町村)ごとに設置された教育委員会が行う。(小中学校は基礎自治体が設置するものなので。)しかし、公立高校はほとんどは都道府県立である。「高校受験に役立つ」と言われても、どの教科書も基本は学習指導要領に規定されるので大きな違いはないはずだ。だが「不利にならない」教科書ならあり得る。それは「近隣市町村と同じ教科書」にすることだ。そういう意識もあるのか、近年は東京書籍の寡占化が進んでいる。前回は歴史、公民ともに5割を超えていて、恐らく今回も圧倒的にトップのシェアになると思われる。
(東京書籍の歴史教科書)
 それが望ましいと思うわけではないのだが、そういう現実がある。しかし、教科書専門他社もそれぞれ工夫があるわけで、一定の採択(10%程度)は確保する。教科書は価格が統一されていて、中学歴史の場合は775円と決まっている。よく「教科書はつまらない」「もっとエピソードを多く記述して面白く読めるようにして欲しい」などという人がいるが、税金で支払う教科書代を大きく増やさない限り不可能である。それでも最近の教科書を見たことがある人は、カラーグラビアがいっぱいで驚くだろう。文庫本程度の値段で出来るもんじゃないと思う。僕は教科書の採算分岐点を知らないけれど、多分教科書だけで採算が取れる会社は東京書籍ぐらいじゃないか。

 じゃあ何で教科書会社が存在できるのか。それは「指導書」や「問題集」があるからだし、教育雑誌などもあるからだと思う。つまり教科書じゃなくて、問題集などがメインの商品なのである。中学教師の多くは副教材として、教科書準拠の問題集を買うことが多い。休暇もあれば出張もあるし、「ハッピーマンデー」のせいで各クラスの授業時数に差が出来る。生徒にやらせておける問題集は必須のものだろう。そういう副教材の充実度は、長く教科書作成に携わってきたの方が圧倒的に高い。僕は全然知らないけれど、扶桑社や育鵬社、自由社はどれほど教科書以外のサポート態勢が出来ていたのだろうか。

 また社会科は新知見が多い。政治経済はもちろん、地理や歴史も新しいニュースがよく報道される。そういう新教材も教科書会社がまとめて送ってきたりする。東京書籍などはやはり充実していて、使ってない学校にも配布してくれる。地理では圧倒的にシェアが大きい帝国書院の世界各国の情報なども授業に役だった。「どこの教科書でも同じ」と様々な意味で主張する人もいるが、学校現場からすればそうではない。もちろんイデオロギー的な問題もあるけれど、各教員へのフォローアップ態勢が実際は大きな意味を持っている。

 今回は「コロナ禍」の中の採択となった。育鵬社の採択が減ったのは教育委員の顔ぶれが変わったと言った要因もあるだろうが、それだけでもないと推測している。要するにオンライン授業などでの使い勝手の悪さがあったのではないだろうか。教科書専門会社は学校ごとに細かく回っていたものだが、コロナ禍でそれはできない。しかし、デジタル教材などの案内が育鵬社より明らかに充実していると(ホームページを見る限り)思う。多分それだけでなく、いろんな新工夫を提供しているのではないか。そういう意味もあって、また学校閉鎖、オンライン授業になっても使いやすい教科書、という選択もあったのではないだろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中学歴史教科書問題とは何だったか①

2020年08月29日 23時18分09秒 |  〃 (教育問題一般)
 中学教科書の新採択年ということで、今年の夏に各地で採択が行われた。21世紀になってから、ずっと中学社会科教科書の採択をめぐって問題が起きてきた。しかし、今まで右派系教科書を採択してきた東京都教委や横浜市、大阪市などが今年は他社に変更した。横浜、大阪は行政規模が大きく、前回は両市だけで4万冊以上になった。今年もいくつかの採択地区で育鵬社が採択され、私立中学でも採択されるだろうが、前回のシェア約6%を大きく割り込むことは間違いないだろう。一体、この「中学歴史教科書問題」とは一体何だったのだろうか。

 中学の歴史教科書問題を振り返ってみる。2001年に「新しい歴史教科書をつくる会」(以下、「つくる会」)執筆による扶桑社の「新しい歴史教科書」が登場した。その時は大々的に市販して、大きな話題となったものだ。その後、公民教科書も作られたが、2005年の採択が終わった後で「つくる会」が分裂した。その後は「教科書改善の会」系の「育鵬社」(扶桑社の100%子会社)と「つくる会」系の自由社と2つの右派系教科書が存在している。しかし、自由社は今までもほとんど採択がなく、今年は歴史が検定で不認可となった。
(2001年の扶桑社歴史教科書)
 今まで何回も保守政治家による教科書攻撃が起こってきた。その問題は別に考えるが、「新しい歴史教科書をつくる会」は教科書を攻撃するだけでなく、保守派にとって望ましい教科書を自ら執筆しようという新方針を打ち出した。その事がどういう意味を持つか、政治的な意味は検討しただろうが、教育的な意味はほとんど考えられていないと思う。教科書は自由に出版できる商品ではない。文部科学省の検定を受けて合格しなければ出せない。さらに小中は採択地区ごとに教育委員会による採択が行われる。出版物でありながら本屋で自由に買えない。

 「採択」は8月末までに行われる。それは学校ごとに選べる高校でも同じである。どの教科書を選んだかは文部科学省に報告される。その集計を受けて、各出版社が必要部数を印刷するわけである。転校で学期途中に必要になる場合もあるが、教科書はほとんど学期初めに買うものだ。小中は無償だから、買うのは教育委員会であって各校に配布される。各社が自由につくる商品でありながら、価格は共通に設定されている。普通の意味での自由競争が働かない商品なのである。そういう特別な商品であるという自覚が執筆者側にどれだけあっただろうか。

 教育的側面は次回に詳しく書く予定で、今回は政治運動としての側面を振り返りたい。そもそもの発端は東大教授だった藤岡信勝氏の「自由主義史観研究会」にある。1991年の湾岸戦争では「自衛隊の貢献」議論が行われ、冷戦終結以後の新しい世界認識を問われた。その後に「転向」した人はかなりいるが、藤岡氏もその一人でそれまでは共産党系の教育学者だったということだ。そして「大東亜戦争肯定史観」とも「東京裁判史観」とも違う「いずれにも与しない史観」を「自由主義史観」と名付けた。四半世紀前は「左翼」と「リベラル」は反対概念だった。
(藤岡信勝氏)
 しかし、これは歴史学に疎い外部からのトンチンカンな論難だろう。「東京裁判史観」なんてものはないし、もしあえて言うならばサンフランシスコ平和条約(東京裁判の結果を受諾する条項がある)に基づく戦後政治をつくってきた「日本政府」の歴史観ということになる。しかし、日本の右派政治家は常に戦前を美化し、軍隊を持てない戦後日本を非難してきた。そして「日本国憲法」を敵視し、大日本帝国の戦争責任を追求した東京裁判を非難してきた。

 そして1990年代半ばに日本社会も大きく変わった。アジア諸国の経済成長に伴い、日本内部でも近隣諸国との戦争認識の違いが問題になった。そして1993年の「河野官房長官談話」、1995年の「村山首相談話」が出される。1993年に自民党内閣に代わって、日本新党などの連立による細川護熙内閣が成立した。細川首相は戦没者追悼式典で日本の「侵略」を初めて認めた。以後、2012年末に復活した安倍晋三内閣まで、基本的に首相は日本の戦争責任を認めて謝罪するようになったのである。

 左右に与しないはずの藤岡氏も、「東京裁判史観」などと言ってるうちに、どんどん右傾化していった。1996年12月に藤岡氏と西尾幹二氏が中心となり「新しい歴史教科書をつくる会」が作られ、産経新聞の「正論」に執筆している右派系論客が数多く参加した。そして産経新聞の子会社である「扶桑社」が教科書発行を引き受けた。つまり、「教科書」は一つの象徴のようなもので、本質は「歴史修正主義運動」の連合体と考えた方がいい。教科書「改善」と並んで、彼らの目標は「教育基本法改正」だった。その先には「憲法改正」があるのはもちろんである。

 「教育基本法改正」は言うまでもなく2007年の第一次安倍政権で実現したので、右派系の教育運動はずいぶん前に「成果」を挙げていたわけである。そして第二次安倍内閣で「道徳の教科化」も実現した。社会科教科書への右派系の熱が落ちていた一因はそこにもあるだろう。また当初「つくる会」系の人々は、中学歴史教科書に「慰安婦問題」の記述が入ったことに特に「危機感」を表明していた。歴史認識と同じぐらい「性教育」を敵視していたのも、家父長制的性感覚が背景にあるのだろう。つまり、「教科書問題」とは言うものの、本質は歴史修正主義運動だった。採択反対運動も政治化せざるを得ないが、「向こうが始めた」という思いで「教育に政治を持ち込まないで欲しい」と思っていた。その意味については次回に回したい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

安倍首相、再びの辞任劇

2020年08月28日 22時28分26秒 |  〃  (安倍政権論)
 2020年8月28日(金)に安倍首相が記者会見を行い辞任の意向を表明した。健康上の理由ということだが、辞任を決意したのは8月24日だという。その日慶応大学病院で診察を受けているが、ちょうどその日に「首相連続在任記録」が2799日となり、佐藤栄作を抜いて歴代1位となった。6月に通常国会が閉会して以来、国会や記者会見などは一切行わなかった。この間、新型コロナウイルス対応で厳しい時期もあったが、憲法に基づく野党の臨時国会開会要求も拒み続けてきた。何のために? 連続在任記録で1位になることだけが目的だったのだろう。
(山口県庁に掲げられた在任記録1位を祝う幕)
 数日前に金曜に安倍首相が記者会見を開くという情報が流れた。コロナ対応だとか言いながら、それならもっと何度も開いているはずだから、辞職するのかなと思った。前日(27日)に麻生派が緊急会合を開いたというニュースがあって、これはやはり辞任だなと思った。4時頃にスマホでニュースを見たら、辞任情報が流れていた。家で見た夕刊には載ってないから、夕刊の締め切り時間が過ぎた2時頃にNHKが報じたという。最後に岩田明子に報いたということなんだろう。最後まで安倍首相らしい幕の引き方だ。

 僕はもともと「五輪レガシー論」で安倍首相が2020年秋に辞任する可能性はかなりあると思っていた。ただ次期政権への影響力を高めるために、総選挙を先に行って年末年始の政権交代かとも思った。病気の再発が辞任を早めたのだろうが、次期内閣が発足するまで(自民党の次期総裁が決定するまで)は首相臨時代理を置かずに、投薬治療を行いながら首相を続けるということだから、もっと長くやれないこともないはずだし、逆にもっと早く辞めてもおかしくない。今回の辞任表明に至ったのは、病気を理由にして「政策の行き詰まり」を隠したいのだろう。
(2006年の首相就任時=13年前)
 コロナウイルス問題以後は支持率の低下が激しく、政権運営は行き詰まっていた。外交日程も全て停まってしまい、外交で点数を稼ぐこともできない。しかしトランプ大統領に媚びを売りながら何もいいことは無く、ロシアのプーチン大統領と何度も会談しながらロシアの憲法改正で領土問題解決の目はなくなった。(領土問題交渉は難しいものではあるが、それにしても自分が出来なかった憲法改正をロシアにやられてしまった外交的失態をどう思っているのだろうか。)中国の習近平主席の来日もならず、日韓関係は史上最悪、「北朝鮮」のキム・ジョンウン委員長からも会談の意向を無視された。外交の停滞は安倍首相の責任だ。
(8月28日の会見=13年前はずいぶん若かった)
 「アベノミクス」が功績だという人が多いだろうが、リーマンショック東日本大震災からの自然的回復局面に、あれだけの金融緩和をすれば円安、株高になるのは当然だろう。その後の「第三の矢」など新しい政策がほとんど意味を持たず、日銀の物価目標も結局実現しないままだった。一番問題だと思うのは、景気回復局面にあった時に政治的思惑で消費税増税を先送りしたのに、景気回復終了後(判明したのは最近だが)に消費税を増税したことだ。

 もっともそのような外交や経済は首相一人がいくら頑張ったって、うまく行かないこともあるだろう。だけど、政権はいずれ終わりが来る。次期政権へ向けて、後継者を育てることは首相の最重要の仕事とも言える。佐藤中曽根小泉政権はいずれも後継者を競わせることで次代のリーダーを育てた。別に自民党員じゃないんだから、次の総裁がどうなろうと知ったことじゃないわけだが、公の立場からすればこれじゃいけないだろう。本来なら麻生副首相が臨時に後継を務めるべきだ。そのための副首相じゃないか。しかし失言と高齢(1940年生まれだから、トランプ、バイデンより上)もあり、今まで財務大臣を続投していた方が不思議である。

 今後、「悲運の名宰相」と持ち上げる人が出てくる。「長くやったこと自体が偉大な業績」と早くも言い出す人がいる。「お友だち内閣」だから、仲間うちには評判がいい。つまり褒めてる人は「身内」なのである。しかし、結局は「公私混同の身内政権」的になっていた。「魚は頭から腐る」のであって、「森友・加計・桜」の首相、いくつもの失言と財務省のスキャンダルの副首相をトップに戴く組織は、下に河井夫妻秋元司のような人物を無数に生み出す。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

村上春樹「一人称単数」「猫を棄てる」を読む

2020年08月27日 23時06分46秒 | 本 (日本文学)
 村上春樹の6年ぶりの短編集「一人称単数」(文藝春秋)が出た。6年前の「女のいない男たち」はまあ書くこともないと思ったんだけど、今回は初めて父を語った「猫を棄てる」(文藝春秋)も出たので簡単に書いておきたい。一つ一つの作品を詳しく書くつもりはなく、そういう情報や評価を知りたい人は他のサイトで調べて欲しい。20世紀の頃と違って、僕も村上春樹の新刊が出たらすぐに読もうというまでの熱はなくなっている。でも、やっぱり手に取ってしまうわけだ。

 「一人称単数」は同名の書き下ろし短編と、「文學界」に2018年から2020年にかけて断続的に掲載された7つの短編で構成されている。いずれも「一人称単数」で語られた話で、一種の「奇妙な味」風の短編が多いけど、かつてなく懐古的なムードに満ちている。やはり村上春樹も「老い」の段階に入ったのだろう。だから、読む側もいろんな過去の出来事を思い出してしまって、短い作品なのに読み進まなかったりする。

 例えば「クリーム」では過去にピアノ教室で一緒だった女性からリサイタルの知らせが来て、バスで六甲山の奥の方に出掛ける。しかし、会場についても開催するムードがない。「誰かに会えない」「自分だけ除け者にされる」というのは、村上作品で繰り返されるパターンだ。ここで自分の同級生のリサイタルとか、会えなかった知り合い、自分で行き着かなかった映画館や劇場のことなどを思い出すのである。今はスマホがあるから、場所が判らない時は案内して貰える。

 「会いたい相手と会えない」「相手の連絡先をなくしてしまう」というシーンは、「ウィズ・ザ・ビートルズ」や「石のまくらに」などでも見られる。メールアドレスを知らない相手とデートすることは普通ないだろうから、21世紀になった頃からは急用とか勘違いはメールで連絡できるようになった。昔はそれが出来なかったから、悩みも大きかった。日常の中にずいぶん「実存的不安」が満ちていたのである。「石のまくらに」は同じような状況は自分になかったから、どうも今ひとつ入り込めない。しかし引用されている短歌は共感できるものだ。

 僕が一番面白いと思ったのは「ウィズ・ザ・ビートルズ」で、高校時代の男女交際を振り返りながら思わぬ深い地点に到達する。村上春樹はビートルズが好きじゃないというのに、よくビートルズが出てくる。それが「時代」かもしれない。ラジオにビートルズが掛かってない時は、ローリングストーンズの「サティスファクション」や、バーズの「ミスター・タンブリンマン」や、テンプテーションズの「マイ・ガール」や…が流れていた。これが懐かしいのである。よく判るのである。時代は数年違うけれど、ラジオには大体同じような曲が掛かっていた。

 主人公は冒頭で高校の廊下でビートルズのLPレコードを抱えた少女に出会う。そして強く惹かれたが、名前も知らず後に会うこともなかった、というエピソードが書かれている。ビートルズのレコードじゃないけれど、僕も似たような思い出がある。当時は生徒数が多く、学年が同じでも名前と顔が一致しない人がいっぱいいた。(PTA会員名簿が配布されるから、全校生徒の名前は判るけど。)しかし、村上春樹の高校では「名札」は着用していなかったのか。僕は「名札」を付けなければいけなかったから、知らない女生徒の名字も何となく判ったのである。

 「謝肉祭」はシューマンの音楽と「醜い女性」の関わりがラストで見事に転調する。非常に興味深い短編だが、「醜い」という形容がよく判らなかった。僕もずいぶん多くの人に接したから、「美人じゃない」という形容なら理解できるが「醜い」とまでいうのはどういうんだろう。うまく頭の中にイメージが浮かばないのである。多分「醜い」というのは「独特な魅力」がある顔立ちなんじゃないだろうか。「品川猿」は鮮やかな奇譚。他に表題作と「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」と「ヤクルト・スワローズ詩集」を掲載。どっちも世界中で村上春樹しか書かない文章だ。
 
 「一人称単数」はところどころ引っ掛かる点がないでもないが、ずいぶん昔のことを思い出してしまった。1970年に村上春樹は大学生だったが、僕は中学生だった。これは大きな目で見れば、20世紀中頃、日本の敗戦後に生まれたという共通性があるのかと思う。若い世代からすれば、同じようなものかもしれない。だが激動の60年代にあっては、数年の違いが大きな違いとなる。僕からすれば、二世代ぐらい上という感じがしてしまう。しかし、今まで家族を語らなかった村上春樹が初めて父について語った「猫を棄てる 父親について語るとき」を読めば、やはり同じ日本社会で年を取っていることが判る。当たり前だけど。

 この本は非常に重要な本で、村上春樹理解のために必読だが、それだけでなく「兵士と戦後」という意味で重い読後感がある。台湾の女性イラストレーター、高妍(ガオ・ イェン)の絵が素晴らしいので、是非見て欲しい。題名だけ見ると、猫好きは読まない方がいい気がするかもしれないが、読んでみればそういう話ではない。実際、昔は(というのは1950年代だが)、犬や猫を棄てるのは「よくあること」だった。犬だって放し飼いが多かったし、ペットに避妊手術をするなんて誰も思いつきもしなかった(し、思いついてもそんな手術は出来なかっただろう。)

 ここでは父の軍歴が細かく記述される。なかなか調べる気持ちにならなかった理由も明かされている。それは父が南京攻略戦に参加していたのではという思いからだ。実際はどうだったか、それは本書に当たって欲しいが、何度も召集される世代で本当に気の毒だ。僕の父の場合は、ちょうど「学徒出陣」の世代で、やはり数年違っている。そして僧侶の家の次男に生まれて、教師として生きたが毎日読経を欠かさなかった。それは恐らくは中国戦線の体験が背景にあるのだろうと著者は推測する。村上春樹の作品の多くに「日本軍」が出てくる内的必然が自らの言葉で語られている。それはすごく大切な言葉だと思った。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大台ヶ原山から大杉谷へー日本の山⑳

2020年08月26日 22時10分59秒 |  〃 (日本の山・日本の温泉)
 紀伊山脈にある大台ヶ原山は、日本でも最も雨が降る地方として有名だ。南紀地方は昔から何となく気になるところで、何回か行っている。大台ヶ原も若い頃から関心があった。北海道の名付け親とされる探検家、松浦武四郎が晩年に登山道を切り開いたことでも知られている。
(大台ヶ原山)
 僕が大台ヶ原に登ったのは、1985年のことである。何でよく覚えているのかというと、ここにある「大台山の家」で暑中見舞いを書いた思い出があるからだ。当時中学生の担任をしていて、学校が葉書を買って夏休み中にクラス全員に出そうということになっていた。どうせなら旅先からの方がいいと思って、大台ヶ原で書いて投函した。この時は和歌山で歴史関係の大会があって、それに行く予定だった。当時は民間の研究会にも「研修」で参加できた。

 紀伊半島奥地はずいぶん秘境っぽいところなんだけど、大台ヶ原そのものは大台ヶ原ドライブウェーが開かれ近鉄バスが大和上市駅から通じている。便は少なく、2時間半もかかる。20年ぐらい経って、今度は自分の車で行ってみたが、すれ違い困難なような大変な道路だった。駐車場に着いてしまえば、そこは高原状に広がる一帯で、最高峰の日出ヶ岳1695m)も100mぐらいの差である。駐車場からはグルッと回るハイキングコースがある。これが登ったり下りたり結構大変だったが、中でも大蛇嵓(だいじゃぐら)は突き出た大岩で、下を見ると怖い思いをした。
(大蛇嵓)
 ここは伊勢湾台風(1959年)で大きな被害を受け、以来環境が回復せず枯木が立ち並ぶようなところがある。(最初の写真)そこにシカの食害も加わり異様な景観が見られた。野生のシカはここで初めてちゃんと見たと思う。北海道東部の野付半島でも似たような景観が見られる。見る方には珍しいけれど自然の破壊された跡である。泊まったのは大台教会の山の家。神道系の教会の付属だが、今はもうない。当時もずいぶんボロかった。

 僕はこの時、ここから大杉谷に下るコースを取った。日本三大渓谷と言われる大杉谷だが、近年は台風の被害で通行できない期間が長かった。最近は復興したようで、途中の「桃の木小屋」も営業を再開した。普通はそこに泊まらないとダメなコースである。小屋の標高は500mだから、ひたすら千メートルも下るのである。そこを登るよりはいいけれど、これだけ下るのも大変だった。水はキレイで、滝や奇岩が連続する。素晴らしい渓谷だが足の裏が痛くなった。
(大杉谷)
 飽きた頃に桃の木小屋で、ステーキが出ると有名だった。それはともかく、ただ下るだけなので渓谷下りはどうしても飽きてくる。宮川ダムに出れば船やバスで町へ出ることになるが、僕の場合は親切な人がトラックの荷台に載せてくれた。どこかで降りて、タクシーを呼んで松阪へ出た。タクシー運転手は「本居宣長記念館でも寄りましょうか」と行ったが、僕は予約していたビジネスホテルに直行した。さすがに疲れていた。
(桃の木小屋)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

上野誠「万葉学者、墓をしまい母を送る」を読む

2020年08月25日 23時14分06秒 | 〃 (さまざまな本)
 上野誠万葉学者、墓をしまい母を送る」(講談社、2020)という本がすごく面白かった。著者の名前を見ても判らなかったけど、紹介を読むと講談社現代新書や中公新書なんかにも書いている。「大和三山の古代」(講談社現代新書)は、もしかして読んだかも。でも、名前は自分の専門外だから覚えてなかった。福岡県生まれ、東京の國學院大學に学び、今は奈良大学教授。万葉学者が奈良に住んでいるという実に適切な住環境である。

 僕はこういう本はあまり手に取らない。戦争の悲劇がどうのとか、芥川賞受賞作がどうのとか、僕の実人生に直接関係ないような本を読んでエラそうに感想を書いている。介護だの成年後見人制度だのという本は、妻が買ってきてこれも読んでおけと薦めるのである。福祉系の大学を出て福祉職だった人なので、高齢者福祉に関心が深い。男もちゃんと読んでおけというわけである。何しろ親4人の中で、僕の母親だけが存命という状況なのだから。実務的な本だと紹介しないけれど、この本はとても面白かったから書いておきたい。

 著者の祖父の葬儀がとんでもないのである。そして、著者が民俗学や古代史の造詣も深く、万葉集だけでなく古事記の神話や柳田国男などを参考にして、自分の家をケーススタディとして「アナール派」的な歴史を書いたのである。アナール派というのはフランスの歴史学派で、政治や経済の奥深くに潜む「心性」の歴史を追究した。人間は誰しも死ぬわけで、その後の葬儀や墓というものをどうするべきか。それは大問題だと誰も判っているだろうが、40代頃までは親もまだ元気だろうし、仕事や育児に忙しい。あるいは海外旅行に行ったり、飲み歩いたりしていて、親の葬式のことなんかまだまだ考えないだろう。
(上野誠氏)
 そこでこの本を読むべきは、まずは60代以上、つまり僕以上の世代である。読んでみると、すごく面白いだろうと思う。「自分事」なのである。母親の介護なども実務的に参考になるけれど、それ以上に「墓」の話が面白い。著者の祖父は福岡県甘木市(現朝倉市)で、一代で大きな洋品店を築いた人物だった。小さな呉服屋を洋品店に変え、時代の波に乗って大繁盛した。そして大々的な墓を建てた。しかし、1973年に亡くなった時点では、もう時代に遅れていた。それでも地縁血縁総出で何日も続く大々的な葬儀が行われた。

 男は延々と飲み続け、女はひたすら台所で賄いを作り続ける。最近はそこまで地域の人が集まることはないだろう。大きな葬儀なら、葬儀社を通すし「通夜振る舞い」は仕出しを取るだろう。しかし、半世紀前までは日本の各地でそんな状況だったと思う。そういうのを幼くして見ていた僕らの世代は、そんな古い儀式は「封建的」だと批判した。しかし、この本を読んでよく判ったけど、あれこそ「近代」だったのである。資本主義が発展し鉄道が敷設され、全国が結びついた。だからこそ、墓石の流通が全国的になって、大きな墓作り競争が起こったのである。そもそも江戸時代末期になるまで、「庶民」はちゃんとした墓地もなかったのだという。

 著者の場合、祖父、祖母、父と順番通りだったのだが、その後母親が存命のうちに、10歳上の兄が肺がんで亡くなってしまった。そこで、いろいろあったわけだが、介護が大変な状況になった母を次男の著者が引き受けた。つまり奈良へ「欺して」連れてきて、そこで病院と介護施設を転々とした。病院や介護施設には、ずっといられないルールがあって、時々転院するしかないのである。大学教授の著者はバイト代を払って学生を動員しているけど、これは他の人には出来ない技だ。母は福岡でちょっと知られた俳人だったがやむを得ない。その前に祖父が大きくした商店はとっくになくなり、維持費が出せない大々的な墓所もオシマイにした。

 「湯灌」、つまり死者を清める儀式も、昔は家族がやっていた。子どもの著者は祖父母や母に頼まれ手伝っている。まだ「大人の男」扱いされていなかったから、女の仕事を手伝った。そしてその「気色悪さ」が忘れられない。母の時は葬儀社のサービスに任せた。著者のような民俗学に詳しい学者であっても、身近な家族だというのに実際の死体に触れるのは恐ろしいのだ。そして、著者に教えられたのは、日本にも中国にも「薄葬思想」というのもずっとあるという指摘である。つまり大々的な葬儀をする人ばかりでなく、儀式に囚われるなという人もいた。

 中国では「竹林の七賢」や「臨済録」、日本では万葉集から大伴旅人の歌が挙げられている。「この世にて 楽しくあらば 来む世には 虫に鳥にも 我はなりなむ」というんだから愉快だ。来世で虫や鳥になったとしても、生きている間は楽しくやりたいというのである。単なる介護体験記ではない。やはり文系の本に慣れてる人の方が読みやすいと思うが、それでも葬儀、墓、介護などに悩んだり、いろいろ疑問を感じている人は是非読んでみる価値がある本だ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小柳ちひろ「女たちのシベリア抑留」を読む

2020年08月24日 22時39分25秒 |  〃 (歴史・地理)
 8月23日に「シベリア抑留」で亡くなった人を追悼する集会が千鳥ヶ淵の戦没者墓苑で開かれた。1945年8月15日にスターリンが抑留の指令を出したことにちなんで、2003年からこの日に開かれているという。「抑留者約57万5000人のうち約5万5000人が死亡。同墓苑には身元不明の約1万7000人分の遺骨が納められている。」(東京新聞) 

 ソ連は8月9日に日本に宣戦を布告し、日本が事実上支配していた旧「満州国」を攻撃した。しかし、もちろんソ連は「満州国」を承認していないから、そこは「中華民国」である。日本軍捕虜を勝手にソ連に連行するのは、もちろん国際法違反である。しかし、ドイツとの戦いで疲弊したソ連は国策として捕虜を強制労働させることにした。そのことはソ連崩壊後に発見された文書で裏付けられている。当時のソ連国内には多くの政治犯もいて「収容所群島」だったわけである。

 ここでは今「シベリア抑留」について全面的に語るつもりはない。この問題に関しては昔からずいぶん読んできたけれど、最近読んだ小柳ちひろ女たちのシベリア抑留」(文藝春秋社)によって、全く知らなかったことを初めて知った。この本はNHKのBS1スペシャルで2014年に放送された番組を書籍化したものである。僕は元の放送は見ていないが(BSは見られない)、芸術祭賞優秀賞など多くの賞を得たということだ。5年の追加取材を経て、2019年12月に刊行された。

 著者の小柳ちひろ氏は1976年生まれで、多くの戦争証言を取材してきた人である。僕はシベリア抑留者に女性がいたという話は初めて知った。今までも記述があった本もあるようだが、直接の証言者がいないし数は少ないから、そのままスルーしていたのかもしれない。数的には数百名だから、全体に占める割合は非常に少ない。ほぼ「満州国」北部のソ連国境に近い佳木斯(ジャムス)にいた従軍看護婦だった。例外もあるが、おおよそは1946年12月には帰国しているから、シベリア抑留体験者に話を聞いてもほとんどは「女性抑留者は見たことがない」という答えになる。でも、実際は少数ではあるとはいえ、いることはいたのである。

 ソ連としても、「強制労働」を目的にしているのだから、極寒の地に女性を連行しても意味がない。必要な食料に対し達成できるノルマが引き合わない。だから「モスクワの指令」によって女性も連行したわけでもないようだ。手違いのようなもので、男と共に連れてこられた。そしてシベリアでも傷病兵の看護に当たったものが多い。最近出た本の中でも、戦争に関する一番重要な新証言ではないかと思う。著者が取材を始めた頃は、20代、10代で連行された女性たちの多くは存命だったので貴重な証言を残した。

 厳しい環境の中でも生き抜く力強さ、「民主化運動」の影、ロシア人の人なつこさなど、男性抑留者が書いた記録とほぼ同じだが、それに加えて女性ならではの視点がある。それは「性暴力」をめぐる問題と「看護の重要性」である。男に交じって働きながら、何とか生きて帰った彼女たちに、日本国は冷たかった。それも他の男性抑留者と同じである。一方、戦犯として起訴され有罪となった女性もいた。(ソ連国外でありながら「反革命罪」に問われたケースもある。)
(8月23日の追悼式典)
 最終章では「帰らざるアーニャ」では村上秋子という女性の数奇なる人生が追跡される。ついに日本に帰らず、シベリアの地で「アーニャ」として死んでいった女性。もともとは朝鮮半島北部の元山にいた「芸者」だったらしい。それがどうしてソ連で裁かれることになったのか。歴史の中に消えていた多くの女性の声を伝える本だが、この最後に扱われた「アーニャ」ほど苛酷な人生は少ない。なお、シベリア抑留死者については、故・村山常男氏がまとめた「シベリア抑留死亡者名簿」がウェブ上に公開されている。(その中には父親の兄が含まれている。)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画「アルプススタンドのはしの方」

2020年08月23日 21時14分21秒 | 映画 (新作日本映画)
 映画「アルプススタンドのはしの方」をやっている。知らない人が多いと思うけど、高校野球も全国総文祭もなくなっちゃった今年の夏に是非見て欲しい映画だった。高校の映画教室なんかにもふさわしいけど、しばらく出来そうもないかな。何でかというと、これは2017年に行われた全国総文祭の演劇部門、つまり演劇部の全国大会で最優秀賞(文部科学大臣賞)を受賞した兵庫県立東播磨高等学校の映画化なのである。そんなことがあるんだ。

 原作台本は顧問の藪博晶の作とあるが、それを奥村徹也が脚本にして城定秀夫が監督した。この人はピンク映画を中心に活躍している監督だという。演劇部の大会用だと時間制限があるから、それを膨らましているんだろうが、それでも75分と短い映画だ。映画は「甲子園球場のアルプススタンドの端っこ」で母校を応援している数人の生徒を見つめ続ける。もっともロケは甲子園じゃないだろうし、校名も埼玉県立東入間高校に変わっている。近年の埼玉大会は大体花咲徳栄浦和学院が代表になっていて、公立高が優勝するのは不自然だけど。

 だからこそ学校も意気込んでバスを仕立てて全校生で応援に行くことになった。しかし、受験を控えた3年生はホテルで補習してから応援に行くという。演劇部の女子生徒二人(安田と田宮)、元野球部の藤野、話し相手もいないが勉強は出来る宮下の4人は応援に熱中できずに、端っこでだるそうにしている。熱く応援を迫る教員が来て、何となく4人がしゃべるようになって、何となく関係性が判ってくる。冒頭で「しょうがない」と言われていた女子がいる。演劇部も関東大会まで進んだこと、しかし部員がインフルエンザになって大会に来られずに当日棄権になってしまったこと。顧問教師は台本を書いた安田に「しょうがない」と諦めるように言ったのだった。
(頑張るブラスバンド部長)
 この4人の他に、応援に頑張るブラスバンド部長の「久住さん」がいる。今までいつも宮下さんが一番だった模試で、今回初めて久住が一番になった。そして、エースピッチャーと先発メンバーになれないが努力家の矢野という、具体的には一切出て来ないが重要な役割を果たす2人がいる。そこに安田が爆弾情報を流すことによって、彼らの人間関係の深層がすっかり変わってしまう。相手チームは私立強豪校で、とても勝てるはずがない中、試合も終盤に入ってリードされながらも一点返せそうな展開に…。全部書くと面白くないから、筋はこの程度にしておく。

 野球のルールを知らない女子生徒が時々いるけど、それを隠し味にしながら話はコミカルかつシリアスに進行していく。ポイントは「空振り三振」と「送りバント」だ。「見逃し三振」ではなくて、とにかく空振りでもいいからバットを振らないとヒットは生まれない。あるいはバントすることによって、自分がアウトになってもチームに得点機会を増やす作戦も意味がある。これは野球をたとえにした人生の教訓である。
(演劇公演=浅草九劇での公演)
 そして「応援することの意味」。応援したって、それ自体は直接に得点に結びつかない。大声を上げても意味ないし「しょうがない」。そう思っても無理ないところはあるが、それでも多くの人が応援に行くのは何のためだろう。自分はグラウンドに立たないのに、頑張っている人を応援することの意味は何? 物語はやはり上手に盛り上げてゆくが、ここにはとても大切な問題が描かれている。単に野球部や演劇部の問題ではなく、もっと普遍的な人生について考えている。

 僕も「空振り三振でもいいから、見逃しはやめよう」と思って、自分で声を挙げたことがある。前回書いた「スキャンダル」でも「グレース・オブ・ゴッド」でも、最初に声を挙げた時にすぐ反応があったわけではない。最初に声を挙げるときは、「こんなこと言ってもしょうがないかもしれない」とくじけそうになりながらも、「空振りでもいいから、見逃しはやめよう」と思って勇気を振り絞るのである。「しょうがない」と思いながらも、何もしないよりいいかなと思って、小さなことを続けているのである。そんな「支援者」(サポーター)の果たす役割に思いをいたさせる物語でもある。まあちょっと「高校演劇的」に教訓的すぎるかもしれないが。

 蛇足だが、関東大会は「南関東大会」だろう。エピローグで出てくる「茶道部の全国大会」というものはないから、おかしい。(まあ似たような高校茶道部の合同お手前はあるらしいけれど。)熱血教師を国語の教員にして、書道甲子園とか俳句甲子園にした方が良かったかな。まあトリビアルな指摘だけど。それに久住さんのその後も気になるなあ。ついでに言うと、安田が母校で教師になっているというのは、普通母校で新採はないと思うんだけどな。(多分)母校で教育実習をやって、それで母校で採用になるということは、公立ではちょっと無理だと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画「スキャンダル」と「グレース・オブ・ゴッド」

2020年08月22日 22時48分33秒 |  〃  (新作外国映画)
 2020年の米国アカデミー賞で女優部門にノミネートされた「スキャンダル」(Bombshell)はロードショーで見逃していたんだけど、池袋の新文芸座でやっていたので見に行った。暑いからといって家にいるだけじゃ良くないし、作品のテーマというか、まあ舞台となったアメリカのテレビ界と「セクハラ」問題に関心があったからだ。ここでは前に見て書いてなかったフランス映画「グレース・オブ・ゴッド 告発の時」と合わせて簡単に紹介しておきたい。

 「スキャンダル」はアカデミー賞でも、ゴールデングローブ賞でも主演女優賞(シャーリーズ・セロン)と助演女優賞(マーゴット・ロビー)はノミネートされたが、作品賞、監督賞などにはノミネートがない。そういう映画はやはり作品的には弱いことが経験的に判っている。見てみれば、やはりメイクしたそっくりさん女優の「顔芸」で見せるテレビ的な作品だった。社会派的映画としては、登場人物の描きこみが弱く迫力に乏しい。告発映画でありつつも、もう結果が出たことが判って作られた映画なのである。(対象の人物は死亡している。)

 保守系メディアのFOXテレビの内情を細かく描かれているのは驚く。時は公開時の3年前の2016年。大統領候補トランプの女性蔑視発言との闘いも出てくる。資本的にはルパート・マードックに支配されながら、実権を創業者の社長が持ち続け、絶対的権力を背景に「セクハラ」を続けてきた。実在の女性キャスター、メーガン・ケリーシャーリーズ・セロン)とグレッチェン・カールソンニコール・キッドマン)が中心になるが、写真を見ると驚くほど実在人物に似ている。シャーリーズ・セロンのメイクを担当したカズ・ヒロがアカデミー賞を受賞した。(「ウィンストン・チャーチル」でアカデミー賞を得た辻一弘が米国籍を取得してカズ・ヒロと名乗っている。)

 そして架空人物のケイラ(マーゴット・ロビー)が絡む。マーゴット・ロビーは「アイ、トーニャ」のトーニャ・ハーディングや「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」のシャロン・テートをやった人。これからのし上がろうとしていて、セクハラとどう向き合うか悩んでいる。FOXテレビ内部の事情を描きながら、果たしてグレッチェンが起こしたセクハラ裁判に社内が揺れていく様を胸が痛くなるほど見つめている。「トランボ」のジェイ・ローチ監督は屈しない人間描写にたけている。

 ベルリン映画祭銀熊賞の「グレース・オブ・ゴッド」は、フランスを揺るがせたカトリック教会による児童への性虐待事件を扱っている。男児への虐待が何十年も見過ごされて、さらに隠蔽されてきた。ここでは相手が未成年なので、「児童虐待」という犯罪になる。映画の出来は「スキャンダル」よりいいと思うが、全体的に暗鬱なムードが漂うし、日本人からすれば身近な社会問題ではないので記事は書かなかった。(日本でもカトリック教会による性的虐待事件は起こっているが。)フランソワ・オゾン監督の手腕は見事だが、何だか重苦しいのは仕方ないか。

 どうして両方の映画に触れたかというと、「セクハラ」というと「女性被害者」の問題に限定して考えてしまう人が多いのではないかと思うからだ。性的な被害を受けるのは、大人の女性ばかりではなく、子どもも多いし、男性もある。「性的」に止まらず「暴力」によって心に傷を負う体験だと考えると、「自ら闘うこと」の重要さが判ってくる。「強いものとの力関係」を変えていくには勇気が必要だ。どちらの映画も、闘うことの大切さを教えてくれる。

 そして、どっちの映画も実在の事件を劇映画にしている。そのことで映画製作者も闘っている。日本映画も実在人物を描くこともあるが、それはほとんど「表彰映画」である。こんな素晴らしい人がいたという映画なら作れるけれど、現実の問題を告発する映画はほとんどない。記録映画にはいくつもあるが、もっと多くの人に届く告発映画がなかなか作られない。日本社会には「現実と闘って変えていく」ことへの抑圧がある。ちょっと前の事件と真っ正面から取り組む映画が作れるアメリカやフランスはやはりすごいなと思った。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「旅館の食事は多すぎるか」問題

2020年08月21日 22時43分53秒 | 社会(世の中の出来事)
 今日も出掛けるはずが暑すぎて巣ごもり。いろんな書き残しテーマがあるが、同じようなのは飽きるので「旅館の食事は多すぎるのか」という問題を考えてみたい。これは「Go To トラベルキャンペーン」で少し上の旅館に行ったら、夕食が多すぎたというツイッターの投稿が話題を呼んでいるという話だ。「廃棄前提では」といった記述も論議になった。という話なんだけど、僕はネット上のあれこれをちゃんと追ってるわけではなく、むしろ民放テレビのニュースで見た。
(「多かった」という話題の画像)
 僕は「夕食料理の多さ」にはそんなにこだわっていない。旅館の食事に関しては他に言いたいことがあって、そっちを書きたいのである。しかし、一応「料理量問題」について結論を先に書いておくと、「やっぱり少し多いことが多い」と思う。しかし、それが気になるなら、もっと安いプランなどがあるので、そっちにすればいいのである。ただし、旅館によっては「オーシャンヴューの部屋」が高くて、せっかくだから海が見たいと思って部屋を選ぶと、料理も多すぎるというようなことがある。部屋と料理は別々に選べるプランにして欲しいなと思う。

 今回は「多すぎる」と話題になったが、これが逆に「結構高いプランだったけど、料理が少なかった」という投稿だったらどうだっただろう。全国的な話題にはならないだろうが、その旅館の口コミサイトに書き込まれたらダメージになる。普段は「腹八分目」を心がけていても、非日常の旅行では「美味しいものをいっぱい食べたい」人の方が多い。世の中には酒を飲まない人も多いから、そういう人に合わせて料理の量を設定したら、少し多いぐらいになる。要するにそういうことだと思う。「少し多いかな」と感じる人もいるだろうが「廃棄前提」ではないだろう。

 投稿写真ではビールを飲んでいるようだから、その分食事が多く感じられたんだと思う。僕も旅館でお酒を飲むこともあるが、腹一杯になって最後の「ご飯」を頼まないことがある。そこで調節するのである。基本の料理は好き嫌いが多少あるとしても、大体は腹に収まるレベルの量だと思う。写真で見る限り、まあ値段相応かなと思うので、プランを間違ったのかなと思う。ただし、それは最近の話で、一昔前は確かに「ただ量が多いだけ」みたいな旅館が結構あった。夕方から並べてあった刺身や焼き魚にウンザリという宿も多かった。今は温かい料理を一品ずつ持ってくる宿が多くなり、それと同時に量も常識的なものになってきた。

 それより問題なのは「栄養の偏り」や「似たような料理ばかり」ということだ。刺身に天ぷら、ステーキやしゃぶしゃぶ、陶板焼きなど出てくるものが似ている。山の秘湯でマグロの刺身や海老天がいるのか。肉料理も、どこへ行っても「○○牛」があるのがフシギである。肉も魚もいるだろうが、野菜が特に昔はほとんどなかった。温泉へ行って不健康になるのでは困る。最近は評価が高い宿では、栄養バランスもかなり考えられていて昔ほどではない。それでももっともっと「地場産野菜料理」を研究して欲しいなと思う。

 僕の家で「コリンシアンの愚」と呼んでいることがある。礼文島北部の「プチホテル コリンシアン」という素晴らしい宿がある。利尻岳に登った後で、隣の礼文島に寄った。本当に美しい島だったけれど、疲れているから早く宿に入って、ついポテトチップスを食べてしまった。何があるか判らないから、旅行中には少しお菓子を持ち歩くのである。そこでお腹がかなりいっぱいになってしまったのだが、その日の夕食は人生で一番美味しい焼きガニを食べた。他にも美味しい魚、美味しいサラダが山のように出て、何でついポテトチップスなんか直前に食べたのか、大いに後悔した。今に至るまで、我が家では語り継いで、同じ愚を繰り返さないようにしているわけだ。

 料理が美味しいと評判の宿へ行く時は「昼食を食べ過ぎない」「夕食前にお菓子を食べ過ぎない」(お茶請けの菓子は温泉に入る前に血糖値を上げる意味があるので食べる)「お酒は飲み過ぎない」といった工夫がいると思う。そうじゃないともったいない。ただ、どうしても日本料理が中心なので、出るものが似てくる。今では天ぷらやステーキも珍しくないから、あまり意外感が感じられない。「地のもの」を中心に、いかに美味しくて珍しいものを提供するか。家では「洋食」「中華」のおかずもご飯のおかずとして普通に食べている。「折衷料理」でいいと思う。
(四万温泉積善館の食事)
 僕が今まで一番美味しいと思ったのは、和食では群馬県の四万温泉にある積善館だ。ここはお風呂も全国ベスト級だが、料理も本当に美味しかった。今も美味しいと思う。本格的な懐石料理は一品ずつ持ってくるしかない。そういう宿はいいけど、そこまでは行かず大体の料理は最初から並んでいることが多い。その場合、最後にご飯と味噌汁が出ることになると、その時にはおかずが残っていない。漬物いくつかで白米を食べるのか。一番美味しい料理をおかずにご飯を食べたいが、最初にお酒を飲んでると料理がつまみで終わってしまう。そういう宿でも、要求すれば最初にご飯と味噌汁を持ってきてくれる。飲んでるときでも、ご飯がある方が安心できる。

 もう一つが「朝食問題」だが、もう長くなるから止める。朝食は以前に比べて圧倒的に改善された。20世紀の間は、ずいぶんレベルの低い朝食が多かった。今は和風旅館でも美味しい和風スイーツが出たりするし、旅館の料理はずいぶん進化していると思っている。それでも基本は似ているので飽きてくることはある。クラシックホテルで洋食を食べる街中のホテルにルームチャージで泊まって外に食べに行くなど、国内旅行もいろんなパターンで工夫した方がいい。僕もずいぶん旅行してないけど、秋にはどこかに行きたいもんだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画「ジョーンの秘密」と核抑止力の問題

2020年08月20日 22時45分12秒 |  〃  (新作外国映画)
 イギリス映画「ジョーンの秘密」(Red Joan)が公開されている。宣伝コピーは「イギリス史上最も意外なスパイ」というもので、主演はジュディ・デンチである。ジュディ・デンチは1934年12月9日生まれだから、もう85歳になる。若い頃はロイヤル・シェイクスピア・シアターで活躍し、80年代になってから映画女優として世界に知られるようになった。舞台女優としてはローレンス・オリヴィエ賞を7度も受賞し、映画では「恋におちたシェークスピア」のエリザベス1世役で米アカデミー賞助演女優賞を受賞した。名優中の名優が演じる老スパイとは何故? 

 冒頭に「実話にインスパイアされた物語」と出る。2000年のこと、高齢のジョーンジュディ・デンチ)のところに情報機関が訪ねてきて、拘束されてしまう。外務省に勤めた故ミッチェル卿の資料から、ジョーンがソ連に機密情報を流した疑いが出てきたというのである。映画はそこで1938年に飛ぶ。ケンブリッジ大学で物理学を学ぶ若きジョーン(ソフィー・クックソン)は、寮の窓をたたいて入れてくれと頼んできたユダヤ系ロシア人ソニアと知り合う。彼女に誘われるまま「戦艦ポチョムキン」の上映会に出かけて、従兄弟だというレオ・ガーリチトム・ヒューズ)と知り合い惹かれていく。そして内戦下のスペイン支援運動などに出掛けるようになる。
(若き日のジョーン)
 映画は過去と現在を行き来しながら進行する。ジョーンは捜査官に「あなた方にはあの時代のことは判らない」と言う。第二次世界大戦前夜である。ヒトラー率いるナチス・ドイツが勢力を拡大していた。ソ連の実情は世界に伝えられず、大恐慌に苦しむ資本主義に対し計画経済のソ連を賛美する人が多かった。スターリンの大粛清の実態など外部からはよく判らなかった。当時を生きた人々の世界には、「ソ連と同盟してドイツと戦う」か、「ドイツと同盟してソ連と戦う」かの選択しかなかったと思って、ジョーンは自ら反ファシストを選んだのである。

 大学を卒業したジョーンは核兵器開発を進める機関に採用される。それは実際の歴史では「非鉄金属研究協会」と呼ばれた組織で、確かにウラニウムは非鉄金属には違いない。事務職員だが、物理学を理解していたことが採用の決め手となった。そしてウランの濃縮には遠心分離機を使ってはとアイディアを出す。そんなジョーンはレオと付き合いながら、レオから情報提供を求められる。しかしジョーンは一貫して拒み続ける。

 カナダに調査に行く教授に同行、カナダ留学中のレオと再会する。カナダではソ連との協力関係をめぐって論議も起きる。独ソ戦(1941年6月)以後は、イギリスとソ連は同盟国である。そしてアメリカが核兵器の開発に成功して、広島と長崎に原爆が投下された。ニュース映画で見て激しい衝撃を受けたジョーン。ナチスに先がけて原爆を持つ必要を認めていたジョーンだが、実際に使われることは良くないと考えたのである。そこでジョーンは「ある決意」をした。核兵器開発の機密情報をレオに渡すことを。そして多くの情報が渡った。

 老いたジョーンは「自分はスパイではない」と語る。「冷戦の中、片方の陣営だけが核兵器を持つことは危険だと思った」というのである。自分が情報を流したことで「世界の均衡」が生まれた。「私の行為は平和を守った」「私は世界を変えた」と公表された後で家に押しかけてきた記者たちにそう言い放つのである。結局、高齢を理由にジョーンは起訴されなかったと最後に字幕が出る。ジュディ・デンチがジョーンを演じていることで判るように、映画は「ジョーンの勇気と善意」を基本的に認めているように思われる。しかし、そのような米ソ双方の「核兵器の抑止力」が戦後世界を守ったという理解はどう考えればいいのだろうか。

 この映画はジェニー・ルーニーの原作「Red Joan」の映画化で、現実の出来事とは大きく違っている。モデルとなった女性は、メリタ・ノーウッド(1912~2005)という人物でウィキペディアに日本語の項目もある。それによるならば、メリタはもともと両親が共産主義者で根っからの左翼だった。ケンブリッジの物理出身ではなく、実際はサウサンプトン大学の文系を1年で中退している。1932年から非鉄金属研究協会で働き始め、1937年には共産主義者の教師と結婚した。つまり、映画にあるようなロマンスや冒険は全部創作で、自らの意図でソ連に1930年代半ばから情報を流し続けたのである。疑惑発覚後に自宅前で記者会見した以外は創作が多い。
(モデルとなったメリタ・ノーウッド)
 そういう情報を参考にすると、「核兵器の抑止力」神話に基づく「核大国意識」が背景にあると思えてくる。左翼であっても、「核兵器廃絶」ではないのである。究極的な大量破壊兵器である核兵器は、生物兵器や化学兵器と同様に国際条約で禁止するしかないと思う。映画に描かれるジョーンの意識は、核大国のタテマエと大きくは変わらない。そこに原作を映画化したトレヴァー・ナン監督の限界もあるように思う。なお、ジョーンは「私はスパイではない」と言ってるが、「外国の情報機関と知っていて、国家機密を渡す」のは定義上スパイと呼ぶしかない。それが「国家の論理」を超える別の論理で正当化できるものだったとしても。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画「誰がハマーショルドを殺したか」

2020年08月19日 22時19分42秒 |  〃  (新作外国映画)
 渋谷のシアター・イメージフォーラムで「誰がハマーショルドを殺したか」という映画を上映している。ここは駅からずっと歩くので、猛暑の中敬遠していたら週末からレイトショーになってしまう。お昼の上映をやってるうちに見に行くことにしたのは、ダグ・ハマーショルドという名前に反応したからだ。2代目国連事務総長で、現職中に亡くなった唯一の事務総長である。1961年にアフリカ中部の「コンゴ動乱」の調停に向かう途中で飛行機事故で死亡した。

 そのハマーショルドの死因は事故ではなく、謀殺であるという立場で調査したドキュメンタリー映画が「誰がハマーショルドを殺したか」である。と一応言えるんだけど、少し不思議な作りになっていて、どこまで本当なのか今ひとつ判らない。世の中には「フェイク・ドキュメンタリー」(記録映画みたいな作り方をしている劇映画)もあるし、UFOマニアなどを追う「トンデモ」ドキュメンタリーもある。しかし、この映画は一応マジメにハマーショルド謀殺説を論証しようとする過程を記録する映画ではあるらしい。だが二人の秘書に調査結果を記録させながら進行するなど、どこか不穏なムードが漂う構成である。

 監督はデンマークでジャーナリストとして活躍しているマッツ・ブリュガーという人で、共同で調査しているヨーラン・ビョークダールは長年ハマーショルド事件を追い続けてきた。彼の調査に参加する形で撮影を開始し、これまで以上に渾身の取材ルポをまとめた作品である。途中でハマーショルド事件からどんどん離れて、アフリカをめぐる世界の陰謀の海の中に入り込んでいく。そもそもコンゴベルギー領だったが、資源が豊富なので国際的な資源争奪に巻き込まれやすい。アパルトヘイト体制下の南アフリカの謎の組織サイマー、イギリスやアメリカの情報機関などが浮かび上がってくる。世界を調査し多くの人に会うが、証拠はなかなか得られない。
(事故現場を調べる監督とビョークダール)
 調査員のビョークダールは父の代から追っているということだが、事故が起きたザンビアのンドラで見つけたという「飛行機のかけら」(実は調査したら違った)など、どうもトンデモ調査員っぽい。追い続ける中で、どんどん陰謀が膨らんでゆくが、じゃあ「誰がハマーショルドを殺したのか」という以前に、暗殺事件かどうかの確証もはっきりしない。しかし、アフリカに存在する謀略の罠のような迷宮に入り込む映画だ。恐るべき陰謀の数々に驚くばかり。
(ダグ・ハマーショルド) 
 ハマーショルドはスウェーデンの外交官で、1953年にトリグヴ・リーに続く2代目の国連事務総長に選ばれた。リーはノルウェー出身で、当初は北欧出身者が続いた。現在は一期5年で2期までが慣例化しているが、当時はそのようなルールはなくハマーショルドは53年からずっと続けていた。1960年にコンゴ共和国(後にザイール、現在はコンゴ民主共和国)が独立したが、直後に旧宗主国ベルギーなどの支援を受けて南部カタンガ州が独立を表明した。ルムンバ首相はソ連に接近したが、クーデターが起こってルムンバ首相は殺害された。2000年には「ルムンバの叫び」という記録映画も作られている。

 1961年9月17日深夜、ハマーショルドを乗せた飛行機が墜落して乗員15人全員が死亡した。僕がニュースに関心を持つようになったのは、ビルマ出身の3代目事務総長ウ・タント時代だった。ハマーショルドは前任者だったから、その悲劇的な生涯はよく知られていた。当時から単なる事故ではないと言う説はあったと思うが、詳しくは知らなかった。2013年になって、パン・ギムン事務総長によって新たな調査委員会が作られたという。2017年に出た報告書では外部犯行説が示唆されているらしいが、それは要するにはっきりした証拠が見つからなかったということだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「カクテル・パーティー」ー大城立裕を読む②

2020年08月18日 22時57分07秒 | 本 (日本文学)
 沖縄の作家、大城立裕(1925~)の芥川賞受賞作「カクテル・パーティー」は現在岩波現代文庫で読める。現時点で文庫で入手できるのは、先に紹介した「焼け跡の高校教師」(集英社文庫)とこれだけだと思う。何度か本になっているようだが、2011年に出た岩波現代文庫版には他では読めない「戯曲 カクテル・パーティー」が収録されていて、これが問題作なのである。

 大城立裕は90歳を超えても現役で書き続けている作家で、およそ沖縄に関するテーマなら大体書いているんじゃないかと思う。人気も知名度も沖縄以外では高いとはいえないから、文庫などにはあまり入ってないけど現代日本の重要な作家だ。この文庫には「カクテル・パーティー」の小説版、戯曲版の他に3つの小説が入っている。「亀甲墓」(かめのこうばか)、「棒兵隊」は沖縄戦、「ニライカナイの街」は米軍統治下の沖縄を描いている。

 「亀甲墓」は米軍の艦砲射撃が迫る中で、一家で大きな墓地に籠もった家族の話である。そんなところにいないで、北部の方に逃げるべきだったわけだが、画像に見るような大きな要塞のような墓なのである。しかし「鉄の暴風」と呼ばれた猛攻撃に耐えきれるもんじゃない。一家の主である老人の体験で何とかなるレベルを超えていた。しかも妻は後妻だし、娘は夫の戦死後に親が認めない男と結ばれている。そんな家族のあり方を「実験方言をもつある風土記」として描いている。方言というけど、地の文は標準語なので違和感はほとんどなかった。
(亀甲墓)
 「棒兵隊」は「郷土防衛隊」に召集された「地方人」(軍から見た一般住民を呼ぶ言葉)が「友軍」にスパイ視される中で生きていく姿を描く。「ニライカナイの街」は娘がアメリカ軍人と結ばれ子どももいる一家を描く。父と弟は闘牛に夢中で、アメリカ人のお金をあてにして強い牛を買いたい。娘は昔の男と会って、アメリカの土地を買う話を勧められる。ベトナム戦争を背景に、「アメリカ」と付き合いながら生きているエネルギッシュな民衆像を印象的に描いている。

 以上3作も興味深いのだが、情報内容としては少し古いかもしれない。今では沖縄戦で日本軍から住民がスパイ視されたという話は常識に近く衝撃性は少ない。ベトナム戦争も過去になっている。その意味では「ペリー来航110年」(1963年)を舞台にした「カクテル・パーティー」も古い。その時点では1972年に「沖縄返還」がなされるとは予測出来なかった。沖縄県の「祖国復帰」から半世紀近く経って、本土復帰運動が「正統思想」として疑われない現時点では、前半で繰り広げられる「沖縄文化論争」ももはや古びて見える。

 前半では「中国語を沖縄で学ぶ」という共通点を持つ4人が集まる。琉球政府に勤める「」、本土の新聞の記者「小川」、革命を逃れて沖縄に来た中国人弁護士「」が、共に中国を学ぶ米軍人ミラーの家を基地に訪ねるわけである。他にもミラーの知人が呼ばれていて「カクテル・パーティー」が催されるのである。ミラー夫人は「私」の娘も通う英語教室を開いていて、料理もうまく容姿も魅力的である。そんな状況で4人は沖縄文化は日本文化や中国文化とどう関わるのかと討論するのである。それは「沖縄のアイデンティティ」をめぐる論争である。

 話の途中で出席者の幼児が行方不明という情報が入る。そして帰宅すると、娘が衝撃的な事件に巻き込まれている。その「転調」が衝撃なのである。そして「ミラー」や「」のそれまで隠されていた別の像が立ち現れてくる。そこは今触れないが、ほとんど人物の会話で進行する小説なので、もともと「戯曲的」な構成になっている。「焼け跡の高校教師」を読むと、もともと劇作体験の方が早く、教員時代も高校で演劇をやっていた。本人からすると小説の「カクテル・パーティー」には書き足りないものを感じていて、戯曲版を書いたということである。
(アメリカで映画になった「カクテル・パーティー」)
 戯曲版は最初ハワイで英語版が、沖縄文学アンソロジーの中に収録されて出版された。それはハワイで上演され、アメリカで映画になったということだ。沖縄ではその映画が字幕を付けて上映されたというが、他では全然知らないだろう。戯曲では「カクテル・パーティー」が1971年に移され、プロローグ、エピローグが1995年になっている。「私」は「上原」、「娘」は「洋子」と名付けられた。洋子は高校卒業後、アメリカに留学してその地で結婚した。それが何とミラーの息子で、弁護士のベンである。スミソニアン博物館で計画された原爆展在郷軍人会が反対していて、ベンはその弁護士を担当している。

 1971年はすでに翌年の「沖縄返還」が決定している。その段階で4人の「論争」が繰り広げられるが、沖縄、アメリカ、日本、中国の「加害」と「被害」が重層的に絡み合う。それは大きな問題ではあるが、「原爆」と「真珠湾」というテーマは戦争責任そのものだ。「中国戦線での日本軍の残虐行為」と「沖縄での米軍人の性的暴力事件」は、「女性の尊厳」という問題の方が大きい。「女性の視点」からする「もう一つのカクテル・パーティー」が書かれるべきかもしれない。

 ともかく「戯曲版 カクテル・パーティー」は知られざる問題作なので、多くの人に一読を望む。著者は沖縄戦当時は上海にいて、その後日本軍に召集された。その経歴から書かれた渾身の問題作だと思う。なお、「棒兵隊」の中に焼け跡にあった首里の町を「目鼻のおちた癩病やみのように家一軒もない首里市」という表現がある。これは差別表現だと考える。少なくとも注がいる。それにしても、長らく「平和の礎」にハンセン病療養所の空襲犠牲者が刻印されなかったぐらい、沖縄の厳しい差別があったのである。また「カクテル・パーティー」の中に「小川」氏を本土の被差別出身者ではないかと考える描写があるが、全く判らない。これは差別的な描写として書かれているのではないが、全然判らない考え方なので指摘しておきたい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ついに「歴史と向き合う」が消えるー安倍首相の戦没者追悼式辞

2020年08月17日 22時31分05秒 |  〃  (安倍政権論)
 8月15日に行われた政府主催の「全国戦没者追悼式」で、安倍首相の式辞から「歴史と向き合う」という言葉が消えた。東京新聞によると、2019年は「歴史の教訓を深く胸に刻み」という言葉があった。それまでも毎年、「歴史に対して謙虚に向き合い」(2013)、「歴史を直視し、常に謙抑を忘れません」(2015)、「歴史と謙虚に向き合いながら」(2017)といった言葉があった。
(安倍首相式辞の変遷=東京新聞)
 そもそも第一次政権時には「アジア諸国の人々」への「深い反省」が入っていた。そういう言葉は2013年の第二次安倍政権以後、消えてしまった。これも東京新聞のまとめ(上記画像参照)をみると、「加害と反省」「歴史の教訓」がなくなって、「不戦の誓い」だけになった。「戦争の惨禍を二度と繰り返さない」という言葉はまだ入っている。思えば「歴史の教訓」というなら「敵基地攻撃能力」など持てるはずがない。戦争の惨禍を繰り返さないだけなら、今度は強い方に付いて「勝てる戦争」をすればよいことになる。そういうことなのだろうか。
(式辞を読む安倍首相)
 そもそも僕は「儀式」というものが嫌いだ。国旗国歌などの問題ではない。成人式も出る気はなかったし、どんな式も出ないで済むならその方がいい。(結婚式も嫌だった。卒業式や入学式も嫌だった。)全国戦没者追悼式というものがあって、テレビ中継しているのは知っているが、ちゃんと見たことはない。首相式辞も読んだことがない。紋切型で読むに耐えない。そもそも「全国戦没者追悼式」というものの形式と内容も批判しないといけなだろう。しかし、今はそういうことはちょっと置いて、最近の歴代首相式辞をいくつか見てみたいと思う。

 図書館へ行って新聞のバックナンバーを調べるまでの気持ちはない。インターネットで首相官邸ホームページから見られる程度を調べようという程度。村山内閣以後の資料が掲載されているが、ここでは21世紀に入った小泉純一郎首相以後の式辞を見てみたい。それでも毎年見るのは大変なので、最後の2006年の時を見てみる。8月15日に、小泉首相が靖国神社に参拝した日でもある。以後、全部じゃなくて部分的な引用である。

 「我が国は、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。国民を代表して、深い反省とともに、犠牲となった方々に謹んで哀悼の意を表します。 」「私達は、過去を謙虚に振り返り、悲惨な戦争の教訓を風化させることなく次の世代に継承する責任があります。 」「本日、ここに、我が国は、戦争の反省を踏まえ、不戦の誓いを堅持し、平和国家日本の建設を進め、国際社会の一員として、世界の恒久平和の確立に積極的に貢献していくことを誓います。平和を大切にする国家として、世界から信頼されるよう、全力を尽くしてまいります。 」 小泉首相でも、このぐらいのことは当時言っていたのである。

 次に第一次安倍政権は後に回して、民主党政権時代を見てみたい。鳩山首相は2009年9月に就任して翌年6月に辞任したので、実は戦没者式典には出ていない。菅直人(2010,2011)と野田佳彦(2012)の3回となるが、2011年と2012年は東日本大震災からの復興に触れた特別な式辞になっている。そこで2010年の菅直人首相の式辞を見てみたいと思う。
(式辞を読む菅首相)
 「先の大戦では、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対し、多大の損害と苦痛を与えました。深く反省するとともに、犠牲となられた方々とそのご遺族に対し、謹んで哀悼の意を表します。」「戦後、私達国民一人一人が努力し、また、各国・各地域との友好関係に支えられ、幾多の困難を乗り越えながら、平和国家としての途を進んできました。これからも、過去を謙虚に振り返り、悲惨な戦争の教訓を語り継いでいかなければなりません。」「世界では、今なお武力による紛争が後を絶ちません。本日この式典に当たり、不戦の誓いを新たにし、戦争の惨禍を繰り返すことのないよう、世界の恒久平和の確立に全力を尽くすことを改めて誓います。」

 菅首相式辞は、基本的に小泉純一郎首相とほぼ同じである。むしろ引用箇所以前に、小泉時代よりも詳しく「戦争犠牲者」や「遺族」への慰藉の言葉が次のように述べられている。「最愛の肉親を失われ、決して癒されることのない悲しみを抱えながら、苦難を乗り越えてこられた御遺族の皆様のご労苦に、深く敬意を表します。」これは恐らく民主党政権、つまり日本遺族会の支持しない政権が誕生したことで、遺族への呼びかけが重視されたのではないか。

 しかし、基本的な戦争認識では、自民、民主を超えた「一定の枠組」がこの時点では成り立っていた。第一次安倍政権(2007年)でも、ほぼ同様の言葉が使われていたのである。7月の参院選に敗北した安倍首相には、ホンネを押し通す余力はなかったのだろう。「我が国は、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。」のように「アジア諸国」への配慮も入っていた。ニュアンス的に「靖国思想」(戦死者の犠牲があって、今日の繁栄がある)が他の首相より強い感じはするが、大きな枠組は同様だった。

 それが大きく変わったのが、第二次安倍政権以後である。まず「アジア諸国」への配慮、事実上の加害反省が消えた。全体的に「ポエム化」が著しく、「美しい言葉」を散りばめながら「何か言ってる感」を出すという「コロナ会見」まで続く安倍語法である。「祖国を思い、家族を案じつつ、戦場に倒れられた御霊、戦禍に遭われ、あるいは戦後、遠い異郷に亡くなられた御霊の御前に、政府を代表し、式辞を申し述べます。」「いとしい我が子や妻を思い、残していく父、母に幸多かれ、ふるさとの山河よ、緑なせと念じつつ、貴い命を捧げられた、あなた方の犠牲の上に、いま、私たちが享受する平和と、繁栄があります。そのことを、片時たりとも忘れません。」

 それでも「私たちは、歴史に対して謙虚に向き合い、学ぶべき教訓を深く胸に刻みつつ、希望に満ちた、国の未来を切り拓いてまいります。世界の恒久平和に、能うる限り貢献し、万人が、心豊かに暮らせる世を実現するよう、全力を尽くしてまいります。」というまとめになっていた。少しずつ変わっていって、今年でついに「歴史に謙虚に向き合う」条項も消えたということになる。

 引用ばかりで読みにくいと思うけど、最後に今年の式辞の焦点部分。「戦争の惨禍を、二度と繰り返さない。この決然たる誓いをこれからも貫いてまいります。我が国は、積極的平和主義の旗の下、国際社会と手を携えながら、世界が直面している様々な課題の解決に、これまで以上に役割を果たす決意です。」「積極的平和主義」とは「集団的自衛権一部解禁」に際して安倍首相が掲げた言葉だ。世界の戦争に「自衛隊」が「貢献」するという時の婉曲語法だろう。

 第2次から第4次の安倍政権に道筋の中で、美辞麗句を散りばめた「ポエム」的な施政方針演説が続いた。それに慣れてしまって、少しずつ「内実」が消失していったことに気付きにくい。歴史に向き合わないんだったら、そもそも「戦没者追悼式典」をやる意味はどこにあるのか? 「次の戦死者」を賛美するための準備だろうか。「次の戦死者」を出さないということが、国民誰しもの「自明の前提」だったはずである。これが安倍政権の7年半だった。

 なお、戦没者追悼式における首相式辞は、誰のものであっても本質的な問題がある。それは「追悼式」を行う前提なのかもしれないが、「犠牲者」があって「繁栄」があるという歴史観である。それは「靖国思想」と言われる考え方である。しかし、その発想自体に「いじめ」「体罰」「過労死」「サービス残業」などにつながるものがある。「8月15日」(日本国民に降伏が知らされた日)に式典を行うことから、考え直す必要があるだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする