尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

選挙に行く「障壁」を考える

2013年07月17日 23時45分56秒 | 若い人へのメッセージ
 「選挙に行く」ということに意味について考えたいと思う。というのも、最近どこかで(多分新聞記事だと思うんだけど)、若い人の投票率がなぜ低いのかという特集記事があって、その中である若者が「選挙に行くって障壁があるじゃないですか」と言っていたのを読んだからである。うっかり切り抜くのを忘れてしまったので、いつの記事だか示せないのだが。僕はこれにビックリしてしまった。選挙に行かない人がたくさんいるのは理解できるが、それが「選挙そのものの障壁」によるものだなどと考えたことがなかったからである。この若者にとって、障壁であることはもう自明の前提らしいのである。

 もちろん、初めてすることには気おくれや面倒くささがつきまとう。最初の国政選挙に行かないと、その後も何となく行きづらくなるかもしれない。でも、20歳以上の日本国民の半数以上は国政選挙に行っている。(95年の参議院選挙を除く。)行ってる方が多いのだから、そこに大きな「障壁」があるわけがない。でも最近の国政選挙では、年齢別にみると20代、30代の投票率がかなり低いらしいことが示されている。同世代の中で半数以上が行ってないなら、選挙に行く方がフシギに見えてくるかもしれない。身の回りの友人が行ってないのに、自分は行こうと言うんだったら、そこには「障壁」があるというべきかもしれない

 この問題をいくつかの点から考えてみたいと思う。まずは「実際の選挙を知らないのではないか」ということである。もちろん、インターネットでは投票できないのだから投票所までは行かないと選挙はできない。(在外日本人や重度の障害があるなどの例外はあるが。)世の中には「引きこもり」というケースもあるわけだから、選挙に行くのも「障壁」になる場合があるのは当然である。せっかくの日曜日に仕事の人もあるだろうし、遊びに行きたい人もあるだろう。大雨や猛暑では行きたくないし、地方では投票所が遠い場合も多いだろう。

 そうなんだけど、そういう問題を言い出せば、バスに乗るにも電車に乗るにも、レストランに入るにも映画館に入るにも、何だって「障壁」になりうる。実際、レストランなんか、高そうでも入れないし、人がいなくても入りにくい。デパートの食堂街みたいに、いろんな店があり過ぎても選べなくなってしまう。あれも食べたい、これも食べたい、あれは高い、これも高いとか言ってるうちに、今度はどこも別に特に食べたくないなあとなってしまうのである。選挙でもこのケースはかなり多いのではないかと思う。

 しかし「コンビニでおにぎりを買う」という場合はどうだろう。この場合だって、人と接したくない、どのおにぎりを選ぶか迷ってしまうなどという人もいるだろうけど、まあほとんどの人にとって、コンビニは気楽に買い物ができる場所ではないかと思う。「スターバックスでコーヒーを頼む」「デパートでスーツを買う」というのはどうか。スタバは種類が多いから選ぶのが大変で、通みたいな常連と一緒にならんでしまうと、少し気おくれしてしまう。ドトールも今は分煙だから注文しやすいドトールでいいではないかという感じ。(もっとも最近は一人行動が多いので、休憩で店に入ることは少ないのだが。)デパートは高いというのもあるけど、店員がすぐに寄ってくるから、確かに面倒。

 選挙というのは、この中ではどれに近いか。僕はコンビニだと思う。投票入場券を出せば、名前を確認されるので「ハイ」ぐらい答えるが、後は渡された用紙に置いてある鉛筆で名前を書いて(または書かないで)、投票箱に入れるだけで、誰とも口は利かないし、あっという間に終わるので拍子抜けするぐらいだ。歩いて1分の中学(母校)が投票所なので、全部で10分かからない。出口調査なんか聞かれたことないし。名前を書く場所には候補者あるいは政党名が書かれているので、面倒な字の候補の場合確認したりする。そういう時は大体候補者の方も考えて、書きにくそうな字を「ひらがな」で届出してる場合が多い。コンビニというか、自動販売機というか。選挙と言っても、投票自体はこんなにも簡単なのである。一度でも行った人は誰でも知ってることだが。

 だけど、投票所で「だれにしようかな、カミサマの言うとおり…」なんてやってる人は見たことない。その場所で広報を読んで、投票する人を決めようとしてる人もいない。もちろん携帯電話で話しながら投票している人もいない。(それは禁止なんじゃないかと思う。)投票そのものは簡単だと言ったけど、それはみんな入れる人を決めてから行ってるということで、だから後はスムーズなのである。誰に入れたらいいか、本当に判らない、自分の考えがない、全く関心がないという人がいたら、それは投票所に行っても仕方ないだろう。

 しかし、中高年は選挙にかなり行ってるんだから、それなりの考えがあるんだろうか。まあ長いこと生きて来てれば、どの党はどう、この党はこうといったイメージというか、自分なりの判断はできている人が多くなる。でも、若い人の投票が少なく、中高年の投票が多い理由はそこにあるわけではないと思う。年齢を重ねて来れば、仕事や様々な人間関係が構築されて来て、投票を頼まれたり、業界団体なんかに関係してたりするだろう。20代の若い世代は、そういう社会関係の輪の中にまだ入っていない人が多い。昔はそれでも、親が仕事がら自民党に入れてくれと子どもに頼んだり、大学の知り合いが社会党や共産党の投票を依頼してきたもんだろう。でも今は親も無党派が多いし、子どもに選挙の話なんかできない家が多いだろう。もちろん「若いから革新陣営支持」なんて時代でもない。要するに、どこからも頼まれないから、取り立てて投票に行かない、日曜もバイトがあるし…って言うあたりではないか。

 だけど、選挙そのものを全否定してしまってる人も少ないはずだ。そこまで行くとエネルギーがいるし、タテマエとしては「選挙は大事だとは思う」と言うのではないか。世論調査があったりすれば、「必ず行く」には○はしないが「できれば行きたい」、選挙には「ある程度関心がある」というところにしておくという人である。今の若い人だって、必ず行く人はいるわけだが、問題は年を取ってきたら行くようになるだろうけど、若い時は「関心がないとまでは言わないけど…」という層がどれほど選挙に行くかである。そして、そういう人にとっては、確かに比例代表区なんて「食堂も多いし、メニューも多い」のではないか。入れるところを決められないし、どこに入れても同じような感じ。また逆に、特に政治を勉強したわけでもない自分が決めてしまっていいのか…という気も起こるだろう

 僕はそういう場合は、逆に考えていくのがいいと思ってる。「どこに入れたくないか」の方を先に考えるのである。選挙に行こうかと思うほどの人なら、入れるべきところは決めがたい場合もあっても、入れたくない方は決まってる場合が多いのではないか。今は、何でも自由選択、個人の責任が重視されて、小さい時から進路の希望などを問われ続けている。お店に行けば商品がそろっていて、選択に困るぐらいである。だから「何を選ぶか」という選択を迫られるのに飽きているのではないか。だけど、嫌なものは自分で拒否しないといけない。実際日常生活ではそうしているはずである。選挙だって同じで、入れたくない方、あまりピンとこない方を除いて行って、残った中から、まあこだわりたい問題とか、ネット上で見た趣味とか、なんか少しはピンときた人や政党があれば、そこにするわけである。実際、そうやって決めるしかないでしょ。本当に心から支持している政党があるなんて言う人は、今はまずいない。まあ選挙のたびに、良さそうな人に入れて、裏切られると言えばその繰り返し。「男はつらいよ」の寅さんの恋(失恋)のようなもんで、しょうがないことを繰り返していくしかないんだし…。

 「選挙に行っても何も変わらない」「自分の一票では何も変えられない」、あるいはさらに「選挙のたびにコロコロ入れる政党が変わるような大人と一緒になりたくない」と思う人もいるだろうけど、その問題はまた次に考えたい。
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「演劇」を見よー「ライブ」の重要性②

2012年10月09日 00時42分17秒 | 若い人へのメッセージ
 間が飛んだけど、「ライブ」を見て欲しいという話で、特に「演劇」の話。演劇といっても幅広いけど、伝統演劇でも新劇でも宝塚でもミュージカルでも、とりあえずはなんでもいい。「生の舞台で人間がドラマを演じる」というのを、若いときから一年に何度か経験しておいて欲しいなあという希望である。いや、大人になっても芝居や映画に行くというのはとてもいいと思う。そういう文化体験が日本の大人の世界に少なすぎる。まあ、長時間労働と遠すぎる遠距離通勤では、とても演劇やコンサートに行けない。フランス映画なんか見てると、夜になってからみんなで劇場へ行ってオペラを見て、そのあと食べて飲んだりしてるけど、どうしてそんなことができるのか。職住接近だということだろう。でもこのままでは日本の政治や経済もさらに貧しくなってしまうだろう。

 僕が生の演劇を特に見て欲しいと思うのは、教育や福祉に関心がある若い人人間は正しいことを言ってれば必ず相手に伝わるということはない。もちろん正しいことを言って伝わる場合もある。その方が多い。一般的には、「いじめはいけない。いじめがあったら先生に相談しなさい」で通じる。でも肝心のいじめられている生徒、いじめている生徒に向かって、そういう「正論」を言っても通じないだろうということはわかると思う。「正しいことを言ってるのに通じない」のではなく、「正しいことを言ってるから通じない」ということも多い。そういう時に押してもダメだから、引いたり、いなしたりして態勢を立て直さないといけない。人間相手の仕事は毎日がドラマ。だから、生のドラマを見て感覚をつかんでおくのが大切なんだろうと思う。「ドラマ感覚」を感じられる身体。これが第一。

 次にコンサートや演劇を見ると、「皆の心をつかむ力」がすごい。まあ、こっちも金払ってるんだから値段分の芸は見せてもらおうというつもりで見てる。教室の生徒は「放っといて寝かせておいてくれ」とか思って教室にいたりする。そういう時は歌手や俳優でも難しいだろう。いや歌ではなく、その歌手が授業をしたらどうかという話だけど。だけど、皆の心をつかんで、圧倒的な感動に盛り上げていくそのテクニック、自分にも欲しいなあと思わないではいられない。別に見てるだけでテクニックが向上するわけではないので、変な期待はせずにただ楽しんでいる方がいい。受けたギャグや小話を自分で披露しても、そういうのは大体すべるに決まってる。でもそういう「ライブ体験」を重ねると、何となく「場のつかみ方」がうまくなるのではないか。少なくともマイナスにはならない。これが第二。

 「人間を見る目を深くする」という意味では、小説でも映画でもいいから、いろいろな人間ドラマに触れることが役立つと思う。自分と違う境遇の人間、例えば難病で学ぶことも困難な生活を送っている10代の少年、あるいはアフリカで内戦に巻き込まれ兵士にされた少年…、そういう人も世界にはいるわけだけど、そのことを知ってるだけで力になる。でも目の前にいる生身の人間を理解するのは大変。そのためには「生身の人間の演じるドラマ」を見てる方が役立つ。テレビや映画でもいいとは思うけど、実際に生身の人間が演じる迫力の方がすごいのは当然である。その意味では、歌舞伎やミュージカルより、人間ドラマを見ておくことが大事だろう。これが第三。

 そして最後に、発声や「立つこと」そのものを意識する必要性のために。時には生徒に声が届かない教師というのがいるものだが、はっきり言って困ったもんだ。教職課程に「ヴォイス・トレーニング」や「演劇レッスン」を取り入れていく必要がある。そして人類は「立つ」ことで人類となった。動物が重力に逆らって立つという難しい作業を意識していないといけない。そういう人間の「所作」はなかなか自分で意識できないが、ダンス、日本舞踊などを見たり(自分でもやったり)、演劇を見ることで意識が格段に高まる。それが教育、福祉、医療などの対象の「身体のゆがみ」を見えやすくする。そういう身体性への意識を高め、自分のゆがみを自覚できるようにする。これが第四。

 僕が考える「演劇を見ておいた方がいい理由」は大体以上である。要するに「楽しいから見ればいい」わけだけど、「人間相手の仕事」なら「人間が演じるドラマを見た体験」が多いほど深い所で役に立つに決まってる。大事なのは、その人の表面ではなく、身体の深い所が発しているメッセージを感じ取れるかどうかである。

 僕は元々小説や映画が好きだった。元々というのは、高校生までの間にという意味。演劇を見たのはひまとカネの問題で、大学生になってから。(自分のカネを出してプロを見たという意味。)最初に見た場所は新宿紀伊國屋書店4階の「紀伊國屋ホール」ではなかろうか、と。もう覚えていないんだけど。下北沢の本多劇場や池袋の東京芸術劇場なんかなかったし、当然紀伊國屋サザンシアターや新国立劇場、世田谷パブリックシアターなんかはない。だから紀伊國屋しかありえないんだけど、まあどこかのテントが最初だったかもしれない。一番感動したのは、井上ひさしの「イーハトーボの劇列車」という宮沢賢治の評伝ドラマである。評伝ドラマの第一作「しみじみ日本・乃木大将」も見てるけど、宮沢賢治が好きだからかもしれないけど、「イーハトーボの劇列車」の感動は大きかった。この劇には「思い残し切符」というものが出てきて、早く死んだ人の「切符」が受け継がれていく。この発想は今でも僕の深い所に残っている。以後、亡くなるまで井上ひさしの新作を何度見たことか。多作だし、全部は行ってないけど、相当見た。なんという豊饒で深い世界だったことだろう。

 そういう劇作家、あるいは映画監督や小説家がいるだけで、ずいぶん自分の世界は広がった感じがする。日本の多くの人が、同時代の知的な共有物として演劇の世界があるといいなあと思う。きっかけは何でもいいけど、口コミか新聞の劇評。でも評判になった時点でチケット売り切れのことが最近は多い。WEBサイトで見ると、当日券があるか、あるいは「チケットぴあ」なんかは売り切れでも劇団に残っていることもある。そういう情報をつかむことも大事だろう。一度行って良かったら、アンケートに今後のチラシ希望と書いてくれば、以後の案内が送られてくる。それで見たいものがあったら、事前に入手できる。しかし、値段が高い。いいところは特に高い。映画は大人一般1,800円。1日4回か5回はやるから、一つの席で8,000円くらいになる。一日1回の公演の演劇では、映画数回分の値段を取らないととてもやってられない。すごい舞台装置を見たりすると、この値段では大変だろうという演劇が圧倒的に多い。公的支援がもっとないとやっていけないだろう。だから高いのは仕方ないけど、安いチケットの公演日もあるし、いろいろ工夫しながら見るわけ。でも去年玉三郎の舞踊公演を劇場の一番上で見たら、小さくて(双眼鏡は持って行ったけど)何だかわからなかった。

 ま、それはともかく、歌舞伎や文楽を一回も見ずに教師になっていいのか、ぐらいは言ってもいいかなと思うんだけど。東京都なんか「日本の伝統」なんて言うんだから、夏休みに教師向け研修で歌舞伎を見せてもいいくらいだ。判るとか判らないではなく、経験しておくということ。それはプロ野球やJリーグや大相撲なんかでも同じかもしれないが、伝統演劇こそある程度強く言わないと見ないで終わる可能性が高い。で、「ドラマ体験」を若い人には是非しておいて欲しいという次第
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「ライブ」の重要性①-「現場を踏む」こと

2012年10月07日 01時13分53秒 | 若い人へのメッセージ
 若い人向けの話、続き。人は「孤独」も大切である、「本」を読まねばならないという話を書いた。人生には家にこもって本を読みふけるような時間も大事なんではないか。でも永遠に家にいるわけにもいかないし、恋愛小説をいくら読んでも実際の恋愛体験がないのでは意味がない。僕は昔から「書を持って家を出よう」をモットーにしてきた。だから、次には「ライブの重要性」の話。ライブと言うと音楽のコンサート、ライブハウスに行くようなイメージがあるが、ここではもっと広く、「生のもの」という感じで使う。「生」というか「ほんもの」。音楽や演劇に行くのもそうだけど、「絵を美術館に見に行く」も、絵はモノで生きてはいないけど、「本物を実際に見に行く」という意味で、ライブ体験と考える。スポーツも当然ライブ動物園に行くのも「動物のライブショーを見に行く」。皆カネがかかるなあというなら、裁判の傍聴がタダのライブ体験デモや集会もライブである。そういう「現場に身を置く」ことの重要性。(ただし、事件現場を見に行って、テレビカメラに向かって手を振るようなことはなし。樋口祐介「ピース」中公文庫を読むこと。)

 演劇や落語の話は次回回しで、今回はそれ以外の「ライブ」の話。昔、松川事件という冤罪事件で被告人の文集「真実は壁を透して」という本を作った。それを作家の広津和郎が読んで、どうも気にかかる、無実の死刑囚ではないかと思った。そこで面会をしてみて「被告人の目が澄んでいた」と感じた。裁判も傍聴しおかしいと思った。当時は「目を見ただけで有罪無罪が判るのか」と、批判と言うよりむしろカラカイの対象にされたが、中央公論に数年間にわたり「松川裁判」を連載し、裁判のおかしさを追求した。現地調査も行い、幅広い支援運動も広がり、結局無罪判決になる。このように広津を書きたてたのは、間違いなく面会や傍聴と言う「ライブ体験」だったと言える。実際に体を動かして調べるというのは、こうして人生と歴史を変えることもある

 しかし、そういう事例を最初に書くと、人生を変えるような体験が待っているかと思うと気軽に行けなくなってしまうかもしれない。大丈夫である。広津和郎は有名な作家だった。有名でもなんでもない人が集会やデモに参加しても、それっきりで自分で考えないと後は何もない。ただ大学なんかで安易に参加すると、党派的、宗教的なセクトだったりすることもないとは言えない。また商業的な営業でしかなかったということもある。地方から大学に出てきてまだ友人もあまりないなんて時には、「さびしいあなたをねらう企み」も確かにある。そこは注意しておかないといけない。一番大事なことは、配ってるチラシは貰ってもいいけど、怪しい場合はスルーする技術、である。電話も同じ。

 「ライブ」になると他人との関係も生じるので、危ない場合もないわけではないということである。ただし、心配し過ぎると何もできないそれより大きな問題はお金である。何をするにせよ、カネがかかる。最低、交通費はかかる。じゃあ近所の公園まで散歩するのではダメか。それでいいんだけど、それは「ライブ体験」ではなくて、「プチ旅行」と考えたい。「旅のすすめ」はまた別に書くので、その時に。そこで「ライブ体験」という場合、通学・通勤定期がある場合は、それを利用して行けるところを見つけてみようということが基本。僕の場合、学生の時は上野で乗り換えていたので、動物園や博物館にはよく行った。落ち込んでいるときのおススメは、動物園の猿山と国立博物館の仏像コーナー。たまに仏像、ちゃんと見ると心慰められますよ。絶対おススメ。

 それよりなんで「生」を聞く意味があるのだろう。演劇はまあ見るなら生で見るのが普通だが、音楽なんかは普通はCDや携帯プレーヤーで聞く。またはテレビ、ラジオで聞く。洋の東西、歌手の名前は何百人と知ってるけど、生で聞いたことがある人はとても少ないはずである。それを生で聞くというのは、確かに貴重でファンならぜひ聞きたい。そう思う人は多いから、カネは高いしチケットは取れない。それに人気コンサートや演劇は事前にチケットを買っておくことが多いけど、当日の出来は保証されていない。映画なんかだと評判を聞いてから見に行くことができる。それなのになんで行くのか。いや、行かない人も多いわけだけど、僕は何回かは若いときに是非行くべきだと思う

 はっきり言って、その最大の理由は「自己満足体験」だと思う。たまには高い旅館、ホテルに泊まってみるとか、そういうことも大事なんではないか。読書だって、よく判らなくてもドストエフスキーとか挑戦してみた方がいいのと同じ。まずは「自己満足」を求めないと。だから話題のコンサートや演劇を、特にファンでもないけど有名だから高いお金を出しても行ってみようかなというノリも大事だろう。それが何になるかと思う人はやめた方がいいでもその分人生が貧しくならないか。確かに見て時間とカネの損だったと思う時もある。そういうことにこだわってるなら行かない方がいい。「人生にはムダ金が必要」ということを学ぶのも大事。

 それと「伝説を目撃する」ということ。何十年もかけた「人生への投資」である。僕の若い頃は「(古今亭)志ん生がどうこう」「(尾上菊五郎)六代目はどうこう」というような人が結構いた。僕が生で知ってるはずがない。誰かを見てるとそれだけで威張れる時代がそのうちくるのである。そう思って、売れるかもしれないアイドルに通えばいいけど、時の流れに中に消えてしまうかもしれない。わからない。若いときは好きなものしか見ない。僕も紅テントや黒テントは何度も見てるが、杉村春子も森繁久弥も生で見なかった。お金が高いとはいえ、見ようと思えば見れただろう。みんないつか亡くなるし、自分も年を取ると知ってはいたけど、実感がなかった。誰とは言わないが、今のうちに聞いておいた方がいい人は多い。

 外国人の場合は機会が限られているので、かえって見に行く気になりやすい。僕はカラヤンもカール・ベームも行った。行ったからと言って、もう忘れてしまったけど、まあ「聞いたという体験」に「自己満足」できるということだ。また、マザー・テレサの講演会も聞いた。そういう機会を逃さないことが重要だと思う。でもそういう「超大物」の場合は、クラシックでもポピュラーでも、あるいは講演会なんかでも「発見」はないことが多い。

 「生」を聞くことにすごく強い思い入れを持っていると、詰まらなかったり判らなかったりすると、ガッカリ度が高い。イチローも見に行ったけど、見たときに活躍するとは限らない。スポーツの場合はテレビの方が大きくて判りやすいかもしれない。そういうガッカリ体験も含めて、「ライブの面白さ」。何でも見たり聞いたりする好奇心が一番大事。ただ、演劇や落語は他に是非見て置いた方がいい理由がある。それは次回。
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「古典」を読もう-本を読むこと③

2012年10月04日 00時00分34秒 | 若い人へのメッセージ
 読書の勧め最終回。①②は前置きみたいなもので、本は楽しいとか役に立つ、若いときに読書の習慣をつけましょうという話。一番書きたいことは「古典」の話で、若いうちに「古典」を読んでおかなくてはいけない。ただし、「古典」の意味は時代とともに変わっていくし、今はやるべきことが多い。バイト、就活などで学生も忙しい。勉強にすぐ役立つ本や面白本は読んでもいいけど、すぐに意味がわからない「古典」は面倒だから読まなくてもいいか…。でも、若いときしか「古典」は読めない。本なんかいつでも読めると思うかもしれないが、通勤電車の中でドストエフスキーや旧約聖書を読むのは大変である。何か心に引っかかる出来事(仕事や育児・介護など)を抱えていたら、じっくり本を読めるものではない。定年後にゆっくり読もうかなどと思ってると、目が悪くなって読書意欲も薄れてしまったりする…。

 もちろん他人の下で命令されて生きていけばいいという人は「古典」を読む必要はない。でも自分なりに考えて仕事を作っていって、人間と接しながらリーダー的に働いて行きたいと思うなら、「古典」を読んでおくことは不可欠である。ただ仕事ができるだけでなく、なんだか奥に教養の深さが感じられる「人間力」を鍛えておくということである。氷山は水面上にある部分は少なくて、水面下の氷の方が何倍も大きい。人間の知識や感情も同じ。プロスポーツ選手が「見せない鍛錬」を積み重ねて初めて試合に臨めるように、「普通の人」でも人前で仕事する裏には多くの努力がある。知的な職業では、仕事にすぐ役立つ本ばかりではなく、今当たり前になっていることの始まりからきちんと知っておこうという姿勢が重要だ。(例えば、「民主主義」や「資本主義」の始まり。「第二次世界大戦」や「日本国憲法」の始まりなど。)

 以上は一般論である。では、何を読むべきか。そして読んで面白いのか、そもそも判るのか?いやあ、面白さが判らないのも、そもそも何だか全然判らないのも、たくさんあるのは事実である。だからじっくり準備がいる場合もあって、闇雲に読めばいいというものではない。「日本百名山」みたいな「世界百名著」があって、一つずつつぶしていけば賢くなれるということはない。例えば、近代を知るためにはヨーロッパ文明を知らないと。ヨーロッパを知るためには、ギリシャ文化とキリスト教。まずは、プラトン、アリストテレスと新旧聖書を読んでみよう…というような「さかのぼり」では「始まりから知る」とはいえ、難しくてすぐダウンするのは確実。気になるテーマがあったらまずは解説書や新書本を読んでみて、その本に出てくる(あるいは最後の参考書のところに出てくる)「古典」に挑戦してみるという方が絶対いい。

 今の話は哲学や宗教の話で、小説の場合はもう少し読みやすい。でも長くて大変な小説を突然読み始めても、投げ出してしまうのが落ちだ。読んでも読んでも面白くならない時はどうするか小説の場合は字だけ追って行って、ガマンして読み切る。でも哲学とか思想の本は仕方ないからギブアップする。そして面白エンタメ本で口直しする。でも判らないといっても、解説があれば判ったり、年齢が上がれば判ったりすることもある。一冊読んで判らなかったくらいで、決めつけるようなことは言わない方がいい。

 ところで「古典」とは何か?その分野で高く評価され、長い時間を経て認められていったものが「古典」である。時間の流れは早いから、ある意味では1980年代頃のものも「一種の古典」になっている。これは周囲の大人が大体知ってるので、若い人も知っておいた方がいいという意味。昔は文庫に多数入っていたけど、今はもうほとんどないという作家もいる。石坂洋次郎とか石川達三なんかだけど、「古典」にはなれなかったわけである。でもまた再評価される時が絶対ないとは言えない。またたくさん映画化されていることもあり、「戦後という時代を考える材料」という意味では間違いなく「一種の古典」である。こうして「古典」の意味はどんどん広がっていく

 それは音楽を考えてみれば判る。「古典」とは本来「クラシック」のことであるが、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンが「古典」かというと、今では「現代音楽」と言われたジョン・ケージなんかも「古典」。ジャズも「古典」と認められるようになり、ロックも今や「古典」だろう。ビートルズの「サージェント・ペッパー…」やビーチ・ボーイズの「ペット・サウンズ」なんかは言うまでもなく、僕が当時同世代で聞いていたレッド・ツェッペリンやジャニス・ジョップリンなんかを知らないと、現代世界は考えられない。それどころか、フランスには「シャンソン」、イタリアには「カンツォーネ」があるくらいは知ってたけど、ブラジルでもジャマイカでも、アフリカ、西アジア、東南アジア…世界中で「古典」があるのだった。本の世界でも同様で、「純文学」だけではなく「大衆文学」も「古典」と認められ、マンガも「古典」になっている。これでは到底全部読むわけにはいかない。

 そういうことで「古典」は全部は読めない。読む必要もない。世の中には面白いことも多いし、実際に体験しないと判らないことも多いのに、何百年も前に書かれた本ばかり読んでるわけにはいかない。それでも「古典を読んでおいた方がいい」ということを知ってることが大切だと思う。そして「古典」は時代とともに変わる。親や教師が勧める本はもう古いことも多い。今の自分の興味関心に沿った「自分だけの古典」を見つけていくことも大事である。(私小説作家の西村賢太が「発見」した藤澤清造などという昔の作家がその例である。)今では「古典」となっているけど、同時代的には全然認められなかったスタンダールや宮沢賢治みたいな人もいる。どこで「自分の古典」が見つかるか、判らないと思う

 その上で、あえて必読とお勧めを挙げると
①「日本社会で生きて行く」という前提のうえで、日本の古典のいくつかは「必読」だと思う。
 源氏物語(現代語訳でいい)、平家物語(これは原文でも読める)、枕草子方丈記徒然草おくのほそ道
 大体このあたりか。万葉集や古事記もそうなのかも。西鶴や近松はまあ「全員必読」とは言えないだろう。そうだったら教科書や大学試験にもっと出てる。今挙げたあたりは、日本人の感情の骨格を作ってきたし、今でもたとえ話などに使われる。知ってることが前提になっている場合も多い。ただ「源氏」は長くて、問題意識がないと単なる貴公子の恋愛ものにしか見えないことがある。何かいい解説本を併読した方がいい。レディ・ムラサキはフロイトを読んでいたのか、フェミニストと言えるのかみたいな読み方をできる本で、とても千年前の本とは思えない。でも紛れもなく日本の平安時代の現実が踏まえられている。

ドストエフスキーの何か長いの一冊は。シェークスピアもどれか何冊かは。これは本格的に読むとすごく面白いと同時に、全然読んだ経験がないと語れない世界がある。「戦争と平和」や「失われた時を求めて」は「いやあ、長いからまだ読んでないんです」で通ると思うけど、ドストエフスキーを読むというのは単なる「読書好き」というのではなく、「思想的な問題を若いときに考えました」体験とも言えるので。

宗教的な本は難しい。教典ははっきり言って読みにくいので、無理して読まなくてもいいと思う。聖書やコーランを読むより、いい解説書を読めばいいと思う。信者なら別だけど。でも日本の葬式でよく使われるし、常識という意味で短い「般若心経」は読んでおいた方がいい。「歎異抄」(たんにしょう)も一種の「悩める青年の友」なので、必読に近い。でもここにある親鸞像は魅力的すぎて危険でもある。思想書としては読んでもいい。

④本格的な本は難しいけど、自伝なら読みやすい。「文明論之概略」でなくても「福翁自伝」を読めば福沢諭吉をかなり理解できる。(これは新聞記者の聞き書きだけど。)だから、思想家なんかはまず自伝や伝記を読んでみるというのもいいと思う。

⑤僕が好きな本。僕も読んでない本が多いけど。面白いもので言えば、スタンダールの「赤と黒」「パルムの僧院」。これはすごく面白いです。メルヴィルの「白鯨」もちゃんと読んだ人は少ないのではないかと思うけど、常識を超えた迫力だし、すごい本だと思う。最近の本ではガブリエル・ガルシア=マルケスの「百年の孤独」。これはすごい小説ですね。僕は小説に偏っているので、思想関係では挙げることができない。日本の近代小説では島崎藤村「夜明け前」。これも長くて最後まで読んだ人は少ないと思うけど、すごい歴史小説である。戦後文学では挙げることもないだろう。まだ文庫本で手に入る本が、つまり読み継がれてきた本と言っていい。
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本を読むこと②-「エンタメ本」の勧め

2012年10月03日 00時53分57秒 | 若い人へのメッセージ
 「若い人向け」なんて明示してしまったからか、かえって全然読まれていない感じもするけど、とりあえず読書のすすめを書いてしまう。(続いて、映画、生を見ること、旅行なども続ける予定。)

 前回書いたように、僕は「本の最大の存在理由」は「知識の伝達」だと思ってる。でも、確かに知識を得るためだけだったら、読書はつまらなくなるだろう。前にいじめ問題で書いたように、「人間は楽しいことしか続かない」ので、「読書は楽しい」という経験を積んでないと、読書は続かない。他の人や次の世代に続けていくこともできない。だから僕は今まで生徒向けに「読書の勧め」を作ったこともある。(松江二中と六本木高校。)だけど、僕は娯楽という意味では、音楽鑑賞やテニスや手芸やガーデニングなんかと読書は等価だと思う。この4つはこの前書いた時にたまたま思いついただけで、僕の趣味でもなんでもないけど、自分が好きで他人に迷惑でない趣味なら、みな同じように意味があるもんだと思う。

 その中で読書はこれからも特権的な位置を占めることができるだろうか。僕の小さい頃は、映画を家で(ビデオやDVDで)見られるなんて、ありえない夢でしかなかった。音楽も高いレコードを買うしかなく、簡単にダウンロードしたり、持ち歩いて聞くということは考えられなかった。LPレコード(大きいレコード)は、まあお年玉を貰ったら年一回買えるもの、毎月のお小遣いではシングルレコード(ヒット曲が表裏に入ってる小さいレコード)を一枚買えるかどうか。そんな状況でどうやって音楽を聞いてたかというと、ラジオを聞いてせっせとリクエスト葉書を書いていたわけである。そんな時代では、どうしたって「本」の位置が今より大きいわけである。パソコン、ゲームなどが発達した現在とは全く違う。じゃあ、今では楽しみとしての読書は意味が少ないのか。どうもそうでもなさそうである。映像やインターネットが発達すると、本はいらなくなるようなことを言ってた人もいたけど、映画やテレビ、ゲームなんかの「元ネタ」、原作は本であることが多い。やはり、本があって、その二次利用があるということが今でも多い。(その逆もかなりあるけど。)言語による創造が先にあって、それを実体化(このドラマを映像で見てみたい、この本の中の風景を映像で見たい…)してみたいと思うことが今でも多いように思っている。

 さて、僕は「楽しみとしての読書」は3つのレベルに分けて考えている。①子供向け②男のたしなみ③ミステリー、である。「楽しみとしての読書」は、自分で得意の分野を作ってそれを深く掘っていくということが多い。鉄道ファンが全線乗車とか駅弁制覇を考えるように、ミステリが好きなら、アガサ・クリスティを全部読むとか、何か目標を作るわけである。趣味の世界なんだから、どうしてもそうなる。それがうっとうしいと思うと、趣味としては深くならないけど、でも本の世界が自分を支えてくれることは多い。面白本の見つけ方を心得ていると人生が豊かになるのは間違いない。

 ①「子供向け」というのは、絵本、児童文学や岩波ジュニア新書など、若い人向けの本。少し大人になって大学で専門勉強を始めたりすると、専門論文やらマルクス、ウェーバー、フロイトなどに無鉄砲に挑戦してしまい、「読書の楽しみ」を忘れてしまうことがある。でも、みんな親や学校に与えられた子供向けの本が読書の始まりだったはずである。男でも女でも、仕事や育児が忙しい時期は読書の時間がない。ないのは仕方ないけど、それでは自分の心が乾いてしまうと思う人もいる。そういう時は、児童文学がいい。とにかく絶対に判りやすい。スラスラ読める。「前衛的児童文学」なんてあるんだろうか。子どもが理解できなければ意味がないから、少なくとも難解な本はまずない。それと大事なことは、「自分の中の子どもの部分」を時々思い出してみる大切さである。

 もちろん今や児童文学のジャンルに入る本でも「古典」として皆が読んでいる本も多い。トールキン、C・S・ルイス、ル・グィンなんかの、つまり「指輪物語」「ナルニア国物語」「ゲド戦記」など。ミヒャエル・エンデの「モモ」「はてしない物語」なんかも必読ですよね。大体岩波少年文庫にあるので、児童文学のコーナーを見ることが大事。ケストナーの「飛ぶ教室」、サン・テグジュペリの「星の王子様」などは、第二次世界大戦前に大人向けの作家が書いた子供向けの作品。そこからサン・テグジュペリの「夜間飛行」「人間の土地」なんかに進んで行くといいと思う。日本でも、梨木香歩「西の魔女が死んだ」など現代の児童文学の中に「多くの人に勇気を与える」作品がたくさんある。最近は「ヤング・アダルト」というジャンルができていて、若い人は漱石、鴎外なんかはいいから、そういうのをまず読まないと。僕のお勧めは、森絵都「永遠の出口」佐川光晴「おれのおばさん」「おれの青空」である。それと僕の若い頃は非常に大きな影響力を持った、灰谷健次郎「兎の眼」「太陽の子」などは今の若い人が読むとどうなんだろうか。絵本も含めて、僕は若い頃は子ども時代に近いわけだし、日本や世界、社会や人間を理解するのに絶対役立つから、子供向けの本を心がけて読んで、次の世代に伝えていくべきだと思う。

 ②「男のたしなみ」としての読書。変な言い方だけど、司馬遼太郎や池波正太郎を読んで、池波さんの好きだったお店を知ってるというようなことである。これは30代を超えるころから、ゴルフや英会話なんかより大きな意味を持つかもしれない。何しろ企業のトップには歴史小説、時代小説や企業小説なんかが大好きな人が多い。これをバカにして読んでないと、話についていけない。でも司馬遼太郎しか読んでないと、頭が「司馬史観」で塗り込められてしまい、想像力がかえってしぼむ人がいる。素晴らしく面白い青春小説である「竜馬がいく」も、もう半世紀前の作品で、「高度成長時代の日本の精神史」の材料であって、明治維新の研究はもっと進んでいる。一番まずいのは、知らず知らず「下級武士史観」になってしまい、「脱藩志士」を気取るのはいいけど、農民や商工民、被差別民衆を忘れてしまう人が多いことだ。僕は藤沢周平をきちんと読むことを絶対条件として勧めたい。それと「企業小説」「経済小説」。今はそういう分野の小説がすごく多い。そして面白いのである。多くの小説では、男は大恋愛したり不倫したりしてるけど、実際は時間のほとんどは嫌でも仕事してるわけで、その仕事が小説に出てこない。そういう不満にこたえる経済小説の分野があって、これが読むとすごく面白いのである。まあ、不平たらたら、リストラされそうな主人公ではないけど。でもバリバリ仕事してたら、罠に落ちて左遷、会社の危機に立ち上がり…みたいな話は面白いし、社会勉強にもなる。僕は進路研究としても、高校や大学で使える企業小説、業界小説の登場を待ち望んでいる。大人の娯楽読書は、この分野が落とせない。若いときも業界研究の意味で、様々な小説を地域の図書館で探してみるといい。(学校の図書館にはほとんどないはずである。)

 ③ミステリー。若いときはSFも読んだけど、今は自分の娯楽本はほとんどこれ。それは今まで読んできたから、その分野の本は読みたい。でも宮部みゆきさんの新作とか、みな日本ミステリーは長くなり過ぎ。枕にしても高い、みたいなのはどうなのか。こういうのは「ジャンル小説」というわけだが、好きなジャンルを読めば、それなりに役立つ。ミステリーを読んでると、「全然犯人じゃないと思ってたら犯人だった」「全然犯人じゃないと思わせるように書いてるから、本当は犯人なんじゃないか」「全然犯人じゃないように書いてるから、犯人の可能性もないわけではないけど、たぶんこの書き方では犯人じゃないだろう」とか、いろいろ読んでるうちに「深読み技術」が発達してくる。これが学校のいじめ事件の真相を探るとか、会社の派閥抗争の行く末を占うとか、そんなときに自然に役立つのである。

 ミステリーも長くなって、有名なものは「古典」である。ダシール・ハメットの「マルタの鷹」(最近新訳あり)やチャンドラーの「ロング・グッドバイ」など。アガサ・クリスティの「アクロイド殺し」「そして誰もいなくなった」などは、有名なトリックなので一度読んでおいた方がいい。実際敵だ敵だと思ってたドイツとソ連が手を結んだり、アメリカが中国に密使を派遣(1971年のキッシンジャー)したりすることが現実にある。世界はミステリーなので、ミステリー的世界観もある程度は有効である。(行き過ぎると、すべては誰かの陰謀だという思い込みになりやすいが。)僕の最近の超おススメは、スウェーデンの「ミレニアム」シリーズである。(ハヤカワ文庫で全6冊)。これはスウェーデンとアメリカで映画になった。(アメリカ映画はまだ第一作しか公開されてないけど。)この映画と見比べると、小説というのは情報量がいかに多いかがよく判る。本は第1部から第3部まで、それぞれ上下2冊ずつ。これは2時間では読めません。でもそれを映画では2時間でやってる。どこを削るか。設定を変えているところも。しかし、そういう小説の面白さの面ばかりでなく、スウェーデン社会の暗部の勇敢に挑戦していく自由な魂が感動的なのである。日本のミステリーも世界的に優れたものを生み出している。読んでる人も多いと思うけど、人名が覚えにくい外国ミステリーを敬遠する人は多いだろう。でも絶対面白いから挑戦を。ジェフリー・ディーヴァーの本なんて、厚くて嫌になるけど、読み始めたら止められない面白さ。日本のお勧めもあるけど、それは自分で探せばいい。これらは好きで読んでるので、別に読まなくてもいいとは思う。でも「ミレニアム」なんかは、マジメ本やテレビ、ゲーム、コミックなんかではまず得られない深い読後感が残ると僕は思う。
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本を読むこと①-新書を読もう

2012年10月01日 00時29分34秒 | 若い人へのメッセージ
 さて昨日は自分で「孤独」を実践して、ブログもFacebookも投稿せず、本を読んでました。北山修+橋本雅之『日本人の〈原罪〉』(講談社現代新書)が重要なことを言ってるのに難しくて、何日もかかってしまいました。それを思うと山本博文『信長の血統』(文春新書)はどんどん読み進めて、やはり歴史の本は読みやすいなあと思ったですね。

 というように僕は新書本をよく読んでます。読書の話は①新書②エンタメ本③古典という3段階で進めます。まずは新書から。ここでいう「新書」は、新書だけでなく、入手しやすい入門書的な本という意味で、文庫にも新書的なものはたくさんあります。単行本にも。でも大体新書、文庫は1000円しないので、若いときでも本屋で買いやすい。そういう意味でまず、新書。(新書というのは、縦長の形で、主に学者や評論家が書き下ろした、政治や経済、歴史、心理学、社会学…なんかのテーマで判りやすく書いた本ですね。理科的なテーマもあるけど、ハウツー的な本(ゴルフ上達法とかカレーの隠し味など)は少なく、もっと一般的なテーマで書かれたものが多いのが特徴です。)

 勘違いしないでほしいのですが、履歴書に趣味を書くときに「読書」と書く、そういう意味での読書の勧めではありません。趣味だったら、音楽鑑賞でもテニスでも手芸でもガーデニングでも、何でも好きなことをすればいいわけです。読書はいいことだとされているので、表立って否定する人はいません。人は少しは本を読むから履歴書にも書きやすい。娯楽で読んだ本もいいし、深く感動した小説でもいい。「読書が趣味」という人はだから多いわけです。別にそれでいいけど、深く感動するという意味では、音楽や美術、あるいは実人生で成し遂げた成功(部活で優勝するとか、文化祭の出し物が大成功するとか、思い切って告白したらOKしてもらえたとか…)の方が大きいでしょう。本だけ読んでるなら、それも良くない。でも、僕が言いたいのは、レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロをいくら見てても、本物を外国まで見に行っても、感動はするだろうけど、「ルネサンスとは人類文明にとって何だったか」は判らないということです。人類の文化は長く複雑になってるから、本を読まないとその意味がよく判らないのです。 

 「人間は知識だけではない」という人がいますけど、それは確かでお酒を楽しく飲めてカラオケが上手な方がいい、ということはあります。でも、それは「知識はある」ことが前提です。「今の若者」への仕事での年長者の不満は、「こんなことも知らないのか」であることが多く、コミュニケーション能力以前に知識がないから使えない、ということが実はたくさんあります。若いときに、クイズではない、もっと深い知識を幅広く見に付けるには…。一番いいのは新書本をたくさん読むことでしょう。自分の話をすれば、高校の宿題では「新書を読む」ということがよく出ました。生物の宿題で「血液型の話」(古畑種基)を読み、血液型はABO型だけではなく、複雑で実に面白い世界だと知ることが出来ました。もっとも後に冤罪問題にかかわると、古畑氏の本には問題が多かったことを知りましたが。(再審無罪になった「弘前大教授夫人殺人事件」が「血液型で解決した事件」として取り上げられていて、この本は再審後に絶版となりました。)

 仕事を一生懸命にやろうとしている人にとって、「読書は義務」です。仕事は辞めて家事・育児に専念している「主婦」だといっても、ネットでレシピを探したり、育児の悩みを相談するのもいいけど、本屋に行けばもっと簡単で判りやすい本はいっぱい出てます。(小林カツ代さんの「超簡単」で美味しい野菜料理の本を買いましょう。)大学で勉強したり、資格を取って仕事に就く。でも「現場」は思ってたのとは違います。どんな仕事でも必ずそうでしょう。先輩に聞く、先輩の技を盗むというのも大事だけど、それよりも「本を探してみる」というのが即効性があります。大体普通の人が悩む程度の疑問は、誰かがもう経験して本に書いています。誰も書いてないオリジナルな疑問を感じていたら、もうそれだけですごい。けど、そういうことはよほど細かい話でない限り、ないと思います。そしてそういう疑問を解決するということは、何も学問的に深い解決が欲しいわけではなく、ちょっとした知識、ちょっとしたヒントが得られればいいのです。それでずいぶん安心できます。

 だから、僕はマジメに仕事をしようと思う人は、どんな人でも「本探し」を心がけていないといけないと思います。「本探し」というのは、新書、文庫を含めて本はいっぱい出てて、読みたいときに手に入らない、ネットで探してもどれだか判らない、図書館行ってもピンとこないということが多いのです。でも、なんだかいつか本屋で見たような…。だから、何となく気になる本が本屋にあったら、高い本は買えないけど、文庫、新書なら買えないこともないから買っておく方がいいです。自分の場合は、歴史が専門ですが学校に勤め始めたころは地理を担当することが多く、世界の各地域を学ぶために新書本をたくさん読みました。この場合、深く知ることが目的ではなく、世界各地のエピソードを授業で使いたいというような目的なので、新書などが最適だったわけです。

 さて、新書を実際に選んでみると…。大型書店に行くとあまりにもたくさんの新書が並んでいてどれも興味深いから、逆にまあどれも読まなくていいかという感じです。元々は戦前に岩波新書が創刊され、戦後になって中公新書講談社現代新書が創刊されました。だからこの3社の新書には、長いこと読み継がれてきた名著がたくさんあります。そういう新書では、各学問の大学者が判りやすく書いた本、若手の研究者が最初に一般向けに力を入れて書いた本などが主流となります。だから今ではちょっと難しいと思う本も多いかもしれません。後発の新書ではもっと判りやすく書かれた新書もたくさんあります。でも、そうなると少し薄手で、中身も確かなのかなと思うような新書もある気がします。でも、どんなことでも「身銭を切って学ぶ」ことが大事なのだと思います。飲食代を考えれば、新書本など安いものです。買っても読んだらすぐにブック・オフ行きになる新書も多いと思いますが、まあそうやって自分に役立つ本の選び方を学んで行くのがいいでしょう。

 例を挙げてみれば、9月の岩波新書新刊は、「勝てないアメリカ」「百年前の日本語」「構造災」「川と国土の危機」です。一方幻冬舎新書の近刊には「病的に自分が好きな人」「仕事ができる人はなぜワインにはまるのか」「介護ヘルパーは見た」「オタクの息子に悩んでいます」「AKB48白熱論争」「発達障害と呼ばないで」「ゆるす力」「ルポ ゴミ屋敷に棲む人々」「職業としてのAV女優」「コミュニケーションは、要らない」…などの本が並んでいます。大分違いますね。専門性を必要としないなら、幻冬舎新書の方に興味深い本が多いという人の方が多いでしょう。その他、本当にいろいろな新書が出ているので、見ているだけで楽しくなります。つまり、岩波を見ればアメリカや災害を深く知るべきだということがわかります。幻冬舎を見れば、心理学的な本が多いように思い、それが今を考えるヒントになるでしょう。多くの人の悩みや関心のありかを知ることができます。しかし、本当に「仕事ができる人はワインにはまる」んでしょうかね。こういう「断言型ネーミング」も本を目立たせる工夫ですね。こういう本を読んでると「話題が豊富」になれますが、逆に「いい加減な話を大げさに言っている」という風に思われるかもしれませんが。

 そして新書で有名になった著者がその後どんどん活躍していくことも多いので、長い目で読んで行くということが大切です。ちょっと難しい新書でも、挑戦してみることが大事。そして大事なことは、自分の専門そのものではない分野の新書も読むこと。せっかく判りやすい本が出ているんだから、読まないのは損です。

 最後に、具体的なアドバイス
一月一度は大きな書店に行って、新書のコーナーを見る。(買わなくても、どんなテーマの本が並んでいるかを見ると、世の中の傾向を感じることができます。)
新聞の書評欄、本の広告を見て、文庫、新書をチェックする。
新書は2冊(以上)買う。1冊は自分が読みたい、あるいは仕事に役立ちそう、あるいは自分の専門に関係していて読んでおいた方がいい本。でもそれだけではなく、その時に、自分の専門外で、すぐ仕事に役立ったりはしないだろうけど、なんだか面白そうな本をもう1冊買う。文系の人なら理系の本、あるいは「AKB48白熱論争」を買う時に、政治や経済の本も買う。そうして自分の知的な引き出しを増やしていく。それが大事だと思います。
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「孤独」の大切さ-若き人へ①

2012年09月28日 23時51分15秒 | 若い人へのメッセージ
 いろいろ個別の話を書くのも大事だけど、僕の場合卒業生など若い人で読んでくれている人がいるので、そういう人へ。個別の本や映画の話の前に、「本を読むこと」「映画を見ること」の意味を書いておきたくなった。僕の昔の卒業生は仕事や育児で忙しいようだ。割と最近の卒業生は、大学生になってるけど、早くも卒業に近づいている。学生の間に読んでほしいことを書いておきたいと思ったのである。主に、文科系の大学にいて、福祉、教育、社会的活動などに関心がある人。歴史、社会学、心理学、国際情報、比較文化、宗教学なんかを専攻してる…などと言う人をとりあえず想定して…。でも、老若男女に関係あるし、特に「若い教師」にも読んで欲しい。

 しかし、最初は読書の勧めではなく、「孤独」について。今の若い人を見てると、本当に大変だなあと思うことが多い。いろいろ社会が整備されシステム化されていく。悪いとはなかなか言えないけど、そうなるとシステムにそって生きて行かないとうまくいかない。大学3年から「就活」になる。何だ、それ。卒論書きあげる前に、大学院の試験である。仕事を見つけたら、今度は「婚活」しないと結婚もできなくなってきたらしい。中学の段階から、将来何になるかかなり具体的に考えさせられる。高校になると「進路活動」が本格化する。学力不足だ、授業を増やせとあれだけキャンペーンされて、学校の授業が増えているけど、それなら大学なんか試験オンリーで取ればいいではないか。でも少子化の中、半分くらいは「広い意味での推薦」である。生徒は学力とともに、人間力なんて言われて、「自己プレゼン」なんてものを求められる。大体、高校生の頃なんか、そんなに将来何かなりたいなんて思ってたか。大人が振り返れば、「人生は縁と成り行き」。一番大切なものは「運と健康」ではないか。

 それもあるけど、やっぱり「携帯電話」と「インターネット」である。携帯電話というものは確かにうらやましい。1996年頃から使う人が増えてきた。95年に高校生の就職指導をしてた時は、生徒の個人的呼び出しは「ポケベル」だった。そんなもん、知らないか。僕は97年にハンセン病関係の集会をやるときに持ち始めた。今は時計代わり。携帯電話がなかった頃は、家に電話するしかなかった。下宿してる女子大生に連絡しようと思ったら、9時まで大家さんが取り次いでくれた。9時だと捕まらないことも多かった。女性の家に電話すると、時々は親が出た。何時間も待ちぼうけだった時もあるし、個人どうしで直接連絡できる「ケータイ」は確かにうらやましい。でも、これができたために、いつでも捕まえることができる社会になってしまった。もちろん切ってればいいんだけど、営業のサラリーマンが切るわけにもいかない。若い人も切ることができない。大人がいても平気で携帯を確認する人もいる。それでも切ってる人や話の間は見ない人の方が多いだろうと思う。でも、常に気にしている。

 テレビで毎日百人くらいからメールが来て、すぐ返さないと大変という中学生が出ていた。食事の間もケータイ見てる。これでは「ケータイ依存症」である。ケータイは人間を自由にするものではなく、かえって束縛を強めている。さらに、i Pad、スマートフォンなどもできて、いつでもインターネットができる。だからメールチェックばかりしてる人がいる。電車で本を読んでる人がめっきり減って、ゲームかメール。こうしてると、「常にだれかとつながってる」。いいことのように思うけど、「いつでも現在」で、「常在戦場」である。実際就活では、一瞬で説明会の人数が埋まってしまい、常にチェックしないといけないという場合もあるという。時間が途切れない。今までなら、「今日」という日、授業や仕事があったその日が終わると、家族と自分だけの時間があって、次の日までは「ひとり」(または家族)だった。今日という日が明日になるまでの過程があり、そして今日は過去になり、未来が始まる。でも、深夜まで友人からメールが来ると、「いつでも現在」である。いいですよね、昔はそれが夢だった。でも、思うんだけど、これでは「孤独」がなくなってしまうんではないか

 僕は「孤独」というものは、人生でとても大切なものだと思う。先生も親も、子供が独りぼっちだと困るから、そういうことはなかなか言わない。言わないというより、「孤独が要らない人」もいるのかもしれない。いつでも人の輪の中にいて苦にならないような人もいるみたいだから。でもほとんどの人は、人ごみの中にばかりいたら、他の人間に自家中毒してしまい、ひとりになる時間が欲しくなるはずだ。これはとても大事なことで、これを判ってないと、「友達がいない」ということが過大な意味を持ってしまい、すごく悲しくなってしまうだろう。ここで友達というのは、「クラスで一緒に行動するメンバー」程度の意味である。でも、本当はそれは友達ではない。本当の友達だったら、返信が遅れたくらいで関係が悪化するわけはないから、そういう関係は友達とは言えない。「桐島、部活やめるってよ」の映画で、付き合ってる彼氏のことを彼に止められて友達にも言えないという女の子が出てきた。一番大事なことを相談できないなんて、友人と言えるのか。そういう意味で言うと、友達の定義にもよるけど、本当の友達というのは人生で10人もいない、ひとケタの存在ではないかと思う。

 僕が「孤独」という言葉で表現してるのは、むしろ「自己客観化」「内省」「瞑想」の重要性という方がいいのかもしれない。でも、パーティ、同窓会、カラオケ、コンパなんかでも、盛り上がるときもあるけど、ふっと覚めているときもある方が普通だろう。初めから自分を閉ざすつもりではなく(そうだったら参加しない)、誰かと話すことを求めて参加するのだが、そしてそれを楽しんだけど、ちょっと引いてる状態も自分で意識して楽しめる、みたいな。それは僕の言葉では、「孤独を大切にする時間」というのが合っているような気がする。

 若いときは、「自分が何者でもない時間」だから、むしろ「孤独」の方がベースで、「誰か本当に自分を判ってくれる彼(彼女)」を求めている。だから早く孤独じゃなくなりたいと思ってるかもしれない。でも、仕事が多忙になり、結婚し子どもが生まれ親が倒れ、人生を多忙で過ごしているときも、そういう時こそ「孤独」が大切になる。そこから間違った道を選択してしまう人もいる。「孤独とうまく付き合う」ことを学んでいなかったのである。言っておくけど、人生が長くなるといつのまにか解決してしまう問題もあるけれど、本質の部分は何も変わらないのである。

 こういう問題は人間存在の本質に由来していると思う。人間は親がいなければ生まれないし、誰かが育ててくれないと大きくなれない。「家族」や「社会」があってこそ生きていられるので、本質的に「絆」を求めている。しかし、人間一人ひとりは常に一人で生まれ、生き、死んでいく。生まれたときは知らないけど、必ず一人で死んで行かなくてはいけない。本質的に独りぼっちである。「絆」と「孤独」の両方を生きるのである。ところが最近は「絆の大切さ」「家族や友人は大切だ」ということが言われ過ぎるのではないか。「友達がいない」というのは、「社会から外れている」ということではない。コンビニを使ったことがある人は、コンビニという業態を成立させている社会関係を利用したわけである。一人で住んでコンビニで何も話さずに食べ物を買ったとしても、それは「社会の中で生きている」ということだ。友達は学校でだけできるものではない。中学、高校、大学…ではないところで作った関係の方がずっと役立つことも方が多いだろう。

 で、本当に忙しくて追いまくられる、心労が絶えない日々も人生にはある。そういう時に頼れるのは、友達でもあるけれど、もう一つ「孤独な時間に培った自分という存在」の確かさがある。だから、本を読む、音楽を聴く、ひとり旅をする、動植物と向き合う、座禅をする、瞑想をする、ジョギングをする、なんでもいいけど若いときに自分なりの「ひとりで自分と向き合う自分なりの方法」をカラダで覚えておくことが必要だ。

 パソコンもケータイも切って、テレビも見ず、何かゆっくり考えるという時を持つ。たまには必要。これを自覚的にやらないと、「中毒」しかねない。そして、常にだれかといないと不安だし、友達がいないと思われると嫌だなんて思ってたら、それは大間違い。たまには「きょうはちょっと一人になりたいかな」と言えるような関係でないなら、友人ではない。そして、付き合ってる間柄でも、それは言ってもいいことである。これが困った問題で、つい悪いと思ってお互い言い出せないままに、関係そのものがまずくなることもある。たまに「ひとりであること」をお互いに作らないと人間関係はかえってうまく行かない。まあ、結婚すればいやでも判ることだけど。カップルであることの素晴らしさは、このひとりであることを自覚した場合の方が増すだろうと思う。まず、「孤独」を自覚的に作る必要性「ひとりになりたい」と言える成熟した関係を作れるようになるために
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