尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

森政捻『戦後「社会科学」の思想』を読む

2020年10月31日 22時54分28秒 | 〃 (さまざまな本)
 NHKブックスから出た森政捻(まさとし)著『戦後「社会科学」の思想』を読んだので、よく判らないところが多いながらも感想を書いておきたい。3月に出たが好評だったようで、僕が買ったのは6月に出た第2刷である。小説ばかり読んでるので、ちょっとメンドー感じがして放っておいた。戦後の「教養」の歴史を読んだから、ついでにこの機会に読もうと思ったのである。これは誰もが読むべき本じゃないが、丸山真男鶴見俊輔などを読んできた人には、興味深いと思う。

 森政捻氏は東京大学大学院総合文化研究科国際社会科学専攻教授と出ている。最近は大学のセンセイの肩書きが長くて困る。専攻は政治・社会思想史。この本は東大教養学部の「相関社会科学基礎論Ⅰ」という学部2年次後半から4年次までの入門的な授業のノートが元になっているという。東大の授業だから難しいとも言えるが、入門だから大丈夫とも言える。岩波新書の「日本の思想」(丸山真男)は昔は教科書に載っていたものだが、今では難しく読めないという人がいるらしい。その意味ではこれも難しい本になるかもしれない。

 ここで「社会科学」と言っているのは、経済学政治学法学社会学などだが、そういう個別学問を超えて「戦後日本をいかに分析し、未来を構想するか」といった問題関心を共有した「戦後思想史」を意味している。「人文科学」という概念もあって、今問題の「日本学術会議」では第1部が「人文・社会科学」となっている。人文科学は、歴史学地理学哲学宗教学言語学教育学なんかを指すことが多い。だから、この本では「戦後歴史学」は全く出て来ない。唯物史観民衆史「アナール」派「近代化論」などが触れられないのは残念だ。
 
 目次に沿って紹介すると、Ⅰ部が『「戦後」からの出発』と題され、第1章『「戦後」の意味と現代性』では「現代」の意味や「戦後」について考える。第2章が『丸山真男とその時代』、第3章が『日本のマルクス主義の特徴と市民社会論』。第4章の『ヨーロッパの「戦後」』で実存主義やフランクフルト学派が取り上げられる。その後に「補論」として『鶴見俊輔と「転向」研究』が置かれている。このように、丸山真男(あるいは大塚久雄)、日本のマルクス主義(「講座派」の独自性)、そして「思想の科学」のプラグマティズムという取り上げ方は、戦後思想史の「常識」に沿っている。
(丸山真男)
 丸山真男の政治思想史が細かく検討されるが、今となっては研究が進んでヨーロッパや日本に関する丸山のとらえ方には問題もあるんだという。しかし、戦後になされた「日本ファシズム」の解明は今も重大な意味を持っている。後に多数なされた丸山批判も過不足なくまとめられていると思った。旧軍隊の内務班における「抑圧委譲」というとらえ方は、今も非常に有効だと示される。21世紀になって、丸山や大塚が想定していた「ヨーロッパ」も大きく変貌したが、「近代」の概念は決して安易に「超克」してはいけない重みを増していると僕は思っている。
(鶴見俊輔)
 それに続いて、アダム・スミスマルクスマックス・ウェーバーの受け取り方が検討され、またサルトルなどの実存主義にも触れられる。今となっては判りにくいとしても、マルクス主義やサルトルなどが切実に受け止められた事情が理解出来ないと「戦後」は意味不明となる。そして「現在地」の理解もおかしくなる。「転向」という概念も同様で、「共産主義から日本主義への屈服」として非難や屈辱の的だった「転向」概念をプラグマティックに再検討した鶴見俊輔らの研究は「共同研究」という方法とともに重要な意味を持った。

 続いて「Ⅱ部」の『大衆社会の到来」では、第5章『大衆社会論の特徴とその「二つの顔」』で、エーリッヒ・フロムリースマンハンナ・アレントなどが検討される。そして安保闘争後に登場した松下圭一の大衆社会論が扱われる。「補論」として「大衆社会期論のいくつかの政治的概念について」として「多元的社会」や「エリート論」を扱う。ここまでは昔はよく雑誌などに「戦後思想の必読書」などと特集されていて、それで知ったものが多い。今はそういうものがないので、概観の紹介書が求められているのだろう。

 さて、問題はその後の1970年以後で、「Ⅲ部」が『ニューレフトの時代』で第6章『奇妙な革命』、第7章が『知の革新とある。ニューレフトを「新左翼」とすると、日本では党派間の内ゲバやテロの印象が強くなる。しかし、マルクス主義の権威が「大衆社会の登場」や「ソ連や中国の実態」から墜落していった後で、あらゆる権威に疑問を突きつけた思想としては、今もなお渦中にあると言っていい。フェミニズムやセクシャル・マイノリティの問題もその時代から発している。マルクーゼ真木悠介(見田宗介)らの見解を振り返ったり、マルクスの読み直しなど刺激になる見解が多い。
 
 そして、その後「先進国」では「高度成長」が終わり、多くの国で新保守主義、新自由主義が登場した。「Ⅳ部」が『新保守主義的・新自由主義的転回』が第8章『新保守主義の諸相』、第9章『新自由主義と統治性の問題』となる。この箇所は興味深いんだけど、外国の理論家の紹介が多く、僕には今一つ理解出来なかった。若い世代には読書の手引きとして役立つだろう。この時代はまさに現代そのものなので、なかなか見取り図を描きにくいということもある。それに日本の現状を取り上げて論じる「保守思想家」が少ない。日本では「思想なき社会」になってしまって、「保守派」も保守思想を主張するより情緒的な復古論をつぶやく人が多い。

 そんな時代に現代思想史を書くのは大変だったろうと思う。個人的に言えば、欧米の思想家の言説検討は役立つけれど、日本のアジア主義的な系譜、アジアへの関心や連帯運動が薄いと思う。名前は出ているが、僕は丸山真男と鶴見俊輔を論じるならば、同じぐらい竹内好(たけうち・よしみ)にも触れたい。また「近代化論」へのアンチとしての「民衆史」の動向も重要だと思う。それにしても、「戦後リベラル」が退潮し「新自由主義」が登場した流れを多くの人が理論的に振り返るきっかけになる本じゃないかと思う。お勉強する気がある人は是非チャレンジを。
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芸協の真打昇進披露公演(浅草演芸ホール昼席)を聞く

2020年10月30日 22時32分50秒 | 落語(講談・浪曲)
 久しぶりに浅草演芸ホールで落語を聞いてきた。落語芸術協会で5月に予定されていた真打昇進披露公演が非常事態宣言で出来なかった。それが10月中旬から行われていて、浅草も今日が千秋楽である。だから行ったというよりも、浅草の歯医者に通っているのである。夕方5時に予約があったので、12時頃から4時半頃まで演芸ホールにいたわけである。
 
 昇進するのは二つ目のユニット「成金」メンバーだった昔昔亭A太郎(せきせきてい・えーたろう)、瀧川鯉八(たきがわ・こいはち)、桂伸衛門(かつら・しんえもん)の3人。「成金」メンバーでは柳亭小痴楽神田伯山がすでに昇進したが、どっちも大した実力の持ち主だった。では今回の3人はどうだろうか。桂伸衛門はまだ伸三だったときだが、伯山の披露興行で超絶的におかしい「寿限無」の発展型を聞いている。しかし、後の二人、昔昔亭A太郎瀧川鯉八は機会がなくて聞いたことがない。ところがこれが素晴らしく独自な新作で沸かせてくれた。

 観客制限は撤廃されたが、寄席はまだ半分しか客を入れていない。普段は1回の「仲入り」(途中休憩)を2回取っている。(その分芸人数は少ない。)今日は新真打以外にも人気者が多く、ほぼいっぱい入っていた。最初のうちは春風亭昇々柳亭小痴楽ねづっちと沸かせて、桂文治師匠が大受けして仲入り。続いて、新真打の師匠、桂伸治師匠、昔昔亭桃太郎師匠。東京ボーイズの歌謡漫談をはさんで、芸協会長の春風亭昇太が登場。久しぶりに新作を聞いた。
(新真打三人の色紙)
 そしてお目当ての披露口上。A太郎が「いい男」だという話が皆から出る。昔ならまさに役者といったハンサム。伸衛門も「カワイイ」という人もあり、昇太会長のように否定する人もあり。しかし鯉八は体が大きく、皆が顔はともかく実力はとか言って笑わせる。ところが本日のトリの鯉八を見ると、実際に話を始めればその生き生きとした表情に魅せられた。それ以上に、口上で師匠連が独特の発想とか言う意味がよく判った。何だこれはという感じの、ニキビに悩む中学生と祖母の「ニキビをつぶす快感」をめぐるやり取り。ぶっ飛んだ発想に驚いた。
(終幕後の新真打三人)
 一方、A太郎もホームランを打った野球選手のヒーローインタビューの話。嫁姑のいさかいを面白おかしく語る新作に抱腹絶倒。こんな笑える新作を作るんだとこれも驚き。伸衛門は白い犬が人間になるという「元犬」。これはまあ何回も聞いているので驚きはないが、犬の様子など安定した面白さ。三者三様で満足出来る新真打だった。来年5月には再び「成金」メンバーの昇進が予定されている。また見に行きたいなと思った。
(ナイツ土屋の絵)
 なお、「プレバト」の水彩画部門で高く評価されたナイツ土屋の「浅草演芸ホール」の絵が飾られている。小さいので見落としないように。真打昇進披露は、今後池袋演芸場、国立演芸場と11月20日まで続く。
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世界の中の大城文学ー追悼・大城立裕

2020年10月29日 22時05分55秒 | 本 (日本文学)
 作家の大城立裕(おおしろ・たつひろ)氏が10月27日に亡くなった。95歳。老衰というから「大往生」である。大城立裕は沖縄で初めて芥川賞を受賞したことで知られる。最近ちゃんと読もうと思い始めて、今までに3回書いた。今後も続けるので書かなくてもいいような気もしたが、逆に書かないと変な気もするので書くことにした。残念だが遠からずこのような日が来ることは予想していた。90歳を超えても作品を発表していた大城氏だが、「90歳を超えて妻に先立たれた男性」の平均余命はそれほど長くはないのが現実だと考えていたのである。

 今までに書いたのは、次の通り。①「焼け跡の高校教師」、②「カクテル・パーティー」、③「『レールの向こう』と『あなた』」 これではまだまだ「ちゃんと読んだ」とは言えない。だからもっと読みたいと思っているんだけど、それは「沖縄」と関係があるのは間違いない。ただ、僕が思うのは大城立裕の文学を「沖縄を描いた」という「ローカルな文学」として見てはいけないということだ。沖縄に生まれ、沖縄に住んでいたから、沖縄を描いたが、沖縄は「世界に通じている」のである。

 だからといって大城文学が「日本文学から外れている」というわけではない。大城立裕は戦前に教育を受けていて、戦後は苛酷な米軍支配下で「日本語」で「文学」を書き続けた。つまり大城立裕のアイデンティティーは「日本語」と「日本文学」にある。そのことは「焼け跡の高校教師」の最後が「国語教育から文学を消してはならない」になっていることでも判る。しかし、その「日本文学」にはその地方独自の「伝統」や「地方語」(方言)による表現も含まれている。沖縄の伝統劇や組踊の原作も書いているのである。
(新作組踊「花の幻」と「花よ、とこしえに」の上演を前にして。大城立裕は前列右から2人目。2019年6月21日、浦添市の国立劇場おきなわで。=「琉球新報」)
 2020年は1970年から半世紀。つまり「三島事件」が起こった年で、「三島由紀夫没後50年」という年にあたる。三島由紀夫は1925年1月14日生まれなのだが、実は大城立裕も1925年生まれなのである。もっとも9月19日生まれなので、日本の教育制度では一学年違うことになる。1925年生まれには、他にも丸谷才一辻邦生田中小実昌などがいる。1924年生まれには安部公房吉行淳之介吉本隆明ら。1926年生まれに井上光晴星新一山口瞳らがいる。ちなみに瀬戸内寂聴は1922年、ガルシア=マルケスチェ・ゲバラは1928年生まれである。

 大城立裕三島由紀夫が同年生まれだとは普段は誰も意識しないだろう。「本土」では、もっと早く文壇で評価された人が多い。もちろん運不運もあるし年齢が高くなって作家になる人もいるわけだが、戦後文学史で「戦後派」とか「第三の新人」などと呼ばれた人たちとほぼ同じ年齢だったのである。しかし、「米軍統治下の沖縄」という歴史的現実によって、大城立裕の作家としての評価は遅れた。そして何かローカルな問題を扱う作家のように思われてしまいがちだ。

 沖縄戦米軍統治という大激動を受けて、沖縄出身作家として初めて大きな知名度をもった大城立裕は、ある意味沖縄に関することなら何でも書いた「百科全書」的な作家だった。前近代の歴史も、沖縄戦も、戦後の沖縄の民衆生活も、今なお色濃く残る「ユタ」などの沖縄の民俗事情も、ハワイなど海外に移住した沖縄出身者も書いている。そこが他に例を見ない「巨人的作家」だと思う理由である。方法的には時代的にも、普通の意味でも「リアリズム」が基本で、そこは後の世代の又吉栄喜や目取真俊などとは違って古風な感じもする。
(大城立裕追悼コーナーが作られたジュンク堂那覇店=沖縄タイムス)
 だが沖縄戦を描いた「夏草」(新潮文庫「日本文学100年の名作」第8巻)を読むと、今まで読んだことがないような生命力あふれた「戦争文学」に驚くしかない。芥川賞受賞作「カクテル・パーティー」を読むと、単に米軍統治下の現実を描くに止まらず、日本の加害責任や米軍の性暴力などを扱っている。60年代半ばだったことを考えれば、驚くべき先見性だったと思う。しかも、その「性暴力」の被害者のその後を「戯曲版 カクテル・パーティー」で取り上げ、さらに米国の原爆投下を取り上げた。これらの視点は世界的に見ても「現代文学」だと思う。幾重にも積み重なった重層的な差別に投げ込まれている世界の多くの人々にとって、必ず意味を持つものだと思う。
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チェコ映画「異端の鳥」、衝撃的な傑作

2020年10月28日 22時10分46秒 |  〃  (新作外国映画)
 チェコのヴァーツラフ・マルホウル監督の「異端の鳥」(The Painted Bird)という映画を見た。169分もある長い映画で、それも今どき珍しく白黒の35ミリフィルムで撮られている。その緊張に満ちた映像美は半端ない。しかし、それ以上に内容が衝撃的というしかない手強さだ。見ていて全く退屈をせずに見続けた。原作がいわく付きなんだそうだが、それは後で知った。最近紹介した多くの映画と違って、誰もが見るべき映画ではないが、「アート映画」ファンなら絶対に見逃せない。

 紹介文をそのままコピーすると、「東欧のどこか。ホロコーストを逃れて疎開した少年は、預かり先である一人暮らしの叔母が病死した上に火事で叔母の家が消失したことで、身寄りをなくし一人で旅に出ることになってしまう。行く先々で彼を異物とみなす周囲の人間たちの酷い仕打ちに遭いながらも、彼はなんとか生き延びようと必死でもがき続ける――。」今読むと、そうだったのかと思うが、映画を見ていると何だか判らないけど、幼い少年がずっといじめられている。行く先々でとんでもない暴力にあい続ける。あまりの暴力描写に付いていけない人も多いらしい。

 少年はどこの村へ行っても、「ジプシーかユダヤ人か」とさげすまれる。親は収容所を逃れるため一人だけでも子どもを救おうとしたらしい。しかし寄る辺なき少年はあちこちの村をさまよい歩き、いろんな家に身を寄せる。だがどこでも村人が貧しく心も閉ざされている。粉屋の男は嫉妬深く、鳥売りは情事の相手が村人に迫害される。司祭だけは優しかったが、司祭に頼まれて預かった男は虐待者で、少年は口をきくことが出来なくなった。こういうことを書いていても映画の凄さは伝わらない。まさに「地獄めぐり」である。その凄まじさは比類なきレベルに達している。

 作中にドイツ軍とソ連軍が出てくる。さすがに軍人はドイツ語とロシア語だというが、他の村人は「インタースラーヴィク」というスラヴ語系人工言語を使っているという。「東欧のどこか」であって、原作者のポーランドでも、監督のチェコでも、映画が撮影されたウクライナやベラルーシなどのどこでもなく、一種の普遍的、象徴的な物語だと示すためだという。パンフの沼野充義氏の文を読むと、いくつかのスラヴ語を知っている沼野氏にはかなり判ったという。

 原作者のイエジー・コジンスキーは1933年にポーランドで生まれたユダヤ人で、1957年に出国し各国を転々とした後にアメリカに渡った。その時点で無一文のうえ、英語は全く話せなかったという。その後作家となり、1953年に「異端の鳥」(かつて角川文庫で出たときの邦題。現在は「ペインティッド・バード」として訳されている)を発表した。自伝的内容と思われ大評判となったが、その後自伝ではないことが判っている。さらに盗作説、ゴーストラーター説などもあるらしいが、作家は1991年に自殺している。映画「チャンス」(1979)の原作もこの人。

 「異端の鳥」では意味不明だが、物語の中で鳥売りの家にいたときのエピソードに、ペンキを塗られた鳥が出てくる。放された鳥は群れに戻ろうとするが、鳥たちは受け入れない。沢山の鳥たちに突かれボロボロになって落ちてくる。これが「少年」を象徴するんだろう。そして少年だけでなく、異質なものを受け入れず迫害する人間社会をも意味するんだと思う。普通の場合ならナチスの「被害者」として描かれるべき村人だが、少年にとってはその村人が一番恐ろしい。ソ連軍やドイツ軍の方がまだしも親切だったという衝撃。

 ヴァーツラフ・マルホウル監督は数年かけてこの映画を作った。3作目だというが、今までの作品は知らない。この作品はチェコのライオン賞(アカデミー賞)で作品、監督など8部門で受賞したほか、ヴェネツィア映画祭でユニセフ賞を受けた。案外国際的に恵まれない感があるのは、残酷描写に賛否両論があるのと長いモノクロ映画で地味だからだろう。だけど、この映画の芸術的完成度は非常に高いと思う。

 特に撮影のウラジミール・スムットニーは「コーリャ、愛のプラハ」などの名手で素晴らしい映像だ。俳優は少年は俳優じゃないが、他にはハーヴェイ・カイテルウド・キアージュリアン・サンズなど国際的なキャスティングをしているが、見ている間は気付かなかった。
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福間良明『「勤労青年」の教養文化史』を読む

2020年10月27日 22時52分29秒 | 〃 (さまざまな本)
 岩波新書から2020年4月に出た『「勤労青年」の教養文化史』を読んだ。著者の福間良明氏は歴史社会学者で立命館大学教授。2017年に出た『「働く青年」と教養の戦後史ー「人生雑誌」と読者のゆくえ』(筑摩選書)でサントリー学芸賞を受賞した。それ以前に『「反戦」のメディア史』とか『「戦争体験」の戦後史』といった著書があり、名前はチェックしていたけど読むのは初めて。

 敗戦直後の農村における青年学級運動から、集団就職定時制高校人生雑誌の盛衰と戦後日本の「教養文化史」をたどっている。僕の世代でさえ、かろうじて判るか判らないかといった1950年代、60年代の忘れられた体験を可視化する貴重な業績だ。文化や思想はともすれば中央のエリート中心に書かれやすい。貧しかった日本の、貧しかった階層の青年たちが、いかに「教養」に憧れていたか。そしてそれがいかにして消え去ったか。非常に大切な問いだろう。
(福間良明氏)
 冒頭で映画「キューポラのある町」(1962)の話題が出てくる。早船ちよ原作で、吉永小百合を一躍スターにした映画である。最近では「北朝鮮帰還運動」が描かれていることでも注目されている。この映画には父の失業で全日制高校に行けなくなったジュンが主人公になっている。そして担任の先生(加藤武)はジュンに定時制だってある、通信制もある、勉強は一生だと説く。ジュンは工場で働きながら夜間定時制に学ぶ高校生を見にいって、自分もその道を選ぶことを決意して終わる。今の学生にはこの映画はもうピンと来ないんだという。
(「キューポラのある町」)
 まず最初に各地の青年学級が扱われる。敗戦とともに全国の農村青年が「学びの場」を求めた。最盛期には全国で100万人を超える青年が自ら学ぼうとした。それも「習い事」や「農業技術」よりも「教養科目」が求められた。小学校では優等生だったのに、経済的に上級学校に行けない若者が大量にいた時代である。その「教養」とは、主に「文学」や「哲学」などの読書を通して、人生を考えるような感じだろう。それは旧制高校以来続く「教養」文化である。だが戦前の旧制高校や大学に進学できる人はごく少数だったから、学校では不要不急の「教養」を学んでいても卒業すればエリート待遇が約束されていた。

 象徴的な人物として山本茂美(1917~1998)が取り上げられている。映画化もされたベストセラー「あゝ野麦峠」の作者である。長野に生まれ、貧しいため上級学校に進めず、軍から帰還した後は農業をしていた。松本で青年学級の中心となり、やがて上京して早稲田の聴講生となり、人生雑誌「」を創刊した。ウィキペディアを見ると、50年代には「愛と死の悩み 吾等いかに生くべきか」とか「苦しんでいるのはあなただけではない」といった本を沢山書いていた。
(山本茂美)
 しかし、やがて農村では青年学級が下火になっていく。特に若い女性が夜に出ていくだけで非難されたし、自ら考えようとすると「アカ」と呼ばれた。長男しか実家の農業を継げない「次三男問題」もあったし、一方で家に縛り付けられる長男の悩みもあった。その後高度成長期になると、地方からは「集団就職」で都会に出て行く青年が多くなった。地方には少ない定時制高校が都会にはある。1960年代には40万人ほどの生徒が夜間に学んでいた。

 その頃の定時制高校に通う生徒の意識が紹介されている。それを見ると夜も勉強に通う目的は「学歴向上」ではなく、「教養を高める」が圧倒的に多かった。多くの人が「教養」に憧れていた時代を象徴している。しかし、その背景には定時制高校を卒業しても、勤務している会社が「高卒」扱いしてくれなかった事情があった。「中卒」採用者はその後高校を出ても資格がアップされなかったのである。企業内に設けられた「養成所」などの採用者も、以後どんなに頑張っても資格は中卒に抑えられた。一方、定時制高校に通わせて貰えない就職者も多かった。非常に複雑な重層的な差別構造があって、貧しい階層の若者はそれにとらえられていた。

 1970年代になると、全日制高校進学率が9割ほどになる。そうなると、「家が貧しいから夜間に学ぶ」という生徒が少なくなり、学力的に合格できないから行くという生徒が増えてくる。そして、今度は全日制高校の中で、進学校と底辺校、普通科と職業科といった「差別」が生じるのである。70年代に入ると、「教養」そのものが消え去っていった。しかし、著者は中高年世代の「歴史雑誌ブーム」、古代史や戦国大名などの特集が売れるという状況に「教養ブーム」の残滓を見ている。

 自分の体験から言っても、現在の「定時制高校」は外国人障がい不登校中退といった生徒像が無視できない。「教養」ではなく、「高卒資格を得る」ことが通学の目的だろう。そういう現在地点から見て、ほとんど「考古学」とでも言える本である。考えてみれば、もう自分の世代には「教養」への憧れのようなものが無くなっていた。しかし、その善し悪しはあるだろう。西洋の哲学者や文学者を日本の現実と切り離して、ただ読んでいるという「教養」はいらない。

 しかし、「フェイクニュース」を見抜くための最低限の歴史や法律、自然科学(物理学や生命科学など)の知識を身につけているかどうか。学校を出ても、それらの知識をアップデートしているか。やはり、それは「教養」と呼ぶしかないものではないか。何でも血液型で判断したり、調べればすぐ間違いと判ることを検索もせずにリツイートする人は、やはり「教養に欠ける」という言葉がふさわしいような気がする。
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「浅田家!」と「生きちゃった」ー家族を描く2つの映画

2020年10月26日 22時58分41秒 | 映画 (新作日本映画)
 映画「浅田家!」(中野量太監督)を見たので、書き残していた「生きちゃった」(石井裕也監督)と合わせて紹介しておきたい。どっちも「家族」をテーマにして、現代日本の姿を映し出している。「浅田家!」は実在の写真家一家がモデルで、主人公が認められてゆくまでが前半。映画半ばで東日本大震災が起こり、主人公は写真返却ボランティアを続けながら、「家族」と「写真」の意味を考えることになる。終わった後で、周りから「こんないい映画だったんだ」という声が聞こえてきた。二宮和也妻夫木聡菅田将暉らの豪華キャスト目当てだけではもったいない。中野量太監督は「湯を沸かすほどの熱い愛」や「長いお別れ」など家族映画の名手ならではの手腕。

 三重県津市に生まれた浅田政志二宮和也)は、兄幸宏(妻夫木聡)、父(平田満)、母(風吹ジュン)と仲良く暮らしていた。この一家では母が看護師で働き、父が家事をしていた。カメラが好きな父は毎年年賀状のために兄弟を撮影していたが、ある年父は政志にカメラをプレゼントする。そこから写真に目覚めて専門学校に進むが、自分の撮りたいものが見つからない。父が本当は消防士になりたかったと知り、消防車を借りだして一家で消防士に扮して家族写真を撮った。
(ホンモノの写真集「浅田家」)
 それが始まりで、家族による「成り切り」のコスプレ写真を撮り始めた。これは実話で、上にあるのが実際の写真集。写真を携えて上京し、幼なじみの若菜黒木華)のところに転がり込む。そして写真集出版に向け動き始めるが…。その後、何とか認められ、家族写真を頼まれるようになって、最初に岩手県の海岸近くに住む一家に向かう。震災のあと、その一家が気になり訪れてみたのだが見つからない。小野菅田将暉)という青年が写真の泥を取っているのを見て手伝い始めた。そして多くの人に取って「家族写真」とは何だろうと考えさせられる。
(右=小野青年)
 僕も震災ボランティアに行ったときには、津波被災地の中からアルバムをいくつも見つけた経験がある。「モノ」も大切だが、一枚の写真があることで救われる人だってあるだろう。そんな「家族写真」を撮り続けた浅田政志という写真家を僕は知らなかった。いろんな人がいるんだと感じいった。映画は沢山のエピソードで作られているが、ここでは省略する。ただ思ったのは「家族写真」にも「演出」がいるんだなということだ。単なる集合写真やスナップでは伝わらないものが、「演出」で伝わっていく。「家族」を前提にすることで、落ちてしまうものもあると思ったけれど、それでも見ておいていい映画だと思う。

 石井裕也監督「生きちゃった」は、アジア各国の映画関係者が協力して香港映画祭が出資した映画。特に国際的なテーマはなくて、日本社会の中で生きている若い夫婦の話になっている。渋谷のユーロスペースで上映されているだけなので、知らない人が多いと思う。石井裕也監督は「舟を編む」や「映画 夜空はいつも最高密度の青色だ」などで知られるが、僕はあまり相性がよくなくてどちらも高く評価されたのに記事を書かなかった。この映画も僕は評価に困るところが多いけれど、「これが日本か」みたいな感じを持った。 

 山田厚久仲野太賀)、武田若葉竜也)、奈津美大島優子)の友だちがいる。説明されないんだけど、数年後厚久と奈津美は結婚して子どもがいる。しかし、なんかつらいことが奈津美にあったとき、厚久は婚約者がいたのに解消した過去があったらしい。今も厚久と武田は英語や中国語を夜に習いに行き、将来の向上を夢見ている。そんな地道な暮らしが、ある日風邪を引いて早退したら妻が「不倫」していて、それをきっかけにあれよあれよと暗転してしまう。

 いくら何でも、ここまでつるべ落としのごとく不幸の連鎖があるものか。と思うけれど、厚久は自分の本当の気持ちを奈津美に伝えられていなかったことを後悔し続ける。そして「日本人だからかなあ」と口ごもるようにつぶやく。家族写真を撮る人もいれば、気持ちが伝わらない人もいる。何だか「生きちゃった」の方が日本のリアルを見る感じがするのは何故だろう。「家族」というのはなかなか難しい。「本当の気持ち」を言えばいいというもんでもないだろう。「幸福」は放っておくとどんどんすり減ってしまうから、「演出」も必要なんだろう。映画の技術や俳優以前に、家族というテーマだと自分に引きつけてみてしまう。
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会津駒ヶ岳と秋田駒ヶ岳ー日本の山㉒

2020年10月25日 22時30分00秒 |  〃 (日本の山・日本の温泉)
 日本の山にはあちこちで同じような名前が付いていることがある。前回書いた「○○富士」は通称だが、正式な名前で一番多いのは「駒ヶ岳」だろう。深田久弥選「日本百名山」には、南アルプスの甲斐駒ヶ岳(2967m)、中央アルプスの木曽駒ヶ岳(2956m)、「越後三山」の魚沼駒ヶ岳(越後駒ヶ岳、2003m)、そしてここで取り上げる会津駒ヶ岳(2133m)と4つも駒ヶ岳がある。

 この「」とは馬のことで、残雪期に雪渓が麓から見ると馬のように見えるという理由で付いていることが多い。百名山以外にも駒ヶ岳はいっぱいあるが、東日本にしかないから残雪説が正しいのだろう。しかし「馬形」だからとか「独楽(こま)型」だからという理由もあるらしい。他の駒ヶ岳としては、乳頭温泉郷に近い秋田駒ヶ岳(1637m)、北海道の大沼からの景観が素晴らしい蝦夷駒ヶ岳(1131m)、箱根ロープウェーがある箱根駒ヶ岳(1356m)などが有名だ。

 甲斐駒木曽駒は他の山と一緒に登ろうと思っているうちに行きそびれた。越後三山も行ってないから、結局百名山の駒ヶ岳で行ってるのは会津駒ヶ岳だけ。場所は会津の秘境と言われる檜枝岐(ひのえまた)村である。前日に檜枝岐温泉の民宿に泊まった。檜枝岐の民宿は、蕎麦なども美味しいし評判がいい。車がない頃に行ったが、翌日は登山口まで送ってくれた。登山口バス停(900m)からさらに林道終点(1100m)まで行ってくれたんだから大助かりだ。
 
 ここは素晴らしい山だった。急登を登り切ると、比較的平坦な湿原になっていて夏は一斉に花が咲き乱れる。苗場山も山頂付近が平坦なお花畑だが、会津駒も負けていない。その素晴らしい風景が思い出に残っていて、最初の登りの大変さを忘れていた。今回ガイド本などを見直すと途中までが急坂だと書いてある。水場までが1時間半、その後駒ノ小屋までが緩やかな尾根で1時間半。花がいっぱいで足もとも軽くなる。秋の写真を見ると草紅葉もすごそうだ。山頂はたいしたことがないけれど、途中の湿原が素晴らしい。そんな山である。
(会津駒山頂)
 秋田駒ヶ岳も会津駒に劣らない素晴らしい花の山だ。今まで「百名山」しか書いてこなかったが、ここは「百名山」ではなく「二百名山」である。深田クラブ選定の「日本二百名山」というのがあって、百はそのままで他にもう100を選んでいる。東北には栗駒山焼石岳森吉山など標高では劣るものの山格や魅力度では100名山クラスの山がいっぱいあって、二百名山に選定されている。東北の山は麓に温泉があるのが魅力で、秋田駒は「有名な秘湯」の乳頭温泉郷が近くにある。どちらかというと、温泉が目当てだったかと思う。鶴の湯に行ったのもこの時。
(秋田駒のお花畑)
 登山道は四方からあるが、今は八合目登山口(1300m)まで車で行くのが一般的。最初に行ったときは雨が降っていて、登山口まで行って断念することにした。温泉も素晴らしいので、翌年また行って登ることが出来た。登山口から300m登るだけだからそれほど大変ではない。山を巻くような登山道を1時間半で阿弥陀池避難小屋(1530m)。そこまでは割合と楽な道を花を楽しみながら。そして最後に20分登って山頂へ。気持ちいい登山だった。
(秋田駒ヶ岳全景)
 田沢湖を下に見て、軽快に進む。100名山ではないけれど、割合に楽なこの山は多くの人に向いた山だと思う。乳頭温泉郷はずっと使える湯めぐり手形がある。全部入ったが、黒湯蟹場温泉にも泊まってみたい。しかし家族連れだったら、休暇村乳頭温泉郷が気楽。温泉に連泊して山登りを楽しむのにもってこいの東北の山と温泉だ。
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岩隈久志投手の引退に寄せて

2020年10月24日 22時51分56秒 | 社会(世の中の出来事)
 プロ野球の岩隈久志投手が今シーズン限りでの引退を発表した。39歳である。そう言えば、ここ数年名前を聞かなかったけど、最後は読売ジャイアンツにいたのか。シアトル・マリナーズ時代最後の2017年以来、4年間勝ち星がなかった2016年は16勝12敗だったから、急に活躍できなくなったのだ。前から時々肩を痛めて活躍できない年があった。日本に戻ってからは一回も一軍の登板がなかった。春先に肩を脱臼していたと言うし、やむを得ない引退だろう。
(2018年1月にブルペンで投げた時)
 岩隈投手は忘れてはならない「運命」の人だと思うが、ちょっと印象が薄れているかもしれない。楽天で活躍したが、岩隈が2012年に大リーグに移籍した後で、2013年に田中将大投手が24勝0敗の不滅の大記録を樹立し、リーグ優勝、日本シリーズも制覇した。田中将大の活躍が岩隈を上書きした感もある。また大リーグで所属したマリナーズも、日本人選手ではまずイチローであり、投手でも新人王を獲得した佐々木主浩がいた。近鉄出身の大リーガーとしても、野茂英雄が最初に思い浮かぶ。だから岩隈の印象が薄まってしまったように思う。

 岩隈投手は東京の堀越高校出身で、甲子園出場経験はないものの、1999年度のドラフト会議で近鉄バファローズから5位で指名された。2001年に初出場したが、ウィキペディアを見ると1点リードの8回裏から登板、同点に追いつかれるも、延長10回に中村紀洋の満塁ホームランなどで17対12で近鉄が勝利。これが岩隈の初勝利だという。すごい試合だな。2002年から先発ローテーション入りし、2003年は15勝と球団最多勝利。2004年には初の開幕投手を務め、15勝2敗最多勝利を挙げ、ベストナインに選ばれた。若い時代は「なにわのプリンス」と呼ばれて人気があり、ウチの妻なんかもスポーツニュースで見ると「岩隈クン」なんて呼んでた。
(2004年6月の対西武戦) 
 そして2004年が近鉄最後の年となったわけである。近鉄バファローズという球団自体が消滅してしまった。近鉄球団の経営不振からオリックスとの合併問題が起こり、そこから1リーグ制への移行を唱える声も出てきた。それに反対する選手会が初のストライキを決行し、新規参入希望企業も現れた。それがライブドア楽天だった。細かな経過は省略するが、結局楽天が認められ東北楽天ゴールデンイーグルスが誕生する。そして近鉄所属選手の「選手分配ドラフト」が行われた。オリックスは岩隈を希望したが、結局は本人の希望を入れて楽天へトレードされた。

 この岩隈の選択は非常に重要な意味があった。実際には義父が楽天コーチに就任したという事情もあったようだが、「選手の希望を尊重する」という労使の「申し合わせ」を基に自己の意思を貫いた。1年目の楽天は選手層が薄く38勝97敗1分(最下位)に終わり、岩隈も9勝15敗だった。岩隈がいなかったら、もっと悲惨な成績に終わっていただろう。選手会がストまでして守った2リーグ制も「やはりダメだったか」「所詮ストなんかしても意味ない」などという風潮を呼んだだろう。読売の渡辺恒雄氏の威光が強まり政治的な影響もあったかもしれない。

 2005年の開幕投手、つまり楽天初の先発投手は岩隈だった。そして楽天初の勝利投手も岩隈だった。2006,2007年はケガで不振だったが、2008年は21勝4敗と好成績を挙げ、最多勝利、最優秀勝率とともに、沢村賞に輝いた。2009年の第1回WBCでも活躍し、リーグ戦でも13勝6敗で初の2位、クライマックスシリーズ選出に貢献した。2010年は10勝9敗だったが、シーズンオフにポスティングシステムでの大リーグ挑戦を表明したが、結局交渉がまとまらず残留が決まった。
(2011年の開幕戦)
 その結果、2011年3月11日を東北地方の球団で迎えることになった。チームはオープン戦で関西にいたが、本拠地の球場は使えなくなった。大震災によって2011年のプロ野球開幕は遅れ、初の本拠地開幕戦も出来なくなった。そして4月12日に千葉で行われた開幕戦で、岩隈が5年連続の開幕投手を務めて勝利投手となった。5月に負傷して一年を通した活躍は出来なかったが、この震災後の開幕戦勝利は覚えている人も多いのではないか。

 この年が楽天最後の年となり、2012年からはシアトル・マリナーズに移籍した。以後の勝利数を見ておくと、9勝5敗、14勝6敗、15勝9敗、9勝5敗、16勝12敗、0勝2敗となっている。計63勝39敗、大リーグ通算防御率3.42となっている。まあ大活躍ではなかったかもしれなかったが、それなりの成績は残している。そして何より、2015年8月12日、オリオールズ戦でノーヒットノーランを達成したのである。日本人投手も数多くなったが、他には野茂が2回達成しただけの記録である。
(大リーグでノーヒットノーラン)
 近鉄から楽天へ。そして東日本大震災後の開幕戦勝利。(本人もこれを思い出として挙げていた。)WBCでの活躍。大リーグでのノーヒットノーラン。節目節目にずいぶん記憶すべき活躍をしてきた選手だった。何より「なにわのプリンス」「杜の貴公子」と言われ、投球モーションもカッコよかった。記憶に留めたい選手だった。今後の第二の人生も期待して活躍を祈りたいと思う。
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「女性たち(+子ども・マイノリティ)の戦争」ー「戦争と文学」を読む⑤

2020年10月23日 22時37分52秒 | 本 (日本文学)
 集英社文庫の「セレクション 戦争と文学」を毎月読むシリーズ。10月はメモリアルな日付がないので、、第4巻の「女性たちの戦争」を読んだ。しかし、この題名は正確ではない。650頁もある中で、「女性」を扱った作品は半分もない。後の半分以上は「子ども」と「捕虜」を描いている。もっとも「捕虜」と言っても、中国人労働者朝鮮人労働者である。子どもたちの中にもハンセン病療養所を舞台にした作品がある。つまりこの巻は単に「銃後」というだけでなく、マイノリティから見た戦時下の日本という視点で編まれている。そこが貴重だ。
(表紙=北川民次「鉛の兵隊(銃後の少女)」)
 最初に戦時下に書かれた3作。大原富枝祝出征」、長谷川時雨時代の娘」、中本たか子帰った人」である。いずれもこの本に入ってなければ読まなかった作品だろう。もちろん軍部批判のようなことは書けないわけだが、それ以上に「女性作家なりに時局に協力したい」という動機が読み取れる。中で中本たか子帰った人」を見てみる。全然名前を知らなかったが、下関出身のプロレタリア文学者で蔵原惟人の妻だった。

 女はかつて銀座を闊歩した慶応ボーイに憧れ、なんとなく婚約したような思いで出征した男を待ち続ける。その間に友人がどんどん結婚するので、複雑な焦りを持ち続けた。男はついに6年ぶりに帰還したが、会ってみると感じが違っている。日焼けして無口になり、女を戦車部隊の同僚の家に連れて行く。それは亀戸の貧民窟にあり、今まで足を踏み入れたこともない場所だ。そして都市文明に幻滅し、田舎に戻って農業をするという。

 「幻滅」も感じながらも、女は彼に付いていこうと決心を固めるまでを描いている。スラスラ読めるんだけど、これはタテマエで作られた作品だろう。そもそも「ノモンハンの戦車部隊の生き残り」が帰還するなんてなかったと思う。主人公の気持ちもウソっぽいし、「帰った人」が健康すぎて現実性に乏しい。でも、こういう設定が女性に求められたという意味を読み取れる。
(中本たか子)
 戦後に書かれた作品には、戦地を描けない分迫力が乏しい。ただ一つ瀬戸内晴美女子大生・曲愛玲」だけは占領下の北京を舞台にしている。もっともこの作品はセクシャリティを扱った作品と言うべきかと思う。上田芳江焔の女」は遊郭の女、吉野せい鉛の旅」は召集された息子に会いに行く親、藤原てい襁褓」(おむつ)は引き揚げ船内の苛酷な状況を描いている。

 でも小説としては、戦時中よりも戦後を描く方が面白いと思った。田辺聖子文明開化」は敗戦後の大阪を舞台に圧倒的な面白さ。価値が転換していく様を軽妙に描いているが、古い価値も残っている。河野多恵子鉄の女」は初婚の夫が戦死し、後に再婚した女性の「靖国神社体験」を扱う。こういう小説があったんだという感じ。大庭みな子むかし女がいた」、石牟礼道子木霊」はテーマをリアリズムではなく描く。結局「銃後の女たち」は短編小説では難しいのか。長編では、僕は遠藤周作女の一生 2部サチ子の場合」が忘れがたい。

 それよりも、子どもの章に入って高橋揆一郎ぽぷらと軍神」には驚いた。著者は「伸予」という小説で70年代に芥川賞を獲得した作家。僕も読んだことがなかったが北海道の炭鉱地帯を描く作品が多いという。「ぽぷらと軍神」は「文学界」新人賞を得た出世作で、かつて読んだことがない恐るべき体罰小説である。小学校に軍人上がりの教師がやってきて、恐怖支配を敷く。「ばんじゃあ」と呼ばれる加藤という教師は、何でも「盤石」という。帝国は盤石であるとか言い過ぎて、子どもたちがあだ名を付けた。絶対になりたくなかった「ばんじゃあ」が担任になり、さらに級長にもなってしまった主人公の恐るべき体験の数々。この小説が今回の一番の収穫だったが、恐るべき小説があったものだ。トラウマになるから映像化不能だろう。
(高橋揆一郎)
 竹西寛子兵隊宿」は川端賞受賞の名短編で、少年と馬の結びつきが感動的。一ノ瀬綾黄の花」は学童疎開だが、集団ではなく縁故疎開を扱う。冬敏之は知る人ぞ知るハンセン病作家で、「その年の夏」は戦時中の療養所を舞台に少年の心を描く。非常に貴重な作品で多くの人に触れる機会になって良かった。三木卓」(ひわ)は芥川賞受賞作の傑作で、満州と思われるソ連軍支配地区に残された一家の冬を描く。あまりにも厳しい環境を生き抜く苦労が心に残る。僕は三木卓が昔から好きなんだけど、改めて読み直したくなった。
(三木卓)
 向田邦子司修小沢信男寺山修司などの知らなかった作品も収録。それより第4部の阿部牧郎見よ落下傘」に驚いた。これは秋田県大館市に疎開していた少年の話。父親は同和鉱業に勤務している。そしてある日大きな事件が起きる。鹿島建設の中国人労働者が暴動を起こしたというのだ。つまり「花岡事件」を少年の目で描いているのである。こんな小説があったのか。そして最後に鄭承博(1923~2001)の「裸の捕虜」にも驚いた。名前を知らなかった在日コリアン作家で、戦時中の徴用工を主人公にしているのである。
(鄭承博)
 主人公は軍需工場に徴用されているが、配給の食糧が乏しくなって「買い出し専門」を会社から依頼される。元気な青年が内地にいるので変に思われるが、朝鮮出身だから徴兵令の対象じゃないのである。ヤミの買い出しは違法行為だから、注意深さが必要だが主人公がうまく立ち回って食料を集めてくる。ところがサンマの塩漬けを運んでいたときに、別件捜査中らしき警官に呼び止められる。警察で軍需工場用だと弁明するが、会社に問い合わせると知らないと言われる。(だから朝鮮人徴用工を買い出し要員にしていたのである。)

 警察を出た後はバカらしくなって、奈良の老農家に住み着いたりしていたが、戻ると逮捕される。徴用逃れの脱走とみなされたのだ。そしてどこかへ送られる。そこは長野県のダム工事現場だった。そこで鍛冶職人として働かされる。そこには中国人捕虜がいた。「八路軍」の捕虜だという。そういうケースは現代史では知っているが、小説では初めて読んだ。こんな話が書かれていたのか。これで読む限り、「女性」をテーマにするよりも、「マイノリティ」を扱う方が深い小説が多い。また「内地」より「外地」、「大人」より「子ども」を描く方が興味深くなると思った。

 今まで全く知らなかった世界もあったが、主題として「女性たちの戦争」という意味では「慰安婦」も出て来ないのが特徴。「日中戦争」の巻に田村泰次郎「蝗」があった。この巻は「銃後」に絞っている。「銃後」では、今まで「家制度」に縛られていた女たちが戦時下では「挺身隊」や「国防婦人会」に出ていくことになる。「旧弊」な老婦人は、良家の子女は外で働くものではないと思っている。「戦争協力」を理由に「家」を出る若い女たちを女性作家が「進歩」ととらえる。そんな構図の小説がかなりある。考えておかなければいけない「社会制度の罠」だろう。
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ドイツ映画の傑作「ある画家の数奇な運命」

2020年10月22日 22時40分44秒 |  〃  (新作外国映画)
 ドイツ映画「ある画家の数奇な運命」という映画を見た。そんな映画が上映されているって知らない人が多いと思う。僕もどんな映画か、よく知らなかった。調べてみると、2019年の米国アカデミー賞で外国語映画賞撮影賞にノミネートされていた。しかし、何しろ188分もある長い映画なので、なかなか見るヒマがなかった。日比谷シャンテでの上映もあと一週間になって時間も変わってしまう。急いで見に行ったのだが、これは素晴らしい傑作であり、「問題作」でもあった。

 1937年、ドイツ東部のドレスデン。7歳のクルト・バーナート少年が美しい女性と美術館にいる。この女性は叔母(母の妹)で、見ていた展覧会は、ナチス政権が禁止した絵画を集めた「退廃美術展」だった。解説者がこれらの絵画は民族をおとしめる退廃した精神の産物だと非難しする。カンディンスキーの絵を示して、腐敗した前政権は労働者の税金2000マルクをこの絵に使ったと言う。でも叔母は絵を気に入ったようで、クルト少年も興味を持つ。バスに乗って帰ると、車庫の運転手にクラクションを一斉に鳴らしてくれるように頼む。夕暮れの中に音が満ちていく。その後叔母は心に失調を来して悲劇的な運命をたどることになった。
(叔母とともに「退廃美術展」を見る)
 敗戦に伴ってドイツは東西に分割占領され、ドレスデンは東ドイツになった。クルト一家は社会主義政権の元で生きていく。青年になったクルトは、ある日美しい風景を眺めていて美のとらえ方が判った感じがした。教師だった父は生きていくためにナチスに入党したことで、戦後は解雇され苦労している。そんな中クルトは美術大学に行くように勧められた。美大では「鎌とハンマー」を持った労働者のデッサンをする。そしてある日エリー・ゼーバントと出会って親しくなっていく。エリーとその父親に関しては、観客だけが知る「ある秘密」がある。まさに「数奇な運命」である。
(美術大学でエリーと出会う)
 クルトは卒業後に「社会主義リアリズム」に則った壁画をたくさん頼まれる。一方でエリーとの関係をめぐっても、様々なドラマが起こる。ここでは詳しく書かないが、ナチス時代に戦争犯罪に関わったエリーの父カール・ゼーバントが、何故社会主義政権になっても医学界の大物として生き延びられたのか。そのドラマがもう一つのテーマとなる。クルトはやがて同じような形式に飽き飽きして、ついに越境することを決意する。(「ベルリンの壁」建設のちょっと前のことだった。)苦しい生活の中、クルトとエリーはデュッセルドルフ(ドイツ東部ルール工業地帯近くの都市)に移る。そこは現代芸術の最先端だと聞いたのである。
(政党ポスターを燃やす教授=ヨーゼフ・ボイスがモデル)
 30歳になったクルトはデュッセルドルフの美大に入れたが、そこでは多くの画家の卵たちが競い合っていた。教授の講義に出ると、ファルテン教授はSPD(社民党)とCDU(キリスト教民主同盟)のポスターを持ってきて、どちらも真実がないと火を付けてしまう。教授に気に入られたクルトは、何故教授がいつも帽子を被っているかの謎を教えて貰った。この教授は有名な現代美術家ヨーゼフ・ボイス(1921~1986)なんだという。後で調べて知ったのだが、見ているときは気付かなかった。僕も名前ぐらい知っているし、昔展覧会を見たこともある。自分のやりたい方法をなかなか見つけられないクルトだが、悩みながら自分の道を見つけて個展を開くところで終わる。
(ゲルハルト・リヒター)
 このように書いていても映画の魅力はうまく伝わらないだろう。このクルトという画家は、ドイツ現代美術を代表するゲルハルト・リヒター(1932~)をモデルにしているという。そう聞いても、僕は名前も知らなかったけれど、とても有名な人物だという。フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルクという長い名前の監督(「善き人のためのソナタ」と言う傑作を作った)が映画化を申し込んだところ、名前を変えたうえ何が事実かどうか判らなくすることという条件を出されたという。その結果、このドラマチックな映画が生まれた。「事実」は違っても「ドイツ現代史の真実」は伝わったことだろう。
(瀬戸内海の豊島にある作品)
 リヒターの作品は日本でも数多く紹介され、瀬戸内海にある愛媛県の豊島(とよしま)に上記画像のような巨大なガラス作品が常設されているという。(香川県の豊島=てしまとは違う。)「一身にして二生を経る」と福沢諭吉は述べたが、クルト=リヒターの人生は一身にして三世を生きたのである。ナチス時代と社会主義時代と商業主義の西ドイツと。「ドイツ統一」を入れれば「四世」かもしれない。

 この映画は本当に撮影が素晴らしい。キャレブ・デシャネルがアカデミー賞にノミネートされた。この人はアメリカの人で、80年代の名作「ライトスタッフ」や「ナチュラル」でアカデミー賞にノミネートされた。都合6回ノミネートされたが受賞には至っていないという。光をとらえた心にしみこむような映像が心に残り続ける。ヨーロッパの町並みや自然が美しいということもあるが、クルトの人生としっかりと結びついた映像、構図も決まった映像美にも目が離せない。

 ナチス時代の障害者抹殺政策の恐ろしい内実をここまで描いた映画は珍しい。ドイツ東西の違い、「社会主義リアリズム」とは何か。アートとは何か。考えさせることが多い。そう言えば「退廃美術展」の解説を聞いていると、去年の愛知トリエンナーレで起きたことを思い出した。「民族をおとしめる芸術」なんて発想がそっくりなのである。なお、2019年のアカデミー賞外国語映画賞は、受賞作「ROMA/ローマ」以外に、「万引き家族」「COLD WAR あの歌、2つの心」「存在のない子供たち」といずれ劣らぬ傑作揃いだった。この作品も一歩も引けを取らない。時間を感じさせない面白さだった。
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大傑作映画「スパイの妻 〈劇場版〉」

2020年10月20日 21時07分59秒 | 映画 (新作日本映画)
 黒沢清監督の映画「スパイの妻 〈劇場版〉」が公開された。今年のヴェネツィア映画祭銀獅子賞(監督賞)を受賞したことで、一躍注目された。いつもは新作をなかなか見ないんだけど、時間がうまく合うこともあって早速見てきたのだが、これは大変な傑作だった。最近見た映画では「本気のしるし 劇場版」も面白かったし、「星の子」も良かった。でも「スパイの妻」はそれらの映画からも一頭地を抜く大傑作だ。テーマも重大だが、撮影や音楽も素晴らしい。そして何より蒼井優高橋一生が圧倒的な演技を披露している。

 この映画も〈劇場版〉と銘打たれているが、元々は2020年夏にNHKのBS8Kで放映されたドラマだという。それをスクリーンサイズや色調を再編集して劇場版にしたものだとある。全然気付かなかったのだが、こんなドラマをNHKで作っていたのか。ヴェネツィアで受賞してホントに良かった。内容的にあらぬ非難を受けかねないドラマをよく作ったものだと思う。

 脚本は濱口竜介野原位(ただし)、黒沢清の3人。最初の二人は神戸を舞台にした5時間を超える傑作「ハッピーアワー」(濱口竜介監督)の脚本を手掛けている。今回も神戸を舞台にした作品になっていて、ロケが素晴らしい。(神戸を舞台にした映画の最高峰だろう。)脚本が本当に素晴らしくて、最後まで気が抜けない。登場人物たちは自分でも予測出来ない時代を生きている。そこから生まれるミステリアスなドラマは、見る者にとっても予測不能な展開だ。
(右端=黒沢清監督)
 神戸で貿易会社を営む福原優作高橋一生)はきな臭くなる時勢をよそに、妻聡子蒼井優)とともに優雅な暮らしを続けている。フランスのパテ社9.5ミリ家庭用映画カメラでホーム・ムーヴィーを作って楽しんでいる。(これは当時有名だった機械で、劇中では実物を使って実際に撮影している。)そんな彼らの生活にも暗い時代が忍び寄ってくる。友人の英国人貿易商がスパイの疑いで連行される事件が起こった。妻の東京時代の知人、津森泰治東出昌大)は神戸の憲兵隊に伍長として転任してきて、くれぐれも注意するように警告する。

 福原邸のロケ地、旧グッゲンハイム邸が本当に素晴らしい。海を望める洋館で、まさに設定にピッタリ。他にも旧加藤海運本社ビル神戸市営地下鉄名谷車輌基地神戸税関など神戸にある建造物が生かされている。街頭の宣伝ビラ、店の看板なども当時を再現している。この並々ならぬ苦労の末に、「非常時」を実感できる映像になっている。特に福原邸で夫婦が交わす危険な会話の数々を、カメラは光をいっぱいに取り込んで写す。「光と影」の美しい画面は、単に映像美というに止まらず「時代」を生きる人々の苦悩を象徴している。

 このように脚本や演技を支える技術スタッフの力量が半端なくすごいのである。だから見始めるとすぐに、この映画の完成度が高いことが予感できる。だが、「大日本帝国の国家機密」を知ってしまった夫婦が一体どのような行動を起こすのか。最後の最後まで予断を許さぬ勇気と知恵の駆け引きが始まる。もう少し時間を戻すと、1940年、日米関係が悪化する中で、今しか行けないと思って優作と甥の竹下文雄坂東龍汰)は中国(「満州国」と「中華民国」)に旅行に行く。そして看護婦だった草壁弘子という女性を連れ帰る。文雄は会社を辞めて有馬温泉に籠もって小説を書くという。そして弘子は殺されて、憲兵の泰治が聡子に事情を聞きに来る。
(左=憲兵役の東出昌大)
 映画の一番重大な問題ではないので、ここで「機密」に少し触れることにする。優作の会社は医療品も扱うので、満州北部に出掛けて日本軍の医学部隊とも接触する。そこで人為的にペストが流行したと知る。つまり「731部隊」の細菌戦である。消された医者が残した研究ノート映像こそが、優作たちが持ち帰ったものだった。草壁浩子はノートを残した医者に仕えた看護婦だった。この「帝国の暗部」を知ってしまった優作はどうするか。

 いろいろな経緯があって、優作は聡子に言い切る。自分は「コスモポリタン」だと。愛国者ゆえに自国の過ちを正したいのではなく、国家より「正義」を優先するのだと。つまり自覚的、確信的な「非国民」なのである。それに対して、六甲山の中であった泰治(憲兵)は聡子に言う。「あなた方の普通が、他の人には非難や攻撃に受け取られる時代なのです」みたいなことを言う。詳しいセリフは忘れてしまったけれど、これは全く現在の日本(世界)を思い起こさせるではないか。「分断」された世界では、価値観が正反対になる。

 そこで取られた優作の行動、聡子の行動をどう理解するべきか。それは僕には評価が難しいし、内容を書けないのでこれ以上触れられない。ただ蒼井優の圧倒的な存在感が全てを呑み込んでしまうと思う。単なるお嬢さんかと思っていたら、「スパイの妻になります」と宣言するまでに。蒼井優はもういいかと思っていたけど、再び女優賞を獲得するかもしれない。他には憲兵役で平然と拷問する東出昌大は助演男優賞候補。音楽の長岡亮介も素晴らしい。

 黒沢清監督(1955~)は、よく黒澤明と間違われながらも世界で人気を博してきた。僕と同年で、立教大学で映画を作って学内で上映していた頃から見ている。プロになった後は僕の苦手なホラー映画が多いので、どうも今ひとつ付いていけなかった。最近の「クリスピー 偽りの隣人」や「散歩する侵略者」もとても面白いとは思うけれど、どうも好きにはなれなかった。だから「トウキョウソナタ」(2008)が最高かと思ってきたのだが、明らかに「スパイの妻」が突出した最高傑作だ。この磨き上げられた技術を堪能するとともに、主人公二人の行動の意味を考え続ける映画だ。
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運転免許のデジタル化は必要?ー行政改革は「マイナ」廃止から

2020年10月19日 22時11分05秒 | 政治
 ちょっと前だが、TOHOシネマズの宣伝で「お財布忘れ顔」というのがあった。財布を忘れた場合でも、「LINE Pay」で払えるという話だった。まあ大人のおじさんはクレジットカードで払うから関係ないんだけど、これを聞いて不思議な気持ちがした。だって若い人はスマホは忘れないのだろうか? 僕は財布を忘れることはないけど、スマホを忘れることは時々ある。財布は家で使わないけど、スマホは家でも見るから、急いでいると忘れることがあるのだ。

 政府がデジタル庁というのを新設して、行政のデジタル化を進めるという。例えば、自動車の運転免許をデジタル化するという。Googleで「運転免許のデジタル化とは」で検索すると、「運転免許証がデジタル化されると、住所などの変更がオンラインで出来るようになったり、更新などの事務手続きの簡略化、スマホと一体化することで免許証の携帯が不要になったり、免許更新の時間短縮などの利点があるといわれている。」と出ている。

 しかし、住所変更なんてそう頻繁にあることじゃない。事務手続きの簡略化と言われても、運転免許の性格上、視力検査写真撮影には行かないといけないに決まってる。更新時の講習をオンラインで済ませられるようになるとも思えない。「免許証の携帯が不要になる」というのも、紙で持ち歩かなくていいだけで、今度はスマホの携帯義務が生じるはずだろう。免許証は財布に入れてるので、財布よりスマホを忘れることの方が多い自分には不便になる。

 やがて「マイナンバーカード」と「運転免許」を一体化させるというけれど、それで何が便利になるのか。マイナンバーカードは期限が5年である。免許もゴールドなら5年だが、違反があって3年になったりすると、ズレてしまう。更新が面倒になるだけだ。そのうち「保険証」も「マイナンバーカード」と一緒にするという話だけど、これも同じだ。
(フィンランドの場合)
 保険証は顔写真がいらないから、今は(保険料を払っていれば)役所から送ってくる。マイナンバーカードは写真入りだから、新たな写真を撮って更新手続きをしないといけない。元気だったら面倒だというだけで済むが、病気がちだったり障害を持っていたら更新手続きに行くのも大変だ。一番保険証が必要な人が不便になってしまう。「マイナポータルサイト」を見たら、保険証と一体化したら更新を忘れると保険証が失効しますなんて書いてあった。不便になるのである。

 ある時期までは「新技術が登場すると便利になる」と言えた。いや、実際は新技術で不幸になる人はいつの時代も存在したわけである。産業革命によって失業した人もいるし、世界にイギリス製品があふれてインドの地場産業が壊滅した。無声映画に音が付いたら、弁士が失業した。しかし、一般的には無声映画が有声映画になり、白黒映画がカラー映画になり、フィルム映像がデジタル映像になる流れを止めることは出来ないだろう。しかし技術の進展が早過ぎると、「便利になったようで、新技術に付いていけない人には不便になる」ことが多くなる。コンピュータや携帯電話の歴史は大体そういう感じだった。

 今度の「デジタル化」というのも、つまりは「不便になる」のではないか。今までの免許証や保険証でそんなに困っていたのか。マイナンバーカードと一体化すると、何が便利になるのか。それは「政府にとって便利になる」ということに過ぎないのではないか。どうもそんな感じがしてならない。それにスマホは壊れるものである。その前に買い換えろというのかもしれないが、それでも人為的に壊されたり、どこかに置き忘れたりすることは避けられない。そうすると自分の証明が全く出来ない。そういう事態が起こりかねない。

 お金やカード類は「分散」しておく方がいい。投資と同じである。昔、財布をなくしたことがあって、困ったのは現金を失ったことではなくて、それ以上にカード類をなくしたことだった。永井荷風じゃあるまいし、全財産を持ち歩いている人は普通はいない。現金をなくしたり取られたりするのは困るけど、銀行やクレジット会社のカードがあれば、当面必要なお金は下ろせる。以後は現金とカードは別々にするようになった。僕は全部マイナンバーカードに入れるというのは心配だ。どこかでなくしたら、保険証も免許証もなくすなんて。紙で別々に持ってる方が安全だと思う。

 「聖域なき行政改革」と本当に思っているなら、何年経っても持ってる人が増えないマイナンバーカードを見直したらどうなんだ。少なくとも「マイナポイント」なんて訳の判らない事業に多額の税金を投じる愚挙をこそ、早急に止めてはどうかと思うけど。
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「行革」すべきは「審議会」だ!ー学術会議問題⑤

2020年10月18日 23時03分06秒 | 政治
 政治・社会の問題で考えたいことが多い。新型コロナウイルス問題も日々情報が更新されるので、なかなかまとめて書く機会が取れない。最高裁非正規労働者の待遇をめぐる訴訟の判決が出たが、問題の枠組に詳しくないので簡単には書けない感じだ。そんな中で「学術会議問題」のスピンオフとして、気になっている問題を書いておきたい。

 どうも菅義偉首相は学術会議を敵視しているようだが、それに合わせて「反学術会議キャンペーン」のフェイクニュースが飛び交っている。その中で国費を10億円使っているという話がよく使われている。しかし、職員50人の人件費、事務費約5億5千万円国際的な学術会議の分担金が1億円なんだそうだ。職員は独自採用ではなく、各省庁から派遣される国家公務員だそうで、数年ごとに異動するという。これはどうしようもない固定費ばかりだ。

 学術会議会員は「特別公務員」だと首相は強調しているが、給与は出ない総会や分科会に出席すれば手当が支給されるが、それは会長は日額2万8800円会員は1万9600円だそうだ。手当の総額は本年度予算では約7200万円、協力している「連携会員」(約2000人)分として1億300万円。交通費・宿泊費は別枠で実費精算されるが、年度末には予算が足りなくなって「受領辞退」」の文書を書いて貰っているという。ネット会議を多用するけれど、そればかりでは無理なので自腹を切って出張している状態なんだという。(以上、東京新聞10月10日付)

 つまり学術会議というのは、ほとんどボランティア精神というか、日本の学問に対する義務感でやっている組織なのである。まあ東京在住なら足は出ないかもしれないが、時間を取られることを考えれば得にはならない。自民党政府は学術会議会員を「除外」するのではなく、どうして長い時間を掛けて「政府寄りの学者」を送り込んで内部から変えようとしないのか。僕はそんな疑問もあるのだが、これでは保守系学者は学術会議会員を望まないだろう。

 マスコミでは知られていても業績が十分ではない学者もいる。だから推薦されないのかもしれないが、それ以上に重要な問題は政府寄りの学者は、学術会議よりも政府の各種審議会を優先するということではないか。その方が直接「国策」に関与できることになるし、政府から求められる度合いも大きい。政府にいくつ「○○審議会」があるのだろうか。2年前の資料だが、各省庁に計129もあると出ている。内閣府だけで21個もある。そして最近は「私的諮問機関」というのもたくさん作られる。

 それではそれらの審議会の委員になると、報酬はあるのだろうか。それはいくらぐらいだろうか。この情報公開の時代に、この情報が判らない。地方の情報はあるけれど、中央省庁の審議会は判らない。どこかに出ていれば教えて欲しいと思う。僕が調べられた範囲では、ずいぶん古いけれど、2004年段階で共産党が追及した時の資料がある。まずは同じ人が各審議会委員を兼ねているという問題。2つ以上兼務している人が1760人中466人もいるという。
(審議会委員の兼職状況)
 故・日隅一雄氏のブログによると、審議会員の報酬も高額である。全省庁の審議会予算の委員報酬額の合計は、11億6400万円を超えるという。(2004年段階)委員の最高報酬額は、宇宙開発委員会(文科省所管)会長の月額131万7000円だという。定員総数約1760人なので、単純に割れば、平均報酬は年額66万円。しかし、特定の審議会会長はなぜ、特定の審議会の委員が、年間1000万円を超えるような報酬を得ているのか?と日隅氏は書いている。
(一番大きな産業構造審議会)
 学術会議が事務職員の給与を含めて総額10億円だというのに、10数年前に審議会委員の報酬だけで11億円を超えていたのだ。今はもっと増えているに違いない。こんなに審議会がいるのか。いるとしてこれほど高額な報酬が必要か。「行政改革」の対象にすべきは、審議会のあり方の方だろう。こういう「オイシイ仕事」は反政府の声を挙げた学者には回ってこない。「有識者」と言われて委員になるのは、決まって政府寄りの学者ばかりである。そういう仕事で忙しければ、学術会議なんか関わる気にならないだろう。

 特に右派系ではないが、政府に重用された有名な学者に山内昌之氏(東大名誉教授)がいる。国際関係論、イスラム史の大家で、僕もかなり読んできた。いつの間にか政府の審議会などに起用されるようになったが、そのいきさつなどは知らない。ただ例示としてウィキペディアを見てみると、以下のように記載されている。
 内閣官房では、安心社会実現会議委員アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会委員。文部科学省では文化審議会委員中央教育審議会社会科専門部会委員、文化庁「文化発信戦略に関する懇談会」座長、「教育再生実行会議」委員(2013年1月〜)。外務省では外務人事審議会委員、「日本アラブ対話フォーラム」委員。経済産業省では総合資源エネルギー調査会委員を務める。

 これは数年前の記述で、今はもう終わっている仕事が多いと思うけれど、一人でこれほどを兼ねているのかと思う。どんな有能な学者であっても、多すぎるのではないだろうか。報酬をさておいても、これじゃ政府のあり方としておかしくないだろうか。
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「星の子」、原作も映画も傑作だけど、

2020年10月17日 23時18分14秒 | 映画 (新作日本映画)
 今村夏子原作の「星の子」が大森立嗣監督・脚本で映画化された。原作(朝日文庫)は持っていたので、映画を見る前に読んでみた。どちらも傑作だ。原作は時系列で進行するが、映画は主人公の15歳時点に始まって過去が挿入される。原作のエピソードを全部映像化すると時間が超過するから、普通は適宜省略する。この映画も同じだが、内容的なエッセンスはほとんど原作通り。意図したものも同じだと思うが、読み取りは見るものに任されている。

 今村夏子(1980~)は「こちらあみ子」(2011)が芥川賞候補になって評判を呼んだ。読んでみたが、僕にはよく判らなかった。しばらく作品がなかったが、「あひる」(2016)、「星の子」(2017)が続けて芥川賞候補になり、2019年に「むらさきのスカートの女」で芥川賞を受賞した。文庫「星の子」に小川洋子との対談があるが、小説を書く技術のようなものがなくて書き始めたので最初は書くのが難しかったようなことが語られていた。「星の子」は会話中心だが、かなり練られている。

 今村夏子の小説は、登場人物の目が見たままに描写されている。主人公の林ちひろは未熟児で生まれ、全身にかゆみが出て泣き止まない赤ちゃんだった。父親が職場で悩みを相談すると、「落合さん」はそれは水が悪いと断言し、この水を使うと良いと言われる。その貰った水でちひろを拭いてあげたら、やがてウソのように腫れがひいていった。その水は「金星のめぐみ」といって、「ひかりの星」という宗教団体のものだった。以後、両親は信仰に熱中し仕事も変わる。

 「怪しい宗教」と思った姉の「まーちゃん」はそんな親に反発する。「おじさん」(母親の兄)と姉が結託して、段ボール箱に入ってる水の中味を公園の水道水に変えてしまう「事件」が起きる。おじさんは「これで目が覚めただろう」と言うが、両親はおじさんに二度と来るなと言う。映画では詳しく描かれないが、この間両親は何度か引っ越して貧しくなっていく。小学校でも孤立することが多く、姉の生活も荒れていく。落合さんの家に時々行くけれど、そこの長男は引きこもりになっている。

 やがて学校でも友だちができるが、ちひろは学校にも「金星のめぐみ」を持って行っている。小学生の時、「ターミネーター2」を見て、エドワード・ファーロングに夢中になった。何度かクラスメイトを好きになったけど、全然目じゃない感じ。そして中学3年になる。映画はそこから始まる。ちひろ(芦田愛菜)は新任の数学教師「南先生」(岡田将生)に夢中になった。2年生と3年1・2組の授業を担当するという。女子テニス部の顧問だというから、テニス部に入部しようと部長に言うと3年生は募集してないと言われる。授業中は南先生の似顔絵を描いている。
(南先生の新任あいさつ)
 ある日、友だちの「なべちゃん」(新音)が卒業文集委員になって文章を直していた。ちひろも手伝うと、なべちゃんのボーイフレンド新村君もやって来る。3人で遅くなってしまったら、南先生が下校指導に来る。新村君が先生、車で送ってよなどと言う。そこから物語で一番深刻な場面になるが、ここでは書かない。そして学級担任がインフルエンザで休んで南先生が代理で学活に来る。そこでちひろが手ひどく叱責されるのだが、その間の心の揺れは原作の方が一人称で書かれている分理解しやすいかもしれない。
(なべちゃん、新谷君と3人で)
 ラストは宗教の研修旅行。そこで部屋が別なのでちひろは両親になかなか会えない。最後の最後になって、永瀬正敏原田知世の両親と一緒に星を見に行く。これらのシーンを通して、ちひろの心の中は描かれない。姉は妹が病弱だったから親が宗教にはまり込んで家が崩壊したと思っている(らしい)。だから高校も辞めて家出してしまう。しかし、ちひろは親を愛しているし、宗教も反発はしていない。ただ疑問が全くないわけでもないらしい。一方で、おじさんは両親と絶縁しても、ちひろを心配している。高校へはおじさんの家から通学してはどうかと提案するがちひろは今の家から通うという。
(星を見つめるちひろと両親)
 予告編で芦田愛菜が「作品を見て、心がぽっと温かくなって頂けたらうれしいです。」と言ってるが、これは心が温かくなる映画ではない。むしろ「不穏な感じ」が漂う物語だと思う。芥川賞の選評を見ると「虐待」だと言っている人もいるが、虐待とは言い切れないだろう。両親からすれば、ちひろの病気が治ったという実体験から宗教を信じたのである。その後の生活が苦しくなっても、それは試練だと思っているだろう。主観的には不幸ではなく、子どもにも愛情を注いでいる。「糸」の小松菜奈やドラマ「悪党」の新川優愛が演じた役柄は本当の虐待だったけれど。

 しかし、この宗教は一般的には「怪しい宗教」だ。物語内では「金星のめぐみ」に卓効があったことになっているが、奇跡のパワーが詰まった水なんかない。それにいろいろと高額なものを売りつけるらしい。子どもたちに優しい教団の人気者、海路さん高良健吾)や「昇子さん」(黒木華)にも問題があったという噂が子どもたちに飛び交っている。学校にも「金星のめぐみ」を持って行ってるから怪しく思われている。風邪を引かないはずが、やはり風邪気味になっている。

 「毒親」とか「虐待」と言わずとも、親が自分の信念体系を子どもに押しつけることは多い。親が挫折したスポーツや芸能をやらせるとか、難関大学入学を期待するとか…。ちひろを通して世界を見ていると、大人になっていく痛みが伝わってくる。それを芦田愛菜が好演しているけれど、ある意味ではイメージがぴったりすぎて同情し過ぎてしまうかもしれない。「芦田愛菜」という情報をシャットアウトして映画を見ることは不可能だし、今では原作を読むときも顔が浮かんでしまうだろう。しかし、その「描かない」ことで描く手法を映画でもうまくいかした大森立嗣監督の才能をよく感じ取れる。
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追悼・筒美京平と70年代思い出の歌謡曲

2020年10月16日 22時58分53秒 | 追悼
 作曲家の筒美京平(つつみ・きょうへい)が10月7日に亡くなった。80歳。もちろん名前は知っていたが、ではどんな曲を作ったのか、よく知らなかった。昔はテレビに歌番組がいっぱいあって、ヒット曲を歌うときに○○作詞、○○作曲と紹介する。いしだあゆみの「ブルー・ライト・ヨコハマ」や尾崎紀世彦の「また逢う日まで」などは本当に大ヒットしていたから、何度もテレビで聞いたはずだ。そして知らず知らずに名前もインプットされたということだろう。

 だけど筒美京平個人のことはほとんど知らなかった。僕らが知っていたのは、「スター誕生!」に審査員として出演していた都倉俊一三木たかしだった。「スター誕生!」というのは視聴者参加型のオーディション番組で、森昌子桜田淳子山口百恵の「中三トリオ」やピンク・レディを生んだことで知られる。作詞家の阿久悠や都倉俊一、三木たかしらが毎週講評していた。

 筒美京平はマスメディアに出ることを好まず、裏方に徹していたという。だから僕も筒美京平という作曲家をほとんど意識しなかった。今回調べてみると、作曲家別年間売り上げで70年代に5回、80年代にも5回、計10回も1位になっている。これは他の作曲家を圧倒している。そのくらい売れる曲を作っていたのである。先の2曲に加えて、ジュディ・オング魅せられて」、岩崎宏美ロマンス」、太田裕美木綿のハンカチーフ」、近藤真彦スニーカー・ブル~ス」「ギンギラギンにさりげなく」など誰もが知るヒット曲がある。21世紀になっても、安室奈美恵TOKIOなどのヒット曲を手掛けていて、その息の長い活躍には驚くしかない。

 そういう大活躍作曲家だから自分もレコードを持っているはずだ。そう思って探してみた。でもLPの方が多くて、シングル盤は50枚ぐらいだった。(もっと買ったのかもしれないけど、今すぐ見つかったものでは。)洋楽もあるし(「やさしく歌って」とか「イエスタデイ・ワンスモア」があった)、日本では「シンガーソングライター」の曲が多い。LPを買うほど好きじゃないけど、曲が好きという場合。「サボテンの花」とか「贈る言葉」とか。歌謡曲は案外持っていなかった。
(南沙織「想い出通り」)
 そんな中に筒美京平作曲のレコードは3枚あった。なんと言っても南沙織だ。1971年に「17歳」でデビューしたときに、なんてステキに輝いていたことか。今思えば沖縄出身スターのはしりだった。1978年に引退後、翌79年に篠山紀信と結婚してしまった。年の差14歳である。(もっと離れているかと思い込んでいたけど、これぐらいならアリか。)ジャケットの顔写真が好きだから、「想い出通り」(1975年)を先に挙げた。有馬三恵子作詞で「恋したことだけ残ってて 名前も覚えてないけれども おなじみの街角を行けば 口笛を歌いたい気持ち 私もあれからいろいろと変わったでしょうか」というリフレインが好きだった。
(南沙織「ひとかけらの純情」)
 でも僕にとって南沙織のベストは「ひとかけらの純情」(1973年)だった。「いつも雨降りなの 二人して待ち合わす時」と始まる。始まりは楽しかった日々が変わってゆく。「何も実らずにいつも終わるのね」と切ない。有馬三恵子作詞だが、このフレーズが単に一つの恋の終わりではなくて、僕らの世代を「予言」したかのように感じられた。実際に何十年を生きてきて、今僕が感じるのは「何も実らずにいつも終わるのね」という言葉だ。これはまあ作詞の話だけど、筒美京平の曲も素晴らしい。何気なく口ずさんでしまう。最後まで「ひとかけらの純情」を持っていたい。
(太田裕美「赤いハイヒール」)
 太田裕美の「木綿のハンカチーフ」も持っていると思っていたけど、見つからなかった。なくしたのか、買ってなかったのか。しかし「赤いハイヒール」を持っていた。松本隆作詞で、「寂しがりやのそばかすのお嬢さん」がふるさとから東京駅に出てきた話。「石ころだらけ私の青春 かかとのとれた赤いハイヒール」と切なく歌い上げる。まあ、そういう歌が僕は好きだったのである。
(筒美京平氏)
 筒美京平にとって「また逢う日まで」「魅せられてで2回レコード大賞を獲得した70年代が最高の時代だろう。この2曲もこれぞ本格的歌謡曲という大傑作だ。しかし、80年代アイドルが主に筒美京平の作曲だったことも落とせない。近藤真彦田原俊彦に続き、83年から早見優小泉今日子柏原芳恵中山美穂本田美奈子などに数多くの曲を提供しベストテン上位に入った。しかし、80年代アイドル論は僕が語ることではない。僕の思い出にあるのは70年代初期。南沙織ばかり書いたけど、天地真理アグネス・チャンなどである。
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