尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

佐倉歴史散歩

2017年11月27日 21時21分11秒 | 東京関東散歩
 千葉県佐倉市堀田氏11万石の城下町である。天守閣などは残されてないけど、広大な城跡は「佐倉城址公園」として整備され、千葉県で唯一「日本100名城」に選ばれている。関東で一番武家屋敷も残っていて、一度は歴史散歩に行きたいと思っていた。京成佐倉駅に着いたのはお昼近く、駅前の観光協会でレンタサイクルもあるけど、どうしようかなと思った。史跡は点在しているが、写真を撮りながらブラブラ歩くのも良い。結局は「順天堂記念館」を省いて歩いて回った。

 まずは駅前からずっと歩いて「旧堀田邸」を目指す。国指定の重要文化財で、庭園は国指定の名勝である。と言っても江戸時代から残されたものではなく、佐倉藩最後の殿様である堀田正倫(ほった・まさとも)が1890年(明治23年)に建てたものである。けっこう駅から遠くて、ちょっとウンザリしたころに「ゆうゆうの里」という福祉施設が見えてくる。「旧堀田邸」こっちと出ているから、施設の中へ入って行くけどいいのかな。と思うと、確かにそこからしか行けないのだった。
   
 写真で判るようにお庭が素晴らしい。今は紅葉も見られたけど、「さくら庭園」と呼ばれて春の桜も見事なんだという。広々とした芝生が広がり、灯篭なども置かれている。下を通るバイパスが眼下に見えるが、こんなに高台にあったのかと思う。庭園の設計は東京巣鴨の植木職、伊藤彦右衛門という人によるものだと書いてある。元は堀田家農事試験場が広がり、3倍もの広さがあった。
   
 堀田邸の方は玄関棟、座敷棟、居間棟、書斎棟、湯殿が残され、門番所、土蔵とともに重文に指定されている。元は台所棟もあったというが大部分が解体されている。庭の奥に門番所と土蔵があったみたいだが、見損なった。いろいろ細かな見どころがあるんだろうが、違いはよく判らない。

 堀田邸から武家屋敷までもけっこうある。印旛総合庁舎を通り過ぎ、坂を上ると近づいてくる。急坂が多く、これは自転車じゃ大変だったかもしれない。武家屋敷は10軒ほど残っているというけど、広壮な高級武士の館ではない。どう見ても下級武士の、映画「たそがれ清兵衛」が住んでいたような家ばかり。表から見るとそれなりだけど、裏には畑なんかが広がっている。
     
 武家屋敷は3軒が公開されていて、上の写真は旧河原家住宅(千葉県指定有形文化財)。ここで3軒分の料金を払う。この住宅が一番大きい。ここだけ中へ上れない。いったん道に出て、隣の旧田島家住宅(佐倉市指定有形文化財)へ。(写真の前2枚)ここは復元整備されたもの。どの屋敷も18世紀前半ころのものらしい。そこから旧武居家住宅(国登録有形文化財)へは裏を周って行く。この住宅は百石未満の藩士が住む規定と規模が一致しているという。
   
 佐倉の武家屋敷はこのように小さな屋敷が立ち並ぶところに面白さがある。公開されていないところも含めて、通り一帯に風情がある。後の2軒は上に上がれるということだたが、寒くなってきたし堀田邸を見たからもういいやと思ってしまった。また別に季節に行ってみたい。道の端っこに「ひよどり坂」という急坂がある。これまた昔そのままのような道。そこから市民体育館、佐倉中を経て、もう佐倉城の一部になってくる。歴博の「くらしの植物苑」という施設もあった。ここもいずれ行ってみたい。
  
 空堀が大きく、非常に広い。多くの人が散策している。紅葉も素晴らしい。本丸跡にも何も残っていないけど、歩きがいがある。二の丸跡には堀田正睦とハリスの銅像があった。下の最初の写真だけど、小さいから判りづらいかもしれない。堀田正睦は幕末に開国を進めながら、孝明天皇の勅許が得られず挫折した。後任の大老井伊直弼が日米修好通商条約を締結した。ハリスと堀田正睦というのはちょっと強引な組み合わせにも思うけど…。
   
 佐倉城は1611年から17年の間に、土井利勝によって築城された。江戸周辺の関東地方には譜代大名の重要人物、幕閣に列し老中などを務める人物が配置された。その後、諸氏が入城しているが堀田氏の時代が長い。家光時代の老中、堀田正盛とその子の綱吉時代の老中、堀田正俊、そして幕末の老中、堀田正睦(ほった・まさよし)が知られている。正盛と正睦が佐倉藩だから、ずっと続いていたのかと思ったら、正盛の子正信の時代に改易され、正俊の子孫が1746年に移って来たという。その後は幕末までずっと堀田氏が続いた。江戸時代の城下町の様子がかなり残される貴重な町だ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする