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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

映画「グレート・ビューティー」

2014年12月29日 22時30分12秒 |  〃  (新作外国映画)
 イタリア映画で、今年度の米アカデミー賞外国語映画賞を受賞した「グレート・ビューティー 追憶のローマ」を遅ればせながら見た。パオロ・ソレンティーノ監督。非常に素晴らしい映像美で、現代の混沌と退廃を描きだした名作。好き嫌いはありそうで、周りの観客の中にもつまらなそうにしている人がいたが、ストーリイ性がないので判りにくい面はある。でも、流麗な映像美に酔いながら、様々のエピソードを通して現代人の不安があぶりだされて来て、非常に素晴らしい作品だと思う。ロードショーでは見逃して、新文芸坐の一日だけの上映で見たが、今後も再見したい映画。

 ジェップ・ガンバルデッラという主人公の65歳のパーティから映画は始まる。(というか、その前にローマ観光中の日本人旅行客のシーンがあるのだが。)このジェップという人物は、昔「人間装置」という傑作小説を書いて文壇に認められた。しかし、その後は書けなくなり、毎夜毎夜セレブのパーティを渡り歩き、雑誌のインタビューなどの仕事をしているという人物である。簡単に言えば、この映画はジェップをだしにして、ローマ地獄めぐりをしていく話で、映画ファンならすぐピンとくるようにフェリーニの「甘い生活」や「フェリーニのローマ」、あるいは「8 1/2」にインスパイアされている。

 ジェップは自分を振り返り、もう自分に遺された時間は少ないと思う。そんな日々に、かつての恋人エリーザが死んだと告げられ、しかも彼女の夫からは妻はずっとジェップのことを愛していたと言われる。そんな時、旧友のストリップバーに立ち寄ると、42歳にもなる娘ラモーナの結婚相手探しを頼まれる。ジェップはラモーナと意気投合し、一緒にあちこちを訪ね歩くようになる。しかし、ラモーナも永遠に去っていき、親友の劇作家もローマを捨て…。そんな日々に104歳の聖女がアフリカからやってくる。そういうエピソードを書き連ねていても、この映画の魅力を伝えたことにはならないだろう。現代人の不安と混迷を描いているわけだが、「甘い生活」時代のエネルギーではなく、ひたすら流れていくことへの諦念のようなものがある。

 画面はほとんど動いている。しかし、手持ちカメラによる不安定なものではなく、移動やクレーン撮影、またはクローズアップ(それらは渾然一体となっていると僕は思った)などによるもので、非常に流麗なカメラワークでとらえられる「永遠の都」の姿は陶然となるほど美しい。こういうカメラは最近は珍しいが、「すべては歴史の中で移りゆく」という映画のテーマを表わしているのだろう。性と死、ウソと真実を行ったり来たりする映画世界は圧倒的な印象を与える。パオロ・ソレンティーノ(1970~)は、「イル・ディーヴォ」というアンドレオッティ元首相を描いた代表作をなぜか見逃していて、ショーン・ペン主演でアイルランドで撮った「きっとここが帰る場所」しか見てない。ジェップ役のトニ・セルヴィッロは、いつもソレンティーノ監督作品に出ているらしいが、驚くほどの名演。歴史遺産だらけのローマという舞台も素晴らしく、非常に満腹した映画。旧作もいろいろ見ているが、どうもまとめて書く気持ちが起こらない。「グレート・ビューティ―」は新作なので簡単に書き残す次第。(この日本語表記はどうなんでしょうね。英語題であるのは仕方ないのだろうか。)
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新しい織田信長像をめぐって

2014年12月29日 00時40分05秒 | 〃 (歴史の本)
 織田信長(1534~1582)は誰でも知っている。好き嫌いは様々でも、日本史上の破格の人物と思われてきた。ときには「無神論者」とか「自分が神になろうとしている」とまで言われる。足利将軍家だけでなく、天皇や公家の権威まで内心では否定していたとも思われている。比叡山を焼き討ちし、一向一揆を「寝切」して、中世的な宗教の時代を終わらせた「革命児」である。その残虐さにおいても人間離れ、時代離れしていた。軍略においては「天才」で、少数の兵ながら機略で勝利したり、最新の兵器である鉄砲を縦横無尽に駆使して、全国統一を進めていった。これが「信長神話」である。

 そういう信長が統一半ばに「本能寺の変」で倒れた。それは単に明智光秀の裏切り程度の問題ではありえない。背後に驚くべき大陰謀があったに違いない…と最近でも「本能寺の変の黒幕探し」本が無数にある。ところで、今書いたような「俗説的信長像」は今どんどん覆されている。少しまとめて読んでみたので、少し紹介しておきたい。信長本は非常に多く、とても追い切れない。ここでは3冊の画像を載せたが、読んでる本はもっと多い。売れるからだろうが、在野の研究者や歴史マニアの著書も多い。

 そんな中で、定評ある吉川弘文館の「人物叢書」から出た池上裕子「織田信長」(2012)は、最近の信長研究のまとめでもあり、反響も大きかった。帯には「英雄視する構成の評価を再考し等身大の姿を描いた決定版」とある。僕は今回やっと読んだけれど、歴史ファンなら読んでおくべき本だろう。洋泉社の歴史新書から日本史史料研究会編「信長研究の最前線」が出た。若い研究者による最新動向が判る本。そして最後に、一向一揆の研究者として著名な神田千里「織田信長」(ちくま新書)が出された。帯には「この男、革命児にあらず!」とある。近年の研究動向を簡単にまとめれば、そういうことになるかと思う。歴史小説に出てくる信長像とは大分違う。
  
 戦史の再検討は前から行われてきた。桶狭間の戦い(1560)は、う回路から雨中を奇襲攻撃した信長が、上洛を目指す今川軍を襲撃したと言われてきた。しかし、う回路ではなく正面から攻撃したようだし、今川軍が上洛目的だった証拠はない。長篠の戦い(1575)も、鉄砲の三段打ちなどの「革命的戦術」で武田軍を破った「世界史的な意義」まで主張されてきたが、今は「三段打ち」など不可能だとされる。近代的な武器と訓練あってこそ可能で、当時の火縄銃では無理なのである。音も大きいし、機動的に動けない。信長だけが新技術に積極的というのも「神話」で、武田軍も鉄砲はかなり持っていた。

 教科書に必ず出てくる「楽市楽座」が信長のオリジナルではなかったとは、最近言われるようになった。そもそも畿内の状況ばかりが取り上げられ、関東や九州の戦国時代などはあまり知らないものである。しかし、戦国期の史料は関東の後北条氏が一番残っているのだそうだ。相模や武蔵では北条氏の支配が長く続き、滅亡後はそっくり徳川氏の支配に引き継がれたからである。日本各地で戦国期の研究が進んでくると、他の大名でも信長と似たような政策を行っていたのが判ってきた。今までの信長像は江戸時代のバイアスが大きくかかっていたと思う。徳川氏は豊臣氏を滅ぼしたが、織田信長は家康の同盟者だったから、「信長は先見性があった」(から家康と組んで全国統一を進めた)けど、「豊臣政権は失政が多かった」(から人心は家康に移った)とされたわけである。

 重要点はいくつもあるが、まず「天下布武」について。信長は美濃の斎藤氏を制圧して、それまでの稲葉山を岐阜と改名し、「天下布武」の印を使い始めた。そして足利義昭を擁して上洛したので、この時点から全国統一を目指していたと思われてきた。それが全く間違いで、当時の「天下」とは「五畿内」(山城、大和、摂津、河内、和泉)、つまり首都圏制圧が「天下布武」である。室町時代後半は将軍を擁した有力守護大名が畿内に実権をふるうのが、幕府の実態だった。信長=義昭体制も同様で、決して新しい政体を目指していたわけではない。その後、両者の対立が激しくなるが、義昭が人心を失ったというべきで、信長と天皇、公家との関係は悪くない。戦闘で苦戦することも多い信長としては、「天皇の権威」が必ず必要なのである。天皇の権威が不要だったなどというのは全くの間違いで、信長ほど「勅命講和」(天皇命令での停戦)をたくさん使った武将はいない。

 「一向一揆」の理解も大きく変わってきた。今までは、ともすれば「一向一揆=農民軍」的な見方があった。全国統一を目指す信長との戦いは、領主権力と農民階級の雌雄を決する一大階級決戦とさえ思われた。しかし、加賀を一向一揆が支配した時代には加賀国内の領地は本願寺が支配し、税も本願寺が収めてきた。朝廷からも、他の大名からも、本願寺は戦国大名のひとつと扱われたのである。教主顕如の妻は左大臣を務めた三条公頼の娘であり、顕如の姉は武田信玄に嫁いでいる。信玄と顕如は義兄弟なのである。公家と武家と本願寺をつなぐネットワークがあり、一向一揆も信玄などとの反信長同盟の一環なのである。確かに信長は一向一揆を根切(女子供も含めた全員殺害)にしたが、それも戦国の戦いでは多かった。「階級決戦」や「宗教との戦い」だったら、その後本願寺が存続を許され、秀吉や家康とは共存した事実が理解できない。

 案外普通の武将だった信長であるから、もう少し長命だったら、武田勝頼に勝利した後の「朝廷による三職推任」(朝廷側から、信長に太政大臣、関白、征夷大将軍のうち、いずれか望む職に就くように求めてきた)を受けていただろう。しかし、その時は訪れなかった。明智光秀の反乱は、今は「四国政策の変更」が大きな理由だろうという理解が進んできた。信長は阿波(徳島県)が本拠の三好一族と戦っていたから、ある時期までは土佐の長宗我部元親の四国統一を支持していた。その取次が明智光秀だったのである。光秀の有力家臣斎藤利三の異母妹が元親の妻だったという縁である。しかし、信長は突然長宗我部攻撃に方針を変更した。本能寺の変は、まさに四国征討直前に起きた。信長の子信孝を総大将にした四国征討軍は翌日に出発予定だったのである。

 信長は独裁的で、尾張出身者を優遇し、息子たちを重視していたのは間違いない。そのため、後から参加した外様的な人々の多くは離れていった。これは戦国時代のやむを得ない生き方なのかもしれない。毛利家で信長との交渉役を務めていた安国寺恵瓊(あんこくじ・えけい)は、織田方の秀吉と交渉を重ねて、毛利氏に以下のような報告をした。「信長之代、五年、三年は持たるべく候。明年辺は公家などに成さるべく候かと見及び申候。左候て後、高ころびに、あおのけに転ばれ候ずると見え申候。藤吉郎さりとてはの者にて候」(信長の時代は、後3年、5年と持たないだろう。来年あたり公家になると思われる。その後、「高ころび」するだろう。秀吉は信長と違って一緒に転落するとは思えない人物である。」すべて当たったことで有名である。具眼の士には見えていたのである。
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東大散歩②-三四郎池や安田講堂

2014年12月27日 00時21分29秒 | 東京関東散歩
 東大散歩の続き。東大農学部を見たら、本郷通りを南下して「本郷キャンパス」に向かう。農学部から言問通りをまたいで陸橋が出来ているので、それを利用してもいい。でも東大も広いので、地図を見て門から行かないと迷う場合もあるだろう。様々な建物が現われ、イチョウ並木や三四郎池など自然景観も面白く、相当面白い散歩コースだと思う。(なお、東大には無料の東大博物館があるのだが、現在は閉館しているので見られない。)

 有名な赤門は後で見るが、実は正門ではない。正門は赤門の北の方にあり、そこからまっすぐ行けば有名な安田講堂である。1925年竣工で、登録有形文化財に指定されている。匿名の寄付で建てられたが、これは安田財閥の創始者で、暗殺された安田善次郎によるものだった。そのため「安田講堂」と言い習わされている。(正式には「東京大学大講堂」。)ここは、東大闘争時の「安田講堂占拠事件」と機動隊による強制排除の場所として、僕の世代にはテレビで見た印象が鮮烈である。もう、みんな朝から夜まで見ていた。そのため荒廃していたが、1990年の大改修以後、卒業式などもに使われているという。現在も再び大改修中で、そばには近づけなかったが、外見は非常に力強い。
   
 ちょうどイチョウ並木は黄葉の盛りで、素晴らしかった。是非、来年以後にまた行ってみたい。
   
 安田講堂から少し歩くと、「三四郎池」がある。正式には「育徳園心字池」である。夏目漱石「三四郎」に印象的に出てくるから、「三四郎池」というようになった。それはもちろん知っていて、前に見たこともあるんだけど、きちんと周りを歩いたことはなかった。けっこう大きい池なので、歩きがいがある。多少のアップダウンもある。写真を撮ると、ちょっと山の中みたいなムードがある。周りから隔絶された感じで、池の水面に映る景色が美しい。
   
 三四郎池のそばに大きな銅像があり、一体誰だろうと思うと、濱尾新(はまお・あらた 1849~1925)という元東大総長(枢密院議長や文部大臣などを歴任)の人物だった。また、イチョウに木のそばに、建築家のジョサイア・コンドルの銅像もあった。 
   
 さて、農学部3号館とともに都の歴史的建造物に選定されているのが、「七徳堂」という武道場があるが、これは改修中で見られなかった。もう一つ「東京大学広報センター」がある。「旧医学部附属病院夜間診療所、旧医師会事務局」だという。これは一体どこにある?どうもよく判らないと迷ってしまったが、東大病院、龍岡門の近くの通り沿いにある。休日に行ったので中には入れなかった。道の向こう側から撮った方がいい。1926年完成という。他にも歴史的な建造物が多いようだが、どんどん建て直されてしまう可能性がある。しかし、大きな機能的なビルではなく、堅固な石造りの方が「知の殿堂」のムードがあると思う。大学の風景というのは、そのような「近代化遺産」の魅力だろう。
   
 医学部、東大病院は本郷通りから行く場合、真裏の位置にある。通り沿いが小高くなっていて、銅像がある。誰かと思えば、ベルツスクリパという人だった。明治期のお雇い外国人の医学者である。ベルツは日記を残したことで有名だが、草津温泉を有名にした人でもある。大聖寺藩上屋敷跡(加賀前田藩の別家)の碑や水原秋桜子の句碑もある。
   
 こうやって歩き回っていると、けっこう時間が経つし疲れてくる。ぐるっと回って、最後に「赤門」から出ようと思う。1827年に作られた。重要文化財。本郷キャンパスは旧前田家上屋敷だが、11代将軍家斉の息女が前田家に嫁ぐ時に造られた門だという。常に人がいて記念撮影をしているので、この門だけを昼間に撮るのは不可能だろう。東大そのものを赤門に例えることもあるぐらい、有名な門だけど正門ではない。(前2枚は中から、あと2枚は外から。)
   
 外は本郷通りで、通りを渡ると樋口一葉や宮沢賢治などの故地。本郷三丁目周辺は東京の中でも極め付けに面白いところの一つだと思うけど、そっちはまた別に。東大はあまり行ったことがなかったし、縁遠い気持ちの人もいるかもしれないけど、散歩コースとしては東京屈指の場所ではないかと思った。是非、晩秋に歩きたい場所。また「三四郎」を読んでるけど、まだ行ったことはない東京近辺の人はぜひ訪ねるべきだろう。
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東大散歩①-農学部と弥生周辺

2014年12月25日 23時29分03秒 | 東京関東散歩
 東京散歩で大学も取り上げてきたので、家から近い東京大学を散歩しようかなと思った。東京では12月初旬がイチョウの黄葉の見ごろなので、12月2日と7日に出かけた。選挙運動期間である。選挙関係を書くのは終わりにして、こっちを書くけど時期がずれた。でもいつ行ってもいいのではないかと思う。(関係者以外、用のないものは入るなと門に書いてあるけど、たくさんの人が散歩してるし、外部公開している施設もあるので、問題ない。)2回行ったのは、途中でデジカメのバッテリーが切れてしまったからだが、一回では見逃しもあったので二度ぐらい行くほうがいい。

 東大は文京区の本郷一帯の他、目黒区の駒場の教養学部他全国に施設がある。今回、散歩したのは、東大というと普通思い浮かべる本郷キャンパスとその周辺。赤門、三四郎池、安田講堂など全国区の知名度を誇る名所が集まっているけど、その辺りは次回に回して最初に農学部とその周辺を取り上げる。赤門から本郷通りを北上して言問通りの信号を渡ったところ、この地域でも北にあるキャンパスである。地下鉄南北線東大前駅が近い。僕は地下鉄千代田線根津駅から寄り道しながら行ったけど、途中の話は後回しにして農学部の写真から。門を入るともう黄葉の盛り。
   
 特に最初の写真、ガラスに映って素晴らしいので、角度を少し変えて二枚撮った。奥の方の駐輪場は落葉が敷き詰められて凄かった。ところで、東大には「東京都選定歴史的建造物」が3つある。その一つが農学部3号館で、1941年建築の4階建ての建物である。門を入ってイチョウ並木の真向かい正面にある。本郷キャンパスを歩いていると、他にも古そうな建物がいっぱいあるんだけど、特にこれだけ指定されている理由は判らない。「震災復興計画に採用されたゴシック様式を踏襲」という。
   
 農学部で見逃してはいけないのは、門を入ってすぐ左側にある「農学資料館」である。びっくりしたことに、ここには「ハチ公の内臓」が保管されていた。ハチ公の飼い主だった上野博士の銅像もある。「ビタミン」の発見(「オリザニン」の発見)で有名な鈴木梅太郎のコーナーもある。小さいけれど、是非見ておきたい資料館である。また、門を入って左側に「朱舜水」の碑がある。明代の儒者で、明の滅亡により日本に亡命した。水戸学に大きな影響を与え、先ごろ散歩記を書いた小石川後楽園造営にも影響を与えた人物である。碑は「朱舜水先生終焉之地」とある。
   
 ところで、根津駅から東大に至る地域の地名は「弥生」という。そう、「弥生式土器」の弥生とはここ。弥生式土器発見の碑が工学部脇の言問通り沿いにある。その近くの道を曲がると、少し先に「弥生美術館」がある。高畠華宵の絵を中心に展示し、竹久夢二美術館も併設している。前はその隣に「立原道造記念館」があった。一回行ったことがあるが、惜しくも2011年に閉館となった。跡地は取り壊されているが、「やさしいひとらよ たずねるな!…」という道造の詩の一節が刻まれたパネルが無造作に工事現場に置きざりにされている。これはこれで奇観である。
   
 さて、根津駅から言問通りを行くと、左側に東大工学部が出てくる。一方、その反対側に渡って小さな通りを曲がっていくと、「異人坂」などという魅惑的な名前の坂がある地域に出る。その近くに作家、詩人のサトウハチローが住んでいた。「ちいさい秋みつけた」や「リンゴの唄」の作詞家である。前は家が記念館になっていて、閉館前に見に行ったことがある。(記念館は岩手県北上市に移されている。)今はすっかり取り壊されてマンションになっているが、説明のパネルが残されている。(写真ではよく判らないけれど。)その通りとは違うけれど、近くの通りに古そうな建物があり、近づいてみると「札幌旅館」とある閉館した旅館が残っていた。何だか由緒のありそうな…
  
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「0・5ミリ」と「超能力研究部の3人」

2014年12月23日 23時20分47秒 | 映画 (新作日本映画)
 最近の日本映画を2本。どっちも知らない人も多いかと思うので、書いておく次第。これも選挙前に見たので、早く書かないとどんどん忘れちゃう。まずは、安藤桃子監督・脚本「0.5ミリ」で、これは超ど級の問題作で、面白いこと極まりない。この映画が11月に公開されたことは知っていたけど、なんだかよく知らないうちに終わっていた。そうしたら報知映画賞作品賞を取って、テアトル新宿で上映された。僕はそこで見たが、東京ではシネマート六本木で再上映される他、全国各地で上映予定。しかし、この映画を見るのは結構大変で、何しろ196分もある。最初に上映時間を見た時は、僕もビックリしたのだが、いくら何でも3時間以上は長すぎる。でも、面白くて、見れば時間を感じない。

 安藤桃子監督(1982~)は2010年に「カケラ」という映画を作っていると言うが見ていない。その後、自分で原作を書いて「0.5ミリ」という映画を作った。主演は安藤サクラで、監督の妹である。つまり、この姉妹は奥田暎二、安藤和津の子どもで、奥田がプロデューサー、安藤和津もフード・スタイリストとクレジットされている。一家総出の作品だけど、そういう点が悪い方向にではなく、良い方に出た感じの映画である。安藤サクラは印象深い映画が多いけど、「かぞくのくに」や「愛と誠」よりも、のびのびと自然な感じで演じているように思う。それが生きるような題材だけど、高知県でオールロケしているのも生きている。ホントにそこにいる人間の映画という感じ。

 一言で言うと、「押しかけヘルパー」の過激な日常を描く老人福祉映画だけど、あまりに主人公の設定がぶっ飛んでいるので、問題提起やコメディという以上の「超迫力映画」になっている。安藤サクラも出ていた園子温「愛のむきだし」が、宗教や愛を描く映画という枠組みを超えて、ひたすら圧倒的な迫力で迫る「ぶっ飛び映画」だったのと同じような感触である。「老人と性」「老人とカネ」といったタブー的部分をも直視しているのも凄い。ヘルパーで行ってた家で「ある頼まれごと」をしたことから、人生が暗転、住む家も無くなったサワ。街で見かけた所在ない老人のところに押しかけて、勝手に居候を始める。それが坂田利夫とか津川雅彦とか、ちょっと事情は違うが柄本明なんかで、これらの芸達者も年寄りになって(まあ、演技だけど)、若いサワに翻弄されてしまう。その中から、今の日本の老人の姿もあぶりだされてくるが、そういう社会問題映画というより、ただ人間存在というものの面白さ、おかしさを画面にぶつけたような映画だと思う。僕は津川の寝たきりの夫人役、元オペラ歌手の草笛光子が素晴らしいと思った。長いけど、どこかで見て欲しい作品。 

 もう一本は、山下敦弘(やました・のぶひろ)監督(1976~)の「超能力研究部の3人」である。これはアイドルグループ「乃木坂46」のメンバー3人が出演する「アイドル映画」でもあるけど、その映画の「メイキング映像」も出てきて、というかメイキングも実は作られたものらしい「フェイク・ドキュメンタリー」であるらしい映画。非常に複雑かつ不思議な触感の映画で、他にちょっと類例を思い出せないようなトンデモ映画だと思う。じゃあ、面白いかと言えば、そこが判断が難しいんだけど。
 
 ある高校にある「超能力研究部」に所属する3人の女子高生。彼女らの超能力やら恋愛沙汰などの、相当にたるいストーリイがあって、それを演じるアイドル3人と演出する監督がいる。両者を通して、「アイドルとは何か」みたいな話になっていって、煮詰まると休日に海に行ったりする。(伊豆でロケしてる。)一方、アイドルであることにより、映画で実際のキスシーンをする演出を監督が指導すると、お目付け役のマネージャーが「上に聞かないと判らない」と言い出して撮影が止まる(という場面になるけど、これも「シナリオ通りの演出かも知れない」と思って見るわけである)。演技が下手だと、わざと「ケンカ」シーンで追いつめていき、「アイドル性」をはぎ取って行こうと試みる。その「メタ映画」というか、映画内で繰り広げられるアイドル論が面白いと言えば面白い。(どうでもいいと言えば、僕にはどうでもいいようにも思えるが。)主演者を一応書いておくと、秋元真夏、生田絵梨花、橋本奈々未という3人である。

 これは「乃木坂46」で見る人が多いのかもしれないが、僕は山下敦弘監督だから見たのである。山下監督は、最近若い映画監督を輩出していることで話題の大阪芸大芸術学部映像学科出身。卒業制作の「どんてん生活」で注目され、「バカのはこぶね」「リアリズムの宿」という映画を撮った。最後の作品はつげ義春原作の映画化で、僕はここから見ている。その後、僕の大好きな「リンダ リンダ リンダ」「松ヶ根乱射事件」「天然コケッコー」を撮って、ごひいき監督になった。最近の「マイ・バック・ページ」「苦役列車」と話題作を撮り続け、昨年の前田敦子の超ふて腐れぶりが捨てがたい「もらとりあむタマ子」も面白かった。来年は「味園ユニバース」という渋谷すばる、二階堂ふみ主演映画がもう控えている。とにかく要注目の監督で、短編映画なども作るほか、様々な活動をしているようである。こんなトンデモナイ映画もあるんだという意味で、映画に関心がある人はのぞいておいた方がいい。
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川本三郎「小説を、映画を、鉄道が走る」

2014年12月22日 23時15分52秒 | 〃 (さまざまな本)
 川本三郎さんの「小説を、映画を、鉄道が走る」が11月に集英社文庫に収録された。思わず買ってしまった後で、これは単行本で読んでるじゃないかと思い当たったけれど、「東北鉄道の旅」が加わっているから買う価値があった。先月末に読んで、いつか書こうと思ううちに総選挙が入り込んできて書くヒマがなかった。最近、本の話題をあまり書いてないけれど、とにかく毎日何かを読んでいる。昨日まで「曽根中生自伝」を読んでて、その後は池上裕子「織田信長」を読んでいる。今年の夏からフランス文学を久しぶりに読んでるんだけど、そういう話もおいおいと。 

 この本は鉄道の本ではあるけれど、小説や映画を全然知らない人はあまり楽しめないと思う。小説、映画、(時々マンガ)、鉄道を通して、(主に)昭和の情景を描き出したエッセイと言うべきか。とにかく、僕には楽しくて仕方ない本で、川本さんの本は概してそうなんだけど、中でも読書の悦楽に浸りきる本だった。

 そういう趣味的な本を紹介しようと思ったのは、その「鉄道と映画」「鉄道と小説」を通して見えてくる日本社会のありようを是非読んで欲しいと思ったからである。それが主で、従の意味で昔の映画や小説に触れる楽しさを知って欲しいと思うこともある。例えば、水上勉原作、内田吐夢監督の「飢餓海峡」が取り上げられているが、この映画はものすごい大迫力の傑作だけど、「戦後混乱期」を知るためにも重要な作品だと思う。この映画に出てくる森林鉄道が取り上げられているけど、貴重な挿話である。また僕の好きな田宮虎彦の「銀温泉」を新藤兼人が映画化しているが、それは花巻南温泉峡と言っている鉛温泉が舞台である。ここには花巻から通じている花巻電鉄が通っていた。これが有名な「うまづら電車」(たてながの車体)で、それは映画「銀温泉」で見ることができる。こういう話は関心がない人には全然意味がないし、関心がある人には知ってる話だろう。僕ならもっと鉛温泉のことを取り上げるけど、川本さんはそこは触れない。非常に深い風呂で有名な名湯なんだけど。

 これを読むと、ミステリーがよく取り上げられている。島田荘司「奇想、天を動かす」なんかまで取り上げているので、うれしくなる。しかし、一番多いのは松本清張。確かに清張ミステリーは、社会派である以上にトラベルミステリーでもあった。「点と線」「ゼロの焦点」「砂の器」などいずれもそうである。中でも一番は、やっぱり野村芳太郎が映画化した「張込み」だと思う。警官二人がマスコミを避けて、わざわざ横浜から夜行列車に乗り込み、佐賀まで犯人を張込みに行く。犯人の田村高廣が昔の恋人高峰秀子に会いに行くと見込んで、ずっと張り込む様子を丹念に描いていくわけだけど、この映画はまあ有名だからこれ以上書かない。清張は基本的には好きではないんだけど、それでもずいぶん読んでる。嫌いでも読めるのである。戦後社会史をやる時には必読だと思っていて、そのルサンチマンの激しさに辟易しながらも、つい読んじゃうのは下世話な面白さがあるからだろう。(それにしても山田洋次が映画化した「霧の旗」のような、嫌な触感が残る作品を何故書くのか。)

 
 僕はいわゆる鉄道ファンではないけど、親が私鉄勤務だったから、小さい頃は駅を全部覚えたりキップを集めたりはしていた。そのうち、世界の国や首都を覚える方が楽しくなって地理少年となり(今でも世界地図を見るのは大好き)、やがて古代史や戦国史に関心が出てきて歴史少年となっていった。だから、今は特に鉄道そのものに深い関心はないんだけど、近現代史に鉄道は不可欠だから、歴史の必須アイテムというか、近代化遺産としては面白い。この本で特に読んで欲しいのは、「戦時中も鉄道は走った」という章で、まさにその通り、東京大空襲の翌日も動いたし、8月15日も動いていたのである。それが日本の鉄道員の仕事であり、日本という社会なのである。これは当たり前のようでいて、当たり前ではない。最近見たジョン・フォードの「静かなる男」では、鉄道が遅れるのは当たり前に描かれている。アイルランドを描く文学や映画には、時々こういう自虐ネタみたいな設定があるんだけど、日本の鉄道は時間通り。2分遅れたとか、3分遅れたとか言って車内放送で謝罪するのはうるさいだけだと僕は思うけど、そういう社会の違いがある。それにしても、空襲直後でも鉄道を動かそうとする労働者がいたというのはすごいことだ。とにかく楽しい本で、小説や映画のガイドにも最適。川本三郎をあまり読んでない人にお勧めの本。(集英社文庫、640円)
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2014高石ともや年忘れコンサート

2014年12月20日 01時19分02秒 | 自分の話&日記
 高石ともやさんの「年忘れコンサート」は、30年以上夫婦で通っている年末の恒例行事で、今年は12月19日に亀戸カメリアホールに行ってきた。このブログにも毎年何かのかたちで書いてきたけど、今回も「是非知って欲しい話」があるので書いておきたい。

 今年のゲストは中川五郎。誰?と言われるかもしれないが、最も初期のフォークシンガーで、翻訳家、編集者としての仕事も大きい。僕もブコウスキーの翻訳者(大傑作「詩人と女たち」や「くそったれ!少年時代」は中川五郎の訳だった)としての方がよく知ってる。何で中川五郎なんだろうと思うと、それは今年1月に亡くなったピート・シーガーの追悼だった。「花はどこへ行った」を全員で歌ったりした後で、中川五郎コーナー。そこでは、ピート・シーガーの公民権運動の歌を歌い、次にボブ・ディランの「ライセンス・トゥ・キル」という歌を替え歌で歌った。「殺しのライセンス」と言えば「007」だけど、こっちは「誰が権力者に戦争のライセンスを与えたのか」というプロテストソング。あきらかに、今の日本の状況を踏まえて「誰があの男に強大な権力を与えてしまったのか」「それは私たち自身なのではないか」と突きつける歌である。最後にピート・シーガーの「腰まで泥まみれ」を熱唱。これは明らかにベトナム戦争をうたった歌だが、もう過去の歌かと思っていたら最近の日本でも意味が出てきたから歌っているという。(どっちもなかなか聞く機会もないだろうから、ユーチューブへのリンクをしておく。)完全に「反戦フォークシンガー」が戻ってきたのである。そうなってしまった日本の状況がある。

 高石ともやは、日本の伝統的な歌は「抒情詩」だけど、「フォークソング」は「叙事詩」を歌うと述べて、今でも広い意味での「社会派」である。だけど、マラソンやトライアスロンを始めて、ホノルルマラソンには今年も含めて38回連続出場。そういうイメージも強くなっいるけど、今回はまさに「日本の現状を歌う」みたいなコンサートだった。その後、「2014 東北の冬」と題して、「海に向って」を歌った。これは2011年の年忘れで歌った曲だが、被災地をめぐる中で歌ってきた曲である。3年前のブログに歌詞を紹介してあるが、ちょっと再引用すると、以下のような歌。

 *わたしはひとり海に向って/立っているのです
  海の風に吹かれながら/立ちつくしているのです
1.こわれる 世界を 止めようもありません
  何が 私に できると いうのでしょうか
 (*くりかえし)
2.あふれる 想いを 止めようもありません
  わかって いるのに どうにも できないのです
 (*くりかえし)  
3.流れる 涙を 止めようもありません
  それでも それでも 精一杯 生きたいのです

 これはアメリカのカーターファミリー(大恐慌時代ごろに活躍した家族のフォークグループ)の歌で、ずっと前に訳詩を付けて歌ってきたものだけど、まさに「3・11」のための歌としか思えない。「海に向って立っているのです」「こわれる世界を止めようもありません」「あふれる想いをとめようもありません」「それでも精一杯生きたいのです」…。この曲は長い間、本人も歌わなかった曲だけど、2011年には心にしみわたる曲としてよみがえった。

 その後で、山形県長井市で活動するアマチュアのフォークグループ「影法師」の曲が紹介された。僕は全く知らなかったグループで、これは是非紹介しておきたい。昨年の年忘れの打ち上げで、NHKが耳にタコができるくらい流してる「復興支援ソング」という「花は咲く」は嫌だなあ、偽善的だという話になって、その「アンサーソング」を作るべきでは、という話が出たらしい。やっぱりそう思ってるのかと僕も納得するけど、その「アンサーソング」に当たる歌をすでに作って歌ってたのが、この「影法師」の「花は咲けども」という曲である。影法師のホームページから、短縮バージョンを聞くことができる。

 原子の灰が 降った町にも 変わらぬように 春は訪れ
 もぬけの殻の 寂しい町で それでも草木は 花を咲かせる
 花は咲けども 花は咲けども 春をよろこぶ人はなし
 毒を吐きだす土の上 うらめし、くやしと 花は散る

 花は咲いても、春を喜ぶ人は避難生活から戻れていないではないか…という悲痛な現実を歌う。ところで、実は彼らは「白河以北一山百文」という歌をすでに何十年も前から歌っていた。東北弁で歌われるので、なかなかわからないんだけど、東北道が開通したら首都圏からのゴミが押し寄せてきたという現実を歌ってる。その3番にすでに原発を東北に押し付けるなと歌っていたのである。作詞した「あおきふみお」さんも来ていて熱い思いを語っていた。このコーナーの最後に「We Shall Overcome 蝉しぐれ」を歌って終わったのが印象的で、感動的だった。是非、影法師のサイトを見て下さい。

 その後休憩となり、後半はバンジョーを交えて、様々に歌ったが、最後の方でまたビックリ。岐阜県中津川で活躍してきた笠木透というフォーク歌手がいる。高石ともやが歌う「わたしの子どもたちへ」を作った人。この人が最近作った「水に流すな」という曲を歌った。これがすごくて、「海を汚すなよ」「水に流すなよ」「私は恥ずかしい」と御詠歌のようなリフレインが繰り返される。日本人の心の奥底に響くような「抵抗歌」だと思う。まだユーチューブなどに見つからないが、横井久美子さんとのコンサートのようすなどは見つかった。

 客層は高年層はほとんどで、平均年齢65歳ぐらいかなと思ったけど、毎年ひとつずつ高石ともやとともに年齢を重ねてゆく。こういうコンサートに来るぐらいだから、ほぼ全員が棄権せず自民以外に入れたんだろうなと思うような集まりで、そういう意識を持った人が「私は恥ずかしい」と歌わざるを得ないような日本の現実から逃げられない。でも最後の最後は、持ち歌の一つ、アメリカのフォークソング「陽気に行こう」で締めくくり。「喜びの朝もある 涙の夜もある 長い人生 ならば さあ陽気にゆこう…」
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各党の比例票を見る-総選挙の結果②

2014年12月18日 23時52分11秒 |  〃  (選挙)
 もう少し選挙結果の話。各党の党勢を比例区票で見ておきたい。その前に投票率の問題がある。今回は2005年の衆議院選挙(郵政解散)以後の衆参両院選挙を主に検討の対象とする。まずはどのくらいの人が選挙に行っているのか、時系列的に。衆院選は赤参院選は青で示す。

 2005年衆院選(小泉首相)  67.51% 67,811,069票 
 2007年参院選(安倍首相)  58.64% 58,913,700票
 2009年衆院選(麻生首相)  69.28% 70,370,255票
 2010年参院選(菅首相)    57.92% 58,453,432票
 2012年衆院選(野田首相)  59.32% 60,179,888票
 2013年参院選(安倍首相)   52.61% 53,229,614票
 2014年衆院選(安倍首相)  52.66% 53,334,447票

 この数字を見て気付くことは、05年、09年の投票率が近年になく高かったことだ。もっとも1990年に行われた海部内閣時の総選挙は73.31%で、それ以前は何回かの例外は除き70%台は行っていた。ところが、1990年を最後にすべての国政選挙が7割以下なのである。この理由は、単に一回の選挙の問題ではなく、もっと大きな社会の変化が投票率低下をもたらしていることを示していると思う。(例えば、高齢化社会の到来や地域共同体の崩壊。) 

 09年に投票した人は約7千万票だが、今回は約5千3百万票
1700万票が消えた。しかし、最近の参院選はほとんどが、5割台。特に2013年参院選と今回の衆院選は、ほぼ同じである。これは「安倍首相を特に評価する人、全く評価しない人、とにかく選挙には行く人」の数が、13年7月の参院選と同じ数だということか。そう考えると、「今回の選挙は参院選だった」と言うべきかもしれない。選挙区が広く、政権選択ではない参院選は投票率が低くなる。今回は「政権選択が不可能だった」うえに、選挙までの期間が短く「候補者の周知が難しい」(実質的に「選挙区が広い」と同じ効果)という選挙だった。それは参院選の特徴を備えた衆院選だったということである。

 
 さて、各党の比例区の当選者数を見ておく。
 自民=68、民主=35、維新=30、公明=26、共産=20、社民=1
 与党合計は94議席で、過半数を超えている。(比例区は全180だから、過半数は91となる。)
12年総選挙を見ておくと、
 自民=57、維新=40、民主=30、公明=22、みんな=14、共産=8、未来=7、社民=1、大地=1
09年総選挙を見てみると、
 民主=87、自民=55、公明=21、共産=9、社民=4、みんな=3、大地=1

 もし、完全比例代表制だったら、前回は自公政権は誕生しなかった。民主か、または維新・みんなのどちらかと組むことが必要だった。前回は「維新」が第2党だった。今回は民主党が第2党に戻った。まだ09年からすると、半数にも回復していないが。「維新」と「みんな」は前回すみわけ、共同推薦をしたから、合計して54議席と考えると、今回はやはり維新は「大幅減」と見るべき。共産党は、確かにこの3回だけを見ると「大幅増」であるが、00年は21議席、96年は24議席を獲得していた。ただし、96年の比例区は200議席だったが。そうすると、現行の180議席になってからの最大は、2000年の21議席である。(今回は沖縄の小選挙区で当選したので、合計は21議席で並ぶことになるが、比例だけでは20議席。)03年から減り始めたのは、反自民票が民主に流れるようになったからだと思うが、民主の失墜、未来の解党、社民の低迷とあれば、「混り気なしの反安倍票」は共産党に入れることになるのだろう。

 社民党は1議席を九州ブロックで維持した。これは主に沖縄で自民に次ぐ第2党であること、村山元首相の出身地である大分で、第4党(自民、民主、公明に次ぐ)で7万票近く取っていることが大きい。しかし、他の党はどこの地区でも議席を獲得できなかった生活の党は東北で4.72%、次世代の党は東京で4.39%を得ているが、それが最大。社民党は九州で5.26%。全21議席の中でひとつを死守したわけである。この程度は取らなければ当選しないが、ほとんどは2%台。それでは落選である。20議席程度を比例配分することを考えると、小党には厳しい。そうすると、次世代の党は、その極右的イデオロギーが忌避されたというより、小さくて当選しそうもないから投票の対象にならなかったというべきか。社民党、生活の党も似たような感じで、要するに主義主張、人脈のうえで「純化主義」を取ると、今は議席を減らすという現実である。

 ということで、主要政党の比例での獲得票数を時系列で紹介しておきたい。千票単位四捨五入。 
 05衆院選07参院選09衆院選10参院選12衆院選13参院選14衆院選の順番

自由民主党
 2589万1654万1881万1407万1662万1846万1766万
民主党
 2100万2326万2984万1845万963万713万976万
公明党
 899万777万805万764万712万757万731万
日本共産党
 492万516万494万426万369万515万606万

「日本維新の会」 12年衆=1226万→13年参=636万
「みんなの党」  09年衆=301万→10年参=794万→12年衆=525万→13年参=476万
「維新の党」   14年衆=838万
社会民主党
 372万263万301万224万142万126万131万
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雪の奥日光で骨休め

2014年12月17日 21時27分39秒 | 旅行(日光)
 選挙のことばかり書いてたけど、突然、日光旅行。選挙と全然関係なく、「休暇村日光湯元」から「プチ・リニューアル」割引の案内が来たから、日程をやりくりしたわけ。よく行ってるから前にも書いたように思ったら、「冬の日光旅行」を今年の1月に書いていた。ほとんど同じだけど、写真を載せておきたい。この時期は雪でいろは坂が嫌だから、車じゃなくて電車・バスで行く。日光駅から日光湯元温泉まで、通常は片道1700円、フリーパス3000円のところ、この時期は宿泊者に限りフリーパスがなんと半額になる。それに特典もある。(要事前連絡。)

 朝はゆっくり10時過ぎに出て、東武日光駅に1時過ぎに着き、1時半過ぎのバスに乗る。市内は雪がないが、いろは坂の途中から雪が見え始め、坂を登りきると道も積雪。さっそくフリーパスの特典を利用して、「日光レークサイドホテル」で降りる。湖畔で最初にあるホテルである。ここでフリーパス利用者はコーヒーとチーズケーキの無料サービス。中禅寺湖に向かって、完全に雪景色。夏は男体山が見えたけど、もう全く見えない。チーズケーキは非常に美味しいので、これはお得なサービス。
  
 近くのバス・ターミナルからバスに乗って、戦場ヶ原、光徳を経て湯元温泉へ。外の景色は雪一色。鹿も猿も見ない。バスが終点に着くと、予想通り宿の送迎車が待っているから、ホテルに直行。全く濡れずに宿に入り、のんびりして過ごす。今回は何も予定はなく、スノーシューもやらず、東照宮にも行かない。単に温泉に入って、美味しいものを食べる。それだけの目的である。窓の外は雪。よく判らないだろうけど、木の向こうに、湯ノ湖が見える。冬の方が葉が落ちて景色はよく見える。食事は「栃木シャモのつくね鍋」で、今回割引プランで利用。お酒は天鷹があったが、それに近いという「惣誉」(そうほまれ)を頼んでみる。これはいける。鍋にはうどんがついてるのに、蕎麦もつい食べてしまう。ご飯、お汁、サラダ、デザートだけバイキングになっていて、そこに白飯、山菜ご飯、蕎麦があった。満足。レストランは一番ロケーションが素晴らしいところにある。朝、全景を撮ってみた。夜はロビーの暖炉で「焼きマシュマロ」体験。周りがザラメのようになって、中が綿菓子のような柔らかさ。
  
 お風呂は、いつ行っても色が違う。青、白、透明の時もあったけど、今回は緑っぽかった。かなり硫黄臭があるが、どの宿も源泉掛け流し。名湯だと思う。夕方は無理だが、朝の露天を撮ってみた。雪が降っていて、素晴らしい雪見風呂。風呂へ行く途中で撮った周りの風景も。
    
 朝ものんびり。少し周りを歩こうかと出てみたけど、雪が多くて湖に近づくとびしょ濡れになりそうで諦めた。除雪車があちこちで道を作っている。真ん前がスキー場で、クロスカントリーやスノーシューで出かける人も多いところだが、アウトドア志向が来る時期ではないようで、すぐ帰る高齢客が多いようだった。前の2枚が宿周辺で、最後の写真が湯元温泉バス・ターミナル付近。
  
 昨日より風雪がひどかったけど、いろは坂を下りると全然積もってないし、風も弱い感じ。そこで神橋で降りて、近くの小杉放菴記念日光美術館へ寄った。ここでは12月23日まで、「国立公園絵画展」をやってる。国立公園制度80年で、昔描かれた絵と最近の写真を並べて展示してある。梅原龍三郎、藤島武二、坂本繁二郎、和田三造…といったそうそうたる顔ぶれの絵が集結。対象地域は、日光、瀬戸内海、中部山岳、阿寒、大雪山、阿蘇くじゅう、雲仙、霧島などで、つまり最初に国立公園に指定された地域である。瀬戸内海はかなり変わっているところもあるが、山岳景観はあまり変わってないのだなと写真と見比べて興味深かった。
  
 パスがあるからバスに乗ってもいいんだけど、まあ、少し歩こうかとダラダラと日光駅まで。水曜休みの店が多い。酒饅頭で有名な、文化元年(1804年)創業の湯沢屋に2004年に、カフェ「湯沢屋茶寮」が出来た。車だと停めにくく寄ったことがないので、つい立ち寄り。「水ようかんサンデーと緑茶セット」を頼む。水ようかんに豆乳ソフトである。連れは「水ようかんと緑茶セット」。他に、湯沢屋のあんこと金谷ホテルのパンで作った「日光あんぱん」を売っていた。これが抜群の美味しさで、1個280円は高いと言えば高いけど、お土産にも最適。
  
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大塚明彦、松本健一、呉清源、羽仁未央他ー2014年11月の訃報

2014年12月07日 23時23分11秒 | 追悼

 恒例により11月の訃報をまとめるが、11月は桂小金治高倉健菅原文太と3人も映画関係の追悼を書かなくてはならなかった。特に衆議院解散日に伝えられた高倉健、公示日前日に伝えられた菅原文太の訃報は、選挙ニュースを飛ばしてしまうぐらいのインパクトがあった。菅原文太は晩年に有機農業、反原発、反戦のメッセージを発し続けたが、それはテレビでは伝えていないのだそうだ。それが日本の悲しい現実だが、国家が隠蔽したいものは民衆が伝えていくしかない。病を抱えて、沖縄県知事選の応援に行った。そこで、政治の役割は二つある、一つは、国民を飢えさせないこと。もう一つは、絶対に戦争をしないこと」と発言した。1万5千の参加者を感動させた文太の発言を多くの人が語っている。こういう言葉こそ親から子へと伝え続けて行かないと。

 大塚ホールディングス会長、大塚明彦(11.28没、77歳)は、「ボンカレー」を発案した人だが、「ポカリスエット」「カロリーメイト」もこの人だったか。そうすると現代日本に大きな貢献をしたことになる。「オロナミンC」「ソイジョイ」もある。でも、98年に新薬開発をめぐる贈賄事件で有罪になったと書いてある。それほどの事件なら当時報道で知っていたはずだが、全く覚えていない。忘れてしまうもんである。でも、そういう経歴があると、死後も叙勲などはないんだろう。大塚グループは徳島にあり、陶板画で名画を複製した大塚国際美術館が鳴門にある。ところで大塚グループは非上場大企業だが、詐欺によく使われる(今度未公開の大塚製薬が上場されることになり、確実に値上がりする。未公開株を特別にお分けできるんだが…)のでご注意。
(大塚明彦)
 評論家・思想史家の松本健一(11.27没、68歳)は、実は先月一番驚いた訃報。民主党政権に加わったりしていたが…。若い時から北一輝研究を続け、右だか左だか判らない位置にいたが、北一輝という人も「2・26事件の黒幕の右翼の大物」というだけでは済まない矛盾を抱えた人物だった。僕も若い頃は雑誌(「現代の眼」とか「流動」とか)でずいぶん読んだと思うが、あまりちゃんと読んだことがない。気にならないわけではないが、読まずに来た人だった。68歳は「若い」とまでは言えないだろうが、今の時代でももっと活躍する人がいっぱいいる。
(松本健一)
 正直まだ生きていたのかという訃報も時にはある。「昭和の棋聖」呉清源(11.30没、100歳)はその代表。囲碁のことはよく判らないけど、「呉清源 極みの棋譜」は田壮壮監督の2006年の傑作だった。戦後すぐには、双葉山とともに、新興宗教爾宇教に入信した騒動もあった。元衆議院議長で、三重2区で14回連続当選した「タムゲン」こと、田村元(11.1没、90歳)も引退後時間が経ったので、もう忘れられたかもしれない。党の執行部の盲従するのではなく、自分で政治活動をできる数少ない自民党政治家だったと思う。戦前の映画「路傍の石」で主人公の少年を演じた片山明彦(11.16没、88歳)もずいぶん名前を聞いてなかった。
(呉清源)(田村元=肖像画)
 若いという方では、羽仁未央(11.18没、50歳)の訃報にはビックリした。映画監督羽仁進と女優左幸子の子ども、つまり羽仁五郎、羽仁説子の孫。普通の学校には通わず、父の映画「妖精の詩」に出たり、海外生活を送っていた。80年代後半からは香港に住んで様々の活動をしていたようだったが…。父はまだ存命で、最近は親が生きているのに子どもが先に死んでしまう、「三笠宮」「吉行あぐり」的な人が多くなった。これは寂しいことだろう。
(羽仁未央)
 NHK元会長、川口幹夫(11.5没、88歳)は若い時に「紅白歌合戦」を大きくした人。種村直樹(11.6没、78歳)は鉄道ライターで多くの著書がある。ミステリーの「長浜鉄道記念館」ぐらいしか読んでないけど、実は住所が僕の使う駅の近くにあった。徳大寺有恒(11.7没、74歳)は「間違いだらけのクルマ選び」シリーズで知られる。昔、車を買う時に一回だけ読んだことがあるが、公正公平な本だと思った。本名は「杉江博愛」だったと記事にある。まあ本名だと思っていたわけでもないけど。社会党の元参議院議員で、同時通訳の草分け、国弘正雄(11.25没、84歳)は、アポロ11号の月面着陸の時の通訳だから、ある時期には全日本人が知っていた人。三木武夫の秘書官をしてたから、社会党から出た時にはちょっと驚いた。

 ジョニー大倉(11.19没、62歳)は「伝説のバンド」キャロルでデビューした。ロックはあまり聞いてなかったけど、龍村仁がNHKをやめるきっかけとなったドキュメント「キャロル」を見たから知っていた。その後、「在日韓国人」をカミングアウトして「異邦人の河」という映画に主演俳優として登場。以後、「遠雷」「戦場のメリークリスマス」など80年代の重要な俳優として活躍した。62歳はやはり若いというしかないだろう。
(ジョニー大倉、若い頃)
 「卒業」の監督、といつまでも言われるマイク・ニコルズ(11.19没、83歳)だが、ドイツ生まれのユダヤ人で、演劇出身の人。「バージニア・ウルフなんかこわくない」を映画化するときに監督デビューした。どっちかというと、舞台演出家だった人だと思う。日本では映画しか見られないが、演劇的な作りで映画としてはどうかなという場合が多かった。イギリスの女性ミステリー作家、P・D・ジェイムズ(11.27没、94歳)は長命の人だが、非常に緻密な構成のミステリーで、イギリス女性ミステリーの代表格だった。「策謀と欲望」が「このミス」で1位になったことがある。他に「女には向かない職業」「死の味」「原罪」などがある。「ダルグリッシュ警視」というのが代表的な主人公で、詩を書く警官でビックリ。
(マイク・ニコルズ)(P・D・ジェイムズ)
 今公開されている「三里塚に生きる」を監督した大津幸四郎(11.28没、80歳)の訃報にはビックリ。小川プロの三里塚シリーズのカメラマンで、後には劇映画も手掛けた。最後に原点の三里塚を撮って亡くなった。記録映画では、小泉修吉(11.12没、81歳)は「グループ現代」を作り多くの記録映画を作ってきた。自分で監督したものは、農業、環境問題が多い。若い時には佐久総合病院を撮り、また教育学者で歴史家の林竹二が小学校や定時制高校で授業する様子を撮ったシリーズも多い。これは僕もすいぶん見たものだ。最後に自然人類学者の香原志勢(こうはら・ゆきなり 11.16没、86歳)氏の訃報を。立教大学教授で大学時代に講義を取った。顔の研究で有名で、ずいぶん一般向けの本も書いていた。僕も読んだことがある。中公新書「人類生物学入門」とか。

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映画「滝を見にいく」

2014年12月05日 23時22分59秒 | 映画 (新作日本映画)
 映画「滝を見にいく」のチラシには、「7人のおばちゃん、山で迷う。」と書いてある。まことにその通りで、幻の滝を見にいくバス・ツァーに参加した「7人のおばちゃん」たちが、道に迷って山中で一夜をビバークするハメになってしまったというだけの話である。でも、これが面白い。この設定だけで、それは面白そうと思う人はけっこういるのではないか。脚本、監督は沖田修一
 
 沖田修一(1977~)は、「南極料理人」で注目され、「キツツキと雨」、「横道世之介」とここ数年毎年作品を発表している若手監督。これらを見ると、もう少しパンチが欲しい感じもして、それは長編5作目の今作でも言えないこともない。でも、7人の「おばちゃん」を生き生きと描きだし、素晴らしい日本の大自然の中で人生の不思議を垣間見せてくれる。まあ、このゆるい感じを良しとして、ゆったりと楽し眼場いいのかなと思う。バス・ツァーに参加しているのに、なぜ迷うかというと、旅行社のコンダクターが初めて経験する頼りない男で、地図もよく読めないようなヤツだからである。実際にはそんなトンデモ旅行社はないと思うけど、そうしないと脚本が書けない。で、判らなくなった挙句に、ちょっと見て来ますから、皆さん、ここで待っていてくださいと出ていったまま、全然戻ってこないのである。

 かくして、おばちゃんだけになって、2人連れで参加した人もいるけど、まあお互いにほとんど知らない間柄の七人が山の中に残されてしまったわけである。二手に分かれて探しに行ったりしたが、仕方ない、自分たちで下山しようということになり、道を戻る時に一人が「下山近道」という立札を見つけてしまう。この立札は、大分昔に立った感じで、道も怪しいんだけど、じゃあ行ってみようという話になってしまい…。これは山では絶対にやってはならない。迷って戻る時は、来た道を戻らないと。降りた後で登り返すのがいやさに、つい沢沿いに降りたくなったりするもんだが。これは人生にも言えると思うけど、簡単な道はこっちと出てたら眉唾。僕も何百回も山道を歩いていると思うが、迷う時はハイキング気分で里近くできちんと確かめないで歩きはじめる時である。北や南のアルプスなどを行くならは、誰でも地図をきちんと見るし、道や案内表示もしっかりしている。「何でこんなところで」と思うようなところで、迷ったり転んだりしやすい

 だんだん夜になり、もう下山は無理。がぜん、サバイバル路線になり、クルミやキノコを拾ったり。この辺は出来過ぎで、キノコは危ないと思うが。タバコを吸う人もいて、ライターはあるから火を付けてキノコを焼く。滝を見て温泉に行くつもりだから、本格的な用意はしてないから、食糧も乏しく、寝袋もない。でも、だんだん身の上話を始めるようになって、それぞれの背景も見えてくる。「おばちゃん」だから、いろんなものを持ってきたりしてるし。ああ、ケータイは圏外という設定。まあ、見る限り、実際は通じると思うけど。この設定を、オーディションで選んだほとんど素人の「おばちゃん」が演じる。ほとんど、というのは劇団にいる人もいるからだが、でも有名な人はいない。実際に、山で迷ったようなドキュメント感覚で、現代の等身大の女性像を描き出す手腕は見事。

 ロケは新潟県妙高市で、素晴らしい紅葉を見ることができる。妙高や火打は日本でも最も素晴らしい山のいくつかに入ると思うが、その近くには滝も実際に多い、「苗名の滝」が有名だが、この映画でも実際に最後に「幻の滝」が出てくる。温泉もいっぱいある地域で、このツァ―のアイディアは良かったんだけどな。あれだけキノコがあるなら、「キノコ狩り」も入れればもっと人が来たのではないか。この脚本は舞台劇にすると、もっと面白いのではないか。是非、どこかでやって欲しい。東京では新宿武蔵野館で上映中。各地ではこれから上映されるようだが、ちょっと頭の片隅に。
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菅原文太も亡くなったのか-追悼・菅原文太

2014年12月02日 23時52分04秒 |  〃  (旧作日本映画)
 菅原文太(1933~2014)が亡くなったと夕刊紙の大きな見出しで昨日知った。11月28日没、81歳。つい先ごろ、高倉健が亡くなったばかりではないか、と誰もが思う。菅原文太は前に病気も公表していたし、俳優はほぼ引退状態にあったが、その社会的活動、発言などは今の日本に必要な人だった。存在自体が「ある世代」を代表するような人物だったと思う。文化勲章などには縁遠く、国家から顕彰されなかったからこそ、民衆が記憶し続けていきたい。全く惜しいし、悲しい訃報である。
   
 菅原文太と言えば、まず「仁義なき戦い」(1973)である。この作品で73年のキネマ旬報男優賞を受けた。1973年1月13日に公開され、面白いと評判になり大ヒットした。その評判は聞いていたが、高倉健の時に書いたように東映の映画館は高校生には敷居が高く、多分僕はその後に銀座並木座で見たと思う。第1作がつまらないわけではないが、特に第3作の「仁義なき戦い 代理戦争」、第4作の「仁義なき戦い 頂上作戦」の群像ドラマとしての完成度には驚いた。

 菅原文太が印象に残るのは間違いないが、同じぐらい金子信雄、加藤武、小林旭などが印象に残った。その後、2回ほど連続で見ているが、やはり抜群に面白い。と同時に、監督の深作欣二、脚本の笠原和夫、主演の菅原文太それぞれにある、「戦後へのこだわり」が心に残った。深作は1930年、笠原は1927年に生まれている。この生年の違いは、当時としては大きいが、いずれも実際の戦争に参加する前に戦争が終わり、国家に裏切られた世代である。

 1972年に藤純子が結婚して引退、記念映画としてマキノ雅弘の最後の作品「関東緋桜一家」が作られた。これが任侠映画の終わりを象徴した。1973年に「仁義なき戦い」がヒットして、東映は高倉健の時代から、菅原文太の実録映画時代となる。この転変は、後の時代から見ると、連合赤軍事件(1972)が起きて「60年代」が完全に終結し、73年にはベトナム和平協定が結ばれて米軍がベトナムを引き揚げ、日本でもべ平連が解散した。「仁義なき戦い」とその後の実録路線、そして「トラック野郎」シリーズの大ヒットのことはいろいろな人が語ると思うから、ここでは違うことを書いておきたい。

 菅原文太は早大中退だが、在学中から演劇、映画など活動している。劇団四季の一期生でもある。しかし、一番大きな仕事は「男性モデル」だった。日本初の男性専門のモデルクラブを創設したのである。その時の仲間に岡田真澄がいる。そこから新東宝にスカウトされる。新東宝は東宝争議の時に分裂して生まれた会社だが、経営が苦しくなって、次第にトンデモ映画の宝庫のような会社になっていった。今では普通に名作とされる中川信夫「東海道四谷怪談」などもあるが、今見ても凄く変な映画も数多い。主演第一作だと思う「海女の化物屋敷」(1959)も多分そんな映画だろう。
(「海女の化物屋敷」)
 僕が見ているのは、助演している「女王蜂の怒り」だけだと思う。「ハンサムタワーズ」などと言われていたが、まあブレークする前に会社がつぶれてしまった(1961年)。そこで松竹に移籍したが、女性映画の松竹では助演ばかり。僕の印象にあるのは、坂本九のヒット曲「見上げてごらん夜の星を」の映画化。定時制高校生の青春を描いたミュージカルだが、そのクラスの担任が菅原文太だった。木下恵介監督の名作などにも出ているが、やはり助演しか回ってこないから、結局1967年に東映に移った。

 東映に移っても長い間、鳴かず飛ばずでヒットには恵まれなかった。長い下積みを経て、やっと自分のキャラクターを生かせるスタッフと題材にめぐり合ったのである。しかし、それにも前史がある。いわゆる「任侠映画」にはほとんど出ていないが、例外として緋牡丹博徒シリーズには時たま出ていて、特に「緋牡丹博徒 お竜参上」で今戸橋で純子が文太にミカンを渡す雪のシーンは、屈指の名場面として見たものの心に刻まれている。今、「任侠映画」と書いたのは、明治から昭和初期を舞台にし高倉健や鶴田浩二が着流しで出てくる映画のことである。
(「緋牡丹博徒 お竜参上」)
 ずいぶん様々なシリーズが作られたが、そればかりでは番組は埋まらない。だから現代ヤクザの映画もかなり作られている。菅原文太は主にそういう映画に出ていた。「現代やくざ」とか「まむしの兄弟」などのシリーズである。そして、同じように長いキャリアがありながらヒットに縁遠かった深作欣二監督の作品によく出るようになる。特に1972年の「現代やくざ 人斬り与太」「人斬り与太 狂犬三兄弟」が評価されたが、これらのテイストは「仁義なき戦い」とほぼ同じと言っていいだろう。

 「トラック野郎」シリーズは、後になって数本見ているが、同時代的には見たことがない。最近になって面白いと再評価の声が高いが、今年監督の鈴木則文も亡くなってしまった。確かに面白いし、菅原文太の意気込みはものすごいんだけど、数本見ると飽きてしまう。1977年に寺山修司が東映に招かれて撮った「ボクサー」は、老いた元ボクサーが新人を鍛えるボクシング映画の定番だけど、その無国籍的なムードが寺山映画そのもので良かった。「太陽を盗んだ男」や「ダイナマイトどんどん」にも出ているが、80年代以後は日本映画界の衰退もあり、あまり作品に恵まれていない。
(「トラック野郎 御意見無用」)
 むしろ、テレビの印象が強く、大河ドラマの「獅子の時代」(1980)や「徳川慶喜」などが思い出される。特に「獅子の時代」は明治期の庶民を描いた異色の大河ドラマで、菅原は会津藩の下級武士がたどる苦難の人生を演じた。僕は見てないのだが、講談社現代新書「新しい左翼入門」で、著者の松尾匡が熱く熱く論じている。最後は「声優時代」で「千と千尋の神隠し」「ゲド戦記」「おおかみこどもの雨と雪」などに出ているから、若い世代にはむしろ声優として認識されているかもしれない。

 俳優としては珍しく社会的発言をした人だが、僕の知る限り一番最初は1974年参議院選挙の東京地方区に出た作家野坂昭如の応援演説ではないだろうか。その時の演説を収めた「辻説法」というレコードを持っている。そこには小沢昭一の応援は収められているが、菅原文太はない。でも僕は確かにこの耳で聞いたように思うのである。残念ながらまだ有権者じゃなかった年齢なんだけど、聞きに行ったように思う。そこでは「自分のようなやくざばっかりやってる役者が応援していいのかと思いますが…」とか言っていた。聴衆から「いいよ」と声援が贈られていた。

 近年は有機農業に力を入れ、ほとんど「農民」だった。特に「3・11」以後は原発反対集団的自衛権容認反対など、様々な活動に参加していた。11月1日には、沖縄で知事選の翁長元知事の応援に行っていたから、病の中での「本気度」がうかがわれる。その心中にあるものは、仙台一高で一期下の井上ひさしと共振するものがあったと思う。「農」への思い、「戦争反対」への思いである。井上ひさしや小沢昭一を通して、僕は戦争がいかに悲惨であり、強いものにではなく弱い者に厳しくのしかかってくるかを学んだ。歴史を専攻したんだから当時の様々な史料を読んでいるし、映画ファンとして多くの戦争映画からも学んだ。と同時に、ラジオ、テレビ、雑誌、映画などの大衆的な娯楽メディアを通して伝わってきた「深い思い」は大きい。「戦争を経験した世代の思いを聞いた世代」として、それを伝えてつないでいく責任がある。そういう意味で、菅原文太の思いを伝えていかないといけない。
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女優・桑野みゆきをめぐって

2014年12月02日 00時44分36秒 |  〃  (旧作日本映画)
 神保町シアターで、「伝説の女優 桑野通子と桑野みゆき」という特集をやっている。桑野通子(1915~1946)は、戦前に松竹の女優として活躍した。小津安二郎の傑作コメディ「淑女は何を忘れたか」を若い時に見て以来、印象に残っている。桑野みゆき(1942~)は、戦後の松竹で活躍した女優で、大島渚監督の「青春残酷物語」のヒロインとして鮮烈な印象を残した。だから、僕はこの二人の女優を何十年も前から知っているし、二人が親子だということも映画史的知識として前から知っていた。しかし、今まで桑野みゆきを意識したことはほとんどなかったのである。
 
 最近再評価の声が高い中村登監督「夜の片鱗」(1964)を最近初めて見て、堕ちていく女の哀しみを全身で表現する桑野みゆきを再発見した。年齢を計算すると22歳である。いくら老けメイクをしたといっても、もう何年も体を売って男に尽くしてきた荒みきった女を演じているのである。そして、その通りにしか見えない。このスタイリッシュな名作が、どうして忘れれていたのか。中村監督にとっても、桑野みゆきにとっても、何とも残念なことだった。それから、僕にとって桑野みゆきがとても気になっているのだが、ちょうどいい機会に親子の特集上映が企画された。
 
 桑野みゆきは、1967年に結婚を機に引退して以来、「家庭の人」になっている。昔の映画を見ていない人は名前も知らないだろう。小津監督の「彼岸花」「秋日和」に(あまり大きな役ではないが)出ているし、黒澤明「赤ひげ」にも出ている。大島渚「日本の夜と霧」では若い左翼活動家で、安保闘争のデモで怪我して入院中に前世代の渡辺文雄と結ばれる役を演じている。他にも山田洋次「馬鹿まるだし」豊田四郎「甘い汁」などの名作に出演している。小津、黒澤、大島、山田の4監督の作品に出演経験のある俳優は、多分他にいないのではないか。このような「名作」は僕は昔から見てたけど、映画の面白さやテーマ性に目が向き、女優桑野みゆきが印象に残ることが少なかった。
(「日本の夜と霧」)
 桑野みゆきは松竹の人気スターとして100本以上の映画に出ている。その大部分は松竹の女性映画で、今はあまり上映機会がない。でも、そういう映画を見ないと、女優のイメージをつかむことはできない。今日見た井上和男監督「ハイ・ティーン」(1959)は、まさに17歳の桑野みゆきが高校3年生を演じていた。冒頭、学校をさぼって朝のプールに忍び込んで、勝手に泳いでいる。水着姿であるのはもちろん、飛び込み台から飛び込んで本人が泳いでいる。もう、ここで当時としてはずいぶん「進んだ高校生」である。ラグビーの強い私立高校に通っているらしいが、どうも大変な学校である。佐田啓二の世界史教師(寺崎先生)が採用されて、担任になる。校長(東野英治郎)は「悪い生徒というものはいない。いるのは扱いが難しい生徒だけだ」というが、その扱いの難しさは結構とんでもないレベル。
(「ハイティーン」)
 桑野みゆきは甘ったれで遅刻早退が多い。「問題児」とレッテルを貼られている。彼女は先生に憧れて…という展開は娯楽映画の定番なので後は書かない。興味深いのは、生徒の投票で決まる社会科見学の行先。なんと「東海村の原子力発電所」である。一番最初にクラスに行ったとき、勝手に騒ぐ生徒に対し、佐田は世界史の年号を書く。「マグナカルタ、名誉革命、アメリカ独立、フランス革命、十月革命」である。こうして人類は自由を獲得してきたという教師が、原発に生徒を連れてって「原子力の平和利用は人類の希望」みたいな説明をする。「進歩的」な人ほど、そのように思っていた時代なのである。この映画の桑野みゆきは、あからさまに教師にまとわりつき、若くてかわいいからと言っても、これでは大人の教師から見ると「恋愛の対象」にはなれない。

 吉田喜重「日本脱出」(1964)は、見てないと思ったら前に見ていた。吉田喜重特集で見ると印象が弱いが、桑野みゆき特集で見ると傑作犯罪映画。成島東一郎撮影、武満徹音楽の素晴らしさも印象的だ。新宿の「トルコ風呂」で働く桑野みゆきが、待田京介にダマされトルコ風呂の金を奪う犯罪に協力する。男の弟分、鈴木やすしと逃げていく女の哀感がすごい。若いのに、どうしてこのような風俗嬢の堕落と倦怠を演じられるのか。「東京五輪直前」という設定も興味深い。聖火リレーのシーンまで出てくる。それを同時中継するラジオ車に、鈴木やすしが逃げ込んで、ラジオで放送されるシーンがある。鈴木やすしのアパートの隣人、娼婦の市原悦子は「東京五輪では、私も民間外交で稼がなくちゃ」などと言って、外国人客相手に儲ける気満々。そういう「東京の光と影」を描き出した名作。

 五社英雄監督特集の「三匹の侍」では代官の娘で、農民にさらわれる。「五匹の紳士」では夫と子どもを仲代達矢に轢き殺された未亡人で、後にキャバレーで働く。このような役柄が若いのにうまい。もっと普通の娘役もある。野村芳太郎監督「恋の画集」では、恋人に結婚を迫る女の役で、普通にカワイイ。今回の上映にはないが、篠田正浩「三味線とオートバイ」の桑野みゆきも非常に魅力的。「夜の片鱗」「青春残酷物語」などは是非どこかで多くの人に見て欲しい映画だ。

 今回の特集では、桑野通子の珍しい映画が上映されるのも特徴。特に清水宏監督が多い。「有りがたうさん」「恋も忘れて」など見ている映画もあるが、「家庭日記」や無声映画の「東京の英雄」「金環蝕」などもある。遺作となったのは、溝口健二「女性の勝利」(1946)で、女性解放を訴える戦後の民主化映画。その後、急死するがウィキペディアでは「子宮外妊娠」と出ている。わずか31歳だった。
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命令の奴隷になるなー映画「シャトーブリアンからの手紙」

2014年12月01日 00時32分45秒 |  〃  (新作外国映画)
 「シャトーブリアンから手紙」という映画を上映している。(東京では、渋谷のシアター・イメージフォーラムで12日まで。)この映画は、第二次世界大戦中のドイツ占領下のフランスで起きた「捕虜収容所での虐殺」を扱った映画である。監督は、日本で13年ぶりの新作公開となる、ドイツの巨匠フォルカー・シュレンドルフ。こういう「社会派」の歴史映画は、歴史教師だった商売柄できるだけ見逃さないようにしてきた。今回もそういう「現代史」に材を取った映画だからということもあるが、特にドイツ人監督がフランスでナチスの蛮行を映画にしたという経緯が非常に心に響いた。日本人の映画監督が、中国で三光作戦を映画化するようなことが、現在の東アジアで可能だろうか。
 
 この映画は、時間が91分と最近の映画には珍しく短い。これだけ複雑な出来事を映画化すると、細かく説明したり、感傷的なシーンを加えたりしたくなるものだが、気持ちいいぐらいサクサク進む。「ある出来事」をめぐり、様々な人間がどのように対応したか、簡潔に描写されていく。だからと言って、説明不足や描写不足はなく、非常に多くのことを考え、心を強く揺さぶられる。一言で言えば「巨匠の技」である。さすがにシュレンドルフ、健在なりと感銘深く見た。

 監督の話は後でするとして、映画の内容を先に。シャトーブリアンと言うと、歴史ではフランス革命からナポレオン、ウィーン体制の時代に活躍したロマン派の作家、政治家の名前を僕は思い出す。ただ、その名を検索すると、「シャトーブリアン・ステーキ」がいっぱい出てくるが、その名の由来となった人である。でも、プログラムを読んで知ったのだけど、元々は地名で、シャトーブリアンという人もそこの伯爵家だった。場所はフランスの西北部に突き出たブルターニュ半島の南端、ナントの近くにある。フランスを占領したドイツは、そこに政治犯収容所を作った。フランスの南半部は「ヴィシー政権」が出来て、ドイツに協力したが、北半部はドイツ軍による占領地帯である。

 さて、1941年10月20日、地下の共産党活動家が、ナント地区ドイツ軍司令官を暗殺した。ヒトラーは激怒し、ドイツ人の血に対して、フランス人150人の処刑を要求した。パリのドイツ軍司令部は命令を実行すれば、フランスの人心が離反することを恐れるが、とりあえずまず50人、犯人が見つからなければ次の日に50人、と「分割繰り延べ」にすることぐらいしかできない。そこで、ドイツ軍政の下で行政を行っていたフランス人官僚に、処刑政治犯リスト作りが命じられる。副知事はいったんは拒否するが、「良いフランス人を犠牲にしていいのか」と迫られ、結局はリスト作りを受け入れる。その間、収容所内のようすも描かれるが、そこは「共産党関係者収容棟」で、中には親が共産党員で、駅でビラをまいて捕まった17歳のギィもいる。ギィは隣の女性収容所のオデットに恋をし、年長者はラジオで情勢をつかもうとしている。

 10月22日、リストが承認され、処刑の日となる。副知事はリストに17歳のギィや、その日釈放予定のクロードなどが入っていることに気づき、これは恐るべき間違いで修正すべきだとドイツ軍に迫るが、「では代わりを選べ」と言われて黙るしかない。「すでに決まったことだ」とことは進んでしまい、収容所では昼食が中止にさせられ、リストにある名前が呼ばれ始める。最後にモヨンという神父も呼ばれるが、彼は副知事に「何で加担しているのか」と問い詰めると、副知事は「公務員の義務」と言う。話をやめろと言うドイツ人軍人にも「命令の奴隷になるな。良心の声を聞きなさい」というのだった。神父は「あなたたちと考えは違うが、最後の手紙を預かろう」と呼びかける。ギィも家族にあてた手紙を書く…。

 以後は書かないが、ドイツ軍人の中にもさまざまな人がいたことも示される。処刑の「予行練習」も行って、処刑準備を進めるが、私には出来そうもないと申し出る兵士もいる。(後のノーベル賞作家、ハインリヒ・ベルがモデルだという。)実際の暗殺犯も描かれ、ドイツ軍上層部のようすも描写される。このように重層的に「ひとつの事件」を描くのだが、処刑する側、処刑される側を問わず、「決定的な時期に、どのように対処したか」を的確に描いている。その結果、モヨン神父の言葉が心に残り続け、理性的にも感情的にも「自分ならどうできただろうか」を自省せざるを得ない映画になった。

 フォルカー・シュレンドルフ(1939~)は、ファスビンダー、ヘルツォークなどと並ぶ、ニュー・ジャーマン・シネマの旗手だった人で、何と言っても大傑作「ブリキの太鼓」で知られる。ギュンター・グラスの大長編を巧みに映画化し、カンヌ映画祭最高賞、米アカデミー外国語映画賞、キネマ旬報ベストワンと世界のどこでも最高の評価を受けた。その成功を受けてのことか、次作でプルーストを映画化した「スワンの恋」を作ったけど、その後はアメリカで作ったりしていた。ちなみに昨年日本でも評判を呼んだ「ハンナ・アーレント」を作ったマルガレーテ・フォン・トロッタと結婚している。

 今まで知らなかったが、シュレンドルフは17歳の時、学生交換事業でフランスに留学している。その後、パリで大学に通いながら、映画作りに関わるようになる。特にルイ・マルと知り合い、「地下鉄のザジ」や「鬼火」「ビバ!マリア」などの助監督をした。他にもアラン・レネの「去年、マリエンバードで」などに関わっていたのである。10年間のフランス生活が終わって、ドイツに帰って映画を作るようになり、すぐ認められた。つまり、監督の青春はフランスにあったのである。しかし、この事件のことは詳しくは知らなかったらしいが、関係書を渡され心が動いたという。ポーランドの話なら撮らなかった、フランスでの事件だから映画化したと述べている。

 この事件で犠牲になったギィ・モケは、その手紙の心打つ内容とともに、後に非常に有名となり、英雄として神話化され、パリの地下鉄の駅名になっているらしい。共産党系として処刑されたため、特にフランス共産党のレジスタンス神話に使われてきたらしいが、サルコジ前大統領が高校生全員にギィの手紙を読むように指示を出したという。このように今も「政治的に利用される」中で、ドイツ人監督が映画化することには反対もあったというが、できてみたら大好評だった。そのため、早くもフランスでの第2作、同じく占領中を扱った「パリよ、永遠に」が作られ、日本でも2015年3月に公開が予定されている。

 戦後の長い時間をかけた「独仏和解」が若い世代の地道な交流から進んで行ったということが、感動的である。50年以上経って、このような成果を生む。ドイツはナチス時代を克服し「歴史認識」をめぐって隣国と争うようなこともない。日本とは大きく状況が違う。それにしても「歴史認識」の重要性を思い知らされる。また、あえて「戦争」などと大状況を持ち出さなくても、日々の暮らしの中でも「命令だから、仕方ない」「もう決まったことだから、どうしようもない」と考えてしまうことが多いはず。東京で教員をしてきたから、「もう決まった」「命令だから」は聞き飽きるぐらい聞いた。昔は「日の丸・君が代の強制は許すな」などと先頭に立っていた人が、いつの間にか管理職になっていて、「通達が出たから」「もう決まったことだから」「仕方ないから」と盛んに言っていたものだ。「中高一貫化」とか「主幹教諭」「主任教諭」、「教員免許更新制」と、もう決まっちゃんだから仕方ない、命令だからやむを得ない、自分の立場ではやむを得ない…などという訳である。全く、よその国の昔の出来事として見てられなかったですよ
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