尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「黒澤明の十字架」を読む

2013年04月30日 00時49分28秒 |  〃  (日本の映画監督)
 指田文夫著「黒澤明の十字架 戦争と円谷特撮と徴兵忌避」(現代企画室、1900円)を読んで、大変に面白かったし啓発されたので、是非紹介したいと思う。

 黒澤明(1910~1998)は戦後日本映画を代表する映画監督だったが、没後15年経ってその存在感が薄くなってきた感がある。2010年は生誕百年で記念上映も行われたが、近年は小津安二郎や成瀬巳喜男などに比べて言及の機会も減っている。日本人の「日常生活」を描いた小津や成瀬は、今見ると「忘れられた日本人」を発見する面白さがある。黒澤映画の魅力は大がかりなアクションだったが、大規模な特撮や3D映画がつくられる現代では「七人の侍」や「用心棒」の魅力も薄れる。録音が悪い映画が多い上、時代劇では歴史用語や言い回しが若い人には理解できなくなった。

 黒澤明は戦時中の1943年に「姿三四郎」でデビューし、圧倒的な好評を得た。翌年に戦意高揚映画の「一番美しく」を撮る。戦後になると、「わが青春に悔いなし」のような民主主義啓蒙映画を撮り、1948年の「酔いどれ天使」では闇市を舞台に戦後のエネルギーを描く。出発は純粋なアクションの面白さで見せ、「思想性はない」と言われたこともある。「羅生門」や「生きる」などでも、ヒューマニズムや真実の不可知性などを描いたに止まるとされた。
(黒澤明監督)
 「黒澤天皇」などとまで言われた完璧主義で有名で、「七人の侍」の長期撮影は伝説となっている。「赤ひげ」を初め「用心棒」や「天国と地獄」などの主演者三船敏郎を見ると、豪快で存在感たっぷりの大人物が多い。本人も身長183センチの長身で、性格もそういう豪快型に思われてしまいやすいが、この本によれば実は繊細な心情のタイプで、自己処罰の感情を抱き続けた人物だという。

 1949年に「静かなる決闘」という、ほとんど取り上げられない映画がある。一応ベストテンに入ったが、黒澤映画では失敗作と言われた。著者はこの映画を後年になって見た時の違和感をもとに、黒澤明と東宝映画の戦時中と戦後を調べ始める。そのミステリーにも似た謎解きが面白い。史料の博捜(はくそう=広範囲にわたって探すこと)が素晴らしい。様々な証言と史料から浮かび上がるのは、東宝が会社として黒澤を兵役に就かせないように工作し、結果的に黒澤は軍隊経験がなかった。日本人男性のほとんどが兵隊にとられ、映画関係者も多くが徴兵された中で、この「軍隊経験のないこと」が黒澤の負い目となり、そのことへの「自己処罰意識」が戦後の黒澤映画の基調にあるとする。

 もちろんいくら探しても、徴兵猶予の文書と言うものはない。そういう「工作」があったとしても、裏で行われたわけである。その意味では実証はできない。しかし、この本により、東宝が実質的に軍需企業だったことと、黒澤明の戦後映画に「自己処罰」のテーマが隠れていることは、納得できた。晩年に「」という不思議な映画があった。黒澤が見た夢を映像化したという触れこみの映画の中に、戦死した兵隊の呪縛のような夢がある。戦争体験のない世代では、いくら戦争に関心があっても夢に見たりはしないだろう。戦場体験のない黒澤がそういう夢を見るのは、やはり最後の最後まで戦争で死んだ者たちへの負い目意識があったと思う。それは戦争に行った行かないだけではなく、内地にいても空襲で死んだ者もいるわけで、戦死した人々の代わりに生かされて戦後を生きたという意識は、多くの戦争世代の人間にあったものだ。

 東宝が軍需企業だったというのは、単に戦争映画を作ったという意味ではない。女性映画で知られた松竹が戦争映画は得意でなかったのに対し、新興の東宝映画は軍に密着した。1942年暮れに米英との開戦1周年記念の「ハワイ・マレー沖海戦」を作ったことは有名である。後に「ゴジラ」を作ることになる円谷英二による特撮で、今でも「見るに耐える」傑作になったことは間違いない。しかし、実はもっと直接に軍の企画した映画を東宝は作り続けていた。「航空教育資料製作所」と題した組織が作られ、軍の教材映画が量産されていたのだという。教官もどんどん戦地に送られ、人材不足の軍としては、「教材映画」が欲しかったのである。

 東宝は山中貞雄という逸材を戦争で失った。天才と言われた山中を東宝が引き抜き、前進座の俳優を使って「人情紙風船」を作った。しかし、東宝ではその一本のみを残して山中は日中戦争に応召し戦病死してしまう。この痛恨事に懲りて、「姿三四郎」を作った黒澤を手放さずに済むように、東宝は軍との親密なルートを使って工作したのではないか、と著者は推測する。黒澤は戦争協力映画「一番美しく」を撮ることになり、生産能力向上に全力を傾ける女性工員を迫力を持って描いた。(この映画の主演女優の矢口陽子と結婚した。)裏に何があったかはともかく、この「軍隊には行かず、戦争協力映画を作った」ことが心の傷になったというのは、僕には十分納得できる。

 戦時中の東宝の有価証券報告書などを使い、戦時の東宝の特徴を分析するのも新鮮である。(案外気づかれていないが、戦争中も株式市場は機能していた。)そうして軍需でうるおった東宝は、戦後になるとその分の人材が過剰になり、復員者を含めて多くの人員整理が必要となった。これがかの「軍艦だけが来なかった」と言われた(つまり米軍の戦車は来た)、有名な「東宝争議」が他社以上に激しくなった一因だという。なるほど。

 東宝の会社としての話が長くなったが、黒澤の「静かなる決闘」は三船の医者が戦場で手術中に梅毒に感染し、戦後の日本で婚約者にも告げられず悩むという話である。僕も見たときにいくら何でも不自然な感じを持った。今は公開された時代背景と別に、たまたま見る機会があって見るわけだが、並べてみると次の傑作「野良犬」と「自己処罰」という共通点がある。(拳銃を盗まれた新米警官の三船が、戦後の東京を歩き回って拳銃を探し回るという、ドキュメンタリー的刑事物語の元祖になった映画である。)その戦争の意識は、実は「醜聞」「羅生門」「生きる」と通底しているとされる。映画により、語り口がうまいとかうまく行っていないの違いはあるが。時代との関わりでは論じられてこなかった「羅生門」や「生きる」などの傑作にも、黒澤の秘められた思いが読み取れるというのである。
(「静かなる決闘」)
 詳しい作品分析は本書に譲るが、その結果見えてくるのは、「誰も、戦争責任を取らなかった戦後の日本で、黒澤明は積極的に作品のなかで自分の戦争責任をとろうとした。それが彼の作品の倫理性である。」結論として言えば、「黒澤明は、近代以降の日本と日本人が、最大の歴史的事件として経験した太平洋戦争を、内面化し、映画化した、多分唯一の映画作家である。その映画は「平家物語」のごとく、国民的記録として永遠に残るに違いない。」という。「七人の侍」や「生きる」の面白さと感動は、現代の「平家物語」だったのか。なんだか深く納得できる部分が多くの人にあるのではないか。

 著者の指田さんは「大衆文化評論家指田文夫のさすらい日乗」というブログで毎日のように、映画や演劇などの情報を発信している。このブログにもたびたびコメントで教示頂いている方である。
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「主権回復の日」の虚構

2013年04月27日 23時55分24秒 |  〃  (安倍政権論)
 4月28日に、政府主催の「主権回復記念式典」を突然行うと言う話。去年なら、まだ60年と言う周年にあたったけれど、今年やる意味は何か。しかし、これが自民党の選挙公約にあったというのは当時は気付かなかった。この日を祝日にしようという動きも前からあって、そういう右派の言論が安倍内閣に取り入れられたということである。

 1951年9月の「サンフランシスコ講和会議」で講和条約が結ばれ、翌年4月28日に発効した。そこで「主権が回復した」というのだが、この条約で沖縄県の米軍統治が認められ、長い苦難の年月が続く。だから、沖縄にとっては「屈辱の日」と呼ばれた。長いこと4月28日は「沖縄デー」になっていて、「祖国復帰運動」の記念日だった。沖縄最北端の辺戸岬(へどみさき)には記念碑があるけど、沖縄から出た船と鹿児島県最南端の与論島の船が海上で交流したものである。そういう意味で、沖縄から強い反発が出ているのもよく判るし共感もするが、「本土」の側で沖縄のことしか触れないのが気になっている。「沖縄に配慮しないのか」と言うのは正しいが、これだけでは政府に反対するのの沖縄を利用しているという感じもしてしまう。

 では何を考えておくべきかと言うと、北方領土問題在日朝鮮人・台湾人問題もあるけど、一番は日米安保をどう考えるか、憲法改正をどう考えるかと言う問題だと思う。本来は、政府主催でやるべきは「憲法記念日の式典」であるはずである。仮に改憲の立場に立つ政府だとしても、現にある憲法が施行された日に式典を行う方が正しいだろう。今は5月3日と言う日は、護憲派、改憲派がそれぞれ集会を開く「政治集会の日」になっているが、「国民の祝日」なんだから政府が主催する方が自然である。

 今ここで書くのは、今後どうするべきかなどと言う大きな議論をしたいからではない。戦後史に関してあまり触れられていない問題があるので、認識をクリアーにしたいからである。だから一つ一つの問題の記述は簡単にする。まず北方領土問題。サンフランシスコ講和会議には、中国は招かれず(北京の人民共和国も、台湾に逃れた民国もどちらも招かれず。なお、その時点でアメリカは台湾を承認していたが、英国は中華人民共和国を承認していた)、ソ連、ポーランド、チェコスロヴァキアの3国は参加したが署名しなかった。だからソ連のとの間には平和条約が存在しなかった。ソ連崩壊後もその状態が続いているので、日本は「主権回復」どころか、法的な戦争状態がまだ完全には終結していない。北方領土の島の一つ一つの帰属問題を超えて、主要交戦国の一つとまだ平和条約がないという状態をもって、「主権回復」とうたっていいのだろうか。安倍首相は記念式典後に訪ロするわけだが。

 ところで、講和条約で日本は植民地を放棄した。千島や南樺太は法的には「内地」に所属したわけだが、「台湾」「朝鮮」は「外地」(つまりは植民地)として大日本帝国憲法の適用外とされた。しかし、大日本帝国の支配下にあったわけで、そこの住民は法的には「日本国籍」を持っていたわけである。日本統治下に戸籍が作られ、そこに載っている人が、諸事情で「本土」に移り住んだ場合は、「朝鮮籍」「台湾籍」という扱いとなる。台湾、朝鮮では選挙はないが、本土に移り住んだ台湾籍、朝鮮籍の人には選挙権があった。被選挙権もあり、衆議院議員になった人物もいる。

 では、日本に住む旧植民地出身者の扱いはどうなったかと言うと、日本国憲法が施行される前日、1947年5月2日に、最後の勅令(大日本帝国憲法には、天皇大権として法律に代わり勅令(ちょくれい)を出す権限が決められていた)として「外国人登録令」が作られた。そこで台湾、朝鮮出身者は「当分の間、外国人とみなす」とされたのである。(外国人と言っても、何国の人かと言われたら、大韓民国も朝鮮民主主義人民共和国も建国以前なのだから答えようがないわけだが。)

 そして、1952年4月28日、まさに講和条約発効の日に、その「登録令」は効力を失い、「外国人登録法」に切り替えられた。しかし、内容は変わらない。(この外国人登録法は、2012年7月9日に、新入管法施行により失効した。新法は正式には、「出入国管理及び難民認定法及び日本国との平和条約に基づき日本の国籍を離脱した者等の出入国管理に関する特例法の一部を改正する等の法律」)多くの植民地旧宗主国では、植民地に独立を与える時点で国籍決定の自由を与えている。だから本国に住んでいる人の中には、イギリスやフランスの国籍を取得した人がたくさんいる。でも日本はそういう対応を取らず、一方的に全員を外国人扱いとしてしまった。日本は国籍取得を血統主義(親が日本国籍なら、子も日本国籍)としているので、日本にはまだ数多くの「在日韓国・朝鮮人」がいるわけである。一方的に国籍離脱を強行したため、戦死、戦傷した台湾、朝鮮出身旧日本兵に対する恩給が支払われないままになったという不条理も起こった。

 そういうような問題もあるけれど、一番大きいのは日米安保条約の存在だろう。日米地位協定の内容など、本当に主権が回復しているのかという感じもあるけど、そういう問題の前に日米安保自体が問題なのではないか。日本を占領していた軍が講和で帰国するのが「主権回復」なのではないか。前日まで「占領軍」だった米軍が、翌日から「進駐軍」と名を変えて、安保条約で合法的に日本に居続けるというのでは、どこが「主権回復」なのだろうか。それは講和会議の吉田茂全権も判っていて、講和条約は「超党派」で署名したいということで、自由党(吉田の所属した当時の与党)以外に、国民民主党や参議院の緑風会からも署名している。しかし、講和会議直後に行われた安保条約の調印式では吉田茂しか署名しなかった。後の首相池田勇人が同行していたが、「君の将来に傷がつくかもしれない」と吉田一人が署名したというのは有名なエピソードである。左翼はもちろん安保に反対だが、右翼から見ても憲法改正、再軍備、自主国防がスローガンだから、日米安保は多くの日本人の疑問とするところだった。歴史的に定着してしまった感のある日米安保で、僕も現時点では「直ちに廃棄する」という主張をしないのだが、素朴に考えてそれまでの占領軍に「これからも守ってもらう」と言うこと自体に、なんだかおかしい、本当に独立したのかという思いを持つ国民が多かったのである

 では、それなのになぜ安倍首相を初め、現時点では「保守派」が「主権回復」を言い立てるのだろうか。それはつまり憲法改正ということだろう。1952年4月に主権回復したということでは、占領下にできた日本国憲法は主権の制限下にできた「欠陥憲法」だというリクツを言いたいのだろう。これが僕には判らない。全く価値観が共有できない。まず、その後「主権回復」後に憲法改正をしなかったのは、保守勢力が改正したかったのに国民世論が反対してできなかったのであり、まさに主権回復後の国民の意思により現行憲法が続いてきたわけである。

 しかし、安倍首相はじめ保守派の中ではそう見えていない。憲法改正が「国会の3分の2で発議」とハードルが高いために改正できなかっただけだと思っているわけである。3分の1程度の社会党支持者のせいで改正できなかった「屈辱の歴史」と見えているわけである。でも、もし50年代に憲法9条が改正され、自衛隊が国防軍となり集団的自衛権が認められていたらどうなっていただろうベトナム戦争に日本も参戦し、多くの「国防軍」兵士が戦死していたのである。ベトナム戦争には、韓国、オーストラリア、ニュージーランド、タイ、フィリピンも参戦している。当然、集団的自衛権を認めるアメリカの同盟国たる日本軍も、アメリカの要求を拒めるはずがない。かつて仏印進駐の経験があり地理が判る旧軍関係者は喜んで参戦しただろう。また、イラク戦争にもアメリカ、イギリスとともに参戦しただろう。当時の小泉政権はブッシュ大統領の開戦を強く支持していたから、憲法の制約がなければ参戦する方が自然である。

 このように、ベトナムやイラクで多くの日本人が戦死していた方が良かったという考えにどれだけの人が賛成するのだろうか。「主権回復」=「主権制限下の憲法は改正すべき」の行く着くところは、そういう戦後認識だと僕は思う。
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東京都の「採用取り消し」問題

2013年04月27日 00時43分31秒 |  〃 (教員免許更新制)
 時間が経ってしまったけれど、東京で4月15日付で公表された、「東京都公立学校教員の採用取消しについて」と言う問題を考えておきたい。何度も書いたことだけれど、教員免許更新制と言う制度は、更新講習を受け、講習開設者より終了認定を受け、教育委員会に更新を申請し、認められるということをしないと、10年間で教員免許そのものが失効する。(もちろん病気休職等の場合など、延期することも可能だが、それも事前の申請が必要である。)教育公務員は教員免許があることが公務員の条件であるという解釈を文科省が取っている(古い最高裁判例がある)ので、教員免許が失効すると失職することになる。現実にそうした事例は起こった。そのことはこのブログで何回も書き、いかに意味のない愚劣な制度であるかをその都度書いてきた。

 だから、手続きのミスなどで免許失効、失職になるということは、それが一体何の意味があるのかは疑問だけど、制度そのものの中に想定されていた事態である。しかし、教員免許更新制に関わって「採用取り消し」が起こりうるということは、今まで指摘されてこなかったのではないか。考えてみれば、多くの自治体で教員採用試験の受験を35歳以上にも認めているわけだから、受験、合格時点では教員免許が有効だったのに、採用時点で失効しているということもあるはずである。でも、僕はそういう事態を想定しなかった。30歳を過ぎて教員に採用される人もいることは知っているが、おおよそそういう人の場合も、ぞれまでずっと一般企業に勤めていて突然教員採用試験を受けるのではなく、大体は非常勤講師や産休代替教員などをしてきたという人が多いと思うからである。何らかのかたちで学校に関わっていれば、教員免許を更新しなければいけないことは伝わるはずだ。(正教員ではなく、非正規の非常勤講師や臨時教員であっても、免許を更新しなければ失職する)

 実際に起こったことをホームページで確認したい。4月15日付で、以下の4人の採用が1日にさかのぼって取り消しになったと発表された。
(1) 区立小学校教諭 36歳 女
(2) 区立中学校教諭(期限付任用教員) 35歳 女
(3) 都立高等学校教諭 46歳 男
(4) 都立特別支援学校教諭 35歳 女

 どうしてこういう事態が起こったかは僕にはよく理解できない。つまり、教員採用試験というのは、免許を持っている人だけでなく、免許取得見込みの大学生も受験できる。現役ですぐ合格するというのは、(小学校を除けば)、今はあまりないかもしれないが。その場合、合格して採用されたものの、①卒業に必要な単位を落として卒業できなかった ②卒業に必要な単位は取得して卒業はできたが、教員免許取得に必要な教職課程の単位を落として教員免許は取得できなかったという場合がありうる。現にそういう例が時々起こっているのは、知っている人も多いだろう。だから採用を決めた各学校は、3月になって免許を確認するはずである。多分歳のいった合格者のことは、当然免許は持っているものと思って疑わなかったんだろうけど。

 ところで、上記の③の人は46歳である。35は判るとして、46と言う新規採用はありうるのか。そこで東京都の平成25年度東京都公立学校教員採用候補者選考実施要綱を見てみる。一般選考は、条件が「昭和48年4月2日以降に出生し…」となっている。2012年度実施の試験で、1973年生まれまで受けられるわけだから、「39歳まで可能」ということになる。自分の時代に比べてずいぶん高齢まで可能となっている。

 しかも、それに加えて「特例選考」があるのである。東京で非常勤講師などを経験したもの、東京以外の国公立学校の教員を3年以上経験したものなどについては、なんと「昭和28年4月2日以降に出生し…」という資格になっている。ほんとか。60歳定年だっていうのに、59歳まで受験できるのか。この「特例選考」のなかに「社会人経験者」と言う項目もある。民間企業や官公庁勤務経験者は、免許があれば59歳まで受けられたのである。(なお、当然のことだが、今年実施の試験では昭和29年4月2日以降となっている。インターネットで5月9日まで願書を受け付けている。)なお、今年の試験を僕自身も受験可能である。免許更新講習を受けさえすればだが。(「過去に、東京都公立学校の正規任用教員として、受験する校種等・教科(科目等)で3年以上の勤務経験があり、平成25年3月31日現在、東京都公立学校の正規任用教員として在職していない者(平成25年3月31日付けの退職者は該当しません。)」と言う項目に該当する。)

 いやあ、ビックリした。こういう特例選考があったとは。これでは「46歳」があっても、何の不思議もない。昔の教員、他県の教員かもしれないが、社会人枠で受けた人で、今まで民間企業等で活躍してきたという可能性もある。「ペーパー・ティーチャー」になった人は一杯いるものである。採用試験が高倍率だったり、給与水準が低いのを嫌ったり、合格発表が遅く民間企業に先に決まったり、福祉や学芸員の資格も取っていてそちらが第一希望だったりと言った様々な理由がある。でも自分の子どもが学校に通う時期になって、特に高校の英語、情報、商業、工業などの教科では、民間で活躍したスキルがすぐに生かせる場合も多いから、あらためて教師を希望すると言う人もいるだろう。

 ところで、教員免許更新制は何のために作られたか。文科省がタテマエで言うことを引用すれば以下の理由になる。「教員免許更新制は、その時々で教員として必要な資質能力が保持されるよう、定期的に最新の知識技能を身に付けることで、教員が自信と誇りを持って教壇に立ち、社会の尊敬と信頼を得ることを目指すものです。」「定期的に最新の知識技能を身に付ける」というのは、明らかにすでに教員になっていることを想定して言っている。その目的自体がおかしいが、それはさておき、このようにすでに教員となっているものが、「自信と誇り」を持つために「最新の知識技能」を身に付けよ(何でもいいからどこかの大学で30時間の講義を聞くことで)と言う制度である。
 
 一方、ペーパーティーチャ―はどうすればいいのか。文科省のサイトの「現在教員として勤務していない教員免許状所持者の方々へ」にはこうある。
問1.現在、教員免許状を持っていますが教職には就いていません。平成21年4月から教員免許更新制が実施された場合、教員免許状はどのようになるのでしょうか。
答1.
 既に教員免許状を持っている方(平成21年3月31日までに教員免許状を授与された方)で教職に就かれていない場合には、平成21年4月に教員免許更新制が実施された以後も、免許状更新講習を受講・修了しなくても免許状は失効しません

 ペーパーティーチャーは受けなくても失効しないのである。もちろん教員に就くときには年齢が来ていたら講習が必要と他の項目で書いてある。でも採用試験時に失効していないんだから、もし採用されたらその時に、または次の45歳や55歳の時に講習を受ければいいんだと思っても、何の不思議もない。試験に合格しても、実際に学校に採用されるかどうかは判らない。実際に採用されるかどうかわからないのに、どうして教員免許更新講習を受けなければいけないのか。

 これらの人がどういう経歴の人かは知らない。でも「採用」とある以上は、仮に他の学校で経験があったとしても、少なくとも東京では初の教員体験である。初任者である以上、これらの教員にまず必要なのは「初任者研修」のはずである。初任者研修がある人が、同時に免許更新講習を受ける必要があるのか。更新講習は、すでに10年、20年と教員を長くやってる人を対象にしているはずである。

 今回の事例ほど、教員免許更新制というものの馬鹿げた性格を浮き彫りにした事例はないだろう。教員に採用されてこれから頑張ろうと言う人が、免許そのものが失効してるから採用取り消しというのは、全く意味がない制度である。正教員としては一度も使わなかった免許が、ようやく生かせるという時に失効していたというのは、全く制度設計がおかしい。もしこの更新制が必要だと言うなら、採用された年に受ければいいと言う特例を設ける必要がある。もともと意味不明の、教師と言う職業をバカにするだけの制度だけど、さすがにここまでのケースが起こるとは、僕も考えが及ばなかった。改めて全く意味がない制度だという思意を強くする次第である。
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戦国武将展と土浦散歩

2013年04月25日 21時25分20秒 | 東京関東散歩
 茨城県の土浦市立博物館開館25周年記念で開かれている「婆裟羅たちの武装」展(5月6日まで)が異例の人気を呼んでいるという話である。この基となった「戦国BASARA」というゲーム、アニメがあるというんだけど、それには全く関心がない。新聞記事で知ったという程度の話だけど、戦国武将がゲームで人気になってるくらいは知っていた。それが博物館とコラボで人気になるというのを確かめたいのと、土浦を歩きたい、霞ケ浦を見たいという気持ちで出かけてみた。

 平日で行けそうな日も数少なくなり、昨日は大雨だったけど今朝方は晴れ渡ったので行く気になった。土浦はおよそ2年前に、布川事件の再審無罪判決の時以来。あの時は雨が降っていたし、震災の直後で閉まっていた施設が多かった。お城のあちこちが壊れていて、近づけないようになっていた。早くも2年経ったのか。案外小さな博物館で、非常に充実したというまでの内容ではない感じもあって、戦国時代に関心が薄い人が頑張って土浦まで行く必要があるかどうかはビミョー。とりあえず、1階は刀の展示。2階に各武将のよろいかぶとの展示。エントランスにゲームのキャラクターが飾ってあって、それは撮影可。(中の写真が1階、最後が2階)
  
 土浦藩と言っても大名が誰か、ほとんど知らないと思う。僕も知らなかった。武田家家臣から続く土屋家というのである。もちろんそれ以外の大名もいろいろあるんだけど、1687年以後は幕末まで土屋家の統治である。その時の土屋政直と言う人は綱吉から吉宗までずっと老中を務めたという極めて異例の人物だという。先祖は長篠の戦いや天目山で戦死しているが、やがて子どもが家康に見いだされて徳川譜代の扱いとなるわけである。名家として諸家から贈られた刀などがたくさんあって、それが1階に展示されている。本当は国宝指定の刀もあるけど、それは展示されていない。(市のHPによると毎年秋に公開しているという。)2階はゲームに出てくる武将たちのよろいを勢揃いで展示。こういう手があったのかと他の博物館はしてやられた思いかもしれない。そんなにすごく貴重なものがずらっとあるわけではないのだが、何しろ数が多い。ゲームではロボットだか剣闘士だかという格好をしてるようだが、実際の本当の鎧をそろえているという趣向。まあそれぞれはあちこちのお城なんかでよく見るもので、文化財に指定されているものは少ないのだが。

 本当に女子大生の友人かと思われるような二人組が結構来ている。親子連れも。平日でそうだから連休はさぞやいっぱいになるのではないか。企画のヒットである。スタンプラリーをやっていて、HPでは品切れで終わったとのことだったが、追加でまたやっていた。これも数に限りがあるので、またなくなってしまうかもしれない。町のあちこち(および市内の重要施設等)に武将の名を書いたスタンプが置いてあり、15集めるとクリアファイルをくれる。これで皆街並みを回っている。どれだけお金を落とすかは不明だが。僕も集めてみた。最初がスタンプラリー帳の表紙、集めたスタンプ、クリアファイル(中身が見えないからクリアと言うのはホントはおかしい。)
  
 博物館は城跡にあり、常磐線土浦駅からは少し歩く。土浦城は「亀城」(きじょう)と呼ばれて、今は「亀城公園」になっている。堀に守られた平城で、天守はもともとなかった。櫓が復元されていて、東櫓は登ることができる。城と言えば上り下りで疲れるところが多いけれど、ここはほとんどフラットで小ぶりな公園になっていて、格好の散歩道と言う感じ。お堀はこいのぼりがいっぱいかかっていた。気持ちのいい城跡公園である。(東櫓の写真はいいのがなくて省略。)
   
 亀城公園を抜け、裁判所を過ぎると蔵などが立ち並ぶ歴史の道も近い。スタンプを置いてある店も多く、そのあたりを散策。蔵が多く、案内所や喫茶店に利用されている。前はその一角にある風情のある蕎麦屋(吾妻庵)で食べたけど、今回は大きな通り沿いにあり、よくガイドに出ている天ぷら屋の「ほたて」に入った。別に帆立貝の天ぷらが名物なんではなく、「保立」さん。歴史学者に保立道久さんと言う人がいる。この店は100年以上続いているらしい。(最初はまちかど蔵「大徳」、二つ目の写真が「ほたて」)
 
 近くに由緒のあるお寺なども複数あるようだけど、今回は車で来てるので霞ケ浦総合公園に。そこにある国民宿舎「水郷」は震災で休館してお風呂だけやっている。まだ震災のあとが完全になくなったわけではない。しかし、公園ではオランダ風車の前でチューリップが満開。風車に登れば霞ヶ浦がよく見える。関東の人間にとっても、名前はもちろん知ってるけど、あまり観光で来ることも少ないと思う。少なくとも僕はちゃんと霞ヶ浦を見たことがない。形も複雑だし、電車から見えたり、温泉が湧いてると言うこともないから、なかなか近くに来ない。でも、まあ立派な湖だから、また別の場所で見てみたい。茨城県は東北3県に次いで震災の被害を受けた県だけど、あまり来ることがない。今年は少し茨城の観光をしてみようかなと思っている。
  
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「木の上の軍隊」を見る

2013年04月22日 23時35分44秒 | 演劇
 渋谷Bunnkamuraのシアターコクーンで、「木の上の軍隊」を見た。ここは高いから見るのは久しぶり。昼間のチケットを入手できたので、見に行った。井上ひさしが最後に書こうとしていたという戯曲である。それは完成せずに亡くなったので、井上ひさし原案とうたって、若手の蓬莱竜太(ほうらい・りゅうた、1976~)が書きあげて、こまつ座とホリプロが製作した。山西惇、藤原竜也、片平なぎさの3人しか登場しない。他にヴァイオリン(いやヴィオラかも)の生演奏があるから舞台上には4人がいる。栗山民也演出。時間的にも2時間しない、1幕のシンプルな作りだった。

 井上ひさしの最後の幻の劇、しかも沖縄戦の話となれば、是非見たいと思っていた。期待を持って見たのだが、正直に言うとどうも期待外れだった。舞台の上には、素晴らしく大きなガジュマルの木がそびえた立っている。これはなにしろ結果的に2人の兵隊が2年間隠れ住むことになる木だから、この舞台美術は重要である。これを見る価値はあるんだけど、芝居そのものはどうもなんだか納得しにくいまま進行していく。二人の兵隊、上官と新兵がいるんだけど、そこに「狂言回し」というか「ガジュマルの精」というべきか、片平なぎさが登場して状況を報告してしまうのである。解説というか、説明と言うか。二人の気持ちまで本人のセリフや演技ではなく、片平なぎさに教えられてしまうのである。これは困った。しかも、兵隊ふたりは敵から逃げているという意識だから、常に小声でしゃべる。大声になると注意し合う。(僕は右耳の聴力が弱いので、後ろの方の席だから聞き取れないセリフがかなりあった。)一方、片平なぎさは遠慮する必要はないので、説明のセリフだけよく聞こえてくるのである。

 米軍の猛攻撃の中、ある島で日本兵が逃げている。大きな木がありそこに登って逃げ延びた2人。一人は本土出身の古兵で、もう一人は現地で召集された若者の新兵。二人は前から知り合いだったわけではなく、逃亡というか、主観的には一種の「樹上基地」というか、そこで暮らしていくうちに、二人の考え方の違いが大きくなり、争い合い、また協力し合い、上官と新兵という関係は変容していく。女性関係のエピソードを話したり、食べ物をめぐって意地を張りあうあたりは、なかなか面白い。この二人の関係には、まあ「本土と沖縄」という関係がシンボライズされているんだろうけど、でもそういう大きな象徴性はあまり感じられない。あくまでも、具体的な事実をめぐって劇が進行する。

 蓬莱竜太と言う作家は、2009年に「まほろば」で岸田國士賞を取った新進である。「まほろば」は昨年の再演を見たが、破格の家族関係を日常の細かな描写で描いていた。今回も、設定が「木の上の軍隊」という破格の物語なんだけど、そこに「日常」の味付けをしていくように思えた。そこが実は僕には少し不満。破格の設定には破格の展開がいるのではないか。例えば、僕は「木の上」と聞いた時に、イタロ・カルヴィーノの「木のぼり男爵」のファンタジックで破天荒な面白さを連想した。あの素晴らしく面白い物語のように、木と木が絡まり合いガジュマルを伝わって島の裏に行けるようになっているとか、ひとりは木を降りることを拒否して戦後を樹上で生きることを選択するとか、そのくらい破天荒な物語が欲しい感じがするのである。どうだろう、米軍を逃れて木に登った兵隊が、敗戦を知った後でも米軍が去って「真の平和」が来るまでは樹上で過ごすと宣言して、島人が支えて今も樹上で生きているというような設定は。

 「夏・南方のローマンス」と続けて、日本兵が出てくる劇を見たが、昔と違うから若い俳優が兵隊に見えないのは仕方ない。でも、「ローマンス」のずるく立ち回る兵隊の方にリアリティがあるのではないかと僕は思う。役者と言うのは「やな役」の方がうまくできる者だとは思うけど。
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「夏・南方のローマンス」とBC級戦犯裁判

2013年04月21日 00時53分33秒 | 演劇
 木下順二作、劇団民藝「夏・南方のローマンス」の26年ぶりの再演を見た。(紀伊國屋サザンシアター)。23日まで。この芝居を見ると、現時点で木下順二を演じることは難しいなあと思った。まあまあの出来かなという感想になるけど、内容について書いておきたいことがある。
 
 それは「BC級戦犯」という概念の問題である。今では、戦争責任を論じる人ならば、「A級戦犯」が「責任(罪)が重い戦争犯罪人」だと間違えている人はさすがにほとんどいないだろう。でも一般には、「WBC3連覇を逃したA級戦犯」と見出しにうたう週刊誌があったぐらいで、今でも「A級」は責任重大の意味だと思っている人がいるのである。赤坂真理の評判作「東京プリズン」を読むと、この問題も出てくる。15歳の少女が知らないのは当然だと思うが。

 今では多くの人が知っていると思うが、ABCというのは「罪の内容」を仮に分類した区分である。A級は「平和に関する罪」で、侵略戦争を始めた罪に問う。それが戦争理解、裁判の報復性、罪刑法定主義違反などの問題をはらんでいることは間違いない。その問題に関してはいろいろな考え方があるが、ここでは書かない。B級は「通常の戦争犯罪」C級は「人道に対する罪」

 C級は主にナチスのユダヤ人虐殺を裁くための概念だった。ドイツがユダヤ人と戦争していたわけではないので、ユダヤ人強制収容所は通常の戦争犯罪では裁けない。そういう事情が日本にはなかったから、日本軍の戦犯裁判はすべてA級とB級だった。(後に問題化する「731部隊」や「慰安婦」などは、当時正面から問題にされていたら、「C級」にあたったかもしれない。ソ連が行った「731部隊」関係者のハバロフスク裁判などは、ある種の「C級戦犯裁判」だったかもしれない。)

 そういう理解からすれば、木下順二のセリフに「B級は現地の下士官クラス」「C級は命令で実行した兵クラス」とあるのは、間違いである。この劇に登場するのは全員「B級戦犯」である。この劇の中では、ある島を米軍が包囲する中、島民のスパイ組織があるとにらんだ陸軍中佐の脅迫で一大スパイ事件がねつ造され、島民66人が死刑にされたとされる。似たような事件はインドネシアで実在しているので、「いかにもありそうな話」だ。

 しかし、実は「死刑」にしたときに正式な裁判をやってないのである。だから本質は「虐殺事件」である。それでは大問題になるので、中佐が中心になって「軍律審判」を開いたという虚偽を裁判直前に打ち合わせた。「戦犯裁判のいい加減さ」というのはどこでもつきまとった問題だけど、この劇では「日本軍被告側に組織的偽証があった」のである。その結果、実質的責任者の陸軍中佐が助命され、過酷な取り調べを担当した兵が「実行犯」とされて重罪を課される。

 ムチャクチャな取り調べで島民を虐殺した事件は(劇の中で)事実であり、その責任は陸軍中佐の参謀にある。その中佐が奸計をろうして責任を下の者に押し付けてのうのうとしている。それがこの裁判の一番追求すべき問題だと思う。戦犯裁判そのものの理不尽性、連合国と島民の間にあったカルチャ-・ギャップなど、描くべき大きな問題はいくつもある。だが、当時の日本軍に言っても仕方ないことを考えるよりも、「戦争犯罪の責任を取るべき人物が罪を部下に押しつけた」という点を問題にした方がいいのではないか。

 僕は木下順二の戯曲そのものに問題があると思う。木下順二(1914~2006)は長命だったけど、最近は「名前のみ有名」という存在かもしれない。70年頃までは戦後最大の劇作家だと誰もが思っていた。代表作「夕鶴」は必読書で、中学や高校の演劇部がたくさん上演していた。僕も旺文社文庫で中学時代に読んだ。「夕鶴」は山本安英が「つう」を演じて1037回上演した。山本安英の死後、他の人で演じたのは坂東玉三郎が一回あるだけ。オペラは上演されるが、演劇としては封印されたに等しい。没後に岩波文庫の著作集4冊を全部読んだが、「夕鶴」は今も生きていると思った。全国が一体化した今こそ、「夕鶴」の方言はどこの言葉かなどの問題に関係なく、テーマだけが見事に立ち上がって読む者に突き刺さる。それに対して、前に読んだときに心ふるえるような思いをした「オットーと呼ばれる日本人」や「蛙昇天」が時代とずれてきた感じを否めなかった。

 木下順二の新作を見たのは「子午線の祀り」だけである。大学院生だったが、平家物語の「群読」は手ごわすぎた。なんで高い金払って見る(聴く)意味があるのか、ひとりで「平家」を読んでちゃダメなのか、よく判らなかった。「夏・南方のローマンス」(87年)と翻案による「巨匠」は、忙しい上に金もなく見てない。(「巨匠」の大滝秀治を見逃したのはもったいなかった。)追悼公演で「沖縄」(63年)を見たが、なかなかストレートに入って来なかった。純粋のリアリズムで社会派的に描くだけではなく、そういう側面もありつつ象徴的というか、「鳥瞰」と「虫瞰」を同時に行うような劇が多い。中身の事件を知ってると、そのとらえ方が斬新かつ感動的だが、時間が経つと象徴性の部分が通じなくなる。(井上ひさしの評伝劇は対象に有名な作家が多いから、今後も判らなくなることはなさそうだ。うまい方法だった。)

 この戯曲は「忘れてはいけない」戦犯裁判という思いで書かれているんだろう。パンフにある木下順二の「未精算の過去」という文章は1975年のものだ。「戦後30年」でそういうことを思っていたわけである。その後「審判」という東京裁判を描く劇を70年に書いた。「夏・南方のローマンス」でBC級を取り上げ、両者あいまっての戦犯劇である。これは井上ひさしの「東京裁判3部作」と厳密に比較対象されるべき作品だと思うが、今はその準備がない。僕は東京裁判という「大きなもの」に関して思う「複雑な感慨」と、BC級裁判に感じる「単純な怒り」はかなり違うと思う。そもそも死刑制度に反対なので戦犯裁判でも死刑は認められないと思っているが、それはさておき、この裁判は「冤罪死刑裁判」である。「冤罪」なのである。冤罪をもたらしたものは何かと僕はストレートに問いたいのである。それは直接には、軍上層部の策略である。そう僕は感じたわけである。

 この劇の主人公は、大学出にもかかわらず幹部候補生を志願しなかった。そして住民の中に入り、慕われた兵だった。だが暴走する軍を止められないし、島民女性の自殺を防げない。その子供が証人に呼ばれ、彼が責任者と指差されて死刑判決が出る。彼の方は、これを「一つの運命」「日本軍の一員だった自分の責任」として受け入れているようだ。そういう話が、主人公を思い続ける女漫才師を中心に、戦友や主人公の妻の話を通して描かれていく。だが、この女漫才師(初演では関西弁だったよし)は難役で、どうも違和感も残る。戦犯裁判を劇にするときに、いわゆる三角関係ではないけれど、「妻と愛人」みたいな設定をする理由は何だろう。主人公を複眼で描き出すことか。確かに妻だけよりは複雑なエピソードが出てくるが、本質をぼかす感じがして設定に問題がある。

 題名の「夏・南方のローマンス」は、無声映画の弁士の名セリフ「春や春、春南方のローマンス」から取られている。調べてみると、1918年公開の「南方の判事」で、生駒雷遊(1895~1964)という弁士がしゃべって大評判になった。考案したのは林天風とあるから、無声映画の弁士も台本と発声は分業だったのだろう。主に浅草で活躍し、新宿の徳川夢声と並び称せられた。映画がトーキー(発声映画)になると弁士は失業し大きな問題になるが、生駒は古川ロッパの「笑の王国」に参加したという。この名文句は昔は大体みな知っていて、僕もこの名調子は知っている。この題名がストレートに伝わらない世代には、題名自体の喚起力がそがれてしまうだろう。

 BC級戦犯の問題は複雑な点が多い。だいぶ解明されて来て、今のところ林博史「BC級戦犯裁判」(岩波新書)が基本文献だろう。「私は貝になりたい」のような、兵が日本で逮捕され死刑になるといった事例はなかったことが今は証明されている。捕虜収容所が問題にされた事例が多く、朝鮮人・台湾人の軍属が戦犯に問われた例も多い。この問題は今も続いているが、大島渚のドキュメント「忘れられた皇軍」に描かれている。また連合軍捕虜収容所の待遇にも問題はあった。

 いろいろ問題があったわけだが、日本の戦争犯罪が事実あった以上、的確な裁判で冤罪ではない事実認定が出る必要がある。その裁判としての最低基準がクリアーできていない裁判がいっぱいあった。それは「悲しい」と言って済む問題ではない。「仁義なき戦い」で山守組長がしぶとく生き残り、下で苦労したものがつぶされていくという構図。それが「戦後日本」だという日本そのものを象徴するのが、BC級戦犯裁判である。「忘れてはいけない」のは確かで、今回の上演もいいことなんだけど、木下戯曲が今の時代に難しいという問題も突きつけているように思う。
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追悼・三國連太郎

2013年04月15日 22時14分31秒 | 追悼
 戦後日本を代表する名優のひとり、三國連太郎が亡くなった。90歳だという。闘病中であるという話は伝わっていたので、やはり亡くなったのかと言う感じである。最近の人には「釣りバカ」の人なんだろうけど、昔の映画を見ると「凄すぎる」という言葉しか出てこない俳優である。よく「怪優」などとも言われた。三國連太郎と言う人は、新聞などの訃報が報じる言葉が大体あっているので、あまり付け加えることがない。代表作はあとで見たものが多いので、同時代的な思いでも少ない。

 木下恵介監督の「善魔」でデビューした時の役名をそのまま芸名にした。そういう人は時々いる。(藤村志保とか早乙女愛とか。)当初は松竹の二枚目俳優だったのである。その後、どんどん演技派として名をはせるようになるが、一番すごいのは誰があげても「飢餓海峡」。内田吐夢監督、水上勉原作の社会派ミステリーだが、三國の存在感に感服するような映画。追悼上映があれば是非見て欲しい。左幸子、伴淳三郎もいい。新聞では、大体「釣りバカ」「飢餓海峡」をあげ、続いて今村昌平「神々の深き欲望」「復讐するは我にあり」を代表作としている。まあ、僕も異論はないけれど、「復讐するは…」は助演である。

 案外、実在人物を演じることが多く、僕が最初にすごいと思ったのは、吉村公三郎監督の「襤褸(らんる)の旗」の田中正造である。鉱毒事件に奔走する正造を全身で演じきっていて、凄い人がいるもんだとビックリした。吉田喜重監督「戒厳令」の北一輝も素晴らしい。映画が難しいから取り上げられないが、僕はこの演技も素晴らしいと思う。勅使河原宏監督「利休」の利休役もあるし、「にっぽん泥棒物語」の松川事件に関する目撃情報を持つ泥棒と言う難役もあった。あげて行けばきりがないけれど、最後の頃では「夏の庭」の老人役が僕は好きである。

 差別問題に強い関心を持ち、また親鸞を研究し「親鸞 白い道」と言う映画も作った。これはカンヌ映画祭で審査員特別賞を受けたが、見てない人が多いと思う。僕はそれほどすごい映画だとは思えないのだが、力作には違いない。私生活も含めて様々なエピソードが語られると思うし、そういう「伝説」が似合う最後の俳優とも言えるだろう。それと同時に僕が思うことは、「戦後と言う時代」の激動の重さである。「昔はすごい人がいた」のではなく、社会の激動があってみな一生懸命生きざるを得なかった。社会が安定し「ガムシャラ」が似合わない時代になると、人は「みなホドホド」でないと浮き上がるから「空気を読む」生き方が主流になる。でも価値観が全部逆転するような時代では、伝説になるほどの異常な頑張りで知られる人物が出てくるのだと思う。

 最近大島渚の映画をいっぱい見て、ここにもまとめて書いたけど、大島作品では「飼育」に出ている。村のまとめ役をいかにも三國らしく重厚に演じて、まあ名演なんだけど、もうその程度では思い出に強く残らないほどのすごい役、すごい演技が多い。だから結構出ている娯楽映画なんかの演技を思い出せないくらいだ。いろいろ追悼上映されると、違った面を発見できる映画が見つかるかもしれない。とにかく、見た人には永遠に忘れられない俳優で、普段古い映画をあまり見ない人にも、日本の戦後と言う時代を考えるために是非見て欲しいと思う。それにしても、映画黄金時代の名優、名監督が年に何人も亡くなる。時代的にやむを得ないが残念なことであり、寂しい。
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ミヒャエル・ハネケ「愛、アムール」

2013年04月11日 22時01分53秒 |  〃  (新作外国映画)
 ミヒャエル・ハネケ監督の「愛、アムール」という映画は、昨年のカンヌ映画祭最高賞(パルムドール)を受賞した作品である。アカデミー賞でも外国語映画賞を受賞したほか、なんと作品賞や主演女優賞、監督賞、脚本賞などにノミネートされた。外国作品がノミネートされるのは非常に珍しい。特に主演女優のエマニュエル・リヴァは史上最高齢の85歳でノミネートされた。

 という立派な映画なのだが、一見した時には「受け入れがたい」と思う人が日本では多いのではないだろうか。それは昨年公開されたペドロ・アルモドバル監督の「私が、生きる肌」のような受け入れ難さとはまた違う。筋立てもそうだけど、細部の細々とした事実への疑問、芸術と言うよりもむしろ福祉政策への疑問などがいっぱい浮かんできてしまうのである。そこで、自分に見落としがあるのではないかと思い、もう一回見てみた。その結果、この映画が非常にうまく仕組まれた、優れた映画であることが再確認できた。しかし、この映画の基本的世界、展開には僕は納得できない。映画内でも娘のイザベル・ユペールは納得していないように描かれているが、僕も同じような感じ。

 映画の中身に入る前に、僕および多くの日本人に疑問だと思う部分がある。フランスには介護保険はないのか。そして、フランスでは介護、看護を頼む場合、一回ごとに個別に支払いをするのか。それでは領収書はどうなるのか。所得の申告はどうするのか。日本の生活者が見れば、すぐ疑問にとらわれ映画に熱中できなくなると思うが、パンフに解説がない。そういうことこそ教えてもらいたい。日本だったら、まず介護保険の領分の話であり、在宅介護はいいけど、こういう風な個人的な夫婦の問題であってはならない。そういう風に思ってきた問題を「愛の極致」みたいに言ってもらっては困る、と僕は思ってしまうのである。

 これはある二人の成功した音楽関係者の老夫婦の物語である。他には娘役のイザベル・ユペールの他、その夫、弟子のピアニスト、買い物を頼む老夫婦、看護師など何人か登場するが、ほとんどは二人だけである。場所もパリの老夫婦の高級マンションにほぼ限られている。ただ部屋はかなり多く、カメラは静かにドラマを見つめることが多く(ラスト近くになると、パンも多くなるが、最初の頃はほとんどカメラが動かない)、非常に静かな映画だが、画面は常に緊迫している。その緊張感に満ちた世界は魅惑的で、やはりこの映画は非常に成功した映画だと判る。

 その老夫婦を演じた俳優は、妻がエマニュエル・リヴァ(1927~)、夫がジャン・ルイ・トランティニャン(1930~)で、どちらも80歳を超えている。特にエマニュエル・リヴァは確かに奇跡的な名演で、素晴らしいの一語。この人は、1959年のアラン・レネ監督「二十四時間の情事」(ヒロシマ・モナムール)で主演して、岡田英次と「私はヒロシマを見た」「君は見なかった」とやり取りしたあの女優である。その後は映画より舞台で活躍してきたらしいが、数年前に59年当時の広島の写真がみつかり日本でも写真展を開き来日した。吉田喜重回顧上映がパリで行われた時に、「秋津温泉」を見に行って岡田茉莉子と知り合う話が岡田茉利子の自伝に出てくる。そういう日本との縁も深い女優が、もう胸乳も露わに「老い」を演じ切る壮絶な演技には驚き入るしかない。

 夫のジャン・ルイ・トランティニャンは「男と女」の主役だったハンサムな名優だったが、もう80歳を超えていたのか。ある種かたくなな老人を演じきっている。70年前後の「Z」「暗殺の森」「狼は天使の匂い」なんかでも渋い名演を見せ、アラン・ドロンなどのような人気スターというよりも、どちらかと言うとアートシネマの主役が似合った人である。トリュフォーの遺作「日曜日が待ち遠しい」も忘れられない。そういう映画的記憶を背負った二人の名老優が人生の最期を演じる。それだけですごい。監督は前作「白いリボン」でカンヌのパルムドールを得たハネケ。(つまり、ハネケ監督は今村昌平、クストリッツァ、ダルデンヌ兄弟に続きパルムドール2回の記録となった。)期待はいやがうえにも高まる。

 映画はある閉ざされた部屋を警察(だと思うが)が壊していく場面から始まる。老女の死体がある。老人の映画だとは大体知ってみているので、いわゆる「孤独死」のような話かと思う。続いて音楽会のシーン。映画は観客ばかり映し、ピアニストを映さない。一体なんなんだという場面である。続いて老夫婦が帰宅すると、カギが壊されている。空き巣か?その真相は明らかにされない。このように謎めいたシーンから始まり、観客は何が何だかというようにミスリードされていく。ハネケの映画は常にそうだけど、「隠された記憶」(カンヌ監督賞)など最後までよく判らないままで、それも困る。「愛、アムール」はそこまで不親切な映画ではなく、一見普通の老夫婦の片方が病気になり、どんどん悪くなり、困った状況になるという「老老介護」の状況を教える社会派映画のごとき展開をしていく。この映画では、妻が病気になる。病院は二度と嫌だと言うから、夫がかいがいしく世話をする。これは普通逆である。夫の方が年上の夫婦の方が多いうえ、酒やたばこの影響も妻より夫の方に高い場合が多いから、夫が先にガンや脳出血、肝臓病などになることが多いだろう。でも夫が倒れると、身体的に非力な妻だけでは入浴などの介護が難しい、否応なく外部に頼むか、子どもがいれば子供に頼むしかないだろう。妻だけで自宅介護するというのは、やりたくてもできない。この映画の妻が成功したピアノ教師であるらしいことも含めて、「都合のいい設定」を仕組んでいる。それをいかに「仕組まれた都合よさ」に見せないようにするか。そこが腕の見せ所である。

 そうやって「夫の介護」をずっと見せておいて、最後に近くなって突然ハネケの長年の主題「暴力」がやはり現れてくる。それをどう見るかだけど、どうも「人間が身体の自由を失い、言語の自由を失い、表現の自由を失い…」そうやって「人間の尊厳」が失われていき、これでは「真の人間」ではないという感じで、娘にも見せたくないという感じになっていく。でもどうなんだろう、「神様に近づいた」「子供の頃に戻った」と日本なら考えるところ、欧米では「人間ではなくなった」と考えているのではないか。どうしてもそう思ってしまうのだが。そういう意味では、技術的には素晴らしいし、是非見るべき映画なんだけど、作品世界が成立する思想そのものに違和感を持ってしまう映画と言うといいだろうか。

 さて、夫はどうなったのか?2回見ると、ヒントは描かれていたように思った。ところで、この「愛、アムール」という邦題はどうなの?「馬から落ちて落馬した」みたいな名前だと思うけど。
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佐藤一という人-映画「黒い潮」と下山事件をめぐって④

2013年04月09日 23時30分32秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 「黒い潮」「下山事件」の自殺説報道をめぐる毎日新聞の苦闘を描く映画だった。その下山事件を生涯をかけて追跡し、ほとんど完全版だと思う「下山事件全研究」(時事通信社、1976)という本がある。著者は佐藤一という人である。この本は長く入手が難しかったが、2009年に「新版・下山事件全研究」がインパクト出版会から出された。6,300円と高い本だけど、それだけの価値はある。僕が持っているのは旧著の第2刷(78年)で、当時は2500円で、当時の僕には相当に高い本だった。

 著者の佐藤一(1921~2009)の名前は多分その前から知っていたと思う。この人は松川事件の無実の死刑囚で、1審・2審で死刑を宣告された。1審は5人、2審は4人が死刑だったが、特にこの人、佐藤一の名前は松川事件に関心があった人はよく知っているはずだ。東芝の組合活動家で東芝松川工場にオルグに行っていた時に、東北本線脱線転覆事故が起きた。そのためオルグの佐藤が「首謀者」であるとされたのだが、その「謀議」をしていたとされる時間に、ちょうど東芝で団交中だったことを示すメモが会社側に残されていた。いわゆる「諏訪メモ」である。それは検察が押収していたので、検察側は佐藤の無実を事前に知っていたのである

 国鉄事故だから東芝労組だけでは起こせない。国鉄・東芝の労組関係者「謀議」がなければ、東芝労働者が事件に関わることはできない。従って、諏訪メモの出現で検察の構図は全面的に崩壊していくのである。世論が検察を批判し、ついに最高裁は異例にも「諏訪メモの取り調べ」に踏み切った。事実審理をしない最高裁としては、以前も以後もない「最高裁の職権による事実調べ」だった。その結果、最高裁は仙台高裁に差し戻しを決め、全員無罪判決となるわけである。
(佐藤一)
 63年に松川事件の完全無罪が確定して、佐藤一はようやく「被告」の肩書きがとれた。その佐藤に「下山事件研究会」の事務局担当という仕事が回ってきた。当時の佐藤はもちろん共産党員で、党員として担当したのだと思う。60年に「日本の黒い霧」が出て、左翼勢力に「下山事件謀殺論」が広まっていた。佐藤もどちらかと言うと当初は他殺説だったらしい。だが、くわしく調べていくほど他殺説は消えて行き、自殺説の可能性が高まる。清張が怪しいと書いた「総裁を轢いた列車」は、清張説では占領軍列車とされたが、清張は乗車員に当たっていなかった。佐藤が調べると、ちゃんと乗務員の話を聞けて普通の列車だった。細かく書かないが、怪しいとされたのが全部否定されていくのである。
 
 古畑鑑定も調べていくと、70年代当時でははっきり否定されている見解だった。さらに下山総裁の(清張説では最後は「替え玉」とされるが)不可思議な行動の様々は、その後の心理学の発展で「初老期うつ」と判断されるというのである。事件の前に様々な奇怪な行動があったのだが、技術畑で国鉄の初代総裁になったばかりだった。(鉄道省から日本国有鉄道となったのは、1949年6月でわずか数週間前だった。)戦争からの大量の復員者を抱えて人員整理が避けられない辛い立場に立たされた。

 「心のケア」などという言葉もなかった時代だが、中年から老年にかけ、今までと違う仕事に「抜てき」でついたマジメ一途の人が、頑張れば頑張るほど自分を追い込み、精神的に不安定となるというのは、今になれば誰でも知っている。「中年クライシス」と言ってもいいし、「男の更年期」などと言う人もいる。下山総裁の奇異な言動を今見ると、そういう「うつ症状」で理解した方が納得できる。佐藤一の本を読めば、皆納得すると思う。

 僕は著者の自殺説に全面的に同意したが、自殺説に傾いた頃から佐藤一は党内で孤立する。やがて党を離れるが、「進歩的知識人」の中にも彼を避ける人が出てきた。困るのは「自殺説」を無視して、その後も「他殺説」を唱え「怪しい人脈」などと書きたてる本が何冊も出たことだ。「全研究」というほどの佐藤の本について、証拠を基に否定するならともかく、全く触れない本ばかりである。この本に触れずに下山事件を語るのがまずおかしい。「全研究」という位だから、この本に論点は皆出ている。他殺説を唱えるなら、佐藤一「下山事件全研究」を「全否定」するのがまず最初だろう。そういう作業をしないで、佐藤本を無視している。そういう人の狙いはまた別のところにあるのだろう。

 佐藤一には「被告」という本もあるようだが、僕は読んでいない。下山事件研究をまとめた後は、他の冤罪事件を調べている。当時、死刑再審事件として大きな注目を集め始めていた松山事件島田事件である。自分の体験もベースにあるだろうが、どちらの事件も古畑鑑定が大きな問題となっていた。その意味で、下山事件研究から引き続くものがある。「松山事件 血痕は証明する」(大和書房、1978)と「不在証明 島田幼女殺害事件」(時事通信社、1979)の2冊の本は、どちらも再審無罪が勝ち取られた現在では忘れられた本だ。僕も今回佐藤一氏の本を振り返ろうと思うまで忘れていた。(松山事件は宮城県北部の事件。1984年無罪。島田事件は静岡県島田市の事件。1989年無罪。)
 
 その後の佐藤は、1949年の「謀略の夏」史観を批判し続けた。「下山・三鷹・松川事件と日本共産党」(三一書房、1981)、「一九四九年『謀略の夏』(時事通信社、1993)、「松本清張の陰謀」(草思社、2006)と続いて行く。「謀略の夏」というのは、49年の「三大怪事件」の結果、占領軍の謀略で左翼勢力は壊滅させられ、以後の「逆コース」が仕組まれていったという「陰謀史観」のことである。

 佐藤は49年の国労大会の原史料を発掘し、全部読んで解読した結果、占領軍の謀略など要するまでもなく、国労内の共産党勢力は退潮し支持を失っていたことを明らかにした。また「松本清張の陰謀」では、「日本の黒い霧」の様々な項目について反論している。僕が思うに、清張「黒い霧」が主張した「伊藤律スパイ説」は本人が北京に実在して帰国後の反論があって崩壊した。また「黒い霧」で様々な怪事件が発生したのは、50年6月の朝鮮戦争勃発がアメリカの陰謀であるという方向でまとめられている。それはソ連崩壊後の諸資料ですでに、朝鮮戦争は金日成(キム・イルソン)が主導して、スターリンと毛沢東が承認して始まったことが証明された。それだけで、「黒い霧」の根拠は崩れている。

 ところが「下山事件謀殺説」だけは生き残っていくのである。何故か?21世紀になっても、そういう本は出てるし、そこに佐藤著は登場しない。09年に亡くなった後、遺著「下山事件 謀略論の歴史」(彩流社、2009)が出たが、これは存命中に手を入れられなかったこともあり、ほとんど語りおろしというか、いくら何でも流れ過ぎだろうと思う箇所も見られる。「謀略論批判のトーンの高さに違和感を持たれる方もいるかもしれない」と編者も書いている。しかし、いくら論理的に批判しても、反論ではなく無視されるということが続いたのである。そういう怒りを感じることができる。
   
 戦後日本では左右を問わず「陰謀史観」が大好きなのだ。「自分では決められない」国際的位置にある不安と屈辱は、「すべては占領軍の陰謀」という言葉に魅力を感じさせるのだろう。右は右で「占領憲法」が諸悪の根源のように言うし、左は左で「占領軍が革命を阻止した」かのごとく語る。自分の過去の過ちを認識できないのである。戦後史の思想状況を振り返るために、佐藤一氏の本は意味を持っている。事実に基づかない主張が結局は誰を利するか。少なくとも「下山事件全研究」が出てこない下山事件の本、いや戦後史の本は信用できない。(井出孫六「ルポルタージュ 戦後史」(岩波書店、1991)は数少ない、佐藤説を評価して自殺説に立つ本だった。そういう例外もある。)
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東京駅散歩と木村荘八展

2013年04月08日 00時37分40秒 | 東京関東散歩
 風が強いけど土日が晴れるのは久しぶり。フィルムセンターで映画を見ようと思い、その前に東京駅周辺の歴史散歩散歩。東京駅は去年秋に全面改装が終り完成時のレンガ建築が甦りました。いつ行っても写真を撮る人でいっぱい。スカイツリーに加え、東京駅と新歌舞伎座が出そろい、連休の混雑が今から心配です。でも、東京駅は何度見ても美しく、確かに面白いと思います。

 家からは地下鉄大手町駅の方が近いので、大手町で降りて地上に出ると、「将門の首塚」がすぐそばにあります。この「首塚」は大手町のビル群の中にあって、「動かすと祟りがある」とされて動かせないという伝説があります。そういう恐ろしいパワースポットかと思っていくと、案外そうでもない場所ですね。いつも花が供えられています。周りにカエルがいるのは「筑波のガマ」なんだろうか。立札を見ると、ここは「酒井雅楽守の上屋敷の中庭」だった場所で、伊達騒動の伊達安芸、原田甲斐の殺害されたところとあります。やはり「暗い歴史」がしみ込んだ場所のようです。
  

 そこから少し歩くと東京駅。その間は日本の資本主義の中枢と言うべき大企業の本社ビルが立ち並んでいます。「丸の内仲通り」などは彫刻が置かれて、オシャレなカフェなんかがあります。少し行くと「日本工業倶楽部」。1920年に完成した歴史的建造物でしたが、2003年に南側を保存したうえで立て直されました。歴史を感じる美しい建物ですが、真ん前に観光バスがずっと停まっていて写真に撮りにくい感じです。

 ここまで来るともう東京駅は目の前。写真を撮る人でいっぱいですが、時間帯と天候によっては、逆光だったり陽光が際立ち過ぎたりして、なかなか難しい写真スポットだと思います。しかも、人や車がひっきりなしに通るし、いい場所にはかならず写真を撮る人、ポーズする人がいるということで、難しい場所ですね。後ろのビルをどういう風に入れるかも結構大変。とりあえずいくつかを。
   

 さて、東京駅は近代史の上で非常に重大な事件が起きた場所です。1921年11月4日、原敬首相が東京駅で19歳の少年に暗殺されました。また浜口雄幸首相が、1930年11月14日、東京駅で狙撃され重症を負い、1931年8月に死亡しました。そういう重大な出来事が起きた場所で、記念のプレートもあるのですが、皆全然気にしていない感じ。知っていればすぐ見つかる場所にあるのですが、知らずに探そうと思えば案外見つけにくいかもしれません。

 まず、原敬首相から。場所は丸の内南口の切符売り場のすぐ左。説明のプレートが壁にあって、足元のタイルに銃撃場所を示す印があります。付近の写真を撮ったけど、プレートを見てる人は誰もいない。原は事実上初の政党内閣を「米騒動」後に組織した人で、「平民宰相」と言われました。ただ「政友会」への我田引水というか、「我田引鉄」(支持基盤に鉄道を持ってくる)とまで言われた利益誘導政治に批判があったことも確かでした。足尾鉱毒事件当時の古河鉱業副社長でもあります。生きていれば、西園寺公望に続く「最後の元老」に指名されたと思われ、長い政治生命があれば日本の歴史は少し変わったかもしれないと思います。
   

 続いて、浜口雄幸首相。こちらは駅の中にあります。南口から入り、新幹線中央乗換口に向かい階段を上る手前にあります。左側の柱にプレートがあり、やはり近くのタイルに印があります。浜口首相はロンドン軍縮会議に対して「統帥権干犯」と反発する右翼青年による狙撃でした。重症ながら生命は取り留めましたが長期入院を余儀なくされ、翌年になって退院した後に無理を押して国会に登院して病状を悪化させました。8月に死去。「統帥権干犯」という言葉が一人歩きし、軍部を批判することができない時代が来てしまったきっかけとなる事件でした。
  

 この日本史を変えた事件の詳細は、詳しく記述されている他のホームページもありますから、ここでは詳述しないことにします。案外、この「遭難現場」は知られていないのではないかと思うので、東京駅を訪れた時は是非探して欲しいと思います。さて、中央郵便局が一部を残して立て直された商業施設「KITTE」(キッテ=切手から)が3月21日に完成しました。ここも今は人がいっぱい。6階に屋上庭園があるそうですが、今日は強風のため閉鎖されていました。
 

 東京駅には他にいろいろ見所があります。丸の内南口、北口の天井もきれいな装飾です。また「東京駅ステーションホテル」もあり、泊らなくても利用できる施設があります。中には小奇麗だけどひどく高いカフェもあれば、地下にはスパもあるようです。日本を代表するクラシックホテルですから一度泊ってみたいと前から思っていますが、まあ東京にいる人間が泊らなくてもいいか。
 
 
 さて東京駅にはもう一つ重要な施設があります。「東京ステーションギャラリー」です。前からあったけどリニューアル・オープン。今は生誕120年記念で「木村荘八展」をやっています。(3月23日から5月19日まで。)僕は昔から好きな画家で、練馬区立美術館で行われた大展覧会にも行ったことがあります。
 木村荘八(きむら・しょうはち、1893~1958)は、大正から昭和の戦後にかけて活躍した洋画家、版画家ですが、随筆でも知られたくさんの著書があります、特に遺稿となった「東京繁昌記」は有名で、岩波文庫にも入っていました。絵の作品としては、永井荷風が朝日新聞に連載した「濹東綺譚」の挿絵で一番知られていると思います。今回も出ていますが、何度見てもとても素晴らしいです。しかし、元々は洋画家をめざしたわけで、油彩の作品がたくさん出ています。初期は風景や自画像も描いているけど、だんだん風俗画が多くなりました。「新宿駅」(1935年)や「牛肉店帳場」(1932年)、「浅草寺の春」(1936年)などは非常に見応えがあります。特に「牛肉店帳場」は歴史的、伝記的にも貴重な作品だと思います。

 というのも、荘八の実父は、明治時代の東京で牛なべ屋チェーン「いろは」を作った木村荘平と言う人物です。この人は「艶福家」(えんぷくか)で知られ、この言葉も死語だと思うけど、要するに愛人(妾)を何人も抱えたことで有名な人で、「いろは」の名の通り47店舗を開き、それそれ違う妾に店をまかせると豪語したというほどの人物なのです。実際に20数店舗はあり、それぞれ違う女性に経営させていたようです。従って、木村荘八には異母兄弟がたくさんいることになります。長女は木村曙のペンネームで作家、4男荘太も作家(「新しき村」に参加したことで有名です。荘五、荘十二も参加しています)、荘八が画家、荘十は1941年に直木賞を受賞した作家、荘十二は映画監督(「あにいもうと」の最初の映画化の監督です)とこの一家からは、父の実業的才能ではなく、文化的才能が輩出しました。非常にとんでもない父親から生まれた近代日本文化史の不思議です。その「いろは」の様子がうかがわれるのが「牛鍋店帳場」です。

 ステーションギャラリーはまずエレベーターで3階まで行き、階段で2階に降ります。そのときレンガの壁を見ることができます。出口を出ると、駅の2階ギャラリーになってるので、駅を上から見られます。周りがすごく混んでるのに、美術館だけすごく空いててもったいないと思いました。
 
 
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古畑鑑定という壁-映画「黒い潮」と下山事件をめぐって③

2013年04月07日 01時19分05秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 映画「黒い潮」をめぐって、「下山事件」を考える話の続き。中村伸郎演じる東大の法医学者が「死後轢断」(れきだん)、つまり「死んでから轢かれた」と鑑定したために、映画の中で「毎朝新聞」速水(山村聰)は自殺説を積極的に打ち出せなかった。この法医学者は古畑種基という人である。
(古畑種基)
 下山事件の古畑鑑定に関しては、慶応大学の中舘久平教授が「生体轢断」(生きたまま轢かれた)と反論した。当時としては珍しく公になった論争だが、その頃は法医学界の大御所・古畑が「東大の権威」を身にまとっていて、官学対私学の争いとみなした人が多かった。下山事件について書かれた中にも、昔のものにはそういうニュアンスが感じられる。

 下山事件については、この法医学的問題がすべてである。他殺がはっきりしていて、犯人は誰だ、起訴されている人は有罪なのかという事件で、よく法医学鑑定が問題になる。一方「自殺」の場合は、多くは「自殺か、事故か」というケースが多く、それは法医学では判断できないことが多い。薬の飲み過ぎで死んだ場合、死因ははっきりしていて、問題はそれが意図的かどうかである。医学的には同じだから状況証拠の積み上げで判断するしかない。(もちろん遺書があってすぐ判る場合もある。)断崖やビルから落ちて死んだ場合は、「自殺か、事故か、他殺か」が問題になる。でも、意図的な殺人で「自殺に見せかける」ケースは、あったにしても数は少ないだろう

 謀殺説を主張する場合、「違う犯人をでっちあげることが犯罪の真の目的」なので、自殺に見せかけて殺す意味がない。法医学者や警察が謀殺を見抜けず、偽装のはずの自殺で決着してしまったら、せっかくの陰謀が意味を持たない。だから「誰が見ても他殺」と判断するように死体を工作する必要がある。わざわざ自殺に見せかけるもはおかしい。特にこの事件の場合、「左翼勢力に罪をなすりつける」のが目的とすれば、「いかにも左翼勢力は非道なことをする」と人に思わせる殺し方をしないと意味がない。(寄ってたかってリンチして殺すとか。)

 「左翼勢力」には下山総裁の血を抜いて殺す必要がないから、逆効果になる。結局、世の中には「自殺に見せかけた殺人」は、非常にまれなのだと思う。普通、自殺工作をしている時間があれば早く逃亡した方がいい。それも法医学的に見抜けない薬物や投身自殺などの場合である。下山事件他殺説のように、「殺しておいて、死体を列車に轢かせる」というのは、絶対に不可能かと言えばやってできないことはないだろうけど、わざわざやる意味があるとは思えない。失神させておいてビルの屋上から突き落とすと言ったやり方の方がずっと簡単ではないか。

 だから普通に考えれば、列車にはねられた場合は「事故か、自殺か」なのである。もちろんホームから突き落とすという殺人もあるが、下山事件とは性格が違う。下山事件について他殺説を主張する本が最近も出ているが、この鑑定問題に触れていないものがほとんどだ。「下山事件は鑑定がすべて」だという本質を考えずに、「下山事件をめぐる怪しい人脈」などと書きたてる本がある。注意が必要だ。下山事件を追求し続けた人物に佐藤一という人がいるが、その人のことは次回に書きたい。佐藤一「下山事件全研究」という大部の本が1976年に出ている。(時事通信社)この本を読めば、常識的には自殺説で納得するはずである。列車に轢かれた事件の鑑定がその後進んできて、今では「生体轢断」を誰も疑わないだろう

 僕の理解するところでは、生きた人間が刃物で刺された場合など、一瞬では死なないので心臓が動き続け多量の出血をして失血死する場合もある。死後に刺した場合は、傷からはもう出血などの「生活反応」がない。下山事件の場合、確かにそういう「生活反応」はなかったから、東大法医学教室は「生体轢断」と鑑定したわけである。しかし多くの轢断死体も同じような反応がほとんどだという。その事例研究が進み、ますますはっきりしてきたという。そうなるのは、列車にぶつかった瞬間に一瞬にしてショック死してしまうため、生活反応がないというのである。これは今の通説ではないかと思う。その後の研究の積み重ねから見ると、当時の古畑鑑定は不十分だったわけである。

 古畑種基(1891~1975)は、日本の血液研究の第一人者で、特にABO型血液型の権威だった。1956年に文化勲章を受賞している。高校生のころ、生物の宿題で「夏休みに理科の岩波新書を読む」というのが出た。そのとき僕は古畑種基「血液型の話」を読んだ。それなりに面白かったんだけど、この本はしばらくすると絶版になった。その本で「血液型鑑定で有罪がはっきりした事件」として挙げられていた「弘前大学教授夫人殺人事件」が、実は冤罪であり再審で無罪判決が出たのである。

 「針の穴」より小さいと言われた再審が開かれたのは、獄中で改心した真犯人が名乗り出たためである。「血液型で有罪」と言うけれど、それは全く間違った鑑定だった。どうしてそうなったのか。強烈な治安意識、戦前以来の権威主義などで、途中で間違いから引き返せず詭弁的な議論で鑑定書を書く体質があったのである。裁判官は科学を持ち出されると反論できず、「鑑定の結果、有罪」とあれば頭から疑わないのである。(実際の事件をみると、鑑定資料自体が警察のねつ造だったり、古畑鑑定と言われるが実は大学院生が実験して検証していなかったものなどがあった。)

 70年代に日本の再審は大きな壁にぶつかっていた。最高裁の「白鳥決定」で再審の門が開かれつつあったが、死刑事件の再審の壁は特に厚かった。それらの事件の多くで古畑鑑定が有力証拠とされた。僕はその頃から冤罪救援運動に関わっていた。日本には冤罪を訴えている「無実の死刑囚」が何人もいる国だったのである。後に再審無罪となる4つの死刑事件の中で、九州で起きた免田事件をのぞき、松山事件(宮城)、財田川事件(香川)、島田事件(静岡)の3事件は、いずれも古畑鑑定が有罪の大きな柱になっていた。だから「古畑鑑定という壁」が再審開始の前に立ちはだかっていたのである。

 ところが下山事件謀殺説を主張する場合は、古畑鑑定の権威に頼らざるを得ない。古畑鑑定を否定したら他殺説が成り立たない。そこで結果として古畑を持ち上げ、東大鑑定の権威化に貢献することによって、「無実の死刑囚」の再審請求を妨害することになる。1981年に公開された熊井啓監督「日本の熱い日々 謀殺・下山事件」という映画がある。いまどきそんな映画を作る人がいるのかと思ったのだが、「革新勢力」が映画を積極的に支援していた。当時冤罪事件の救援を行っていた団体が集まって、この映画に対する疑問を訴え、上映反対を申し入れたことがあった。僕もその協力者だったので、この映画はその後も見ていない。

 僕が思うに、どうも古畑種基という人が死ぬ(1975年)まで、「古畑鑑定の呪縛」があって、死後にようやく死刑再審が認められたという思いがぬぐえない。ハンセン病問題では、隔離政策を強力に進めた光田健輔という人物がいる。古畑に先立ち、1951年に文化勲章を受賞した。この人物も強烈な治安意識が背景にあり、権威主義的にハンセン病政策を進めて行った。そういう人物が昔はいたものだと思うが、大物になりすぎて権威となって、科学の世界で批判を受け入れない体質が出来上がっていた。下山事件で謀殺を主張したいがために、古畑鑑定を持ち上げるということはあってはならない。
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下山事件と毎日新聞ー映画「黒い潮」と下山事件をめぐって②

2013年04月04日 22時10分51秒 |  〃  (旧作日本映画)
 1954年の日本映画「黒い潮」の話。この映画は、いわゆる下山事件の報道に当たる毎日新聞の記者を描く群像劇である。映画では毎朝新聞社秋山総裁と名前を変えてあるが、誰でも下山事件のことだと判る作りで、事件の経緯はほぼ事実そのままに描いている。

 国鉄総裁下山定則は1949年7月5日に三越百貨店を出た後に行方不明となり、6日午前0時過ぎに常磐線下り列車に轢かれた死体となって発見された。これが自殺か、他殺かとして大きな問題となった。警察の捜査結果は何故か公表されずに終わり(その様子は映画の最終盤に描かれる)、公式的には自他殺の決着は付いていない。「他殺」説とは、国鉄で人員整理が大きな問題となっており、それに反発する「左翼勢力」、つまりはっきり言えば共産党員が関与しているのではないかということである。政府や多くの新聞は、事実上その見込みで動いていた。その後、松本清張「日本の黒い霧」米軍謀略説を主張したので、「他殺説」を「米軍謀略説」と思いこんでいる人が今はいる。

 7月15日に起きた三鷹事件(東京都の三鷹駅で無人電車が暴走し6人の死者が出た事件)では、実際に共産党員10人と元運転手が起訴された。だが一審で党員被告の関与は「空中楼閣」の判決が出て、高裁でも維持された。(一方、元運転手竹内景助のみ一審無期懲役だった。二審で死刑に変更され、最高裁でもめたが死刑が確定した。途中から無罪を主張したが、共産党員救援運動の犠牲になったのではという指摘もある。再審請求中に死亡したが、遺族が2011年に第2次再審を請求。)

 8月17日に起きた松川事件(福島県で東北本線が脱線転覆し3名の乗務員が死亡した事件)では、事件直後に官房長官が「三鷹事件等と思想底流において同じ」と発言した。そのような政府直々の見込み捜査で、元線路工の少年が別件逮捕され、そこから共産党員が20人逮捕、起訴された。一審では全員有罪(死刑5人)となり、作家の広津和郎らの救援運動が広がった。1959年に最高裁で差し戻し判決、61年に仙台高裁で全員無罪、63年に最高裁で確定した。政府は初めからこれらの「事件」を左翼勢力のテロをとらえていたのだ。三鷹、松川では実際に党員が逮捕、起訴され長い間辛酸をなめることになった。「下山事件」だけ間一髪で冤罪が作られずに済んだのである

 この映画は3月で閉館した銀座シネパトスの銀座映画特集で見た。この映画が入っているのは、現在は竹橋(地下鉄東西線)にある毎日新聞東京本社が、1966年までは有楽町にあったからである。(現在毎日が入っているパレスサイドビルは、大島渚の「日本春歌考」に出てくる。)読売新聞も今は大手町にあり箱根駅伝の出発、到着点になっているが、1971年まで銀座にあった。朝日新聞も今の有楽町マリオンの場所にあり、1980年に築地に移転した。50年代の銀座周辺は三大紙が本社を置く日本の報道の中心地だったのである。毎日新聞があったのは、今は「新有楽町ビルヂング」がある場所、ビックカメラ(旧そごうデパート)と帝劇の間辺りらしい。だから映画の中で、窓の向こうや屋上から有楽町周辺の風景が見える。(ロケもあるように思う。)

 なんで毎日新聞かというと、各新聞の中で一番冷静な報道姿勢を貫いたからだが、それより井上靖の同名の原作を基にしているためである。井上靖は毎日新聞の学芸部の記者をしていた。1950年に芥川賞を取り、1951年に退社して作家専業となる。つまり作家になる直前の、毎日新聞のもっとも強い思い出が下山事件報道だったのではないかと思う。原作は読んでいないので具体的は比較検討はできないが、原作自体が毎日新聞を想定して書かれていただろう。

 映画の初めに、深夜に国鉄総裁の死体が発見されたという報が警視庁詰め記者から入る。他社は気付いていないらしく、カメラマンとともに社の車2台で駆けつける。警視庁の有力者は、国鉄職員が総裁の死体に傘をさしかけているところに注目するように言う。簡単に他殺と決めつけるのは良くないという示唆である。この時下山事件報道のキャップになるのは、山村聰演じる速水である。滝沢修の演じる上役は、速水に任せて冷静な報道姿勢を支持する。

 この映画を昔見たときには、下山事件のことしか頭に残らなかった。今回見ると、山村聰が冷静報道を貫くのは、報道被害を受けた心の傷が自分にあったという点を強調している。戦前に大阪にいた時、妻が他の男と心中して、あることないこと書きたてられたのである。いまだに独身なのもそのことを忘れられないかららしい。かつての恩師(東野英治郎)を訪ね、その娘の戦争未亡人(津島恵子)と心通わせながらも、なかなか再婚に踏み切れない。完全な社会派映画だと思い込んでいたが、マスコミの内部事情だけではなく、速水の個人的事情がかなり描かれていたのに驚いた。

 毎朝新聞記者は地道な聞き込みを続け、総裁らしき人物が休んでいたという旅館を見つけたり(松本説では、それは替え玉だとされる)、目撃者らしき人物を見つける。警察情報をいくらあたっても、他殺の兆候は見つからず、警察は自殺に傾いていると記者たちは言う。ところが他紙を見ると、他殺説(左翼犯行説)を書き飛ばしている。毎朝ははっきり「自殺」を打ち出そうと部下は主張するが、速水はそれも早計と退け、死後轢断(つまり死体を引いた)と鑑定した東大の法医学教授を訪ねる。

 この教授は古畑種基だが、その問題は次回に詳しく論じる。映画では中村伸郎が演じていて、そっけなく自分の鑑定は正しいと主張する。実はここが映画のポイントである。中村伸郎は文学座の重鎮で、小津映画によく出ていた。バーで主人公が飲むときの友達は大体中村伸郎がやってる。また渋谷の小劇場ジァンジァンで、金曜夜にイヨネスコの「授業」の連続公演をやり続けたことで有名である。72年から11年続け、僕も見に行った。そういう演劇的、映画的体験を基にこの映画を見ると、うっかり中村伸郎教授の言い分を信じる気持ちになってしまうんだけど、それが大間違いなのである。

 毎朝新聞には報道姿勢がおかしいという圧力があちこちからかかる。速水は冷静報道を主張し続けるが、営業にも影響があると圧力が強くなる。三鷹事件が起き、これは完全に左翼の犯行だとされ(それは間違いだったわけだが)、速水の報道姿勢は慎重に過ぎたという結論が出される。速水には福岡への転勤辞令が出て、事実上の左遷となる。こうして社論も変わっていく。このように闘う信念の映画ではなく、苦い敗北をかみしめる結末になっている。ひとり事務員の左幸子だけが、速水ひとりに責任を押し付けてみんなおかしいと同情する。そういう終わり方になっている。

 この映画は前回書いたように、1954年キネマ旬報ベストテン4位である。ベストテン全史という本で具体的な投票傾向を調べてみる。戦争が終わって9年目だから、「七人の侍」や「近松物語」より「二十四の瞳」に票が集まるのは、よく判る。「二十四の瞳」には全員が投票している。30名の選者がいるが、2位の「女の園」には4名の無投票がある。「七人の侍」にも3名の黙殺者がいて、誰かと思うと飯島正や野口久光が入れていない。1位じゃなくてもベストテンに入らないとは思えないが。ところが4位の「黒い潮」は1名しか無投票がいない。それほど多くの選者の支持を受けたのである。当時の社会情勢の中で、この映画のメッセージが選者の心をとらえたである。(それなのに4位なのは、「女の園」に比べて下位投票者が多いからである。)

 近くの年を見てみると、53年は「にごりえ」「東京物語」が満票、「雨月物語」「煙突の見える場所」が1名無投票。52年の「生きる」、51年の「麦秋」も満票である。ところが55年の「浮雲」、56年の「真昼の暗黒」、57年の「米」ともに一人が入れていない。「浮雲」に入れなかったのはなんと作家の武田泰淳。その後は1959年の「キクとイサム」が満票で、これが最後になる。評論家の数も増え、映画の傾向も多彩になり、もう投票者全員がベストテンに選出する映画は出ないのだろう。
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映画監督山村聰-映画「黒い潮」と下山事件をめぐって①

2013年04月04日 00時08分55秒 |  〃  (日本の映画監督)
 山村聰(やまむら・そう)が監督した「黒い潮」(1954)を3月半ばに見た。前に見ているが、だいぶ前でぜひもう一度見直したいと思っていた。数回にわたってこの映画の関連記事を書いてみたい。

 山村聰(1910~2000)は、僕にとっては重厚な役柄で知られた高齢の男優だった。ウィキペディアによると、映画「ノストラダムスの大予言」やテレビの「日本沈没」などで、4回総理大臣役を演じたそうだ。トップ記録だそうである。小津「東京物語」の長男、成瀬「山の音」の父親など50年代に渋い中年の演技を披露していた。70年代、80年代にはテレビの仕事が多く、時代劇なんかにもよく出ていた。
(山村聡)
 似たような感じで高齢の有力者を演じていたのが、佐分利信(さぶり・しん、1909~1982)だった。戦前の松竹で人気俳優だったが、年齢とともに渋い中年役を多く演じた。こちらも小津映画に何度か出ていた。テレビドラマを再編集した「化石」(75)でキネ旬や毎日映コンの男優賞。その後東映実録路線の「日本の首領」シリーズで暴力団のボスを演じて話題になった。この二人、渋い中老年役で、ともに小津映画に出ていた共通性がある。この二人には、もう一点映画監督をも経験したという共通点がある。

 俳優(あるいはそれ以外の職業)で有名な人が監督にも乗り出すことは、日本でも外国でも結構多い。日本では「HANA‐BI」などの北野武や「119」などの竹中直人、「お葬式」「マルサの女」の伊丹十三などである。最近でも津川雅彦(マキノ雅彦)、役所広司なんかも監督をした。昔も大女優田中絹代が5本を監督して大手会社の女性監督第1号になっている。宇野重吉も5本の監督作品がある。

 50年代に目を向けると、佐分利信山村聰がいた。佐分利信は「執行猶予」(50年4位)、「あゝ青春」(51年8位)、「風雪二十年」(51年6位)、「慟哭」(52年10位)と連続してベストテンに入選した。その後も50年代に監督を続け、全部で10本以上に上る。これらの映画は今上映されることがほとんどない。でも日本映画史の中で、有名俳優出身で一番成功した映画監督は佐分利信なのではないか。
 
 山村聰は6本の監督作品を残している。その最初が数年前に再公開され話題を呼んだ「蟹工船」(53)である。ベストテン16位。プロレタリア文学の代表作の映画化だから、もちろん独立プロの現代ぷろだくしょん製作である。前年に「村八分」という地方の選挙違反を告発する女子高生の映画を作った会社で、後には今井正「真昼の暗黒」を作り冤罪を告発しベストワンになる。今も続いていて福祉関係の映画などを送り出している。この映画は昔見ただけで見直していないのでよく覚えていないが、基本的にはリアリズムの左翼映画で、蟹工船の現実をよく描いていたと思うが、見る前に想像されるような映画の範囲に留まっていたような感じがする。
(「蟹工船」)
 次の作品が「黒い潮」(54)だが、内容は次回以後に詳しく書きたい。ベストテン4位。これは大変な快挙である。次の「沙羅の花の峠」(55)は日活映画で、数年前にフィルムセンターで修復されて上映された。最初のシーンで、村人や学生が地方の町で検察に呼ばれて説明を始める。なんか事件があったらしい。まず学生がハイキングに出かけた。南田洋子と芦川いづみが姉妹で参加している。一方、医者のいない山奥の村で少年が腹痛を起こす。村に医者はいなくて、村人は祈祷に頼る時代である。
(「沙羅の花の峠」)
 その村ををハイキングしていた学生が通りかかる。やはり医者に見せなければと説得し、なんとか医者を探しに行くことになる。でもなかなかいない。村人は少年を戸板に乗せて山越えしようと総出で出発する。だいぶ経ってから山村聰が医者らしいとわかり、泥酔している山村をリヤカーに乗せて連れてくる。泥酔の男に任せて大丈夫か、山の上の沙羅の木の下で、緊急手術が始まるが…。実は山村は獣医だったことが判り、冒頭の場面は医師法違反が問題になったらしい。さて、難手術が始まる。いや、昔は大変だったなあとよく判る。三好十郎原案を山村聰が脚本化した。これはこれで50年代の日本のある現実を伝える映画として評価できるのではないかと思う。

 1959年に「母子草」と「鹿島灘の女」がある。後者は茨城県の鹿島灘が舞台になっている。最後の監督作品「風流深川唄」(60)は、「日本の卒業」と言うべき「結婚式略奪もの」である。ただし人情世話物だが。川口松太郎の直木賞作品を東映で映画化した。主演は美空ひばりで、深川の料亭の娘。板前の鶴田浩二と将来を約束している。しかし、父親が義理ある人の借金のため、料亭は差し押さえにあう。美空ひばりを金のある他家に嫁がせようと、鶴田浩二の母を説き伏せ、二人は別れさせられる。結婚の準備は着々と進み、花嫁衣装の美空ひばりは人力車に乗り込み、式へ向かうが…。
(「深川風流唄」)
 そこで鶴田浩二一世一代の決心が…という快作で、この映画はほとんど忘れられていると思うが、再評価が必要だ。美空ひばりはものすごく映画に出ているが、心に響く映画としてはベスト級だと思う。プロレタリア文学で出発した監督としてはだいぶ趣が違うし、なんでこの映画を監督することになったのかが不思議である。山村聡の演出力は極めて確かで、もっと監督をしても良かったと思う。俳優としても大活躍していたから別にいいのかもしれないが。
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退職2年目の感想

2013年04月03日 00時18分51秒 | 自分の話&日記
 去年は書かなかったけど、今年は年度末の感想を書いておきたい。なかなかまとまったことを言うのが難しいので、個別の問題は書いてもいいけど自分のまとめはあまり書きたくなかった。

 僕が退職してまず思ったことは「深い心の平安」が得られたということである。これがよく判ってもらえないかもしれないので、本当は黙っていたい。でも、人が何かをしようかという時、「心の平安」だけではダメで、「時間」「お金」「健康」に加えて「突き動かされるような思い」がないと最初の一歩が出ない。何かするというのは、もちろん食事とか睡眠ではなく、例えば世界一周をするというような、本人にとって大事件であるような出来事のことである。

 教員時代にはむろん「時間」がなかった。目の前にあるしなければならないことに追われて生きていたわけである。辞めれば「時間」はできるはずだが、「お金」はなくなる。また震災ボランティアに行って判ったけど、もう「健康」というか、別に病気ではないから健康に問題はないけど、「若さ」とでも言うか、何かをやるためにはもう退職が遅かったのかもしれないくらいである。

 基本的には「お金」の問題は大きい。お金を節約しないと思うと、なかなか大きな旅行や演劇、コンサートなどに行けない。歌舞伎やミュージカルやオペラなんかは、まあ見なくてもいいんだけど見たいとは思う。でも控えている。舞台にお金を掛けると、温泉に行けなくなる。たまに温泉に行くのは、身体が求める感じで、特に最近は肩が痛いのでもう毎日入りたい。いい温泉に入ると、やはりかなり違う感じになる。さて財産管理だけど、僕は不動産には投資しないことにしている。東京は人が集まるから不動産投資は普通ならある程度安全な投資とも言えるだろう。でもいつ地震があるか判らないと思っていて、倒壊はしないにしても、買ったマンションにひびが入ったとか、地盤が液状化したとか、起こらないとは言えない。自分で事前によく調査しても判らないから怖いと思っちゃうのである。不動産はかなり高いし。株とか投資信託は、投資した分がチャラになる可能性はあるけど、それだけと考えれば済む。株の信用取引をしてないなら、自分が損するだけである。ところで、この金融緩和でインフレが起きるのだろうか。よく判らないのだが、インフレというのは要するに預金のマイナス金利である。インフレ可能性を考えると、インフレに連動すると考えられる国内株や国内投資信託、そして日本経済不調もありうる以上外国投資、そして絶対安全な保証付きの年金保険等、分散して退職金を運用しないといけないと思う。そう言う情勢の中で、ヨーロッパ情勢に何かあるたび株が数十万単位で減る。一方アベノミクス相場で、株は200万位は上がっている。ただし僕が持ってる株は輸出関連企業が少なく上りが少ない。

 いや、映画や温泉だけでなく、そういうことも考えているんだけど、なかなかうまくは行かない。仕方ないだろう。その中で、遺産の東電株がなくなったに等しいということは大きかった。基本的には非常に安定していたし、配当も良かった。この配当はもう二度と得られないのではないかと思う。原発問題で発言している人の中に、株主が何の責任も取らなくていいのかということを言う人がいる。しかし株価が暴落し配当もなくなったということが株主の責任の取り方ではないのか。株というのは、高く売るか配当を得るために買う人が多いわけなんだから。東京都初め自治体の持っている株が多いわけで、東京都はおかげで交通事業が大赤字になってしまった。(配当を交通の収入にしていたので。)株主だけ恵まれているなどという人がなぜいるのか、僕にはよく判らない。

 退職を最終的に考えたのは2011年の正月あたりだが、その時期は東電株をかなり充てにしていた。教員免許更新制に関して裁判をすると言っていたのは、そういう原資があったからである。それが辞める直前に「3・11」が起こり、見る見る間に財産が減った。それでも裁判したいという気もしばらくはあったのだが、日本社会は「3・11」以外の問題は考えないという感じの時期がかなり続いたので、時機を逸してしまった。負けることが決まってる裁判は、時期を得て大きな問題にできる勢いがないと提訴できない。日本では裁判官の改革をしてないので、とんでもない司法判断がよくある、最近の福井事件再審取り消し決定やカネミ油症裁判のことはブログで批判した。こういう判断が出るくらいだから、よほどの決心がないと違憲訴訟なんか始められない。そのうちに安倍政権が復活するというありえないことが起こってしまった。現実的に考えれば、教員免許更新制を廃止、または見直しさせる見通しは完全に消え去ったと思われる。それどころか、道徳の教科化、教科書検定の近隣諸国条項廃止など、教育基本法改悪、教員免許更新制がなった後の具体的な仕上げ的な改悪措置を止められるかどうかも厳しい見通しを持たざるを得ない。どこまで行ってしまうのか、「教育再生」の名の下に日本の教育は完全に「上意下達」の世界になっていくと思わざるを得ない。

 僕が市民運動や社会問題にかかわる人と話すと、ほとんどの人が「東京は国旗国歌問題で大変でしょう」と言われることが多い。どうしてそういうのか判らないが。新聞などの報道がそれしか書いてないからかもしれない。「現場」の実態はあまりにも知られていないから。僕が思うに、東京の教育の最大の岐路は、自己申告書(勤務評定の完成)と主幹制度の他県に先駆けての導入だったと思う。時に教員の職階制の完成が一番の問題である。このことは僕も何回か書いてるけど、また本格的に書かないといけない。昨日の東京新聞を見ると、人事異動が統括校長、校長、副校長、主幹、主任、教員の6段階に分けて発表されている。見にくくて仕方ない。これが何のためなのか、読んでる人はほとんど知らないのである。(主幹って何ですかと言う人の声を何人か聞いている。)

 教員免許更新制の最大の問題は、「教員の能力」と言うものをそれだけ取り出して「資質向上」できると考えていることにある。職階制や自己申告書の思想の国家的完成版である。だから、資質向上を個人の教員に求め、それぞれ個々に目標を掲げさせ、バラバラに競って上の職階をめざせばいい教員になるという考え方になる。学校は「団体競技」なのに、チームとしての力をいかにして伸ばすかという発想はしないのである。そして現に、各教員がバラバラに頑張ろうとして、頑張り過ぎたり、頑張り切れずに切れてしまったり、お互いに責任転嫁しあったりする状況になっている。自分の学校は違うという人もいるかもしれないが、どんな学校でも昔に比べれば自由の気風が失われていっているのではないか。言われたことだけやるという作風が学校にはびこっていく。それで日本の行方が心配にならないのかと思うが、大阪の事例などを見ると、そういう「言われたことだけやる教員に育てられる、言われたことしかできない生徒」を自覚的に育成しようということなんだと僕は思ってる。そういう「衆愚」を導く「リーダー育成」の方だけしっかりやればいいと言う考えなんだと思う。

 僕が不思議なのは、昔は組合で活躍していた人なんかが、管理職になってしまう場合があることだ。では何で教育行政に反対していたのか、僕には不思議なのである。初めから反組合派だった人ならともかく。中には現場を守ろうと思って管理職になる人もいるんだろうけど、ボロボロになってしまうだけである。僕は声高に言わないし、「できるんですか」などと言うから誤解されることがあるが、現にできないものはできない。僕は自分が反対だと言ったなら、主幹にはならないものだと思うんだけど、もう現場には完全に定着してしまったのかもしれない。僕が辞めたもう一つの理由は、自分がいつまで主幹にも主任にもならなくても、自分が損するだけのシステムが完成されてしまったらしいという判断である。そういう毎年毎年悪くなって行く東京の教育環境を離れたいとかなり強く思い始めたのは、いつからだろうか。60前で辞めて嘱託にもなりたくないものだと思ってきた。教員免許更新制は「きっかけ」を作ったということだろう。

 その結果、ものすごい「心の平安」は得られた。これは辞めた人しかわからないだろう。僕は学校の授業なんか、何の未練もない。人生で初めて得られた「自由」と言ってもいい。こういう生き方があったのかという思いである。だけど、思ったことはできないものだ。本はいくら読んでも読みたい本が途切れない。だから全然片付かない。その他もろもろ。書きたいことが途切れたら、このブログもあまり書かなくていいんだけど、なかなか途切れない。この2年間、映画はよく見たと思う。特に古い映画。それは2本立ての名画座やフィルムセンターなんかの安い所に行ってるということもある。でも一番大きいのは、映画監督も俳優も、もう日本の全盛期は終わったのではないかという思いである。今の映画や演劇も見たいと思うが、小津や成瀬の映画で杉村春子を見た方が(時間が)報われる感じがする。クラシック音楽がバッハやモーツァルトやベートーヴェンなど昔の人のスコアばかりやるように、映画と言うジャンルも80年代頃に終わってしまったのではないか。今は皆が映像を発信できるということが、かえって映像の奥深い魅力をなくしたのか。それは音楽も同じか。

 そうして戦後と言う社会がどこでどういう曲がり角を曲がってしまったのかと言う、社会思想史的なカギが日本の戦後映画には秘められているのではないかと思う。そういう意味で見てしまうわけだ。日本はゾンビ化していると思う。映画「桐島、部活辞めるってよ」で、映画部の顧問は生徒に身近な問題を映画にせよと迫る。それは多分進路とか恋愛とか、高校生のリアルを描けと言うことなんだろう。しかし、映画部では宇宙ゾンビの映画を作っている。彼らにとってはそっちの方がリアルなのだと思う。授業中死んでいて放課後の映画撮影で生き返る映画部の生徒は、全くゾンビ映画の方がリアルなんだと思う。そういうことは去年夏の映画評で書いたけど、その頃は安倍氏が自民党総裁に当選するとは誰も思っていなかった。実際に安倍政権が復活し、5年前にやり残したことをやるといい、「教育再生」だの「集団的自衛権の容認」とか言ってるのを見ると、まさに日本はゾンビ化してしまったと思うのである。映画部の生徒の方がリアルだったのだ。そういう真にリアルな認識ができるか。まだまだ考えるべき問題は多いようだ。
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大島渚の映画④国際的監督として

2013年04月02日 01時10分51秒 |  〃  (日本の映画監督)
 大島渚の最後の映画群について。この時代の大島渚はあまり高く評価していないので、簡単に確認しておくことにしたい。

 1972年の「夏の妹」以後、大島は創造社を解散して、独自の道を歩み始めた。フランスのプロデューサー、アナトール・ドーマンと組んで「フランス映画」を作るというやり方である。ドーマンはゴダールやアラン・レネ等の映画を作っていた人で、この後に「ブリキの太鼓」「パリ、テキサス」などの傑作を生み出す。そういう国際的製作者と組んで世界市場を目標にしてアートシネマを作る路線は日本映画に大きな刺激を与えた。その功績は大きい。しかし、ベルナルド・ベルトルッチなんかを見ても、40代半ばで「ラスト・エンペラー」が世界的評価を得たあたりから、つまらなくなって行く。やはり自分の所属する文化の中で問題意識を共有して作った作品の方が面白いと僕は思う。

 1976年の「愛のコリーダ」をどう評価をすればいいのか、僕にはよく判らない。いや、よくできてるし、立派な作品である。「わいせつ」だと言えば、「いい意味でわいせつだ」と言えると思うし、「悪い意味でのわいせつ映画」とはみじんも思わない。次の「愛の亡霊」とともに藤竜也2部作だが、藤竜也の「男の色気」は「凄すぎる」という言葉しか浮かばない。この映画の基になっているのは、もちろん有名な阿部定事件。どういう事件かは、大筋では日本人は皆知っている。映画ファンであれば、前年のロマンポルノ、田中登監督「実録・阿部定」を見ていたはずである。(その後、98年に大林宣彦「SADA」も作られ、ベルリンで国際批評家連盟賞を受賞している。)世界の観客は、ほとんど事件の行く末を知らずに見ているだろうが、日本人もそういう白紙の状態でこの映画を見たら、印象は大分違うのだろうか。僕に関して言えば、「愛のコリーダ」の松田英子、「SADA」の黒木瞳より、「実録・阿部定」の宮下順子の方が好みで、最初に見た田中登作品が一番印象深い。
(「愛のコリーダ」)
 この映画は、日本初の「本格的ハードコアポルノ」だった。フィルムは撮影したままフランスに送られ、フランスで現像された。そういう経緯から完全な「フランス映画」扱いをされ、キネマ旬報では外国映画ベストテンで8位に入選している。外国映画は「タクシードライバー」「カッコーの巣の上で」「トリュフォーの思春期」「バリー・リンドン」「狼たちの午後」「ナッシュビル」「アデルの恋の物語」と言う大豊作年で、それに次ぐ8位だから、相当の評価と言えるだろう。(タクシー、カッコーより凄いとは誰も言わないだろう。なお、9位は「フェリーニの道化師」。)しかし、言語、文化的には完全な日本映画であり、日本映画扱いだったら何位になっただろうか。この年の1位は「青春の殺人者」、続いて「男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け」「大地の子守歌」「不毛地帯」「犬神家の一族」「あにいもうと」…と続いている。1位だったのではないかと思う。

 78年の「愛の亡霊」はカンヌ映画祭監督賞。撮影に日本を代表する名手、宮島義勇を迎えて、非常に美しい凝った映像が心に残る映画である。この時期の大島作品で一番好きな映画で、その年の僕のベストワン。地方の村で、車引きの田村高廣吉行和子の夫婦が仲睦まじく住んでいたが、兵隊帰りの藤竜也が吉行和子に恋慕し、不倫の恋が殺人へ。そしてどうなるか…。阿部定事件と違い、車屋儀三郎なんて言われても知らないから、どうなるのかドキドキしてみることになる。映画の中では不倫の二人は26歳差となっているが、吉行は1935年生まれ、藤は1941年生まれだから、年上は年上だが、26歳差という感じはしない。それだけは映画を見て不自然だけど。亡霊というところがどうかと言えば言えるけど、非常に美しい怪異譚だと思う。
(「愛の亡霊」)
 続いて83年の「戦場のメリークリスマス」。カンヌで受賞が期待されたが、実際は今村昌平「楢山節考」がパルムドールで、大島は無冠に終わった。まあ「楢山」も今村のベスト5に入らないが、あえて選べば「戦メリ」よりはふさわしいと思う。(僕は監督賞のタルコフスキー「ノスタルジア」が最高賞だと思う。)原作は南アフリカ生まれのアフリカーナ―、ヴァン・デル・ポスト「影の獄にて」で、第2次大戦中の日本の捕虜収容所体験を描いている。主人公にデヴィッド・ボウイ、所長に坂本龍一、「粗暴な軍曹」にビートたけしという配役で、日欧の文化的衝突を描く。そこが面白いと言えば面白いけど、このテーマに関しては様々な言説をすでに読んでいるので、解説を絵解きされるような気がしてくる。一番有名な「戦場にかける橋」と比べても、製作者の考え方や意図がよくつかめない。小さな事件の中に、大きな見取り図を描き、後は観客が考えるべきという言い方もできるか。
(「戦場のメリークリスマス)」
 87年の「マックス・モン・アムール」は、シャーロット・ランプリングが出ている。しかし、人間とチンパンジーの恋愛という、なんでそういう映画を作るのか、僕には全く意図が判らない映画だった。テーマの問題性を共有できないので、全然面白くない。映画にとって、俳優の魅力や撮影、音楽などの力は大きいが、「テーマ」、映画世界の内容そのものを共有できることが一番大切と判る映画だ。

 最後の映画となったのは、2000年公開の「御法度」(ごはっと)。新選組に美少年松田龍平が入隊してきて、心落ち着かぬ面々を描く歴史秘話である。同性愛を正面から描いた大島唯一の映画だが、あまりピンとこない。松田龍平はいいんだけど、懸想する浅野忠信や田口トモロヲがなぜ執着するかがよく判らない。恋愛映画ではないから描かないというような態度で、新撰組内部の統率問題ばかりが描かれる。そこがあまたある「新撰組映画」の中でも際立った特徴だが、面白いと言えるほどの視点だろうか。その間の隊内情報がセリフや字幕で説明されてしまうのも興をそぐ。崔洋一の近藤勇、ビートたけしの土方歳三は、ミスキャストではないのか。生の本人のイメージが強すぎて、見ていてどうしても近藤、土方に思えないのである。面白い点もいっぱいある映画なのだが、闘病中で創作力の衰えが否めないのではないか。当時から僕はもう大島映画をは見られないのではないかと心配だった。
(「御法度」)
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