尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

都知事選「泡沫候補」の世界

2020年06月30日 22時14分21秒 |  〃  (選挙)
 東京都知事選挙をやっている。僕は今回の選挙について今まで何も書いていない。今回もちゃんと書く気はしない。そこに自分の意見表明があると思って貰っていい。東京都民は石原慎太郎氏を知事に4回も選んだ有権者である。都民であっても、「都民の判断」に納得できたことがない。それでもちょっと書いておきたいことがある。ついでに「泡沫候補」の世界をガイド。

 まず立候補者数である。なんと22人で、史上最多である。前回の21人というのも多かったが、なんでこんなに立候補するんだろう。鹿児島知事選にも過去最多の7人が出ている。同時に行われる都議補選が4つあるが、それも結構出ている。(北区都議補選は、自民党と「都民ファーストの会」が激突し、立憲民主、維新に加えて「ホリエモン新党」まで全員女性候補が出ている。ここは都知事選と違って、票の出方が要注目である。)

 何でそんなにたくさん立候補するんだろう。タダじゃないのである。日本の選挙は供託金が異例に高いということは指摘してきたが、都道府県知事選挙は300万円である。有効投票数の10分の1を超えないと没収される。東京都の有権者数は約1144万人で、投票率を50%とすると572万。50%は行かないと思うけれど、とにかく50万票ぐらいないと没収である。それは主要4候補(と言われている人)以外は不可能だろう。ほとんどの人は300万が戻ってこない。それでも出る。全部で5千万円以上になるけど、コロナ対応に使えるんだろうか。

 ところで、当初マスコミは「主要5候補」と紹介していた。5人の中で現職以外は国政政党の公認、推薦を得ている。前参議院議員の山本太郎は「れいわ新選組」公認だが、同党は参議院に2議席を持っている。しかし、「ホリエモン新党」から出た立花孝志は、国政政党「NHKから国民を守る党」党首でもあり同党推薦を得ている。同党は(丸山穗高なる議員を抱き込んだので)衆参に一人ずつ議席がある。山本太郎と立花孝志は国政政党党首として同格になる。

 世論調査の結果を待つまでもなく、22人の中で数十万票を見込める候補は4人である。だから終盤になって「主要4候補」という記事も多くなってきた。4人の中でも「法定得票」に達しない(=供託金没収)人が出ないとは限らない。それはともかく、今回は22人中、12人が無所属である。残りの10人が「諸派」になる。「会派」に所属すれば「諸派」に入ると考えれば、自民党だって「諸派」だろうが、普通は国会に議席を持たないミニ政党をまとめて「諸派」と呼んでいる。

 その中で「ホリエモン新党」が立花氏を含めて、3人を公認している。全員選挙公報が同文である。上の画像にあるポスター掲示板では、2段目にまとめて3人が貼ってある。抽選すればバラバラになるはずで、それを避けるために主要候補が立候補を済ませた後に3人一緒に手続きをしたという。そして立花氏以外の二人はポスターに候補の名前がない。党首(?)の堀江貴文氏の顔が載っている。立候補者以外の顔を掲載するのは違法ではないかと都選管に多数の問い合わせがあるという。それは違法ではないが、これでいいのか。

 しかも、一人しか当選しない知事選挙に3人を公認するとは、いくら何でも有権者をバカにし過ぎではないだろうか。どうせ当選しないんだし、お金持ちの道楽なんだから、どうでもいいのか。自民党系で複数が出てしまうような時もあるけど、その場合も公認は一人、あるいはどちらも公認しないだろう。国政選挙に向けた宣伝なんだろうけど、知事を選ぶのが都知事選の目的なんだから、最低限のルールには則って欲しいと思う。

 さて「れいわ新選組」「ホリエモン新党」の他に、諸派としては「幸福実現党」、「日本第一党」(元「在特会」創設者桜井誠が前回10万票獲得)が割合有名。それ以外に「スーパークレイジー君」(という党名らしい。「現職か、俺か。」と主張し、「風営法の緩和」を掲げる)、「トランスヒューマニスト党」(一夫多妻、一妻多夫、多夫多妻合法化)、「庶民と動物の会」(庶民と動物に優しい東京に)、「国民主権党」(コロナはただの風邪)など多彩な主張をする党が存在する。

 無所属候補では、主要候補以外でも割合穏当な主張をしている人が多い。(例外もいるが。)中では「新型コロナウイルスの治療薬と予防薬を発明しました」という候補がいる。ホントなら、都知事になるより他にすることがあるだろ。「未来の薬局を目指します」という薬剤師の候補もいる。都知事になっても仕方ないと思うが。ちなみに「やくざいし」の「ざ」にアクセントを付けないで、平板に発音するニュースがあって「ヤクザ医師」に聞こえてしまう。

 まあ誰でも立候補する自由はあるわけだが、「消費税ゼロ」とか都知事になっても実現できない公約をなんで掲げる人がいるのか。しかし、国政選挙で比例区に出るには供託金が高すぎる。小選挙区に出ても、選挙区が小さいからポスターや広報、政見放送などの機会が限られる。ある意味、300万ムダにする気になれば、都知事選は「日本一注目される選挙」なんだろう。

 都知事選と言えば、昔は赤尾敏東郷健秋山祐徳太子、近年もドクター中松マック赤坂らの「有名泡沫候補」がいたものだ。マック赤坂は2019年に港区議選に当選してしまい、もう都知事選は卒業である。今回は候補者名を書いてないが、全員ホームページやツイッター等を持っているようだから、関心がある人は自分で調べて欲しい。
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日本史(幕末維新・近現代)、世界史の記事のまとめ

2020年06月30日 16時39分27秒 | ブログ記事のまとめサイト
過去に書いた記事のまとめ記事名をクリックすると、当該記事になります
日本史(幕末維新、近現代)、世界史の記事のまとめサイトです。「日本史」は時代順。「世界史」は地域ごとになっています。(「国際問題」に移した記事もあります。)
幕末維新
萩原延壽「遠い崖」を読む
  ①アーネスト・サトウと幕末(2018.6.10) ②ミカド(天皇)とタイクン(将軍)(2018.6.30)
  ③サトウの友人、ウィリスという医者(2018.7.3) ④サトウと「西郷問題」(2018.7.4)
明治150年を考える
  ①民衆から見た「明治維新」(2018.10.22) ②大逆事件、血塗られた明治(2018.10.23)
  ③東京から江戸へ(2018.10.24)
「幕末維新変革史」を読む
  ①「水戸学」と「平田国学」(2019.1.5) ②「名君」の恐ろしさ(2019.1.6)
  ③近代天皇制の創出(2019.1.7)
新書・文庫
  ①新選組とは何だったのか(2018.12.19)
近現代
関東大震災と虐殺事件関連
  ①山田昭次「関東大震災時の朝鮮人虐殺とその後」を読む(2011.9.30)
  ②都教委、関東大震災の朝鮮人虐殺事件を否定(2013.1.25)
  ③都教委の震災碑文改ざん引用(2013.2.12)
  ④暴かれたトリック、関東大震災時の朝鮮人虐殺「否定」のやり口(2019.8.28)
関東大震災時の虐殺事件
  ①福田村事件(2017.8.30) ②王希天と中国人虐殺(2017.8.31)
  ③亀戸事件(2017.9.1) ④朝鮮人虐殺(2017.9.2)
「明治日本の産業革命遺産」への疑問
  ①明治維新遺産(2015.6.16) ②「推薦基準」と「稼働資産」(2015.6.17)
  ③「産業革命」とは何か(2015.6.17) ④真の世界遺産とは(2015.6.15)
映画「終戦のエンペラー」と史実
  ①映画「終戦のエンペラー」と史実(2013.10.1) ②近衛と木戸(2013.10.3)
  ③関屋貞三郎と寺崎英成(2013.10.5) ④フェラーズという人(2013.10.9)
  ⑤天皇・マッカーサー会見の「真相」は?(2013.10.10)
昭和天皇が見た戦争映画
  ①昭和天皇が見た戦争映画①(1941~1942)(2015.9.29) 
  ②昭和天皇が見た戦争映画②(1943~1945)(2015.9.29)
古関彰一「日本国憲法の誕生 増補改訂版」を読む
  ①古関彰一「日本国憲法の誕生 増補改訂版」を読む①(2017.5.7)
  ②9条と国民主権-古関彰一「日本国憲法の誕生 増補改訂版」を読む②(2017.5.8)
「日中戦争全史」を読む
  ①日中戦争と海軍の責任(2017.12.9) ②日中戦争の本質(2017.12.11)
さまざまなテーマ・論点
  ①鹿野政直氏の鶴見良行論を聞くー現代の「民間学」(2013.7.14)
  ②記録映画「陸軍登戸研究所」(2013.8.19)
  ③「千島」と「ミクロネシア」を米ソで取引(2013.9.29)
  ④「五日市憲法」を見に行く(2013.11.4)
  ⑤ゾルゲ事件をめぐってー「ゾルゲ事件」「ゾルゲ事件とは何か」を読む(2014.4.11)
  ⑥マッカーサー記念室を見にいく(2015.7.29)
  ⑦豊下楢彦と原武史、昭和天皇を考える2冊の本(2015.9.27)
  ⑧三笠宮の生涯-戦争批判と歴史学(2016.10.29)
  ⑨歴博で「1968年」展を見る(2017.11.26)
  ⑩清水潔『「南京事件」を調査せよ』を読む(2017.12.8)
  ⑪近現代の時代区分を考える-元号に代わる区切りを(2019.5.2)
新書・文庫
  ①和田春樹「領土問題をどう解決するか」-領土問題としての沖縄(2012.11.9)
  ②伊藤隆「歴史と私」を読む(2015.5.15) ③東京のお屋敷の歴史をたどる本(2015.11.12)
  ④柳宗悦をどう考えるか(2016.12.8) ⑤服部龍二「田中角栄」を読む(2017.1.4)
  ⑥「シベリア出兵」とは何だったか-中公新書「シベリア出兵」を読む(2017.12.5) 
  ⑦吉田裕「日本軍兵士」を読む(2018.8.10) 
  ⑧藤原彰「餓死した英霊たち」を読む(2018.8.11)
  ⑨「五日市憲法」発見から50年(2018.8.27) 
  ⑩金子文子「何が私をこうさせたか」再読(2018.9.1)
  ⑪「増補 南京事件論争史」を読む(2019.3.22)
世界史
ヨーロッパ
第一次世界大戦100年
  ①第一次世界大戦とは何だったか(2014.7.3) ②帝国崩壊の長い影(2014.7.5)
新書・文庫
  ①チャーチルの「第二次世界大戦」を読む(2012.8.14)
  ②感動的な「ヒトラーに抵抗した人々」(中公新書)(2015.11.28)
  ③ロシア革命100年を考える(2017.11.8) ④ハプスブルク家の歴史(2018.2.5)
  ④佐藤賢一のフランス王朝史3部作(2019.8.12)
  ⑤大木毅『独ソ戦』『「砂漠の狐」ロンメル』を読む(2019.9.13)
アジア
三一運動を考える
  ①「2・8独立宣言」100年(2019.2.2) ②世界史の中の三一運動(2019.2.4)
新書・文庫
  ①「江南の発展」ー中国史の新しい見方(2020.3.22)
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「ペイン・アンド・グローリー」、ペドロ・アルモドバル監督の傑作

2020年06月28日 20時03分20秒 |  〃  (新作外国映画)
 スペインのペドロ・アルモドバル監督の新作「ペイン・アンド・グローリー」が公開された。世界の巨匠監督も残り少なく、名前で必ず見る監督は今や数少ない。ペドロ・アルモドバル(1951~)はその一人だが、最近の作品はあまり評判にならなかった。しかし、今回の「ペイン・アンド・グローリー」はカンヌ映画祭男優賞アントニオ・バンデラス)を受け、スペインのアカデミー賞に当たるゴヤ賞では作品賞(4回目)、監督賞(3回目)など久しぶりに高く評価された。

 映画は確かに傑作だが、複雑な感慨も残す。まず紹介をコピーすると、「脊椎の痛みから生きがいを見出せなくなった世界的映画監督サルバドール(アントニオ・バンデラス)は、心身ともに疲れ、引退同然の生活を余儀なくされていた。そんななか、昔の自分をよく回想するようになる。子供時代と母親、その頃移り住んだバレンシアの村での出来事、マドリッドでの恋と破局。その痛みは今も消えることなく残っていた。そんなとき32年前に撮った作品の上映依頼が届く。思わぬ再会が心を閉ざしていた彼を過去へと翻らせる。そして記憶のたどり着いた先には…。」
(ペドロ・アルモドバル監督)
 世界的有名監督サルバドール・マヨは明らかに自伝的な設定である。主演のアントニオ・バンデラスはアカデミー賞主演男優賞にもノミネートされた。映画監督の行き詰まりといえば、フェリーニの「8 1/2」が思い浮かぶが、「8 1/2」(1963年)時点でフェリーニは43歳だった。一方、1951年生まれのアルモドバルは、もう68歳である。作中では4年前に母を亡くし、2年前に脊椎の手術を受けたとなっている。精神的な行き詰まりだけではなく、肉体的にも辛いのである。映画内でも何度も嚥下(えんげ)の悩みを訴えている。「老境映画」なのである。

 32年前に作った「風味」がレストア化されてシネマテークで上映される。ついては監督と主演俳優アルベルト(アシエル・エチェアンディア)に挨拶して欲しいと要望される。しかし、実はその映画で脚本を無視した演技をしたアルベルトと監督のサルバドールは大げんかして、絶縁したままだ。知人が滞在先を教えてくれて和解した二人は、アルベルトの持っていたヘロインを吸引する。サルバドールの魂は過去に飛んで、幼い頃の母との暮らしを思い出す。若き日の母はペネロペ・クルスで、美貌の中に疲れが見え隠れする。
(ペネロペ・クルスとアントニオ・バンデラス)
 ペネロペ・クルスは世界的女優になってしまい、アルモドバル映画の出演も(本格的には)「抱擁のかけら」(2009)以来である。やはりアルモドバル映画にペネロペ・クルスは必要だ。母は義母との折り合いが悪く、新居を求める。そこで父は洞窟の家を見つけてくる。この不思議な洞窟の家が珍しい。そこで暮らしたときに、幼いサルバドールが職人に字を教える代わりに、職人が家を直すことになる。ある日、絵の得意な職人が彼をモデルに描き始めたが…。しかし、貧しい一家は彼を神学校に行かせることにする。
(若き日のサルバドールと母)
 これは実際の話で、「バッド・エデュケーション」に描かれた。つい忘れがちになるが、スペインは1975年にフランコが死ぬまで、軍事独裁国家だった。教会が権力を持ち、精神的な自由は認められなかった。アルモドバルはその時代に教育を受けた世代なのである。抑圧的な社会の中で、アルモドバルは(映画内のサルバドールも)「同性愛者」として生きてゆく。映画ではアルベルトが監督の家に来た時にサルバドールが昏倒する。看病した後で、アルベルトパソコンを盗み見て書き途中の原稿を見てしまう。気に入った彼は是非上演させてくれという。

 小劇場での一人芝居が終わると、観客の一人が楽屋を訪ねてくる。フェデリコと名乗る彼は、自分が作中のマルセルだと打ち明けた。後にアルゼンチンに移住して、女性と結婚して子どももいるフェデリコは、若い頃にマドリードでサルバドールと3年間暮らしていた。サルバドールとフェデリコは何十年ぶりに再会する。とかく過去の思い出に引きずられるサルバドールだが、フェデリコとの再会から生きる意欲を取り戻してゆく。昔、職人が描いてくれた絵も不思議な縁で彼の元に戻る。そして、嚥下の悩みも手術で解消する。

 アルモドバル映画と言えば、奇抜なポッポ調の映像、原色の氾濫、時にはやり過ぎ的で猟奇的とも言える展開が特徴だ。映画内では32年前の作品で有名となったとされるが、出世作「神経衰弱ぎりぎりの女たち」(1988)もほぼ30年前の作品である。アントニオ・バンデラスとは、さらに前の「セクシリア」(1982)からの常連になる。今回の「ペイン・アンド・グローリー」は、確かに同じように「赤」が基調になるが、どちらかといえば抑えた感じの色合いで統一されている。その意味でも「老い」を見つめた深みがある。アニメで病状を説明するなど、単に枯れてるだけじゃない遊びもあるけど、やはり昔よりしみじみしている。

 1999年の「オール・アバウト・マイ・マザー」、2002年の「トーク・トゥ・ハー」のようなキャリアの頂点にある映画史的傑作のような圧倒的な感動ではない。今回の「ペイン・アンド・グローリー」は、見る者をねじ伏せた圧倒的なエネルギーにあふれた傑作とは違い、むしろ「滋味」をさえ感じた。そこがちょっと複雑で、やっぱりアロモドバルも年を取るのか。その面白さは抜群で、ずっと見てきたわけだが、お互いに年を取ったなと思った。なお、アルモドバル作品は英訳版の題名のカタカナ化が多い。今回は同様だが、むしろ「痛みと栄光」の方がいいような気がする。
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「オキナワ 終わらぬ戦争」ー「戦争と文学」を読む①

2020年06月26日 22時16分01秒 | 本 (日本文学)
 集英社文庫から出ている「セレクション戦争と文学」の8巻「オキナワ 終わらぬ戦争」を読んだので、紹介と感想。この本はもともと2012年頃に刊行された全20巻に及ぶ「戦争×文学」の一冊である。2019年から20年にかけて、その中から全8巻をセレクトして文庫化された。もとの本は高くて厚くて、20巻もあるから家に置く場所もない。評判は良かったけど、買う対象じゃなかった。文庫でも1700円もするし、700頁もある。どうしようか迷ったんだけど、思い切って毎月買っていた。買っても読まなければムダである。6月だから沖縄の巻から毎月読んでいこうと決めた。
(表紙=黒田征太郞「野坂昭如戦争童話集 沖縄編」)
 最初に書いておくと、読みやすくて考えるところが多かった。しかし、これを読んだだけで「沖縄戦」や「沖縄現代史」が判るわけではない。あくまでも小説や詩、戯曲などのアンソロジーで、「文学」として接するべきものだ。そのことを前提にすれば、「オキナワ」を考えるヒントがいっぱいある。読んで面白いのである。テーマ性が勝って読みにくいかと心配したが、そんなことは全然なかった。時代を生き残った作品が選ばれたんだろう。

 「戦争と文学」というシリーズだが、ここで扱われているテーマは「狭義の沖縄戦」ではない。むしろ「沖縄戦」を直接描く作品の方が少なく、「以前」と「以後」を含めて、沖縄史の重層的な構造が問われている。冒頭の山之口貘の詩がそのことを暗示している。続く長堂英吉(ながどう・えいきち、1932~2020)の「海鳴り」は「琉球処分」(1879年)以後の「琉球王国」廃絶後の状況を描いている。それまで猶予されていた徴兵令が、いよいよ1898年から施行されたが、それに反抗して徴兵を忌避し清国に逃亡した青年たちが出てくる。作者の名前も知らなかったが、検索すると2020年2月に亡くなっていた。本の著者紹介ではまだ存命になっている。作者もテーマも、「本土」ではほとんど知られていないだろう。僕も名前を知らなかったが、大変な力作だった。

 続いて知念正真(ちねん・せいしん、1941~2013)の戯曲「人類館」が置かれる。これは1978年に岸田国士戯曲賞を受賞した戯曲で、当時読んでいる。その後も沖縄で活動したので、その頃に岸田賞を受賞した劇作家たちに比べて、知名度が低いかもしれない。しかし、沖縄をめぐる重層的な構造差別をテーマに、時空間を自由に飛び越えて問題意識が炸裂する傑作だ。

 こうして全部触れていると終わらないので、テーマを絞って重要作に触れたい。まず「沖縄戦」の持つ思想的意義。沖縄出身の重要作家、霜多正次(1913~2003)や大城立裕(1925~)などは、沖縄戦を経験していない。戦後派として活躍できる年齢の男性は、徴兵や留学で県外にいたのである。あまりにも悲惨な出来事に対して、戦争を経験した女性たちも長く口を閉ざすことが多かった。そのことがむしろ「沖縄戦」について、深く考える時間を与えたと言える。今では時間が経ってしまい、沖縄=戦争の悲劇=平和の大切さといった図式に陥りがちだ。

 しかし、「沖縄戦」の持つ意味は、表層的な「平和」の訴えではない。今回読んだ作品だけでなく、今までに読んできた歴史書、ノンフィクションなどを含め、「反軍」=「非軍事志向」という教訓である。何しろ、「敵」以上に「友軍」の方が恐ろしいのである。もう組織的抵抗が終結し、軍の指揮系統も途絶えた後になって、多くの地元住民が日本軍に殺害された。日本軍の中には沖縄県民を下に見る差別意識があった。しかし、それだけでなく、仮に「本土決戦」が行われていても、「本土」で住民虐殺が起こったはずである。

 それは日本軍の特殊性にもよる。現在の中国軍は実は「中華人民共和国軍」ではなく、中国共産党の「人民解放軍」である。それに対して、帝国陸海軍は一応憲法に規定された国家組織にはなっていた。しかし、本質は「天皇の私兵」であり、天皇のために死ぬべき存在だった。だから「降伏」という考えはないし、住民は足手まといでしかない。「沖縄を守る」のではなく、天皇を守るために沖縄を捨石として米軍を釘付けにするのが日本軍の役割だった。

 米軍支配下においては米軍の専制に抵抗し、日本に「復帰」してからは戦争の総括なき天皇制に抵抗する。芥川賞作家、目取真俊の「平和通りと名付けられた街を歩いて」は皇太子(現・上皇)夫妻の沖縄訪問にあたって、いかに愚なる警備態勢が敷かれていたかを子どもの目で徹底的に見つめている。主人公の家では認知症(という言葉はまだなかった)の祖母がいるので、警察に目を付けられている。仕事場まで警察が絡んでくる。そんな日々を生きる少年はどういう行動をするか。沖縄文学では「天皇制」を問うのである。
(目取真俊)
 沖縄出身の芥川賞作家は4人いるが、そのうち3人が収録されている。復帰前の1967年に受賞した大城立裕の「カクテル・パーティー」は若い頃に読んだときはよく判らなかった。前半の沖縄文化論の会話、一転して米兵の性暴力をテーマとする後半という構成が分裂していると思えた。学生の頃に読んだので、読み取れない部分が多かった。今回読み直して、これはすごい作品だと思った。僕も「95年以後」にならないと理解出来ない部分があったのだと思う。1995年とは、「本土」では阪神淡路大震災、オウム真理教事件が起こり、沖縄では「米兵少女暴行事件」とその後の県民総決起大会があった年である。小説の具体的な内容は今は省略する。
(大城立裕)
 95年の事件では、加害米兵はアフリカ系だった。また米軍の司令官はレンタカーを借りる金で女性を買えたと発言した。この問題はこれ以上触れないが、このように「沖縄」を考えるときには、沖縄をめぐる複合的重層的な差別構造を描かざるを得ない。「豚の報い」で芥川賞を得た又吉栄喜の「ギンネム屋敷」は敗戦後の沖縄で、朝鮮人が重要な登場人物として出てくる。徴用されて沖縄に来て、今は米軍の軍属をしている。沖縄内部の女性や障害者をめぐる問題もあり、様々な人間関係がモザイク状に出てくる。又吉栄喜文学は沖縄が単なるリアリズムを超えて、独特なマジック・リアリズムを獲得した証でもある。
(又吉栄喜)
 こうして読んで来ると、「本土」出身者の作品に迫力がないと感じる。「パルチザン伝説」の作家、桐山襲(きりやま・かさね、1949~1992)の「聖なる夜 聖なる穴」は沖縄史を縦横に語りながら、やはり天皇制の問題を扱うが、面白いけれど作りすぎの感もする。その中では自らの経験に基づくエッセイを書き続けた岡部伊都子(おかべ・いつこ、1923~2008)の凜とした姿勢に改めて粛然とした。亡くなって時間も経って、生前に愛読した岡部さんの名も失念していた。
(岡部伊都子)
 岡部の兄が戦死し、秘かに憧れていた一つ年上の男性も弔問に来る。彼は何度も訪れて、ある日「自分は天皇陛下のおん為になんか、死ぬのはいやだ」と発言した。「君やら国のためになら、喜んで死ぬけれども」と発言した。岡部伊都子はその時に発言の真意と重みに気付くことが出来なかった。考えたこともない発想に驚くだけで、「私なら、喜んで死ぬけど」と述べてしまった。その後、体の弱い伊都子のもとに、「どちらかが死ぬまでは、他の人とご縁をもたないという形の婚約」の申し出があった。その婚約者は沖縄戦で亡くなった。岡部にとって「痛恨の原点」となる出来事となる。「日本人」が自由に生きてゆくためには、「オキナワ」を考える必要があることを岡部さんの戦後の歩みが示している。岡部伊都子を忘れまいと肝に銘じた。
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大雪山旭岳と十勝岳ー日本の山⑱

2020年06月25日 22時00分59秒 |  〃 (日本の山・日本の温泉)
 北海道の山は今まで3回書いている。利尻山大雪山黒岳からトムラウシ幌尻岳で、どれも永遠に忘れないような素晴らしい山行だった。北海道は90年代によく行っていたので、まだまだ書いてない山がある。ここでは旭川市周辺の2つの山を取り上げたい。まずは大雪山最高峰旭岳。北海道中央部にそびえる大雪山は、幾つもの山が連なる連峰になっている。周囲に幾つもの温泉があって、どこから登る時も下の温泉に泊まって登ることになる。
(姿見の池から旭岳)
 前に黒岳からトムラウシへ縦走した時は、層雲峡温泉からリフトに乗った。その時に北海道最高峰の旭岳2291m)に行けなかったので、別の年に登りに行った。僕が登った時は2290mだったけれど、21世紀になって再測量されたら1メートル高くなったという。前日は旭岳温泉に泊まって、翌日にロープウェーで一気に1600mの姿見の池まで登る。まあ、あればロープウェーを使うことになる。温泉から2時間半かけて登るルートもあるようだが。
(旭岳ロープウェー)
 池までは観光コースで、そこから2時間半の登山になる。まあ迷いようもない道で、ここはそれほど大変ではない。だから覚えていることも少ない。よく覚えているのは「百里の道を行く者は九十里を半ばとす」の教訓である。これは中国の古典「戦国策」の言葉で、要するに最後まで気を緩めるなという意味である。そんな大変な山じゃなかったけれど、とにかく高山の登山なんだから気は抜けない。登頂して慎重に下山してきた。池とロープウェー駅も見えてきた。後は平坦な木道が続くのみ。何の問題もない道だけど、ここで転んだ。膝小僧を擦りむいて出血した。何であんな簡単なところでケガするんだ。バカみたいである。帰りに薬局に寄るハメになった。
(旭岳テレカ)
 旭岳は夫婦で登ったが、一人で登ったのが十勝岳2077m)である。この時は途中まで夫婦でドライブしていて、長くなるので妻が一人だけ帰った。十勝岳は結構大変なのでパスしたわけである。この地域の山は旭川がベースになる。今では旭山動物園が有名だが、その頃はまだ全国には知られていなかった。でも優佳良織工芸館外国樹種見本林、そこに作られた三浦綾子記念文学館、そして旭川ラーメン村など何度も訪れた好きな場所だ。
(十勝岳)
 十勝岳は活発な火山活動が見られる山で、登山自体は難しくないけど火山情報をつかんでおくことが必須である。1926年の「大正噴火」は三浦綾子の長編「泥流地帯」に描かれている。その後も何度か噴火している。ここも幾つか登山ルートがあるが、一番短い「望岳台」ルートで登った。旭川市内のシティホテルに泊まって、朝早く出て白金温泉まで急行する。温泉からさらに走って望岳台に至る。そこから日をさえぎるものが一切ないガレた道をゆく。
(望岳台)(十勝岳テレカ)
 この時は途中で曇ってきたので助かった。ひたすら登って山頂に着く。コースタイムは4時間ほどだが、もっと掛かった。そして途中からキタキツネとの二人旅になった。昔「キタキツネ物語」という映画がヒットして、キタキツネは「カワイイ」イメージになった。だから餌をやる人がいて、登山者に懐いているのである。でも死に至る寄生虫エキノコックスを持っているから絶対に接触してはいけない。大体「野生動物」に安易に近づくことは控えなくていけない。しかし、まあ、付いてくるんだから仕方ない。一緒に登頂したものだった。
(吹上温泉露天風呂)
 下りてきたら、吹上温泉露天風呂に寄った。実は前に「白金温泉」にも「十勝岳温泉」にも泊まっていた。だが有名な「吹上温泉露天風呂」には行ってなかった。何が有名かというと、「北の国から」で宮沢りえが入った温泉なのである。一体いつの話だろう。もうずいぶん昔の話だ。それで一気に有名になった。十勝岳は美瑛町、上富良野町、新得町の境目にある。美瑛や富良野の方はまた別に書くべき観光地が多いけれど、もう省略。自分の車で行っていて、その後あちこちの温泉へ立ち寄りながら、翌日夜に苫小牧からフェリーに乗って帰った。
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リュック・ベッソン監督「ANNA/アナ」、華麗なスパイアクション

2020年06月24日 20時49分38秒 |  〃  (新作外国映画)
 映画館が再開されたら自分でもよく見ていると思う。それほど見たかったのかというと、そうでもない。見なければ見ないで問題はないけれど、やってるから(また閉鎖されないうちに)見ておくか程度の気持ち。暑くなってきてからはマスク着用の外出もきついが、家にいて熱中症になるぐらいなら、シニア料金で涼みに行った方が良い。

 もっと見ている映画があるが、書かなくてもいい映画は書かない。リュック・ベッソン監督の新作「ANNA/アナ」もビミョーな線上にあるが、面白いことは抜群だから書いておきたい。リュック・ベッソン(1959~)の映画を見るのも久しぶりだ。ジャン=ジャック・ベネックスレオス・カラックスと並んで、80年代にフランス映画の「恐るべき子どもたち」と呼ばれたのもずいぶん昔。「サブウェイ」「ニキータ」「レオン」などは確かにキレのあるアクションで楽しませてくれた。

 1990年、モスクワ。市場でマトリョーシカ人形を売っていたアナは、フランス人のモデル事務所にスカウトされる。パリのファッション業界で一躍スターになったアナは、多くの男に言い寄られる。中でも共同経営者のロシア人がご執心で、ついにホテルで口説かれる。アナは男の仕事を聞き出し、武器密輸もやってることを確認すると、トイレに行って銃を取り出し男を銃殺する。アナは凄腕のKGBスパイだったのである。
 
 そこから時間を遡り、両親が事故死して薬におぼれていたアナが、如何にしてスパイとなったかが語られる。以後、時間を行ったり来たりしながら、ファッション業界と殺し屋を両立させるアナの「活躍」を描いてゆく。ところがある日、CIAが絡んできて、裏切り、二重スパイ、どんでん返しの連続に。時間があちこち飛ぶ割には、説明が行き届いて訳が判らなくなることはない。むしろ、判りすぎちゃって、最後は推測できて笑えてしまう。この「やり過ぎ」的なシナリオが多分映画的には減点対象になるんだろうと思う。

 だけど見ているときは、そんなことは考えない。ひたすらアナを演じるサッシャ・ルスの美貌と壮絶アクションに見とれているしかないからだ。映画内で多くの男がメロメロになるのも無理はない。レズビアンの女性モデルにも早速親切にされているから、性別を問わない魅力なんだと思う。ちなみにロシアスパイの元締めをヘレン・ミレンが貫禄たっぷりに演じていて、アナに「男除け」になるからレズを演じろと指令を出している。

 サッシャ・ルスはロシア生まれのモデルで、ディオール、シャネルなどのキャンペーンモデルを務めたという。ベッソンの前作「ヴァレリアン 千の惑星の救世主」で映画デビューしたというが、知らなかった。その後アクションの訓練を受けて、今作に臨んだ。その成果を十分に楽しめる女性アクションの傑作で、かつての「ニキータ」のすさまじさを思い起こさせる。だがアナの精神的な強さ、男に溺れない知性を強調するところなど、やはり現代の描き方になっている。欺されずに全部見抜こうなどと思わず、どんでん返しを楽しみながら見てれば納得のラスト。
  
 しかし、時代はソ連崩壊直前である。KGBもCIAもそんなに勝手に動き回れる時代じゃない。アメリカではCIAが勝手なことをしないようになっていたはずで、こんな作戦を大統領が承認するとは思えない。ソ連もペレストロイカの最中であって、こんなに米ソで殺しあいをしていたとも思えない。それは「スパイ映画」のお約束なんだろう。ゾンビ映画で、死人が動き回るのはおかしいと文句を付けてもヤボになる。日本の忍者映画で伊賀や甲賀、柳生などの名前が使われるように、スパイ映画ではKGBがCIAと抗争していないと困るのである。

 大体、90年頃にはまだ携帯電話もほとんど持ってなかった。そう見ればおかしなシーンは多いけれど、そんなことにこだわるなという映画である。撮影、編集、衣装なども見事だが、やはり脚本、製作、監督を一人で兼ねるリュック・ベッソンの手腕。僕は十分に楽しんだし、サッシャ・ルスのアクションに惚れ惚れした。
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映画「コリーニ事件」、法廷ミステリーでドイツの過去を直視する

2020年06月22日 20時13分47秒 |  〃  (新作外国映画)
 ドイツ映画「コリーニ事件」は法廷ミステリーの傑作だった。ドイツ現代史の闇を直視する原作を脚色して、最後まで目が離せないスリリングな展開になっている。こういう社会派映画は映画祭受賞という勲章で客を呼ぶものだが、この映画は何の賞もない。監督も知らないし、俳優も一人知ってるだけ。原作は読んでたけど地味だから、実はあまり期待しないで見た。このような映画が作られるドイツの底力を強く感じる映画だ。

 原作者のフェルディナント・フォン・シーラッハ(1964~)はドイツでも有名な弁護士だという。2009年に数多くの裁判体験を基にした「犯罪」という短編小説集を発表して、ベストセラーになった。クライスト賞も受賞したので、ミステリーを超えた作家と認められている。(クライスト賞は2016年に多和田葉子も受賞している。)翻訳されると、日本でも各種ミステリーベストテンで高く評価された。その後の「罪悪」に続き、第3作の「コリーニ事件」は初の長編。僕も以上3作は地元の図書館で借りて読んだ記憶があるが、細かな展開は忘れてしまった。

 冒頭で豪華ホテルで「殺人」が起きる。犯行の様子はラスト近くまで出て来ない。老人の犯人は逃げるそぶりはなく、ホテルで悠然としている。被害者はやはり老人で、大会社の会長を務めていた大物らしい。場面はそこで変わって、拘置所にいる犯人に弁護士が接見する。しかし、取り調べにも一切黙秘した犯人は弁護士にも一切動機を語らない。犯人の名前がファブリツィオ・コリーニで、なんとフランコ・ネロ(1941~)が演じている。大昔の「マカロニ・ウエスタン」で世界的スターになった人で、まだ健在だったのか。寡黙な様子が実にいい味を出している。
(コリーニ役のフランコ・ネロ)
 弁護士のカスパー・ライネンはトルコ系で、弁護士になれたのは富豪の援助があったからだった。最初の事件で国選弁護人を引き受けたが、実はコリーニが殺害した被害者のマイヤーこそ、その援助してくれた恩人だった。後継者として孫のヨハナがイギリスから帰ってくるが、カスパーとヨハナはかつて因縁があった相手だった。カスパーは事件を引き受けるべきか悩むが、どんな相手であれ仕事として引き受けるのが医者と弁護士だと考える。やがて裁判が始まるが、相変わらず黙秘を続けるコリーニはこのままでは重罪が避けられない。カスパーは果たして動機を明らかにすることが出来るのだろうか。

 最終的には誰もが予測するとおり、ナチス絡みであることが判明する。コリーニはイタリア生まれで、第二次大戦末期の事件が関わっていた。カスパーはそのことを戦争中に史料を保存する文書館の協力で突き止め、イタリアまで行って証人を見つける。そして最後に、どうしてマイヤーは免罪されたのかをめぐる真相が追究される。この原作刊行を受けて、ドイツでは法改正まで行われたという。それだけの衝撃が原作にはあったのである。

 監督のマルコ・クロイツパイントナー は全然知らない人だが、法廷シーンも、それ以外の人間関係描写もうまく処理していて飽きさせない。風景なども美しい。しかし、なんと言ってもナチスの犯罪と今も向き合うドイツの精神に触れる思いがする。しかも、弁護士をトルコ人に設定し、被害者を複合的に描く。日本で戦争犯罪と向き合う時には、往々にして孤立無援の状況に置かれる。今も過去を直視できるドイツに比べて、日本人の精神的ひ弱さを痛感する映画でもあった。
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「サラムボー」、古代カルタゴのスプラッター悲劇ーフローベールを読む③

2020年06月21日 20時50分56秒 | 〃 (外国文学)
 フローベールの「感情教育」を読んだから、続けて「サラムボー」(中條屋進訳)を読んでみた。「ボヴァリー夫人」(1857年)に次いで、1862年に刊行された第2長編である。2019年秋に新訳が岩波文庫から刊行された。だから今も読むべき作品なのかと思うと、内容的にトンデモ小説だった。叙述も細かすぎて読みにくい。古代カルタゴを舞台にしているのだが、確かな原史料がないところをずいぶん工夫しているらしいが、学術的には全然無意味だという。
(表紙の絵はミュシャ「サラムボー」)
 フローベールと言えば、まずは「ボヴァリー夫人」の徹底したリアリズムで世界文学史に名高い。しかし、それだけと思われたくなかったようで、次には大昔のカルタゴの壮麗にして悲惨極まる宗教儀式や戦いの経過を描いた「サラムボー」を書いた。これはほとんど「スプラッター」である。血みどろの大惨劇の連続で、驚き呆れるしかない。いくら何でもやり過ぎだ。「ボヴァリー夫人」や「感情教育」の作家というイメージを完全に裏切るすさまじい描写の連続である。
(表紙の絵はスュラン「ハミルカル軍の戦象による蛮人たちの虐殺」) 
 カルタゴと言えば、ローマ共和国との3回に渡る「ポエニ戦争」が名高い。特にハンニバルがアルプス山脈を越えて象軍団でイタリアに攻め込んだ第2次ポエニ戦争が有名だ。ところが「サラムボー」は、ローマとの戦いに敗れた後、傭兵が反乱を起こしたという歴史書の1行の記述から想像力で全てを作り出した。ハンニバルの父ハミルカル・バルカの娘が「サラムボー」で、神殿の中で汚れなく育てられている。ところがハミルカルの館で開かれた饗宴で、傭兵のリーダーのマトーがサラムボーを見初めてしまう。
(カルタゴ遺跡)
 マトーはサラムボーに恋い焦がれ、我が物にしたいと望む。カルタゴは傭兵に支払う金をケチって、約束違反に怒る傭兵はマトーらに率いられて反乱を起こす。城砦に囲まれたカルタゴをめぐり一進一退の戦況が続く。水道橋を忍び込んで神殿を襲ったり、周辺部族を巻き込んだ象軍団の戦争など興味を引かれる描写もある。だが宗教的な細かな話が多く、追い詰められたカルタゴの生け贄のシーンなど読むのが苦しい。何のためにこんな本を読むのだろうかとさえ思う。フローベールを読み始めたから、これも読んでしまいたいという気持ちだけで読み切った。一般的には読まなくていいと思う。

 当時のフランスではかなり受けたという。カルタゴ風ファッションも流行したというが、もちろん想像で作られたものである。カルタゴのあるチュニジアは、「サラムボー」発表当時はオスマン帝国から事実上独立したチュニス君侯国が憲法を制定して近代化政策を進めていた。フローベールは1858年に実際にチュニジアを旅行してカルタゴを訪れている。チュニジアがフランスの保護領となるのは、1881年のことだ。だから、まだ相当先のことで、「植民地幻想」のようなものは感じられない。だが第二帝政期の海外進出熱のようなものも隠れているのかもしれない。

 フローベールの他に入手しやすい本には、「三つの物語」(光文社古典新訳文庫)と「紋切型辞典」(岩波文庫)がある。他にもあるけれど、特に研究者でもない者が読むこともないだろう。「三つの物語」は名前通り三つの短編が入った作品集。面白いのは最初の「純な心」だけ。これを読むと、リアリズム作家というのと同じぐらい宗教作家でもあったと思わされる。「紋切型辞典」は読まなくても良かった。「悪魔の辞典」ほど面白くない。これでフローベールが終わると思うとホッとする。僕は「感情教育」が抜群に面白かった。
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「日本史」(原始~近世)記事のまとめ

2020年06月20日 21時59分57秒 | ブログ記事のまとめサイト
過去に書いた記事のまとめ記事名をクリックすると、当該記事になります
日本史・世界史の記事のまとめサイトです。「日本史」は時代順に、全般・通史、原始・古代、中世・近世。(幕末維新、近現代と世界史は別のまとめになります。)
日本史
歴史全般・通史 
日本史本の世界
  ①内幕とやりなおし(2018.3.23) ②日本史のツボって何だろう(2018.3.25)
元号を考える
  ①世界認識の障壁(2018.10.11) ②歴史のものさしとしての西暦(2018.10.12)
  ③「一世一元」は「創られた伝統」(2018.10.15) ④「ちはや元年」じゃダメですか(2018.10.16)
新書・文庫
  ①末木文美士「日本思想史」を読む(2020.3.30)
原始・古代
  ①「建国記念の日」の真実(2012.2.5)
  ②旧石器捏造事件を考えるー上原善広「石の虚塔」(2015.1.17)
  ③古墳時代の始まりと終わり-権力者の大建築(2016.12.27)
  ④「縄文展」と映画「縄文にハマる人々」(2018.8.30) 
  ⑤「大仙古墳」(伝仁徳天皇陵)、世界遺産への疑問(2019.5.19)
神武天皇陵とは何か
  ①「皇太子参拝」と退位問題(2016.12.18) ②真の初代天皇は誰か(2016.12.19) 
  ③近代に作られた「伝統」(2016.12.21)
新書・文庫
  ①保立道久「歴史のなかの大地動乱」と「歴史評論」を読む(2012.10.13)
  ②稲作開始は500年早かったー藤尾慎一郎「弥生時代の歴史」を読む(2015.9.1)
  ③「天皇陵」の謎(2016.12.26) 
  ④歴史の中の藤原氏(2018.2.6) 
  ⑤ちくま新書「古代史講義」「中世史講義」(2019.3.3) 
  ⑥中公新書「承久の乱」を読む(2019.3.11)
  ⑦ちくま新書「中世史講義【戦乱編】」を読む(2020.4.20)
中世・近世
戦国時代の関東
  ①戦国は関東から始まった?(2018.4.17) ②伊勢宗瑞を知ってるか(2018.4.18)
  ③北条vs上杉55年戦争(2018.4.19) ④小弓公方と上総武田氏(2018.4.22)
戦国大名をめぐって
  ①新しい織田信長像をめぐって(2014.12.29) ②戦国大名をどう考えるか(2020.1.4)
新書・文庫
  ①「犬の伊勢参り」という出来事(2013.6.1)
  ②日本の「中世」とは何だったのか-「シリーズ日本中世史」を読む(2016.8.31)
  ③中公新書「観応の擾乱」を読む(2017.8.8) 
  ④応仁の乱とは何だったのか(2018.3.6)
  ⑤陰謀論の仕組みー呉座勇一「陰謀の日本中世史」(2018.3.31)
  ⑥岩波新書「武士の日本史」を読む(2018.7.8) 
  ⑦「百姓一揆」とは何だったのか(2018.12.27)
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大林宣彦監督の「さびしんぼう」「野ゆき山ゆき海べゆき」

2020年06月19日 22時36分49秒 |  〃  (旧作日本映画)
 大林宣彦監督が亡くなって、本来なら遺作「海辺の映画館~キネマの玉手箱」が公開されていたはずだが、緊急事態宣言で延び延びになっている。追悼上映の企画もなかなか立てられないが、新文芸座で「さびしんぼう」と「野ゆき山ゆき海べゆき」上映されている見に行った。
(「さびしんぼう」)
 「さびしんぼう」(1985)は、間違いなく大林監督の最高傑作レベルの作品だ。ロマンティックノスタルジックな作風は全作品に見られるが、この作品はもっとも心に残る出来映えじゃないか。全編に流れるショパン「別れの曲」が見終わった後にも心の中で響き続ける。「尾道三部作」の最後とされるが、内容もあって尾道風景が一番見応えがあるのもいい。主演の富田靖子のスケジュールが年末に2週間空いていて、それで急きょ製作されたというが、往々にしてそういうときに傑作が出来る。
(「さびしんぼう」)
 「さびしんぼう」とは大林監督の造語だが、自分では全作品が「さびしんぼう」だとも言っている。「人を愛することは寂しいことだ」と大林監督は語っていると言う。「うまく説明できないけれど、なんとなく誰にでもニュアンスが伝わる」というタイプの言葉だ。この題名も素晴らしい。お寺(実在の西願寺でロケ)の息子、井上ヒロキ(尾美としのり)は趣味のカメラ越しに女子校でピアノを弾いている美少女(後に橘百合子という名前と判る)に恋してしまい「さびしんぼう」と名付ける。寺では口うるさい母とおとなしい父と暮らしているが、ある日部屋に突然「さびしんぼう」と名乗る少女が現れたのだった。

 この「さびしんぼう」と百合子を含めて、富田靖子は「一人四役」だと出ている。あと二つは何だ? エピローグに出てくる「百合子に似た妻」と「二人の間の娘」だという話。ヒロキをめぐる高校のエピソードはユーモラスで、特に校長室のオウムのシーンは笑える。ノスタルジックなムードを基調にしながら、ユーモアが点在していてバランスがいい。「さびしんぼう」は16歳当時の若き母だった。誰もが思い当たる「日常生活の中で年を取っていくこと」と「忘れがたい青春の思い出」のイメージを鮮やかに描ききる。切なく、寂しいけれど、それが生きていくことなのだ。すべての「親と子」に見て欲しい傑作。

 「野ゆき山ゆき海べゆき」(1986)は佐藤春夫わんぱく時代」を原作にしている。実は「さびしんぼう」も山中恒原作だったと今回見るまで忘れていたが、両作とも原作を大幅に変更している。「さびしんぼう」は傑作だったことの再確認だったが、「野ゆき…」は今回見直して再評価が必要だと思った。公開当時は「わんぱく時代」の映画化だと宣伝され、子どもたちの活躍映画だと思って見た。豪華助演陣の大人俳優が多数出ているが、何しろ出ずっぱりの子役は当時は知らない人ばかり。主演(お昌ちゃん)は鷲尾いさ子、須藤総太郎は林泰文だが、やはり大方はその後も知らない。
(「野ゆき山ゆき海べゆき」)
 この映画はカラー(豪華総天然色普及版)とモノクロ(質実黒白オリジナル版)の二つが作られた。木下恵介による日本初のカラー映画「カルメン故郷に帰る」も白黒も作られたが、この作品でなぜ二つ作られたかは知らない。今日はカラー版を見たが、多分前に見たのはモノクロだった。子どもたちのわんぱく戦争が延々と出てきて、それがあまり弾けない。大人の事情との絡みもあまりうまく行っていない。やはり映画の完成度としては失敗作ではないか。公開時に見た時もそう思ったが、今回見てもその評価は大きくは変わらなかった。
(「野ゆき山ゆき海べゆき」)
 ただ戦時下に時代を設定し、大胆に「反戦映画」的な作りにしている。「わんぱく」以上に、「女郎に売られる」お昌ちゃん奪還作戦が綿密に描かれていて、大人社会への痛烈な眼差しがある。子役の演技に頼れない分、自由な脚色(山田信夫)と編集(大林宣彦)によって、時間空間を自由に操作している。テーマ的にも技法的にも晩年になって作った「反戦映画」の先駆的作品と見ていいのである。「花筐/HANAGATAMI」が大人版だとすると、「野ゆき山ゆき海べゆき」は子ども版である。その意味で再評価が必要だと思う。川を滑り降りるシーンなど自然描写も忘れがたい。
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ダルデンヌ兄弟の映画「その手に触れるまで」

2020年06月18日 22時17分34秒 |  〃  (新作外国映画)
 ベルギーで社会派映画を作り続けているダルデンヌ兄弟の新作「その手に触れるまで」が公開された。溜まっていた新作が続々と公開され、あっという間に終わってしまう感じ。半分しか客を入れないんだから、よほどの全国的ヒット作以外はペイしない。字幕も入れて、いつでも上映可能な新作は、どんどん消費されると予想される。見逃したくない作品はこちらも頑張って見ておきたいと思う。

 ジャン=ピエール(1951~)とリュック(1954~)のダルデンヌ兄弟は、「ロゼッタ」と「ある子供」でカンヌ映画祭最高賞(パルムドール)を取っている。他にも「息子のまなざし」で主演男優賞、「ロルナの祈り」で脚本賞、「少年と自転車」でグランプリを受賞していて、カンヌ映画祭と相性がいい。今回の「その手に触れるまで」は監督賞で、まだ賞が残っていたのか。テーマ的には移民や労働者の問題もあるが、圧倒的に「子ども」が多い。少年犯罪虐待などを扱う映画が多い。
(監督賞受賞のダルデンヌ兄弟)
 そんな映画は見るのも億劫で暗いだけなんじゃないかと思われるかもしれない。だがダルデンヌ兄弟の演出は独特で、ドキュメンタリー映画の撮影を同時に見ているような緊迫感がある。娯楽映画に多い「ワンパターン」展開ではなく、一体どうなるのか先読み不能な映像がテキパキと提示される。

 「その手に触れるまで」は、上映時間84分と特に切り詰めた表現になっている。今回はなんとベルギーに住むイスラム教徒の家庭が舞台である。13歳の少年アメッドがあっという間に「過激化」してしまい、補習学校の女性教師を殺害しようとする。少年院に送られるが、彼は「更生」できるのだろうか。「一ヶ月前は普通にゲームばかりしていた」少年は、どうして宗教に目覚めたのか。でもそれは最後まで見ていても判らない。テーマは重大であるが、映画が与える情報は少ない。

 ベルギーは北部がオランダ語、南部がフランス語だが、ダルデンヌ兄弟の映画はフランス語地帯を描いている。ウェブサイトを見ると、ブリュッセル西部のモレンベークという町は、人口10万のうち半分がイスラム教徒だという。そのほとんどはモロッコ系だとあるが、日本人には顔では判別できない。映画では描かれない「前史」がある。アメッドのいとこはテロに加わって「殉教」したらしい。家では両親が離婚し、それを契機に母はヴェールを脱ぎ酒も飲むようになった。アメッドは「識字障害」があったが、補習学校の先生が親身に教えてもらったという。

 「導師」の影響からか、いとこの衝撃か、親への不満からか。お世話になってきた先生とも握手をしなくなる。「大人のムスリムは女性に触れない」とか言い出すようになった。先生はアラブの歌謡曲を使って現代アラビア語を学ぶ講座を作ろうとするが、導師は先生を「背教者」と呼ぶ。その影響を受けて、ナイフを持って先生の家に行って襲おうとするが果たせない。戻ると導師は組織をつぶす気か、自首しろと言う。ここで映画は少年院のシーンに飛ぶ。母との面会、農場での体験実習。最初は動物に触れることも出来ない。農場の少女ルイーズは親切に世話のやり方を教えてくれるけど。

 ルイーズとの幼いやり取りからも、アメッドは最後までムスリム意識が強いと思われる。ただイスラム教の厳格性が悪いわけでもない。現代ヨーロッパ社会では、受け入れられないのかもしれないが。僕は最後までアメッドがよく判らなかったが、同時にヨーロッパではムスリム同士でも、教師が帰りに生徒と握手をするのにもビックリした。日本の塾では考えられない。これでは「ウイルス感染」が広がるわけだとも思った。そんなに高い権威を持つイスラム法学者でもない導師(近所の店主に過ぎない)が「背教者」を規定してしまえるのも驚き。正直言って理解出来ないことが多い。宗教をめぐる「文化」の違いは「異文化理解」では解決できない。表現は難しくないが、内容的に理解が難しい「問題作」。
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映画「ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語」

2020年06月17日 22時32分32秒 |  〃  (新作外国映画)
 ごひいきのグレタ・ガーウィグ監督のアカデミー作品賞候補作「ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語」を見た。3月末の公開予定だったが、2ヶ月以上遅れた。期待して待っていただけのことはある傑作だ。ルイーザ・メイ・オルコットの有名な「若草物語」(Little Women)の何度目かの映画化だが、続編以後の物語も織り込んで自在に脚色している。歴史を超えて自由を求める魂の響きを聞こえてくる映画だ。アメリカ東部の美しい風景をとらえた撮影も素晴らしい。

 「若草物語」は4人姉妹の物語だが、キャストは以下の通り。長女メグ(マーガレット)にエマ・ワトソン、次女ジョー(ジョゼフィーン)にシアーシャ・ローナン、三女ベス(エリザベス)にエリザ・スカンレン、四女エイミーフローレンス・ビューという顔ぶれ。上の二人しか知らないが、エイミー役のフローレンス・ビューが印象的で、アカデミー助演賞にノミネートされた。イギリス出身の新進女優で今後に注目。母がローラ・ダーン、ちょっと意地の悪い大叔母にメリル・ストリープ、隣家の青年ローリーティモシー・シャラメと豪華助演陣に囲まれた4人姉妹を見てるだけで楽しい眼福映画。

 次女のジョーが「女性作家になるまで」が映画のテーマである。「若草物語」は読んでないので、時代設定などが最初はよく判らなかった。父が最初出て来ないのは、南北戦争中で北軍の牧師として従軍中なのである。母と姉妹で助け合って、苦難の日々を生きている。ジョーが書いた劇を皆で楽しむクリスマス、母は貧しい隣人へ食物を贈る。そんなに裕福ではないが、隣家は大金持ち。父母が亡くなって祖父と暮らしている隣家の青年ローリーと知り合い、遊んだり舞踏会に行ったりする。ローリーは活発なジョーに惹かれるが、ジョーは作家になることを夢見て、幸せは結婚ではないと思っている。ジョーとエイミーは喧嘩もするが、やがて大叔母はヨーロッパ旅行にエイミーを同行させる。
(エイミーとローリー)
 筋を追う物語ではないので、ストーリーはもう書かない。ただ原作を知らないと、最初は時間があちこちに飛んで判りにくいかもしれない。アカデミー賞には、作品賞の他、主演のシアーシャ・ローナン、助演のフローレンス・ビュー、脚色のグレタ・ガーウィグ、作曲のアレクサンドラ・デスプラがノミネートされたが、受賞したのは衣装デザイン賞ジャクリーン・デュランだけだった。グレタ・ガーウィグは前作「レディバード」では監督賞にノミネートされたが、今回は残念ながら候補に入らなかった。しかし才能は十分以上に証明している。それにしても、確かに衣装デザインは下の画像を見て判るように素晴らしいものがあった。服装をみるためだけでも見る価値がある。
 
 生きてゆくことは楽しいことばかりではない。悲しいこともあるし、思うようにならないことも多い。そもそも女性作家が世に出ることは可能なのか。女の幸福に結婚は不可欠なのか。「」と「お金」と「自己実現」。人生では次第に「お金」の持つ意味が大きくなっていく。避けがたい現実の中で、自己実現と愛はどうなるのか。現代につながるテーマ性を内に秘めた映画なのである。ただ、ベースに「姉妹という女性同士の深いつながり」があって、今ひとつ僕にはつかみにくい感じもあった。

 原作者のルイーザ・メイ・オルコットは1832年に生まれて、1888年に亡くなった。「若草物語」は1868年、日本では明治維新の年に刊行された。奴隷制に反対したり、晩年には女性参政権を主張するなど、オルコットは進歩的な考えの持ち主だった。それは「コンコード派」の中で育ったからである。マサチューセッツ州コンコードに集まった作家、思想家のグループで、オルコットは「森の生活」の著者ソローに教わった。思想家エマソンや「緋文字」の作家ホーソーンらもいて、父はその仲間だった。
(ルイーザ・メイ・オルコット)
 そういう背景は知らなかったが、オルコットは単に「少女小説」を書いた作家ではなかったのである。僕は「若草物語」を持っているが、読んだことはない。持っているのは学校で販売した旺文社文庫のセットを親が買ったからだ。しかし、当時は「少年向け」「少女向け」のジェンダーバイアスが今よりもずっと強くて、僕も「十五少年漂流記」(ジュール・ヴェルヌ)は読んだけど、「若草物語」には手が伸びなかった。萩尾望都を読んだりするのは大学生の頃で、「赤毛のアン」は読んだけどオルコットは視野の中になかった。グレタ・ガーウィグは小さい頃から「若草物語」が大好きだったそうで、アメリカにもそういう読書好き少女が今もいるんだと思った。性差や年齢を超えて一見の価値がある。
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「捕食」の構造、持続化給付金と「岡村発言」ー「ポストコロナ」世界考⑤

2020年06月16日 22時54分12秒 |  〃 (新型コロナウイルス問題)
 新型コロナウイルス感染者数はアメリカが圧倒的に多いが、いつの間にかブラジルが世界第2位になった。アマゾン奥地の先住民にも感染が広がっているという。どうして遅れてブラジルで感染が広がったのか。南半球のブラジルでは、富裕層が避寒のためにヨーロッパを旅行していて、感染拡大以後にウイルスを持ち帰った。富裕層の家で働いている家政婦などを通し、ファヴェーラと呼ばれるスラムの「密」空間にあっという間に広まったのだという。

 そう言われてみると、なるほどブラジル社会の階層構造がはっきり見えてくる感じがする。「ウイルス」を媒介にして、「捕食者」と「被食者」の関係性があぶり出されてくる。この「捕食」「被食」というのは、生物の食物連鎖の用語だが、世界的な「自由競争」「新自由主義」の下で、社会を見るときにも役に立つ概念になってしまった。人間の世の中は単純な「食うか食われるか」の世界ではないけれど、あえて単純に図式化すれば、やはり「捕食者」と「被食者」に分かれている。

 その事実を最近一番感じたのは、「持続化給付金」の落札経緯だ。「サービスデザイン推進協議会」という一般社団法人が落札したが、その後電通に「丸投げ」され、以後も下の画像にあるように複雑怪奇な流れで全体像がよく判らない。かの竹中平蔵元総務大臣が会長を務める人材派遣会社パソナもちゃんと絡んでいる。どうもそういうことが多い。労働者派遣事業をどんどん合法化して、その後会社側に立場を変えて、どんどん政府の事業を請け負う。これでは「捕食者」が仕組みを作って、派遣労働者は「被食者」になる世界だ。電通は自民党の選挙を仕切って、政府の事業も担当する。

 別の問題だが、今回のコロナウイルス問題では「風俗産業」をめぐる議論も起こった。自粛要請で「閉店」した場合、「夜のお仕事」あるいは「性産業」の補償はどうあるべきか。当初は全く補償がなく、シングルマザーで他の仕事に雇って貰えずやむを得ず風俗業に就いている人もいる、困窮すれば次世代にも影響する…という論点である。この場合だけではなく、政府が当初「自粛要請」する際に「フリーランス」「文化の担い手」に対する配慮や手当が全く見られなかった。やはり「大企業」の「正社員」じゃないと政治家の目に入ってないのである。
 (岡村隆史「発言」問題)
 性産業をめぐっては、ニッポン放送の「オールナイトニッポン」での岡村隆史発言もあった。この「失言」(間違いなく「失言」のカテゴリーに入る)をどう考えるべきか。僕もいろいろ感じたのだが、今まで書かなかった。「セックスワーカー」の世界は全く知らないので、軽々しく発言できない。「キャバクラ嬢」や「ホスト」だったら、夜間定時制に勤務すれば生徒の中にたまにいる。親も辞めさせたい場合もあれば、放任の場合もある。教師として、非難も応援も出来ない。何とか高校卒業はした方がいいというスタンスで指導を続ける以外にない。「性の商品化」を非難するだけで、この世からなくなる問題ではない。外国には「セックスワーカー」の労働組合がある国もあるらしいが、それが正しいのかも判らない。

 政権№2に「失言大王」を戴く国である。僕は「岡村降板運動」をする以前に、まず「麻生辞任」が必要だと思っている。だが麻生大臣の「失言」も、本人の主観では「良いことを述べる」文脈の中で生じることが多い。それが「失言」というものだ。今回の「岡村発言」そのものは、大体の人が覚えていると思うが、概略は上の画像に譲る。これも深夜放送という場で、「何とか自粛を促す」という「良き目的」の文脈だから、本人のホンネ的な発言が出てしまうのである。「コロナ禍で困窮を極める人」は本来あってはならないわけだから、公的な場で言ってはならないことに間違いない。

 ただ僕は当初から、この発言に含まれる「居心地の悪さ」をどう表現したらいいのか、よく判らなかった。もちろん「性の商品化」そのものの問題もあるが、それだけではない気がした。それは「他人の困窮」を「楽しみに待つ」という感性をどう考えたらいいのかという問題だ。ブラジルの状況や持続化給付金問題を考えているうちに、何となく思うところがあった。岡村発言は「捕食者目線」なのである。堕ちてきたら食べちゃうぞと網を張ってるクモみたいな感じ。世の中は「捕食者」「被食者」に分かれていて、自分は「捕食」の側だということが自明視されている。その点に居心地が悪かったのである。今回のウイルス問題の中で、世界の構造が「見える化」されたのだと思う。
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「自粛警察」はファシズムの芽なのかー「ポストコロナ世界」考④

2020年06月15日 22時35分57秒 |  〃 (新型コロナウイルス問題)
 緊急事態宣言下で見られた「自粛警察」を指して、「ファシズムの芽」だと批判する人がいた。いや関東大震災時の「自警団」の方が近いと指摘する人もいた。この問題をどう考えればいいのだろうか。ただ「ファシズムなのか」を正面から論じても、あまり生産的とは思えない。僕なんか、つい現代史の学術用語としての「ファシズム」の定義を考えてしまう。でも多くの人は、「独裁」とか「権威主義」を非難するときの「悪罵用語」として「ファシスト」を使っているのだろう。

 ところで、ニュース番組に「自粛警察」という言葉は不適当だとメールした人を見た。「警察」は違法行為を取り締まる組織なのに、「自粛警察」では「警察が悪いことをする」みたいだという話だった。世の中にはそう思う人もいるのか。「警察」は治安維持のため必要だろうが、とかく「横暴」というイメージがつきまとう。アメリカといわず、日本でもしつこい職質とか引っかけ取り締りに遭ってない人は少ないと思う。特に反体制的な活動家じゃなくても、「警察」には「ムチャクチャ言ってくる」イメージがある。
(欧米諸国と日本の比較)
 日本では欧米と違い、緊急事態宣言でも「自粛要請」に止まり、法的な「営業禁止」「外出禁止」ではなかった。生活のために営業を続ける店もあったので、そこで「何者か」が夜中に「店を閉めろ」とかの貼紙を貼って歩いたりしたらしい。県外ナンバーの車に嫌がらせをする人まで現れた。それを指して、いつの間にか「自粛警察」と呼ぶようになった。僕は「初出」を知らないけれど、イメージ的にはすぐ判ったのである。不思議なことに、そういう「活動」をしているご本人は「ステイホーム」をしていない。自分が率先して「自粛」してれば、その店が夜も開いてるかどうか判らないはずだ。
(「自粛警察」の貼紙」)
 上の画像は検索して見つけた貼紙の例。店主を「銭ゲバ」と攻撃してる。故ジョージ秋山の1970年の漫画「銭ゲバ」がすぐに思い浮かぶ世代なんだろう。この「ゲバ」なんか、若い人には語源が判らないと思う。ニュースで見る限り、今のところホンモノの警察に捕まったのは「豊島区の職員」だけだと思う。なんと「自粛」を要請する側の人間が、要請に応じてくれない店に腹を立てたらしい。別の事例だが、川崎市の施設に「ヘイトクライム」的な葉書を送った人も最近捕まった。元公務員で、現在の担当者に対する私怨があったらしい。どこかで「謎の組織」が暗躍しているわけではなかった。

 「ファシズム」はもともとイタリアのムッソリーニの「国家ファシスト党」から来る。しかし、イタリアは「先駆的ファシズム体制」とでも言うべきで、やはりドイツのヒトラーが結成した「ナチス」がファシズムの代表例になると思う。ナチスというのは「国家(国民)社会主義ドイツ労働者党」の略である。社会主義を自称しているが、反共産主義である。というか「反ソ連」である。「国家(国民)社会主義」こそが、ドイツ労働者にとっての「真の社会主義」なのである。(なお、国家社会主義と訳すか、国民社会主義と訳すかは、教科書でも分かれている。)

 ソ連が崩壊したんだから「反ソ蓮」もないはずだが、「ソ連」的なるものを「中国」や「北朝鮮」に見出して、排外主義的な主張をする人はいる。もともと「反ソ連」とは「反革命」ということである。現代日本に「革命の危機」などあるわけもないが、人によっては世界標準によって「日本的なもの」が変化していくことは、すべて「革命の陰謀」と思い込む人も結構いる。しかし、「主義」だけでは「ファシズム」とは呼べない。非合法活動もいとわない「」(組織)があってこそ、初めて「ファシズム」と言えるだろう。

 そう考えてくると、「自粛警察」は単なる鬱憤晴らしに近く、良くも悪くも「ファシズム」などと言っては過大評価になりそうだ。むしろ前近代的な「村八分」の方が近い感じがする。「要請」に止まるのに「自粛」が成り立ったのも、社会が法的な契約によってではなく、ムラ共同体的な暗黙の規制で成立しているからだと考えられる。ファシズム党であれ、革命政党であれ、超少数勢力としては存在するかもしれないが、それが「運動体」を目指す以上は、日本の日常生活では浮いてしまいそうだ。

 「自粛警察」は、だからファシズムではないと思うが、だから良いわけでは無い。日本社会の中では「暗黙の共通理解」を押しつけてくる「空気」の方が怖い。現実に恐怖感を呼び起こすわけで、日本では「空気」の方が問題だ。今のところ、「ファシズム」でも「自警団」でもないとしても、「ネットいじめ」は後を絶たない。今後ますますコロナ問題による経済困窮が大きくなってくる。自粛期間が終わって、それなりに業績が戻る会社もあるだろう。しかし、やはり大変な状況が続く業種の方が多いと思う。その時に「混乱」が起き、それを利用する人も出てくる。これからの方がますます大変になると覚悟して、すぐに動ける態勢を作っておかないといけない。
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「テレワーク」は定着するかー「ポストコロナ世界」考③

2020年06月14日 22時12分27秒 |  〃 (新型コロナウイルス問題)
 「ポストコロナ」の「ポスト」(post)というのは、「」を表す「接頭辞」である。反対語は「前」を表す「プレ」(pre)。他にもたくさんの接頭辞が英語にも、日本語にもある。英語では「in」とか「anti」とか…。「テレワーク」(telework)の「tele」も「遠く」を意味する接頭辞である。「テレフォン」「テレグラム」「テレヴィジョン」…。みな遠くから伝達可能な新技術に接頭辞「テレ」を付けた造語だった。

 コロナ以前は聞いたこともなかった「テレワーク」という言葉も、そういった新造語の一つである。職場を離れて「遠くで働く」ということで、「テレビ電話で働くこと」じゃない。「ワーク」はともかく、今回多くのものと「テレ」になった。新型コロナウイルスはいずれ終息するわけだが、果たして一端「テレ」化したものは、再び元に戻るのだろうか。それともコロナ後の世界は完全に一変してしまうのだろうか。
(行政も進める「働く、が変わる」)
 テレワークで済んでしまうんだったら、今までの「電車痛勤」は何だったのかと思う人もいるだろう。このまま「テレワーク」でいいと思いつつ、緊急事態宣言が明けたら少しずつ勤務形態も戻りつつあるようだ。もともと「ハンコを押すために出勤せざるを得ない」とか「派遣社員はテレワークにならない」など、日本企業のあり方をあぶり出す問題も起こった。朝はラッシュアワー、夜は居酒屋で「飲みニケーション」といった長時間労働は、ポストコロナ世界では消えていくのだろうか。

 もちろんそれは業態によって違うだろう。「人間相手」の仕事では、テレワークしようがない。今回医者でも「オンライン診療」が認められたが、新型コロナウイルスだったら「オンライン診療」では病名も確定できない。医療、福祉などは「テレワーク」には出来ない部分が多い。では教育はどうなんだろうか。「オンライン授業」が続くんだったら、例えば通信制高校でもいいとなるだろうか。ネット授業を中心にした私立通信制高校が今は幾つも出来ている。多分そう思って通信制へ行く人も増えていくだろうが、恐らく毎日通学する高校が主流なのは不変だろう。

 それは「ライブハウス」も同じだと思う。個々のライブハウス、あるいは個々の映画館や画廊などには閉めざるを得なくなるもあるだろう。しかし、ライブハウスという存在が無くなってしまうとは考えられない。音楽で「複製技術」が現れると、レコードでしか音楽活動をしない音楽家も現れた。今後は「配信だけで本人の写真もない」、時には国籍や性別も不明な曲も出てくるだろう。だが「音楽」一般の本質から、「身体的なパフォーマンス」が消え去ることはないはずだ。

 ここ何十年もずっと「シャッター商店街」が問題になってきた。今回のコロナ禍をきっかけに閉めてしまうお店も多いだろう。東京ではここ何年かミニシアター映画館がどんどん少なくなった。長い目で見れば、今後さらに減っていくだろう。それは新型コロナウイルス問題ではなく、人口動態や経済状況などの影響である。ウイルスはきっかけを作るだけなのである。少子化が進行する中で、ライブハウスやミニシアターは無くならないが、「絶滅危惧種」として保護対象の存在になるかもしれない。
(テレワークの仕組み)
 さて、冒頭の問い、「テレワークは定着するか」だが、それを決めるのは働く側というよりも、やはり企業側なんだろう。例えば交通費はどうなるか。今回は恐らく4月に一括して「通勤定期代」が支給されていただろう。しかし、実際の出勤回数で考えれば、回数券で済んだかもしれない。働く側でそうした人もいるかもしれない。しかし、交通費をケチるよりも、社員を定時に集合させるメリットもあるはずだ。交通費以上に大きいのが、オフィス代(自社ビルではなく、物件を借りている場合)である。大きなビルやオフィスを高い金払って借りている意味はあるか。

 それこそ業態ごとによるだろうが、僕は案外「テレワーク的労働形態」は普及していくのではないかと考えている。そうしても十分やっていける仕事はある。ただし、その場合、完全に「業績評価」型の人事考課になる。いちいち時間内の管理を出来なくなる代わりに、期間内に「見える業績」が必要になる。通勤時間がないんだからと、自分でもその分ぐらいは超過勤務するのが当たり前になるだろう。それどころか、深夜まで家で仕事をするのが常態化することも起こりうる。

 人との接触による新発想も少なくなるし、結局いいことばかりではない。また考えておくべきことは「新人はテレワークが難しい」ということだ。テレビ番組なんかも、今では再放送やリモート出演ばかりになってしまった。それでも出来るわけだし、何も全員がスタジオに集まって大騒ぎする必要も無い。そうなんだけど、今のところニュース番組やヴァラエティ番組などで、リモート出演するのも「従来からの出演者」ばかりである。ドラマの制作もストップしているので、新人には不利だ。これはどの分野にも言えることで、新人に活躍の場を与えるには「リアルな現場」が必要なのである。
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