尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「縄文展」と映画「縄文にハマる人々」

2018年08月30日 23時29分33秒 |  〃 (歴史・地理)
 上野の東京国立博物館で開かれている「縄文展」も盛況のうちに9月2日までの会期となった。教員時代なら見逃せない展覧会だけど、最近は並んでみるのが面倒でパスすることも多い。8月上旬に台風が近づいて雨風が強い日があったので、実はその日に見に行った。このぐらい空いてればいいねという日だったが、内容的にはどうも納得できなかったので書かなかった。だけど「縄文にハマる人々」というドキュメンタリー映画を最近見たので、合わせて書いておこうかなと思う。

 「縄文」は「じょうもん」と読むんだと教わるから皆が読める。「縄」の字は「沖縄県」とか「縄跳び」の「なわ」だが、普通音読みが「じょう」だと意識することはないだろう。一方「文」は普通は「ぶん」と読む。でも「縄で付けられた文様(もんよう)」の意味だから、「じょうもん」と読むわけだ。大森貝塚を発見したモースが発見した土器を「Cord Marked Pottery」と名付けたことの直訳である。「縄紋時代」と表記するほうがいいという意見があり、僕もそう思っている。

 ここでは「縄文」と書くけど、そういう議論もあるのである。ところで、僕がある種「縄文にハマる」感じだったのは、だいぶ前のことだ。きっかけは95年に発見された青森県の三内丸山遺跡を翌年の夏に見に行ったこと。車で北海道まで行こうという旅の途中である。まだ今のように整備されてなくて、あちこちにブルーシートがかかっていた。バラックの展示場で買ったビデオは、ずいぶん教材として使ったものだ。進学校じゃないから、日本史の授業の最初には「歴史の面白さ」を実感できるような授業をおきたい。そうするとやはり「縄文時代を熱く語る」パフォーマンスになる。

 その時に気をつけないといけないのは、縄文時代は「日本列島の始まり」だけど、「日本の始まり」ではないということだ。国家成立以前の無文字時代で、世界史的には「新石器時代」(初期は旧石器または中石器)ということになるだろう。土器で編年するのは日本史の独自性である。「日本」というのは中国に対する王朝名で、その後「国家」や「民族」の名にも転化していった。「日本」以前の「倭国」は弥生時代の中から誕生する。

 今度の「縄文展」は正確に言えば「縄文土器名品展」で、映画は「縄文土器にハマる人々」である。土器だけに焦点を当てて、「ニッポンすごい」と言ってるような風潮を感じるのである。「縄文展」には現時点で国宝に指定されている6点が全部集まっている。その他重文指定のものも多い。それらは確かに迫力があるのだが、正直言って「火焔式土器」を新潟県十日町市の博物館で見た時の感動に遠く及ばない。青森県の亀ヶ岡式土偶も現地で見た時の方が面白かった。

 まあすべて現地で見るのは一般の人には大変だから、こういう展覧会も必要なんだろう。でも人が一番旅行に出かける夏休みに、よりによって地域の宝物をまとめて首都に持ってきていいんだろうか。その地域の「目玉」がなくなっちゃうじゃないか。他の時期の方がいいんじゃないか。それに「美」を目的として作られていない考古遺物を「美術品」として展示するのではなく、生活や労働、家族関係、葬送などを総合的に展示するのが本来「国立博物館」の役割なんじゃないだろうか。

 長くなってしまうので簡潔に書くが、「縄文時代」は「縄文海進」と呼ばれる「海面上昇」により「日本列島の成立」を見た時代である。最終の氷河期が1万3千年ころに終わり、大陸と陸続きだった地域が島となった。それまでは針葉樹林が広がっていた日本列島も、この温暖化により東日本は落葉樹林、西日本は常緑樹林が広がる。その落葉樹林帯はドングリが豊富で、そのドングリを食べるシカやイノシシも増えた。その動物を狩猟するために「弓矢」が発達する。ドングリはアク抜きしないと食べられないし、動物の肉も加熱する方が食べやすい。そのために土器が必須のものとなったわけである。最低レベルとして、このような理解は前提になる。

 縄文時代の人々の「精神世界」をどう理解すべきはかなり難しい。僕もよく判らないことが多いけど、その点は映画「縄文にハマる人々」(山岡信貴監督)が詳しい。最初は縄文土器にハマったトンデモ人間が多数出てきて、どうなるのかと思う。だんだんマトモな意見も出てきて、なかなか面白くなる。日本各地の縄文遺跡、縄文ミュージアムがいっぱい出てくるのも面白い。全然知らないところも多い。

 鹿児島の上野原遺跡(ここも見に行ったことがある)を除き、ほとんど西日本の遺跡が出て来ない。「縄文展」でもおおよそは「糸魚川静岡構造線」の東の出土品である。東日本に重要な縄文遺跡が集中しているのは、植生の違いが大きいと言われている。縄文時代の人口は、列島全体でおおよそ10万人だったとされる。あまりに過度な思い入れは危険だろう。
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カザルス・トリオ「大公トリオ」-「定番CD」の話②

2018年08月29日 22時34分10秒 | アート
 パブロ・カザルスの続き。カザルスに関しては、前に個人的なメールマガジンを書いていた時に取り上げたことがあった。何を書いたのかなあとふと思い出して、読み返してみた。そうしたら、カザルスの素晴らしい言葉を自分で引用していた。これは今も輝いている言葉じゃないだろうか。今こそ多くの子どもたちに読んでもらいたい言葉じゃないだろうか。

 子供たち一人ひとりに言わねばならない。
 君はなんであるか、知っているか?
 君は驚異なのだ。二人といない存在なのだ。
 世界中どこをさがしたって君にそっくりな子はいない。
 過ぎ去った何百万年の昔から君と同じ子供はいたことがないのだ。
 ほら、君のからだを見てごらん。実に不思議ではないか。
 足、腕、器用に動く指、君のからだの動き方!
 君はシェイクスピア、ミケランジェロ、ベートーヴェンのような人物になれるのだ。
 どんな人にもなれるのだ。
 そうだ、君は奇跡なのだ。
 だから、大人になったとき、君と同じように奇跡である他人を傷つけることができるだろうか。
 君たちは互いに大切にし合いなさい。
 君たちは-われわれも皆-この世界を、子供たちが住むにふさわしい場所にするために働かねばならないのだ。

 原文は詩ではなく散文なのだが、中身は詩みたいなので行分けしてみた。出典はアルバート・E・カーン編「パブロ・カザルス 喜びと悲しみ」という本(268頁)。原著は1970年に出て、1973年に新潮社から翻訳が出た。その後朝日選書で再刊された。(カザルスのこの言葉は、下嶋哲朗「沖縄・チビチリガマの“集団自決”」(岩波ブックレット)で知った。)

 事実上の自伝と言えるこの本には、興味深い言葉がいろいろ出ている。
 「過去八十年間、私は、一日を、全く同じやり方で始めてきた。それは無意識な惰性でなく、私の日常生活に不可欠なものだ。ピアノに向かい、バッハの「前奏曲とフーガ」を二曲弾く。ほかのことをすることなど、思いも寄らぬ。それはわが家を潔める祝祷なのだ。だが、それだけではない。バッハを弾くことによってこの世に生を享けた歓びを私はあらたに認識する。人間であるという信じ難い驚きとともに、人生の驚異を知らされて胸がいっぱいになる。」

 「私の記憶の糸をたどっていくと海に行き着く。私がほんの幼児だったときに、もう海を見つけていたと言ってもよい。あのときの海は、私が生まれたベンドレルの町の近くのカタロニアの海岸沿いの地中海だった。」
 
 若きカザルスは、ヨーロッパ各国の王室に招かれて演奏をする。スペインの王家にも庇護をうけるのだが、それでも彼は「共和派」であることを隠さない。スペイン共和制が実現し、カタルーニャに自治が認められた時代に、彼はカタルーニャの音楽文化運動の中心にいた。そして、スペイン内戦で祖国を離れた後、ついに帰国することはなかった。内戦から第二次大戦中(フランス領カタルーニャの寒村にいた)の劇的な話も熟読する価値がある。パブロ・カザルスは、20世紀を代表する音楽家の一人だが、それに止まらず、20世紀を代表する平和と民主主義の闘士だった。

 カザルスの名演はいろいろあるが、何といってもカザルストリオ(カザルス三重奏団)が素晴らしいと思う。これは、ピアノのアルフレッド・コルトー、ヴァイオリンのジャック・ティボーという3人で組んだ室内楽トリオである。クラシックにそれほど詳しくない僕でも、コルトーとかティボーという名はどこかで聞いたような気がする。そんな3人が組んだのだから、音楽史の奇跡と言われるのも当然だろう。1903年頃から、個人的な場で共演を始め、1905年に観客の前で演奏した。皆20代の少壮音楽家で、新しい試みに意気軒昂たる時代である。

 このトリオはその後30年ほど続き、1930年代初めに共演が終わった。もともと皆独自で活躍しつつ、時々室内楽を演奏していたわけで、正式に解散したわけではない。それぞれが大家となり別々の道を歩む時期になったとも言えるし、カザルスがスペイン共和制支援の活動に時間を取られたことも大きい。(コルトーがナチスに宥和的だったことにカザルスが反発したとも言われる。)とにかく、今はこのトリオがレコード録音に間に合うまで活動していたことを喜ぶのみである。

 村上春樹の「海辺のカフカ」を読んだときに、ベートーヴェンの「大公トリオ」を聞きたくなった。そういう人は多いと思うけど、そんなにクラシックに詳しくない僕は「大公トリオ」と言われても全く知らなかった。カザルスが弾いている廉価版のCDを買ってみたが、あまりピンと来なかった。ピアノがホルショフスキ、ヴァイオリンがヴェーグという人で、全く知らない。カザルスといったらカザルス・トリオだと知るようになって、カザルス・トリオ盤の「大公トリオ」も買ってみた。

 これはすごい。すごくいいではないか。優雅にして、心弾むような抒情。もう、紛れもない名演で、クラシックに詳しくなくても、聞けばすぐ判ると思う。やはり、カザルス・トリオはすごい。「大公トリオ」というのは、ベートーヴェンが1811年に作曲したピアノ三重奏曲。(ピアノ三重奏曲第7番 変ロ長調 作品97)ハプスブルク家のルドルフ大公に献呈されたので、「大公トリオ」と通称されている。ルドルフ大公はベートーヴェンのパトロンとして有名だった。

 僕の買ったカザルスのCDセットには、他にシューマンの「ピアノ三重奏曲」、メンデルスゾーンの「ピアノ三重奏曲」、ハイドンの「ピアノ三重奏曲」なども入っている。いずれも名演だなと思わせる録音で、大昔のモノラル録音だということを感じさせない奇跡の演奏だと思う。
(パブロ・カザルス)
 カザルスは音楽的には保守的な感性の持ち主で、20世紀の作曲家は認めなかった。シェーンベルクとかエリック・サティならまだしも、ストラヴィンスキーとかラヴェルも認めなかったらしい。何よりバッハ、そしてベートーヴェンという人で、それでいて政治的には熱狂的な共和派。だけどヨーロッパ各国の王室と親しいという人だった。しかし、何十年も立つと、とにかく名盤だけが残る。
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カザルス「無伴奏チェロ組曲」-「定番CD」の話①

2018年08月28日 22時21分55秒 | アート
 レアものに続いて「定番CD」の話を何回か。レコードの時に一番聴いてたのは、多分モーツァルトだと思う。ずいぶん持ってた。フォーク系の歌やポップス、歌謡曲、海外のヒット曲などももちろん聴いてたわけだが、大体ラジオやテレビで聴いてた。LPレコードを買うとなると、クラシックやジャズなどが多かった。モーツァルトのことも後で書くと思うけど、あんなに素晴らしくて天国的だと思っていた音楽だけど、年を取ったらバッハの方がよく聴くようになった。中でも、他のCDを圧して一番よく掛けてるのは間違いなく、パブロ・カザルスの弾く「無伴奏チェロ組曲」だ。

 パブロ・カザルス(1876~1973)は、スペインというよりカタルーニャに生まれ、ほとんど1世紀近くを生きてプエルトリコで死んだ。1936年に起こったスペイン内戦以後、フランコの軍事独裁に抗議して祖国を離れ、1955年からプエルトリコに本拠を置いた。僕は「パブロ・カザルスの芸術」という10巻組CDを持ってるぐらい。すべてすごいと思うけど、バッハの「無伴奏チェロ組曲」は中でも一番。聞けば誰でも「ああ、あの曲か」と思い当たるはずである。

 これほど素晴らしい曲が、カザルスが「発見」するまで数百年間全く埋もれていたのだという。バルセロナの楽譜屋でボロボロの楽譜をカザルスが見つけて、この曲の素晴らしさを皆に認識させた。チェロの弾き方のことなど僕は知らないが、カザルスは「現代チェロ奏法」の創始者であり、チェロ奏法の革命家なんだという。そのカザルスが発見して以来、最も知られたチェロの曲はバッハの「無伴奏」ということになった。永遠の名演奏である。

 カザルスの演奏を聞くと、バッハの祈りのような響きに心が洗われる気がする。世界はなんと崇高なのだろう、というような思いが心を満たす。しかし、ロシアの偉大なチェリストかつ人権活動家だったロストロポーヴィチの演奏を聞くと、同じ曲でもこれほど違うのかと感じるのである。何という華麗で荘厳な世界だろうか。心が洗われると言うより、心が豊かな喜びで満たされる感じ。

 どちらが上ということは言えない。どっちも素晴らしい名演だろう。でもよく聴くのはカザルスである。全部の曲を二人で聴き比べることは出来ないが、ベートーヴェンのチェロ・ソナタの3・4・5番に関しては、ロストロポーヴィチのチェロ、リヒテルのピアノというCDがあって、これだけは完全にロストロポーヴィチ盤の方がいいと思う。リヒテルのピアノが大きいとも思うが。

 カザルスには語るべきことが多いので、もう一回別に書くことにしたい。名盤はいくつもあるけど、「鳥の歌ーホワイトハウス・コンサート」という素晴らしい名盤がある。1961年に、ケネディに招かれてホワイトハウスでコンサートをした時の演奏である。85歳だった。ところが、カザルスにとって、これは初めてのホワイトハウス訪問ではなかった。なんと1901年にアメリカ演奏ツァーを行った時に、ホワイトハウスへ行っていたのである。大統領はセオドア・ルーズヴェルト。それから何と60年。20世紀の二つの世界大戦を経て、再びカザルスはホワイトハウスを訪れたのである。

 このときの演奏が今でもCDで出ている。メンデルスゾーン「ピアノ三重奏曲」から始まり、クープラン「チェロとピアノのための演奏会用小品」、シューマン「アダージョとアレグロ 変イ長調 作品70」という二つの曲をはさみ、カザルスの「おはこ」であるカタルーニャ民謡「鳥の歌」が収められている。クラシックは判らないなんて思う人もいるかもしれないけど、聞けばすぐに「世紀の名演」だと判る名演だ。ホント素晴らしい人だなあと感嘆する。
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「五日市憲法」発見から50年

2018年08月27日 23時03分18秒 |  〃 (歴史・地理)
 岩波新書の新井勝紘「五日市憲法」を中心に、「民衆史」の意義について簡単に振り返っておきたい。2018年8月27日は「五日市憲法」が東京都五日市(現あきる野市)の深沢家土蔵から「発見」されてから、ちょうど50年目の日である。その土蔵はかつて見に行って写真と記事を載せたことがある。(「『五日市憲法』を見に行く」2013年11月4日)土蔵などはそっちを見て欲しい。

 先の記事では、「色川大吉氏の発見」というように書いているけど、実際に初めて手に取ったのは大学生として土蔵調査に参加していた新井勝紘氏だった。(色川ゼミとしての調査なので、「色川氏の発見」は間違いではない。)何人かの学生で土蔵に入り、たまたま担当した「二階の左奥」の蔵から「日本帝国憲法」という文書が出てきた。1968年8月27日のことだった。

 その時は何も判っていない。起草者である千葉卓三郎という名前は誰も知らなかった。急に卒論テーマを変更することにして、学生だった新井氏が探索に駆け回る。その様子は「五日市憲法」第4章にくわしく書かれている。歴史探偵の醍醐味を味わえるところだ。千葉卓三郎の遍歴の歩みの中に、明治初期の青年の知的彷徨が表されている。子孫にも会えて史料を確認できたのは、実に奇跡的なことだ。これほどの史料発掘にめぐりあうことは滅多にあるもんじゃない。

 その出会いが新井氏の人生も変えてしまう。「五日市憲法」はその憲法草案を解説した本ではあるが、新井氏の歴史研究に賭けた青春の書でもある。そこが一番面白い。もともと1968年という年は、当時の佐藤栄作内閣が「明治百年」を国家的に顕彰しようとしていた年である。「明治」という時代は、政府が言うような「バラ色」オンリーの時代、民族の誇るべき時代なんだろうか。そのような問題関心から、自由民権運動を担った民衆を研究することになる。

 「五日市憲法」と通称されるのは、山奥の村で作られた「私擬憲法」の草案だった。「私擬憲法」というのは、政府に対抗して民間で作られた憲法案のことで、多くの民権結社が作ろうとしていた。しかし、それは非常に難しい試みである。今なら日本国憲法を初め世界中の憲法を参考にすることができる。情報はウェブ上ですぐ手に入る。でも、そういう情報がなかったら…。憲法というものを民衆が作ってしまうということの大変さは想像を絶する。

 その意味では「五日市憲法」には多くの限界もある。そのことは新井氏の本を読めばよく判る。急進的であることで言えば、植木枝盛のものが一番だろう。でもそれは思想家である植木だからできたことだ。植木案では死刑廃止が書かれているが、五日市憲法では「国事犯に限り死刑廃止」とする。それはそれですごいことだろう。「五日市憲法」は権利の保障などが詳しいことが特徴だ。植木案にある「抵抗権」などは確かにないのだが、それも突出した個人による草案ではなく、多くの民衆が草案作りに参加したことの現れである。

 僕は色川氏らの「民衆史」がなかったら、歴史の教員にはなってなかった。歴史は小さいころから好きだったけれど、当時は日本の歴史はヨーロッパを追っているものだとする人が多かった。日本の歴史の中に、それも歴史に埋もれた民衆の中に、これほどの試みが隠れていた。日本の歴史を学ぶことの意味が自分で判った気がした。安倍首相は自民党総裁選3選への立候補を、なんと鹿児島県で表明した。桜島をバックにして「薩長連合」などと言う。驚くべき歴史への鈍感さ。「明治150年」に読んでおきたい本だ。
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高石ともや「あわてなさんな」-レアCDの話⑤

2018年08月26日 23時11分32秒 | アート
 「レアCDの話」として書いてきたけど、「レア」はこれでオシマイ。音楽の話をそんなにするつもりはなかったんだけど、なんだかまだ話がある気がしてきた。「定番CDの話」を続けようかなと思う。まあ自民党総裁選とかトランプ政権の政策論なんかを、この酷暑の中で考えたくない。オウム真理教や死刑制度に関しては、また書きたいと思っているがもう少し涼しくなってからにする。

 レアCDはいろいろあるけれど、最近よく聴いてるクラシックは「定番」が多い。最後は若いころからずっと聞いてる高石ともやさんにしよう。今回取り上げる「あわてなさんな」は谷川俊太郎の詩に曲を付けた5曲をはじめ「イマジン」や「私のこどもたちへ」なんかが入ってる。アイルランドのバンド、ザ・サファリン・ゲールと組んだもので、自分はよく聴いてるわけだが、世の中的には「レア」だろう。1997年に出たものだが、高石ともや公式ホームページから購入できる。

 世代的に70年代の「フォークソング」系をいっぱい聞いてきた。「フォーク・ポッポス 黄金時代」という11枚組のCDも懐かしいからつい買ってしまったぐらいだ。3枚組の「高田渡BOX」とか加川良のCDもあるから、レアかもしれない。当時はあまり聞いてなかったけど、「五つの赤い風船」が今もなお新しい風に吹かれているような新鮮さを持ってると思う。

 そんな中で個人的に一番思い出があるのが高石ともや(1941~)。1960年代後半に関西フォークで活躍し、「受験生ブルース」や「想い出の赤いヤッケ」などがヒットした。岡林信康と歌った「友よ」も永遠に忘れられない心の灯火だ。だけど、経歴を見れば立教大学文学部卒業で、元は北海道から東京の大学へ入ったわけである。その縁で70年代後半には、立教大学のクリスマス行事で「高石ともやとザ・ナターシャー・セブン」のコンサートを毎年やっていた。

 その頃から聴いているけれど、活動の様子はだんだん変わってきた。70年代初期には渡米してブルーグラスなどに触れ、帰国してからは「ナターシャー・セブン」として活動。名前の由来は福井県名田庄村(現おおい町)に住んだから。アメリカや日本の土着の歌を探し求めて「107ソングブック」(レコード大賞特別賞)を作った。そのCD版も持ってるけど、これはレアものかもしれない。「私のこどもたちへ」「」「私に人生と言えるものがあるなら」「十字架に帰ろう」とか、時々無意識に口ずさんでいる歌は大体その107曲の中にある。

 82年にナターシャー・セブンのマネージャーがホテル・ニュージャパンの火事で死亡し、活動は停止。その後はマラソンやトライアスロンの選手としても活動。100キロマラソンやアメリカ横断などにも挑戦、「君はランナー」「孤独のマラソンランナー」「自分をほめてやろう」などランナーを歌った曲を多く作っている。「自分をほめてやろう」は有森裕子の言葉で有名になった。また三浦雄一郎のクラーク記念国際高校の校歌なども作っている。(通信制だけど北北海道から甲子園に出場したこともあり、甲子園で流れた。)そんなことを書いてるとキリがない。

 「あわてなさんな」には谷川俊太郎の詩が5曲ある。「一人ぼっちの裸の子ども」「ワクワク」はもっと前の作った曲だが、「父の唄」「あわてなさんな」「じゃあね」はこのCDのために作った。その年の年忘れコンサートでは谷川俊太郎がゲストで登場し、それこそワクワクする対談を繰り広げた。「じゃあね」は老いがテーマだけに、これから大切になってくる歌かもしれない。

 それから日本語訳詞の「イマジン」が入っている。これはオノ・ヨーコ公認の唯一の訳詞である。これはどう訳しているか、ぜひ確かめて欲しい曲。そして何度聞いても、こんな美しい歌があるのかと思う笠木透作詞・作曲の「私のこどもたちへ」。毎年年忘れコンサートで聴いてるから、僕にはレア感が全然ないけど、まあ最後はずっと聴いてる人を紹介するということで。個人的な思い出を書き始めると、いろいろあるのでここでは書かないことにする。
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中山千夏「ぼくは12歳」-レアCDの話④

2018年08月25日 23時02分58秒 | アート
 もう少し「レアCD」の話を。先ごろ映画「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ★アディオス」を見て、たくさん持ってたはずのCDをしばらく聞いてないなあと思った。どこにあるのか探してしまったが、10枚以上持ってたのにはビックリした。90歳を超えて人気者となったコンパイ・セグンドなんか、今ではレアものに入るかもしれない。他にもエストニアのジャズ・ピアニスト、トヌー・ナイソー・トリオのCDを2枚持ってる。これもレアだろうが、ジャズのことは詳しくなくて語ることがない。

 4回目には中山千夏の「ぼくは12歳」について書きたい。CDを持ってる人は少ないと思う。もっともレコードで持ってる人はかなりいるだろう。2回目で書いた高橋アキの兄である高橋悠治が作曲している。作詞は岡真史。名前を覚えている人はどれだけいるだろうか。在日朝鮮人作家の高史明(コ・サミョン、1932~2023)と世界史の教員だった岡百合子との子である。だが、12歳で自ら死を選んだ。彼の遺したノートが「ぼくは12歳」(1976)として出版され、大きな反響を呼んだ。

 高史明と言えば、「生きることの意味 ある少年のおいたち」(1974)を読んだばかりだった。今まで読んだ多くの本の中で最も感動した本の一つだと思う。これはちくま書房から「ちくま少年図書館」という子供向けシリーズの一冊として出た本である。日本児童文学者協会賞も得て大きな評価を得た。よりによってと言ってはなんだけど、どうしてあの感動的な本の著者に、一人息子の自死という悲劇が訪れなくてはならなかったのか。その悲しみをどう理解すればいいのか。

 僕はその辺はよく判らない。背景に何があったのか。今なら「いじめ」かと問題になるかもしれない。しかし、「ぼくは12歳」を読んで感じるのは、ひときわ感受性が鋭かった少年が世界と向き合っている姿だろう。「ひとり ただくずれさるのを まつだけ」といった、ある意味「絶唱」というべき言葉には心揺さぶられた。その詩集(のようなもの)に高橋悠治が曲を付けて、中山千夏が歌ったレコードが1977年に出された。(当時中山千夏と結婚していたジャズ・ピアニストの佐藤允彦もシンセサイザーで参加している。)僕はもちろんそのレコードも持ってる。

 レコードで持ってると、CDは買わないことが多い。だからレコードをいっぱい持ってたビートルズもCDでは持ってない。コルトレーンとかビリー・ホリデイとか、レコードでは時々聴いてたけどCDは買い直さなかった。「ぼくは12歳」のレコードを買ったのは、中山千夏にも高橋悠治にも親近感があったからだが、それ以上に岡真史という少年の言葉に深く魅せられていたからだ。でも聞いたからと言って何かが解決したわけではなかった。当たり前だけど。

 そのレコードが2006年にCD化された。DENONから紙ジャケットで発売されている。これを買ったのは、実は教材化できないかと思ってのことだった。「合唱構成 ぞうれっしゃがやってきた」や、きたがわてつ「日本国憲法前文」のように、授業で使えそうなCDという買い方もある。CDなら教室でも再生できる。実際にはなかなか難しくて、一回ぐらいしか利用しなかった。「ぼくは12歳」を21世紀の若い世代とともに聞くという授業は、誰かが試みて欲しいなと思う。
 
 それにしても、「ぼくはうちゅう人だ」や「ぼくはしなない」という言葉を残した少年に何があったのか。後者の後半では「ぼくだけは ぜったいにしなない なぜならば ぼくは じぶんじしんだから」(「じぶんじしん」には傍点つき。)と書かれていた。高史明氏はそののち、親鸞と浄土真宗に関する本が多くなる。そのことを含めて、僕にはまだどう考えるべきかよく判らない。
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映画「英国総督 最後の家」-印パ分離独立の悲劇

2018年08月23日 22時54分12秒 |  〃  (新作外国映画)
 イギリス・インド合作の映画「英国総督 最後の家」が公開されている。ちょっと内容が判らない邦題だが、1947年のインド・パキスタン分離独立を描く歴史メロドラマの秀作だ。日本ではあまり知られていないだろう、インドとパキスタン分離という歴史的出来事を描いていて貴重だ。英国支配下のインド総督は、こんなすごい邸宅に住んでたのかという映像も魅力。ヒンドゥー男性とムスリム女性の叶わぬ恋路もからませて、ウェルメイドな映画に仕上がっている。

 最後のインド総督はマウントバッテン伯爵で、第二次世界大戦のビルマ戦線で日本軍との戦いで知られた。総督就任の際、正式な名前で呼ばれるが、ルイス・フランシス・アルバート・ヴィクター・ニコラス・マウントバッテンという恐ろしく長い名前なので驚いた。総督就任時には、すでにインド独立は決定事項となっていた。しかし、インド各地で宗教対立による暴動、虐殺が相次ぎ、マウントバッテンは統一インドの独立を使命として派遣されてきた。1900年生まれとまだ若く、従来の総督と違って妻や娘とともにインド人と親しむ姿勢も見せた。

 そんなインド総督邸を舞台に、裏方で働くインド人たちがいる。ジート・クマールはラホールで警官をしていたが、デリーに出てきて総督邸に勤める。そこで総督令嬢の秘書をしているアーリアに再会する。アーリアの父が独立運動で捕らえられていた時、ジートが何くれとなく裏で助けていた。アーリアの父は獄中で失明し、デリーに出てくる。ジートはヒンドゥー教徒だが、ムスリムのアーリアにひそかに恋していた。彼女のいなくなったラホールを出てデリーに来たら、思いがけなく再会したのだった。アーリアには許婚者がいるが、二人の恋はどうなるのか。
 (ジートとアーリア)
 総督邸で働くインド人たちにも宗教対立が広がってゆく。マウンドバッテン総督もインド政界の有力者を相次いで招いて合意を探る。独立運動の父ガンディーはあくまでも全インドの統一を主張するが、初代インド首相となるネルーは今や分離独立やむなしとの立場に立っていた。全インドムスリム同盟の指導者、ムハンマド・アリ・ジンナーはイスラム教徒が少数派となると、アメリカの黒人と同じ運命になるという。イスラム教徒が多い地域がまとまって、「パキスタン」(清浄な国)を建国するという主張を変えない。マウンドバッテンもついに分離やむなしと決断する。

 そんな情勢を英国側、インド国民会議派(ネルー)、ムスリム同盟(ジンナー)、ガンディなどの立場を描き分けてゆく。ジンナーらが強硬で分離に至ったが、一千万以上の難民を生み、多くの人々が虐殺された。映画はそのような視点で描くが、パキスタンには違う視点もあるだろう。パキスタンでは上映禁止になったということだ。また英国が大戦中にジンナーの協力を得るために独立を認めていたという解釈を提示している。独立後のインド国民会議派政権がソ連寄りになったとしても、カラチ港を英国陣営で確保する目的もあったとする。必ずしも定説ではないらしいが。

 監督はグリンダ・チャーダ(1960~)という女性監督。ケニアでシーク教徒の家庭に生まれ、イギリスで学んだ。2002年の「ベッカムに恋して」で知られる。女の子だけどサッカーがやりたいというインド系女子を描いた快作で、世界でヒットした。マウンドバッテン卿は「ダウントン・アビー」などに出ていたヒュー・ボネヴィル。その他インド、イギリスの俳優が出演している。なぜか全員が英語を話している映画じゃないのがいい。リーダー層はKing's English だが民衆は違う。

 「パリは燃えているか?」で知られるノンフィクション作家、ラリー・コリンズ、ドミニク・ラピェールによる「今夜、自由を」などが原作となっている。この本は以前ハヤカワ文庫に入っていて読んだことがあるが、すごい本だった。インドとパキスタンが別の国だというのは、今や自明の前提になってしまったから、知らない人もいるかもしれない。でも、これがどんな大きな悲劇を生んだかはもっと知られるべきだろう。現時点で考えると、イスラム教と政治をめぐって考えることも多い。
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本田路津子「MY PORTRAIT」ーレアCDの話③

2018年08月22日 22時26分23秒 | アート
 本田路津子(ほんだ・るつこ、1949~)が「秋でもないのに」でデビューしたのは、調べてみると1970年9月のことだった。僕は本田路津子のベストアルバムを持っているけど、そこには「天使の歌声」「オリジナル・カレッジ・フォークのすべて」と書かれている。もう知らない人が多いかもしれないが、僕はその澄み渡る歌声にすぐに魅せられた。憂いを秘めた歌詞も好きだった。

 「秋でもないのに」って冒頭に明示されているんだから、秋じゃないに決まってる。でも「淋しくて黙っていると」「沈む夕日に魅せられて」という歌詞は何となく秋っぽい。つい秋になると口ずさんでしまうんだけど、あれ「秋でもないのに」って歌詞だったと気付く。いつの季節の歌なのかなあ? 若いころに聞いた曲は何となく体になじんでいて、時々知らずに口ずさんでいる。この前はハミングしてた曲が何だったっけと考え込んでしまって、数分経って浅田美代子の「赤い風船」だと気づいたときは我ながらビックリした。全然ファンじゃなかったのに、そんなこともあるんだな。

 本田路津子はその後も「風がはこぶもの」とか「一人の手」など素晴らしい曲を歌った。特に「風がはこぶもの」は山上路夫の傑作だ。「翼をください」も「瀬戸の花嫁」も…、70年代のヒット曲をたくさん作った山上だけど、この曲も忘れないで欲しい。そしてNHKの連続テレビ小説(朝ドラ)「藍より青く」(山田太一作)のテーマ曲「耳をすましてごらん」「藍より青く」を歌った。ウィキペディアで見ると、71年(一人の手)と72年(耳をすましてごらん)と2回続けて紅白歌合戦にも出場した。

 そんな本田路津子は、いまどうしているのか? そもそも「路津子」(るつこ)という名前が珍しいが、これは両親がクリスチャンで旧約の「ルツ記」から取ったという。そして桜美林大学聖歌隊で活躍し、「カレッジフォーク」としてプロ活動をした。カレッジフォークというのは、青山学院の森山良子ら大学生でフォークソングを歌った人のこと。アメリカのジョーン・バエズの影響が強かった。そして、本田路津子は75年に結婚して歌手活動を引退して渡米した。

 ウィキペディアでも、それまでのレコードしか書かれていないが、本田路津子はその後も活動している。それは教会を中心にした讃美歌、ゴスペルの歌手としてである。もともと特に信者じゃなかったが、結婚渡米を機にクリスチャンとしての生き方を選択したらしい。讃美歌などのCDも何枚もある。僕はその中の一つ、「MY PORTRAIT」を持ってる。「秋でもないのに」や「風がはこぶもの」も最初の方に入ってるけど、後半は讃美歌。歌声が素晴らしくて、僕のように信者じゃなくても心が清められる感じがする。銀座教文館の上にあるキリスト教用品店「エレンカイム」で見つけたんだけど、エレンカイムのウェブサイトからも買える。まだまだ忘れられていないのである。
 
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高橋アキ「ためらいのタンゴ」-レアCDの話②

2018年08月21日 22時31分17秒 | アート
 ピアニスト高橋アキ(1944~)が20曲のタンゴを収録したのが「ためらいのタンゴ」(2006)というCDだ。どこかで知って買ったら素晴らしかった。人に紹介したら、タンゴも聴くんですか? と誰かに言われた。タンゴは名前しか知らないけれど、高橋アキのCDだから買ったのである。「ためらいのタンゴ」はものすごく気に入って、今もよく聴いている。でもホントに一番聴いてる高橋アキのCDは、「ベスト・オブ・サティ」である。それじゃ、全然レアじゃないから「ためらいのタンゴ」にするけど。

 高橋アキと言っても知らない人もいるだろう。何でも弾いちゃう人だけど、エリック・サティを初めとして現代音楽に取り組んできた印象が強い。兄が現代音楽の作曲家高橋悠治で、夫が音楽評論家秋山邦晴(1929~1996)だった。現代音楽に詳しくはないけど、高橋悠治は80年ころに「水牛楽団」というバンドを作っていた。タイを中心に世界の民衆の抵抗歌を紹介する活動をしていて、僕も何回かコンサートに行っていたからよく知ってる。

 秋山邦晴も70年代に「キネマ旬報」に「日本の映画音楽史」を連載していて、名前はよく知っていた。その秋山邦晴、高橋アキを中心に、フランスの作曲家エリック・サティの連続コンサートを行っていた。今ではCMでも使われるサティだが、70年代にはまだまだ日本でも異端、調子はずれ、美しくないなどと思われていた。音楽に詳しくない僕が知ってるレベルの作曲家じゃないけど、音大に通ういとこに教えられ判ったふりしてサティを聞きに行っていた。

 ルネ・クレール監督の短編「幕間」はエリック・サティが曲を付けていて、上映と実演の試みは楽しかった。(お茶の水にあった旧日仏会館だった。)またサティには「ヴェクサシオン」という1分程度の曲を840回繰り返すことと指定されたピアノ曲がある。多くの人が参加して、渋谷ジァン・ジァンで夜から朝までそれを演奏するコンサートにも行った。高橋兄妹を初め、武満徹、林光、一柳慧など著名な音楽家が代わる代わる登場して、一人10分程度弾いて交代する。そんなコンサートで、豪華というかバカ騒ぎというか、若い時だから夜明けまでのコンサートに付き合ったわけだ。

 だから高橋アキさんはエリック・サティが似合うと思っていて、特にいつか新宿伊勢丹でやった「エリック・サティ展」で買った「The Best of SATIE」は繰り返し聴いてる。僕が一番聴いたCDかもしれない。チッコリーニとか他の人が弾くCDも持ってるけど、もう抜群に高橋アキのサティがいいと思う。僕の感覚に合ってる。その高橋アキが弾く「ためらいのタンゴ」だから、是非聴きたい。高橋アキのCDでも持ってないのはいっぱいあるのに、つい買ってしまったわけである。

 タンゴは全然知らないけど、これはタンゴなんだろうか? 僕もヨーヨー・マが弾いたピアソラは持ってる。アストル・ピアソラはタンゴの革命児らしいが、ヨーヨー・マのCDが話題を呼ぶまで全然名前も知らなかった。そのCDはものすごく素晴らしくて、完全に音に浸ってしまう。しかし、ピアソラはタンゴなのか? 定義はどうでもいいけど、そのようなクラシックやジャズにも影響された独特の現代音楽。それが「ためらいのタンゴ」の世界だ。実際、三宅榛名、近藤譲、西村朗などの曲も入っている。三宅榛名「北緯43度のタンゴ」という曲なんだけど、それもタンゴなんだろう。何度聞いても、どこに魅せられるのか自分でもうまく言葉にできない。そんなCDである。
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テレサ・テン「甜蜜蜜」-レアCDの話①

2018年08月20日 23時15分36秒 | アート
 猛暑は関東ではちょっと落ち着いたけれど、今年は6月に梅雨明けしてしまってからずっと暑かった。大分疲れた気がするので、いつもとちょっと違う記事を書いてみたい。数回続けて、僕の持ってる「レアCD」(というほどでもないか)のことを書きたいと思う。 

 と言っても、僕は今はあまり音楽を聴かない。よく電車でイヤホンして聴いてる人がいるけど、僕はそれができない。ウォークマンiPodも縁がなかった。音楽が嫌いなんじゃなくて、あるいは外界に注意していたいからでもなくて、要するに「身につける」ものがダメなのである。飛行機の無料イヤホンだって、少し聴いてると耳がこそばゆくなってしまう。そんな感じだから、僕に音楽を語るほどの知識も体験もないんだけど、それでも長い間にはいろんなCDを持ってるわけである。

 最初はテレサ・テンの「甜蜜蜜」(テンミミ)。テレサ・テンはもちろん名前は知ってたけど、このCDを買ったのはピーター・チャン監督の傑作メロドラマ「ラヴソング」(1996)を見たからだ。この映画の原題が「甜蜜蜜」で、映画のテーマソングになっている。他にもテレサ・テンの曲がすごく効果的に使われていて、完全に魅せられてしまった。

 映画を見るとテレサ・テンが中華圏の人々に持っていた大きな存在感がよく判る。1953年に台湾で外省人の子として生まれ、小さなころから天才少女歌手と呼ばれ、東南アジア一帯で大人気となった。1974年に日本での歌手活動を始め、日本でもスターとなった。80年代には「改革開放」下の中国本土でも人気に火が付く。映画「ラヴソング」では本土から香港に来た男女(レオン・ライとマギー・チャン)が、テレサ・テンが好きだということで惹かれあう。

 1989年5月27日、天安門広場で民主化運動が続けられていたとき、テレサ・テンは香港で民主化支援コンサートに顔を見せ、「我的家在山的那一邊」(私の家は山の向こう)を歌った。その後の「6・4」(天安門事件)の悲劇により、テレサ・テンが念願していた、両親が生まれた大陸本土でのコンサートは永遠にかなわぬ夢となってしまった。以後は体調を崩しほとんど活動をしないまま、1995年5月8日、タイのチェンマイで亡くなった。

 僕は「ラヴソング」が大好きなんだけど、書き始めると長くなるから止めておきたい。映画の中でテレサ・テンが出てくるが、映画製作時には亡くなっていたので、もちろん他の人が演じている。映画ではレオン・ライとマギー・チャンが何度も出会いと別れを繰り返す。テレサ・テンが亡くなったというテレビニュースを、二人がお互いに知らずに移住していたニューヨークの街頭で聞いていて運命的な再会をする。涙なくして見られないシーンだが、これを見ると「テレサ・テン」は単なる人気歌手というだけでなく、中華圏の人々の愛と苦難の象徴だったということが判る。

 その訃報シーンで流れるのが、「月亮代表我的心」(私の心は月が知っている)。情感あふれる素晴らしいラヴソングで、聴いているだけで昔のいろんなあれこれを思い出してしまう。僕にとって、そういう曲はタミー・ウィネット「スタンド・バイ・ユア・マン」(アメリカ映画「ファイブ・イージー・ピーセス」に使われた曲)とかジャニス・ジョプリンが歌う「ミー・アンド・ボギー・マギー」とか、いくつかあるけど、とりわけこの曲はアジア人の心に響くという感じ。スローなテンポが、あの頃ああすれば良かった、こうすれば良かったなどの思いを引き出してくるのだ。

 題名の「甜蜜蜜」は元はインドネシアの民謡だという。日本語題名「夢の中の幸せ」から判るように、夢の中で出会った幸福感を歌う。甜菜糖の「甜」と「蜜」二つだから、字面だけで大甘という感じの題名。映画でもうまく使われている。映画では他に「グッバイ・マイ・ラブ」と「長崎は今日も雨だった」も使われている。日本の歌も中国語で歌うと感じが違って、また素晴らしい。テレサ・テンのCDは他にも持ってるが、このCDが一番好き。今でもアマゾンでは昔のものを買えるようだ。有田芳生「私の家は山の向こう―テレサ・テン十年目の真実」(文春文庫)にも感動した。
 
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「錆びた滑車」と「検察側の罪人」

2018年08月18日 23時12分23秒 | 〃 (ミステリー)
 夏には読もうかと戦争関係の本に取り掛かると、数冊読むと今度はミステリーでもとなる。猛暑の中でそうそうマジメ本ばかり読んでられない。8月の文春文庫新刊で、若竹七海「錆びた滑車」が出た。いま日本のものでは一番待ち望んでる女探偵・葉村晶シリーズの最新刊。調布市仙川のシェアハウスに住んで(もうすぐ建て替えで出て行かないといけない)、週末は吉祥寺のミステリー古書店でアルバイトしている。その2階に「白熊探偵社」があり、葉村が探偵をしている。

 まあしかし、名前で判るように「一応やってます」感あふれる探偵社で、仕事はほとんどない。昔勤めていた事務所から時々仕事を頼まれるぐらいだ。今回はある老女の尾行を依頼され、田園調布から目黒、そこから渋谷に出て、京王井の頭線で三鷹台まで行く。三鷹台ってどこ?知らないので調べたら、吉祥寺、井の頭公園の次の駅だった。ここで出てくる地名は、東京23区の西部とその近縁ばかり。出てくる地名で、一番東は巣鴨あたり。東京でも東部に住む人間には全く土地勘がない。オシャレイメージの強い区部の西の方の、土着の人間関係が僕にはすごく新鮮だ。

 そこで老女が別の老女と争い、アパート2階から落下してきて葉村の上に落ちて来る。このように、なぜかあり得ないような不運にめぐりあう才能を葉村は持っている。文春文庫オリジナルで出た「さよならの手口」「静かな炎天」も大傑作だったが、今度の「錆びた滑車」も期待を裏切らない面白さだ。もう「仕事はできるが、不運すぎる女探偵」が不動のキャッチコピーで定着している。今回の文庫には初版限定付録で「シリーズガイド」が付いてて、葉村シリーズが全部判る。

 天から降ってきた老女、青沼ミツエとともにケガを負って病院に運ばれた葉村。そこでビックリすることを聞く。ミツエの息子と大学生の孫が少し前に交通事故にあって、息子は死亡、孫は一命をとりとめたものの大ケガを負って、同じ病院でリハビリ中。事故の原因は、最近よく聞く高齢者のアクセルとブレーキの踏み間違いらしい。死んだ息子の方は、ぼう大な蔵書をアパートの部屋を倉庫代わりにして残していた。葉村はその蔵書の整理を頼まれ、ついでにアパートの空き部屋に住んだらという展開に。もちろんそれで終わるわけはなく、なぜか事件が続発する。謎の本筋がどこにあるか、なかなか読めない展開が最後に見事に収束する。

 遊園地「スカイランド」が重要な役割を果たすが、これは「よみうりランド」。作中人物が言っているが、東京の東の人間はあまり行かない。地理的に「としまえん」や「後楽園ゆうえんち」が近いので、そっちに行く。もちろんディズニーリゾートは別格だが、「よみうりランド」は遠いなという感じ。ところで青沼親子はそこで事故にあったのだ。しかし、孫の方は死にはしなかったものの、事故当時の記憶をなくしていて、なんで自分たち親子がそんな場所にいたのかが思い出せない。それを突き止めたいというのが、とりあえず葉村への依頼のようなものになる。

 ミステリーを全部書くわけにはいかない。若竹さんの本は、特に最近素晴らしく面白い。ミステリー古書店のうんちく話も興味深い。今回は「ニューヨーク・ミステリーフェア」と「演劇ミステリーフェア」を開催する。巻末の紹介を読むと、ニューヨークのミステリーでローレンス・ブロックの泥棒バーニーのことは書いてあるけど、探偵マッド・スカダーのことに触れてない。僕にはまずスカダーものになるけど、ニューヨークならあれが抜けてるといくつか挙げられるだろう。それが作者の好みかもしれないし、読者への投げかけかもしれない。

 雫井脩介(しずくい・しゅうすけ)の2013年の作品「検察側の罪人」上下を続けて一気読み。原田眞人監督で映画化され、公開が近い。見る前に読んでおきたい方だから、早く読まないと。これはプロットだけで言えば、ものすごく面白い。ほとんど紹介できない筋書きだが、これは僕はいけないと思う。この設定はまずいと思った。木村拓哉二宮和也主演と大々的に宣伝しているから、顔が浮かんでしまって何だか脳内映画みたいな読書だった。検察官の世界を描くけど、ホント設定のトンデモ度はすごい。でも僕にとっては一線を越えてるとしか思えない。
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カタルーニャ映画「悲しみに、こんにちは」

2018年08月15日 21時17分12秒 |  〃  (新作外国映画)
 8月15日に「沖縄スパイ戦史」というドキュメンタリー映画を見に行ったところ、いっぱいそうで諦めた。いろいろと調べて、渋谷のユーロスペースでやってる「悲しみに、こんにちは」なら時間も大丈夫そうなのでそれを見たので、その感想。この映画のことを最初に知った時、今頃サガンのリメイクか? と思ってしまったのだが、よく見ると「悲しみに、」だった。この映画はスペイン映画だけど、多分「カタルーニャ映画」なんだと思う。学校の「国語」はカタラン語(カタルーニャ語)というセリフがある。僕にはセリフの言語は聞き分けられないけど、舞台はカタルーニャ。

 1993年、バルセロナ。両親を共に亡くした6歳のフリダは叔母一家に引き取られて、カタルーニャでも田舎の農村に住むことになる。そこには叔父、叔母とともに4歳の従妹アナがいる。この両親の死因は明らかにエイズで、まだ治療法もない不治の病視されて怖れられていた時代である。ただし、細かな事情は説明されない。両親のことだけでなく、大人のさまざまな事情は一切語られず、ただひたすらフリダの視点で世界を捉えている。

 だから劇映画というより、実際の子どもたちのドキュメンタリ-を見ている感じがするほどだ。まあすぐれた子ども映画はみんなそうだ。子どもはまだ自我を持たず、演技力を発揮して誰かになり切っているわけじゃない。この映画は女性監督カルラ・シモン(1986~)の長編デビュー作で、実話に基づいているという。自分の体験に基づいているとするならば、「子どもの目」で世界を語りたいというのはよく判る。大人の目で見れば、叔母も叔父も親切で分け隔てなく接しているように思う。姉を失って、その子を引き取るのも大変だ。

 でも、フリダからすれば、突然田舎に追いやられ母はいない。小さなアナは慕ってくれるが、接し方もうまく判らない。都会と違う田舎の自然の中では遊び方も違う。時々祖父母が会いに来てくれると、どうしても甘く接してしまう。洋の東西を問わず、孫には甘くなる。フリダからすると、時には厳しくもある叔父叔母には嫌われていると思い込み、夜中に幼い「家出」するシーンは心に残る。フリダ目線で進行するから、最初はよく判らないけど、だんだんフリダに感情移入するのである。悲しみに出会っても、このように生きていくのだ。

 とにかくフリダを演じるライア・アルティガスが超絶的に可愛い。アナも可愛いけど、フリダのちょっとしたしぐさが素晴らしい。かつてヴィクトル・エリセの「ミツバチのささやき」に出たアナ・トレントも素晴らしかったけど、今度のライアはもっと可愛い。もうイングリッド・バーグマン並みだ。すごい美人女優になることを期待したい。監督の目論見から、案外社会性はなくて、ひたすら子どもの世界を描き出すことに専念している。ベルリン映画祭で新人監督賞などを受賞。
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「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ★アディオス」

2018年08月14日 20時51分35秒 |  〃  (新作外国映画)
 世界的に大ヒットしたヴィム・ヴェンダースの音楽ドキュメンタリー映画「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」(1999)以来、早くも20年近くが経った。その映画はアメリカのミュージシャン、ライ・クーダーがキューバで出会った老ミュージシャンたちと演奏したバンド「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」の活動を追ったものである。もともと1997年にCDアルバムが大評判となりワールドツァーも行われた。しかし、その時のメンバーも寄る年波には勝てない。今度の「アディオス」は昔の貴重な映像も使って、もはや二度と現実には聴くことのできない彼らの音楽を永遠に残すものだ。

 今度の映画は、前の映画あるいは音楽に関心がないと十分には楽しめないとは思う。でも逆に「ブエナ・ビスタ」ファンには何ともありがたい貴重な映画だ。僕も20世紀末には相当にはまった方である。「キューバの歌姫」オマーラ・ポルトゥオンドが来日した時に聞きに行ったぐらいだ。もともとはキューバ音楽のことなど何も知らず、ヴェンダースの映画だから見とくか程度の気持ちだった。けっこうのんびりしてるし、まあこんなものか程度の感想だったんだけど、同行の妻が良かったと言ってCDを買ってきた。家でずっと聞いてたらはまってしまった。

 キューバ革命(1959)直前のキューバはバティスタ政権の独裁下にあった。アメリカ資本と結託し、多くの歓楽施設が作られた50年代こそ「キューバ音楽の全盛期」だという。しかしミュージシャンたちの多くは貧しい黒人やハーフで、差別にも苦しんできた。今回の映画の中でオマーラはポツンと言う。何で世界中でこんなに受けるんだろう黒人奴隷の苦しみから生まれたものなのに。今回の映画を見ると、前の映画以上にキューバ音楽の苦難の歴史が心に刻まれる。

 キューバは60年代は「革命の聖地」だったけど、やがて「現代から取り残された秘境」めいた場所になっていた。そんなキューバでライ・クーダーが見出したのは、音楽から長年遠ざかっていた高齢ミュージシャンたちの素晴らしさだった。コンパイ・セグンド(1907~2003)はバンド参加時点ですでに90歳。ずっと葉巻を吸い続け、ある時は葉巻職人として生きてきた。それでも素晴らしい歌声を披露して聴くものを驚かせた。あるいはイブライム・フェレール(1927~2005)は昔はソロを任せられず音楽から遠ざかったのに、その素晴らしい歌声は変わらなかった。このバンドに参加して、初めてソロとして歌って世界的な人気者になった。
 (オマーラとイブライム)
 オマーラ・ポルトゥオンド(1930~)は例外的にずっと活躍してきたが、かつては女性4人組に姉とともに参加していた。当時の映像が映画に出てくるが、ソロではなかった。革命後、姉は子どもたちをフロリダに逃がそうとして、結局自分も付いていくことになった。一人になったオマーラはソロで活動するしかなくなった。もともと黒人男性と白人女性の間に生まれ、多くの苦労をしてきた。そんなオマーラたちが招かれてホワイトハウスで公演することになった。オマーラと同じハーフであるオバマ大統領の新キューバ政策によって実現したのだ。

 そのようにアメリカとキューバの関係は前回の映画から大きく変化した。しかし、その間に多くのメンバーが亡くなった。オマーラは今もなお活躍しているが、もう87歳である。そう考えると、世紀末に始まった「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」というプロジェクトもこれでオシマイか。(なおクラブ名は、戦前に大人気だった黒人専用のダンスクラブから取られている。)そう思いながら見るせいか、至福の時間を過ごした。今回はヴィム・ヴェンダースは製作総指揮に回り、監督はドキュメンタリー作家のルーシー・ウォーカー(「ヴィック・ムニーズ ごみアートの奇跡」でアカデミー賞ノミネート)が務めた。キューバの風景や街並みも懐かしい。なぜか懐かしい彼らの音楽にふさわしい。
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今につながる日本軍の精神構造

2018年08月13日 21時57分31秒 | 政治
 「日本人兵士」「餓死した英霊たち」と2冊続けて読むと、多くの人はその無責任で身勝手な戦争指導に呆れ果てるだろう。そのような日本軍のあり方は昨今の日本社会をみると、今も変わらず続いているのではないだろうか。歴史に学ぶことなき社会は、同じことを繰り返して衰亡していくのではないか。どうしてもそんなことを考えてしまう。

 インパール作戦大陸打通作戦などは、軍事作戦として明らかにおかしい。その詳細は先の本で読んでもらうとして、ニューギニア作戦などはマトモな地図もなしに作戦が命令された。日本軍上層の作戦を立てた人たちは、「マトモ」だったのか。「バカ」なんじゃないかとさえ思ってしまうけど、もちろん彼らは陸軍大学校を優秀な成績で卒業したエリートなのである。では彼らはアメリカやソ連などのスパイであり、わざわざ日本軍が不利になるように仕組んでいたのか。

 そんなことさえ考えたくなるが、もちろんそうではない。同じことは現代の中央官僚にも言える。財務省の福田前事務次官のセクハラ問題をみると、なぜこの人が中央官庁のトップにまで出世できたのか不思議だ。あるいは佐川前国税庁長官の理財局長当時の国会答弁や文書改ざんなどをみると、財務官僚はホントに優秀なのか、わざと野党に有利なように仕組んでいるのかなどと勘ぐってしまう。でも、もちろんそんなことはなく、問題はむしろ彼らが「優秀」であり、「大真面目」であることにある。「優秀」の意味が違っているのである。

原発問題=後は野となれ山となれ
 太平洋の島々では多くの戦場で日本軍兵士が取り残され餓死せざるを得なかった。米軍の火力が圧倒的で移動も早かったからではない。すでに支配権が失われていて兵器も食糧も運び込めないのに、兵士だけは無理やり送り込むことを続けたのである。
 
 このように何の対策も講ずることなく、「後は野となれ山となれ」とただ継続するのは、原発やダム等に共通している。原発を稼働させれば必ず核廃棄物が出るわけだが、その処理をどうするかを放っておいて、ただ作り続けてきた。大事故後も世論に反して原発が維持されている。
教育政策=補給無視の難題押しつけ
 特に21世紀に入ってから、何の検証もない思いつき的政策が「現場無視」で上から降りてくることが続いている。「教員免許更新制」はその代表で、実施が決まった段階ではどこで何をするのか、文科省でも確たるイメージを持っていなかった。結局は大学等で行う「講習」を教員個々が自費で受講することになったが、当初は態勢が全然整ってなかった。

 「小学校の英語教育」や「道徳の教科化」も同様で、どこかで思いつかれた政策がどんどん実施される。現場負担が増えるのに、そのための手立てをしないまま進行する。「兵站軽視」は旧軍だけではなく、日本の教育政策につきものである。専門的な英語教育を受けて来なかった小学校教員が担当して、英語力が本当に伸びるのだろうか。そういった検討はされないのである。

 極めつけは小学校の新学習指導要領である。「やるべき学習時間」がその週の学習時間を上回ってしまった。学校現場の工夫で、朝や放課後を利用したり、夏休みを減らすとか授業時間を分割すればやれるという。ほとんど「インパール作戦」化してきたというべきか。無理難題を現場に押し付けて平然としているのである。

スポーツ界のパワハラ=「精神力」神話で合理的思考を無視
 スポーツ界にはびこるパワハラ体質は、今年明るみに出た問題だけでもずいぶん多い。それぞれ問題は多少違うが、スポーツ界に非合理的な暴力体質がはびこる側面があるのは確かだろう。それらは意識しているかどうかに関わらず、戦前の旧制中学校などに現役軍人が配属され「軍事教練」が行われたことと関係が深い。

 そもそも戦前の軍隊では戦場での勝敗を左右するのは「精神力」だという現実無視の思い込みがあった。そのため兵器の研究を怠り、明治38年に開発された「三八式歩兵銃」が正式装備というありさまだった。最近五輪や世界大会などで活躍している選手たちを見ると、海外留学で大きく成長したり、海外から指導者を呼んで成功したケースが多い。それなのに、今も「最後は大和魂で頑張れ」などと時代錯誤的なことを言う指導者が後を絶たない。
責任を取らない人事=旧軍から続く無責任体質
 旧軍、特に第二次大戦中の陸軍参謀本部の人事は疑問が多い。実際に作戦を立案した人々が、その作戦が失敗しても検証もなく責任も取らない。現場で指揮することもあるが、いつの間にかまた中央に戻る。今の日本でも、そのような人事は中央官庁だけでなく、裁判所や企業など随所に見られる。政策を作った人が現場で苦労することなく、失敗しても責任を問われない。

 それでも冒頭にあげた財務省の福田氏や佐川氏は辞任しなければならなかった。しかし、これほどの問題が続けて起こった組織の長である麻生財務相は辞めないままだ。今までに数多くの「失言」を繰り返した来た麻生氏だが、副総理という立場もあり辞めさせると政権基盤を弱くするからなのか、一向に責任を問われない。今回はさすがに辞任は避けられないかと思ったが、結局辞めていない。部下には責任があるが、最高のトップは責任を問われない。そんな組織の士気がどうなるか。安倍政権は旧軍に似ているのかもしれないが、余りにもひどすぎる。
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藤原彰「餓死した英霊たち」を読む

2018年08月11日 22時56分25秒 |  〃 (歴史・地理)
 吉田裕「日本軍兵士」に続いて、藤原彰餓死(うえじに)した英霊たち」(ちくま学芸文庫)を読んだ。原著は2001年に青木書店から出版されて、大きな反響を呼んだ。これはさすがに当時読んだと思うが、例によって探し出せない。1100円もするけど、藤原先生だから買ってしまうかと思った。「日本軍兵士」の抜群の読みやすさに比べると、学術書と一般書の中間ぐらいでやっぱり時間はかかる。それでも「日本軍兵士」を読んだ人は是非こちらにもチャレンジして欲しい。

 この本の内容は書名の通りである。第二次世界大戦における日本の戦没者数は約310万とされる。これは日本政府の調査に基づく公式の数となっている。このうち、軍人軍属の死者が230万外地での民間人死者が30万内地での民間人死者が50万となっている。この軍人の戦没者のほとんどは、食糧が尽きたことによる餓死や栄養失調による戦病死(事実上の餓死)だった。そのことを多くの死者が出た戦場を検討して証明した。その合計はおおよそ140万人に達し全体の軍人戦死者の中で6割ともなる。さらに「日本軍兵士」によれば、海没死者が35万人もいた。戦死と言っても、敵軍の銃弾によって死んだ者は圧倒的に少ないのである。

 ガダルカナル島(餓島と呼ばれた)、ニューギニア戦、インパール作戦、フィリピン戦線、中国戦線の大陸打通作戦…。一つ一つの戦場における悲惨な様相は今までにも多くの本が書かれてきた。それらを読むと、確かに戦争は悲惨であり、かくも大きな犠牲が出たのかと厳粛な思いにかられる。だけど、それらの戦場での死者のありようを分析し、合算して示したのは初めてだったと思う。その結果、およそ軍隊と称するには異様なまでの「餓死した兵隊」という実態が浮かび上がった。この本の結論は大きな衝撃を与えたものだ。

 もちろん敵弾で死ねばいいというわけではない。ガダルカナル戦では米軍が上陸し制空権を完全に掌握した後で、何度も部隊を送り込んでは全滅した。最初の一木支隊に始まり数度に及ぶ。十分な火器を備えた米軍に銃剣で突撃する日本軍。そもそも米軍が制空権を持つ中で、重火器や食糧を運び込むことができない。そんな軍隊が準備十分な米軍に向かって行っても何の戦果も挙げられない。最初から判るだろうに、それを何度も繰り返す。読んでいて、あまりにも愚なる戦争指導に誰しも腹が立ってくるだろう。ポートモレスビー攻略戦インパール作戦などでも繰り返された愚挙の数々を書いてると終わらない。是非本書で確認して欲しい。

 そもそも著者の藤原彰氏は当時の中国戦線の経験者だった。1922年に生まれ、府立六中(現新宿高校)を経て、陸軍士官学校に入学。1941年に卒業後、陸軍少尉として「支那駐屯歩兵第三連隊」に配属された。中国では大陸打通作戦という壮大なる愚挙に参加している。普通の中学を出て士官学校へ行ったこと自体、軍内では出世コースではなかった。幼年学校からの純粋培養組でないと出世できない仕組みの意味は後半で考察されている。敗戦後に東大史学科に入りなおして近現代史を研究した。そのような体験を持つ著者ならではの本である。
 
 第二章「何が大量死をもたらしたか」で追及されるのは、「補給無視の作戦計画」「兵站無視の作戦指導」「作戦参謀の独善指導」である。兵站(へいたん)とは、前線部隊を支援する軍事物資や食糧などの補給、兵員の移動などの総称で、英語ではロジスティックス(Logistics)。これがなければ戦えないはずが、日本軍は「精神力」で勝てるとされたから、兵站は軽視された。補給を担当する「輜重兵」(しちょうへい)は、そもそも兵の最下等とされ差別された。

 さらに第三章「日本軍隊の特質」では「精神主義への過信」「兵士の人権」「兵站部門の軽視」「幹部教育の偏向」「降伏の禁止と玉砕の強制」が分析されている。米軍は日本軍がいたすべての島を攻略したわけではなかった。重要地点を確保したら、次の作戦に移るので飛ばされる島が出てくる。制海権が失われているから、そういう島へはもう食糧の補給ができない。サンゴ礁の島では自給もできず、降伏は禁止されているから餓死するしかなかった。

 現代史に関心がある人には知られていることだが、このような愚なる戦争指導には特定の人物が関わっている。特に田中新一服部卓四郎辻政信の作戦課コンビは、ノモンハン事件で大敗北を喫したのに、いつのまにか復権し何度も何度も馬鹿げた強硬策を押し付けて日本兵の大量死をもたらした。読んでいて、多くの人が義憤にかられるだろう。日本軍がこれほど愚劣な組織だったことを全国民が知るべきだ

 この本は読んだはずなのに、細かい中身を忘れていた。最近読んだ「武士の日本史」だって、細かいことはもう忘れているほどで、17年も前の本なら仕方ない。でも「後方を担った馬の犠牲」の箇所で読んだことを思い出した。欧米ではすでにトラック輸送が主になっていたのに、日本軍は馬による輸送に頼っていた。戦地に連れていかれた軍馬の数は100万頭にも及ぶという。そしてその馬たちは、兵と違ってただの一頭たりとも復員できなかった。これほどの馬を農村から挑発したことによる農村の疲弊も大きかった。馬の犠牲も忘れてはいけない。(なお、題名の「英霊」は明治の新興宗教「靖国神社」の特定用語だから、本来はカッコを付けるべきだ。)
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