今までイランを中心に見てきたが、イスラエルや他のアラブ諸国(弾圧の続くシリア情勢やエジプト革命の行方、湾岸の王政諸国の動向)も見て行かなくてはいけない。でも、日本人にとってこの地域が判りにくいのは宗教の問題が大きいので、「イスラム教」の簡単な解説を2回ほど。
今「イスラム教」と書いたけど、実は最近の教科書は「イスラーム教」と長音を入れることが多い。大体、「イスラーム」とは「神に帰依する者」という意味とのことで、本来は「教」もいらないらしいけど、まあここでは慣例にそって「イスラム教」と書いてきた。僕が生徒だった頃は、イスラム教や西アジアの歴史はあまり教わらず、「イスラム教は他に2つの呼び方がある」などと教わったものである。「回教」と「マホメット教」というのだが、中国のムスリム(イスラム教徒)を「回族」と呼ぶ場合の他、もうそんな呼び方はしない。「回教」なんて言ってる人がいたら、もうそれだけで遅れてる。そして、「マホメット」という人も、もはや教科書には登場しない。「ムハンマド」で統一されている。日本語表記としては確立したと言っていい。ムハンマドが神の言葉を預けられ(だから、ムハンマドを「預言者」という。「予言者」にあらず)、その言葉をまとめた聖典が「コーラン」だが、これも「クルアーン」と書く教科書が登場してきた。(ウィキペディアでは「クルアーン」である。)
ということで、最近の教科書では、イスラーム、ムハンマド、クルアーンと書いてあったりするのである。用語の表記はともかく、問題は一神教の理解である。大分理解は進んできたので今では少ないと思うけど、ちょっと前まで「エホバの神」(ユダヤ、キリスト教の神、最近の表記ではヤハウェ)と「アラーの神」(イスラム教)とあって、神様が違うから争いがたえないなどと言う人がけっこういた。実際は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の「神」は同じである。「アラー」というのは、アラビア語。アルカリとかアルコールと同じく、定冠詞「アル」が付いているわけである。ムハンマドはアラブ人だから、神はアラビア語で語りかけたので「クルアーン」はアラビア語で書かれている。イランでもトルコでもインドネシアでも、アラビア語で学ぶしかない。「クルアーン」は神の言葉そのものということになるので、「聖書」や「仏教典(お経)」などのような、「大事ではあるけれど本の一種」というレベルのものではない。最近アフガニスタンで米軍が「クルアーン」を焼却すると言う事件があり大問題になっているが、それも「クルアーン」理解の不十分さがあると思う。世界で10億人以上の人が「神の言葉そのもの」と崇めているものを粗末にすることは許されないだろう。
さて、「旧約聖書」(この呼び方はキリスト教から見たものだけど)では、神は被造物として最初の人間アダムとイブを作った。その後人間は堕落して、大洪水で滅ぼされるが、「ノアの方舟」だけが救済された。箱舟以後の人類の中で、神は「アブラハム」を預言者として選んだ。このアブラハム(クルアーンでは、イブラーヒーム)こそがユダヤ人とアラブ人の共通の祖先と言うことになっている。アブラハムは神の啓示により75歳の時に「約束の地カナン」(パレスチナ)を目指した。しかし、嫡子に恵まれなかったため、85歳の時に「女奴隷のハガル」との間に「イシュマエル」が生まれた。しかし、100歳の時に90歳の妻サラが身ごもり「イサク」が生まれる。年齢がすごいけど、まあそれは大昔の話と言うことで。で、このイサクがユダヤ人の祖とされる。一方、イシュマエルの方がアラブ人の祖とされているのである。
その後、ユダヤ民族はいろいろあって、エジプトに逃れたり、「モーゼの十戒」のモーゼに率いられて「出エジプト」したり、王国を築いて栄えたり滅ぼされたりするわけだが、神が約束した「メシア」(救い主)はまだ出現していないと考えると「ユダヤ教」となる。一方、2000年ほど前のパレスチナに生まれてローマ帝国により刑死したイエスこそ、「神の子」として遣わされた救い主と信じると「キリスト教」になる。
一方、イスラム教の「クルアーン」によれば、「ヌーフ」(ノア)、「イブラーヒーム」(アブラハム)、「ムーサー」(モーセ)、「イーサー」(イエス)、「ムハンマド」が5大預言者とされる。しかし、神が人類に残した最後の言葉はムハンマドに伝えた「クルアーン」なのである。ということで、実はイスラム教はイエスをも預言者として認めているのだ。けれど、「クルアーン」(コーラン)の重要性こそがイスラム教の特徴というべきかもしれない。まずは一回目。
今「イスラム教」と書いたけど、実は最近の教科書は「イスラーム教」と長音を入れることが多い。大体、「イスラーム」とは「神に帰依する者」という意味とのことで、本来は「教」もいらないらしいけど、まあここでは慣例にそって「イスラム教」と書いてきた。僕が生徒だった頃は、イスラム教や西アジアの歴史はあまり教わらず、「イスラム教は他に2つの呼び方がある」などと教わったものである。「回教」と「マホメット教」というのだが、中国のムスリム(イスラム教徒)を「回族」と呼ぶ場合の他、もうそんな呼び方はしない。「回教」なんて言ってる人がいたら、もうそれだけで遅れてる。そして、「マホメット」という人も、もはや教科書には登場しない。「ムハンマド」で統一されている。日本語表記としては確立したと言っていい。ムハンマドが神の言葉を預けられ(だから、ムハンマドを「預言者」という。「予言者」にあらず)、その言葉をまとめた聖典が「コーラン」だが、これも「クルアーン」と書く教科書が登場してきた。(ウィキペディアでは「クルアーン」である。)
ということで、最近の教科書では、イスラーム、ムハンマド、クルアーンと書いてあったりするのである。用語の表記はともかく、問題は一神教の理解である。大分理解は進んできたので今では少ないと思うけど、ちょっと前まで「エホバの神」(ユダヤ、キリスト教の神、最近の表記ではヤハウェ)と「アラーの神」(イスラム教)とあって、神様が違うから争いがたえないなどと言う人がけっこういた。実際は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の「神」は同じである。「アラー」というのは、アラビア語。アルカリとかアルコールと同じく、定冠詞「アル」が付いているわけである。ムハンマドはアラブ人だから、神はアラビア語で語りかけたので「クルアーン」はアラビア語で書かれている。イランでもトルコでもインドネシアでも、アラビア語で学ぶしかない。「クルアーン」は神の言葉そのものということになるので、「聖書」や「仏教典(お経)」などのような、「大事ではあるけれど本の一種」というレベルのものではない。最近アフガニスタンで米軍が「クルアーン」を焼却すると言う事件があり大問題になっているが、それも「クルアーン」理解の不十分さがあると思う。世界で10億人以上の人が「神の言葉そのもの」と崇めているものを粗末にすることは許されないだろう。
さて、「旧約聖書」(この呼び方はキリスト教から見たものだけど)では、神は被造物として最初の人間アダムとイブを作った。その後人間は堕落して、大洪水で滅ぼされるが、「ノアの方舟」だけが救済された。箱舟以後の人類の中で、神は「アブラハム」を預言者として選んだ。このアブラハム(クルアーンでは、イブラーヒーム)こそがユダヤ人とアラブ人の共通の祖先と言うことになっている。アブラハムは神の啓示により75歳の時に「約束の地カナン」(パレスチナ)を目指した。しかし、嫡子に恵まれなかったため、85歳の時に「女奴隷のハガル」との間に「イシュマエル」が生まれた。しかし、100歳の時に90歳の妻サラが身ごもり「イサク」が生まれる。年齢がすごいけど、まあそれは大昔の話と言うことで。で、このイサクがユダヤ人の祖とされる。一方、イシュマエルの方がアラブ人の祖とされているのである。
その後、ユダヤ民族はいろいろあって、エジプトに逃れたり、「モーゼの十戒」のモーゼに率いられて「出エジプト」したり、王国を築いて栄えたり滅ぼされたりするわけだが、神が約束した「メシア」(救い主)はまだ出現していないと考えると「ユダヤ教」となる。一方、2000年ほど前のパレスチナに生まれてローマ帝国により刑死したイエスこそ、「神の子」として遣わされた救い主と信じると「キリスト教」になる。
一方、イスラム教の「クルアーン」によれば、「ヌーフ」(ノア)、「イブラーヒーム」(アブラハム)、「ムーサー」(モーセ)、「イーサー」(イエス)、「ムハンマド」が5大預言者とされる。しかし、神が人類に残した最後の言葉はムハンマドに伝えた「クルアーン」なのである。ということで、実はイスラム教はイエスをも預言者として認めているのだ。けれど、「クルアーン」(コーラン)の重要性こそがイスラム教の特徴というべきかもしれない。まずは一回目。