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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「同性婚」違憲訴訟ー注目される最高裁の判断②

2025年05月05日 20時07分38秒 |  〃 (社会問題)

 最高裁の判断が注目されるもう一つの裁判は、日本で法律上「同性婚」ができないことを憲法違反と訴える裁判である。「結婚の自由をすべての人に」訴訟と呼ばれている。日本の法律制度では「同性婚を認めないのは憲法違反だと認めよ」というだけの裁判はできない。そのため、同性どうしで婚姻届を提出し、それが各自治体で受け付けられないという事実を作って、それは憲法違反なので国家賠償を求めるという「国賠訴訟」をすることになる。高裁段階で「同性婚ができないのは違憲」という判断が相次いでいるが、今のところ賠償を認めるという判決はない。従って、形式上は「原告敗訴」であり、そのため原告側から最高裁に上告している。

 2025年の憲法記念日を前にした今崎最高裁長官の記者会見では、同性婚訴訟について「一般論」と断った後で「そうした事件は新たな視点や論点をはらむことも多く、裁判官には相当な力量が求められます。法的観点からの分析、検討はもちろんのこと、背景となる社会的な実体への理解は欠かせませんし、多角的な視点からバランスの取れた判断力も必要でしょう。要は裁判官としての総合力が試されるわけであり、そうした事件にも適切に対応するため、裁判官には、日々の仕事・生活を通じて、主体的かつ自律的に識見を高めることが求められます。」と答えている。大法廷に回付して、15人の最高裁判事による本格的憲法判断を行う決意を感じる。

 この訴訟は、2019年に東京、大阪、札幌、名古屋、福岡の各地裁に一斉に提訴された集団訴訟である。前回書いた生活保護をめぐる「いのちのとりで裁判」と同じく、直接的には自分と関係ないと思う人が多いかもしれないけど、今後の日本の人権状況を左右する重大な裁判だと思う。今まで地裁段階では3件の「違憲状態」、2件の「違憲」、1件の「合憲」判断が出て、高裁段階では5つの高裁がすべて「違憲」と判断している。同性婚の実現にはまだ時間が掛かるかと思っていたが、高裁でこれほど違憲判断が出てくるのは、社会意識の変化が大きいと考えられる。高裁の状況を見れば、同性婚の実現は遠くないと考えてもおかしくはないだろう。

 論点を簡単に書いておくと、まず憲法14条法の下の平等」、憲法24条1項(婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。)、憲法24条2項(配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。)、そして憲法13条(すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。)の4つになる。

 憲法13条に関してはなかなか認められていないが、福岡高裁2024年12月13日の判決でついに認められた。「幸福追求権」に基づく違憲判決は同性婚に止まらない大きな影響を与えるだろう。同性婚をめぐる論点に関しては、細かく書かなくても良いだろう。知りたい人は自分で調べて欲しい。(ただ賛成、反対というだけでなく、出来れば憲法上の論点を調べて欲しい。)同性婚や「選択的夫婦別姓制度」をめぐる議論を見ると、僕は若竹七海のミステリー『まぐさ桶の犬』という言葉を思い出してしまう。

 犬はまぐさを食べないのに、まぐさ桶で鳴くと牛や馬は怖がって近づけない。自分の得になるわけでもないのに、他の人が幸福になる(まぐさを食べられる)のをジャマするという意味だという。同性婚が認められなくても、自分にとっては特に困ったことはない。同時に同性婚が認められても、自分にとって損になることも全くない。世の中には同性愛の人がいて、法律婚が出来なくて困ったことも起こっているわけだから、同性婚が認められれば、世の中全体に「ハッピー」の総量が増えるだろう。だから、自分に切実な利害関係はないけれど歓迎するというのが僕の社会問題に関する考え方である。(選択的夫婦別姓も同様。)

 ただし、最高裁による判断が「違憲」となるかは判らない。今までの憲法9条訴訟などと同様に、「判断は国会に委ねる」という判断になる可能性もあると思う。何故なら、三権分立と言っても、憲法上は「国権の最高機関は国会」と定めているからだ。国会で法律を制定しない限り、同性婚は法律婚としては実現しない。その意味でも、裁判によって違憲判断を求めるとともに、国会での立法を求める運動とも「車の両輪」で進むべきだろう。しかし、日本社会は非常に速いスピードで変わりつつある。そのことを実感するのが、高裁段階で続く同性婚禁止規定違憲判決だ。

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生活保護基準引き下げ違憲訴訟ー注目される最高裁の判断①

2025年05月04日 19時44分12秒 |  〃 (社会問題)

 最高裁判所の判断が非常に注目される二つの訴訟について書いておきたい。最高裁は司法の最終判断だから、その内容は日本のこれからに大きな影響を与える。今までどちらかというと、ガッカリというか「人権の砦」とはとても思えない判決(決定)が多かった。しかし、この二つの裁判では高裁段階で「違法」「違憲」の判決が相次いで、それを受けた形で最高裁の判断が示されるのである。まず最初に書くのは、「いのちのとりで裁判」(生活保護基準引き下げ違憲訴訟)である。

 安倍内閣で行われた生活保護基準の引き下げをめぐって、全国29の裁判所でその違憲性、違法性を問う裁判が提起された。それらは「いのちのとりで裁判」と総称され全国支援組織が起ち上がっている。各地の裁判は1審段階では勝敗相半ばという感じだったが、高裁段階に至って各地で原告勝訴が相次いでいる。一番最初の2023年大阪高裁判決こそ原告敗訴だったが、2023年11月の名古屋高裁判決では原告勝訴(国賠請求も容認)の勝訴となった。2025年3月から4月には大阪、福岡、札幌、東京(東京訴訟)、東京(さいたま訴訟)、広島とあいついで原告勝訴(国敗訴)の判決が続いたのである。高裁の原告勝訴は11件中7件になる。

(各訴訟の状況)

 最初に判決が出された大阪訴訟(原告敗訴)と名古屋訴訟(原告勝訴)は、ともに最高裁に上告されている。結論が正反対なので、どちらかの判断が取り消されることになる。最高裁が原審の判断を取り消すときは、口頭弁論を開いて両者の言い分を聞く機会を作らなければならないと定められている。その口頭弁論は5月27日と通知されたので、もう間もなくである。論点は共通なので、その後相次いだ裁判を待たず、最高裁としての統一的な判断を示すと思われている。長い裁判もクライマックスである。

 今まで生活保護をめぐっては、憲法で保障された「健康で文化的な最低限度の生活」の具体的な水準をめぐって、幾つもの裁判が起こされてきた。ここでは詳しく触れないが、「朝日訴訟」「堀木訴訟」など戦後日本の人権裁判史に名高い訴訟が幾つもある。そして、それらの裁判の最新の取り組みが「いのちのとりで裁判」である。これは国が、2013年4月から3年間かけて、生活扶助基準(生活保護基準のうち生活費部分)を平均6.5%、最大10%(年間削減額670億円)引き下げたことが憲法違反や生活保護法違反にあたるとして裁判に訴えたものである。各高裁で違憲性は判断していないが、違法だったという判決が相次いでいるのである。

 論点は幾つもあるようで、先の裁判のリンク先を参照して欲しい。一点だけ挙げておくと「デフレ調整」の問題がある。当時は日本経済が「デフレ」とされ、確かに外食が値下げされていたものである。それに対して、「国は、670億円の削減額のうち580億円は「デフレ調整」によるものと主張しています。これは平成20年から23年にかけて「物価」が4.78%下落したのに合わせて生活扶助基準を下げたというものです。しかし、これは生活保護基準部会の検証を一切経ずに、厚生労働省が独断で「生活扶助相当CPI(消費者物価指数)」という全く独自の計算方式をつくりだして行ったもので、手続も内容も言語道断です」という。

 このように生活保護費引き下げは、厚生労働省が主導して行われた。それは野党時代の自民党があろうことか「生活保護費引き下げ」を公約に入れて、総選挙に勝利して与党に復帰したという事情がある。そのため「政治主導」の色合いが濃いのである。「下を叩く」ことで人気を高める「ポピュリズム」(大衆迎合)的な政治手法は、自民党が与党に復帰する役に立ったのである。その意味でこの裁判は「安倍政治を検証する」意味もある。選挙に勝ちさえすれば何をやっても許されるという「トランプ政治」は、日本で始まったのだ。日本社会の「法の支配」のためにも、何とか勝たないといけない裁判だ。

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映画『この星は、私の星じゃない』と上野千鶴子トーク

2024年09月17日 21時50分23秒 |  〃 (社会問題)
 8月7日に亡くなった田中美津さんを主人公にしたドキュメンタリー映画『この星は、私の星じゃない』(吉峯美和監督)の追悼上映を見て来た。アップリンク吉祥寺。今日は上野千鶴子さんのトークがあって、きっとすぐ一杯になるだろうと思ってチケット発売開始直後にネット予約した。そうしたら会員にならないと前売り券を買えなくなっていて、その手続きをする間にもどんどん席が埋まっていた。観客には高齢女性も多く見られたが、知り合いに取って貰ったりしたようだった。

 映画は2019年に公開されたが、その時は渋谷ユーロスペースのモーニングショーだったので見なかった。今回見たらとても面白い記録映画で、田中美津という「社会運動家」「鍼灸師」の生き方を見事に映し出していた。主に3つの側面から描かれるが、それは「今までの人生」「鍼灸師としての生活(子どもとの関わりを含め)」「沖縄・辺野古」である。田中美津は日本の「ウーマンリブ」の「伝説的リーダー」として知られるが、その生育歴に幼児の「性被害」があった。そのことを撮影当時も考え続けている。一方、沖縄で轢殺された女児の写真に衝撃を受け、辺野古への基地移転反対運動に通うようになる。沖縄へ通い「自分ももうすぐニライカナイへ行く」と語るのである。そのような姿が等身大で浮かび上がる。
(田中美津)
 一方で鍼灸師としての活動も描かれている。上野千鶴子も患者だと言っていたが、非常に実力のある鍼灸師だがとても辛い治療だという。「長鍼」を使っていて、見ていても痛そうだし患者さんも痛いと言ってる。だが上野さんによれば劇的に効くらしい。田中美津はリブ運動に行き詰まりを感じ、1975年にメキシコに出掛けたまま4年間帰って来なかった。その間に恋に落ち子どもが生まれたが、パートナーとは別れて帰国して、鍼灸学校に通ったのである。その子ども(男性)は40歳前後になっているが、映画撮影期間に鍼灸師の資格を取ったことが出て来る。家庭の領域が記録されているのは貴重だし、人間の諸相を考えさせられる。
(上野千鶴子)
 上野千鶴子さんは1948年生まれ、田中美津さんは1943年生まれで、5歳の差がある。100年後の人から見れば「同時代の女性運動家」に見えるだろうけど、戦争と高度成長、60年代反乱の激動の時代にあっては、この5年の違いは大きい。上野さんは京都大学に通ったので、まさに「大学反乱」の真っ最中である。しかし、大学へ行ってない田中美津さんは60年代初頭にはもう働き始めているたである。「ウーマンリブ」創世記には上野千鶴子はまだ学生なので関わっていない。しかし「後から来た者」の「特権」で、上野千鶴子は「日本のウーマンリブは、1970年10月21日(国際反戦デー)の女だけのデモで、田中美津が書いたチラシ「便所からの解放」を配布した時を以て始まる」と規定した。外来思想ではなく、日本の現実から出て来たとみなすのである。

 もっとも上野さんによれば、「田中さんは嫌な人」だという。田中美津いわく、「お尻をなでてくる男」がいたとして、「ウーマンリブは顔をたたき返す」「フェミニズムはそれってセクハラですよと言う」と言ったらしい。まあ、何となく言いたいことは判る気がするけど。そして上野千鶴子さんは吉峯監督にも聞きたいことがあるという。沖縄へ通うようになって、「聖地」と言われる久高島を訪れガイドを務める人から話を聞く。その時のガイドの言葉は上野さんによれば、ありきたりのもので「田中さんは霊的に筋が良い」とかは誰にでも言ってるに違いないという。そういう場面が必要なのかと問うのだが、監督は実はその時田中美津さんは説明を聞きながら寝てしまった、それが面白くて映像を残したというのである。

 僕も寝てるのかなと思ったが、上野さんは深く沈み込んで熟考していると捉えたらしい。やはり聞いてみるべきだと語っていたが、しかし田中さんが「せいふぁうたき(斎場御嶽)」も訪ねているし、久高島も訪れている。沖縄にスピリチュアルな関心を抱いていたのも確かだろう。そういう方向性と「鍼灸師」として「身体」に関心を寄せたことはつながっているのか。まあ、きちんとメモを取らず聞いていただけだが、「田中美津」という人間の魅力とフシギが後世に遺されて良かったなと思った。どのカテゴリーにするか迷ったが一応「旧作日本映画」にしておきたい。
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「TKB48」を知ってますか?ーより良い避難生活を目指して

2024年05月03日 20時50分35秒 |  〃 (社会問題)
 2024年は能登半島地震で年が明けたが、その後も台湾地震など大きな地震が起こった。四国(愛媛県南部)でも初めて震度6弱を記録する地震が起きた(4月17日)。死者が出なかったのは幸いだが、その分「激甚災害」の指定はない見込みで、被害があった人は自費で修理しないといけないから大変だという。激甚災害とは「激甚災害に対処するための特別の財政援助等に関する法律」により、大規模災害には国庫補助率のかさ上げや国による特別の貸し付けなどが行われる制度である。

 能登半島地震から4ヶ月経ったが、未だ避難所生活を送っている人が相当いる。水道の復旧が特に遅れていると言われる。それに当初の避難所生活は、トイレや食事が大変だったという話がよく聞かれた。「半島部」は交通が不便で、日本は地理的に離島、山間部、半島が多く、ある意味災害時は「そんなもの」で皆でガマンするべきものだと思い込んでいるかもしれない。
(TKBとは)
 ところが最近「TKB48」という言葉を聞いてビックリした。どうしても最初はどこかのアイドルグループかなと思ってしまう。あてはまる町の名前が思いつかないが、JKT48(ジャカルタ)なんてのもあるから、海外の町なのかなと思ったり…。だけど、これはトイレキッチンベッドの略なのである。災害地にトイレ、キッチン、ベッドを48時間以内に整備しようという目標である。それは行政頼りでは出来ない。もともと準備されていて、いざというときはヴォランティアが活動するのである。

 英語だからアメリカ発祥かと思うと、どうやらイタリアから始まったらしい。イタリアも地震大国で、大きな地震が何度もあったのを僕も記憶している。最初の避難所立ち上げは、市民がヴォランティア的に行うものとなっていて、行政が大々的な支援を行えるようになる前に一定の市民生活を送れるようにするのである。それは「災害時であっても、市民が普段営んでいる生活を保障する」という市民社会保護の考え方だという。
(災害時の高齢者向け介護施設)
 僕は聞いたことがなかったけど、日本でも多くの施設などでこの理念が広がりつつあるようだ。日本では二次避難、あるいは仮設住宅が出来るまで、雑魚寝したりするのが当然視されていないか。温かくないままの食事が続いても、あるだけありがたいと思ってないか。特にトイレが困ったという話をよく聞くが、それを「人権」の問題として意識しているだろうか。こう考えていくと、日本の避難生活が全く世界基準に達していないことが理解出来る。

 TKB48という言葉をもっともっと広める必要がある。知らない人も多いと思うから、是非広めていきたい。僕も最近聞いたばかりだが、福祉や行政の現場では知られているのかもしれない。だけど、一般的にはまだ知らない人の方が多いと思う。AKB48に似ているから、一度聞いたら忘れないだろう。もちろん言葉を知ることが目的ではなく、いざという時に自分も出来る範囲でヴォランティア的に避難所運営に関わるという気持ちが大切だと思う。仮設住宅を作るのは一市民では無理だが、避難所をすぐに作って運営するのは可能である。もちろん誰でも安心できるベッドやトイレが絶対に必要だ。
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映画『宮本から君へ』訴訟、最高裁判決の画期的意義

2023年11月26日 20時50分32秒 |  〃 (社会問題)
 映画『宮本から君へ』訴訟で最高裁判決が出た。この問題は映画に出演していたピエール瀧が薬物使用で逮捕・起訴されたことから、日本芸術文化振興会(芸文振)が内定していた助成金1千万円の交付を取り消したことの是非が争われたものである。11月17日に最高裁第二小法廷は助成金交付取り消しを「違法」とし、助成金取り消しは「表現を萎縮させる恐れがある」とする画期的判断を示した。製作会社スターサンズの社長河村光庸は判決を待たず訴訟中に亡くなった(2022年6月11日)が、映画のチラシにある「負けてたまるか」を実践するかのような大きな意義を持つ判決が出されたことを喜びたい。

 この訴訟は製作会社スターサンズが取り消し決定の取り消しを求めて2019年12月20日に提訴したもので、一審東京地裁は2021年6月21日に芸文振の措置は違法として取り消しを命じた。しかし、二審東京高裁は2022年3月3日に決定は適法として訴えを棄却したため、原告側が最高裁に上告していた。原判決を取り消すために必要な弁論が開かれていたので、二審判決が破棄されることは想定していたが、これほど明確なメッセージが出て来るとは思わなかった。判決が出たのはちょうど退院した日で、この問題を書くのが遅くなったが、忘れないうちに記録しておきたい。
(故河村氏の写真を掲げる四宮隆史弁護団長)
 一審判決が出たときには、『映画「宮本から君へ」から君へー助成金不交付訴訟、勝訴から控訴審へ』を書いたが、二審逆転判決の時はガッカリして書く元気が出なかった。最高裁はどうせ二審判決を維持して終わってしまうだろうと思い込んでいたのである。それなのに最高裁第二小法廷が4人全員一致で原判決破棄、再逆転判決を出したことには正直驚いた。日本は文化予算が他の先進諸国に比べて非常に少なく、その中で特に演劇、バレエなどの舞台芸術、映画製作などでは芸文振助成金の持つ意味が非常に大きい。他にないのであって、新劇や独立プロ映画はこの制度で維持出来ているといっても良いぐらいだ。

 製作会社のスターサンズは『かぞくのくに』『新聞記者』のようなキネマ旬報ベストワンや日本アカデミー賞最優秀作品賞を送り出してきた。菅義偉首相(当時)を取り上げた『パンケーキを毒味する』など安倍・菅政権に「忖度なし」の製作を続けてきたため、助成金取り消しは「狙い撃ち」ではないかとまで言われた。製作当時は知らなかった俳優(それも脇役)の不祥事を理由にして助成金を取り消されたりしたら、自由な映画作りが難しくなるのは間違いない。

 芸文振は「公益性に反する」として助成金を取り消したが、最高裁判決は公益性を理由に取り消す場合には「公益性が害される具体的な危険性がある場合に限られる」と判断した。その上で、助成金を交付してもピエール瀧が利益を受ける立場ではないから、「助成金を出しても芸文振が『国が薬物犯罪に寛容である』との誤ったメッセージを発したと受け取られることは、出演者の知名度や役の重要性にかかわらず、想定しがたい」とした。常識的な判断だろう。
(映画のチラシ)
 映画『宮本から君へ』は傑作だった。異様な熱気を持って、不義に立ち向かう池松壮亮の姿が忘れられない。ピエール瀧は「敵役」側の方であり、この映画を見て薬物犯罪に寛容だと思う観客はいないだろう。むしろ「立ち向かう」ことの大切さを描くメッセージが、裁判を通じて完結した感じがする。誰かが難癖を付けそうな企画に勇気を持って取り組む人が今に日本では少なくなっている。故河村氏が遺したといっても良いこの判決は、芸術に関わる多くの人に勇気を与えるだろう。
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初の憲法13条違反ー「性別変更に手術要件」は違憲

2023年10月30日 22時01分12秒 |  〃 (社会問題)
 最高裁大法廷(戸倉三郎裁判長)は、10月25日に「性同一性障害特例法」の一部規定を憲法違反と判断する決定を下した。最高裁における違憲判断は12例目で、21世紀になって7例目。最近時たま見られるとはいえ、そうお目にかかれるものではないから、ここで記録しておきたい。僕も小法廷は傍聴しているが、裁判官15人がそろう大法廷は見たことがない。時には1年に1回もないのである。今回は大法廷に送付された時点で違憲判断を予想できたわけだろうが、2019年に合憲判断が出ていたから、僅かな期間で逆転するのかとも思った。(ちなみに、今回は「家事審判」に対する判断なので、「判決」ではなく「決定」である。)
 (大法廷)
 僕はトランスジェンダーの問題にそれほど詳しくなく、この法律をめぐる争点をどう理解するべきか判らない点も多い。にわか勉強して書いても間違うから、ここでは違った観点から書いておきたい。今回は初の憲法13条違反の判断なのである。その事の意味は後で書くが、まず今回の決定は「手術要件は違憲」という点で、15裁判官全員一致だった。ただし、性同一性障害特例法では性別変更に5要件があり、そのうち「外観要件」は判断されなかったので、高裁への「差し戻し」となった。3裁判官は「外観要件」も違憲と判断する少数意見を書いている。ただ、「憲法違反」という判断が15裁判官で共通だったことはとても重い判断である。

 それは原告の置かれた状況がよほど過酷で同情すべきものだったということだ。今までの違憲判断を見てみると、議員定数の配分をめぐる問題など純粋に憲法解釈上の問題もあるが、個別事例の救済のために違憲判断がどうしても必要だという場合が多い。刑法の尊属殺人罪違憲判決や地裁段階だがハンセン病違憲訴訟(熊本地裁判決)など、裁判官が憲法違反と判断しない限り「気の毒な事情を持つ原告」を救済する手段がないのである。そこで裁判所は違憲立法審査権という伝家の宝刀を抜いたのである。

 この判決を批判する人もいるが、決定文をきちんと読んでいるのだろうか。法が手術を要件とすることがいかに過酷な人権侵害となりうるか。裁判所が判断を変えたのは、決定を読む限り日本内外で行われてきた多くの人々の努力の結晶だと思う。「社会状況の変化」と題された部分では、法務省、文部科学省、厚生労働者などの取り組み、東京都文京区の条例、世界保健機関(WHO)や欧州人権裁判所などの判断などが紹介されている。その結果として「性同一性障害を有する者に関する理解が広まりつつあり」と判示されたのである。この間の内外の取り組みに背を向けていた者は、この判断を受け入れられないのだろう。
(性同一性障害特例法の5要件)
 僕はこの決定は極めて重要な判例になるのではないかと思っている。今までの違憲判断は、その半数が憲法14条(平等権)に関わる判断だった。ところが先に書いたように今回は「憲法13条違反」が認定されたのである。

 「憲法十三条」=すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする

 「個人の尊重」「幸福追求権」などと言われるが、いかにも抽象的である。むしろ「公共の福祉」を理由として、権利の侵害を合理化する規定になってきたのが実情だ。今までは「法の下の平等」を理由とした裁判は、ある程度裁判で勝利することがあった。しかし、「個人の尊重」を訴えた裁判(外国人指紋押捺制度訴訟など)では、「公共の福祉」のためとして合憲判断がされてきたのである。それに対し、今回は「自己の意思に反して身体への侵襲を受けない自由は、人格的生存に関わる重要な権利として憲法13条で保障されている」と決定冒頭で判示されている。

 これは教育、福祉、医療などの現場でも「使える判例」ではないだろうか。日本各地で現に困っている人、困窮している人、理不尽な扱いを受けている人にとって、単にトランスジェンダーの性別変更問題に限らない、重要な人権擁護の先例が切り開かれたと思う。今後も憲法13条を「武器」にした闘いが全国各地で起こされるだろう。ひとりひとりが自分に「個人の尊厳」「幸福追求権」があるということを銘記して生きていきたいと思う。
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関東大震災100年、「虐殺事件」と日本国家

2023年09月01日 22時19分58秒 |  〃 (社会問題)
 関東大震災関連で、8月31日から9月2日頃にいくつかの集会が予定されている。参加する気でいたのだが、猛暑続きのうえ諸事雑事に追われていて、何だか行く気が失せてしまった。昨日も関連記事を書くつもりが、どうも疲れて頭がはっきりしないなと思って止めた。それに自分が昔書いた記事を読み直すと、それ以上のことは今では書けないなと思った。

 それは、2017年8月から9月に書いた「関東大震災時の虐殺事件」に関する4回の記事である。
①『福田村事件
②『王希天と中国人虐殺
③『亀戸事件
④『朝鮮人虐殺

 これは当時として、知名度の少ないだろうと思った順番に書いたものである。「福田村事件」は劇映画になったので、知名度は高くなったと思う。これは明らかに「朝鮮人と間違われた」ことで起こったと考えられる。そのような事件は数多く、日本人でも沖縄出身者や障害者などで殺された人は相当数いたとされる。しかし、②の中国人虐殺は朝鮮人と間違えられたものではなかった。明らかに中国人労働者を狙って虐殺したのである。中国人労働者のリーダーだった王希天も狙って殺されたのである。

 もちろん亀戸事件(現在の江東区、当時は南葛飾郡)で殺された労働運動家、社会主義者たち、あるいは9月16日に起きた大杉栄伊藤野枝らの虐殺も狙って殺された。大杉らの事件に関しては、震災当日から2週間以上経っていて、「大震災の混乱の中で虐殺された」という認識では理解出来ない。他にも刑務所にいた社会主義者を引き渡すよう軍が要請したとか、個人的に警察に付け回されたなどの証言もある。日本政府が全体として、大地震をきっかけにして社会主義者、あるいは朝鮮独立運動家などを「始末」する計画を立てていたというと言い過ぎになるだろう。だが間違いなくそう考えていた人が存在したのである。

 それは1917年のロシア革命、1922年のソ連成立、同じく1922年の「第一次共産党」結成、あるいは1920年に始まった「メーデー」集会などが背景にある。支配層からすれば、日本にも「赤化」の恐怖が「ひたひたと迫っている」と見えたのである。これはもちろん日本の社会主義運動を過大視している。でも、何事も始まりの時はちょっとした出来事でも大げさにとらえるものだ。(全然問題が違うが、新型コロナウイルス流行の初期を思えば判るだろう。)

 いま関東大震災を総括するとき、単に揺れや火事だけを語るのは一番重大な問題を外すことになる。当時の多くの体験者が共通に語っているのは、むしろ「自警団の恐怖」の方だ。これもコロナの時に起こった「自粛警察」を思えば、理解出来るだろう。政治家はこの機会に当たって、この問題こそ語らなければならない。その点、東京都の小池都知事は在任期間を通じて、全く逆の言動を行ってきた。その結果、虐殺事件の碑の前で「ヘイトスピーチ団体」が集会を開くような事態にまでなってしまった。
(小池都知事の震災対応)
 「すべての犠牲者を追悼する」という言い方は、もちろん判っていて発言しているのだろうが、「虐殺事件」の重みを相対的に低下させる役割を果たしている。2022年秋には、よりによって東京都人権部が関東大震災時の朝鮮人虐殺に触れた映像作品の上映を禁止した事件が起こった。何しろ都の人権啓発センターの責任者が「都ではこの歴史認識について言及していない」「朝鮮人虐殺を『事実』と発言する動画を使用することに懸念がある」と伝えたという。東京都の職員のレベルはこんなものだとは知っていたが、これでは都知事発言の表面的意味を逸脱している。(ということは「真の意味を暴露している」ということか。)
(東京都の「検閲」を批判する人々」
 日本政府自体の問題ももちろんある。残された史料は無数にあることを知っていて、「政府として調査した限り、事実関係を把握することのできる記録が見当たらない」などと松野官房長官が述べている。これを見れば「調査」したというのだが、いつどんな調査をしたのか。ちょっとマジメに調査すれば、あちこちに記録は残っている。何しろ、中国政府は日本政府に公式に抗議したし、検察官はいくつかの自警団や大杉ら殺害の甘粕憲兵大尉らを起訴している。おざなり的な裁判だったけれど、日本国が公式に裁判をしたのだから、いくつかの記録はあるはずだ。(空襲で失われたり、隠ぺいされたものも多いとは思うけれど。)

 もちろん当時の日本政府は、きちんとした調査をしなかった。それは虐殺事件が「民衆が勝手に暴走した」というものではなかったことを逆に証明していると思う。そして、そのような政府が継続している。「殺した側」が権力を持ち続けているのだ。
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関東大震災100年、自分の歴史の中で

2023年08月30日 23時15分14秒 |  〃 (社会問題)
 2023年9月1日は、「関東大震災100年」の日である。この日は「防災の日」になっていて、大規模な防災訓練が行われる日である。この由来を知らない人が半分近いという調査結果が載っていた。なるほど、そんなこともあるだろうと思う。
(NHKの特集ページ画像)
 東京の多くの学校は、9月1日が2学期の始業式である。自分が学校に通っていた頃は、始業式、大掃除に続いて、ホームルームで通知表を返したり宿題を提出した頃になると、サイレンが鳴り響いた。「地震が発生しました」と放送があって避難訓練になるのが決まりだった。鞄を持ったまま集合して、そのまま下校となったと思う。今じゃ夏休みを短縮したり、始業式後にすぐ授業を始めたりする学校もあるようで、それでは防災の日の由来も知らない子どもが出て来る。

 僕の生徒時代から、「東京ではもうすぐ大地震が起きる」とずっと言われてきた。東京で起きたそれ以前の大地震としては、1855年の「安政江戸地震」が知られている。水戸藩の学者、藤田東湖が圧死した地震である。そこから関東大震災まで約70年。同じ時間差で起きると仮定すれば、20世紀末にも大震災が起きる可能性がある。少し早めに起きる場合もあると考えると、70年代後半頃から危険性が増大するというわけである。

 それからすでに半世紀近く経ち、まだ東京を再び襲う大地震が起きていない。結局は「相模トラフ」が原因である関東大震災と直下型地震の安政江戸地震では、起きる原因が違っていたということなんだろう。いつでも大地震が起きる可能性は日本中どこでも否定出来ない。しかし、「何年ごと」と決めつけられる問題じゃないんだろう。
(関東大震災震源地)
 自分は教員生活のほとんどを東京東部の中学、高校で勤務してきた。そこは関東大震災で多くの犠牲を出した地域である。火事で何万もの人が亡くなり、同時に朝鮮人、中国人の大規模な虐殺事件が起きた地域でもある。授業では関東大震災ばかり教えるわけにはいかない。だが、やはりきちんとした理解をしておかなくてはと考え、今まで「周年」ごとに行われた集会には出来る限り参加してきた。特に70周年80周年の時は高校に勤務していたから「日本史」や「現代社会」の授業と直結する課題でもあった。

 東日本大震災以前だから、若い世代にはもう東京に大地震が起きたという実感がない。その22年後の「東京大空襲」で再度東京が大規模に破壊されたからだ。そっちの記憶もずいぶん薄れているけれど、まだ「戦争」の方が語り継がれている。マスコミでも取り上げられていたし、教師側からしても「戦争」の方が重大なテーマである。

 だから、つい関東大震災は「そんなこともあった」程度で済ませてしまいがちだ。当時の子どもたちの作文など直接的な史料をどう生かすかが大事だと思う。僕が忘れられないのは、「魔法の絨毯」というのはこれかと思ったという感想である。地震直後の縦揺れに驚いたのである。ちょうど昼時だったので大火災となったことも教訓。これは今も全国で生きていると思う。大火災で巻き上げられた紙類が焼けて千葉県側に降り注いだ。「黒い雨」は関東大震災でも降ったのである。

 その後の「虐殺事件」をどう認識するか。これはなかなか難しい。男は皆兵役の義務があった時代である。日本は日清、日露、第一次世界大戦と10年おきに戦争をしていた。戦場で「活躍」した「勇士」が町のあちこちにいた。かれらは「在郷軍人会」として組織化されていた。「町を守る気概」にあふれた男たちが「殺人を公認された」と思い込んだのである。

 当局も「公認」したわけではないだろう。だから、後に刑事裁判にもなっている。だけど、それらは非常に緩やかな刑罰に終わっている。政府もまとまった調査を行わなかった。今に至るも、何度も野党側や弁護士会などから要求されているにもかかわらず、ちゃんとした調査を行わない。調査を行わないから、「記録がない」などと平気で言っている。(当時植民地だった朝鮮は別にしても、独立国だった中華民国民の虐殺事件に関しては記録が残っている。)

 インドネシアで1965年に起きた「9・30事件」では、軍・警察ともに民衆が共産党員を多数虐殺したと言われている。記録映画『アクト・オブ・キリング』を見ると、これも殺人を「公認」されたと思った人々が、国を守るための「愛国」行為として実行したのである。悪いことをしたとは全く思っていない。日本で1923年に起きたことも、それと同様のケースと思われる。

 結局、外国人も「同じ人間である」という認識は、それまで生きてきた様々の体験の中で人権感覚が養われているかという問題だろう。単に震災時にデマに惑わされないということではなく、日常の生活の中で「いじめ」「差別」などにいかに対処していくかという問題だと思う。
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世界では戸籍のない国が圧倒的ー戸籍制度考②

2023年08月20日 22時05分43秒 |  〃 (社会問題)
 世の中には「夫婦別姓」を認めると、最終的に「戸籍制度」が廃止されて「共産主義」になるかのように言ってる人がいる。いや、ウソじゃなくて本当にいるらしいから驚きだ。じゃあ、そのような「極右」勢力は何故「マイナンバー制度」に大反対しないのだろうか。僕には全く不可解である。

 世界では「戸籍制度」がある国はほとんどないのが実態である。「戸籍」がないと困るだろうと思うかもしれない。だが、それでやっていけているんだから、工夫すれば何とでもなる。調べてみると、欧米の主要国は「個人番号」を使っているのである。(そして、写真付きの個人番号カードなどほぼない。)個人番号とは、「国家が国民を個人として認識する」ということだ。「戸籍」というのは、「国家が国民を家族の集合体として認識する」ということである。両者は反対概念で、だから「マイナンバー」を導入した以上、戸籍をなくすのが正しい方向のはずだ。

 実際にそういう主張をしている人が存在する。カードをどうするかの問題と別に、すべての国民に識別番号を付けているのだから、家族戸籍は要らないはずなのである。もちろん「住民登録」(または「外国人登録」)は必要だ。国民として選挙権を行使したり、教育や福祉などの住民サービスを受けるためには、居住自治体に登録する必要がある。問題は「家族関係」をどう確認するかである。だが、現実にいま児童手当を新たに申請するときに戸籍謄本は要らないようだ。「住民票」で事足りるのである。(子ども自らは申請できないので、同居する親が申請するわけだから当然だろう。)

 世界では東アジアの数カ国にしか戸籍制度(のようなもの)はないらしい。日本以外では、中国台湾には似たようなものがある。韓国にもあったが、2007年末で廃止された。廃止された理由は、憲法裁判所で「両性の平等を定めた憲法に違反する」という判決があったかららしい。戸籍の代わりに「家族関係登録」が新たに作られた。日本の「戸籍」は戦前には「戸主」のもとにすべての家族が登録されていた。戦後はそのような家族制度はなくなったが、それでも誰か「戸籍筆頭者」が必要だ。また親が結婚していない子どもは「子」と記載されるなど、現行の日本の戸籍制度も「法の下の平等」に反しているのではないか。

 どうして東アジアに「戸籍」があるかというと、もともと上記画像のように古代中国で始まったからである。前漢王朝頃から作られたらしい。これは人民把握を「共同体単位」ではなく「戸」(家族)単位で行うわけで、一定の歴史発展を反映したものだろう。もちろん徴税や徴兵などを行いやすくするための制度である。日本でも同じような目的で、古代王朝で作られ始めたが、日本の現実を反映したものではなかった。律令制度のタテマエで作られたという性格があり、やがて絶えてしまった。それが近代になって、再び徴税、徴兵のため戸籍が作られたのである。

 僕は戸籍は不要だと思う。先に述べたような「両性の平等」という観点もあるが、それ以上に現実に不便なのである。子どもが生まれたときは、親の戸籍に入る。親も誰かの子どもだから、生まれた時は祖父(または祖母)の戸籍に入っていたわけだ。それの繰り返しで、結婚した時点で親の戸籍から除籍されるが、同じ住所に新戸籍が作られる。この間、同じ住所に何代も住み続けている家族などいないだろう。特に60年代以後の高度成長で、日本では農村から都市へ大きな人口移動が起こった。でも住民票は移しても、戸籍はそのままという人が多いだろう。その結果、全然住んだことがない自治体に戸籍がある人も多いだろう。

 人口減の中で、住民でもない人間の戸籍を管理する自治体も大変だ。いざという時、取る方も大変である。高齢化が進み、子ども世代からすれば、親の親にさかのぼるが、祖父母になると名前もよく知らないかもしれない。未婚や子どもがいない場合も多いし、子どもがいても海外に住んでいるケースもこれから増えてくるに違いない。それ以上に、親が100歳まで生きていたりすると子どもが先に亡くなる場合も多くなる。長寿でめでたいとばかりは言えなくなってくる現代である。「相続」のための事務手続きを可能な限り簡単にしておく必要があるのである。もう一回実践編を書きたい。
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「入籍」と「婚姻」の違いー戸籍制度考①

2023年08月18日 22時35分58秒 |  〃 (社会問題)
 「マイナンバーカード」及び'「マイナ保険証」を考えていく中で、「戸籍制度」を考えてみたい。本来、「マイナンバー」と「戸籍」は重大な関係にあるはずだが、日本ではそういう認識さえほとんどないのが現状だ。そして、まさにいま自分にとっても大問題。「相続」では、どうしても「戸籍謄本」を何通か取らざるを得ない。そのことについては次回に書きたい。

 まずは「羽生結弦選手の入籍」に関して。「プロ・フィギュアスケーター」というか、「元フィギュアスケート選手」というべきか、とにかく冬季五輪で2回連続して金メダルを獲得した「羽生結弦」選手(本来なら難読人名だが、誰でも読めるだろう)が「結婚」したと報道された。それが8月4日で、何でもその日はおめでたい日だそうだ。藤田ニコルもその日に結婚した。

 その日は「一粒万倍日」にして「天赦日」、かつ「大安」なんだという。「大安」というのは、確かに昔から聞いていた。しかし、「一粒万倍日」なんて最近になるまで聞かなかった。「天赦日」に至っては、今回初めて聞いた。昔は「大安」「仏滅」「友引」などの「六曜」は「迷信」だと多くの人が言っていた。こういう迷信は近代化した日本では無くすべきだと言われていたが、結局無くならなかったのである。これも「僕らの敗北」かもしれない。

 さて、そういう「おめでたい日」の発表なんだから、羽生結弦選手はこの日に「結婚」したのだろう。しかし、羽生選手の発表では「入籍」としか書かれていない。普通は「結婚式」をするとか、「結婚記者会見」を行うものだ。あるいは、相手に関して報告するか、または「相手は一般人なので、名前などは発表しない」旨の断りをするか。それら一切の発表が何もないから、いろんな憶測もないではないようだ。当日発表のコメントを以下に添付するが、確かにこれでは「結婚」なのかどうかも不明である。

 昔はよく「結婚」のことを「入籍」と表現していた。その後、事実として「入籍」は間違いなので、近年はあまり使わないようになってきたと思う。結婚した場合、親の戸籍を脱して自分(たち)独自の戸籍が作成される。だから、結婚の場合はどちらかと言えば「出籍」という方が正しいだろう。というか、「出籍」したあとに「創籍」するのである。それまでの戸籍には、○○と婚姻届提出のため「除籍」と書かれる。名前の欄には大きく「×」印が書かれるのである。
(結婚した場合の戸籍)
 じゃあ「入籍」というのは何だろうか。それは「養子」に入った時である。それはいわゆる「婿養子」ではない。法的に家族制度は無くなっているので、「婿」も「嫁」も今はない。結婚した夫と妻は同じ姓を名乗る決まりで、それは新しい姓ではダメなので「夫または妻の姓」にすることになる。それはともかく、本当の意味で誰かの「養子」になる場合、「養親」の戸籍に入ることになる。自分より年少者の養子になることは出来ないが、1歳でも上回っていたら家族間でも(兄や姉の養子でも)可能である。

 結婚相手と同じ戸籍になることを、「同じ戸籍に入る」と表現して「入籍」と呼ぶ風習がいつの頃からか出来たのだろう。それは「同じ戸籍に入れない」場合、つまり「同性愛者」などを排除することになる。だから、僕は「結婚」を「入籍」と表現するのは、もう止めた方が良いと思っている。「婚姻届を提出した」と言えば良いのではないか。なお、羽生選手の事情について、僕は特に知りたいわけじゃない。普通なら、相手は誰だとワイドショーなんかで大騒ぎになるだろうが、世界中にファンが多い羽生選手の場合、安易に騒ぐと「炎上」しかねないので放置されているらしい。

 誰にもプライバシーの権利があるから、本人が秘しておきたいなら探す必要もないだろう。そういう有名人も増えてきたと思う。子どもの有無、性別等も公表しない人が多くなってきた。逆に子どもの写真などをたくさんSNSに挙げていると、こっちの方が心配になったりする。そういう時代が良いか悪いか。もう僕にどうしようもないけれど、羽生選手のケースを取り上げて「入籍」と「結婚」の問題を書いてみた次第。
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「革命」の論理から「人権」の論理へーわが左翼論⑦

2023年05月21日 22時43分03秒 |  〃 (社会問題)
 書き途中になっていた「わが左翼論」を書き終えてしまいたい(後2回)。これは「自分史」を振り返るということであって、だから書きにくい。若い頃には漠然と将来何になりたいといろいろ考えるが、自分の場合は動物学者、考古学者、映画監督などに憧れを持った時期もあった。だけど故あって、最終的には「歴史を学ぶ」ということを選択したのである。その時の「」は書き出すと長くなりすぎるので、ここでは書かない。

 若い時には「世界を理解すること」と「世界を変革すること」との異なる方向の望みがあった。「世界を理解する」と言っても、僕の場合は「宇宙の果てはどうなってる」とか「脳の仕組みを解明したい」という方向には向かわない。「第二次世界大戦はなぜ防げなかったのか」とか「欧米以外でなぜ日本だけが工業化に成功したか」などの問題である。この二つは(当時としては)日本近現代史を考える時に、まずぶつかる大きなアポリア(難問)だった。

 日本の歴史を考えていくと、「日本は歴史のスタンダードを作った側ではなかった」ということに気付く。日本は古代には中国文明を、近代にはヨーロッパ文明を受容して「国」を作ってきた。世界の流れをうまく「日本化」したという表現も可能だろうが、近代の標準である「民主政治」とか「人権宣言」は日本発のものではなかった。そのことを僕は「恥ずかしい歴史」だと思っていた。

 だから若い時には「革命」を求める心理があった。18世紀段階までさかのぼると、世界は独裁的な強権体制の国ばかりだった。そういうところでは、人々に「革命権」があると思っていた。独裁者が自分から譲歩することはない。虐げられた側が闘うことなしに、権利は獲得できない。だから、「革命が世界史を発展させた」と考えたわけである。

 個別の革命を考えると、確かにその多くは「起こらざるを得なかった」理由がある。それに「革命」とはガラガラポンの大変革だから、若い時には魅力的である。若い頃は何でもかんでもぶっ壊したいのである。僕も柳田学の「常民」概念を知っていたわけだが、歴史としては変化の少ない時期よりも、大々的な変革期の方が興味深かった。その意味では「革命幻想」のようなものを持っていたのである。その革命幻想をイメージ化したのが、ドラクロワの「民衆を導く自由の女神」だ。
(ドラクロワ「民衆を導く自由の女神」)
 日本の歴史の中に、このような「自由の女神」を探すこと。いないとしても、革命への可能性を探ること。そういう憧れのような「革命幻想」が、いつどのようにして自分の中から無くなったのだろうか。一つ大きかったのは、革命の現実、特に同時代の中国で起こっていた「文化大革命」(文革)のとらえ方が大きく変わったことである。
(文化大革命)
 文革はその当時は情報が極端に少なかったうえ日本国内に「中国派」がかなりいたこともあり、ある種の「革命幻想」を僕も持っていたのである。その実相が判ってきたのは、文革終了後かなり経ってからだ。基本は毛沢東による奪権闘争だったと思うけど、毛沢東の呼びかけで党組織そのものを攻撃したため、社会に無秩序が広がった。それだけでなく、共産主義の名の下に恐るべき「差別」「人権無視」が出現したのだった。「革命」とは実に恐るべきものなのである。

 もう一つ自分にとって大きかったのは、政治犯や冤罪者の救援運動に関わったことがある。同時代の韓国の民主化運動には大きなシンパシーを持った。日本史の中に探ってなかなか見つけられなかった、民衆による反軍事政権運動が眼前に展開されていた。そして韓国独裁政権は学生、文学者、宗教家などを逮捕し重罪を科そうとしていた。また、日本から留学していた「在日コリアン」の人々多数がスパイ罪で拘留されていた。日本でも活発な救援運動が展開されたが、僕が最初に参加した「集会」は韓国政治犯救援運動だった。(有楽町そごう=現ビックカメラ7階の読売ホールだった。)

 その時点では「政治犯」というのは韓国とかソ連の問題だと思っていた。それ以外の(報道されない)国は目に入ってなかった。また日本にはおおよそのところ問題はないと思っていたのである。その後次第に知っていくのだが、実は日本の刑事司法は先進国では最低レベルだった。そして数多くの冤罪事件もあり、無実を訴える死刑囚も数多くいるのだった。本を読んでみると、免田事件、松山事件、島田事件などは明らかに有罪とは考えられなかった。しかし、その時点ではマスコミ報道は全くなかった。

 その後実際に冤罪救援運動に関わることもあったが、その中で問われたのは最終的には「裁判官を説得する論理」をいかに構築するかである。支援運動は裁判所に提出する文書を作成するわけではないが、署名呼びかけ文などを作る時には論理性が求められる。ただ「無実だから裁判をやり直せ」と言うだけでは、何も成し遂げられない。大げさな物言いは逆効果でしかない。

 大状況をあれこれ言うよりも、個別の人権事件を少しでも解決したいと僕が思うようになったのは、そういう冤罪問題から来たものだと思う。そこで改めて歴史上のいくつかの革命を考えてみると、そこで起こった恐るべき混乱、流血の大惨事、文化破壊は今ではとても認められないなと思った。フランス革命は昔過ぎるけれど、ドラマティックと言うより恐怖の革命である。ある時期まで歴史の画期とされていたロシア革命もそこで起きたのは混乱と流血で、最終的に独裁政権の誕生で終わったと評価軸が変わった。

 もっとも当時のフランスやロシアには、全国民が参加する普通選挙制度はなかった。しかし、現代の日本には「普通選挙」と「基本的人権」が保証されている。それを考えると、「革命」の必要性はもはやないだろう。「革命」が必要なのは、そのような強烈な破壊エネルギーなくして前進出来ない構造がある場合だ。「革命」反対派を押し切ってでも強引に進めることが要求される。だけど、現代では「反対派」にも言論の自由が保障されている。反対派の言論・表現の自由を圧殺してまで行うべき「革命」とは何か。

 そこまでの価値がある「革命」なんて現代にはないのである。今は個別ケースで「人権」が保証される方が優先されるのではないか。これは「闘い」が不要になったという意味ではない。保証されているはずの人権も「不断の努力」なしにはなし崩しにされて行くだろう。だから「人権のための闘い」というのは永遠に続く。だがすべてをぶっ壊せば上手く行くというような「革命」は、今では傍迷惑でしかない。

 むしろ「革命思想」には、革命幻想にすべてを委ねる「お任せ」的発想がある。それが革命運動家に「家父長的指導者」が多くなる原因でもあるだろう。革命さえ起こればすべて(女性問題、環境問題等々)は解決するのであって、現行制度の中で個別の問題を解決するより「まずは革命を起こすことが優先」だなどと言う人が昔は本当にいたのである。だから、今では僕は「革命の論理」を離れて「人権の論理」に立つのである。
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「紛争」は何を遺したのかー『学生反乱』を読んで④

2023年05月11日 22時34分52秒 |  〃 (社会問題)
 『学生反乱』を読んで考えたことを4回も書くとは自分でも思わなかった。僕にとって経過を書くことではなく、その後に遺したものは何かということが大切なのである。ただ「仏文科人事問題」や「村松問題」は今では知らない人が多いだろうと思って、是非紹介したわけである。登場する人も多士済々で、戦後史の一コマとしても興味深い。

 さて、その後文学部のカリキュラムは全面撤回に追い込まれ、全学ストも決議された。そのまま夏休みになったが、秋になって最終解決に向けて動き出してゆく。学生の多くは本気で「革命」を考えているわけではない。一部セクト学生は別として、4年生の大部分は卒業、就職に困る事態は避けたい。一方、大学側も入試中止は絶対に不可である。国立の東大と違って、私学は受験料、入学金がなくなってしまったら経営破綻である。学生も全員がバリケードに立て籠もるわけではなく、授業がないならアルバイトに精を出すとか自宅でノンビリするものも当然いるのである。そういう事情が背景にあって、次第に解決の機運が高まっていく。

 文学部教授会は自らの課題を「現代社会における人間学の再創造」と位置づけ、学生対象のシンポジウムを開催した。カリキュラムも作り直し、新規登録を推進した。10月7日に総長の所信表明集会も開かれた。高橋秀氏はこの時、総長の脇に立ち続ける野口定男学生部長の姿を印象的に記録している。中国哲学が専門の野口氏(日本文学科教授)は、他大学の学生部長がどんどん変わる中、紛争期間の学生部長を務めきった。野口氏は野球部初め多くの体育部の監督をしていて、後に日米野球の立ち上げにも関わった。酒豪で知られ、立大卒業の歌手、高石ともやさんが懐かしそうに回顧する話を聞いたことがある。

 この間、機動隊が2回キャンパスを捜索に入ったが、大学が要請したものではなく抗議している。11月11日には文学部集会が開かれ、多くの学生が参加した。中にはメモを取る学生もいて、高橋氏は「今回は行けそうだ」と思ったという。そして12月15日の授業再開が告知された。最後まで封鎖されていた6号館は、1970年1月3日に「六号館封鎖解除教職員行動隊」により、解除された。一部学生は抵抗したが、対立セクトの襲撃と思ったらしい。4階の最後のバリケードを突破したのは法学部の高畠通敏氏と高橋秀氏だった。残っていた16人は、神島二郎法学部長が説諭したあと教職員の車で都合の良い駅に送ったという。(周囲には機動隊がいたようだが、警察には突き出さなかったのである。)
(封鎖解除直後の六号館)
 この時の「紛争」は文学部に何を遺したのだろうか。まずは「研究室」である。それまでは「一人一室の教員の個人研究室」と「『大研』とよばれている助手・副手のつとめる学科事務室」からなっていたという。それが改革により、「学生のための読書室」「事務室に代わる資料室」が設けられたという。いやあ、そうだったのかとビックリした。その後しか知らないから、大学はそんなものとしか思っていなかったけど、それは「改革の遺産」だったのである。この読書室には歴史系の学術雑誌が置かれていて自由に読めた。授業の合間などに皆よく利用していたし、僕も毎日のように顔を出したはずだ。

 また本書には書かれていないが、カリキュラム改革も進められた。もっとも「内示集会」が開かれたとあるが、それは記憶にない。ただ、「学科単位」ではない「全学科共通科目」が設けられていた。例えば、新一年生には「共通基礎購読」(確かそんな名前)が置かれ、全員が何かに所属して指定された本をめぐって教師と一緒に議論した。学科ごとではなく、他学科の教員や学生と一緒なのである。希望・調整の結果だと思うが、僕は日本教育史の寺崎昌男先生(教育学科)の講座で非常に大きな刺激を受けた。寺崎先生はその後東大に移籍したが、定年後に桜美林大学を経てもう一回立教学院本部に戻ってきたようである。

 また夏休みを利用して、4泊5日の宿泊合宿「集中合同講義」(たしかそんな名前)もあった。テーマが設けられ、それに沿って各学科、および他学部からも教員を呼び、合宿討論するのである。テーマをめぐって深い議論を交わすのも面白かったが、最大の眼目は普段なら接しないかもしれない他学科(学部)の教員に接したことである。また他学科の学生と知り合う機会でもあった。場所は八王子の大学セミナーハウスだったが、後に見田先生の講座でも何回も使うことになる。

 そこでの面白いエピソードは幾つもあるけれど、私的な思い出だから省略する。この集中講義では教員も学生も学科を交えて討論した。つまり紛争時に問われた「学科セクショナリズム」を越える試みとして受け継がれていたと思う。実際に僕も他学科の教員に大きな影響を受けた。また他学部の単位も(限定があるが)卒業単位と認められていた。僕もそれを利用して、高畠通敏先生の「政治原論」とか住谷一彦先生の「社会思想史」などを取ったのである。それはともかく、ここでも単なる専門だけではなく幅広く「人間学」を学べる制度が整備されていたのである。
(「六人組」の人々)
 僕はこのような「改革」を遺した当時の教員たちに大きな影響を受けてきた。特に渡辺一民先生は「文学部改革推進のためには運動の成果の制度的定着による永続化が是非とも必要であると強く主張した」と松浦氏は指摘している。60年代の「政治の季節」は何も残さず消え去ったと思われている。だが立教大学では、小さいかもしれないがこれらの改革が残されたのである。それらを推進した人々は、その後も「同志」意識を持っていた。その「六人組」の写真を載せておくことにする。

 当時の立教大学にもセクトの活動はあったと記憶するし、当局側によるロックアウトも時たま行われた。学生自治会は学生大会でリコールされて、そのまま再建されなかった。そのような代償はあったわけだが、他大学のように「機動隊の実力行使による正常化」という国家権力への屈服や「一部セクトによる暴力支配」は基本的にはなかった。その方向に導いた「紛争の筆頭責任者」たる松浦氏の思想的背景は、この本で初めて明かされたと思う。マックス・ウェーバーの「責任倫理」とともに、天皇の退位なき戦後日本の無責任体制への怒りが、この「紛争」を自ら解決する強い意志へ結びついていたのである。
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松浦学部長代理の「戦闘的寛容」ー『学生反乱』を読んで③

2023年05月10日 22時32分50秒 |  〃 (社会問題)
 『学生反乱』を読んで、1969年の立教大学を考える3回目。この本のテーマは僕にとって私的に重要だが、もちろんそれだけではなく、もっと普遍的な問題につながっている。まず、文学部の最高責任者である文学部長は誰だったのか。1969年3月25日までは海老沢有道教授(史学科)だったが、健康上の理由で任期2年のうち半分を残して退任を申し出た。海老沢氏は日本キリシタン史の大家である。退任は了承され、後任には細入藤太郎教授(英米文学科)が選出された。

 教授会では連休を返上して連日長時間の会議を開いていた。しかし、1969年5月10日に「文学部共闘会議」(文共闘)が結成され6項目の要求への回答が求められた。13日には文共闘によって6号館がバリケードで封鎖された。長時間の教授会が開かれ、1969年5月15日に、文学部集会を開くことが決まった。会場となったタッカーホールは満員の学生であふれたという。13時10分から3時間ほどの予定は、結局深夜1時まで12時間に及んだ。(『学生反乱』の表紙にその時の写真が掲載されている。)
(5・15集会)
 その集会中に細入学部長は体調不良となって、休憩を申し出た。事前にそういうこともあるかと代理の責任者を選定していたという。それは誰だか不明だが、細入氏は松浦高嶺教授(史学科)の前で立ち止まって後事を託して退出したのである。これは全く突然の指名で、その理由は謎だという。そして5月20日の教授会で、正式に松浦学部長代理就任が了承された。海老沢(1910年生まれ)、細入(1911年生まれ)の両氏に対し、松浦教授は1923年生まれで10歳以上若い。荒ぶる学生と対峙するのに、50代後半では体力的に持たない。「平時」なら長老トップで収まるが、ここで「戦時内閣」が発足したということだろう。
(松浦高嶺教授)
 松浦先生は「西洋史概論」かなんかをちょっと受けたと思うけど、個人的に言葉を交わしたことはない。政治的な声明に加わったりするような「進歩的文化人」ではなく、厳格な研究姿勢を保つ英国紳士といった印象を持っていた。今回の本を読んで、松浦先生のリーダーシップと先見性に驚いてしまった。その後も自分の体験を「伝説的」に語り継ぐことはなかったと思う。数年後に入学した僕は、松浦先生が「筆頭責任者」として収拾に当たったということは今回本を読むまで全く知らなかった。

 この本は前半が日録的に順を追って振り返られているが、それは高橋秀(さかえ)氏が記録したメモに基づいている。高橋先生は先に書いたようにローマ史の研究者であるとともに、パイプオルガン奏者として知られ大学行事などでも演奏していた。そのことは僕も知っていたし、聴いたこともある。この本には、年末恒例の「メサイア演奏会」始まりの秘話など、「闘争」以外の話題も豊富で興味深かった。高橋氏は松浦教授と研究室が同じで、信頼されていたからか「秘書」格で紛争解決に当たることになった。例えば、他学部教授会への説明には高橋氏が赴いている。

 文学部教授会はその後、「文共闘」を正式に交渉相手と認め、「団体交渉」(団交)に応じることになる。その過程をいちいち追っていくと長くなりすぎるので、ここでは『学生反乱』に譲って省略したい。ただ、この決定は他学部には非常に不評で、松浦氏によれば「学生自治の基本原則を蹂躙」とか「情緒過多のめろめろ学部」などと批判されたという。前者に関しては、正規の自治会があったのに対し、大学非公認団体の「文共闘」と「取引」したのは間違っているという判断である。

 しかし、他に方策があるのだろうか。松浦氏は学部長代理として「連合教授懇談会」の場で、当時の大須賀総長に以下のような質問をしたという。文学部教授会が学生との団交で、本学の従来のやり方と違うことを取り決めた場合、総長はどうされるかという質問である。これに対し総長は「文学部が他学部や本学の従来のやり方と違うことを取り決めるような事態にいたったとしても、もしそれがリアリティに根ざしたものであれば、それはやがて本学の中に定着してゆくことになるだろう」と答えた。高橋氏は「今私が顧みても、総長としてよくぞおっしゃった」と書いている。速水敏彦氏も「闘争初期の名場面」と評している。

 ところで、この頃文学部にはもう一つ頭の痛い問題が持ち上がっていた。震源地の仏文科教員の一人である村松剛(1929~1994)氏が辞表を提出したまま出勤して来なくなったのである。村松氏はちょっと年齢の高い人なら知っていると思うが、保守派の論客として有名だった。三島由紀夫とは親の代から親しく、三島没後に『三島由紀夫-その生と死』という本を著している。そういう思想傾向だからだろうか、文学部が文共闘の団交要求を認めたことに反発し、5月18日に辞表を提出したのである。そして経過をマスコミに知らせ批判したのである。学生側は村松を免職にせよと迫り、ついに懲戒免職が決議された。
(村松剛『私の正論』)
 本筋とは関係ないけれど、村松問題にちょっと触れておきたい。誰しも辞める自由は持っているが、辞任が正式に決定するまでは(健康に問題ない限り)勤務する責任がある。だから、文共闘の団交要求を認めないとしても、正式機関である教授会には出席義務がある。しかし教授会にも出なかったため、学生の処分要求を退けられないのである。ただ、Wikipediaには懲戒免職になったと出ているが、本書によれば事情はもっと複雑である。学院規則には「懲戒解職」という言葉が使われていて、「免職」という処分がなかった。法的な問題を弁護士と協議しているうちに、一ヶ月経ってしまい自動的に辞職の事前予告期間が来たと出ている。

 何となくなし崩しで、辞職になったような記述である。村松氏は問題の発端の仏文科教員として、学生に答えることなく学年途中で辞職するのはどうなんだろうと僕は思う。そこを学生側にも突かれて、教授会が機能していないことを白日の下にさらす結果を招いたのである。仏文科で起きた事態は、「大学の自治」の名の下に「教授会の多数決」という制度が形骸化していると言われても返す言葉がないだろう。文共闘から見れば「戦後民主主義の機能不全」の象徴である。そこで6月2日午前10時から、翌3日午前12時半まで26時間半に及ぶ団交では村松問題が議論の中心となり、「懲戒免職」が決議されたのである。

 その後、6月19日に「文学部学生諸君へ」という学部長代理の文書が公表された。後に「6・19文書」と呼ばれたというが、ここで文学部教授会としての「反省」「自己批判」を行うとともに、今後の改革の方向性が示された。ここで明らかにされたことは、今までは「文学部」と言いながら、事実上は「8学科連合」に過ぎなかったことである。教員は自己の研究と地位に安住し、大学進学率が向上し学生の質が変わったことを直視せず、「学生も変わったね」などと語るだけだった。「教育者」という面で学生と向き合っていたとは言えない。「文学部」としてどのような学生を育成するのかという共同の認識もなかったのである。

 そこで教授会では松浦氏のリーダーシップの下、大学の理念と機構カリキュラム人事教授会運営図書研究室など10あまりの小委員会を設け、全教員がどこかに所属して夏休み返上で討議を行い報告書をまとめたのである。「理念・機構」委員会に属した速水敏彦氏は、本書の中で報告書を全文掲載している。それを読むと、これは大変なものだなと思った。学生側の文章を今読んで、よくここまで書けたなと思った。(高橋氏もどこにこんな能力が潜んでいたのかと書いている。)しかし、この「理念」報告などを読むと、これは適わないなと正直思った。「学生反乱」が教授側の「本気」を引き出したのである。

 最終解決まで書くと長くなりすぎるので、ここで松浦氏の述べる「大学教員の対応の類型」を見てみたい。①は「過激・暴力学生と決めつけて学生の要求には一切耳をかそうとしない、頑なで権威主義的タイプ」である。②は「戦闘的学生に対して弱腰で、足並みがそろわず、優柔不断なタイプ」である。③は「学生と共同戦線を張って、学生反乱の大学反乱への飛躍をめざしたタイプ」である。そして④として「研究、教育関係の中で学生と共有しうる立場を可能な限り模索して、紛争の建設的な決着を求めたタイプ」である。松浦氏は④の立場を堅持し、学生側からは「松浦超近代化路線」などと決めつけられながらも、「戦闘的寛容」の精神を貫いたのである。それは何を残したのか、長くなったけれど最後にもう一回。
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仏文科人事問題ー『学生反乱』を読んで②

2023年05月08日 22時43分28秒 |  〃 (社会問題)
 『学生反乱』を読んでの2回目。1969年に起きた「立大闘争」はどこから始まったか。それは「仏文科人事問題」だったのである。卒業生でもそのことを知っている人は少ないだろう。その前に立教大学そのものの説明を前提として書いておきたい。立教大学には池袋キャンパス新座キャンパスがあるが、新座キャンパスは1990年開設なので僕の時はなかった。
(本館)
 池袋キャンパスは、山手線池袋駅西口から徒歩10分程度のところにある。画像を検索すると大体最初に出て来るのが、上記のような蔦の絡まるレンガの校舎である。これは本館(モリス館)と呼ばれ、東京都選定の歴史的建造物の指定を受けている。その近くには第一学食チャペルなど同じく指定を受けた歴史的建造物が並んでいる。「立教通り」南側に「美観地区」が広がっているわけである。そこでも授業はあるが、主に通っていたのは「立教通り」北側の「5号館」で、その隣に文学部と法学部が入る「6号館」がある。(その奥に、旧江戸川乱歩邸=平井隆太郎元立大教授宅があって、現在は立教大学が管理して公開されている。)
(5号館)(6号館)
 その当時、文学部には8学科があった。1922年に私立大学が公認されたとき、文学部には英文学科、哲学科、宗教学科が置かれていた。戦後に新制大学になったときには、キリスト教学科英米文学科、社会学科、史学科、心理教育学科が置かれた。その後、1956年に日本文学科を設置、58年に社会学科が社会学部に昇格して廃止。1962年に心理教育学科を心理学科教育学科とした。そして翌63年にフランス文学科ドイツ文学科が新設されたのである。
 
 69年当時に存在した8学科を太字にして示した。僕が通った70年代後半もこの体制である。(ちなみに2006年に心理学科は現代心理学部に昇格して新座キャンパスに移った。同時に文学系学科をまとめて「文学科」として、その中に英米文学専修、フランス文学専修、ドイツ文学専修、日本文学専修、文芸・思想専修を置くことにした。従って、現在はキリスト教学、文学、史学、教育学の4学科体制になっている。)60年代の高度成長で、大学進学率も上昇していた。各大学も学部、学科の新設を進めていた時代だが、当時はヨーロッパ文化への憧れが強く「仏文」「独文」が大学の魅力を高めた時代なのだろう。

 もちろん、学内には仏文学科を支えられる人材はいない。そこで重要になるのが、東大と私大との「定年」の差である。東大教授は60歳定年なのに対し、立教は原則65歳だったので、東大を定年になった教授を迎えることが可能になる。(立教より定年年齢が高い私大も多く、立教定年後に別の大学へ移る教授も多くいた。まあ、呼ばれるだけの学問的業績がある人の場合だが。)そこで東大を退職した渡辺一夫氏を62年に立教に招き、準備期間を置いて63年に仏文科を開設したのである。渡辺一夫氏と言えば、この人の本を読んで大江健三郎が東大仏文を目指したというフランス文学の大家である。立教に招いたのは、大きな意味があっただろう。
(渡辺一夫氏)
 また同じく東大元教授の杉捷夫(としお)氏を招き、川村克己渡辺一民村松剛の計5人体制で仏文科が運営されていた。ところで、東大から招いた渡辺、杉両重鎮は数年すれば立教の定年になる。(当時は「原則」65歳だが、定年を越えて在籍する教授も多かったという。「紛争」を経て、定年制の厳格実施が決まったと『学生反乱』に出ている。僕の時代に新進気鋭の教員が多かったのは、そのような理由があったのである。)そこで、2名の教員を補充することになった。

 そして候補となったのは、一般教育部助教授だった新倉俊一高橋武智の両氏だった。「一般教育部」は、大学生活前半の一般教育に携わる教員で構成された部だった。「リベラルアーツ」(一般教養)を重視した立教では、独自の教授会を持つ存在だったのである。特に当時は「第二外国語」が必須で、それもドイツ語、フランス語に限られていた。そのため、語学を教えることを中心にしてまず一般教育部に迎えられ、その後に文学部に転籍するというコースがあったわけである。

 そして一般教育部教授会は、2人の転籍を了承した。それに続き、3月13日に文学部教授会が開かれたが、予想外なことに両氏の受け入れを了承する票が「3分の2」(人事案件は重要事項のため、過半数ではなかった)に達せず、否決となったのである。松浦氏の記述によれば、これは全く受け入れがたい結果だった。何故なら、投票に先立って受け入れを否とする意見は出されず、討論も行われなかったからである。8学科もあって、それも学問分野がかなりかけ離れているから、他学科の業績評価は難しい。そこで従来は「学科自治」を尊重して、学科が了承した人事はそのまま教授会で了承されることが常だったという。
(新倉俊一氏)
 当時は一般教育部所属の教員も、学部の授業を一部担当し協力してカリキュラムを構成していた。ところが、文学部の受け入れ不可に驚いた一般教育部では、両氏の再受け入れを決めるとともに、文学部への出講を取り止める措置を取った。一般教育部を怒らせてしまったのである。そこでフランス文学科のカリキュラムを再考せざるを得なくなり、履修登録日も延期された。この状況に不審を抱いた「仏文科学生一同」が4月17日に「文学部教授会への公開抗議書」を提出した。そして5月になると、単に仏文の問題に止まらず、文学部教授会への不信を強めた学生たちが「文学部共闘会議」を結成したのである。

 その後の経過は次回に回すが、では何故両氏の受け入れが認められなかったのだろうか。無記名投票なので、誰が否としたかは判らない。その後の経過を経て人事案は再議され、結局両氏は文学部に受け入れられることになる。その中で、新倉俊一氏はさらに1978年に助教授として東大に移籍し、中世フランス文学の大家となった。新倉氏の学問業績は十分だろう。一方の高橋武智氏は、1971年に立教大学を退職することになった。その理由は21世紀になるまで不明だったが、『私たちは、脱走アメリカ兵を越境させた…… - ベ平連/ジャテック、最後の密出国作戦の回想』(作品社、2007)という著作により、事情が明らかにされた。
(高橋武智氏)
 高橋氏は「ベ平連」の中でも、脱走米兵を国外脱出させる秘密プロジェクトの責任者を引き受けざるを得なかったのである。だから、69年当時もベトナム反戦運動に関わっていたことは知られていたのではないか。そして、そのことを忌避する教員がいたのではないか。僕はそのように予想するのだが、正しいかどうかは不明である。
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『学生反乱-1969-立教大学文学部』を読んで①

2023年05月07日 22時52分49秒 |  〃 (社会問題)
 実はまだ「わが左翼論」シリーズが終わってないのだが、スピンオフとして『学生反乱-1969-立教大学文学部』という本の感想を何回か書きたい。この本は刀水書房から「刀水歴史全書71」として2005年に刊行された(2800円、現在も入手可能)。著者は松浦高嶺速水敏彦高橋秀の3氏である。僕は立教大学を卒業しているが、1969年に起こった「立大闘争」の詳しい経緯はほとんど知らない。だから、この本が出たときに新聞広告で見て早速注文したのだが、資料がいっぱい入った本で、その時点では読まなかった。今回「日本左翼史」を考える中で存在を思い出し、今読まないと一生読まないと思ったのである。

 1970年代半ば以後に進学した僕以後の世代は、通っている大学で「闘争」(あるいは「紛争」)があったことは何となく聞き知っていても、具体的な経過はほぼ知らないと思う。どこの大学でも同じようなものだろう。例外的によく取り上げられる「東大闘争」「日大闘争」は、中では知られているだろうが、でも東大生、日大生皆が関心を持って読んでいるわけじゃないだろう。だから、「そういう時代」「そういうこと」(スタンスは様々でも)があったとは知っていても、日本じゃ何も変わらなかったと決めつけて終わりにしている人が多いんじゃないか。

 この本の紹介記事が刀水書房のホームページにある。「あのころ全国で起きた『大学紛争』について、当事者自らがまともに総括した本はほとんど刊行されていない。このままでは風化し,非現実的な『神話』になってしまう」(速水)そんな思いが,三人を再び結び付けた。われわれは学生たちに何を突きつけられたのか?」とある。そして「紛争の筆頭責任者」だった松浦高嶺氏(イギリス史)、松浦氏とともに解決の道を探った高橋秀(さかえ)氏(ローマ史)、速水敏彦氏(キリスト教倫理)が、まさに当事者として総括した。(記事の筆者は共同通信の立花珠樹氏。映画記者として著名で、何回もトークショーの司会として話を聞いた。) 

 立教大学の場合、その経過と内容は他の大学とはかなり違った面があった。そのことは在学中にも聞いていたが、ホームページに紹介された別の書評にある通り、「学生との対話という路線を選択した立教大学文学部」だったのである。先の3氏とともに、「紛争」解決をともに当たった教授会メンバーには強い連帯感が残ったようで、その後も長く会食などを続けたとある。特に「六人組」と高橋氏が呼んでいるのが、著者3人と渡辺一民(フランス文学)、塚田理(キリスト教学)、室俊司(教育学)各氏である。僕は渡辺一民先生の講義で、機動隊を導入せず教授たち自らがバリケード封鎖を解除した話は聞いていた。
(1969年10月7日の大須賀総長の所信表明集会)
 ところで、今回は「紛争経過」の中身には入らない。違う問題について気付いたので書いておきたい。上にある画像は、総長の「所信表明集会」だが、その前段階として「全共闘」学生との団交があった。それを受けて開かれた集会だが、この写真は立教大学のホームページの「写真で見る立教学院の歴史」に掲載されているものである。では、他大学のホームページでは、「紛争」に関してどのように掲載されているだろうか。どこの大学のホームページにも「○○大学について」などという項目があり、その中に「本学の歴史」「沿革」などの箇所がある。

 僕は幾つかを見ただけだが、早稲田大学には当時の写真はないようだ。年表には1972年に「川口君事件」とあるが、内容紹介はない。日本大学の場合は、年表にないどころか紛争当時の古田重二良学頭を「先見性」と評価している。「財政基盤を確立」って、巨額の使途不明金はどうなっているのという感じ。法政大学も出ていないと思う。東京大学の場合、さすがに年表には安田講堂事件が出ているし、入試中止も載っている。ただし、国際化を目指せと言われている日本の大学でトップたる東大の年表が何と元号表記なのには驚いた。国立大学法人の場合、文科省による基準でもあるのだろうか。他大学は見てないので判らない。
(69年の立教祭)
 ということで、「紛争」関係の写真が大学の公式ホームページに掲載されているのは、かなり珍しいのではないかと思われる。もう一つ貴重な写真も載っていて、それが上記の69年の立教祭の写真である。全学スト決行中、一部校舎バリケード封鎖中ながら、35学生団体が参加して11月8日から3日間、立教祭が開催されたのである。テーマは「泯滅(びんめつ)の饗宴」という不思議なものだった。この本では高橋秀教授が書いていた当時のメモが大量に使われている。いや、すごいものだと「歴史家」の現場感覚に感心した。高橋先生は学内では西洋史の教授という以上に、「パイプオルガン奏者」として知られていた。

 立教祭でも高橋先生のパイプオルガン演奏がチャペルで開催されたと出ている。また1月に亡くなったばかりの理学部教授で作曲家の松平頼暁氏の現代音楽コンサートも開かれた。高橋先生は『チャペル・ニュース』もまた大量に引用している。チャペル(諸聖徒礼拝堂=大学等に附設された礼拝堂)を通して、学生の心情なども出て来るのである。このようにキリスト教系大学ならではの、他の大学とちょっと違ったルートがあって、教授たちと学生のつながりが続いていたのである。そのことも「立大闘争」の特徴なのではないかと思う。具体的な「紛争」あるいは「闘争」の経過は次回に見てみたいと思う。
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