尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

岸田首相の「原発新増設」方針の大間違い

2022年08月25日 22時52分32秒 |  〃 (原発)
 コロナ感染中の岸田首相が「リモート会見」を行って、コロナ感染者の全数把握に関して都道府県の判断で止めることが出来るようにするとのこと。何だそれと各知事には不評のようだが、僕も一体何なんだろうと理解不能。それはちょっと置いといて、もう一つ原発に関して重大な方針変更を打ち出した。「岸田文雄首相は24日、首相官邸で開いた「GX(グリーントランスフォーメーション)実行会議」(議長・首相)で、次世代型原発の開発・建設や原発の運転期間延長について、「年末に具体的な結論を出せるよう検討を加速してほしい」と指示した。電力の中長期的な安定供給確保が狙い。正式決定すれば、2011年3月の東京電力福島第1原発事故以降、新増設などを凍結してきた政府方針の大きな転換となる。」
(方針変更を表明する岸田首相)
 僕はこれは実現不可能な暴論だと思う。今まで書いたことも多いが、改めて取り上げておきたい。今の時点で原発を新たに作るとして、それが稼働するのは一体いつのことだろう。もちろん来年、再来年ではなく、30年以上も先のことだろう。しかし、日本は人口がどんどん減っていく。1億人を割り、やがて8千万人台になると予測されている。21世紀後半の人口減に加え、節電技術などの進歩を加味して考えると、むしろ「電気が余る」状況が起きるのではないか。ダムを造ったものの、水需要の予測を誤り、利用されず負担のみ重くなっているケースは全国に数多い。その二の舞になることが予想される。
(まず新増設が予想される原発)
 何でこのような方針変更が打ち出されたのか。ロシアのウクライナ侵攻以来、世界の分断が進んでいる。「ウクライナで起こったことが東アジアで起こらないとは言えない。」政府首脳が何度もそのようなことを言っている。その事実認識自体も検討が必要だが、中国や「北朝鮮」の軍事力増強に問題があるのも確かだろう。しかし、中朝との軍事的緊張が高まる時に、「日本に原発をさらに増やす」という方針が僕には解せない。直接ミサイル攻撃などを受けなくても、日本の電力企業、各原発がサイバーテロにあって機能がマヒすることはないのか。ロシアはウクライナの発電所にサイバー攻撃を行った事実があるし、現在も原発を攻撃、占拠している。原発がサイバー攻撃を受ければ、ただ電気が停まるだけでは済まない。

 さらに「エネルギーの自給」に反していることもある。コロナ、ウクライナ問題で世界の流通網が混乱し、食料やエネルギーなどが値上がりしている。値上がりするだけならまだしも、2020年に中国からのマスク輸入が途絶えたように、日本に輸入出来なくなってしまえば大変なことになる。日本は化石燃料(原油、天然ガス、石炭)をほぼ輸入に頼っている。では原発の原料である「ウラン」は日本に出るのか。かつて鳥取県の人形峠などがウラン産地と騒がれたことがあるが、採算が取れるようなものではなかった。世界ではほぼオーストラリアカザフスタンカナダなどに集中している。
(ウラン産出国)
 直接原発の材料となる「濃縮ウラン」は、ほぼカナダアメリカフランスに負っている。カザフスタンはロシアの同盟国だが、カナダやオーストラリア、アメリカなどは日本への輸出を禁止するとは考えられない。一応そう思えるけれど、日本が核不拡散条約に反して核兵器を開発する動きを見せれば、直ちに禁輸されるだろう。またアメリカにトランプ政権のような自国最優先政権が成立した場合、同盟国だけど売らないということもありうる。永遠に米国追随を逃れられなくなる。それにそういう問題がなくても、記録的な円安の進行でウラン燃料も値上がりする。レアメタルであるウランは、今後値段がどんどん高くなっていくに決まっている。
(世界のウラン資源量分布)
 では、「エネルギーの自給」が可能な発電方法はあるのか。完全に自給するのは当面無理だと思うが、水力太陽光地熱風力潮力などが考えられる。ただ水力、風力、地熱発電なども自然破壊を伴う。それに原発や火力発電と同様に、大規模発電施設には災害やサイバー攻撃のリスクがある。水力発電用ダムが巨大地震で決壊すれば、原発事故に匹敵する大災害になる。太陽光、風力なども巨大台風などで損傷する危険性がある。災害大国日本では、大規模な発電施設を作るやり方を再考するべきだ。
 
 じゃあ、どうすれば良いか。小規模水力発電、太陽光発電などを「地産地消」的に設置することが、真の「防衛力強化」ではないか。第2次安倍政権以来の10年で、新エネルギー政策がすっかり停滞した。もしこの間、再生可能エネルギーの技術向上に注力していたら、現状は大分違ったのではないか。「電気という商品」は他の商品と全く異なっている。在庫を倉庫にしまっておくとか、冷凍保存するとかが出来ない。しかし、過去に比べればバッテリー技術は格段に進歩している。「電気自動車」というものが可能になったぐらいである。さらに生産から消費までの間に、つまり発電所から各家庭までの間に、送電線内で電気が減ってしまう。「送電技術の向上」でこの問題を少しでも解決するべきだ。

 それに節電技術の発展も合わせれば、とても新規原発など不要である。21世紀後半にはそうなるに違いない。ここで大事なことは政府が率先して新しい技術に投資していかなければ、それこそ諸外国に遅れを取るということだ。原発事故以後、もう10年を空費してしまった。今やることは、原発や化石燃料に頼らない電力に大胆にシフトさせていくことだと考えている。
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原子力発電が「温暖化」を進めるー地球温暖化の論点②

2022年02月01日 22時34分30秒 |  〃 (原発)
 「地球温暖化」を防ぐために「二酸化炭素を排出しない原子力発電所」を増設するべきだという議論がある。ヨーロッパではドイツのショルツ新政権は脱原発と脱火力発電をともに目指す姿勢を受け継いでいるが、フランスは原発回帰が明確である。1月1日にはEUの欧州委員会(European Commission)が「原発と天然ガスをグリーンエネルギーと認定する」とし「投資を歓迎する」という方針を出した。(欧州委員会は、加盟国一人の合計27人で構成される政策執行機関。)これに対し、日本の元首相5人が再考を求める書簡を送ったという。(この元首相は、小泉純一郎、細川護熙、菅直人、鳩山由紀夫、村山富市の5人。)
(欧州委員会の方針を伝えるニュース)
 こういうような「温暖化防止のための原発推進」には多くの批判もある。それらは大体「事故が起きた場合の重大被害」あるいは「放射性廃棄物の処分方法がない」(現状ではどこかの場所に数百年厳重に保管する以外なく、日本ではその最終処分場が決まっていない)という反対論が多い。また日本では福島第一原発事故で多くの人々が家に戻れないままなのに原発を推進するのは倫理的に許されないという考えもある。僕もこれらの意見には賛成だが、原発と地球温暖化の問題はどう考えるべきなんだろうか。

 原子力発電では発電過程では二酸化炭素を排出しないというのは、もちろんその通りである。発電というのは、太陽光そのもののエネルギーを電気に変換する太陽光発電は別として、大体の場合は発電用のタービンを回して電気を作っている。「位置エネルギー」を利用してタービンを回す水力、風力もあるが、多くは熱によって水蒸気を発生させてタービンを回す。その意味では火力発電も原子力発電も「蒸気機関」の一種になる。そして火力発電の場合は、化石燃料を燃焼させて酸化エネルギーを利用する。一方、原子力発電の場合は、原子核分裂を人工的に起こして得られたエネルギーで水を温めることになる。
(フランスは圧倒的に原発に依存)
 酸化の副産物が二酸化炭素だから、核分裂の熱を利用する原子力発電では確かに「温室効果ガス」を出さない。しかし、問題は幾つもあって、最大の問題は排出熱量が大きすぎることである。火力発電の場合は止めればいいだけだが、原発は経済効率的な観点から発電を開始したら(核分裂反応を始めたら)ずっと続けることになる。そのため発電に必要な量を上回るエネルギーが発生する。そこでタービンを回した後の蒸気を水に戻して海に排出する。これが「温排水」だが、ところによっては本来の海温より7度も高いという。原発は点検中のものも多いが、全世界で434基もあるという。それだけ原発が作られて温排水を出していることは地球温暖化の大きな原因の一つなのではないだろうか。

 次に原発の燃料の濃縮ウランの問題。石炭はただ燃やすことも可能だが、原子力の燃料であるウランはそのままでは使えない。核分裂を起こさない大部分のウラン238から、核分裂を起こすウラン235(ウランの0.7%)を取り出す必要がある。これがウラン濃縮で、様々な方法が存在するようだが、どれもものすごく大きなエネルギーを必要とするようだ。日本では原発に使える効率のいいウランは存在せず、核濃縮も(政治的に)出来ないことになっているから、濃縮ウランは全量を輸入している。このウラン燃料の濃縮過程で必要な膨大なエネルギーを温室効果ガスに換算するれば、一体どのくらいになるか。誰かちゃんと計算して欲しい。
(フランスの原発)
 また原発では建設までに膨大な審査がある。そのために火力発電とは比べものにならないぐらい厳格なシステムが作られている。核廃棄物の処理にかかる手間もあるし、危険な核燃料を保管する原発は厳重な警備が(他の発電所以上に)必要になっているはずだ。そのような諸々の(発電以外の)外部費用を全部計算すれば、原発は恐ろしいぐらいに効率が悪くなるのではないか。もちろん火力発電所だって大きな問題はあるが、原発が二酸化炭素を出さないという認識には問題が多い。発電以外の、燃料濃縮、建設までの諸問題、温排水、廃棄物処理など、ものすごい熱を排出しているのが原発ではないか。
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原発事故から10年、日本は変わったのか

2021年03月18日 22時56分52秒 |  〃 (原発)
 2021年3月18日、水戸地裁は日本原電の東海第2原発運転差し止めを認める判決を出した。日本最初の原発は茨城県の東海原発で、こちらは廃炉作業中である。同じ場所にある東海第二原発1978年に稼働したので、すでに40年を経過している。東日本大震災では5.4mの大津波が襲来して一部の非常用電源も失われたが、残された電源で辛うじて冷却できたのである。
(東海第二原発差し止めを報じるニュース)
 茨城県の津波想定に対して、一応の津波対策を講じていたのである。6.1mの津波に対応できる防水工事は震災の2日前だったとウィキペディアに出ている。つまり、もっと高い津波が来ていたら「重大事故」が起こり、首都圏が「壊滅的被害」を受けていた可能性があった。再稼働を求めているということは、「40年を超える対策」が原子力規制委員会から2018年に認められているのである。しかし、こんな原発が必要だろうか。早く廃炉にすべきだと思う。
(勝訴を喜ぶ弁護団)
 かつてはほとんどなかった原発差し止め判決が、原発事故後には時たま出るようになった。事故以前は2006年の金沢地裁による志賀第二原発だけ。以後には大飯原発高浜原発伊方原発と差し止め判決が出ている。こういう判決が出るようになったのは、日本の司法も変わってきたのだろうか。そういう部分もあるだろうが、東海第二原発差し止め判決が出た同じ18日に、広島高裁は伊方原発差し止め決定を取り消す決定を出している。
(伊方原発差し止めを取り消す決定)
 上級審でひっくり返るというのは、大飯、高浜原発でも起こっている。そこで思うのは、「少しは変わったけれど、最後は負けてしまう」という日本の現実である。これは他の多くの裁判でもよく見られるし、裁判以外の人権問題でもよくある。「市民運動」の側は生活があるから永遠にやっていられない。「国(自治体)」「会社」は担当者が代わりながら誰かが仕事として遂行する。「仕事」だから、それでお金を貰えるが、「市民運動」は全部自腹なのである。

 かくして、東京五輪組織委員会前会長の「森発言」のようなことが起こる国が続いてしまった。10年前は僕もあれほどの大災害を目の当たりにして、日本もこれで大きく変わらざるを得ないだろうと思った。しかし、今は「徒労感」が残っているというのが正直なところではないか。もちろん変わっていることも多い。しかし、それは「良く変わった」のか、「悪く変わった」のか。少なくとも原発だけは、すぐにゼロでなくても縮小の方向に行くだろうと思っていた。
(現在の福島第一原発)
 10年経って、何か変わったどころか、日本はもっとどん詰まりになったという気がする。だけど、もっととんでもない苦難の地が世界にはいくつもある。「100%忖度なし」は僕だって難しい。でも、「書ける自由」がある間は、次の世代のために書いていきたい。10年経って、いや、50年、60年と言ってもいいけど、正直言ってこのような社会が来るとは思っていなかった。それでも「政治」を考えなければダメである。誰だって、「先人」があって生きてきた。未来の人にとっては、今生きている人が「先人」になるんだから
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脱原発の「失われた10年」

2021年02月14日 22時47分47秒 |  〃 (原発)
 2月13日の夜11時8分頃、宮城県を中心にかなり強い地震があった。福島県、宮城県では震度6強を記録し、負傷者も9県で150人に及んだ。東北新幹線も那須塩原ー盛岡間で止まってしまい、全線復旧には10日ほど掛かるという。東京は震度4だったが結構長く揺れていた。家では絵が倒れて額のガラスが割れてしまった。もともと壁に掛かっていたのだが、紐が劣化して数年前に床に落ちてしまった。その後立て掛けておいたが、前は割れずに今回割れたのが不思議。

 ところで今回の地震は2011年3月11日の大地震の余震とみられるという。こんなに時間が経っても余震があるのか。まあ10年は人間にとってはかなり長いが、地球にとっては「ほんのわずか」なんだろう。「3・11」から10年が近づいて、マスコミの報道も多くなってきた。節目だけしか報道しないのかとも思うが、この後は節目の報道も減っていくのだろう。阪神淡路大震災を見ても当時を知らない世代が多くなっていき、課題が変わっていった。ただ東日本大震災の場合、津波による被害があまりにも大きかったこと、原発事故の影響で帰還できない地域があることなど、今まで日本が経験したことがないスケールの大災害だった。
(大飯原発設置許可取消判決)
 「2020年の書き残し」に原発問題がある。2020年12月5日、大阪地裁で福井県の大飯(おおい)原発3号機、4号機の設置取り消しを求めた裁判で、原告側の主張を認めて設置許可を取り消す判決が出た。原子力規制委員会は2017年に設置許可を出していたが、その判断が不合理とされた。規制委は全国で同じ計算式を用いて判断しているため、全国の原発に波及する可能性も指摘されている。具体的な判決趣旨は詳細にわたるもので、僕にはよく判らない点が多く省略する。

 かつては原発訴訟はほとんど裁判所で却下されていたが、3.11後は少し変わってきた。上級審で取り消されたものの、高浜原発(福井県)でも運転停止の仮処分が出たことがある。また伊方原発(愛媛県)3号機の運転を認めない仮処分が2020年1月17日に出ている。このように裁判で原発を停止する決定が出るというのは、「安全性」の判断がいかに困難なものかを示しているだろう。安全性の判断に上限はなく、住民が安心して暮らせることはない。
(高浜原発)
 ところが大飯原発設置取り消し判決の1ヶ月ほど前に、40年を過ぎている高浜原発1,2号機の20年延長に高浜町議会が同意したという報道があった。すでに原子力規制委員会は延長に同意していて、安全性対策と地元合意が残っていた。(まだ福井県の同意が残っている。)原発事故後、規制委員会が発足し「原発は原則40年」というルールが作られた。それが破られているのだ。40年までだったら安全で、少しでも延びたら危険というわけではないだろうが、「60年」というのは長すぎるのではないか。

 それに20年延長しても、その後は「廃炉」である。原発新設が出来ないなら、廃炉の時期を延ばしただけである。そして新しい原発の新設なんて出来ないだろう。出来ると言うんだったら、原発維持を主張している自民党の有力議員が地元に誘致すればいい。そんなことが出来る議員はいないだろう。結局「脱原発」の時期を延ばすだけで、その間に世界の再生エネルギー技術に遅れを取ってしまうだけだ。福島第一原発の深刻な大事故でも何も変わらないのか。その現実が日本人に与えている無力感は大きい。世論はずっと原発に批判的ななのに、一向に政府の政策に反映されない。これが10年間の現実だった。「失われた10年」だ。

 「温暖化対策」で原発を支持する人もいるが、未だにそんなことを言ってる人がいるのが信じられない。確かに原発は運転時に二酸化炭素を排出しない。その代わりに冷却に使った高温の排水を海に流している。それはCO₂に換算すれば、どれほどのものになるだろう。そして安全対策や安全審査、さらに必ず起きる訴訟で必要な文書のやり取り、そこに費やされる膨大な労働力と紙などの製造に使われるエネルギーでどれほど二酸化炭素を使うだろうか。僕には原発が地球温暖化対策になるなどというのは「悪い冗談」としか思えない。
(ウランの生産国)
 それでも日本でウランが採掘されるというのなら、「エネルギーの自給」という意味はある。よく原油液化天然ガスは中東地域からの輸入に頼らざるを得ず、「エネルギーの安全保障」の面から考え物だという人がいる。しかし、ウランこそ日本にはほとんどないレアメタルである。上記2016年度のグラフでは、カザフスタンが一番多く、カナダオーストラリアと続いている。確かに戦争などの危険性は低いかもしれないが、日本にはないことには変わりない。

 もちろん再生エネルギーには、特に太陽光風力など天候に左右されやすい問題がある。しかし、電気は「発電」だけでなく、「送電」して初めて消費者に届けられる。そして送電には大きなロスがつきまとう。さらに日本には「水力」も大きい。大規模発電ダムは環境破壊につながるが、小規模水力発電は可能性が大きいのではないか。そして「蓄電」技術の革命によって、発電も大きく変わるだろう。政府が率先して「脱原発」「再生エネルギー重視」を打ち出し、「送電」「蓄電」技術の開発に注力すれば、日本は世界をリードする技術を築けるのではないか。

 ちょっと大きな地震があるたびに、付近の原発の状況が報道される。やはり皆心配なのである。倫理的側面も含め、即時ではなくても「脱原発」に舵取りすることが日本にとって絶対に必要だ。
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伊方原発、恐怖の「全電源喪失」

2020年01月29日 22時43分44秒 |  〃 (原発)
 四国電力伊方原子力発電所(以下、伊方原発)で、25日午後3時45分頃に発電所内が一時停電し「ほぼ全ての電源が一時的に喪失した」。10秒後に非常用のディーゼル発電所が起動したため復旧したとはいえ、これは原発に潜む危険性を改めて示したものだ。「そういうときのための非常用電源が役に立った」などと安全性を過信するような判断をしてはいけない。
(伊方原発)
 伊方原発は四国電力唯一の原発で、愛媛県伊方町、四国の西北部、九州に向かって突き出た佐田岬半島の付け根あたりにある。3号機まであるが、1号機は2016年に廃炉が決定され運転を中止、燃料も搬出済み。2号機も2018年に廃炉が決定している。1994年に運転を開始した3号機のみが後述する裁判を経て、2016年8月に再稼働した。ただし、2019年12月26日から定期点検中だったため、トラブル発生時に稼働していた原発はなかった。(もちろん放射性廃棄物を冷却し続ける必要がある。)

 伊方原発に関しては、2020年1月17日に広島高裁運転差し止めの仮処分を決定した。伊方原発に関しては1973年以来何度も差し止め訴訟が続いてきた。ことごとく退けられてきたが、福島第一原発事故以後の2011年12月に松山地裁に大規模な訴訟が提起された。その訴訟では2017年7月に松山地裁、2018年11月に高松高裁が再稼働を容認する決定を下し、伊方原発が再稼働できた。

 一方、2016年3月に、今度は別の差し止め訴訟が広島地裁に提訴された。伊方原発の場所は本州や九州にも近く、四国外にも周辺住民がいる。その裁判の原告のうち山口県民3人は、本体訴訟とは別に2017年3月に山口地裁岩国支部に差し止めの仮処分を申し立てた。これに対し、2017年3月に山口地裁岩国支部は申し立てを却下。住民側が即時抗告し、その抗告審で2020年1月17日に申し立てを認める仮処分が出たのである。
(仮処分決定後の裁判所前)
 一方で本体訴訟は2017年3月に広島地裁が退ける決定を出した。それに対し、2017年広島高裁阿蘇山大規模噴火時の危険性を理由に、差し止めを認める決定を出した。この決定に対し、四国電力が異議を申し立て、2018年9月に広島高裁は一転して再稼働を容認する決定を出した。伊方原発に関しては、広島、松山、大分、山口の4県で訴訟が起こされている。原告側が「伊方原発運転阻止瀬戸内包囲網」と呼ぶ状況である。その中で、2回も差し止めを認める決定が出たことは重大だ。

 伊方原発では2016年に1次冷却水系統のポンプのトラブルなど、様々な事故が起きてきた。さらに、設置場所からして阿蘇山の噴火活断層の評価など大きな問題がつきまとう。何しろ下の地図で判るように、日本を横断する「中央構造線」のほぼ真上に立地しているのである。四国電力は異議申し立てを行ったが、仮処分決定は直ちに効力を持つため、定期検査が終了しても再稼働はできない。しかし、その定期点検も今回の「全電源喪失」事故をきっかけに中断された。
(中央構造線と伊方原発)
 裁判もタダじゃない。1号機、2号機も廃炉が決まった原発で、無理して3号機だけ稼働を続ける意味がコスト的に考えても四国電力にあるのだろうか。他の原発だって事情は同じだけど、「全電源喪失事故」なんて聞いたことがない。立地上の問題も解決しようがないから、3号機も廃炉にするしかない。
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経団連会長の原発発言を考える

2019年03月16日 22時43分50秒 |  〃 (原発)
 経団連中西宏明会長が2019年になって原発に関する発言を何回も行っている。2月14日には「原発の再稼働はどんどんやるべき」と発言し、その中で「原発と原子力爆弾が頭の中で結びついている人に『違う』ということは難しい」と述べた。この部分に関しては批判が集中し、後に撤回している。年初から「真剣に一般公開の討論をすべきだと思う」と言っていたが、「原発ゼロ・自然エネルギー推進連盟」(原自連=顧問を小泉純一郎、細川護熙が務め、事務局長を河合弘之弁護士が務める民間団体)が公開討論を申し込んでも拒否している。
 (中西経団連会長)
 原発事故から8年になる3月11日の会見では、「エモーショナルな反対をする人たちと議論しても意味がない。絶対嫌だという方を説得する力はない」とまで語った。さらに「再生エネルギーだけで日本の産業競争力を高めることができればいいが、失敗したらどうするのか。いろんな手を打つのがリーダーの役目だ」とも述べた。「エモーショナル」(emotional)とは「感情的」「情緒的」といった意味だが、僕はこの発言に対してとても不快な気持ちを覚えた。その不快さは何に由来するのだろうかと思って、少し考えてみることにした。その前に「経団連」の説明。

 一般社団法人日本経済団体連合会(経団連)は、日本商工会議所(日商)、経済同友会と並んで、経済三団体と呼ばれる。かつては「日経連」(日本経営者団体連盟)を含めて「経済四団体」と言われたが、2002年に経団連が日経連を統合した。そういう経緯もあり、経団連は日本の「財界の総本山」と呼ばれる。世の中には法律で定められた団体もあり日弁連、日本医師会などと並び日商もその一つ。でも単なる民間団体である経団連の方が影響力が大きい。2018年5月から日立製作所会長中西宏明氏が経団連会長を務めている。

 話を戻すと、そもそも「原発反対論はエモーショナルなものなのか」、「エモーショナルな反対論ではいけないのか」という問題もあるが、今はその問題を棚上げする。原発反対論はエモーショナルで、だから間違いだと考えるとして、「そのエモーショナルな反対論」は今の安倍政権の下では現実的な影響力を持ってない。政策的に原発ゼロは今のところ実現可能性がない。もし「エモーショナルな反対論」が国会の多数を占めていて、今にも原発ゼロ政策が決まりそうだというのなら、経団連会長が反対論をぶつのも判らないではない。でも全然そんな気配はないじゃないか。

 今の日本で一番「エモーショナルな議論」をしているのは、原発反対運動ではない。それは誰が見たって、安倍首相の憲法改正論である。エモーショナルな議論がいけないというんだったら、憲法の方が原発よりもっと問題が大きい。そして反原発と違って、改憲は首相自身が自ら訴えている。どうして安倍首相の改憲議論の方は批判しないのだろう。僕が感じた違和感はそれが一番大きい。それに各企業は毎日毎日、テレビ等でアイドルなどのCMで商品を「エモーショナル」に宣伝している。それは問題にしなくていいのか。

 そもそも人間は感情を持つ動物なんだから、エモーショナルな議論を全否定するのはおかしい。何も8年目の「3・11」に、「原発反対はエモーショナル」なんて言うべきなのか。人間の情として理解できない。まだ多くの人が避難を余儀なくされている。それと同時に、中西会長の出身母体の日立製作所こそ、原発メーカーであるという問題がある。利害関係者なんだから、経団連を代表して、つまり「財界の総意」と受け取られる立場で、原発の議論をしてもいいのだろうか。中西会長発言こそ、「秘められたエモーショナルな動機」がないと言えるのか。

 原発はどんどん再稼働しても、また稼働年数をできるだけ延長しても、やがて期限がくる。だから、本当に今後もずっと原発にエネルギーを依存していくのなら、もう次の原発を作る計画を進めないといけない。でも「エモーショナルな反対」がある日本において、どこに新原発を作ることが可能だろうか。それに原発のエネルギー源であるウランが日本に豊富に出るわけでもない。原油と同じく、輸入していることに変わりない。自動車の排ガス規制の歴史を考えても、厳しい規制を科すことにより新技術が発展した。それをクリアーして日本の自動車産業も世界に発展できた。

 このままでは日本に自然エネルギー技術が育たない。外国で発展したものを追いかけることになってしまう。コンピュータで起こった歴史が繰り返される。経団連会長が心配するなら、そっちのほうではないか。大分前に書いたことだが、電気は発電するだけではない。送電して各家庭や各工場に届いて初めて意味がある。その「送電ロス」が大きい。また食品のように「冷凍」しておけない。でもバッテリーの機能が充実して、電気自動車もできるようになった。「省エネ」「電池」「送電」の大技術革新こそ必要で、そういう大きな視野での発言こそ、経済界のリーダーに必要だろう。
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志賀原発で起きた恐怖、および新潟知事選

2016年10月21日 23時40分41秒 |  〃 (原発)
 ものすごく恐ろしいことがあった。気づいていない人もいるかと思い、書き忘れないうちに書いておきたい。場所は石川県の志賀原発である。羽咋(はくい)郡志賀(しか)町、能登半島の西側の海岸にある北陸電力の原子力発電所。読み方は「しか」になる。現在は停止中。

 ここで9月28日に、非常用照明の電源が漏電する事故が起きた。雨水が大量にあふれたのである。福島第一原発の事故は、非常用電源が大津波によって失われ、核燃料の冷却が不可能になったことで起きた。だから、「非常用電源」はとても重要である。もちろん、非常じゃない電源も大事なわけだけど、大きな災害、事故などで「仮に電源が失われたとしても」、非常用の電源が働くから安心できるわけである。(原発に限らず、電気が失われると大変な施設は同じことが言える。)

 当時は道路工事があって、排水路が一部ふさがれていたという。そのため、雨水が道路にあふれ出て、ケーブル配管に流れ込んだ。そして、原子炉建屋の1階に流入し、電気設備が漏電したのである。地下1階にある最重要の蓄電池の真上にも水が来ていた。水は地下2階まで達していた。志賀原発は近くに川などがなく、洪水対策は不要とされていたんだそうだ。

 では、その当時は超大型台風などが来ていたのか。もう具体的な日付は忘れているので調べてみる。8月から9月にかけて、今年は毎週のように台風が日本付近に来た。しかし、台風16号が9月20日に大隅半島、21日に紀伊半島に上陸したのが、(いまのところ)今年日本に上陸した最後の台風。(台湾の東海上でUターンして長く留まったあの台風)次の17号は27日に先島諸島に近づき、台湾に進んだ。18号は26日に発生したが、沖縄に近づいたのは10月3日、韓国に被害を与えた後で東進して10月5日に佐渡島付近で温帯低気圧になった。

 つまり、台風などではなかった。当時は1時間当たり26ミリの雨が降っていた。これはどのぐらいの大雨なんだろうか。一般的に「記録的短時間大雨情報」は、1時間に100ミリの雨だという。調べてみると、注意報、警報を出す基準は地域ごとに違い、公表されている。志賀町の基準は、大雨警報は1時間に50ミリ、大雨注意報は1時間に30ミリだとある。つまり、けっこう降ることは降っていたんだけど、「大雨注意報を出す基準には達していなかった」のである。

 停止中の原発でも、使用済み核燃料の冷却を続けている。このときに、もっと大量の雨が降っていたら、どれほど恐ろしいことが起きていたか。そして、福島であれだけの事故が起きたんだから、およそ考えられる事態は全部考えて対策を取っているんだなどと思うと、誰も予想もしなかったケースはあるのである。大雨注意報が出るような雨じゃないのに、非常用電源が失われかけた。専門家じゃない我々には気づきようもない、誰も予想しない事態がまたどこかで起きないと言えるのか。

 ところで先に書いた新潟県知事選は、16日に投開票された。そして周知のように、予想を超えた大差で野党系の米山隆一氏が当選した。米山隆一=528,455、森民夫=465,044 なので6万3千票ほどの票差である。(他に無所属新人が二人いたが、米山氏は52.15%で過半数を超えている。)

 7月の参院選では、森裕子=560,429 中原八一=558,150 だったが、幸福実現党が2万4千票ほど取っていて、森裕子の得票率は49%だった。(幸福実現党は主張的にはウルトラ保守だから、政策だけで考えると、自民の票を奪っている可能性が高い。それが参院選後に「弾圧」を受けた理由かもしれない。同党は公職選挙法違反(買収)で逮捕者が出て本部も捜索された。それに対して「(再逮捕・長期勾留は)民主主義の危機」とするコメントを出している。)

 もっとも投票率が低いため、与党系も野党系も票を減らしている。国政選挙に対して、地方選挙は投票率が下がり、特に単発の首長選挙は低くなる。今回は53.05%だが、それでも前回、前々回より10%近く高い。「原発再稼働の是非」に絞った単一イシュー選挙が功を奏したのである。

 それにしても、民進党の対応は理解できない。最終盤に蓮舫代表も応援に行ったけど、推薦も支持もない候補を「野党第一党の党首」が応援してもいいのだろうか。いくら勝てそうな感触が出てきたしても。(衆院補選の情勢が厳しいので、勝てそうなところにも行ったとされる。)応援に行くのが悪いというのではない。「自主投票」なんだから、民進党議員が個人的に支援するのは何の問題もない。だけど、党首なんだから最低限「党本部段階での支持表明」がいるんじゃないか。一方、連合新潟は森候補を支持し、民進党本部は連合に党首の対応を「釈明」しているという。それもおかしな話で、説明して欲しいのは、「国政選挙で対決した与党系候補を、なぜ連合新潟が支持したか」の方だろう。

 民進党も問題だけど、「労働組合」が原発支持でいいのか。企業内組合であったとしても、仕事がなくては困るというのがホンネだとしても。国民世論からかくも隔絶した労働組合とはどんなものなのか。こういう事例を見ると、日本にいま必要なのは「自主労組『連帯』」だと改めて強く思う。労組に限らず、「自主」と「連帯」が日本に必要なんだと思う。
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脱原発の途上で-震災3年目③

2014年03月21日 23時48分01秒 |  〃 (原発)
 東京電力の福島第一原発の事故に関しては、最近も汚染水を処理する多核種除去設備ALPS(アルプス)が故障して停止したと伝えられるなど、「汚染水処理」をめぐって厳しい状況が続いている。また、福島県議会議長は、原発立地地14道県の道県議会議長でつくる「原子力発電関係道県議会議長協議会」から3月末で脱退するという話である。福島は自民党を含めて、既存原発の廃炉を求めているのに対し、他県の議長らは原発再稼働を前提にしているからである。

 こうした状況は小さな記事だが、一応伝えられている。しかし、政府の中枢のある東京と福島現地では、だんだん状況の違いが大きくなってきた感じがある。しかし、今もなお、突然住宅を追われたまま帰れなくなっている人々が何万人もいる。福島第一原発にほど近い町村は、人が住めない状態となって3年になった。自然災害では伊豆諸島の三宅島で、2000年に噴火にともなって全島避難した例が記憶に新しい。この時は2005年に避難命令が解除されたが、3800名ほどいた住民は現在2700人ほどで、7割ほどになっている。一方、人間の行いにより自治機能のある地帯がなくなった例としては、足尾鉱毒事件の遊水地をつくるため強制的に廃村とされた栃木県谷中村のことを思い出さないわけには行かない。それにしても、これほど広い場所が人が住めないまま数年も経ってしまうということの「精神的な空虚感」は非常に大きなものがある。

 さて、原発問題には様々な視点がありうる。事故の状況もまだまだはっきりとされていない点があるようだが、現地は普通の人は行けないから、現場の状況は語れない。放射線被曝の影響、福島県民健康調査の問題、「風評被害」に関することなど考えるべき問題は多いが、自分にはっきり語れないテーマが多い。論点が細かくなるにつれて、専門的な知識がないと書けないような感じになった。人には関心領域やフィールドの違いがあるから、僕には「日本のハンセン病の歴史」とか「袴田事件の冤罪性」など、ある程度は細かく書けるテーマもあるけど、原子力問題はお門違いなのである。だから、原発事故直後はかなり書いていたが(そのことは過去の記事をさかのぼって行けば判る)、最近は書いてこなかった。

 一方、この間の脱原発運動に関しても、「多分そうなるだろうなあ」という道をたどっているように思う。今回はそれまであまり社会運動に関係してこなかった層が、インターネットやケータイ(スマホ)を通して新しい運動を作り出していくと「期待」していた人も多かったようだけど、自分の時間を費やして行う社会運動である以上、僕はそう楽観的になれなかった。今回はチェルノブイリ事故後以上に粘り強く継続されていくと思うし、そうでなければならないが、どうしても「日本の社会運動の弱点」を完全に免れることもできない。(その「弱点」って何だと問われるだろうけど、今書く気はしないので、勝手に想像してくれて構わない。)今回は、「脱原発とは何か」を中心に、今後の脱原発への道のりを考えることを中心に書く。

 原子力発電所というものは、(改めて書くまでもないが)電気ネネルギーを発生させるタービンを回す動力に、核分裂反応で生じる大量の熱(で水を沸騰させた蒸気エネルギー)を利用するという仕組みである。だから、基本的に「脱原発」というとき、「では電気は何でつくればいいのか」という発想がなされてきた。そこで「再生可能エネルギー」を発展させるべきだ、いや、それは無理だろうなどという議論になる。現時点で日本の原発はすべて点検期間に入っていて一基も稼働していないわけだが、では日本は何で電気を作っているのかを確認しておこう。2012年度のデータになるが、電気事業連合会による2013年5月の資料によれば、火力発電合計で88.3%、内訳を見れば、LNG(液化天然ガス)が42.5%で一番多い。続いて、石炭が27.6%、石油等が18.3%である。他では、水力発電が8.4%、原子力が1.7%(当時唯一稼働していた大飯原発のもの)、地熱及び新エネルギーが1.8%となっている。(なお、天然ガスの輸入元は、オーストラリア、カタール、マレーシアについでロシアが4位となっている。このため、ウクライナ情勢は日本にとっても非常に頭の痛い問題である。)

 このように事実上火力発電、それも天然ガスが発電の半分近くを占めている。これは地球温暖化をもたらすとか、アベノミクスによる円安で巨大な財政赤字が生じているなどの問題があるのは事実。(短期的には、いくつかの原発を稼働させれば、電力会社の財務状況を相当に改善させるのは間違いない。)でも、放射性廃棄物の処理も決まってない以上、どこかで「脱原発」に向かっていく必要がある。現在は原発が稼働していないため、「この状態を続けて行けば脱原発」になるという主張も強い。昨年からは小泉元首相が「首相が決断すれば、脱原発できる」と盛んに発言するようになった。でも、本当にそうなんだろうか。それはもちろん大事なことだが、「政府のエネルギー政策」という話である。原発と、そこに蓄えられている使用済み核燃料はそのままではないか

 福島第一原発事故の経緯を思い出せば、運転中だった1~3号機は、地震により緊急停止したものの、津波による電源喪失(地震による震動で損傷した可能性も残されているが)により冷却が不可能になって、炉心溶融(メルトダウン)に至った。しかし、定期点検中だった4号機でも「核燃料プール」の冷却が不可能となり、水素爆発が起こるなど非常に危険な状況が続いた。(場所が離れていて、やはり点検期間中だった5・6号機は、一時機能が喪失したものの電源が回復し冷却が続いていて無事だった。なお、4号機の核燃料は今年中に取り出される予定となっている。)そうすると、やはり原子炉に燃料があるかどうかは、非常に重大な違いではあるが、「定期点検中でもけっして安心できず、冷却が不可能になれば大事故が起こる場合もありうる」ということである。

 巨大地震の震動、巨大津波ばかりではなく、巨大噴火、大規模な土砂災害、テロや戦争などの不慮の事態が万が一起きた場合、運転が停止中だったというだけでは安心はできず、完全に廃炉の工程が終了し、使用済み核燃料が取り出されて適切に処理されていないと、十分には安心できないのである。そこまで行って「完全な脱原発」と考えると、今直ちに全原発の廃炉を決定したとしても、人員的、資金的に2050年になっても終わってはいないだろう。というか、核廃棄物の処理方法が決まってない以上、何年というメドを立てることさえ全く不可能な状態にある。そこまでの時間で考えてみると、どうも予想される東南海地震や首都圏直下型地震の方が先に来てしまいそうである。

 さて、原発を今後新設することは可能だろうか。いくら何でも、それはできないのではないか。山口県の上関原発(工事中断中)は1980年代から建設計画があったが、強固な反対運動があり今もなお建設できていない。群馬県の八ッ場ダム、沖縄県の辺野古への米軍基地移設などを考えても、新たに原子力発電所を作ろうなどという試みが実るとは思えない。原子力規制委員会だって、今ある原発の審査で精一杯で、新設を申請してもいつ認可されるか判らないし、土地買収、漁業権放棄、環境調査などが順調に進むわけがない。福島第一原発はもともと7号機、8号機まで建設する予定だった。このように今ある原発の施設内に新設できる場所がないとは言えないかもしれないが、それでも相当な時間がかかるのは間違いない。

 原子力規制委員会の規制方針によれば、「原発は基本的に40年で運転終了」だということである。ということは、今ある原発のすべては、2050年頃にはもう終わっているのである。今後も日本の発電で原子力を維持し続けようと思うなら、新設するには強い反対運動を考えれば、30年、40年はかかってしまうと予想できるから、今直ちに原発新設に動き出さなければ、21世紀半ばにはどうしたって原発は終わってしまうのである。

 日本で現在「生きている」原発(原子力規制委員会が認めれば運転できる可能性がある原発、正式に廃炉となっていない原発)を調べると、16原発、全48基になる。(正式に廃炉が決定しているのは、東海原発と福井県にある「ふげん」、浜岡原発の1・2号機と福島第一原発の全6基の、計10基となる。)その運転開始の時期を調べてみれば、70年代前期(つまり、すでに期限の40年が来ているもの)が6基もある。今後10年内に運転開始40年を迎える、70年代後期が6基80年代前期が6基となる。以下、80年代後期が10基、90年代前期が11基となり、90年代後期が4基、21世紀に運転開始となったものはたった5基である。こうして見ると、日本の原発はもともと70年代から80年代頃の技術だったのである。今後どんどん廃炉の過程に(政権の方針に関わらず)入って行って、「40年ルール」を変えない限り、2030年代半ばには10基程度しか残らない

 その時点で、日本の人口は9000万人程度に減少しているはずで、新たに原発を新設する必要などどこにもないだろう。そうなったら、残った原発(2030年代まで原発が生き残ったとして)を維持する必要も経済的には少ない。前倒しして原発を卒業するという方が、賢いシナリオになってくるはずである。このように見て来れば、早いうちに原発を卒業し、廃炉作業を進めていく方が「正しい方向性」だというのは、常識で考えれば揺るがないと思う。

 ただ、もちろんエネルギー問題や経済合理性などとは違った観点から考えれば、また結論は別となる。日本はアメリカ、ロシア、中国と三大核兵器保有国に囲まれている。「東アジアの安全保障状況は大きく変わった」と安倍政権などはいつも言うけど、かつて野党時代の石破茂自民党政調会長(当時)が2011年夏頃に主張していたように(僕もこのブログで当時書いたけれど)、「日本がプルトニウムを保持しているということを示すのが重要」だという考えである。原発を運転すれば、プルトニウム型原爆の材料となるプルトニウムが得られる。もちろん日本は核不拡散条約に加盟し、プルトニウムは国際原子力機関の査察を受けている。しかし、それでも「プルトニウムが国内に大量にある」、そして「原爆製造の技術的、経済的可能性はありうる」と世界的に考えられている。この状況の方が望ましいというのが、恐らく「原発を保持していく」という安倍政権の真意だろうと思う。結局、現政権にとって、「安保が優先」なのだと判断している。(ちょっと書きそびれた問題があるので、それは明日以後に。)
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拉致と原発

2011年12月29日 01時08分57秒 |  〃 (原発)
 2002年の小泉訪朝により、「北朝鮮」が拉致事件を認めてから来年でもう10年。普天間返還問題と同じようにこの問題も先行きが見えないまま時間だけがたっていく。前から一度「拉致と原発」という題で書きたいと思ってきた。一つには、今年出た本の中でも極めつけに面白いと思う、蓮池透「私が愛した東京電力(かもがわ出版、1500円)という本の存在がある。著者は、拉致被害者蓮池薫さんの実兄で、02年当時は「拉致被害者家族会事務局長」だったことは多くの人が記憶しているだろう。その後、家族会の中で意見の対立があり除名されるに至ったが、独自の立場で言論活動を続けている。

 というようなことは知っていても、蓮池透さんが1977年から2009年まで東京電力社員であり、東京理科大卒業後、入社してすぐに福島第一原発に勤務していたというようなことは今回の事故が起こるまでは誰も無関心だっただろう。その後本店勤務、再び福島勤務を経て、核燃料リサイクルの仕事に携わった。吉田昌郎前福島第一原発所長と一緒に働いた経験もある。総被曝量が人体に影響があるとされる100ミリシーベルトに達している人である。今回の事故を受けていろいろな人が発言をしているが、東電内部で原発の技術者をしていた人が直接書いた本はこれだけである。多分しばらく今後も出ない。東電社内の様子など興味深い記述が多いが、出来れば直接読んでほしい。東電社員がどうしても規格はずれにならないような「優等生タイプ」の採用が多くなる一方で、「行っちゃった人」(つまり精神的に不安定な行動が見られる人)も少なからずいるという部分が納得できた。学校の世界と同じだなと思う。

 さて、蓮池透さんの本のこともあるけれど、それ以前に僕はあることに気づいた。拉致事件にも様々な様相があるが、77年の宇出津(うしづ)事件(久米裕さん)と横田めぐみさん事件を先駆けとして、日本から直接アベックを拉致するという凶悪な事件は78年に集中している。つまり、地村保志さん・濱本富貴恵さん夫妻(福井県小浜)、蓮池薫さん・奥土祐木子さん夫妻(新潟県柏崎)、北側が死亡としている市川修一さん、増元るみ子さん(鹿児島県吹上浜)、曽我ひとみ・ミヨシさん親子(新潟県佐渡)である。「李恩恵」とされる田口八重子さんも78年だが、事情がよくわからない。つまり、この事件を見ていて気づくことは、工作員が拉致を実行した地点が原発設置場所の近くであることが多いという事実なのである。

 蓮池夫妻の柏崎は、東電刈羽柏崎原発。地村夫妻の小浜は、直接的には原発はないものの日本一の原発集中地域である若狭湾沿岸のど真ん中にある。小浜以外の周辺市町には皆あるといってよい状態である。市川・増元さんの吹上浜を少し北上すると九州電力川内原発。石川県宇出津は能登半島の富山湾側だが、日本海側にある北陸電力志賀原発は遠くない。突発的に生じた可能性が高い新潟市内の横田めぐみさん事件、曽我さん親子の佐渡を除き、原発に近いところで拉致事件が起こっているではないか。(佐渡は朝鮮半島には近いが、島だから原発を作っても電力を持ってくることができない。)拉致事件当時は原発が稼働以前のところがほとんどである。だから、北工作員が原発を標的にしていたのではなどと言いたいわけではない。そういうことではなく、「原発立地の適地」は、同時に「日本人拉致の適地」でもあり、つまりは人口過疎のさびしき場所だったということなんだろうと思う。

 戦後社会において、見捨てられてきたものの象徴が「原発」と「拉致」の中に見えてくる。もう一つ、そこに「普天間」を置く必要があるだろう。このトライアングルの中に、戦後日本の欺瞞とねじれが隠されている

 野田首相が宣言した「原発事故の収束」には批判が多い。何をもって収束とすべきは、僕にはよくわからない。冷温停止と言っても1号機なんか30度代で温度が低すぎる。燃料棒はメルトダウンして格納容器には全くないと思われるから、核燃料も何もない場所を測っているだけだという意見もある。いろいろなことがまだよく判っていない。本当に危険な事故が、多くの人の決死の努力でなんとかこれ以上の最悪の惨事にはならずに年を越せそうだということは言えそうだが。

 原発事故のことは、6月の東電総会までにいろいろ考えたけれど、畑違いでわからないことが多い。僕の関心からすると、どうしても戦後社会史、戦後思想史の中で考えていくことになる。書き切れずに残っていることは多いが、とりあえず「拉致」「普天間」「原発」を総合的に見る、という視点を提出しておく。
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原発事故・必読本

2011年08月25日 23時59分45秒 |  〃 (原発)
 本の話をしばらく書き続けたいんだけど、まず第1陣は原発事故関係の本。時間が経つと書く価値が薄れるのでまず記録しておくことにします。1冊目の本は、岩波新書の今月新刊広河隆一「福島 原発と人びと」。これは必読です。760円。全然難しくないから、このくらいの岩波新書は買いましょう。

 広河隆一さんはフォトジャーナリストとしてパレスティナやチェルノブイリなどの取材を続けてきた人で、雑誌「DAYS JAPAN」の編集長でもあります。1943年生まれで、すごく有名な人。チェルノブイリ支援運動なんかで僕にも親しい名前です。事故から半年近くたって、もう事故当時の緊迫感を忘れつつある部分があります。広河さんは事故直後に現地へ向かい、チェルノブイリ取材の経験を生かして、放射線の危険性を訴え続けました。現地の人々の声がいっぱい入ったこの本は、写真入りでとてもわかりやすく、中間まとめの本として必読だと思います。

 これでわかることは、(当然と言えば当然なんだけど)、政府はあたふたするだけで有効な対策を打つことができず、最初の数日の一番重大だった時期の避難態勢が問題だったことです。
 「政府」と言ってもそういう人はいないわけで、政治家は放射線のことはわからないので、保安院とか原子力委員会とかそういうポストの学者に聞くしかないけど、彼ら御用学者は頭の中が「想定外」で機能しなくなっていて、もともと人権意識が低いからそういうポストにいられたわけで、役に立たなかったわけです。ここで反原発派の学者を招くようなことはできていたらいいんだけど…。社民党が連立離脱する前だったら少しは違っていたかね。

 そして、その結果放射線をめぐる「新しい差別」を生み続けているということです。原発事故でまた「非科学的な無知と差別意識」から福島の人々への言われなき差別待遇が生じてしまいました。ハンセン病市民学会に行ったとき、ハンセン病回復者の皆さんが、この「新しい差別」に心の底から怒りと連帯感を表明していたことに感動しました。しかし、その後の動向はこの本で読む限り、かなり大変な状況。「自分の頭で考える」という当たり前のことを忌避する言動が、行政側にも市民運動側にもあるように感じます。

 そんな中で、前に6月25日付ブログで紹介した安斎育郎さんの「からだのなかの放射能」(合同出版)という本は貴重です。もっとも1979年の本に増補したもので、前半の科学史のエピソードが今となっては「のんき」に見えなくもないと自分で言ってます。しかし、この大変なさなかにも放射線の本質をきちんと知ろうというためには、ここが大切だと思いました。まあ、要するに歴史系の話は興味があるんですね。

 で、その結果、核実験や原発事故の話の前に、自然放射線の話で本の半分が終わります。いや、案外からだの中の自然放射能は多いんですよ。全部合わせても1円玉の半分にもならないって後書きで書いてますが、つまり1円玉の半分近くの放射能が自然に体内にはあるのです。(だからごく微量の放射線被ばくが直ちに危険ではないわけですが、だからと言ってそれが安全なわけではないので、自然以外の放射線被ばくは極力減らす努力をすべきです、と言ってると僕は理解しました。)
 考古学で有名な「炭素14法」で知られるように、有機物は(生物はすべて)放射性炭素を持っていますが、それがどのくらいあるのか、どういう意味を持つのか、この本で初めて知りました。しかし、からだの中にたくさんある炭素(炭水化物が主食なんだから)よりも、筋肉に蓄積されるカリウムの中に自然に存在する放射性カリウムの方がずっと多い。しかも脂肪の多い女性より、男性の方が体内放射能が多いなど、聞いたことがありますか?また、入れ歯をピカピカにするために、昔アメリカで発明された方法がウランを入れ歯に塗るという方法だということで、ホントかね。今は使われていないということですが。

 そもそも放射能って何だ、半減期って何だ、ウランやラジウムって何だ、というあたりから判りやすく書かれています。まあ、僕は科学の話を書くと間違いそうだから書きません。そんなに難しい本ではないので是非自分で読んで見て欲しいと思います。
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福島の皆さんへ言いたかったこと

2011年08月18日 00時13分38秒 |  〃 (原発)
 最近「困ってる人」の記事を見る人が多いみたいで、夏休み期間中に毎日順位が出てます。つまりブログの閲覧者が1万人以内だと順位が出るのですが、最近は5千番、4千番台まで来てます。
 記事については、本や映画も書くけど、原発問題、政治論議も途中。そして高校無償化問題も途中なんですが、次に書く朝鮮学校の問題はいろいろ複雑な検討がいるので後回しになっています。しかし、この問題で一番書きたいのは、多分僕以外に誰も書けない「無償対象者の年限問題」なんですね。でも、その前に、「Image.Fukushima」の方の目に留まったみたいで、コメントを寄せていただきました。そこで、実は当日時間があれば会場で発言したかったことがあるので、それを書くことにします。

 まずはこのような対談を毎日企画した「Image.Fukushima」の皆さんに感謝したいと思います。このような企画が福島で実現できたことは日本の希望だと思います。

 さて、東北はあちこちたくさん行きました。海外も行きたいけど、専門が日本史だし、海外旅行は都教委への届け出が面倒なんです。西日本もいいけど、教師が一番長い休暇を取れる夏休みには暑いんですね。昔、フェリーで宮崎まで車で行って、鹿児島、熊本を回ったけど、あまりの暑さに参りました。ということで、最近は毎年のように東北。白河から恐山まで、塩屋崎から大間崎までと言うか、随分行ってます。父方をたどれば群馬を経て山形、母方をたどれば栃木を経て福島です。福島は富岡です。原発避難地帯そのものです。小さい時に泳ぎに行ったということで、親戚は今もいて、避難後に電話してみたけど誰も出なかったと母親が言っていました。(当たり前ですよね。)そういう意味で東北の津波大被害、原発事故への衝撃は、当然誰でもあるでしょうが、自分でも大変大きいものがありました。

 そういう中で、福島へ何回来たかなあと話を聞きながら思い出してみました。多分15以上、福島の温泉だけで泊ってると思います。山も好きで磐梯、安達太良、東吾妻の一切経山、会津駒など登っています。(100名山の平ヶ岳は大変そうで行ってませんけど。)また、勤務先の学校行事でもよく来ました。林間学校や移動教室と言う名前で、1年生や2年生で行う宿泊行事ですね。江戸川の中学でも、足立の商業高校でも、墨田の夜間定時制でも、あれ、思い出してみれば皆行ってる。磐梯山、浄土平、鶴ヶ城、野口英世生家、尾瀬…というふうに個人的な思い出もいっぱい詰まってるところです。地元だと温泉は日帰りができるので、案外僕の方がたくさん泊ってるのかもしれません。秘湯好きなので、飯坂、東山なんかは行ってないのですが。(あまり名前を書くのもどうかと思うけど、あえて書くと、鷲倉温泉がおススメ。)その中で秘湯好きには有名な「日本秘湯を守る会」そのものを福島が支えています。この会の会長として会を発展させてきたのが、「二岐温泉 大丸あすなろ荘」の館主佐藤好億(よしお)さんです。現知事は佐藤雄平さん、前知事は佐藤栄佐久さんですが、僕にとって福島で一番の佐藤さんはこの方です。この素晴らしい宿の館主の佐藤さんは、地方から発信する素晴らしい文化運動の担い手だと思っています。

 さて、そんなことでずいぶん福島もいろいろ行ってますが、(三春の滝桜も行ったけど、花見山へ行ってるのは東京では少ないでしょう)、中山義秀記念館なんか行ってる人は少ないでしょう。(戦前戦後に活躍した作家。歴史小説が多い)。そんな中で、こんなに忘れられていていいのかという場所がありました。それは松川事件記念塔です。見えていてもどうやって近づけばいいのか、とにかく行きにくい場所でした。松川事件は1949年に起きた列車転覆事件で、共産党員の犯行とされ多くの被告が裁判で有罪になりました。(一審福島地裁で死刑5人)。被告は無実を訴え、作家の広津和郎氏をはじめ多くの人々が疑問を持ち、大規模な救援運動が起こりました。最終的には最高裁で有罪判決が破棄され、1961年に仙台高裁で全員無罪、1963年に最高裁でそれが確定しました。

 佐藤栄佐久さんの本には「検察の捜査がこんなものとは知らなかった」とあるのですが、松川事件で検察は死刑被告のアリバイを証明するメモを隠していました。松川の教訓が生きていれば、今頃可視化などという議論がもめることはなかったでしょう。そして、松川事件の救援運動は大きな教訓をいくつも残していると思います。

「現地調査」の大切さ いろんな市民運動で今では当たり前に行われている現地調査は、松川運動の遺産だと思います。東大児玉教授の国会証言でも同じ場所でも放射線値がいろいろ違う。細かい調査が必要と言ってますが、原発の問題、津波の被害も多くはまだ実際に見ることなく議論している人もいます。現地へ行き、話を聞く。科学的な調査をきちんとする。その重要さ。
「統一と団結」 思想を超え、党派を超え、おかしいものはおかしいということ、シロウトの疑問を大切にすること。これが松川運動の広がりを支えたと思います。無罪後は、やはり共産党と言う党派性に捕われていった点は否めず、そのため60年代後半以後に松川運動が継承されにくかったのではと思います。今後、原発のあり方(減らし方)、放射線の危険性の考え方などについて、様々な考え方の違いが現れ、今までいつもそうだったように、「分裂」が起こってくるのではないかと思います。(もう兆しはあるかな?)一番大切なことは、シロウトがおかしいと思うことを大切にする。被害者の声を重視する。党派性を押さえて、個別の課題を皆で考え、まとまれるところはまとまっていく。感情的にならず、じっくりしぶとくやっていく。そういうことだと思います。

 そういうようなのが「松川の教訓」だと思っていて、冤罪事件だけでなく、多くの場で大切に引き継いで行かなくてはいけないと思います。ちょっと今の時点の言葉が入ってるけど、こんなことを言いたかったかな。

 さて、近所のスーパーで福島の桃を安く売ってました。こんなに安くていいのかな。でも、安いから買ったのも事実ですね。とても美味しかった。 
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原発はプルトニウムの工場

2011年07月12日 21時29分49秒 |  〃 (原発)
 原子力発電所とは何か? 
 ウラン238を核分裂反応を起こせるようにウラン235に濃縮し、そこに連続反応がおきるように中性子をぶつけ、巨大な核分裂エネルギーを発生させる。2800度にも達する熱エネルギーの3分の2は海に温排水として捨て、残りの3分の1で水を温め蒸気を発生させタービンを回して発電を行う。一方、核分裂が起きると、ウランは放射能を持つ様々な物質に変化して、プルトニウムなどの放射性廃棄物ができる。

 というような判ったような判らないような解説がいろんな本に出てる。電気を生み出す仕組み自体は火力発電と同じだが、そのことを今まで知らなかったという人がいたのには驚いた。原子力で得る熱は大きすぎて調整が難しく、せっかく得たエネルギーの大部分は海に捨てるので、原発を「海あたため装置」と呼んだのは水戸巌さんである。
 原発は放射性廃棄物の処理費用まで考えれば、事故が起きないとしてもコスト的に民間企業が行うにはリスクが大きすぎる。そこで、国は廃棄物処理の方を引き受けるとともに、事故がおきた時のための「原賠法」を作った。そして、最終処分場の建設は国が責任を持つと言ってきたが、まだどこも引き受けていないし、今後も引き受けるところが出るとは思えない。そのまま危険な廃棄物が各原発にたまっている状態である。

 では、国はそこまでしてなぜ原発を推進したいのだろうという疑問になる。
 一つは、アメリカから買う超巨大技術だということだろう。戦後日本では自衛隊や民間航空会社がアメリカの会社から買う飛行機をめぐって、何度も疑獄事件が起こっている。原発はさらに土地買収、漁業権の放棄などが必要で、そこは怪しい人々が暗躍する利権の巣になったはずで、地域の保守勢力の力の見せ所だろう。そういう「利権としての原発」が大きいのは間違いない。しかし、それだけでは原発はとらえられない。なぜなら核兵器の原料となるプルトニウムができるから、アメリカの世界戦略に関わる問題で、アメリカにとっても儲けになるからどこにも売りまくるという問題ではない。

 そこで原発の意義をこう逆転して考えてみる原発はプルトニウム製造工場で、その過程で熱エネルギーが発生しその3分の1を生かして発電するが、どうしても使い切れないので残りの熱は海に捨てる装置である、と。

 日本はむろん非核3原則で核兵器を持たないと表明している。だから原発でプルトニウムが大量にできると問題で、できるわけない「核燃料サイクル」とか無理やりウランと混ぜて燃やしてしまう「プルサーマル」などを無理やり推進してきた。しかし、日本以外の原発大国は核兵器保有国だから、プルトニウムができても問題にならない。
 日本には自国ではいらないことになってるプルトニウムが大量にある。だからそんな危険な原発を何故いつまで持ってるのかというのが反対派の言い分だった。もう全く正当なその疑問に答えるには、実はプルトニウムはゴミ(核廃棄物)ではないという見方をするしかないのではないか。つまり、核兵器原料を大量に保管すること、それが原発を維持し続けてきた真の目的なのではないか

 考えてみれば、大量の核廃棄物(特にプルトニウム)をどうするんだという問いへの一番簡単な答えは、「日本も核兵器を開発すればいい」というものではないか。となれば、核開発を(心の奥底で)めざす超国家主義者にとって原発は経済コストの問題などではないのだ。日本は、憲法上の解釈の問題はあるが、いざという気になれば核兵器を開発する経済力と技術力がある「潜在的核保有国」であることは国際的に認められている。従って、その気になれば数年で開発できるプルトニウム型原爆の原料が大量にあるということは、それ自体が「一定の抑止力」であるという考え方ができなくもない。中国や北朝鮮の動向を見ていれば、この「一定の抑止力」を放棄するなどという政策は考えられない、そう考える政治家がいた、ということが原発を保持してきた最大の理由なのではないだろうか。(なお、日本はIAEAの査察はちゃんと受けて管理されていることが確認されているので、実は秘密裏に核兵器を開発してたとか、裏でテロ支援国家に流れてたりすることはない。)

 もちろん、日本が核兵器開発をするということは現実的には考えられない。国民感情とアメリカの反発で、その政権は崩壊することだろう。だが、選択肢として核開発を残しておくというのが、日本が原発大国である選択をした意味なのではないか。今そう思い始めているところである。
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東京電力の責任問題②

2011年07月11日 22時00分25秒 |  〃 (原発)
 関東も梅雨明けし、脳ミソの融点を超えるような猛暑が続いている。もうあんまりマジメなことを考えたくない気分だけど、昨日の続きだから書いてしまおう。昨日も書いていて、自分であまり面白くない感じがした。それは何故かと考えてみて、こういうブログの意味は何かと思った。それは反対論を書いたり、こういう問題もあるという別視点を出すことにあるのだろうと思う。今までは大体そういうことを書いた方が多い。自分の意見を書けば自然にそうなるのである。しかし、この原発事故の補償問題で言えば、結局政府の考えている枠組みに基本的に賛成なのである。原案賛成では書く意味が乏しい。でも、両端の意見を考慮しておく必要はあるし、実はその先の議論をしたいのである。

 昨日書いたように、東電倒産処理はかえって事故被災者に不利な面が多い。一方、東電を免責するのはどうか。これは最終解決が法的処理に持ち込まれる可能性が高く、時間がかかって誰にも無理が多いということで、皆が避けようとしている。「東電を免責する」と言っても100%の免責にはならないが、有名になった「原子力損害の賠償に関する法律」(原賠法)では、第3条に「原子炉の運転等の際、当該原子炉の運転等により原子力損害を与えたときは、当該原子炉の運転等に係る原子力事業者がその損害を賠償する責めに任ずる。ただし、その損害が異常に巨大な天災地変又は社会的動乱によつて生じたものであるときは、この限りでない。」とある。(下線部、引用者)

 東日本大震災が「巨大な天災地変」に当たらないなら、どうなれば該当するのか?東電を倒産させるなら、この条項の適用を求める裁判が起こるだろう。株主の利益を考えれば、東電経営陣はこの条項の適用を政府に求めるべきではないのか。実はそういう質問は株主総会で何回も出されたが、結局は経営陣としてはそれは適当ではないという答えだった。認識としてはという問いでは、認識としては第3条の「巨大な天災地変」にあたると考えるという答弁だった。しかし、その適用をめぐって訴訟となった場合、被害者補償が遅くなり過ぎ、それは被害を与えた企業として望ましくない。政府が現在国会に提出している「原子力損害賠償支援機構法案」(経産省HP)の枠組みで補償に取り組むという答えだった。この問題に関しては、それ以外の考えは僕にも持てない。

 国民負担はおかしい(税金を補償に使うな)という議論もあるが、原発は国策として進めてきた経緯からしてそれは通らないだろう。(国は国策としてこんにゃくゼリーやユッケを食べろと言ったわけではない。国は薬害エイズや注射針の使い回しによる肝炎などの感染を防ぐ義務はあっただろう。そういう例を考えると、原発ほど国策として進められ、国が安全を保障していた事例はないのではないか。)佐藤栄佐久前福島県知事の本を読むと「国こそが真のムジナ」だと書いてある。原子力関係にはムジナやタヌキがたくさん住んでいて、その総本山は電力会社ではなく国そのものだという認識である。国といっても、民主国家なんだから結局は国民の責任ということになり、税金で処理するということになる。しかし、原発をどうするかは国政でも地方選挙でも、一番の争点ではない時が多いかもしれないけど、一応は争点になってきた。選挙に行かなかった人も含めて、国民の目に見える形で負担するのはやむを得ないと考えている。つまり所得税、法人税ではなく、消費税で賄うべき。それが国民の責任だと思う。福島県と沖縄県は据え置きでいい。(沖縄は原発がない一方、もう一つの「迷惑施設」の米軍基地があるので。)また、選挙権を認められていない在日外国人には、その分の税金還付をすべきである

 ところで、この原賠法と言う法律はなんなのだろうか?成立したのは1961年で国内で原発が営業開始するずっと前である。いつも法律というのは、問題が起こってからあたふたと後追い的に作られることが多いが、この用意のよさはなんなのだろう?そして、せっかくあるのに、この大震災で適用しないなら、もう二度と第3条が適用されることはないだろう。じゃあ、なんだったのだ?民間企業を危険な原発業務に引きずり込むための巧妙な手段。要するにそういうことだろう。
 では、何故そこまでして、原子力発電所を作るのか? ここで、日本の戦後史全体を考える必要が出てくるのではないかと思う。
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東京電力の責任問題①

2011年07月10日 23時14分20秒 |  〃 (原発)
 前にいずれ書くとしていた「東京電力」の責任問題をこの時点で簡単にまとめておきたい。なお、東電株主総会前後に、「東電経営陣」に経営責任があるということは書いておいた。経営者は利潤を出せない外部環境にあっても結果責任を負うが、それでも経営危機への対応、経営方針の見直しなどのスピード性や統率力などで評価を高める経営者もいっぱいいる。しかし、東電経営陣が原発事故への対応で見せたのは経営不在とも言える事態で、企業の信頼を大きく損なった。

 ところで法人としての「東京電力」そのものの責任に関しては、両方向からの議論がある。なお、「原子力損害の賠償に関する法律」(原賠法)でも、また一般的に公害等の企業責任を考えるときの「PPP」(汚染者負担原則=polluter-pays principle)から言っても、 事故被害賠償の責任がまず東京電力にあるのは間違いないので、それは考えるまでもない自明の前提として話を進める。

 議論の一つは、東電そのものに責任があり、もはや(何兆円にもなるという)賠償金を払えるメドはなく実質的には債務超過だからつぶしてしまえ、というものである。「東電が倒産して、誰が困るのか?」(佐高信、週刊金曜日7.8号)というのが代表的な言い方だが、その答えは原発事故被害者が困るのである。民主党政権は日航は法的整理したのに何故東電は救うのか?と言う人もいるが、本業で行き詰った日航と本業ではなく大事故で賠償責任を負うことで経営危機にある東電は全然事情が違う。会社が倒産すると、一般的には担保のある銀行等の融資や社員の給料などの労働債権が優先して保護される。一方債権者集会を開こうにも、被害は今も広がりつつあり損害賠償権を誰が持つのか今はっきりさせることはできない。これでは今法的整理に踏み込むと事故被害者が一方的に被害を受けかねない。

 100%減資して株主の責任をと言う人もいるが、これはおかしい。事故当日まで本業に大損失を予想する材料はなく、東電そのものの失態による事故ならともかく大地震による大損害を株主だけが引き受ける意味がわからない。東京都だけで現在の株価でも10億円以上の価値がある。所有している自治体も多いし一方的に減資されても困る。多くの人に関わってくる。そういうこともあるが、今後も電気はいるので、東電を倒産させるということは新東電を作って事業はそちらに移し、旧東電は賠償会社として実質国有化するという枠組みになる。この旧東電は普通の事業清算の場合と異なり、少なくとも50年程度は存続させなくてはならない。モチベーションの持てない管理会社を作ってもあまり意味はない。

 結局、水俣病を起こしたチッソのように、将来的には電力事業の再検討も含め分社化もありうるが、当面は東電と言う枠組みで賠償をしていくしかないというのが、常識的な結論だと思う。では「原賠法」をどう考えるか。問題はこちらなのだが、長くなったので一端切って明日に。
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尾瀬は大丈夫か?

2011年07月09日 23時10分53秒 |  〃 (原発)
 ずっと原発について書く中の、番外編。尾瀬は大丈夫か?

 何を言っているかわからない人もいるかもしれないが、尾瀬ヶ原は東京電力の水利権があったところで、群馬県側の土地は東京電力が今も所有している。(福島、新潟は国有地。)日本の自然保護運動は尾瀬の保護運動に始まり、尾瀬の保護運動は東電の開発計画との闘いだった。東京電力が発電所計画や分水計画を断念したのは1996年のことである。
 現在、尾瀬の木道を整備しているのは「尾瀬林業」という東電の100%子会社である。東電は尾瀬保護に年2億円を投じて、今は自然保護、観光の中心を担ってきた。

 こういう流れを見てくると、今後東電が今までのように尾瀬の保護に金を掛けられるか、大規模原発事故への対応で莫大な資金が必要な中で、心配になってくる。この問題は、ずっと前から心配で一度書いておきたいと思ったのだが、ほとんど他で取り上げられていない。(朝日新聞6.21夕刊「窓 論説委員室から」が僕が今まで見たただ一つの例外。)

 尾瀬は(個人の他に)林間学校で計3回行った。特に1989年夏に行ったときは、山小屋2泊、コース別分宿というすごいことをやった。僕は今まで担任をした学年ではすべて旅行行事を担当したので、いろいろな思い出があるのだが、このときの尾瀬林間学校は僕の宿泊行事の最大の思い出。まさに尾瀬林業が経営している「東電小屋」「元湯山荘」「尾瀬沼山荘」に分宿した。僕は東電小屋に泊まっている。とにかく山小屋まで行きつかなければ寝ることができない。具合が悪いからふもとのホテルで待つ、ということができない。疲れた生徒の荷物をみなで持ち合いながら、やっとついた山小屋の周りの尾瀬沼、尾瀬ヶ原の美しさ、素晴らしさ。この旅行の思い出と感激は忘れられない。

 その尾瀬を今後も永遠に残していくのは日本人の宿題だが、何か方法はないか?勝手に書くと、尾瀬を国民の手で買い取れないか、と思うのである。尾瀬保護財団の理事長である群馬県知事(先ほど再選された)は反対しているようだが、一部でよく言われる「無利子国債」(その代り相続税の対象外とする)などは「尾瀬債」でこそ意味を持つような気がする。いろいろなアイディアを出すことで、寄付金も集まるのではないか。個人で100万単位、企業で1千万、1億単位で出すところもあるのではないかと思う。(尾瀬買い取り財団指定の水芭蕉ロゴの使用権を多額寄付企業に提供する。尾瀬3県の宿泊施設割引や特産物割引を寄付個人の特典とするなどなど。)僕はどこかでマジメに考えてみるべきだと思う。
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