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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

梅崎春生兵隊小説集Ⅱ『日の果て・幻化』を読む

2025年08月31日 21時32分01秒 | 本 (日本文学)

 中公文庫の「梅崎春生兵隊小説集Ⅱ」を読んだ感想を書いておきたい。ちょっと前にⅠ巻目を書いたが、思っていたより『桜島』が面白かった。2巻目でも遺作となった『幻化』を初め、冒頭の『日の果て』など重要作は前に読んでいる。最初の方の作品はフィリピンや中国戦線の話で、国内にしかいなかった梅崎春生の実体験ではないことは明らか。取材して書いているわけだが、その問題は後回しにして、『幻化』を先に取り上げたい。『新潮』の1965年6月号に前編が発表された後、梅崎は7月19日に肝硬変で急逝した。後編は没後に発表され、毎日出版文化賞を受けた。戦後文学を代表する傑作という評価が定着している。

 僕はこの『幻化』が昔から好きで、読むのは3回目。「五郎」という男が飛行機で鹿児島を目指す。五郎はどうも入院中で、勝手に抜け出してきたらしい。それも精神科らしい。機内で一緒だった男とタクシーで坊津に向かう。しかし、男と離れて一人で吹上浜をさまようのである。どうやら20年前に兵隊としてこの辺りに来ていたらしい。その思い出のある土地に再び向かう。『桜島』は「七月初め、坊津にいた。」と始まる。梅崎作品は円環を描いて、同じ所に戻ってきたのである。この坊津という場所は、薩摩半島西部の港町で、鑑真が上陸したところとして知られ「鑑真記念館」がある。僕は昔ここまで訪れて、記念館を見た思い出がある。

 作中でも触れられているが、坊津はかつて薩摩藩が「抜け荷」(密貿易)に使った港でもある。何も鑑真や密貿易に関心があったわけではなく、ここまで行ったのは『幻化』の影響だった。同じ地域、特に吹上浜を見てみたかったのである。ところで、今回3回目に読んでみて、意外にも吹上浜のシーンが思ったより少なく、後半が熊本市と阿蘇山の話になって、同行の丹尾(にお)という男のエピソードになっていく。すっかり忘れていたのである。この小説は吹上浜で女や少年と出会って、昔一緒だった兵隊の死を思い出す場面が心に沁みるのである。そういう「再訪」の作品だと思っていたが、案外現在が介入してくるのに驚いた。

(吹上浜)

 小説では「湯之浦温泉」と出ているが、現在は「吹上温泉」と称している。前に訪れた時は、「日本秘湯を守る会」に入っていた(現在は退会)、「みどり荘」に泊まった。ここは名湯で料理も美味しかった。その温泉のことは、『鹿児島県の吹上温泉みどり荘ー日本の温泉⑱』に書いている。なかなかもう一度行くことは難しいところだけど、是非再訪したい場所の一つ。

 国内ものは短編が多いが、外地ものはもう少し長い作品が多い。Ⅰ巻は17編を収めるが、Ⅱ巻は9編とほぼ半分である。自分の体験じゃないだけに「作り物」感がするものが多い。面白いんだけど、作品的価値としては国内ものに及ばない作品が多い。中で『日の果て』(1947)は力作で、フィリピン戦線の苦難を伝えている。1954年に山本薩夫監督、鶴田浩二主演で映画化されている。作品的評価は同じ山本監督の『真空地帯』(野間宏原作)に及ばないというのが定説だろう。

 日本軍はほぼ崩壊状態にあり、花田軍医に至っては陣地を離脱して「現地人」の女を「情婦」にして別の場所で一緒に住んでいるぐらいだ。それを苦々しく思う部隊長は帰隊を命じるが、花田は無視している。そこで宇治が呼ばれて「花田軍医を射殺せよ」と命じられる。やむなく宇治はもう一人を連れて出かけたが、ホンネとしては自分も脱走したいぐらいなのである。こうして目標を失った前線で、軍の論理と個人の論理が究極的な対立を迎える。ジャングルの描写など見事な出来で、中に出て来る衝撃的なエピソードの数々も印象的である。日本軍はすでに崩壊していて、本来なら降伏すべきなのだが日本軍は捕虜となるのを禁じていた。

 ここまで詳細な取材がどうして可能だったのか。普通は伏せておくような問題がいろいろと出てくる。実はこの取材相手は実兄だったらしい。そのことは平山周吉氏の解説に詳しい。『桜島』に兄が比島にいるが、もう生きてはいないだろうと書かれている。比島は「フィリピン」のことで、内地でも激戦が伝えられていた。その兄が実は生還できて弟の取材に答えたということらしいが、兄は弟の作品に不満があったらしい。兄は梅崎光生という人で、著書もあるということだ。

 そもそも僕は梅崎家の実情など何も知らずに読んでいた。春生は東京帝大を卒業しているが、ただの一兵として入隊している。幹部候補生は志願しなかったが、戦争末期で召集解除になる見込みはないと見極めて、下士官にはなることにしたと書かれている。あまりにもただの兵隊でいるのは辛い経験だったからだ。まあ小説内の記述だけど、事実だと思う。そういう兵隊だから、多分「普通の家庭」出身だと思っていた。「普通」といっても、大学まで行かせられるんだから都市の中産階級ではあるだろう。

 ところが、梅崎の父、健吉郎陸軍士官学校出の職業軍人だったのである。陸士15期で、梅津美治郎、多田駿、河本大作などと同期なんだという。(それぞれ昭和史に名を残す軍人だが、詳細は省略。)梅崎健吉郎は病身もあって、宇垣軍縮の時代に退役になったという。そういう家庭に育った梅崎春生がどうしてここまで「非軍人」的な小説を書いているのか。それも「自我の苦しみ」などと無縁にひたすら軍内の暴力などを描写している。梅崎春生文学にはまだ謎が残されているようだ。

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梅崎春生兵隊小説集Ⅰ『桜島・狂い凧』を読む

2025年08月25日 21時41分49秒 | 本 (日本文学)

 イタリアの作家チェーザレ・パヴェーゼを読み終わって、次は梅崎春生(うめざき・はるお、1915~1965)の戦争小説を読んでいる。中公文庫から『桜島・狂い凧』『日の果て・幻化』という分厚い2冊の文庫本が春に刊行された。中公文庫は独自編集が多いから、これもそうだろうと思っていたら、70年代末に光人社から出たものの文庫化だった。実は梅崎春生の重要な小説は大体前に読んでいる。今さらこんな600頁を越える文庫を2冊も読まなくてもいいかなと思いつつ、「戦後80年」「梅崎春生生誕110年」と帯にあってつい買ってしまった。今読まないと読まずに終わる気がして、猛暑の日々に読んでいるわけである。

 梅崎春生は文学史的には「第一次戦後派」と言われる。1946年9月に発表した短編『桜島』が認められ新進作家と評価された人である。もっとも1939年に「早稲田文学」に『風宴』という佳作を発表していた。一度陸軍に召集されたが、その時は即日帰郷となった。そして戦争末期になって、海軍に再召集され暗号兵として鹿児島県に配属された。軍にいる間に30歳を迎えたという「老兵」だった。運良く国内に配属されたから、戦争を生き延びることが出来、復員して年内には『桜島』を書き上げていた。発表が翌年になったのは出版事情が悪かったためだという。地理的描写は現実だがエピソードはすべて創作だと言っている。

(梅崎春生)

 昔読んだときには、『桜島』にあまり強い印象を持たなかった。戦後に認められた若手作家をまとめて「戦後派」というが、文壇登場の順番で「第一次戦後派」「第二次戦後派」「第三の新人」などと呼ばれた。1946年段階は占領中のため、原爆や沖縄戦の実情はまだ書けなかった。旧「満州国」などからはまだ帰還出来ない人が多く、シベリア抑留に至っては梅崎と同年生まれの詩人石原吉郎が日本に帰還できたのは1953年だった。フィリピン戦線の大岡昇平は1945年末に復員していたが、『俘虜記』がまとまるにはもう少し時間が必要だった。こうして、『桜島』が軍体験者によって書かれた最初の重要作品になったのである。

 しかし、もっとずっと後に「文学青年」になった自分にとっては、そんな順番は関係ない。大岡昇平『野火』、原民喜『夏の花』、遠藤周作『海と毒薬』などの苛烈な傑作を先に読んでいた。より下の世代だった大江健三郎の『飼育』『芽むしり仔撃ち』も読んでいた。そういう目で見ると『桜島』は、戦争文学の衝撃性では弱かったのである。もちろん梅崎も大変な経験をしていたのだが、国内にいても島尾敏雄のように特攻(飛行機ではなく「震洋」という特攻用小型ボート)隊長として出撃命令を受けたまま終戦を迎えたというさらに苛酷な体験をした人もいた。若い時はどうしても「内容の深刻性」で比べてしまうのである。

 しかし、今読み直してみれば、なかなか良いじゃないか。何しろ読みやすくて面白い。そういうエンタメ的とも言える才能は、後に1954年に『ボロ家の春秋』で直木賞を受賞したことにも現れている。ベースは「純文学」なのだが、案外ユーモア小説やミステリーなどエンタメ小説も書いた作家だった。そして、今になるとテーマが新しく感じられる。米軍の空襲はあるけれど、フィリピン戦線やガダルカナル島、インパール作戦、沖縄戦などのような生きるか死ぬかの苛酷な日々とはちょっと違っている。

 じゃあ何をしているかというと、もしかして来るかも知れない米軍の上陸作戦を前にして、ひたすら無意味な軍内の争いをしているのである。簡単に言えば、「軍隊の不条理」をとことん書いている。『狂い凧』は長編だが、他に16の短編が収録されている。中には同じエピソードが出ているが、急いで書いたためかもしれないし、何度も書きたかったのかもしれない。「海軍」は陸軍に比べればスマートな印象を持っている人が今もいると思うが、全然そんなもんじゃないことがこの本で良く判る。ホンのちょっとした階級や召集時期の違いで、「海軍精神注入棒」による私刑(体罰)が荒れ狂うのである。

 「本土決戦」を前に内部で争いあって、体力を消耗している。そういうくだらなさが全編で繰り返される。だから、いったん「終戦」となったら、上下を問わずひたすら軍需物資を「私物化」することに精を出した。復員を前に軍が持っていた缶詰などを自分のものとして貯め込んだのである。厨房関係者に比べて、暗号兵は恵まれていないが、それでも皆が出来る限り、何でも持ち帰ろうとするのである。それは「日本国」のものを横領する行為だが、誰もそんなことを気にしない。そもそも「公」の軍じゃなかった。

 そういう日本軍の本質を、歴史的に、思想的に分析した難しい本は他にもある。でもこれほど理解しやすく書かれた読みやすい小説は他にない。「戦争」という怪物と格闘した「戦後文学」は、大岡昇平野間宏島尾敏雄などたくさんの作家がいるけれど、皆それぞれ難解である。今はもう「日本軍」を直接体験した人はほぼいない。「軍」の内部のみに特化した梅崎春生の初期小説は、今こそ価値を持っている。「日本軍」、中でも海軍に何か幻想を持っている人にこそ、これらの小説を読んで欲しい気がする。

 『狂い凧』は双子の兄弟の戦場体験を描く。1963年に刊行されて、翌年の芸術選奨文部大臣賞を受けた。早すぎた晩年の作品で、小説技法の円熟は見事。初めて読んだけど、とても面白かった。中国戦線の衛生兵だったという設定だから、自分の体験ではなく取材しているわけだろう。中国奥地(大同付近)の描写も自然で、悲劇の道行も納得出来る。非常に立派な作品だと思った。なお、一部に「今日の人権意識に照らして不適切な語句や表現」がある。それも含めて時代性を考えるヒントと受け取るべきだろう。

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柚木麻子『BUTTER』を読むー「女性・料理・犯罪」をめぐる壮大な失敗作

2025年07月11日 21時27分31秒 | 本 (日本文学)

 柚木麻子(ゆずき・あさこ、1981~)の『BUTTER』(2017、新潮文庫)という小説がイギリスのインターナショナル・ダガー賞の候補に選ばれたというので、読んでみることにした。すでに報道されているように、受賞作は王谷晶ババヤガの夜』だったが、どっちも日本ではミステリーとして高く評価されたわけではなかった。そもそも『BUTTER』は犯罪小説とは言えるだろうが、ミステリーとしての興趣を求めるべき小説じゃない。ジャンルとしては「女性小説」「料理小説」と言うべきだろう。

 この本はとにかく長くて(文庫本で580頁を越える)、かなり難儀した本だった。確かに面白いんだけど、読むごとに焦点がズレていくような小説。日本では直木賞候補となったが、受賞出来なかった。今まで『伊藤くん A to E』(2013)、『本屋さんのダイアナ』(2014)、『ナイルパーチの女子会』(2015)、『BUTTER』(2017)、『マジカルグランマ』(2019)、『あいにくあんたのためじゃない』(2024)と6回直木賞候補となっている。ミステリー作家ではなく、「女性小説」(というジャンルがあるかどうか不明だが)というべきだろう。現代社会に生きる女性の様々な状況を描き、考えさせる作風かと思うが初めて読んだので違うかも知れない。

 『BUTTER』という小説は、週刊誌記者である町田里佳が男性3人を殺害したとして1審で無期懲役となった梶井真奈子(カジマナ)を取材する話である。もっとも当初は全然相手にされなかったが、友人である伶子のアドバイスに従って東京拘置所にいるカジマナに「ブログに出ているビーフシチューのレシピを教えて欲しい」と手紙を出す。そうすると会っても良いと返事が来て面会と文通を重ねる。カジマナは一生を愛人として生きてきたが、ルッキズム的観点からは太っていて美形ではない。その代わり、料理が得意で「孤独な男」を食事を通して魅了してきたらしい。そのため町田はカジマナの伝えてくる料理を食べ続けることになる。

 カジマナのブログには印象的な言葉がある。「どうしても許せないものが二つある。フェミニズムとマーガリン」というので、これがイギリスでは宣伝に使われているらしい。ホンモノの料理にはバターが欠かせないとカジマナは主張し、何も時間を掛けなくても「たらこパスタ」や「塩ラーメン」にバターをたっぷり乗せるだけでどれだけ美味しくなることかと言う。それを実践する町田は次第に太ってしまい、付き合っている会社の同僚から何かあったかと問われてしまう。女は体重で量られる存在なのか? ほとんど自炊もしなかった町田は次第に料理に囚われていく。そしてカジマナの独占手記も可能になりそうとなるのだが…。

 そしてカジマナは自分の母と妹に会うことを命じ、町田は付いて来た伶子とともに新潟に向かう。そこから伶子の活動が重要になっていき、ミステリー的な面白さも出てくる。まあ全部書く余裕もないが、伶子の生き方と結婚の内情、自分の亡き父親との関係、会社内の上下関係など様々な要素が語られ、日本社会の「ミソジニー」(女性嫌悪)が明かされていく。しかし、カジマナは本人が主張するように、無実なのだろうか。その本来一番重大なはずの問題が次第に後景に退き、町田の会社内での関係が重要になっていく。どうもいくつもの趣向が統合されきらず、ごちゃ混ぜになったまま提示されている感じを否定できない。 

(柚木麻子)

 直木賞芥川賞については、「直木賞のすべて」というサイトがあって(「芥川賞のすべて」という子サイトは「直木賞のすべて」から見られる)、何しろ一年に2回もある新人賞だから誰がいつ受賞したか忘れてしまうから非常に役立つ。昔の作家はともかく、最近の作家なんか誰だか判らない人が多い。ところで、このサイトには親切にも候補作の選評も掲載されているのである。では『BUTTER』はどのように評されていたのか見てみたい。そうするとほぼすべての選考委員が「酷評」に近いので驚いた。

 北方謙三「丁寧に取材して丁寧に描写され、相当の労作なのだと思えたが、ベタ塗りと感じられる部分も多く、それが作品からダイナミズムを奪ったのではないだろうか。」「料理の描写も、ただうまいものを作るというのではなく、完成までにさまざまな言葉が費されていて、結局はそれが味を落としてしまった、という気がした。」

 宮部みゆき「作中に登場する食べ物と、それを食べるシーンは臨場感があって、たらこパスタなどはすぐに作って食べたくなりました。」「残念だったのは、カジマナの犯罪の中身があまりにも具体性を欠き、物証もなく状況証拠の積み上げもないまま、「検察側のいびつな精神論」だけで一審で無期懲役の判決を受けたという設定が、どうしても納得できなかったことです。」

 桐野夏生「核となる「梶井真奈子」の悪の引力が足りない。」「社会のミソジニー傾向を指摘するなど、作者は相変わらず鋭いのだが、今回は残念ながら、少し散らかった印象がある。」

 高村薫「興味深い人間像に迫ろうとして見事に失敗した作品である。人間に迫ろうにも、男性三人を殺害した事件の設定が杜撰すぎて、殺人犯が殺人犯になり得ていないからだが、志や良し、と思う。」

 いや、さすがに皆読み巧者である。僕もほぼ同じように感じるのである。だが読んでおく意味はある小説だと思う。

(世界各国で翻訳された)

 この小説の最大の「キモ」は「バター」にある。バターの香りが全編に漂っている。僕もバターが嫌いではないし鮭のムニエルなど大好きだ。でも普段は余り食べないし、こんなにバター臭が濃いとちょっとゲンナリする。これは加齢とともに次第にそうなったのだが、若ければ小説内の料理をもっと食べてみたいと思ったかも知れない。この中に出て来る料理のほとんどは、描写的には興味深いけれど食べてみたいと思えなかった。むしろ勘弁してよという感じである。「定年で退職した男が蕎麦打ちにハマる」という設定なら、全然違和感がないけれど。つまり「年齢の壁」がかなり大きな小説なんじゃないだろうか。

 もう一点、梶井真奈子は実際のモデルがある。「首都圏連続不審死事件」を検索すれば詳細が出てくる。画像も多く出てくる。「3人殺害」(実は怪しい被害者はもっといたのだが、自殺などで処理されていて起訴出来なかった)なので、有罪となれば日本では死刑が避けられない。実際にもう最高裁で死刑が確定している。(小説の刊行は最高裁判決の年。)無期懲役になるはずがない事件であり、仮に1審無期なら検察側も控訴するだろう。本来だったら「死刑囚を取材する」わけで、その大変さは無期囚とは比較にならないはず。日本には死刑制度があることを忘れて読めるから、欧米ではフェミニズム小説として受容出来たのではないか。

 死刑制度をネグって成立させたという手法が最後までたたっていると思う。極東で描かれた「女の生き方」のあけすけなホンネはヨーロッパから見れば興味深いだろう。フランス料理を中心にレシピ本としても使える。だけど「壮大な失敗作」かな。

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『私の東京地図』『キャラメル工場から』『素足の娘』他ー佐多稲子を読む

2025年06月19日 21時50分04秒 | 本 (日本文学)

 佐久間文子美しい人 佐多稲子の昭和』を読む前に、佐多稲子の作品を少し読んでみた。先に読んだのは評伝の影響を受けすぎないようにという配慮である。この際、昔読んだものをずっと読み直そうかと思ったが、時間もかかるし時代が古くなっていて飽きてしまった。一番心に響いたのは、『私の東京地図』(1949)である。佐多作品の中でも、(連作)長編小説としては一二を争う人気作だろう。過去の町並みが焼けてしまった敗戦直後の東京を歩いて、自分の過去を追憶し自己点検する。下町の幼年期に始まり、やがて夫と共に非合法活動に関わり東京を転々とする。自分の歩んできた人生を東京の変化を見つめながら振り返る。

 読んだのは1972年に出た講談社文庫で、前に読んで好きな本。今は講談社文芸文庫に収録されていて、一応在庫はあるようだ。久しぶりに読み直してみると、夫(窪川鶴次郎)やその仲間と知り合って「左傾」していくところが案外面白くない。昔は切実なテーマだったと思うけど、その後の流れを今では皆知っているということが大きい。それより幼い頃の向島、上野池之端、日本橋界隈を見事に甦らせる文体と構成に感心する。「東京下町の作家」としての佐多稲子の姿を伝える作品だ。点描される思い出の人物が鮮烈なのである。林芙美子の『放浪記』より素晴らしい「佐多稲子の放浪記」じゃないだろうか。

(佐多稲子旧居跡のプレート)

 長崎から出て来た佐多稲子(当時は田島一家)が住み着いたのは隅田川の東、今の墨田区(当時は向島区)だった。すみだ郷土文化資料館の横手に佐多稲子旧居跡のプレートがある。(今回撮ったのではなく、3月の隅田川散歩の時に撮ったもの。)小学校を辞めて働きに出たキャラメル工場は神田和泉町(千代田区の北東部)にあり、時には隅田川を渡って歩いて通うこともあった。賃金が安いため交通費を稼げない日もあったからである。「東京地図」が頭にないと実感が湧かないが、下町で苦労して育った人である。

 その工場体験を描いたデビュー作『キャラメル工場から』を表題に掲げた本が、ちくま文庫の佐久間文子編『キャラメル工場から 佐多稲子傑作短編集』(2024)である。『私の東京地図』や『時に佇つ』など「連作」の中からも選ばれていて、佐多稲子の本質が短編作家だとよく判る。戦中戦後の庶民を見つめて忘れがたい作品が多いが、特に『』(1963)は前にも何度か読んでるが素晴らしい傑作。東京で働く少女が母危篤と電報がありながら故郷に帰れない。死んだ知らせが来て泣きながら列車を待つ上野駅の一瞬間を切り取った作品だが、人間本質に迫り崇高さをも感じる名作。「60年代」の本質を伝える短編で、読んでない人は是非。

 1971年に出た「新潮日本文学」の『佐多稲子集』という本は半世紀以上読まずにいた。いつ買ったかは覚えてないが、まあ学生の頃だろう。定価700円だった。3つの長編といくつかの中短編が収録されているが、『素足の娘』(1940)は興味深かったが、『くれない』(1938)と『灰色の午後』(1960)という小説は、読みにくいわけではないのだが内容的にウンザリした。

 面白かった『素足の娘』だが、評伝を読むと重大なフィクションが施されていた。兵庫県の相生の造船所書記として働く父のもとで暮らした日々は、少女が大人になっていく日々でもあった。主人公は小説の途中で明らかにレイプされ、そのことをめぐって様々に思い惑う。そんなテーマが戦前に書かれていたのかと驚いたが、それが虚構なのだという。周辺の人物はほとんどモデルがいて、現地では皆がよく判るらしい。そのため主人公を山で襲うという設定の人物にもモデルが想定され、妻にも疑われて非常に迷惑したのだという。佐多稲子は直接会いに行って謝罪したというが、この問題は奥深い。しかし、相生には碑が立ったという。

 戦時中の『くれない』と戦後の『灰色の午後』は、名前が変わっているが明らかに窪川夫妻をモデルにしている。それは当時誰でも判ったことで、窪川鶴次郎の「過ち」(まあ浮気、今でいう「不倫」)と夫婦の危機は新聞にも出たから皆知っていた。周囲の人物も壺井栄、宮本百合子、原泉など、設定が変わっているけど大体想像出来る。男が他の女に心を移すという話だけなら、古来よりたくさんあるだろうけど、ここでは二人は「同志」であり、また「作家同士」でもあった。共産党員であっても浮気はするだろうが、妻が治安維持法違反容疑で逮捕、起訴され、いよいよ判決という日の前夜も帰らないというのは「階級的裏切り」に近い。

 しかし、そういう問題もあるけれど、夫からすれば同じ家に同じ仕事をする妻がいるのはなにかと気詰まりで、夫婦がともに「知的職業」に就くという新時代ならではの状況なのである。だから当時の女性には共感され、『くれない』はベストセラーになって家計を多いに助けたようだ。「女給あがりのプロレタリア作家」だったはずが、一般誌(「新潮」「中央公論」「婦人公論」など)からも続々と注文が来る。夫より妻が売れて人気作家となったである。この状況(「かつて左傾の過ちを犯したものの、一般的な人気が高い女流」)こそが、軍部に目を付けられ戦地へ派遣される要因となる。子どももいる佐多稲子には拒めなかっただろう。

 だがそれだけでなく、当初は戦争への批判意識を持っていたはずが、長引く「夫婦の危機」の中でいつの間にか当局寄りに変わって行くが自分でも気づけない。そして「戦地の兵士」への同情と涙は「ホンモノ」でもあった。戦地で会った兵士たちとは戦後も交流が続くのである。完全に「執筆禁止」だった宮本百合子と違い、有罪ながら執行猶予だった窪川稲子はその「人気」ゆえに戦争に呑み込まれる。この問題は今も生きてはいるが、もういいよというぐらい事細かに夫婦のいさかいを読むのも辛い読書だった。

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『美しい人 佐多稲子の昭和』(佐久間文子著)を読むーある女性作家の20世紀

2025年06月18日 22時12分09秒 | 本 (日本文学)

 20世紀に活躍した女性作家、佐多稲子(さた・いねこ、1904~1998)の評伝『美しい人 佐多稲子の昭和』(芸術新聞社、3000円)を読んだ。新聞記者だった佐久間文子(さくま・あやこ)氏の著書で、値段を見た時にはちょっと躊躇したけれど、僕は佐多稲子を愛読してきたから買うしかないと決断した。2024年11月20日発行で、これは佐多稲子生誕120年の年に出たことになる。最近になく面白かった本で、やはりこの手の本、つまり文学と歴史それも社会運動史が関わる分野には興味が尽きない。

 生没年を見れば判るように、佐多稲子ほぼまるまる20世紀を生きた人だった。長命だったうえ、晩年(僕がすでに文学趣味に目覚めた後)に数多くの賞を受賞したので、僕は若い頃に「現役作家」として読んだのだった。1972年に出た感動的な『樹影』を除くと他の本は概ね過去の体験を基にするか、または長年の友人・同志だった中野重治を送別する『夏の栞』のように現在を扱っていても内容は過去に関わる本だった。人生を見事に切り取った文体に僕は魅了され、また凛とした生き方にも感銘を受けた。

(晩年の佐多稲子=NHKアーカイブ)

 「数奇」と表現するべきだろう若い時期、奇跡的に作家となり夫や同志とともに「プロレタリア文学」の旗手となるも、逮捕され有罪となる。戦時中は戦地慰問団に加わり、戦後は「戦争責任」を問われた。戦後「党」(もちろん日本共産党である)に再入党するも二度も「除名」されている、などということは僕が読んだ頃までは、多くの人にとって大きな意味を持っていた。「昭和」の女性作家としては、林芙美子宮本百合子などと並びたつ存在で、昔よく出ていた日本文学全集では必ず一巻を当てられていた。

 しかし、亡くなってもう四半世紀も経つのか。名前も知らない若い人が多くなっているんじゃないか。林芙美子は映画化、舞台化されて残ったが、佐多稲子も何本か映画化されているが有名なものはない。その意味では『二十四の瞳』の壺井栄(佐多稲子の非常に親しい友人だった)の方が今も知られているかもしれない。次回書くように、今回少し佐多作品を読んでみて、「女性と仕事」「党のあり方」など書かれた当時は切実なテーマだっただろう問題が今では色あせてしまったところも目に付いた。

(若い頃の佐多稲子)

 佐多稲子の戸籍はもう一枚で収まりきれないほど、幾度もの変遷をしてきたと自ら書いている。長崎で若い父母(旧制中学在学中の18歳の父、女学校在学中の15歳の母)の間に生まれ、戸籍は両親のもとに入れなかった。それでも両親は自ら育てて弟も生まれたが、母は22歳で早世する。明治時代にこんなカップルがいたとは驚きである。父はその後東京に出て来るも、なかなか仕事が無く稲子は小学校を途中で止めてキャラメル工場に働きに行った。それが後に『キャラメル工場から』というデビュー作になるのである。また当時は知らなかったものの、同じ小学校に後の作家堀辰雄がいたというのも奇縁だった。

 こんな風に事細かく佐多稲子の人生をたどっていると、いつまでも終わらない。後は簡単にするが、その後上野の料亭に勤めた後、父の住む相生(兵庫県)で暮らすが、再び同じ料亭に戻った。そこには美術館帰りの作家たちが立ち寄り芥川龍之介菊池寛などを知った。しかし本が好きなために経歴を偽って日本橋の丸善に勤務、そこでは大杉栄中條百合子(後の宮本百合子)を見た。関東大震災を丸善で経験した後、上司に資産家の息子を紹介され結婚。壮絶なDV、モラハラを経て自殺未遂で新聞に報道された時には妊娠していた。子どもを連れて一人で働ける場所を探して、駒込動坂のカフェに勤めることになった。

 このカフェこそが芥川龍之介室生犀星が住み(当時「田端文士村」と言われた)、彼らを慕う文学青年が集まる場所だった。彼ら堀辰雄中野重治窪川鶴次郎ら、後に雑誌『驢馬』(ろば)を創刊するメンバーたちが稲子と親しくなったのである。そして窪川と相愛の関係になっていき、1926年に結婚するに至った。窪川鶴次郎は今ではほとんど忘れられているだろうが、詩人、文芸評論家、文学研究家、そして左翼運動家として、近代文学史にちょっと名を残している。こうして『驢馬』同人たちが「発見」した新人女性作家として、1928年に『キャラメル工場から』が「プロレタリア文学」の新風として評判になったのである。

(窪川鶴次郎)

 これ以後の、作家同士の家庭環境、女性と仕事と育児、非合法活動と逮捕、戦時中の軍慰問などこそ、今も重大な問題を秘めているが、それは次回に小説をもとに考えたい。ここまでの「作家以前」を見ても、何という奇跡の連続で生まれた「作家」だったと思う。さらに浅草時代のカフェを舞台にした作品が川端康成に激賞されたが、その中の同僚が川端の「初恋の人」(元婚約者)だったというのも実に不思議である。佐多稲子(当時は田島稲子)はただの貧乏な少女に過ぎないのに、これほど「文学」に関わるエピソードが多いのは何の因縁だろうか。自殺する3日前の芥川に夫婦であって、自殺方法を聞かれたという逸話もある。

 一度目の結婚は「玉の輿」、二度目の結婚は「同志」だったが、どちらも不幸に終わる。作家デビュー時は「窪川稲子」だったが、戦後に正式に離婚して「佐多稲子」を名乗った。もうそういう名前でしか知らない時代に知ったから、党を離れても左派的な女性運動などに関わりながら、多くの著書を書いた作家という印象だった。その数奇な前半生をこの本でたどると驚くことが多い。もちろんこの本は戦前の党活動、戦時中の慰問、戦後の苦悩と新しい歩みなどを詳述している。今は長くなるから省略するけど。

 僕は若い頃に「文学青年」だったので、近代日本の数多くの作家を読んだものだ。同時代の大江健三郎、安部公房、遠藤周作などもいっぱい読んだけれど、芥川、川端、志賀直哉、堀辰雄なども愛読した。その中で中野重治も大好きだった。政治的立場の評価とは別に「雨の降る品川駅」などの詩に深い感銘を受けたものだ。その中野との関わりから、佐多稲子の名は早くから知っていたが、当時はあまり読まなかった。女性の作家はフランソワーズ・サガンやカーソン・マッカラーズなどは読んだけれど、どうも日本の女性作家は遠い感じがしたのである。しかし、佐多稲子の歩みは忘れられて良いものではない。

 もう一つ、この本には多くの同時代の女性たちの姿、生き方が描かれている。壺井栄、宮本百合子などはもちろん、原泉(はら・せん、女優、中野重治の妻)や中野鈴子(中野重治の妹)など忘れがたい。原泉は昔は非常に有名な俳優で、多くのテレビや映画にも出ていたから有名だった。最近市川崑監督の『犬神家の一族』を再見したのだが、そこでも脇役で出ていた。また瀬戸内寂聴は稲子との対談で、「お父さまと窪川さんとは、どこか似ていますか」と問うと「なかなかあなた、鋭い」と佐多稲子が答えたというエピソードも忘れられないものがある。まあ知らない人は読まないだろうが、「昭和100年」に読むのにふさわしい本。

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金井美恵子の目白四部作、風刺小説の傑作群ー金井美恵子を読む⑤

2025年05月31日 22時19分38秒 | 本 (日本文学)

 金井美恵子の『目白四部作』を読んでみた。『タマや』が最近講談社文庫から再刊されて、面白く読んだ。その中で特に「猫の去勢」問題だけを取り出して、『猫の去勢問題、『迷い猫あずかってます』『タマや』ー金井美恵子を読む②』という記事を書いたけど、『タマや』は「目白四部作」の一作ということなので、他の本も読んでみようと思った。しかし、他の三作は現時点では文庫などに入っていないから、古書を探すか、図書館で借りるしかない。地元図書館にあったので、まとめて借りてきて早速読んでみると、これがとても面白いのである。まあ、そこまでして読む人は他にいないだろうと思うけど、せっかくだから備忘録として。

(『文章教室』)

 金井美恵子は若い頃は西欧風の幻想小説を書いていたが、次第に風刺的な風俗小説を書くようになった。いろいろな情報が詰まっているが田中康夫と違って註がない。特に映画の話題が多いので、人によってはつまらない「おしゃべり小説」に見えるだろう。でもあちこちに「悪意」の地雷が仕掛けられた「メタ小説」なので、いろんな知識があればあるほど面白い。だけど、ただ読んだってひたすら流れるように面白い小説だと思う。いわゆる「起承転結」的な構成に頼らず、水の流れのような融通無碍な小説だ。

 『文章教室』は1983年、84年に「海燕」(福武書店から出ていた今はなき文芸雑誌)に連載され、1985年1月に福武書店から刊行された。四部作最後の『道化師の恋』は1990年に中央公論社から刊行されているので、この四部作はまるまる80年代の物語である。だから基本的な情報ツールは「電話」(固定電話のことだが、固定されてない電話など一般人には無縁だった)である。恋愛もそうだが、親子や友人とのちょっとした連絡も電話で行ったのである。あの時代の「考現学」的な意味でも歴史的な価値がある。

 『文章教室』という小説がなぜ書かれたか知らないけれど、これは文学史に類を見ない「メタ小説」、つまり、小説をめぐる小説になっている。何しろ作家本人じゃなく、「登場人物が書いた」という設定の文章、それも「主婦」「現役作家」の二人の文章が連続するのである。もちろんそれだって金井美恵子が書いてるわけだが、作家の個性を反映した文章とは違って「いかにも紋切型」の文章なのである。それが面白いし、読んでて笑える。しかもバーを手伝っている女の子に惚れてる「現役作家」も紋切型行動をしてしまうというのがおかしいし、「悪意」的観察が笑えるのである。最初は戸惑うが、慣れてしまえば実に見事な技だと思う。

(『道化師の恋』)

 『文章教室』と『道化師の恋』は登場人物の共通性が多いので、続けて書くことにする。まず、渋谷から行く町(川崎か横浜の北の方)に住んでる佐藤絵真という「主婦」が幾つもの趣味の変遷の後、カルチャーセンターの文章教室に通い始める。そして自分用に「折々のおもい」という文を書きためる。絵真の娘、佐藤桜子は英文科の学生だが、恋愛に破れた挙句、助手の中野勉に接近している。中野は文芸評論もしていて目白に住んでいるが、実は留学中に親しくなった英国女性がいる。一方、絵真を教えている「現役作家」(名前は最後まで出ない)は秘かな企みで目白近くに仕事場を持つことにした。全員恋愛をめぐって揺れている。

 『道化師の恋』になると、中野桜子は一児の母となっているが、桜子の前に善彦という青年が登場する。善彦の母は美人女優、橘颯子のいとこであることが自慢だった。颯子は60年代初期に渡米して結婚・引退したが、急に連絡してきて善彦に目白にある颯子の持ってる部屋を安く貸してくれた。二人は秘密の愛人となるが、別れた直後に颯子は事故死する。善彦はその体験をもとに『道化師の恋』という小説を書いて、ある新人賞の候補となって雑誌に掲載される。「現役作家」はその新人賞の選考委員だったし、同じ目白界隈に住んでいる善彦は文芸評論家の中野勉や迷い猫を探す人たちとも知り合っていく。こうして登場人物が錯綜していく。

 『道化師の恋』は各章が『愉しみと日々』『ゲームの規則』『緑色の部屋』『山の音』『彼岸花』など有名な映画や小説から付けられている。『蒼い時』『天使の誘惑』など今では注釈がいりそうな名もあるが、こういう趣向は『タマや』にも共通する。「引用」が重要な小説なのである。幻の主人公、颯子谷崎潤一郎瘋癲老人日記』の主人公(瘋癲老人)が恋する「嫁」の名前だが、ちゃんと谷崎先生の許可を貰って付けたと出ている。美人女優として根強いファンがいて、文芸坐で特集をやってたりする。

(『小春日和』)

 『小春日和(インディアン・サマー)』は1988年に刊行された文庫本で200頁ほどの「少女小説」。ただ大学生になりたての少女のおしゃべりで出来ているすごく楽しい小説。これがただのおしゃべりとしか思えない人には、とてもつまらないだろう。でも、すべてが「メタ情報」なので、映画や本はもちろんファッションや食の情報も相当考えて選ばれている。『タマや』と人物がダブるように出来ているが、本質的には関わらない。つまり、『文章教室』『タマや』『小春日和』は目白界隈で展開されているが、物語内容的には別々なのである。「四部作」というと、時間軸に沿って物語が進行する連作大長編かと思うと全然違うのである。

 その意味では「目白四部作」というより、「目白カルテット(四重奏)」と呼ぶ方がふさわしいんじゃないかと思う。これは昔有名だったロレンス・ダレルの『アレキサンドリア四重奏』に近いように思うのである。『道化師の恋』はフローベールの『感情教育』じゃないかと思うし、『タマや』は明らかに内田百閒の『ノラや』を受けている。そういう風に作中で論及されている過去の作品を「本歌取り」した作品群だと思う。そこには80年代の風俗に関する多くの情報が詰まっていて、今では内容的に古びた段階を過ぎて歴史的価値がある。小津やタルコフスキー程度の映画知識があった方が良いけど、知らなくても楽しめると思う。

 『タマや』だけでは何なので、是非他の作品もどこかの文庫で再刊して欲しいなと思った。『小春日和』の桃子・花子の桃花コンビは作者も気に入ったらしく、『彼女(たち)について私が知っている二、三の事柄』(2000)という続編が書かれた。「目白シリーズ」というらしく、他にも『快適生活研究』『お勝手太平記』という目白シリーズがあるというから、金井美恵子の「目白もの」は現代文学の一大サーガだったのである。今度はそっちも読んでみたい。なお、ここで言う「目白」は学習院大学、日本女子大学、元田中角栄邸などがある方ではなく、僕が昔散歩記を書いた「目白文化村」、地名で言えば下落合近辺なのである。

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『軽いめまい』、評価されなかった大傑作ー金井美恵子を読む④

2025年05月01日 21時28分25秒 | 本 (日本文学)

 金井美恵子軽いめまい』は大傑作である。2025年1月に講談社文芸文庫から刊行されたのは、欧米で翻訳され声価が高まっているという事情があるらしい。本文だけなら170頁ほどなのに、解説(になってないけど)や年譜も入れて240頁。それで2100円と文庫と思えぬ高値だが、これも重厚長大な『虚言の国』(ティム・オブライエン著、村上春樹訳)と一緒に買ってしまった。使ってないままのAmazonのギフトクーポンがあったはずと思い出したからで、実は今回初めてAmazonを使ったのである。

 ネット上に紹介があるのでコピーすると、「きっと夏実はあなたにも似ている。マンション住まい、専業主婦、母……。時々「軽いめまい」を感じます。繊細で強靭な長編小説 ーー郊外の住宅地にある、築7年の中古マンションで、夏実は、夫と小3と幼稚園児2人の息子と暮らしている。専業主婦の暮らしに、何といって不満もなく、不自由があるわけでもない。けれど、蛇口から流れる水を眺めているときなどに覚える、放心に似ためまい。生活という日常を瑞々しく、シニカルに描いた、傑作長編小説。」である。ただし、現在の話ではなく、1988年に『家庭画報』(!)に連載され、講談社から1997年に刊行された。刊行時に相当手を入れたと書かれていて、実際1995年の阪神淡路大震災に関する記述が出て来る。何にしても20世紀末の話なのである。

(英訳版)

 この連作小説は一読すると「退屈」である。金井美恵子の文体に慣れてないと、そのままつまらないと思ってしまうかもしれない。特に当時男性批評家に無視されただろうと推察する。しかし、その退屈さは「批評された退屈さ」なのである。それはスーパーマーケットで売っている食品の配置を記憶していて、ほぼ自動記述のように羅列する文章が二度出てくることでも理解出来るし、また金井美恵子自身が書いた写真展(世田谷美術館で開かれた桑原甲子雄荒木経惟の二人展「ラブユー東京」だという)を批評した文章が掲載されていることでも判る。(ちなみに主人公夏実は世田谷区の馬事公苑ちかくのマンションに住んでいる。そこは「郊外の住宅地」とは言えないだろう。なお、主人公の友人は「アラーキー」の写真を「ただのヌード」だと喝破している。)

(講談社文庫版)

 僕はこの小説を読んでシャンタル・アケルマン監督の200分になる映画『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番』を思い出した。その映画はある女性が家事をするシーンを固定したカメラで延々と映し出している。次第にその女性にも「秘密」があることが理解されるが、それでもドラマと言えるほどのことはラストになるまで起こらない。そういう意味では「退屈」な映画なんだけど、見ている間は全く退屈せずに見入ってしまう。同じように『軽いめまい』は夏実という「専業主婦」に密着するが、映画じゃないからただ見つめることは不可能なので、「意識の流れ」風に周辺の事情が夏実を通して描写される。

 例によって独自の長い文体なのだが、それは映画における「ワンシーン=ワンショット」みたいな技法である。その結果、「日本社会」の実態が明かされていくのである。特に自分たちや子どもの誕生日、結婚記念日、お互いの両親の母の日、父の日などの贈答を細かく記述するシーンに「日本の贈与慣行」が示されている。しかし、何かドロドロした展開になるわけではなく、「結局何も起こらない」に近いのだが、それはほとんどの人の人生も同様だろう。夏実は夫と二人の男児がいる結婚10年目の「専業主婦」だが、昔からの友人たちは皆何か職を持っている。一人だけ「自己実現」から外れている気がして、今の生活を「幸福』と思わなければいけないと思いつつ、ついシンクから流れていく排水の渦巻きを見ていると「軽いめまい」を感じてしまうのだ。

 この「軽いめまい」は英訳で『Mild Vertigo』と訳されてなるほどと思った。ヒッチコックの映画『めまい』の原題が「Vertigo」だから英単語としては知っていたが、「軽い」が「マイルド」というのかと妙に納得してしまう。ただこの小説の主人公夏実については、その後の社会変化によってもう一段の相対化が必要だと思う。この小説が書かれた頃は男女雇用機会均等法制定直後の、「女性も仕事で輝く幻想」が始まり、同時に家事育児の負担も女性に重い現実があった。その後、バブル崩壊、就職氷河期を経て、21世紀になると2003年に酒井順子負け犬の遠吠え』が刊行され、「勝ち組」「負け組」という露骨な表現が内面化されていく。

 『軽いめまい』の主人公夏実は、大企業(恐らく)の研究職の夫がいて、二人の男児(小学生と幼稚園)がいる。目白の実家には両親がいて、時には「ストレス発散」(夏実は「発散」は若い男の性欲みたいで、「解消」と言うべきと反論するが)として母親が買い物に連れて行って服を買ってくれる。夫の実家は長野で、子どもたちは可愛がってくれる祖父母に懐いている。世田谷区のマンションは中古とはいえ高いはずで、転校する上の子は引っ越しに不満だったが学年代わりに転校したら、すぐになじんでいる様子。夫に愛人がいるわけでもなく(多分今後も)、これじゃ小説にならないと思うほど「恵まれている」と思ってしまうのだ。

 21世紀になって夏実はどのように生きているのか、もう還暦を超えているはずだ。子どもも30過ぎだから、二人とも結婚して孫がいてもおかしくはないけれど、むしろ二人とも独身という可能性の方が高いかもしれない。上の子はカナダ、下の子はドバイにいるかもしれない、などと思いながらも「軽いめまい」はいつまで続いたのかと思う。もっと本格的なドラマが起こったかもしれないけれど、実際の我々の生活にはそんな大きなドラマは起きず、実父母と義理の両親の介護に明け暮れて暮らしているのではないか。

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『カストロの尻』『愛の生活/森のメリュジーヌ』(特に『兎』)ー金井美恵子を読む③

2025年04月22日 21時47分49秒 | 本 (日本文学)

 金井美恵子を読むシリーズは断続的に続けて行く予定。スマホ変更話が入ってしまったので、2回に分けて書こうと思っていた本の話を1回にまとめることにする。まず2017年に新潮社から刊行された(2024年に中公文庫に収録)『カストロの尻』。何という題名かと思う人が多いだろうが、見ただけでニヤリとする人もまた多いんじゃないか。これはスタンダールの『カストロの尼』という小説を登場人物が間違えているのである。1839年に発表された中編小説だから、もちろんキューバ革命のカストロとは何の関係もない。だけど、登場人物は『カストロの尻』と聞いて、それはグアンタナモ基地をめぐるスパイ小説かと思ってしまった。

 『カストロの尻』は2018年に芸術選奨文部科学大臣賞を受賞していて、それをめぐる様々なエピソードは著者自らが後書きに書いている。賞金は30万円だったとか。金井美恵子は生涯に3回文学賞を受賞したが、1979年に泉鏡花文学賞(『プラトン的恋愛』)、1988年に女流文学賞(『タマや』)で、それ以後30年間文学賞に無縁だった。さらに「文壇」内で一番重要な出版社が出している野間文芸賞(講談社)、谷崎潤一郎賞(中公)、日本文学大賞(新潮社、1968年~1987年、それ以前は新潮社文学賞、それ以後は新人賞である三島由紀夫賞、山本周五郎賞となる)は受賞出来なかった。特に賞金300万の野間賞が欲しかったと正直に書いている。

 ま、そんな話題はいかに金井美恵子が「文壇」的には「異端」だったということだが、最後に何と(僕も知らなかったのだが)「70歳という年齢制限のある」芸術選奨文部科学大臣賞に滑り込んだのである。1947年生まれだから、刊行時70歳でギリギリ。しかし、まあよくぞ「オカミ」がこの賞をくれたもんだと思う。別に内容的に特に不道徳過ぎるとは言えないし、破壊的でもないけれど、なかなか判りにくいのは間違いない。でも、間違いなく大傑作。めくるめくイメージの連鎖に酔いしれるしかない作品である。岡上淑子(おかのうえ・としこ、1928~)という写真コラージュ作家の作品に触発されたイメージをもとに書かれている。

 もっともまさに蓮実重彦(このフランス文学者&映画評論家に著者は大きな影響を受けているが)が誉めそうな、よく判るようで判らない、でも不思議に懐かしいイメージが連続するような映像体験に似た小説。そもそも小説なのか。明らかにエッセイ(あるいは評論)にはさまれて、小説風の文章が連続するがその内容は幼年時の記憶や映画体験などを中心に連続して浮遊していて、一見して理解しやすいストーリーは語られない。様々なレベルの「語り」が混在していて、なかなか判りにくいが、一度とりこになると忘れがたい世界だ。ただし世界文学や映画に関してコアな議論が出て来るから、無理して多くの人が読む本でもないだろう。

 一回目でまるで金井美恵子を初めて知ったかのように書いたけれど、それはレトリック。ホントは若い頃に第一作品集『愛の生活』が新潮文庫に入った時に買っている。だけど、ちょっと斜め読みした感じでは難しそうだったので、きちんとは読まずに今も本棚のどこかにあるはず。そのちょっと後に第一エッセイ集『夜になっても遊び続けろ』が講談社文庫に入った時、買いはしなかったんだけど題名が妙に気になったのを覚えている。その後はずっと読んでなくて、たまたまちょっと前に小川洋子編著『小川洋子の偏愛短編箱』(河出文庫)に入っている『』という短編を読んで、完全にノックアウトされてしまったのである。

(単行本の第3作品集『兎』)

 その本は幾つかのアンソロジーに入っている他、講談社文芸文庫の『愛の生活/森のメリュジーヌ』に収録されてる。1500円で文庫としては高いけど、講談社文芸文庫としては安い方だ。金井美恵子は半世紀以上の作家生活の中で、かなり違った作風の小説を書いているが、初期はヨーロッパの幻想小説みたいな短編が多い。その時期(1980年以前)の重要短編を収めた本で、これは好き嫌いが分れるだろうが幾つかの作品は紛れもなく傑作。ただし『兎』は凄いんだけど、兎が可愛いという話では全くなく、題辞にあるルイス・キャロルの世界とも相当違う。日本文学史上屈指の「トラウマ小説」なので、無理して読まない方が良い作品。

 でも確かに傑作であって、欧米での評価も高いらしい。『愛の生活』は1967年に太宰治賞の最終候補となって注目された作品。この作品や次の『夢の時間』はなかなか面白くはあるけれど、いかにも「若書き」である。若書きの魅力と若書きの退屈さが同居している。『森のメリュジーヌ』のメリュジーヌというのは、フランスの水の妖精だという。いかにも的なヨーロッパ風ファンタジー。『アカシア騎士団』『プラトン的恋愛』という最後の2短編は幻想、怪奇味のある傑作短編。物語性の豊かな作風が成功している。

 しかし、それらを超絶しているのが『』で、こんなに変テコで、怖いぐらいの少女小説は絶対に他では読めない。映画でも演劇、漫画などでもないと思う。だけど、ホントにトラウマ必至なので、そういうのが大丈夫だと思う人だけ読むべき小説だ。

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猫の去勢問題、『迷い猫あずかってます』『タマや』ー金井美恵子を読む②

2025年04月19日 21時57分09秒 | 本 (日本文学)

 1回目で書いたように金井美恵子は猫を飼っていた時期があり、中公文庫に入っているエッセイ集『迷い猫あずかってます』は帯に「猫愛100%」と書いてあるぐらい、愛猫トラーを「寵愛」していたのである。それは可愛さの余り思わず甘やかしてしまうのではなく、姉妹の年齢を考えると「最後のペット」になると覚悟を決めて、初めから「徹底して甘やかそう」と思っていたのである。僕は猫を飼ったことがなく、この本を読んで「猫とはこういう動物なのか」とものすごく面白かったし、驚くことが多かった。

 その猫は飼うつもりで買ったり貰ったりしたものではなく、題名通り初めは「迷い猫」だったのである。それは1989年12月18日のことで、2007年9月4日午前2時50分に亡くなるまで、ほぼ16歳の天寿を全うするまでの様々な出来事はこの本や『目白雑学』のⅠ、Ⅱ巻のあちこちに書かれている。この本は最初は1993年に新潮社から『遊興一匹 迷い猫あずかってます』と題して出版された。今は2023年から中公文庫で再刊されたものが入手しやすい。猫好きの人はもちろん、ペットや動物一般に関心がない人が読んでも面白いと思う。ちなみに原題「遊興一匹」は加藤泰監督の『沓掛時次郎 遊侠一匹』から付けられたが、再刊に当たってもう通じないと思って削除したと出ている。1993年には通じたのかどうか、まあある時代の映画ファンには必見だったけど。

(表紙の写真は山田宏一撮影のアンナ・カリーナ)

 ところで著者には『タマや』という小説があって、翻訳されて欧米で大評判というので最近講談社文庫から再刊された。これも作品世界で猫を飼うことになるんだけど、こっちは1987年に講談社から出た作品なので、つまりトラーが金井家にやって来る前なのである。トラーは牡で、『タマや』のタマは牝という違いはあるけれど、ほとんど未来を予知したような設定なのである。この小説は非常に面白かったけど、後で調べると「目白四部作」というものの2作目なんだという。他の作品も図書館で借りてきて読むつもりで、小説としての感想はその時に書くことにしたい。(猫が出てくるが、猫以外の人間模様の方が面白い小説である。)

 ここで書いておきたいのは、『タマや』では預かることになった牝猫が最初から妊娠していて、結局5匹の子猫を産むのである。それを誰に貰ってもらうかが大きな問題なのだが、主人公は出産後にタマを「去勢」しようと考える。そうしたら猫を連れてきた登場人物がなんだか可哀想と言いだし、こんなことを言うのである。「朝日新聞の論壇時評とかいうのも読んでるよね?」「その書き手がどういう人なのか知らないけど、きっとエライ人なんだろう、その人が書いてたよ、都会で動物を飼って平然と不妊手術をさせる飼い主は、余りにも身勝手なんじゃないかってね」と述べるシーンが出て来るのである。

 いや、ビックリ、これって見田宗介さんなのである。解説に出ているが、1985年7月29日の朝日新聞夕刊に掲載されたもので、「ニューヨークでネコを飼うときは、去勢するのが普通だという。そのことを「ネコのためだ」という人がいて、背筋が寒くなったことがある。(以下略)」という部分があるのだ。これは見田さんが亡くなった後で、論壇時評を集めた『白いお城と花咲く野原』を再読した時に気付いたのだが、他に多くの論点があるのでその時は触れなかった。(ちなみにその本のことは、『「論壇時評」再読、35年目の諸行無常』『〈深い明るさ〉を求めて』に書いたので一応示しておく。)まさか見田先生が出てくる小説があったとは。

 見田さんの論壇時評は掲載当時に必ず読んでいたけど、この部分に記憶はなかった。ということは、まあ大体共感して読んだんじゃないかと思う。85年当時は結婚して家を出ていたが、実家では弟が連れてきた犬を飼っていた。その牝犬を「去勢」しようとは全く思わなかったと思う。後に病気になったら動物病院に連れて行ったが、ペットの毛を刈って貰うなんて発想もなかった。80年代はそんなものだったと思うけど、今になって読むとこれは見田さんの方が間違っていた。(そういう見立ては結構多いと思う。)「ペット」に不妊手術をするのは、今ではある意味「マナー」的なものになっているんじゃないだろうか。

(トラー=金井久美子画)

 結局迷い込んできて金井家で買うことになった「トラー」は去勢することになった。立派な猫だったらしく、姉妹で往年のアメリカ映画の俳優に似ていると言い合っている。僕も飼っていた犬を可愛いと思っていたけど、まさか映画スターに見立てたりはしなかった。この「トラー」というのは、「くまのプーさん」から取られたということで、本人が書いているように大江健三郎が長男を小説に登場させるときの「イーヨー」が「くまのプーさん」のロバから来ているのと同じ。「A・A・ミルンと現代日本文学」というのは、文学史の大きなテーマになるんじゃないか。

 トラーは猫だから、毎日出歩いて狩りをしてくる。目白(新宿区西北から豊島区南部付近)は結構自然が残っている地域で、スズメや鳩ばかりか、何と蛇まで狩って持ち込んでくるというから、いやあ大変である。元から贅沢な猫で、甘エビやホタテが大好物というんだから、人間以上である。猫とはそういう動物なのかと初めて知っていろいろとビックリした。

 うちで飼っていた犬が高齢化して弱ってくると、猫が家に入り込んで(犬のトイレ用に外と出入り出来る場所を作っていた)魚の骨などをつまんでいく。そんな「泥棒猫」を犬が追いかけるんだけど、さっと塀の上に登ってしまい、「どうだい、犬には出来ないだろう」という顔を犬だけでなく飼い主の人間にまでするのである。猫とはずいぶん失礼なヤツだと思っていたのだが、なるほどこういうものなのか。ちなみに犬は「クル」と言ったが、内田百閒が飼っていた「ノラ」という猫の次に飼った猫が「クル」というんだそうで、「ノラや」というエッセイ集の中に「クルや」というのがあるという。あれこれ読むと、いろんなことを知るもんだ。

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金井美恵子『目白雑録 日々のあれこれ』にはまるー金井美恵子を読む①

2025年04月18日 22時16分06秒 | 本 (日本文学)

 まだ多くの人が名前も知らないか、知ってるとしても読んでないだろう金井美恵子という1947年生まれの女性作家がいるのだが、この人はどういう人なんだろうと「金井美恵子」と打ち込んでみると、いつの間にか一番上に「金井美恵子 ノーベル賞」という検索予測ワードが登場するという驚くべきことになっていて、何でも欧米で非常に評価が高まっているらしい。そうか、だから最近文庫でいっぱい再刊されているのかと初めて気付いたのだったが、ついどんな作品なんだろうと中公文庫や講談社文庫、講談社文芸文庫などにある文庫を買ってしまい、「抱腹絶倒の痛快エッセイ」と帯に書いてある『目白雑録 日々のあれこれ』という中公文庫3ヶ月連続刊行というのを一番最初に読み始めてしまったら、なるほど確かにこれははまるなあと中毒状況に陥ってしまい、実は3冊で終わらず文庫化されない続きもあって、それが何と一番近い地元図書館に収蔵されていることに気付いて、それまで借りてきて全部読み切ってしまったというのは、我ながら驚くというか、まさに2025年の「春の珍事」とでもいうべき出来事であった。

(金井美恵子)

 この本が『目白雑録』と名付けられているのは、著者の金井美恵子が画家である金井久美子という姉と共同で(山手線で池袋から新宿方向へ一駅の)目白近くに住んでいるからで、阿佐ヶ谷姉妹というタレントがいるけれど、あちらが顔が似ているくせに実は他人同士なのと違って、こちらはホンモノの「目白姉妹」なので、一緒に猫を病院に連れて行ったり、完全に通好みの映画(まだほとんど知られていなかったフレデリック・ワイズマンをアテネフランセ文化センターまで見に行ったり、ポルトガルの老巨匠マノエル・デ・オリヴェイラとかなので、一般的な映画ファンレベルでは話について行けないだろう)を見に行ったりしているのである。

(『目白雑録Ⅰ』)

 ではこの本は自分が好きな映画や猫などを語る「ほのぼの」エッセイかというと全く違っていて、テレビもインターネットも見ない21世紀と思えない暮らしをしながら、新聞(朝日と毎日)や文芸雑誌などを読んでいて「何だろうこの変な文章(言葉遣い)」というのを見つけてきては「批評」というか、ほとんど「悪口」「暴言」を書き連ねるというところに読みどころ(抱腹絶倒)があり、世の中には全然知らないところでいろんなことが起こっていたのだなと感嘆しながら島田雅彦(作家である)とか当時都知事だった石原慎太郎の発言を取り上げて論及するのを楽しんだのだが、何しろ三島由紀夫賞受賞作『ユリイカ』(映画監督青山真治の大傑作を自ら小説化したもの)の解説に「競争相手は馬鹿ばかりの世界へようこそ」と題したぐらい「文壇」の異端者なのである。

(『目白雑学』Ⅱ)

 こう書くと映画と猫は別にして日々創作に勤しんでいるのかと思うと、もちろんベースはそうらしいのだが、何故か姉妹でヨーロッパのサッカー(フットボールと書くことが多いが)にはまってしまい、深夜に見続ける暮らしをして「サッカー批評」を繰り広げるのだが、それはワールドカップの「日本バンザイ」「がんばれニッポン」などとは全く違ったモノで、レベルの低いニッポン・サッカーを有り難がる「ナショナリズム」が大嫌い、2006年のドイツ・ワールドカップ後に引退を表明したジダン中田英寿をまるで同格であるかのように「両雄去る」みたいな大々的報道を繰り広げた日本マスコミのおバカぶりを痛烈にコケにしている。

(『目白雑録Ⅲ』)

 この本を読んで一番感じたのは我々がいかに忘れっぽいかで、この本の最初の方でSARS(サーズ=重症呼吸器症候群)の大流行が心配されたとき、行政やマスコミは「マスクをしろ」とか「不要の外出は控えろ」とか後の新型コロナと同じことを国民向けに言っていたという事実は、その時点では20年後に新型コロナウイルスなんてものが出てくるとは誰も思ってない時期に書かれた文章だけに、何だこれと驚かされたのであるが、同様のことは文庫以後に出てくる「3・11」後の原発論議(今は自分が何を発言したか忘れている人も多いんじゃないか)や第6巻で出てくる「佐村河内守」という「現代のベートーベン」の名前などたった10年経つか経たぬかことなのに忘れていたのにビックリしてしまって、佐村河内守なんて何だかとても懐かしかったものである。

(第5巻)

 最後に書誌的なことを書いておくと、この本のもとになった連載は朝日新聞出版の雑誌「一冊の本」(岩波書店の「図書」のような自社PR雑誌だという)に2002年4月号から延々と掲載されたもので、後に入院などもあって休載もあるし、本にするため一時的に休む場合もあったらしいのだが、とにかく2004年に『目白雑録』が朝日新聞出版から刊行され、続いて2006年に『目白雑録2』、2009年に『目白雑録3』、2011年に『目白雑録4/日々のあれこれ』と同様に刊行された4巻本を新たに3巻本に編集し直したものが、今回の中公文庫版の全3巻なのである。従って、文庫化されていないのは2013年に出た『目白雑録5/小さいもの、大きいこと』(これは3・11関連の文章を再編集して平凡社ライブラリーから『〈3.11〉はどう語られたか』として2021年に刊行)、そして2016年に平凡社から刊行された『新・目白雑録/もっと、小さいこと』という本があり、内容的には2015年まで書き継がれたのである。

(第6巻)

 この本の一番面白い、数々の「鋭い指摘」(ほぼ悪口?)を紹介したいところだが、それは是非直接読んで欲しいからというか、引用するのも名誉毀損になりかねないというか、要するに面倒なだけなんだけど、石原慎太郎はじめ取り上げられた人たちの多くもどんどん亡くなっているのも時代の変遷で、この本をずっと読んでいると愛猫もやがては病気となり亡くなるし、本人も網膜剥離になってしまうという「時間の流れは恐ろしい」と改めて痛感させられる読書体験であった。猫のことはまた別に書こうと思っているが、今回は何か変に長い文章が続いてどうしたんだと思われたかもしれないが、実はこれは金井美恵子の文体模写だったのである。

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『宙わたる教室』、夜間定時制高校「科学部」の挑戦ー伊与原新を読む③

2025年03月03日 22時24分10秒 | 本 (日本文学)

 伊与原新を読むシリーズは一応3回で終わりたい。最後は『宙(そら)わたる教室』(文藝春秋、2023)を中心に、『ブルーネス』(2016、文春文庫)、『オオルリ流星群』(2022、角川文庫)にも少し触れたい。これらは長編小説で、短編集である『藍を継ぐ海』より感動的だと思う。(特に僕のイチ押しは『オオルリ流星群』。)それはともかく、これら3作には共通した感触がある。それは学界でうまく行ってない(非主流的な)研究者が在野(もしくは小さな研究組織)で大学をも凌駕する研究をめざすという構図である。それって何となくどこかで読んだような気が…? そう池井戸潤の『下町ロケット』じゃないか。

 しかし、池井戸潤は宇宙工学の研究者ではない。(文系出身の元銀行員である。)従って『下町ロケット』の技術的な部分は取材して書いたんだろう。作家の仕事は読者に伝わる文章を書くことだから、それで良いのである。『下町ロケット』の技術的、工学的な叙述はとても判りやすかった。(全部忘れてしまったけど。)一方、伊与原新はホントの学者出身だから、地球物理学的な叙述の科学的信憑性は高いけれど、けっこう本格的に難しいことがある。そこが「文学」的にどうなのかと言われて来たようだ。そして、実際に『ブルーネス』や『宙わたる教室』の科学的な部分には僕には難しすぎる部分があるんだなあ。

 『宙わたる教室』は東京の夜間定時制高校(架空の東新宿高校)の生徒たちが、新任の理科教諭に指導されて「科学部」を作って本格的な研究にチャレンジする話である。実際に東京の夜間定時制に勤めた身としては結構ツッコミどころも多いけれど、感動的な物語なのは間違いない。だからこそNHKでドラマ化され、評判を呼んだわけである。そのチャレンジは「火星(の重力)を地球上で再現する」というもので、読んでるときは何となく納得してしまうけど、僕には説明不能。だけど、中で出てくるNASAの火星探査船オポチュニティの話は感動的だ。2004年に始まり、予定をはるかに越えて2018年まで活動した実話は心に沁みる。

 (オポチュニティの轍)

 少子化の時代に夜間定時制に集まる生徒には大体4つの類型がある。まずは今も一定数いる「ヤンチャ系」で、喫煙、ケンカなどで全日制を退学してしまったようなタイプである。次は「不登校系」で、病気やいじめ、発達障害などで中学に通えなくなって、全日制高校へ行けなくなったタイプ。3番目は「ニューカマー外国人」で、日本語力の問題で全日制は難しく(定員割れしている)夜間定時制に来る。外交官や大企業幹部の子どもならインターナショナル・スクールに行けるわけで、親が働きに来ている東南アジア各国の子どもが多い。最後が昔行けなかった高校にぜひ通いたいという「高年齢生徒」である。

 「科学部」の4人はこの4類型が集まっていて、幾つもの衝突を繰り返しながら研究にチャレンジしていく。もちろんこんなにうまく行くかよという気はするが、これら生徒たちの悩みを知って欲しいという気はする。実際にこういう生徒たちと長い時間接してきて、あまり思い出したくないところもある。だけど、実際にこういう人たちが今の日本で学んでいるという現実は多くの人に知って欲しい。政治家やマスコミの人は大体「良い学校」を出ている場合が多いはず。存在すら気付かぬ「定時制高校」に目を向けて欲しい。これに訳あり全日制生徒も加えて、感じるところ、考えるところが大いにある小説になっている。

 『オオルリ流星群』は神奈川県秦野市近郊(丹沢山系)に小さな天文台を作る話。かつて高校時代に3年なのに文化祭で燃えた。空き缶でオオルリを描くタペストリーを作ったのである。それから25年、一人は死に、一人は引きこもっている。そして一人は国立天文台の研究者の任期が延長されず、丹沢に一人で天文台を作ろうと思っている。もはや中年を迎えた3人はそれに協力しようと思ったが…。これも「先に死んだもの小説」で、心に響く展開が待っている。中年以上ならすごく感動的だと思う。

 『ブルーネス』は東日本大震災で大きく揺れ傷ついた地震学者たちの物語。「原子力村」があるように「地震村」もあると書かれている。学界で「はぐれもの」になった人々がリアルタイムで津波を検知できるシステムを開発しようと奮闘する。それは実際に出来るのか、そして津波を防ぐのに有効なのか。この架空の物語の科学的正確性は判定できない。だけど「学界」は大変だなあと思う。どの分野でも似たようなもんだろう。学者の世界だから純粋な人ばかりということはもちろんあり得ない。

 最後に先ほど書かなかった『宙わたる教室』のツッコミどころ。幾つもあるが、まず「東新宿高校」があるパラレルワールドには新宿山吹高校はないのだろうか。都教委は山手線内にあった普通科の夜間定時制課程は全部無くしてきた。(山手線内では専門高校の工芸高校だけが全定併置校で残っている。)もう20年以上前から、代わりに単位制高校をたくさん作ってきた。「東新宿」に全定併置校があること自体不自然。元は大阪の定時制高校の実話だというが、何故東京に移したのか疑問。少なくとも「統廃合」の対象校にもなってない普通科の全定併置校が新宿にあるって、どうも不自然。これは「小さな問題」ではない。

 次に主人公の藤竹先生の問題。各学年1クラス(単学級)の定時制に「地学基礎」があるのも不自然だが、教師が休職していて数学も教えているって無理だし。理科教師は一人なんだから、物理、化学、生物なども一人で教えなくちゃいけないはず。数学をやれる時間的余裕はないし、数学の講師なら見つけやすい。理科と数学と二つ免許を持ってる人はごく少数だと思うし、免許はどうなってるのか。しかも、この先生は今も午前に大学に行っていて、時々は午後も校長が「特別研修」として認めて研究しているという。まあ小説だから、東京にはない制度を利用している教師がいてもいいのかもしれないが。

 というような問題もあるけど、一番不思議なのが「給食」が出て来ないところ。5時40分開始で、9時終了だと時間割的に不可能だ。給食は法的な裏付けがあるし、もちろん東京では各校で実施している。それだけ食べに来る生徒がいるというなら理解出来るけど、全く話題に出て来ないのはおかしい。職員会議を夜やってる話があるが、書かれてない大問題でも起こっているんだろうか。もちろん夜間定時制の定例職員会議は昼間の授業前に行うのである。そう言えば校長は出てくるが、定時制担当の副校長が出て来ないのも不自然というべきかもしれない。まあ、ほとんどの人にはどうでもよい問題だろうけど。

 でも東京の夜間定時制で苦労した身としては、一応書いておきたいのである。僕は昔のことが思い出されて苦労が甦ってきた。全定生徒の対立、暴力的な生徒、リストカット…、大変だけど、それは現実である。それでも何人かは自分がいなかったら高卒資格を取れずに終わった生徒もいたかもしれない。何年も引きこもっていて、ようやく初めて選挙に行きましたと告げた生徒もいる。そういうことを小さな矜持として、現実の教員としては日々を送ってきたわけである。

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『青ノ果テ 花巻農芸高校地学部の夏』、最高の宮沢賢治小説ー伊与原新を読む②

2025年03月02日 22時14分15秒 | 本 (日本文学)

 伊与原新を読むシリーズ2回目。『青の果テ 花巻農芸高校地学部の夏』(2020)は最高の高校生部活小説で、宮沢賢治小説。しかし、新潮文庫nexというライトノベル向けのレーベルから書き下ろしで刊行されたので、知らない人も多いんじゃないかと思う。「花巻農芸高校」という高校は実在しない。宮沢賢治が教師を務めた花巻農学校の伝統を受け継いでいるのは、「花巻農業高校」である。しかし、明らかにモデルになっていて、そのことはあとがきで明記されている。その架空の高校で、生徒たちが実在しない「地学部」を結成して、夏休みに「イーハトーボ」を探索して回る。そこに登場人物たちの謎が絡まってくる。

 宮沢賢治(1896~1933)を好きな人は世界中に多い。だから宮沢賢治に関わる「二次創作」(映画や小説など)も数多い。宮沢賢治の父親に焦点を当てた門井慶喜銀河鉄道の父』は直木賞を受賞し映画化もされた。だけど、『青ノ果テ』ほど『銀河鉄道の夜』に関する様々な謎に言及している小説はないと思う。(『銀河鉄道の夜』に関心がない人はこの本を読んでも仕方ない。)ところで宮沢賢治といえば、もう一つの代表作がある。『風の又三郎』である。だから当然、この小説も始業式に「謎の転校生」がやって来るところから始まるのである。東京から来た2年生深澤北斗とは一体何者なのか?

(花巻農業高校の宮沢賢治像)

 彼は「佐倉七夏」(なのか)という同級生を知っているのだろうか。そう心配するのは「鹿踊り(ししおどり)部」で活躍する江口壮多である。幼なじみの彼は中学でいじめられていた七夏をいつも見守ってきた。深澤は「イギリス海岸」を見てみたいと、最初の日に訪ねていく。七夏と壮多も何故か付いていって案内することになった。そこで「三井寺」という先輩が化石探しをしていた。三井寺は化石マニアで「地学部」を作りたかったが、今まで誰も賛同者が現れなかった。ところが深澤は入っても良いという。壮多は指を怪我して、せっかく出場が決まっていた全国総文祭にも出られず、七夏を含めて地学部に参加することになる。

(イギリス海岸)

 この「イギリス海岸」は『銀河鉄道の夜』で「カムパネルラが死んだ場所」という説がある。『銀河鉄道の夜』に出てくるいろいろな場所は、モデルになる土地があるとされる。そういう話が頻繁に出てくるので、『銀河鉄道の夜』に関心がない人にはつまらないかもしれない。だが賢治は「カムパネルラが死なない」異稿も書いていた。「カムパネルラが死ななかった世界」とは何だろうか? そういう問いが生まれる中で、突然七夏が学校に来なくなり、家からも消えてしまった。一体何が起こっているのか? 

 そして夏休みに入り、「地学部」は岩手県各地をめぐる2週間もの「巡検」に出るのである。参加者は三井寺、深澤、壮多の三人。早池峰山、種山高原から三陸海岸に回り、小岩井、岩手山から八幡平をめざすという壮大な旅である。この旅で見る各地の様子、また地質や星の描写はものすごく魅力的。「夏休みの部活小説」の魅力満載である。そう言えば、伊与原新の前に「地学」と結びついた小説を書いていた人は「宮沢賢治」だった。賢治は鉱物を収集し、宇宙に関心を寄せ、当時としては最新の科学知識を持っていた。伊与原新が宮沢賢治に関する小説を書くのは全く当然の道筋だったのである。

(宮沢賢治)

 ここで小説の謎の中身を書くことは出来ない。ただし、それは「カムパネルラが死ななかった世界」という言葉に大きく関わっている。カムパネルラは川に落ちたザネリを救って自らは死んだ。このような「自己犠牲」にはどのような意味があるのだろうか? ここで「先に死んだもの小説」という概念を考えることが出来る。有名な夏目漱石の『こゝろ』を思い浮かべれば、「先に死んだもの小説」という言葉で言いたい意味が判って貰えると思う。あるいは大江健三郎に僕の好きな『日常生活の冒険』という長編がある。村上春樹の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』もそうだし、『ノルウェイの森』初め多くの作品も挙げられる。

(岩手の郷土芸能鹿踊り)

 宮沢賢治の実人生でも、妹のトシが先に死んでしまった。トシへのレクイエムとしてサハリンへの旅が実行され、その旅も『銀河鉄道の夜』に生かされていると言われる。そして、実はそのような「先に死んだもの」小説の中に入るのが、この『青ノ果テ』なのである。あるいはその後に書かれた『オオルリ流星群』も同じである。「先に死んだもの」とは、逆に言えば「遺されたもの」がいるわけだ。もちろん人間は全員死ぬわけだが、親や配偶者、友人などが予想外に早く死んでしまったら、遺族は大変だ。さらに「もしその死が自分のためだったら」という場合、遺された人はどう生きていくべきなのか。

 井上ひさしの戯曲『イーハトーボの劇列車』では先に死んだ者が「思い残し切符」というものを遺されたものに渡していく。この優れた青春小説も、「思い残し」が何年かして若者たちに現れた話と言えるだろう。中で語られる地学、あるいは宮沢賢治世界をめぐる言説が面倒に感じられる人もいると思うが、これは一読の価値ある青春小説、素晴らしき宮沢賢治小説だった。

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『藍を継ぐ海』へ至る道、「地学小説」の醍醐味ー伊与原新を読む①

2025年03月01日 22時24分03秒 | 本 (日本文学)

 伊与原新(いよはら・しん、1972~)をご存じだろうか? 2025年3月現在、最新の(第172回)直木賞受賞者である。僕も昨年12月まで名前を知らなかった。何でも定時制高校を舞台にした小説を書いていて、それがドラマ化されたという話を聞いたのが最初。その本『宙わたる教室』を見つけた後で、『藍を継ぐ海』が直木賞候補になり受賞した。大体3年経つと文庫になるから、受賞作だからといって単行本を買うことはほとんどない。でもつい買ってしまって、この人の本を今いろいろと読んでいる。

(『藍を継ぐ海』)

 「伊与原」というのは珍しい姓だなと思ったら、日本には存在しない姓らしい(本名は「吉原」)。この人は作家としては珍しい経歴の持ち主である。東大大学院で理学系研究科地球惑星科学を専攻し博士課程を修了し、2003年から富山大学助教を務めていたのである。つまりホンモノの学者だったのだが、プロットを思いつき江戸川乱歩賞に応募して最終選考に残った。当初はそのように科学に基づくミステリーを書いていたらしいが、その後もっと幅広く「人間ドラマの中に科学を取り込む」方向に進んでいき、高い評価を受けるようになった。『月まで三キロ』で新田次郎賞、『八月の銀の雪』で直木賞候補になっている。

(伊与原新氏)

 森鴎外以来「医者」にして「文学者」という人はいっぱいいる。安部公房などはやはり「科学的」感性がベースにあると思うし、今も医療小説を書く現役医師はたくさんいる。しかし、現役の学者だったという作家は他にいないのではないか。(文系だとフランス文学で博士課程を修了している佐藤賢一がいるが、大学の研究職に就いた経験はない。)しかし、そういう経歴という以上に、「科学」が物語の核に存在する点が特別なのである。中でも著者の専攻から「地学」が取り上げられることが多い。

 つまり、「宇宙」とか「地質」などである。「気象」「化石」から「動物」に広がることもあるし、宇宙の話から必然的に素粒子などに話が及ぶこともある。「化学」「生命科学」方面はほとんど出て来ないが、まあ専門分化が著しいから大変なんだろう。ところで、宇宙とか地質とかの話になると、時間スケールが非常に長くなる。人間の歴史をはるかに越えた対象を見つめることから生じる「壮大な孤独」の詩。短い時間を生きるしかない「人間」の世界に、実は長い宇宙の時間が隠れている。言われずとも誰でも知っていることだが、普段はあまり意識しない。それを「科学」「エンタメ」「小説」として提示するのである。

(『月まで三キロ』)

 まあ評価された作品をまず文庫で読もうかと『月まで三キロ』(新潮文庫)を読んでみた。6つの短編(+掌編)と逢坂剛との対談が入っている。好みは分れるかと思うが、僕は『星六花』の気象をめぐる話やつくば市を舞台にした『エイリアンの食堂』が心に残った。その短編はラストのオチがなるほどという感じだが、同時に科学者をめぐる厳しい人事状況も忘れがたい。最後の『山を刻む』も日光白根山を舞台に火山研究者を描いていて興味深かった。自分も登っているので土地勘が働くのである。そして主人公にどんな「謎」があるのかという興味でも上手に描かれている。全体に「女性の生き方」を考える作品が多い。

(『八月の銀の雪』)

 次に『八月の銀の雪』(新潮文庫)を読んでみた。直木賞候補になった(受賞は西條奈可『心寂し川』)作品だが、選評を記録しているサイトを見ると興味深い。「科学」を評価しつつも、まだ「人間が描けていない」という評が多い。これが直木賞のキーワードで、こう言われて多くの作家が受賞出来なかった。しかし、小説なんだから「人間を描く」のは当然で、エンタメ系では筋書きやトリック重視の作品が多いのも事実。『八月の銀の雪』は表題の理由が詩的で素晴らしい。『海へ還る日』も科博(名前は違うが)を舞台にアッという小説。『玻璃を拾う』を含めて現代日本で苦闘する様々な女性像が刻まれている。

 そして受賞作『藍を継ぐ海』(新潮社)。『夢化けの島』の山口県見島と萩焼。『祈りの断片』の長崎原爆と向き合う地方公務員。『星堕つ駅逓』の隕石と北海道開拓史。今までの自然科学に加えて、「歴史」への眼差しも加わり一段化けたということだろう。だけど僕は『狼犬ダイアリー』が興味深かった。「狼犬」(おおかみけん)とは何か。紀伊山地で狼を見たという話をめぐる少年と犬の話。僕は犬好きだし、昔動物学者になりたかったぐらいで動物をめぐる話に弱い。『藍を継ぐ海』は徳島県のウミガメをめぐる物語。三作合わせて、女性の自然科学者を主人公にする物語が多いのも特徴。考えさせられる点が多い。

 僕は前から「地学振興」を唱えていて、高校教育の理科の中で「地学」の授業が少なくなった現状を指摘したことがある。日本は地震、火山噴火、台風、集中豪雨などの災害を避けることが出来ない。そんな国で生きている我々は「地学」を学ぶ必要があるはずだ。まあ学校でいくら勉強しても忘れちゃうものだが、伊与原新という作家が現れたことで皆が多くの学べるはずだ。もちろん勉強のために読むわけではない。直木賞受賞作家なんだからとても読みやすくて感動的なのである。

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『鍵・瘋癲老人日記』『陰影礼賛・文章読本』『台所太平記』ー谷崎潤一郎を読む③

2024年11月18日 22時12分34秒 | 本 (日本文学)

 谷崎潤一郎を読むシリーズ3回目(最後)。谷崎作品の中には、今となってはこれはどうもという小説が結構多い、いつもスルーしておくんだけど、谷崎の場合はその説明も意味があると思うので書いておきたい。まず、伝奇小説系のエンタメ色の強い作品は面白くない。『乱菊物語』『武州公秘話』などが代表。もっともどっちも未完だから、面白くなくても仕方ないかもしれない。一般論として、純文学は生き残るがエンタメ小説は賞味期限が短い。芥川賞の名前となった芥川龍之介は皆が読んでるだろうが、直木賞の由来である直木三十五なんで、読んでないどころか名前も忘れられている。まあ、それはともかく現代の冒険小説、幻想小説、時代小説の水準は非常に高くなっているので、今じゃ谷崎作品レベルじゃ満足出来ないのである。

 戦後に書かれた大問題作『鍵・瘋癲老人日記』もあまり面白くなかった。どっちも老人の性を赤裸々に描いて、評判・非難・称賛された小説である。『』(1956)は「異常」な性行動が日記体で書かれていて、国会で問題にされたぐらいだ。どんなエロティックな話なんだと思うと、今じゃ『鍵』で興奮する人なんかいないだろう。56歳の大学教授と45歳の妻がお互いに相手に読まれると知っていて、日記に性行動を書く。さらに、娘と夫の教え子もいて複雑な関係になる。夫婦、親子で心理ゲームを仕掛けあうのが鬱陶しい。『』の夫の日記と『瘋癲老人日記』はカタカナ日記なので、今では読みにくいったらない。

 『瘋癲(ふうてん)老人日記』(1962)は谷崎75歳の作品で、77歳の老人の日記という体裁。実娘より嫁(息子の妻)に執着して、嫁の足形の「仏足石」を墓石にして、あの世に行っても嫁に踏まれたいと望む。谷崎の「マゾヒズム」「足フェチ」を究極まで突き詰めた最後の長編小説。小説としてみれば、紛れもない傑作だが、あまりにも変すぎて笑えるぐらい。気色悪いのは否定出来ない。これもモデルがあって、三人目の妻松子の連れ子の妻、渡辺千萬子である。

 それより『鍵』も同じだが、主人公は病気持ちなのである。高齢で美食しているから、高血圧で脳血管障害がある。実際に小説中で倒れている。驚くのは救急車を呼ばないのである。調べてみると、救急車自体はもうあったが、全国各地に普及するのはもう少し後らしい。大体各家庭に電話がないんだから(60年代後半まで固定電話もない家が多かった)、呼ぶのも大変。小説の主人公は裕福で電話もあるが、病院に行ってもMRIなんかないから自宅で安静が一番という時代である。東大病院の医師が往診に来るのでビックリ。血圧の上が200を越えたりしているのも、驚き。医療水準の違いこそ、今では読みどころである。

 『陰影礼賛・文章読本』は30年代に書かれた有名な評論だが、初めて読んだ。本格的に論じるのは大変なので、ちょっと感じたことだけ。どっちも今でも興味深い論点もあるんだけど、全体的に古びた感じがする。有名な『陰影礼賛』(1933)は人種的観点があるのがマイナス。「白人」の文化が「陰影」を解さないのは「皮膚の色の違い」が原因だみたいな箇所がある。それなら「黒人」はどうなんだという観点が全くない。これは昔の文明論の特徴でもあるが、日本とヨーロッパ(の英仏独など大国)を比べるだけで、「東西文化」を論じちゃうのである。また「トイレ」も取り上げているが、洗浄便座が普及した現在では、昔の「厠」(かわや)の方が奥ゆかしいなんて思う人は誰もいないだろう。都会の夜は明るすぎて星空も見えないけれど、安全には代えがたい。

 『文章読本』(1934)はとても良く出来た文章入門編だけど、今じゃ例文が古すぎる。でも『城の崎にて』(志賀直哉)を取り上げて何度も論じているところは勉強になる。なるほど、これが志賀の文章推敲かと実感できた。古典文を引用しているのも貴重。だが可能な限り「新語」を使うべきでなく、「概念」「観念」は「考え」と言えば通じるという(218頁)のは、今では通じない。出ている例文、「彼には国家という観念がない」は「彼には国家という考えがない」と言えるかというと、現代人ならそこに微妙な違いがあることが理解できると思う。「観念」「概念」「理念」などはそれぞれ特別なニュアンスが生じたのである。 

 『台所太平記』(1962)について最後に簡単に。これはライトノベル的に谷崎家にかつて勤めた「女中」を回想した小説。すごく面白いし、映画化されたのも面白い。だけど時代の違いをこれほど感じる本もない。堂々と「同性愛」嫌悪が語られるし、家意識、家父長意識が随所に出ている。谷崎がいかに転居を繰り返したかが判って興味深い本で、時代相の描写も面白い。しかし、「良き主人」と「良き女中」による「良き家庭」を心底信じていた時代の産物なのである。

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『春琴抄』『少将滋幹の母』『猫と庄造と二人の女』ー谷崎潤一郎を読む②

2024年11月17日 21時46分51秒 | 本 (日本文学)

 谷崎潤一郎を読むシリーズ2回目。谷崎作品は数多くあるけれど、最高傑作は何だろうか。僕は学生時代に読んだとき、『春琴抄』(1933)が内容的にも方法的にもひときわ抜けた作品だと思った。今回読み直しても評価は変わらなかったが、『少将滋幹の母』(1949)も同じぐらい素晴らしいと思った。もちろん『細雪』を忘れてはいけないが、谷崎文学の特色である「女性崇拝」「母恋い」というテーマを突き詰めている点で、この2作が突出していると思う。

 『春琴抄』は大活字に変わった新潮文庫でも128頁、そのうち92頁から「注解」になるから、ずいぶん短い小説である。しかし、その90頁ほどの中は、ほとんど句読点がなく字ばかりがずっと続いている。内容も異様だが、文体も異様な熱を帯びていて、一見すると読む気が失せる感じだが、読み始めると案外作品世界に入りやすい。「春琴」という盲目の三味線奏者に丁稚の佐助が生涯掛けて尽し抜くという「女性崇拝」の極致。しかも美女とうたわれる春琴がある事件により顔に傷を負うと、佐助は自らも盲目になって付き従う。「マゾヒズム」というか、恐るべき愛の境地を緻密に描いて読むものを「納得」させてしまう。

 何度も映像化されているが、この小説は本来映像化不能だと思う。肝心なところを薄めないと映像に出来ないし、どう工夫しようと「盲目」の世界を描き切るのは不可能だ。この超絶的小説を成立させるため、作者が試みたのは「評伝」として書くという方法である。幕末から明治にかけて活躍した奏者の伝記、「鵙(もず)屋春琴伝」という本を作者が見つけ、墓も訪ねる。ゆかりの人にも話を聞いて、「春琴伝」に書かれていない春琴、佐助の「真実」を追求していくという体裁である。これが成功して実在人物のように読めて感銘が深くなる。(実在人物と思い込んで春琴の墓を探す人が多かったという。)

 そういう風に、様々な本に当たりながらまるで歴史の考証のように始まる小説は、『春琴抄』が初めてではない。1931年の『吉野葛』も同じような構成になっていて、ほとんど歴史紀行みたいに始まる。南北朝統一後も吉野の奥で活動を続けた「後南朝」の秘史を探るというスタイルで進行し、いつのまにか「母恋い」の物語となる。吉野の風景描写も趣深く、昔から好きな小説なんだけど、完成度から言えば、内容と形式の融合が不十分で読んでいて中途半端感が残るのが残念だ。

 『少将滋幹(しげもと)の母』は、戦後の1949年に書かれた傑作。『今昔物語』にあるエピソードをもとに想像力を膨らませ、谷崎が創作した「偽書」を巧みに織り交ぜて「母恋い」ものの極致に至る。左大臣藤原時平は老齢の大納言藤原国経の北の方が美しいと聞き、計略を巡らせて白昼堂々奪い去る。幼くして母を奪われた後の左近衛少将藤原滋幹(国経と北の方の子)は母を慕いながらも会うこともならずにいたが、後年になって思いがけず再会の日がやって来る。藤原時平はもちろん実在人物で、右大臣菅原道真が左遷されときの左大臣である。国経、滋幹も実在人物なんだけど、ここで描かれたエピソードは作者の創作である。

 時平の横暴が凄すぎて、今となってはこんなパワハラが許されたのも驚き。老齢国経の生きざまもすさまじく、この小説はどうなるんだと思う時に、偽書を基にした滋幹のエピソードが出て来る。ものすごく感動的で、谷崎文学でこれほど清冽な感動を覚えるのも珍しい。この小説も昔読んでいて、その時も面白いと思った記憶があるが、どうも年齢が高くなってから読む方が感動が深いかもしれない。妻を奪われた国経の絶望が身に沁みるのである。権力者の横暴がこれほど印象的な小説もない。

 もう一つ、「母恋い」とも「女性崇拝」とも関わらないけど、思いがけぬ傑作が『猫と庄造と二人の女』(1937)。1956年に豊田四郎監督によって映画化され、キネ旬4位となった。主人公の森繁久彌が前年の『夫婦善哉』を思わせる名演で、読んでいて森繁が思い浮かんでしまう。まさに題名通りの小説で、猫のリリーが真の主人公。庄造と前妻、現妻がリリーを巡って相争う。関西小説としても興味深いが、日本史上最高の猫小説じゃないだろうか。最初人間どうしの駆け引きが鬱陶しいが、リリーの存在感がどんどん大きくなっていき、読んでる方も納得させられてしまう。猫好きな方は一読を。

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