尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

木内昇『かたばみ』を読むー戦中戦後を生き抜く家族小説

2024年05月18日 20時45分09秒 | 本 (日本文学)
 『リラの花咲くけものみち』を読んだ次に、花の題名つながりで木内昇かたばみ』(角川書店)を読んだ。東京新聞などに連載され、面白くて感動的と評判になっていた。550頁もある長い小説だけど、確かに面白くてあっという間に読める。単行本を買ってしまったが、2350円(税別)の価値は十分にあった。木内昇(きうち・のぼり、1967~)は2010年刊行の『漂砂のうたう』で直木賞を受賞した女性作家。確かな筆力で、人物と時代がくっきりと浮かび上がってくる様は見事。

 冒頭は戦時中(1943年)に女子槍投げ選手山岡悌子が引退して「国民学校」(小学校から改名されていた)の「代用教員」になるところから始まる。代用教員は戦前にあった制度で、旧制中学や高等女学校を出ていれば師範学校を出ていなくても小学校で教えられた。悌子は日本女子体育専門学校(現・日本女子体育大学)を卒業したので代用教員になれたのである。この学校は1922年に二階堂トクヨ(1880~1941)が開いた二階堂体操塾に始まり、人見絹枝など8人の五輪選手を育てたという。今やパリ五輪金メダル最有力候補の槍投げ選手北口榛花がいる日本だが、何事にもこのような先駆者がいたのかと感慨深かった。
(木内昇)
 検索すると角川のサイトで紹介文が出て来る。「家族に挫折したら、どうすればいいんですか?」太平洋戦争の影響が色濃くなり始めた昭和十八年。故郷の岐阜から上京し、日本女子体育専門学校で槍投げ選手として活躍していた山岡悌子は、肩を壊したのをきっかけに引退し、国民学校の代用教員となった。西東京の小金井で教師生活を始めた悌子は、幼馴染みで早稲田大学野球部のエース神代清一と結婚するつもりでいた…。実はもっと出ているんだけど、これ以上は読まずに読んだ方が絶対に面白い。

 もともと岐阜生まれで、普通の女子がスポーツをやるために上京するなどあり得ない時代だ。しかし、幼なじみの神代清一が甲子園で活躍し早稲田に進学したので追いかけるように上京したのである。悌子は肩を痛めて競技生活は諦めたが、それでも親の圧力を跳ね返して東京に居続けたのは、清一がいたからだ。多摩地区の小金井市で職を得たが、学校は「少国民錬成」の時代だった。体育専門の悌子は竹槍訓練の中心にならざるを得ない。その中で戦時教育に疑問を持たざるを得なくなっていく。彼女は学校に通いやすい小金井に下宿先を見つけた。下が食堂で二階に部屋を作り最初の下宿人となった。

 結局この下宿先の一家と知り合ったことが悌子の人生を決定するのだが、それはまだ判らない。えっ、こうなるの的な展開が続くので、一気読み必至。悲しいことが多かった戦争時代はやがて終わるが、戻る人戻らぬ人様々。悌子は思わぬ人生を歩んでいく中で、「家族」とは何かを考えさせられる。真面目一本気で、まさに槍投げのような人生を送る悌子だが、強いだけではダメな人生に立ち向かう。周囲の人物、それも後半になるに連れ子どもたちの存在が大きくなるが、その破天荒な設定は書かないことにする。厚い小説だけど、あっという間に読めるから是非読んでみて。
(カタバミの花)
 カタバミはよく道端にある「雑草」だけど食べられる。戦時中はこの一家も食べていて、その酸味を好んでいた。花言葉は「母の優しさ」と「輝く心」だと出て来る。ネットで調べると「喜び」というのもあるらしいが、どれも復活祭(イースター)頃に花が咲くことに由来するという。これが題名の理由なんだろう。ものすごく面白かったが、次第に教師として以上に「親と子のあり方」みたいになってくる。小説内では端役の人物が時々思わぬ金言を吐くので油断出来ない。多分人間って誰しも宝石のような言葉をもともと持っているんだろう。そして、「思い込み」や「慣習」に囚われて生きることの愚かさを痛感する小説でもある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

藤岡陽子『リラの花咲くけものみち』ー不登校から獣医師へ、感動の小説

2024年05月15日 22時07分57秒 | 本 (日本文学)
 藤岡陽子リラの花咲くけものみち』(光文社)はとても感動的で心打つ小説で多くの人にお薦め。2024年の吉川英治文学賞新人賞受賞作品。発売(2023年7月)当初の評判(書評)で買ったが、しばらく読まなかった。なんか「感動」するに決まってる小説を読みたい時と読みたくない時がある。この本は不登校になった中学生が祖母に引き取られて生き直してゆく物語である。というと梨木香歩西の魔女が死んだ』みたいだが、この小説はもっと長い人生を語っている。そして東京都大田区に住む主人公は、都立の「チャレンジスクール」に通うのである。(明記されてないが、世田谷泉高校だろう。)これは読まなくちゃ!

 世に「不登校」を語る言説は多く、小説にもかなり書かれていると思う。しかし、主人公岸本聡里(さとり)の陥った過酷な状況は今まで読んだことがない。こういうこともあるのか。多くの場合、「不登校」なんだから学校で嫌なことがあるのである。聡里は小学校4年の時に母が死んで、2年後に父が再婚して妹が生まれた。その後、父は九州に単身赴任し、新しい義母は妹にしか構わない。それどころか、娘が動物アレルギーだったら困ると言って、愛犬パールを手放すように迫るのである。学校に行ってる間にパールが捨てられたら大変だと思って、聡里はそれ以後部屋に引きこもって一瞬もパールから離れなくなったのである。
(藤岡陽子)
 新しい家族とうまく行かないという設定はあるけど、犬を守るために学校へ行けなくなるなんてあるのか? しかし、犬を飼っていた思い出があるなら、この気持ちはよく判るはず。そんなひどい義母がいるのかと思うし、父も何してるんだと思うが、パールを守れるのは聡里しかいないんだから、彼女はよく闘ったのだ。しかし、その代償として不登校どころか、すべての人間関係をなくし髪を切ることさえ出来なくなった。母方の祖母、牛久チドリは可愛がっていた孫から突然何の連絡もなくなって悲しい思いをしていた。ついに中三の誕生日に聡里の家を訪ねて真相を知り、聡里とパールを引き取ると宣言したのである。

 祖母チドリはそこから大車輪でチャレンジスクールを調べ、入学後は夢を持てない聡里の進路として動物好きの彼女に「獣医」を勧めたのである。東大は無理だから、東京の国立大で獣医学部のある東京農工大を受験したが失敗。聡里はそれからでも間に合う私立として北海道の北農大学に合格したのである。札幌近郊の江別市にあるその大学は、酪農学園大学がモデルになっている。(後書きに謝辞が書かれている。)そして北の大地の真っ只中にある大学の女子寮に今しも入寮するために、聡里とチドリはやってきたところである。友だちもいず、人間関係に臆病な聡里は果たして大学生活を送っていけるのだろうか?
(酪農学園大学)
 そこで営まれている学生生活は、思った以上に過酷である。何度も挫折を繰り返しながら、それでも祖母の期待を裏切れないから頑張り続ける聡里。青春小説だから友だち問題もあれば、恋の悩みもある。だけど、獣医学部にはもっと本質的な大変さがあった。犬や猫ならまだしも、「産業動物」である牛や馬になると大きすぎて女子大生には大変だ。そして「命を預かる」という仕事で、人間相手の医師と同じく獣医師にも究極の選択を迫られる場面もある。実習を重ねる中で何度も壁にぶつかるのだ。そしてただ一人の味方の祖母は、授業料を捻出するために一軒家を売ってしまった。祖母ももう高齢でホントはそばについていてあげたいけど…。

 作者の藤岡陽子(1971~)の本は以前『手のひらの音符』を読んで紹介したことがある。(『確かな感動本、「手のひらの音符」を読む』2016.7.28)とてもよく出来た感動作だったけど、今度の本はそれ以上の魅力がある。それは北海道である。聡里にとって「冬の寒さ」も大きなハードルだが、それ以上に花や動物たちの天地である。各章には花の名前が付けられている。「ナナカマドの花言葉」「ハリエンジュの約束」「ラベンダーの真意」…といった具合である。それがまた魅力になっている。それにしても獣医への道は厳しい。人間の場合と同様に、6年間の勉強が必要でその後に国家試験がある。
(ナナカマド)
 僕は藤岡陽子さんの小説は題名がどうなんだろうと思うことがある。『手のひらの音符』もよく判らないけど、『リラの花咲くけものみち』も事前にはよく判らない。この本を書店や図書館で見て、題名で手に取って貰えるだろうか。終章から取られた『リラ…』より、第一章の『ナナカマドの花言葉』でも良かったのではないか。その花言葉というのは、「私はあなたを見守る」である。聡里も何人もの人に見守られていたが、聡里もパールを見守っていた。そして、聡里が多くの人を、動物を見守れるようになれるんだろうか? 展開にお約束が多いとは思うが、感動の小説である。特に犬、猫、馬、牛などが好きな人は涙なしに読めない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

川本三郎『林芙美子の昭和』を読むー「大衆」を生きた女性作家

2024年03月12日 22時24分13秒 | 本 (日本文学)
 林芙美子を読んできて、とりあえずこれが最後。川本三郎林芙美子の昭和』(新書館、2003)である。僕は川本三郎さんの本が好きでかなり読んできた。この本は400頁以上ある分厚い本で、2800円もした。どうしようかと思ううちに、発行1ヶ月で第2刷になっていた。やっぱり買っておくことにしたが、この本を読むのは林芙美子をちゃんと読んでからにしたいと思って、早20年。読み始めたら面白くて『放浪記』より早く読み終わった。中身も面白かったが、ようやく片付けられて嬉しい。

 川本三郎さんの本をここで何回書いたか、自分で調べてみたら4回書いていた。それは『川本三郎「荷風と東京」を読む』、『川本三郎「小説を、映画を、鉄道が走る」』、『川本三郎「『男はつらいよ』を旅する」を読む』、『川本三郎「『細雪』とその時代」を読む』の4本。本当はもっと読んでるが、書いてないのもある。例えば、どちらも2014年に出た『成瀬巳喜男 映画の面影』(新潮選書)や『日本映画 隠れた名作 - 昭和30年代前後』(筒井清忠と共著、中公選書)である。

 川本三郎は70年代後半から「都市論」的な評論で注目されたが、次第に近代日本の小説や映画を論じるようになった。都市論的視角から東京を歩き回った永井荷風に関心を持つ一方で、昔の庶民の姿を写し取る成瀬巳喜男監督の映画にも惹かれた。そうなると、成瀬監督が何作も映画化し、荷風を敬愛した「東京を歩く人」である林芙美子に注目したのは必然というべきだろう。そして予想通りこの本はとても面白くて読みふけってしまう本だった。
(川本三郎氏)
 まず本書では『放浪記』を「大都市東京を歩いた本」として読み解く。それも「新興の町・新宿」から生まれたという。なるほど芙美子本人も新宿から近い落合近辺に長く住んでいたし、「下町」を舞台にした小説は少ない。あれほどの「貧乏」に苦しめられながら、東京の東側に住んだことがないのである。そして一日中行商に歩いたり、原稿売りに歩き回る。世田谷に住んでいた時は、歩いて都心の出版社に原稿を持ち込んで、また数時間かかって家に到着すると、すでに速達で原稿が戻っていたりした。

 言われてみれば『放浪記』で林芙美子は東京を歩き回る。ただ読んだときにはその事をあまり意識しない。それは「求職」か「原稿売り」という、窮迫に迫られての徒歩だからだ。もっとお金があれば市電を使うんじゃないかと思ってしまう。だが、確かにこの本を読むと、林芙美子の「肉体」は歩くことを苦にしない。だからこそ、後に中国戦線で「漢口一番乗り」を果たせるのである。150㎝もない身長だったというが、驚くべき元気さ。それは「都市」という誰も知らない町で、自立して生きている女性の強さである。他の「女流作家」には「お嬢様」が多い中、これほど庶民そのものの中から出て来た小説家は珍しい。

 そして東京を歩き回ったように、林芙美子はパリも歩く。「満州」も歩き、戦火の中国も歩いた。そこで見た民衆像を等身大で書き続けた。ただ従軍して書かれた文章には、やはり弱さもある。林芙美子は「一生懸命戦う兵隊」に寄り添いたいという思いでいっぱいだった。しかし今から考えれば、その戦争は紛れもなく「不義の戦争」だった。当時はそのことを書けないとしても、そのことを全く意識していないらしいのは、今になると困る。現時点で断罪するというのではなく、ただ林芙美子の真情に寄り添うのでもなく、現在地からすれば「次は間違わない」ためにどうすれば良いのかを問う必要がある。

 戦時中の疎開から帰って来て、林芙美子は書きまくる。そこで書かれたのは、「解放された明るさ」ではなく「暗い戦争」であった。それが『浮雲』を覆っている「暗さ」に現れている。しかし、最後に未完で終わった新聞小説『めし』では、新しく登場した「主婦の不安」を描いているという。林芙美子を読んで、今読んでも十分面白いことに驚いた。数多くの庶民が出て来るが、ジェンダー的に引っ掛かるところが少ない。戦争中の文章は頂けないが、当時生きていた人々を考える時には、今も必読だと思う。

 川本三郎氏の本は重くて持ち歩くのも大変だが、林芙美子を読んでなくても、成瀬巳喜男の映画を見てなくても、十分面白く読めると思う。こういう本を読むのはとても楽しい。人生のご褒美みたいな体験だ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

桐野夏生『ナニカアル』、戦時下の林芙美子の「秘密」

2024年03月11日 22時12分30秒 | 本 (日本文学)
 女は夫がいる40歳の小説家、男は妻子がいる7歳下のジャーナリスト。二人が東南アジアの町で再会し、かつての愛情が燃えあがる。そんな小説があるわけだが、作者は誰だろう? 森瑤子(1993年に52歳で亡くなった作家)? それとも昔の林真理子か? いやいや、それが桐野夏生ナニカアル』(2010)という小説で、読売文学賞島清恋愛文学賞を受けた。この本を今まで何となく敬遠していたんだけど、今回読んでみて大変感心した。圧倒的な迫力で、戦時中を再現する素晴らしい筆力に感嘆。何で今読んだのかというと、主人公が林芙美子なのである。つまり実在人物を登場させたフィクションということになる。

 しかも内容がものすごい。「林芙美子」が一人称で書いた手記という体裁だが、彼女には前から毎日新聞の記者をしている恋人(斎藤謙太郎)がいる。なかなか会う機会がなかったが、南方に派遣されボルネオにいたときに、斎藤も社の仕事で同じ町にやってきたのである。そして熱烈に愛し合い、「私」(芙美子)は子どもを身ごもってしまう。日本に帰って妊娠に気付いた芙美子は悩みながらも、一人で産むことにした。夫には養子を貰って育てると言いつくろう。林芙美子は1943年に養子の泰(たい)を迎えた事実がある。『ナニカアル』では、その「養子」(名前は晋だが)が実は芙美子の実子とされているのだ。
 
 いやあ、小説は何を書いても良いけれど、こういう設定はやりすぎと違うか。信長や秀吉が小説や映画の中でいろいろと会話する。あり得ないような「本能寺の変」の原因が語られる。でも、まあ大昔のことだから、いいのかなと思う。しかし林芙美子はもうずいぶん前に亡くなっているとは言え、執筆当時は没後60年ぐらいだった。しかも、一人も子どもを産んでないとされている林芙美子が、実は「不倫」相手の子を出産していたという設定である。ちょっと何だか抵抗があったのである。そんなのアリ? 
(桐野夏生)
 最近ずっと林芙美子を読んでるから、この機会に読もうと思ったわけだけど、いやあ読み逃さなくて良かった。これは傑作である。しかも非常に読みやすい。どんどん読み進んでしまう。そして、林芙美子の私生活が描かれているけど、本当のテーマは「戦争と軍隊」なのである。林芙美子は日中戦争初期に「南京に女性一番乗り」で知られて、続いて「漢口一番乗り」を果たした。「従軍記者」として、あくまでも戦う兵士の立場で書くと本人は思っていたが、書きたいことを自由に書けず戦争に協力していたわけである。その「実績」のある林芙美子が1942年になって、再び南方に派遣される。

 それは事実で、陸軍省に同じく女性作家(当時の言葉では「女流作家」)窪川(佐多)稲子宇野千代なども集められた。宇野千代は断ったが、林芙美子や窪川稲子(プロレタリア文学者で「転向」していた)は断れない。同じ時にラジオ作家だった水木洋子(戦後に脚本家となり、林芙美子原作の『浮雲』を脚色した)も加わっていたのが興味深い。シンガポール(当時は「昭南」)まで船で行くが、もう米軍の潜水艦が心配な戦況になっていて、着くまで生きた心地がしない。林芙美子は到着後にマレー半島を連れ回され、その後「蘭印」(オランだ領インドシナ=インドネシア)のジャワ島に行く。

 そしてボルネオ(カリマンタン)島まで「派遣」されるのである。具体的には今南カリマンタン州都になっているバンジャルマシンである。そこでは日本軍が占領した後に「ボルネオ新聞」を刊行している。そこに出掛けて「取材」するということになる。林芙美子には有名作家ということで、「当番兵」まで付く。ありがたいような、迷惑なような。しかし静岡出身の床屋と称する当番兵は、一体何者なのだろう? 芙美子は次第に疑惑の念が湧いてくる。あちこち連れ回されて疲れ果てた頃に、斎藤からバンジャルマシンに行くとの連絡が入る。英米に派遣され「交換船」で帰国した彼とは長く会えなかったのである。
(バンジャルマシン)
 そこだけを切り取れば、戦争中に盛り上がった「不倫恋愛小説」である。ちなみに林芙美子は画家の手塚緑敏と「結婚」していたが、戦争末期に養子泰とともに「入籍」するまでは「事実婚」だったようである。その間もパリ滞在中に恋人がいたとされている。「斎藤謙太郎」という人物は虚構だと思うが、モデル的人物がいた可能性はある。しかし、この小説の眼目は林芙美子の私生活を暴くことにはない。ボルネオでの斎藤との出会いは、実は仕組まれたものだった。軍の思惑によって動かされていたのである。

 そのことがはっきりしていく後半の叙述は圧巻である。軍というか、「情報機関」的な国家組織の恐ろしさを心に突き刺さるように描いた小説は滅多にない。旧東ドイツの秘密警察「シュタージ」の恐怖を描く映画が幾つかあったけど、そういうのを思い出した。芙美子と斎藤はもう一回ジャワ島で会うことになる。そこで大げんかして、二人は永遠に別れる。斎藤は林芙美子が書いたものは死んで10年すれば何も残らないと決めつけ、まあ『放浪記』だけは資料として読まれるかも知れないがと付け加える。恐らく「世界」を論じる「大説」に意味を求める男だったのだろう。しかし、死後何十年も経って、他の作家が読まれなくなっても「小説」の中で庶民を描いた林芙美子は読まれている。そのことの意味をじっくり考えてしまう傑作だった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『放浪記』、貧困・恋・文学の無限ループー林芙美子を読む④

2024年02月29日 22時10分59秒 | 本 (日本文学)
 林芙美子を読むシリーズ4回目。その後に文庫に入っている『林芙美子随筆集』(岩波文庫)、『トランク 林芙美子大陸小説集』(中公文庫)を読んで、最後に『放浪記』を読み直してみた。まあ人生に2回読んでも良い本かなと思って、昔読んだ新潮文庫を見つけ出してきた。ところが字が小さくて、今じゃ読み辛いのである。しょうが無いから他の本を探すことにして、本屋で実物を見たら岩波文庫なら何とか読めそうだったので、買い直してしまった。解説が充実していて買った意味はあった。

 しかし、これが思った以上に大変なシロモノだった。前に読んだときもそう思ったけど、今回も底なし沼にハマったかと思った。今は戦後になって発表された第三部を含めた三部作の「完全版」が出ている。ところがこれが改訂に改訂を重ねた「魔改造日記」(by柚木麻子)なのである。解説に出ている一番最初の原『放浪記』は確かに「若書き」であり、まだ作家以前の文章とも言える。成熟した作家となり、文章を練り直したいというのは理解出来る。また戦前には検閲を考慮して削除されていた記述もあった。(皇族関係など。)それを復活させたいのも判る。だが問題は『放浪記』の根本的な構成にあるのである。
(舞台版『放浪記』の森光子)
 『放浪記』は映画や舞台となって、むしろそっちで知られた。名前も知られているから読んでみた人も多いだろうが、「完全版」だと途中で挫折した人もかなりいるんじゃないだろうか。普通は「三部作」というと、それは時系列で進む物語である。まあ、実際の日記をもとにしているので、物語性に乏しいのはやむを得ない。それは良いとして、実は日記の時系列をバラバラにして、複雑なピースにして並べているのが『放浪記』第一部なのである。映画や舞台で有名なカフェで働く場面も確かにあるが、実は女工や女中、女給、事務、宛名書き、露天商、行商など実にいろいろな仕事をしている。

 時系列をバラして、人名も匿名にしているのは、当時は関係者が皆生きていたからだろう。母親や作家仲間の平林たい子、壺井栄などを除き、関係があった男性は皆誰だかよく判らない。戦後になってまとめられた第三部では、かなり実名に戻している。それが逆効果なのである。「無名の貧しい女性」の魂の叫びをぶつけた実録日記として売れたのに、一番大切な自然な思いを作者はあえて消してしまった。そして、時系列バラバラの構成は、第一部、第二部、第三部すべて同一なのである。つまり、第二部が第一部を受けた内容というわけではなく、すべて同じ時期、東京へ出て来てから結婚して落ち着くまでの数年間なのである。
(映画『放浪記』の高峰秀子)
 貧乏に苦しみ、仕事については辞め、文学を志す男と知り合って同棲しては壊れ、それでも文学に心惹かれて詩を書き続ける。貴重なドキュメントで、今まで一度も書かれなかった貧困階級の真実である。だが日記は飛び飛びで、数ヶ月するとまた違う仕事をしている。いつの間にか付き合う男も変わっている。もちろん、そのことが悪いわけじゃない。だけど、そのような貧乏→新しい仕事→新しい男→また辞めて放浪→新しい仕事→新しい男→貧乏のループが第一部、第二部、第三部とすべて同じように繰り返されるのである。この「無限ループ」から読者も抜け出せないのだ。

 何しろ文庫本でも545ページもあるので、この無限ループを読み進めるのが苦しくなってくる。バカバカしい気もしてくる。ところどころに挿入される詩も、最初は新鮮だが次第に飽きてくる。それが『放浪記』なんだけど、第一部発売当時に大ベストセラーになった。その当時は無名女性の日記なので(一部では新人作家として知られてきていたが)、どっちかと言えば「カフェ女給が書いた」というスキャンダラスな本として売れたんじゃないか。

 しかし、林芙美子は天性の放浪者であると同時に、天性の詩人だった。自分は美人じゃなく、もっと美しかったら仕事も恵まれていたとよく書いている。仕事としては確かに今以上にルッキズムがはびこっていただろう。だけど、文学志向、芸術志向の青年たちと続々と恋愛しているのは、どこか只者では無い雰囲気があったんだと思う。だがその文学志向が「良妻」になることを妨げ、中には暴力を振るったりする男もいる。仕事を投げ出して詩を書いていても、トコトン貧乏になっていくだけ。さらに母や義父が飛び込んできたりする。貧窮の中でも「文学」に取り憑かれてしまったのが林芙美子という女性だった。
 
 林芙美子の実人生に関しては、ここでは書かないことにする。前にも書いたが、尾道の女学校の教師がよくぞ才能を見出して励ましたものである。貧窮の中で魂の叫びを発したが、それは「プロレタリア文学」ではない。プロレタリア陣営からは批判されたりもしたが、今でも読まれているのは林芙美子の方である。林芙美子が本格的な作家になったことをよく示すのが、『トランク』という作品集である。中国、フランス、ソ連についての小説が収録されている。戦時中の文章には戦争協力の跡があって痛ましいが、豊かな物語性が今も生きている作品が多い。『林芙美子随筆集』も面白いが、どうも随筆や旅行記だからと言って必ずしも「事実そのまま」ではない場合もあるらしい。これで林芙美子は終わりだが、関連本がまだ残っている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最高傑作『浮雲』、映画も原作も凄い-林芙美子を読む③

2024年02月13日 22時30分17秒 | 本 (日本文学)
 林芙美子を読むシリーズ3回目。いよいよ最高傑作の呼び声高い『浮雲』(うきぐも)を読みたい。成瀬巳喜男監督による映画『浮雲』が好きすぎて、今まで原作を読まずに来てしまった。読んでみたら原作も大傑作で、間違いなく林芙美子の代表作である。雑誌『風雪』『文學界』に1949年から1951年まで連載され、1951年4月に出版された。林芙美子は1951年6月28日に47歳で急逝するから、ギリギリで完成したのである。梅崎春生幻花』や色川武大狂人日記』などと同じ。よくぞ間に合ってくれた。

 『浮雲』は現在も新潮文庫に大活字本で生き残っている。その気になればすぐ読めるわけだが、注がないから困る人がいるかも。この小説をあえて簡単に書くと、「仏印」で出会って「屋久島」で死ぬ女、幸田ゆき子の「不倫」の生涯をたどる物語である。ところで当時は誰もが知っていた「仏印」が今では判らず、今では誰もが知る「世界遺産の島屋久島」が作中ではそんな島があるのと言われている。原作当時は奄美諸島が米軍に占領されていて(1953年に返還)、映画は屋久島を「国境の島」と呼んでいる。
(映画『浮雲』)
 映画『浮雲』(1955)は成瀬巳喜男監督の最高傑作というだけでなく、日本映画史上ベストワン級の映画である。少なくとも僕は、小津安二郎東京物語』や黒澤明生きる』よりも、この『浮雲』の方がずっと好きだ。『東京物語』や『生きる』に出て来る登場人物はどこにでもいそうな庶民ばかりだが、それでも人間はかくも気高いのかと思わせる瞬間がある。一方この『浮雲』は「どうしようもない人物」「どうしようもない人生」の物語なのだが、そこにこそ惹かれてしまうのは何故だろう。幸田ゆき子が出会った農林省技官富岡謙吾は、幸田ゆき子に輪を掛けたどうしようもない人物で、ほとんど「悪人」と言ってもよい。それでもこの富岡を「悪人」として排斥してしまえば、『浮雲』という小説・映画、そして世界そのものも理解出来なくなる。
(二人は再会するが)
 富岡とゆき子は1943年に「仏印」(ふついん=フランス領インドシナ、現在のベトナム、カンボジア、ラオス)で出会った。具体的には南ベトナム中部の高原リゾート都市ダラットである。農林省でタイピストをしていたゆき子は、妻子ある「義弟」伊庭(いば、姉の夫の弟)に陵辱され処女を失った。日本を逃れたくて徴用に応じて仏印に来たのである。そこにある研究所に派遣されていたのが富岡で、彼には日本に妻があったがゆき子と結ばれてしまう。富岡は現地女性ニウとも情を交わし妊娠させていた。研究所にはゆき子に惹かれていた独身の若い加野がいたにもかかわらず、ゆき子は富岡に惹かれていくのである。
(ダラット)(地図)
 そんなバカなと言ってしまえる人はこの物語が理解出来ない。原作も映画もその道行は十分理解可能である。よく知られているように、映画ではゆき子を高峰秀子、富岡を森雅之が演じたが、二人とも生涯のベストだろう。特に有島武郎の子である新劇俳優森雅之は日本映画史上最高の「色悪」を演じている。これが成瀬監督もよく使った二枚目の上原謙(加山雄三の父)だったら、戦争で崩れ去ったインテリの虚無が出なかっただろう。映画を見ている人は、読んでいて映画の主役二人の顔がチラつくのを避けられない。でも、それでも大丈夫。映画は当時としては大作の124分だが、水木洋子の脚本が素晴らしい。基本的に原作通りなのだが、実に本質をとらえた脚本になっている。映画を見ていても原作鑑賞に何の支障もない。

 戦争に負け、何とか日本に復員したゆき子は富岡に電報で帰国を知らせたが、一向に反応がない。仏印では日本で待っているという話で、二人で暮らせると思って帰ったのである。実家に寄る気もなく、やむなく東京の伊庭の家に行くと伊庭も疎開中。勝手に居付いて富岡の家まで押し掛ける。その後いろいろあるが、単に妻がいるということだけでなく富岡はすっかり変わっていた。ゆき子も米兵と付き合ったり、いろいろあるのだが富岡を忘れられない。誘われて伊香保温泉まで付いていくが、富岡は死ぬつもりだった。しかし、宿泊代にするため時計を売ろうとして、飲み屋で「おせい」(岡田茉莉子)とその夫と知り合う。
(おせい=岡田茉莉子)
 富岡は今度はそのおせいと親しくなってしまうのだから、さすがの早業である。もともと妻の邦子も友人の妻だったのを「略奪結婚」したのである。しかし、敗戦後の富岡はもはや妻には何の魅力も感じない。単に「女にだらしない」というより、信じるものなき「虚無」が現在の境遇を脱出したい女を引きつけてしまうのか。富岡とゆき子が泊まったのは「金太夫」で、伊香保を代表する名旅館の一つだったが今は伊東園グループになってしまったのも時勢というものか。伊香保で富岡とゆき子が入浴するシーンは映画で見た方が昔の温泉ぽくて良い。小説で読んでも名場面である。結局、おせいと会ったこともあり、富岡は死ぬ気を無くしてしまった。年末年始だから誰も客がいないとされるのも敗戦直後らしい。
(映画の伊香保)(現在のホテル金太夫)
 さて、こうやって書いてると終わらないが、東京へ戻ったゆき子には苦難が続く。やむを得ず伊庭を頼ると、今は新興宗教の事務担当ナンバー2として羽振りがよくなっていた。そこでは「ゆき子さま」などと呼ばれて豪華な暮らしが出来たのである。話が後半に入ると、単に「不倫」に止まらず「殺人」や「横領」まで出て来るが、さすがに富岡もこれではいかんと考えて昔の友人に頼んで屋久島の営林所に就職することにする。ゆき子も付いていって、鹿児島で病に伏す。そんなどうしようもない二人の戦後を描くが、要するに二人とも「戦時中の輝き」が失われたのである。戦争中に一番輝いていた結びつきだったのだ。

 フィリピンや南洋諸島、あるいは「満州」などに派遣されていたら、彼らには悲惨な悲劇が待っていた。しかし、「仏印」は米英軍との主戦場にならなかった。空襲は少しあったようだが、本格的な地上戦を経験せずに済んだ。しかも、フランス人が開発したリゾート地に「支配者」として住めたので、ゆき子の生涯で一番楽しかったのである。引き揚げや空襲で大変な苦労をした人が周りに一杯いたから大きな声では言えないけれど、二人にとって戦争中こそ最高に輝いていたのである。戦争の苦労、敗戦の解放を語る言説は一杯あるけれど、庶民のホンネにはそういう思いもあったのだ。

 どうしようもない二人で、読んでいて(映画を見ていて)どうにもやるせないんだけど、僕らはこの二人を見放せない。それは林芙美子の力量だろうが、もっと基本的には「これが日本人」だからだろう。この煮え切らず、くっついたり離れたりを繰り返す男女の姿に自分を見るのである。もっとスパッと割り切って前向きに生きていくべきだと他人なら言えるが、紛れもなくここに「自分」も表現されているからむげに否定出来ないのである。僕はこのグズグズした二人の映画に昔から惹かれていて、4回か5回は見てると思う。今後も見たいと思う。そこに「日本人の真実」があるからだ。原作も素晴らしい出来映えで、最初の方こそ登場人物の視点変換にしっくりこないが、すぐ慣れてしまった。「現代小説」じゃなく「近代小説」だから、それで良いのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伊吹有喜『犬がいた季節』、高校に犬がいた!感動の青春小説

2024年02月02日 22時32分07秒 | 本 (日本文学)
 伊吹有喜(いぶき・ゆき、1969~)『犬がいた季節』(双葉文庫、800円+税)という小説を読んだ。「本屋大賞第3位!」という帯と白い犬と二人の高校生を描くカバー・イラスト(金子恵)を本屋で見たら買わずにいられない。犬が好きな人なら気持ちが判るはず。2020年に出た本で、1月に文庫化されたばかり。ちなみにその年の本屋大賞は町田そのこ『52ヘルツのクジラたち』、次点は青山美智子『お探し物は図書室まで』だった。著者の名前も覚えてなかったが、映画化された『ミッドナイト・バス』『四十九日のレシピ』の原作者で、『ミッドナイト・バス』『彼方の友へ』『雲を紡ぐ』で3回直木賞にノミネートされている。

 この小説は四日市市(三重県)の高校で白い犬(雑種とされる)が飼われて、数多くの高校生とともに生きた話である。というと松本深志高校の実話をもとにした映画『さよなら、クロ』(2003、松岡錠司監督)を思い出す人もいるだろう。調べてみると、その映画は昭和30年代半ばから10年ほどが舞台だった。映画製作時点から大体40年ほど前になる。一方『犬がいた季節』は1988年(昭和63年)の夏休み明け、つまり結果的に「平成初の卒業生」になった生徒たちから始まる。全部で5章あって、最後が2000年3月の卒業生。それに2019年の最終章があるが、ほぼ20世紀最後の10年間を描いている。
(伊吹有喜)
 この時間設定が絶妙なのである。出て来る話題、ヒット曲なんかが多くの人にとって懐かしいだろう。そして何より「あの頃」、つまり進路について迷い人生の岐路にあった自分を思い出して、登場人物たちの決断にドキドキしてしまう。つまり「犬小説」というより「高校生小説」だった。(「犬小説」を読みたい人は、『馳星周感動の犬小説、「ソウルメイト」2部作』を是非。)犬の名は「コーシロー」という。美術部の部室で早瀨光史郞という芸大志望の生徒がいつも座る椅子に座ってた。だから、なんとなく名前が付いてしまった。学校に迷い込んだらしい。(実は違うんだけど、生徒は事情を知らない。)皆で話合い、取りあえず里親募集のポスターを作ろうとなり、美術部前部長の塩見優花が書きかけのポスターを家に持ち帰る。

 塩見優花は湯の山温泉近くのパン工房の長女で、兄は高卒でパン屋で働いている。犬を飼いたいけれど、祖母が食べ物屋で動物はダメと言うに決まっている。進路をめぐっても、受かるかどうかは別にして、本当は東京の大学にもチャレンジしてみたい。それも許されるかどうか。モヤモヤして成績もピリッとしない。美術部も一番緩いと聞いて入っただけで、そこへ行くと同級生の早瀨は本当に絵に打ち込んでいる。早瀨は時々遅くなってパンを買いに来ることがある。ある日聞いたら、絵を描くときに消しゴムみたいに使うんだと言った。この塩見優花は結果的にこの小説のキーパーソンになり、第1章にもずいぶん多くの伏線があるのだが、それはともかく地方に住む女子高生の進路の悩みがリアルに迫ってくる。
(三重県立四日市高校)(校章の八稜)
 塩見らが通う高校は「三重県立八稜高校」とされ、略称「八高」(はちこう)だから犬がいるのに相応しいと言われている。そう思って付けた校名かと思うと、そうじゃない。著者は三重県有数の進学校である四日市高校の卒業生で、その高校の校章は上に示した画像のように「八稜形」をしている。本書公刊後に著者は母校の同窓会で講演していて、母校がモデルだと明かしている。近鉄富田駅近くという設定も同じである。そして解説を読むと、なんと四日市高校にはホントに「幸四郎」という犬がいたんだと出ている。実際は茶色い犬で、1974年から1985年までいたという。著者は69年生まれだから、最晩年の幸四郎を見たはずだ。
 
 なお、四日市高校は2回甲子園に出ていて、1955年夏には初出場で優勝している。卒業生にはイオン創業者の岡田卓也、映画監督の藤田敏八、作家の丹羽文雄田村泰次郎、イラストレーターの大橋歩らの他、数多くの衆参国会議員、四日市市長などがいる。異色な人として、1972年にテルアビブ高校で乱射事件を起こした3人の1人、安田安之がいる。(事件で死亡。)
(四日市ふれあい牧場)
 最初の話で長くなってしまったが、以後鈴鹿サーキットでアイルトン・セナを見た話、阪神淡路大震災で被災した祖母を引き取る話、八高生としては異色な、ロックバンドで活動したり、裏で「援助交際」してる生徒の話なんかが展開される。その間生徒たちは「コーシロー会」を結成して、部活とも生徒会とも違う形で犬の世話を続けてきた。時々コーシローの心の声が出て来るが、春になって桜の匂いがしてくると、世話してくれた人たちはいなくなる。そのことをコーシローは理解していく。彼らは時々戻って来るけど、大体は二度と会えない。ところが塩見優花は5章で再び戻って来る。ちょうど犬の寿命を考えると…という頃である。まあ、僕には予想通りだったから書いてしまうと、東京の大学を出た塩見優花が母校の教師に戻って来るのである。
(四日市の夜景)
 5章は1999年、ノストラダムスの大予言の年、四日市ふるさと牧場がモデルだという牧場主の孫が八高生となっている。祖父は今入院中。そして塩見先生の母親も。バブル崩壊後の10年に何があったのか。四日市の夜景を見ながら、振り返ることになる。人生はままならないんだけど、コーシローは人間を優しく見つめてきた。小説としては都合良く進みすぎる箇所が多く、どうなんだろうなと思う展開が多い。それは母校を舞台にしたためかもしれない。案外、犬小説という感じがしないけど、青春小説のドキドキ感は十分味わえる。自分の飼ってた犬は家族のケンカを一生懸命止めてたから、コーシローみたいに人間の恋心に気付く犬もいるかな。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

時代に先駆けた「女ひとり旅」ー林芙美子を読む②

2024年01月28日 22時30分19秒 | 本 (日本文学)
 林芙美子の旅行記が文庫に2冊入っている。一つは岩波文庫の『下駄で歩いた巴里』で、2003年に出て今も入手出来る。その本のことは知っていたが、中公文庫でも2022年に『愉快なる地図 台湾・樺太・パリへ』という本が出ていることに気付いた。この両書にはけっこう同じ文章が入っていて、最初は損したかなと思ったけど、日本各地の紀行は前者、台湾紀行は後者にしかないので、やはり両方読む意味はある。同じ文章なのに、後者では「下駄で歩いたパリー」とカタカナになっているのが不思議。
(中公文庫)
 作家が旅行記を書くことは多い。ここでもブルース・チャトウィンパタゴニア』とかポール・セローユーラシア大陸鉄道大紀行(『鉄道大バザール』『ゴースト・トレインは東の星へ』)などを紹介した。他にもスタインベックが愛犬とともにアメリカを旅した『チャーリーとの旅』も良い。日本でも『土佐日記』の昔から様々な紀行があり、西行、芭蕉など旅に死す放浪詩人が文人の理想だった。現代でも梨木香歩エストニア紀行』、村上春樹遠い太鼓』『辺境・近境』などいっぱい思いつく。一生懸命探せばもっといろいろ見つかるだろう。
(岩波文庫)
 林芙美子の紀行は素晴らしく面白いんだけど、まとまったものではない。お金もないのに外国へ飛び出し、雑誌や新聞に書き送ったような印象記が多い。だけど、文章が生き生きとしているし、何よりも旅することが好き。天性の旅行者だったのである。それは幼い頃から行商の両親に連れられて各地を転々とした生育歴から来るものだろう。だから林芙美子は「旅のことを考えると、お金も家も名誉も何もいりません。恋だって私はすててしまいます。」(林芙美子選集第7巻あとがき)と言い切る。
(パリの林芙美子)
 実際に林芙美子は結婚して夫がいても、常にひとり旅を好んだ。パリロンドンまで、シベリア鉄道でひとり旅。「満州」や北京へもひとり旅。樺太北海道もひとり旅なのである。言葉も判らず、一人でシベリア鉄道に乗って「社会主義社会」の中を行く。ソ連幻想に全く冒されていない林芙美子は冷静にソ連社会の貧しさを見つめている。と同時にロシア人の温かさも印象的に書き残す。パリでも一人で宿を借り、半年も滞在する。カフェへ行ってクロワッサンを食べ、バゲットをかじりながら街を行く。

 とても100年近く昔の女性とは思えない。「女ひとり旅」はずっと難しかった。旅館がなかなか泊めてくれないのである。何か事情があり自殺しに旅に出たのかと思われた。70年代に「アンアン」「ノンノ」などを持った女性の旅ブームが起きたが、友人同士で旅するものだった。『男はつらいよ 柴又慕情』では事情を抱えた吉永小百合が友人2人と3人で旅に出て寅さんと知り合う。女が一人で旅しているのは、ドサ回りの三流歌手リリー(浅丘ルリ子)ぐらいのものである。70年代でもそんな感じだったのに、1930年代に林芙美子は一人で植民地を旅して、一人で飲み屋に入る。その自由なエネルギーが素晴らしい。

 時代はちょうど満州事変から日中戦争へ至る頃である。戦争が近づく足音を聞きながら、満州からシベリアへ入る。満州事変直前にハルピンに行くのも貴重な証言になっている。ヨーロッパでは中国人が開く抗日集会にも出掛けて共感している。世界中どこでも皆愛国者だと感じたのである。まだ『放浪記』がベストセラーになる前、ようやく多少知られてきた時に台湾への講演旅行メンバーに選ばれた。それはひとり旅じゃなく、総督府へのあいさつ回りなどを強いられ迷惑だった。その後一人で旅に出るのは、その影響もあるかもしれない。しかし、どこでも街へ出て一人で飲み食べ、自分で感じている。
 
 樺太(サハリン)への旅も凄い。もちろん当時日本領だった「南樺太」を訪れたのだが、これもスポンサーなしのひとり旅である。今のように飛行機で行ける時代じゃない。鉄道を延々と乗り継ぎ津軽海峡、宗谷海峡を船で越えるのである。そして着いた樺太では枯れ山が目立つことを見落としていない。王子製紙による乱伐の影響である。そして北へ北へと旅をし、現地の子どもたちを教える小学校に出掛ける。見るべきものを見ている旅人だったのである。そして旅行者として凄みを感じたのは、その樺太からの帰途、ふと思い立って滝川で下車して道東に出掛けたことである。
(北海道滝川で泊まった三浦華園)
 滝川はもうすぐ途中まで廃線となる根室本線への分岐で、そこで泊まった上記画像の宿は今も残っているらしい。そして釧路まで行って、摩周湖などを見ている。ひとり旅と言っても、全部自分で手配するのではなく、現地の新聞社などの支援を受けているが、それにしても樺太一人旅の直後にさらに思い立って下車するなんて、どういう人だろう。また伊豆の下田へ行った紀行では、1934年に始まった黒船祭を記録した。もうすぐ戦争となる日米関係だが、その時はグルー大使が駆逐艦に乗って下田まで来て大歓迎を受けた。そんな記述も貴重な証言である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

林芙美子を読む①戦争を生きた女たち

2024年01月21日 22時28分03秒 | 本 (日本文学)
 林芙美子(1903~1951)の小説を読んでいる。前からちゃんと読んでみたいと思っていた。成瀬巳喜男監督による林芙美子原作の映画は好きだけど、実はほとんど読んでなかったのである。『放浪記』を読んだことはある。最初は面白いんだけど、同じような繰り返しが延々と続いて飽きてしまった。作家の柚木麻子が『放浪記』を「魔改造日記」と呼んでいて、なるほどと納得した。建て増しを重ねた温泉旅館みたいになってしまった作品なのである。そう書いてあるのは、2023年5月に出た『柚木麻子と読む 林芙美子』(中公文庫)で、その本を読んだことをきっかけにこの機会に他も読んでみようと思った。

 林芙美子は昭和前期に活躍した多くの女性作家たちの中では、今も一番知名度があって読まれている人だろう。だけどやっぱり、名前は聞いたことがあるけど、読んだことはない人が多いと思う。文章は非常に読みやすく、今でも全然古びてない。しかし、何となく敬遠している人はいると思う。一つは男女のもつれた関係を主に描いた「風俗作家」という思い込み。もう一つは戦時下に報道班員として中国や東南アジアに赴いた「従軍作家」、もっと言えば「戦犯作家」という評価である。そして、特に戦後は大人気作家として数多くの雑誌、新聞に書き散らして推敲の時間も取れなかった「早書き作家」という決めつけである。

 しかし、読んでみると「早すぎる晩年」にいっぱい書いた多くの短編も完成されている。変にあれこれ推敲するより、勢いに乗って書いてるエネルギーが感じられる。今回読んでみて、代表作とされる『放浪記』『浮雲』から入ると大変なので、「ちくま日本文学」(文庫版の文学全集)の『林芙美子』を最初に読むのが良いんじゃないかと思った。これには中短編しか収録されてないので、簡単に読める。前に読んでいて大好きな初期作品『風琴と魚の町』(1931)が小説の最初に入っている。母と(母より大分年下の)養父とともに行商で訪れた尾道の描写である。今じゃ大林宣彦映画で知られる尾道だが、それ以前は林芙美子で知られていた。
(ちくま日本文学)
 それで判ることは林芙美子が天性の詩人だったことである。尾道に居付いて学校に通えるようになり、女学校に進学する。その頃から地元新聞に詩や短歌を発表していた。(当時は柿沼陽子というペンネームを使っていた。)そこから散文に移行するのは苦労したらしい。初期の『風琴と魚の町』や『魚の序文』『清貧の書』などは冷徹なリアリズム描写を身に付ける前のメルヘン的な作風になっている。それが欠点とならず、詩情と郷愁が巧みに織りなされている。『風琴と魚の町』は近代短編小説のベスト級ではないかと思う。尾道の小学校や女学校の教師もよく芙美子の才能を見逃さず援助し続けたものだ。
(若い頃の林芙美子)
 母の姉妹に転々と預けられる子どもを描く『泣虫小僧』(1934)も名品で、1938年に豊田四郎監督によって映画になった。「ちくま日本文学」に入っている作品の後ろ半分は、皆「戦争」が登場人物の人生を大きく変えている。『下町』(ダウン・タウン)はシベリア抑留から帰らぬ夫を待って行商をしている女が、ふと親切な男に巡り会うが…。この作品は千葉泰樹監督の中編映画『下町』(1957)の原作だが、映画は全く同じ筋だった。原作で主人公の男は山田五十鈴の写真を貼っているが、映画で行商女を山田五十鈴が演じているのが面白い。(男は三船敏郎。)

 『魚介』は日中戦争下、伊豆天城の温泉場の酌婦たちが仕事がなくなって「満州」まで稼ぎに行く。『河沙魚』(かわはぜ)は夫が召集されている銃後の女の悲劇。さらに講談社文芸文庫にある『晩菊 水仙 白鷺』に収録された戦後に書かれた短編集はもっと直接に「戦争」を描く。というか、戦争時代を生きていたから、戦争で変貌する女の姿を描くしかなかったのである。『晩菊』を読むと、映画で主人公を演じた杉村春子がいかに凄いかがよく判る。数年前までは軍需産業などで羽振りがよかった男も、戦争に敗れると皆没落した。戦前は玄人女を「世話」出来た男たちが、戦後は昔なじみの女を頼るしかなくなっている。

 時代の変遷と悲哀をこれほど鋭く描いた作品は少ないだろう。もはや「詩情」は裏に隠れて、冷徹なリアリズムに徹している。子どもを抱えて、時には体を売ったり、子を捨てたりしてまで生きていかざるを得ない女たち。「敗戦を抱きしめ」ることが出来ない女たちのリアルがここにある。民衆の中から出て来た林芙美子の作品には、様々な民衆像が描かれる。女も男も等身大で描かれ、特に偉くもないが何とか生きている。それでも男はダメになっていっても、女は生き抜くのである。

 今までどちらかと言えば、やはり「女と男」を描いた作家と思われてきた林芙美子を、むしろシスターフッド(女同士の連帯)の作家として読み直すのが、一番最初に紹介した柚月麻子である。今まで他の作品集に収録されてこなかった作品の中に、そういう作風の小説があるという。そこで見られる「ふてぶてしさ」こそが魅力なのだと言う。確かに『寿司』など実に興味深い。『市立女学校』は名前こそ変えてあるが、尾道の女学校時代を形象化した作品でとても貴重だ。「貧困」と「食」と「性」があからさまに語られ、同時代の男性作家からは低く見られたのかもしれない。だけど、新しい「貧困」と「戦争」の世紀を生き抜くために、女も男も林芙美子を再発見する価値がある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

藤野千夜『じい散歩』『じい散歩 妻の反乱』を読む

2023年12月18日 21時55分37秒 | 本 (日本文学)
 散歩の話を先に書いてしまったが、じゃあ『じい散歩』と続編の『じい散歩 妻の反乱』はどういう小説だろうか。非常に巧みなユーモア小説で、文章的に引っ掛かるところはほぼないだろう。後は内容の問題で、ウーン、へえなど結構考えさせられる所が多い。「老人散歩小説」というかつてないジャンルだけに、自分と比べ合わせて思うことがあるわけだ。その意味では高齢者向けとも言えるが、主人公が元気すぎて笑える本で若い人も面白いと思う。

 題名はテレビ朝日のかつての朝番組「ちい散歩」(2006~2012)がヒントになってるんだと思う。地井武男に始まり、加山雄三、高田純次と続く散歩シリーズの最初である。そこから「じい散歩」を思いつくのは簡単だが、普通なら70代あたりを主人公にしそうだ。散歩する体力を考えると、普通そこら辺が限界だろう。それをこの小説では冒頭で夫の明石新平は10月で89歳、妻の英子は11月で88歳と明記している。後で判るけど、新平は1925年生まれである。だから、2014年時点からスタートしている。

 続編では令和への改元を翌年に控えた2018年から、コロナ禍さなかの2021年まで出て来る。もう90歳を越えているにもかかわらず、散歩はさらにヴァージョンアップして早稲田に建築を見に行ったり、西武線の下りに乗って江古田の富士塚に登ったりしている。そういう人がいないわけじゃないが、普通の90代ではない。続編の帯に「シニア世代の御守小説」とあるのも、新平にあやかりたいということかもしれない。だが明石家にも家族の悩みがないわけじゃない。というか、大ありである。
(藤野千夜)
 明石新平は北関東のM町(県名不明)に生まれた。父は大工で、後を継ぐつもりで修行中に召集された。その前から郵便局の娘、英子とは心許した仲だったが、戦後になって東京に出た英子を追うように上京した。(兄弟からは「駆け落ち」と思われているが、そうじゃないと新平は主張する。)職を転々としながら、20代終わりに建設会社を立ち上げた。高度成長の波に乗って、明石建設は大いに伸びてゆく。英子も社業を手伝いながら、三人の男子に恵まれた。書いてないけど、新平はでかしたと思っただろう。

 三人も男子がいれば、一人ぐらい後継者になるだろう。新平は会社の顧問かなんかになって、創業者と奉られながら孫と楽しく暮らすという「老後」が待つ。そう思ったのではないだろうか。もちろん幸福な老後を送っていてはブンガクにならない。それにしても、である。長男は高校中退の「引きこもり」、一度も仕事をしたことがなく、毎日自宅の部屋で暮らしている。次男は早大中退で、トランスジェンダーである。今も両親と仲が良いが、自分では長女と称している。

 問題は三男で、ある時点までは順調に働いていたらしいが、数年前に会社を辞めて起業した。それがアイドルの撮影会などを主催する会社で、恒常的に赤字を抱えている。そのたびについ保険を解約したりして援助してしまい、ついに2千万円も出している。親が甘かったから、つぶすべき会社を延命させてしまった、もう一切援助しないと宣言しているが、一向に堪えないのはある意味立派かも。新平は「借金王」と呼んでいる。「借金王」に比べれば、「引きこもり」などカワイイもの。トランスジェンダーはもうそれで良しとするしかなく、今は仲良くしている。かくして男子三人いても、孫は望めない状態の明石家なのであった。

 新平は子育てを誤ったかと思わないでもないが、それでも後悔はしていない。自由すぎたかもしれないが、何よりも「自由」が好きなのである。戦争中の不自由にはとことん懲りている。そういう世代だからこそ、自分も自由でいたい、子育てが甘かったとしてもである。だが、その彼の「自由」は妻の英子を苦しめたものでもあった。会社と自宅が一体化した暮らしに疲れ果て、相談もなく衝動買い的に妻が買ってしまったのが椎名町の家だった。そして最近、妻は彼の浮気を疑っている。いくら何でも今さらと突っぱねつつ、それなりの過去もあったらしい。酒は飲めずとも、今もエロ本収集が趣味という爺さんなのであった。

 その後、妻の介護という問題が生じ、それが続編のテーマとなる。墓はどうする、遺産相続はという問題もチラホラ語られるが、それだけでは散歩にならない。90過ぎても散歩してる新平は、まず朝起きると一時間以上自分が考案した健康体操をマットレスの上で行う。それからヨーグルトにきなこ、すりごま、レーズンを入れて食べる。もう一つ、梅干し一粒、米ぬかを煎ったものを一杯、ハチミツ2杯を入れて食べる。だから「健康オタク」と言われるのだが、誰かの受け売りじゃなく、全部自分で考えて、自分で実行する。この主体性ある生き方こそ長寿の秘訣だろう。何しろ、今もネットで情報を調べて散歩に行くのである。

 この本で感じたのは「高度成長世代」の凄さである。今は皆亡くなりつつあるから、もうマスコミでもほとんど出て来ない。「バブル世代」の思い出は語られるが、その前の時代は当たり前のこととなって忘れられる。しかし、日本の現在を築いたのは紛れもなく新平たちの世代なのである。新平は押しつけがましいところ、自分勝手なところも多いけど、それでもいつまでも自分でやり切る覚悟は見上げたものである。こうなると、新平の最期も知りたくなるが、それは新平の視点では不可能。

 結局「長女」の健二が葬儀も相続も仕切るしかないだろう。実は藤野千夜もトランスジェンダーなので、その意味でも彼(彼女)の目から見た続編を期待したい。(なお、「妻の反乱」という副題は誤解を呼ぶので、文庫化時点で改題する方が良いと思う。)最後の最後が日光旅行で、この前行ったところがいろいろ出て来て、その意味でも思い出深い読書だった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『金子光晴詩集』と『風流尸解記』他ー金子光晴を読む④

2023年10月03日 20時51分50秒 | 本 (日本文学)
 夏に読んでいた詩人金子光晴の本がまだ残っていた。もう飽きてきていたが、今読まないと読まずに終わると思って頑張って読み切った。僕はこの詩人にずっと関心があり、全集を探して読むことまではする気がないが、文庫に入るたびに買い求めてきた。主に中公文庫だが、結構出ているのである。そして今回持ってる本に関しては全部読んだことになる。

 最近ここで書いた「金子光晴を読む」シリーズは、「『どくろ杯』『ねむれ巴里』『西ひがし』」「『マレー蘭印紀行』」「『詩人/人間の悲劇』」の3回である。それらは自伝紀行で、非常に面白いのである。しかし、やはり本職は詩人である。岩波文庫にある清岡卓行編『金子光晴詩集』(1991、品切れ)は、2012年の第7刷版を持っていたが、470ページを越える分量でなかなか読む気にならなかった。だが、収録された詩は紛れもなく傑作であり、日本人の精神史に忘れられない足跡を残す。

 フランス象徴派から出発し、やがて戦時下に独自の抵抗詩を書き続ける。一部は当時刊行されたが、さすがに戦況悪化とともに山中湖に疎開し、発表できない詩を書いていた。それらが戦後に公開されて大評判となったが、金子光晴は何かのイデオロギーによって戦争に反対したわけではない。だから、戦後を迎えても「民主主義」を謳歌する文学者にはならなかった。一貫して独自の「自分」を貫き通したところがすごいのである。ところが晩年になって孫(若葉)が誕生すると、メロメロになっちゃって『若葉のうた』なんていう、象徴も抵抗もない判りやすい詩を書くようになるのも面白い。

 僕が一番すごいと思うのは、やはり1937年に刊行された詩集『』だと思う。日中戦争開始の年で、すでに軍部主導政権だったけれど、まだこのような詩集が刊行出来たのである。もっとも軍や戦争批判というよりも、安易に時流に流されていく日本人への自虐的批判が多く、その中には自分も含まれている。ここまで「難解」かつ「韜晦」(とうかい=自分の本心や才能・地位などをつつみ隠すこと)だと、検閲の目を通り過ぎるかもしれない。冒頭の「おっとせい」は、「その息の臭せえこと。/口からむんと蒸れる」と始まり、延々と続いて「おいら。/おっとせいのきらひなおっとせい。/だが、やっぱりおっとせいはおっとせいで/たゞ/「むこうむきになってる/おっとせい。」」は、群れることの嫌いな「自分」を貫いた詩人の絶唱だ。
(金子光晴と森三千代)
 詩や紀行や評論がほとんどの金子光晴の中で、貴重な小説集が1971年の『風流尸解記』(ふうりゅうしかいき)という本で、賞に縁のなかった金子光晴には珍しく、1972年に芸術選奨文部大臣賞を受賞した。まあ、この本に文部大臣が賞を与えていいのかなという内容だけど。「尸解」(しかい)は解説によると、「道家の方術の一つ。肉体を残して霊魂だけが抜けさる術」だという。「尸」は「しかばね」のことで、「抱いた少女の裸身の背後に、尸の幻影を見る中年の男」と案内にある。戦争直後の荒れ果てた東京で、死を幻視する詩人の業。だけど、ちょっとやり過ぎ的な叙述が多いかも。52歳の金子は、1948年に25歳の大川内令子と知り合う。森三千代とは離婚していて、その後令子と結婚し、また離婚し、三千代と再婚したと出ている。そこらの現実もモデルとして利用されているらしい。講談社文芸文庫から1990年に出たが、一応今もカタログにはあるようだ。

 他にもいっぱいあるのだが、珍しく妻の森三千代の作品も入っているのが『相棒』という本である。森三千代は小説家としてかなりの本を出していて、戦時中の1944年には『小説 和泉式部』で新潮社文芸賞を受けている。戦後は闘病生活が続き、作品的には日本の古典やシェークスピアなどの再話がほとんどだった。まあ、金子光晴ほどの才能はなかったが、それでも妻の立場から見た金子光晴像などは興味深い。他にも『じぶんというもの』『自由について』『世界見世物づくし』などのエッセイ集が文庫になっている。題名だけ見ると面白そうな気がするんだけど、これが案外退屈。詩や紀行だと面白いのに、論を立てると冴えなくなる。
 
 それより多くの人が金子光晴を論じた文章を集めた『金子光晴を旅する』(2021、中公文庫)が面白かった。細かくは書かないが、そこに収録されている人を少し挙げると、茨木のり子、開高健、草野心平、沢木耕太郎、寺山修司、山崎ナオコーラ、吉本隆明等々(アイウエオ順)といった多彩な顔ぶれである。多くの人に注目された人だったのである。

 講談社文芸文庫の解説に、金子光晴が1975年に亡くなった時に追悼特集を出した雑誌が載っている。「文芸」「面白半分」「いんなあとりっぷ」「海」「新潮」「四次元」「諸子百家」「現代詩手帖」「うむまあ」「いささか」「あいなめ」「時間」「ユリイカ」だという。今はなくなっている雑誌も多いし、そもそも知らない雑誌がかなりある。それでも、これだけ多くの追悼特集が組まれるほど人気、知名度があった人だったのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『詩人/人間の悲劇』ー金子光晴を読む③

2023年08月28日 22時22分32秒 | 本 (日本文学)
 夏に読んだミステリー、『卒業生には向かない真実』『リボルバー・リリー』が長すぎて、なかなか他の本が読めない。前に2回書いた金子光晴はまだ断続的に読んでいて、僕の持ってる未読の文庫本は後2冊なので頑張って読み切りたいと思っている。と思ってたら、8月のちくま文庫新刊で『詩人/人間の悲劇』(1200円+税)が出た。400ページもあって、エンタメ本じゃないからなかなか進まない。『詩人』は前に「ちくま日本文学」版で部分的に読んだことがあって、ものすごく面白かった。成り行きで読んだが、特に後半の長編詩集『人間の悲劇』は全然判らない。でも、まあ凄いということは伝わってくる。

 金子光晴をずっと読んでみると、「自伝」「回想」は素晴らしく面白いのに、評論的な文章は実につまらないのが特徴だと思う。幼年時代に養子に出され、性への早熟な関心が芽生える。放蕩から文学への開眼、養父が死んで遺産で第1回訪欧。戻ると関東大震災、森三千代と交際、結婚。その後、最初に書いた『どくろ杯』『ねむれ巴里』『西ひがし』のアジア、ヨーロッパ大放浪が始まる。この破格の人生行路をあけすけに語って読む者を魅了する。

 この間、1923年に詩集『こがね蟲』を発表し、フランス象徴派の影響を日本の詩として結実させた若手詩人として認知された。しかし、刊行直後に関東大震災が起きたのは不運だった。その後一時関西へ行き、さらに世界大放浪をして詩壇から忘れられたとこの本には出ている。いっぱい詩人の名前が出て来るが、出て来る詩人にはよく知らない人が多い。ネットで調べながら読むが、若くして死んだ人が多い時代だった。金子光晴も幼い頃は病弱だったというが、その後貧困を生き抜いて戦争を迎えた。

 この本で一番凄いのは、やはり戦時中の記録だろう。一切戦争に協力せず、独自の反戦詩を書いていた。象徴性が高くて、当時の検閲官の目を逃れて戦時中に発表できたものもあった。そのことも凄いのだが、それとともに息子の乾をいかにして戦場に送らずに済ませるかの記述が驚き。あからさまな「徴兵忌避」なんだけど、子どもも病弱のため一度軍に連れて行かれたら戻って来れないと信じていた。もちろん日本の戦争は不義であると認識していたこともある。こういう人がいたんだと知ることは大事だ。
(『ちくま日本文学』)
 じゃあ、その金子光晴はどんな詩を書いていたのか。岩波文庫に『金子光晴詩集』があるが、現在品切れ中。「ちくま日本文学」の金子光晴の巻に代表作が入っているので、まずはそれを読んでみるべきだろう。はっきり言って僕にはよく判らない。でも『人間の悲劇』という10の長編詩が集まった詩集を読むと、やっぱり凄いなあと思った。
答辞に代へて奴隷根性の唄
 奴隷といふものには、/ちょいと気のしれない心理がある。
 じぶんはたえず空腹でいて/主人の豪華な献立のじまんをする。

 と始まる長い詩などは、実に鋭くテーマが伝わってくる。読むのが大変で内容も呑み込みにくいものが多いが、一度読んでおくべきかと思う。こういう表現があったのかと目を開かせられる。「時代の批判者として生きる」スタイルにもいろんなやり方がある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『マレー蘭印紀行』ー金子光晴を読む②

2023年07月27日 23時08分47秒 | 本 (日本文学)
 金子光晴を読む2回目は『マレー蘭印紀行』(中公文庫)。1回目で書いたように、金子光晴は1928年から32年に掛けて、上海からシンガポール、パリ、ブリュッセルに至る5年に及ぶ大旅行を行った。そのことは前回書いた自伝的旅行記三部作で広く知られるようになった。つまり、同時代的にはほとんど知られなかったのである。その中で『マレー蘭印紀行』だけが1940年に出版されている。戦前に公刊されたために「時局」に配慮した表現も見られるが、素晴らしい文章で綴られた忘れがたい紀行だ。

 最初に題名について解説しておきたい。「マレー」はもちろんマレー半島のことだが、当時はイギリス領マラヤだった。1957年に独立し、1963年にイギリス領のボルネオ島北部などと連合してマレーシアとなった。「蘭印」は「和蘭陀(オランダ)領東印度」の略で、現在のインドネシアである。金子光晴はマレー半島南部のジョホール州、首都のクアラルンプール(文中ではコーランプルと表記)などを訪れた。その後、「蘭印」に渡って、ジャワ島やスマトラ島も訪れたが、この本ではマレーが中心になっている。「蘭印」に関しては、別にまた本を書きたいと書いているが、結局書かれずに終わった。

 もともとは上海からパリへ渡る途中下船である。お金がないから最終目的地まで買えない。金子はあちこちの日本人を訪ねて、絵を描いて買って貰おうと考えた。しかし、帰途にもまたマレーを訪れているから、熱帯の風土が気に入ったのである。お金もないから、貧困の現地人の中に混じって交流した。そこで「植民地」の実態をつぶさに見た。また、当時はマレーに日本人も多くいたのである。ひとつは当時マレー半島に進出してた日本企業(ゴム農園や鉱山)関係者であり、もう一つは海外に渡った「からゆきさん」、つまり高齢になった元日本人娼婦である。

 「からゆきさん」については、70年代に山崎朋子サンダカン八番娼館』や森崎和江からゆきさん』が出て、大きな注目を集めた。しかし、戦前に書かれた書物の中で触れられているのは珍しいのではないか。また、帰途は1932年になって、1931年9月に起こった「満州事変」の後だった。パリもそうだったが、マレー半島でも各地の華僑に対してシンガポールから「抗日運動」が広がっている様が報告されている。これも貴重な歴史的文献だと思う。

 しかし、この本はそういう社会的関心で書かれた本ではない。熱帯の持つ魅力を独自の詩的な文体で描写した「散文詩」的な構成にある。だから、少し読みにくくもあるが、例えば冒頭近くのこんな文章。(「センブロン河」)
 「そして、川は放縦な森のまんなかを貫いて緩慢に流れている。水は、まだ原始の奥からこぼれ出しているのである。それは、濁っている。しかし、それは機械油でもない。ベンジンでもない。洗料でもない。鑛毒でもない。
  それは森の尿(いばり)である。
  水は、欺いてもいない。挽歌を唄ってもいない。それは、ふかい森のおごそかなゆるぎなき秩序でながれうごいているのだ。」
 
 どこを引用しても同じなんだけど、詩的といっても美文の連なりではなく、上記のような独特の比喩で描かれた熱帯地方の自然と生活である。金子光晴は特に南部ジョホール州のバトパハに長くいた。同地には石原産業系のゴム農園があって、日本人会館もあったからである。そこでは無料で寝られるベッドがあったらしい。この日本人会館は最近でも残っていて、金子光晴を追って訪ねた記録がネット上で複数存在する。以下のように特徴的な建物だが、全部じゃなくて3階の1室だったという。
(バトパハの旧日本人会館)
 合成ゴムがない時代で、戦略物資の天然ゴムは重要性が高かった。イギリス植民地当局は日本の資本進出を容認し、各地に日本人経営のゴム園があった。当初は信用がなく、中国人労働者は日払いでないと働かなかったという。そこで毎日シンガポールから現金を運んできたという。そのうち信用されるようになり、月払いになったと出ている。だが世界大恐慌で不況のなか、植民地当局の対応も厳しくなりつつあった。日本資本はやがて敗戦で壊滅してしまい、こうした(当時の言葉で言えば)「南洋進出」の歴史も忘れられてしまった。貴重な本だと思う。

 本にならなかった初期紀行文を集めた『マレーの感傷』(中公文庫)も出ている。これは題名に反して、ヨーロッパに関する紀行が大部分を占めている。この本を読むと、戦前に書かれた文章と戦後に書かれた文章の大きな落差が判る。本当は日本政府のあり方を批判的に見ていた金子だが、さすがに戦前には押えた表現にするしかなかった。金子が書いた絵もたくさん収録されている。下手を自称しているが、どうして味のある面白い絵が多い。また、ジャワに関して「珊瑚島」という夢幻のように美しい島を夫婦で訪れた文があり、皆一度読んだら忘れられなくなると思う。本当にあるのか、フィクションじゃないのかと思うぐらいだが、松本亮氏は訪ねたことがあると書いていた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『どくろ杯』『ねむれ巴里』『西ひがし』ー金子光晴を読む①

2023年07月10日 22時39分53秒 | 本 (日本文学)
 最近金子光晴(1895~1975)をずっと読んでいる。有名な詩人で、昔から関心があって本をずっと買っていた。中公文庫にいろいろ入ってるのである。特に70年代に発表された自伝的放浪紀行三部作『どくろ杯』『ねむれ巴里』『西ひがし』は、当時からものすごく面白いと大評判だった。『どくろ杯』は1976年に中公文庫に入った時に買ったんだけど、実は今まで読んでなかった。案外字が詰まっていて面倒そうだなあと思って、そのままになってしまった。今回読み始めたら、もう字が小さくて読みにくいったらない。2004年に大きな字に改版されているので、思わず買い直してしまった。
『どくろ杯』
 金子光晴は亡くなる直前の70年代には、ある種「怪老人」といった感じの人気者だった。同じ詩人、小説家の森三千代という妻がいながら、若い「愛人」とも長く続いていた。本になって、東陽一監督『ラブレター』(1981)という映画にもなったぐらいである。(日活ロマンポルノの一本だが、ポルノ色を薄めてヒットした。)もうすぐ2025年には没後50年、生誕130年という記念の年が来るが、僕は金子光晴が再び脚光を浴びるのではないかと思っている。ここまで本格的に「自由人」あるいは「変人」、さらに言えば「非国民」だった人は珍しい。戦時中に反戦詩を書いていた「不逞」な精神は今こそ必要じゃないか。
(金子光晴)
 『どくろ杯』(1971)、『ねむれ巴里』(1973)、『西ひがし』(1974)は、金子光晴、森三千代の二人が1928年から1932年に掛けて、中国、マレー、蘭印(現在のインドネシア)、フランス、ベルギー等を放浪した旅の追憶を書いたものである。40年以上経っているから、記憶違い、自己正当化(というより逆の自己卑小化というべきか)もありそうだが、むしろフィクション化もされているらしい。それにしても長大で、どうも少し飽きてしまうぐらい。紀行には一種スピード感も必要と思うが、この4年近い旅は途中で停滞するところが多い。そこが魅力だという人しか読めないが、この流されるままという感覚が大好きというファンも多い。
(『金子光晴を旅する』所載の旅行地図』)
 旅までの事情を簡単に書くと、金子光晴は養父の遺産で1919年に洋行し、帰国後に詩集『こがね蟲』(1923)を発表して評判を得た。1924年に東京女子高等師範在学中の森三千代(1901~1977)と知り合い、すぐに妊娠して森は退学して結婚した。息子乾が生まれたが、病気になって森の実家長崎に子どもを預けることになり、その間に夫婦で一ヶ月上海を訪問した。1927年にも子どもを預けて、今度は金子一人で三ヶ月上海に出掛けてしまう。当初からお互いに束縛しない約束だったようだが、その間に三千代には若い恋人が出来た。それが後の美術史家で神奈川県立近代美術館館長を務めた土方定一なんだという。

 金子も帰国して悩んだらしいが、一緒にパリに出掛けようと三千代に提案した。小さな子どももいるのに、これに三千代も乗ったのである。飛行機でちょっと一飛びという時代じゃない。船で何ヶ月も掛けて行くのである。「洋行」は一生に一度出来るかどうかの大事業で、やはり文学を志す三千代に取っても、すでに洋行を体験していた金子が誘うのは魅惑だったのである。ところが、実は金子光晴は詩が書けなくなっていて、雑文を書き散らしていたけれど、貧乏の極致なのである。ヨーロッパまで行ける金もないのに、とにかく出掛けてしまった。取りあえずは旧知の上海まで行く。それが『どくろ杯』である。
『ねむれ巴里』
 何とかシンガポールまで行くが、やはり金がない。上海ではエロ小説を書いたりしたが、シンガポールではマレー半島、ジャワ島などを訪ね回って絵を売ったりしていた。詩を書く前に日本画を勉強していたのである。下手を自称しているが、残された絵を見ると結構良い。「無名詩人」だから価値がないと思われたが、後の大詩人の絵という目で見れば貴重。その他、あらゆる金策をして、まず三千代夫人だけをパリに送った。その後、果たして後を追えるのかと心配になるが、何とか追いかけた。インド洋の航海中も奇妙な話が多いが、何とかフランスに着いてパリで奇跡の再会。

 中国では文人との付き合いもあったが、マレーでは植民地下層の人々と日本の植民者を見た。フランスでは日本人の画家たちが多いが、皆成功を夢みながら苦労している。金子にとっては、どこへ行っても人種や民族にこだわらず、人間の実相をつかむ。それは貧困のため、様々の仕事をしたからでもあるだろう。悪評が付きまとって、夫婦でいると森三千代まで就職出来なくなるので、パリで合意の上協議離婚したぐらいである。日本からは三千代の実家から一人で帰ってこいと金を送ってきたが、金子が一人で使ってしまう。もうメチャクチャで、破滅的なのである。
『西ひがし』
 そして、仕事がベルギーで見つかった三千代を置き、金子光晴だけ先にシンガポールまで戻ることになった。そして、またマレーで停滞するのだが、要するに東南アジアの風物に魅せられたのだろう。キレイじゃないとダメ、文明国が良いなどという金子光晴ではない。どんな貧苦にも耐えながらも、自然と人間を見つめるのである。単純なヒューマニズムを越えて、人間性の限界まで見た感じ。どうもやり過ぎのように僕は思い、そこまで行くと僕は楽しく読めないという箇所も結構あった。だが、世界と時代を見る目は確か。「満州事変」が起き、日本が世界から孤立していく様子を実感しているが、周囲の日本人はまだほとんど危機感を持っていない。「日本人」のニセモノ性を鋭く見つめた旅でもあった。
『金子光晴を旅する』
 今になると,時代も経ってしまい、大評判だったこの三部作も少し読みにくいかもしれない。地図も出てないし。そこで2021年に中公文庫から出た文庫独自編集の『金子光晴を旅する』が非常に役だった。金子光晴は開高健寺山修司との対談が載っていて、この二人を煙に巻く怪人ぶりに舌を巻く。一方、森三千代夫人の100頁を越えるインタビューが載っていて、背景事情が良く判る。聞き手は松本亮で、インドネシアの影絵芝居ワヤンの研究で知られた人である。またこの本には、実に様々な人(吉本隆明、茨木のり子、沢木耕太郎、角田光代等々)の金子光晴論が入っている。

 三部作には面白すぎるエピソードがいっぱいで、ここでは特に紹介しなかった。一つ挙げれば、やはり第一部の題名にもなった「どくろ杯」ということになるか。またフランスへ向かう船中で、中国人留学生の泊まっている部屋に入り込んでしまうところも面白い。中国も東南アジアもパリでさえ、安宿は悲惨。虫がいっぱいだったりするのが読むのも嫌という人は読めないかもしれない。けれど、そういう潔癖性こそおかしいという著者のスタンスがあふれ出る大著で、一度は読んでおきたい紀行だと思う。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大傑作、永井紗耶子『木挽町のあだ討ち』

2023年07月02日 20時59分16秒 | 本 (日本文学)
 永井紗耶子木挽町のあだ討ち』(2023.1、新潮社)は、読んでいるときに「ああ、いま名作を読んでいるなあ」としみじみ実感しながら読んだ小説だった。大傑作である。すでに山本周五郎賞を受賞しているが、さらに169回直木三十五賞候補作になっていて、受賞が期待されている。大衆小説に与えられる新人賞は、作家に与えられる性格が強く、同一作品の両賞同時受賞は、今までに2回しかない。(熊谷達也『邂逅の森』と佐藤究『テスカポトリカ』。)果たして3回目はなるか。

 江戸時代後期、19世紀初頭と思われる頃(1783年の浅間山大噴火より、およそ30年後ぐらい)、江戸では「化政文化」が栄え、歌舞伎が庶民の人気を得ていた。その芝居小屋がある木挽町(こびきちょう)で、ある年の睦月(1月)晦日(みそか)夕べ、とある若武者が大柄な博徒に対して「父の仇」と名乗りを上げ、斬りかかった。道行く人々が見守る中、真剣勝負が行われ、ついに若武者菊之助が一太刀浴びせて、仇・作兵衛の首級(しるし)を上げたのである。この一件は巷間で「木挽町の仇討」と呼ばれた。(昔の町名は今の東京人でも忘れている人が多いが、木挽町はまさに今の歌舞伎座がある辺りである。)

 江戸でも評判になった、この仇討より2年。若武者菊之助は国元に帰り、そのゆかりのものと称する若者が芝居小屋を訪ねて、仇討の思い出を訪ね回る。その時に、語り手の今までの来し方も聞いてゆく。その聞き語りがこの小説なのだが、帯には「このあだ討ちの『真実』を、見破れますか?」とあるから、何か仕掛けがあるらしいのである。しかし、語り手それぞれの人生行路がすさまじいために、ひたすら物語の流れに身を委ねることになる。芝居を裏方で支える人々の声を聞いていくうちに、身分制度の下で呻吟する人々の真実を見る。しかし、4人目あたりから、この仇討ちには何か特別な事情があるらしいと気付いてくる。

 訪ね歩いたのは、小屋の前で芝居を宣伝する「木戸芸者」、役者に剣術を指南する立師、衣装の縫い物をしながら舞台にも端役で出ている女形、ひどく無口な小道具作りと逆に話し好きの妻…などなどである。彼らは蔑まれるような生まれ育ちだったり、武士に生まれながらも故あって「身分」を捨てて生きてきた人々だった。今は芝居小屋で仕事をしているが、皆の人気を集める主演の役者ではない。だが、彼らがいなくては人気芝居も成り立たない。例えば、あっという間に舞台が変わる「回り舞台」は客の目を引くが、それは実は小屋の一番下(奈落)で人力で舞台を回しているのである。

 この芝居小屋の「からくり」は、もちろん世の中そのものの「からくり」を示すものでもあるが、この小説においては実は「ある壮大なからくり」に結びついていた。終わり近くになって、そのことに気付くのである。ただ驚きながら読んでいた彼らの人生そのものが、実はこの「あだ討ち」の伏線だったのである。なんという上手な「からくり」だろう。それもただの「トリックのためのトリック」ではなく、この世の「からくり」を暴き、「義」のある世を目指して生きることに真っ直ぐ結びついている。「主題」と「方法」と「世界観」が、これ以上ないほど見事に結び合った小説ではないか。
(永井紗耶子)
 驚きと感動で読み終わったが、テーマが空回りせず、手法もなるほどと納得する。これほど上手い小説に巡り会うことはそんなにないと思う。最後の方になって、この聞いて回っていた人物が判明するとき、僕はこの小説の「からくり」に驚嘆してしまった。ラスト近くで主人公が「一人で江戸に出て分かったことの一つは、時には誰かを信じて頼るという勇気も要るということだ。何もかも背負う覚悟は勇ましいが、それでは何一つ為せないのだと気付かされた。」と語る。「自己責任」の風潮の中で、信じ合って義を求めた勇気の書である。「真の仇討ち」とは何か、深く考えさせられた。

 著者の永井紗耶子氏(1977~)は、2010年に『絡繰り心中』で小学館文庫小説賞を受賞してデビュー。2020年の『商う狼 江戸商人 杉本茂十郎』が新田次郎賞などを受賞、2022年の『女人入眼』が直木賞候補になるなど、ここ数年でグッと知名度を高めてきた作家である。僕は初めて読んだので、他の作品や作風はよく知らない。時代小説を中心に書いているようだが、横浜育ちで三渓園で知られる原三渓を描いた『横濱王』という作品もある。

 当然著作権の「二次利用」が強く期待される。ネット上には著者と神田伯山の対談も載っていて、講談にするのも良いと思うが、やはり舞台化、映像化が望まれる。本格的にやるには大きなセットがいるので、それこそ松竹映画がやるべきだろう。昔のままの芝居小屋が日本各地にいくつか残っているので、是非ロケで。また歌舞伎でも見てみたいものだ。登場人物をやるのは誰それで、などとつい思いながら読んでしまった。

 ところで、歌舞伎や仇討ちなどと言われると、何か古い義理人情ものに思われてしまうかもしれない。その結果、若い読者を逃すとすると、非常にもったいない。この小説は基本的には若者の成長小説なのである。是非とも若い読者に勧めたい名作である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする