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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

金井美恵子の目白四部作、風刺小説の傑作群ー金井美恵子を読む⑤

2025年05月31日 22時19分38秒 | 本 (日本文学)

 金井美恵子の『目白四部作』を読んでみた。『タマや』が最近講談社文庫から再刊されて、面白く読んだ。その中で特に「猫の去勢」問題だけを取り出して、『猫の去勢問題、『迷い猫あずかってます』『タマや』ー金井美恵子を読む②』という記事を書いたけど、『タマや』は「目白四部作」の一作ということなので、他の本も読んでみようと思った。しかし、他の三作は現時点では文庫などに入っていないから、古書を探すか、図書館で借りるしかない。地元図書館にあったので、まとめて借りてきて早速読んでみると、これがとても面白いのである。まあ、そこまでして読む人は他にいないだろうと思うけど、せっかくだから備忘録として。

(『文章教室』)

 金井美恵子は若い頃は西欧風の幻想小説を書いていたが、次第に風刺的な風俗小説を書くようになった。いろいろな情報が詰まっているが田中康夫と違って註がない。特に映画の話題が多いので、人によってはつまらない「おしゃべり小説」に見えるだろう。でもあちこちに「悪意」の地雷が仕掛けられた「メタ小説」なので、いろんな知識があればあるほど面白い。だけど、ただ読んだってひたすら流れるように面白い小説だと思う。いわゆる「起承転結」的な構成に頼らず、水の流れのような融通無碍な小説だ。

 『文章教室』は1983年、84年に「海燕」(福武書店から出ていた今はなき文芸雑誌)に連載され、1985年1月に福武書店から刊行された。四部作最後の『道化師の恋』は1990年に中央公論社から刊行されているので、この四部作はまるまる80年代の物語である。だから基本的な情報ツールは「電話」(固定電話のことだが、固定されてない電話など一般人には無縁だった)である。恋愛もそうだが、親子や友人とのちょっとした連絡も電話で行ったのである。あの時代の「考現学」的な意味でも歴史的な価値がある。

 『文章教室』という小説がなぜ書かれたか知らないけれど、これは文学史に類を見ない「メタ小説」、つまり、小説をめぐる小説になっている。何しろ作家本人じゃなく、「登場人物が書いた」という設定の文章、それも「主婦」「現役作家」の二人の文章が連続するのである。もちろんそれだって金井美恵子が書いてるわけだが、作家の個性を反映した文章とは違って「いかにも紋切型」の文章なのである。それが面白いし、読んでて笑える。しかもバーを手伝っている女の子に惚れてる「現役作家」も紋切型行動をしてしまうというのがおかしいし、「悪意」的観察が笑えるのである。最初は戸惑うが、慣れてしまえば実に見事な技だと思う。

(『道化師の恋』)

 『文章教室』と『道化師の恋』は登場人物の共通性が多いので、続けて書くことにする。まず、渋谷から行く町(川崎か横浜の北の方)に住んでる佐藤絵真という「主婦」が幾つもの趣味の変遷の後、カルチャーセンターの文章教室に通い始める。そして自分用に「折々のおもい」という文を書きためる。絵真の娘、佐藤桜子は英文科の学生だが、恋愛に破れた挙句、助手の中野勉に接近している。中野は文芸評論もしていて目白に住んでいるが、実は留学中に親しくなった英国女性がいる。一方、絵真を教えている「現役作家」(名前は最後まで出ない)は秘かな企みで目白近くに仕事場を持つことにした。全員恋愛をめぐって揺れている。

 『道化師の恋』になると、中野桜子は一児の母となっているが、桜子の前に善彦という青年が登場する。善彦の母は美人女優、橘颯子のいとこであることが自慢だった。颯子は60年代初期に渡米して結婚・引退したが、急に連絡してきて善彦に目白にある颯子の持ってる部屋を安く貸してくれた。二人は秘密の愛人となるが、別れた直後に颯子は事故死する。善彦はその体験をもとに『道化師の恋』という小説を書いて、ある新人賞の候補となって雑誌に掲載される。「現役作家」はその新人賞の選考委員だったし、同じ目白界隈に住んでいる善彦は文芸評論家の中野勉や迷い猫を探す人たちとも知り合っていく。こうして登場人物が錯綜していく。

 『道化師の恋』は各章が『愉しみと日々』『ゲームの規則』『緑色の部屋』『山の音』『彼岸花』など有名な映画や小説から付けられている。『蒼い時』『天使の誘惑』など今では注釈がいりそうな名もあるが、こういう趣向は『タマや』にも共通する。「引用」が重要な小説なのである。幻の主人公、颯子谷崎潤一郎瘋癲老人日記』の主人公(瘋癲老人)が恋する「嫁」の名前だが、ちゃんと谷崎先生の許可を貰って付けたと出ている。美人女優として根強いファンがいて、文芸坐で特集をやってたりする。

(『小春日和』)

 『小春日和(インディアン・サマー)』は1988年に刊行された文庫本で200頁ほどの「少女小説」。ただ大学生になりたての少女のおしゃべりで出来ているすごく楽しい小説。これがただのおしゃべりとしか思えない人には、とてもつまらないだろう。でも、すべてが「メタ情報」なので、映画や本はもちろんファッションや食の情報も相当考えて選ばれている。『タマや』と人物がダブるように出来ているが、本質的には関わらない。つまり、『文章教室』『タマや』『小春日和』は目白界隈で展開されているが、物語内容的には別々なのである。「四部作」というと、時間軸に沿って物語が進行する連作大長編かと思うと全然違うのである。

 その意味では「目白四部作」というより、「目白カルテット(四重奏)」と呼ぶ方がふさわしいんじゃないかと思う。これは昔有名だったロレンス・ダレルの『アレキサンドリア四重奏』に近いように思うのである。『道化師の恋』はフローベールの『感情教育』じゃないかと思うし、『タマや』は明らかに内田百閒の『ノラや』を受けている。そういう風に作中で論及されている過去の作品を「本歌取り」した作品群だと思う。そこには80年代の風俗に関する多くの情報が詰まっていて、今では内容的に古びた段階を過ぎて歴史的価値がある。小津やタルコフスキー程度の映画知識があった方が良いけど、知らなくても楽しめると思う。

 『タマや』だけでは何なので、是非他の作品もどこかの文庫で再刊して欲しいなと思った。『小春日和』の桃子・花子の桃花コンビは作者も気に入ったらしく、『彼女(たち)について私が知っている二、三の事柄』(2000)という続編が書かれた。「目白シリーズ」というらしく、他にも『快適生活研究』『お勝手太平記』という目白シリーズがあるというから、金井美恵子の「目白もの」は現代文学の一大サーガだったのである。今度はそっちも読んでみたい。なお、ここで言う「目白」は学習院大学、日本女子大学、元田中角栄邸などがある方ではなく、僕が昔散歩記を書いた「目白文化村」、地名で言えば下落合近辺なのである。

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『軽いめまい』、評価されなかった大傑作ー金井美恵子を読む④

2025年05月01日 21時28分25秒 | 本 (日本文学)

 金井美恵子軽いめまい』は大傑作である。2025年1月に講談社文芸文庫から刊行されたのは、欧米で翻訳され声価が高まっているという事情があるらしい。本文だけなら170頁ほどなのに、解説(になってないけど)や年譜も入れて240頁。それで2100円と文庫と思えぬ高値だが、これも重厚長大な『虚言の国』(ティム・オブライエン著、村上春樹訳)と一緒に買ってしまった。使ってないままのAmazonのギフトクーポンがあったはずと思い出したからで、実は今回初めてAmazonを使ったのである。

 ネット上に紹介があるのでコピーすると、「きっと夏実はあなたにも似ている。マンション住まい、専業主婦、母……。時々「軽いめまい」を感じます。繊細で強靭な長編小説 ーー郊外の住宅地にある、築7年の中古マンションで、夏実は、夫と小3と幼稚園児2人の息子と暮らしている。専業主婦の暮らしに、何といって不満もなく、不自由があるわけでもない。けれど、蛇口から流れる水を眺めているときなどに覚える、放心に似ためまい。生活という日常を瑞々しく、シニカルに描いた、傑作長編小説。」である。ただし、現在の話ではなく、1988年に『家庭画報』(!)に連載され、講談社から1997年に刊行された。刊行時に相当手を入れたと書かれていて、実際1995年の阪神淡路大震災に関する記述が出て来る。何にしても20世紀末の話なのである。

(英訳版)

 この連作小説は一読すると「退屈」である。金井美恵子の文体に慣れてないと、そのままつまらないと思ってしまうかもしれない。特に当時男性批評家に無視されただろうと推察する。しかし、その退屈さは「批評された退屈さ」なのである。それはスーパーマーケットで売っている食品の配置を記憶していて、ほぼ自動記述のように羅列する文章が二度出てくることでも理解出来るし、また金井美恵子自身が書いた写真展(世田谷美術館で開かれた桑原甲子雄荒木経惟の二人展「ラブユー東京」だという)を批評した文章が掲載されていることでも判る。(ちなみに主人公夏実は世田谷区の馬事公苑ちかくのマンションに住んでいる。そこは「郊外の住宅地」とは言えないだろう。なお、主人公の友人は「アラーキー」の写真を「ただのヌード」だと喝破している。)

(講談社文庫版)

 僕はこの小説を読んでシャンタル・アケルマン監督の200分になる映画『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番』を思い出した。その映画はある女性が家事をするシーンを固定したカメラで延々と映し出している。次第にその女性にも「秘密」があることが理解されるが、それでもドラマと言えるほどのことはラストになるまで起こらない。そういう意味では「退屈」な映画なんだけど、見ている間は全く退屈せずに見入ってしまう。同じように『軽いめまい』は夏実という「専業主婦」に密着するが、映画じゃないからただ見つめることは不可能なので、「意識の流れ」風に周辺の事情が夏実を通して描写される。

 例によって独自の長い文体なのだが、それは映画における「ワンシーン=ワンショット」みたいな技法である。その結果、「日本社会」の実態が明かされていくのである。特に自分たちや子どもの誕生日、結婚記念日、お互いの両親の母の日、父の日などの贈答を細かく記述するシーンに「日本の贈与慣行」が示されている。しかし、何かドロドロした展開になるわけではなく、「結局何も起こらない」に近いのだが、それはほとんどの人の人生も同様だろう。夏実は夫と二人の男児がいる結婚10年目の「専業主婦」だが、昔からの友人たちは皆何か職を持っている。一人だけ「自己実現」から外れている気がして、今の生活を「幸福』と思わなければいけないと思いつつ、ついシンクから流れていく排水の渦巻きを見ていると「軽いめまい」を感じてしまうのだ。

 この「軽いめまい」は英訳で『Mild Vertigo』と訳されてなるほどと思った。ヒッチコックの映画『めまい』の原題が「Vertigo」だから英単語としては知っていたが、「軽い」が「マイルド」というのかと妙に納得してしまう。ただこの小説の主人公夏実については、その後の社会変化によってもう一段の相対化が必要だと思う。この小説が書かれた頃は男女雇用機会均等法制定直後の、「女性も仕事で輝く幻想」が始まり、同時に家事育児の負担も女性に重い現実があった。その後、バブル崩壊、就職氷河期を経て、21世紀になると2003年に酒井順子負け犬の遠吠え』が刊行され、「勝ち組」「負け組」という露骨な表現が内面化されていく。

 『軽いめまい』の主人公夏実は、大企業(恐らく)の研究職の夫がいて、二人の男児(小学生と幼稚園)がいる。目白の実家には両親がいて、時には「ストレス発散」(夏実は「発散」は若い男の性欲みたいで、「解消」と言うべきと反論するが)として母親が買い物に連れて行って服を買ってくれる。夫の実家は長野で、子どもたちは可愛がってくれる祖父母に懐いている。世田谷区のマンションは中古とはいえ高いはずで、転校する上の子は引っ越しに不満だったが学年代わりに転校したら、すぐになじんでいる様子。夫に愛人がいるわけでもなく(多分今後も)、これじゃ小説にならないと思うほど「恵まれている」と思ってしまうのだ。

 21世紀になって夏実はどのように生きているのか、もう還暦を超えているはずだ。子どもも30過ぎだから、二人とも結婚して孫がいてもおかしくはないけれど、むしろ二人とも独身という可能性の方が高いかもしれない。上の子はカナダ、下の子はドバイにいるかもしれない、などと思いながらも「軽いめまい」はいつまで続いたのかと思う。もっと本格的なドラマが起こったかもしれないけれど、実際の我々の生活にはそんな大きなドラマは起きず、実父母と義理の両親の介護に明け暮れて暮らしているのではないか。

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『カストロの尻』『愛の生活/森のメリュジーヌ』(特に『兎』)ー金井美恵子を読む③

2025年04月22日 21時47分49秒 | 本 (日本文学)

 金井美恵子を読むシリーズは断続的に続けて行く予定。スマホ変更話が入ってしまったので、2回に分けて書こうと思っていた本の話を1回にまとめることにする。まず2017年に新潮社から刊行された(2024年に中公文庫に収録)『カストロの尻』。何という題名かと思う人が多いだろうが、見ただけでニヤリとする人もまた多いんじゃないか。これはスタンダールの『カストロの尼』という小説を登場人物が間違えているのである。1839年に発表された中編小説だから、もちろんキューバ革命のカストロとは何の関係もない。だけど、登場人物は『カストロの尻』と聞いて、それはグアンタナモ基地をめぐるスパイ小説かと思ってしまった。

 『カストロの尻』は2018年に芸術選奨文部科学大臣賞を受賞していて、それをめぐる様々なエピソードは著者自らが後書きに書いている。賞金は30万円だったとか。金井美恵子は生涯に3回文学賞を受賞したが、1979年に泉鏡花文学賞(『プラトン的恋愛』)、1988年に女流文学賞(『タマや』)で、それ以後30年間文学賞に無縁だった。さらに「文壇」内で一番重要な出版社が出している野間文芸賞(講談社)、谷崎潤一郎賞(中公)、日本文学大賞(新潮社、1968年~1987年、それ以前は新潮社文学賞、それ以後は新人賞である三島由紀夫賞、山本周五郎賞となる)は受賞出来なかった。特に賞金300万の野間賞が欲しかったと正直に書いている。

 ま、そんな話題はいかに金井美恵子が「文壇」的には「異端」だったということだが、最後に何と(僕も知らなかったのだが)「70歳という年齢制限のある」芸術選奨文部科学大臣賞に滑り込んだのである。1947年生まれだから、刊行時70歳でギリギリ。しかし、まあよくぞ「オカミ」がこの賞をくれたもんだと思う。別に内容的に特に不道徳過ぎるとは言えないし、破壊的でもないけれど、なかなか判りにくいのは間違いない。でも、間違いなく大傑作。めくるめくイメージの連鎖に酔いしれるしかない作品である。岡上淑子(おかのうえ・としこ、1928~)という写真コラージュ作家の作品に触発されたイメージをもとに書かれている。

 もっともまさに蓮実重彦(このフランス文学者&映画評論家に著者は大きな影響を受けているが)が誉めそうな、よく判るようで判らない、でも不思議に懐かしいイメージが連続するような映像体験に似た小説。そもそも小説なのか。明らかにエッセイ(あるいは評論)にはさまれて、小説風の文章が連続するがその内容は幼年時の記憶や映画体験などを中心に連続して浮遊していて、一見して理解しやすいストーリーは語られない。様々なレベルの「語り」が混在していて、なかなか判りにくいが、一度とりこになると忘れがたい世界だ。ただし世界文学や映画に関してコアな議論が出て来るから、無理して多くの人が読む本でもないだろう。

 一回目でまるで金井美恵子を初めて知ったかのように書いたけれど、それはレトリック。ホントは若い頃に第一作品集『愛の生活』が新潮文庫に入った時に買っている。だけど、ちょっと斜め読みした感じでは難しそうだったので、きちんとは読まずに今も本棚のどこかにあるはず。そのちょっと後に第一エッセイ集『夜になっても遊び続けろ』が講談社文庫に入った時、買いはしなかったんだけど題名が妙に気になったのを覚えている。その後はずっと読んでなくて、たまたまちょっと前に小川洋子編著『小川洋子の偏愛短編箱』(河出文庫)に入っている『』という短編を読んで、完全にノックアウトされてしまったのである。

(単行本の第3作品集『兎』)

 その本は幾つかのアンソロジーに入っている他、講談社文芸文庫の『愛の生活/森のメリュジーヌ』に収録されてる。1500円で文庫としては高いけど、講談社文芸文庫としては安い方だ。金井美恵子は半世紀以上の作家生活の中で、かなり違った作風の小説を書いているが、初期はヨーロッパの幻想小説みたいな短編が多い。その時期(1980年以前)の重要短編を収めた本で、これは好き嫌いが分れるだろうが幾つかの作品は紛れもなく傑作。ただし『兎』は凄いんだけど、兎が可愛いという話では全くなく、題辞にあるルイス・キャロルの世界とも相当違う。日本文学史上屈指の「トラウマ小説」なので、無理して読まない方が良い作品。

 でも確かに傑作であって、欧米での評価も高いらしい。『愛の生活』は1967年に太宰治賞の最終候補となって注目された作品。この作品や次の『夢の時間』はなかなか面白くはあるけれど、いかにも「若書き」である。若書きの魅力と若書きの退屈さが同居している。『森のメリュジーヌ』のメリュジーヌというのは、フランスの水の妖精だという。いかにも的なヨーロッパ風ファンタジー。『アカシア騎士団』『プラトン的恋愛』という最後の2短編は幻想、怪奇味のある傑作短編。物語性の豊かな作風が成功している。

 しかし、それらを超絶しているのが『』で、こんなに変テコで、怖いぐらいの少女小説は絶対に他では読めない。映画でも演劇、漫画などでもないと思う。だけど、ホントにトラウマ必至なので、そういうのが大丈夫だと思う人だけ読むべき小説だ。

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猫の去勢問題、『迷い猫あずかってます』『タマや』ー金井美恵子を読む②

2025年04月19日 21時57分09秒 | 本 (日本文学)

 1回目で書いたように金井美恵子は猫を飼っていた時期があり、中公文庫に入っているエッセイ集『迷い猫あずかってます』は帯に「猫愛100%」と書いてあるぐらい、愛猫トラーを「寵愛」していたのである。それは可愛さの余り思わず甘やかしてしまうのではなく、姉妹の年齢を考えると「最後のペット」になると覚悟を決めて、初めから「徹底して甘やかそう」と思っていたのである。僕は猫を飼ったことがなく、この本を読んで「猫とはこういう動物なのか」とものすごく面白かったし、驚くことが多かった。

 その猫は飼うつもりで買ったり貰ったりしたものではなく、題名通り初めは「迷い猫」だったのである。それは1989年12月18日のことで、2007年9月4日午前2時50分に亡くなるまで、ほぼ16歳の天寿を全うするまでの様々な出来事はこの本や『目白雑学』のⅠ、Ⅱ巻のあちこちに書かれている。この本は最初は1993年に新潮社から『遊興一匹 迷い猫あずかってます』と題して出版された。今は2023年から中公文庫で再刊されたものが入手しやすい。猫好きの人はもちろん、ペットや動物一般に関心がない人が読んでも面白いと思う。ちなみに原題「遊興一匹」は加藤泰監督の『沓掛時次郎 遊侠一匹』から付けられたが、再刊に当たってもう通じないと思って削除したと出ている。1993年には通じたのかどうか、まあある時代の映画ファンには必見だったけど。

(表紙の写真は山田宏一撮影のアンナ・カリーナ)

 ところで著者には『タマや』という小説があって、翻訳されて欧米で大評判というので最近講談社文庫から再刊された。これも作品世界で猫を飼うことになるんだけど、こっちは1987年に講談社から出た作品なので、つまりトラーが金井家にやって来る前なのである。トラーは牡で、『タマや』のタマは牝という違いはあるけれど、ほとんど未来を予知したような設定なのである。この小説は非常に面白かったけど、後で調べると「目白四部作」というものの2作目なんだという。他の作品も図書館で借りてきて読むつもりで、小説としての感想はその時に書くことにしたい。(猫が出てくるが、猫以外の人間模様の方が面白い小説である。)

 ここで書いておきたいのは、『タマや』では預かることになった牝猫が最初から妊娠していて、結局5匹の子猫を産むのである。それを誰に貰ってもらうかが大きな問題なのだが、主人公は出産後にタマを「去勢」しようと考える。そうしたら猫を連れてきた登場人物がなんだか可哀想と言いだし、こんなことを言うのである。「朝日新聞の論壇時評とかいうのも読んでるよね?」「その書き手がどういう人なのか知らないけど、きっとエライ人なんだろう、その人が書いてたよ、都会で動物を飼って平然と不妊手術をさせる飼い主は、余りにも身勝手なんじゃないかってね」と述べるシーンが出て来るのである。

 いや、ビックリ、これって見田宗介さんなのである。解説に出ているが、1985年7月29日の朝日新聞夕刊に掲載されたもので、「ニューヨークでネコを飼うときは、去勢するのが普通だという。そのことを「ネコのためだ」という人がいて、背筋が寒くなったことがある。(以下略)」という部分があるのだ。これは見田さんが亡くなった後で、論壇時評を集めた『白いお城と花咲く野原』を再読した時に気付いたのだが、他に多くの論点があるのでその時は触れなかった。(ちなみにその本のことは、『「論壇時評」再読、35年目の諸行無常』『〈深い明るさ〉を求めて』に書いたので一応示しておく。)まさか見田先生が出てくる小説があったとは。

 見田さんの論壇時評は掲載当時に必ず読んでいたけど、この部分に記憶はなかった。ということは、まあ大体共感して読んだんじゃないかと思う。85年当時は結婚して家を出ていたが、実家では弟が連れてきた犬を飼っていた。その牝犬を「去勢」しようとは全く思わなかったと思う。後に病気になったら動物病院に連れて行ったが、ペットの毛を刈って貰うなんて発想もなかった。80年代はそんなものだったと思うけど、今になって読むとこれは見田さんの方が間違っていた。(そういう見立ては結構多いと思う。)「ペット」に不妊手術をするのは、今ではある意味「マナー」的なものになっているんじゃないだろうか。

(トラー=金井久美子画)

 結局迷い込んできて金井家で買うことになった「トラー」は去勢することになった。立派な猫だったらしく、姉妹で往年のアメリカ映画の俳優に似ていると言い合っている。僕も飼っていた犬を可愛いと思っていたけど、まさか映画スターに見立てたりはしなかった。この「トラー」というのは、「くまのプーさん」から取られたということで、本人が書いているように大江健三郎が長男を小説に登場させるときの「イーヨー」が「くまのプーさん」のロバから来ているのと同じ。「A・A・ミルンと現代日本文学」というのは、文学史の大きなテーマになるんじゃないか。

 トラーは猫だから、毎日出歩いて狩りをしてくる。目白(新宿区西北から豊島区南部付近)は結構自然が残っている地域で、スズメや鳩ばかりか、何と蛇まで狩って持ち込んでくるというから、いやあ大変である。元から贅沢な猫で、甘エビやホタテが大好物というんだから、人間以上である。猫とはそういう動物なのかと初めて知っていろいろとビックリした。

 うちで飼っていた犬が高齢化して弱ってくると、猫が家に入り込んで(犬のトイレ用に外と出入り出来る場所を作っていた)魚の骨などをつまんでいく。そんな「泥棒猫」を犬が追いかけるんだけど、さっと塀の上に登ってしまい、「どうだい、犬には出来ないだろう」という顔を犬だけでなく飼い主の人間にまでするのである。猫とはずいぶん失礼なヤツだと思っていたのだが、なるほどこういうものなのか。ちなみに犬は「クル」と言ったが、内田百閒が飼っていた「ノラ」という猫の次に飼った猫が「クル」というんだそうで、「ノラや」というエッセイ集の中に「クルや」というのがあるという。あれこれ読むと、いろんなことを知るもんだ。

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金井美恵子『目白雑録 日々のあれこれ』にはまるー金井美恵子を読む①

2025年04月18日 22時16分06秒 | 本 (日本文学)

 まだ多くの人が名前も知らないか、知ってるとしても読んでないだろう金井美恵子という1947年生まれの女性作家がいるのだが、この人はどういう人なんだろうと「金井美恵子」と打ち込んでみると、いつの間にか一番上に「金井美恵子 ノーベル賞」という検索予測ワードが登場するという驚くべきことになっていて、何でも欧米で非常に評価が高まっているらしい。そうか、だから最近文庫でいっぱい再刊されているのかと初めて気付いたのだったが、ついどんな作品なんだろうと中公文庫や講談社文庫、講談社文芸文庫などにある文庫を買ってしまい、「抱腹絶倒の痛快エッセイ」と帯に書いてある『目白雑録 日々のあれこれ』という中公文庫3ヶ月連続刊行というのを一番最初に読み始めてしまったら、なるほど確かにこれははまるなあと中毒状況に陥ってしまい、実は3冊で終わらず文庫化されない続きもあって、それが何と一番近い地元図書館に収蔵されていることに気付いて、それまで借りてきて全部読み切ってしまったというのは、我ながら驚くというか、まさに2025年の「春の珍事」とでもいうべき出来事であった。

(金井美恵子)

 この本が『目白雑録』と名付けられているのは、著者の金井美恵子が画家である金井久美子という姉と共同で(山手線で池袋から新宿方向へ一駅の)目白近くに住んでいるからで、阿佐ヶ谷姉妹というタレントがいるけれど、あちらが顔が似ているくせに実は他人同士なのと違って、こちらはホンモノの「目白姉妹」なので、一緒に猫を病院に連れて行ったり、完全に通好みの映画(まだほとんど知られていなかったフレデリック・ワイズマンをアテネフランセ文化センターまで見に行ったり、ポルトガルの老巨匠マノエル・デ・オリヴェイラとかなので、一般的な映画ファンレベルでは話について行けないだろう)を見に行ったりしているのである。

(『目白雑録Ⅰ』)

 ではこの本は自分が好きな映画や猫などを語る「ほのぼの」エッセイかというと全く違っていて、テレビもインターネットも見ない21世紀と思えない暮らしをしながら、新聞(朝日と毎日)や文芸雑誌などを読んでいて「何だろうこの変な文章(言葉遣い)」というのを見つけてきては「批評」というか、ほとんど「悪口」「暴言」を書き連ねるというところに読みどころ(抱腹絶倒)があり、世の中には全然知らないところでいろんなことが起こっていたのだなと感嘆しながら島田雅彦(作家である)とか当時都知事だった石原慎太郎の発言を取り上げて論及するのを楽しんだのだが、何しろ三島由紀夫賞受賞作『ユリイカ』(映画監督青山真治の大傑作を自ら小説化したもの)の解説に「競争相手は馬鹿ばかりの世界へようこそ」と題したぐらい「文壇」の異端者なのである。

(『目白雑学』Ⅱ)

 こう書くと映画と猫は別にして日々創作に勤しんでいるのかと思うと、もちろんベースはそうらしいのだが、何故か姉妹でヨーロッパのサッカー(フットボールと書くことが多いが)にはまってしまい、深夜に見続ける暮らしをして「サッカー批評」を繰り広げるのだが、それはワールドカップの「日本バンザイ」「がんばれニッポン」などとは全く違ったモノで、レベルの低いニッポン・サッカーを有り難がる「ナショナリズム」が大嫌い、2006年のドイツ・ワールドカップ後に引退を表明したジダン中田英寿をまるで同格であるかのように「両雄去る」みたいな大々的報道を繰り広げた日本マスコミのおバカぶりを痛烈にコケにしている。

(『目白雑録Ⅲ』)

 この本を読んで一番感じたのは我々がいかに忘れっぽいかで、この本の最初の方でSARS(サーズ=重症呼吸器症候群)の大流行が心配されたとき、行政やマスコミは「マスクをしろ」とか「不要の外出は控えろ」とか後の新型コロナと同じことを国民向けに言っていたという事実は、その時点では20年後に新型コロナウイルスなんてものが出てくるとは誰も思ってない時期に書かれた文章だけに、何だこれと驚かされたのであるが、同様のことは文庫以後に出てくる「3・11」後の原発論議(今は自分が何を発言したか忘れている人も多いんじゃないか)や第6巻で出てくる「佐村河内守」という「現代のベートーベン」の名前などたった10年経つか経たぬかことなのに忘れていたのにビックリしてしまって、佐村河内守なんて何だかとても懐かしかったものである。

(第5巻)

 最後に書誌的なことを書いておくと、この本のもとになった連載は朝日新聞出版の雑誌「一冊の本」(岩波書店の「図書」のような自社PR雑誌だという)に2002年4月号から延々と掲載されたもので、後に入院などもあって休載もあるし、本にするため一時的に休む場合もあったらしいのだが、とにかく2004年に『目白雑録』が朝日新聞出版から刊行され、続いて2006年に『目白雑録2』、2009年に『目白雑録3』、2011年に『目白雑録4/日々のあれこれ』と同様に刊行された4巻本を新たに3巻本に編集し直したものが、今回の中公文庫版の全3巻なのである。従って、文庫化されていないのは2013年に出た『目白雑録5/小さいもの、大きいこと』(これは3・11関連の文章を再編集して平凡社ライブラリーから『〈3.11〉はどう語られたか』として2021年に刊行)、そして2016年に平凡社から刊行された『新・目白雑録/もっと、小さいこと』という本があり、内容的には2015年まで書き継がれたのである。

(第6巻)

 この本の一番面白い、数々の「鋭い指摘」(ほぼ悪口?)を紹介したいところだが、それは是非直接読んで欲しいからというか、引用するのも名誉毀損になりかねないというか、要するに面倒なだけなんだけど、石原慎太郎はじめ取り上げられた人たちの多くもどんどん亡くなっているのも時代の変遷で、この本をずっと読んでいると愛猫もやがては病気となり亡くなるし、本人も網膜剥離になってしまうという「時間の流れは恐ろしい」と改めて痛感させられる読書体験であった。猫のことはまた別に書こうと思っているが、今回は何か変に長い文章が続いてどうしたんだと思われたかもしれないが、実はこれは金井美恵子の文体模写だったのである。

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『宙わたる教室』、夜間定時制高校「科学部」の挑戦ー伊与原新を読む③

2025年03月03日 22時24分10秒 | 本 (日本文学)

 伊与原新を読むシリーズは一応3回で終わりたい。最後は『宙(そら)わたる教室』(文藝春秋、2023)を中心に、『ブルーネス』(2016、文春文庫)、『オオルリ流星群』(2022、角川文庫)にも少し触れたい。これらは長編小説で、短編集である『藍を継ぐ海』より感動的だと思う。(特に僕のイチ押しは『オオルリ流星群』。)それはともかく、これら3作には共通した感触がある。それは学界でうまく行ってない(非主流的な)研究者が在野(もしくは小さな研究組織)で大学をも凌駕する研究をめざすという構図である。それって何となくどこかで読んだような気が…? そう池井戸潤の『下町ロケット』じゃないか。

 しかし、池井戸潤は宇宙工学の研究者ではない。(文系出身の元銀行員である。)従って『下町ロケット』の技術的な部分は取材して書いたんだろう。作家の仕事は読者に伝わる文章を書くことだから、それで良いのである。『下町ロケット』の技術的、工学的な叙述はとても判りやすかった。(全部忘れてしまったけど。)一方、伊与原新はホントの学者出身だから、地球物理学的な叙述の科学的信憑性は高いけれど、けっこう本格的に難しいことがある。そこが「文学」的にどうなのかと言われて来たようだ。そして、実際に『ブルーネス』や『宙わたる教室』の科学的な部分には僕には難しすぎる部分があるんだなあ。

 『宙わたる教室』は東京の夜間定時制高校(架空の東新宿高校)の生徒たちが、新任の理科教諭に指導されて「科学部」を作って本格的な研究にチャレンジする話である。実際に東京の夜間定時制に勤めた身としては結構ツッコミどころも多いけれど、感動的な物語なのは間違いない。だからこそNHKでドラマ化され、評判を呼んだわけである。そのチャレンジは「火星(の重力)を地球上で再現する」というもので、読んでるときは何となく納得してしまうけど、僕には説明不能。だけど、中で出てくるNASAの火星探査船オポチュニティの話は感動的だ。2004年に始まり、予定をはるかに越えて2018年まで活動した実話は心に沁みる。

 (オポチュニティの轍)

 少子化の時代に夜間定時制に集まる生徒には大体4つの類型がある。まずは今も一定数いる「ヤンチャ系」で、喫煙、ケンカなどで全日制を退学してしまったようなタイプである。次は「不登校系」で、病気やいじめ、発達障害などで中学に通えなくなって、全日制高校へ行けなくなったタイプ。3番目は「ニューカマー外国人」で、日本語力の問題で全日制は難しく(定員割れしている)夜間定時制に来る。外交官や大企業幹部の子どもならインターナショナル・スクールに行けるわけで、親が働きに来ている東南アジア各国の子どもが多い。最後が昔行けなかった高校にぜひ通いたいという「高年齢生徒」である。

 「科学部」の4人はこの4類型が集まっていて、幾つもの衝突を繰り返しながら研究にチャレンジしていく。もちろんこんなにうまく行くかよという気はするが、これら生徒たちの悩みを知って欲しいという気はする。実際にこういう生徒たちと長い時間接してきて、あまり思い出したくないところもある。だけど、実際にこういう人たちが今の日本で学んでいるという現実は多くの人に知って欲しい。政治家やマスコミの人は大体「良い学校」を出ている場合が多いはず。存在すら気付かぬ「定時制高校」に目を向けて欲しい。これに訳あり全日制生徒も加えて、感じるところ、考えるところが大いにある小説になっている。

 『オオルリ流星群』は神奈川県秦野市近郊(丹沢山系)に小さな天文台を作る話。かつて高校時代に3年なのに文化祭で燃えた。空き缶でオオルリを描くタペストリーを作ったのである。それから25年、一人は死に、一人は引きこもっている。そして一人は国立天文台の研究者の任期が延長されず、丹沢に一人で天文台を作ろうと思っている。もはや中年を迎えた3人はそれに協力しようと思ったが…。これも「先に死んだもの小説」で、心に響く展開が待っている。中年以上ならすごく感動的だと思う。

 『ブルーネス』は東日本大震災で大きく揺れ傷ついた地震学者たちの物語。「原子力村」があるように「地震村」もあると書かれている。学界で「はぐれもの」になった人々がリアルタイムで津波を検知できるシステムを開発しようと奮闘する。それは実際に出来るのか、そして津波を防ぐのに有効なのか。この架空の物語の科学的正確性は判定できない。だけど「学界」は大変だなあと思う。どの分野でも似たようなもんだろう。学者の世界だから純粋な人ばかりということはもちろんあり得ない。

 最後に先ほど書かなかった『宙わたる教室』のツッコミどころ。幾つもあるが、まず「東新宿高校」があるパラレルワールドには新宿山吹高校はないのだろうか。都教委は山手線内にあった普通科の夜間定時制課程は全部無くしてきた。(山手線内では専門高校の工芸高校だけが全定併置校で残っている。)もう20年以上前から、代わりに単位制高校をたくさん作ってきた。「東新宿」に全定併置校があること自体不自然。元は大阪の定時制高校の実話だというが、何故東京に移したのか疑問。少なくとも「統廃合」の対象校にもなってない普通科の全定併置校が新宿にあるって、どうも不自然。これは「小さな問題」ではない。

 次に主人公の藤竹先生の問題。各学年1クラス(単学級)の定時制に「地学基礎」があるのも不自然だが、教師が休職していて数学も教えているって無理だし。理科教師は一人なんだから、物理、化学、生物なども一人で教えなくちゃいけないはず。数学をやれる時間的余裕はないし、数学の講師なら見つけやすい。理科と数学と二つ免許を持ってる人はごく少数だと思うし、免許はどうなってるのか。しかも、この先生は今も午前に大学に行っていて、時々は午後も校長が「特別研修」として認めて研究しているという。まあ小説だから、東京にはない制度を利用している教師がいてもいいのかもしれないが。

 というような問題もあるけど、一番不思議なのが「給食」が出て来ないところ。5時40分開始で、9時終了だと時間割的に不可能だ。給食は法的な裏付けがあるし、もちろん東京では各校で実施している。それだけ食べに来る生徒がいるというなら理解出来るけど、全く話題に出て来ないのはおかしい。職員会議を夜やってる話があるが、書かれてない大問題でも起こっているんだろうか。もちろん夜間定時制の定例職員会議は昼間の授業前に行うのである。そう言えば校長は出てくるが、定時制担当の副校長が出て来ないのも不自然というべきかもしれない。まあ、ほとんどの人にはどうでもよい問題だろうけど。

 でも東京の夜間定時制で苦労した身としては、一応書いておきたいのである。僕は昔のことが思い出されて苦労が甦ってきた。全定生徒の対立、暴力的な生徒、リストカット…、大変だけど、それは現実である。それでも何人かは自分がいなかったら高卒資格を取れずに終わった生徒もいたかもしれない。何年も引きこもっていて、ようやく初めて選挙に行きましたと告げた生徒もいる。そういうことを小さな矜持として、現実の教員としては日々を送ってきたわけである。

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『青ノ果テ 花巻農芸高校地学部の夏』、最高の宮沢賢治小説ー伊与原新を読む②

2025年03月02日 22時14分15秒 | 本 (日本文学)

 伊与原新を読むシリーズ2回目。『青の果テ 花巻農芸高校地学部の夏』(2020)は最高の高校生部活小説で、宮沢賢治小説。しかし、新潮文庫nexというライトノベル向けのレーベルから書き下ろしで刊行されたので、知らない人も多いんじゃないかと思う。「花巻農芸高校」という高校は実在しない。宮沢賢治が教師を務めた花巻農学校の伝統を受け継いでいるのは、「花巻農業高校」である。しかし、明らかにモデルになっていて、そのことはあとがきで明記されている。その架空の高校で、生徒たちが実在しない「地学部」を結成して、夏休みに「イーハトーボ」を探索して回る。そこに登場人物たちの謎が絡まってくる。

 宮沢賢治(1896~1933)を好きな人は世界中に多い。だから宮沢賢治に関わる「二次創作」(映画や小説など)も数多い。宮沢賢治の父親に焦点を当てた門井慶喜銀河鉄道の父』は直木賞を受賞し映画化もされた。だけど、『青ノ果テ』ほど『銀河鉄道の夜』に関する様々な謎に言及している小説はないと思う。(『銀河鉄道の夜』に関心がない人はこの本を読んでも仕方ない。)ところで宮沢賢治といえば、もう一つの代表作がある。『風の又三郎』である。だから当然、この小説も始業式に「謎の転校生」がやって来るところから始まるのである。東京から来た2年生深澤北斗とは一体何者なのか?

(花巻農業高校の宮沢賢治像)

 彼は「佐倉七夏」(なのか)という同級生を知っているのだろうか。そう心配するのは「鹿踊り(ししおどり)部」で活躍する江口壮多である。幼なじみの彼は中学でいじめられていた七夏をいつも見守ってきた。深澤は「イギリス海岸」を見てみたいと、最初の日に訪ねていく。七夏と壮多も何故か付いていって案内することになった。そこで「三井寺」という先輩が化石探しをしていた。三井寺は化石マニアで「地学部」を作りたかったが、今まで誰も賛同者が現れなかった。ところが深澤は入っても良いという。壮多は指を怪我して、せっかく出場が決まっていた全国総文祭にも出られず、七夏を含めて地学部に参加することになる。

(イギリス海岸)

 この「イギリス海岸」は『銀河鉄道の夜』で「カムパネルラが死んだ場所」という説がある。『銀河鉄道の夜』に出てくるいろいろな場所は、モデルになる土地があるとされる。そういう話が頻繁に出てくるので、『銀河鉄道の夜』に関心がない人にはつまらないかもしれない。だが賢治は「カムパネルラが死なない」異稿も書いていた。「カムパネルラが死ななかった世界」とは何だろうか? そういう問いが生まれる中で、突然七夏が学校に来なくなり、家からも消えてしまった。一体何が起こっているのか? 

 そして夏休みに入り、「地学部」は岩手県各地をめぐる2週間もの「巡検」に出るのである。参加者は三井寺、深澤、壮多の三人。早池峰山、種山高原から三陸海岸に回り、小岩井、岩手山から八幡平をめざすという壮大な旅である。この旅で見る各地の様子、また地質や星の描写はものすごく魅力的。「夏休みの部活小説」の魅力満載である。そう言えば、伊与原新の前に「地学」と結びついた小説を書いていた人は「宮沢賢治」だった。賢治は鉱物を収集し、宇宙に関心を寄せ、当時としては最新の科学知識を持っていた。伊与原新が宮沢賢治に関する小説を書くのは全く当然の道筋だったのである。

(宮沢賢治)

 ここで小説の謎の中身を書くことは出来ない。ただし、それは「カムパネルラが死ななかった世界」という言葉に大きく関わっている。カムパネルラは川に落ちたザネリを救って自らは死んだ。このような「自己犠牲」にはどのような意味があるのだろうか? ここで「先に死んだもの小説」という概念を考えることが出来る。有名な夏目漱石の『こゝろ』を思い浮かべれば、「先に死んだもの小説」という言葉で言いたい意味が判って貰えると思う。あるいは大江健三郎に僕の好きな『日常生活の冒険』という長編がある。村上春樹の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』もそうだし、『ノルウェイの森』初め多くの作品も挙げられる。

(岩手の郷土芸能鹿踊り)

 宮沢賢治の実人生でも、妹のトシが先に死んでしまった。トシへのレクイエムとしてサハリンへの旅が実行され、その旅も『銀河鉄道の夜』に生かされていると言われる。そして、実はそのような「先に死んだもの」小説の中に入るのが、この『青ノ果テ』なのである。あるいはその後に書かれた『オオルリ流星群』も同じである。「先に死んだもの」とは、逆に言えば「遺されたもの」がいるわけだ。もちろん人間は全員死ぬわけだが、親や配偶者、友人などが予想外に早く死んでしまったら、遺族は大変だ。さらに「もしその死が自分のためだったら」という場合、遺された人はどう生きていくべきなのか。

 井上ひさしの戯曲『イーハトーボの劇列車』では先に死んだ者が「思い残し切符」というものを遺されたものに渡していく。この優れた青春小説も、「思い残し」が何年かして若者たちに現れた話と言えるだろう。中で語られる地学、あるいは宮沢賢治世界をめぐる言説が面倒に感じられる人もいると思うが、これは一読の価値ある青春小説、素晴らしき宮沢賢治小説だった。

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『藍を継ぐ海』へ至る道、「地学小説」の醍醐味ー伊与原新を読む①

2025年03月01日 22時24分03秒 | 本 (日本文学)

 伊与原新(いよはら・しん、1972~)をご存じだろうか? 2025年3月現在、最新の(第172回)直木賞受賞者である。僕も昨年12月まで名前を知らなかった。何でも定時制高校を舞台にした小説を書いていて、それがドラマ化されたという話を聞いたのが最初。その本『宙わたる教室』を見つけた後で、『藍を継ぐ海』が直木賞候補になり受賞した。大体3年経つと文庫になるから、受賞作だからといって単行本を買うことはほとんどない。でもつい買ってしまって、この人の本を今いろいろと読んでいる。

(『藍を継ぐ海』)

 「伊与原」というのは珍しい姓だなと思ったら、日本には存在しない姓らしい(本名は「吉原」)。この人は作家としては珍しい経歴の持ち主である。東大大学院で理学系研究科地球惑星科学を専攻し博士課程を修了し、2003年から富山大学助教を務めていたのである。つまりホンモノの学者だったのだが、プロットを思いつき江戸川乱歩賞に応募して最終選考に残った。当初はそのように科学に基づくミステリーを書いていたらしいが、その後もっと幅広く「人間ドラマの中に科学を取り込む」方向に進んでいき、高い評価を受けるようになった。『月まで三キロ』で新田次郎賞、『八月の銀の雪』で直木賞候補になっている。

(伊与原新氏)

 森鴎外以来「医者」にして「文学者」という人はいっぱいいる。安部公房などはやはり「科学的」感性がベースにあると思うし、今も医療小説を書く現役医師はたくさんいる。しかし、現役の学者だったという作家は他にいないのではないか。(文系だとフランス文学で博士課程を修了している佐藤賢一がいるが、大学の研究職に就いた経験はない。)しかし、そういう経歴という以上に、「科学」が物語の核に存在する点が特別なのである。中でも著者の専攻から「地学」が取り上げられることが多い。

 つまり、「宇宙」とか「地質」などである。「気象」「化石」から「動物」に広がることもあるし、宇宙の話から必然的に素粒子などに話が及ぶこともある。「化学」「生命科学」方面はほとんど出て来ないが、まあ専門分化が著しいから大変なんだろう。ところで、宇宙とか地質とかの話になると、時間スケールが非常に長くなる。人間の歴史をはるかに越えた対象を見つめることから生じる「壮大な孤独」の詩。短い時間を生きるしかない「人間」の世界に、実は長い宇宙の時間が隠れている。言われずとも誰でも知っていることだが、普段はあまり意識しない。それを「科学」「エンタメ」「小説」として提示するのである。

(『月まで三キロ』)

 まあ評価された作品をまず文庫で読もうかと『月まで三キロ』(新潮文庫)を読んでみた。6つの短編(+掌編)と逢坂剛との対談が入っている。好みは分れるかと思うが、僕は『星六花』の気象をめぐる話やつくば市を舞台にした『エイリアンの食堂』が心に残った。その短編はラストのオチがなるほどという感じだが、同時に科学者をめぐる厳しい人事状況も忘れがたい。最後の『山を刻む』も日光白根山を舞台に火山研究者を描いていて興味深かった。自分も登っているので土地勘が働くのである。そして主人公にどんな「謎」があるのかという興味でも上手に描かれている。全体に「女性の生き方」を考える作品が多い。

(『八月の銀の雪』)

 次に『八月の銀の雪』(新潮文庫)を読んでみた。直木賞候補になった(受賞は西條奈可『心寂し川』)作品だが、選評を記録しているサイトを見ると興味深い。「科学」を評価しつつも、まだ「人間が描けていない」という評が多い。これが直木賞のキーワードで、こう言われて多くの作家が受賞出来なかった。しかし、小説なんだから「人間を描く」のは当然で、エンタメ系では筋書きやトリック重視の作品が多いのも事実。『八月の銀の雪』は表題の理由が詩的で素晴らしい。『海へ還る日』も科博(名前は違うが)を舞台にアッという小説。『玻璃を拾う』を含めて現代日本で苦闘する様々な女性像が刻まれている。

 そして受賞作『藍を継ぐ海』(新潮社)。『夢化けの島』の山口県見島と萩焼。『祈りの断片』の長崎原爆と向き合う地方公務員。『星堕つ駅逓』の隕石と北海道開拓史。今までの自然科学に加えて、「歴史」への眼差しも加わり一段化けたということだろう。だけど僕は『狼犬ダイアリー』が興味深かった。「狼犬」(おおかみけん)とは何か。紀伊山地で狼を見たという話をめぐる少年と犬の話。僕は犬好きだし、昔動物学者になりたかったぐらいで動物をめぐる話に弱い。『藍を継ぐ海』は徳島県のウミガメをめぐる物語。三作合わせて、女性の自然科学者を主人公にする物語が多いのも特徴。考えさせられる点が多い。

 僕は前から「地学振興」を唱えていて、高校教育の理科の中で「地学」の授業が少なくなった現状を指摘したことがある。日本は地震、火山噴火、台風、集中豪雨などの災害を避けることが出来ない。そんな国で生きている我々は「地学」を学ぶ必要があるはずだ。まあ学校でいくら勉強しても忘れちゃうものだが、伊与原新という作家が現れたことで皆が多くの学べるはずだ。もちろん勉強のために読むわけではない。直木賞受賞作家なんだからとても読みやすくて感動的なのである。

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『鍵・瘋癲老人日記』『陰影礼賛・文章読本』『台所太平記』ー谷崎潤一郎を読む③

2024年11月18日 22時12分34秒 | 本 (日本文学)

 谷崎潤一郎を読むシリーズ3回目(最後)。谷崎作品の中には、今となってはこれはどうもという小説が結構多い、いつもスルーしておくんだけど、谷崎の場合はその説明も意味があると思うので書いておきたい。まず、伝奇小説系のエンタメ色の強い作品は面白くない。『乱菊物語』『武州公秘話』などが代表。もっともどっちも未完だから、面白くなくても仕方ないかもしれない。一般論として、純文学は生き残るがエンタメ小説は賞味期限が短い。芥川賞の名前となった芥川龍之介は皆が読んでるだろうが、直木賞の由来である直木三十五なんで、読んでないどころか名前も忘れられている。まあ、それはともかく現代の冒険小説、幻想小説、時代小説の水準は非常に高くなっているので、今じゃ谷崎作品レベルじゃ満足出来ないのである。

 戦後に書かれた大問題作『鍵・瘋癲老人日記』もあまり面白くなかった。どっちも老人の性を赤裸々に描いて、評判・非難・称賛された小説である。『』(1956)は「異常」な性行動が日記体で書かれていて、国会で問題にされたぐらいだ。どんなエロティックな話なんだと思うと、今じゃ『鍵』で興奮する人なんかいないだろう。56歳の大学教授と45歳の妻がお互いに相手に読まれると知っていて、日記に性行動を書く。さらに、娘と夫の教え子もいて複雑な関係になる。夫婦、親子で心理ゲームを仕掛けあうのが鬱陶しい。『』の夫の日記と『瘋癲老人日記』はカタカナ日記なので、今では読みにくいったらない。

 『瘋癲(ふうてん)老人日記』(1962)は谷崎75歳の作品で、77歳の老人の日記という体裁。実娘より嫁(息子の妻)に執着して、嫁の足形の「仏足石」を墓石にして、あの世に行っても嫁に踏まれたいと望む。谷崎の「マゾヒズム」「足フェチ」を究極まで突き詰めた最後の長編小説。小説としてみれば、紛れもない傑作だが、あまりにも変すぎて笑えるぐらい。気色悪いのは否定出来ない。これもモデルがあって、三人目の妻松子の連れ子の妻、渡辺千萬子である。

 それより『鍵』も同じだが、主人公は病気持ちなのである。高齢で美食しているから、高血圧で脳血管障害がある。実際に小説中で倒れている。驚くのは救急車を呼ばないのである。調べてみると、救急車自体はもうあったが、全国各地に普及するのはもう少し後らしい。大体各家庭に電話がないんだから(60年代後半まで固定電話もない家が多かった)、呼ぶのも大変。小説の主人公は裕福で電話もあるが、病院に行ってもMRIなんかないから自宅で安静が一番という時代である。東大病院の医師が往診に来るのでビックリ。血圧の上が200を越えたりしているのも、驚き。医療水準の違いこそ、今では読みどころである。

 『陰影礼賛・文章読本』は30年代に書かれた有名な評論だが、初めて読んだ。本格的に論じるのは大変なので、ちょっと感じたことだけ。どっちも今でも興味深い論点もあるんだけど、全体的に古びた感じがする。有名な『陰影礼賛』(1933)は人種的観点があるのがマイナス。「白人」の文化が「陰影」を解さないのは「皮膚の色の違い」が原因だみたいな箇所がある。それなら「黒人」はどうなんだという観点が全くない。これは昔の文明論の特徴でもあるが、日本とヨーロッパ(の英仏独など大国)を比べるだけで、「東西文化」を論じちゃうのである。また「トイレ」も取り上げているが、洗浄便座が普及した現在では、昔の「厠」(かわや)の方が奥ゆかしいなんて思う人は誰もいないだろう。都会の夜は明るすぎて星空も見えないけれど、安全には代えがたい。

 『文章読本』(1934)はとても良く出来た文章入門編だけど、今じゃ例文が古すぎる。でも『城の崎にて』(志賀直哉)を取り上げて何度も論じているところは勉強になる。なるほど、これが志賀の文章推敲かと実感できた。古典文を引用しているのも貴重。だが可能な限り「新語」を使うべきでなく、「概念」「観念」は「考え」と言えば通じるという(218頁)のは、今では通じない。出ている例文、「彼には国家という観念がない」は「彼には国家という考えがない」と言えるかというと、現代人ならそこに微妙な違いがあることが理解できると思う。「観念」「概念」「理念」などはそれぞれ特別なニュアンスが生じたのである。 

 『台所太平記』(1962)について最後に簡単に。これはライトノベル的に谷崎家にかつて勤めた「女中」を回想した小説。すごく面白いし、映画化されたのも面白い。だけど時代の違いをこれほど感じる本もない。堂々と「同性愛」嫌悪が語られるし、家意識、家父長意識が随所に出ている。谷崎がいかに転居を繰り返したかが判って興味深い本で、時代相の描写も面白い。しかし、「良き主人」と「良き女中」による「良き家庭」を心底信じていた時代の産物なのである。

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『春琴抄』『少将滋幹の母』『猫と庄造と二人の女』ー谷崎潤一郎を読む②

2024年11月17日 21時46分51秒 | 本 (日本文学)

 谷崎潤一郎を読むシリーズ2回目。谷崎作品は数多くあるけれど、最高傑作は何だろうか。僕は学生時代に読んだとき、『春琴抄』(1933)が内容的にも方法的にもひときわ抜けた作品だと思った。今回読み直しても評価は変わらなかったが、『少将滋幹の母』(1949)も同じぐらい素晴らしいと思った。もちろん『細雪』を忘れてはいけないが、谷崎文学の特色である「女性崇拝」「母恋い」というテーマを突き詰めている点で、この2作が突出していると思う。

 『春琴抄』は大活字に変わった新潮文庫でも128頁、そのうち92頁から「注解」になるから、ずいぶん短い小説である。しかし、その90頁ほどの中は、ほとんど句読点がなく字ばかりがずっと続いている。内容も異様だが、文体も異様な熱を帯びていて、一見すると読む気が失せる感じだが、読み始めると案外作品世界に入りやすい。「春琴」という盲目の三味線奏者に丁稚の佐助が生涯掛けて尽し抜くという「女性崇拝」の極致。しかも美女とうたわれる春琴がある事件により顔に傷を負うと、佐助は自らも盲目になって付き従う。「マゾヒズム」というか、恐るべき愛の境地を緻密に描いて読むものを「納得」させてしまう。

 何度も映像化されているが、この小説は本来映像化不能だと思う。肝心なところを薄めないと映像に出来ないし、どう工夫しようと「盲目」の世界を描き切るのは不可能だ。この超絶的小説を成立させるため、作者が試みたのは「評伝」として書くという方法である。幕末から明治にかけて活躍した奏者の伝記、「鵙(もず)屋春琴伝」という本を作者が見つけ、墓も訪ねる。ゆかりの人にも話を聞いて、「春琴伝」に書かれていない春琴、佐助の「真実」を追求していくという体裁である。これが成功して実在人物のように読めて感銘が深くなる。(実在人物と思い込んで春琴の墓を探す人が多かったという。)

 そういう風に、様々な本に当たりながらまるで歴史の考証のように始まる小説は、『春琴抄』が初めてではない。1931年の『吉野葛』も同じような構成になっていて、ほとんど歴史紀行みたいに始まる。南北朝統一後も吉野の奥で活動を続けた「後南朝」の秘史を探るというスタイルで進行し、いつのまにか「母恋い」の物語となる。吉野の風景描写も趣深く、昔から好きな小説なんだけど、完成度から言えば、内容と形式の融合が不十分で読んでいて中途半端感が残るのが残念だ。

 『少将滋幹(しげもと)の母』は、戦後の1949年に書かれた傑作。『今昔物語』にあるエピソードをもとに想像力を膨らませ、谷崎が創作した「偽書」を巧みに織り交ぜて「母恋い」ものの極致に至る。左大臣藤原時平は老齢の大納言藤原国経の北の方が美しいと聞き、計略を巡らせて白昼堂々奪い去る。幼くして母を奪われた後の左近衛少将藤原滋幹(国経と北の方の子)は母を慕いながらも会うこともならずにいたが、後年になって思いがけず再会の日がやって来る。藤原時平はもちろん実在人物で、右大臣菅原道真が左遷されときの左大臣である。国経、滋幹も実在人物なんだけど、ここで描かれたエピソードは作者の創作である。

 時平の横暴が凄すぎて、今となってはこんなパワハラが許されたのも驚き。老齢国経の生きざまもすさまじく、この小説はどうなるんだと思う時に、偽書を基にした滋幹のエピソードが出て来る。ものすごく感動的で、谷崎文学でこれほど清冽な感動を覚えるのも珍しい。この小説も昔読んでいて、その時も面白いと思った記憶があるが、どうも年齢が高くなってから読む方が感動が深いかもしれない。妻を奪われた国経の絶望が身に沁みるのである。権力者の横暴がこれほど印象的な小説もない。

 もう一つ、「母恋い」とも「女性崇拝」とも関わらないけど、思いがけぬ傑作が『猫と庄造と二人の女』(1937)。1956年に豊田四郎監督によって映画化され、キネ旬4位となった。主人公の森繁久彌が前年の『夫婦善哉』を思わせる名演で、読んでいて森繁が思い浮かんでしまう。まさに題名通りの小説で、猫のリリーが真の主人公。庄造と前妻、現妻がリリーを巡って相争う。関西小説としても興味深いが、日本史上最高の猫小説じゃないだろうか。最初人間どうしの駆け引きが鬱陶しいが、リリーの存在感がどんどん大きくなっていき、読んでる方も納得させられてしまう。猫好きな方は一読を。

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『痴人の愛』『卍』『蓼喰ふ虫』ー谷崎潤一郎を読む①

2024年11月16日 22時12分13秒 | 本 (日本文学)

 10月からずっと谷崎潤一郎を読んでいて、計14冊になる。文庫に入っている主要作品は大体読んだことになる。いや、けっこう大変だった。今谷崎を読まなければならない内的必然性なんか全然なく、単に溜まっているから片付けようというだけ。近代日本文学史に残されたピースを埋めたいだけなのだ。谷崎は若い頃に何冊か読んで、その後ずっと読んでなかったが、数年前に『細雪』を読んだことはここで3回書いた。今回読んでみて、案外詰まらないもの、古びたものが多いのに驚いた。 

 谷崎潤一郎(1886~1965)はもちろん同時代に新作を読んだ作家ではない。でも、僕の若い頃は作家死後10~20年程度しか経ってないので、そんな昔の作家とも思ってなかった。それから早半世紀、今では100年前に書かれた作品を読むんだから、世の中の風俗、生活洋式も大きく変わってしまった。『刺青』で新進作家と認められたのは1910年で、その後幻想、怪奇的な作風で知られた。新奇な風俗に関心が強く、映画『アマチュア倶楽部』のシナリオも書いている。

『痴人の愛』

 東京都中央区日本橋人形町の生まれだが、1923年の関東大震災を機に関西に居を移した。その後、「日本趣味」に回帰し数多くの傑作を生み出した。それらの中で今も傑作として読めるのは、『痴人の愛』(1924)、『』(1928)、『蓼喰ふ虫』(1929)だろう。特に『痴人の愛』は『春琴抄』『細雪』に並ぶ有数の傑作だった。何度も映像化されていて、僕も映画を2本見ているので、大体の筋は知っていた。でも読むのは初めてなのである。この長編小説は神戸時代に書かれたが、舞台は東京である。

(谷崎潤一郎)

 電気会社の技師河合譲治が浅草のカフェで、まだ少女のナオミを見初める。そして家庭事情もあるらしいナオミを引き取って、教育を施して自分にふさわしい女性に育てたいと思った。そして東京南部の大森に居を定める。ナオミという名前は「ハイカラ」な「変わった名前」だと言われている。ナオミはまだ15歳というんだから、今では「犯罪」になるだろう。これは現代の「源氏物語」なんだと思う。光源氏が若紫を引き取って理想の女性に育てようとしたのと同じく、譲治はナオミを自分好みの女に仕立てたい。ところが身分制度の崩れた近代社会ではそんなことは不可能で、ナオミは「小悪魔」となり譲治の支配者となっていく。

(1949年映画の京マチ子)

 谷崎文学は「異常性愛」「マゾヒズム」で知られるが、この頃の作品はその絶頂といっても良い。特に『痴人の愛』は今の感覚で見ても「異常」な展開になっていくが、文章はキビキビして生きが良く紛れもない傑作。何度か映画化されているが、ナオミは最初の木村恵吾監督版(1949年)の京マチ子が最高だと思う。しかし、譲治は宇野重吉なのでマジメすぎて、1967年の増村保造監督版の小沢昭一の方が似合っていた。(ナオミは安田(大楠)道代。)ナオミはダンスを覚えて享楽的な女になり、大学生と浮名を流すようになる。譲治は徹底的に引きずり回されるが、「美にひれ伏したい」谷崎マゾヒズムの白眉だ。鎌倉での避暑なども含め、大正時代の東京の「中流」生活の様子も興味深い。読んで気持ち良くなる作品じゃないけど、うまく出来ている。

 『』(まんじ)は同性愛を描いた作品として著名。だが今読むと、そのこと以上に「大阪弁の語り小説」として読解が難しい作品になっている。『痴人の愛』も譲治による回想として書かれているが、いわゆる「標準語」だからスラスラ読める。『卍』は大阪の言葉に直すために助手を付けて徹底的に直した。その結果、僕には読みにくくて困った。この小説は柿内園子という女性が、夫がありながら徳光光子という女性に惹かれる。ところが、光子には綿貫という男が付きまとっている。そして様々な駆け引きが行われ、人心操作小説になっていく。そこが思ったよりも詰まらないところ。結末も判るようで判らない(僕には)。

 『蓼喰ふ虫』は新潮文庫に『蓼喰う虫』として入っているが、小出楢重の挿画が「完全収録」された中公文庫版『蓼喰ふ虫』を読んだ。この小説は谷崎の「日本回帰」として重要視され、内容的にも傑作と言われることが多い。でも相当に読みにくくて、僕は何だかよく判らなかった。愛情の冷めた夫婦がいて、子どもの手前取り繕っているが離婚も考慮している。妻は決まった愛人があり、夫公認で日々会いに行っている。夫は秘密の「売春クラブ」みたいなところに長年通っている。(遊郭があった時代だがそういう場所ではなく、「神戸」という国際港ならではの外国人経営の不思議な場所である。)

 そんな不可思議な関係の話かと思うと、まあそうなんだけど、それ以上に人形浄瑠璃(文楽)についての講釈なのである。そもそも冒頭が妻の父から招待されて、浄瑠璃に行くかどうかという場面。その後、淡路島に義父、その妾とともに淡路の人形浄瑠璃を見に行ったりする。これは今重要無形文化財に指定され、「淡路人形座」で上演されている。昔はもっと野趣に富んだ上演形態で、ジャワ島の影絵芝居を見に行くみたいな雰囲気だ。この場面が非常に好きだという人がいるらしいし、確かにとても印象的。でも、全体的に浄瑠璃講釈が多すぎで、そういう好事趣味が谷崎文学の特色でもあるけど、付いていけない人も多いと思う。

 ところで、異常な性愛ばかりを書き綴った谷崎だが、実は大体モデルがあるんだという。谷崎は1915年に石川千代と結婚し、翌年に長女が生まれる。しかし、翌年には妻の妹石川せい子(同居して谷崎が音楽学校に通わせていた)が好きになり、この女性が『痴人の愛』のモデルだという。せい子は谷崎脚本の映画『アマチュア倶楽部』で、女優葉山三千子としてデビュー。『浅草紅団』などに出演した。せい子は谷崎の求婚を断り、映画界で活動したが、1932年にサラリーマンと結婚して引退した。

 妻の千代は夫に顧みられず、それに同情した作家佐藤春夫と親しくなった。このため『蓼喰ふ虫』のモデルは長らく佐藤ではないかと思われていたが、実は違うという。当時谷崎宅で書生をしていた和田六郎が本当のモデルだという。和田は戦後になってミステリー作家大坪砂男となった人物である。一方、谷崎は一時妻を佐藤に譲ると言いながら谷崎が前言を翻し、二人は1921年に絶交した(小田原事件)。1926年に和解し、千代と和田が結ばれることに佐藤が反対し、結局1930年になって谷崎と千代は離婚、千代は佐藤春夫と結婚する。三人連名の挨拶状を送り、「細君譲渡事件」と騒がれた。まあ驚きの文壇エピソードである。

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今も面白い織田作之助、大阪を描いた作家「オダサク」を読む

2024年09月11日 22時46分55秒 | 本 (日本文学)

 最近織田作之助オダサク)を読んでいたので、そのまとめ。大阪で生まれ大阪を描いた作家織田作之助(1913~1947)は、短い生涯の中で印象的な作品を幾つも残した。1939年の『俗臭』が芥川賞候補になり、翌1940年にもっとも知られる『夫婦善哉』(めおとぜんざい)が発表された。敗戦後の1947年1月に急逝したので、「戦時下の作家」だったことに改めて気付く。今回読んだのは「夫婦善哉」をモチーフにした演劇を見るからだが、実はその前から読み直したいと思っていた。
 (岩波文庫の2冊)
 今回は岩波文庫の『夫婦善哉正続他十三篇』『六白金星・可能性の文学他十一篇』を読んだのだが、その2冊は前から持っていた。2024年4月に新潮文庫から『放浪・雪の夜 織田作之助傑作集』が出て、すぐに読んでみた。続いて新潮文庫の『夫婦善哉決定版』を買って読んだのは、字が大きくて読みやすそうだったからだ。織田作之助は昔「ちくま文学全集」で読んだ記憶があるが、もう一回ちゃんと読んでみたいと思っていた。だから岩波文庫を買っていたわけだが、なんか字が小さいので後回しにしていた。今回も新潮を読んですぐに岩波も読むつもりだったけど、つい面倒になってしまった。
 (新潮文庫の2冊)
 両方の文庫には共通の作品が幾つも収録されている。新潮で読んだものは飛ばそうかと思ったが、間に数ヶ月入ったので読むことにした。たった数ヶ月しか経ってないのに、案外忘れていて我ながら驚いた。細かい所は結構忘れていたのだが、今度の方が面白く読めたのも驚き。一度目に読んだ時は展開が気になってストーリーを追うことで精一杯。特に難しいわけではなく、むしろ今なら直木賞候補になるような物語性豊かな作品群だ。今回読んだ時は大体筋は覚えていたので、細部の描写や全体の構成、文体の工夫などに目が行く。そっちこそが面白いのである。

 オダサクと言えば『夫婦善哉』、特に1955年の豊田四郎監督、森繁久彌淡島千景主演の東宝映画を思い出す人も多いと思う。僕はこの映画が大好きで、たまたま同じ年に林芙美子原作、成瀬巳喜男監督の『浮雲』とぶつかってベストワンになれなかった(2位)のを残念に思う。『浮雲』を読むときに高峰秀子と森雅之が脳内に浮かんでしまうのと同様に、『夫婦善哉』を読むときも映画の主演二人が目に浮かぶ。その結果、大阪庶民の人情喜劇みたいなちょっと古風な物語を書いた作家というイメージがあった。
(映画『夫婦善哉』)
 ところで20世紀にオダサクを読んだ人は、『続夫婦善哉』を読んでないと思う。映画にも『続夫婦善哉』があるが、これは完全なオリジナル作品で淡路恵子が怪演している。本物の続編が見つかったのは、2007年だという。戦前の有名な出版社、改造社社長山本実彦の資料を収蔵する故郷・薩摩川内市の図書館から見つかった。雑誌『改造』掲載のために書かれて、検閲を恐れて不掲載になったと想定されている。そんなに反軍的なのかというとそんなことはないけれど、「事変」の泥沼化に連れ物資不足が深刻になっていく様がよく描かれている。と同時に舞台が大阪から別府温泉に移ることも驚き。
(織田作之助)
 今まで『夫婦善哉』は大阪庶民を見つめて書いたフィクションだと思い込んでいたが、実は作者周辺にモデルがいたのだと解説にある。一族の没落と復興を強烈に描く『俗臭』、あまりにも独善的な人物を描く『六白金星』などとりわけ強烈な作品は皆モデルがあるらしい。『夫婦善哉』はモデルの人物が実際に別府に移転しているらしく、「別府もの」と呼んでもよい作品群がある。『雪の夜』も惚れた女と別府に逃げるモテない男の話。マジメ人間が何かの拍子に「フーゾク」系にハマってしまうが、女も情にほだされて男に付いていくという話が複数ある。『夫婦善哉』と似てるけど内容的には逆である。

 岩波文庫を読んだら解説を佐藤秀明さんが書いていた。三島由紀夫の研究者として著名だが、調べたら今は近畿大学教授だった。オダサクも研究していたのか。実は大学時代に学科は違うが同じ学年だった。前田愛先生の授業に出たりしていたから、記憶にあるのである。解説ではその前田先生の『幻景の明治』に始まり、中沢新一やエドワード・サイードに触れながら「大阪」という町のトポロジーに迫っていく。これが読みごたえがあって、オダサクが少し判った気がした。『夫婦善哉』も複数の語りが内在していて、「甲斐性なしの男に惚れた芸者が尽くす」というような「人情モノ」では済まない構造を持っている。

 オダサクを本格的に論じるほど読んでないが、同じ頃に活躍してともに「無頼派」「新戯作派」と呼ばれた太宰治坂口安吾ほど読まれているだろうか。少なくとも東京では『人間失格』や『堕落論』のような「文学青年に限らず若いうちに読むべき作品」に『夫婦善哉』は入ってないだろう。大昔の風俗小説、映画化の原作程度のイメージじゃないか。しかし、オダサクほど「庶民」の内実を事細かく描いた作家も珍しい。「知識人」の自我をめぐるゴタゴタなんかほぼ出て来ない。林芙美子の放浪よりさらに追いつめられた放浪であり、戦時下民衆の実像が記録されている。東京にもこういう作家が欲しかった。
(夫婦善哉)(自由軒のカレー)
 ところで「夫婦善哉」というのは、大阪の法善寺横丁にある実在の甘味処である。昔大阪に行ったとき夫婦で寄ろうと思ったが、満員で入れずレトルトを買ってきた。作品に出て来る「自由軒」の卵をのせたカレーも有名。こっちも満員だった。20年ぐらい前でそうだから、今ではもっと入りにくいだろうと思う。作品中には大阪の庶民の食べ物がいっぱい出て来て、上流の『細雪』と違って出て来る店も大分違う。そこも面白いところだ。

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『緋の河』、〈カルーセル麻紀〉の子ども時代に迫るー桜木紫乃を読む③

2024年08月21日 22時17分49秒 | 本 (日本文学)
 桜木紫乃を読むシリーズ3回目で最後。今回は主に『緋の河』(2019、新潮文庫)を取り上げるが、その前に読み終わったばかりの『』をちょっと。講談社文庫の桜木作品連続刊行の最後。これは桜木作品には珍しく、釧路ではなく根室を舞台にしている。釧路以上に寒い環境で展開される三姉妹の物語だが、途中であれよあれよと怒濤の展開でヤクザ小説、または政治小説になっていくのでビックリ。非常に面白かったが、冒頭で根室を代表する水産会社の次女がよりによって中学卒業後に芸者になってしまう。

 長女は政界進出をめざす運輸会社の長男に嫁ぎ、次女が花街に行ってしまい、結果的に三女は自分が犠牲になって婿取りをして家を守ると決意する。最初が花街で始まるのでそういう話かと思うと、どんどん変容していくのが面白い。昭和30年代の根室では北方領土をめぐってきな臭い動きが絶えない。そこら辺も面白いが、もし読むなら解説は後にした方がよい。最後の展開がバラされているので。それは別にして、子どもが三人いれば一人は親の期待から外れて生きるものなのだ。

 そのことが実話に基づきフィクション化されているのが、『緋の河』である。これは釧路に生まれたカルーセル麻紀(1942~)の人生にインスパイアされた小説である。刊行当時話題になったので、文庫になったら読みたいと思っていたが2022年に新潮文庫に入ったのに気付いていなかった。今回桜木作品をまとめ読みしようと思って調べたら、とっくに文庫になっていた。文庫で600頁を越える長い小説だが、それでも22歳までしか達せず、その後のことは『孤蝶の城』(2022)という続編があるがまだ読んでない。

 カルーセル麻紀(作中では「カーニバル真子」)は元祖「性転換タレント」である。まだ子どもだった自分は、そういうことが可能なのかと驚いたものだ。その前にテレビ番組によく出ていたが、まだLGBTなんて概念もなく「男だけど女として生きる」という生き方があると示した人である。もっとも世間的にはどこか「怪しい」感じも匂っていたと思う。ともかく1970年代前半にはある程度の年齢の人は全員が知っていたと思う。当時は「ジェンダー・アイデンティティ」なんて考えはなく、世の中には生まれながらの「男」「女」しかないと僕も思っていた。
(カルーセル麻紀)
 そのカルーセル麻紀は釧路に生まれたので、桜木紫乃はぜひ自分で小説に書きたいと思っていたという。戦時中の生まれで出生名が「徹男」と付けられたのは、厳格な父の「米英と徹底的に戦う男」という意味らしい。小説では「秀男」となっているが、幼いときから女児のように思っていた。周りは姉のお下がりを着せられたからで、いずれ「治る」と思っていたようだが、いつまで経っても体は華奢なままだった。自分のことも「あちし」(「わたし」と言えず)と呼ぶ弱々しい「少年」は、学校に上がると格好のいじめの標的である。そのためいつも強いものを見つけて守って貰った。親や教師も本人が弱いからだと思われていた。

 そんな彼は中学では初めて「友人」を見つけた。何とか中学を卒業し高校へ行ったが、そこでは丸刈りが校則で「頭髪検査」があった。演劇部で女性役をするからと何とか目こぼしされていたが、ついに教頭が来て無理やりバリカンで刈られた。それをきっかけに教師に啖呵を叩きつけて退学した。そのまま家出して東京をめざすも無理と判って札幌で下りて、何とかゲイバーにたどり着く。そういう場所があると子ども時代に教えられていたのである。
(カルーセル麻紀の若い頃)
 その後は「ショービジネス」の小説となっていく。札幌から東京へ出て行き、さらに大阪へ行く。その間に多くの男性遍歴もあるが、もともと客商売に向いていた。度胸もあるし、話もうまい。10代にして夜の世界で人気者となる。その後、単にゲイバーでショーをするだけではなく、本格的に舞台に出るチャンスがめぐってくる。しかし、そこでは女優のわがままが目に余る。ついに若輩の真子が啖呵を切る。このように2度の「啖呵」シーンがとても印象的だ。カルーセル麻紀に同じような場面もあったんだろうが、桜木紫乃の小説家としての力量が示されている。
(『霧』)
 『緋の河』は今度テレビに出られるというところで終わっている。その後は続編で。誰にも認められないと思って生きる「秀男」だが、ただ姉だけが味方になってくれる。ずっと親の期待を背負って生きていた姉が、ラスト近くで大きく変わっていく。そこも読みどころだ。性別違和(性同一性障害)の子どもの心理をここまで書き込んだ小説はあまりないと思う。これは「釧路小説」とは言えないが、やはり釧路という町が背景にあって成立している。もっともこの時代、大阪では釧路の位置を知ってる人などほとんどいないのだが。とにかく桜木紫乃の小説は面白いのでお薦め。
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『ラブレス』『家族じまい』、「家族」の過酷な歴史ー桜木紫乃を読む②

2024年08月20日 22時19分58秒 | 本 (日本文学)
 桜木紫乃の直木賞受賞作『ホテル・ローヤル』(2013)、あるいはその前に書かれたミステリー風の作品『硝子の葦』(2010)には、釧路湿原を望む場所に建つ「ラブホテル」が出て来る。両作品に共通の人物は登場せず独立した作品だが、「ホテル・ローヤル」という名前が共通する。昔『ホテル・ローヤル』を読んだときは、ただフィクションに付けられた架空の名前だと思っていた。しかし、実はこれは作者の実家だった。15歳の時、父親がラブホテル経営に乗りだし、湿原を望む郊外に作ってそこそこ繁盛したらしい。桜木紫乃は仕事の手伝いをしていたというから驚く。

 桜木紫乃は「新官能派」などと呼ばれたらしいが、その小説に出て来る性描写は渇いている。そういう生育をすれば、「愛」や「性」に過大な期待を持てなくなるだろう。道東の寒々しい風景描写の中で、人々は結ばれたり別れたりするが、どこにも湿った思い入れがない。過酷な人生を歩む主人公が多いが、孤独で厳しい人生行路も桜木紫乃の読後感を涼しくさせている。

 小説に出て来る登場人物には思いやりを持って暮らす家族などほとんどなく、天涯孤独な人も多い。普通ならそういう設定は難しいのだが、戦争直後の北海道には開拓農家北方領土からの引揚者が多く、また主産業の炭鉱には全国から労働者が集まった。どこの出身なのかよく判らない謎に満ちた人物が出て来ても、昔の北海道は妙にリアルな環境なのである。

 桜木紫乃が初めて大きく評価されたのは長編小説『ラブレス』(2011、新潮文庫)だった。直木賞や吉川英治文学新人賞の候補になるとともに、島清(しませ)恋愛文学賞を受賞した。女性どうしのいとこの話から始まって、その親たちの姉妹の長い人生が語られていく。道東の開拓農家に生まれた極貧の姉妹は全く異なった人生を歩む。姉は途中で旅芸人に一座に飛び込み、妹は地元で理容師になる道を選ぶ。ちなみに桜木紫乃の父親はホテル経営の前には床屋をしていて、作品に床屋が出て来ることも多い。

 さらに驚くべきは姉妹の母親の苦難で、くだらない男どもに翻弄されながら戦後を生きてきた。姉百合江が握りしめていた謎の位牌とは何か。今は阿寒湖や川湯温泉の方まで合併して釧路市になっているが、そのような釧路近郊も描きながら壮大な家族の戦後史が語られる。謎を追うミステリー的な部分もあるが、まずは姉妹を通して描き出される過酷な戦後民衆史に言葉をのむ。1970年の山田洋次監督の映画『家族』では閉山した炭鉱から新天地を求めて、長崎から道東まではるばると旅をする家族が描かれた。70年頃まではそういう「幻想」があったわけだが、現実は過酷だった。非常に見事な代表作の一つだと思う。

 もう一つ、『家族じまい』(2020、集英社文庫)は中央公論文芸賞を受賞した作品。釧路に住む老夫婦には二人の娘があるが、一人は札幌近郊、もう一人は函館と実家から遠くに住んでいる。そして横暴だった父が元気で、母の方がボケて来ているらしい。そんな家族をめぐるアレコレが語られる。長女は父と距離を置いて生きてきたが、その生き方に批判的だった妹は二世代住宅を建てて父母と同居しても良いらしい。しかし、実現した「理想の暮らし」に父親が黙って従っていられるか。

 「横暴な父」あるいは「無理解な父」というのも桜木作品の定番的設定である。現実に床屋をやめてラブホテル経営を始めるような、「家族巻き込み型」の山師的父親だったらしい。そして1970年代ぐらいまでは、そうそう理解ある父親なんていなかったのも確かだろう。特に女性の場合、大学進学を認めないとか、結婚相手を自由に選べないなどよくある話だった。それでも北の大地の極貧の父親たちの横暴は迫力が違う。そんな家族の中で生き抜いた女性も大変だった。

 「家族」への幻想など飛び散ってもおかしくない。そんな冷徹な世界を行きている女性の小説は、何も釧路が舞台だからというだけでなく、読んでいて夏の猛暑も少しは涼しくなるというものだ。他にも多くの作品があるわけだが、ハードボイルド的な『ブルース』『ブルースRed』、第一作品集『氷平線』なども釧路や周辺を舞台にしながら、どこか渇いた人間たちが出て来る。本質的に「冷涼」なのが桜木作品の特徴だ。
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涼しくなれる釧路小説ー桜木紫乃を読む①

2024年08月18日 21時50分36秒 | 本 (日本文学)
 東京はほぼ毎日猛暑日が続いている。台風が接近した8月16日(金)だけは別だが、他の日は35度に届かなくてもそれに近い。もういい加減猛暑には飽きてしまって、マジメ系テーマを書く気が失せている。そこで最近読んでる桜木紫乃(1965~、さくらぎ・しの)の本について数回書きたい。何しろ読むだけで涼しくなれる小説なのである。桜木紫乃は北海道釧路(くしろ)市に生まれ育ち、作品の舞台も主に釧路である。今は同じ北海道でも札幌に近い江別市居住というが、釧路を舞台にした『ホテル・ローヤル』(2013)で、同年に直木賞を受けた。その後も釧路で展開する小説を書き続け、釧路市の観光大使にもなっている。
(桜木紫乃)
 釧路と言えば夏でも涼しい土地柄で知られる。今年の最高気温を調べてみたら、8月10日に29.1度になっているが30度越えは一日もない。ここ3日間では、16日が23.3度、17日が20.8度、18日が21度になっている。この気候を生かして近年は釧路に夏長期滞在する旅行プランが人気だ。何で涼しいかというと、寒流(親潮)の影響が大きい。また夏は海から吹く風で「海霧」が発生する。昔釧路に行った時、帰りの飛行機が濃霧で欠航したことがある。もっとも釧路でも年に何日かは30度近くになるが、道東地方では宿に冷房がないことが多くて困る。(下に釧路の地図を示しておく。)
(釧路の位置)
 今回読んでみたのは、講談社文庫が4ヶ月連続で桜木紫乃の旧作を文庫化しているのがきっかけ。僕も知らなかった釧路を舞台にしたミステリーが刊行された。「北海道警釧路方面本部」シリーズだそうである。もっとも2作しかないけれど、どちらも女性刑事の苦闘を描くことが共通する。第一作『凍原』(2009)の帯には「女が刑事として生きるには、あまりにも冷たい街」と出ている。人間関係の希薄さもあるが、この「冷たい街」とは現実に冷涼な日々が続くことを指している。
(『凍原』)
 第二作『氷の轍』(2016)もそうだが、まず題名が寒々しい。そして内容も同じく寒いのである。出張で札幌や青森県の八戸まで出掛けるシーンがあるが、気候が違って暑いという描写が印象的。それに対して事件現場である釧路は、釧路湿原や海の描写も多い。それらが事件そのものや刑事、事件関係者の設定に不可欠になっている。そして読んでいていかにも冷涼な街の様子が浮かび上がり、こっちの気分も涼しくなる。漁業と炭鉱の町だった釧路は、戦後になっても外からやって来た人が多く、生まれ育ちもよく判らない人が有力者になっている。そんな特質がミステリーに向いている。
(『氷の轍』)
 「犯人当て」としてはどっちもちょっと薄味かもしれないが、寒々しい風景描写が心に残る小説である。出来映えからすると短編集『起終点(ターミナル)駅』(2012)が心に残った。表題作は篠原哲雄監督によって映画化され、2015年に公開された。その映画は遅れて見て、なかなか面白かった。佐藤浩市、尾野真千子、本田翼などが出ていて、やはり釧路が舞台。元裁判官の佐藤浩市は今は釧路で官選の刑事事件しかやらない弁護士になっている。そうなった理由は何故か。そこに本田翼演じる女性の覚醒剤事件を担当することになって…。本田翼がなかなか良くて忘れがたい。今回原作を読んでみたら映画はほぼ原作と同じだった。
(『起終点駅』)
 文庫の帯には「始まりも終わりも、みなひとり」とある。当たり前と言えば当たり前なんだけど、桜木紫乃の登場人物は皆孤独で道東の荒涼たる風景に似合う人ばかり。新聞記者を主人公にした「海鳥の行方」「たたかいにやぶれて咲けよ」も見事。『ホテル・ローヤル』も連作短編集だったが、桜木紫乃は基本的に短編向きかも。忘れがたき風景や人間関係を点描することが特徴である。もちろん直木賞作家なんだから、エンタメ系のすぐ読める小説である。しかし、それらの小説はほぼ釧路周辺で展開する孤独な人間の道行なのである。読んでると気持ちも涼しくなるが、それは高原の避暑地の涼しさとは違う。夏も荒涼たる道東の涼しさなのである。なお、釧路で鶏の唐揚げを「ザンギ」と呼ぶと映画を見て初めて知った。原作でも主人公がザンギを作っている。
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