尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

ゴリラと大学ー山際寿一の2冊

2021年11月30日 22時41分58秒 | 〃 (さまざまな本)
 最近ビックリしたのが京大の霊長類研究所が組織として解体されるというニュースだった。日本が世界に誇る霊長類学の拠点だっただけに、大変残念なことだと思う。再考を求める署名運動もあるようだが、きっかけが会計不正問題だけに判断が難しいところだ。ところで、その霊長類研究所で助手を務めた経験もある、日本を代表する霊長類学者、世界的なゴリラ研究者である山際寿一さんの本を最近2冊読んだ。一つは山際寿一京大というジャングルでゴリラ学者が考えたこと」(朝日新書)で、もう一つは小川洋子さんとの対談「ゴリラの森、言葉の海」(新潮文庫)も読んだので、合せて紹介。

 山際さんはゴリラに関する本が幾つもあるけれど、読んだことはなかった。その後、2014年に京都大学の総長に選出され、さらに国立大学協会の会長も務めた。ちょうど国立大学の法人化という難題に直面した時代に重責を担ったわけである。この本の帯には「政府にもの申す 国立大学法人化は失敗だった」とある。国立大学のあり方など、多くの国民には関係のないことだと思うかもしれないが、小泉政権下の「聖域なき構造改革」、要するに経費節減の負の影響が如何に国立大学に生じているか。それを判りやすく語り尽くしたのがこの本である。細かいことは書かないが、大学だけでなく他の学校や企業などにも「考えるヒント」がある。

 「京都大学WINDOW構想」とか、京大の国際拠点作り卒業式・入学式の式辞など大変面白かった。スケールは全然違うけれど、高校以下での学校作り、学級作りにもヒントになる話が多い。そもそもアメリカの大学とヨーロッパの大学、ヨーロッパでもイギリスとドイツの大学では全然違った事情があるという。高額な授業料を取る有名な私立大学が中心になっているアメリカの大学を日本もマネしたのが大問題だったという。日本の官僚はアメリカに留学することが多い。だから、ハーバード大学やイェール大学を日本のモデルに考えてしまったのか。本書を読めば、ドイツなどヨーロッパの大学をもっと参考にするべきだとよく判る。
(山際寿一氏)
 本の題名が「京大というジャングル」となっている。人によってはジャングルは「弱肉強食」だというイメージで記憶している人もいると思う。大学がジャングルだというと、知的な格闘の場と思うかもしれない。しかし、山際氏によれば、ジャングルとは多種多様な生命が「棲み分け」している場である。大学も様々な学問、様々な背景を持った学生が共生している場ととらえるわけである。少子化に伴い18歳人口がますます減少するから、日本の大学は大変な危機にあるとよく言われる。それは間違いないけれど、日本の大学進学率は世界各国と比べて決して高くはない。大学へ行けずに社会に出て、もう一回学びの場を求めている人はものすごく多いはず。大学院も含めて、生涯教育を推進していく好機と考えれば、ピンチをチャンスに出来るかもしれない。
 
 ところで、山際氏は2020年まで日本学術会議会長も務めていて、菅前首相による会員任命拒否問題にぶつかった。いや、直接には次期の梶田隆章会長時代になるわけだが、きっかけは山際時代にある。実は前任の大西会長時代にも同じような問題が起こっていて、大西会長は定員より6人多く推薦したのである。しかし、山際会長はその措置をおかしいと考え、法の求めるとおり定員いっぱいの推薦を行ったところ、理由を明らかにすることなく6人が任命を拒否された。菅前首相はなぜ拒否したかは言わないけれど、「おそらく『政府の方針に異を唱える学者だから』というのが本音だろうが、それを言ったらおしまいである」と山際氏は書いている。

 もっとも学術会議問題は「おわりに」で簡単に書かれているだけ。大学論なんかよりアフリカでのフィールドワークの話の方がずっと面白い。やはりフィールドの人、つまりは「野人」であり、その感性を持ったまま総長になったのである。そこが面白いし、本書の読み所、いろいろとヒントになるところだ。ゴリラといえば、本書でも触れられているアメリカのダイアン・フォッシー博士を知っている人もいるだろう。シガニー・フィーバーが主演して「愛は霧のかなたに」という映画も作られた。

 ダイアン・フォッシーはゴリラと直接接触して観察するという研究方法を確立したが、1985年に何者かに殺害された。犯人は結局判らなかった。フォッシーは密猟者を避けるために、同じ黒人の現地人にはゴリラに接触させなかった。山際氏はそれをうさんくさいと思って、現地の研究者の育成を大事にしてきた。それは非常に大切な観点だと思う。日本では平地にいるマウンテンゴリラを最初に研究対象にしたから、なんとなく平地の動物イメージがある。しかし、ルワンダ、コンゴの内戦でフィールドをガボンに移し、ニシローランドゴリラを研究したところ、実はほぼ樹上で生活していると判った。京都市動物園でも樹上的な施設を作ったところ、上手に使っているという。一度見に行きたいなあ。

 ゴリラに関しては、小川洋子さんとの対談「ゴリラの森、言葉の海」が詳しい。小川さんも京都市動物園に見に行って、驚いている。対談だけに判りやすい話題が満載で、かなり有名な「ゴリラの子殺し」など衝撃的な話題が出て来る。同性愛も一部で見られるということで驚く。ゴリラを通して、人間に暴力性、共感力の根源を探っている。山際氏が若き日に長く観察した屋久島で小川氏と対談するところは非常に感銘深かった。長くなるから細かいことは書かないけれど、対談だから是非一度読んで見て欲しい。
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映画「パワー・オブ・ザ・ドッグ」、ジェーン・カンピオン監督の傑作

2021年11月29日 22時12分43秒 |  〃  (新作外国映画)
 ジェーン・カンピオン監督の12年ぶりの新作「パワー・オブ・ザ・ドッグ」が上映されている。しかし、12月1日からNetflixで配信されるため、限定的な公開に止まっている。今年のヴェネツィア映画祭銀獅子賞(監督賞)を得た作品で、アメリカのモンタナ州の広大、荒涼たる風景を大画面で見る機会を逃してはもったいない。ジェーン・カンピオン(Jane Campion)はニュージーランド出身の女性監督で、「ピアノ・レッスン」(1993)で女性で初めてカンヌ映画祭のパルムドールを受賞した人である。

 ヴェネツィア映画祭のニュースを見たときには、「パワー・オブ・ザ・ドッグ」(The Power of the Dog)はドン・ウィンズロウの傑作「犬の力」(角川文庫)の映画化なのかと思った。あれはメキシコの麻薬カルテルを描いた超大作クライムノヴェルだった。しかし、こちらはトーマス・サヴェージという人の原作を映画化した全く違う作品だった。同じ題名だが、そもそもが詩編の22から取られた言葉で、サヴェージの方が先に書かれたという。一種のウェスタン小説だが、牧場を舞台に兄弟の相克を心苦しくなるほどに描き出している。モンタナ州南部らしいが、荒れた山を背景にした風景が凄まじいまでの魅力を放っている。

 牧場をやっているのは、フィルベネディクト・カンバーバッチ)とジョージジェシー・プレモンズ)のバンバーク兄弟。時代は1925年というから、日本で言えば大正14年である。もう自動車もある時代だが、育てた牛を近くの街まで連れて行く。ハワード・ホークス監督の「赤い河」のようなロングドライブをその時代でもやっている。街へ着くと宿屋に泊まるが、弟のジョージが夕食の手配などをしていて、兄のフィルは周囲に威圧的に接している。

 宿を経営しているローズキルステン・ダンスト)には、華奢でおとなしめの息子ピーター(コディ・スミット=マクフィー)がいる。彼は造花を作ってテーブルを飾るが、フィルは給仕するピーターの態度を事ごとに嘲笑する。そんな兄を心苦しく思ってか、弟のジョージはローズに詫びに行く。そのうちに二人は接近していき、ついに結婚してしまった。フィルはローズ親子が牧場に来るのを警戒するが、今さら拒めない。ジョージは妻のためにピアノを買い込み、知事夫妻を招いて食事会を開く。ローズはかつて映画館でピアノを弾いていたというが、練習中にフィルがジャマをしてくるので上達出来ない。そのうち、ローズは居場所をなくしていき、家のあちこちに酒を隠して常に飲んでいるようになった。

 やがて夏休みになって、ピーターが街の大学から戻ってきた。当初はフィルを中心にカウボーイたちはピーターを男らしくないと軽蔑している。フィルはもともとエール大学で古典を学んだインテリだが、なぜか今は典型的なカウボーイになっていて、経営は弟が中心になっているらしい。フィルはピーターに乗馬などを教えようとするが、予想に反してピーターはフィルに興味を持って付いていく。フィルは昔牧場経営を教えてくれたブロンコ・ヘンリーという今は亡き人物を崇拝しているらしい。フィルのブロンコへの思いの底にあるものに気付いていく。壮大な家族対立映画かと思うと、突然終わってしまう感が消えないラストだが、マッチョな西部の風土の中に繊細な心理を見つめていく様は見どころがある。
(ジェーン・カンピオン監督)
 ジェーン・カンピオン(1954~)はニュージーランドでいち早く世界に認められた映画人だった。僕は「ピアノ・レッスン」以上に、ヴェネツィア映画祭審査員特別賞の「エンジェル・アット・マイ・テーブル」(1990)が好きだった。その後は母国を離れてヘンリー・ジェイムズ原作の「ある貴婦人の肖像」やイギリスの詩人キーツを描く「ブライト・スター」など文学的な作品を作った。今回の作品はそれに比べて、人間関係の相克を大自然に中に追求する点で「ピアノ・レッスン」に匹敵するような重要作だ。

 ベネディクト・カンバーバッチの存在感が画面を圧倒し、ただならぬ吸引力が弱々しかったピーターも引きつけてしまう。「フィルの謎」を解く鍵がブロンヘンヘンリーにありそうだが、そこに何があったのか。世俗的な安定を求める弟のジョージはフィルとは性格や生き方だけでなく、風貌や体格も全然違う。単なるキャスティングの都合なのかどうか、もっとワケありの事情があるのか、それが気になった。今では西部を舞台にしても、単純な勧善懲悪的エンタメ映画は作れない。この映画はアン・リー監督「ブロークバック・マウンテン」を思わせる点があると思ったが、踏み込まない点が多いので謎を残して終わる。

 なお、ヴェネツィア映画祭で審査員大賞を受賞したパオロ・ソレンティーノ監督の「Hand of God -神の手が触れた日-」もNetflix配信を前に、12月3日から特別に一部で映画館で上映されるという。 80年代のナポリ、ディエゴ・マラドーナがナポリで活躍した時代を描く映画だという。これも見逃せない映画だ。
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映画「勝負は夜つけろ」と作家生島治郎

2021年11月28日 22時21分50秒 |  〃  (旧作日本映画)
 神保町シアターで「夜の映画」特集というのをやっている。題名に「夜」が入っている映画を集めているだけだが、そう言えば「ローマで夜だった」も「夜の映画」である。夜つながりで「勝負は夜つけろ」(1964)を見た感想を書いておきたい。これは原作が生島治郎の作家デビュー作「傷痕の街」だというので見に行くことにした。最近創元推理文庫で「日本ハードボイルド全集」の刊行が始まり、その第一回配本が生島治郎だったので読んでみた。どう映画化されているのか、関心があった。

 原作は横浜港が舞台のはずだから、港が出て来る冒頭を見て横浜かと思ってしまう。しかし、主人公田宮二郎が乗っている車は「」ナンバーになっている。調べてみると、兵庫県のナンバーは今は「神戸」と姫路」だが、昭和30年代には「兵」だったという話。この映画は大映京都作品なので、神戸港で撮影したものか。神戸を舞台にした映画だと、六甲山を印象的に映し出すことが多いが、この映画ではあえて背景に写らないようにしている感じだ。地名は映画内で特定されていない。

 田宮二郎はシップチャンドラー(ship chandler、船舶納入業者)の会社を経営している。チャンドラーなんて、いかにもハードボイルドみたいな名前だけど、元々は英語で「雑貨屋」である。外国航路の船に食品などをまとめて納入する仕事である。もちろん、船の担当者が自分で買いに行っても良いわけだが、どこにどんな店があるのかも知らないし、小売店で買うと高くなる。様々な食材を細かく買い付けるのも大変だから、頼めば何でもまとめて仕入れてくれる業者が港にはいるのである。免税業者の免許を持っていて、外国船には無税になる。僕はまあ先ほどの本を読んでいたから事前に知っていた。

 生島治郎は横浜に住んでいて、学生時代は実際に港でアルバイトしていた。その経験を生かした作品でデビューしたわけである。主人公久須見(田宮二郎)は会社を大きくするために、カネが欲しい。貸してくれるところがなくて困っていると、社員の稲垣川津祐介)があるバーの女性オーナーを紹介してくれる。それが斐那子久保菜穂子)で、彼女を通して高利貸しの井関小沢栄太郎)を紹介される。実は久須見と井関は因縁のある関係だったが、やむを得ず斐那子に回す200万を足して、700万を借りることになった。ところが翌朝、稲垣の妻が誘拐されたと会社に電話がある。
(久須見役の田宮二郎)
 借りたばかりの金を稲垣に一時貸して、稲垣と経理の阿南が車で指定された場所に出掛ける。そのまま行方が判らなくなり、久須見が追跡していくと、顔を硫酸で焼かれた二つの死体を発見する。一人の死体は妻が稲垣だと言うが、もう一人は阿南の妻が違うという。数日後、井関の部下の吉田だと判り、阿南が二人を殺してカネを持ち逃げしたと疑われる。一方、その間に斐那子は久須見と親しくなって行く。実は斐那子は井関の娘だったが再婚した母の連れ子で、井関に今まで虐待されてきて恨みがあったのである。そんな時、稲垣の妻から電話が掛かってきたが、家を訪ねると妻の死体がある。一体真相はどこにあるのか。

 監督の井上昭(1928~)は大映で多くの仕事したが、むしろ70年代、80年代にテレビの時代劇を担った監督だったらしい。映画では「眠狂四郎」や「座頭市」「陸軍中野学校」などの主要シリーズも少し手掛けているが、あまり代表的な作品はない。中では「勝負は夜つけろ」がお気に入りだとウィキペディアに出ている。港のロケを生かして、構図にも凝ったモノクロの映像が魅力的。

 主人公の田宮二郎は足をケガして義足という設定で、いつも片足を引いている役を印象的に演じている。田宮二郎(1935~1978)は映画「白い巨塔」の財前役で知られ、クイズ「タイムショック」の司会者として有名だった。だからこそ散弾銃による自殺というニュースには多くの人が衝撃を受けた。60年代大映映画の「悪名」「黒」「犬」などのシリーズは今見ても非常に面白く、そのアクの強い役柄や風貌とともに忘れがたい俳優だ。市川雷蔵、勝新太郎に並ぶ大映のスターだった。
(生島治郎)
 生島治郎(1933~2003)は、僕の世代だとどうしても「片翼だけの天使」(1984、映画化は1986年)を思い出してしまう。映画では秋野暢子が主演賞を取ったけれど、何だか心配な感じがした。やはり実生活では離婚に終わったようである。先ほどの「ハードボイルド全集」には長編「死者だけが血を流す」(1965)とシップチャンドラー久須見が出て来る「寂しがりやのキング」などの短編が収録されている。「勝負は夜つけろ」(原作「傷痕の街」)にしてもそうなんだけど、「謎」という意味ではちょっと弱い。この手のノワールには本でも映画でもずいぶん接しているので、今さら驚きもなく展開が予想出来てしまうものが多い。
(日本ハードボイルド全集Ⅰ)
 ところでその本の解説で、生島治郎の回顧録的な作品「浪漫疾風録」(1993)が2020年に中公文庫で再刊されていることを知った。刊行時には気付かなかったのだが、この本がめっぽう面白い。もっとも主人公を越路玄一郎と名を変えているのに、自分以外は実名というスタイルはちょっとどうなんだろうかと思うけれど。特に最初の妻、後にミステリー作家となる小泉喜美子に対しては、どうもひどいなあと思う記述が多い。半世紀前は「夫婦」に関する感覚が大きく違ったということだろう。
(「浪漫疾風録」)
 しかし、確かに内容的には「浪漫疾風録」という感じなのである。生島治郎は早稲田を出たものの就職難の時代で、デザイン事務所に職を得たが転職を考えていた。そこに早川書房の募集の話が来て飛びつくのだが、これが恐ろしく古びた商店みたいな会社だった。推理小説や演劇の雑誌を出すオシャレな会社というイメージとは全く異なっていた。そこで先輩の詩人田村隆一の仕事(しなさ)ぶりに驚き、全然素人なのに「エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン」の編集をやらされる。編集長が急に辞めて、何とか後任に都筑道夫がやってくる。しかし、あまりの薄給に勤務中に他社の仕事をしている始末。(ライバル誌「宝石」に書いた連載小説が、ハードボイルド全集都築の巻にある。)もうムチャクチャである。

 そして作家として売れていた都築も退社し、26歳で生島が編集長になる。大家江戸川乱歩や、同世代の結城昌治、三好徹らの記述も興味深い。やがて生島治郎も作家になることを目指して退社した。最初に書いたのが「傷痕の街」で、1967年の「追いつめる」で直木賞を得た。ミステリーがほとんど直木賞を得られない時代で、ハードボイルド系の作品が受賞した意味は大きい。ハードボイルド、冒険小説風の作品を数多く書いたが、今ではほとんど入手できない。そんな中で復刊された「浪漫疾風録」は貴重だ。60年代の出版社を描く自伝的作品には、中央公論社の村松友視夢の始末書」、平凡社の嵐山光三郎口笛の歌が聴こえる」などもあるが、いずれも面白い。今では考えられない自由な時代だったなあと思う。
コメント (1)
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ロベルト・ロッセリーニ監督「ローマで夜だった」

2021年11月27日 22時31分01秒 |  〃  (旧作外国映画)
 ロベルト・ロッセリーニ監督の「ローマで夜だった」(1960)を見た。イタリアのネオ・レアリズモを代表するロベルト・ロッセリーニだが、1961年のキネ旬8位の「ローマで夜だった」を長いこと見られなかった。(この年は1961年は1位がベルイマンの「処女の泉」で「ウエスト・サイド物語」が4位だった。)今回は池袋の新文芸坐が独自に上映素材を得て字幕も付けたもので、先週は「自由は何処に」(1054)の上映もあったが、夜遅くの上映なので2連続は辛いから今回だけ見た。
 
 前作「ロベレ将軍」(1959)はロッセリーニと同じくネオ・レアリスモを代表するヴィットリオ・デ・シーカ監督が主演した大層立派なレジスタンス大作だった。続く「ローマで夜だった」も同じようにイタリア戦線のレジスタンスを描くモノクロの大作。尼僧姿の3人の女性が農家で食料を買っている。農民たちは実は脱走捕虜3人を倉庫で匿っていて、もう限界だから何でも安くする、ハムも付けるから引き取ってくれと押しつけられる。やむを得ずトラックの後ろに匿って、何とかドイツ軍の検問を通過してエスペリアジョバンナ・ラッリ)の家まで連れてきたのだった。衣装箪笥の後ろが屋根裏に通じていて、捕虜はそこで匿うことにする。

 脱走捕虜はイギリス、アメリカ、ソ連と国籍も違う組み合わせだった。尼僧に連れられてきたので、当然修道院のようなところへ行くと思うと、町中の家である。彼らは不審に思うが、実は尼さん姿は買い出し用の偽装だった。ドイツ兵も尼僧には警戒を緩めるらしい。第二次大戦末期、イタリアでは1943年にムッソリーニが失脚し、連合軍に降伏した。しかし、ヒトラーが直接ドイツ軍を送り込んでムッソリーニを救出してイタリア北部を占領していた。連合軍はシチリア島に上陸し、本土進撃を目前にしていた。そんな時代の話である。エスペリアは家に3人も男がいることが不安、一方、3人もここがどこだか判らず不安。朝になると鐘が鳴り始め、窓外を見るとローマではないか。サン・ピエトロ寺院やサンタンジェロ城が見える。
(昔ビデオになったらしい)
 英語、ロシア語、イタリア語が交錯し、意思疎通もままならないが、エスペリアは男友達のレナート(レナート・サルヴァトーリ)を呼んでくる。「若者のすべて」で次男シモーネを演じていた人である。レナートは秘かにレジスタンスに参加しているようで、足を負傷しているアメリカ兵のために英語を話せる医者を連れて来る。初めはすぐに追い出したかったエスペリアだったが、負傷者がいるのでむげに追い出せない。そのうちに情が通うようになり、クリスマスまでと決める。3人はクリスマスの飾り付けをして、エスペリアとレナートを歓待する。このあたりまでは人民の連帯を感動的に描きだしている。

 もちろんすべてうまく行くはずがなく、翌朝逃亡しようとしたときにレジスタンスの拠点が襲われてしまう。レナートとエスペリアも逮捕され、ソ連兵のイヴァンは逃げようとして射殺される。イヴァンはソ連の有名な監督・俳優のセルゲイ・ボンダルチュクが重厚に演じていた。米英の二人は何とか逃れてエスペリアの家の屋根裏に隠れたが、そこに屋根伝いに隣家の貴族の息子が救いにきた。貴族の館に匿われるが、そこにもドイツの秘密警察が訪れ、今度は修道院に逃れる。この段階では貴族も教会も(おそらくバチカンの指導層も)反ナチスで一致している。

 ドイツ軍が襲われ、報復としてレナートは殺されたと伝わるが、エスペリアは釈放された。しかし、イタリア人にも親ドイツ勢力は存在し、密告で修道院も襲われる。密告者の手はエスペリアにも伸びてくるが…。その頃、ローマは連合軍によって解放された。しかし、レナートを救おうとしてエスペリアはナチスの尋問に屈してしまったと涙ながらに語るのだった。民衆の中の気高い心と卑屈な心をともに描き出して、この映画は終わる。イタリア戦線のレジスタンス映画もずいぶんあるが、脱走捕虜を主人公にする点が珍しい。しかし、米英ソと一人ずつ出て来て、皆が皆善人でイタリア人と心通わせるというのが公式的だ。

 「ロベレ将軍」は舞台を収容所に限定しながら、「抵抗者とは誰のことか」というテーマを突き詰めていた。それに比べると、「ローマで夜だった」は今ではずいぶん公式的なレジスタンス映画に見えてしまう。だからこそ、その後ほとんど上映の機会もないんだと思う。ロッセリーニ監督は「無防備都市」「戦火のかなた」が世界的に評価された。それを見て、ハリウッドの人気女優だったイングリッド・バーグマンがロッセリーニのもとを訪れ、お互いに配偶者と子どもがあったのに恋愛関係になった。しかし、その時期の映画は「世界一の美女を妻にしながら、なぜこんな判らない映画に主演させるのか」と当時は思われたらしい。その時期のことはロベルト・ロッセリーニのバーグマン時代(2016.11.30)にまとめた。

 僕も50年代には評価されなかった「ストロンボリ」「ヨーロッパ、一九五一年」「イタリア旅行」などの不安と不条理の世界を生き抜くバーグマン主演映画が、今になるとロッセリーニの真骨頂だと思う。「ローマで夜だった」は公式的なレジスタンス映画の枠内で作られた「良心的映画」を脱していないように感じた。だからこそ、60年前の日本でベストテンに入選したのだと思う。もうすでにフランスではヌーベルバーグが始まっていた。フランスでは「ヌーベルバーグの父」と尊敬されたロッセリーニが作ったヌーベルバーグ以前の映画だが、戦争末期のイタリアの状況を教えてくれるという意味はある。
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ドイツと日本の差、「新冷戦」下の安保法制、ー立憲民主党考⑥

2021年11月25日 23時15分03秒 | 政治
 ドイツの総選挙は9月26日に行われたが、ようやく連立協議が終わりそうである。社会民主党と緑の党、自由民主党で協議を続けていたが、何とか年内に社民党ショルツ政権が発足するようだ。次期政権が発足するまでは、今回の総選挙に立候補しなかったアンゲラ・メルケルが首相を続けている。日本では憲法で衆議院選挙終了後30日以内に国会を開かなければならないので、一ヶ月以内に必ず新内閣が発足する。選挙制度が違うため、ドイツでは勝者が決着しない事態を想定しているのである。

 選挙制度のことは別に書きたいが、ドイツと日本では選挙の争点も大きく違った。ドイツでは地球温暖化など環境問題が大きな争点で、緑の党が前回よりほぼ倍増して118議席を獲得して第3党になった。一方、日本では地球環境問題などが中心的テーマとなったとは思えない。ドイツでは原発歴史認識などはとっくに解決済みで、ナチスを擁護する発言などあり得ない。麻生氏が長く副首相を務めるなど不可能である。メルケル首相はキリスト教民主党に所属する保守政治家だが、原発廃止に舵を切り、移民受け入れにも積極的だった。日本がいつまでも解決できない諸問題をドイツでは解決して、次の世界的課題が争点になっている。

 「保守」の基準がヨーロッパと日本では異なっている。戦争責任を直視せず、ナショナリズムをあおるような政治家はヨーロッパでは「極右」と呼ばれるだろう。脱原発を進めるメルケル首相は、日本だったら自民党には居られないだろう。メルケルは国家主義を批判し、科学者出身の政治家として冷静なコロナ対策を進めた。メルケル首相は日本だったら立憲民主党しか居場所がないのではないか。アンゲラ・メルケルがトップに付くような自民党だったら、もしかしたら僕も支持するかもしれない。枝野前代表が「立憲民主党は保守本流」と言ったのも、ヨーロッパ基準ではあながち間違いとは言えない。

 この日独の違いは一体どこに理由があるのだろうか。歴史的、社会的な相違も大きいけれど、一番大きな違いは「冷戦後の国際環境」だと僕は考えている。「冷戦」(つまり戦後の米ソ対立)は、1946年のチャーチル英首相の有名な「鉄のカーテン」演説で可視化された。そこでは「バルト海のシュテッティンからアドリア海のトリエステまで、ヨーロッパ大陸を横切る鉄のカーテンが降ろされた」と表現されていた。シュテッティンはポーランドの西北端の都市である。まだこの段階では「東ドイツ」(ドイツ民主共和国)は建国以前だったためこのような表現になった。(ドイツは米ソ英仏の4ヶ国の占領。)しかし、要するに東西ドイツが冷戦の最前線だったわけである。そして1990年のドイツ統一でヨーロッパの冷戦は完全に終結した。

 それに対して、そもそも東アジアでは「冷戦」どころか、朝鮮半島とインドシナ半島では「熱戦」が起こってしまい、遙かに厳しい状況が続いた。ヴェトナムは1976年に統一されたが、朝鮮半島の分断はなお続いていて解決の見通しがない。また台湾や香港などの「未回収の中国」(「未回収のイタリア」から借りた表現)が存在している。そんな状況の中で、日本には「冷戦終結の恩恵」はほとんどなかったのである。それどころか、近隣諸国と領土問題を抱えて、ナショナリズムをあおるような勢力が政治的影響力を持っている。その上に、中国の台頭とともに米中の対立が激しくなり、「新冷戦」とまで言われる状況になっている。

 ドイツが「冷戦の最前線」だったように、日本は「新冷戦の最前線」にある。「朝鮮有事」も「台湾有事」も日本にとって死活的な重大性を持っている。そんな中で、衆議院選挙が行われた時期に合わせるかのように、中国とロシアの艦隊が合同演習を行い、そのまま津軽海峡を併走して日本列島を一周する事態が起こった。演習は10月14日から17日に掛けて行われ、津軽海峡を通過したのは衆院選公示前日の18日だった。そして、翌19日の公示日には北朝鮮が弾道ミサイルを発射した。
(津軽海峡で併走する中ロの艦隊)
 津軽海峡は国際海峡なので、どの国の艦艇も自由に通行することが出来る。だから国際法違反ではなく、日本政府も特に問題視はしていない。しかし、国際海峡の説明をきちんとしないで、ただニュースで映像だけを流すと、いかにも挑発的な行動に見える。実際、中ロでそろって列島を一周するというのは、日本というよりも東アジアの米軍に対する「挑発」的な作戦行動ではあるだろう。(ちなみに、かつてイランによるホルムズ海峡閉鎖が噂された時期に、僕は「国際海峡サミット」を日本主導で開くべきだと書いた。インドネシア、トルコ、イギリス、フランスなどと共同で国際海峡の自由を守る国際的枠組を作る重要性が必要だ。)
(中ロの艦隊が列島一周)
 まるで中国や北朝鮮は、日本の選挙に影響を与える(自民党を支援する)かのような時期に軍事行動を起こすのは何故だろう。もちろん裏で自民党政権と通じているというわけじゃないだろう。そもそも総選挙は11月だと言われていたのだし、急に中ロ大演習などできるものではない。それにこの間明らかになったのは、日本はしょせん米国の影であって、直接日本を相手にしていても何も解決しないという厳然たる事実だろう。では、何で中国やロシアが日本周辺で共同演習を行ったのだろうか。日本人が意識しないだけで、日本側が最初に「挑発」したという方が正しいのではないかと僕は思っている。
(イギリス艦と自衛隊が共同訓練)
 2015年に成立した「安保法制」はその後「順調」に実施され、既成事実化しつつある。日本の自衛隊は以前から事実上米軍と共同していたが、その後オーストラリアの艦艇を自衛隊が警護するようになった。アメリカが主導する「自由で開かれたインド太平洋」、事実上の「反中国同盟」に自衛隊も組み込まれている。そして、今年の8月25日にはイギリスの空母「クイーン・エリザベス」が日本近海まで来て沖縄沖で日英の合同訓練が行われたのである。これは中国から見たら「香港を奪った英国」と「台湾を奪った日本」という中国近代史で一番大被害を与えられた「帝国主義国」の挑発に見えるのではないだろうか。
(イギリス艦を「警護」する自衛隊)
 ところで、こんな風に言う人がいる。「安全保障」の考え方が共通していないと、国民は安心して政権交代に踏み切れない。では、政権交代のためには、憲法上疑義がある「集団的自衛権」が既成事実化した事態を野党も受け入れるべきなのだろうか。自衛隊や日米安保も本来は疑問があったわけだが、今やそれは問題化されなくなってしまった。それにしても、「安保法制は認めない」というのが立憲民主党の初志だったはずだ。かつて民主党政権で閣僚を務めた細野豪志は、自民党に入党を認められたが、テレビで見た選挙演説では「安保では現実主義に立つが、国内問題では今後も弱いものの立場だ」と言っていた。

 国内問題の理解も疑問だと思ったが、それは別にして「安保で現実主義」というのは、米軍と一体化して東アジアの最前線で中国と向かい合うということなのだろうか。「新冷戦」の最前線国家として、日本では「平和主義」が空洞化しつつある気がする。ナショナリズムをあおる勢力が影響力を強め、「リベラル」の存在空間が狭まっているのではないか。日本国憲法の原則である「平和主義」「基本的人権の尊重」の立場に立つことによって、中国も批判し、アメリカも批判し、安易に他国に追随することなく平和を守る道はあるのだろうか。単に立憲民主党の消長に止まらず、戦後日本の重大な岐路に立っていると思う。
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宮城県の峩々温泉、胃腸病の名湯ー日本の温泉⑪

2021年11月24日 20時29分38秒 |  〃 (日本の山・日本の温泉)
 東北地方の温泉では、前回山形県瀬見温泉喜至楼を取り上げたが、今回は東北からもう一つ宮城県峩々(がが)温泉を書きたい。最近読んだ山崎まゆみ女将は見た 温泉旅館の表と裏」(文春文庫、2020)に峩々温泉の女将も出ていて、そう言えばあの温泉は良かったなあと思いだした。それがきっかけだけど、もう一つ「日本三大胃腸病の名湯」を紹介する意味がある。
(峩々温泉の露天風呂)
 峩々温泉は宮城蔵王の中腹に古くからある一軒宿である。蔵王山は宮城県と山形県にまたがる連峰で、山形側には蔵王温泉、宮城側には遠刈田(とおがった)温泉、青根温泉、峩々温泉があるという火山の恩恵の多い地域だ。ある時、一日目に青根温泉に泊まって、翌日に蔵王に登ってから峩々温泉に泊まったことがある。蔵王山は宮城側からも山形側からも、道路やロープウェイが上の方まで通じている。宮城側から刈田岳の駐車場で下りて蔵王連峰の最高峰、熊野岳(1840m)まで軽快なトレッキングを楽しめる。ただし当日は強風で、ずっと吹きさらしで体が冷えてしまった。最高峰までの登山としては楽な山になる。
(峩々温泉全景)
 駐車場に戻って蔵王エコーラインを下っていくと、峩々温泉への分岐がある。濁川沿いにオシャレな宿が建っている。昔は古びた湯治宿だったらしいが、今は館内も食事も素晴らしくなっている。まあそれなりの料金で、「秘湯」というイメージじゃないかもしれない。しかし、独特の入浴法があって、館内には飲泉所もあって、秘湯っぽいムードが残っている。泉質はナトリウム・カルシウム-炭酸水素塩・硫酸塩泉の透明な湯だが、最初に書いたように「日本三大胃腸病の湯」と言われている。他の二つは群馬県の四万(しま)温泉、大分県の湯平(ゆのひら)温泉。湯平は知らないが、四万温泉には町中にいくつも飲泉所がある。
(峩々温泉の飲泉所)
 飲泉が出来る温泉は新鮮で、体にも良いと思う。僕は別に胃腸が弱い方わけじゃないから、まあ胃腸病の名湯に行く必要はないけど、峩々温泉はその中でも独特の入浴法で面白いのである。お風呂には「あつ湯」「ぬる湯」があって、あつ湯は47度もある。僕は熱い湯は苦手で、これではとても入れない。大昔は温度調節も出来ず、湯治客は自然に「あつ湯」を体に掛けるという入浴法を始めたという。枕に出来る木が置いてあって、寝そべりながら熱い湯を腹に掛けるのである。100杯掛けるというのが伝統だという。僕も少しやってみたけど、熱い湯を10杯も掛ければもういいやである。胃腸が弱いわけではないから、そこで止めた。でもちゃんとやってる人もいたので、胃腸の悩みがある人が来ているのだろう。
(青根温泉不忘閣)
 一日目に泊まった青根温泉湯元不忘閣も魅力的だった。ここは仙台藩の御殿湯だったという宿である。青根温泉は峩々温泉より山麓にあって、数軒の宿がある。中でも「不忘閣」は伊達政宗が「この地忘れまじ」と言ったというのが名前の由来という由緒正しき宿なのである。外観も趣があるが、何よりたっぷりと出ているお湯が魅力。風呂もいっぱいあるが、何より伊達時代からあるという「大湯金泉堂」は洗い場もない昔のままの風情が残されている。全体的にちょっと古すぎる感じもしたけれど、名湯に違いない。遠刈田温泉から青根、峩々へ行く道沿いに蔵王チーズのレストランがあって美味しかった。
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野党の選挙協力をどう考えるべきかー立憲民主党考⑤

2021年11月22日 23時18分52秒 | 政治
 立憲民主党の話も長くなってきたが、もう少し続けたい。今回の選挙の大きな論点が「立憲民主党と共産党の協力」だったことは間違いない。でも僕からすれば、それはどこの話ですかという感じである。自分の選挙区(東京13区)では、立憲民主党と共産党がともに出馬して、二人を合せても自民の新人土田慎に及ばなかった。長いこと自民党の鴨下一郎元環境相が当選してきて(2回は比例で当選)、そのうち4回は得票率が過半数を超えていた。今回は無所属が2人出ていて、僅かに土田は5割に達しなかったが、よくも短い期間で名前を浸透させたものだ。東京には結構そんな地区が多い。

 東京では立民・共産の協力がうまくいったイメージがあるかもしれないが、細かく見ればいろんな選挙区がある。東京3区では立憲民主党の松原仁が自民石原宏高に勝利したが、ここでは共産党が出て3万票を得ている。松原は民主党時代から保守系で知られ、前回は希望の党の創設メンバーの一人だった。希望の党解党後も無所属を続けていたが、結局立憲民主党に参加したのである。ここでは共産党が出たことが、むしろ松原に有利になったと思われる。しかし、松原以外の小選挙区当選5人、比例当選4人の選挙区では、いずれも共産党は出ていなかった

 今回は東京でも維新が沢山出ていたが(17人)、当選は比例区で2人だけだった。順位を見てみると、「自立維」が7選挙区、「立自維」が5選挙区である。まあ維新はともかくとして、立憲民主党と共産党が共に出ているところが4区あった。他に立民、れいわが1区あった。立民が出ていない選挙区は5つあるが、そこでは共産党が出ている。もっとも共産党以外に、国民民主党や社民党が出ていることが多い。萩生田経産相の東京24区では、国民民主党、共産党、社民党合せても10万4千票ほどで、萩生田の約15万票には遠く及ばない。こういう風に見てくると、どこに選挙協力があったのかという思いを否めない。
(立民、共産、国民の「協力」)
 上記画像にあるように、今回は立憲民主党が214選挙区共産党が105選挙区国民民主党が21選挙区に候補者を立てた。小選挙区は全部で289なんだから、被っている選挙区がかなりある。立憲民主党と国民民主党は、今までの経緯から現職のいる選挙区にはお互いに新人候補をぶつけない配慮をしたが、現職以外の場合は同時に立てていた選挙区もあった。こうしてみれば、今回は「合せれば勝てそうな幾つかの選挙区で共産党が候補者を下ろした」というだけのことである。それを「協力」と言えばそうも言えるだろうが、自民党と公明党のように、すべての選挙区でどちらかの党に絞って交互に推薦するというのが、「本当の選挙協力」だろう。
(立憲民主党と共産党の考え方)
 今後も小選挙区を続けていくならば、前に書いたように「決選投票」(あるいは「順位付け投票」)にするべきだというのが自分の考えである。それは選挙協力の問題ではなく、本質的に「小選挙区での当選には投票者の過半数が望ましい」という原理論からだ。それが実現すれば、協力のあり方も大きく変わるだろう。(現実に決選投票制度を実行すると、今回は「維新」がキャスティングボートを握る選挙区が多く、自民党に有利になったかもそれないけれど。)しかし、当面そういう変更は実現しないだろう。となると、「選挙協力」を模索しないわけにはいかない。

 だがいくら考えても、これが名案、解決策だという方策は僕には見つからない。一部には「立憲民主党は共産党とはっきり訣別する方が良い」、あるいはその反対に「立憲民主党は連合と袂を分かつべきだ」「連合は国民民主党支持に絞るべきだ」などと言う人がいる。いろんなことを言えるし、党派的な発想も見られる。でも現実にはどれも不可能だと思う。「立憲民主党」が左寄りだと言っても、それは右寄りグループが先に抜けたからだ。民進党の保守系議員が脱党して「希望の党」立ち上げに加わり、その後前原代表が民進党全体で希望の党と合流するという決断を下した。しかし、その時に一部議員の「排除」が行われたわけである。

 その時に希望の党立ち上げに加わった14人のうち、今回も当選したのは7人である。笠浩史、後藤祐一、松原仁、野間健が立憲民主党、鈴木義弘が国民民主党で、後の長島昭久細野豪志は自民党に加わった。要するに、「立憲民主党か、国民民主党か」という連合内の労働組合の対立関係だけではなく、「自民党の方が近い」というのがホンネだという議員がいるわけである。それではまとまらないはずだが、「立憲」をあえて名乗った立憲民主党は、安保法制や臨時国会を開かない自民政権を認めることは出来ない。その点を取りあげれば、「共産党と組んでも、自民党と対抗できる大きな党になって欲しい」と望む支持者は相当数いるだろう。

 だけど、今までの戦後労働運動史を少しでも知っていれば、「連合と共産党系組合の対立」「旧総評系(社会党支持)と旧同盟系(民社党支持)の対立」の長い経緯が判っているはずだ。どっちが良いとか悪いとか、僕にも考えがないわけじゃないが、今になってはすぐには解決しない。連合が出来るときは露骨に共産党系を排除したため、「全労連」が出来た。様々な労働組合で連合系と全労連系が分かれてしまった。その歴史を思えば、いまさら一緒に出来るかという人はいるだろう。旧同盟系労組から見れば、共産党と協力する立民には違和感を持つんだろうが、その時に共産党と自民党とどっちへの違和感が強いのか。ホンネを言えば自民党の方が近しいという人が連合内には結構いるのではないか。

 じゃあ、自民党と対抗するために立憲民主党と共産党が完全に協力体制を組むことが良いのか。社民党やれいわ新選組を入れて「4党」と呼んでも、政党の規模からすれば立共が中心になるのは間違いない。今回は「共産党が閣外協力」と言ったが、確かにこれは問題だったと思う。今までの日本の政治にないことだから、有権者に判りにくい。僕は社会科教員だったから、言ってる中身が判る。かつて自民党が社会党の村山内閣に参加して政権復帰したことを思えば、大した問題とは思えない。その時は社会党も日米安保を認めていなかったんだから。でも、今回は閣外協力の意味合いが十分に伝わったとは思えない。

 民主党政権が誕生した2009年選挙では、民主党社会民主党(途中で離脱)、国民新党が選挙区を完全に棲み分けていた。それだけでなく、北海道の地域政党「新党大地」も加わっていた。(鈴木宗男代表の娘である鈴木貴子は今は自民党比例区で出ているが、2014年には民主党から出ていた。)共産党と協力する方針の政党にはいられないとして、ずいぶん多くの議員が自民党に移ってしまった。しかし、民主党政権は保守系議員も多く抱えていたことから、政策的に独自色を打ち出せなかった。例えば夫婦別姓に強硬に反対する国民新党の亀井静香が与党だった。自民党や国民民主党に多くの議員が去ったため、立憲民主党がリベラル色の強い政党になり、政策的には一貫性が見られるようになった

 何事も善し悪しがあるもので、今さら保守的政策に舵を切っても、今度は政策が党内でまとまらないことになる。基本的には小選挙区や参院選の1人区では「ガラス細工の共闘」を模索するしかない。もしやるんだったら、野党党首がそろい踏みで街頭演説をするぐらいのことしなければ、国民にアピールしない。ガラス細工共闘では政権を取れないだろうが、選挙だけではない「政策共闘」こそ進めるべきではないか。「脱原発」に関しては、維新や公明党の方が国民民主党より立憲民主党に近い。「選択的夫婦別姓」では自民党以外の全党で議員立法を目指し、自民の党議拘束を外すように要求するべきだろう。そして選挙制度の変更を目指すべきだ。
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映画「100万人の娘たち」、新婚旅行ブームの宮崎

2021年11月21日 22時40分46秒 |  〃  (旧作日本映画)
 国立映画アーカイブの五所平之助監督特集で「100万人の娘たち」(1963)を見た。宮崎交通の全面的協力を得て、新婚旅行ブームに沸く宮崎県を舞台にしている。前半はロケ中心にバスガイドの世界を描くが、次第にセットで撮影された松竹ホームドラマになっていって、何だこれ的な終わり方になる。映画的には特に高く評価されたわけではなく、ウィキペディアを見ても五所監督の作品に載っていないぐらいだ。僕も映像社会史というか、考現学的な関心から見てみたいと思った映画。

 映画アーカイブのチラシに「宮崎における観光業の発展に感銘を受けた松竹の大谷竹次郎会長の発案により始まった企画」と書かれている。五所監督と脚本家の久板栄二郎が各地を回ってシナリオを書いたという。冒頭でバスガイドの岩下志麻堀切峠を案内している。一ノ瀬悠子という名だと後に判るが、彼女は時計を見て時間を気にしている。そこから宮崎空港に画面が移ると、何か大歓迎の準備が進んでいる。それは何と「全国バスガイドコンクール」で宮崎交通の代表が優勝したというのである。それが悠子の姉の一ノ瀬幸子小畠絹子)だったのである。ホントにそんなコンクールがあったのだろうか。検索してみたら画像が出て来たから、確かにあったようだが詳細な情報は得られなかった。
(映画のバスガイドたち)
 ところが飛行機から降りてくる時に、有村日奈子牧紀子)が先に下りてきて、迎えのガイドたちが怒っている。後の歓迎会の場面で事情が判るが、本当は有村が代表で幸子が補欠だった。しかし、本番前にのどを痛めた有村が欠場し、代わりに出た幸子が優勝したのだった。彼女たちを指導したのが、ホテルから出向していた小宮信吉吉田輝雄)だった。東京の大学を出た小宮のことを幸子と有村はともに慕っている。有村は歓迎会の夜に小宮に東京土産を渡そうとして拒まれる。牧紀子は五所監督「白い牙」で主演しているし、小津監督の遺作「秋刀魚の味」にも出ている。しかし、当時の松竹映画では二番手、三番手みたいな役が多い。
(左=岩下志麻、右=牧紀子)
 小宮が勤務しているのは、明らかに宮崎観光ホテルがモデルだろう。1965年の連独テレビ小説「たまゆら」の原作を川端康成が書いたホテルである。もう全国的には忘れられているだろうが、宮崎観光ホテルなどが掘り当てた温泉は「たまゆら温泉」と称している。ホテルから出向してバスガイドを指導するというのは、実際にあるのかどうか判らないけれど、小宮はガイドたちの憧れの的である。ホテルに勤める津川雅彦が「不良」ホテルマンを演じている。岩下志麻は翌日午前に、青島の「鬼の洗濯板」で写真を撮っていた小宮を捜し当てて、姉と有村のどちらが好きなのかと問い詰める。
(青島の岩下志麻と吉田輝雄)
 小宮は結局幸子と結ばれ、有村は会社を辞めてしまう。ところが妹の悠子も小宮に好意を持っていて、姉の結婚後は何か荒れてしまう。ダンスホール(ディスコ)に行って、津川雅彦に酒を飲まされ、ちょっと付き合うような関係になる。それを心配した小宮が出て来て、争いになる。そんな時に幸子が病に倒れ…。義兄をめぐる姉妹の心理戦のようになってしまう後半は、どうもドロドロした感じで、内容も宮崎をはなれてしまう。そんな時、悠子は会社から選ばれて国際観光ゼミナールに派遣される。東京各地を見学して、思わぬところで工場で働く有村にも再会する。宮崎では感じなかったが、東京では多くの働く女性の仲間がいると実感する。このゼミナールは東京五輪を直前にして、国際的に日本を紹介する観光ガイドを育成するというものらしい。

 「フェニックス・ハネムーン」という曲がある。永六輔作詞、いずみたく作曲でデューク・エイセスが歌った「にほんのうた」シリーズの一曲である。今でも歌われるのは、京都を舞台にした「女ひとり」や草津温泉の「いい湯だな」ぐらいだと思うが、当時それらに並んでヒットしたのが宮崎を舞台にした「フェニックス・ハネムーン」だった。「君は 今日から 妻という名の 僕の恋人 夢を語ろう ハネムーン フェニックスの 木陰 宮崎の二人」という甘い歌詞で始まる。フェニックスが自然に生えているわけがない。これは宮崎交通の創業者、岩切章太郎(1893~1985)が営々として進めてきた観光促進策の一つである。宮崎から南へ、青島や堀切峠を望む道にズラッと植えて南国ムードを醸し出したのである。
(60年代の新婚旅行ブームの写真)
 そのような宮崎側の準備あってのことではあるが、当時宮崎が新婚旅行のメッカと言われたのにはきっかけがあった。1960年に結婚した昭和天皇の5女、島津貴子夫妻が新婚旅行で訪れたのである。夫の島津久永は島津一族ではあるが、宮崎の砂土原藩主系統の次男だった。だから里帰り的な意味合いもあった。また1962年には当時の皇太子夫妻(現上皇、上皇后)が宮崎を訪れたことも大きかった。これら皇族の宮崎旅行が大きく報道され、宮崎ブームのきっかけを作ったのである。当時はまだ海外旅行が自由に出来ない時代で、また沖縄県の本土復帰(1972年)も実現していなかった。だからこそ宮崎が「南国リゾート」感を出せたのである。

 日本人が海外へ観光で自由に行けるようになったのは1964年からである。それ以前は許可が必要で、事実上自由な観光は難しかった。さらに1966年からは「年に一回まで」という制限も撤廃された。それでも一回の旅行に持ち出し金額500ドル以内という制限は残っていた。だから、海外旅行は普通の人が自由に行けるというものではなかった。しかし、50年代前半は東京からなら新婚旅行に熱海や箱根、遠出しても京都や奈良という時代だったのだから、飛行機を使って宮崎まで行くというのは、日本人が豊かになったということを意味しているのである。

 60年代の観光ブームは多くの映画に出ている。獅子文六原作「箱根山」の映画化(川島雄三監督、1962年)では、箱根開発をめぐる東急と西武の争いが描かれている。また瀬川昌治の列車シリーズや旅行シリーズでは60年代後半から70年代の日本各地の様子が映像に記録されている。「100万人の娘たち」も映画としての完成度以上に、観光社会学的な面白さを伝えている。僕も日本のあちこちに行ってるので、宮崎観光ホテルや青島など日南海岸は思い出の土地である。60年代の様子が出て来るかと期待したのだが、思ったよりも出て来なかったのは残念。瀬川監督のような観光エンタメ映画を作る意思が五所監督になかったのだろう。
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群馬と山口、自民王国の立憲民主党ー立憲民主党考④

2021年11月20日 23時32分23秒 |  〃  (選挙)
 前回に東京8区を見て、「野党協力が功を奏した」選挙区があることを確認した。しかし、日本全体を見れば、そういう選挙区の方が少ないだろう。全選挙区を自民が独占し、さらに野党候補の比例復活を1人も許さなかった県も幾つかある。野球で言えば「完封」というべきか。今回の「完封県」は、青森山形群馬福井岐阜島根山口高知の8県である。保守系無所属が当選した熊本県も事実上の「完封」である。よほど保守的な「自民王国」であっても、誰か1人ぐらいは野党系が比例で当選しているものだが、上記の県には野党の国会議員が衆議院にいないのである。

 そんな県がこれほど多くては、とても「政権交代」どころではない。2009年を調べると、高知県だけは民主党が1人も当選しなかったが、他の県では誰かがいた。今回は岸田文雄安倍晋三麻生太郎二階俊博石破茂岸信夫西村康稔森山裕など西日本の有力政治家の選挙区に立憲民主党の候補がいなかった。そこでは共産党社民党れいわ新選組などが立候補して、一応「与党対野党」という形になっている。しかし、それらの党がが野党統一候補として有力者を破ろうと意気込む地区ではない。要するに自民に太刀打ちできないから、立憲民主党が候補を擁立も出来ない「捨て区」である。

 首都圏では甘利明石原伸晃ら自民党有力者を破った小選挙区もあった。だが西日本では善戦するどころか「不戦敗」がこれほど多いのに、政権交代なんて言うのはおこがましかった。「立憲民主党政権に共産党が閣外協力」がどうのこうの、いろいろ言われたけれど、果たして考える価値があったんだろうか。「数字上の可能性」があるから、政権側(や保守系マスコミ)が大々的に問題視した時に、枝野代表も「そんなに勝つわけない」と自分からは言えないだろう。でも、今回すぐに政権交代が実現出来る客観的可能性はなかった。今回は150議席程度が目標で、そのための「戦術」としての野党協力なんだとずばり言えば良かった。

 東西の自民王国の代表として群馬県山口県を見てみたい。群馬県では1区が公認でもめたが、今回から中曽根康隆、4区が福田達夫、5区が小渕優子とかつての首相の子ども、孫が完璧に世襲王国を築いている。特に5区は今まで一度も比例復活もない。2区はかつて笹川堯元総務会長が連続当選していたが、2009年に石関貴史に敗れた。2012年からは井野俊郎が当選中。石関は2005年に比例で当選し、09年には小選挙区で当選。12年には維新に転じて比例で当選、14年にも比例で当選した。17年には落選、今回も無所属で出たが立憲民主党候補の半分(2.5万)しか取れず落選した。
(2021年衆院選の群馬県立候補者一覧)
 群馬3区は笹川博義が4回連続して当選中。笹川堯の子だが、選挙区が違う。09年以前は谷津義男元農水相が連続当選していたが、09年に柿沼正明が当選した。2012年に落選して、その後の情報が無い。その時はまだ40代だったが、以後の選挙には出ないで政界からは引退したようだ。また群馬1区では、05年までは尾身幸次佐田玄一郎が交互に当選していたが、09年には民主党の宮崎岳志が当選した。宮崎は12年には落選したが、14年には比例で当選。17年は希望の党で落選、今回も維新から出て落選した。つまり、2009年は自民王国の群馬においても5区中3区で民主党が当選していたのである。その勢いあってこその政権交代だった。

 2009年にはもう一人民主党の当選者がいた。群馬4区の三宅雪子である。4区は09年まで5回を福田康夫、以後4回を福田達夫と福田家以外が当選したことがない。(5区も小渕家しか当選者がいない。)フジテレビのアナウンサーだった三宅は、小沢一郎の要請を受けて立候補し福田に肉薄して比例区で当選した。当時は知名度も高く、「小沢チルドレン」の代表格とされた。小沢と政治行動を共にし、12年は千葉4区の野田佳彦の選挙区に回って落選、13年の参院選でも落選した。以後はジャーナリストとして細々と活動していたが、2020年1月2日に水死しているのが発見された。自殺とされている。

 続いて西の自民王国、山口県を見る。明治の元勲までさかのぼらなくても、戦後だけでも岸信介佐藤栄作安倍晋三と山口県選出議員が20年も首相をやっている。山口4区では1996年以来、全9回すべて安倍晋三が当選していて、比例当選者も出していない。ただ7回連続して10万票以上を集めていたのだが、今回は8万票と前回より2万票以上減らしたとちょっと話題になった。今回は共産党も出ずに、対立候補はれいわ新選組だった。山口3区も前回まで河村建夫が当選を続けて比例当選も許さなかった。今回参議院から林芳正が転じて、立憲民主党の女性候補に圧勝した。得票率で4分の3を占めている。
(山口県の自民党候補者)
 このように山口3区、4区は今まですべて「完封」を続けている完全なる自民王国だが、山口1区に関してはすべて高村(こうむら)正彦、正大父子が勝利しているのだが、2009年だけは高邑(たかむら)勉が比例で当選した。高邑は12年総選挙前に辞任して山口県知事選に出て落選。その後は維新に移って、14年衆院選に出たが落選した。以後は立候補していないようである。山口県はこのように自民が圧倒しているのだが、山口2区だけはちょっと事情が違う。96年には佐藤栄作の次男、佐藤信二が当選したが、選挙には強くなかった。2000年に民主党の平岡秀夫が当選し、03年も維持した。05年は福田良彦に敗れて比例で当選したものの、福田が岩国市長選に出るため辞任すると補選で勝利。09年も勝利し、民主党政権では法務大臣を務めた。

 しかし、平岡は2012年の選挙で岸信夫に敗れ、14年にも続けて落選して政界を引退した。岸信夫は安倍晋三の実弟だが、岸信介の子ども夫婦の養子となって岸家を継いだ。その事は本人には長く知らされなかったという。2004年に参院選に出馬して当選し、12年に衆院に転じた。現職の防衛相ということもあり、今回は共産党候補に3倍以上の大差を付けている。こう見てくると山口県の自民王国は今後も続くのは明らかだろう。2009年でも民主党は小選挙区で1人、比例区で1人だったのだから。それでも有力な候補者が少しでもいなければ、政権交代どころではない。

 日本を変えたい、自民党政権を変えたいと思っている人でも、じゃあ、福田達夫や小渕優子、あるいは安倍晋三や林芳正の対抗馬になってくれと言われたら、了解することは難しいだろう。「落選確実」なのだから、野党から出てしまったら生活が成り立たなくなる。学者や公務員、大企業に務めている人は仕事を続けていた方が有利だ。落選しても次まで活動できるような生活保証は立憲民主党には出来ないだろう。本来なら党職員や党に近いシンクタンクなどが受け皿になれればいいのだろうが。山口2区の平岡秀夫は弁護士で、その後も死刑廃止運動の集会などで話を聞いている。弁護士や医師など落選しても影響の少なそうな資格を持つ人に出て貰うしかないのだろうか。

 今回書いたのは、首都圏だけ見ていてはダメで、地方の「自民王国」を検討すれば、とても立憲民主党が政権を取るなどという段階には達していないという冷厳なる現実である。右だの左だのと言うレベル以前に、地方議員も少ないし地方組織が弱すぎる。どんなところでも自民党内閣の政策に問題を感じている人はいるだろう。そのような現場の声を拾っていく苦労、工夫をもっと続けるしかないだろう。少なくとも、もっと西日本で強くなるにはどうすれば良いか、西日本対策本部を作って対応しないとまずいと思う。
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東京8区のケーススタディー立憲民主党考③

2021年11月19日 22時43分42秒 |  〃  (選挙)
 現在の選挙制度は衆議院も参議院も矛盾を抱えている。衆議院は小選挙区比例代表区があるが、小選挙区では「各野党が選挙協力をする方が有利」だが、比例代表区では「各野党がそれぞれの独自の主張をする方が有利」である。どっちも重要ではあるが、政権交代を実現しようというならば、全国の小選挙区の半分以上で勝利する必要がある。比例ではその特性から、大きな差は付きにくい。だから小選挙区で大差を付けないといけないのである。2009年衆院選がそうだったし、参議院で自民党が大敗したときも「1人区」の敗北が全体を決めたのである。そこで小選挙区で協力しようという動きが出て来る。

 今回首都圏では選挙協力によって野党が勝った選挙区がいくつもあった。その中で自民党元幹事長で(小なりといえど)派閥のトップだった石原伸晃を破った東京8区(杉並区の大部分)を取り上げて見たい。(投票率61.03%)
 吉田晴美(立憲民主党) 13万7341票 (48.45%)
 石原伸晃(自由民主党) 10万5381票 (37.17%)
 笠谷圭司(日本維新の会) 4万0763票 (14.38%)
 8時の開票速報開始とともに、吉田晴美の当確が報じられた。石原伸晃は比例で復活も出来なかったぐらい(3万票以上)差を付けられた。だが、よく見てみれば吉田晴美の得票率は過半数に達していない。これを逆に見れば、自民・維新の「保守協力」があれば、結果は変わった可能性があるのかもしれない。
(東京8区で当選した吉田晴美) 
 では、同じ東京8区の2017年の選挙結果を見てみたい。(投票率55.42%)
 石原伸晃(自由民主党) 9万9863票 (39.22%)
 吉田晴美(立憲民主党) 7万6283票 (29.96%)
 木内孝胤(希望の党)  4万1175票 (16.17%)
 長内史子(日本共産党) 2万2399票 (8.80%)
 円より子(無所属)   1万1997票 (4.71%)
 斎藤郁真(諸派)      3850票 (1.15%)  
 これを見れば、「次回は吉田晴美にまとまれば石原伸晃に勝つんじゃないか」と思うのも当然だろう。前回の立民と共産の票を合わせれば、ほぼ石原票と同じになる。もっとも前回の希望の党と今回の日本維新の会は、ほぼ同じ4万票を獲得していて、「非共産票」もあるんだろうと思う。それにしても接戦予想が出たことで、投票率が5%も上昇した。石原伸晃も前回より5千票以上上乗せしているが、増えた分の大部分は吉田票になったと思われる。(なお諸派の斎藤は「都政を革新する会」で、中核派系である。円より子は元民主党参議院議員で、2012,14年に東京8区の民主党候補だった。今回は東京17区で国民民主党から出馬して維新、共産にも及ばず4位だった。)
 
 次に東京8区の比例票を見てみる。主要政党のみ。( )内は2017年。【 】は2019年参院選(対象は杉並区全体)
 自由民主党  8万5703票  (7万6828票)  【7万9037票】
 立憲民主党  6万5028票  (7万3471票)  【5万1138票】
 日本維新の会 3万6311票   (8552票)   【2万0790票】
 日本共産党  3万0998票  (2万8076票)  【2万7395票】
 れいわ新選組 2万2687票           【2万8364票】
 公明党    1万9855票  (1万8297票)  【1万8445票】
 国民民主党  1万4752票           【1万1854票】
 社会民主党    4346票   (2631票)    【4999票】
 希望の党          (4万1014票)

 比例区票の見方はなかなか難しい。僕が驚いたのは、この地区では(今回の得票順で見れば)公明党が第6党だということである。東京でもそういう地区があるんだ。今回の自民+公明票はほぼ選挙区の石原票である。つまり、自民、公明票は固めたが、それ以外には浸透しきれなかった。一方、維新+国民民主は、選挙区の維新票より1万票ほど多い。国民民主党票も、吉田晴美に流れた方が多いと思われる。立憲民主党は前回より減らしているが、19年参院選より多い。前回衆院選にはなかった「れいわ新選組」に流れている可能性が高い。東京8区は2012年に山本太郎が初めて選挙に立候補したところで、なじみがあるところである。

 東京8区は1996年の小選挙区導入以来、8回連続して石原伸晃が当選してきた。ただし、石原が得票率で5割を超えているのは、実は2003年、2005年の2回だけだった。恐らくその頃が石原伸晃の最盛期で、だから2009年の野党転落後の自民党で幹事長を務めて、次期総裁の最有力候補と思われていたわけだろう。対する民主党は2003年、2005年には30代の鈴木盛夫という人が立候補していた。2回とも比例当選も出来ず、2009年には社民党の保坂展人(現世田谷区長)を擁立して敗れた。その後は円より子が2回、吉田晴美が2回立候補した。今までも反石原票がまとまったならば小選挙区で勝てたという選挙が多い。

 こういう風に見てみると、今回吉田晴美に(維新以外の)野党がまとまったのは、自然な流れのように思われる。首都圏には非自民系無党派層が多く、国民民主党を支持する大企業の労組票も少ない。(本社は多いが、工場が少ない。)自民党に対抗するためには、立憲民主党と共産党が「共闘」とまでは言わずとも、「棲み分け」することへの抵抗感は他ブロックより小さいだろう。北海道、東北、甲信越なども比較的同じような傾向がある。一方で、大工場が多い東海ブロック、維新が圧倒している近畿ブロックは全然違う。中国、四国、九州では自民が圧倒的に強い。日本も全国共通ではなく、アメリカや韓国のような「地域的な政党支持の違い」のある国になっている。首都圏だけの感覚でみてしまうと、違和感を持つ人も出てくるのだろう。(本当はここで西日本の状況を検討するつもりだったが、結構長くなってしまったので、ここで一旦終わりにして置きたい。)
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立憲民主党に定年はないのかー立憲民主党考②

2021年11月17日 22時51分17秒 |  〃  (選挙)
 立憲民主党に対して、民主党政権以来同じ顔ぶればかりが出ているという批判がある。なるほどそうも見えるだろうが、それは酷な感想だと僕は思っている。同じことは自民党にも言えて、麻生太郎二階俊博など80代になっても選挙に出ている。05年の郵政解散、09年の民主党政権交代、12年の自民党政権復帰と大きな選挙ドラマを生き抜いた、強力な地盤を持つ西日本の議員が政界の中心を占めているのである。安倍晋三、岸田文雄、石破茂、麻生、二階など皆09年でも小選挙区を勝ち抜いた政治家だ。

 民主党系の場合、09年に大量に当選した議員の多くは、12年以後に生き残れなかった。今回代表選に出馬意向が伝えられる逢坂誠二西村智奈美もその時には落選している。泉健太大串博志小川淳也などは比例区で当選したが小選挙区では敗れた。この時は元首相の菅直人、衆院議長の横路孝弘、衆院副議長を2度務めた赤松広隆、今回落選した辻元清美なども比例当選だった。

 2012年に小選挙区を勝ち抜いた民主党議員は、枝野幸男安住淳長妻昭前原誠司玉木雄一郎玄葉光一郎らである。民主党内閣で閣僚を務めたほどの知名度がなければ、安倍政権下を生き延びられなかった。(付け加えれば、他にも松本剛明山口壮(現環境相)、長島昭久細野豪志ら今は自民党所属の議員も当選した。)2009年の総選挙では、民主党だけで143人もの新人議員が当選したが、そのうち2021年の衆院選でも当選したのは玉木雄一郎大西健介山岡達丸後藤祐一岸本周平奥野総一郎ら(他に維新で当選した議員を入れても)14人しかいない。(玉木デニー沖縄県知事、本村賢太郎相模原市長など自治体の首長に転じた者もいる。)

 名前ばかり挙げてしまったが、09年には多くの女性新人議員も民主党から当選したのだが、生き残れなかったのである。今回も立候補したものの落選した人もいる。山尾志桜里のように引退した人もいる。結局ほとんどの人は政界から遠ざかってしまった。立憲民主党には中堅の人材が少ないとか、女性議員が少ないと言っても、それは有権者が自民党男性議員を当選させてきたのである。生き残った人が中心にならざるを得ないから、立憲民主党には民主党政権時代からずっとやっている人ばかりになってしまう。だから僕はそれを批判するのは酷だと思うわけである。

 しかし、それはそれとして、立憲民主党の小選挙区の候補はいつまで同じ人なんだろうか。別に同じ人でもいいんだけれど、それは「当選している限り、本人が自ら辞めない限り永遠に現職を優先して公認する」というルールがある場合である。立憲民主党は前回選挙時にバタバタと立ち上げなければならなかった。そういう事情から枝野代表など創業メンバーの個人商店的な色彩が強かった。他党にあるルールなども決まってないことが多い。例えば、自民党は「比例区は73歳定年」というルールがある。

 もっとも個別事情で「例外」もあって、近畿ブロックの奥野信亮は77歳、九州ブロックの今村雅弘は74歳でそれぞれ単独1位になって当選した。福岡10区の山本幸三元地方創生相は73歳で名簿に掲載されなかったため、城井崇(無所属)に負けた後に比例で復活できなかった。惜敗率95%以上だったから、載っていたら当選だった。これでは不公平だと不満が出るのも当然だろう。甘利明の場合は、72歳なので辛うじて定年制に引っ掛からず、比例名簿に掲載されたため当選できたわけである。

 それに対して立憲民主党は例外なく、小選挙区立候補者を比例名簿1位にしている。比例単独候補も少しいるが、すべて小選挙区候補の後であり、年齢制限もない。だからこそ、79歳の小沢一郎(岩手3区)、73歳の篠原孝(長野1区)が当選できたのである。高齢者の声を届ける議員も確かにあっていい。だけど、小沢一郎菅直人海江田万里中村喜四郎など、「余人をもって代えがたい」のかもしれないが、いつまで議員をやるつもりなんだろうか。横路孝弘は2014年の選挙時に73歳で、17年の選挙には出ずに引退した。赤松広隆は2017年の選挙時に69歳で、今回立候補せずに引退した。

 何歳までならいいかは決めがたいが、現実に小沢一郎は「政権交代より世代交代」を訴える38歳の藤原崇に小選挙区で初めて負けてしまった。藤原は2012年の選挙で29歳で比例区に当選し、小沢に挑むこと4回目で小選挙区を制した。これは(政治的立場を抜きにして考えれば)、香川1区の小川淳也以上に「快挙」なんではないだろうか。若ければ良いというものではないのは、自民党の2012年初当選組が「魔の○回生」と呼ばれ続けてきたのを思い出せば判る。だけど、旧民主党立ち上げから政権奪取、野党への転落から10年近く、ずっと同じような顔ぶれだと言われれば、全くその通りだと思う。 
(小選挙区で敗れた小沢一郎)
 高齢だからダメと言ってしまっては、高齢者だけではなく、障がい者や病者も議員として活動できるのかということになってしまう。社会の多様化を進める政党は、議員の多様性も具現化しなければいけない。ただし、どうしても小選挙区では日常活動や知名度が欠かせない。高齢議員は日常活動が鈍っても、知名度で長く当選してきた面が多いだろう。それでは政治が停滞するのも無理はない。ある程度高齢になったら、自分がまだ元気なうちに後進を育てることも大切だと思う。

 それでもいつまでも政治に関わっていたいと思う場合は、参議院の比例区に回って貰うのはどうだろう。参議院の性格上、長い政治体験を生かした活動が期待できる。解散がなく6年間続けられるし、途中で病気、死亡などの場合も次点者が繰り上がるので問題ない。小沢一郎、菅直人レベルなら全国で数万票は期待できそうだから、当選するのではないか。高齢者にしてみれば、みんな若い人になると知らない候補者ばかりになる。長いこと知っていた人が出ていれば、全国的に党勢拡大にもつながるんじゃないか。非拘束名簿式なんだから、個人名投票が多ければ当選、少なければ落選というだけで、これならいくら高齢で立候補しても何の問題もないだろう。
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「保守本流」枝野路線の破綻ー立憲民主党考①

2021年11月16日 23時04分32秒 |  〃  (選挙)
 衆議院選挙の問題に戻って。今度は政党について考えたいが、全部の政党を論じても仕方ない。先に自由民主党の派閥史を書いたから、今度は野党第一党立憲民主党について考えることにする。与野党のそれぞれ第一党に関しては、どの国でも考えることがいっぱいある。アメリカなら民主党と共和党、ドイツならキリスト教民主同盟と社会民主党…といったように。関心が無いという人もいるだろうが、それは「関心がない」というあり方で関与しているのだと思う。

 2021年の衆院選は立憲民主党が負けたというよりも、「自民党が勝った」という選挙だった。細かい数字は別に書くが、ともかく野党第一党だった立憲民主党は議席を減らした。その責任をとって枝野幸男代表が辞任した。今後党員も参加した代表選挙が行われるが、まだ立候補者も確定していない。衆院選に関しては、共産党と選挙区協力を行ったことに象徴されるように、枝野代表の方向性が「左過ぎた」という批判がある。それが「定説」になってる感じもあるが、僕はそれには疑問を持っている。
(辞任を証明した枝野代表)
 立憲民主党は小選挙区ではそれなりの力を発揮したが、比例区で振るわなかった。それを素直に解釈すれば、有権者が政権交代を望まなかったということだ。その証拠に朝日新聞の最新世論調査では、自民過半数獲得の結果を「よかった」が47%「よくなかった」が34%という結果になっている。それは何でだろうと考えてみると、「地力の差」が大きいと思う。

 コロナ禍で2年近く地域の祭りなどもなくなり、大規模な集会や決め細かな集票活動も出来なかった。今回は直接会って投票を依頼する運動が難しかった。そうなると、もともと持っていた「地力」が出てしまう。最終盤の「維新」などは勢いで伸びたと思うが、他党の場合は概ね「こんなもの」という結果ではないか。小選挙区で野党系が勝ったところも、前回選挙で立民+共産が自民を上回っていたところが多いと思う。結局日本の政党の力具合が正直に出てしまったように思う。

 また参議院で多数を持っていなかったことも大きい。衆議院が優先する憲法の規定で衆院選で勝てば総理大臣になれるけれど、参議院で大きな議席差がある以上、公約した政策は進まないのが目に見えている。今まで自民党が政権を奪われたことは2回あるが、いずれも参議院で自民党が大敗する選挙の後だった。89年参院選に自民党が大敗し、92年は堅調だったけれど、合計すれば参院では自民が過半数を割っていた。そして93年に細川政権が誕生して自民党は野党に転落した。2007年参院選にも自民党は大敗し、民主党が過半数を占める「ねじれ国会」となった。政治が進まないことへの国民の答えが、2009年衆院選で民主党への政権交代だった。

 コロナ禍を受けて、与野党ともに経済対策を訴えたが、すぐに実行できるのは参院で過半数を持っている自民党であることは明らかだ。政策の中身を検討すれば、もしかしたら野党の訴えたものの方が優れていたかもしれない。しかし、それは参院を通過できない以上、「絵に描いた餅」になってしまう。そう有権者が判断したのではないか。日本の政治では、憲法上衆議院が優先するとはいえ、法律の制定においては衆参が同等の力を持っている。そして参議院は解散がないので、一端大敗すると6年間は回復が難しい。その意味では「第二院の力が大きい」という特殊性を持っている。だから、今後もまず参議院で先に与野党逆転が実現しない限り、政権交代は難しいのではないだろうか。

 もうひとつ大きな理由としては、直前に岸田政権が成立したことを無視できないと思う。枝野代表は2021年5月に文春新書で「枝野ビジョン」を刊行している。そこでは「左に寄る」ことではなく、むしろ正反対に「保守本流を目指す」と言っていたはずだ。これは安倍政権が長すぎて、政治の物差しが「右に寄りすぎた」という判断がある。憲法や歴史認識などで国民全体より右寄りの路線が当然のように続いて、その結果「ど真ん中」の政治勢力が無くなってしまった。そういう認識から、あえて「保守本流」を掲げて、政治・経済運営の「常識」を取り戻そうと訴えたわけである。

 ところが岸田内閣が成立して、「新しい資本主義」を掲げて「分配重視の経済政策」を訴えるようになった。安倍政権とそれを受け継いだ菅政権の評価を争うはずが、梯子を外されてしまったのである。もっとも岸田首相も安倍政権のもとで、ずっと外相、政調会長を務めてきた。甘利幹事長の人事を見ても、どうも自民党最大勢力の安倍派(細田派から代わって安倍派になった)に配慮している感じがする。だけど、菅政権で無役だったため、菅政権のコロナ対応に直接の責任を負わないこともあって、枝野氏の目指した政治が宏池会出身の岸田氏に「上書き」されてしまった。もっとも岸田氏は安倍、菅政権の「負の遺産」にちゃんと向き合う意思が感じられない。そうなんだけど、一般有権者には受けない論点だったと思う。
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大傑作、平野啓一郎「ある男」を読む

2021年11月15日 22時09分19秒 | 本 (日本文学)
 平野啓一郎ある男」(2018)を読んだ。刊行当時に評判になって、読売文学賞を受賞した。前から読みたかったんだけど、9月に文春文庫に入ったので買うことにした。一読、心の奥深くに働きかけてくる傑作だった。話はミステリアスだが、エンターテインメントではない「純文学」の凄さを感じさせられる。多くの人にチャレンジして欲しい本だ。

 平野啓一郎(1975~)は京大在学中の1998年に書いた「日蝕」で1999年1月に芥川賞を受けた。「日蝕」は中世フランス、次の「一月物語」(いちげつものがたり)では明治日本の鏡花風幻想をそれぞれ擬古文で描いていた。そのスタイリッシュな世界が魅力的とは思ったが、正直勘弁してくれという気もして、以来「葬送」や「決壊」など評判の作品は持ってるんだけど読んでなかった。デビュー頃とは全然違っているという話は聞いてたが、確かに全く違う作風だった。

 ある女性(里枝)が事情あって離婚して子どもと故郷(宮崎県西都市)へ帰る。実家がやってた文房具店を手伝っているうちに、水彩画の道具を買いに来る男と親しくなる。再婚して子どもも出来るんだけど、男は林業現場で倒れた樹にあたって死んでしまう。不運な話だけど、実はここからが物語なのである。男は谷口大祐といい、伊香保温泉の旅館の次男だという。しかし、親兄弟とは良い思い出がなく、故郷を捨てて出て来た。だから結婚に当たっても何の連絡もしなかった。しかし、一周忌も終えて、このままではと思って伊香保の旅館に連絡を取る。早速兄がやって来るのだが、写真を見てこれは弟ではないと断言する。 

 えっ、どういう事なんだろう? そこでかつて離婚の時に世話になった弁護士城戸に相談する。その城戸弁護士がこの物語の語り手になる。城戸が調査を進める探偵役になるわけだが、本当に谷口大祐を知る人を探すと、確かに違うという。特に大祐と付き合っていたという「美涼」は印象的だ。一方、では谷口大祐を名乗っていた人物(仮に「X」と呼ぶ)は誰なのか。谷口本人とはどんな関係があるのか。本人の情報を聞いていたのは間違いなく、だから実際に伊香保の兄が訪ねてきたのである。
(平野啓一郎)
 人間が入れ替わるということがあるのか。そこには「犯罪」も関わっているのだろうか。城戸弁護士の調査はなかなか進まないが、その間に城戸や里枝の日々の思いが語られる。特に城戸は実は金沢で育った「在日」コリアン3世で、その後「帰化」していた。震災を機に関東大震災時の虐殺事件を思い出してしまい、日本がヘイトスピーチが横行する社会になったことに鬱屈した思いがある。幼い子がいるが、震災後の法律ボランティアに出掛けて、妻とギクシャクするようになってしまった。過労死裁判などを抱えながら、城戸は宮崎にも出掛けていく。夜、町に飲みに出ると、つい谷口と名乗ったりしてしまう。

 一体「自分」とは何なのかという深い問いを抱えながらも、まずは「X」の正体を明らかにしたい。そのヒントは幾つかあって、まずはたまたま横浜刑務所で服役していた詐欺師。その男は戸籍の売買も仲介していた。そして友人弁護士がやっている死刑廃止運動で、死刑囚の絵画展に出掛けたこと。日本のなかにある悲惨、欺瞞、難問にぶつかりながら、果たして「真相」にはたどり着くのだろうか。しかし、「真相」とは一体なんなのだろう? 自分の人生をも思い返し、深い感慨を覚えてしまう。

 「謎」をめぐる物語だから、先へ先へと読み進む。しかし、物語としては停滞する部分があって、それは弁護士はこの謎だけを追いかけていては生活できないから当然だ。そこがエンタメ小説なら、都合良くドラマティックな展開が相次ぐんだろうけど、「純文学」ではそうはいかない。その時に語られる城戸の思いなどが余計だと思う人は、この小説を味わえない。たくさんの登場人物が織りなすタペストリーのような小説だが、日本の非寛容な「世間」を思い知らされるところもあれば、励まされるような描写もある。いずれにせよ、とても考えさせられる小説だ。

 平野啓一郎は2016年に出た恋愛小説「マチネの終わりに」がベストセラーになり、映画化もされた。社会的な発言も多く、最近気になっていた作家だ。大江健三郎の後期小説を残っているんだけど、ちょっと平野啓一郎を読んでみようかなという気になった。
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文学座公演「ジャンガリアン」(横山拓也作)を見る

2021年11月13日 21時12分06秒 | 演劇
 紀伊國屋サザンシアターで始まった文学座の公演「ジャンガリアン」を見た。横山拓也作、松本祐子演出で、20日まで。ナイトチケットの方がずいぶん安いから12日夜の初演を見たが、とても面白かった。作者の横山拓也は大阪出身で、iakuという劇団の代表。僕は知らなかったが、2918年「逢いにいくの、雨だけど」、2019年「ヒトハミナ、ヒトナミノ」、「あつい胸さわぎ」など、最近コンスタントに注目作を連発しているらしい。今回の「ジャンガリアン」もトンカツ屋の内部だけを舞台にしながら、世界につながる現代を描き出して秀逸。客席には笑いも絶えず、演劇を見る楽しみを味わえる。

 舞台は大阪のどこかの商店街の一角にあるトンカツ屋「たきかつ」。今日はリニューアル休店前の最後の日である。創業60年という老舗として常連も付いているが、何しろもう古い。店を開いた祖父が亡くなったのを機に、家業に目もくれなかった長男、琢己が継ぐことになった。店で長いこと勤めてきたアキラさんは、新しくなる店に不安も覚えながら「若旦那」を立てている。そこに様々な人がやって来る。琢己の両親は離婚していて、父親高安は今は近くに別の店を出して商店会の会長をしている。両親は犬猿の仲で、「たきかつ」は商店会にも入ってないぐらい。琢己の妻、アイは保育士をしていてバツイチらしい。

 そんなところに、外国人の支援をしている女性がモンゴル人留学生を連れてくる。「フンビシ」という名のモンゴル人は、最初はジャンガリアンを持ってくるために店に来たのだった。題名にもなっているジャンガリアンとは何か。演出の松本祐子も最初は知らなかったというが、何とハムスターの一種だった。「たきかつ」は古くなりすぎてネズミが出るという。いくら何でも食べ物屋でまずいだろうと思った琢己に、ジャンガリアンを飼えばと勧める人がいた。同じネズミの一種で、なわばり意識があってジャンガリアンを飼ってるとネズミが出ないというのだが…。
(ジャンガリアン)
 そんなこんなでゴタゴタしている時に、琢己が倒れてしまう。救急車を呼ぶ事態になってしまい、すべてリニューアルの工程表を作ってある工務店の担当は困惑する。そこからこの小さな店をめぐる人間関係が細かな会話を通して見えてくる。それは思わず「日本人とは何か」を考えさせるものになっていく。商店会の会長(つまり「たきかつ」の琢己の父)は外国人との交流も大切と考えていて、祭にベトナム人やモンゴル人が豚の丸焼きをするコーナーを認める。それが子どもたちから「残酷」だと非難されたらしい。日本人はトンカツを平気で食べているのに、丸焼きにすると残酷だと言い出す。
(舞台風景)
 琢己が入院中でリニューアル工事も頓挫している間に、フンビシを二階に住まわせて店を手伝って貰えばという話になる。しかし、外国人を雇うことに反対もあるし、リハビリが必要になってしまった琢己には鬱屈が絶えない。そこにアキラの人生、先代の教えが語られるときに、許すこと信じることの大切さというテーマが見えてくるのである。小さな店の小さな人間模様をユーモアたっぷりに語りながら、案外大きなテーマがあぶり出されてきた。もっとも最後は出来すぎ的なウェルメイドプレイになってしまったかも。しっかりした演技に支えられた社会性とユーモアは、「新劇」の意味を再確認させてくれるような感じがした。

 出演は父がたかお鷹、琢己が林田一高、アキラが高橋克明、フンビシが奥田一平、工務店の担当が川合耀祐、母親に吉野由志子、フンビシを連れてくる団体の女性が金沢映美、妻アイが吉野実紗。僕もほとんど知らないけれど、みな達者な演技。サザンシアターはまあ椅子がいい方だから、時々行きたいなあと思う。舞台でも新作ではなく、最近は再演が多い。若い作家の新作を追いかけて見るのは大変だが、なかなか注目の才能だなと感じた。
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瀬戸内寂聴の訃を悼み、徳島ラジオ商殺し事件を思い出す

2021年11月13日 00時00分04秒 | 追悼
 2021年11月9日に瀬戸内寂聴が亡くなった。1922年5月15日生まれで、99歳である。2004年に岩波書店から出た「同時代を生きて」という本では、鶴見俊輔ドナルド・キーン瀬戸内寂聴の3氏が大いに語り合っていた。この3人は1922年生まれの全くの同世代人だった。そして、鶴見俊輔が2015年7月20日に亡くなり、ドナルド・キーンが2019年2月24日に亡くなった。そして、この二人に続き瀬戸内寂聴が亡くなった。日本の作家としては、宇野千代の98歳は越えたが、野上弥生子の99歳10ヶ月には僅かに及ばない。ちなみに佐藤愛子は97歳の誕生日を迎えたばかりである。百歳まで生きることはかくも難しい。

 僕は瀬戸内寂聴さんの話を聞いたことがある。それは徳島ラジオ商殺し事件の再審開始を求める集会でのことだった。1953年に徳島市で起こった殺人事件で、「内縁の妻」の富士茂子が逮捕され、懲役13年の有罪が確定した。しかし、これは公権力の乱用としか言いようがない恐るべき事件だった。難航する捜査に対して、検察官が2人の少年店員を無理やり逮捕し嘘の供述を迫ったのである。開高健が「片隅の迷路」で小説化し、山本薩夫監督「証人の椅子」(1965)として映画にもなった。富士茂子は1966年11月に仮釈放されたが、その間何度も再審を求めながらも退けられてきた。

 徳島市に生まれた瀬戸内寂聴は同じ町に起こった事件に心を寄せ、早くから富士茂子の熱心な支援者だった。1970年代後半になって、本格的に日弁連が支援することになり、本人の体調を考えると恐らく最後になるだろうと思われた第5次再審請求が1978年1月に起こされた。その直前に東京で支援集会が開かれ(場所は渋谷の山手教会)、そこでずっと支援してきた瀬戸内寂聴市川房枝(参議院議員)が登壇して話をしたのである。日本女性史に輝く偉大な2人の話を聞いたわけだが、僕は小さい体で必死に無実を訴える富士茂子の姿だけを覚えている。そして彼女は1979年11月15日に亡くなった。
(富士茂子さんの写真を掲げて再審開始を求める人々)
 再審請求は姉妹によって継承され、日本で初の死後再審を目指すことになった。そして1980年12月13日、徳島地裁は再審開始を決定した。僕はその日、徳島まで出掛けていた。決定が出る日を知らせないことも多いのだが、その時は決定を出す日が公表されていた。審理経過からも開始決定が出る可能性が高いと思われていた。再審開始決定の瞬間を見ることはなかなか出来ないので、僕はどうしても居合わせたかったのである。夜には再審開始を報告する集会が開かれ、ここでも瀬戸内寂聴の話を聞いた。細かい内容は覚えていないけれど、袈裟をまとって威風あたりを圧する存在感は印象的だった。このエネルギッシュな支援活動に瀬戸内寂聴の真骨頂を見た思いがしたものだ。

 僕は「法話」を聞きに行ったりしたことはない。抹香臭いことは嫌いだし関心も薄い。1973年に今東光の手で中尊寺で得度したわけだが、もちろんそれ以前から瀬戸内晴美の名前は知っていた。本を読んではなかったが、それなりに有名な(どちらかと言えばスキャンダラスな)「女流作家」だったから。今東光は河内を舞台にした小説を沢山書いた直木賞作家だが、天台宗の大僧正で自民党の参議院議員でもあった。何で尼僧になったのか、その頃は全く判らなかったし興味もなかった。しかし、もっと後になって瀬戸内晴美名義の伝記小説を読みふけるようになった。面白くて役に立つのである。

 特に日本近代史の中で、自由を求めて闘い続けた女性たちを描き続けた。伊藤野枝を描いた「美は乱調にあり」(1966)に始まり、管野スガ(大逆事件)を描く「遠い声」(1970)、金子文子を描く「余白の春」(1972)、伊藤野枝と大杉栄を描く「諧調は偽りなり」(1984)、平塚雷鳥らを描く「青鞜」(1984)などである。描写が生き生きとしている上に、自由を求めるテーマが胸を打つ。直接授業に使うわけではないが、時代をイメージするのに役立つのである。他にもいっぱい伝記小説を書いているけれど、読んでない本が多い。「夏の終り」などの小説も持っているけど読んでない。いつでも読めると思っているうちに作者が亡くなってしまった。瀬戸内寂聴は林真理子に対して「作家は死んで一年経つと、本屋の棚から無くなってしまう」と言ったそうだ。

 しかし、一年と言わず、ここ数年ほとんど瀬戸内の小説は文庫コーナーで見なくなっている。今挙げたような本は、今後も若い日本の女性を勇気づけるだろう。いつまでも読めるようになっていて欲しい。その他、多くの社会運動にも関わり、安保法制や原発にも反対してきた。それらはマスコミ上で多く報道されている。どんな人が何を言っているかを見ると感じることが多い。(上記の伝記小説の多くは近年岩波現代文庫で再刊されている。)
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