尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「明暗」-漱石を読む⑨

2017年11月28日 21時24分43秒 | 本 (日本文学)
 夏目漱石全集を読んできて、やっと最後の長編小説である。188回連載されて、ついに未完に終わった「明暗」。未完ながら最長の小説で、600頁を超える。読み終わるのに6日掛かったので、だんだん最初の方を忘れてしまう。中身の方も「大菩薩峠」か、カズオ・イシグロ「充たされざる者」かと思うぐらい、自己増殖的にひたすら長くなっていく。だけど読みにくいわけではなくて、スラスラ読める。

 朝日新聞に1916年(大正5年)5月26日から12月14日にかけて連載された。漱石は1916年12月9日に亡くなっている。49歳10か月。1917年に刊行された、まさに100年前の物語である。漱石はずいぶん昔の作家のように思うけど、同じ1867年生まれの幸田露伴は1947年まで生きて80歳で亡くなった。今より寿命が短い時代とはいえ、第二次大戦後まで生きていたっておかしくなかった。

 この小説を読む限り、仮に完成していても「失敗作」なんじゃないかと思う。人生にとって大事なものは何か。「お金」と「結婚」と言ってしまえば、今もおおよそ同じだろう。今では「結婚しない」という人生も昔より広がっている。でも広い意味での「」は人生を根本的に成立させているものだろう。「お金」は普通は仕事をして得るが、裕福な家に生まれれば不自由しない。でも結婚してしまうと、一時的に実家にいるよりビンボーになったりすることもある。そういう夫婦の話。

 津田延子と結婚して半年ほど。周りは津田は妻を大事にし過ぎている、結婚して変わったと言われている。それで幸せなら、はたがとやかくいうことじゃないと思って読んでいくと、必ずしも夫婦がうまく行っているわけじゃないことも判ってくる。そんなときに津田が病気をして手術が必要になる。以前の病気が残っていたもので、大きな手術ではないとはいえ、仕事やお金の苦労がある。

 津田は京都にいる父から毎月の仕送りを受けていた。賞与で返すという約束だったが、それを果たさなかったので父は金を送れないと言ってきた。手術の費用もあるし、どうしようか。延子も両親が京都に住み、東京のおじ岡本家で育った。両家の父は京都で知人で、たまたま京都へ行ったいた時に延子は津田を知った。というようなことがだんだん判ってくるけど、それでもなんだか判らない。小林という津田の学友が現れ、貧しい育ちの彼は朝鮮へ勤めると決心して彼の外套を貰いに来る。

 このように小説を半分読んだところでは、「お金」をめぐる物語なのかなあと思う。ところが実は違っていて、途中から再び三度、漱石お得意の「三角関係」が前面に出てくる。津田には、延子との結婚前に結婚を考えていた女性があった。(もっとも大正時代だから、自由に会えるわけじゃない。もちろん肉体的な関係などない。)しかし、その清子は突如彼のもとを去り、津田の学友でもある関と結婚してしまった。その不審に悩んでいた時に延子が現れたということらしい。

 この間、彼の病室には、彼の妹の秀子が現れ大げんかになる。また夫婦の仲人でもあり、津田の会社の上司でもある吉川の夫人も現れ、津田を病後の療養との名目で温泉行きを進めお金もだしてくれる。そして同じ温泉にいま清子が逗留していると告げる。吉川夫人は彼のいない間に、延子を彼にふさわしい妻にすると請け合う。どうもおかしな話なんだけど、この一種の陰謀家、吉川夫人は生きている。作者の思惑を超えて、その度はずれたお節介によって物語を動かしていく。

 でも他の人物、特に小林や妹お秀は、いくらなんでもこんな人はいないだろう。日本人は大人同士で大議論することなど少ないのに、「明暗」では他の漱石の小説にもまして、皆が大論戦を繰り広げている。しかも、漱石の小説では珍しく、立場の違う様々な人々の内面が描写されている。今じゃ、神様でもないのに作者はどうして何でも知ってるのかと思われてしまうが。一般には日本の近代小説は「私小説」で作者自身と同一化した主人公が苦労する話が延々と続くことが多い。

 もっと総合的に社会を描き出す小説、まあフランスやロシアで書かれたような大長編小説が作家にとって目標だった。だが、いくつか書かれた本格小説もあまり成功していない。そもそも「社会」がちゃんと成立していないと、つまり「個性」を持った人間が社会にいっぱいいないと、長い小説は面白くならない。そしてそういう小説を楽しんで読む読者層が存在しないと、小説家が生きていけない。、朝日新聞の読者に男性の知識人層が多かった事もあると思うが、なにしろ「明暗」は理屈っぽい。漱石自身も多分そうなんだろう。それがこの小説にとっては致命傷だと思う。

 どうでもいいんだけど、100年前と今では様々な違いがたくさんある。昔の小説を読むと、「携帯電話がなんでないんだ」と言いたくなることがある。ケータイさえあれば解決しそうな悩みで苦しんでいることが多い。もっともインターネットが発達したことでまた違った悩みが現れ、それが物語にもなっている。それと津田が入院しても「健康保険」がないから、金策を心配しないといけない。やっぱり皆保険制度は大切なものだなあと思った。保険があれば、この物語もかなり変わってくる。

 漱石が死んだ後も何回か連載されているから、少し書き溜めてあったんだろう。でも、今後の展開を書き残したノートなどはなかった。どうなるのかは判らない。70年以上経って、水村美苗が「続明暗」を書いた。文庫本を買ってあったけど、「明暗」を読んでないのに続編を読んでも仕方ないからずっと放っておいた。続きが気になるから、続いて読み始めたので、それはこの次に書きたい。津田が向かうのは、湯河原温泉である。湯河原に津田と清子がそろうところから、「続明暗」が開始される。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 佐倉歴史散歩 | トップ | 精神医療改革から刑務所改革へ »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

本 (日本文学)」カテゴリの最新記事