勅使河原宏(てしがはら・ひろし、1927~2001)の没後20年ということで、シネマヴェーラ渋谷で特集上映が行われている。僕は劇映画は見ているが、記録映画は見ていないから貴重な機会だと思って、この機会に見ようと思った。全部終わってからだと大変だから、まず記録映画に絞って書いておきたい。勅使河原宏は1964年に作った映画「砂の女」で世界的に評価された。3年前に見直したときに、「映画「砂の女」(勅使河原宏監督)を見る」(2018.4.24)を書いた。
(勅使河原宏監督)
その時にこう書いた。「(勅使河原宏は)華道や映画だけでなく、舞台美術や陶芸など総合的な芸術活動を展開した。戦後日本では破格のスケールの芸術家だったけれど、「前衛」的な芸術運動のプロデューサーという意味でも非常に重要な役割をになっていた。映画監督として、あるいは他の活動についても、全体像の再評価が必要じゃないかと思う。 」今回は2週間だけの映画上映だが、来たるべき生誕100年には本格的な大回顧展を望みたい。また前衛芸術運動のプロデューサーとしての関連分野の研究進展も望まれる。
1960年代の日本映画界では「会社システム」によって多くの娯楽映画が量産されていた。しかし、会社システムの外部で映画を製作し、ベストワンになった映画監督が二人いる。それが「不良少年」(1961)の羽仁進と「砂の女」(1964)の勅使河原宏である。二人とも本人の才能も図抜けているが、「本人よりも親が有名」だった。羽仁五郎・羽仁説子、勅使河原蒼風と言われても、今ではピンと来ないかもしれないが当時は誰でも知っていたビッグネームだ。
(勅使河原蒼風)
勅使河原蒼風(1900~1979)は華道の草月流を一代で築いた人物である。世界に生け花を広め、独自の前衛的作風で知られた。彫刻も多く作っていて、それは「いのちー蒼風の彫刻」(1962)という短編で描かれている。また華道作品や教室の様子は「いけばな」(1956)というカラー短編に残された。この映画は草月流と父親の宣伝映画みたいなものだけど、東京の風景や高度成長直前に華道を学ぶ人々を記録していて非常に興味深い映像だ。
それ以前に「北齊」(1953)を作っている。これは美術評論家・詩人の瀧口修造が製作していたが資金不足で中断したフィルムを勅使河原宏が完成させたという。葛飾北斎の作品をクローズアップして人物を大きくするなど興味深い。キネマ旬報ベストテン文化映画部門で2位になった。その後1955年に「十二人の写真家」を作った。写真雑誌「フォトアート」創刊6年を記念して製作された映画で、題名通り12人の写真家を追っている。木村伊兵衛、三木淳、大竹省二、秋山庄太郎、林忠彦、真継不二夫、早田雄二、濱谷浩、稲村隆正、渡辺義雄、田村茂、土門拳である。
(「十二人の写真家」)
全員は知らないけれど、木村伊兵衛、土門拳、秋山庄太郎、大竹省二らの超有名な写真家の映像が残されている。49分で12人だから、1人4分ほどだから短すぎるけれど、それでも貴重である。三木淳は草月流を撮影していて、宏の妹で後の2代目家元勅使河原霞の若き日の姿が映されている。木村伊兵衛は下町を歩いてスナップを撮りまくる。大竹省二は鵠沼海岸でモデル撮影。林忠彦は武者小路実篤の家を訪ねて写真を撮る。土門拳は家から出て子どもたちを撮る。僕にはカメラ機種は判らないけれど、こんな貴重な歴史的映像が残されていたのかと驚いた。
その後1959年に父親の米国訪問に同行して海外へ行く。当時は映画撮影どころか、海外旅行も普通は出来ない時代だ。それが可能なんだから、やはり恵まれている。その時に今ではホセ・トーレスと表記されるボクサーと知り合い、彼の練習風景を撮影した。それが「ホゼー・トレス」(1959)で、後に「ホゼー・トレスPartⅡ」(1965)も作られた。この人は非常に有名なボクサーということでウィキペディアに経歴が載っている。モノクロのスタイリッシュな映像に、武満徹の素晴らしい音楽が被る。検索すると、武満の音楽をYouTubeで聞くことが出来るが、大変な迫力だ。
(「ホゼー・トレス」)
1958年に赤坂の草月会館を舞台に草月アートセンターが作られた。1950年代末から60年にかけて、日本では各ジャンルで「前衛アート」が花開いた。現代音楽、ジャズ、実験映画、演劇、美術、舞踏など幅広い分野で多くの作品が発表された。海外からの招待者も多かった。僕は時代的に見ていないが、70年代にはまだ草月会館でコンサートなどが行われていて、行ったことはある。それら「前衛」のアーティストはお互いに知り合って影響を与え合ったが、それには草月アートセンターの果たした役割が大きい。勅使河原宏の大きな仕事と言って良い。
その後、60年代は主に安部公房原作の映画を作る。その後映画を離れて陶芸に打ち込んだりしたが、1979年に父が死に、後を継いだ妹の霞が1年で急死したため、1980年に3代目家元を継ぐことになった。本当は大組織のトップは嫌だったかもしれないが、華道を越えた総合芸術をプロデュースした意義は大きいと思う。そんな中で1984年に記録映画「アントニー・ガウディ」を作っている。今では知名度の高いガウディとサグラダ・ファミリア教会だが、その頃はまだ知る人ぞ知る存在だったと思う。1992年のバルセロナ五輪をきっかけに知名度が上昇したと思う。僕は当時この映画を見なかったが、下からあおる映像が迫力。ガウディの他の建築も多く取り上げられ、非常に興味深いアートフィルムだった。
(「アントニー・ガウディ」)
(勅使河原宏監督)
その時にこう書いた。「(勅使河原宏は)華道や映画だけでなく、舞台美術や陶芸など総合的な芸術活動を展開した。戦後日本では破格のスケールの芸術家だったけれど、「前衛」的な芸術運動のプロデューサーという意味でも非常に重要な役割をになっていた。映画監督として、あるいは他の活動についても、全体像の再評価が必要じゃないかと思う。 」今回は2週間だけの映画上映だが、来たるべき生誕100年には本格的な大回顧展を望みたい。また前衛芸術運動のプロデューサーとしての関連分野の研究進展も望まれる。
1960年代の日本映画界では「会社システム」によって多くの娯楽映画が量産されていた。しかし、会社システムの外部で映画を製作し、ベストワンになった映画監督が二人いる。それが「不良少年」(1961)の羽仁進と「砂の女」(1964)の勅使河原宏である。二人とも本人の才能も図抜けているが、「本人よりも親が有名」だった。羽仁五郎・羽仁説子、勅使河原蒼風と言われても、今ではピンと来ないかもしれないが当時は誰でも知っていたビッグネームだ。
(勅使河原蒼風)
勅使河原蒼風(1900~1979)は華道の草月流を一代で築いた人物である。世界に生け花を広め、独自の前衛的作風で知られた。彫刻も多く作っていて、それは「いのちー蒼風の彫刻」(1962)という短編で描かれている。また華道作品や教室の様子は「いけばな」(1956)というカラー短編に残された。この映画は草月流と父親の宣伝映画みたいなものだけど、東京の風景や高度成長直前に華道を学ぶ人々を記録していて非常に興味深い映像だ。
それ以前に「北齊」(1953)を作っている。これは美術評論家・詩人の瀧口修造が製作していたが資金不足で中断したフィルムを勅使河原宏が完成させたという。葛飾北斎の作品をクローズアップして人物を大きくするなど興味深い。キネマ旬報ベストテン文化映画部門で2位になった。その後1955年に「十二人の写真家」を作った。写真雑誌「フォトアート」創刊6年を記念して製作された映画で、題名通り12人の写真家を追っている。木村伊兵衛、三木淳、大竹省二、秋山庄太郎、林忠彦、真継不二夫、早田雄二、濱谷浩、稲村隆正、渡辺義雄、田村茂、土門拳である。
(「十二人の写真家」)
全員は知らないけれど、木村伊兵衛、土門拳、秋山庄太郎、大竹省二らの超有名な写真家の映像が残されている。49分で12人だから、1人4分ほどだから短すぎるけれど、それでも貴重である。三木淳は草月流を撮影していて、宏の妹で後の2代目家元勅使河原霞の若き日の姿が映されている。木村伊兵衛は下町を歩いてスナップを撮りまくる。大竹省二は鵠沼海岸でモデル撮影。林忠彦は武者小路実篤の家を訪ねて写真を撮る。土門拳は家から出て子どもたちを撮る。僕にはカメラ機種は判らないけれど、こんな貴重な歴史的映像が残されていたのかと驚いた。
その後1959年に父親の米国訪問に同行して海外へ行く。当時は映画撮影どころか、海外旅行も普通は出来ない時代だ。それが可能なんだから、やはり恵まれている。その時に今ではホセ・トーレスと表記されるボクサーと知り合い、彼の練習風景を撮影した。それが「ホゼー・トレス」(1959)で、後に「ホゼー・トレスPartⅡ」(1965)も作られた。この人は非常に有名なボクサーということでウィキペディアに経歴が載っている。モノクロのスタイリッシュな映像に、武満徹の素晴らしい音楽が被る。検索すると、武満の音楽をYouTubeで聞くことが出来るが、大変な迫力だ。
(「ホゼー・トレス」)
1958年に赤坂の草月会館を舞台に草月アートセンターが作られた。1950年代末から60年にかけて、日本では各ジャンルで「前衛アート」が花開いた。現代音楽、ジャズ、実験映画、演劇、美術、舞踏など幅広い分野で多くの作品が発表された。海外からの招待者も多かった。僕は時代的に見ていないが、70年代にはまだ草月会館でコンサートなどが行われていて、行ったことはある。それら「前衛」のアーティストはお互いに知り合って影響を与え合ったが、それには草月アートセンターの果たした役割が大きい。勅使河原宏の大きな仕事と言って良い。
その後、60年代は主に安部公房原作の映画を作る。その後映画を離れて陶芸に打ち込んだりしたが、1979年に父が死に、後を継いだ妹の霞が1年で急死したため、1980年に3代目家元を継ぐことになった。本当は大組織のトップは嫌だったかもしれないが、華道を越えた総合芸術をプロデュースした意義は大きいと思う。そんな中で1984年に記録映画「アントニー・ガウディ」を作っている。今では知名度の高いガウディとサグラダ・ファミリア教会だが、その頃はまだ知る人ぞ知る存在だったと思う。1992年のバルセロナ五輪をきっかけに知名度が上昇したと思う。僕は当時この映画を見なかったが、下からあおる映像が迫力。ガウディの他の建築も多く取り上げられ、非常に興味深いアートフィルムだった。
(「アントニー・ガウディ」)