1回目に書いたように、僕の大江読書史において「躓きの石」となったのが「懐かしい年への手紙」(1987)だった。30年以上経ってようやく読んでみたのだが、これは素晴らしい傑作ではないか。しかし、昔頑張って読んでも感銘は少なかったかもしれない。ダンテ「神曲」(それも文語版)やイエーツの引用が多いし、英語のダンテ研究も出て来る。外国語だけでなく一種の「引用の織物」になっていて、そこには自分の作品も含まれる。メキシコ滞在中の話もあれば、自分の家族(と思われる)人物も出て来る。まるで「私小説」のように語られるが、すべてがフィクション。時制も入り組んでいて、過去と現在を自在に行き来する。
(一般的に入手しやすい講談社文芸文庫版)
そういう風にかなり「読みにくい」小説であるのは間違いない。だがそれだけなら頑張って読み切ることも出来るだろう。しかし、この小説の「キモ」は人生をある程度生きてきて、過去を振り返って自分を総括するというテーマにある。「懐かしさ」(ノスタルジー)を基底に置き、ある作家の文学人生(だけでなく結婚生活や性体験までを)、ユーモアたっぷりに振り返る。その悠然たる筆致を味わうには多忙な現役時代は不向きである。そもそもある程度の人生体験を経てないと、しみじみと読める小説ではない気がする。原稿用紙1000枚を超える大長編で、フランス語訳「Lettres aux années de nostalgie」があってノーベル賞の対象になった。
「僕」という小説の語り手は、小説内で「K」とか「Kちゃん」と呼ばれている。久しぶりに村に住む妹(アサ)から電話があり、ギー兄さんの妻であるオセッチャンから相談を受けたという。村に戻ったギー兄さんが何か始めるらしく、そのことで村人と揉めているという。老母もKの子どもたちに会いたがっているので、一度四国の村に帰って欲しい。K一家は四国を目指すが、長男「ヒカリ」は障がいを持っていて空港へ行く途中で具合が悪くなる。松山便を逃してしまうが、下の子どもたちが高知までの便があるから、高知から松山行きのバスに乗って途中下車すれば大丈夫と知恵を出す。まるで実際の大江一家の報告のように小説世界が始まっていく。
(今回読んだ初版単行本)
このギー兄さんというのは、Kの5歳上で村の山林地主に生まれた人物である。そして一生を通じてKの「師匠」(パトロン)でもあった。戦後の貧しい中で、Kはギー兄さんの勉強相手に選ばれ、英語の手ほどきを受ける。その後もずっと文通を続け、作家になった後もいろいろと示唆に富む助言を受けてきた。このKは紛れもなく大江健三郎である。イニシャルや生まれが同じということではなく、「奇妙な仕事」や「死者の奢り」で注目を集め、「セヴンティーン」第2部の「政治少年死す」が右翼の怒りを買って逼塞を余儀なくされるなど現実の作品名が明記されている。ギー兄さんはそういうモロに政治的なテーマよりも、村の歴史や神話をこそ書いて欲しいと望む。そうして取り組んだのが「万延元年のフットボール」なのだった。
ところがある時期から、Kの人生からギー兄さんが消えた。何故かといえば、村で起きたある事件によって、ギー兄さんは刑務所で服役したのである。その事件の詳細はなかなか語られないので、物語はミステリアスなムードをたたえたまま、終盤になって刑期を終えたギー兄さんがKの現実へ再登場するわけである。このギー兄さんは架空の人物とは思えないほど、生き生きとした描写がなされていて忘れがたい。そもそも「万延元年のフットボール」などの作品で「森の隠遁者ギー」という謎めいた神話的イメージの人物が出て来る。これは本名が「義一郎」といって、村を捨てて山で暮らす人物であるとされる。ギー兄さんは出所後に、自分の名前を使ったなと手紙に書いてきたという挿話が出て来る。
物語は三部に分かれていて、一部と三部は現在だが二部で過去が語られる。そこで語られるのは、Kとギー兄さんの知的、文学的、性的な冒険の日々である。東京の大学を出た後に学者への道を断念して村へ帰ったギー兄さんのもとに、東京から二人の女子大生が訪ねて来る。そこで繰り広げられる愛と性の冒険の日々。それがギー兄さんのいたずらで突如終わる。Kは東京で若い作家となり、高校時代の友人秋山の妹「オユーサン」と結婚する。結婚式に出たギー兄さんは長い演説をして彼の行く末を心配する。安保反対運動のただ中で、Kも反対運動の中にいたが作家の訪中団に加わって肝心の時に日本にいない。ギー兄さんは妻のオユーサンが夫に代わってデモに参加し暴力にあうのではないかと心配する。わざわざ上京したのだが、ギー兄さんの方が新劇団に襲いかかる暴力団に殴られて大怪我をしてしまった。
(単行本の裏)
誰も助けてくれない中、その時に必死に介抱して病院へ運んでくれた二人の新劇女優がいた。そしてその一人「繁さん」とは深い仲になって、二人は一緒に村へ戻ってきたのである。そしてギー兄さんは村で新しい農林業を中心にした「根拠地」作りを始め、繁さんも村の文化運動を始めて若者たちと演劇レッスンを行う。「根拠地」は60年代、70年代に全世界でたくさんあったコミューン運動を思わせる。その人間関係の葛藤の中である「事件」が起こり、ギー兄さんは獄囚となったのである。それはどのように起こり、どのような過ちだったのか。我々の世代は何を目指し、何に失敗したのか。痛切な反省とともに、60年代のコミューン主義的な夢が総括される。この痛切な感情が、ノスタルジックな青春の思い出を単なる懐旧的青春譚に終わらせない。
この小説は明らかに「万延元年のフットボール」の自注であり、再説である。だから「万延元年のフットボール」を先に読んでいる必要がある。「万延元年のフットボール」は読んだ後にいくつかの「謎」を残す。一つは異形なスタイルで「自殺」した友人が主人公根所蜜三郎に取り憑いているが、友人の具体像が書かれていないこと。もう一つが弟の鷹四が起こす「事件」を、蜜三郎はむしろ「事故」ではないかと推察するのだが、その真相の解明。その2点の謎は「懐かしい年への手紙」を読めば氷解する。というか、どっちもフィクションなのだから「真相」も何もないわけだが、要するに「万延元年のフットボール」で書かれたことは現実にはこうだったんだとされる。こういう複雑なナラティブは過去の文学作品の中でも珍しいと思う。
全体にノスタルジックなムードが漂うのも大江作品には珍しい。自分の周辺の人物らしき人物を多数登場させながら、壮大なホラ話になっている。描写はユーモラス、今では男目線と言える部分もあるかと思うけれど、若かりし日の性的冒険もあけすけに語られる。しかし一番印象に残るのは「谷間の村」の宇宙観である「永遠の夢の時(ジ・エターナル・ドリーム・タイム)」という感覚である。これを作者は作中で柳田国男を引用して「懐かしい年」と呼ぶ。僕らは何事かを成し遂げたが、また何事をも成し遂げずに世を去って行く。すべては循環する時の中にある。そういう感覚を共有する掛け替えのない友人の痛ましい人生。
僕らは皆掛け替えのない友人や恋人と出会った「懐かしい年」を記憶していると思う。僕もまた何事をなし、何事を失敗したのか、「懐かしい年への手紙」を書きたいと思わせる。そんな心揺さぶられる小説で、大江文学史上一二を争う感動作ではないか。「コミューン」(共同体)への憧れを持った人なら、この優れた作品をじっくり読んで過去を総括して欲しいなと思う。
(一般的に入手しやすい講談社文芸文庫版)
そういう風にかなり「読みにくい」小説であるのは間違いない。だがそれだけなら頑張って読み切ることも出来るだろう。しかし、この小説の「キモ」は人生をある程度生きてきて、過去を振り返って自分を総括するというテーマにある。「懐かしさ」(ノスタルジー)を基底に置き、ある作家の文学人生(だけでなく結婚生活や性体験までを)、ユーモアたっぷりに振り返る。その悠然たる筆致を味わうには多忙な現役時代は不向きである。そもそもある程度の人生体験を経てないと、しみじみと読める小説ではない気がする。原稿用紙1000枚を超える大長編で、フランス語訳「Lettres aux années de nostalgie」があってノーベル賞の対象になった。
「僕」という小説の語り手は、小説内で「K」とか「Kちゃん」と呼ばれている。久しぶりに村に住む妹(アサ)から電話があり、ギー兄さんの妻であるオセッチャンから相談を受けたという。村に戻ったギー兄さんが何か始めるらしく、そのことで村人と揉めているという。老母もKの子どもたちに会いたがっているので、一度四国の村に帰って欲しい。K一家は四国を目指すが、長男「ヒカリ」は障がいを持っていて空港へ行く途中で具合が悪くなる。松山便を逃してしまうが、下の子どもたちが高知までの便があるから、高知から松山行きのバスに乗って途中下車すれば大丈夫と知恵を出す。まるで実際の大江一家の報告のように小説世界が始まっていく。
(今回読んだ初版単行本)
このギー兄さんというのは、Kの5歳上で村の山林地主に生まれた人物である。そして一生を通じてKの「師匠」(パトロン)でもあった。戦後の貧しい中で、Kはギー兄さんの勉強相手に選ばれ、英語の手ほどきを受ける。その後もずっと文通を続け、作家になった後もいろいろと示唆に富む助言を受けてきた。このKは紛れもなく大江健三郎である。イニシャルや生まれが同じということではなく、「奇妙な仕事」や「死者の奢り」で注目を集め、「セヴンティーン」第2部の「政治少年死す」が右翼の怒りを買って逼塞を余儀なくされるなど現実の作品名が明記されている。ギー兄さんはそういうモロに政治的なテーマよりも、村の歴史や神話をこそ書いて欲しいと望む。そうして取り組んだのが「万延元年のフットボール」なのだった。
ところがある時期から、Kの人生からギー兄さんが消えた。何故かといえば、村で起きたある事件によって、ギー兄さんは刑務所で服役したのである。その事件の詳細はなかなか語られないので、物語はミステリアスなムードをたたえたまま、終盤になって刑期を終えたギー兄さんがKの現実へ再登場するわけである。このギー兄さんは架空の人物とは思えないほど、生き生きとした描写がなされていて忘れがたい。そもそも「万延元年のフットボール」などの作品で「森の隠遁者ギー」という謎めいた神話的イメージの人物が出て来る。これは本名が「義一郎」といって、村を捨てて山で暮らす人物であるとされる。ギー兄さんは出所後に、自分の名前を使ったなと手紙に書いてきたという挿話が出て来る。
物語は三部に分かれていて、一部と三部は現在だが二部で過去が語られる。そこで語られるのは、Kとギー兄さんの知的、文学的、性的な冒険の日々である。東京の大学を出た後に学者への道を断念して村へ帰ったギー兄さんのもとに、東京から二人の女子大生が訪ねて来る。そこで繰り広げられる愛と性の冒険の日々。それがギー兄さんのいたずらで突如終わる。Kは東京で若い作家となり、高校時代の友人秋山の妹「オユーサン」と結婚する。結婚式に出たギー兄さんは長い演説をして彼の行く末を心配する。安保反対運動のただ中で、Kも反対運動の中にいたが作家の訪中団に加わって肝心の時に日本にいない。ギー兄さんは妻のオユーサンが夫に代わってデモに参加し暴力にあうのではないかと心配する。わざわざ上京したのだが、ギー兄さんの方が新劇団に襲いかかる暴力団に殴られて大怪我をしてしまった。
(単行本の裏)
誰も助けてくれない中、その時に必死に介抱して病院へ運んでくれた二人の新劇女優がいた。そしてその一人「繁さん」とは深い仲になって、二人は一緒に村へ戻ってきたのである。そしてギー兄さんは村で新しい農林業を中心にした「根拠地」作りを始め、繁さんも村の文化運動を始めて若者たちと演劇レッスンを行う。「根拠地」は60年代、70年代に全世界でたくさんあったコミューン運動を思わせる。その人間関係の葛藤の中である「事件」が起こり、ギー兄さんは獄囚となったのである。それはどのように起こり、どのような過ちだったのか。我々の世代は何を目指し、何に失敗したのか。痛切な反省とともに、60年代のコミューン主義的な夢が総括される。この痛切な感情が、ノスタルジックな青春の思い出を単なる懐旧的青春譚に終わらせない。
この小説は明らかに「万延元年のフットボール」の自注であり、再説である。だから「万延元年のフットボール」を先に読んでいる必要がある。「万延元年のフットボール」は読んだ後にいくつかの「謎」を残す。一つは異形なスタイルで「自殺」した友人が主人公根所蜜三郎に取り憑いているが、友人の具体像が書かれていないこと。もう一つが弟の鷹四が起こす「事件」を、蜜三郎はむしろ「事故」ではないかと推察するのだが、その真相の解明。その2点の謎は「懐かしい年への手紙」を読めば氷解する。というか、どっちもフィクションなのだから「真相」も何もないわけだが、要するに「万延元年のフットボール」で書かれたことは現実にはこうだったんだとされる。こういう複雑なナラティブは過去の文学作品の中でも珍しいと思う。
全体にノスタルジックなムードが漂うのも大江作品には珍しい。自分の周辺の人物らしき人物を多数登場させながら、壮大なホラ話になっている。描写はユーモラス、今では男目線と言える部分もあるかと思うけれど、若かりし日の性的冒険もあけすけに語られる。しかし一番印象に残るのは「谷間の村」の宇宙観である「永遠の夢の時(ジ・エターナル・ドリーム・タイム)」という感覚である。これを作者は作中で柳田国男を引用して「懐かしい年」と呼ぶ。僕らは何事かを成し遂げたが、また何事をも成し遂げずに世を去って行く。すべては循環する時の中にある。そういう感覚を共有する掛け替えのない友人の痛ましい人生。
僕らは皆掛け替えのない友人や恋人と出会った「懐かしい年」を記憶していると思う。僕もまた何事をなし、何事を失敗したのか、「懐かしい年への手紙」を書きたいと思わせる。そんな心揺さぶられる小説で、大江文学史上一二を争う感動作ではないか。「コミューン」(共同体)への憧れを持った人なら、この優れた作品をじっくり読んで過去を総括して欲しいなと思う。