尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

大江健三郎を読まなくなった頃ー大江健三郎を読む①

2021年06月25日 23時32分09秒 | 本 (日本文学)
 ここしばらく大江健三郎(1935~)を何十年ぶりかで読んでいる。というか、実は去年「日常生活の冒険」を再読し、一昨年頃に文庫で「河馬に噛まれる」「いかに木を殺すか」を読んだのだが、そこで途切れてしまったのである。僕は大江健三郎だけでなく、谷崎潤一郎ドストエフスキーなどもずっとずっと読みたいと思い続けてきた。何でかというと、「持っている」からだ。改めて買ったり借りたりする必要はなく、「今、そこにある本」なのである。そういう状態はもう何十年も続いてきた。いっぱいあって読み始めると時間が取られるから後回しにしてきたのである。でも、持っているんだから「読まずに死ねるか!」(by内藤陳)である。
(大江健三郎)
 まず最初に「僕はなぜ大江健三郎を読まないようになったのか」を書いておきたい。最近講談社から「大江健三郎全小説」が出て改めて注目された。また、新潮文庫には初期の短編を中心にずいぶん残っているし、講談社文芸文庫にもずいぶん入っている。だから今もそれなりに読まれているんだろうと思う。まあ世の中には川端康成を知らない人もいるんだから(テレビで見た某芸人は知らなかった)、大江健三郎の名前も知らない人もいるだろうけれど。

 それにしても1994年にはノーベル文学賞を受賞したわけだから、名前ぐらい知ってる人が多いだろう。読書家だったら、少しは読んでいるだろう。でも60年代、70年代には単なる小説家を越えて「政治の季節を熱く生きる」ための必読書だった。時代が違ってしまったから、今読み直すとどのように感じるのだろうか。僕は若い頃に大江作品のほとんどを読んでいた。知的で冒険的でイマジネーションをかき立て、さらに性的な描写に満ちていたのも大きい。若い文学ファンを魅了するアイテムがいっぱいだったのである。大江は21世紀になっても多くの長編小説を送り出した。文学賞は一作家一回という規定が多く、若い頃に多くの賞を取ってしまった大江の後期小説は文学賞を受けることがない。僕もその頃になると、全然読んでいない。でも買っていた
(デビュー当時の大江健三郎)
 何で読まなくなったのか。一番の理由は「仕事が忙しかった」ということだ。大江作品は長くて重いうえに、プロットが入り組んでいて、外国語がそのまま引用されたりして読みにくい。社会科の教員は常に本職に関係する本を読まないといけない。(社会科の全分野に精通している人はいないので、得意じゃないところを教えるときには関連の最新知識をインプットしないと不安なのである。)僕が読まなくなったのは、1987年の「懐かしい年への手紙」からである。その年は中学3年の担任をしていて、本が出た10月は私立高校の説明会が毎日のように行われる。僕は某高校へ向かうバスの中で読んでいて、これは今読んでられないと思った。そして高校のある終点まで寝てしまって、そこで一端読むのを中止したのである。以後は「懐かしい年への手紙」から再開したいと思って他の本は買ったままになった。(本は30年以上枕元に置かれていた。)

 しかし、忙しいだけが理由でもないだろう。それなら長期休業中に読めるはずだから。それは「大江健三郎に代わる作家」が現れたということだ。大江健三郎は東大在学中に芥川賞を受賞し、20代から世界に注目される作家だった。その時点では「青春の文学」だったのである。それが次第に変わっていった。それは当然のことで誰でも年齢を重ねて作風も変わっていく。だけど大江健三郎には特別な事情もあった。よく知られているように大江健三郎は高校時代の友人伊丹十三の妹ゆかりと結婚し、生まれた最初の子どもに障がいがあった。「個人的な体験」以後のほとんどの大江作品には、何らかの形でその体験が語られている。長男の大江光の成長とともに、大江文学は「親としての視点」が多くなり「中年文学」になっていった。20代、30代で子どものいなかった僕には村上春樹の世界の方が近くなったわけである。
(ノーベル賞授賞式に向かう大江健三郎と大江光)
 あまり語る人がいないのだが、大江健三郎と村上春樹の世界には共通点が多いと思う。青春の挫折と痛みを卓抜な奇想で描き出す共同体への憧れと絶望がテーマに見え隠れする、性や犯罪の描写を恐れず小説世界を展開するなどなど。いつも穴に落ち込む村上春樹だが、「万延元年のフットボール」を読めば、穴に落ちた最初の作家は大江健三郎だと判るはず。マジック・リアリズムとかグロテスク・リアリズムなどというのも、今では珍しくない手法になっているが、大江健三郎が日本初と言って良い。しかし、大江文学が「中年化」していくと、いつまでも青春している村上春樹の方が読みやすいから、それでいい気がしてしまう。かくして大江作品の新作は買っておくだけで、村上春樹の新作を延々と読み続けることになったのである。

 ノーベル文学賞を1994年に受けたということは、授賞対象作品はずっと前に書かれているわけである。僕が80年代後半に大江作品を読まなくなったのも、「すでに最高傑作は書かれている」と思ったからだ。それは「同時代ゲーム」(1979)である。これはかなり難しいし、方法的にも技巧を凝らしている。この頃から大江はそれまでにも増して「方法的関心」を強め(1978年に岩波現代選書から「小説の方法」を出している)、山口昌男、武満徹、中村雄二郎らと雑誌「へるめす」を出していた。そこに連載された「M/Tと森のフシギの物語」(1986)まで僕は読み続けたが、これは「同時代ゲーム」の完全なリライトだった。まあ「同時代ゲーム」が難しいと敬遠されたから語り直したらしいのだが、何だかもういいよと思ってしまったわけでもある。

 芸術家が年齢とともに「セルフ・リメイク」が多くなっていくのは避けられないのか。小津安二郎の晩年の映画は、娘(あるいは妹など)が「嫁」に行くことを延々と違う形で描き続け、よほど詳しい人でないとどれがどれだか判らない。画家なら終生のテーマを見つければ、「富士山の画家」「馬の画家」などともてはやされ、似たような絵に高値が付く。世界にそれ一枚しかないから、似ていても価値があるんだろう。作家の場合は印刷されて出回るから、似てると避けられる。(エンタメ作品のシリーズは別で、同じテイストじゃないと売れなくなる。)長く読んできた村上春樹作品も、最近は特に短編などデジャヴ感が強まっている。すでに最高傑作を書いてしまったということなんだろう。大江作品も障がいのある子ども、四国の森の不思議な力、外国文学のお勉強など似た感じが強まってしまったので敬遠したのである。

 大江健三郎は「戦後民主主義者」を自認し、核兵器原発問題に常に発言してきた。護憲平和主義者としての立場も常にはっきりさせてきた。だから保守派、右派には読まずに敬遠する人が多いと思う。一方、方法的に難しくなったから、ニュートラルな本好きでも避ける人がいる。「戦後民主主義」を批判した新左翼にも受けが悪い。政治的立場が同じ人でも直接の運動に関わらない大江文学を読まない人が多い。かつて本多勝一は文藝春秋や新潮社のような「右派出版社」から出し続ける大江を批判していたものだ。これは「純文学」雑誌が、新潮(新潮社)、文學界(文藝春秋)、群像(講談社)、すばる(集英社)、それと季刊になった文藝の(河出書房)しかないのだから、小説家にとってはやむを得ないと思う。(昔は中央公論社の「海」や福武書店の「海燕」があったものだが。)性や犯罪の描写も激しいから、それで読みたくない人も多いだろう。

 かくして今や「有名だけど読まれてない」作家になっているのではないか。それはある意味石原慎太郎も同じかもしれないが。僕は今回、大江健三郎を読み直す前に開高健石原慎太郎を読んでみた。文学的現在地の感覚を昔に戻すために。60年代初期にはこの3人が最新の文学だった。その後立場は別れていくが、当時持っていた意味を思い出すことも意味があると思う。同時に石原慎太郎ばかりでなく、大江健三郎もジェンダーやセクシャル・マイノリティ、病気や障がいの語り方などを検討する必要がある。半世紀以上経つと、我々の認識もそれなりに深まり変化してきているのだから。読み始めると長くなって、今後時々書き続けるつもり。今度は途中で挫折せずに読み切るのを目指している。
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