尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

ロベール・ブレッソン監督「田舎司祭の日記」(1950)初公開

2021年06月21日 22時25分21秒 |  〃  (旧作外国映画)
 フランスの映画監督ロベール・ブレッソン監督(1901~1999)の「田舎司祭の日記」(1950)が公開されている。なんと初公開である。ロベール・ブレッソンは映画史上の巨匠と認められているが、まだ未公開作品が幾つか残っている。あまり大衆受けしない映画ばかり作った監督で、スターは使わず素人を俳優に使ったことで知られる。音楽も使わず、ただ対象を凝視するような映像が続く。自分では「映画」と呼ばず「シネマトグラフ」と呼んでいたという。

 「田舎司祭の日記」(Journal d'un curé de campagne)はフランスの小説家ジュルジュ・ベルナノス(1888~1948)の1936年の小説の映画化である。この本の名前だけは、昔の新潮文庫に入っていたので知っている。文庫には「古典」だけが入っていた時代のことである。ブレッソンが映画化した「少女ムシェット」やモーリス・ピアラ監督が映画化した「悪魔の陽のもとに」の原作者でもある。カトリック作家として知られているが、若い頃は右翼団体アクション・フランセーズの活動家だったり、フランスを去ってブラジルで農場を経営したり、なかなか興味深い人生を送っている。

 「田舎司祭の日記」はブレッソンの長編第3作で、監督のスタイルが確立された映画と言われる。僕は昔第2作の「ブーローニュの森の貴婦人たち」を英語字幕で見たことがある。何だか全然判らなかった気がするが、なかなか独自の映画ではあった。それでもまだ映画音楽があったが、「田舎司祭の日記」では効果音しか使われていない。フランスの有力な映画賞ルイ・デリュック賞を受けた。主演したクロード・レデュは素人だったが、その後テレビの人形劇などで活躍した。

 映画は若い司祭が北フランスの寒村に赴任したところから始まる。司祭は初めての赴任で、さらに病気を抱えている。胃が不調続きで、肉や野菜を食べられずにパンとワインしか取らない。本当に何もないような村で村人も新人を温かく迎えるゆとりがない。自転車で村を回って人々の悩みに応えようとするが、なかなかうまく行かない。日々の思いや悩みを日記に書き付けたのが原作ということになる。それでは映画にならないから、ナレーションを多用しながら、主人公の司祭をずっと追い続ける。他の映画と同じく、ドキュメント的な作り方になっている。

 悩み多き司祭の楽しみは、子どもたち相手の教理問答。しかし、一番しっかりと教理を理解しているセラフィータは司祭に懐かない。村には領主がいて、広い屋敷に住んでいる。子どものためのフットボールチームを作ろうと領主を訪れると、悲しみにくれる夫人がいる。領主のもとには息子と娘がいたが、息子は事故で死んだという。それ以来夫人は神を信じない。夫は家庭教師と不貞しているらしく、娘は寄宿舎に送られると司祭に訴える。一族の悩み多き生活にどう対応するべきか。神を畏れぬ夫人に神の愛を説くのだが…。

 領主一族の問題に関わる内に、村人は彼を非難し司祭の病気は重くなる。その様子がドラマティックに描くけれど、基本的にキリスト教の神をどう理解するかというのがテーマである。だから登場人物にとってドラマなんだなとは理解出来るけれど、遠い感じもする。子どもが亡くなったという悲劇に立ち向かうのに、「神の愛」で納得できるのか。神など存在しないという方が納得できちゃうだろう。そういう風にテーマが日本人には遠いということが、ミニシアター・ブームの中でも公開されなかったんだろう。しかし、今見てもモノクロの力強い映像が印象的で、映画史的な意味でも、キリスト教文化理解の意味でも、重要な映画だと思う。
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