尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「洪水はわが魂に及び」、終末論と自閉症の世界ー大江健三郎を読む④

2021年06月29日 23時45分42秒 | 本 (日本文学)
 大江健三郎シリーズは今回で一端中断。大長編は読むのに一週間近く掛かり、今月はほとんど大江作品を読んでいた。また作品が溜まったら書きたい。三作目は「洪水はわが魂に及び」で、1973年9月に上下2巻の新潮社「純文学書下ろし特別作品」として刊行された。これは僕が初めて同時代に読んだ(つまり単行本で読んだ)作品で、非常に大きな感銘を受けた記憶がある。その年の野間文芸賞受賞。もっとも僕が持ってる本は、上巻は初版だが下巻は1974年4月30日付の第7版である。半年で非常に売れている。上巻は820円、下巻は930円で、これはこの間の「狂乱物価」を反映していると思う。刊行当時は高校3年生で、お金のためか受験のためか、上巻しか買わなかったらしい。74年は浪人中だが、下巻を買ってるんだからその年に読んだのだろう。
(単行本上巻)
 東京の外れに核兵器のシェルターを改造したトーチカのような建物があり、そこに自閉症の子どもと閉じ籠もって暮らす男がいる。かつて保守党有力者の秘書をしていて、その娘(直日)と結婚した。障がい児が生まれたことから結婚生活が破綻し、男は名前も「大木勇魚」(おおき・いさな)と変えて「樹木の魂」「鯨の魂」の代理人を称している。樹木や鯨の魂と交信し、息子「ジン」ともテレパシーで通じている。ジンは鳥の鳴き声を集めたテープを聞いて聞き分けることが出来る。テープから音が出ると「アカショウビンですよ」「センダイムシクイですよ」などと答える。これは大江光をモデルしているということだが、読んだときに非常に強い印象を受けた。僕はそのジンの声が今もずっと耳奥に残り続けている。

 その近くにつぶれた映画撮影所があり、一角に少年らのグループが住み着いている。勇魚はそのグループが建物に現れたことから関係を持つようになる。当初は敵対的なムードだったが、やがて「言葉の専門家」として遇される。彼らは「自由航海団」と名乗り、首都圏大地震などで近く終末を迎えるだろう世界から船で逃げだそうとしている。若い「ボオイ」は男に敵対心を持つが、女性メンバーの伊奈子はジンと心を通わせる。リーダーの喬木(たかき)は冷静だが、武器に堪能な多麻吉は攻撃的である。カメラマンだった「縮む男」は、不思議なことにどんどん体が小さくなっているという。勇魚は彼らとともに世界について議論し、英語を教えるようになる。そして武器訓練キャンプ地を探していた彼らに、妻を通じて南伊豆の別荘予定地を紹介する。
(単行本下巻)
 そこでは伊奈子がオルグした自衛隊員が武器の訓練を行う。勇魚とジンも同行するが、ジンが水痘にかかって伊奈子は看病に付き添う。その間に「縮む男」が秘かに訓練の写真を撮って週刊誌に売り込んだことが発覚した。メンバーは「縮む男」の裁判を行い、有罪を認める「縮む男」に暴行を加えて殺害する。自衛隊員はそれを受けて逃亡し、伊東付近の漁港で自殺する。警察が動き出し、撮影所跡に残った「ボオイ」はブルドーザーで抗戦するが死ぬ。残りのメンバーは勇魚の家に籠城する。ジンの病気が治って勇魚と伊奈子が東京に戻った時には、もはや機動隊との衝突が避けられなくなっている。ジンを避難させるために伊奈子や喬木は投降するが、銃の得意な多麻吉と勇魚は残る。そこに機動隊は大きなクレーン車で大玉をぶつけて家を破壊し始める。

 これは誰が見ても、1972年2月に起きた「あさま山荘事件」と山岳ベースで起こった「リンチ殺人事件」を思い出させる。しかし、「大江健三郎全小説」第7巻の尾崎真理子解説によると、1971年に発表された創作ノートにすでに同様の構想が書かれていたという。作家の想像力が現実を予見してしまったのである。現実に同じような事件が起こったため、作者はグループから政治性を抜き去ったという。その結果、この「自由航海団」というアナキスト的な一団が当時としては理解が難しくなったと思う。機動隊員が一時「捕虜」になるシーンでは、「こんなことで革命が出来るか」と詰め寄る機動隊員に、彼らは「だから革命はしないんだよ」と何度も答える。マイノリティである彼らは、カタストロフィが訪れたときには自分たちが迫害されると信じている。だから自分たちも武装して自衛する必要がある。これは20年後のオウム真理教事件を先取りしていた。
(司修による単行本表紙)
 この小説には全体に「終末論的世界観」が満ちている。そもそも題名の「洪水はわが魂に及び」とは文語訳旧約聖書から取られていて、要するにノアの方舟の大洪水が自分の胸元まで及んできたということだ。その意味では東日本大震災の大津波が福島第一原発に及んだことも想起させる。大江健三郎が原発反対運動に参加しているのも当然だろう。この小説が刊行された直後の、1973年10月に第四次中東戦争が起こり、アラブ産油国が「石油戦略」を発動し世界中で「石油危機」(オイル・ショック)が起こった。日本で続いていた高度経済成長は終わりを告げ、1974年の経済成長率は戦後初めてマイナス成長となった。1973年3月に発売された小松左京日本沈没」がベストセラーになり、1973年6月には筑摩書房から「終末から」が創刊され(1974年廃刊)、野坂昭如は「マリリン・モンロー・ノー・リターン」で「この世はもうすぐおしまいだ」と歌っていた。

 まさにそのような時代相が小説に反映されている。しかし「再生可能エネルギー」「持続可能な開発目標」(SDGs=「Sustainable Development Goals」)などと言われる現在から見ると、安易に「世界が滅びる」といっていた時代がロマン主義に思える。世界は大きく変わったが、「終末」は迎えず、石油は枯渇せず、鯨は滅びなかった。当然だろうと今は思える。鯨ではなく本当に滅亡したのはニホンカワウソだった。1979年が最後の目撃例だと言うから、大木勇魚には鯨よりニホンカワウソの魂と交信して欲しかった。あるいは日本のトキは滅亡し、中国から借りたトキを繁殖させている。それは戦後の偽善を象徴すると考えて、佐渡のトキ保護センターを襲撃した少年を描く阿部和重ニッポニア・ニッポン」という小説もある。襲撃後に少年がクイーンの「ボヘミアン・ラプソディ」を聞くシーンが忘れられない。つまり「終末論」的な世界観と機動隊との衝突という小説の基本構造はちょっと古くなっているかなと思った。
(文庫版「洪水はわが魂に及び」)
 他の大長編がかなり入り組んだ難解な構造を持っているのに対し、この小説はかなり判りやすい。時間は一方向に流れるし、勇魚とジン、自由航海団それぞれを描きわけ、やがてそれが合体し、ラストのカタストロフィに至るという構成である。その分、時代的な制約を受けやすいとも言える。やはり「左翼過激派」時代に生まれた小説という感じもする。だがこの小説の真の主人公はジンだという読み方も可能だろう。ジンの世界から見れば、また読みが変わってくる。映画「レインマン」の前に、自閉症の世界の豊かさを世界に示したのは大江健三郎と大江光だ。そのことは特筆大書すべきだし、この本を読んだ人なら鳥の鳴き声を当てられるジンを永遠に思い出すだろう。(もっとも伊奈子のセリフとして「ジンはいい白痴だねえ」とあるように、時代の制約は大きいが。)

 ところで、この小説を読み直して一番驚いたのは、小説の舞台が世田谷区だったことだ。そんな核シェルターが都内にあって、機動隊と大衝突事件が起きたとは。まあ半世紀前には東京の周辺区にはまだまだ農地が多かった。童謡「春の小川」は渋谷区だったという時代ほどではないけれど、50年経つとずいぶん変わる。映画の撮影所跡地というのは、日露戦争で当てたとあるから倒産した新東宝かと思う。大江が住む世田谷区成城に近い砧(きぬた)には東宝のスタジオがあり、新東宝の撮影所も近くにあった。また国分寺崖線と呼ばれる崖と湧水が続く地帯がある。世田谷区西部にはそういう地帯が続いていて、そこが舞台となったのである。東京でない感じがしてしまうが、まさに70年代東京の外れの方を描いているのである。(なお、保守政治家とつながる妻、縮む男、スパゲッティをゆでる主人公など、村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』との関わりが強いと感じた。)
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