台湾に高妍(ガオ・イェン Gao Yan、1996~)という若い女性漫画家、イラストレーターがいる。『隙間』(すきま)という長編漫画(4月現在3巻までKADOKAWAより刊行)が評判なので読んでみたけど、これは今までに誰も書いたことがない心の叫びで、ものすごく心に響いた。何を書いたら良いかすぐに答えが見つからないほど、「重い」とも言える漫画だけど、とりあえず台北や那覇の町並み、風景などを見事に描いた絵を楽しむためだけにでも買うべきだ。自然に「台湾現代史」を知ることになる。
高妍は「内向的」な少女時代に日本文化に触れた経験を描く『緑の歌』という漫画があり(未読)、それが細野晴臣らの目に止まったことから、村上春樹のエッセイ『猫を棄てる』の表紙、挿画を担当した。そう言えばそんなことがあったかなと思うけど、もう覚えていない。(読んでるから見たはずだが。)そして、2025年2月に『四月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて』と『鏡』という村上春樹の短編に挿画を付けた本が新潮社から刊行された。もっとも、この本で描かれた原作のイメージは僕の思い描くイメージとは微妙に違うんだけど、まあそれはまた別の話なので最後に書きたい。
台北に住む楊洋(ヤン・ヤン)は両親がなく祖母に育てられた。そして祖母も病気になりやがて亡くなるが、祖母の姿はその後も彼女の心に生きている。彼女はその恵まれない暮らしから、学校時代はいじめ、無視の対象となり、不登校気味だった。絵が得意な彼女は美術系大学に進み、沖縄県立芸術大学へ短期留学出来ることになる。一方、台湾の大学でたまたま「台湾人権課題」の講義を取り、今までの学校教育では知らなかった社会問題に関心を持つようになる。(この講座の絵では背景の黒板に「自由 民主 平等 同性婚 死刑制度」と書かれている。そこから楊はデモや集会にも参加するようになる。
台湾の若い世代にとって、デモや集会が身近であることが理解出来る。そして二二八事件や鄭南榕(てい・なんよう)のことを知っていくのだが、僕も第2巻に出てくる鄭南榕(1947~1989)のことは知らず、その衝撃的な生き方に驚かされた。国民党独裁と中国政府の圧迫に対し、自ら闘って自由と民主主義を勝ち取ってきたという熱い思いが台湾の若い世代にあることが理解出来る。日本だって60年代には多くの若者がデモをしたわけだが、その時の体験が現在に受け継がれているとは言えない。台湾だって年長世代には理解されない面もあるようだが、こういう若い世代の社会運動が日本のすぐそばに存在するのである。(韓国も同様。)
ところで楊はその運動でリーダーで、彼女を導いてくれた「J」に憧れを抱くようになってしまう。しかし、彼には交際している人がいるようだと知る(今はSNSなどで判明することがある)。それでも運動に参加しながら、思いを伝えきれない苦しさに悩む。そのような「片思い」の物語でもあるが、そういう辛い思いを抱えながら、彼女は沖縄に留学して新しい人間関係が始まる。それは果たしてなじめるものだろうか。大学の留学生担当者が楊に台湾と中国の留学生を紹介するが、楊は「台湾は中国の領土だ」と言う中国青年に、「学校で教えられたことを信じてるのか」「六四を知ってるのか、検索してみて」と言ってしまい後悔する。
その頃、台湾では「同性婚」が大きな問題になっていた。最高裁は同性婚禁止規定を違憲と判断したが、民法で同性婚を認めるかどうか国民投票が行われることになった。楊は沖縄にいて運動に参加出来ないことにもどかしさを感じて悩む。しかし、ひょんなことから同じ住居(マンション)に住む女性と思いがけない「国民投票」を実施することになる。(ここはとても感動的。)そして、中国と台湾の関係と同じような問題が、「日本と琉球」にも存在することに気付いていく。今まで「不登校」「いじめ」などの物語はあったし、台湾現代史、沖縄現代史に関する本も多い。だけど、それらの「隙間」で悩む等身大の悩みが描かれたことがあるだろうか。
第3巻では「沖縄芸大」の文化祭がやってくる。楊が「ロッキー・ホラー・ショー」の扮装で盛り上がる上映会があると話したことから、上映は無理だけど扮装してカフェをやることになった。そんなこんなの日々も、次第に一年限りの留学の期限が近づいてくる。3巻はその辺りで終わるけど、「台湾にも沖縄にも居場所を見つけられない彼女」はこの後どのような歩みをしていくのか目が離せない。ただ台湾現代史のつらく厳しい道のりを一人の誠実で内向的な少女がどう受けとめて生きていくか。その「重さ」は正直に言えば僕には完全には理解出来ないかもしれない。沖縄の問題、性的マイノリティの問題…、そして沖縄の海…。
一つ一つの歴史や政治的見解に必ずしも僕は全面的に同調するものではない。例えば「琉球独立」に賛同する人が出て来るが、その問題は「台湾独立」と同等の意味を持つとは思っていない。まあ、それはそれとして、若い人にも高齢の人にも、性別を問わず読んで(見て)欲しい本。学校図書館に置いて欲しい。(漫画だからダメと言う学校は今はないだろう。)
村上春樹の『四月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて』は1981年に発表された短編で、『カンガルー日和』に収録されている。まだ『羊をめぐる冒険』(1982)以前で、僕も偉大な長編作家とは思わず「都会風のシャレた物語を書いてる若い作家」みたいに思って、まだ若かった僕は大いに楽しんで読んだ記憶がある。今この題名を見ると、何だか「ルッキズム」かなと思うかもしれないが、そうではない。男も冴えない方で、そんな彼がある春の朝にすごい美人というのではなく「自分には100%合うんじゃないか」という女性とすれ違う。けど、声も掛けられないという話である。しかし、主人公がメガネを掛けている絵は僕のイメージと違う。(自分はずっと裸眼で、主人公はつまり「自分自身」として読む物語なので。)
高妍も共感して描いたんだろうが、何と彼女は小学校6年生の時に担任の先生が授業で配ったので初めて知ったという。そんな先生は今の日本でいるんだろうか。なかなか難しいんじゃないだろうか。(この小説だからということではなく、教科書にない教材を教師が配布して授業するということが、「授業計画」などで縛りがきつくなっているんじゃないだろうか。)
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