日産のカルロス・ゴーン元会長が特別背任の罪で起訴された一件は、諸外国のメディアでは、事件そのものよりも日本国の司法制度の‘特異性’に焦点を当てた報道が目立つそうです。拘留期間が長期に亘り、弁護士の隣席なき取り調べを認める日本国の司法制度は、さながら中世の如くに非人道的ですらあると…。
日本国内でもこうした批判に同調し、日本国の司法制度は遅れており、グローバル・スタンダードに合わせるべく早期に改革すべきとの声も聞かれます。しかしながら、グローバル・スタンダードは、必ずしも‘最善’とは限らないという問題があります。多数決が常に正しく‘最善’とは限らないように。
拘留期間の長さにつきましては、日本国の司法制度では、検察官が有罪を凡そ100%確信した事件しか起訴しないという特徴があります。拘留期間が長期に及ぶのも、検察側が有罪を立証できる証拠を殆ど固めていることによります。一方、アメリカやフランスなどの諸国では、有罪の可能性が高い時点で起訴に踏み切りますので、その分、容疑者に対する待遇は緩くなります。米欧諸国の制度をグローバル・スタンダードと見なすとしますと、日本の検察は、起訴の判断基準を緩和する、即ち、疑わしい段階で積極的に容疑者を起訴することとなりますが、果たして、両者どちらの方法が‘最善’なのでしょうか。
特にゴーン事件は、いわば‘グローバル犯罪’とでも称すべき国境を越えた国際事件です。容疑者本人の国籍だけでもフランス、レバノン、並びにブラジルの3ヶ国に及び、かつ、日産本社の所在地である日本国のみならず、ルノー本社のあるフランス、連合の統括機関が置かれているオランダなどの複数の諸国が‘事件の現場’でもあるのです。さらに個人的な人脈を加えれば、遠くサウジアラビア等にまで捜査対象が広がります。かくも複雑を極めるこの事件の全貌を解明するためには、検察側が、取り調べのために容疑者の長期拘留を求めるのも理解に難くありません。否、早期に釈放しますと、ゴーン容疑者がこれらのルートを巧みに利用して、逃亡や証拠隠滅等の行動をとらないとも限らないのです。
また、取り調べに際しての弁護士の隣席につきましても、グローバル・スタンダードが優れているとは言い切れない側面があります。その理由は、司法の役割とは、まずは事実を正確に確認し、明かされた事実に基づいて法律を厳正に適用することにありますので、本人自身の供述こそ、最も事実に近い可能性が高いからです。つまり、容疑者の供述に法廷戦術上の何らかの加工や修正が加わりますと、事実そのものからは遠のくリスクが高まります。批判者の視点からしますと、密室での検察官による取り調べは自白を強要されるとして冤罪リスクなのでしょうが、事実重視の観点からは、弁護士の隣席=最善という等式も怪しいのです。
もちろん、‘政治犯’を生み出す中国等の司法制度は、普遍的な価値に照らしてグローバル・スタンダードの観点から厳しい批判を受けても当然ですが、訴訟手続きの細かな部分の違いは、国や地域によって違いがあっても目くじらを立てる必要はないように思えます。特に、刑事事件では、被害者が存在しますので、加害者側の人権尊重が行き過ぎますと、被害者側の権利を損ねると共に、犯罪者擁護となって治安悪化の促進要因となる危険もあります。本記事では、‘最善’を問うていますが、統治の役割が古来‘善’の実現である点を考慮しますと、今日の所謂‘グローバル・スタンダード’は、死刑制度の廃止を含めて、時にして‘悪’となる加害者側の権利尊重に傾いているとも言えるのです。冤罪が横行していた時代にはその必要もあったのでしょうが、先端技術を用いた捜査や証拠集めが可能な現代では、むしろ、加害者に偏った諸制度や手法を被害者寄りに是正すべきなのかもしれません。
このように考えますと、今日の司法制度におけるグローバル・スタンダードは、どちらかと言えば加害者側の立場に寄っており、日本国の司法制度は、逆に、被害者側の立場に立脚していると言えましょう。日本国の司法制度にも改善点は多々あるのですが、前者に劣っているわけではなく、況してや善悪の倫理基準からしますと、善に近い位置にさえあります。制度を改善するに当たっては、グローバル・スタンダードの問題点も熟知するべきですし、制度設計に際しては、究極的な目的である‘善の実現’―利己的他害性の排除―こそ、グローバル・スタンダードをも超える普遍的な人類共通のスタンダードとすべきではないかと思うのです。
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日本国内でもこうした批判に同調し、日本国の司法制度は遅れており、グローバル・スタンダードに合わせるべく早期に改革すべきとの声も聞かれます。しかしながら、グローバル・スタンダードは、必ずしも‘最善’とは限らないという問題があります。多数決が常に正しく‘最善’とは限らないように。
拘留期間の長さにつきましては、日本国の司法制度では、検察官が有罪を凡そ100%確信した事件しか起訴しないという特徴があります。拘留期間が長期に及ぶのも、検察側が有罪を立証できる証拠を殆ど固めていることによります。一方、アメリカやフランスなどの諸国では、有罪の可能性が高い時点で起訴に踏み切りますので、その分、容疑者に対する待遇は緩くなります。米欧諸国の制度をグローバル・スタンダードと見なすとしますと、日本の検察は、起訴の判断基準を緩和する、即ち、疑わしい段階で積極的に容疑者を起訴することとなりますが、果たして、両者どちらの方法が‘最善’なのでしょうか。
特にゴーン事件は、いわば‘グローバル犯罪’とでも称すべき国境を越えた国際事件です。容疑者本人の国籍だけでもフランス、レバノン、並びにブラジルの3ヶ国に及び、かつ、日産本社の所在地である日本国のみならず、ルノー本社のあるフランス、連合の統括機関が置かれているオランダなどの複数の諸国が‘事件の現場’でもあるのです。さらに個人的な人脈を加えれば、遠くサウジアラビア等にまで捜査対象が広がります。かくも複雑を極めるこの事件の全貌を解明するためには、検察側が、取り調べのために容疑者の長期拘留を求めるのも理解に難くありません。否、早期に釈放しますと、ゴーン容疑者がこれらのルートを巧みに利用して、逃亡や証拠隠滅等の行動をとらないとも限らないのです。
また、取り調べに際しての弁護士の隣席につきましても、グローバル・スタンダードが優れているとは言い切れない側面があります。その理由は、司法の役割とは、まずは事実を正確に確認し、明かされた事実に基づいて法律を厳正に適用することにありますので、本人自身の供述こそ、最も事実に近い可能性が高いからです。つまり、容疑者の供述に法廷戦術上の何らかの加工や修正が加わりますと、事実そのものからは遠のくリスクが高まります。批判者の視点からしますと、密室での検察官による取り調べは自白を強要されるとして冤罪リスクなのでしょうが、事実重視の観点からは、弁護士の隣席=最善という等式も怪しいのです。
もちろん、‘政治犯’を生み出す中国等の司法制度は、普遍的な価値に照らしてグローバル・スタンダードの観点から厳しい批判を受けても当然ですが、訴訟手続きの細かな部分の違いは、国や地域によって違いがあっても目くじらを立てる必要はないように思えます。特に、刑事事件では、被害者が存在しますので、加害者側の人権尊重が行き過ぎますと、被害者側の権利を損ねると共に、犯罪者擁護となって治安悪化の促進要因となる危険もあります。本記事では、‘最善’を問うていますが、統治の役割が古来‘善’の実現である点を考慮しますと、今日の所謂‘グローバル・スタンダード’は、死刑制度の廃止を含めて、時にして‘悪’となる加害者側の権利尊重に傾いているとも言えるのです。冤罪が横行していた時代にはその必要もあったのでしょうが、先端技術を用いた捜査や証拠集めが可能な現代では、むしろ、加害者に偏った諸制度や手法を被害者寄りに是正すべきなのかもしれません。
このように考えますと、今日の司法制度におけるグローバル・スタンダードは、どちらかと言えば加害者側の立場に寄っており、日本国の司法制度は、逆に、被害者側の立場に立脚していると言えましょう。日本国の司法制度にも改善点は多々あるのですが、前者に劣っているわけではなく、況してや善悪の倫理基準からしますと、善に近い位置にさえあります。制度を改善するに当たっては、グローバル・スタンダードの問題点も熟知するべきですし、制度設計に際しては、究極的な目的である‘善の実現’―利己的他害性の排除―こそ、グローバル・スタンダードをも超える普遍的な人類共通のスタンダードとすべきではないかと思うのです。
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