万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

ゴーン事件から見る二つの‘家族主義’

2019年01月12日 13時08分33秒 | 国際政治
日本企業の組織体質は、しばしば‘家族主義’として、個人主義を原則とする諸外国から批判を浴びてきました。日本では、あたかも会社を一つ屋根の下の家族とみなし、社員を親兄弟の如くに扱うとして…。

海外企業、あるいは、日本株を有する海外株主の視点からしますと、情けが働く日本式の‘家族主義’は、リストラの壁になるのみならず、組織的閉鎖性や年功序列方式の温床となります。能力主義を是とするグローバリズムにも反しますので、日本企業は、組織体質の改革を求める外圧を常に受け続けてきたのです。しかしながら、グローバル経済の実態を観察しますと、この世界にも、日本式とは別種の‘家族主義’が蔓延っているように思えます。

その象徴とも言えるのが、カルロス・ゴーン容疑者のケースです。報じられている同容疑者の罪状には、親族の関与が見られます。ゴーン容疑者の姉は業務実態が存在しないにもかかわらず、2002年から毎年、10万ドル前後の給与等が支払われており、累計すれば170万ドル、即ち、日本円にして一億円近くに上るそうです。この事件を以って、グローバリストの真の姿に多くの人々が驚愕させられたのですが、こうした自らの血縁者に対して特別の待遇や地位を与える組織体質は、‘血縁家族主義’と名付けることができるかもしれません。

一方、日本式の‘家族主義’は、本来血縁関係にない人々を組織の枠を以って家族と見なすという意味で‘模擬家族主義’と表現されましょう。しかも、日本式の‘模擬家族主義’には、自らの真の血縁家族に対しては案外厳しいという特徴もあります。むしろ公私のけじめとして、自身の血縁家族と勤め先の企業との間には一線を引く傾向にあり、日本人社長であれば、ゴーン容疑者の如く、自らの姉に不正支出を行うようなルートを設けることはあり得なかったことでしょう。

日本国内では、グローバリズムが掲げる理想を信じ、グローバリストとは、能力主義を尊重する極めてクールで合理的な人々とするイメージが染みついてきました。人種、民族、国籍、宗教等の違いに関わらず、全ての人々に対して平等、かつ、公平にチャンスを与える開放的で無差別なイメージは、多くの人々を魅了してきたのです。こうした先進的なグローバル企業と較べられた日本企業は、ドメスティックであか抜けず、時代遅れのレッテルさえ貼られてきたのです。しかしながら、平等を掲げた共産主義が究極の序列・格差社会に至り、地上の楽園を謳った北朝鮮がこの世の地獄であったように、グローバリズムもまた、理想と現実は逆さとなる可能性もないわけではありません。

上述した二つの家族主義を比べてみても、必ずしも‘模擬家族主義’の方が悪い、あるいは、劣っているとは言い切れないように思えます。‘模擬家族主義’には確かに欠点もありますが、他者を愛情を以って家族の如くに扱うという態度はヒューマニズムに適っていますし、働く場に温かみがあります。一方、‘血縁家族主義’では、自らの血族だけは特別扱いをする一方で、経営の全てを効率性と合理性で割り切り、社員であっても所詮は他人となり、情け容赦のない冷淡な組織となりましょう。つまり、宣伝されたイメージとは違い、グローバリズムの現実とは、1%とも称される閉鎖的な金融財閥や企業幹部とその血族が特権を享受する一方で、他の一般の人々を差別する世界であるかもしれないのです(もっとも、少数の自らへの奉仕者や信奉者だけは優遇するかもしれない…)。

フランスのみならずアメリカでも、特に日本国の検察や司法制度を批判する論調が強く(犯罪性を隠し、論点をずらしているにも見える…)、『不思議の国のアリス(Alice in Wonderland)』に擬えて、ゴーン容疑者を奇妙な国、日本に迷い込んでしまった無邪気な少女に喩えて報じられているようです。しかしながら、ゴーン容疑者が棲んでいた世界こそ、‘不思議の国’、否、‘闇の国(Underland)’であり、事件の発覚を機に突然に闇の国の世界を垣間見ることになってしまった一般の日本人こそ、奇妙な出来事の連続に目を丸めるアリスであるのかもしれないのです。

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コメント (3)
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