憲法第9条については改憲問題の核心にありながら、この条文をめぐる様々な問題点が取り上げられ、議論が十分に尽くされてきたとは言えない状況にあります。今般の自民党の改正案についても、自衛隊の合憲性が明記される点が強調されつつも、根本的な問題には踏み込んではいないように思われます。
当初発表さえた自民党案での第9条の改正条文は、2項を削除した上で1項に2を設け、「…前項の規定は、自衛権の発動を妨げるものではない。」と明記した上で、2項(二)として‘国防軍’に関する項を新設するというものでした。つまり、自衛隊の名称は‘国防軍’に変更されており、‘軍’の一文字を以って軍隊であることを明確にしているのです(さらに3項を設け、国の役割として領土等の保全を定めている…)。
一方、今般の自民党の改正案では、2項の条文がそのまま維持された上で、…
「前条の規定は、我が国の平和と独立を守り、国及び国民の安全を保つために必要な自衛の措置をとることを妨げず、そのための実力組織として、法律の定めるところにより、内閣の首長たる内閣総理大臣を最高の指揮監督者とする自衛隊を保持する。
2 自衛隊の行動は、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する。」
…とする9条の2が‘加憲’されています。この案では、自衛隊の名称がそのまま使われており、当初案より軍隊としての性格が薄められているのです。ところが、軍隊を持たない国は、ローマ教皇を元首とする宗教国家であるバチカン市国を除いて存在していません。しばしば軍隊の放棄を謳ったコスタリカ憲法が引き合いに出されますが、放棄しているのは常備軍のみであり、全米相互援助条約や攻防の目的のためには、軍隊を組織することが可能なのです(コスタリカ憲法第12条)。
護憲派は、加憲案は日本国憲法上の原則禁止の例外規定を設けるようなものであり、自衛隊が実質的には制約なき軍隊と化すとして反対しておりますが、この主張こそ、戦後、日本国が置かれてきた国際社会における異常な地位を物語っております。何故ならば、軍隊不保持という憲法上の原則こそ、国際社会においては例外中の‘例外’であり、護憲派による加憲案の解釈に従えば、国際社会の原則が日本国憲法にあっては‘例外’であるからです。つまり、日本国と国際社会では軍隊に対する原則が真逆であり、第9条こそ、日本国の倒錯した軍隊意識を象徴しているのです。
来るべき憲法改正では、日本国憲法を国際社会の原則に合わせるべきところが、自民党案ではこの捩じれを解消しておらず、このため、護憲派の回りくどい主張が示唆するように、同問題に起因する‘神学論争’は延々と続くことになりましょう。本来、‘自衛隊’という名称の適切さこそ最初に問われるべきであり、防衛軍であれ、日本軍であれ、軍隊という国際社会における当然の表記を憚る心情にこそ、戦後の政界に蔓延った正面から問題と対峙ようとしない‘事なかれ主義’、あるいは、’ダチョウの平和’的な思考停止が垣間見られるように思えるのです。
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当初発表さえた自民党案での第9条の改正条文は、2項を削除した上で1項に2を設け、「…前項の規定は、自衛権の発動を妨げるものではない。」と明記した上で、2項(二)として‘国防軍’に関する項を新設するというものでした。つまり、自衛隊の名称は‘国防軍’に変更されており、‘軍’の一文字を以って軍隊であることを明確にしているのです(さらに3項を設け、国の役割として領土等の保全を定めている…)。
一方、今般の自民党の改正案では、2項の条文がそのまま維持された上で、…
「前条の規定は、我が国の平和と独立を守り、国及び国民の安全を保つために必要な自衛の措置をとることを妨げず、そのための実力組織として、法律の定めるところにより、内閣の首長たる内閣総理大臣を最高の指揮監督者とする自衛隊を保持する。
2 自衛隊の行動は、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する。」
…とする9条の2が‘加憲’されています。この案では、自衛隊の名称がそのまま使われており、当初案より軍隊としての性格が薄められているのです。ところが、軍隊を持たない国は、ローマ教皇を元首とする宗教国家であるバチカン市国を除いて存在していません。しばしば軍隊の放棄を謳ったコスタリカ憲法が引き合いに出されますが、放棄しているのは常備軍のみであり、全米相互援助条約や攻防の目的のためには、軍隊を組織することが可能なのです(コスタリカ憲法第12条)。
護憲派は、加憲案は日本国憲法上の原則禁止の例外規定を設けるようなものであり、自衛隊が実質的には制約なき軍隊と化すとして反対しておりますが、この主張こそ、戦後、日本国が置かれてきた国際社会における異常な地位を物語っております。何故ならば、軍隊不保持という憲法上の原則こそ、国際社会においては例外中の‘例外’であり、護憲派による加憲案の解釈に従えば、国際社会の原則が日本国憲法にあっては‘例外’であるからです。つまり、日本国と国際社会では軍隊に対する原則が真逆であり、第9条こそ、日本国の倒錯した軍隊意識を象徴しているのです。
来るべき憲法改正では、日本国憲法を国際社会の原則に合わせるべきところが、自民党案ではこの捩じれを解消しておらず、このため、護憲派の回りくどい主張が示唆するように、同問題に起因する‘神学論争’は延々と続くことになりましょう。本来、‘自衛隊’という名称の適切さこそ最初に問われるべきであり、防衛軍であれ、日本軍であれ、軍隊という国際社会における当然の表記を憚る心情にこそ、戦後の政界に蔓延った正面から問題と対峙ようとしない‘事なかれ主義’、あるいは、’ダチョウの平和’的な思考停止が垣間見られるように思えるのです。
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反日・左翼は、必ずコスタリカを引き合いに出します。そして、「お花畑の住民」を、洗脳します。
日本の常識が世界の非常識であり、それは危険なことであると、多くの国民が気づきつつありますが、そのスピードはノロノロとしています。
狂信的「九条信者」の司令塔として、朝日他追髄する反日マスコミが力を発揮しています。彼らの力の源泉は、「反日左翼・憲法学者」たちの意見です。
政府は、時間と資金を惜しまなく使い、憲法学者対策をすべきだと、私は考えます。国を大切にし、国際社会を考え、国民の安全を考える「普通の憲法学者」を、本気で育成しなくては、いつまでたっても、「神学論争」が終わりません。
米国に守られているから、中国や北朝鮮、あるいはロシアから、攻撃されずに済んでいるのに、「アメリカの戦争に、巻き込まれる」などという、左翼の稚拙なプロパガンダが、未だに力を失いません。
私は最近、この原因は、野党より、自民党に責任があると、考えるようになりました。戦後73年になりますが、安全保障の重要性や、日本の憲法が世界の非常識であることを、自民党の政治家が、一度でも、本気で国民に語りかけたことがあったでしょうか。
たとえ安倍内閣で実現しなくても、「憲法論議」を、国民的課題として、マスコミに報道させている総理に、敬意を払っています。
あとはもう、貴方や私のように、ブログの世界を通じ、賢明な、常識的な仲間を増やしていくしかありません。世間の風潮が変わりつつありますから、あながち夢でなくなるのでないかと、そんな気もいたします。
長々と、失礼いたしました。ご健闘を祈ります。
マスコミは、事あるごとにグローバル化を唱え、国民に対して日本国の常識は世界では通用せず、グローバル・スタンダードに合わせて変化せよ、と主張しております。世界に見聞を広げてゆけば、自ずと日本国憲法の異常性にこそ気が付くはずなのですが、何故か、この分野に関しては、日本国の変化を許さないのです…。この態度は、極めて奇妙なのですが、おそらく、自己矛盾を承知の上での確信犯なのでしょう。国際っ情勢が緊迫化する折、そろそろ国民も、政治家任せではなく、自らの問題として防衛や安全保障について考えてゆく時期に差し掛かっているように思えるのです。
安保法制に関連して持ち上がった集団的自衛権行使の合憲性の議論につきましては、幸福追求権を持ち出して反対するというアクロバティックな反対論も見受けられました。しかしながら、生存権なくして幸福追求権もないのですから、’戦力の不保持’は、日本国憲法の重大なる自己矛盾であると言えましょう。実のところ、第9条の制定過程もよく分かっておりませんので、改正に際しては、国民の誰もが疑いを懐かぬよう、一点の曇りもなき明確な文章で表現すべきではないかと考えております。
基本的叩き台として、全面的に賛成している考えです。
国際法には、交戦権はきちんと否定されていて、、国際法で否定された交戦権を行使するための組織は保有なんてしないよというのが明確にされたのが9条である。
これを誤解無いレベルで明確にした憲法改正にするべきという考えに全面的に賛成したい。
名前とか入れ忘れました。
ご紹介いただきましたブログ、拝見いたしました。私は、国連憲章につきましては、別の見解を持っております。それは、第24条は、あくまでも、加盟国の行動規範を定めたものであり、この行動規範に反する行為を行う国家が出現した場合、かつ、国連が強制措置を採れない場合には、第51条によって、全ての加盟国に個別的自衛権や集団的自衛権の行使が認められている、とするものです。国連憲章第24条も、日本国憲法第9条も、あくまでも、法の順守を前提としており、無法国家が現実に存在する以上、日本国を含む全ての国が、正当防衛権を有するのは当然なのではないでしょうか。