万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

皇族は国民が同情すべきほどに不自由なのか?

2024年09月03日 11時50分01秒 | 日本政治
 皇族の大学進学問題は、入試における公平性原則をも損ないかねない社会的な危機をもたらす事態に至ってしまいました。その主たる責任は、国民が声を上げざるを得ないレベルの権力濫用を行なった皇族の側にあるのですが、何故か、皇族に対する同情論をもって‘特別入学’を擁護する意見も聴かれます。

 同擁護論とは、皇族は、一般の国民とは比べものにならないほどの我慢を強いられており、自由も大幅に制限されているから、皇族は、まことに国民が同情にあたいする立場にある。それ故に、一般の国民は、窮屈な皇族の立場を慮り、その私的要求を受け入れるべきある、とする論理です。言い換えますと、公的立場に伴う皇族の不自由さの代償として、国民は、皇族の自由を認めるべきである、ということになります。この説、もっともなようにも聞えるのですが、深く考えてみますと、今日の皇族は、同論拠を既に失っているように思えます。

 何故ならば、皇族は、婚姻や進学については既に自由が認められています。男子皇族の婚姻には、皇室典範により皇室会議の議を経ることが義務付けられていますが(第一〇条)、婚姻の制約が有名無実であり、皇室会議の議が事後承諾となることは、既に国民の多くが知るところです。むしろ、皇室典範では、一般国民と婚姻した皇族女子は皇族の身分を離れるとされているにも拘わらず(第一二条)、宮内庁等が何かと便宜を図っている小室夫妻を見る限り、皇室典範の範囲を超え、かつ、国民に保障されている基本的自由を越えた‘自由’を特権として享受していると言えましょう(厳密に言えば、法的根拠のない不法行為に・・・)。

 そして、進学についても皇族には一般の国民と同様に自由が認められています。この意味において、悠仁氏は、最高学府とされる東大を含めて何れの大学に進学を希望してもよいこととなります。進学の自由は認められているのですから。そして、この‘自由’に、今般の進学問題に際しての国民からの批判や反発が正当である理由を見出すことができます。皇族の進学の自由は、国民一般に認められている自由と同等のものですので、一般の国民と同様に、公平に実施される試験や審査に受からなければならないからです。皇族だけが、特権的な地位をもって入学が許可されれば、それは、自由の限度を超えた特権となりましょう。この観点からしますと、先の‘不自由を自由で補うように’という主張は、そもそも皇族の進学自体は自由ですので、この論理は通用しなくなるのです。

 それでも、擁護論者の人々は、プライベートな婚姻や進学ではなく、公務において著しい制約を受けていると主張するかもしれません。皇族には、職業選択の自由がないとして。しかしながら、皇族の公務は、国民が同情しなければならないほど、不自由で苦痛を伴うものなのでしょうか。そもそも、現行の法律にあって天皇以外の皇族には法的な義務を伴う公務はありません。国民の多くが‘公務’と見なしているのは、式典や行事への隣席やテープカットなどであり、これらの‘お仕事’も慣例や主催者側の招待に因るものです。行事に出席すれば、直立不動で整列した主催者側からの恭しい出迎えが待っていますし、スピーチの原稿も本人が執筆しなくとも準備されていることでしょう。

 こうした皇族の‘お仕事’は、国民が強要したわけではなく、民間行事の場合には、相当額の謝礼も支払われているとされています。そして、マスメディアも揃って敬語をもって礼賛記事を掲載してくれるのですから、耐えられないような精神的な苦痛を与えているとする説は疑わしい限りです。国民には、確かに職業選択の自由はありますが、就きたい職業に就くには一生懸命に努力しなければなりませんし、入試や入社、あるいは、資格を得るためには厳しい競争を経なければならないこともあります。このため、必ずしも、国民の誰もが自らの望んだ職業に就けるわけでもなく、ましてや生まれながらにして約束されているわけでもありません。職業選択の自由とは、自らの思い通りの職業に就けることを意味しませんので、国民が皇族の特権を認めるほどの根拠とはならないのです。

 しかも、日常の生活については基本的には国費によって賄われていますので、生活に窮する心配はありません。都心の中心部にある宮邸にあっては宮内庁職員がかいがいしく面倒を見てくれます。東大推薦入学の実績作りとされる悠仁氏のトンボ研究も、赤坂御用地の広大な皇居の森を自由に使える立場なくしてはあり得なかったことでしょう。

 仮に、皇族を公募したとしたら、応募者が殺到することでしょう。こうした恵まれた生活が保障されていながら、皇族の不自由をもって特権の承認を国民に求めたとしても、多くの人々はこの論法に納得するとは思えないのです。そして、仮に、皇族が自由になりたいから皇族であることを辞めたい、と申し出ましても(皇族のままであって欲しいならば国民は特権を認めよ、を含意・・・)、一部の皇室利権に与る人や熱狂的な信者を除いては、大多数の国民は、翻意を懇願したり、反対したりはしないのではないかと思うのです。

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