‘自由貿易主義を葬り去ったのはグローバリズムである’と主張しようものなら、おそらく、誰からも真剣に受け止めてもらえないことでしょう。今日に至るまで、自由貿易主義とグローバリズムは凡そ‘同義’に使われてきましたし、自由貿易主義の‘進化形’こそグローバリズムであるとするイメージも広がっています。しかしながら、少なくとも理論的な側面からしますと、後者が前者を崩壊させたとしか言いようがないのです。
自由貿易主義とグローバリズムとの最大の相違点は、前者は国家の枠組みを前提としている一方で、後者は、国境を取り払ったグローバル市場を想定しているところにあります。自由貿易主義の祖とされるデヴィット・リカードの比較優位説も、‘二国二財モデル’と称されたように二つの国家の間でのモデルとして提唱されており、そこには、前提条件として‘国家’という枠組みが設定されています。自由貿易主義が全ての国家に対して互恵的に利益をもたらし、自ずと最適な国際分業が成立するとする自由貿易体制の理想像も、それがたとえ現実を無視した仮想の世界であったとしても、国家の枠組みがあってこそ成り立つのです。
財のみの取引を想定している自由貿易主義に対して、国家の枠組みを想定しないグローバリズムでは、財の他にも、中間財(部品等)、マネー(資本)、サービス、人(労働力)、テクノロジー、情報と言ったあらゆるものが単一の‘世界市場’にあって自由に移動すべきものとされます。こうした移動が自由化される対象の数や種類等だけを見ますと、グローバリズムとは、自由貿易主義の延長させた先にあり、その拡大のようにも見えます。しかしながら、両者の間には、‘量’のみではなく‘質’の上での違いがあります。後者が、これらの要素移動の自由化によって国家の枠組み、あるいは、国家の存在そのものが‘消える’と考えているところに決定的な違いがあるのです。自由貿易主義ではかろうじて保たれていた国民国家体系も、グローバリズムでは‘なきもの’と見なされてしまうのです。
両者の違いは、必然的に自由貿易主義が依拠する比較優位説の前提条件を崩壊させます。何故ならば、全世界から最も生産に適した要素を自由に移動させることができるのであれば、国別の比較による優位性が成立しなくなるからです。例えば、資本が潤沢な国と労働力が豊富な国との間の分業をモデル化したヘクシャー・オーリンモデルを例に挙げれば、資本も労働力も国境を越えて自由に移動できるのであれば、双方共に優位性が成り立たなくなるのです。言い換えますと、グローバリズムこそ、自由貿易主義がより所としていた比較優位説を葬り去ってしまったと言えましょう。
かくしてグローバリズムによって既に自由貿易主義が破綻を来しているのですが、それにも拘わらず、グローバリストもその最大の受益者となった中国も、兎角に‘自由貿易主義’の堅持をアピールするのは、互恵という幻影を人々に見せ続けたいためなのでしょう。日本国政府も、グローバリズムとは言わず、自由貿易主義という言葉を好んで使っています。両者の違いが明確になれば、誰もが、手放しのグローバリズム礼賛の姿勢を見直し、グローバリズムに対して懐疑的、あるいは、批判的にならざるを得なくなるからなのでしょう。そして各国の自由化政策によって圧倒的で無制限な自由’を享受し得るようになったグローバリスト達は、今やマネー・パワーをもって人々の自由を圧迫しているのです(つづく)。