万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

シュレーディンガーの戦争観に学ぶ-‘すべての国の健康な青年の大量虐殺’

2023年06月05日 10時30分16秒 | 国際政治
 エルヴィン・ルードルフ・ヨーゼフ・アレクサンダー・シュレーディンガーは、量子力学の基礎を築いた理論物理学者の名として知られています。1933年にはポール・ディラックと共にノーベル物理学賞も受賞しており、「シュレーディンガーの猫」といった思考実験を耳にされた方もおられるかもしれません。その一方で、シュレーディンガーが今日の分子生物学の最初の一歩を踏み出したことは忘れられがちです。ワトソンとクリックによってDNAの螺旋二重構造モデルが提唱された1953年に先立つ1944年に、既に遺伝子の構造は、‘遺伝子は一つの巨大な分子のような構造を持つ’と予測していたのですから。

 シュレーディンガーが分子生物学の扉を開いたのは、『生命とは何か』という著書です。同書は、ダブリンのトリニティー・カレッジでの公開講演での原稿に基づいていますので、お堅い物理学の書としては語り口は比較的柔らかです。実際に、日本国内では岩波文庫(青帯)に収録されており、科学書に対して苦手意識があったり、専門的な知識に乏しくても読み進めることができます。量子論をもって生命の仕組みの根源に迫ろうとしたシュレーディンガーの驚異的な洞察力と構想力には感嘆するばかりなのですが、本稿で述べようとしているのは、同氏の科学的な見解ではないのです。実を申しますと、シュレーディンガーの戦争観なのです。

 『生命とは何か』のエピローグには、シュレーディンガーの哲学的な考察が付されており、今日の「Orch-OR理論」にも通じるような自我の意識に関する論述が見られます(「Orch-OR理論」とは、ケンブリッジ大学の数学者ロジャー・ペンローズとアリゾナ大学のスチュワート・ハメロフによって唱えられた説であり、‘意思’に対して量子論的な説明を試みている)。しかしながら、第1章から最終章の第7章に至るまでの記述は、基本的に科学者の立場に徹しています。ところが、一カ所だけ、第3章にダーウィンの進化論と関連付けながらも、同氏が政治的な現象について触れた部分があるのです。それは、以下の文です。

 「近代戦によるすべての国の健康な青年の大量虐殺というものの非選択的な効果は、もっと原始的な条件下では戦争は最適の種族を選択的に生き残らせるという点で積極的な価値をもっていたかもしれないという考え方によって、おしかくせるものではないでしょう。(『生命とは何か』、岩波文庫、82頁)」

 本書が執筆された1944年という年は、全世界が戦渦に見舞われた第二次世界大戦の最中にありました。シュレーディンガー自身、ナチス・ドイツによるオーストリア併合を機に祖国オーストリアのグラーツ大学の教授職を追われ、イタリアやベルギーを経てアイルランドに亡命しています。いわばシュレーディンガー自身も戦争によって辛酸を嘗めさせられた‘被害者’なのですが、同氏は、自らの境遇を嘆くのでもなく、科学者らしい冷徹な客観的な視点から、近代以降の戦争というものが、敵味方に関係なく、あるいは、その勝敗に関わりなく、‘すべての国の健康な青年の大量虐殺’と述べ、暗に、その非道徳・反倫理性を批判しているのです。

 戦争ともなれば、国家的な危機として、何れの為政者達も青年達に戦地に赴くように愛国心を鼓舞し、勇ましい言葉を並べるものです。今日でも、ウクライナ紛争にあっても、ゼレンスキー大統領もプーチン大統領も、国民に対して‘勝利あるのみ’として徹底抗戦を呼びかけています。しかしながら、当事者の立場から離れたシュレーディンガーの戦争観は、戦争というものの俯瞰的な全体像を示しています。戦争というものは、それに参加する全ての国の政府が自国民である健康な青年を戦地に送り、相互に自国民を虐殺させる残忍な行為に他ならないのではないか、という・・・。ミサイル等の軍事技術が発展した今日では、‘健康な青年’のみならず、老若男女を問わず、一般の国民も無差別な大量虐殺の対象となりましょう。

 もちろん、‘国際法に反して実行された侵略に対しては戦うしかない’という正当防衛論もあります。確かに、正当防衛権は否定されるべきではなく、力をもって暴力を廃さなければならないケースもありましょう。しかしながら、戦争が健康な青年の大量虐殺であるとする見方が観察された客観的な事実である限り、戦争を未然に防ぐための抑止力の強化や紛争に平和的解決をもたらす仕組み造りにこそ、最大の努力を傾けるべきように思えます。シュレーディンガーが自書に忍び込ませた一文は、生命の探求者でもあった同氏からの人類に対する科学者としての良心から滲み出た警告であったのかもしれません。

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