親韓派の政治家やマスメディアは、口を揃えるかのように日韓関係には相互理解が大事であると語り、両国間の交流の促進を促してきました。政治関係が冷え込んでいる時でも、民間レベルでの交流は継続すべきと主張してきまたのですが、この方針、今般、韓国で設置された「永遠の贖罪」と題された安倍首相の土下座像を見ますと、およそ現実離れした空論のように思えます。
同像を造ったのは平昌市の私営植物園(韓国自生植物園)の園長である金昌烈氏であり、れっきとした民間人です。そして、同像をめぐって賛否両論の論争が韓国国内で起きているように、これを支持する民間の韓国人も少なくないのです。仮に、土下座像に自らの願望の実現を託したとしても、それは、公衆の場ではなく、自宅の一室や庭などの私的な空間でも構わないはずです(それでも、密かに呪詛しているようで不気味…)。しかしながら、金氏は、敢えて自身が経営する植物園に設置して来園者に公開しようとしたのであり、同植物園を訪れる来園者の多くも同像に共感し、留飲を下げると考えたからなのでしょう。韓国の一般の人々は心の中では親日であるとする主張は、今般の騒動を見る限り、親韓派の希望的観測に過ぎないようなのです。
そして、多くの日本人は、まずは同像の構図に驚いたことでしょう。否、背筋が寒くなったと表現する方が適切であるかもしれません。土下座は、誤る方が自らの非を認め、許す側に完全に屈服する構図となりますので、‘慰安婦’とされる少女を前にして日本国の首相、否、日本国の代表が土下座のポーズで謝罪を請う姿は、日本人にとりましては正視に堪えません。しかも、歴史的一場面を記念として再現したわけでもなく、完全なる空想の産物なのです。人とは、自らの理解の範囲を越えた存在に出会いますと、恐怖心や嫌悪感を懐くものです。安倍首相の土下座像は、まさにこのケースに当たると言えましょう。
一方、たとえ憎しみや恨みの抱く相手国であったとしても、日本人の多くは節度をわきまえていますので、たとえ不快な相手国であっても、その公人を公然と侮辱するような表現は避けるものです。仮に、文在虎大統領が戦争末期にあって朝鮮半島で虐殺された日本人少女に対して土下座する像を造ろうとすれば、提案者に対して誰かが必ず反対することでしょう(ベトナムにあって、文大統領がライダイハンの少女を前に土下座する彫像が設置されれば、韓国の人々は激怒するのでは…)。否、土下座の構図の発想さえ頭に浮かんでこないかもしれません。金園長の発想自体がおよそ日本人の理解を越えているのです。
加えて、慰安婦問題は、昨今、韓国国内でも‘賠償金ビジネス’であった実態が明るみになると共に、元慰安婦たちの証言が二転三転しているように歴史的根拠も曖昧です。日本軍が強制連行して強制的に労働を強いたわけではないことは当時の資料からも明らかです。それにも拘わらず、‘永遠の謝罪’と称して平然と既成事実化しようとする態度の厚かましさに、多くの日本人の理性が悲鳴を上げていると言っても過言ではありません。韓国人に対しては、理性も道理も通じないのですから。
結局、今般の一件によって、日本人の多くは、韓国の人々とは、日本国を徹底的に貶めるようとする傾向にあり、自国が日本国よりも上位にあるためには、手段を択ばない人々であると理解したことでしょう。日本人に対して不快感や屈辱感を与えることを十分に承知しながら敢えて侮辱的な行動をとるのですから、民間レベルにあっても友好関係など望むべくもありません。一般社会にあっても、一度でもこうした底意地の悪い行為を行えば、自ずと隣人は離れてゆき、もはや良好な関係を築くことは殆ど不可能となりましょう(もっとも、中国から謎の種子が米英の一般宅に送付されるという事件が多発しており、仮に留意点があるとすれば、同像の設置場所が植物園であったこと…)。韓国では、同土下座像は「永遠の贖罪」と命名されているそうですが、日本国にとりましては、両国間の「永遠の不和」を象徴する像となったのではないかと思うのです。