ハンガリー、難民申請者全員拘束へ法案可決=首相、テロ対策と強調
ハンガリーは、EUの中でも特に難民受け入れ反対の急先鋒であり、今般も、難民申請者全員を拘束する内容の法案が可決したそうです。国際人権団体アムネスティ・インターナショナル等の人権団体からは非難の声が上がっていますが、ハンガリーの強硬な反難民政策には、同国が14世紀に経験した悲しい歴史があるようです。
最近、ハンガリー出身であり、イギリスへの政治亡命の経歴を持つガブリエル・ローナイ氏が著した『モンゴル軍のイギリス人使節』(榊優子訳、角川書店、1995年)を読んだのですが、同書は、目から鱗が落ちるほど衝撃的な作品でした。メインテーマは、”バドゥの征西”と称されるモンゴル軍のヨーロッパ侵攻に際して、モンゴル側の外交交渉に当たったイギリス人の正体を追うことにありますが、モンゴル軍の侵略を受けたハンガリーの惨状をも具に記述しています。中でも、注目すべきは、ハンガリーが、モンゴル軍の攻撃によって難民化した隣接するクマン人を受け入れた結果生じた破滅的な結末です。少々長くなりますが、その概要は、以下の通りです。
ハンガリー王ベーラ四世は、父祖の地を追われた遊牧系クマン人の王コトニイ、並びに、その難民を、ハンガリー国王への臣従とカトリックへの改宗を条件に受け入れます。国王は、受け入れた難民に対してハンガリー平原に土地を与えるなど保護に努めますが、クマン人の家畜がハンガリー人の小麦畑や牧草地を荒したり、クマン人自身も略奪等を働くなど、定住民であるハンガリー人との間に亀裂が生じます。ベーラ四世は、クマン人を分散定住させて事態の収拾を図ろうとしますが、定住化政策も効果は薄く、ハンガリー人にこき使われる身ともなったため、クマン人側の不満はさらに募ります。
こうした中、モンゴルの使者がベーラ4世の元を訪れ、最後通牒を付きつけます。その書簡には、”余の臣下なるクマン人に汝が庇護の手を差し伸べることも余の知るところなり。よって汝に命令す…”とあり、クマン人に対する庇護の停止を要求すると共に、クマン人が自らの味方であることを匂わす文章を綴っているのです(ハンガリー人とクマン人との不和を意図した工作である可能性も…)。
一方、ベーラ4世との関係は必ずしも良好ではないハンガリーの諸侯たちは、クマン人は、ベーラー4世には忠誠を誓ってはいても、ハンガリー国家にとっては危険分子と見なします。そして、先の書状におけるクマン人の記述も手伝って、国王の求心力を低下させる噂を流し始めまるのです。それは、”クマン人は、モンゴル側とハンガリー打倒の秘密協定を結んでおり、モンゴル軍がハンガリーに侵入した暁には、モンゴル側に立って闘う”というものです。そして、いよいよモンゴル軍の脅威がハンガリーにまで迫ってくると、ハンガリー人は、クマン人をモンゴル側のスパイではないかと疑うようになります(実際に、スパイとなったクマン人もいたらしい…)。国家的な危機を前にして、ハンガリー人の反クマン感情は激高し、遂に、クマン王コトニイと臣下のクマン人貴族が殺害される事件が発生するのです。
この殺害事件を機に、ハンガリー人対クマン人の対立は決定的となり、双方が武器を採る内戦の如き状況に至り、国外に脱出したクマン人は、モンゴル軍と合流してハンガリー侵攻に加わります。かくして、蝗の如くに押し寄せてきたモンゴル軍がハンガリー国土を蹂躙し、国民の大半が虐殺されるという悲劇がハンガリーに襲い掛かり、ハンガリーはついにモンゴルに征服されてしまうことになるのです。さらに、モンゴル軍の手先となったクマン人は、モンゴルによる占領期を通して、ハンガリー人に”復讐”するという悲劇も発生します。真偽はどうあれ、先の”噂”は、結果的には、事実となってしまったわけであり、ハンガリーの人々にとりましては、難民受け入れは、自らの歴史的経験に基づくトラウマなのかもしれません。
バトゥの征西は700年も前の出来事ですので、現代という時代には、ハンガリーの懸念は杞憂に過ぎないとする意見もあることでしょう。しかしながら、今日、侵略の危機は完全に去ったわけではなく、中国やロシアの冒険主義的挑発や行動パターンは、当事のモンゴル帝国を髣髴させます。そして、近代以前にあっては戦が日常であったイスラム勢力もまた、過激派を見る限り、その行動が700年前から一変しているとは言い難い状況にあります。何れにしても、ハンガリーの歴史は、難民受入に付随する政治的リスクの教訓であり、今日なおも、過酷な歴史が残した教訓は、無視できないように思えるのです。
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ハンガリーは、EUの中でも特に難民受け入れ反対の急先鋒であり、今般も、難民申請者全員を拘束する内容の法案が可決したそうです。国際人権団体アムネスティ・インターナショナル等の人権団体からは非難の声が上がっていますが、ハンガリーの強硬な反難民政策には、同国が14世紀に経験した悲しい歴史があるようです。
最近、ハンガリー出身であり、イギリスへの政治亡命の経歴を持つガブリエル・ローナイ氏が著した『モンゴル軍のイギリス人使節』(榊優子訳、角川書店、1995年)を読んだのですが、同書は、目から鱗が落ちるほど衝撃的な作品でした。メインテーマは、”バドゥの征西”と称されるモンゴル軍のヨーロッパ侵攻に際して、モンゴル側の外交交渉に当たったイギリス人の正体を追うことにありますが、モンゴル軍の侵略を受けたハンガリーの惨状をも具に記述しています。中でも、注目すべきは、ハンガリーが、モンゴル軍の攻撃によって難民化した隣接するクマン人を受け入れた結果生じた破滅的な結末です。少々長くなりますが、その概要は、以下の通りです。
ハンガリー王ベーラ四世は、父祖の地を追われた遊牧系クマン人の王コトニイ、並びに、その難民を、ハンガリー国王への臣従とカトリックへの改宗を条件に受け入れます。国王は、受け入れた難民に対してハンガリー平原に土地を与えるなど保護に努めますが、クマン人の家畜がハンガリー人の小麦畑や牧草地を荒したり、クマン人自身も略奪等を働くなど、定住民であるハンガリー人との間に亀裂が生じます。ベーラ四世は、クマン人を分散定住させて事態の収拾を図ろうとしますが、定住化政策も効果は薄く、ハンガリー人にこき使われる身ともなったため、クマン人側の不満はさらに募ります。
こうした中、モンゴルの使者がベーラ4世の元を訪れ、最後通牒を付きつけます。その書簡には、”余の臣下なるクマン人に汝が庇護の手を差し伸べることも余の知るところなり。よって汝に命令す…”とあり、クマン人に対する庇護の停止を要求すると共に、クマン人が自らの味方であることを匂わす文章を綴っているのです(ハンガリー人とクマン人との不和を意図した工作である可能性も…)。
一方、ベーラ4世との関係は必ずしも良好ではないハンガリーの諸侯たちは、クマン人は、ベーラー4世には忠誠を誓ってはいても、ハンガリー国家にとっては危険分子と見なします。そして、先の書状におけるクマン人の記述も手伝って、国王の求心力を低下させる噂を流し始めまるのです。それは、”クマン人は、モンゴル側とハンガリー打倒の秘密協定を結んでおり、モンゴル軍がハンガリーに侵入した暁には、モンゴル側に立って闘う”というものです。そして、いよいよモンゴル軍の脅威がハンガリーにまで迫ってくると、ハンガリー人は、クマン人をモンゴル側のスパイではないかと疑うようになります(実際に、スパイとなったクマン人もいたらしい…)。国家的な危機を前にして、ハンガリー人の反クマン感情は激高し、遂に、クマン王コトニイと臣下のクマン人貴族が殺害される事件が発生するのです。
この殺害事件を機に、ハンガリー人対クマン人の対立は決定的となり、双方が武器を採る内戦の如き状況に至り、国外に脱出したクマン人は、モンゴル軍と合流してハンガリー侵攻に加わります。かくして、蝗の如くに押し寄せてきたモンゴル軍がハンガリー国土を蹂躙し、国民の大半が虐殺されるという悲劇がハンガリーに襲い掛かり、ハンガリーはついにモンゴルに征服されてしまうことになるのです。さらに、モンゴル軍の手先となったクマン人は、モンゴルによる占領期を通して、ハンガリー人に”復讐”するという悲劇も発生します。真偽はどうあれ、先の”噂”は、結果的には、事実となってしまったわけであり、ハンガリーの人々にとりましては、難民受け入れは、自らの歴史的経験に基づくトラウマなのかもしれません。
バトゥの征西は700年も前の出来事ですので、現代という時代には、ハンガリーの懸念は杞憂に過ぎないとする意見もあることでしょう。しかしながら、今日、侵略の危機は完全に去ったわけではなく、中国やロシアの冒険主義的挑発や行動パターンは、当事のモンゴル帝国を髣髴させます。そして、近代以前にあっては戦が日常であったイスラム勢力もまた、過激派を見る限り、その行動が700年前から一変しているとは言い難い状況にあります。何れにしても、ハンガリーの歴史は、難民受入に付随する政治的リスクの教訓であり、今日なおも、過酷な歴史が残した教訓は、無視できないように思えるのです。
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