秘境という名の山村から(東祖谷)

にちにちこれこうにち 秘境奥祖谷(東祖谷山)

天女花(OOYAMARENGE)  SANE著

2007年05月23日 | Weblog
第四章
回想掌
気がつくと、江美の足は、居酒屋に向かっていた。準備中のプレートが掛かっていた。格子戸をあけると、マスターは江美にも気がつかずに、仕込みの最中だった。「マスター、来ちゃった!」江美がカウンターの前に立つ。「あっーゴメンよ。必死でやってたから、気がつかなかったよー今日、団体の予約が入ってて、ヘルニアの老体に鞭うって、がんばってるんだよー」マスターは頭に巻いたバンダナを、締め直して微笑む。江美は少し、ホッとした。店が開いてなかったら、行くあてがなかったからだ。「ねえマスター、今日は何の集まりなの」「あー、ちょうどよかった。(徳島県人 のまれんかい)のふぞろい連中が集まるんだよ。今日は江美ちゃんのことも、紹介しなくちゃー。江美ちゃんが、ここに来たのは、必然だったみたいだね。」
マスターが、竹串に何かを刺している。白い男性にしては、きれいな長い指先が、手早くタッパーの上に乗せていく。「マスター、その具って高野豆腐なの。固そう」江美が指さす。「あっ、これ江美ちゃんは食べたことないかなあー。徳島の岩豆腐だよ。徳島の山の湧き水で作っているんだよ。手づくりだよ」「なんでそれが手にはいるの?」
「江美ちゃん、今は日本全国、ご当地うまいものが、宅急便で一日で手元に届くんだよ。江美ちゃん、もしかして、アンチ宅急便?」マスターは、そう言うと、大鍋をコンロにかける。「私、引越しの荷物以外、宅急便利用したことなかったから。便利になっているんですね」江美は、そう言いながら、時々店の入口を気にしていた。「江美ちゃん、もしかして、この前の健ちゃんのこと、待ってるとか?」マスターが、カウンターごしに、江美を覗きこむ。「ううん、まさかーあの人私の名前も聞かなかったよ」暫くすると、賑やかな声が、一斉に店に入ってきた。江美はカウンターの一番隅に座りなおした。三十代、四十代の男達が、銘々に話しかけてきた。
「あれーマスターの彼女?マスターもすみにおけないねー」江美は小さく手を振って、首を横に振る。「あんまり、いじめないでよ。二度と、来てもらえなくなったら、誰が責任とるの。冗談抜きで、彼女徳島の勝浦だって。この前偶然この店に、立ち寄ってくれたんだ。独り占め無しだよ。って言っても、殆どみんな妻子持ちなんだ。尻に敷かれてる小心者なんだよ」マスターの声が、ひときわ冴える。
「ちょっと、まってよ俺は独身だよ」
色柄のオーブンシャツを着た男が右手を挙げる。「独身っていっても、お前は女房に逃げられたんじゃないかー」マスターが男を茶化している。店の外には、賑やかな幾つもの声が、しばらくの間続いていた。江美は、帰るタイミングを探していた。初対面のましてや、相手はほろ酔いになった人ばかり。相槌のくりかえしばかりでは、神経が擦り減ってしまう。知らず知らずの内に、無愛想になってしまう。時々気を遣って、江美に視線を向けてくれるマスターに、気の毒だった。江美が帰ろうと席を立とうとした時、さっきのオーブンシャツの男が、江美に絡んできた。「ちょっと彼女、スマシテカエラナイデー」そう言いながら江美に抱きついてきた。マスターが、カウンターごしに、男に声を張り上げる。「ヒサー、冗談止めろー。飲み過ぎなんだよ」江美が一瞬身を竦めた時、丁度店の戸が開いた。男の肩の向こうに、健二の顔が見えた。泣きそうな江美と、健二の視線が男の肩越しに重なった。「あららーヒサ兄さん、僕の彼女に何やってるのー」そう言いながら、健二は店の中に足早に入ってきて、男の右手を軽く跳ね退けた。男はすぐに、江美から離れた。「悪い、悪い。健坊の彼女だったんだ。マスター、早く言えよ。一発で酔いが醒めちゃったよ」男はバツが悪そうに、軽く頭をかいている。健二は、伸ばした手を、江美の前に差し出した。キョトンと固まったままの江美の細い肩を、掌でそっと触れた。「お前、俺より早く着き過ぎ」そう言って、江美に微笑んだ。健二の掌の余韻が、江美の全身を優しく包んでいた。店の風鈴の渦潮模様が、開けっぱなしの格子戸から訪れた風に、小さく揺れていた。
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