秘境という名の山村から(東祖谷)

にちにちこれこうにち 秘境奥祖谷(東祖谷山)

天女花(OOYAMARENGE)   SANE著  再掲載

2016年04月20日 | Weblog

天女花

祖谷から贈る物語
祖谷に生まれ育った私は、いつの時もこの故郷に立ち、四十五年の時間の流れを見つめてきました。遠い記憶の中に想う事、ほんの昨日までの自分の形を探る時、私は思うのです。人間は愛しく切なく、人生は永い永い幻であり、限りなく続いている自然界に比べれば瞬きほどの時間であると。私の愛した人達は祖谷で、確かに生きていました。遠い時空の中に住む多くの魂にこの物語りを贈ります。あなたは、天女花に出逢ったことがありますか。

第一章
風の行方
市街地から、山手の方角に僅かにタクシーを走らせた場所に、小さな葬斎場が見えた。数台の車が、無造作に止めていた。「着きましたよー」月並みな運転手の不機嫌な声も、今の江美には気にもならなかった。タクシーのサービス券と、お釣りをバックに無造作に詰め込んで、葬斎場の中に向かった。足が僅かに、震えていた。
見覚えのない顔が、ロビーのあちこちに立っている。数人の集まりの視線が、江美を捉らえる。小さな会釈を交わし、視線の定まらないままに、江美は受け付けに向かった。 「島田健二さんの告別式は、こちらですか」
係員らしい女性に、尋ねる。「ご参列の方ですね。ご署名をこちらのカードにお願いします」ペンを持つ手が、ぎこちなく、書き慣れた自分の名前が、小さく波うっているように、みえた。
「健二は、あっ、いえ仏さまは、どちらにいけば会えますか」 迷子になった子供のように、江美は小さな声で、尋ねた。
「右の突き当たりに、おられます。まだ今ならお別れができますよ。きれいなお顔ですよ」係員の言葉が、胸に染みた。アパートを出てから、今日初めて他人と交わした言葉だった。相変わらず江美に向けられ視線を背中に感じながら、
奥の部屋へと、向かった。掃き慣れないヒールが、指先に痛い。
真っ白な菊の花で埋めつくされていた。柩の上に、真っ赤なバラが、添えられている。バラをほんの少し避けて、そっと柩の小さな扉を、あけてみた。 健二が眠っていた。両手を胸に組まされた健二が、眠っていた。 そっと、頬に触れてみた。冷たい。今まで感じたことのない指先の感覚が、江美の全身を包んでいく。小さな声で、呼んでみた。「健二、何してるの。ふざけないで起きてよ。私今日パートやすんだんだよ。皆勤手当、どうしてくれるのよ。起きてよ。健二」
ドラマのワンシーンでこんな場面を、見たことがあった。喪服の女性が、柩に縋り付いて泣き崩れているのだ。女性の周りを、家族や友人が取り囲んであげて、彼女の背中を小さくさすってあげている。江美は、平静を演じていた。というより 健二と江美の今の時間を、現実として受けいれられないでいた。覚めない悪い夢を、見ているようで、何故か怖いくらいの、冷静が江美の背中を、支えていた。不意に、周りが慌ただしくなった。ロビーにいた数人の集まりが、椅子に掛けはじめた。受け付けにいた女性が、マイクの前に立ち、軽く指先で前髪を整えている。前列の人に、また軽く会釈をして、江美はロビーの外にでた。中年の係員らしい男が、江美の背中を追い掛けてきた。「もう、お式は始まりますよ。中にお戻り下さい。急用ですか」 「ええ」江美はお辞儀をして、係員が中に入るのを確かめて、そっと駐車場のほうに足をすすませていた。駐車場の花壇のブロックに軽く腰をかけ、入れたままのさっきのお釣りを、財布の中に戻していく。肩で大きく息をして、風に踊る小さな花を、見つめていた。しばらくすると、葬斎場の細高い煙突の先端から、ゆっくりと煙が立ち上がってきた。ほんのさっきまで、形として存在していた健二が、荼毘にふされている。陽炎のように、震えている煙は、不規則な形を繰り返しながら、風に解かされ、共に流されていく。空に包まれて立ち上がる風の行方を、江美は一人きりで見つめていた。

第二章
出逢い
あの日から、三ヵ月。いつものパートから帰る。昨日と同じ一日が、ただ繰り返される。エレベーターのない三階は、疲れた足には結構きつい。半額で売ってもらった店の残り物の弁当に、ほんの少し箸を付け、江美は、健二と初めて出会った二年前の、夏の夜のことを、思いだしていた。前に勤めていた、会社の息子の横暴な態度に腹をたてて、辞表を出した。気持ちの高まったまま、いつも通らない路地を歩いていると、一軒の居酒屋の前で、不意に立ち止まった。(飲ま簾)と暖簾がかかってあった。阿波の地酒と、手書きの宣伝文字が貼ってあった。格子戸を開けると、威勢のいい声が、小さな店に響きわたった。 「いらっしゃい」 カウンターに座った江美に、威勢のいいさっきの店主らしい男が、話しかけてくる。 「お嬢さん、ここは初めてじゃなあー。ゆっくり飲んで行ってよ。今日は、魔の火曜日なんじゃー。暇で暇で常連が、ぼちぼち来るくらいなんじゃー」色白の痩せた四十才位だろうか。男は人なつっこい愛想のいい顔で、江美に麦茶をだしてくれた。さっきまでいらついていた江美も、少し落ち着いてきた。
「中ビールひとつ下さい」江美は、自分でも少しびっくりしていた。居酒屋に入って、ビールを一人で注文するのは、初めてだったのだ。つまみの枝豆を、食べていると、お客が入って来た。髪を少し肩でまで伸ばした若い男は、江美の席からひとつ離れた席に、座り慣れた調子で、腰をおろした。「マスター、いつもの」「健ちゃん、最近見えなかったねー元気してたー」マスターは、コッブにお酒を注いでいる。「モテちゃって、忙しかったんだー。わがまま女がもう、離してくれなくて。」一気にお酒を飲みほす。マスターが、江美に気を遣って、話しかけた。「失礼だけど、彼女、初めてだよね。他に粋な店この通りにわりとあるのに」マスターと健二は頷きあいながら、江美を見ている。「貼り紙をみて、それに暖簾がのまれんってなってるでしょう。阿波弁でしょ?懐かしくなって、つい中に入っちゃいました」 「えー、彼女ももしかして四国の徳島?健ちゃんと同郷とかー」マスターの目がいきなり輝きだした。江美を見ていた健二が、右手を少し上げて、微笑んでいる。「なんか今日、私短気おこして会社やめたんですけど、よかった!ここにこられて「おれ、この町で左官の仕事してるんだ。また今度いっしょに飲もう」マスターがまた頷きながら、江美を見ていた。「健ちゃん、もてるから、気をつけたほうがいいよ。でも今日は、健ちゃんから誘うなんて、初めてじゃあない」「同郷のよしみだよ!じゃあ、先に帰るわ俺、今夜もデートなのよ。バラ好きの粋な店にしか入らない女とね」そう言って先に店をでた。「なんか、楽しい人ですね。ホントにモテそう」江美は、マスターの顔を伺ってみる。「健ちゃん何も詳しいこと話さないから、健ちゃんは一人になりたい時しかここに来ないんだよ」「今日は有難う。また来てもいいですか。定休日はいつですか」「大歓迎!定休日は特に決めてないんだ。持病のヘルニアが悪化しない限り、店は開いてるから。彼女名前聞いてなかったね」マスターはそう言いながら、店の電話番号を書いている。「私、えみって言います」「えみちゃんか。また徳島の話一緒にしよう。自分は藍住だけど江美ちゃんは?」「勝浦の山の中、さっきの人はどこの出身」「健ちゃんは言わないんだよ。雲の中で生まれたってしか。全くふざけてるだろう」不意に格子戸から客が入って来た。江美は入れ代わるように店を出た。
第三章
回想トライアングル
翌々日、江美は仕事を捜す為に街にでていた。塗装のはげかけた歩道橋の欄干に軽く背をもたれて、通り過ぎる人の波を眺めていた。捨てられ、無造さに丸められたままのビラが、幾つもの靴の底で、コンクリートの上を、小さなシュートをくりかえされている。捩り捨てられた煙草の空き箱。梅雨明けの太陽は、容赦なく攻撃を仕掛けてくる。江美の前髪のあたりに留まる、重い汗が、落ちる瞬間を待っているようだった。平日だというのに、この街は人が多い。流行りを着飾った若い女の子達。上品なスーツ姿の三人連れ。年頃の娘が父親に腕を組み何かを、耳打ちしている。杖を付いたお婆さんが、欄干にしがみつくように、ひとつひとつと、歩をすすめていく。老婆の肩に少しぶつかるように、誰もが追い抜いていく。 「私、何やってんだろう。」江美は小さな溜息をついた。施設に預けている母のことが、不意に頭をよぎった。時間が少しでも空けば、施設に足を運んでいた。「母さん、ゴメンね。今日は行く気分じゃあないよ。私ものすごく落ち込んでるから、仕事見つけたら、行くから」江美は、唇を小さく熱帯魚の口のように上下しながら、独り言を欄干に、指先でなぞっていた。早いもので、故郷の勝浦から、神戸に移り住み九年が経つ。母親が脳梗塞に倒れ、有名な医者を頼りにこの街に来た。治療の術もなく、病院に並立された老人施設に入所するしか、江美にはすべがなかった。気がつけば、アパートと職場と施設をがむしゃらに往復しているだけだった。江美は両手で前髪をかきあげ、頬にすべらせて、また呟いた。「トライアングルみたい。堂々巡
りじゃない」歩道橋の下では、割り込みの車が、クラクションを響かせている。振り向けば、老婆はようやく歩道橋の下りに差し掛かっていた。

第四章
回想掌

気がつくと、江美の足は、居酒屋に向かっていた。準備中のプレートが掛かっていた。格子戸をあけると、マスターは江美にも気がつかずに、仕込みの最中だった。「マスター、来ちゃった!」江美がカウンターの前に立つ。「あっーゴメンよ。必死でやってたから、気がつかなかったよー今日、団体の予約が入ってて、ヘルニアの老体に鞭うって、がんばってるんだよー」マスターは頭に巻いたバンダナを、締め直して微笑む。江美は少し、ホッとした。店が開いてなかったら、行くあてがなかったからだ。「ねえマスター、今日は何の集まりなの」「あー、ちょうどよかった。(徳島県人 のまれんかい)のふぞろい連中が集まるんだよ。今日は江美ちゃんのことも、紹介しなくちゃー。江美ちゃんが、ここに来たのは、必然だったみたいだね。」
マスターが、竹串に何かを刺している。白い男性にしては、きれいな長い指先が、手早くタッパーの上に乗せていく。「マスター、その具って高野豆腐なの。固そう」江美が指さす。「あっ、これ江美ちゃんは食べたことないかなあー。徳島の岩豆腐だよ。徳島の山の湧き水で作っているんだよ。手づくりだよ」「なんでそれが手にはいるの?」
「江美ちゃん、今は日本全国、ご当地うまいものが、宅急便で一日で手元に届くんだよ。江美ちゃん、もしかして、アンチ宅急便?」マスターは、そう言うと、大鍋をコンロにかける。「私、引越しの荷物以外、宅急便利用したことなかったから。便利になっているんですね」江美は、そう言いながら、時々店の入口を気にしていた。「江美ちゃん、もしかして、この前の健ちゃんのこと、待ってるとか?」マスターが、カウンターごしに、江美を覗きこむ。「ううん、まさかーあの人私の名前も聞かなかったよ」暫くすると、賑やかな声が、一斉に店に入ってきた。江美はカウンターの一番隅に座りなおした。三十代、四十代の男達が、銘々に話しかけてきた。
「あれーマスターの彼女?マスターもすみにおけないねー」江美は小さく手を振って、首を横に振る。「あんまり、いじめないでよ。二度と、来てもらえなくなったら、誰が責任とるの。冗談抜きで、彼女徳島の勝浦だって。この前偶然この店に、立ち寄ってくれたんだ。独り占め無しだよ。って言っても、殆どみんな妻子持ちなんだ。尻に敷かれてる小心者なんだよ」マスターの声が、ひときわ冴える。
「ちょっと、まってよ俺は独身だよ」
色柄のオーブンシャツを着た男が右手を挙げる。「独身っていっても、お前は女房に逃げられたんじゃないかー」マスターが男を茶化している。店の外には、賑やかな幾つもの声が、しばらくの間続いていた。江美は、帰るタイミングを探していた。初対面のましてや、相手はほろ酔いになった人ばかり。相槌のくりかえしばかりでは、神経が擦り減ってしまう。知らず知らずの内に、無愛想になってしまう。時々気を遣って、江美に視線を向けてくれるマスターに、気の毒だった。江美が帰ろうと席を立とうとした時、さっきのオーブンシャツの男が、江美に絡んできた。「ちょっと彼女、スマシテカエラナイデー」そう言いながら江美に抱きついてきた。マスターが、カウンターごしに、男に声を張り上げる。「ヒサー、冗談止めろー。飲み過ぎなんだよ」江美が一瞬身を竦めた時、丁度店の戸が開いた。男の肩の向こうに、健二の顔が見えた。泣きそうな江美と、健二の視線が男の肩越しに重なった。「あららーヒサ兄さん、僕の彼女に何やってるのー」そう言いながら、健二は店の中に足早に入ってきて、男の右手を軽く跳ね退けた。男はすぐに、江美から離れた。「悪い、悪い。健坊の彼女だったんだ。マスター、早く言えよ。一発で酔いが醒めちゃったよ」男はバツが悪そうに、軽く頭をかいている。健二は、伸ばした手を、江美の前に差し出した。キョトンと固まったままの江美の細い肩を、掌でそっと触れた。「お前、俺より早く着き過ぎ」そう言って、江美に微笑んだ。健二の掌の余韻が、江美の全身を優しく包んでいた。店の風鈴の渦潮模様が、開けっぱなしの格子戸から訪れた風に、小さく揺れていた。

第五章
回想二人
江美は、マスターの知人の経営する、小さな弁当屋の仕事に就いた。偶然健二の現場の近くに、その店はあった。健二は昼時には、必ず現れた。江美は、いつかしら、健二の来る時間が、待ち遠しかった。健二の仕事が早く終わった日は、居酒屋に立ち寄り、二人でお酒を呑んで、マスターの昔話に、付き合っていた。マスターが、不意に健二に、聞いた。「健ちゃん、もしかして、江美ちゃんと付き合ってるの?」マスターが、にやけて健二を覗き込む。「まさかー、俺達、手も握ったことないんだよ。江美のアパートも知らないし。そんなこと、瑠美にでも聞こえたら、地獄絵図の展開だよ。」
「瑠美ちゃんって、あのばついちのお嬢さん。バラの好きな金持ちの健ちゃんよりひとつ年上だろー」マスターが少し眉間をしかめた。健二は、江美の生ビールをとって、一くちくちをつけて、首を曲げて微笑んだ。
「私、瑠美さんに会ったことないけど、私と同じ歳かも?」
「江美、年上だったんだー30才かーヤバイよ。独身?一回も結婚してなかったの」健二が江美の方に体を向ける。「だって、長男と一緒になったら、母親のこと、最期まで看れないでしょ。」江美がテーブルの上の、割り箸を入れたり出したりして話す。「マスター、また今度来るよ」店をでた二人は、少し冷え始めた夜の路地を、歩き始めた。「ねえ、瑠美さんから、連絡ないの」健二の背中に追いついた江美が聞いた。
「瑠美、離婚の時の条件で、一年に一度は、娘と旅行を兼ねたスキンシップに行ってるよ」健二は、少しゆっくり歩きだした。「結婚しないの」小さな声で、江美が聞いた。健二が立ち止まり、話す。「悪い奴じゃないんだわがままなだけで。」「わがまま?」
問い掛けた江美の声が、表道りのエンジン音に不意に掻き消されていく。横断歩道を過ぎれば、人待ちのタクシーの向こうに駅の改札がある。江美は少しでも長い時間、健二の近くにいたかった。丁度、信号が青から赤に点滅を始めた。江美と健二の間を縫うように、駅に向かう人々が、二人を追い越して行く。健二は立ち止まり、左手で江美をそっと制止する。信号が赤にかわった。健二が、首を二、三回振りながら江美を見つめて答えた。
「二人でいるときに野暮な話し、無しにしてくれる。時間がモッタイナイと、オモワナイ?」江美は、小さな声で、答えた。「ゴメンなさい」
いつもの、改札を抜ける。別々の乗り場に向かう。人込みの中に消えていく、健二の後ろ姿を、江美は見つめていた。「二人でいるとき」さっきの健二の声が、胸の奥で何時までも響いていた。
心の中に、長い間閉まっていた忘れかけていた感情が、江美の中でスローモーションのように、動きだした。貼られたままの、阿波踊りのポスターが、夏の余韻を残すように、剥がれかけたまま、壁にしがみ付いていた。

第六章
回想携帯電話

健二からの、連絡があれから途切れている。携帯電話をバイブ音にして、手提げバックの一番上に乗せ、弁当屋の調理棚の隅に置く。居酒屋のマスターの紹介でこの店で勤めてはいるけれど、この店が数週間で、求人案内を出す理由が、江美はすぐに納得できた。六十前位の、大西ちかこ。彼女は、この店のお局さま。毎日、黒目をキョロキョロさせて、口元を右に左に、おまけに鼻づまりでもないのに、鼻をスンスンさせている。口紅が毎日はみ出していることを、本人は不自然と感じないのか、彼女のオリジナルなのか、容姿はとにかくとして毎日、江美達パート店員に、マシンガンのように質問が襲いかかってくる。
「斉藤さん、店長の友達の紹介でここにきたけど、店長とはどんな関係?前からの知り合い?」江美はレジで釣銭を、確認している。「最近、来ないわねえー男前。あのお兄さんとも、なんかになるのー。あの兄さん、あたしの命の恩人なのよー」やたらと、江美の身体をポンポン触りながら、喋りだした。「命の恩人って」江美が始めて、お局ねさまに反応した。
「あんた、いやっ、斉藤さんがここに来る前からあの兄さん、近くで仕事してたのよ。あたし、あの日も咳がひどくて、胸が痛くて動悸がしてたのよーでもさあーあたしがいなかったら、この店、成り立たないじゃーないの。そしたらあの兄さん、丁度いつものシャケ弁買いに来たのよ。あたしが、釣銭渡そうとしたら、「おねえさん、病院いったほうが、いいよ。悪いこと言わないならさあー。おねえさんがここにいなかったら、開店休業でしょう。」なんて、あんまり言うものだから、あたし明くる日、病院に行ったのよ。そしたら、肺のなんとか疾患って言われて、びっくりよ。」「そんなことがあった
んですか」江美は健二に関係した話しを聞けるだけで、なんだか、嬉しかった。チカコが、話しを続ける。上機嫌で話す。「あんた、いや、斉藤さんでは、あの兄さんには、つりあわないよ。あの兄さん、みたとおり、背は高いし、特にあの目よ。涼しそうなきれいな二重だろー口元なんか、薄くってあたしは、あれだけの男前。暫く見掛けたことないから、びっくりよー。あれが息子だったら、親でもヤキモチやくよー」
「私、付き会ってませんから」江美はそう言うと、小さな冷蔵庫に、烏龍茶をいれていく。チカコは、喋り過ぎたのか、家から持参したポットのお茶を一気に太い喉元に流し込んでいる
江美は、バックの中の携帯電話を、取り出す「着信あり」の表示。チカコが店の外にでたことを確かめて、調理場の隅で、チェックする。健二からだった。返信を押そうとしたら、チカコが入ってきた。「主任、トイレにいきます。少しここ、お願いします
江美は、急いでトイレに駆け込み、返信をおす。「ゴメンなさい。今、店の中。」
「現場遠くなって、圏外がやたら多くて、かけられなかった。風邪なんか引いてないか。明日、かえるから。また連絡するよ。じゃあ、切るよ」
携帯電話を、両手に包んで、オデコに当ててみる。健二の声が、手の中で、ひだまりのように、あたたかかった。
第七章
回想季節の無い部屋
江美は、母の施設に向かっていた。十月だというに、日中はまだまだ暑い。片手に持った遅咲きのマーガレットと、母の新しい長袖のパジャマを紙袋に詰め、三階の部屋にはいる何時もの、鼻を突くアンモニア臭。空気清浄器はあるものの、フイルターは、交換されていない。鈍い音をたてながら、ただお決まりに、そこに置いているだけなのだ。
「あー、江美ちゃん、今日も、来たんだね。親孝行だね」同室の七十位のおじさんが、声をかけてくれる。彼は、もうこの施設に、妻の付き添いの為、十五年も毎日通っているのだベットの傍らに、家から持参したパイスの椅子を置き、小さな座布団を敷いている。奥さんは、意識がないまま、毎日の栄養を、鼻にチューブを注して、おくられている。
何の注射なのか、看護士が、無表情で打っていく。奥さんは、痛みにだけは、反応している。眉間にシワをたてて、一瞬身体が反りあがる。若い看護士は、黙って、床に落とした脱脂綿を拾い、さっさと部屋を出ていく。江美は、おじさんは、顔を見合わせて、二人で眉間に立てジワを作って、無言の会話をする。「江美ちゃんのお母さん、うちの女房よりずっと若いのに、おんなじ病気っていうのが、気の毒だねえー」
「おじさん、ありがとう。いつも、母のこと傍で気にしてくれて。私、二日に一度来るのが精一杯だから、本当に有り難いです。」
そう言うと、江美は目を開けたまま、天井をじっとみている母親のオデコをそっと撫でた。母は少し目を閉じてから、小さくあくびをした。「母さん、私の事、娘だって、わかっているんでしょう?母さんの頭の中、何を覚えているのか、私やり切れなくて、時々一緒に死にたくなるの」江美は母の枕元のティッシュで、涙を拭った。
「江美ちゃん、お母さんは頑張っているよ。江美ちゃんの声は、ちゃんと聞こえているよ。そんなこと言ったら、お母さん悲しむよ。」
「オムツ交換します」介助員が、ワゴンに乗せたオムツを、病室に入れながら、カーテンを中途半端に、閉めていく。「ハイ、そっち向いてーあー臭い。また汚してるよ。イヤダイヤダ」江美は、いつも、じっと我慢していた。この人達に何をいっても、母は人質にとられているようなものだから。時々できている、母の手の平のあざ。一度や二度ではない。江美はコーヒーを買いに外にでた。

第八章
回想光景
隣に隣接する、総合病院の駐車場の拡張工事の際に、共用の自動販売機が設置されている。雨の日も利用しやすいように、病院と施設を一階の吹き抜けの渡り廊下で、繋がっている。開放厳禁の透明なドアを開けると、病院にしては、おしゃれなテーブルと、椅子が並んでいる。この場所から丁度、病院の正面玄関が見える。江美はいつもの様に、カップのコーヒーを飲みながら、右手を握って頬に当て吹き抜ける風の心地よさに、ぼーっと玄関の方を眺めていた。休憩場の中央に植えられたヤシの木の間から、それは江美の視界の中に入ってきた。
正面玄関から、一人のスリムな女性が出て来た。駐車場の方を見ながら、携帯電話をかけている。胸元の大きく開いた花柄のブラウスが周りの目を集めている。「女優さんみたい。」江美は独り言を言いながら見ていた。やがて鮮やかな赤の色を放つ、一台のスポーツカーが、正面玄関に滑るように、横付けされた。健二だった。紛れもなく、それは健二だった。女性が健二に向けて笑みを浮かべながら、まっすぐに助手席のドアを開けた。彼女はスルリと助手席にすわり、健二に何か話して首を傾げて、うわめ使いに健二の瞳を見つめている。軽くエンジン音をたてて、健二は慣れたように、敷地内から走り去った。江美はただ、自分が今見た出来事に、呆気にとられていた。「瑠美さん、あの女性が瑠美さんなんだ。健二は、自分の車は持ってないって、会社のライトバンがあるって前に話してた。じゃあ、あの真っ赤な車は、瑠美さんのなの?江美の頭は、混乱していた。もう一度、コインを入れて、コーヒーをだす。一口、飲む。落ち着かない。膝が少し震えている。健二と彼女の、入り込めない空間が、ひしひしと伝わってきた。健二が彼女に向けた瞳、あんな風な健二を見た事がなかった。病院を後にする。電車の長椅子にもたれながら、江美は何の風景も、視野に入らなかった。洗いざらしのトレーナーの袖口が綻びかけていることに、気付いた位で、二人の光景が頭から離れない。
一人ぼっち、一人ぼっち。呪文のような透明な声が、どこかで聞こえてくる。いつもの街の風景が、西日の向こうに、スクリーンのように、流れていった。

第九章
回想マスター

アパートに、帰る気はしない。ただでさえ打ちのめされている孤独に、耐えられる筈がなかった。江美の足は、知らず知らずのうちに、居酒屋のマスターの店の前に、立っていた。格子戸を静かに開けると、マスターがテーブルの上を、拭いていた。江美に気付く。「江美ちゃん、どうしたの?今日は一人?顔色悪いよ。まあ、座ったら。おいしい番茶が、てに入ったんだ。」
江美は、カウンターに座った。自分のひじを枕がわりにして、暫く顔を伏せていた。マスターが暫くして、江美に声をかけた。「江美ちゃん、健ちゃんと、喧嘩でもした?」「ねえ、マスター、今日瑠美さんと、健二さんを見掛けたの。綺麗な人だったー。お似合いだった。ショック。立ち直れないよー」江美が顔を上げて、泣きそうな声で、マスターを見る。「江美ちゃん、あの二人のこと、詳しく知らないだろう。前に、健ちゃんが悪酔いした夜があったんだ。江美ちゃんと、知り合う前のことだけど」「健二さんに、聞いたことなかったよ。っていうか、私うまくしゃべれなくて、知りたいこと、何も聞けないまま、三ヵ月がすぎちゃったー馬鹿みたいでしょ」両手で湯飲みをつつんで、江美は一口番茶を飲む。「聞きたい」マスターは、そう言いながら、店の暖簾を、静かに中に戻す。
「健ちゃん、三年位前かなあー。瑠美ちゃんを助けたのは。」
「助けた?」
「瑠美ちゃんの、離婚話が縺れ込んで、あの子パニック障害になって、橋の上から飛びおりようとした時に、丁度健ちゃんが、仕事帰りに、通り掛かったんだ。健ちゃん、思わず駆け寄って、瑠美ちゃんを抱きしめて、言ったんだよ。」
「なんて?」
「とにかく、今は止めろ!警察にいろいろ聞かれるのは、俺だよ。宝くじ売り場が、あと10分で、閉まるんだ。今日までの販売なんだー。」「健二さんらしい」
江美は、クスッと笑った。マスターは、自分の愛用のカップにも番茶を注いだ。
「瑠美ちゃん、健ちゃんの説得の仕方が、あまりにも可笑しくなって、笑いだしたんだって。それで、健ちゃん、あのとおりのいい男だろう。瑠美ちゃんの一目ぼれだったんだ」「健二さんは」
「僕が思うのには、健ちゃん、関わった責任をとる性格なんだ。誰にでもね。だから、瑠美ちゃんのパニック障害を一緒に治してから、自分のやりたい事、ゆっくり考えるんじゃあないかなー。あれは、愛じゃなくて、責任感なんじゃあないかなあー」
江美の表情が、少し柔らいだ。マスターが続ける。「江美ちゃん、恋は、ゆっくり進めなくちゃー。しばらく、友達って感覚で、浅く広く、自分が向上する友達をたくさんつくりなよ。江美ちゃん、もう少し、おしゃれなんかもして、瑠美ちゃんを追い越してみるとかね。」
「マスター、それは絶対に無理だよ。マスターが亡くなった奥さんを、蘇らせない位に、ありえないよ」江美は、立ちあがった。「今日は、ありがとう。」「今日の話しは、健ちゃんには、内緒だよ」マスターは、笑いながら暖簾を掛けた。飲ま簾の文字が、外灯の明かりに揺れた。




第十章
回想仲間

江美は、前の小さな会社の、生意気な社長の息子に感謝していた。あの日、息子の横柄な態度に堪えかねて、会社をとびださなければ、この居酒屋に立ち寄ることもなかった。毎日従業員を、物扱いにし続けたあの腕組みした生意気な顔も、今となっては、有り難い。人間と言う生き物は勝手なもので、現在の状況次第で、過去を初めて認識出来るものなのだ。この店の常連の仲間入りをしてから、早一年が過ぎた。最初は、苦手に思えた常連も今の江美にとっては愛しいささやかな仲間となっていた。最初に、江美に抱きついてきた久兄さんも、未だに奥さんが家をでた理由が解らないまま、白髪には気を遣っている。久兄さんの愚痴にも、みんな慣れたようで、テーブルの一番端っこで今日も飲んでいる。お酒を飲むと人間ほ、本性を現すと何かのテレビで言っていた。アルコールが理性を溶かすのだと言う。でも、そのどちらも当て嵌まらない人が、一人いる。少なくても、江美が観察する上ではこの人は、解らない。彼はマスターの古くからの友人で、恋愛結婚して子供が四人。四十三歳にしては、髪形のせいなのか、童顔なのか、若く観られている。焼酎のお湯割りを片手に、ニコニコと美味しそうに味わっている。座る席は、彼にとってはどうでもいいことで、周りの状況に合わせて、気が付くときちんと席を確保している。「カズ兄さん、ちゃんと家族サービスしているの?まっすぐに帰らないで、奥さんに叱られないのー」健二がからかう。「大丈夫だよ。きちんと放し飼いにされてるから、忠実に家には帰るんだ。健ちゃんも、江美ちゃんと一緒になったら俺とおんなじ、年上女房になるよー」彼は話しをチェンジする度に、間接的に上手にグラスを空ける。
店の隅でいつも持参したギターを弾いている保健所のシンさん。書類大国の日本のお役所仕事を、嘆きながら飲んでは、一人ギターを弾く。「誰かーハモって歌ってよー」彼が不意に立ち上がる。カズ兄さんが手を上げる。「小咄にしてよー」のま簾の時間空間の居心地に、江美は心地よく酔っていた。健二の肩の向こうに、いつもの声がある。「マスター、このままここ、グループホームにしようよ」マスターが笑う。「それまで、この店もたないよ」健二が小さく笑って手をあげる「俺は、徳島に帰るよー」二回めの夏が終わろうとしていた。





第十一章
回想満月
暫く、健二からの連絡が途切れた。江美が、マスターに尋ねる。
「私、健二さんとやっぱり友達なのかなあー私の片思いなんだね」「僕も健ちゃん、よく解らないよ。本音を言わないから、誰にでも適当に合わすからね」「私、勝手に片思い続けるから。片思い二周年記念やってよね」
「江美ちゃんも、逞しくなったね。最初はオドオドしてたのにねえ。でも健ちゃん、ずーと瑠美ちゃんの独占かな。暫く来ないねえ」「今日は、中秋の満月だから、楽しみにしてたのに。曇りだよー」江美がいつもの癖で割り箸をいじっていると、突然格子戸が開いた「江美、元気してたか」振り向けば、屈託のない涼しい目が、立っていた。健二は話す前に、一度少し首を傾げ、小さく頷いてから目を見て話す。そんなしぐさが、江美は好きだった。
「元気じゃないよ。私誰かさんみたいに、背は高くないし、うす化粧だし、トラウマのミックスジュースになってるよ」マスターが、そっと暖簾を片付けている。
「江美、満月観に行こう」健二が軽く江美の腕をとる。
「満月って、今日曇りだよ」
「いいから、ついてきなよ」
「瑠美さんと行ったら」「瑠美が、あんな場所行く筈ないの。江美と行きたいの」
健二は、マスターに手で合図して、膨れっ面の江美を連れ出した。「乗れよ」
「これ、車会社のライトバンじゃあない。」「うん、親方に借りてきたんだよ。」
車の中は、機械臭がした。足もとに敷かれた新聞紙が、足に縺れる車は、大通りをぬけて、裏道を通り、街の雑踏から離れていく。健二が、エンジンを止める。「ねえ、この先に確かホームレスのテント小屋なかった。前の会社にいた時、道間違って来たことがあるよ。こわいよ。帰ろうよ」江美が足が止まる。「大丈夫だよ。車とめてから、少し歩くよ」小さな外灯が、ところどころに、設置されている。江美が、つまずいた。健二はふりかえり、すぐに江美に左手を差し出した。不意に背後から、鈍い上擦った男の、声がした。江美は健二の手を強くにぎった。「お二人さん、お金貸してくんない」暗がりでも輪郭が僅かにわかる。中年の男。男が、健二の肩を掴む。健二は、前を向いたまま、声をだして笑った。
「ゲンさん、相変わらず頑張ってるねー」
「その声、けん坊かー参ったなあ。デートかワルイワルイ、邪魔したなー」男は、髪を掻きむしりながら、暗闇の中に消えた。
「健二さんの知り合い、いったいどこで繋がってるの。」
江美は、ますます健二が、わからなかった。「江美、こっちこっち、ここに座れよ」健二は真っ暗な公園の、少し下がった場所のコンクリートでできた、丸いトンネルの中に背をもたれた。江美は、健二の隣に言われるように、背をもたせた。「そのまま、空のほう見てごらん」健二が江美に指さす方向に、外灯がひとつ立っていた。「江美、ジーとみてごらん。オレンジの月。満月だよ。輪郭もぼやけて光りを放っているだろう。江美を、ここに連れて来たかったんだ。ずーと前から」
健二は、辛子色のジャンパーを、脱いでそっと江美の肩に掛けた。「この場所に来たら、何の音も、しないだろう。あの翌桧の木を山の稜線に想像すると、徳島の山の中に帰れたみたいで、嬉しくなるんだ。真っ暗な山に、手の届きそうな満月。風の匂い。いつか江美に見せてあげるから」健二は、左手を江美の肩にかけた。ジャンパーの微かな煙草の匂いの中で、江美は初めて健二の腕の中、くちびるを重ねた。時刻は、今日から明日に。二人だけの満月が、いつまでも淡い光りを放っていた。

第十二章
回想瑠美


あれから、数日が過ぎた。江美はいつものように、仕事を終えようとしていた。担当した時間の売上をチェックしながら、ふと店の前を見ると、一台のタクシーが止まった。見覚えのある顔だった。一瞬病院の休憩所で見た、一年前のあの光景がフラッシュバックされた。瑠美だった。シルクの薄紅色のワンピースが、手動式の自動ドアの前で立ち止まる。瑠美は手の甲で軽くボタンに触れ、まっすぐに店に入って来た。
江美は一瞬戸惑いながら、瑠美を見た。瑠美は店の奥をチラッと見る。キリッと引き締まった唇が、微かに動く。
「お客じゃないの、あなたが、江美さん?」「そうですけど、どちら様ですか」江美は自分の体が少し震えるのを、止めるように、カウンターで隠れた両手を強く握り締める「あたし、健二の婚約者の高木瑠美です。驚かせてごめんなさいね。あなたと少しお話がしたくて、お暇つくれるかしら?」芦屋の生まれなのか、瑠美のイントネーションで江美はそう感じた。
「何してんねん、はようかえりなー」
店の奥から気をきかせるように、主任の声がした。「外で待ってて下さい。すぐに終わりますから」江美は、慌ててバックを手に、店の外にでた。二人は、とりあえず近くの喫茶店に入った。瑠美は、レザーの椅子の擦り減った部分を、人差し指でなぞりながら、江美を見た。
「徳島出身のマスターの店に、健二時々顔だしてるでしょ。あたしは、居酒屋嫌いだから、行ったりしないけどそこの客がうちの友達のやってる工務店に雇ってあげててねー。江美さんのこと、言ったんよー健二とアヤシイよって、健二とられるデエってね」瑠美のゴールドのマネキュアが、カップの渕をなぞる。江美は暫くして瑠美を直視し、少しタイミングをずらし答える「付き合ってません。あんな素敵な方と、こんな私が、付きあえる筈ないじゃあないですか」江美がカップを両手でつつんで一口飲む「あんたーわかってるじゃない。あたしと健二はずっと前から愛しあってるのよ。健二のこと、何も知らないでしょう。あたしはな、健二の全てを知ってるのよ」瑠美は勝ち誇った表情で、腕組みをした。「健二、どこの生まれか、知らないでしょう。健二、徳島市内の仏壇店の後継ぎなんよー。親と喧嘩して、家飛び出したんだって東京ー大阪ー神戸ってわけなん。健二のこと一番解ってるのあたししかおらんしーまあ、あなたとは、同郷のよしみってことで、相手にしたんやと思うわー。邪魔せんといてー。それだけ言いたかったの。あたしの病気は、治らないのよー健二は、ずーとあたしの処方箋ってわけなんよ」瑠美は、背筋をピンと張り、立ちあがり、先に店を出た。江美は、一度も反論できなかった。自分が、惨めで情けなかった。瑠美の香水の香りが、いつまでも、そこにとどまっていた。コーヒーは、醒めた時間に、冷えきっていた。「ワルイやつじゃない」瑠美をかばったあの日の健二の背中を、思いだした窓際に置かれたサルビアの花が、一枚落ちた。

第十三章
回想結婚
瑠美の毅然とした眼が、脳裏から離れない。「変な女が、訪ねてきて、参ったよー!馬鹿じゃない。初対面の人に対してあれは、性格悪いよ。親の顔が観てみたい、どこが良くて付き合ってるの、男って、単純の固まり」健二に大きな声で叫べたら、どんなに楽だろう。聞きたいことが、ある時に限って、残業続きの健二に、会えない。携帯電話で話すには、内容が重たい。健二が、しつこい話しが嫌いなことは、久兄さんの話しを、ほとんど聞かず相槌を上手くうつ態度で解る。
「江美ちゃん、今日もひとり?」
テレビの台風情報を気にしながらマスターが聞く。
「あのね、みんなどうして、結婚するの?」「妻を亡くして、三年のヤモメには、ちょっとキツイ質問だなー僕以外の人に聞いてほしいなあー」マスターがカズの顔をチラッと伺う。「こっちに振ってくるかー、今日は口のかるーい人が欠席だから、たまには、江美ちゃんのお話に付き合ってみるか」
「それって久兄さんのこと」江美が振り向きながら、カズを見る。「女は誰でも最初は初々しいわけよ。付き合ってる時は喧嘩して拗ねても、言い訳するタイミングを余裕で空けてくれてたしー」
「結婚したらどうなった?」江美が、椅子ごと体勢を変えながら、声を弾ませる。
「余裕なんて、全然ナシ!自分のことは、棚に上げといて、文句マシンガンの連打、あれは、お経の世界だよ。毎日同じこと言ってるよ」カズは、グラスを空けて、マスターに合図を送る。
「なんか、気の毒だなー」江美は、割り箸を指でなぞる。
「だろう、かわいそうだろー。あいつも昔はちょうど、今の江美ちゃんみたいに恥じらいがあったんだよー。帰れるものなら、今の子供達連れて、あの頃のあいつと一緒になりたーい」
「マスター、カズ兄さん、今日はよくしゃべるね」「江美ちゃんに気を遣ってるんだよ。久に聞いたんだよ。久が瑠美ちゃんに江美ちゃんのこと話したって、健ちゃんにはそれとなく言っておくよ、それより、江美ちゃん顔色悪いよ、風邪じゃない?」「うん、アリガトウ。私の風邪より、台風が心配だね。マスター、明日、台風来たら、帰れなくなるね。徳島であるんでしょう、奥さんの法事」
「うん、お墓は、藍住だからねー女房の口癖だったから。死んだら親の隣にお墓造ってって。なんて言いながら、親のほうがまだ元気で長生きしてるよ」
「マスター、結婚してよかった?」「よかったから、もう一度したい」
マスターが、暖簾を片付けながら、自分のジョークに笑っていた。つけっぱなしのテレビから、台風22号の予想針路が、流れていた。降り出した雨音が江美の小さなクシャミを、そっと掻き消していった。

第十四章
台風の夜

江美は、アパートの布団の中にいた。朝から、熱っぽい。身体がだるい。バイトは休みをもらった。気休めにつけたテレビは、朝から台風情報ばかり。今日の夜中に、関西に上陸します。きれいな標準語のアナウンサが、天気図を、解説している。確か前に買って置いた、解熱剤が残っていることを、思いだし探してみる。風邪なんて、何年ぶりだろう。台風と風邪が、いっしょにくるなんて、ついてない。外にでる気力も残っていない。とりあえず、歯は磨き、顔を洗う。バサバサの髪形は、どうでもよかった。アパートの外にでなければ誰にも会わない布団の中で、ひたすらじっとしている。台風の余波なのか、薄い硝子窓が、輪ゴムで弾いているような、嫌な音をたてている。
熱が、下がらない。何も口からいれないで、ひたすらスポーツドリンクを、飲み続けている。夕方につれて、雨足が、ひどくなってきた。外が見えないように、カーテンを引く。外の外灯が、雨のカバーをかけられているように、いつもより、暗く感じる。どこかで、金づちを打つ音がするカーテンのすき間から、カッパを着て持ち家の周りの盆栽を片付けているのが、見える。すき間を、洗濯バサミで、もう一度とめる。″ドンドン″アパートのドアを、誰かが叩く。怖くなって、布団をかぶる。
「江美ーいるんだろう携帯の電源、切れてるよ」健二の声がした。なんで、この場所がわかったのか、紛れもない健二の、声だった。ふつうなら、髪でもといて、カギをあけるのだろうけど、熱で麻痺して、判断力がでない。江美は、チェーンをはずす。
「江美、大丈夫?それにしても、ヒドイ髪だなあー。嫁にいけなくなるよ。」
健二は、さっさと部屋に入ってきて、買ってきた果物とジュースを冷蔵庫に片付けていく「江美、薬のんだ?」「ないのー探したけど飲んでない」
「ほらっ、これ飲んで」健二は、横になった江美に、錠剤とコップに入った水をわたす。江美の右手に健二の手をそっと添えて、薬をゆっくりと江美のくちに、はこんでいく。
「暫く、眠れよ。熱下がるまで」
「健二さんは、帰るの「帰りたいけど、ギリギリで帰れなくなった地下鉄、台風で再開まで、時間見合わしているんだって。暫く雨宿りさせていただきます」健二は、畳に座り、膝をついてお辞儀をした。江美が、小さく笑った。健二は、アパートの壁に持たれて、江美を見ていた。

第十五章
夜明け前

激しい風が、木造建てのアパートの壁を、少し揺らす。江美は目を覚ました。豆電球の明かりが僅かに揺れている。視界の中に、映ったものが、暫く曖昧になる。健二が居る。壁にもたれて、江美を見て小さく頷いて微笑んでいる。江美は、さっきまでの記憶を整理する。雨音が、激しい。「江美、少しは楽になった?」聞き慣れた健二の声が、動悸のように、胸いっぱいに広がっていく。「うん、頭少し痛いけど大丈夫」江美が、小さな声で答える。壁の時計が、12時を少しまわっている。「今、台風の中心淡路島だって」健二がテレビをチラッ見て、小声で言う。「私、すごく迷惑かけちゃった。あのままだったら、倒れてたかも知れないね。ゴメンナサイ」江美は、額にあてられた冷たいタオルを右手でそっと床に移した。「江美のごめんなさいは、百回聞いたから、もういいよ。それより、江美のマユゲ、繋がってるよ。たまには手入れしたら?」健二が江美の頭の上で、人差し指を走らせながら、小さく笑う。「こんな時に言わないでよー」江美は、布団の中に顔をもぐらせる。「江美、テレビ観てごらん」布団を指でつつきながら、健二の声が、はしゃいでいる。「さっきから台風情報の合間に、日本の秘境って番組適当に流れてるんだ、今から四国がでるよ」健二の声に、江美は布団の中からブラウン管を覗く。クラシックのメロディに乗せて、江美にも見覚えのある風景が、映しだされる。「あっ、ここバス遠足で高校の時に行ったよ」江美が布団の中から右手を出して、健二の腕を思わず掴む。健二は江美のその手を右手でそっとつつんで、じっとブラウン管をみつめてる。ゆっくりと揺れるかずら橋が、画面に映っている。健二は、暫く黙っていた。「健二さん、行ったことない?市内から近いでしょう?」健二は、チラッと江美を見て、声のトーンをさげて、小声で言う。「健二さんは、もういいよ。健二ってなんで呼び捨てにできないかなあー江美は、ホントに優等生だなあ。」「だって、付き合ってないもん」江美が、少し拗ねてみせた。繋いだ指を、健二は強く握りなおして、ぽつんと言った。「江美、祖谷って、知ってるか」「イヤ」「うん、江美のイントネーションおかしいよ。イヤーじゃなくて、普通に祖谷って言ってごらん」「健二さんは知ってるの。イヤのこと」江美は、健二の横顔をみつめる。「生まれたんだよ。ここで、かずら橋のずーと先の、山のてっぺんで」健二はまた小さく肩を上げる。「健二さんは、市内で生まれたんでしょう。仏壇店の家出した一人息子、イヤで生まれたって、テレビに、調子合わせて、からかわないでよ」江美は、指で髪の毛を少しずつといていく。「里の江」ぽつんと健二が言葉を放つ。「江美の江とおんなじ、里の江で生まれたんだ。」健二のこんなに真剣な眼差しを見たことが前に一度だけあったことを、江美は思いだしたていた。公園でみた外灯の満月の記憶が、甦る。江美はゆっくりと身体を起こす。江美の肩に、さりげなく健二は、バスタオルをかける。「江美、連なる山って、見たことあるか、山が自分の目の前で、動かないんだよ。緑の匂いが、一面に拡がるんだ。谷間から、風が空に向かってまっすぐに吹いてくるんだ」江美は、黙って健二の話しに頷いている。台風は、通り過ぎていた。少しの沈黙が二人を包む。テレビは、台風の針路予想を、無江美が聞きなおす。健二は、壁にもたれたまま、自分の横に江美を手招きしてそっと手音で流している。健二はまた小さな声で、ぽつんと言った。「雲上寺」「ウンジョウジ」をとる。「江美、一緒に帰ろう」健二の澄んだ瞳が、江美をまっすぐに見つめた。「山の中で、ゆっくり歳をとっていくんだ、江美は、クシャクシャ頭のおばあさん、俺は、歳をとらない山の達人」健二は顔をまた傾けて、江美の頭を撫でて、クスッと笑う。「ズルイよ。自分もお爺さんにならなくちゃー」江美は健二の腕を、引っ張る。窓の外は、ゆっくりと淡いオレンジ色が拡がっている。「俺は、お爺さんには絶対ならないよ、江美のこと、ずっと守っていきたいから」健二は、江美を静かに抱き寄せた。夜明け前、二人は初めて、互いの体を確かめあった。

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天女花(OOYAMARENGE)   SANE著 

2016年04月20日 | Weblog

第十六章
祖谷へ
「江美ちゃん、今日はごめんよ。一緒にそっちに行けなくて」
「マスターこそ、ヘルニア大丈夫?まだ動けないんでしょう」
「参ったよ、健ちゃんとの最期のお別れに、参列出来なくて、昨日から男泣きしてるよ。江美ちゃん、葬祭場わかったの?」
「うん、高速バス降りてタクシーに乗ったの。三加茂って所。なんか今朝から何してるのか、夢の中にいるみたい。アッ、終わったみたい。また後でかけるね」江美は慌てて、携帯をバックに入れる。葬祭場の中から、まばらに参列者が出てきた。江美の傍にさっきの中年の係員が、近づいて来た。
「あのう、失礼ですが、神戸からおいで下さった方ですか?」さっき、江美が受付で書いたカードを手に、係員が、お辞儀をする。
「はい…」江美が、小さな声で返事をする。「遠方を来て頂きまして、中に入って休んでいって下さい。軽い食事の用意が、出来てますんで。でないと、園長に私のほうが叱られますー。お願いします」また、お辞儀を繰り返す。
「園長?」
「はい…今日の葬儀の喪主なんです。つくし園の園長さん…」江美は、初めて聞いたその名前の、意味が解らないまま、一瞬キョトンとする。江美は、男の勧めるまま中に入る。
テーブルが列んだ、部屋に通された。ペットボトルに入ったお茶と、オードブルが並べられている。知らない人ばかり…江美はテーブルの一番端の椅子に、少しあさめに座る。瞬く間に椅子が、、うめつくされていく。つかの間の静寂が、はしる。白髪まじりの、六十を超えた位の小柄な女性が、前に立って、深々とお辞儀をする。周りをもう一度見渡して、ゆっくりと挨拶を始めだした。
「本日はお寒い中、島田健二君の告別式にご参列下さり、有難うございました。健二君はわたくしどもが、去年まで運営しておりましたつくし園の、十六年前の児童の一人で、ございました。十二才の時、今は泣き先代の母が園長をしている時、児童相談所の方が、お世話して下さり、つくし園にきたと、母の日記に残されておりました。健二君は、中学を卒業してからも、つくし園に毎月、仕送りを続けてくれておりました。つくし園にきてから、健二君は、先天性心疾患が、見付かりまして、やはり、最期は心不全という、可哀相な亡くなり方を、されましたが、健二君のお志しを有り難く受けとりまして、本日の葬儀の運びとなった次第でございます。健二君には、身内の方がおられません。お骨は、暫くわたくしどもが、手元におきまして、折々、考えていこうと思っております。
長い挨拶となってしまいましたが、本日は誠に有難うございました」長い挨拶が、終わった。江美は、しばらく硝子窓から見える、土手を見ていた。身体ごと、いきなり海に放り込まれたような、感覚が走る。曖昧だった、誰もしらなかった健二が、この町の片隅にあった。風の行方が、江美の中で、ひとつになった。


第十七章
祖谷へ
次の日、江美はマスターの、入院先の整形病院に向かった。四人部屋の窓側のベットに、天井を見つめながら、横になったマスターがいた。「アッ、江美ちゃん来てくれたんだ。悪いねー」「仕事終わったら、こんな時間になっちゃった。面会時間、8時までだよね」「昨日、あれから江美ちゃんに電話で色々聞いて、ずーと考えてたんだー健ちゃんが、自分のこと何も話さなかったこととか、僕は健ちゃんのこと、一番解っているつもりだったから、情けないっていうか、江美ちゃんは、何か聞いてたの?」江美は、黙って首を横に小さく振った。「情けないのは、私のほうよ、あの日に限って母親の付き添いに行くのに、アパートに携帯電話忘れて行ったから、健二さんが病院に担ぎ込まれたことも、何も知らないで、私って、何処までついてないんだろーって、馬鹿みたい」
「そういえば、江美ちゃんのお母さん、ずっと危篤が続いていたって、大丈夫なの?」マスターが少しだけ、ベットの上体を起こしながら、尋ねる。
「可哀相なんだよー。また死ねなかったの。この次今度みたいになったら、人工の呼吸器だって…」江美は、そっと俯いた。不意を突く様に、堪えていた涙が溢れだした。自分でも、押さえることの出来ない鳴咽が、消灯時間を待つ、病棟に、響き渡っていた。何の言葉もかけずに、泣かせてくれる、マスターの優しさが、うれしかった。「江美ちゃん、元気になったら、また店においで。その頃には、退院してると思うから」
江美は、病院の外に出る。二月の雨が、肩に冷たい。すべての感情を包みこんだ雨が、雫になって、アスファルトに落ちていった。

第十八章
祖谷へ
あれから3カ月が過ぎた。「太陽が昇り、太陽が沈み、それが繰り返されるだけ。自然の営みの中で、自分の感情を当て嵌めて、進んだ方向を、人は人生と言う。今日という一日の積み重ねが、一カ月となり、月めくりのカレンダーなら、12枚で一年が終わる。人生は、自分で創るものなんだ、宿命だとか言って誰かのせいにしてみたり、時間のせいにしてみたり、何回も後悔することが、当たり前のように、なってしまう。そんなの可笑しいだろう。俺、今マジで良いこと言わなかった?」いつか、健二が居酒屋で江美に言ったことを不意に思いだした(のま簾)の店を訪ねた。懐かしい顔が揃っていた。最初は、江美を気遣い健二の話はみんな、避けていた。店終いの頃、マスターが不意に口にだした。「みんなで、健ちゃんのお墓参りに、行こう。梅雨に入る前に」江美は一瞬マスターを見た。残っていた、カズ兄さんがきり出す「健ちゃんの墓は、何処にあるの?」「江美ちゃんは、聞かされてるだろー?」江美は、そんな事を思い突かなかったことに、初めて気が遣いた。また、健二の言葉を思いだした。「江美は、よく生活してこれたよ」江美は、スクッと立ち上がった。「私祖谷に行って来る」。

第十九章
祖谷へ

江美は、阿波池田のバス乗り物にいた。ここから、祖谷行きのバスが出ている。途中で立ち寄った、つくし園の園長さんの言葉が、嬉しかった。
「健二さんのお骨を、どこに納めれば、一番の供養になるのか、主人と悩んでいたのです。どこが、健二君の故郷なのか、解らないんです。お願いします。これは、少し気持ちです。宿代にでもして下さい」
祖谷の旅行案内は、マスターが全部揃えてくれた。健二さんが、今の私を見たら、何て言うだろう。あの泣き虫江美が、一人で?強くなったなあーなんて、少しは褒めてくれるかな。でも一緒にいてね。バスに、乗り込む。それにしても、さっきのバス券売り場の人の、機嫌が凄く悪かったことと言ったら、私がかずら橋のずっと先って、どこですか?とか、いっぱい尋ねるものだから、途中の民宿にでも泊まって、聞いたらって、神戸の人のほうが、もう少しは、きちんと対応してくれるよねー健二さん。江美の胸は、高まっていた。健二の生まれた場所に行けること。育った場所に行けることが。「江美にだけは、見せたい場所がある」健二の、あの日の言葉を、信じたい。健二に出会うまでの私に戻っただけのことなのに、今は、違う。愛されたと言う真実が、ある。心は、一人ぼっちではない。健二と、過ごした二年の日々が、これからの私の肩を、押してくれる。絆は、身体でつくれはしない。絆は、お互いの愛情のくりかえしが、重ねた時間の中で、造りあげているものなのだ。健二は、それを教えてくれた。電話でマスターが話してくれた。「瑠美ちゃん、健ちゃんに振られていたんだって。故郷のイイナズケがみつかったから、一緒に故郷に帰って、星の数数えるって」瑠美ちゃん、綺麗な女なのって、聞いたんだって。そしたら健ちゃん、何て答えたと思う?
「クシャクシャ頭の泣き虫女」





第二十章
祖谷へ

バスが、大歩危を過ぎた頃、橋の手前に、『東祖谷』と書いた標識が見えた。運転手は、手慣れたハンドルさばきで、左に曲がる。ほんの少し、江美の体が、右に傾く。バスは、右手に針路をとりながら、山に沿うように曲がりくねった道を、上に上にと登って行く。「空に続く道…」ふとそんな独り言が、口から零れた。かずら橋で、さっきまで乗り合わせていた、観光客と判る数人が、一斉に荷物をまとめ、下車して行く。乗客は、阿波池田から乗車していた中年の女性と、江美の二人だけになった。運転手は、チラッと後ろを見て、バスは発車した。かずら橋を過ぎた途端に、急に道が狭くなる。窓から入る風が少し寒い。長袖ニットの袖を、下ろす。「この道の先に健二の故郷があるの?」江美の心に不安がよぎった頃、右斜めに座っていた中年の女性が振り返って、江美に声をかけた。
見るからに、人のよさそうな方だった。「お仕事ですか?」「いいえ、ちょっと行きたい場所があるんです」「どちらから?」「神戸です」会話が気になるのか、運転手がミラーで後ろをチラッとみる。「今日は、どっかで泊まるんでしょう?」「東祖谷っていうところなんですけど、場所が判らなくて…」
そう言いながら、ふと前方を見た。丁度緩やかなカーブを、バスが左に少し曲がった途端、江美の視界にそれは、飛び込んできた。『動かない山』さっきまで、山を背景にコンクリートの建物や、色とりどりの看板が、目立っていた。それに気を止められて気が突かなかっただけ。確かに山は、存在した。動かない山々が、様々な緑色を放ちながら、バスの窓一面に、迫りくるように拡がっている。真っ青な空に、繋がっているような、緑の不揃いな稜線。大自然の胸に、抱かれていくように、バスは蛇行運転のように、そこに吸い込まれて行く。

第二十一章
祖谷へ

「役場前で降りたら、民宿もあるし、色々聞けるかも」
江美が、景色に夢中になっていた時、女性が振り向いて、話しだす。「役場?」江美がキョトンとした顔で聞き返す。運転手は、またミラーで後ろを見ながら、突然大きな声で、話しに入ってきた。
「あと、10分位したら京上に着くけん、役場の前で止まってあげるけん、民宿も旅館もよーけあるけん、そこで聞いたらええわー」運転手は、意気揚々でハンドルをきる。女性が振り向いて、運転手を指さし江美に目で合図して、眉間にシワをよせた。その仕草が滑稽で、江美はクスッと笑った。女性と一緒に、バスを降りる。江美は、自分がここまで来た目的を彼女に話した。初対面なのに、何故か彼女には、打ち解けて話せた。不思議な感覚がした。夕方まで暇だから、付き合うわと言いながら彼女は、手慣れた様子で役場に入る。人込みの中で、健二の背中を追い掛けたように、彼女の背中にぴったりとくっついて行く。役場の職員が、江美を好奇な目でチラチラと見る。産経課とプレートの掛かった前で、彼女は立ち止まり、四十代位の男性職員に、声を賭けた。「ちょっと教えてあげて、私でも知らない地元のことなんだけど」男性職員は、チラッとこちらを見て、何か急ぐ用件があるのか、面倒くさそうな顔で、近づいて来る。「知らない事って?」答えながら、江美を見る。「あのねー、この人、わざわざ神戸から来てくれたんだけど、彼女の探してる在所の名前、どこか調べてくれない。私、祖谷でずーと住んでるけど、初めて聞いた名前なのよ」彼女の声が、シーンとした管内に響く。別の課の職員が、ボソボソとこちらを見て何か言っている。バスの中で、この人と、出会えてよかった。こんな場面いち番苦手…江美は、女性の後ろで、視線だけを必死で受け止めていた。男性職員は、色々な大きさの地図を、無造作に受付のカウンターに、広げていく。「里の江…里の江…」口ごもりながら、目で追っていく。女性も職員の見終えた地図を、確かめるように、指先を滑らせていく。暫く、繰り返される。職員が、全ての地図を見終えて、最後の一枚を手からカウンターに、投げるように置き、肩を大きく上下しながら、言い放つ。「ない!ない!これだけ調べてないんじゃけん、よその村じゃないん!」江美を威嚇するように、見る。女性は、江美を見て首を少し傾けて目で合図をおくる。江美は、首を大きく横に降る。動かない山を、バスの窓から見た瞬間に、江美は確信していた。この村のどこかに、健二の生まれた場所がある。威嚇されようとも、引き下がる訳には、行かなかった。「商工会は、商工会なら何か判るんじゃない。電話してみて」女性が、電話を指さして、職員を見る。職員は、壁に掛かった大きな時計を、チラッと確認する。時刻は、5時を指している。他の課の人は、机の回りの片付けをはじめる。男性職員は、不機嫌な顔で、商工会に電話をかける。受話器をきり、女性に手を横に振り、手応えのなかったことを伝える。時折、こちらを見ていた、メガネをかけた上司らしい人が、ニヤッと笑いながら、近づいてきた。メガネの下の目つきに、江美は嫌な感じがした。親しげに江美達の前に立ち、口を開く。「里の江、里の江って、それは祖谷の里って、意味じゃあないんで~お嬢さんが、神戸で聞き間違えたんだろ~祖谷の里って言うたのをー。祖谷そばでも食べて、神戸に帰ったら、もう今日は、バスもないけんなあ~そばは、いっぱいあるわー」上司の言葉の終わらない内に、女性は江美の手をとり、役場の玄関を出た。一瞬、健二の手の感触に似ていた。「てらおの兄さんに、明日相談しよう!てらおの兄さんなら、何とかしてくれるわ」女性は、江美に近くの民宿を紹介してくれた。民宿『芳田』江美は、荷物を下ろす。西日はすっかり沈み、大きなタヌキの置物が江美を、迎えてくれた。

第二十二章
雲上寺

浅い眠りのまま、江美は、朝を迎えた。夜中から降り出した雨の音で、時折目を覚ました。変な夢を見た。布団から起き上がってしまうと、忘れてしまいそうで、江美は暫く天井の電灯の小さな穴を見つめながら、思いだしていた。健二が、縁側に座って、白い花を見ていた。その格好が、可笑しかった。見たことのない、奇妙なものを、背中に背負っていた。竹ホウキの先を、ペッタンコにしたような形だった。「何、してるの~」江美が尋ねると、唯、こちらを見て微笑んでいる。一匹の小さな鳥が、健二の肩に止まる。鳥の毛は辛子色。鳥は、江美の方向に、一瞬まっすぐに飛んで来る。江美が、目を閉じた瞬間、鳥は真っ白な羽に変わり、大空に羽ばたいて行った。健二の姿も、消えた。泣きじゃくる江美の肩に、真っ白な羽が幾つも幾つも、落ちて来る。「私、夢の中でも泣き虫…」江美は、起き上がって、身支度をはじめた。昨日の女性の名前は、覚えた。地元の菜々子さん。夫に大失恋をして、娘さんが医大のお医者さんと結婚し、悠々自適の一人暮しって言ってた。菜々子さんが、昨日言っていた「てらおの兄さん」と朝の9時に、民宿の駐車場にて、待ちあわせの約束をした。駐車場に向かうと、菜々子が、白いハコバンの後ろに乗って、江美を見つけ、手をふっている。「オハヨー、少し顔腫れてる?」やっぱり腫れてるかなと、江美は、頬を撫でながら、車に近づく。運転席から、五十才位の男が、降りてきて江美を見て、軽くお辞儀をする。「はじめまして~てらおの兄さんです」小さな目で、気さくに笑う。「神戸から来ました、斉藤江美です」江美は、深々とお辞儀した。江美が、言葉を言いかけると、てらおは手のひらで合図を送り、話さなくてもいいという仕草をする。
「江美ちゃん、早速だけど、てらおの兄さんの知り合いに、東祖谷山村の物知りお爺さんが、いるんだって。今からそのお爺さんちに、行こう!」菜々子が、ガッツボーズを軽くとる。三人は、お爺さんの住む落合という在所に、向かう。ガタガタ道を、数十分走る。小さな茅葺き屋根が、坂の上に、見えた。三人は、坂の途中に車を止める。茅葺きの家の前で、真っ黒に日焼けした老人が、黙々と石を掘っていた。「吉時爺さんー」てらおの呼び掛けに、深いシワの老人が、ふりかえる。「おー、一番弟子のおでましかー」「爺さん、教えてほしい在所が、あるんじゃー」てらおの後ろで、江美達は軽くお辞儀をする。二人に気が付いた老人が、にやけた仕草で、てらおの肩を、つっつきながら言う。「お前、相変わらず嫁はおらんけど、野暮用には、モテるのー」「相変わらず、爺さんも口わるいのー」てらおが、髪を斯く「用事はなんな、ワシはお前らヒヨコとちごうて、祖谷のことなら、全部わかるぞー、祖谷ソバや、海を渡ってデリシャスじゃー」意味不明のダジャレに、江美は笑った。久しぶりに笑った。初めて会った人達なのに、懐かしい位の、優しい時間がすぎた。
お昼にしようと、菜々子が食堂に連れて行ってくれた。三人は、食事「山荘」の暖簾をくぐる。座敷の間に案内された。てらおが、一気にコップの水を飲みほして、吉時爺さんに聞いたことを、話しだした。さっき、菜々子は江美を誘い、吉時爺さんの石を見て、ぶらぶらしていた。吉時爺さんが、てらおとゆっくり話せたらと、菜々子の気遣いだった。「やっぱり、あの爺さんは、英語いうだけあって、よう知っとるわ」「どうだった?何て?何て?」菜々子が、テーブルを軽く叩く。江美は、両手を握りしめて、てらおの口元の動くのを、ジッと見る。「江美ちゃん、わしも、祖谷に帰って十年位たつけど、知らんかったわー。雲上寺のこと」「雲上寺?何それ」菜々子が、身を乗り出す。座敷の戸が開く。ソバのだし汁の香りが、漂う。綺麗な顔だちの女将さんが、三人の前にゆっくりと、ソバを置いていく。菜々子に軽くお辞儀して、出ていった。てらおが、先に割り箸に、手をかける。「ちょっと、お客さんが先でしょう!」菜々子が、てらおを睨む。江美が、クスッと笑う。菜々子が、不意に江美をジーと見て、口を開く。「なんでこんなに可愛いのに独身なの~笑うとでる右のエクボ、いいよね。小柄だし、無口だし、私の若い時と似てるわー」「どーでもええけん、ソバ食べながら、聞いてくれ、今の話し」てらおが、ソバを食べながら、忙しく話す。黙って聞いていた、江美が初めて口を開く。「雲上寺の話しは、健二さんから一度だけ聞きました。雲の上で生まれたって」江美は、小さくソバを啜る。「その雲上寺の場所が、判ったんじゃ!吉時爺さんが、その場所知っとった。雲上寺に行ったら、全部判るって。」てらおが、少し興奮気味で、ソバを完食した。菜々子が、ゆっくりとソバを完食し、箸を置き、江美に言う。「江美ちゃん、今日で江美ちゃんの中の答えがでるね。今から行って見よう。雲上寺。乗り繋かった船だから、沈没も一緒だよ」菜々子の優しい声の横で、てらおは、二杯めのソバを注文していた。江美は、泣きそうになる気持ちを、必死に堪えた。不意に窓の外を見る。小雨は止み、インクを落としたようなグレーな雲が、彼方に浮かんでいた。

第二十三章
それぞれの旅立ち

三人は車に乗り込んだ。江美の携帯がなる。てらおは、一旦エンジンを切り、タイミングを、ジッと待つ。「江美ちゃん、昨日からかけてるのに、やっと繋がったよ。電源、切ってたの?」マスターの声だった。数日しか、会ってないだけなのに、懐かしい。「江美ちゃん、どう、健ちゃんの故郷、みつかった?一人で、大丈夫だった?」声が、胸の奥にしみる。安心してしまう。マスターの横には、いつも健二がいた。思い出が、交差する。江美は、マスターに、今まで判ったことを、報告した。マスターは少しテンションをあげた声で、話しだした。
「江美ちゃんが、祖谷に出掛けたあとで、どうなったと思う?」「何が、どうなったの。急に聞かれても、判らないよ~」「あのさあ、のま簾の連中、健ちゃんの生き方で、目が覚めたんだって。保健所のシンさん、いつも飲んで愚痴ってただろう。同期の宮尾って奴と、うまがあわないって!シンちゃん、飲み会の席で、宮尾と言い争いになって、用意していた辞表で、宮尾の顔面叩いて、握り拳で、一発殴ったんだって」「すごーい」「それで、ギターひとつ持って、東京にいったよ。弾き語りして、のんびりメジャー、目指すって」江美が、携帯電話を片手に、目をキョロキョロさせるので、てらおと菜々子は、目を合わせて笑っている。「それから、カズだよ、カズ!」マスターの声が、更にテンションを増す。「カズさあ、あいつ、徳島に帰るって」「えー奥さんの故郷に?」「奥さんが、前から趣味で焼いてたパン、自然何とかパン!」「マスター、それなら、天然酵母パンでしょう。前にみんなで、食べたよねー」「そう、そう、そのパンを故郷の水で造りながら、家族でペンション経営するって」「カズ兄さん、よく承知したわねー」「ゆうべ、焼酎飲みながら、あのヒョウヒョウとした顔で、言うんだよー」「なんて?」「家族が一緒なら、どこで生活しても、同じだよ。俺は、あいつと一緒になったんだから!」「カズ兄さんが~渋ーい 」江美が、電話に手を当てて、小さく笑う。マスターの声が、いつものトーンに戻る。「江美ちゃん、健ちゃんのこと、落ち着いたら、帰っておいで。みんな、待ってるから。じゃあ、また連絡するよ」電話を、切った。涙が、膝の上に落ちていく。後から、後から落ちていく。菜々子が、テイッシュを差し出しながら、てらおに言った。「江美ちゃんの、泣き虫なところが、好きだったんじゃーないのー健二さんっていう人」てらおが、エンジンをかけながら、江美に振り返り笑う。「こんなおばさんには、なられんぞー江美ちゃん」車は、発進した。

最終章
天女花
車は、西に向かって走る。佐野と書いた小さな標識が、出ていた。「これ、この道のずーと上に、営林署が抜いた道が、あるんじゃ。ちょっと道、悪いけど麓から歩くより、ずーと楽じゃけん、この道行くけん、辛抱してよ」ハンドルを必死で押さえながら、てらおが言う。一時間ほど、走っただろうか。大きな木の根元に車を止めた。「ここからは、歩かなきゃーダメなんだよね」てらおの兄さんは、なぜか、時々関東弁を喋る。「歩くって、どれ位」菜々子が、木切れを探しながら、聞く。「30分位。営林署の道なかったら、3時間はかかるぞ!」てらおは、自信満々に答えながら、暗い杉の中の道を、上がって行く。茂みの中から、山鳥がいきなり、音を起てる。江美は、一瞬立ちすくむ。後から、菜々子が喋りだす。「かなり、高いよ、この場所。下界の音なんか全然しないし、空気違うわーもしかして、あの木の向こうの明るくなってるとこ、あそこら辺、曲がったら、別世界とかー?」江美も、前方を見る。「正解!あそこまでがんばったら、雲上寺見えると思う。」「思うって?」菜々子がてらおを呼び止める。「わし、この道、前に来たことあるんじゃ、雲上寺っていうのは昔の呼び名」「昔の呼び名?」菜々子は、キョトンとてらおを見る。二人のやり取りを黙って聞いていた江美が、いきなりはしゃいだ声をあげた。「空と、かくれんぼしてるみたい~。綺麗。緑の葉っぱ、トトロの世界みたい。緑の中って、こんなにいい匂いだったんだー」「江美ちゃんが、言うと可愛いらしいなあー」てらおは、タオルで額の汗を拭きながら、前を指さした。一気に、駆け上がり、彼方を見て叫んだ。「やっぱり、宮の内の和尚さんの寺じゃー。十年前村に帰った時、ここに来たことある。」江美達も、駆け上がった。
彼方の畝裾の向こうに、寺の屋根が、西日を受け、キラキラと黄金色に、輝いていた。振り返ると、幾層にも連なっている、山々が眼下に見える。静かな、音のない世界。巨大な緑の中から、鳥の声だけが、飛び込んでくる。深い渓谷から、風がまっすぐに渡ってくる。江美は、健二の気配を、身体中で、感じていた。
「和尚さん、おるかえー、宮の内の和尚さん」てらおが、庭から声をかけながら、本堂に近づく。本堂は、綺麗に片付けられ、開け放されている。仏間には、ローソクが点され、お線香の香りが、庭に漂っている。中から、細面の小柄な、上品な住職がでてきた。住職の目が、江美を見て止まる。「おー、里さん里さんかー」住職は、目を潤ませている。てらお達が、訳が判らずに立ちつくしていると、母屋から五十才位の女性が出てきて、住職の肩を撫でながら、小さな声で、話し出した。「ごめんなさい、昔のことばかり…、最近調子が悪くて…」「和尚、ワシじゃ、てらおのヒデじゃー覚えとるかえ」てらおが和尚の前に、立つ。和尚の娘さんは、母屋に入って行った。「おー、ヒデさんか、なんなー、長いこと顔みせんかったなあー」和尚は、ハッとして、しっかりと三人を見る。四人は、縁側に座り、彼方の山々をそれぞれに見つめている。てらおは、江美が、ここに来た理由を、和尚に話した。和尚は、ゆっくりとした、口調で話しだした。庭の草の間を、温度の違う小さな風が、そよぐ。「ケン坊は、可哀相な子だった、生まれた時に、親父は隣村の後家さんの家にあがりこんで、帰ってこんかった。爺さん、婆さん、残された母親と四人で、暮らしていたんじゃー。母親は、温和しい人で、いつも隣村の後家さんを、憾んで泣いていた~。むごかった」江美は、和尚の顔をジッと見る。「母親の里さんは、ケン坊が十才の時、持病の心臓がもとで、亡くなった。婆さんも、すぐに流行り病で、死んでしもうて、爺さんも寝たきりになって…」「それで、つくし園に…」江美が、言葉を噛み締める。「里の江は?」てらおが、和尚を見る。「ワシがここで、なんで毎日お経唱えとるか、わかるか。ワシの、檀家だった里の江の在所衆の仏さんワシが拝まんかったら、誰が墓守りする?二十年前、ここには、ようけの、人間がすんどった。十件位の家族が住んどった。ここを通らなんだら、里の江には降りていけんかった。」「里の江は、消滅したの?」菜々子が、和尚を見る。「難しい言葉は、ワシはわからんけど、在所はなしんなってしもた。郵便も、佐野とか書いてきよる。ワシは、里の江じゃーていうのに、配達の若い奴、笑いよる」娘さんが、静かな物腰でお茶を、出してくれた。「番茶?」一口飲んで、江美が聞く。「番茶知ってるんですか、神戸の方が?」江美は、小さく頷く。
「健二さんはどんな子供だったんですか」江美が、小さな声で聞く「すぼっこだったのう。けど、優しい奴じゃった。」江美は、また曇り空を、仰いで涙を怺えた。「江美ちゃん、10分位降りたら、里の江だった場所が、あるんだって。行って見る?」娘さんと話しをしていた、菜々子が立ちあがる。江美も、そっと、立ちあがる。「やっぱり、似とる。最初見た時に、勘違いしてしもたんじゃー。その瞳、ケン坊の母親の里さんといっしょじゃあ。あれは、十年前だろか、ケン坊の爺さんの葬式に、ケン坊がここに一回だけ帰って来た時があった。その時に、ケン坊、今お嬢さんが立っとる場所で、ワシに言うたんじゃあ。和尚、俺はここに必ず帰ってくる。生活できる、男になって帰って来る。その時は、一生、一緒に生きて行く、一番好きな女連れて帰るから、和尚、それまでボケんと、墓守りしてくれっ!って。あんたか、あんたが、そうか、そうか、」和尚は、江美にそう言うと、声を出して泣きはじめた。娘さんが、また肩を撫ではじめる。「行こう」てらおが、立ちあがった。和尚が、手の平で涙を拭きながら、里の江の方向を指さして、ポツンと言った。「今の時期なら、ケン坊の好きな白い花、咲いとる筈じゃあ。」三人は、里の江に続く道を、降りた。彼方の山々に、霧が立ち上っていく。小さな畝を、曲がる。
なだらかな、草の斜面が、悠々と拡がっていた。夢の中で見た白い花が、一面に咲いている。一瞬、江美は幻を見た。大空に向けて、舞い上がった花は、天女に姿を変え、風に抱かれ、空に帰って行った。











あとがき
落人伝説で、知られるここ東祖谷山村は、昨年の市町村合併を機に、東祖谷と名称を変えました。ある夜、村おこし「てんごの会」のメンバー達と、定例会をしていた時、古い地図を拡げて、誰かが言いました。「里の江って在所、昔はあったんじゃー」会話の記憶は曖昧ですが、消えた集落…?私の中で、一気にこの物語りが浮かび上がりました。毎晩、ひらめきのまま、メールで打ち、送信するという、一種無謀とも思える行為にて?と思われる箇所が、多々ありますことを、お許し下さい。
私は、小説の中に登場した菜々子のように、悠々自適の生活ではありませんが、昨年友人と私は、共に夫に先立たれるという、大失恋を経験しました。ありきたりの、ささやかな日常が、一気に自分の前から、摺り抜けて行きました。この哀しみを表現する言葉は、どんな辞書にもありませんでした。最後にホームページを提供して下さったM.iyaさん、お手数をおかけしました。有難うございました。書いている時間だけは、生きている事を実感できました。この物語を読んで下さった方々の、愛する人達が、永遠でありますように。
平成十九年SA・NE

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