秘境という名の山村から(東祖谷)

にちにちこれこうにち 秘境奥祖谷(東祖谷山)

祖谷の山々に想う 菜菜子の気ままにエッセイ

2009年07月03日 | Weblog
知人が聞いた。
「何の為に、生きているんだろう?って、考える事ない?」
少し、間を於いて、私が答える。
「もし、自分の命が、あと数日って医者に宣告されたら、たぶん病院のベットの中に、頭まで布団を被り、
ボロボロになっていく心と身体で、想うはずなんだ。『明日も生きたい』って。生きるって、単純にそれが全てだと想うよ」

知人は、小さく笑った
窓の外に広がる、異なる深緑の山々を、霧が重なったり、ちぎれたりを繰り返しながら、ゆっくりと灰色の雲に、溶けていく。
葉先に、しがみついた朝方の雨の雫が、六月の柔らかな風に包まれながら、静かに揺れていた。

爺やん、婆やん、父ちゃん、母さん、
随分と時代は、変わりましたよ。インターネット、知らないでしょう。昔の感覚で言えば、きっとこんなふうに、言うでしょうね。
『なんなら、その板なんとかいうのは!いそげえなもん、祖谷に入ってきたら、お神さんのバチ当たるぞ。
おおごとじゃわ!くわばら、くわばら』

便利さと、引きかえに、失う代償は大きく、今、問われているのは、人間の在り方。

『祖谷』で生まれ、祖谷に生きると言う事は、先代達が残してきた、祖谷の姿を、守りながら、語り継いでいくこと。
抱えきれない想い出を、背中を海老ぞりにしながらも、歯を食いしばって、ひたすら、生きていくと言う事。
私は、自分を生きているのではない。両親が歩いてきた、残像の中に残されている、ささやかな絆や愛を、頂いている。
私は、私を生きているのではない。
私の子供達が、いつか私が灰になってしまった後で、私の道程の中で巡り逢えた者達に、慈しんで、愛されますように。

『祖谷』で生きるとは、日々、種を蒔き続けるような、ものなんだ。
祖谷で生きる覚悟のない方々に、永遠に繋いできた、祖谷の、この自然の全ての命を、ただひたすらに
記憶のままに咲いてきた、花達を『自己満足』という名の汚い靴で、踏み付けないで欲しい。
ここは、日本に唯一残された場所のひとつ、自然が一斉に、呼吸する奏鳴な場所です。

ただ、生まれた場所に咲く事。
自然に、その場所に
散っていく事。 それは、人間の終止符にも似て、
単純で美しい。
それがわからない人は、『愛』を探しに、
人生と言う名の、斜面を、一人ぼっちで
歩いて行けばいい。

    by 菜菜子

コメント
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