野ゆき山ゆき海邊ゆき

日々の生活の中で出合う自然や民俗、歴史遺産を記録します。主な舞台は和歌山県中部。タイトルは佐藤春夫の「殉情詩集」より。

2008年の残照

2008年12月31日 | 色と光
大晦日の太陽は真っ赤な光の残して沈んでいった。来年も良い年でありますように。(-||-)合掌
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常春の国 その2

2008年12月31日 | 植物
ジョロウグモも何とか生き延びている。温暖化のせいでもあるが、ここ紀州海岸部は冬と呼べる期間はきわめて少ない。秋からちょっぴり冬になってすぐに春が来る。温暖化先進地である。(^^; その代表がホトケノザである。これは一応春の花になっているが、ここでは秋から咲きはじめて今頃は田の畦などに普通に咲いている。
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常春の国 その1

2008年12月31日 | 動物
朝、北風が吹く中を1時間ほど歩いてきた。道沿いの立て看に北風を避けるようにジョロウグモが糸を張っていた。今なら何とか凌げるであろうが、越年して春まで生き延びることができるのだろうか・・・
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寒波来る

2008年12月31日 | Weblog
昨日から冬型の気圧配置になり大陸の冷たい空気が日本列島に入ってきた。当地も中国山地を越えた積雲がみぞれを垂らしながら南に移動して行く。しかし、冷え込みはさほどではなかった。これも温暖化のためか。
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紀伊水道冬景色

2008年12月26日 | 色と光
仕事帰りに津井の海岸で撮影した。昨日から冬型の気圧配置が強まり、日本海から筋状の雲が雪を垂らしながら紀伊水道を南下してゆく。水平線の上にわずかに開いたすき間から強い西日が射し込む。冬ならではの光景である。
2年前(2006年)の12月29日に同じタイトルで同様の光景をここにアップしているが、今回の方が陰鬱である。
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暁月

2008年12月25日 | Weblog
昨年の12月8日と今年の1月6日に同じタイトルでアップしている。http://blog.goo.ne.jp/kny0516/e/d8a35767c598175cdbffc2864ebe6f0ahttp://blog.goo.ne.jp/kny0516/e/e7d3e0310c098b682b56ff749ae4320a
今回も月齢は27だが、空の赤さがいまいち描写できていないのが残念である。
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暁闇

2008年12月19日 | 色と光
夜明けの時間が遅くなっている。
夜明け前の山の端が赤くなりそれが微妙に青に変化する様に興趣をおぼえる。
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十六夜月

2008年12月15日 | Weblog
今朝は雲一つない快晴であった。7時過ぎ、ちょうど出てきた朝日をあびたクヌギを前に配して西の空に浮かぶ十六夜の月を撮ってみた。レンズの絞りはかなり絞ったが、クヌギの形はちょっと崩れ気味である。
今宵の月の出は19時47分。日が沈んでたちまちにして出るからその名が付いたと云うが、夏ならいざ知らず今の季節にそぐわない名前である。
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平家屋敷跡

2008年12月14日 | 歴史
先の「石降」の立て看より少し登ったところに「瀬井宇井村屋敷跡 平家屋敷跡」という看板が立っている。
看板には、寿永年間に戦いに敗れた平家の残党20人~30人が現田辺市龍神を経てここに辿りつきこの地に隠れ住んだとある。看板の背後の山塊がそこである。看板からは谷川を隔てた向かい側になる。八斗蒔峠はその頂上である。
看板にはさらに、彼らは源氏の追っ手を警戒しながらその地を開墾し、上垣内(かみがいと)、下垣内(しもがいと)あわせて36戸の集落をつくり、維盛以下の貴人が豊に暮らしたと書かれている。36戸というと、100人以上の人口があったはずで、入植時は20人~30人だとしたら数世代経っているはずである。屋島の合戦の時の維盛の年齢は26才。安定した生活ができるには少なくとも50年以上はかかっているはずで、その時維盛公は80歳近くなっている。こう考えると維盛以下というのは少々無理があるように思われる。
ここから北側にそびえる石堂山や城ヶ森山を越えると有田川の支流湯川川の谷である。そこには維盛公の末裔を名のる小松家が今も残る。それについての詳細は、ブログ「浪漫と夢の一族」に譲る。http://blog.goo.ne.jp/k502_1941/e/ff440b95bb40a51207ae4f33eef09b45
看板の記述に戻る。ここの集落はその後村落経営が軌道にのり、長く続いたようであるが、江戸時代の天保の大飢饉(1833年から36年)であえなく村人は絶滅したといわれる。
地元では「清井の上は 奥山なれど 笛や太鼓の音がする」と言い伝えられ、それが上初湯川踊り(笙絃音頭)になったといわれる。笙絃というから雅楽風の踊りなのだろうか?一度聞いてみたいものである。
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八斗蒔峠の紅葉

2008年12月10日 | 植物
八斗蒔峠とは、初湯川源流部にある標高1028mの峠である。山頂部はなだらかで、平家の残党がここで穀類を八斗(約150l)ほど蒔いて栽培したことからつけられた名であるという。今回は山頂まで行かなかったが、かつて登ったとき(車であるが)山頂部にその謂れを書いた立て看があった。そこには八斗とは蕎麦のことと書いていたと記憶するが、インターネットで検索すると、粟、稗とあった。いずれにしろ、こういう寒冷地に耐える作物である。
ここの紅葉は京都や信州、東北などの紅葉に比べれば見劣りはするかも知れないが、暖国紀州では貴重な紅葉の名所である。
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