野ゆき山ゆき海邊ゆき

日々の生活の中で出合う自然や民俗、歴史遺産を記録します。主な舞台は和歌山県中部。タイトルは佐藤春夫の「殉情詩集」より。

逸見万寿丸の居城

2023年12月14日 | 歴史
日高川町の役場の少し北で発掘調査が行われ、標記の堀と奈良時代の掘っ立て柱が出ていました。
今日その説明会があり参加してきました。両者の遺跡は時代的に離れていて関係はないようです。
万寿丸は南朝方の武将で、後村上天皇から矢田の荘を任せられ、居城を土生に定めたようです。
土生城については、字名に「城の内」が残されてはいるものの、その実態はわかっていなかったようです。

今回の発掘ポイントはそう広くはありませんが縁は良く固められ、堀の幅は9mほどあるようです。
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県下で有数の古い楠 田殿丹生神社

2023年12月03日 | 歴史
今は有田川町に編入されていますが、旧吉備町の有田川北岸に位置します。神社鳥居の横に「禁殺生」と書
かれた大きな石碑が、以前にも前を通ったときに目についていたので、今回車を止めて境内にお参りさせて
いただきました。

鳥居の横に「禁殺生」という立派な石碑が据えられてますが、このいわれは見出すことができませんでした。
仏教の風を感じますので、再建に関わった明恵上人と何らかの関係あるのでしょうか。
参道脇のカエデが良い感じで色づいていました。少し高い社殿の主祭神は丹生都比売です。社殿の背後に円錐
形の白山が控えていることから、古くに創建された神社だとわかります。社叢ももっと南に広がっていたよう
ですが、平安時代に有田川の洪水で社殿もろとも流されてしまったようです。現在は川沿いに白樫と大楠がそ
の面影を残していますが、楠で樹齢400-500年ですから、かつての森の姿を思い浮かべるわけにはいき
ませんね。しかし大楠は県下有数の大木のようです。カメラを引いてパノラマで撮りましたが三枚とっても全
貌は収めることができませんでした。半端ない大きさです。

この神社については神社HPや他のブログに詳しく述べられていますのでご覧ください。
神社由緒
神社HP


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憲法発布30年記念碑

2022年11月28日 | 歴史
また話題を和歌山城にもどす。
岡口門から出て広瀬通の歩道沿いに、二本のクスの間に石碑があり「憲法発布30年記念碑」、その背面には大正8年2月11日 和歌山市と印刻されている。 憲法とは大日本国帝国憲法だったのだ。憲法とくれば日本国憲法しか浮かばない戦後生まれの者には、意外さを感じた一瞬だった。
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かつての大手門

2022年11月24日 | 歴史
和歌山城は、秀吉の紀州平定(1585年)後に弟の秀長に築かせたのが始まりとされる。同年に大和郡山城の整備もされ、秀長はそこの城主となり家臣の桑山重晴*が和歌山城の城代となった。関ケ原の戦い(1600年)のあとは、浅野幸長が城主になった。このころまでは、岡口門が大手門となっていたが、大阪の陣後の1619年に、徳川頼宜が入城し、徳川御三家の城となった。頼宜は1621に城を拡張した際に、大手門を現在の位置に移し岡口門は搦手門(裏門)となった。
   
太平洋戦争終末期の1945年7月の和歌山大空襲で城の大半が焼失したが、岡口門は難を逃れた。
*桑山重晴は城代になる前は、天空の城とし有名な但馬竹田城の城主だった。紀州征伐にも従軍し首級をあげている。
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和歌山版 桜田門外の変

2022年11月20日 | 歴史
和歌山城二の丸御座之間の裏鬼門に当たる位置に追廻門がある。国道26号線に面しているのでよく見ていたが、潜ったのは今回が初めてだった。

門の外には、最近設置されたと思う説明板があり、田中善蔵が暗殺されたことが記されている。和歌山県人として60年を超えているが、それを知るのは初めてだった。和歌山の歴史には触れることが多かったが、県民の間ではほとんど話題に上らなかった事件ではないだろうか。

説明版には、「・・第二次長州征伐に先鋒隊として出陣しますが、戦費で藩財政が苦しくなり、その敗北で兵制改革の必要性を痛感します。このため藩政改革が求められ、慶応2(1866)年に津田出を登用した。だが翌年保守派の反撃で失脚し、急進改革派であった奥右筆組頭の田中善蔵が、追廻門で暗殺される事件が起こります。」と書かれている。

門を出て左の石垣の下には、梅が植えられていて、目立たないがこの件に関する石碑が二柱建てられている。左の碑は、右の石碑を明治百年を記念して秋葉山からここへ移した故が刻まれている。
     
右の石碑は明治18(1885)年に最後の藩主徳川茂承卿の揮毫を刻んでいる。碑の正面上には盡忠之碑と記され、「先生(田中善蔵)が登城中にここで襲われ独りで刀をふるって応戦したが、ついに殺害された。慶応三年一月十二日行年四十三」といった内容が漢文で記されている。(「紀州歴史遊学」参考)
この事件は、有名らしくデジタ版日本人名大辞典+Pulusや朝日日本歴史人物事典にも記載がある。前者には6名に襲われたと書かれているが、儘忠之碑の前の碑には、実行者として小坂、東使、衣笠、上田、赤見の5名となっている。数の違いは意図的か単なる間違いか・・・
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和歌山城 御橋廊下

2022年11月18日 | 歴史
西の丸と二の丸の間に屋根付きの橋が架かっています。平成18年に再建されたらしいです。

傾斜があり平板な床板だと滑るのかのこぎり状になっているが歩きにくいこと甚だしいです。
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嗚呼 和歌山城

2022年11月17日 | 歴史

和歌山城には何度か足を運んだが、護国神社や西の丸方面には行ったことがなかったので、今回西回りでお城の麓を回ってみた。
尾張徳川の名古屋城に比べると規模はかなり小さいが、いろいろ見どころはあるものだ。今回は一番のハイライトであろう西の丸
庭園をご紹介することにします。ちょうど紅葉の見ごろで、さすが紅葉渓と別称されている価値がある景観でした。


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貝の王子

2021年09月23日 | 歴史
南部の千里浜は昔より都に聞こえ、さまざまな文学作品に登場するようだ。

千里王子の説明書きによると、当社は「貝の王子」という異称がある。

室町時代足利義満の側室北野殿がここを訪れ、浜で拾った貝を社殿に奉納したこ
とからそう呼ばれたらしい。

この故事に習ってか今も社殿の前の垣の上に貝が並べられている。
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古代米

2021年08月15日 | 歴史
久しぶりの更新です。
先日紀伊風土記の丘へ夏の企画展「古代紀伊の神まつり」を見に行ってきました。



縄文時代の土偶から始まって弥生、古墳。奈良平安時代までの発掘された祭祀が展示されなかなか興味深かったです。
弥生時代の銅鐸レプリカが置いていて、小さなものは鳴らすことができます。実にいい音です。弥生人はこの音を聞いてどんなお祀りしていたのでしょうか、想像が膨らみます。この写真は鳴らせない銅鐸です。大きいから音が低くて荘厳な音を発していたでしょう。

館の外の水田に古代米が植えていてちょうど穂が出たところでした。一見すると現代米と大きな違いがないですが、分けつ数が少ないことと花の芒が黒いのが特徴でした。以前有田川町の産品で古代米の粒を見ましたが、小さく黒っぽくてあまりうまくなさそうでした。

常設展示コーナーでは、道成寺の裏手にあった阪東丘2号墳の出土品が展示されてました。古墳時代中期5世紀のものらしいですが、直径は5cmほどの神獣鏡などを含み、中央の王権と深い関わりある人物が埋葬されていたと思われます。この時代すでに水田開発が進み古代米が道成寺の前の低地に栽培されていたのでしょう。





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紀伊水道に睨みをきかす

2021年01月11日 | 歴史
御坊市と印南町の境界に位置する高城山(たかじさん)は、戦国時代の城跡である。最近中学生から聞いて
初めてその存在を知った。当時有田・日高。牟婁地方に覇を唱えた湯川氏の重臣であった湊上野介が築い
たとされる。

城跡へは印南町津井から入り、山頂まで数百メート辺りまで車道がつけられている。山頂の下に地蔵を祀
る祠がふたつあり、そこへの参道を辿れば城跡に至る。それを知らなかったので、高城山登り口に車を置
いて歩いて登った。距離は1.5km標高差は140mである。ちなみに城跡の標高は240mである。


山頂直下(南)


山頂直下(北)


山頂(本丸) 周囲は100mほどだろうか。


本丸下に幅2m長さ40mの帯曲輪という段があるらしいが、刈り込みが不十分なのでよくわからない。


山頂の南北断面を見ると、城らしい構造が読み取れそうだがどうだろう。


高城山保存会なる会があって城跡整備をしているのか、山頂の本丸跡は木が切り払われ、西側の眺望が良
くなっている。できることなら周囲も切り払うと眺望はより素晴らしいだろう。城としては絶好のロケー
ションである。








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