野ゆき山ゆき海邊ゆき

日々の生活の中で出合う自然や民俗、歴史遺産を記録します。主な舞台は和歌山県中部。タイトルは佐藤春夫の「殉情詩集」より。

平家屋敷跡

2008年12月14日 | 歴史
先の「石降」の立て看より少し登ったところに「瀬井宇井村屋敷跡 平家屋敷跡」という看板が立っている。
看板には、寿永年間に戦いに敗れた平家の残党20人~30人が現田辺市龍神を経てここに辿りつきこの地に隠れ住んだとある。看板の背後の山塊がそこである。看板からは谷川を隔てた向かい側になる。八斗蒔峠はその頂上である。
看板にはさらに、彼らは源氏の追っ手を警戒しながらその地を開墾し、上垣内(かみがいと)、下垣内(しもがいと)あわせて36戸の集落をつくり、維盛以下の貴人が豊に暮らしたと書かれている。36戸というと、100人以上の人口があったはずで、入植時は20人~30人だとしたら数世代経っているはずである。屋島の合戦の時の維盛の年齢は26才。安定した生活ができるには少なくとも50年以上はかかっているはずで、その時維盛公は80歳近くなっている。こう考えると維盛以下というのは少々無理があるように思われる。
ここから北側にそびえる石堂山や城ヶ森山を越えると有田川の支流湯川川の谷である。そこには維盛公の末裔を名のる小松家が今も残る。それについての詳細は、ブログ「浪漫と夢の一族」に譲る。http://blog.goo.ne.jp/k502_1941/e/ff440b95bb40a51207ae4f33eef09b45
看板の記述に戻る。ここの集落はその後村落経営が軌道にのり、長く続いたようであるが、江戸時代の天保の大飢饉(1833年から36年)であえなく村人は絶滅したといわれる。
地元では「清井の上は 奥山なれど 笛や太鼓の音がする」と言い伝えられ、それが上初湯川踊り(笙絃音頭)になったといわれる。笙絃というから雅楽風の踊りなのだろうか?一度聞いてみたいものである。
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