花熟里(けじゅくり)の静かな日々

脳出血の後遺症で左半身麻痺。日々目する美しい自然、ちょっと気になること、健康管理などを書いてみます。

「増加する高齢者と福祉制度」

2013年01月28日 17時01分40秒 | ちょっと気になること
麻生副総理がさる1月21日の社会保障制度改革国民会議で、高齢者など終末期の高額医療費に関する発言がマスコミなどでは、失言として批判されています。 本人は、個人的なことを述べたもので、終末医療のあるべき姿についての意見ではないと釈明しています。

<読売新聞:2013年1月21日>
麻生副総理は21日、首相官邸で開かれた社会保障制度改革国民会議で、終末期医療の患者を「チューブの人間」と表現し、「私はそういう必要はない、さっさと死ぬんだからと(遺書を)書いて渡してある」と語った。その上で、「死にたいなと思って、生かされるのはかなわない。政府の金で(延命治療を)やってもらうなんてますます寝覚めが悪い。さっさと死ねるようにしてもらわないと解決しない」と述べた。

マスコミや終末医療専門家の厳しい非難にもかかわらず、麻生発言の内容は国民の多くが共感していると思います。まさに、声なき声です。 私の身内が、10年前に難病を発症して、次第に、手足、全身が動かなくなり、ベッドに寝たきりになり、喉からの「チューブ」に繋がれた状態になりました。  肉親が毎日病院に行き、喉のチューブの周りを清潔にしたり、手足をさすったり、呼びかけたりしています。目は開いていますので、声の方に目を向けるなどの反応があります。
 
医師から喉からチューブを繋ぐことを話された時に、チューブのない状態ではダメなのかと、医師に問いかけましたが、生命を維持するには他に方法がないということでしたので、やむなく受け入れました。 数年して、医師から『胃ろう』を強く勧められましたが、「胃ろう」にはさらに抵抗感が強く、親族の総意として「胃ろう」は受け入れず、喉からのチューブに繋がれた状態のままになっています。 いずれ、目も開かなくなり、反応もしなくなる日が来ることを覚悟しています。

同室の方は「胃ろうのチューブの人間」で、ほとんど眠った状態で反応など全く見られません。 看護師が数時間おきに見回り、チューブを清潔にするなど、状態を確認しています。 病室で肉親に出会ったことはありません。医学的に生きている限りは病院としては、“医療行為”を施さざるを得ないのでしょうが、このような状態の患者が増えてくることは確実であり、果たしてこのままでよいのかと思わざるを得ません。

生活保護費、介護費、医療費、年金などの社会保障費がますます増加していきます。 日本経済が右肩上がりで税収も毎年増加が期待できた時代には、手厚い給付などもよかったのでしょうが、若年層が減り、人口に占める高齢者の割合がますます増えてきますので、福祉費の負担が国家財政を圧迫してきています。 高齢者への手厚い福祉を見直さざるを得ないことは、国民の大半が理解しています。が、大きな声になりません。 マスコミなどでは、高齢者を大事にするという建前論に加え、今の日本を築いてきた高齢者を邪険に扱うのは許せない、などどいう正論がしばしば見られます。

70歳~75歳未満の高齢者医療費負担は、法律では2割になっていますが、平成25年3月までは特例として1割に抑えられています。先般、自民党が、70歳~74歳未満の高齢者の医療費自己負担額を、平成25年3月以降も1割に据え置くとの決定をしました。今年7月の参議院選挙を見据えての決定と報道されています。
自民党の参議院選挙での勝利のために、という選択は安定した国会運営を目指すものでしょうが、国家財政を見据えた方針としてはいただけません。 高齢者や生活保護受給者など“弱者”といわれている人にも必要な費用はきちんと負担してもらう、という姿勢を貫くべきで、来年度予算原案で生活保護費の削減が盛り込まれたのは英断です。

一昔に比べると、高齢者といっても健康で元気そのものと見える方が多くなっています。食事や運動など生活環境の改善が影響しているのでしょう。 高齢者イコール生活弱者という単純な見方を改める時期に来ています。個別に健康状態を見て弱者か否かを決めるべきです。 

私は毎日電車通勤していますが、朝夕のラッシュ時は優先席か否かは全く問題にならないようで、我先にと空いている席に座っています。 たとえ、優先席の前に、妊婦や障碍者が来ても、瞬間的に眠った姿勢をする人がほとんどで、座席を譲る人はマレです。
これが、ラッシュ時ではない時間帯になると、優先席は「高齢者」に占拠されてしまいます。 “体の弱っている高齢者”が優先席に座るのは当然ですが、優先席を我が物顔で占拠しているのは、大半が「元気そのものの高齢者」です。
ですから、私は、週末に外出するときは優先席を避けて、一般席に行くようにしていますが、座席を譲ってくださる方もいますので、優先席にいけたらと申し訳なく思う時もあります。 

1ヶ月ほど前、会社からの帰宅途中の電車の中で、優先席に座っていたいかにも元気そうな70歳位の男性が、一般席に座っていた数名の男子中学生の前に行き、「座席から立ちなさい。若いものが座るところではない。年寄りに譲りなさい。」と、突然、大声で叱責し始めました。 当時、電車の中は立ち席の人はいましたが、混んでいるわけではなく、立っているのは、通勤の男女などで、高齢者はいませんでした。

社内では皆が何が起こったのかとびっくりしていましたが、男子中学生が他の車両に移ったり、次の駅で降りていました。この老人は社内の皆に向かって、「私は間違ったことをしていますか?」と大きな声で同意を求めますが、シ〜ンとなって声を発する人はいません。また、空いた座席には誰も座ろうとはしませんでした。  暫くして、老男性は、「なんだ、孤立無援なのか」と独り言を言いながら、優先席に戻ってきました。

電車内の皆さんがその場で老男性に同調しなかったのは、当時車内が混んでいたわけではなく、また、高齢者が立っていたわけでもないので、語気強く若者に当たる必要もなかったからだと思います。 いまどきの中高生たちが疲れているのは、座席で眠りこけているのを見てもわかります。 塾や部活などに追われ、自由な時間がなく、ある意味でかわいそうになる時があります。
逆に、 街を闊歩しているのは多くの元気な高齢者ですし、山登りを楽しんでいるのも、また、元気な中高年です。さらに、ゲートボールやカラオケなどに興じ、自由時間を満喫しています。いまや、元気なのは中高年だけであり、働き盛りの壮年や若者は疲労困憊しているのです。電車の中では、元気な中高年には働き盛りの人や若者に座席を譲ってほしいとさえ思うこの頃です。

12月14日の産経新聞の投書欄「談話室」に、「高齢者に座席を譲ったら断わられ、それ以降、座席を譲りづらくなることがあるので、高齢者で座席を譲られれたくない人は、“座席は不要”というバッジなどを服やカバンに付けるようにしてはどうか」という趣旨の投書がありました。
高齢者に座席を譲っても断わられ、困ってしまい、他の車両に行ってしまう場面を私も時々目にします。
“体の弱っている高齢者”に座席を譲ることは、美徳というよりも、当然のことであると思います。 しかし、高齢者の割合が増えてきて、しかも、元気そのものの方が多く、逆に若者の数が減って来ているような時代には、高齢者というだけで、当たり前のように座席を譲るような行為が美徳と言えるのでしょうか。

優先席は、「妊婦、幼児を抱いている方、体の弱っている方、障碍のある方」とし、高齢者は除くべきと思います。


[2013年1月28日 花塾理]

コメント
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